まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

9月1日のイベント・ワイントレイン!

2012-08-31 22:25:51 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
すっかり忘れてましたが (宇津木さん、ゴメンなさい)、遅ればせながらイベント告知です。

明日の9月1日 (土)、 「FUKUSHIMAワイントレイン」 が開催されます。

飯坂電車のなかで福島県産のワインを飲みながら飯坂まで行くというイベントです。

Regalettoの宇津木さんでなければ考えつかない催しです。

「ワインツーリズム」 という言葉は初めて聞きましたが、前からある概念なんでしょうか?

電車のなかでお酒を飲むというのはただでさえ心弾む行為ですが、

ちゃんとした美味しいワインを飲めるなんていうことになると、

それはもう幸せそのものではないですか。

しかも、院生幹事さんの生演奏つきだそうです。

ぜいたくだっ!

さらに明日は飯坂で 「福島シネマフェスティバル」 も開かれるということで、

福島―飯坂ラインはなんだか盛り上がっています。

私も今日まで予定がはっきりしなかったので行けるかどうかわかりませんでしたが、

なんとか行けそうになってきました。

主催者ご本人に確認してみたところ、当日参加OKで、

14時に曽根田駅に行けばいいらしいです。

ワイン好きな方は、今からでも間に合いますのでぜひっ!



FUKUSHIMAワイントレイン

日時 : 9月1日 (土) 14:00~18:00

集合 : 曽根田駅 14:00 (14:45出発)

料金 : 4900円 (飯坂までの片道運賃+ワイン7種)

「高校倫理からの哲学」 第3巻 『正義とは』 刊行!

2012-08-30 12:49:07 | 哲学・倫理学ファック
             

岩波書店の 「高校倫理からの哲学」 シリーズ第3巻 『正義とは』 が刊行されました。
先月、第1巻 『生きるとは』 と別巻 『災害に向き合う』 が刊行されたところですが、
刊行は順調に進んでいるようです。
私は今回の第3巻に、「すべての人にあてはまる倫理はあるのか」 を寄稿しています。
このブログの 「哲学・倫理学ファック」 のカテゴリーで書いてきたことを元にして、
倫理とは何か、倫理学とは何かを高校生にもわかるように執筆したつもりです。
また、別巻にはありませんでしたが、本編 (第1巻~第4巻) のほうには、
各論文に対話編が付されています。
本論のほうはいくら易しく書こうとしてもどうしても専門的になってしまうということで、
より高校生に読みやすいように、高校生と先生の対話のような形式のものを付け足したのです。

この対話編を書くのが本当に大変でした。
本論を十分平易に書いたつもりなのにさらに対話編を書かなきゃいけないって?
しかも、まったく同じテーマで別の文章を書く?
はっきり言ってこのミッションを受けたとき途方に暮れました。
まったく筆が進まず、全然書ける気がしなかったものです。
まず、登場人物を誰にするのかというところですでに立ち往生してしまいました。
この手の対話編はたいてい高校生の男の子と女の子、そして先生の、
3人の対話にするというのが常套手段です。
知り合いの高校の先生はいくらでもいるので何とかなりそうでしたが、
哲学談義をするような高校生というのがまったくイメージできなかったのです。

悩んだ挙げ句、ある既製の物語からキャラクターを拝借してくることを思いつきました。
具体的な人物像が思い描ければ、彼らの会話もすんなり書けるのではないかと思ったのです。
この作戦は大成功でした。
あれほど重かった筆がスラスラと運んでくれるようになり、
締め切り間際のほんの数日のあいだで一気に書き上げることができました。
当初はその借りてきたキャラクターの名前をそのまま出していましたが、
やはり出版の都合上それはまずかろうということになり、すべて名前は変えてあります。
が、わかる人にはわかってもらえるのではないでしょうか。
いや、設定もだいぶ変わってるしちょっとムリかな?

もうひとつ工夫した点は、3人の討論にしなかったということです。
いろいろ2人が言い争った挙げ句、最後、先生が総合的な結論を言ってチャンチャンという、
ヘーゲル的な対話法 (=弁証法) にしたくなかったのです。
そこで、けっきょく最大5名の、しかもだんだんと人が増えていくというスタイルにしました。
イメージとしてはいつもやってる哲学カフェを意識しました。
雑多な人々がそれぞれの立場から思い思いのことを自由に発言し、
先生はそのみんなの議論のファシリテーターに徹するという感じです。
また、「すべての人に当てはまる倫理はあるのか」 という問いを考えてもらうために、
登場人物の多様性にも配慮しました。
ただ闇雲に登場人物を増やしたわけではなく、
この世にはいろんな人がいるということを感じてもらえるような5名にしたのです。

さて、はたしてこの試みがうまくいったかどうか。
特にこの対話編は最後は書いていてけっこう楽しくなったので、
ぜひ皆さんにお読みいただき、感想や意見などをいただければと思います。
登場人物がもともと誰だったのかも自由に想像してみてください。
コメント欄にいくら書き込んでもらっても、出版の都合上、
公共の場で正解を発表するわけにはいきませんが、
皆さんが勝手に推理してみたり、それについて議論したりするのは自由です。

相模原市のあるコトないコト

2012-08-29 20:11:51 | 人間文化論
先週、仙台でキャリアカウンセラーの仲間たちと飲んできたのですが、

参加者のうちのお一人が昔、神奈川県の相模原市に住んでいたことがあるということで、

なぜか相模原市ネタが酒の肴になってしまいました。

そのなかで元ハマッ子の私にとっては驚愕の事実が明らかになりました。

なんと私の知らないうちに、相模原市は政令指定都市になっていたというのです

相模原市ってあの相模原市ですよね。

神奈川県のなかでも一番北にある内陸の地で (この↓濃い紫のところ)、



同じ県内の横浜市民だって、どうやって相模原市に行ったらいいか、

路線の乗り換えがまったく思い浮かばないくらいの陸の孤島で、

だから一度も訪れたことのない人がほとんどだろうと思うのです。

その相模原市が政令指定都市だなんて、最初聞いたとき俄には信じられない思いでしたが、

さっそくスマホでウラドリしてみると、この噂 「あるコト」 でした

政令指定都市というのは、ウィキペディアによれば、

「政令で指定する人口50万以上の市のこと」 だそうですが、

「はてなキーワード」 にはもう少し詳しくこう書かれていました。

「法律上は人口は 『50万』 が指定の要件だが、運用上は

 『100万 (または現在80万以上で、将来100万になる見込み)』 を基準として指定が行われてきた。

 しかし現在は政府の市町村合併支援の一環として、

 合併を経ることを条件にこの人口基準が 『70万』 に引き下げられている。」

相模原市は2010年の4月1日から政令指定都市になっていますが、

2012年8月1日現在で人口は71万9600人だそうです。

まさに合併推進の緩和策によって政令指定都市になれたみたいですね。

それにしてもあんな奥地にそんなに人が住んでいたんですか。

どうも神奈川県民からするとあのあたりは丹沢山地というイメージしかないのですが、

どうやらそうではなくて東京のベッドタウンという位置づけみたいですね。

とはいえ、ベッドタウンが政令指定都市っていうのもなあ、なんか違うんだよなあ。

私は政令指定都市というものに過剰な期待をかけすぎているのでしょうか?

あるいは心の奥底で、相模原市が横浜市と同格に並んでくるのが許せないのでしょうか?

いやいや、けっして私は横浜中心主義ではないですし、

そもそも今はもうすっかり福島市民として地方都市に溶け込んでいるのです。

福島市に政令指定都市になってもらいたいなんてこれっぽっちも思ってないですし、

だから相模原市が政令指定都市になっていたとしても別になんにも悔しくはないのです。

でも、なんかなあ、違うんだよなあ。



P.S.

相模原市は 「さがみはらし」 と読みます。

「すもうはらし」 ではないのでお間違えなく。

母子の往復メール

2012-08-28 23:23:30 | 生老病死の倫理学
一昨日のパーティの最中、母からメールが届きました。

母 「飛鳥中止しました。ねつちゅうしよう。二度目の入院しています。」

人が楽しく飲んでいたというのに、衝撃のお知らせです。
ちょっと説明が必要でしょう。
「ねつちゅうしよう」 というのは 「熱中症」 のことです。
年取った方が熱中症で入院してしまうというのはよく聞く話ですが、
まさかうちの母がそんなことになるとは思っていませんでした。
「飛鳥中止」 というのは、日本郵船の豪華客船 「飛鳥Ⅱ」 でのクルーズに母が申し込んでいたけど、
それに行けなくなったということです。
楽しみにしていたのですが、入院となるとそれどころではありません。

さて、夜中にこういうメールをもらってどう対処したらいいものか。
入院中とあっては電話をかけても携帯電話で話すことはできないかもしれないし、
携帯使用禁止とするとメールもムリかもと思いつつ、とりあえずメールを返してみました。

私 「ゲゲッ! ホントに? 大丈夫? お大事に。」

わりと冷めた返しですが、うちの親子はどんな緊急事態でもだいたいこんなもんです。
予想に反してすぐにメールが返ってきました。

母 「足首と足のこうがはれて、歩け無い、車椅子だって。ものすごく痛いらしい。」

だいぶひどい状態みたいですが、今回もすぐにメールが返ってきたし、
なんとなく他人事っぽく客観視もできているようですし、
今すぐか明日にでも戻ってこいというようなことが書いてあるわけでもないので、
それほど緊急事態というわけでもないのだろうと判断し、そのまま私はパーティに戻りました。
翌日になって、どうしようかなと悩んでいたところ、母のほうからメールが来ました。
入院話とは関係のないいくつかの話題のなかに次のような一言が添えられている変なメールでした。

母 「暑いから体に、気おつけて。」

こちらが新幹線に飛び乗るべきか否か悩んでいるというのに、なんという間の抜けたメールでしょう。
入院といっても大したことはなく、もう朝には退院してきたということなのでしょうか?
別件に対する返しとともに、以下のような重要な質問を含んだメールを送りました。

私 「熱中症で入院までした人に心配されたくないなあ。もう退院したの?」

これに対して全然トンチンカンな別件のみのメールが返ってきたので、
もう一度念押しでただ一言こう送りました。

私 「退院したの?」

これに対する驚愕の返信がこれ↓でした

母 「●●さん、たいいん、まだまだよ」

私は一気に力が抜けてしまいました。
●●さんというのは、母が飛鳥で一緒に旅行に行こうとしていた彼女の友人です。
ただ、●●さんがなにかの病気で入院して旅行に行けなくなったというのは、
もう1週間以上前に聞かされていました。
で、●●さんの代わりにうちの伯母が旅行に同行することになっていたのです。
したがって、私のなかでは●●さんの問題というのはもう過去の情報であって、
最初のメールやその後のメールをもらったときに、
それが●●さんの話であるという可能性はまったく思い浮かびませんでした。
たしかに今から思えば 「二度目の入院」 というフレーズにヒントはあったのかもしれませんが、
母だってずっと入院するような大きな病気をしたことがなかったのが、
昨年だったか白内障の手術のために入院するということがありましたので、
私としては母が二度目の入院をしたとしか読み解けなかったのです。
とにかく、このメールでやっと入院したのが母ではなかったということが判明し、
すぐに実家に電話をかけてみました。
これ以上のメールのやりとりは時間のムダですし、
病院の携帯規制のことを心配する必要もありません。
当然のことながら何事もなかったかのように母が電話に出てきます。

てっきり母が入院したのかと心配したじゃないかと、あの杜撰なメールのことを責めますが、
本人はまったくどこ吹く風という感じです。
話をよく聞いてみると、飛鳥のクルーズを中止することにしたのは誰の入院とも全然関係なく、
この週末に伯母と大ゲンカをして一緒に行くのがイヤになったので、
オールキャンセルをすることになったのだということでした。
つまりあの第1便の第1文と第2文以下はまったく論理的つながりはなかったのです。
いくらなんでもそこまで行間を読める人はいないでしょう。
ただ驚いたのは、妹からはあの第1便に対してすぐに、

妹 「主語がないからわからん。誰が入院したの?」

という返信が来ていて、すぐにメールのやりとりで誤解は解消していたそうです。
うちの妹は私のようにあのメールを鵜呑みにしてしまわなかったんですね。
母からのメールの恐ろしさを十二分に理解していたということなんでしょうか。
私だってブログ記事に取り上げているくらいですから、
そのハチャメチャさは理解していたつもりなんですが、
「二度目の入院しています」 にはすっかりダマされてしまいました。
こういう人にケータイを売るなとショップに苦情を言いたいくらいですが、
時代の趨勢としてはこちらがこういったメールに適応していくしかないのでしょう。
それにしても、ああビックリした
母にはいつまでも元気に、横浜で一人で暮らしていてもらいたいもんだと心から思いました。

真夏の夜の宴

2012-08-27 18:20:26 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
昨晩は久しぶりにまたうちでパーティをいたしました。
前日がてつカフェ&饗宴だったにもかかわらず、いつもと違ってちゃんと早起きもできたし、
メニュー決めるのはちょっと手間取ってしまったけれど買い物も午後イチにはすませ、
家もそんなに荒れていなかったので掃除とかもそれほど時間はかからず、
なので料理にかける時間はたっぷりあったのですが、
けっきょく毎度のごとく18時からのスタート時点で何一つ出来上がっていないという状態でした。
要するに手際が悪いんだろうなあ。
そういう人がパーティを開こうとすること自体がそもそも間違ってるのかもしれません。
とはいえ、お招きしてしまったものはもう仕方ないので、何とか作るしかありません。

まずは 「1.いろいろ葉っぱの刺身サラダ」 です。



言わずと知れた平野レミ師匠のレシピ。
葉っぱを洗ったり、香菜を刻んだりまではしてあったのですが、
鯛の刺身を薄切りにしたり、ドレッシングを作ったりするのが間に合いませんでした。
いちおう皆さんに香菜を食べられるか確認したところ、みんな大丈夫ということで、
香菜が入るかどうかでだいぶ味の印象が変わってしまいます。
散らし入れた松の実とも相まってなかなかの評判でした。
以前はどこのスーパーでも香菜を売ってなくて困ったものでしたが、
最近エスパルのなかにできた八百屋さんによく置いてあるのでありがたいことです。

次の料理がなかなか出来上がらず、
お客さんが作ってきてくださった 「2.天然酵母のハード・パン」 で飢えをしのいでもらいます。



この方が自宅でパン教室や料理教室を開いているというほどの方で、
なんでそんな人が我が家に来て私の料理を食べるなんてことになってしまうのか、
メニューを決めるのに難航したというのもご理解いただけるのではないでしょうか。

そうこうしているうちにやっとできたのが 「3.いろいろ野菜の重ね蒸し」 です。
これもお馴染みの枝元なほみ師匠レシピです。
大皿にドーンと盛って出すとなかなか迫力があっていいのですが、
次の料理の準備に追われていて写真に撮るのを忘れてしまいました。

で、次に出せたのも料理の先生作の 「4.冷製コーンポタージュスープ」 です。



とうもろこしの甘みがものすごく引き出されていました。
ちょっとずつにしようということで深川製磁のティーカップを選んだのは成功でした。

そして、手間取っていた元凶の 「5.エビとブロッコリーの中華炒め」。



塩水で洗ったり水分をよく拭き取ったりなどの下ごしらえにワタワタしてしまいました。
お客さんのひとりにエビが好きとエビ料理をリクエストされたのですが、
私のもっている料理本にはフライとかエビしんじょうみたいな手間のかかるものしか載っておらず、
これもメニュー選択に苦労した一因でした。
仕上げに日本酒の代わりに紹興酒を注いだりして、なかなか美味しくできたのではないでしょうか。

「6.チーズ盛り合わせ」。



最初にできていてお出ししておくべき一品ですが、すっかり忘れられて今頃になってしまいました。

そして、これもお持たせの 「7.生ハム・ピーチ」。



福島の桃の季節には、生ハム・メロンよりもこのほうが相性がいいんだそうです。
たしかに初めての組み合わせでしたが、一度試してみる価値はあると思います。

ここまでお客さんのお持たせに相当頼ってしまっていますが、
けっこういろいろ食べ、時間も押してきていました。
あと3品ほどメニューは用意してあったんですが、
そろそろ皆さんのお腹は限界かもしれないと判断し、
魚料理は飛ばして、メインの肉料理を出してしまうことにしました。
「8.地鶏の白ワイン蒸し」 です。



これはうちのパーティではよく登場するメニューですが、
誰に出しても褒めてもらえる鉄板メニューです。
料理の先生にも美味しいと絶賛してもらえました。
タマネギのみじん切りとオリーブとケーパーで作るソースが絶品です。

さすがにこれで打ち止めだろうなと判断していたのですが、
せっかく手間取りながら準備してあったのだし、シメのパスタぐらいは入るかもと思い、
いちおうご本人たちに確認してみたところ、
残りの2品どちらも食べられますとのこと、
皆さん、こちらの想像を絶する健啖家のようです。
そこでまずは 「9.鯵のハーブパン粉焼き」。



私のパスタの師匠の料理本に載っていたレシピです。
初めて作ってみましたが、お手軽な上、味もなかなかgoodでした。
最後にふりかける白ワインビネガーの風味がいい感じ。

そして、同じくパスタの師匠からこれも定番の 「10.フジッリ・プッタネスカ」。



今回はちゃんと黒オリーブを使って見た目もそれらしく。
それにしてもまあみんなよく食べたものです。
飲み物もたった4人で泡×1、白×1、赤×3。
みごとな食べっぷり、飲みっぷりです。
料理の先生にはまたやろう、月1回やろうと言われましたが、
そんなのゼッタイにムリっ、こちらのメニューがもちません。
先生のところでパン作りを習いがてら宴会をするという線で何とか話をまとめ、
深夜に無事解散したのでした。
ああ、いつになく気疲れする人寄せでした。
私が作るのはなんちゃって料理なので、専門家の方に提供できるようなものではありません。
とりあえずなんとか切り抜けられてホッといたしました。
でも、このところ毎回定番メニューばかりの繰り返しになっているので、
少しは新しいレシピに挑戦しないといけないなとちょっと料理心に火がついたのでした。

久々に見たっ!

2012-08-26 12:26:41 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
お中元でこういうものを頂戴してしまいました。



ネスカフェのインスタントコーヒー詰め合わせセットです。

キリマンジャロブレンドやらイタリアンローストなど、いろいろ取り揃えての8本セットです。

インスタントコーヒーってものすごーく久しぶりに見た気がします。

私の実家ではコーヒーといえばインスタントだったんですが、

実家を出て以来この22年間というもの、

インスタントコーヒーなんてまったく目にしたことがありませんでした。

とても懐かしいですが、今ではすっかり 「コーヒーは豆から淹れる派」 ですので、

こんなに大量のインスタントコーヒーを目の黒いうちに消費しきれる目途がまったくたちません。

どなたか 「コーヒーはインスタント派」 の方がいらっしゃいましたら、

ぜひお手伝いくださいますようお願い申しあげます。

私までご連絡いただければ1本から何本まででもお譲りさせていただきます。

映画 『神様のカルテ』

2012-08-24 12:11:25 | 生老病死の倫理学

先日、『神様のカルテ』 の小説を読みましたが、

映画もすでに昨年公開されていたと知って、DVDを借りてみました。

原作の小説があってそれが映画化されたという場合、

小説を読んだあとに映画を見ると十中八九失望するという法則があります。

ごくまれに上手く映画化したなあと感心させられることがないわけではありませんが、

(記憶に残ってるのだとハリー・ポッターの第一作くらいかな)

それもやはり 「上手く映画化したなあ」 止まりであって、

まあ映画が原作小説を超えるなんてまずムリだろうと思っています。

また、映画化する際に原作を忠実に再現しようとする場合と、

(その場合も普通の小説を2時間の尺に収めるのは至難の業なので若干の省略は否めません)

けっこう大胆に手を入れてしまい、原作とは別の作品に仕上げる場合とがあります。

『神様のカルテ』 は、大胆にというほどではありませんでしたが、

細かいところでいろいろと設定やストーリーが変更されていました。

そのせいでしょうか、なかなかよく映画化されていたとは思いますが、

原作がもっていた空気感とはだいぶ雰囲気の異なる作品に仕上がっていました。

やはり、興味のある方には先に映画を見、そのあとで小説を読むことをオススメします。

そうするとどちらの世界も楽しむことができるのではないでしょうか。

私として違和感が残った点はいくつかありましたが、

まずは、主人公夫婦の住むアパートが格安のボロアパートであるというところが、

あまり映画ではきちんと再現されておらず、けっこうキレイそうに見えたのが残念でした。

そのボロアパートで2人が出会い、結婚後もそこに住み続けることにした経緯も、

映画では全部省略されていてもったいない感じがしました。

男爵に最後まで絵を描かせないという変更も解せません。

やはりあの桜は男爵が描いてこそ意味があるのではないでしょうか。

せっかく原田泰造が男爵を好演していたので、よけいにもったいない感じがしました。

逆になるほどなと思ったのは、先日のブログで、小説を最後まで読んでも、

タイトルの 「神様のカルテ」 が何を意味しているのかわからなかったと書きましたが、

映画ではその説明が付け加えられていて、そこはちょっとすっきりしました。

ただし、原作者が本当にそういう意味であのタイトルを考えたのかは疑問です。

これでもけっこうネタバレ気味なのですが、小説も映画も知らない人はなんのことかわからず、

イライラが募っていることでしょう。

ぜひまずは映画を見、それから小説を読んでいただければと思います。

私は 『神様のカルテ2』 を読み始めてしまいました。

こちらも近々ご報告できればと思います。

名指しのダイレクトメール

2012-08-23 14:33:38 | お仕事のオキテ
合宿から帰ってきてみたら、こんなDMが届いていました。



私の個人名を特定して、名指しのダイレクトメールです。
もちろんDMが届くということは、あちらは私の個人情報を全部つかんでいるわけですが、
表書きの宛先だけではなく、広告内容の文面のほうにまで個人名を入れ込むというのは、
並々ならぬ力の入れようです。
中を開いてみると、中でもさらに個人宛てメッセージが展開されていました。



こちらはさすがにちょっと見にくいかもしれませんが、こう書いてありました。

「小野原様がスカパー! にご加入されて
 今月でちょうど15周年。
 いつもご愛顧いただき、本当にありがとうございます。
 もっともっと、スカパー! をお楽しみいただきたい!
 そんな想いを込めて、スカパー! が誇る
 あらゆるエンターテイメントの中から、
 お好きなチャンネルを一ヶ月無料でプレゼント!
 いつもとはちょっぴり違うスカパー! を、
 ぜひ、ご体験ください。」

ふーん、なるほど、そういうことでしたか。
長年の視聴者向けにこういうサービスを提供していたんですね。
視聴者全員に送るというわけではないので、
こうして個人名を随所に入れ込むこともできるのでしょう。
それにしても、技術的には大してメンドーではないにしても、
該当者全員にそれぞれの個人名入りのものを印刷しなきゃいけないのですから、
それなりに印刷費などはかさんでしまうはずです。
そこまでお金をかけてこういう無料サービスをしてあげようというのは、
どういう狙いからなのでしょうか?

私なんかはふだんセットパックの中に含まれているチャンネルしか視聴していません。
たぶんこういう機会が与えられると、セットに含まれていない割高の、
おもしろい番組がたくさん見られそうなチャンネルを申し込むことになるでしょう。
1ヶ月それを楽しんでしまったあとに、はたしてそれと完全にお別れすることができるのか?
おそらく彼らの狙いはそういうところにあるのでしょう。
1ヶ月後にけっきょく私はそのチャンネルを新規契約をしてしまうのか、
それとも意志の力で新たな習慣を振り切ることができるのか、
スカパー! との勝負です。
あるいは、自己自身との勝負と言ってもいいでしょう。
いいだろう、その勝負、受けて立とうじゃないかっ。
かかってこいやあっ

(勝負の結果は9月末にご報告いたします。)


P.S.
実は、このDMを見て、無料視聴サービスというところよりも、
スカパー! に加入してもう15年も経ったんだということにビックリしてしまいました。
知り合いが1人もいない福島に赴任してきて、初めの頃の楽しみはといえば、
ヤクルトスワローズの応援をすることだけでした。
当初は、地上波で放映される巨人戦のみを楽しみにしていました。
福島はラジオも民放は一局しかなくて巨人戦しか放送しておらず、
しかもラジオ中継を試合終了までやってくれずに時間通りに終わってしまうのです。
(関東ではテレビからラジオへのハシゴが当たり前だったのに
そんな頃スカパー! に出会い、さっそくプロ野球セットを申し込みました。
数年のうちにスワローズの全試合を見られるようになり、
私の夜の生活はバラ色になりました。
ビールとビニール傘を横に置いてスカパー! の放送にかじりついていたものです。
今でこそ福島に知り合いや友人も増え、寂しい思いをすることもなくなりましたが、
あの頃スカパー! がなかったら、私はウサギのように寂し死んでいたかもしれません。
スカパー! ありがとうっ
15年間君のおかげで生き延びてこられたよ。
ぼくのほうこそ感謝しなきゃいけないのに、無料視聴サービスまでしてくれるなんて…。
これからも末永くよろしくお願いいたします

黒四ダムの思い出

2012-08-21 19:00:07 | グローバル・エシックス
先日、映画 『黒部の太陽』 がリバイバル上映されているという話をしましたが、
けっきょく夏休みの宿題に追われて見に行くことはできませんでした。
大画面で見られなかったのは残念ですが、そのうちDVD化されるそうだし、
とにかくいずれもう一度見てみたいと思います。

さて、『黒部の太陽』 で思い出したんですが、
まさにあの頃、我が家は黒四ダム・ブームで (母親が1人盛り上がっていただけですが)、
家族で映画を見に行ったあと、夏休みの家族旅行でわざわざ黒四ダムに行ったのでした。
黒四ダムは富山県の山奥にあって、どうやって行ったのか記憶は定かではありませんが、
とにかくとてつもなく遠かったような思い出だけが残っています。
ウィキペディアで見てみると、
「黒部ダムは、世界的に見ても大規模なダムであり、
 また周辺は名勝・中部山岳国立公園でもあることから、
 立山黒部アルペンルートのハイライトのひとつとして、多くの観光客が訪れる。」
と書いてありますが、小学校1年生ぐらいにその良さがわかるはずもなく、
その年の家族旅行はあまり楽しみなものではありませんでした。
その暗い気持ちが伝わってしまったのか、
その旅行は家族史に残るとんでもない旅と化してしまいました。
なんと、旅行日程と台風の直撃がピッタリ重なってしまったのです。

どのあたりで暴風雨に見舞われたのかも覚えていません。
ただ、黒四ダムに着いた頃には大変なことになっていました。
台風直撃で近くの川が氾濫し、帰路が断たれてしまったのです!
観光客は事務棟 (だったと思う、たぶん) の会議室みたいなだだっ広い部屋に集められました。
私たちは氾濫した川を直接見たわけではありませんから、
実際のところどんなことになっているのかまったくわかりません。
例によって必要な情報は全然入ってきませんから、
ただここで待ってろと言われるばかりで、いずれ帰れるのか、今後どうなるのか、
何もわからないままその部屋でじーっと時間をつぶしているしかありませんでした。
といってもダムの事務棟に閉じ込められてどうやって時間をつぶせばいいのでしょうか?

たしか日が暮れたあと、ダムの人から、現在あちこちに救援依頼をしているが、
川の氾濫のため救助の人たちもここに近づけない状況で、
おそらく皆さん、今日はここに泊まっていただくことになります、みたいな大本営発表がありました。
わお!
台風の中、ダムに泊まって一夜を明かすって
意味がわかりません。
人生最大の大惨事ですっ
のちほど皆さんに毛布と簡単な食事を配付いたしますと言われましたが、
実際にそれが配られたのはそれからだいぶ時間が経ってからだったように覚えています。
けっきょく本当に帰ることはできず、ダムに寝泊まりすることになりました。
泊まるというよりは避難所生活です。
食糧はどれほど備蓄されているのか、いつここから救出してもらえるのか、
先のことがまったくわからないのです。
とにかく怖くて心細かった覚えがあります。
ずーっと暴風雨の音が聞こえていたように記憶していますが、
今から思うとはたして窓一つないような事務棟の会議室のなかでそんな音が聞こえたのか、
あとからの想像でいろいろと勝手に付加されてしまったのかもとも思いますが、
小学生がそんな目に遭ったのですから、恐怖で記憶が歪んでいたとしてもしかたありません。
それになんといっても、あの映画 『黒部の太陽』 のトンネルの出水シーンの記憶が鮮明ですから、
川の氾濫と聞いて、いつここも水に襲われるんじゃないかと気が気じゃありませんでした。

とにかく長い夜でした。
いつもの布団ではない、床の上に敷いた毛布の上に横になって、
台風と洪水に怯えながら寝るんですから、ぐっすり眠れるわけもありません。
わたし的に言うと、3.11のあの夜と同じぐらい怖かったような気がします。
ほとんど情報がない、自分では何にも対処できないという無力感は圧倒的でした。
そして、やっと夜が明けました。
その後の記憶も定かではありません。
父に連れられて外の様子を見に行ったような記憶があります。
あれだけの暴風雨がだいぶ小止みになっていて、ちょっとホッとしたんだったのではないかな?
でも、それと同時にピーカンの空を見上げたような記憶もあります。
どちらが正しい記憶なのか、あるいは時間差でどちらも本物の記憶だったのか…。
台風は過ぎ去っても氾濫の影響はまだ残っていて、しばらく待たされたように思いますが、
昼前後には自衛隊が救援に来てくれました。
頑丈そうなトラックが何台かやってきて、みんなそれに分乗させられました。
もちろんみんなトラックの荷台に積まれるわけですが、
私と妹はたしか小さいからといってトラックの助手席に乗せてもらいました。
(ほかにも小さい子はたくさんいたのですが…)
今思えば別格扱いに喜んでいいところですが、子どもの私はトラックの荷台に乗ってみたくて、
そのせっかくのチャンスを奪われて内心ものすごく残念でした。
ただその落胆を口や顔に出してはいけないという分別はもう備えていました。
氾濫した水の流れをトラックで突っ切っていくという説明を受けていましたが、
その水は子どもの私が想像していたのに比べて大した量ではありませんでした。
それにもちょっぴりがっかりしましたが、
これもやはり今思えば、自家用車で突っ切れるような流れではなかった気がします。

とまあ、そんなこんなでなんとか無事救出されました。
そのあとの記憶はまったくありません。
たぶん寝不足のため、車中もぐっすり眠りこけていたのでしょう。
それにしてもすっかり記憶の彼方に飛んでいましたが、
幼い頃にけっこうサバイバルな経験をしていたんだな。
ちなみにこれは夢オチではありません。
記憶があやふやな部分が多いのは確かですが、けっしてたんなる想像力の産物ではないのです。
『黒部の太陽』 がリバイバル上映されなければずっと記憶の底に沈んだままだったかもしれません。
44年ぶりに掘り起こされた、私のなかの恐怖の記憶のお話でした。

サッカーの勝敗問題 (その2)

2012-08-19 08:53:10 | 人間文化論
野球でホームラン競争ってありますね。

オールスター戦の試合開始前とかによくやってたりします。

まあ、どうでもいいイベントだと思うのですが、

例えば野球の試合で、9回まで戦って同点引き分けだった場合に、

「ではこれからホームラン競争で決着をつけます」 なんて言われたら、

ブルシット という気になりませんか?

なんかそれと同じような違和感を、サッカーのPK戦には感じてしまうのです。

前後半戦って、延長戦までやっても決着つかず、

でも予選リーグと違って決勝リーグでは白黒つけなければならないということで、

最後の最後、PK戦で勝敗を決するということなんでしょうけれど、

本当にそれでいいんでしょうか?

あれってけっきょくのところホームラン競争みたいなものじゃないですか?

長年鍛錬を続けてきて、予選もなんとか勝ち抜いて、

持てる力のすべてを振り絞って戦い抜いてきたというのに、

最後の最後に、ホントの実力とは無縁の、

ああいう運試しみたいなもんで勝敗を決しちゃっていいんですか?

あれぐらいならよっぽどジャンケンで決めたほうが、

ゴールを外した選手が帰国後、国賊扱いみたいなことされたりせずいいんじゃないですか?

実力伯仲したものすごくいい試合をみせてもらったあとに、

けっきょくPK戦に持ち込まれてしまうのって、ものすごく納得いかないんです。

やはり私としては、とことん延長し続けて、最後はゴールデンゴール方式でもいいので、

どちらかがきっちり決勝ゴールを決めることによって雌雄を決してほしいと思うのです。

テレビの放映時間の問題でそれがどうしてもムリだというのなら、

判定勝ちというルールを作ってもいいかと思います。

サッカーと同じく試合時間制を採っている多くの格闘技が、

今ではほとんど判定勝ちというシステムを採用していますね。

本当は一本勝ちやノックアウト勝ちで決着がつくのが望ましいですが、

無限に延長戦を戦い続けるわけにもいかず、

あとはジャッジが、試合全体を通してどちらが優勢であったかを判定する、

サッカーももうそれでいいんじゃないでしょうか。

細かいシステム作りは本当にサッカーに詳しい人たちにお任せしたいと思いますが、

シュート数 (特に枠をとらえた有効なシュートの数) やボール・ポゼッションなどをチェックすれば、

どちらが優勢であったかというのはわりとはっきりしているように思うのです。

主審や副審は走り回っていてあまり全体の流れをつかめないかもしれないので、

客席の一番いいところに複数名のジュリーを座らせといて、

試合終了後に旗を上げるというのでいかがでしょうか?

PK戦なんかよりはよっぽど、選手たちも納得いくように思うのですが…。

なんにせよ、一番は引き分けドローゲームをなくし、

そして、PK戦なんかも一刻も早く廃止してもらいたいもんだと思います。

以上、サッカーど素人の提言でした。

皆さまのご意見、反論をお待ちします。

サッカーの勝敗問題 (その1)

2012-08-18 10:01:44 | 人間文化論
オリンピックも終わってしまいました。

自分的に一番盛り上がったのはやはりサッカーだったでしょうか。

男女同時にベスト4進出というのはちょっと普通じゃ考えられないくらいの快挙だったと思います。

オリンピックの直前にはユーロ2012も開催されていたので、

このところどうしてもサッカーのことを考えてしまう機会が増えています。

で、前々から思っていた疑問がまたぞろ頭をもたげてきました。

サッカーって、ああいう勝敗のつけ方で本当にいいのでしょうか?

気になってるのは2点あるんですが、まずは予選リーグでのあの 「勝ち点」 方式というやつです。

調べてみると、これは要するに引き分けという結果があることを前提にした制度のようです。

サッカーを見ていて一番納得いかないのがそこなのです。

なぜ引き分けのまま終わらせるっ

いくらでも延長戦をやって、きっちり決着つけろやっ

と、本物のサッカー・ファンではない私はどうしてもそう思ってしまうのです。

まあ、サッカーやバスケットボールのように時間で区切るゲームというのは、

試合終了時間が来たときに同点引き分けということは当然ありうるでしょう。

でも、その場合は延長戦を戦えばいいと思うのです。

白黒つくまでとことん延長すればいいと思いますし、それがあまりにも苛酷だとするならば、

Jリーグが当初採用していた 「Vゴール」 方式なんかも私はけっこういいと思います。

そうやって毎試合ごとにはっきり勝敗を決する道を避け、

なんで引き分けありきの制度を作ってしまうのでしょうか?

おそらくその背景には、バレーボールのルール改定 (サーブ権の廃止) と同様、

テレビ放映上の都合 (時間枠内に試合が終わるかどうか) という問題が隠されているのではないか、

と私は勝手に想像しているところです。

そんなのはクソ食らえだっ!

勝負である以上、いくら時間がかかろうが、放送時間に収まりきれなかろうが、

ちゃんと勝敗が決まるまで戦い抜いたらいいじゃないかっ

勝ち点1欲しさに引き分け狙いをする試合なんて見せてほしくないじゃないかっ

以上がサッカーど素人が考える、サッカーの問題点 (その1) でした。

本物のサッカー・ファンの方々の御意見をおうかがいできればと思います。

この考察は (その2) に続きます。

(その2) はもちろん、例の 「PK戦」 というやつについて考えたいと思います。

恋と愛の違いとは? 第12回てつがくカフェ@ふくしま

2012-08-17 08:09:40 | 哲学・倫理学ファック
来週の土曜日、第12回の 「てつがくカフェ@ふくしま」 が開催されます。

テーマは 「愛と恋は何が違うの?」。

このところずーっと真面目なテーマばかりでしたから、

いや、もちろんこれも真面目なテーマなんですが、

原発とか法とか教育なんかに比べると、ちょっと取っかかりやすいテーマではないでしょうか。

愛と恋ってどう違うんでしょうか?

日本語だと 「愛」 と 「恋」 って別の単語で、だから違うに決まってると思ってしまいますが、

英語にするとどちらも 「love」 だから全然区別されてないんですよね。

ところが、哲学をちょっとかじったことのある人だと知ってると思いますが、

ギリシア語までさかのぼって考えてみると、

同じ 「愛」 でも 「アガペー」、「エロース」、「フィリア」、「ストルゲー」 と、

いろんな愛が区別されてるということに気づくでしょう。

英語みたいにいちいち分けずに同じ概念として受け止めてしまったほうがいいのか、

ギリシア語みたいに細かく分類していったほうがいいのか、

せめて日本語のように大きく2つくらいには分けておく必要があるのか、

これは人それぞれの好みもあると思いますが、

この問題を考えていく上であらかじめ決着をつけておくべきところかもしれません。

まあでもなんにせよ、恋とか愛って考えていて楽しいテーマですよね。

哲学なんてまったく関係ない人も、この問題については考えてみたことあるんじゃないですか?

ネットでちょっと検索してみたら、すっごいたくさんの人が思い思いにこの問題について論じてる、

こんなページを見つけてしまいました。

みんな一家言もってるなあ

たぶん皆さんも言いたいことがいっぱいあることでしょう。

ぜひみんなで恋と愛について深~く語り合ってみようではありませんか。



第12回 「てつがくカフェ@ふくしま」

テーマ : 愛と恋は何が違うの?

日 時 : 2012年8月25日 (土)

時 間 : 16:00~18:00

場 所 : A・O・Z (アオウゼ) 小活動室1 (MAXふくしま4F)

費 用 : ドリンク代 (珈琲100円)

事前申し込み : 不要 (直接会場にお越しください)

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

能力主義社会=無能力者社会?

2012-08-16 19:02:20 | お仕事のオキテ
妻が読んでいたセス・ゴーディン著 『トライブ』 という本のなかに、

爆笑ものだけど、よく考えると笑うに笑えない話がのっていました。

社会学者の故ローレンス・J・ピーターという人が唱えた 「ピーターの法則」 です。



「能力主義の階層社会では、従業員は誰もが ”無能レベル” まで出世する」



どういうことか?

「いい仕事をすれば昇進する。それが何度か繰り返されるうちに、ついに仕事が手に負えなくなる。

 つまり、本人の能力の限界を超えた ”無能レベル” まで昇進するというわけだ。」

たしかに。

そしてこれが繰り返されていくと、

「どの階層も仕事のできない無能な人間で占められる」 ということになるそうです。

うーん、おそろしい話だ!

なんか自分の知ってる組織のこととか思い浮かべてみるとリアリティがありすぎるっ

この法則によると、すべての組織はクソってことになってしまいませんか?

日本のエライ人たちを見てみると、さもありなんという気もしてきます。

もちろん自分のことを振り返ってみても…。

はたして人類に明るい未来はあるのでしょうか。

うう、笑えない

私の恋人を紹介します

2012-08-15 06:45:06 | 性愛の倫理学
【恋人バトン】 が回ってきたので、私の恋人をご紹介させていただきます。


1.今付き合ってる恋人はいますか?

  いますっ


2.その恋人と付き合ってどれくらい経ちますか?
 
  まだ4ヶ月くらいです。

 
3.この恋人と付き合ったキッカケは?
 
  前の彼女に特に不満はなかったんだけど、
  新しい世界に触れたかったというか、
  私のまわりにまったくいなかったタイプが急に私のテリトリーに出現したので…。

  
4.この恋人以外に過去にどれくらい恋人いました?
 
  わりと少ないです。2人だけです。


5.一番長く続いた恋人とはどれくらいですか?

  4年半ぐらいかな。


6.逆に一番短かった恋人とはどれくらい?
 
  それでも3年半は付き合ったんじゃないかな。
  浮気性にみられがちだけど意外と一筋に尽くすタイプなんです。


7.恋人を色にたとえるなら何色ですか?
 
  ブラック。あるいは、ものすごく黒に近いダークグレー。
  大人っぽい感じの人です。
  ぼくの好みなんだけどね。
  黒系の服とかを買ってあげたりしました。


8.恋人との思い出があればどうぞ!
  
  一緒にドライブに行ったこととかかなあ。
  彼女にナビをやってもらいました。
  それと、ものすごい情報通なので、
  どうしても知りたいこととかをすぐに教えてくれたり、
  出先でちゃちゃっと調べてくれたりします。
  彼女写真うつりもすごくいいから、よく記念撮影とかもしています。


9.浮気願望はある?
 
  うーん、あまり大声では言えないけど、前の恋人にものすごく未練もあるので、
  今カノとちょっとうまくいかなくなったら、前カノとヨリを戻しちゃうかも。
  それと、近々もっとすごい女性が登場するかもしれないらしくって、
  すぐにホイホイ乗り換えちゃうほどぼくは尻軽じゃないけど、
  よーく観察してみてその人のほうがいろいろな意味でステキだったりしたら、
  やっぱり心が動くかもしれないな。
 

10.今の恋人に一言!!
 
  君のことをどう扱っていいかわからなくなることがすごく多いよ。
  恋愛にマニュアルなんて要らないのかもしれないけど、
  もうちょっと、こういう時はこうしてほしいみたいなことを、
  ちゃんと口に出して (あるいは手紙でもいいので) 説明してもらいたいです。
  でも大好きだよ
  


11.まわす人

  これ読んだ人はみんなやってみて☆
 
 


  











































昔ミクシィで流行ってた 「バトン」 というものです。
SNSの知り合いどうしで、同じ質問に順次答えていくという遊びです。
バトンのなかでもこれは通称 「メタファー・バトン」 というやつ (私が勝手につけた呼び名)。
恋人について語っているようで、実は別の物を恋人にたとえているだけなのでした。
何を恋人にたとえていたのか、おわかりになったでしょうか?
このバトンには以下のような注意書きが添えられていました。







!!!!!!!!注意!!!!!!!!!!

注:この恋人とは、携帯電話のことです!!

いかにも人間のようにバトンを書いてみてください!!!!

*****************************************************


そうなんです。
私の iPhone のお話でした。
こちらをご覧いただければ、何の話をしていたのかおわかりになるかもしれません。
3の回答は、au でも iPhone が買えるようになったこと、
9はスマホもいろいろ不便で、ガラケーへの未練があること、
また、近々 iPhone5 が発売されるらしいことを表現してみました。
うーん、それにしても懐かしいなあ。
これは2006年の年末頃に回ってきたバトンです。
古い話だ。
まだブログなんてまったく始めていなかった頃のことですね。
最近ミクシィのほうはすっかり放置プレイですが、
今でもこんなバトンが回ってきたりしているのでしょうか?
ミクシィも 「日記」(いわゆるブログ的なもの) から 「つぶやき」(ツイッター形式) が中心となり、
すっかり様変わりしてしまいました。
こんな遊びをしている余裕は失われてしまったのかな。
Facebook でうまくバトンを回せるかわかりませんが、
面白いと思った人はぜひやってみてください。

『神様のカルテ』

2012-08-14 12:49:09 | 生老病死の倫理学

ちょっと前になりますが、夏川草介氏の 『神様のカルテ』 という小説を読みました。
この本のこと全然知りませんでしたが、調べてみると昨年映画化もされたそうで、
泣き虫の私は例によってボロボロ泣きながら読みました。
物語は 「24時間、365日対応」 を謳い文句にしている地方のやや大きめの一般病院が舞台。
そこで内科医として5年ほど勤めている青年、栗原一止 (いちと) が主人公です。
彼はいわゆるゴッドハンドと呼ばれるような天才的外科医みたいな人ではないのですが、
医者不足のため過酷な状況のなかで、それでも必死に患者に向き合おうとしていきます。
そういう良心的ではあるけれどもごく普通の内科医の日常を通して、
さまざまな矛盾に満ちた現代の医療現場をみごとに描き出すとともに、
現代において医療はどうあるべきか、医療者の仕事とは何かを問いかけてくる作品です。

いろいろなエピソードが描かれていきますが、特に中心となるのは、
身寄りのない胆のう癌患者の老婦人、安曇 (あずみ) さんのお話です。
人間ドックで胆のう癌が発見され、大学病院に紹介したのですが、すぐに戻されてきてしまいました。
ここからちょっと引用してみます。


「あと半年の命だと言われました。治療法はないから、好きなことをしてすごしてくださいと」
 語尾がかすかに震えていたのを私は聞き逃さなかった。
 安曇さんは今年72歳、早くに夫を亡くし、子供も親戚もいないひとり暮らし。たったひとりの孤独な患者に、いきなり 「好きなことをしてすごせ」 と言ったのか。
 どこのアホウな医者だ!
 そういう大切な話をする時にこそ、時間をかけて関係を築かねばならぬのだ。初診の外来でいきなり、よりによって 「半年で死ぬから今のうちに好きなことをしろ」 とは……。


現代の医療において告知やインフォームド・コンセントが重要であるとはよく言われますが、
その背後には患者と医療者のあいだのラポール (信頼関係) が必要であることが看破されています。
何でもただ伝えればいいというわけではないのです。
さて、この安曇さんそれから間もなく主人公がいないときに大量の下血をしてしまいました。
同僚で友人である砂山次郎が処置をしてくれてなんとか持ち直しますが、
癌が思ったよりも速く進行しているようです。
再び引用です。


胆のう癌は元来が成長の速い腫瘍である。症状が出にくいために発見が遅れることとあいまって、進行期ともなると生存期間がかなり短い疾患である。だがそれにしてもこの胆のう癌は速い。胆のうから広がった癌が周囲の内臓に次々と食らいついて広がり暴れまわっている。これでは腹の中に猛獣を一匹飼っているようなものだ。
「次郎、とりあえず助かった。感謝する。」
「それには及ばん。お互い様だ。だがこいつをどうする?」
「考える」
「考えたところで治療法があるのか?」
「治療法を考えるのではない」
私は写真の中の癌巣を睨みつけたまま語を継いだ。
「本人にどう話すかを考えるんだ」
私は医者である。
治療だけが医者の仕事ではない。


これこそが本来の告知、本来のインフォームド・コンセントであり、本来の医者の仕事です。
すでに本人は不治の病に冒されていることを知っているのだけれども、
進行が速くて余命が当初予想されていたよりもさらに短くなる、
そのことをどう伝えるかに心を砕くのが医者の仕事であると言うのです。
はたしてここまで考えてくれる医者が現実にどれほどいるかわかりませんが、
医療者たるものこうであってほしいと願わずにはいられません。

そして、しばらくのち最期の時がやってきます。
再び大量の下血と脈拍の異常。
栗原の脳裡にはなんとか持ちこたえさせるための無数の選択肢がよぎりますが、
悩んだ挙げ句、いずれの処置もしないことにしました。
栗原は医療とは何か、生きるとは何かを自問します。
最後の引用です。


 しばしば医療の現場では患者の家族が 「できることは全てやってくれ」 と言うことがある。五十年前までの日本では日常の出来事であったし、その結果のいかんに関わらず、その時代はそれで良かった。拙劣な医療レベルの時代であれば、それで良かった。
 だが今は違う。
 死にゆく人に、可能な医療行為全てを行う、ということが何を意味するのか、人はもう少し真剣に考えねばならぬ。「全てやってくれ」 と泣きながら叫ぶことが美徳だなどという考えは、いい加減捨てねばならぬ。
 助かる可能性があるなら、家族の意思など関係なく最初から医者は全力で治療する。問題となるのは、助からぬ人、つまりは寝たきりの高齢者や癌末期患者に行う医療である。
 つまりは、安曇さんのような人に行う医療である。
 現代の驚異的な技術を用いて全ての医療を行えば、止まりかけた心臓も一時的には動くであろう、呼吸が止まっていても酸素を投与できるであろう。しかしそれでどうするのか? 心臓マッサージで肋骨は全部折れ、人工呼吸の機械で無理やり酸素を送り込み、数々のチューブにつないで、回復する見込みのない人に、大量の薬剤を投与する。
 これらの行為の結果、心臓が動いている期間が数日のびることはあるかもしれない。
 だが、それが本当に ”生きる” ということなのか?


この数十年のあいだに医療が大きく様変わりしたことが描かれています。
簡単に言えば 「SOLからQOLへ」 ということなのでしょうが、
医療の進歩が現代の医療者に新たな問題を突き付けているわけです。
この小説の背後にあるのは、日野原重明 『生きることの質』 に示されているような医療観です。
医療者が患者を思う気持ちには今も昔も変わりないのだと思いますが、
医療者が何を為すべきかに関しては、はっきりと時代の変化が生じたのだろうと思います。
そんなことを考えさせてくれる小説でした。

核心的なところをだいぶ引用してしまいましたが、
引用箇所だけ読んで泣くことはできなかったでしょ?
まだ読んでいない人にはぜひ一読をお勧めします。
特に看護学校の皆さん、看護教員養成講座の皆さん、読んでみて感想をお聞かせください。
読む際には、ハンカチかティッシュをそばに置いておくことを忘れずに。
続刊も出されているようなので、私も追い追い読んでいきたいと思います。

ところで、読み終わっても最後までよくわからなかったことがひとつ。
この 『神様のカルテ』 というタイトルは何を意味しているのでしょうか?
「神様」 という言葉によって何を表そうとしていたのかがまったくわかりません。
たぶん作中のどこにも書いてなかったように思います。
帯に付されたコピーは 「神の手を持つ医者はいなくても、この病院では奇蹟が起きる」 で、
そのキャッチコピーは納得なのですが、だとすると、栗原一止がけっして神様なんかではなく、
ただの1人の医師であり人間であるというところがこの小説のミソであって、
わざわざタイトルに 「神様」 という語を使用する必要はなかったように思うのですが…。
うーん、気になる。
続刊を読むとその意味が判明するのでしょうか?
わかり次第またご報告したいと思います。