大佗坊の在目在口

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警察官 内村直義と内村直俊

2012-03-27 | 掃苔

向島の三囲神社境内にある普国警察大尉ヘーン君表功碑の裏側に刻まれた生徒総代七名の中に内村直俊(明治二十六年三月下谷警察署外勤乙部長)の名があったことは前回のブログにかいた。
 
警察官で内村氏といえば西南の役で警視庁一番隊長として田原坂にて戦死した会津の内村直義が知られている。通り字と二人の職歴が似ており内村直義と直俊の関係を確認するため、谷中霊園にある内村家の墓域の墓碑と墓誌をたずねた。


 
明治十二年七月に建てられた墓碑は当時文部省にいた旧会津藩士南摩綱紀の撰文。南摩綱紀は戊辰後、越後高田に謹慎後、明治五年二月京都府に出仕、同七年六月補十等として太政官に出仕、同十年十一月文部省に勤務、東京大学教授に任命されたのは同十六年十一月のこと。当時、文部省には東京大学理学部教授山川健次郎、東京師範学校訓導兼学校長補高嶺秀夫などの会津人がいた。碑文によると、直義は蘆澤寛治の子で、内村家を継ぎ巡査に応募、昇進して警視二等中警部となり、警視第一番隊長として西南戦争に参加、田原坂で被弾して明治十年三月十五日に三十七歳で戦死した。嗣子直俊がその遺髪を内村家之墓に合葬し僚友の騎西安遷や戸田重之ら八十余人が拠出して内村君碑を建立したとあった。横の墓誌に明治十年三月十五日 七代 直義 行年三十七才。昭和十四年六月十九日 八代直俊 行年八十二才とあった。
  
やはり内村直義のあと家を継いだのが直俊だった。内村直義墓碑に僚友として名がある騎西安遷、戸田重之は旧会津藩士で、戸田重之は明治十二年、警視局から石川県で勤め、そのあとに陸軍に転移している。騎西安遷は警視局勤務の明治十三年に名を安遷から信蔵に変更、その後も直義の子、直俊と共に警視庁に勤めている。

内村直俊の祖父蘆澤直保(旧寛治)(直義の実父)は飯沼関弥によると、関弥の祖父久米之進の弟で蘆澤家を相続したという。この蘆澤寛治の実家飯沼家での幼名、通称はなんと呼ばれていたのだろうか。

内村君碑
君諱直義姓藤原岩代人蘆澤寛治第二子出嗣内村
氏自東京府取締組任権区長奉命抵陸奥招募邏卒
累遷警視二等中警部當西郷隆盛兵率犯肥後君為
警視第一番隊長自高瀬進撃田原坂賊賊勢桿甚乃
令部下抜刀奮進陥胸壁者三傷指猶進抵横平山中
弾斃年三十七實明治十年三月十五日也若為人方
正而温和喜怒不見色寡於言勇於義毎言予無他技
有一死以報国己果幾其言矣官葬之木葉街嗣子直
俊痊其遺髪於東京天王寺傍僚友騎西安遷戸田重
之等八十余人醵金建碑使余銘之銘曰
 敵愾致身 忠勇超倫 厥功不滅
明治十二年七月 岩代南摩綱紀撰

旧会津藩士 蘆澤直道

コメント
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