大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

洛北高野界隈(栖賢寺 蓮華寺)

2018-09-27 | 

ケーブル八瀬駅前を流れる、平安時代には埴川と呼ばれていた高野川に並行している国道367号を下鴨神社方面に800m位、下ると右手に水路がある。この水路に沿った西明寺山南麓に栖賢寺、崇道神社、蓮華寺が並んでいる。
 
 
栖賢寺は入口が分かりづらいので注意していないと通り過ぎてしまう。このお寺、元々は兵庫の尼崎にあり、摂津名所図会巻六に「禅院十刹の其一なり、秀吉公山崎合戦の時勝利ありて、諸侯をもてなし給う所なり」と、かなりの大寺と傳えられている。尼崎にある諸寺の変遷とその宗教的関係雑事を録した「尼崎志」によれば「臨済宗大徳寺末寺山号朝崇山創立年代不詳開山竺堂と傳ふ」さらに「傳て開基康永年間(1342~1345)という」また「摂津の守護赤松氏の創建なりと傳ふ」とある。赤松氏が始めて摂津の守護職に補せられた赤松則村の子範資の時代に係るものとしている。応仁の乱後の兵乱兵火で衰頽した。荒木村重が摂津を領し、笑嶺宗訢禅師を請うて中興し自分の香花寺と定めた。近代になり無住となり荒廃したが、昭和四年、実業家山口玄洞氏の上高野栖賢寺建築および造庭ならびに敷地の寄進を受け昭和七年、京都市左京区上高野の現在地に移転再建された。
 
 
 
 
 崇道神社の右隣が栖賢寺、左隣が蓮華寺と続く。
蓮華寺は、もと七條塩小路にあった時宗の寺で、応仁の乱で荒廃した。寛文二年(1662)、加賀藩重臣今枝民部近義が、かつて近義の祖父、重直の庵があった上高野の土地に祖父の菩提を弔うため寺を再建したという。今は帰命山と号し、天台宗に属する。
 
 
 
 
延宝九年(1681)、蓮華寺を訪ねた黒川道祐は「近畿遊覧誌稿」に「此ノ寺旧ト洛陽七條通リ塩小路下ル町ニアリ、麓ノ道場ト称ストナン、此ニ依テ思フ時ハ、元来一遍上人派ノ道場ニテ、何ノ山ノ麓ニカアリケン、聞マホシキ事ナリ、然ル二松平加賀守殿ノ家臣今枝民部(近義)ト云ヘル人、斯ノ處ニ移シ諸堂ヲ建立シ、比叡山ノ末寺トセリ」「庭ニ池水アリ、中嶋ニ石碑アリ、則チ民部(直恒)カ父今枝宗二ノ碑ナリ」と記し、天明六年(1786)の「拾遺都名所図会」には蓮華寺の境内図が描かれている。今枝宗二(重直)は元豊臣秀吉に仕え、豊臣の姓を賜う。度々武功あり、その後、関白秀次に仕え、秀次の没後、加賀藩主前田利長に仕える。加田藩史稿今枝近義の項に「初祖直重在時、一梵刹ヲ京師ニ創メント欲シ、果サス。志ヲモタラズシテ卒ス。父直恒モ亦果サス屬絋ニ莅ミ近義ニ遺訓シテ曰ク。蘭若ヲ営シ以テ菩提ヲ證スルハ先君ノ宿志ナリ。而シテ未ダ此ニ及フニ暇アラス、汝其ノ祖ノ翁ノ志ヲ紹キ忘ルルコト勿レト」とあり、同書「蓮華寺再興記ニ曰、蓮華寺其創始ヲ詳ニセス、応仁文明後、数々兵燹ヲ経、旧記散亡ス、洛北實憧寺沙門某、嘗テ佛舎利三顆及尺牌数通ヲ得、頻ニ再興ノ願ノ懐ク、余就キテ之ヲ求メ、地ヲ高野ノ麓ニ相シ一寺ヲ営シ、以テ旧貫ニ復ス云々」とあり、蓮華寺ノ成ルヤ、近義其祖考妣及考妣ノ位牌ヲ安シ、曽祖忠光ニ及ハス」と記して、のちに忠光夫妻の位牌を安んじたという。この寺に行ってボ~っと庭を眺めただけで隣の崇道神社に行ってしまい、この庭の奥に今枝宗二の亀趺碑があるのを見逃してしまった。まことに残念なことをした。

加賀藩士今村氏系図
今村忠光(八郎左衛門)―重直(弥八・宗二)―直恒(民部)―近義(弥平治)、代々、民部を称す

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