大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

紀州由良 会津落武者

2008-10-11 | 掃苔
由良町の文化財第8号に「鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩兵と由良」と
いう大野治氏の小論が載っていた。和歌山の紀伊由良に会津藩士の墓碑が
残っていると云う。後で気が付いたが「会津戊辰戦争写真集」にも記載が
あった。

鳥羽伏見の戦いで組織的な戦闘が出来たのは正月六日の八幡・橋本まで。
会津本隊は六日夜には大坂一心寺に到着、隊長組頭等を同寺に埋葬している。
七日大坂城に入り、八日には怪我人を八軒屋から送り出している。
本隊は十日和歌山加多着、十一日出発、十二日に由良に上陸。十七日には
鷲尾に向って移動している。

この時、会津砲兵隊負傷者の中にいたと思われる安部井留四郎の墓碑が
和歌山由良町の網代にある念興寺に残っていた。同寺には公儀見廻組
土肥仲蔵の墓碑も留四郎の墓碑と並んで由良の町を見下ろす高台に在る。
史跡、会津の落武者墓と現地の由良教育委員会の説明板にあった。


由良の狭い漁師町の横道から念興寺へ

 


会津藩士 安部井留四郎墓       公儀見廻組 土肥仲蔵墓
       
 

落武者の表現には少し抵抗があったが、逃走の手助けをしてくれた
紀伊の人々には感謝しなげれば!

念興寺から約600m離れている由良横浜にある光専寺には、会津老職
内藤助右衛門家臣皆川守之助政詮の墓碑も残されていた。


  光専寺門前             会津藩 皆川守之助政詮墓

 
コメント (1)
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