大佗坊の在目在口

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長崎佐古軍人憤墓地

2010-11-26 | 掃苔
この佐古軍人墓地は始め、明治七年の台湾出兵における海軍戦没者を長崎小島郷梅ヶに
埋葬し、次いで十年西南の役で陸海軍軍人軍属の埋葬地として小島郷稲荷嶽を定めた。

   

明治十二年一月、埋葬地の管理は長崎県庁に移り、同年県庁は陸海軍省に相談なく
梅ヶ招魂場埋葬者を新設の稲荷嶽埋葬地に改葬して台湾之役招魂社としたが、
十四年五月陸海軍に抗議され招魂社墓碑に改正している。
(佐古墳墓地登口と案内石柱)
  

しかし明治二十年、長崎佐古軍人埋葬地は長崎市街地にあるため、環境、衛生管理上の
問題により新たな軍人埋葬用地として明治二十一年から二十三年にかけて長崎県
北松浦郡山口村の民有地を海軍所轄官用地として編入した。

今、長崎市西小島2丁目(仁田小学校裏)にある佐古墳墓地には、台湾ノ役、
西南ノ役の陸海軍戦死者の墓碑と移葬碑(梅香崎招魂社及び墳墓地の遺骨を
この佐古招魂社へ移葬した経緯などを記した碑)や振遠隊戦士蹟髪碑、
軍人軍屬合葬之碑などがのこされています。

 

この長崎佐古軍人憤墓地に改葬された西南ノ役戦病死者に会津人がいる。
塩谷七重郎氏「錦絵でみる西南戦争」記載の佐古埋葬地福島県人20名と
そのほかの福島県人が二名、其他福島県人と思われる青森県士族が一名の
計23名について墓碑をさがした。
佐古憤墓地の入口すぐ右側には改葬された四列百八基の墓碑群があったと
思われる。ここのうしろ、二列に警視局員として西南戦争に参加した福島県人
の多くの墓碑が含まれていた。

 

今回確認できた墓碑(15名)
雪下熊之助(耶麻郡)  牛来定綱(行方郡)   小平又作(若松)    
赤羽真忠(青森)     河野通信(東白河郡)  石井留吉(東京)    
神田豊治(北会津郡)  樋口巌吾(千葉)     名越直晴(青森)    
斎藤源吾(若松)     五十嵐定松(耶麻郡)  神田藤頼(安達郡)   
小岩長七郎(若松)    半谷四郎(宇多郡)   藤田正成(青森県士族) 

今回確認できなかった墓碑(8名)
笹原忠恵(若松県士族)         高川酉之助(福島県士族)      
伊藤清次(東蒲原郡、本籍福岡県) 長田清次郎(西白河郡本籍福岡県) 
小島原新造(大沼郡、本籍福岡県) 大浦勝弥(田村郡、陸軍)     
草野今朝吉(田村郡、陸軍)      中野熊次(行方郡軍艦鳳翔乗組)  

入口四列のまえ二列は西南戦争陸軍関係、奥も陸軍関係戦病死者の墓碑が
あり、各碑がある一段上がった所の右側に海軍少尉補雪下熊之助の墓碑、
その後、奥には台湾ノ役の福島白川県戦没者の墓碑がまとまっていた。

 

 
                    (右写真後方が福島白川県戦没者の墓碑群)
コメント (8)
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