小田原駅西口から450m位、歩いて10分程度の城山2丁目に旧名小田原城北谷ッ口門外旧谷津村に小田原大久保家六内庵の1つ桃源寺がある。
桃源寺については、新編相模国風土記稿に「(美濃國厚見郡加納久雲寺末)、大久保内庵の一、(境内は侍屋敷の内なり)、龍鳳山雲晴院と號す、大久保加賀守忠常の嫡女、里見安房守忠義に嫁す、忠義伯州舎吉に謫せらるる(按ずるに元和元年なり)、の後、其室大帰せり、忠常の息加賀守忠職、濃州加納城を賜し(按ずるに寛永九年なり)、後、忠義の後室、夫菩提の為、(忠義元和三年六月十九日、配所にて卒す、法名雲晴院心宗賢凉居士、按ずるに断家譜には、元和八年に作る)、彼城下に小院を営み、久運寺住僧能山を招て、追福を修せしむ、寛永中忠職就て一寺となし、夫婦の院號を採り、今の寺院の號を授け、即能山耳藝を(明暦元年三月二日卒)開山始祖とし、後室を開基とす(法名桃源院仙應妙壽大姉、明暦元年潤八月晦日卒)、爾来城主に随逐して、當所に至ると云、」と詳しい記載があった。駅前にある北条氏政・氏照の墓碑墓所の管理寺でもあった盛徳山永久寺を訪ねた帰りに桃源寺に寄った。
本堂左奥の一段高い墓域に家康「氏康柱の話」として伝承が残る北条家家臣で弓の名手、鈴木大学繁修の墓がある。
帰り際、山門の近くに石碑があった。これは小田原藩士片切喜蝶の三男で同藩士杉浦義尚の養嗣となり、その後西南戦争に参加、明治十年三月十五日、熊本山鹿口墓原の戦いにて戦死した第三旅団歩兵第六連隊第一大隊第四中隊小隊長陸軍少尉試補杉浦義三の碑であった。第三旅団西南戦袍誌によれば三月十五日、戦闘参加二千三百四十九名の内、戦死七十四名、負傷二百七十七名死生不明十四名の大激戦で戦死将校五名のなかに杉浦義三の名が記録されている。
杉浦君碑
君諱義三稱重之助舊小田原藩士片切君喜蝶第三男出為同藩杉浦君義
尚嗣幼穎敏従中垣謙斎翁讀書不事章句毎曰男児富以身許国而己明治
戊辰東征之役藩主獲罪 朝廷将撃賊函嶺贖之君甫十六自請従軍乃為
守城兵甲戌 朝廷問罪臺湾急募士官君奮應之會事平而止乃入戸山兵
学校丙子三月卒業為陸軍少尉試補戍名古屋鎮臺其十二月三重縣民嘯
聚毀民屋火官舎君乃率部兵鎮定之丁丑春薩賊之反君奉命勒部兵抵肥
後賊方據山鹿鋒甚鋭三月十二日攻之酣戦不決日暮交綏十五日拂暁再
攻之激闘數時君鼓勇突進銃丸洞額而斃時年二十五 朝廷葬之肥猪今
茲庚辰十月義尚□其臍帯胎髪於其郷谷津村桃源寺請余文以鐫碑余聞
藩主之免 天譴全社稷也謙斎翁實與有力焉蓋通儒知時務者也則知君
之損身報国亦出於師傳豈世之以句讀授受僅稱師弟者之此乎哉配即義
尚女好讀書現為女学教官君之所刑于寡妻亦可以見矣銘曰
死固所甘 土豈不懐 函嶺之下 斯築夜臺 樹深苔厚 魂兮帰来
陸軍少将正五位勲三等黒川道軌篆額
東京大学教授正六位三島毅 撰文
明治十四年辛巳十二月立石 桂洲伊藤信平謹書
(注) 碑文九行目 □表記できず。訓(うずめる)音(エイ)