大佗坊の在目在口

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岩城一族

2014-09-01 | 掃苔

小田急線座間駅から西北方向、相模川の段丘崖斜面にある梨の木坂横穴墓群の脇を下った所に座間山心巌寺がある。
 
 
相模国風土記稿に「臨済宗(建長寺末)開山を成英と云ふ(文明十二年九月四日寂す)開基は白井織部是房なり(法名心巌道誉文明元年五月四日死す)」とある。この心巌寺に岩城常隆の供養五輪塔がある。座間市H・Pによると、昭和二十九年に境内から発見され、己酉の年号と前四品貫主松厳院殿最翁大居士により岩城常隆の供養塔と判明したと言う。
 
岩城常隆は今の福島県浜通りいわき市周辺を治めた国人で、岩城世家によれば「秀吉公に従い小田原に軍す、将に帰来らんとする路に相州星之谷に薨ず。實に是庚寅の歳、夷則(旧七月)廿二日なり」とある。それにしても誰がこの供養五輪塔を建立したのだろうか。
岩城氏の系図は異説が多く疑わしい点も多いというが、寛政重修諸家譜によれば平繁盛の子、平安忠を大祖としている。安忠の子則道の妻は平泉藤原清衡の娘で、夫が亡くなると剃髪して尼となり、いわき白水に阿弥陀堂を建立している。永暦元年(1160)、徳尼御前の建立した白水阿弥陀堂は、現存しており国宝建造物に指定されている。我家の菩提寺でもあるいわき市内郷の秀雲山瑞芳寺は好間龍雲寺の末寺で寺伝に「開基、瑞芳祥公大姉は文明十二年庚子年(1480)四月八日逝去、これは白土の城主常隆公の老母なり、葬式は当山に於いてするもの也。寛政六寅年(1794)まで三百十五年」とあり、瑞芳寺も平姓岩城氏と関係が深い。
 
 
瑞芳大姉は岩崎隆平の娘で、岩崎氏、白土氏は、岩城氏と同族であるが一族同士の争いが激しく、瑞芳大姉の兄弟、岩崎隆綱とその弟荒川貞衛一族は大舘岩城氏と内紛を起し攻め滅ぼされている。岩城常隆の孫、由隆の内室は佐竹義舜の娘、その子重隆娘は伊達晴宗に嫁ぎ、晴宗の子、親隆は岩城氏の養子となり佐竹義昭の娘を娶り、それぞれ地方有力武将と姻戚関係を結んでいる。岩城氏系図でややこしいのは下総守を名乗った親隆・常隆と三代後に左京大夫を名乗った親隆・常隆がいた事でかなり混乱してしまった。相模で病死した常隆は久保の鏡山寺に葬られたが、この寺名は元禄九年岩城久保町村差出帳に名があったが、今に残っていない。いわき市にある岩城氏の菩提寺の幾つかを廻った。
佐竹義舜の娘を内室とした大館城主岩城由隆は法名を鷹山明俊といい、いわき市好間の曹洞宗洞菊山龍雲寺に葬ったという。龍雲寺墓地内を探索してみたが、岩城氏の墓所と思われる場所は結局見つからなかった。
 
いわき市下荒川の禅勝山龍門寺の説明石碑文には「岩城の国主岩城家の菩提寺で、初代朝義氏公が施主で建造に着手して間もなく亡くなり、二代目で常朝公が意志を継ぎましたが工事半ばで死亡、三代目清胤公が完成させて応永十七年頃(1409)に清岑珠鷹禅師を開山主に迎え開創されたといわれている」とあり、さらに.本堂右手の奥に岩城公九代の墓所がありますとあった寛政重修諸家譜によれば龍門寺に葬られたのは朝義を初代とすれば、八代重隆、九代親隆となっている。
  
 
岩城一族の墓所は本堂に向かって左手奥にあったが、説明の本堂右手の奥というのは本堂ご本尊からみて右手側ということなのだろうか。歴代住職の墓域のそばに一列に古い墓が並んでいた。
 
岩城一族の誰の墓なのか判らないという。

コメント
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