まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.回文が好きな理由は何ですか?

2017-09-18 23:45:09 | 人間文化論
自分の名前を紹介がてら、ずっと長いあいだ自分の名前を好きではなかったけれど、
いい大人になってから、「さま」 を付けたら回文になるということに気がつき、
もともと回文は好きだったので、それ以来自分の名前を好きになることができました、
ということをいつも話しているわけですが、
そこからさらに一歩掘り下げた質問をいただいてしまいました。

なぜ回文が好きなのか、その理由を問われたのは初めてです。
質問者の方、なかなかいいセンスをしていますね。
思考を深めるためにはなぜそうなのか、その理由を問い質していくのは大事なのですが、
ひとつの理由にたどりついてそこで満足してしまうのではなく、
さらにその理由へと問いを深めていくことができると、思考はどんどん深まっていきます。
実は子どもの頃というのはこの理由から理由への無限遡行というのはよくやっていたのですが、
大人の側がそれに付いていくことができずにそのうち怒り出してしまうから、
人は次第に理由の理由へと遡っていかないように自主規制をかけるようになってしまいます。
しかし哲学や倫理学にとっては、理由の理由へと遡ることはとても大事ですので、
今後は今回の質問者の真似をして、なぜのなぜを問うようにしてみてください。

さて、私はなぜ回文が好きなのでしょうか?
そう聞かれると答えに詰まってしまうのですが、
すでに書いたことのあるブログ記事のなかにそのヒントは隠されていました。
以下のブログを読んでみてください。

「Q.今までで一番ウケた回文は何ですか?」

そこに紹介してある 「宇津井健氏は神経痛」 が私が回文にハマるきっかけとなった原点です。
子ども心にとにかく衝撃を受けました。
その衝撃が出発点となったことは間違いないでしょう。
哲学の世界においても 「驚き (タウマゼイン)」 が哲学の起源だと言われています。
私の回文好きもあのときの驚きによって始まったのだと思います。

あれに出会う以前にも 「トマト」 や 「しんぶんし」 や 「山本山」 などが、
上から読んでも下から読んでも同じになるということは知っていましたが、
(厳密に言うと 「山本山」 は回文ではありませんが…)
それらを知っても特に驚きはありませんでした。
そういう単語レベルでの逆さ読みではなく、「宇津井健」 という人名と、
本来それとはまったく関係のないはずの 「神経痛」 という病名とが、
「氏は」 という別の語をはさむことによって回文になるということに、
日本語の神秘を感じたのだろうと思います。
ということで今回のお答えは次のようにまとめておきます。

A.まったく思いもかけない言葉を合わせると逆さ読みが可能となる、
  という日本語の神秘に触れたことによって大いに驚き、
  回文の魅力に取りつかれてしまったからです。

回文の中でも人名回文が未だに一番好きというのも、
この最初のタウマゼインによるところが大きいのでしょう。
自分の名前を使った回文というのは 「まさおさま」 なんていう、
「トマト」 や 「しんぶんし」 程度の素朴なもので長らく満足していましたが、
数年前に自信作を開発したので、せっかくの機会ですのでここで発表しておきます。
読みようによってはちょっとお下劣なので、長らく封印してきたものですが、
まあ、もう今さらなので解禁してしまいましょう。
とりあえず読みだけから行くとこういうやつです。

「タツマサオオサマッタ」

これにどういう漢字を当てるか、いろいろありえますが、
私の一番のお気に入りはこれです。

「勃つマサオ、収まった」

収まるべきところに収まったんでしょうね。
他にこういう漢字も考えられます。

「勃つマサオ、治まった」

電車内でうたた寝してしまって目覚めたときとか、収まりのつかないことがありますので、
無事治まってくれてよかったねという情景を描いた回文です。
いずれにしてもお下劣ですね。
「そういうの大好きだっ
ちなみに 「勃つ」 と書いて 「たつ」 と読むのは正しい日本語ではありません。
たぶんエロ本文化のなかで培われてきた読み方だと思いますが、
正しい日本語にうるさい私にしてはけっこう気に入っています。
最後はお下劣な人名回文の披露で終わってしまいましたが、
私が小学生のときに出会った回文の衝撃を少しでも今の皆さんにお伝えしたかったということで、
ご理解いただければと思います。
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Q.なぜ「身体を洗うときは左腕から」が好きなんですか?

2017-09-08 18:14:05 | 人間文化論


これは、私のワークシートの問いに反応したご質問です。

「倫理学」 の第一回目の授業のときに、みんなの中にある倫理に目を向けてもらうために、

こんな問いを与えています。

「あなたが生きていく上で大事にしているモットーを教えてください。

『やられたらやり返す』 など生き方そのものに関わるものでもいいですし、

『身体を洗うときは左腕から』 など日常生活で気をつけていることでもいいです。」

この例示に反応してくれたんだと思いますが、

まさかこんなところにツッコミを入れられるとは思っていませんでした。

日常生活で気をつけてることって、モットーと言えるほど意識的なものじゃなくて、

癖とか習慣みたいなものだから、それに関してさらに 「なぜ」 と問われると思っていなかったからです。

さてしかしながら、問われてみて初めて考えてみたんですが、

よく考えてみると、たしかに癖とか習慣のように習い性になってしまっているところもありますが、

同時に、それ以外の洗い方があるんだろうかと、

この洗い順は人類に普遍的であるべきではなかろうかと思っている自分もいることに気づきました。

身体を洗う場合、まずタオル (またはスポンジ) を利き手である右手に持ちますよね。

次にボディソープのボトルのヘッドを押してタオルにボディソープを付けますよね。

この時、両腕はボディソープのボトルのほうに伸びているわけです。

この状態で、タオル (またはスポンジ) を持った右手から最短距離にあるのは左腕じゃないですか。

したがって最も早く洗い始められるのは左腕以外にはないことになります。

だとしたら左腕以外から洗い始める人なんて存在するんでしょうか?

いや、もちろん左利きの人は右腕からになりますよ。

それぐらいの多様性は理解しているつもりです。

しかし、いずれにせよ身体を洗う時は利き手と反対側の腕から洗うしかないじゃないかと思うのです。

これはもう好き嫌いの問題なんかではなく、

人間という生き物としてそうせざるをえない必然の問題のような気がするのです。


とまあちょっと極端に議論を進めてみましたが、

「利き手の反対の腕から洗う」 というのが人類に普遍的な法則ではないことを私はわかっています。

長年のこのワークで、別のところから洗い始めると書いてくれた人がたくさんいたからです。

はじめのうちは自分とは違う人がいてちょっとビックリしましたが、

人それぞれ好き好きがあるんだなあと思っておりました。

ただ、今回このような質問をいただいてみて、もう一段思索を深めることができました。

私はなぜ身体を洗うとき左腕から洗い始めるのが好きなのでしょうか?

それは、先ほどの手順説明の中の2つのキーワードに示されているように思います。

「最短距離」 と 「最も早く洗い始められる」 という部分です。

どうやら私はお風呂に入って身体を洗うという行為を、

できるだけ早く完了させるべき作業と考えているようなのです。

その目的を達成するために最も合理的な解が、

タオル (またはスポンジ) にボディソープを付け終えた時点で最も近くにある部分から洗い始める、

という戦略だったわけです。

私の上位5つの強みの中に 「戦略性」 と 「内省」 があるということを以前に書いたことがありますが、

私は身体を洗うときにどこから洗い始めるかという他愛もないことに関しても、

いかにして早く洗い終えられるかという観点から、

きわめて合理的かつ戦略的に考えて行動しているのです。

自分のなかではそのように思考を張りめぐらせるのが当然と考えているところがあって、

それゆえ他の洗い方はないとまで感じてしまったりするわけですが、

それはあくまでも私の考え方、感じ方の特性にすぎず、

もっと別の観点からこの問題にアプローチする人がいるにちがいないし、実際現にたくさんいます。

今まで考えてみたこともありませんでしたが、改めてその理由を考えてみると、

自分のなかの価値観やら特性、強みなどが反映されていたことがわかりました。

考えてみるものですね。

最初、質問をいただいたときは、そんなの個人の習慣、好みにすぎないのだから、

なぜと問われても答えようがないよなあと思っていましたが、

意外なところまでたどり着くことができました。

自分のなかの優先順位もそうですが、ダイバーシティ (多様性) についても考察を深められました。

このような質問をいただき、誠にありがとうございました。
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感じる論語展

2017-08-28 17:13:55 | 人間文化論
今週の木曜から日曜まで、コラッセふくしまで書道展が開催されます。

題して 「感じる論語展」 です。



主催の渡邉啓子さんは福島大学の現代教養コースに社会人として入学してきて、

私のゼミでフェミニズムについて卒論をまとめて卒業されました。

ただ、そうした社会人学生としての研究とは別に、長いこと書道の研鑽を積んでいらっしゃって、

大きな展覧会に出品したり、書道教室を開いたりされている専門家でもありました。

そこで卒業後は福島大学大学院の漢字・漢文学研究室に進学して、

孔子の 『論語』 について学問的に研究を深めていきながら、

その知見を書に表すというプロジェクト研究に取り組んでこられました。

その成果発表の場が今回の展覧会となります。

ふつう書道展というと、書そのものが純粋に芸術作品として扱われるため、

何という文字であるかは気にするものの、

書かれている内容とは無関係に制作・鑑賞されがちです (私のイメージとしてはそうです)。

しかし今回は出典を 『論語』 に限定して、

『論語』 の教えが現代に生きていることを視覚的に表現することを目的としています。

一流の書を楽しむことができるばかりでなく、作品解説や現代語訳にも力を入れていて、

ありきたりな書道展とは一線を画した展覧会になっているようです。

ぜひこの機会に 『論語』 を言語も非言語も含めた全身で感じてみてはいかがでしょうか。

私もぜひ足を運んでみたいと思っております。

渡邉さん、盛会をお祈り申し上げます。
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そんな名詞はないっ!

2017-08-03 22:58:27 | 人間文化論
大学のエレベーターと自宅マンションのエレベーターは、

たまたまどちらも同じフジテック社製だったようで、先月だったか先々月だったか、

ちょうど同時にエレベーターの中にこんな注意書きのパネルが貼り出されました。



まあよくある、エレベーターを安全に利用するための注意事項です。

最近、「階段ダイエット」 をサボりがちなため、

毎日これを何度となく目にすることになりますが、見かけるたびにイラッとしてしまいます。

その元凶は左上のこいつです。



そんな名詞はないっ

「はさまれ」 って何ですか?

何かにはさまれることをいつから 「はさまれ」 などと呼ぶようになったのですか?

そんな勝手な名詞化はゼッタイに許さんっ

しかも頭に来るのは、これの右側のひもやコード類に関する注意書きです。



ここではちゃんと正しい日本語が使われているのです。

自分の身体ではなくひもやコード類がはさまれるという複雑な事態を、

全3行にわたって、総字数26字で表現しているのです。

だとしたら、あちらもわけのわからない名詞を用いて総字数16字に縮めるよりも、

「ドアにはさまれないよう

 ご注意ください。」

と、たった3文字多いだけの19字で正確に言えばよかったじゃないですか。

フジテックはこのパネルを日本全国のエレベーター内に掲示しているのでしょうか。

そしてそれに乗降する何千万人という日本人を日に何度も不愉快にしているのでしょうか。

ああ、この手のものの校正を一手に引き受けたい。

こうしたパネル看板が誤って世に出てしまう前にすべてチェックする人になりたい。

別にこれで儲けようとは思わないので1件1,000円くらいでOKです。

これから何か人目に触れるパネルや看板を製作しようとする人は、

ぜひ 「誤植ハンターまさおさま」 にご用命のほどよろしくお願い申し上げます。
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家具調コタツあげます!

2017-06-18 12:41:11 | 人間文化論
うちで使っていた家具調コタツあげます。

こういうやつ↓。



もちろんこのコタツ布団もセットで差し上げます。

私が長年使ってきただけあって、なかなか優れものだと思います。

とりあえずちゃんと動作します。



スイッチはコードに付いてるので便利。



何が便利って、夏の間はコードをここにしまい、



ここのネジを締めることによって、



コタツ本体と天板を一体化させることができるので、フツーの座卓として使用することが可能です。



ヒーター部分もたいへん薄いので、

座ったり寝たりしていて脚がぶつかることもありません。



いかがでしょうか。

誰かもらってくれませんか。

モノに問題があるわけではありません。

福島に来た当初は、東北の冬の寒さをしのぐためにコタツは不可欠でした。

横浜から引っ越すときに正方形のコタツを持参していたのですが、

冬場の鍋を囲んでの宅飲みの際に大勢で座れないのに業を煮やして、

この豪勢なコタツを買い足したわけです。

ただまあそういう宅飲みのときには重宝しますが、

ふだんの生活のなかにこれがあると、

どうしてもこのぬくぬくから脱せなくなってしまいます。

そしてすべての生活用品がコタツの周りに集められ、

ゴミもまたコタツを中心に広がっていき、最終的に生活が崩壊してしまうのです。

いわゆる 「のだめ状態」 というやつです。

というわけで、ひと一倍コタツのぬくぬくが好きな私は、

意を決してコタツと決別することにしたわけです。

私を助けると思ってこのコタツ、どなたかもらってくれないでしょうか。

実は、このブログに先立って Facebook のほうで希望者を募ったとき、

栃木県在住の方から欲しいというお申し出をいただいたのですが、

送料を調べてみたところ、コタツが7000円オーバー、

コタツ布団が4000円オーバーもかかるということが判明し、

残念ながら話は流れてしまったのでした。

ですので、直接取りに来ていただけるか、私のクルマでお届けできる程度の、

近隣の方に限られてしまうかと思いますが、ぜひどなたかもらってやってください。

直接メールかメッセージかコメントでお申し込みください。

早い者勝ちです!
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2017年もよろしくお願い申し上げます

2017-01-01 16:25:16 | 人間文化論
あけましておめでとうございます

本年もよろしくお願い申し上げます

昨年は 「人生で一番忙しい年」 で、何もかもが後手後手に回り、

年賀状もつい一昨日投函した感じだったのですが、

妹たちに確かめてみたところちゃんと今日届いたとのことでビックリしました。

完全に元日配達はあきらめていたのに…。

昨年のブログを見てみたところ、2015年12月27日に投函して、

元日には届かないだろうなあと思っていたら、

ちゃんと2016年1月1日に届いたということで、日本郵便を絶賛していました。

今年はさすがに30日の投函ですから絶対にムリだと思っていたんですが、

けっこう行けるもんなんですね。

「年賀状は25日までに投函しましょう」 なんていう脅し文句にビビらなくていいのかもしれません。

さて、実は昨日のブログで間違えて一瞬アップしてしまい冷や汗をかきましたが、

ちゃんと届いたそうなので改めてここでアップしておきます。



今年の年賀状はこんな感じにまとめました。

「人生で一番忙しい年」(=昨年) をテーマに文章をまとめ、

それを表す画像を何にしようと考えた挙げ句、自作立て看とのツーショット写真を選びました。

年賀状に自分が写っている写真を使ったことがないわけではありませんが (2014年)、

あのとき写っていたのは腹だけでしたので、

新年早々、自分の顔写真を送りつけたのはたぶんこれが初めてです。

おそらく各方面から非難が殺到することでしょう。

まあもう55歳になりましたので、人から何を言われようと好きに生きていくしかありません。

とはいえ今日届いたなかで、師匠から頂戴した年賀状に、

「是非とも期限内 (○月○日) の玉稿の御提出をお願い申し上げます。」

と手書きで記されていて、「○月○日」 の横に傍点が朱書されていたのには戦慄を覚えました。

いい歳にもかかわらず締め切りも守れない困ったヤツと思われているのでしょう。

たぶん今年もゆっくりできないんだろうなとあきらめた2017年の元日でした。
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福大混声合唱団との思い出

2016-12-21 17:17:39 | 人間文化論
先日の 「本 de てつがくカフェ」 はたいへん盛り上がりました。

宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」 を読み返したときは、

これでどんな哲学的対話ができるんだろうかと若干不安になっていたのですが、

よくわからない物語ほど、みんなで意見を出しあうとさまざまな角度から気づきが与えられ、

一人で読んでいたときにはとうてい思いつかなかった問題をたくさん掘り起こすことができました。

ご参加くださった皆さま、本当にありがとうございました

さて、日程がまるっきりかぶってしまったために、

このブログでご紹介したオケの定演は聴きに行くことができませんでした。

どなたか行かれた方がいらっしゃいましたら、感想を教えてください。

音楽イベントがもうひとつ残っています。

こちらです。



福大混声合唱団の定期演奏会ですね。

来週の水曜日12月28日 (水) です。

これも福島市音楽堂で開催されます。

ぼくの誕生日だけど、会議が入らなければ行きたいのですがはたしてどうなることやら。

ところで、駅から登校してくるとこんな立て看が立っているのを見たことあるのではないでしょうか?



音楽棟と体育棟のあいだあたりの角のところですね。

この立て看、相当前から立てられています。

大学祭 (10/29~30) の前から立てられていました。

この立て看をめぐって11月に混声合唱団の団長さんとちょっとやりとりをさせていただきました。

そのやりとりが心に残っているので報告させていただきます。

11月というとあの一大イベント 「日本カント協会第41回学会」 を福島大学で開催すべく、

その準備に追われまくっていた頃のことです。

駅から学会会場となるM棟までの会場案内をキャンパスのあちこちに掲示しなきゃいけないなと、

どことどこに何枚貼ればいいかなと視察してまわっていたときのことでした。

こんな光景に出くわしてしまったのです。



「試験場 福島大学」 と書かれた矢印付きの案内板が引っこ抜かれていたのです。

もう一度立てようとあたりを探りましたが、案内板が立てられていたはずの穴が見つかりません。

穴が開いていないところにこの棒を差し込むのはとうていムリです。

もともと刺さっていたはずの穴はどこに行ってしまったんでしょうか?

これはきっと混声合唱団が引っこ抜いて、

その抜いた穴を利用して彼らの立て看を立てているのだろうと推測しました。

この角に立つ案内板というのは会場へ誘導するためにとてつもなく重要ですので、

それが立てられないとなると大問題となります。

パニックになった私は、混声合唱団の顧問の先生に代表者の連絡先を聞き、

先ほどの写メも添付してメールを送りました。


「○○○○さま

 人間発達文化学類教授の小野原です。
 合唱団の顧問のI先生から連絡先をお聞きしてメールしています。
 現在、音楽棟と体育棟のあいだに写真のような、
 混声合唱団の立て看が立てられおり、
 その脇に「試験場 福島大学」と書かれた矢印つきの案内板が
 引っこ抜かれて横倒しにされています。
 あれを抜いてしまったのは混声合唱団の皆さんでしょうか?

 私は今度の土曜日 (11/12) に福島大学で学会を開くのですが、
 駅から学会会場までの道案内のために、
 あの矢印付きの案内板を利用しようと思っておりました。
 あの位置の案内板というのは人の誘導のためにひじょうに重要なのです。
 が、先日現地に行ってみたところ、案内板が抜かれており、
 案内板を立てるための穴も見つかりませんでした。
 皆さんがあの立て看を立てるためにその穴を利用しているのでしょうか?
 もしもそうならば、今度の土曜日だけでも、
 立て看を一時どけるか場所を移動するなどして、
 あの案内板を使えるようにしていただけないでしょうか?
 なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 万が一、あの案内板と立て看とは何の関係もなく、
 混声合唱団のほうで抜いたりした覚えがないという場合は、
 疑ってしまって誠に申しわけなく思いますが、
 関係ない旨私までお返事いただければと思います。
 なにとぞよろしくお願い申し上げます。」


今読んでみると、ほとんど犯人と決めつけたかのような失礼な文面ですね。

これに対してその日の夜に混声合唱団の団長さんから返信が届けられました。


「小野原様

 お返事遅くなりまして大変申し訳ございません。
 混声合唱団団長の○○○○です。

 立て看板の件についてですが、立て看板係に確認したところ抜いてはおらず、
 合唱団の立て看板を設置した際には
 おそらくまだ案内用の看板は立ったままであったということでした。

 たしか福大祭の際、合唱団の立て看板の両脇に他の団体
 (どの団体かは存じ上げておりません。申し訳ありません)
 の立て看板が設置されていたと記憶しています。
 もしかするとそちらの団体が抜いてしまったのかもしれません。

 もし案内用の立て看板を立て直す際に合唱団の立て看板が邪魔になってしまうようでしたら、
 立て看板をどけるよう指示いたしますので、お申しつけください。
 よろしくお願いいたします。

 混声合唱団団長
 ○○○○」


私の失礼なメールに対して激昂するでもなく、ひじょうに丁寧な応答です。

これには私のほうが恐縮してしまいました。

すぐにこちらからも返信を打っておきました。


「○○さま

 さっそく丁寧にお調べくださりお返事いただきありがとうございました。
 事情はよくわかりました。
 だとするとあの辺をもう一度よく調べれば、
 案内用看板を立ててあった穴も見つかるのでしょうね。
 たしかにあの辺は草がぼうぼうで地面がよく見えない感じでした。
 改めて現地を調べてみて、何とか案内用看板を立ててみたいと思います。
 立てた上で、それでも混声合唱団の立て看と競合してよく見えないのであれば、
 改めて対処法についてご相談させていただくかもしれませんが、
 お知らせいただいたご事情の通りであれば、
 たぶんお手を煩わせることなくすむのではないかと思っております。
 このたびは突然の問い合わせに対してご丁寧に対応してくださり、
 誠にありがとうございました。」


この段階でもまだ案内用看板の穴が見つかるかどうか半信半疑の文面ですが、

翌日、明るくなってからよーく探してみたら、草に覆われてまったく見えなくなっていた穴が、

ちょうど一番角のあたりに空いており、そこに無事に案内用看板を立てることができました。

(穴が浅くてグラグラしていたため、今はもっと奥の案内板にガムテープで留められています。)

これにて何とか一件落着です。

学会準備にてんてこまいしているなかで、

案内表示を張り出すだけで何でこんなに人を介さなきゃいけない面倒な問題が発生するんだろうと、

けっこうイライラしてしまっていましたが、

団長さんからの丁寧なメールのおかげでものすごく癒やされました。

そんなステキな団長さんと部員さんたちの定期演奏会です。

ぜひ皆さん、12月28日 (水) は福島市音楽堂でその歌声を聴いてあげてください。


P.S.

このブログを書いているあいだに、ちょうど公演の時間帯の会議開催が決定してしまいました

残念ながら、オケに続いて合唱団の定演にも行けないようです。

会議室から御盛会をお祈りしています。
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今年の福大オケ定演はドヴォルザーク三昧!

2016-12-16 15:24:18 | 人間文化論
しばらくブログ更新をお休みしておりました。

「人生で一番忙しい年」 は師走に入っても絶好調で、

空いてる時間にことごとく会議を入れられ、研究室のイスをあたためるヒマがないほどです。

したがってブログを書く時間がないのはもちろんのこと、

ブログネタを仕入れる余裕もまったくありません。

まさか会議で交わされている議論の中身をブログで垂れ流すわけにもいきませんしね。

(それはプロフェッショナル倫理で言うところの 「守秘義務」 に反してしまいます。)

というわけでずいぶんブログ更新をサボってしまいました。

実に10日間も何も書かずにほったらかしにしていました。

その昔は毎日更新なんていうことに挑戦していたこともありましたが、

そんなのまるで夢のまた夢という感じですね。

でも、こんなに放置状態なのに来訪者の方は減っていないんですねぇ。

昨日なんて放置10日目だったというのに638人もの方が訪れてくださっています。

下手に何か書いた日よりもよっぽど多くの方にお越しいただいているのではないでしょうか。

とはいえ、そういう奇特な方々だけにいつまでも頼っているというわけにもいきません。

今日は久しぶりに授業も会議も何もないという夢のような日なので、

何とかブログを書きたいと思います。

でも何もブログネタがないんです。

やはりインプットがないとアウトプットはできませんね。

しかたないので学内をブラブラしてブログネタをムリヤリ仕入れてきました。

今週の日曜日、12月18日 (日) に福大管弦楽団の定期演奏会が開催されるそうですっ!

こちらですっ



おおっっっ、もうそんな時期ですか。

スポーツ・芸術創造専攻2年生の必修授業 「文化創造論」 をもっていた頃は、

私に宣伝しておくとこのブログで告知してもらえるというので、

オケの学生さんたちがあらかじめチラシとかをもってきてくれていたものですが、

あの授業が閉講になって以来そんなつながりもなくなっており、

私もブログネタを探して学内をウロウロするなんてこともできないでいたため、

定演の情報をつかむのが遅れてしまいました。

学内に貼ってあるポスターっていつから張り出されていたんでしょうか?

この画像はちょっと小さいですね。

詳しくはこちらをご覧ください ( 福島大学管弦楽団ウェブサイト)。

今度の日曜日の15時から音楽堂です。

今年はドヴォルザーク特集だそうです。

メインの交響曲だけでなく、前座の小曲もすべてドヴォルザーク。

こういう感じのプログラムって今まであったかしら?

楽しそうですねぇ。

残念ながら18日は 「本 de てつがくカフェ」 ですから、私は聴きに行けません。

てつカフェにも宮沢賢治にも1ミクロンも関心がないという方で、

クラシック好きな人、ドヴォルザーク好きな人はぜひ福大オケの定演に足をお運びください。
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なじかは知らねど犇と結ばれ

2016-11-02 17:20:48 | 人間文化論
次の写真をご覧ください。



センター試験監督用に買った上履きが、

役目を終えて普段用の外履きに下ろされている姿を写したものですが、

注目いただきたいのは靴ヒモの結び方です。

一見、何の変哲もない蝶結びに見えるかもしれませんが、

実は右と左で結び方が違うんです。

右足はフツーの蝶結び。

それに対して左足のほうは 「イアン結び」 という結び方です。

そう言われてよーく目を凝らしてみてみると、中央部分が蝶結びのほうがキレイな形に結ばれていて、

イアン結びは何だか引き攣れているように見えます。

夏前ぐらいだったかにネットかSNSで 「靴ヒモのほどけない結び方」 という記事を見かけて、

ちょっと練習してマスターしたものです。

記事を見たあとしばらくは新しい結び方に慣れなくて四苦八苦していましたが、

ちょうどその頃はまだオリンピック前で、テレビではいろいろな選手が紹介されていて、

福原愛さんが取り上げられたとき、自分の特技として靴ヒモを一瞬で結べることを自慢していました。

それがまさにこのイアン結びだったんですが、本当に手品のようにあっという間に結んでしまうので、

今はまだ慣れていないからぎこちないけど練習すればあんなふうに結べるようになるんだなと思って、

途中で投げ出さずに練習し続けたら、まあ福原さんほど早くはありませんが、

フツーに蝶結びするのと同じくらいのスピードでは結べるようになりました。

この結び方を紹介しているサイトはいくつかありましたが、

下記のサイトが一番わかりやすかったです。


これはマスターしたい…ほどけない靴ひもの結び方「イアン結び」&「イアン・セキュア結び」


ただ、このサイトの図解によると、一番最初にヒモをクロスさせるところが、

今まで50年以上やってきた蝶結びと上下が逆で、

まずそこから長年の慣習と違うことをしないといけないので手間取るところだったのですが、

フツーにできるようになってから試してみたら、

最初にクロスさせるところはどちらが上でも下でも大丈夫みたいです。

図を見ながらあたふたとやっていた頃は上下を反対にすると結べなくなるんだなと思っていましたが、

それは大いなる誤解で、右上でも左上でもイアン結びは可能だということが証明されました。

そして、これで結んでみると本当にほどけないんです。

まあ、この写真の靴はどんなふうに結んでもヒモがほどけたりするタイプではありませんが、

一部の革靴やトレッキングシューズなどで本当にどんなにしっかり蝶結びをしても、

いつの間にか必ずほどけてしまっている靴があったのですが、

これがもう 「なんで?」 っていうくらいまったくほどけなくなったのです。

見た目は蝶結びですから、どうしてこんなに頑丈になったのか全然わかりません。

福原さんもこの結び方だとほどけないんだと言ってました。

あんなに一瞬で結んでいるのにほどけたりせずに犇 (ひし) と結ばれているんだそうです。

残念ながら、さすがのメダリストもその理由まではご存知ないようでした。

うーん、なんでほどけないんだろう?

すごい気になるなあ。

誰かこの謎、解明してくださいっ


P.S.

ちなみにイアン結びと一緒に紹介されていた、

イアン結びの進化形である 「イアン・セキュア結び」 のほうは、

パソコンを横に置いて図を見ながらやっても途中でグチャグチャになってわけわからなくなり、

まだ一度もきちんと結べたことがありません。

たぶん一生覚えられないだろうな…。
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Q.文化と文明は違うものですか?

2016-10-25 20:09:30 | 人間文化論
看護学校の授業は終わってしまいましたが、いただいた質問はまだ残っているので、
今後も答えられそうなものから順番にゆるゆるとお答えしていくつもりですので、
たまにはこのブログも見に来てください。
(おーい、みんな見てるかあ

今回の質問は第1回のときに出してもらったやつではなく、
人間とは何かを考えてもらった回にいただいたものです。
もう忘れちゃいましたか?
人間は本能が壊れていて、その代わりに文化を生み出して生きていく動物だという話です。
あのとき私は、ここで言う 「文化」 は文化人類学で言う文化なので、一番広い意味の文化であり、
人間が生み出したものは有形のものも無形のものも含めてすべて文化ということになります、
と説明させていただきました。
あのときの用語法で言うならば、文明は文化に含まれることになりますから、
次のようにお答えしておけばいいということになるのでしょう。

A-1.文明は文化に含まれますので、文化と文明は同じものです。

ただ、ああいうふうに文化を広い意味で使うことというのは一般的な用法ではありませんので、
今回の質問に対してA-1のようにだけ答えておけばいいということにはならないでしょう。
フツーは文化と文明は区別して使われていますよね。
こういうときは辞書で確かめてみましょう。
まずは『大辞泉』 による文化と文明の定義。

ぶん‐か【文化】
1.人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」
2.1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
3.世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」
[用法] 文化・文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。◇「文化」のほうが広く使われ、「文化住宅」「文化生活」「文化包丁」などでは便利・新式の意となる。

ぶん‐めい【文明】
人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。


このように 『大辞泉』 では文化には大きく3つに分けられる意味があるように説明されていました。
このうちの1番が私が使った広い意味での文化です。
それに対して今回の質問に関連するのは2番の意味での文化ですね。
文明のほうの説明も、文化の2番目の意味と対を成していることがおわかりいただけるでしょうか。
文化の3番目の意味は今の若い人にはまったくピンと来ないかもしれませんが、
ぼくの親の世代くらいまではいろいろなものに 「文化」 を付けて、
何かしら先進的なものを指すという用語法があったようです。
『大辞林』(第三版) も見ておくことにしましょう。

ぶんか【文化】
1.〔culture〕 社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低・優劣の差はないとされる。カルチャー。
2.学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。
3.世の中が開け進み、生活が快適で便利になること。文明開化。
4.他の語の上に付いて、ハイカラ・便利・新式などの意を表す。 「 -鍋」 〔「文徳によって教化する」の意で「文選」にある。当初、「文明」と共に英語 civilization の訳語。中村正直訳「西国立志編」(1871年)にある。明治30年代後半英語 culture やドイツ語 Kultur の訳語へ転じた。現在の意では西周にしあまね「百学連環」(1870~71年)が早い例〕

ぶんめい【文明】
1.文字をもち、交通網が発達し、都市化がすすみ、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化をさす。 「オリエントの-」
2.人知がもたらした技術的・物質的所産。 「 -の利器」 〔「学問や教養があり立派なこと」の意で「書経」にある。明治期に英語 civilization の訳語となった。西周にしあまね「百学連環」(1870~71年)にある。「文明開化」という成語の流行により一般化〕


こちらは文化には4つ、文明には2つの意味が記されていて、
『大辞泉』 よりもそれぞれ1つずつ定義・解説がよけいに付されています。
内容的に見てみると、「文化」 に関しては、『大辞泉』 の3番に書かれていた内容が、
『大辞林』 では3と4に分けられていて、
『大辞泉』 には載っていなかった culture や civilization といった原語に言及されています。
「文明」 に関しては 『大辞泉』 と 『大辞林』 で共通する点もありながら、
まったく 『大辞泉』 では触れられていなかった点にも言及されていることがわかるでしょうか。
「文字」、「交通網」、「都市化」、「国家的政治体制」 といった語は、
『大辞泉』 にはまったく出てきておらず、『大辞林』 のほうにだけ見られます。
これは 『大辞泉』 が欧米語の原語に触れておらず、
『大辞林』 が欧米語との関係を見据えていることと関連しています。
「道徳」 や 「倫理」 という語と同様、「文化」 も 「文明」 も元々は中国から伝来した言葉ですが、
幕末から明治にかけての開国期、欧米語を翻訳する際の訳語としていろいろと試されるなかで、
最初は 「文化」 も 「文明」 も civilization の訳語として当てられていたのですが、
だんだん時が経つとともに 「文明」 が civilization の訳語として定着し、
「文化」 は culture のほうの訳語として定着していくことになったわけです。
したがって文化と文明の違いを知るためには culture と civilization の違いを知る必要があります。
これを説明しようと思うとはてしなく面倒くさいのですが、
とりあえず百科事典の解説を簡単にご紹介することで何とか乗り切ってみましょう。
以下は 『百科事典マイペディア』 の解説です。

文化【ぶんか】
英・仏語 culture,ドイツ語 Kultur などの訳。欧語はいずれもラテン語 cultura に由来し,元来〈栽培・耕作〉の意をもつ。すなわち,動物のそれと区別されるところの,人間に固有な生活様式の総体をいい,しばしば自然に対比される。

文明【ぶんめい】
英語 civilization,ドイツ語 Zivilisation などの訳。ラテン語 civis (市民) に由来し,元来市民たる身分の特性や教養を意味したが,しばしば文化と同義に,動物ないし〈未開〉とは区別される,洗練された人間生活・活動の総体をいう語として用いられる。


culture が 「農耕」 に由来する語だということは授業中に話したような気がします。
それに対して civilization のほうは 「市民」 とか、
さらにその元となった 「都市」civitas に由来する語なわけです。
先ほどの 『大辞林』 のなかで 「都市化」 に言及されていたのはそういう意味合いなんですね。
世界史のなかで黄河文明とかメソポタミア文明と言う場合、
ある特定の場所に多くの人々が集まってきて都市国家が形成された所を指して用いられます。
そういう所ではみんながみんな農耕 (=食物生産) に携わっているわけではなくて、
分業が進みさまざまな産業が発達していきますね。
したがって順番的に言うと、まず culture (文化) があり、
その先にさらに進んでいくと civilization (文明) が形成されていくということになります。
『マイペディア』 では、文化は動物や自然と対比される言葉であり、
文明は未開社会と対比される言葉というふうに説明されていました。
元々の欧米語はそういうニュアンスで使われていたと言っていいでしょう。
したがってこういうふうにまとめておきましょう。

A-2.動物とは異なり自然をそのままを受け入れるのではなく、
    人間が自らの手で生み出していったものすべてが文化と呼ばれます。
    文化が発達していくなかで都市国家が形成されるほど豊かになった段階で生み出された、
    より高度で洗練された文化が文明と呼ばれています。

この2番目の答えにおいても、文明は文化に含まれるという形になっていることに注意してください。
基本的には文化と文明というのはこのA-2のように捉えておけばいいんだと思います。
ウィキペディアの文化文明の説明もおおよそこの枠組みで書かれていると言っていいでしょう。
さて、問題は最初の 『大辞泉』 や 『大辞林』 にあった精神的なものと物質的なものという区別です。
この分類はどこから生じてきているのでしょうか。
これもきちんと論じるのは難しいのですが、
英語やフランス語の culture には 「文化」 という意味のほかに 「教養」 という意味があり、
これが影響してきているのだと私は考えています。
ドイツ語だと Kultur (文化) という語のほかに Bildung (教養) という語があるんですが、
英語やフランス語には教養を表すための別の単語が存在せず、
culture という語が文化という意味で使われる場合と教養という意味で使われる場合があるのです。
人間の知能というか精神的能力を耕し開墾していくことによって教養が身に付いていく、
というイメージで culture が教養を意味するようになったのでしょう。
culture が教養であるとするならば、それが精神的なものを指すというのは理解できますね。
それとの対比で、civilization というのは都市化によって生み出されたものですから、
精神的なものよりは物質的なものや制度的なものを指す場合が多くなったのでしょう。
もちろん都市化によって精神的なものも生み出されます。
都会的な洗練された習慣とか社交界のマナーなどです。
カントなどはそういう精神的なものを表すために civilization という語を使ったりしていましたが、
やはり大多数の人々は civilization と言えば物質的なものを思い浮かべ、
文化であると同時に教養も意味する culture という語によって精神的なものをイメージしたのでしょう。
その区別が現代語にも引き継がれているのだと思います。
というわけで3番目の答えです。

A-3.現代においては、人間が生み出したもののうちで精神的なものを文化と呼び、
    物質的、制度的なものを文明と呼ぶ区別が定着しているようです。

このような限定された意味での文化という言葉からさらに派生して、
日本では (特に学校社会のなかでは) 「文化系」 という言葉がよく使われています。
「体育会系」 という語と対を成す言葉ですね。
これについては以前に書いたことがあるのでそちらを読んでみてください。
さらには 「理数系」 と 「文化系」 を区別する用語法もあります。
数学や自然科学って私には人間精神の産物としか思えないんですが、
それらは文学や芸術のような曖昧さを伴わず、
科学技術によって物質的なものを生み出すことができるというところが、
文化っぽくないということなんでしょうか。
「文化系」 という言葉の使い方は日本独自のものと思われますので、
これ以上詮索するのはやめておきましょう。
長々と書いてきてしまいましたが、
文化と文明の違い (や共通点) に関してご理解いただけたでしょうか。
よくわからなかったらまたコメント欄に質問ください。
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子どもの発見 (その4)

2016-10-20 21:26:57 | 人間文化論
昨日の朝、駅に向かって歩いていたら、駅前通りがこんなふうになっていました。



わかりますかね?

舗装が剥がされているんです。

昨日と一昨日は一晩中、重機の音やクラクションなどが鳴りまくっていて、

何だか騒がしいなあと思っていましたが、こんな工事をやっていたんですね。

舗装道路の舗装って時とともにどんどん傷んで、

穴が空いたり轍ができたりしますから、時々こうやって張り替え工事をしなきゃいけないんですね。

舗装が剥がされたあとはどうなっているのか、もうちょっとアップにしてみるとこんな感じです。



土がローラーで固められた状態です。

相当踏み固められていますから、今朝はこの上をクルマがフツーに走っているわけです。

しかし、舗装しないでこのまま放ったらかしにして、そのうち雨が降ったりしたら、

ここも舗装されていない山道と同じようにただのドロドロの土の道に戻っていくでしょう。

こういうのを見ると子どもの頃のある光景が思い出されます。

私は子どもの頃横浜に住んでいましたが、通学路の途中に舗装されていない細い道がありました。

人間は通り抜けられるけどクルマは通り抜けることができず、

したがって道路沿いに建っている家の自家用車がごく稀に通ることはあっても、

それ以外にはめったにクルマの通ることのないような細い道です。

今にして思えば、そういう道だったからこそ舗装されていなかったんでしょうが、

小っちゃいまあちゃんにはそういうことは何もわかっていませんでした。

そしてその道は先ほどの駅前通りのようにローラーで踏み固められたりもしていなかったので、

雨になるとぬかるんでそれはもうグチャグチャになってしまうから、

子ども心にそこを歩くのがとてもイヤだった覚えがあります。

そのとき小っちゃいまあちゃんはこんなふうに思っていました。

「なんでこの道は公園でもないのにこんなふうに土が盛ってあるんだろう?」

当時私は団地に住んでいたのですが、団地の敷地内は基本的にどこも舗装されていました。

舗装されていないのは公園や芝生など子どもたちが遊ぶための特別な場所だけでした。

(本当は芝生は立ち入り禁止で遊ぶための場所ではありませんでしたが、

 子どもにとっては格好の野球場でありサッカースタジアムでした。)

そして小っちゃいまあちゃんは何を勘違いしたか、

公園や芝生というのは子どもたちのためにわざわざ土を敷き詰めてあるところで、

この土の下には舗装道路があると思い込んでいたのです。

自然ギライの私の原点がここに見て取れますね。

私にとっては舗装道路がデフォルトで (つまり、自然なありのままの姿)、

土のある場所というのはわざわざ人工的に作られた場所というイメージだったのです。

したがって先ほどの細い道も舗装道路の上にわざわざ土を敷き詰めてあると思っていたのです。

たしかにそんなことされたら迷惑千万ですが、そんなことをする人がいるはずありません。

と、大人の常識では思うのですが、子どもの思い込みっておそろしいですね。

いくつくらいまでだったかなあ、かなり長じるまでずっとそう信じ続けていました。

その思い込みから脱したときは大きな発見をしたような気分になったものでした。

ずいぶんご無沙汰していましたが、

以前に 「子どもの発見」 というシリーズを連載したことがあります (その1その2その3)。

今回もあのときのシリーズに倣って子どもの発見としてまとめてみると次のようになります。




発見その4 「土で覆われた道路は舗装道路の上に土が盛られているんじゃない。

       地面というのは基本的に土でできていて、

       その上を人間が人工的にアスファルトで固めたのが舗装道路である。」



うーん、いいことに気づきましたね。

誰かに言いふらす前に気づいてホントによかったです。

舗装道路の上に土が盛られているということは、

小っちゃいまあちゃんにとってはあまりにも当たり前すぎて、

わざわざ誰かに言おうという気にもならなかったのが幸いしました。

今はこの誤解も解けて、1日も早く舗装工事が終わってくれないかと願う今日この頃でした。
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新千歳空港は空のアミューズメントパークやあ!

2016-08-29 17:22:17 | 人間文化論
到着したときはただ通過しただけでしたからよくわかりませんでしたが、

出発前に少し早めに着いてあちこち見て回ってみたら、

新千歳空港のターミナルビルってそれはデカくて、いろんな施設がてんこ盛りでした。

規模からいったら羽田のほうが大きいんじゃないかと思いますが、

フツー空港にこんなものないだろうっていう意外さからいったら完全に新千歳空港の勝ちでした。

新千歳空港ターミナルビルは4階建てなんですが、特に4階が度肝を抜かれました。

1階は到着ロビー、2階は出発ロビーと土産物売り場、3階はレストラン街でここまではフツーですが、

4階にはフードコートのほかに 「オアシスパーク」 というところがあるんです。

ここはもう 「???」 というような施設が目白押しです。

エスカレーターで上がっていってすぐのスペースには 「雪ミク」 のブースがありました。

個人的には何の興味もなかったので1枚も写真を撮らずに帰ってきてしまいましたが、

雪ミクとはこういうものだそうです。



初音ミクの北海道版?

個人的にはどうでもよかったんですが、うちのゼミ生のひとりが初音ミクを好きらしいので、

いちおうお土産を買って行ってあげることにしました。



こんな袋に入れてくれて、中身はこれです。



雪ミクのメモですね。

はたしてうちの院生さんはこれを喜んでくれるのでしょうか? (ビフォーアフター調で)

そこから奥に進んでいくとこんなものがあります。



100均ですね。

空港に100均は必要なのでしょうか?

意味がわかりませんがお客さんでにぎわっていました。

こんなお店も発見しました。



Calbee のショールームです。

さすがはショールーム、レジはこんなふうになっていました。



上も下もジャガイモだらけです。

いちおう触ってみたところ本物ではありませんでした。

こちらでは 「ジャガJ」 という北海道限定のポテチを買ってきました。

その隣にはゲーセンがあります。



ゲーセンも空港で見たことはないですよね。

空港で見たことないと言えば、こんなものも見たことないですよね。



「新千歳空港温泉」 だそうです。

温泉、作っちゃいましたか。

いくらネタに困ってるブロガーとはいえ、さすがに時間がなくて入ってみることはできませんでした。

そして、きわめつけはこちらです。



「ソラシネマちとせ」。

なんと映画館まであるんです。

中には劇場が3つもあって、ごくフツーに最新の映画を上映していました。

それにしてもなぜ空港に温泉と映画館?

みんなそんなに空港で時間を持て余しているんですか?

温泉つかったり映画見たりしていて飛行機乗り過ごしちゃったりしないんですか?

旅行用トランクはジャマだったりしないんですか?

北海道、不思議な国です。

ひょっとするとこれらの施設は旅行者向けではなく、地元民向けなのかなとも思いました。

ひととおり冷やかして (=利用はせず) 北海道で最後の食事をするために3階に下りていきました。

レストラン街にもたくさんの店があって迷いました。

で、ふらふらさまよっていると 「市電通り食堂街」 という一角に迷い込んでいきました。

新横浜にある 「ラーメン博物館」 みたいに昔の町並みを再現してある感じです。

それにしてもなんで市電通りなんだろうと思っていたら、こんなものが現れました。



なるほど。

たしかに市電通りだ。

子どもが乗り込んで一生懸命操作していました。

まさかホントに市電があるとは

もう一度確認しますが、ここは空港でしたよね。

空港って飛行機に乗ったり下りたりするための施設でしたよね。

だから土産物売り場や飲食店ぐらいまでは併設されていたとしても理解できるんですが、

今どきの空港ターミナルは昭和の人間の想像力をはるかに超えて、

巨大なアミューズメントパークとして進化を遂げていました。

もう何年かしたらここに旭山動物園の分園ができているかもしれません。

いやあ、ホントにビックリしました。

ただ一言、これだけは新千歳空港を利用する人たちに言っておきたい。

「皆様、ご出発の15分前までには保安検査をすませ搭乗口にお越しください。」
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真夏のディスプレイ

2016-08-14 12:25:39 | 人間文化論
この週末は東京の家に来ていました。

東京の家ではお義母さんが家中のあちこちに小物を飾って季節を演出していることを、

これまで何度かこのブログでご紹介してきました (クリスマスお正月ひな祭り)。

ただ、クリスマスやお正月飾りに比べるとひな飾りは若干規模が縮小していました。

やはりクリスマスやお正月という大イベントに向けてはいろいろと小物も集めているのでしょうが、

その他の季節にも同じ規模で可愛らしいグッズを大量に用意しておくというのは難しいものです。

それが理由でお伝えしませんでしたが、5月の端午の節句のときにはこんなものが飾られていました。



これ↑はリビングのキャビネットの上に飾られた鯉+金太郎の小物です。

そして、もうひとつ重要なディスプレイ場所であるトイレのタンク上。



ちゃっちゃくて見えませんね。

拡大します。



こちらは由緒正しく、クマにまたがり鯉のぼりを手に携えた金太郎です。

5月の季節ディスプレイは以上でした。

ちょっと意外でした。

木村家には例の初孫ができて、よくこの家にも出入りしていますから、

ひな祭りのとき以上にディスプレイに力を入れてくるんじゃないかと、

ブログネタとしてかなり期待していたんですが、肩すかしを食らい、記事にもしませんでした。

そんなわけですので、今回、夏休みのディスプレイにもさほど期待していませんでした。

実際、予想通り5月のときと同程度のあっさりした感じに仕上がっていました。

ただ、今回はいつもと趣向の違うディスプレイが見られたので、いちおうご報告しておくことにします。

まずはいつも通りのトイレのディスプレイから。



額の中身がとても夏っぽい意匠の布地に替えられていました。

そこにビーズ的なものやら、ごく小さなペンダントヘッド的なものをあしらった手作りの額です。

その前に飾られているのは海っぽい小物たち。



海っぽいといえばこの貝殻も海っぽいですね。



ただこちらの貝殻は一年中飾られていますので、厳密に言うと季節のディスプレイではありません。

お義母さんは60代後半になってからスキューバダイビングを始めてすでにダイビング歴7年、

私と違って海が大好きで、これらの貝殻もずっと前から集めていたものです。

60を過ぎてから本気で取り組める趣味を見つけるなんて、

羨ましいというか、私も見習いたいものです。

さて、いつもと趣向を異にするディスプレイというのはこちらです。



上からぶら下がっていますね。



そうです、風鈴です。

夏の代名詞ですね。

今回は、いつものようにキャビネットやトイレタンクの上に何かを置くだけではなくて、

上からぶら下げるという趣向が凝らされていました。

もうひとつのぶら下がりものがこれです。



こういうの何ていうんでしたっけ?

まあ拡大するまでもありませんが、もうちょっと寄ってみるとこうです。



やじろべえ?

ちょっと名前がよくわかりませんが、よく見かけるインテリアです。

風鈴といいやじろべえ (?) といい風で動きますから写真を撮るのが難しかったです。

そうなんです。

この家はずっと風が吹いています。

妻もお義母さんも自然派なので、こんなに暑くてもエアコンを入れないんです。

で、家中の窓を開け放して風を通しています。

エアコンをつけるのはお客さんが来たときくらいだそうです。

うーん、まあたしかに風鈴が鳴ったり、やじろべえ (?) が揺れていたりすると、

涼しい雰囲気は感じることができますけどねえ…。

でも雰囲気だけなんですよねえ。

やっぱり暑いものは暑いです。

ただ幸いなことに、今回の滞在中はゲロ暑くなる日中は外に出ていることが多かったですし、

夜は気温も下がり風もけっこう吹いてくれて、意外と気持ちよく眠ることができました。

これが無風の熱帯夜だったりしたら熱中症になっていたかもしれません。

風鈴ややじろべえで涼を取れるぐらいのうちに福島に戻っておきたいと思います。

福島のほうは東京と比べてどうなんでしょうか?

福島に帰ったら人間の文化と文明を満喫し、

ガンガン冷房を効かせたなかで布団にくるまって眠りたいと思います。
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はじめまして、愛しています。

2016-08-12 09:10:54 | 人間文化論
だいたいドラマをリアルタイムで見ることってなかなかなくて、
たいていは自宅で録画しておいたものを放送終了後しばらく経ってから見るとか、
あるいは、あとから噂を聞きつけてTSUTAYAで大人借りして見るということが多いのですが、
今クールは珍しく何本かリアルタイムで見ているドラマがあります。
(といっても放送時間中にというわけではなく、録画したものをその週のうちに見るということですが…)
木曜日の夜はなんといっても 『はじめまして、愛しています。』 でしょう。



これはもう設定からしてヤバイとわかっていました。
実の親から虐待されていた子どもと特別養子縁組するというお話なのです。
血のつながらない親子ものに弱いまさおさまとしては必見じゃありませんか。
ちょっと重たいテーマですので、ドラマとして毎週見る気になれるかおっかなびっくりでありましたが、
見始めてみたらどっぷりはまってしまいました。
もう毎週号泣ですよ

出だしは軽い感じだったんです。
尾野真千子が演じる梅田美奈は、プロのピアニストになるまでは子どもは作らないと決めて、
10代の頃からコンクールに挑み続けているもののずっと負け続け、
今はもう35歳の個人ピアノ教室の教師 (子どもが苦手で、心の声が常にブラック)。
その夫で、江口洋介が演じる梅田信次は、「ファイト」 が口癖のひたすら明るく前向きな不動産屋。
ドラマ 『のだめカンタービレ』 を見慣れてしまった者にとっては、
尾野真千子のピアノ演奏シーンは最初のうち何だかとても心許ない感じがしましたが、
物語が進むにつれて、彼女が真の才能に恵まれていなかったことを表すために、
わざとこれくらいにしていたのかもしれないとすら思えてきました。
そして、何と言っても懐かしいのは江口洋介です。
彼は 『ひとつ屋根の下』 のときのあんちゃんそのままなのです。
むちゃくちゃハイテンション、ムダに元気です。
あれからもう20年以上経ってるのにまったく変わっていません。
江口洋介スゲェなと思いました。

しかしながら、この主演の2人を押さえて、このドラマを成り立たせている真の主役は、
家に監禁され虐待され逃げ出してきた男の子を演じている横山歩であると断言していいでしょう。
今年の主演男優賞は横山歩で決まりです。
もう何と言ったらいいか、ホンモノにしか見えません。
たぶん、そういう目にあって施設で心を閉ざして暮らしていた子をスカウトしてきたんでしょう。
第4話で初めて言葉を発したときに、あ、今までのは全部演技だったんだと気づかされた感じでした。
いやあ末恐ろしい子どもです。
柳楽優弥を抜いちゃうかもしれません。

さて、そんなメンバーでお届けしている 『はじめまして、愛しています。』 ですが、
血のつながらない親子の交流を描く一方で、
血のつながった親子の断絶も描いていてメシウマです。
主人公の男の子はまさに血のつながった親から虐待&育児放棄されていたわけですが、
それを引き取る2人のほうも自分の親とはまったくうまく行っていません。
藤竜也が演じる、梅田美奈の父親は世界的に有名な指揮者ですが、家庭をまったく顧みず、
それを苦に妻 (美奈の母) は美奈が幼い頃に自殺してしまっています。
美奈は、音楽のことしか頭になく自分の話を聞こうとしない父親を憎んでいると同時に、
一緒に死のうと言ってきた母親の手を離してしまったことを今でも悔いています。
浅茅洋子演ずる信次の母親は、夫と長男が事故死してしまったことを受け入れられず、
それ以来アルコール中毒になり育児放棄して、今は介護付き老人ホームに入所しています。
信次はそんな母親を許していないのか、母親を遠ざけてなかなか会いに行こうとしません。
そういう彼らですから、果たして自分たちで子どもを産んで育てていたとしても、
真っ当な親になれたかどうか疑わしいところです。

そんな彼らが虐待されていた子どもを特別養子縁組で引き取ることになりました。
なぜそんなことになってしまったのかも丁寧に描かれています。
彼らをつなぐのは音楽 (美奈のピアノの調べ) です。
これまでもいろいろな曲が効果的に使われていました。
中でもこのドラマの根底に置かれているのがドレミの歌です。
あの歌詞に出てくる小物が、ちょっとやり過ぎなくらい取り入れられていました。
庭に逃げ込んできた男の子に差し出したドーナツ。
美奈の得意なレモネード。
信次の決まり文句の 「ファイト」。
美奈が老人ホームを訪ねる日はいつも青い空。
信次の応援グッズのラッパ。
シの音の調律が狂っているピアノ。
そんなみんなを象徴しているのがドレミの歌なわけです。

これまで読んだり見たりしてきたこの手の物語って、
すでに時間を共にしていて、愛が育っている上でのお話が多かったように思います。
それに対して今回のこのドラマは、縁もゆかりもない大人と子どもが初めて会って、
そこからどうやって血縁ではない親子の絆を築いていくか、その過程を描いています。
それが簡単な道のりではないことを、たぶん現実の知見も踏まえて冷徹に描き出しています。
だからこそよけいにタイトルの 「はじめまして、愛しています。」 の意味がわかりませんでした。
初めて会ったときにすでに愛が芽生えているわけなどないだろうと思ったからです。
初回からずっとタイトルに対する違和感を覚えていて、見るたびにそれがふくらんでいましたが、
第4回の放映を見てその疑問がみごとに吹き飛びました。
なるほど。
だから 「はじめまして、愛しています。」 だったのね。
うーん、やられました。
みごとです。
まだ放送半ばで今後どう話が展開していくかわかりませんし、
また視聴率がどうなのか、ネットでの評判がどうなのかまったく知りませんし知りたくもないですが、
血のつながらない親子ものが大好きな私のなかでも数本の指に入る大切な作品になりそうです。
とりあえず、横山歩の演技を見るためだけにでもぜひ一度ご覧になっておくことをオススメします
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Q.先生のメガネが丸いのはなぜですか?

2016-08-08 14:29:42 | 人間文化論
もう相馬の看護学校の授業もとっくに終わってしまったんですが、

4月の一番最初にもらった質問はまだいろいろと残っています。

今回の質問もとっとと答えてしまえばよかったのでしょうが、

なかなかいい自撮り写真が撮れなくてイヤになってしまい、書くタイミングを失っていました。

もう授業も終わり看護学生たちに直接会うこともなくなったので、

写りの良し悪しも関係ありませんから、ありものの写真でお答えしてしまうことにしましょう。

先日書いた記事の続きを書くためにも、この質問にはお答えしておかなきゃいけませんし…。

さて、先日踏んづけてしまった、これまで使っていたメガネはこんな形でした。



かけるとこうなります。



今回、「Q.先生のメガネが丸いのはなぜですか?」 という質問をいただいたわけですが、

これは誰がどう見ても丸メガネではありません。

丸いメガネというのはこれ↓のことですね。



丸いですかね?

まあ、遠目に見たら丸く見えるんでしょうね。

このメガネ、わりと新しいです。

今年の初めに買いました。

昨年末に 「前途多難なドライブ人生」 という記事を書きました。

そのなかで年明け早々 (つまり今年の初め) に免許更新しなきゃいけないんだけど、

当時使っていた赤い細メガネでは矯正視力で0.7を確保できるかどうかわからないので、

免許更新の前にメガネを新調しなければならないかもと書きました。

それで買ったのがこの丸メガネなのです。

メガネを新調するにあたってどこで買おうかなあと悩んでいたら、

Facebook 友達の方から 「オプティカルヤブウチ」 を薦められました。

市内ではけっこう有名なメガネ屋さんです。

実は幻に終わった第1回てつがくカフェ@ふくしまは、

オプティカルヤブウチさんのビルの会議室を借りて行う予定でした。

震災のせいでビルが立ち入り禁止になってしまい中止 (5月に延期) せざるをえませんでしたが、

世が世ならてつカフェはオプティカルヤブウチビルを本拠としていたかもしれないのです。

そんな因縁がありつつも、なかなか機会がなく、

こちらでメガネを購入したことは今までありませんでした。

今回初めてお世話になってみて、その丁寧な対応に驚かされました。

視力測定や自覚的屈折検査など、

機械を使ってさまざまな検査を行うのはどこのメガネ屋さんでも同じですが、

これまで使っていたメガネからどれくらい度を上げるのか、

今後も以前のメガネと併用するつもりなのか、併用する場合に違和感が生じないようにしたいのか、

見え方に差があってもいいからとにかくよく見えるようにしたいのかなど、

こちらのQOLを傾聴してくれながら、実際にこんな感じの見え方になりますなどと試しつつ、

急かすことなくじっくりと時間をかけて心ゆくまで選ばせてもらいました。

で、問題のフレームですが、せっかく新しく作るのだから今までとは違ったイメージにしたかったし、

そもそものきっかけが免許更新対応ですから、

ドライブのときの視界を確保できる形ということで、あまり細くないものとは考えていました。

あとは太めのセルフレームとか四角いやつとかいろいろ試着してみましたが、

私の顔に合うもので選んでいくとけっきょくあの丸い感じ (?) に落ち着きました。

写真ではわかりづらいかもしれませんが、色もけっこうオシャレなんです。

銅色と渋い緑のツートーンカラーというか、今まで見たことのないような配色でお気に入りです。

以前にもっと真ん丸の金メガネを使っていたことがあります。

それは完全にジョン・レノンを意識しての選択でしたが、

今回は自分としては丸いメガネを買ったとは思っていなかったので、

ジョン・レノンのこともまるっきり念頭にありませんでした。

というわけで、今回のお答えはこうなります。


A.メガネが丸いのに特に理由はありませんが、以前のメガネと雰囲気が異なり、

  かつクルマを運転するときの視界の確保と、自分の顔とのフィッティングを考えて選んだら、

  けっきょくこの形に落ち着きました。


今後は、以前の赤細メガネと併用していくつもりですので、

日によって感じの違うまさおさまを楽しんでいただければと思います。
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