大佗坊の在目在口

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浦賀「若松屋」

2009-09-28 | 會津
浦賀の旧会津藩士のことを調べていて、浦賀の「若松屋」高橋勝七の
ことを知った。早速、浦賀腰越の若松屋跡地と鴨居の菩提寺西徳寺を訪ねた。

「幕末、鴨居にあった会津藩の陣屋の世話をし「若松屋」と号し高橋勝七は
横須賀中央周辺の海面を埋め立て造成しその土地は若松町と命名した」と
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ「案内板」にあった。
下記絵図は明治二十七年刊行の日本博覧図関東編で紹介された銅版画で、
神奈川県三浦郡高橋勝七と説明がある。

屋敷跡





高橋家前の石段に残っている石柱は係留柱か。



勝七の孫、挿絵画家の佐多芳郎の自叙伝「風霜の中で」によれば
「母の家は会津若松、松平藩の出で、海の幸に恵まれぬ藩が、どんな
手立をへたかはわからないが、三浦半島に広く土地を求めて居を構えさせ、
そこから得た海の幸を本国の会津と江戸城へ入れさせていた」さらに
「母の名前の鶴は、会津若松の鶴ヶ城に因んでつけられたと聞かされている」
と記述しています。

勝七は第五代浦賀町長や郡会議長などを歴任し、明治三十七年(1904)、
衆議院議員に当選している。議員の大礼服姿の写真が残っていて、秘書の
小泉又次郎さんがともに写っているという。
(この小泉又次郎は小泉純一郎の祖父で33代目の逓信大臣)

戊辰の後、会津を後にして、商売を始めた会津藩士穴澤與十郎が
なぜ浦賀にきたのか不思議だった。
「若松屋」を頼って浦賀に来たのではないだろうか。

大正4年刊の浦賀案内記に浦賀瓦斯(株)の組織に監査役穴澤與十郎、
相談役高橋勝七の名があり、ともに浦賀町々会議員。

この穴澤與十郎を頼って明治三年、浦賀に来て銘茶陶器店稚松軒を
開業したのが、戊辰の役、進撃隊にいた旧会津藩士鹿目常吉、幼名幸之助。
戊辰後高田高安寺にて謹慎。海軍少将の鹿目善輔は孫。

鴨居西徳寺には、会津藩が文化七年(1810)幕命による三浦半島の海岸
警備や台場構築の任務のため、八百余名の藩士並びにその家族を派遣し、
この地で亡くなった藩士とその家族の墓がこの西徳寺の裏山にある。





西徳寺裏山にある会津藩墓地



 
コメント
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