大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

東京 日暮里界隈(法光寺、修性院、青雲寺、西日暮里公園)

2013-05-06 | その他

六阿弥陀道、法光寺から道灌通り、間の坂、西日暮里公園とまわります。

六阿弥陀道にある南泉寺の北側にあるのが日照山法光寺。通称富士見坂法光寺。
 
慶安三年(1650)赤坂に開基。四谷坂町へ移転、その後、現在の日暮里富士見坂下へ移転したのは明治時代に入ってからだという。墓域には尾張柳生家の(房吉家?)墓がある。
  
門前には少年飛行兵慰霊碑があり、傍の碑由来に「ノモンハン事変以来終戦に至るまで陸軍少年飛行兵として戦野に赴きし者約四萬五千にして空陸海に散華せし者数うるに限り無し 依って生存者遺族有志等相い集うて慰霊の誠を捧げんとして是を建立す 行き交う人々心あらば一遍の回向を賜わらんことを」とあった。

法光寺のお隣さんが、薄いピンクの塀に沢山の布袋さんのタイル絵が描かれているお寺が花見寺として親しまれている運啓山修性院です。
  
 
境内には、江戸時代の儒者として名が知られる日尾荊山を顕彰した「荊山先生衣さく(巾篇に責)之蔵碑(いさくは衣と頭巾)」があります。

日尾荊山は江戸時代末の儒学者・国学者で十六歳の時、江戸に出て儒学者亀田鵬斎に入門し、学問を究める。後に湯島に私塾「至誠堂」を開いている。修性院から2分程歩いたところ、左奥に青雲寺の山門が見えます。
 
本堂の左側には「南総里見八犬伝」の作者として有名な滝沢馬琴の使い古した筆を供養する為築いた筆塚で、右側には荒川を行く船人の目印の松とも入り江に船を繋いだとも云われた松の「日暮里舟繋松の碑」、山門を入ると本堂の右手前に綺麗に手入れされた植木があります。この中に硯の形をした硯塚の碑が隠れるようにありました。
 
  
江戸時代に花見の場所として賑わったことから、「花見寺」とも呼ばれていたという。この寺の開基である堀田相模守正亮の法号である青雲院殿をとって浄居山青雲寺と云う。新編武蔵風土記稿には「舟繋松は境内東北の崖にあり古木は枯て植続しものとみゆ往昔この崖下まで入海なりし時船を繋ぎしゆえかく名付と云傳ふれともとよりたしかなる拠なし樹下に舟繋松の碑を建て銘文を刻す」とある。青雲寺から道灌通りを右折、ゆっくり5分ほどで西日暮里駅に着きます。この駅の西側が間の坂(魔の坂)と云われる急坂があります。坂を上りきった右に西日暮里公園があります(右、西日暮里駅)
 
 
この公園は、もともとは、西南方崖下に隣接する青雲寺の所有地であったが、明治末期に寺院再興のために、加賀・前田家の墓地として売却された土地で、公園に荒川区教育委員会の説明板に「かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として、多くの人びとが訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里三丁目六番)の境内の一部で、金比羅社なども祀られていた。明治七年(一八七四)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となった。前田家十二代当主の斉泰から四代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和四十七年(一九七二)に国許の金沢(石川県)に改葬され、翌四十八年、その跡地にこの西日暮里公園が開設された。なお、この跡地にあった日暮里舟繋松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている」とあった。

日暮里界隈(本行寺、経王寺、延命院、南泉寺)
日暮里界隈(諏方神社 浄光寺、養福寺、啓運寺)

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