大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

儒者棄場 大塚先儒墓所

2010-11-10 | 掃苔
明治の終わりごろ、随筆家の大町桂月が「むかし、儒教の盛なりし頃、
儒者の家にては、神葬を用いず、佛葬を用いず、一種儒葬というものを
用いる者ありて、その様、死骸を棄てて帰るが如きを以て、無知の民、
之を見て儒者棄塲とは、名づけけるが、その跡、今なほ、小石川の塚に
のこれり」と東京遊行記で述べている。

さらに桂月は明治四十三年の紀行記で「豊島ヶ岡は、一に墳墓の岡とも云ふ
べくや。豊島御稜は、皇族御埋骨の地也。護国寺には、三條公、山田顯義を始め、
墳墓多し。陸軍埋葬地は、入営中に死せる兵士を葬る処、墓も規則正しく行列す。
豊島御稜の東に接して、儒者棄場もあり」と書き残している。
儒教の葬葬を見たことがない我等一般の民は、仏葬と比べて「死骸を棄てて
帰るが如き」その特異性にさぞかしビックリしたことだろう。

実際、儒葬はどのように行われたかはっきりしないが、国史大辞典には、
「江戸時代の儒者が宋の朱熹家礼などを基に行った儒教儀式による葬儀で、
儒葬は自葬で、喪主以下の人々が柩を奉じて墓所に至り、棺前で祝詞を
読み礼拝し、死者の魂を神主に遷して家に帰し、その魂を墓所に葬るを
例とした」とある。近藤啓吾著「儒葬と神葬」によれば、「家礼」は初終
から始まり禫まで二十の喪礼次第があるという。

大塚先儒墓所は明治三十四年東大総長浜尾新らにより保存会が組織され、
大正三年に現在の様に整備され、翌年東京市に寄付され、大正十年、
指定史跡となっている。室鳩巣、木下順庵、柴野栗山ら儒学者の墓が
家族の墓も含め64墓あり、約109坪で81基の林氏墓地と比べると
この大塚先儒墓所は690坪とかなり広い。

文化庁国指定文化財等データベースの説明に「寛政ノ三助先生ヲ始メ
木下順庵室鳩巣等江戸時代ニ於ケル漢學者ヲ儒式ニテ葬リシ墓所ナリ」
明治維新後荒廃して儒者棄場と酷い云い方された大塚先儒墓所に行った。

新宿区の説明では、もともとこの場所は徳川秀忠と徳川頼房の
儒師であった人見道生(林羅山門人)の邸宅であったという。
近くに、秀忠が江戸城内吹上御殿内に日光山から稲荷の神体を賜り、始め
「東稲荷宮」と称した吹上稲荷神社がある。不忍通り皇室御陵地正門の先の
小道を入り、この神社の少し先に大塚先儒墓所の細い入口がある。

 

 

約七百坪ある墓所にポツン、ポツンとかっては江戸時代の一流の儒者と
その家族の並べられた六十四基の墓石は悲しくなるほど寂しさを感じさせる。



 

 



東京の墓地は、今ほとんどが桜の名所になっている。
鬼貫の「骸骨の上を粧ひて花見哉」そんな事を感じさせる墓所だった。
コメント
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