まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

自分への自信について ―東野圭吾 『夢幻花』 より―

2013-09-30 13:42:57 | 幸せの倫理学

東野圭吾が今年2013年に出版した 『夢幻花』 を読みました。
正直なところ、東野圭吾って多作なのはいいのですがけっこう当たり外れが大きくて、
あまりにこじつけが過ぎるんでないの、と思ってしまうこともないわけではないんですが、
これはとても面白く読むことができました。
本の帯には著者自身の言葉を引いたこんなキャッチコピーが添えられていました。
「『こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない』 と著者自らが語る会心作」。
この売り言葉に偽りはなかったと思います。

小説のタイトルにも現れているこのミステリーの根幹部分がたいへんに面白いのですが、
それには触れることはいたしません。
著者が 「時間をかけ、考えた」 プロットのうちのほんの枝葉の部分なのですが、
我がブログが取り上げているテーマと密接に関わる描写がいくつかありましたので、
その部分だけちらっとご紹介させていただくことにいたします。
今日のところは、自分への自信という問題に関連して。
このところ2回にわたって自分への自信について書いてきましたが (その1その2)、
そのテーマにどんぴしゃなシーンがありましたので引用させていただきます。

所属するバンドがプロへの道を歩み始めようとしていた矢先に謎の自殺を遂げた尚人。
尚人の弟の知基。
尚人と知基のいとこで、水泳でオリンピック出場が有望視されていたにもかかわらず、
あることをきっかけに今は水泳から離れてしまっている梨乃。
尚人と高校時代からのバンド仲間である雅哉。
以下の引用は、雅哉と梨乃と知基の3人の会話ですが、
ほとんど喋っているのは雅哉と梨乃の2人だけです。

(以下、東野圭吾 『夢幻花』 より引用)

「どうしても話しておきたいことがあって。特に梨乃ちゃんに」
「あたしに? どんなこと?」
 雅哉は頭を上げ、充血した目を彼女に向けてきた。
「尚人のことだ。あいつはさ、ずっと悩んでたんだ。昔から。子どもの頃から」
「どんなことを?」
「自分が梨乃ちゃんみたいになれないってことについてだよ」
「あたしみたいに? 何それ、どういうこと?」
 雅哉は虚しさの漂う笑みを浮かべた。
「梨乃ちゃんにはわからないだろうなあ。でも、そういうもんなんだよな。本人はふつうにしているつもり。だけど周りの人間にとっては眩しくてたまらない」
「ちょっと待ってよ。何のことだかさっぱりわからない」
 雅哉は唾を呑み込むように喉を動かした。
「尚人はさ、才能がほしかったんだ。才能に恵まれた人間になりたかったんだ」
「はあ?」 梨乃は眉をひそめた。「何いってるの。尚人ほど才能に恵まれた人間はいなかった。スポーツ万能だったし、学校の成績だって優秀だった。絵だって上手かったし、音楽だってプロを目指せるレベルだった。才能に恵まれないどころか、恵まれすぎてたくらいじゃない」
 だが彼女の話の途中から、雅哉はゆらゆらと頭を振り始めていた。
「だから梨乃ちゃんにはわからないといってるんだ。たしかに尚人はスポーツも得意だった。でもプロになれるレベルだったかな。梨乃ちゃんみたいにオリンピックを目指せるほどだった? 違うだろ。学校の成績が優秀だといっても、所詮限られた範囲でのことだ。尚人は特に数学が得意だったけど、ただ解き方を知ってるだけだって、よくいってた。絵についてもそうだ。白い紙を見つめていると、絵の構想が浮かんでくる。それに合わせて絵筆を動かせば、立派な絵が仕上がる。だけどそうやって完成させた絵は、いつもどこかで見たことのあるものだってことに気づいたんだそうだ。自分はただ絵の知識があって器用なだけだ。他人はうまいと褒めてくれる。しかしそれは感心であって、感動じゃない。人の心を一ミリだって動かせない」
 雅哉は視線を梨乃の顔に戻した。
「やがてこんなふうに思い始めたそうだ。自分には何の才能もない。あるふりをしているだけだって」
 でも、と梨乃は口を開いた。
「そんなの、殆どの人がそうじゃない。才能がある人なんて一握り。あるふりをしてただけだっていうけど、それをできること自体がすごいと思う」
「うん、俺もそう思うよ。尚人だって、ふつうならそう思えたんじゃないかな。だけど、あいつの場合、すぐ近くに梨乃ちゃんがいた」
「あたし?」
「尚人からよく聞かされたよ。梨乃は天才だって。同じプールに入っているのに、彼女の周囲だけ水の質が変わる。特別な水が彼女を推し進めているように見える。自分たちとは別の世界で泳いでいるって」
「そんなことは……」
「ないと思っているのは本人だけだ。尚人だって水泳は得意だったそうだね。県大会にも何度も出たとか。だけどあいつはいってたよ。俺が水泳をやめたって、周囲の誰も気がつかなかったってね」
 梨乃は、はっとして隣の知基を見た。「そうだっけ?」
 知基は辛そうに目を瞬かせた。
「そういわれれば、たしかにそうだ。兄貴は何年も泳いでなかった」
「梨乃を見ていると、自分がひどく小さな人間に思える、ともいってた。何の取り柄もない、つまらない人間としか思えないと」 雅哉はいった。
「そんなこと、あるわけないのに……」
「音楽においてもたぶんそうだろう、と彼は気づいていた。自分には才能なんかないって。よく俺にいってたよ。雅哉は才能があって羨ましいって。だけどじつは、俺だって尚人と同じなんだ。天才なんかじゃない。才能なんてない。平凡で、ありふれた能力しか持ってない。どこにでもいる人間だ。そのくせ、誰よりも輝きたいという夢を持っちまった。なまじ、真似事だけでそこそこうまくいったものだから、余計に欲が出た。本物の天才になりたいと思った。…(中略)…だけど偽物はどこまでいっても偽物。本物にはなれない」
 雅哉は背筋を伸ばし、梨乃ちゃん、と改まった口調で呼びかけた。
「尚人がよくいってたんだ。梨乃は馬鹿だって。せっかく才能があるのに、それを無駄にしている。梨乃は水泳選手として生きていかなきゃいけない。才能を与えられた者の義務だ。それを重荷に思っているとしたら贅沢だ。何の義務も与えられていないことがどれほど虚しいか、梨乃はわかっていない―」 一気に話した後、彼はふうーっと息を吐き、笑いかけてきた。
「雅哉さん……」
「それを伝えたくて来てもらったんだ」
 梨乃は頷き、膝に置いたバッグからハンカチを出した。彼の言葉を、どう受けとめるべきなのか、まだよくわからなかった。しかし心の中が揺さぶられたことは確かだった。
 ハンカチで目頭を押さえた。

(以上、引用終わり)

フツーの人たちから見たら、尚人も雅哉も十分に才能に恵まれた若者です。
それでもむちゃくちゃ悩んでいます。
特に身近にオリンピック出場候補選手がいた尚人は、
梨乃と比較してしまうことによって自分に自信をもつことができずにいます。
尚人から音楽の才能に関して羨ましがられていた雅哉もまた、
誰よりも輝きたいという大それた夢をもってしまったばっかりに、
自分にはありふれた能力しかないと卑下してしまっています。
そして、この引用文中にはありませんでしたが、
梨乃もまた自分に自信を持てずに苦しんでいるのです。
自分を好きになれず、自分に自信を持てないでいる若者たち。
特にそれがこの小説の主題というわけではないのですが、
現代の若者たちの苦悩を上手く描いているように思いました。
自分を見極め、自分を受け容れ、自分のことを認めて好きになってあげられないと、
こんなに才能に溢れた若者たちですら道に迷ってしまいます。
やはり皆さんには自分なりのニッチを早く見つけてもらいたいもんだと思います。

Q.どうすれば自信や自分をしっかり持てるようになりますか? (その2・回答修正)

2013-09-29 17:34:05 | 哲学・倫理学ファック
先日、「Q.どうすれば自信や自分をしっかり持てるようになりますか?」
という質問に対する回答を書いたんですが、深夜に書いてしまったために、
なんだかてんでわけのわからない文章になってしまいました。
深夜に、しかも酔っ払っているときに文章を書いてはいけないということは、
若い頃から何度も失敗を繰り返しているのでわかっているはずなんですが、
同じ過ちを繰り返してしまうのが愚か者の習性です。
ああいう恥ずかしい文章は、できれば記事ごと削除してしまいたいところですが、
ブログのほうでは特にコメントとかもらっていないものの、
連携している Facebook のほうでコメントやら 「いいね!」 をもらってしまっているため、
今さら消去するわけにもいきません。
というわけであれはあれで仕方ないので残しておきますが、
もう一度、回答を修正して書き直させていただきたいと思います。
ちょっと前にもそんなことをやりましたが、今回のはあれとは意味が違います。)

今回は2段階に分けてお答えしたいと思います。

A-1.しっかりと自分を持ち、自分に自信を持つためには、
    まずは自分で自分のことを好きになってあげることが必要です。

まあ、けっきょくはこれだけだと言ってもいいでしょう。
好きでもない自分に自信を持てるはずがありません。
まずは自分が自分のことを好きになってあげること、これが何よりも大切です。

しかし、そんなことはわかりきっているんであって、
自分を持てない、自分に自信がないという人は、
そもそも自分のことを好きになれないから困っているんですよね。
好きになれと言われて自分を好きになれるくらいなら、何の苦労もいりません。
自分のことがキライだから自信を持てずにいるのです。
したがって第1段階のお答えは、ある意味でトートロジー (同語反復) みたいなもので、
何も言っていないに等しいのです。
それゆえどうしても第2段階の答えが必要となってきます。

A-2.自分のことを好きになるためには、
    まずは、自分で変えることのできない自分のキライなところを受け容れ、
    次に、人とは違う自分らしさを好きになってあげるようにし、
    それもなければ、好きになれる自分を作っていく努力をしましょう。

第2段階の答えはさらに内部が3段階に分かれています。
まずは、自分で変えることのできない自分のキライなところを受け容れるということ。
これは前回にも書いたことです。
自分で変えることのできないところは諦めるしかありません。
ないものねだりをしても仕方ない、というところをいかに早く納得するかが、
より豊かな人生を送れるか否かの分かれ目です。
若いうちはなかなかこれがわからないだろうと思いますが、
老人の目から振り返ってみるとここがポイントだったなという気がします。

そして次に、人と比べて優れているところを探してそれを好きになろうとするのではなく、
(もちろんそういうものを持っているのであれば、それを好きになるのは大いにアリです)
人とは違うところ、自分にしかないもの、人とは比べようもないものを探しましょう。
ただし、これは意外と見つけにくいかもしれません。
自分らしい自分の特徴って、自分にとっては当たり前のことだったりしますから、
そんなの誰でも持っているだろうと思って、
それが珍しいものだとまったく気づいていないということが往々にしてよくあります。
ですので、身近な人に自分のことを聞いてみるというのは大事です。
特に自分の 「強み」 に関してはなかなか自分では気づけなかったりするものなので、
私はよく 「ストレングス・ファインダー」 というものをお薦めしています。
これは客観的な心理テストによって自分の上位5つの強みがわかるというものです。
(最近では34個の強みの全順位がわかるというサービスも始まりました。)
こういったものも活用しつつ、自分にしかない自分の特徴を発見し、
そういう自分らしさを好きになってあげるようにしてみましょう。

それでも好きになれるところがないという場合は、
好きになれる自分を作っていくしかありません。
というか、そもそも自分というのは、どこかに 「ホントの自分」 があるというわけではなく、
(これは次回のてつがくカフェのテーマですね!)
最初から作っていくものだ、というのが私の持論です。
もちろんまったくのゼロからのスタートではなく、
容姿や体型など外見的なものや、才能的なものなどいろいろ素材は与えられていますが、
それらを使いながら自分で作り上げていくのが 「自分」 なんだろうと思っています。
先日も書いたように、性格や主義主張や行動パターンといったものは、
けっこう可塑性が高く、自分でいくらでも変えることができます。
変えられないものについていくら悩んでもしかたない代わりに、
変えられるものであったらどんどん変えていってしまえばいいと思うのです。
自分が好きになれる自分とはどういう自分か、それに近づけるように努力すればいいのです。

私はそうやって自分を変えてきました。
自分が好きになれる自分を少しずつ作ってきました。
いろいろな経験や新しいチャレンジがいくつも積み重なって今の私を作り上げています。
たぶん高校ぐらいのときから始めて、20代もまだまだ自己嫌悪のほうが多かったですが、
何とか自分を好きになろうと努力をしていました。
もちろん成功体験ばかりでなく、というか失敗体験のほうが多いですが、
それらも含めて、自分の好きな自分を作ろうとあがき続けていたのです。
せっかく自分に生まれてきたんだから、
自分で自分のことを好きになってあげないと自分がかわいそうというか、もったいない、
そんな一心でがんばってきました。
ようやく自分を好きになって自分に自信を持てるようになってきたのが、
30代に入る前後の頃だったでしょうか?
自分を好きになり自分に自信を持てるようになったとたんに一気に人生の道が開けてきました。
けっしてその逆ではありません。
スポーツ・コーチングの白石豊先生も言っています。
実績を出したから自信を持てるようになるのではない、
自信を持っているから実績を生み出すことができるのだ、と。
自信を持つことは大事です。
そのためには自分のことを好きになってあげてほしいと思います。
そして、自分で好きになれる自分を作るよう努力してみてほしいと思います。
自分のことで悩んでいるすべての若者が、自分に自信を持てるよう応援しています。

ある助産師さんのお話

2013-09-26 18:11:58 | 生老病死の倫理学
Facebook でシェアされていた 「心が震える感動レシピ」 より 「ある助産師さんのお話」 です。
我が家にもつい最近、義理の甥が生まれましたので、
決死の覚悟で生まれてきた甥っ子に捧げます。
よくがんばったね。


(以下、引用)

「ある助産師さんのお話」

赤ちゃんを産むとき、陣痛というものがある。

陣痛は、初産で約24時間
2人目以降で約12時間続くものらしい。
妊婦さんの中には
この陣痛がとても苦しいので、

「産む側は大変、赤ちゃんは生まれてくる側でいいなぁ」

と言う方もいるらしい。
しかし、助産師さんは
これは大きな勘違いだと言う。
赤ちゃんの方が
妊婦さんの何倍も苦しいのだと。
実は、子宮は筋肉であり
これが収縮したり緩んだりするのが、
陣痛の正体らしい。
陣痛が始まり、子宮が収縮すると
赤ちゃんは首のところを思い切り締め付けられ
へその尾からの酸素が途絶え、
息ができなくなるそうだ。
子宮の収縮は約1分間。
その間思い切り首を締められ、息ができない。
1分たてばまた子宮はゆるむが
また陣痛が来れば1分、息ができなくなる。
しかも陣痛の間隔はだんだん狭くなる。
この陣痛に耐えられなければ
赤ちゃんは死ぬ。まさに命懸けだ。
だからこそ、赤ちゃんは慎重なのだという。

実は、陣痛がおこるためには
陣痛をおこすホルモンが必要らしいのだが
このホルモンを出しているのは
お母さんではなく、なんと赤ちゃん自身。
赤ちゃんはとても賢く、自分自身で自分が
今陣痛に耐えられる体かを判断する。
そして、一番いいタイミングで
自分の生まれてくる日を選ぶ。
(そう考えると、自分の誕生日も、
 自分が選んだ日なんだと思えた)
また、急に激しい陣痛を起こせば命が危いので
最初は陣痛を起こすホルモンを少ししか出さず
様子を見てホルモンの量を調整するらしい。
赤ちゃんの中には、予定日を過ぎても
なかなか生まれてこない赤ちゃんもいる。
途中で陣痛を止める赤ちゃんもいる。
そういう赤ちゃんを
「うちの子はノンビリしてる」
なんていうお母さんもいるけど、
そのとき赤ちゃんは必死なんだという。
生まれて来ないのは、赤ちゃんが
「今の体では陣痛に耐えられず死んでしまう」
と判断しているからだそうだ。
赤ちゃんはみんな、自分で判断して
自分の意志で生まれてくる。

「生まれたくて生まれたんじゃない」

なんて人はいない。

すべての赤ちゃんは、
その日を自ら選んで生まれてくる。

生きるか死ぬかの狭間の中、
あの小さな体で必死に生きようと頑張っている。

子供を授かることもそうですが、
出産は母親にとっても赤ちゃんにとっても
すべてが奇跡の連続なんだと。

あなたの誕生日も、
あなたが命を懸けて、選んだ日なのです。

そう考えると、自分の誕生日が
本当に特別な日なのだと
改めて実感できるのではないでしょうか。

Q.どうすれば自信や自分をしっかり持てるようになりますか?

2013-09-26 01:53:39 | 幸せの倫理学
一昨日、「Q.先生の好きな言葉は?」 という記事を書かせていただきました。
私はブログと Facebook を連携させているので、ブログ記事を投稿すると、
自動的に Facebook にもリンクが貼られることになります。
その際、Facebook友達に向けて一言書き添えるようにしています。
一昨日の記事ではこんなふうに書き添えてみました。

「今の私しか知らない人には信じてもらえないかもしれませんが、
 私は昔からこんな自分大好きナルシスト人間だったわけではなく、
 若い頃は自己嫌悪と自信喪失の塊のような超ネガティブ人間でした。」

こう書いたところ、Facebook友達の皆さんから大ブーイングを食らってしまいました。

「うそつけ。」
「先生が嘘をつくわけがないので一応信じますが、やっぱり想像できないっすよ!」
「○○さん (=妻) が言ってたからホントだと思うけれど、その転回が信じがたい。」

今の私はそんなに自信家、ナルシストに見えているんでしょうか?
しかし、一昨日の記事に書いた、
「子どもの頃の私はまったくの落ちこぼれで、劣等感の塊でした。
 学力的にも、運動神経的にも、容姿や体格的にも何ひとつ誇れるものはなく、
 自分に対して自信というものをまったく持っていませんでした。」
という記述はまったく嘘偽りのない事実なのです。
そんな子どもだった私が、いつの間にこんな人間になってしまったんでしょうか?
今日の質問には、そのへんの転機の話を披露するとお答えになるのかもしれません。
(一昨日書いたことと大部分は重複してしまいますが…)

まず第1は、自分のダメさ加減にきっちり向き合って、
自分がどうダメなのかを見極め、ダメなところを味わい尽くす必要があります。
子どもの頃って人を測る物差しや基準がひじょうに単純でしたよね。
順番的に言うと、容姿、体型、運動神経、学力の順番かなあ。
低学年であればあるほど、男でも女でも1番モテる子が特定の子に偏っていたように思います。
そして、そういう子と自分を比べて、なんで自分はああなれないんだろうと悩んでいました。
突然自分がそんなふうなカッコいい子になってモテモテになってるところを夢想したり。
少しでも近づけないかと見当外れな努力をしたり。
それらはことごとく失敗してよけいに自分への自信を失ったりしていました。
学力のように努力によって何とか挽回できるものもないわけではありませんが、
私などはなんとか努力して成績を上げて、ギリギリ届く高みの学校に進学し、
そこに入学したらまた底辺に舞い戻るという過ちを小、中、高、大、大学院と、
進学のたびに繰り返し、けっきょく自信回復にはつながらずじまいでした。
容姿や体型や運動神経などはもう如何ともしがたく、
これらを何とかしたい、何とかなってくれないかと望んでいるうちは、
自己嫌悪から抜け出すことはできません。
どうしようもないものに関してはどうしようもないのだと諦めて、
それもまた自分なりの個性だと受け容れるしかありませんが、
ここが1番の難関だと思います。
変えようのないものに関しては与えられたもので勝負するしかないと開き直れるかどうか、
これが何よりも重要な転機だと言えるでしょう。

そして、皆さんも記憶にあると思いますが、子どもの頃は物差しや基準が限られていましたが、
だんだん歳を取るにつれて判断基準も少しずつ増えてきて、
それによりみんなの好みがだんだんとばらけていきます。
面白さ (ユーモア、明るさ?) とか、内面性とか、学校の成績とは異なる知性とか、
あるいは、笑顔とか芸術性や特技 (特に楽器が弾けるとか) なども大事になってきます。
これらは容姿や体型なんかと比べるとはるかに可塑性 (かそせい) が高いです。
つまり、努力や経験によって変わったり高まったりしていく余地が残されています。
こうして世界が広がっていくとともに、自分の勝負できる土俵が見つかる可能性が高まってきます。
それを見つけられれば、自信や自分を持てるようになるでしょう。

とはいえ、この段階ではまだそれを見つけるのは難しいでしょう。
私の場合は、大学時代まではまだこの域には達していませんでした。
社交ダンスというものに出会い、将来はプロダンサーになんていう野望ももっていましたから、
身長が低いこと、脚がO脚なこと、あいかわらず運動神経が鈍いことなど、
自分ではどうしようもないことを何とかテクニックでカバーできないかなどと頑張っていました。
そして、それが上手くいかずに自信を失うということを繰り返していたのです。
同時並行的に哲学の勉強も始めていました。
しかし、こちらもまだまったく芽が出る気配はありませんでした。
文章を書くのは好きでしたが、哲学の修練が全然足りていなかったので、
自分に自信を持てるようなレベルではまったくありませんでした。

ここから先に進むためは自分に有利な土俵作りが必要になってきます。
一昨日書いた、「日本一」 というか 「日本唯一」 の土俵を作ってしまう作戦です。
これが第2段階です。
ビジネスの世界ではこれを 「ニッチ戦略」 と呼んでいます。
ニッチとは 「隙間」 という意味です。
「大企業がターゲットにしないような小さな市場や、
 潜在的にはニーズがあるが、まだビジネスの対象として考えられていないような分野」 のことです。
みんなと同じ土俵で大勢と競い合っていると、誰かには勝てるかもしれませんが、
誰かには負けてしまうこともあるわけで、そうすると安定的な自信につながりません。
誰にもマネできないような自分独自のニッチを見つけられれば百戦連勝 (というか不戦勝) でしょう。
つまり、ご質問のなかにある2つの要素はまさに原因と結果の関係を成しているわけで、
自分をしっかり持つことができれば、自分に自信を持てるようになるという関係だと思います。
つまり、自分をしっかり持つというのは、人と比べて誰にも負けないような自分を探すのではなく、
(そんなものがあればそりゃあ自分に自信を持つことは簡単でしょうが…)
誰にもマネできないような自分にしかできないことを見つけてそれを自分の拠り所とすることであり、
そうすることによって自信を持って、
それを自分のセールスポイントとして売り出していくことができるようになるのだと思います。

私の場合、研究面に関して言うと、この域に達することができたのは、
一昨日書いたように大学院の2年目以降のことでした。
恋愛面で言うと、もう少し早かったかもしれません。
私の好きなタイプの女性というのは、自立していてそれこそ自分というものをしっかり持っていて、
むちゃくちゃ能力が高くバリバリ働き、かつ女性的魅力に溢れているスーパーウーマン・タイプです。
そんな女性がフツーだったら、私のような特に秀でたところもなく、
いつまでたっても社会に出るアテもなく、ずーっと研究ばかりしているようなオタク人間を、
相手にしてくれるはずないように思えます。
しかし、よく考えてみると、そういうバリバリのスーパーウーマン・タイプは、
自分と似たようなバリバリのスーパービジネスマンや、
スーパーキャリア・タイプばかりを本当に求めているでしょうか?
職場で自分とキャリアを争うような相手をパートナーとして欲するでしょうか?
むしろ、パートナーに求めるのは癒やしであったり、
女性が社会に出て活躍することをサポートしてくれることなのではないでしょうか。
自分がそういうニッチを目指すならば (特に努力しなくともすでに自分はそういうニッチでした)、
意外とマッチングの可能性は高いのではないかと思われました。
その予想はみごとに当たりました。
まったくモテない、まったくサエない子ども時代を送っていた私が、
幼い頃から常に学校の人気No.1でそのままキャリアウーマンになってしまったような女性と、
どういう勢いだか付き合うようになり、そのまま結婚することになってしまったのです。
それが可能になったのは、私が容姿や体型や収入や社会的地位などのありきたりな土俵を捨て去り、
当時としてはとってもニッチな男性像を体現した自分を作り上げることに成功していたからでしょう。
というわけで、今回は次のように答えをまとめておきましょう。

A.まずは自分をしっかり見つめ、いいところダメなところを把握して、
  ダメなところ、改善のしようのないところはあっさり受け容れ、そこで戦うのは諦めて、
  自分の得意なところ有利なところを精一杯伸ばし、
  誰にもマネできない自分にしかできないニッチを自分の拠り所としたら、
  それによって自分に自信を持つことができるのではないでしょうか。

Q.先生の嫌いな言葉は?

2013-09-24 22:50:50 | 幸せの倫理学
昨日に引き続いて、今日は私の嫌いな言葉です。

嫌いな言葉もいろいろあるんですが、とりあえず現時点でのワーストということでこれです。

A.私の嫌いな言葉は 「ムリ」 です。

福大のテストやレポートでこの言葉を気軽に使う若者が多いんですよ。

「戦争をなくすのはムリだ」 とか、

「自由 (自由権) と幸福 (社会権) を両立させるのはムリだ」 とか。

たしかに生半可なことでは解決できないような難しい問いを与えていることは百も承知なんですが、

しかし、そんなに簡単に 「ムリ」 という一言で終わらせてほしくないんですよね。

「ムリ」 という言葉は一度発してしまったら、それ以上の思索や模索を一切遮断してしまいます。

しかし、人類の歴史を振り返ってみれば、

ムリに決まっていることを乗り越えてきたことばかりじゃありませんか。

人間はずっと空を飛びたいと望んでいましたが、

それは長い間まったくムリなことでした。

ましてや月に行くなんて絶対に叶わない夢のはずでした。

病気だって、ほんの百数十年前の江戸時代には、

結核や麻疹などたいがいの病気を治したり防いだりすることはできませんでした。

しかし、「ムリ」 は 「可能」 になったじゃないですか。

今はムリでも、いつかは可能になるかもしれないんです。

なので、若い人たちにあまり安易に 「ムリ」 という言葉を使ってほしくないんです。

「ムリ」 という言葉で可能性の芽を摘んでしまうよりも、

「ムリ」 をどうやって 「可能」 に変えられるか知恵を絞ってもらいたいと思うのです。

「ムリ」 の反対語は 「考えろ」 です。

私の大好きな映画 『ダイハード』 ではテロリストに占拠された高層ビルに取り残された主人公は、

自分に向かって 「Think,think!」 とつぶやいて自らを叱咤激励していました。

アメリカの映画やテレビドラマではよくこの 「Think,think!」 という独り言が出てきます。

別に私は取り立ててアメリカのことが好きなわけではありませんが、

困ったときや苦境に陥ったときにすぐに 「ムリ」 といって諦めてしまう日本人的発想よりは、

「Think,think!」 と自分を励まして何とか打開策を探ろうとする文化のほうが、

強くて柔軟な文化であることは間違いないだろうと思います。

皆さんも 「ムリ」 を口癖にするのではなく、

「考えろ、考えろ」 と自分を励ます習慣を身につけていただきたいと思います。

Q.先生の好きな言葉は?

2013-09-23 19:30:33 | 幸せの倫理学
もともとは 「Q.先生の好きな言葉、嫌いな言葉は?」 という2つの質問でした。
これは以前からいただいていた質問ですが、いずれもなかなかひとつに絞りきれず、
どうお答えしたらいいか悩んでいた質問です。
しかし、いつまでも悩んでいてばかりでも仕方ありませんので、
とりあえず現時点での好きな言葉、嫌いな言葉をとにかく1つ挙げることにしましょう。
まず今日のところは好きな言葉から。
うーん、いろいろあるんだけどなあ。
でも、現時点で1つだけ挙げろと言われたらこれかなあ?

A.君も日本一になれる才能の持ち主だ!

これは小学校5、6年生のときの担任のF先生が、
よく言ったり、黒板に書いたり、学級新聞に載せたりしていた言葉です。
子どもの頃の私はまったくの落ちこぼれで、劣等感の塊でした。
学力的にも、運動神経的にも、容姿や体格的にも何ひとつ誇れるものはなく、
自分に対して自信というものをまったく持っていませんでした。
F先生のクラスになって、先生があのセリフを繰り返し言ってくれても、
私にはまったく関係のないことだと思っていました。
この人は何をバカなことを言ってるんだろうと。
ただ、毎日のように執拗に言われ続けましたので、記憶にだけは残っていました。

この言葉が自分にとって意味のある言葉だとわかってきたのはいつの頃からでしょうか?
どうもはっきりと覚えていないのですが、
大学院の博士課程を受験して、研究者の道を進もうと決心した頃にはすでに、
この言葉を自分なりに解釈して、自分にとってもこれは大事な教えであると理解していました。
フツーに考えれば、誰もが皆日本一になれる才能を持っているわけがありません。
日本の人口だけ日本一になれる人間がいるなんてバカげているように思います。
ただあるとき、日本一といっても、いろんな日本一があるよなあと気づいたのです。
「日本一の哲学者」 とか 「日本一の倫理学者」 になるのは大変です。
西田幾多郎とか和辻哲郎とかむちゃくちゃビッグな先人がいますので、
そういう人を超えるというのはとてつもなく困難なことです。
そういう故人は置いておくとしても、今生きている人たちの中だけでもNo.1になるのは大変です。
ただ、そんなに大きなカテゴリーで考えなくともいいんじゃないの、というのが私の気づきでした。

「哲学者」 や 「倫理学者」 というのをもうちょっと範囲を狭めて、
例えば、「カント研究者」 とか 「平和論研究者」 とかに限定してしまうのです。
いや、「日本一のカント研究者」 になるのもめちゃくちゃハードルが高いです。
私の通っていた法政の大学院には当時、著名なカント学者が2人もいて、
その下にカント研究を志す若手研究者が集まってきていましたから、
先輩たちのなかにもものすごい人がたくさんいました。
そんななかでとんでもない回り道をしてきてしまった私はカント研究者としても落ちこぼれでしたので、
とてもじゃないけど師匠や先輩たちを差し置いて、
「日本一のカント研究者」 を目指そうと思えるほどの器ではありませんでした。
しかし、大学院修士課程2年目の頃から、「カント研究者」 というカテゴリーをさらに小さくしたら、
(これをコーチング業界では 「チャンク・ダウンする」 と言います)、
「日本一」 というのもまんざらムリでもないかもしれないなと思うようになったのです。
どうチャンク・ダウンするかというと、例えば、
「日本一カントの法哲学のことをよくわかっているカント研究者」 とか、
「日本一カントの 『人倫の形而上学』 という本のことを理解しているカント研究者」 とかです。
ゼミや研究会の場で議論していると、いつもはボコボコにされっぱなしなのですが、
あるテーマや話題になると、先生や先輩方とも対等に議論できる場合があるし、
時には、自分のほうがカントのことをよくわかっているんじゃないかと思えるときも出てくるのです。
そうやって限定的な場面を設定するならば、
自分だって日本一になれるのではないかと考えられるようになってきたのです。

これは 「ナンバーワン」 というよりは 「オンリーワン」 をめざす戦略です。
オンリーワンといえる土俵を見つけて、そこでナンバーワンを名乗ってしまおうというやり口です。
日本一というのをこういうふうに捉え返してみると、
「君も日本一になれる才能の持ち主だ」 というのはたしかにその通りで、
どんなに特殊な、どんなにピンポイントな才能や特技でもいいですので、
それを見つけてそれを磨いていけば、誰だって日本一くらい簡単になれるのではないでしょうか。
私のブログをよく読んでくださっている方ならば、
この話が私の 「幸福になる方法」 の話の応用バージョンであるということがおわかりでしょう。
例の 「欲求・欲望を小さく抑えることによって幸福になる確率を高める」 という話です。
F先生は豪快な方でしたので、おそらくこんなチマチマしたことを言っていたのではないと思いますが、
私は彼の言葉をこのように受け止めることによって (すべては受け止め方の問題です)、
私にとっても意味のある言葉として解釈し、自分の人生の導きの糸とすることができたのでした。
まったく自分に自信のなかった私が、自分を肯定し、自分を受け入れ、
自分に自信を持つことができるようになった、その背後には、
常に小学生の時に言われたこのF先生の言葉があったように思います。
ですので、皆さんにも私の大好きなこの言葉を捧げたいと思います。

「君も日本一になれる才能の持ち主だ!」

結婚? する? したい? しない?

2013-09-21 14:00:05 | 性愛の倫理学
本日開催される第18回 「てつがくカフェ@ふくしま」 のテーマは、

「結婚? する? したい? しない?」 です。

私としては珍しいことに、すでに北海道旅行に行く前にポスターを作成し、

今回の会場である 「agato」 さんと、いつもの会場である 「A ・O ・Z」 に貼り出してもらっています。

こちら↓が 「agato」 の貼り出し風景です。



ポスターをもうちょっと拡大するとこう↓です。



事前貼り出し用のポスターは当たり障りのない画像で、

結婚するべきか、しないべきか、という今回のテーマを表現してみました。

実は当日用のポスターは別デザインで作ってあって、

象徴的な3組のカップルをあしらってあります。

いろいろあってあまり大々的に公開することができませんが、

イメージとしてはこんな感じ↓です。



おそらく誰もが三浦友和 ・山口百恵カップルのような結婚生活を夢見るのでしょうが、

貴花田 ・宮沢りえカップルのように婚約はしたもののけっきょく事前に別れてしまうカップルや、

「バツイチ」 という言葉を定着させた、

明石家さんま ・大竹しのぶカップルのような結末を迎えるカップルもいます。

はたして結婚とは何なのでしょうか?

今回は常連さんたちが (しかもこのテーマを切望したはずの!) 軒並み欠席されるようです。

しかし、新しい会場で新しい参加者を多数お迎えして、

「結婚」 という比較的誰でも話しやすいテーマへと哲学的に迫っていってみたいと思います。

3連休をもてあましているあなた、ぜひ今からでもお気軽に参加してみてください!

Q.キリン好きですか? (その2・回答修正)

2013-09-20 08:47:12 | 哲学・倫理学ファック
この1週間、遅めの夏休みを取って北海道に行ってきました。
夏休みとはいっても、たしかに福島大学は夏休み中ですが、
郡山や白河の看護学校はすでに9月から授業が始まっています。
金曜日に両校で 「倫理学」 の非常勤の授業をやっていますので、
土曜日に出発し木曜日に帰ってくるというスケジュールで北海道の道東をめぐってきました。
昨晩戻ってきたばかりで、今はもう電車で郡山に向かっているところです。
さすがに疲れていますので、今日の授業がどうなることやら若干心配です。
さて、北海道の旅、いろいろと楽しい思い出があったのですが、
そのうちのひとつが、旭山動物園に初めて訪れたことでした。
妻は一度ひとりで行ったことがあるんですが、むちゃくちゃいいよと聞いていたので、
ぜひ行ってみたいと思っていたのでした。
旅程の都合上、摩周湖のそばに宿泊した翌日に旭山動物園に行き、
その日のうちに動物園見学を終えなければならないというスケジュールで、
はたして開園時間中にたどりつけるか心配だったのですが、何とか無事たどりつき、
約3時間、ちょっと慌ただしくはありましたが駆け足で見て回ることができました。

評判どおり素晴らしいアミューズメントパークだったので、
旭山動物園についてはいずれまたゆっくりレポートしたいと思いますが、
先日お答えした 「Q.キリン好きですか?」 という質問にもう一度お答えしたいと思います。
ああいう質問をいただかなければ、
特にキリンのことをまじまじと観察したりしなかったと思うのですが、
やはり気になってしまって、今回、時間がないというのにけっこうキリンに時間をかけてしまいました。
(これも問いの力ですね。)
キリンと言えば、長い首と黄色地に茶色の斑点模様くらいしか思いつかなかったのですが、



じっくり観察してみると、いろいろと面白い生き物だなと思いました。
顔はラクダ系ですね。



説明の掲示板によると首ばかりでなく舌も長いそうですが、
そこらへんはあまり私の好き嫌いポイントに引っかかってきません。
面白かったのは耳がレーダーみたいに動き回ることでした。
なんて表現したらいいんでしょう、
フクロウが身体を静止したまま首だけグルッと後ろに回すのができるのと同じように、
キリンの耳はグルッと縦回転して、顔は前を向いたまま耳だけ後ろに向けられるのです。
その動きはちょっとそそられるものがありました。

そして何よりも驚いたのはキリンのあの首です。
長いのはいいんですが、正面や真後ろから見てみるとむちゃくちゃ細いんです。
平たいと言うべきでしょうか?
こうです



まるで太刀魚のようじゃありませんか。
キリンの首がこんなに薄っぺらいとは知りませんでした。
ぬいぐるみとかでもキリンの首は円筒形で表現されていますよね。
キリンの正面図を描けと言われたら、多くの人が横から見たのと同じような太さで、
丸い首を描くのではないでしょうか?
ところがそうではなかったのです。
うーん、大発見だあ
あの質問をくれた人はたぶんキリン好きの方だったんでしょうが、
キリンの首の厚みのこと、ご存知だったんでしょうか?
観察力と記憶力のない私だけが知らなかったのかなあ?
学校の授業で、キリンの首は長いけど薄いって先生、教えてくれていました?
52歳になるまでこんな大事なこと知らなかったなんて

あれだけ薄いということはそれだけ筋肉が少ないということです。
人間の首だってこんなに短いのに円筒形で、筋肉で頭蓋骨を支えています。
なのにキリンはあれだけの長い首とその上の頭蓋骨を、基本、骨だけで支えているのでしょうか?
なぜあの首がポキッと折れてしまわないのか不思議でしょうがありません。
たぶん誰かに呼ばれて急に振り返ったりしたらホントに折れてしまうでしょう。
だから振り返らなくていいように、耳がレーダーみたいに回るようになっているのかもしれません。
うーん、よくできているなあ。
今回よく観察してみて、ちょっとキリンのことが好きになってきました。
というわけで前回のお答えを少し修正させていただきたいと思います。

A.キリンは、首があんなに長いくせに実はとっても薄っぺらくて、
  耳をレーダーみたいにクルクル回せるところがちょっと好きになってきました。

Q.アニメ見ますか?

2013-09-19 11:49:45 | 哲学・倫理学ファック
A.アニメはほとんど見ません。

自分がアニメを見るかどうかなんてふだんあまり意識したこともありませんでしたが、
こうやって質問をいただいてみて初めて気づくことってありますね。
自分でいつも言ってるにもかかわらず、問いの力ってやっぱり偉大です。
言われて振り返ってみると、自分は現在ほとんどアニメを見ていないように思います。
子どもの頃はものすごく見ていました。
「ポパイ」 や、東京12chでやっていた 「スーパースリー」 とか 「ラムジー」 などの海外物、
「巨人の星」 や 「アタックNo.1」 などのスポ根もの、
「マジンガーZ」 や 「デビルマン」 などの永井豪原作のアクション・アニメ、
その後に始まった 「ルパン三世」 や 「宇宙戦艦ヤマト」 等々、
私の子ども時代はテレビアニメなしには語れません。

それがいつ頃から見なくなったのでしょうか?
特に覚えていませんが、おそらく大学に入った頃からではないでしょうか?
テレビアニメってだいたい放映時間が決まっていますよね。
夕方5時から遅くとも8時くらいまでではないでしょうか?
高校の頃まではそのぐらいの時間に帰宅することができていましたが、
大学生になると飲み会があったりバイトがあったりして、
そういうアニメ放映時間に帰ってくることが減ってきてしまいます。
皆さんには想像もつかないことでしょうが、
私が大学生の当時にはまだ各家庭にビデオ (テレビ番組を録画する装置) がありませんでしたから、
放映時間に帰ってこられないということはその番組を見ることができないということだったのです。
「ポパイ」 のような1話完結ものならたまに見ても意味がわかるでしょうが、
続きもののアニメの場合、途中何回か見損なったりしてしまうともう話についていけなくなりますので、
それでだんだんアニメは見られなくなっていったんだと思います。

ですので、1980年代以降はほとんどアニメを見ていないのではないでしょうか。
だから 「ガンダム」 とか 「エヴァンゲリオン」 とかはまったく見ていませんし、
さらにはテレビアニメにつられてなのか、
なんと宮崎駿のスタジオ・ジブリのアニメ映画もほとんど見ていません。
たまたまテレビで放映されていたり、人に勧められてDVDを借りて見たことはありますが、
公開時に映画館で見たことは一度もないのです。
(ちゃんとしたファンでもないくせにジブリ・アニメについてブログで語ったりするから、
 コメント欄で皆さんからボコボコに叩かれたりしています。)

今やアニメは日本が世界に誇るクール・ジャパンの代表的文化となりました。
しかし、50歳の私に言わせれば、まさかそんな日が来るとはまったく思っていませんでした。
アニメと言えば (昔は 「アニメ」 という言葉すらなくて 「マンガ」 と呼ばれていました)、
子どもが見るものであって、大人が見るべきものではありませんでした。
時代が変われば変わるものです。
せっかく大人が見ていい時代が来たのですから、
今後はもう少し積極的にアニメを見てみたいと思います。

Q.哲学入門、倫理学入門を最高どれくらい長く話せますか?

2013-09-17 08:11:06 | 哲学・倫理学ファック
第1回目の授業のときに倫理学入門をいくらでも長く話せると吹いてしまいました。
いくらでも長く話せるけど、それやっちゃうとみんな全員寝てしまうから、
自分から倫理学入門の話をするのではなくて、
みんなから質問をもらってそれに答えるようにしているのだ、と。
おかげでこんな質問をいただいてしまったわけですが、
後半はたしかにその通りだけれども、いくらでも長く話せるというのは言い過ぎでした。
半期間15回ずっと話していられるとまで言ってしまったこともあるかもしれませんが、
そもそもそんなに話し続けていたらそれは入門ではなくて、中身の話に入ってしまっていますね。
テキトーなホラをぶっこくのはやめて、ちょっと冷静に、
どれくらい長く話せるかをきちんとカウントしてみたいと思います。

まずご質問は正確には 「Q.倫理学入門を最高どれくらい長く話せますか?」 だったんですが、
倫理学は哲学の一部なので、倫理学入門の前に哲学入門の話をしなければなりません。
ですので、今回は哲学入門と倫理学入門を合わせて考えていくことにいたします。
まずは哲学の語源、フィロソフィアという言葉の意味を説明しなければなりません。
しかし、フィロソフィアを 「知への愛」 と訳しただけでは日本人には理解できませんので、
古代ギリシアにおいてフィロソフィアがどうやって生まれてきたのかの話をし、
そこから、「すべての学問は哲学だった」 という話につなげていかなくてはなりません。
ここまでで軽く90分はかかってしまうでしょう。

そこから近代自然科学革命の時代に哲学が変容していく話に移っていきます。
学問の実証化や分業化が進んで 「実証科学」 がどんどん誕生していき、
実証化や分業化ができなかった部分のみが 「哲学」 として残されたという話です。
たぶんこれで90分。
キリスト教との関係やルネサンス、宗教改革なんかの話を入れたり、
現在の哲学がどんなにヘンテコなことを考えているかなんていう話をすると、
さらに90分×2くらい延ばせますが、ここらへんはもうすでに入門の域を逸脱しているかもしれません。

ここまでが哲学入門の話です。
これに付け加えて、では哲学のなかで倫理学はどういう位置を占めているかという話であと90分。
倫理とは何か、倫理学とは何か、なんていう話を、
たんに日本語の概念分析だけで終わらせるのでなく、
ギリシア語のエシックス、ラテン語のモラルなんかにさかのぼって話していくと、
もう90分話さなくてはならなくなるでしょう。
というわけで哲学入門が2~4回、それに続けて倫理学入門が1~2回といったところでしょうか。
(倫理学入門は哲学入門のあとに続けなければならないので、単独ではできません。)
したがってご質問に対しては以下のような答えになるかと思います。

A.哲学入門は最大4回、倫理学入門は最大6回話し続けることができます。

これだけ話していたら、自分的にはとっても楽しいだろうなあ。
喜々として延々話している自分の姿が目に浮かびます。
でもこれを黙って聞き続けてくれる人はいないだろうなあ。
やっぱりいつもやってるみたいに、90分1回分だけ皆さんからの質問にお答えする、
というのがベストな哲学入門、倫理学入門なんではないかと思います。

Q.考えたことを書き留めるときの注意点は何ですか?

2013-09-16 18:26:10 | 哲学・倫理学ファック
「書き留めなければ何も起こらなかったも同じこと」

だから、何でも書き留めるようにしましょうと第1回目の授業のときに言いました。

それに対して標記のような質問をいただきました。

こういう質問は初めていただきましたが、なかなかいい質問ですね。

言われたことをただ鵜呑みにするのでなく、

そこでさらに理解を深めるための質問をする癖をつけておくことは大事です。

さて、質問をいただいてみて初めて考えたのですが、

注意点はいろいろ思いつきました。

が、いろいろゴタゴタ言ってしまうと皆さん混乱してしまうでしょう。

一番大事な注意だけに絞ろうと考えて、

何が一番大事なのか一生懸命、取捨選択してみました。

その結果が以下です。


A.何か思いついたときにすぐに書き留められるように、
  筆記用具を常に携帯しておくことが一番大事です!



なぜ書き留めなければいけないかというと、人間はすぐに忘れてしまうからでした。

だから思いついた瞬間に書き留めることが重要なのです。

ぼくくらいになると思いついたはじからどんどん忘れていってしまいます。

買い物しなきゃいけない物を思いついて、メモ紙をさがしているうちに忘れてしまったりします。

ですから一番大事なのは書き留めるためのものを常に携帯しておくことが大事です。

私の場合は手帳を肌身離さず持っておくようにしています。

それでも手帳が手元にないなんていうことがたまにあります。

そのときはケータイに書き留めたりもしています。

とにかく何か思いついたらすぐにその場で殴り書きでもなんでもいいから書き留める、

これが何よりも大事な注意点です。

書き留めさえしておけば、あとは何とかなります。

それだけまずは気をつけて、自分なりの書き留めるためのシステムを作ってみてください。

Q.福山雅治好きですか?

2013-09-15 23:06:15 | 性愛の倫理学
正確には次のような質問でした。
「Q.福山雅治好きですか? 私は大好きです!  ましゃ 
 どこが好きですか?」
どんだけハート使ってるんだよ。
ゴメン、ぼくはそこまで真剣に好きなわけじゃないんだ。
誤解させてホントにゴメンっ

今までずっと、ホントの自分とは何かの話をするために浜崎あゆみの声を例に出していましたが、
最近どうやら浜崎あゆみでは若者に通じなくなりつつあるかもしれないと思い、
前期の相馬の看護学校では aiko とかに変えてみたんですが、
すると 「Q.aiko は好きですか?」 とかの代表質問をもらってしまい、
困り果てて今回は福山雅治にしてみただけなんです。

いや、ぼくはぼくなりに福山雅治のこと好きなんですが、
そこまでパーソナルに好きなわけじゃなくて、ひじょうに機能主義的、合理主義的なんです。
もともとのきっかけは福大に福山のことを大好きな先生がいて、
その人からカラオケで歌うように指示されたのが最初です。
それ以前にも学生たちが歌っているのを聞いたことはありましたが、
本人の歌を聞いたことはありませんでしたし、
ドラマ 「ひとつ屋根の下」 も噂に聞くばかりで実際に見たことはありませんでしたので、
俳優としての福山雅治にもなんの興味もありませんでした。
ところが、指示を受けて練習のためにクルマのなかで何度も聞いてみると、
福山の歌って私が歌うのに音域がちょうどいいのです。
「Squall」 や 「桜坂」 などの裏声を使う曲はちょっと大変ですが、
それ以外の福山の曲って私の声域にぴったり合ってるのです。
意外とそういう歌手って見つからなくて、私の場合、沢田研二以来2人目です。
というわけでカラオケのレパートリーにするためというのが福山との付き合い始めでした。

いろいろと歌い始めてみると、福山の曲には歌詞のエロい曲がいくつかあるのに気づきました。
最初にエロいと思ったのは 「HEAVEN」 でした。
しかし、極めつけは 「Gang★」 でした。
これはもう完全にSMの歌ではありませんか。
ドS体質の私としてはもうたまりません。
この曲は今でも私の十八番です。
(曲自体はM側からの歌詞となっていますが…)
その後に出た 「化身」 も名曲です。
「我は愛の獣」、何度もリフレインしてしまいます。

聞くところによると、この人はラジオ番組でもけっこうエロいトークをしているそうですが、
残念ながら私は一度も聞いたことがありません。
若干興味がないわけではありませんが、私はそもそもラジオというものを聞きませんし、
わざわざ時間を合わせて聞こうと思うほど、福山雅治のファンでもありません。
けっきょく私にとって福山雅治はカラオケで歌える歌を歌ってくれている歌手であり、
私好みのエロい歌詞を作詞してくれる作詞家でしかないのでしょう。
でも歌手のなかでは確実に5本の指に入るお気に入りですし、
作詞家としては堂々ジョン・レノンに次ぐ第2位の座を占める大御所と言っていいでしょう。
たぶん質問者の方ほど熱烈に愛しているわけではありませんが、
人生全般にわたってクールな私としては、相当に愛しているほうではないでしょうか。
残念ながら授業中に福山のカラオケをお聞かせすることはできませんが、
いずれの御時にか、万が一私の入院先に福山ファンの看護師さんが働いていたら、
「Gang★」 か 「化身」 を歌ってあげることにしたいと思います。
ぼくが歌うとエロいよぉ
というわけでお答えをまとめると以下のようになります。

A.福山雅治大好きです
  曲が歌いやすくて、歌詞がエロいところがサイコーです

Q.哲学・倫理学で考える際に今までの経験やおいたちなど関係ありますか?

2013-09-14 19:44:04 | 哲学・倫理学ファック
もともとの質問では哲学は含まれていなくて、倫理学のみに関する問いでしたが、
哲学にも倫理学にも当てはまる質問ですので、一緒にして答えさせていただきます。
これはなかなかいい質問ですね。
なんとお答えしましょうか。

先週、哲学や倫理学はあらゆることの根っ子の部分を問い直していく、
常識や当たり前をすべて疑っていく学問であるとお話ししました。
だとすると、その人が属している国や時代や宗教、文化などに関わりなく、
哲学的思考、倫理学的思考は可能でなくてはならないはずです。
ましてや個人的な経験や生い立ちなどに囚われているようでは、
物事の根っ子の部分に迫っていくことができません。
実際、古代ギリシアや近代ヨーロッパで考え出された哲学・倫理学思想が、
現代日本においてもいまだに研究されているということは、
哲学や倫理学が、時代性や地域性や、ひとりひとりの個別性に縛られることなく、
普遍的に誰でもが共感、納得できるような答えを探究していたということの証かもしれません。
そういう意味では、哲学者や倫理学者が思考を進めていく際、
経験や生い立ちというのは関係ないと言いたいところです。

しかしながら、実際はそんなに単純ではありません。
いろいろな哲学者・倫理学者の思想を学び、
同時にそれぞれの思想家の出自や生い立ちなどを調べてみると、
彼らの思想にそうした背景がものすごく影響を及ぼしていることがわかります。
2回目の授業でやったように、人間は文化のなかで生きていますから、
自分が生まれ育った文化に大きく影響を受けますし、
人生のなかで経験した個人的出来事によって考え方も変わってしまいます。
根本的に何でも疑ってかかるといった場合にも、
ひとりひとりの経験や生い立ちからまったく離れて、
完全にフリーハンドで思索していけるわけではないのです。

さらに言うならば、哲学や倫理学が主に対象とするのは、
その思想家が生きている時代や地域における常識や前提であると言えるでしょう。
そういったものを敵として戦っているのが哲学・倫理学なのです。
敵と戦うためには敵と同じ土俵に上がらなければなりません。
敵を批判・否定するのだから (必ずしも否定するばかりとは限りませんが) といって、
敵とはまったく無関係でまったく無縁でいられるというわけではありません。
むしろ敵といろいろ共有しないと敵と対等に戦うことはできないのです。
というわけで最先端の哲学や倫理学はその時代の最先端と戦っていますので、
その時代の影響を免れえないわけです。

そして、それぞれの哲学者・倫理学者がその時代のなかで経験したことも、
その思想に影響を及ぼさないわけがありません。
特に、広範囲に影響を及ぼすような大きな事件があったならば、
それは多くの思想家に影響を及ぼすことになるでしょう。
古代ギリシアにおけるソクラテス裁判や近代ヨーロッパにおけるフランス革命、
20世紀の世界大戦やナチス・ドイツによるホロコースト、
今世紀に入ってからの 〈9.11〉 や 〈3.11〉 等々…。
これらを経験した人たちは、みんなが同じことを考えるようになるわけではありませんが、
その経験によって自らの思索に対してそれぞれ何らかの影響を受けたことでしょう。
もちろん、そんな時代を揺り動かすような大事件でなくとも、
それぞれの思想家が自らの人生のなかで経験したさまざまな体験は、
その人の思索をいろいろな意味で方向づけていくでしょう。
したがって、今回の質問には以下のようにお答えしておきたいと思います。

A.哲学者や倫理学者の経験や生い立ちによって、
  その人の思想のあり方が一様に決定されてしまうわけではありませんが、
  人それぞれいろいろな形で影響を受けたり方向づけられるという意味で、
  経験や生い立ちはその思想に大いに関係があると言えるでしょう。

Q.キリン好きですか?

2013-09-13 08:44:01 | 哲学・倫理学ファック
ピンポイントな質問ですね。

以前に 「Q.レバー好きですか?」 という質問をもらったことがあって、

それも十分ピンポイント爆撃でしたけど、

今回のはそれを完全に超えましたね。

キリン、ですか?

キリンねえ。

特に好きとかキライという感情は何も湧きあがってきませんねぇ。

キリンを好きな子どもとかはたまに見かけますが (といってもドラマとか映画のなかで?)、

大人になってもキリンって好きやキライの対象になりうるんでしょうか?

まあ、こうやって質問してくれた方はキリン、好きなんでしょうね。

やっぱり首が長いとこですか?

黄色に茶色の斑点模様がいいんですか?

うーん、キリンねぇ、やっぱりよくわからないなあ。

キリンで思い出すことと言えば、伊坂幸太郎の 『ポテチ』 ぐらいかなあ。

あの小説では、どこかのビルから飛び降り自殺しようとしている女性を思いとどまらせるために、

主人公は電話で 「キリンに乗ってくから、場所教えて」 と語りかけるのでした。

「見たいだろ。俺なら見たいよ。仙台の街にキリンだよ。俺なら見てから死ぬね」

女性は 「嘘ぱっか。あんた、馬鹿じゃないの」 と呆れていましたが、

「嘘だと思うのは簡単だけど、いいわけ? キリンに乗って俺がそっちに行くの、見ないで死ぬわけ。

 見てから死にゃいいのに」 という追い打ちにけっきょく彼女は居場所を教えるのでした。

こんな説得の仕方があるのかと意表を突かれたものの、いくら嘘とはいえ、

キリンに乗ってくと言われてもそれに心引かれる人間なんていないだろうと思っていましたが、

女性はけっこう自殺を思いとどまってしまうくらいキリン好きな人が多いのでしょうか?

ぼくはキリンに乗りたくもないし、福島の街にキリンが歩いていたらたぶんその場を離れるなあ。

というわけでお答えは次のようにまとめておきましょう。

A.キリンは特に好きでもキライでもないですが、

  動物も含めて自然一般がそれほど好きではないので、

  どちらかと言えばキライなほうに入るのではないでしょうか。

どうもヘンテコな質問をありがとうございました。

Q.片思いしてれば相手にいつか思いは届くのですか?

2013-09-12 17:16:54 | 性愛の倫理学
看護学校の生徒さんからいただいた質問ですが、

こういう質問が来るとは思っていませんでした。

今どきこんなことを悩んでいる若者がいただなんて

まわりにいる大人でもいいし友だちでもいいけど、

こういうことは誰か身近な人がちゃんと教えておいてあげるべきじゃないでしょうか。

端的に言います。


A.ゼッタイに届きません


思いが届かないのには2つの理由があります。

その1。

人の思いは見たり聞いたりできないので、

勝手に思っているだけでは、相手はその思いに気づくことができないからです。

思いは何らかの形で表現しなくてはなりません。

言語で表現する場合もあるでしょうし、非言語で表現する場合もあるでしょう。

表現されて初めて相手はその思いに気づくことができるのです。

1番わかりやすいのはことばではっきり言うことです。

しかし、女性の場合はことばで言わなくとも、

表情や仕草などで上手く自分の気持ちを伝えられる人はいるでしょう。

本人にそのつもりはなくても自然と態度に出てしまうという人もいるかもしれません。

それはそれで表現かもしれませんが、私は表現というのは意図的にするべきものだと思います。

私の知り合いは好きな人ができたら 「スキスキ光線」 を出しまくると言ってました。

そのほうが正しい表現方法だと思います。

言語であれ、非言語であれ、思いは表現しないと相手には届かないのです。


思いが届かない理由、その2。

「思いが届く」 という言い方はたんに相手に思いが伝わるだけでなく、その思いが実を結ぶ、

つまり、片思いでなく、相手と両思いになるということまで含んでいますね。

こればっかりはこちらの一方的な思いだけでは何ともなりません。

こちらの好きな人が、相手もこちらのことを好きになってくれるかどうか、

これはもうまったくコントロールしようのないことです。

どんなにこちらの思いが強くとも、それが実を結ぶとは限りません。

けっきょくこれはマッチングの問題です。

あなただって、自分のことをどんなに思ってくれていても、

どうしてもムリっていう相手はいるんじゃないですか?

それとも、全然タイプじゃないし、というかむしろ生理的にムリだったけど、

熱烈な思いにほだされていつの間にか好きになっていた、なんてことありましたか?

そんなことゼッタイないとまでは言い切れませんが、

それよりもストーカーのように気味悪く思ってしまうほうが圧倒的に多いのではないでしょうか?

なのでどんなに思ってくれていても、その思いに応えてあげることはできない、

というのはごくフツーのことなのです。

お互いの好きな気持ちがぴったりマッチして両思いになれるというのは素敵なことですよね。

それってそうそうあることじゃないから、恋は素敵なんだと思うのです。

片思いしていればいつか相手に思いが届いて恋が実るんだったら楽チンでいいなと思いますが、

だとしたら誰も恋に悩んだりはしませんね。

恋が実を結ぶかどうかは運次第、確率の問題だと思います (両者の表現の努力も重要ですが…)。

ミスマッチの相手にいつまでも拘泥するよりは、

ベストマッチな人を求めて数打ったほうが、思いの届く確率は上がるのではないかと思います。