白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(301)道頓堀界隈(6)「曾我廼家喜劇発祥之地」碑

2018-03-11 20:11:40 | 道頓堀界隈
道頓堀界隈(6)「曾我廼家喜劇発祥之地」碑



 昭和50年2月11日 道頓堀の中座前に御影石の喜劇碑が建立された

碑の正面には上方歌舞伎の中村鴈治郎(現坂田藤十郎)の筆で「曾我廼家喜劇発祥之地」と刻んであり その両脇に曾我廼家五郎、十郎の名が書かれている つまりこの日から数えてちょうど70年前の明治37年2月11日に道頓堀の浪花座で曾我廼家五郎、十郎が「新喜劇曾我廼家兄弟劇」と銘打って喜劇興行を旗揚げしたのだ

そのことを碑の側面に

 明治三十七年二月十一日 曾我廼家五郎十郎この地に喜劇旗上げてより中島楽翁、初代渋谷天外、時田一瓢、田宮貞楽、志賀廼家淡海、曾我廼家十吾 二代目渋谷天外など それぞれの志を継ぐこと七十年に亘りました ここにその歴史を偲んで一碑を建立し 併せて先人の名を高野山常喜院に収め追慕の志と致します

             昭和五十年二月十一日 藤山寛美
楽天会
    瓢々会
    喜楽会
    滋賀廼家淡海劇
    松竹家庭劇
    松竹新喜劇

と刻んである

この文章で判るように この碑は松竹新喜劇の藤山寛美が多くの喜劇界の先達に感謝と追慕の念を表すために松竹をはじめ関係者を口説いて この日の建立に漕ぎつけたのである
それだけに当然 除幕に際して藤山寛美からいろいろ挨拶があるものと取材陣が詰めかけたが 香川登志緒さんによると 彼はこの日一言もしゃべらず除幕も曾我廼家所縁の十吾未亡人や曾我廼家明蝶、曾我廼家五郎八そして東京から駆け付けた往年の五郎劇の名女形曾我廼家桃蝶
(そのころ新派女優京塚昌子が経営する築地割烹「京弥」を手伝っていた)などにゆだねて自分はニコニコ笑って静かに拍手を送っていたという
自分は喜劇の伝統を守ってはいるが新派出身のよそ者という意識がどこかにあったのではなかろうか 
それゆえ何年か後(昭和57年)自分の有望な弟子たちに曾我廼家姓の襲名をさせた
八十吉、寛太郎、玉太呂がそうである

この頃の新喜劇と同じように五郎劇も年に一度新橋演舞場公演をやっていた
東京の人たちは待ちかねたように演舞場に押し寄せた
この五郎先生は昭和23年 喉頭ガンで亡くなった
最後の舞台は無言劇であった
その年に生まれたのが現在の松竹新喜劇である
なんと僕もその年に生まれた ということは新喜劇も70歳ということだ)
 
この碑は本来なる浪花座前に建てるべきだったが正統後継者たる「松竹新喜劇」のホームグラウンドだった中座前にたつことになった 
現在は1999年 中座が閉鎖になったため大阪松竹座前に移設された
中座ではほぼ半年「新喜劇」を公演していたが 松竹座でも最低3月は公演してもらいたいものだ 
年に一度の新橋演舞場の公演も今年は短期公演となったという

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