白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(440) 米田亘 松竹新喜劇の50年

2023-05-15 14:39:04 | 松竹新喜劇

米田亘、松竹新喜劇の50年

若手五人によれ新体制をスタートする松竹新喜劇 その年に文芸部の米田さんが退団するという話を聞いた

米田亘 

別のペンネーム 門前光三(門前の小僧習わぬ経を読む) 昭和22年生まれ 早稲田大学文学部卒業 卒論 松竹新喜劇 昭和48年松竹新喜劇入団

昭和23年生まれの僕が1年ダブってトップホットに入ったのが昭和47年だからおそらく卒業が出来なかったか 一浪して大学に入ったからか 何故彼が昭和48年入団となったかは判らない 僕のように学生運動にのめりこんだとは後の彼から考えられない そんな彼が新橋演舞場の新喜劇を観て 二代目天外に手紙をだして入団を依頼する 二代目は当時の文芸部長平戸敬ニに任せるということで平戸に会って たまたま欠員が出て採用となった

1980年代が中心に 「IC女房にロボット亭主」、「さくら湯の忘れ物」、「昭和のラブレター」、「お金か心か春風か」 「鯉さんと亀さん」などの脚本 1993年平戸さんが亡くなった後 文芸部の責任者となり、二十世紀になって曾我迺家喜劇を継承すべく「山椒の会」(注1)を主宰 曾我迺家八十吉、玉太呂、寛太郎、川奈美弥生を中心にワッハホールを拠点に一堺漁人(曾我迺家五郎)の作品を中心に上演した 平成3年会社の思い付きで劇団名を「新生松竹新喜劇」となるがその中身は以前のままで何の変化も無く すぐにその「新生」は消えた 僕が新喜劇に関係していた頃の文芸部は狂言方として鍛冶君と木下君がいてその上司として米田さんがいたがあんまり新喜劇に「愛情」を感じられない風に見えた 同じく松竹のお荷物劇団である新派の文芸部は大場正昭さん始め斎藤雅文さん、成瀬芳一さんみたいに積極的に他の劇団の演出で外貨を稼ぐ訳でもなく コロナ禍になっても何の手立てを考えることもなくただ一本の名作も一人のスターも生むこともなく 昭和41年11月から延々と続く無休興行を昭和61 年11月(注2)まで240ヶ月連続公演のど真ん中でいくら契約金が安くとも当時の演劇人として破格の収入だったと推察される これだったら6年間も日本香堂の巡業で6年間も新喜劇を使ってあげた僕の方がよっぽど劇団に寄与してると思うが……(注3)

一番いい頃の松竹新喜劇とともに過ごした50年であった 羨ましい限りである

 

(注1)山椒の会 曾我迺家五郎、十郎、十吾の笑い 三笑の会

(注2)この月、寛美無休二十年を記念して藤山寛美二十快笑の狂言選定 

 「一姫二太郎三かぼちゃ」「愚兄愚弟」「人生双六」「花ざくろ」「愛の設計図」「大阪の此処に夢あり」「船場の子守り唄」「大阪ぎらい物語」「下積みの石」「上州土産百両首」「お種と仙太郎」「幸助餅」「笑艶桂春団治」「色気噺お伊勢帰り」「浪花の鯉の物語」「鼻の六兵衛」「篭屋捕物帳」「酒の詩・男の歌」「八人の幽霊」「浪花の夢宝の入船」

(注3) 日本香堂 新喜劇公演 平成15年   「裏町の友情」「お種仙太郎」       

           平成16年   「人生双六」「籠や捕物帳」

           平成17年   「大人の童話」「お祭り提灯」

           平成18年   「銀のかんざし」

           平成20年 「色気噺お伊勢帰り」

           平成21年  「八人の幽霊」「鼓」

           平成26年  「大当り高津の富くじ」

           いずれも演出は吉村

米田亘、日本近代デジタルヒストリーアーカイブを参考にしました

新体制の松竹座公演の論評は次回にします