まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.恋愛で倫理学を使ったことありますか?(その1)

2017-09-20 23:44:34 | 性愛の倫理学
この質問は詳しくは次のようなものでした。

「Q.恋愛で倫理学を使ったことありますか。
   使ったことがあれば、成功したこと失敗したこと教えてください。」

他にも次のような質問もありました。

「Q.倫理を勉強して、恋愛にも生かすことはできますか?」

似たような質問でありつつ、別にお答えしたほうがいい質問も含まれておりましたので、
何回かに分けてお答えしていこうかと思います。
まずは 「Q.恋愛で倫理学を使ったことありますか?」、
ないしは 「Q.倫理を勉強して、恋愛にも生かすことはできますか?」 へのお答えになりますが、
質問をくれたのが女性だったので、
女性が今日の答えを恋愛に活かせるかどうかは定かではないのですが、
男子学生諸君には少しは参考になるところがあるかもしれません。
女性目線から活かすとするならば、
どういう男性を選ぶかというときに若干参考になるかもしれません。

さて、恋愛で倫理学を使ったことがあるか、
倫理を勉強して恋愛にも活かすことはできるかということですが、
今までこういう観点から倫理学のことを考えてみたことがなかったので、
ご質問をいただいてみてたいへん自己認識を深めることができました。
それと同時に倫理学的な思索も深まったと思います。
どうもありがとうございました。
最初にこの問いを読んだときは、そんなの関係あるわけないじゃん、と思ったのですが、
よくよく考えてみるとけっして無関係ではなく、
自分ではまったく意識していないながらも、
きわめて倫理学的に恋愛をしていたんじゃないかと思えてくるようになりました。
というわけで、質問そのものに対しては以下のようにお答えしておきます。

A.倫理学はむちゃくちゃ恋愛に活かせます。
  自分はこれまで倫理学を使ったおかげで恋愛を成功させることができました!


ちょっと誇大広告っぽいですね。
まあでも、私以外の人にも効果があるかどうかはわかりませんが、
自分としては使ってみたらうまくいったということで、
あくまでも個人的な意見として以下はお読みください。

先にも書いたように当時、自分としては倫理学を使っているという意識はありませんでしたが、
今回このように問われてみて気づいたことがあります。
自分は恋愛において、非暴力という倫理を当然の責務として守ってきたなと思うし、
さらには男女平等という倫理を恋愛関係を築く上でもものすごく重視していたように思うのです。

まずは非暴力のほうから行きましょう。
最近ではDV (ドメスティックバイオレンス=家庭内暴力) という言葉はすっかり定着しましたし、
結婚して家庭を築いていなくとも 「デートDV」 という言い方で、
恋愛関係にある2人のあいだの暴力のことが問題にされるようになってきました。
以前に 「デートDVチェックリスト」 をご紹介したことがありますので、
ぜひそちらもご覧になってみてください。
そのチェックリストによれば、実際に肉体的暴力をふるうことだけでなく、
大声を発したり、物を壊したり、相手を思い通りに支配しようとすることすべてが暴力に含まれます。
あるいは穏やかな口調で相手を責め立てたり貶めたり、自分ですべてを決めてしまうのも暴力です。

私は倫理学者としてそのような暴力行為はできるかぎりしないということを、
恋愛関係も含むすべての人間関係において心がけてきました。
もちろん人間ですから感情が高ぶって大声を発してしまうということもたまにありましたが、
そんなことをしてしまったあとにはものすごく落ち込み反省しますし、
基本的にはできるかぎり何事に対しても理性的に対処しようと生きてきました。
これって人間として当たり前のことと私は思っていますが、
実際にはそうではないという人はけっこういますし、
聞くところによると恋愛関係においても平気で暴力をふるう人も存在するようですし、
大声を出すとか相手を自分の思い通りにしようとするなんていう人はさらにたくさん存在するようです。

そんななかで、恋愛関係においても非暴力主義でいきますよ、というのは、
ものすごいセールスポイントではないものの、
女性にとってみたら最低限の必要条件と言えるのではないでしょうか。
ところが、その最低条件をクリアできない相手を選んでしまっている女性のなんと多いことか。
たぶん最近の日本社会の風潮であるイケメン崇拝がいけないんでしょうね。
イケメンの人なんて、特に自らの人間性を磨くまでもなく、
ただその外見のゆえに多くの女性にキャーキャーもてはやされて、
これまでの人生ですべてが思い通りになってきたわけですから、
恋愛関係においてちょっと気に入らないことがあればすぐに暴れ出すでしょう。
そして、その外見に惚れ込んでしまっている女性はその暴力を甘受するしかなくなるでしょう。
自分はそうではないぞ、と。
ちょっとやそっとの意見のすれ違いや感情のもつれがあったとしても、
それには冷静に理性的に対処し、すべてを非暴力的に解決しようとしますよ、
という男性がいたらなかなかいいと思いませんか?
たとえ大したイケメンでなくとも、ずっと長く付き合うならそういう男性のほうがいいと思いませんか?
一緒に家庭を作って子どもを産みともに育てていくなら、
自信過剰な自己愛的イケメンよりもごくフツーの非暴力主義者のほうがいいと思いませんか?
(イケメンでないからといってみんなが非暴力者であるわけではありませんが…)

というわけで私は恋愛関係においては非暴力的であろうと努力してきました。
それはどこまでセールスポイントになっていたのかはわかりませんが、
少なくとも一度成立した関係を長続きさせる上では重要な要因だったのではないかと思います。
ちょっと長くなってしまったので今日はここでいったん話を打ち切ることにしましょう。
ひとつめの答えとして次のようにまとめておくことにします。

A-1.倫理学の教えのひとつ非暴力主義は恋愛においても重要です。

最初に、女性には役に立たないかもと書いてしまいましたが、
女性にとっても非暴力主義は大事でしょうね。
どんなに相手が失敗ばかりする人だったとしても、
「このハゲー!」 とか暴言吐いたり、ましてや暴力ふるったりするようでは、
恋愛関係は長続きしないということは肝に銘じておいたほうがいいでしょう。

Q.回文が好きな理由は何ですか?

2017-09-18 23:45:09 | 人間文化論
自分の名前を紹介がてら、ずっと長いあいだ自分の名前を好きではなかったけれど、
いい大人になってから、「さま」 を付けたら回文になるということに気がつき、
もともと回文は好きだったので、それ以来自分の名前を好きになることができました、
ということをいつも話しているわけですが、
そこからさらに一歩掘り下げた質問をいただいてしまいました。

なぜ回文が好きなのか、その理由を問われたのは初めてです。
質問者の方、なかなかいいセンスをしていますね。
思考を深めるためにはなぜそうなのか、その理由を問い質していくのは大事なのですが、
ひとつの理由にたどりついてそこで満足してしまうのではなく、
さらにその理由へと問いを深めていくことができると、思考はどんどん深まっていきます。
実は子どもの頃というのはこの理由から理由への無限遡行というのはよくやっていたのですが、
大人の側がそれに付いていくことができずにそのうち怒り出してしまうから、
人は次第に理由の理由へと遡っていかないように自主規制をかけるようになってしまいます。
しかし哲学や倫理学にとっては、理由の理由へと遡ることはとても大事ですので、
今後は今回の質問者の真似をして、なぜのなぜを問うようにしてみてください。

さて、私はなぜ回文が好きなのでしょうか?
そう聞かれると答えに詰まってしまうのですが、
すでに書いたことのあるブログ記事のなかにそのヒントは隠されていました。
以下のブログを読んでみてください。

「Q.今までで一番ウケた回文は何ですか?」

そこに紹介してある 「宇津井健氏は神経痛」 が私が回文にハマるきっかけとなった原点です。
子ども心にとにかく衝撃を受けました。
その衝撃が出発点となったことは間違いないでしょう。
哲学の世界においても 「驚き (タウマゼイン)」 が哲学の起源だと言われています。
私の回文好きもあのときの驚きによって始まったのだと思います。

あれに出会う以前にも 「トマト」 や 「しんぶんし」 や 「山本山」 などが、
上から読んでも下から読んでも同じになるということは知っていましたが、
(厳密に言うと 「山本山」 は回文ではありませんが…)
それらを知っても特に驚きはありませんでした。
そういう単語レベルでの逆さ読みではなく、「宇津井健」 という人名と、
本来それとはまったく関係のないはずの 「神経痛」 という病名とが、
「氏は」 という別の語をはさむことによって回文になるということに、
日本語の神秘を感じたのだろうと思います。
ということで今回のお答えは次のようにまとめておきます。

A.まったく思いもかけない言葉を合わせると逆さ読みが可能となる、
  という日本語の神秘に触れたことによって大いに驚き、
  回文の魅力に取りつかれてしまったからです。

回文の中でも人名回文が未だに一番好きというのも、
この最初のタウマゼインによるところが大きいのでしょう。
自分の名前を使った回文というのは 「まさおさま」 なんていう、
「トマト」 や 「しんぶんし」 程度の素朴なもので長らく満足していましたが、
数年前に自信作を開発したので、せっかくの機会ですのでここで発表しておきます。
読みようによってはちょっとお下劣なので、長らく封印してきたものですが、
まあ、もう今さらなので解禁してしまいましょう。
とりあえず読みだけから行くとこういうやつです。

「タツマサオオサマッタ」

これにどういう漢字を当てるか、いろいろありえますが、
私の一番のお気に入りはこれです。

「勃つマサオ、収まった」

収まるべきところに収まったんでしょうね。
他にこういう漢字も考えられます。

「勃つマサオ、治まった」

電車内でうたた寝してしまって目覚めたときとか、収まりのつかないことがありますので、
無事治まってくれてよかったねという情景を描いた回文です。
いずれにしてもお下劣ですね。
「そういうの大好きだっ
ちなみに 「勃つ」 と書いて 「たつ」 と読むのは正しい日本語ではありません。
たぶんエロ本文化のなかで培われてきた読み方だと思いますが、
正しい日本語にうるさい私にしてはけっこう気に入っています。
最後はお下劣な人名回文の披露で終わってしまいましたが、
私が小学生のときに出会った回文の衝撃を少しでも今の皆さんにお伝えしたかったということで、
ご理解いただければと思います。

Q.日本のこれから、北朝鮮問題について倫理の観点からどう思いますか?

2017-09-13 22:50:04 | グローバル・エシックス
これは2つの質問なんでしょうか、一体化した1つの質問なんでしょうか?
それによって答え方が変わってくるのですが、
とりあえず日本のこれからについて独立した問題として論ずるのは大変なので、
2つでセットの問題としてお答えしてみることにします。
質問は 「倫理(学)の観点から」 という限定つきですので、
それに対しては簡単に次のようにお答えしておきましょう。

A.(私の信ずる) 倫理学の観点からお答えするならば、
  北朝鮮をはじめとして、韓国、中国、アメリカ合衆国など様々な近隣諸国との関係において、
  互いに利害の対立はいくらでもあるはずですが、それらをすべて踏まえた上で、
  冷静に対話を積み重ね、平和的に共存していく道を模索し続けるべきだと思います。

ていうか、こんなことは倫理学を持ち出すまでもなく、
フツーに理性を備えた人間ならば誰でもわかることだと思いますが…。
しかしながら反知性主義の現代においてはこういうごくごく真っ当なことが、
政治においても、マスコミの論調においても、まったく当たり前でなくなっているのが悲しいです。
政治家というのは、国内に問題を抱えているときには、
それを隠蔽するために外部に敵を作り出そうとするものであるというのは、
日本史や世界史を学んだことがある人ならば誰でも知っていることのはずですが、
それでも国民は常に常に政治家に騙されてしまうんですよね。

北朝鮮はもう長いこと内憂を隠蔽するために外患のことを騒ぎ立てて、
それだけで何とか政権を維持してきている国なわけですが、
あそこまでいくともうある種、名人芸だなという感慨を否めません。
アメリカという一強超大国を相手に、これだけ長い期間、
実際に戦争にならないように、でも戦争するぞするぞと言い続けるだけで、
そこそこに利を得つつ、国家が崩壊してしまわないように保ってきているというのは、
奇跡に近い政治的手腕だと思っています。
あれが上手く行っている最大の要因は、北朝鮮には他国にとって美味しいものが何もない、
という一点に尽きると私は考えています。
もしもあそこに油田か何か貴重な資源があったら、
アメリカはとっくの昔に何らかの正義にもとづく合理的理由を挙げつらねて、
とっとと戦争をおっぱじめいいように蹂躙していたでしょう (あのときのアフガニスタンのように)。
あの強欲なアメリカがそれをしないというのは、それをするだけのメリットが何もないからなのです。
北朝鮮の政治家にとってもアメリカの政治家にとっても日本の政治家にとっても、
一番いいのは今の状態が未来永劫続くことです。
敵がいて今にも戦争が始まるぞと言い続けることによって国民の目を国内政治からそらしつつ、
軍需産業だけはウハウハ儲かるという状態。
これほどラクで美味しい政治があるでしょうか。
核開発もミサイル発射もJアラートもすべては三方得を実現するためのお膳立てにすぎません。

そして何よりも大事なのは (民主国家ではない北朝鮮を除いて)、
そうした政治を応援してくれる反知性主義的な愛国主義者である国民です。
私はこういう人たちにあまり 「愛国主義」 という言葉を使いたくないのですが、
本人たちとしては本心から自国を愛し、敵国を憎んでいると思っていますので、
とりあえずそう呼んでおくことにしましょう。
そういう人たちが、いつでもやってやるぞという国のポーズを支持し後押ししてくれる間は、
政権は安泰です。
こういう人たち、一昔前は少数派だったのですが、
1990年代以降 (たぶんインターネットの普及以降) 一気に増えていきました。
いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちですね。
彼らは自分の手元に集まってくる偏った情報のみを信じて、自分の頭では考えません。
冷静に判断するよりも、ただひたすら感情をたかぶらせることをよしとします。
まあ、昔からこういう人たちはいたのでしょうが、
そういう人たちが政治の支持母体になるとは思われていませんでした。
今はこういう人たちを上手く取り込むことのできる政党が政権を奪えます。

話が逸れてしまいました。
ご質問は北朝鮮問題を倫理学の観点からどう思うかでしたね。
倫理学の観点からはすでにお答えしたとおりですが、
最近、心理学の観点というのも倫理学的に言って役に立つかもしれないと思っています。
これは白河の看護学校ではなく、相馬の看護学校の学生さんだったかと思いますが、
心理学の授業で学んだこんなことが今でも役に立っているとワークシートに書いてくれました。

「怒っている人は困っている人なのだ」。

調べてみたところこれは心理学者の水島広子氏の言葉だそうです。
なるほど、これは名言です。
このように捉え返すことによって、
「ただ怒って暴れ回っている人」 のことも理解する手がかりが生じてきます。
この人は何か困っていることがあるから怒っているんだな。
じゃあこの人は何に困っているんだろう?
その困り事が解決されたらこの人の怒りは収まるんだろうか?
このようにすると、怒りまくっていて手のつけられない人とも
コミュニケーションをはかる突破口が見えてくるかもしれません。
振り返ってみれば、外交交渉の場というのは、その昔は高度な情報戦でしたが、
最近では低レベルな非難の投げ合いの場に堕してしまっています。
怒っている人どうしがいくら集まっても問題が解決する兆しが見えません。
しかし、お互いに何かに困っているのだなということを理解しあえれば、
少しは冷静に対話を交わし、平和的に共存する道も拓けてくるのではないでしょうか。
今の日本の政治家にこんな (or この程度の) 政治手腕を期待することは難しいかもしれませんが、
日本のこれからのことを考えるならば、賢い政治家に日本の未来を託したいと思います。

Q.資格って何かもってるんですか?

2017-09-10 23:11:50 | 哲学・倫理学ファック
他にこんな質問もいただいていました。

「Q-1.倫理学者って資格ってあるんですか?」

まず先にこちらにお答えしておきましょう。

というよりもこの質問に対する答えはすでに書いたことがあります。

こちらの記事↓をまずはご覧ください。

「Q.倫理学者にはどうやったらなれますか?」

お読みいただけたでしょうか。

今回の問1に端的に答えるとするとこうなります。


A-1.倫理学者になるための資格はありません。
    何らかの形で倫理学に関する研究論文を発表すれば倫理学者になれます。



続いて今回の質問に移りましょう。

Q-2.資格って何かもってるんですか?

これは倫理学者一般のことを聞かれているんでしょうか、

それとも私個人のことを聞かれているんでしょうか?

前者だとするならばA-1と同じ答えになります。

倫理学者どころか大学の教員には教員免許というものは必要ありませんので、

それぞれの学問分野で専門の論文を執筆し、それが何らかの形で認められれば、

○○学者として認定されますので、学者になるための資格とか免許みたいなものはないのです。

私個人のことでお答えしますと、大学教員免許というものが存在しないのはいいとして、

その他の学校教員免許ももっていません。

実は大学教員のなかには教員免許をもっている人はけっこういます。

特に中学・高校の教員免許をもっている人は多いのではないでしょうか。

例えば英語学や英文学の勉強をしていると中高英語の教員免許とかは取りやすくなりますし、

哲学・倫理学の勉強をしていると高校公民科の免許とかが取りやすくなったりします。

また、うち (福島大学人間発達文化学類) の場合は元教育学部でしたので、

先生方のなかには小学校の教員免許をもっているという人もある程度いたりします。

それどころか小中高で実際に教員として働いていたという人もいらっしゃいます。

そんな中では少数派に属するのかもしれませんが、私は教員免許はまったくもっていないのです。

自動車運転免許のことを資格に数えていいのかどうかわかりませんが、

自動車運転免許以外はまったくの丸腰で私は大学教員となりました。

しかしながら就職後に資格を取る機会に恵まれました。

というわけで本日の問2に対するお答えはこうなります。


A-2.私はキャリア・ディベロップメント・アドバイザーの資格をもっています。


キャリア・ディベロップメント・アドバイザー (CDA) というのは正式名称ですが、

私はよく 「キャリアカウンセラーの資格」 と言ったりもしています。

一昔前までは大学というのは学問の場であって、学生に学問を経験させられればそれでよく、

就職の問題なんて完全に自己責任の本人任せ、というのが当たり前の世界だったのですが、

大学全入時代や過酷な新自由主義の時代を迎えて社会 (特に国家や企業) からの圧力が高まり、

大学には、社会に出てすぐに活躍できる有為な人材の育成が求められ、

就職率や就職先なども気にしなくてはならないというような世の中になってきました。

で、福島大学でも学生の就職相談に応じることのできるような職員や教員を配置しようということで、

そういう資格をもった非常勤の方を雇ったりもした (今も雇っている) のですが、

専任の職員や教員にもキャリアカウンセラーの資格を取ってもらおうということになり、

何人かの教職員がキャリアカウンセラーの資格のひとつである、

CDAの資格を取りに行かされる (取らせていただく) ことになったのです。

ちょうどその頃、就職委員長の職を終えたばかりだった私にもお声がかかり、

2006年にその資格を取りに行かされ (取らせていただき) ました。

6冊のテキストを通信教育で学んだあと、仙台に6日間通い、

ワークショップ研修形式でキャリアカウンセリングのノウハウを学び、

筆記試験と実技試験とを経て何とか資格を取ることができました。

大学院の入試 (1988年) 以来、人にテストを課すことはあっても、

自分がテストを受けるなんてことからはすっかり遠ざかっていましたから、ホント辛かったですね。

実際、同期でワークショップ研修を受けた人たちのなかにも何度か試験に落ちて、

そのまま資格を取るのはあきらめたなんていう人もいらっしゃいました。

皆さん自腹でその資格を取りに来ているなか、

大学からの派遣で取りに来させられている (取らせていただいている) 私たちは、

研修中は若干肩身が狭い思いをしていたのですが、

取らせていただいている以上、どうしても試験に合格して資格を取らなければならず、

自腹であれば途中であきらめることもできたのにと泣き言を言っていたほど辛かったです。

何とかギリギリで試験に合格し資格を取ることができたわけですが、

取ってみてひじょうによかったと思っています。

哲学・倫理学という専門的学問の視点だけからではなく、

もっと広い視野で哲学や倫理学のことも、大学教育全体のことも考えられるようになりましたし、

キャリア関係の講義・講演をしたり、学生たちのいろいろな相談に乗ったりもできました。

特にカウンセリングという、これまでまったく無縁だった分野に触れることができ、

プライベートも含めて、他人とのコミュニケーションのあり方が劇的に変わったように思います。

この資格を取る過程で (特にコミュニケーションについて) 学んだことは、

看護学校の授業のなかでもほんの少し披露するつもりですので乞うご期待。

Q.なぜ「身体を洗うときは左腕から」が好きなんですか?

2017-09-08 18:14:05 | 人間文化論


これは、私のワークシートの問いに反応したご質問です。

「倫理学」 の第一回目の授業のときに、みんなの中にある倫理に目を向けてもらうために、

こんな問いを与えています。

「あなたが生きていく上で大事にしているモットーを教えてください。

『やられたらやり返す』 など生き方そのものに関わるものでもいいですし、

『身体を洗うときは左腕から』 など日常生活で気をつけていることでもいいです。」

この例示に反応してくれたんだと思いますが、

まさかこんなところにツッコミを入れられるとは思っていませんでした。

日常生活で気をつけてることって、モットーと言えるほど意識的なものじゃなくて、

癖とか習慣みたいなものだから、それに関してさらに 「なぜ」 と問われると思っていなかったからです。

さてしかしながら、問われてみて初めて考えてみたんですが、

よく考えてみると、たしかに癖とか習慣のように習い性になってしまっているところもありますが、

同時に、それ以外の洗い方があるんだろうかと、

この洗い順は人類に普遍的であるべきではなかろうかと思っている自分もいることに気づきました。

身体を洗う場合、まずタオル (またはスポンジ) を利き手である右手に持ちますよね。

次にボディソープのボトルのヘッドを押してタオルにボディソープを付けますよね。

この時、両腕はボディソープのボトルのほうに伸びているわけです。

この状態で、タオル (またはスポンジ) を持った右手から最短距離にあるのは左腕じゃないですか。

したがって最も早く洗い始められるのは左腕以外にはないことになります。

だとしたら左腕以外から洗い始める人なんて存在するんでしょうか?

いや、もちろん左利きの人は右腕からになりますよ。

それぐらいの多様性は理解しているつもりです。

しかし、いずれにせよ身体を洗う時は利き手と反対側の腕から洗うしかないじゃないかと思うのです。

これはもう好き嫌いの問題なんかではなく、

人間という生き物としてそうせざるをえない必然の問題のような気がするのです。


とまあちょっと極端に議論を進めてみましたが、

「利き手の反対の腕から洗う」 というのが人類に普遍的な法則ではないことを私はわかっています。

長年のこのワークで、別のところから洗い始めると書いてくれた人がたくさんいたからです。

はじめのうちは自分とは違う人がいてちょっとビックリしましたが、

人それぞれ好き好きがあるんだなあと思っておりました。

ただ、今回このような質問をいただいてみて、もう一段思索を深めることができました。

私はなぜ身体を洗うとき左腕から洗い始めるのが好きなのでしょうか?

それは、先ほどの手順説明の中の2つのキーワードに示されているように思います。

「最短距離」 と 「最も早く洗い始められる」 という部分です。

どうやら私はお風呂に入って身体を洗うという行為を、

できるだけ早く完了させるべき作業と考えているようなのです。

その目的を達成するために最も合理的な解が、

タオル (またはスポンジ) にボディソープを付け終えた時点で最も近くにある部分から洗い始める、

という戦略だったわけです。

私の上位5つの強みの中に 「戦略性」 と 「内省」 があるということを以前に書いたことがありますが、

私は身体を洗うときにどこから洗い始めるかという他愛もないことに関しても、

いかにして早く洗い終えられるかという観点から、

きわめて合理的かつ戦略的に考えて行動しているのです。

自分のなかではそのように思考を張りめぐらせるのが当然と考えているところがあって、

それゆえ他の洗い方はないとまで感じてしまったりするわけですが、

それはあくまでも私の考え方、感じ方の特性にすぎず、

もっと別の観点からこの問題にアプローチする人がいるにちがいないし、実際現にたくさんいます。

今まで考えてみたこともありませんでしたが、改めてその理由を考えてみると、

自分のなかの価値観やら特性、強みなどが反映されていたことがわかりました。

考えてみるものですね。

最初、質問をいただいたときは、そんなの個人の習慣、好みにすぎないのだから、

なぜと問われても答えようがないよなあと思っていましたが、

意外なところまでたどり着くことができました。

自分のなかの優先順位もそうですが、ダイバーシティ (多様性) についても考察を深められました。

このような質問をいただき、誠にありがとうございました。

Q.うんこ味のカレーとカレー味のうんこだったらどちらを食べますか?

2017-09-07 14:42:13 | 哲学・倫理学ファック


よくある究極の二者択一問題のうちのひとつですね。

ただこれが本当に究極の二者択一問題になっているのか昔から不思議でしょうがありませんでした。

倫理学と何の関係があるのかわかりませんが、せっかく聞かれたのでお答えしましょう。


A.これってわざわざ聞くまでもなく、カレー味のうんこ一択しかありえないんじゃないですか?


いちおう前提をしっかり確認しておきたいと思いますが、

ここでは 「うんこ味」 とか 「カレー味」 というふうに味のことしか触れられていませんが、

当然、これを本当に作る場合は、外見とか臭いとか食感とかそうしたものも全部含めて、

カレーのほうは何もかもまったくうんこにし、うんこのほうは完璧にカレーにするんですよね?

つまり原材料はちゃんとしたカレーなんだけれど、外見も味も臭いも食感も完全にうんこな物を作り、

逆にうんこを原材料として、見た目も味も臭いも食感も完全にカレーという物を作るんですよね。

だとしたら、これをブラインドで (どちらがうんこでどちらがカレーか教えずに) 選ばせたら、

これは当然、みんながみんな絶対にカレー味のうんこを食べますよね。

今回の問題はネタばらしをした上でどっちを選ぶか、ということだろうと思いますが、

わかった上でもやっぱりカレー味のうんこを選ぶしかありえないだろうと思うんです。

だって完璧にカレーなんですよ。

あの食欲をそそる香りや色や味がすべて再現されてるんですよ。

それに対してもう一方は完全にうんこになってしまっているんですよ。

どう考えてもカレー味のうんこでしょう。

これって第1回のときにお話しした 「本当の自分」 問題に似ている気がします。

特に例としてお話しした、「本当の自分の声」 はどちらかという問題と似ています。

あるいは、もうちょっとわかりやすい例を挙げてみましょう。

ずっと昔に 「はるな愛 vs 近藤春菜」 という記事を書いたことがあります。

当時やっていた 「ロンドンハーツ」 という番組で、真のはるなを決定するために、

どちらか一方を選ばなきゃいけないとしたらどちらを抱きたいか、

各界の男性たちに選んでもらうという企画をやっていて、その結果が興味深かったのです。

「女の子のように見えるオッさん(36歳)」 と 「オッさんのように見える女の子(26歳)」

さあどっちを抱きたい? という究極の二者択一です (年齢は2009年当時)。

今回の問題に酷似していますね。

結果はダントツでオッサンの圧勝でした。

やっぱりそんなもんなんですよ。

たとえ本当の中身がわかっていたとしても、

外に現れるものに私たちは引っ張られてしまうんだと思うんです。

私なんかホント外見に惑わされるタイプですので、

どう考えてもカレー味のうんこ一択です。

うんこ味のカレーなんてまったく食べられる気がしません。

うんこを食べたことがないのでうんこがどんな味か知りませんが、

それでもあの臭いと見た目が完全に再現されているだけで絶対にムリだと思います。

というわけで、この究極の二者択一問題は完全決着を見たということで、

事あるごとにこういう質問をするのはもうやめにしませんか?

人類全員カレー味のうんこを選びますということでよろしいんじゃないでしょうか。

Q.福島に来た時どのようなことを思いましたか?

2017-09-06 17:18:03 | 哲学・倫理学ファック
これには答えたことがあるような気がするんですが、

ブログのなかを探してみたけど見当たりませんでした。

授業中の代表質問で聞かれてその場で答えただけだったのかもしれません。

似たような質問でこんな質問をもらい答えたことはありました。

「Q.なぜ福島に来たのですか?」

その答えのなかで今回のご質問に対する答えに当たるようなこともほんの少し書いてありますが、

改めてお答えするとするとこうなります。

福島に来た時どのようなことを思ったのか?


A.知ってる人が1人もいない土地での初めての一人暮らし。

  不安で不安でしょうがありませんでした。


32歳のときに福島に来たわけですが、

それまではずっと実家暮らししていたあとそのまま結婚して4年経っていて、

人生のなかで一人暮らしというものを経験したことがありませんでした。

なので自分は一人暮らしができるのかというのがまず第一の不安でした。

結婚して以降は料理や掃除や洗濯など、まあそこそこにやっていたつもりでしたので、

家事ができないということはないだろうと思っていましたが、

それにしても家に帰ってきて誰もいない、待てど暮らせど一人暮らし、

という生活に自分が耐えられるのかよくわかりませんでした。

しかもその一人暮らしをする土地に知り合いがまったく1人もいないのです。

そんなに友だち付き合いが濃厚なほうだとは思いませんが、

福島に来る直前には大学院関係者や、ダンス部関係者や、

塾講師 (中萬学院) 関係者が私の送別会を開いてくれましたので、

そうやって見送ってもらえる程度の仲間はいたわけです。

そんな仲間どころか、電話番号を知ってる相手が1人もいない所に引っ越すというのは、

自分的にはけっこうチャレンジングな経験でした。

ウサギだったら淋しくて死んじゃうレベルかもしれません。

しかも引っ越し先は、これまでの人生で最も広い3LDKの官舎です。

ここに1人で住むのか、と引っ越しが終わった段階で不安と寂しさがMAXに達していました。


ところが、未開封の段ボール箱に囲まれて途方に暮れていたときに、

設置したばかりの家電 (「かでん」ではなく「いえでん」) が鳴り始めました。

先輩教員である臼井嘉一教授からの電話でした。

「あ、臼井ですが、無事に引っ越しは終わりましたか?

 これから飲みに行きませんか?」

詳しくはこちらのブログをご覧ください。

とにかく、これには救われました。

一緒に飲める人がいるというのは、私のような呑兵衛にとっては何よりも重要ですね。

さらに同期で入社した教員が3人 (生活指導論のS先生、教育学のT先生、幼児心理学のH先生)、

同じ年の10月にさらに3人入社してきて (被服学のC先生、英語学のA先生、書道のK先生)、

S先生が中心となってこの7人のグループ作りをしてくださったおかげで、

何かといっては飲みに行ったり、学校帰りに温泉に行ったり等ができる仲間がすぐにできたので、

当初心配していた不安はほとんど感じることなく、福島の生活に馴染むことができました。

また、就職してすぐにクラス担任をもたされたのですが、

その学生たちとも仲良くなって、

一緒にカラオケに行ったりスキーに行ったりしていましたので、それにも助けられました。

というわけで、福島に来たときに最初に思っていたことはすべて杞憂に終わったわけです。

よかった、よかった。


福島に来て思ったことというのはそれが一番でしたが、

他にも、福島は寒いなあとは思いましたね。

冬どれくらい寒くなるんだろうかとビビりながら福島にやってきたわけですが、

冬を待たずに梅雨時にもう寒くて寒くてしょうがなくて、

初めてもらった給料で石油ファンヒーターを買いに行ったことを覚えています。

というような感じでよろしいでしょうか。

ほかにも思い出せばいろいろ思ったことはあったんだと思いますが、

それらは初めての就職に伴う思いであったり、

初めての大学教員としての仕事に伴う思いであったりするので、

福島に来て思ったことというのは上記に尽きるのではないでしょうか。

いろいろと思い出せて懐かしかったです。

ご質問、どうもありがとうございました。

Q.福大の教授なのにどんな縁があってこの学校で教えてるんですか?

2017-09-05 12:12:07 | お仕事のオキテ
まず標記の質問にお答えする前に、こちらの質問にお答えしておきましょう。

「Q.福島大学、この学校、それ以外の学校でも講義しているのでしょうか?」

これはまあ公式ウェブサイトのほうにも載せてありますし、
ちゃんと確定申告もしていて隠し立てする必要がないので、簡単にお答えしてしまいましょう。

A.今現在、本業の福島大学以外で非常勤講師の仕事をしているのは、
  相馬看護専門学校、白河厚生総合病院付属高等看護学院、
  国際メディカルテクノロジー専門学校看護学科の3校です。

現在はこの3校だけですが、これまでには他に東北大学、福島県立医科大学、
福島県立農業短期大学、福島県立衛生学院などで非常勤講師をしたことがあります。
これらの非常勤の仕事をやめたのは別にクビになったわけではなくて、
先方の大学で専任の教員が採用されたので非常勤講師の必要がなくなったとか、
私が内地留学を取って一年間留守にすることになったため、
他の方にお譲りしたといったような理由によります。
では、本題の質問に戻って、
こういったお仕事はどんなご縁で私のところにやってくるのでしょうか?

A.ある日突然知らない人から電話がかかってきて、
  非常勤講師の仕事をしてくれと頼まれたからです。

まあ、それだけの話です。
まだ福島大学に就職していなくて大学院のドクターコースで学んでいた頃は、
ある程度業績を積むと (論文を書いて学会誌に掲載されたりすると)、
指導教授から非常勤講師の口を紹介してもらえて、
そうしたら大学院の籍は抜いて非常勤講師としてデビューし、
そうやって教職歴を付けたら、大学の専任教員の公募に応募する、
という一連のコースが決まっていたので、
指導教授から紹介してもらえる日を黙って待つという感じでした。

しかし、いったん就職してしまうと、あとは勝手に先方がこちらの連絡先を調べて、
直接依頼の電話がかかってくるという感じになります。
(最近では電話ではなくメールの場合も増えてきましたが…)
特に福島のような地方になると、県内に大学がほんの数えるほどしかありません。
その中でも哲学・倫理学の専任教員がいる大学というのは限られてきますから、
全県で数えても哲学・倫理学者は片手で数えられるほどしか存在しません。
それに対して、看護学校などはけっこうな数があり、
どこの学校でも哲学か倫理学が必修科目として置かれていますから、
需要はそこそこにあるのです。
となると各学校とも近くにいる哲学・倫理学者を確保しようと血眼になって探すわけで、
そうやってある日、どこかの知らない看護学校の先生から、
私のところに電話がかかってくるわけです。

こうした事情が福島に来てすぐにわかりましたから、
はじめのうちは依頼を受けたら必ず引き受けるようにしていました。
しかし福島県というのは広いので、あちこちに通い始めたら、
その通勤時間だけで1日が潰れてしまうことになります。
赴任当初は学内で任される仕事も大してなかったので何とかなっていましたが、
しばらく続けているうちに全部お引き受けするのはムリということに気づきました。
そこである時期からは相馬と白河の看護学校 (どちらも遠いんです) の2校に絞り、
あとはお断りすることにしました。

といってもただ断ってしまったら、先方が途方にくれることはわかっていますので、
別の方を紹介してあげるようにしています。
幸い私は東北哲学会に所属していて、東北大学の先生方とも面識がありますので、
その教え子の皆さんを紹介していただくようにしているのです。
仙台から福島県の各所まで通っていただくのも大変なんですが、
まあ大学院生にとっては先に述べたように教職歴を付けることは大事なので、
快くお引き受けいただいています。

そんな感じで、放っておけばいくらでもご縁がやってきてしまうのですが、
今はもうこれ以上手を広げないようにしているところです。
ただ郡山の国際メディカルの先生からご依頼をいただいたときも、
以上のような事情をお伝えして誰か別の方を紹介しますよと言ったんですが、
どうしてもぼくにとおっしゃるので、悩んだ挙句、郡山は白河に行く途中にあるので
白河の看護学校と同じ日程に調整してもらえるのなら何とかなるかもと判断し、
むりやりスケジュールにねじ込んだのでした。
移動→講義→移動→講義→移動の連続ではじめのうちはヘトヘトに疲れましたが、
もう9年もやってきて最近やっとこのハードスケジュールにも慣れてきました。

ただこれ以上はもう本当に増やすのはムリですね。
福島大学での授業も増えてきてしまっていますし、
それ以上に会議の数も増えていますから、空いている日が1日もありません。
大学や大学院にいた頃は、大学の先生が毎日大学にいるなんてありえないことでしたが、
なんでこんなに地方国立大学の教員は忙しいんでしょうか?
おっと愚痴になってしまいました。

ご質問に戻ると、こんな感じで皆さんとはたまたま電話一本で繋がったご縁だったわけです。
ただもう少し依頼時期が遅れていたりしたら、こちらからお断りしてしまって、
皆さんとはお会いできなかったかもしれませんので、そう思うとやはり不思議なご縁ですね。
(その場合、皆さんには若い倫理学者との出会いがあったかもしれないけど…。)
せっかくのご縁ですので、あと6回、何とぞよろしくお願いします

Q.尻は前→後ろにふくか、それとも後ろ→前にふきますか?女の常識・男の非常識(その7)

2017-09-04 11:21:40 | 性愛の倫理学
看護学校でいただいた質問ですが、こんな質問は初めていただきました。

「そういうの大好きだっ」 (by ハンス王子

正確には次のような問いでした。

「Q.洋式か和式トイレに入り、用を済ませるとき、

   尻は前→後ろにふくか、それとも後ろ→前にふきますか?」

まず疑問に思って、問いを問い直してみたくなったのですが、

この質問の最初の部分は必要なんでしょうか?

トイレといえば日本の場合まず洋式トイレか和式トイレかのどちらかですよね。

それ以外のトイレを日本で見た覚えがないので、

わざわざ洋式か和式かと限定する必要はない気がするのですが…。

それ以外のトイレだと拭き方が変わってきたりするのでしょうか?

あるいは、この前振りは洋式の場合と和式の場合とで、

拭き方が違うというケースを想定しているのでしょうか?

それはたしかにあるかもしれません。

洋式の場合は両脚の間から拭く以外の選択肢はありませんが、

和式の場合は脚の外側からというか後ろから拭くことができて、

実際にそうやって拭いているという人の話を聞いたことがあります。

ですが、私は幼少の頃から洋式便器に慣れ親しんできましたので、

洋式の場合も和式の場合も同様に脚の間から手を突っ込んで拭いているので、

洋式と和式で拭き方が違うということはありません。

というわけで、質問の前半部分にツッコミを入れておいた上で本題にお答えしようと思います。


A.トイレで用を足したとき、お尻は後ろ→前へ拭いています。


実は、長い間私はこれを人類に普遍的なお尻の拭き方だと信じて疑っていませんでした。

その誤りを正されたのはある女性と親しくなって、この手の話もできるようになって以降のことです。

その方が言うには、女性は前→後ろへ拭くように幼少の頃から教育されているのだそうですね。

それって本当ですか?

この手の話ができるような女性ってそんなにたくさんいないので、

この話の真偽を確かめたことがないのです。

その方の話によると、女性器には雑菌が入りやすいので、

後ろ→前ではなく前→後ろの方向で拭かなければいけないんだとのことでした。

赤ちゃんのウンコの処理をする場合も、女の子の場合は前→後ろでなければいけないそうです。

たしかに男の子の場合はタマタマがあってそこで歯止めがかかりますし、

しかも尿道口はオチンチンの先っぽなので、拭いてる紙が尿道口に触れる心配はまずありません。

女の子はそうはいかないのでしょうね。

いやあまったく知りませんでした。

たぶんこのブログを読むまで、前→後ろへ拭くという文化があったなんて

まったく知らなかったという男子はけっこう存在するのではないでしょうか。

男と女の間の深い溝を見つめる 「女の常識・男の非常識」 というシリーズを連載していましたので、

今回のこの記事もそのシリーズの1本に認定したいと思います。

看護学校「倫理学」FAQインデックス (2017年版)

2017-09-03 12:13:31 | 哲学・倫理学ファック
なんだかとうとう夏が来ないまま夏休みが終わってしまいました。
そして残暑厳しいかもという事前予測も裏切り、
すっかり秋空のなか後期の非常勤講師の仕事が始まりました。
今年は暦がよかったのか、郡山と白河の看護学校のお仕事は9月1日スタートです。

いつものように看護学校の第1回目の授業では、
皆さんに 「倫理学の先生に聞きたいこと」 を出してもらい、
グループの代表質問にお答えしました。
代表質問に選ばれなかった質問に対しては、こちらのブログでお答えしていくつもりです。
ただし、皆さんからいただいた質問の多くは先輩たちも聞いてくれていたので、
すでにこのブログのなかに書いてあります。
ですのでよくある質問に関して、まずは過去ログを参照していただければと思います。
どこを見たらいいか、インデックスというか目次的なものを作っておきますので、
こちらからあちこちへ飛んでみてください。
そして、インデックスもすでに何度も作ったことがありますので、
まずは下記のインデックスを順番に見てみてください。
そのなかに自分の質問と同じか似たものが見つかるはずです。
もちろん自分がした質問でなくても興味があったらぜひ読んでみてください。
(この辺は全部、過去のインデックスの冒頭の文章のコピペです。次文も同様。)
なお、私にとって 「倫理学」 と 「哲学」 は同義語ですので、
「哲学」 と書いてあるところは全部 「倫理学」 に置き換え可能ですので、
そのつもりで読みたい記事を探してみてください。
(哲学と倫理学の関係についてはこちらをご覧ください。)

以前のインデックス
  「倫理学の先生に聞きたいこと (インデックス版)」
  「哲学の先生に聞きたいこと (インデックス版2012)」
  「看護学校教員養成講座・インデックス2012」
  「倫理学FAQインデックス (2012年白河編)」
  「哲学FAQインデックス (2014年相馬編)」
  「看護学校 「倫理学」 FAQインデックス (2014年版)」
  「哲学FAQインデックス (2015年相馬編)」
  「看護学校 「倫理学」 FAQインデックス (2015年版)」
  「看護学校 「哲学」 FAQインデックス (2016年版)」
  「看護教員養成講座インデックス2016」
  「看護学校 「倫理学」 FAQインデックス (2016年版)」
  「看護学校 「哲学」 FAQインデックス (2017年版)」
  「Q.人生相談や恋愛相談を哲学の先生にしたらどうなりますか?」

まずはこれらのインデックスを見てみて、自分の質問と似ているものを探してみてください。
もちろん自分の質問とは関係なくても、興味を惹かれたら読んでみてください。
以上のインデックスには載っていないもの、あるいは、載ってはいるんだけど、
問いの立て方が違っているため見つけにくいだろうなと思われるものを以下に挙げておきます。

Q.福島出身ですか?
  「Q.子どもの頃から話すのが得意だったんですか?」

Q.日頃気をつけているものは?
  「汝自身を知れ!」

Q.朝おきて一番初めには何をしますか?
  「無限背進・○○のための○○」

Q.相手と話してその人の人物像などが読めたりするのですか?
  「Q.相手のことが分かってしまうものですか?」

Q.嫌いなことは最初に終わらせる派ですか、最後にやる派ですか?
  「Q.自分のことを一言でいうとどんなですか?」

Q.小野原先生の強みは何ですか?
  「強みを活かして生きる」

Q.長所は何ですか?
  「Q.長所と短所は何ですか?」

Q.先生の人生観は?
Q.先生の人生の一番のモットーとは?
Q.生きていく上で大切だなと感じたものは?
  「受け止め方のゲーム」

Q.高校で学ぶ倫理学と何が違いますか?
  「Q.この授業では倫理学者の名前を覚えたりはしないのですか?」

だいたいこんなところでしょうか。
次回ワークシートを返却したときに、それぞれの質問に対して 「スミ」 と書いてあったら、
それは第1回の代表質問のときにお答えしたという意味であり、
「ブログ参照」 と書いてあったら、上記のインデックスのどこかに答えが書いてあるはず、
という意味ですので、何とか探してみてください。
これまでにブログに書いたことのない質問に対しては、
「そのうちブログに書くかも」 と記しておきました。
文字通り、そのうちブログに書くかもしれません。
が、なかなか答えにくそうな質問も多かったので、
どう答えようか悩んだ挙げ句、けっきょくブログに書けないかもしれません。
その場合はご容赦のほど何とぞよろしくお願い申し上げます。
先輩たちからもらった質問にも全部は答えてないんだよなあ。
そして、今年は公私ともに忙しいし…。
ま、書けたら書きますので、あまり期待せずにお待ちください。
それではこれから7週間よろしくお願いいたします