まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

森絵都 『カラフル』 ~人生をやり直すとは?~

2014-05-31 19:49:42 | 哲学・倫理学ファック

森絵都の 『カラフル』 を読みました。
先日のてつがくカフェで 「人生をやり直すとは?」 をテーマに話し合いましたが、
その日の懇親会で参加者の方に、人生のやり直しをテーマにした小説があるよと紹介されたので、
気になって読んでみたのです。
てつカフェでは、そもそも人生をやり直すとはどういうことなのかが問題となりました。
世話人としては、職を変えるとか、離婚・再婚をするとか、原発事故のために福島の地を離れるとか、
証人保護プログラムのように住む場所も名前も変えて新たな人生を始める、
といったようなことをイメージしていましたが、それは人生の方向転換にすぎず、
やり直しではないという意見が出てきたのでビックリしました。
ある方々は、犯罪者がすっかり改心するみたいな、
心がまるっきり入れ替わるようなことがあって初めてやり直しであると捉えていました。
だから名前が変わったとしても人間性が変わっていないのであればやり直しではないというのです。
また別の方々は、「やり直す」 と言う以上、
どこかの時点に戻ってもう一度始め直す必要があると考えていました。
もちろんタイムマシンがあるわけではないので時間を遡ることはできませんが、
例えば、学生時代に医者になりたいと思っていたけれどけっきょく別の道に進んだのだが、
震災をきっかけにあのときの志を思い出し、職を辞めて医学部に入り直すみたいなときにのみ、
「やり直す」 と言えるのではないかというのです。
元に戻るという契機がなければそれはやり直しではなく方向転換にすぎないのだそうです。
いや、なるほど厳密です。
そこまで深刻に考えていなかった世話人としては目から鱗が落ちる思いでした。
参加者のひとりの方が 「内容があんまり難しいのでやり直すこともできないと思った」
との感想を残されていましたが、まさにその通り、
人生をやり直すっていうのは生半可なことではできないんだなあと感服しておりました。

さて、小説 『カラフル』 ですが、
たしかにこれぞまさしく 「人生のやり直し」 と言えるような物語でした。
冒頭からはちゃめちゃな設定です。
死んで前世の記憶を失った魂が、前世で犯した大きなあやまちを償うために、
自殺を図った中学3年生の身体に入り込んで人生に再挑戦するよう天使に命じられるのです。
本人はそんなめんどくさいことイヤだと言って辞退するのですが聞き入れてもらえません。
主人公はいやいやながら、前世で犯したあやまちを自覚するまでのあいだ、
天使の業界で 「ホームステイ」 と呼ばれている修行をしなければならなくなるのでした。
ホームステイというのは言い得て妙で、
それまでどんな人生を送ってきたのかもわからない中学生の身体に入り込んで、
どんな人たちかもわからない家族やクラスの友人たちと付き合っていかなければならないのです。
重要な情報はそのつど天使が教えてくれますが、
基本的には探りを入れるようにしながら借り物の人生を生きていかなくてはなりません。
この設定の面白さで一気に読まされてしまいました。

実は最初のうちは、これは 「人生のやり直し」 とは言えないのではないかと思って読んでいました。
主人公は前世の記憶を失っているとはいえ、どうやら怠惰な性格は前世から引き継いでいるようで、
心を入れ替えて新たな人生を送るということにまったく取り組もうとしないのです。
そして、前世の記憶を失っていますし、入り込んだ中学生のそれまでの記憶も引き継いでいないので、
どこかの時点に戻ってやり直すということもできないのです。
まさにホームステイという宙ぶらりんの状態のなかで、
ホームステイ先の状況を何とか把握しようと汲々としているにすぎません。
そして、ホームステイ先の中学生やその関係者たちに対して辟易としながら、
時として鬱憤を爆発させ、本人の健康を害したり、関係を危機に陥れたりしてしまいます。
これではまったくやり直しにもなっていないし、修行にもなっていないような感じだったのです。

ところが終盤にさしかかったところで、すべてが一気に変わってきます。
そして、このホームステイがまさに人生のやり直しであったことが明らかになります。
これ以上はネタバレになってしまうのでもう書けませんが、いやあ面白かったです。
あのてつカフェがなければ出会うことのなかった作品かもしれません。
てつカフェとてつカフェ参加者の皆さまに感謝申し上げます。
気になった方はぜひ読んでみてください。
映画化 (実写版とアニメ版) もされているようなので今度見てみたいと思います。

蕎麦を完食する方法

2014-05-29 17:02:57 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
お蕎麦をいただくとき、最後こんなふうになったりしませんか?



蕎麦の小さい切れっ端が残ってしまうのです。

昔からこれがもったいなくてしかたありませんでした。

そうしたら福島に来て最初に常連になったお蕎麦屋さん 「一膳」 に、

お品書きとともに蕎麦の食べ方の注意書きが各テーブルに置かれていて、

その中に麺の切れっ端の食べ方も書かれていました。

要領は簡単。

箸をザルに対して垂直に立て、箸先でひとつひとつ摘むだけです。

自分で実演しながら写真を撮ることができなかったので画像はありませんが、

写真を使って説明するまでもないでしょう。

箸を垂直に立てて使うだけのことです。

箸先が四角い木の割り箸だと、それはもうみごとに摘むことができます。

慣れてくると箸先の尖った塗り箸でも摘めるようになってきます。

ほら、みごとこの通り!



せっかくの糖質です。

最後の一切れまで美味しくいただきましょう


P.S.

ちなみに 「一膳」 さんははじめ 「わたり病院」 のすぐ前にあり、

その後、御山の裏のほうに移転して営業を続けていましたが、何年か前に閉店してしまいました。

パセオにあった 「喜多屋」 も閉店してしまいましたし、「間乃次郎庵」 もそうですし、

どうも私の行きつけの蕎麦屋はなくなってしまう傾向にあるみたいです。

悲しい

相馬そば処ふくしまや 「呑気十ヶ条」

2014-05-28 15:04:28 | 幸せの倫理学
「間乃次郎庵」 なきあと、相馬ランチで訪れるようになったのは、
先日ご紹介した 「ばりお食堂」 と 「そば処 ふくしまや」 でした。
「ふくしまや」 にはすでに去年から行くようになっていたのですが、
Facebook に書いただけでブログネタにはしていなかったので改めてご報告しておきます。

「ふくしまや」 は相馬駅のすぐ真ん前にあります。
私が相馬に来るようになった12年前はここは旅館でした。
建物はいかにも古くからある旅館って感じです。



その旅館の亭主が何年か前にそこをそのまま蕎麦屋に改造したのだそうです。



こちらでは私はたいてい 「ふくしまや頑固そば」 というメニューを注文します。
フツーの蕎麦もあるのですが、十割蕎麦が毎日10食限定で出されているので、
それを大盛りで頼むのです。



たいへん美味しいです。
春のこの季節ですので新蕎麦というわけにはいきませんが、
味も香りも喉ごしも十分堪能することができます。

さて、店内はお客さんがいらっしゃったので写真撮影はしませんでしたが、
やはり旅館の1階部分 (玄関口のあたり) をそのまま店舗に改造した造りになっています。
先日初めてこちらでお手洗いをお借りしました。
おそらくお手洗いも旅館時代のものなのでしょう。
そうとう奥の方まで歩いていかないと行き着けない感じでした。
そのお手洗いに 「呑気十ヶ条」 という額が掲げられていたのです。
よく居酒屋とか飲食店のトイレに 「健康十訓」 とか
「親父の小言」 の額がかけてあったりしませんか?(こんなようなやつです。)
そういうのってちょっと説教臭くって、
飲んでるときに読まされるとウゼェなあと思うことが多かったんですが、
この 「呑気十ヶ条」 は私のモットーとも重なるところが多くて、
反発を覚えずに読むことができました。
こちら↓です。



見にくいといけないのでいちおう書き取っておきましょう。

「呑気十ヶ条
 一、 行きあたりばったりに進む
 一、 気軽、身軽、腰軽
 一、 本気にならない
 一、 いつも人任せ、金任せ、運任せ
 一、 忘れたことは思い出さない
 一、 今日出来ることも明日にする
 一、 悪口すら誉め言葉
 一、 将来設計はその時設計
 一、 百歳になっても心は二〇歳 (はたち)
 一、 死ぬことを疑っている」

うーん、とってもいいです。
いちいち脱力してしまいます。
このやる気のなさステキだなあ。
こういう人に私はなりたい (えっ? もうとっくになってるって?)。
いろんな額があったろうに、よりによってこれをチョイスしたセンスに脱帽です。
イチ押しメニューが 「頑固そば」 なんて銘打ってるので、
店主は 「親父の小言」 系の人かと勝手に想像していたんですが、
こういうのを選ぶ人なら仲良くなれるかもしれません。
来年訪れたときは話しかけてみようかと思います。

世界は変わる!(その2)

2014-05-26 20:03:16 | グローバル・エシックス
昨日はサッカー日本女子代表チームがアジアカップで初優勝を遂げました。

おめでとうございます


「<サッカー> なでしこ、豪破り初優勝 女子アジア杯」


それを承けて本日は 「世界は変わる!」 のシリーズの第2弾です。

今でこそ日本の女子サッカーは 「なでしこジャパン」 の愛称で親しまれ、

場合によっては男子サッカーよりも大きく扱われるようになっていますが、

ほんのちょっと前まで女子サッカーなんてまったく市民権を得ていませんでしたよね。

ウィキペディアで調べてみると、世界的には歴史はけっこうあるみたいですが、

そのほとんどは迫害の歴史であって、「サッカーは男性のためのスポーツ」、

「サッカーは女性の身体に有害」 と考えられていたようです。

イングランドでは女子チームにグラウンドの貸し出しを禁止する命令も出されていたほどで、

その禁令が解かれたのがほんの40年前の1970年です。

それ以降やっと女子サッカーが普及し始め、

FIFA女子ワールドカップの第1回大会が開かれたのが1991年、

オリンピックの正式種目に認められたのが1996年のアトランタ大会からです。

日本における女子サッカーの歴史はそれよりもはるかに短く、1970年代以降に細々と始まりました。

ワールドカップには毎回出場していますが、ほぼ毎回グループリーグで敗退でした。

出場国数の少なかった第2回にグループリーグ3位の中から決勝リーグに進出したことがありますが、

普通に勝ち上がって決勝リーグに進むことができたのは2011年の第6回大会だけだったのです。

ですから、それまで女子サッカーのマスコミへの露出はほとんどなかったと言っていいでしょう。

1990年代から女子サッカーの世界大会が行われていたって知っていた人どれくらいいますか?

震災のあったあの年に日本女子代表チームが優勝したことによって一気に知名度が上がりましたが、

それまでは女子のサッカーなんて本当に誰も知らないし見向きもしていなかったのです。

この3月に卒業した福大生が小中学校とサッカーをやっていたそうなのですが、

福島には女子のチームなんていうものはなく、男子のなかに混ざってプレイするしかなくて、

チーム内ではいろいろと迫害を受けたと言っていました。

本当にそれぐらいつい最近まで女子サッカーは日陰の存在だったわけです。

今やそんなの信じられない話ですよね。

女子代表の選手ってひょっとすると私は男子代表よりもたくさん知っているかもしれません。

こんなふうに世界は急激にドラスティックに変わるのです。

誰にも勝敗どころか試合があることすら関心をもたれなかったようなところから、

アホのマスコミが 「絶対に負けられない戦いがある」 と煽り立てるほどになるくらい、

一気に情況が変わってしまうということが起こりうるのです。

このあいだ 「世界は変わる!」 を書いたときからさらに情況は悪化しているように思いますが、

これもいつまでもこのままではないでしょう。

世界は変わる!

世界は変えられる!

このことを信じて生きていきたいと思います。

積極的傾聴グループワーク

2014-05-24 19:40:47 | 教育のエチカ
看護学校の最後の授業では、哲学とは直接関係ないのですが、
積極的傾聴についてちょっとレクチャーし、グループワークもやってもらいました。
最後の授業では看護という仕事について考えてもらいましたので、
そのなかで積極的傾聴の話も出てきたわけです。
私はキャリアカウンセラー (キャリア・ディベロップメント・アドバイザー) の資格を取るときに、
積極的傾聴に関して理論的なことを学んだり、ロールプレイもさせられたので、その受け売りです。
積極的傾聴というと、なんだかいろいろと質問して話を聞き出すみたいに誤解されますが、
そうではなく、相手が話したいことをじっくりと聴いてあげることが積極的傾聴であり、
そのためにどうしたらいいかというノウハウ的なことも少し話しました。
姿勢や目線や頷き、表情などの非言語コミュニケーションが大事なこと、
言語コミュニケーションとしては、まずは相槌、そして相手のキーワードを繰り返すことが大事で、
質問する場合もこちらが訊きたいことを訊くのではなく、
相手のキーワードを掘り下げるような質問をしてあげることなどを簡単にレクチャーしました。

授業の最後に、この14回の授業を振り返ってもらいどんな学びがあったかをすべて思い出し、
そのなかで一番考えが深まったことは何だったかを考えてもらいました。
(これはレポートを書くための準備作業です。)
そして、4人ずつのグループに分け、1人あたり3分ずつそれについて話してもらいました。
残りの3人はその人の話に対して積極的傾聴をします。
友だちと思わず、患者さんの話を積極的傾聴しているんだと思ってやるようにと指示しました。
とはいえ慣れ親しんだ仲間ですから、グループによっては誰が発表者なのかわからないくらい、
ただの談笑になってしまっているケースもありましたが、
みんなそれなりに一所懸命取り組んでくれました。
このワークをやってみての感想をいくつか紹介しておきます。


「自分の意見をきいてもらうときにうなずいたり反応があると聞いてもらっていると感じるし、自分の意見に共感してもらっているとも感じることができました。」

「自分の考えを傾聴してもらいましたが、うなずきや目線を合わせて聞いてくれて、うまく伝えることができていませんでしたが、積極的傾聴をしてもらったことで、素直に思いや考えを伝えようという気持ちになったし、とても話しやすくなりました。」

「相手の目線やうなずき、身体の向きなど話を聞いてくれる姿勢が整っていれば、話したい気持ちになるし、話してもいいんだと思えました。」

「積極的傾聴をしてみて、相手があいづちをうってくれたり、うなずいてくれたりすると、話しやすい雰囲気になると感じました。実際に患者さんにかかわる時には、目線や表情などにも注意していきたいと思いました。」

「話す相手の表情や動きなど、非言語的なところで、話しやすさや話そうと思えるかどうかがかなり変わってくると思いました。」

「積極的傾聴をしてもらって感じたことは、『うんうん』 と話をきいてもらっていると 『聴いている』 感じが伝わってきて嬉しかったです。『うん』 の強弱でも伝わり方が分かるし、もう少し話したいと感じました。傾聴したときには相手の目を見ることが恥ずかしく感じることもありますが、そうやって話をきくことで、相手が話をしてくれることが分かった。」

「積極的傾聴をした時は、自分も相手の話をきちんと聞こうという気持ちになり、してもらった時は、自分の話を真面目に聞いてもらっているという気持ちになりました。やはり、表情や相槌、うなずきなど、聴く姿勢は大切だと分かりました。」

「積極的傾聴をする側としては、ただ聴いているだけでなく、どの部分がキーワードなのか見つけることが少し難しく感じました。また、される側としては、相づちや、真剣に話を聴いてもらえること自体が嬉しく思いました。」

「私が話をしている時に、うなずいたり、こういうことで苦しんだ、辛いと感じたということについて話した時に、辛そうな表情をしてくれたり、そういうふうにできたことについてほめてもらったりして話しやすかった。私が傾聴している時は、話してる人と目があったり、周囲の人の表情や態度をみて参考になった部分もあった。傾聴するのは難しいが、キーワードをくり返すことや、うなずく、表情も大切な傾聴の一つだと感じた。」

「積極的傾聴をしてもらい、あいづちや目を合わせ 『うん、うん』 と聞いてくれることで、話を聴いてくれているんだと感じ、話をたくさん聞いてほしいと思い、思いを伝えることができました。また3分間の中で、余った時間をメンバーがキーワードを引き出してくれて、またさらに話すというようなことがあり、自分の気持ちを知ってくれたという気持ちになりました。」

「積極的傾聴は自分の話をしっかり聞いてもらえていると感じることができました。日頃の生活で積極的傾聴ができていないなと感じました。」

「積極的傾聴は簡単そうに思えて難しかった。つい自分の意見をしゃべってしまったり、笑ってしまったりしてしまった。」

「積極的傾聴では、うなずいて聞いてくれたり、相づちをうってくれる人に話しやすいと感じた。やはり、『聴く』 ということは難しくて、自分も話してしまうことが多かったので気をつけたい。」

「今までの実習の中でも積極的傾聴を必要とする場面では行えていたと思っていた。しかし、先生もおっしゃっていた通り、グループメンバーで積極的傾聴をしているつもりだったが、振り返ってみるとできていなかった。そのため、今後の実習を通して積極的傾聴のスキルを身につけていきたいと思った。」

「私も、話を聞くことよりも話すことが多いので、積極的傾聴をするのは難しく感じた。でも、聴き手の反応一つで、話し手の話しやすさが変化することも感じられた。」

「積極的傾聴をしてもらった時には、自分の話したい事を好きな様に話し、相手に聴いてもらったのでスッキリしました。思いを伝えたいと強く感じている患者さんも多いと思うので、積極的傾聴は大切だなと感じました。」

「傾聴してくれて、うなずいたりしてもらうと、ちゃんと聴いてくれているのだなと思って、いろいろ話したくなった。特に患者さんや家族の話を聴く立場になるので、傾聴の大切さを改めて知ることができた。」


今年は時間が押してしまってわずかな時間のグループワークでしたが、
そのなかでみんないろいろなことを学び取ってくれたようでよかったです。
みんなの感想を読んでいて、このワーク、
「哲学」 の授業の一番最初にやっておけばよかったと思いました。
そうしたらみんなぼくの授業も積極的傾聴してくれて、
ぼくはそうとう気分よく講義することができたのではないでしょうか。
それを言ったら看護学校でよりも福島大学の授業でこそ、
最初に積極的傾聴の練習をしてもらう必要があるのかもしれません。
大学教員がどれほど砂を噛むような、虚しい気分で授業をしていることか…。
人の話を黙って90分間聞き続けるのが苦痛であることは知っていますが、
聞いているのかいないのかわからない、それどころかあからさまに聞いていない人もいる前で、
90分間しゃべり続けなければならない苦痛のことも少しは理解してもらえたらと思います。
積極的傾聴かあ。
憧れるなあ。
ぼくが入院したときにはぜひ、看護学校の教え子たちに積極的傾聴してもらいたいと思います。
その節はなにとぞよろしくお願い申し上げます

修明高校メガ講演会・敗戦記 (教員・保護者編)

2014-05-23 14:28:13 | お仕事のオキテ
もう旧聞に属しますが、修明高校でのメガ講演会、
生徒の皆さんのアンケート結果はお知らせしましたが、
教員と保護者の分の結果報告がまだでしたので、遅ればせながらご報告させていただきます。
ただし、教員・保護者分はほとんど感想用紙が回収できなかったので、
データとしてはあまり有意味な数値ではないかもしれません。
が、いちおう計算してみました。

教員の満足度評価、4.0。
保護者の満足度評価、3.41。

3.41ですよ、3.41。
史上最低にもほどがあります。
生徒の皆さんからはとにかく 「難しい」 という評を頂戴していたわけですが、
同じ話を保護者の皆さんが聞いて難しいということはなかったろうと思うのです。
ですので、今回の失敗の原因は話の難しさのほかにもっと別の要因があったのではないでしょうか。
自由記述を書いてくださった方はさらに少なかったのですが、いくつかご紹介しましょう。


【教員の皆さん】

●実際的な問題として、本校の生徒と保護者にとって、理解しにくい (話が通じない) かもしれないと思いかなり心配しましたが、特に講演後半から (ようやく) 先生の意図が通じてきたように感じられました。先生にはお忙しいところ、かつ遠方よりお越しいただき、とても助かりました。本日はありがとうございました。

●本日の内容で一番印象に残ったお話は 「考える力」 を身につけることについてです。先生のお話の中で 「社会人になると答えのない問題の答えを自ら考えていかなくてはいけません。だからこそ、今学生のうちに答えのある問題を解く力を身につける必要がある」 とありました。まさに今の生徒たちに大切なことだと思いました。私達が教えていることがどのように生徒たちにつながっているかよく分かる話でした。ですが、私はただ働くために生きるのではないと考えているので、生徒たちには生きるために働くことの意義をつたえていきたいと感じました。時間の制限があるとは思いますが最後の部分の話をもっと掘り下げて聞きたかったです。ですので満足度は3点です。講師の先生方、お忙しい中、本当にありがとうございました。


【保護者の皆さん】

●生きていくことの意味、社会の中での働き、そのもとを言葉にしてわかりやすく教えていただけたと思います。

●ありがたい話が特に興味・関心を持ちました。

●私はまだまだいい親ではありません。でもいい親、いい子になるために答えはないんだと思えました。子供達が生きていくうえで必要な事をきちんと教えてあげる、そのために私たち親もきちんとした知識を身に付けて、学んでいかなくてはいけないと思いました。まわりの人に感謝して 「ありがとう」 と日々思う事にします。ありがとうございました。

●話の内容はとてもいいと思いますが、何故か、話にひきこまれるという事がなく面白みがなかったと思います。もっとぐいぐい遠慮なく大きな声で話すと、もっと話が生きるのでは? 講師の略歴等、もっと詳しく知りたかったです。ユニークな方だと思いますので、その辺から始まれば聴衆がひきこまれると思います。根はとても面白そうな方と思いますので。


とまあ、こんな感じです。
教員の方々からの意見を総合すると、話の前半、本能の壊れた動物の話よりも、
話の後半、学校の勉強と大人に必要な力との関係の話や、ノーブレス・オブリージュの話のほうを、
もっと中心的に話したほうがよかったのかもしれません。
また、最後の保護者の方の意見を参考にすると、私の話し方の問題もあったようです。
これらの貴重な意見を参考にしつつ少し講演内容に手を入れるときが来ているのかもしれません。
ただし、「ありがたい話」 に関してはあいかわらず好評価をいただいておりますし、
(これは多くの生徒さんたちも言及してくれていました)
その話をするためには 「本能の壊れた動物」 の話をしておく必要があって、
どう話を組み立てていったらいいのかちょっと今のところ見当がつきません。
幸い、当面まだ次の講演依頼はいただいていないので、
ちょっとじっくり考えてみたいと思います。
修明高校の皆さま、このたびは本当にありがとうございました

相馬看護学校 「哲学」 終了!

2014-05-22 19:34:20 | 教育のエチカ
7回通って計14コマ講義してきた相馬の看護学校の講義が今日で終了しました。
毎回2コマ続きで、しかもほとんど 「死」 の問題ばかり扱うというヘヴィな内容に、
最後までお付き合いいただきまして誠にありがとうございました
最後のワークシートから 「哲学」 の授業全体に対する感想部分をいくつかご紹介しておきます。


「哲学の授業を通して、始めはとてもかたくるしい授業なのかと思っていたけど、人間の特徴や生と死、SOLとQOLなど幅広くわかりやすく授業していただいたので退屈することなく取り組めました。ワークシートに書くことで自分の考えをまとめられるので、あとからみても思いだせてよかったです。短い間でしたがありがとうございました。」

「『哲学』 の授業は久しぶりにたくさんの板書をしたと思います。もともと字をかくことが好きなのでとても楽しく、それにプラスで自分に知識がついていくことが楽しかったです。また、先生の最初の方におっしゃっていた、『書き留めなければ何も起こらなかったも同じこと』 という言葉がとても印象的だったので、今からでも書き留めることをしていきたいです。」

「哲学を受けてみて、今まで、意識をあまりしない様な、死について、少し理解することができた。自分の意見を言えることも大切だけど、聞くことも大切であると感じることができた。授業をうけて、家族とも、死の話し合いをしなくてはいけないと思いました。書いたり、自分の考えを読んだり、聞いたりすることが多い授業でしたが、他人の意見をきくことで、より深く学べたと思います。7回と短い間でしたがありがとうございました。」

「最初は 『哲学』 と聞いて正直つまんなそうやむずかしそうといった哲学に対して勝手なイメージをもっていました。しかし、授業を受けると、私たちの身の回りは哲学にあふれているんだなと思うことができました。私は普段あまり深く考える方ではないのですが、授業で深く考えてみて楽しかったのでこれからは物事をいろんな視点から、深く考えていきたいと思います。」

「哲学を学び、常識に疑問を持っても変なことではないと考えることができたのが私にとって大きかったです。ありがとうございました。」

「今まで 『死』 に対して深く考えたことが少なかった。今回の授業を通して自分自身の死に対する考えに向き合うことができました。『当たり前』『普通』 という捉え方をするのではなく、色々な視点で今後も様々なことに対して考えていきたいと思います。」

「死について、自分の死、自分以外の人の死、死ぬってどういうことか、死の選択……など自分で考え、また先生やクラスメイトの考え方を知り、本当に1人1人思いも考え方も違うのだなと思いました。自分と周りが違うということ、自分の考えはあくまでも自分の考えだということ、周りの人の考えを知ることで周りの人を受け入れやすくなったように思います。また、授業はとても楽しかったです。考えることは楽しいです。……ただ答えが出ないことがたまに苦しいと感じます。」

「哲学の授業では、普段考えない 『死』 について深く考えることができました。これからの生活、1日1日を大事にしていこうと思いました。とても分かりやすく、楽しい授業でした。ありがとうございました。」

「自分は哲学がわかりませんでした。ただ、小野原先生の授業を聞くことで、患者さんに対する意識や自分、家族に対する意識が変わってきました。これから実習があるので、哲学の授業で学んだことを生かして、実習を頑張りたいと思います。今までありがとうございました。」

「哲学はとても難しくて、面倒なものだと思っていたけど、勉強してみて、『死』 や 『生』 など答えを決められない、あるいは決めるべきではないものだが、必ず生きるうえで必要なものについて深く考えるものだとわかった。また、看護職を目指すためには、避けて通れない内容を、『自分はどうなんだろう?』 と自分におきかえて考えることも大切なんだなと感じた。この哲学の授業は、私にとって人生の視野を広げるような学びの不快時間だった。毎回、納得・共感することがあった。私は 『死』 について考えることを避けていた部分があるが、哲学の授業で 『死』 は悲しいだけではないと感じることができた。ありがとうございました。」

「『哲学』 全体の感想は、『死』 に対することが多くとても悩むことが多かったですが、告知の話や安楽死の話は私にとって学んでよかったと思うものでした。将来は、緩和ケアの認定看護師をとりたいと考えていて、哲学はとてもためになったと感じます。ありがとうございました。」

「哲学の授業をきいて、以前は死生観についてわからなくてレポートに困っていたのですが、死について考えることで自分なりに少し深まったと思います。患者目線、医療者目線、看護師の目線からプリントのテーマについて考えることができ、いろいろな考え方ができました。自分だったら延命治療はしないけど家族側だったら延命治療してほしいなど、矛盾が生じることも多かったです。死について考えるのはまだ早いかなと思っていたのですが、Death Education の話など聞いて、早いうちからよく考えていたり、家族と話し合うことは大切なことかなと思いました。」

「哲学がとても楽しかったです。他の学校で哲学を学んだ友人に誇らしげに話すとうらやましがられました。ただ、学んだこと全て友人と一気に話したら、他の学科 (看護ではない) のためかとても内容が重いと言われたので、注意しながら話さなければいけないと思いました。私は死について考えることが嫌ではなく、むしろ死とはありがたいなあ、と思っていました。死んだらどうなるのかな、や自分が死ぬときはなど、幼い頃からあまりにも言うために、変とは言われていたのですが、哲学でたくさん考えることができ、すっきりしました。ありがとうございました。」

「哲学と看護は似ている…というか、ほぼイコールでつながっているのだなと思いました。哲学の授業は楽しかったです。2コマ続きでもたえられました。考えることって、大変だけど楽しいって思えました。まさおさまが私たちの顔と名前を覚えようとしてくれたこと、ワークシートに書きこみをしてくれたことも、『私達のことをしっかり見てくれている』 と思い、うれしかったです。ありがとうございました。単位ください。」


そういえば今日の授業中、教卓に 「わいろ」 のチョコレートが置かれていました。



チョコレートは有り難く頂戴いたしますが、残念ながらこれで単位をあげることはできません。
第1回めの授業で配付した 「レポート作成要領」 に則って、
「哲学」 の授業でどこまで考えを深めることができたのかをレポートで思う存分表現してください。
哲学と看護はほぼイコールでつながっているのですからいくらでも書くことはあるはずです。
指定枚数ギリギリではなく、私が読み切れないくらいたくさん書いてくださいね。
これから実習だと思いますが、忘れてしまわないうちにこの週末のうちに書いてしまいましょう
みんなの力作を期待しています。

Q.物差しと定規はどう違うか?

2014-05-21 17:11:31 | 人間文化論
これは小学生のお子さんをもつ親御さんが、お子さんから出された質問だそうです。

たぶん学校で教えられて、得意になってお母さんにも聞いてみたんでしょう。

昔書いた 「聞いて聞いて状態」 ってやつですね。

そのときのお子さんの顔が思い浮かぶようです。

さて質問に戻りますが、物差しと定規はどう違うのでしょうか?

簡単そうで意外とよくわかりせまん。

はっきり言って私は知りませんでした。

皆さんはご存知ですか?

ちょっと考えて答えてみてください。

はい、シンキングタ~イム




















ヒントその1。

竹かプラスチックかみたいな材質の違いではありません。

そう答えちゃった人はもう一度考え直してください。




















ヒントその2。

直線定規のことを物差しと言うが、定規には物差し以外にも三角定規などもあり広い概念である、

というのはぼくが考えた答えですが、これも不正解です。




















ヒントその3。

目盛りが一番端から始まっているか (竹のやつはそうですね)、

それとも目盛りが少し内側から始まっているか (プラスチックのやつはこっちのタイプです)、

という違いを答えた人はちょっとかすっていますが、これも正解ではありません。

はい、もう一度考え直し~




















それでは正解を発表します。

A.物差しは長さを測るための道具、定規は線を引くための道具です。

なんだそうです。

これはもうクリアにそう定義されているようです。

ウィキペディアにもちゃんと載っていますのでご覧ください (こちら)。

記事によれば定規というのは数学用語であり、

「平面上の任意の2点間を通る直線を引くことができるというただ一つの機能を持つ道具」 のことで、

だから定規に目盛りが付いているのはあれはたんなるオマケにすぎず、

「計量器としての検定や校正証明を受けたものではない」 のだそうです。

そうだったのかあ。

52年も生きてきたけどまったく知りませんでした。

附属小学校や附属中学校で教えてくれていたのかなあ?

たぶん教わっていないと思うけど、教わったとしても当時のぼくはスルーしちゃってたろうなあ。

でもこの歳になるとこういうことを知ることができるとものすごく興奮しちゃうんだなあ。

文化を学ぶっていうのは歳を取るとよけいに有り難く感じられるものです。

いい歳してぼくも 「聞いて聞いて状態」 になってしまいました。

お付き合いくださりどうもありがとうございました。

『きいろいゾウ』 小説&映画

2014-05-20 18:23:38 | 幸せの倫理学
『きいろいゾウ』 という小説を読み、その後DVDも見ました。



まず小説のほうですが、ちょっと読むのに苦労しました。
この小説は去年、看護学校の学生さんに勧められました。
キリンに乗った私の絵を描いてくれた学生さんです。
せっかくご紹介いただいたのでさっそく買って読み始めてみたんですが、
ちょっと世界観が合わないというか、最初のうちなんだか意味わかんなくて、
なかなか読み進めることができませんでした。
主人公の女性が犬やクモや木と話すことができるんですよ。
全体的にファンタジーという感じではないにも関わらず、自然と会話しちゃうんですよ。
舞台も自然に囲まれた田舎だし、ちょっと自然ギライの私には向かない感じの本でした。
なので最初の数10ページを読んだところで止まってしまって、
ベッドサイドテーブルに置いたまま別の本を読み始めちゃったりしてました。
そのまま数ヶ月放置したところで、新しく読む本もなくなり久しぶりに手にしてみて、
ちょうど大地君との絡みが活発になってきたあたりから一気に読み進めることができました。

読み終わってみて、うーん、まあ大絶賛というほどではありませんでしたが、
なかなか興味深く読んだというか、こういう世界が好きな女性は多いんだろうなあと、
自分とは異質な世界を垣間見せていただいた感じでした。
主人公の夫婦がいるんですが、お互いにあまり言語化せず、心の読み合いというか、
それぞれ感じ取るところはありつつもそれを直接ぶつけ合わないんですね。
いや、日々の生活の中でけっこう言葉は交わしているのですが、肝心なことは話さないんです。
それでちょっとしたすれ違いとか、けっこう大きな溝が発生したりするのですが、
言語コミュニケーション優位の私としては、そこがけっこうまどろっこしく感じました。
しかしながら、非言語コミュニケーションのほうが得意な人たちもいるわけですから、
これはこれでありなんだと思います。
実際ふたりはものすごく強い絆で結ばれているわけですし。
そして思い返してみると大地君とのエピソード、アレチさん夫妻のエピソード、足利さんのエピソード、
つよしよわしのエピソード、夏目夫妻とのエピソード等、どれも巧みに効いていて心に残るものでした。

というわけで小説を読み終わった勢いでDVDも借りて見たんですよ。



主人公の夫婦を宮あおいと向井理が演じていて、
その他のキャスティングもよかったですし、
映像的にはいい感じに原作世界を再現しているように思いました。
ただストーリー的にはまったく納得いきませんでした。
なんでこういう脚本にしてしまったんでしょう。
尺的にすべてを映像化できないのはわかっていますが、
どうしてこういう取捨選択になってしまったのかまったく理解できませんでした。
この小説のなかで大地君をめぐるエピソードはいろんな意味で要だったのだと思うのですが、
それがものすごーく薄められてしまっていたのが大きな敗因ではないかと思います。
ツマ、ムコ、大地、洋子の4角関係も深められていませんでしたし、
つよしよわしのエピソードは完全に削除だし、
何より肝心な 『きいろいゾウ』 の絵本をめぐるムコと大地のやりとりもあっさり流されていました。
夫婦のすれ違いを克服するにも最も重要なエピソードだったと思うのですが、
なんでそれがああいう扱いになってしまったのでしょうか。
また小説ではエンディングに位置づけられていたアレチさんの幽霊エピソードも完全カットでした。
あれをカットするにしても、だったらそれに代わるピソードを配置すべきだったのではないでしょうか。

ただでさえ小説優位派で、原作読んだあとで映画を見るのに反対の私にとって、
この映画は本当にダメでした。
では小説読む前に映画を見ていればもう少し満足できたでしょうか?
うーん、どうもそうは思えません。
映画だけ見た人ってあれで意味わかったんでしょうか?
なんだか、なかなか読み進められなかった小説の最初のほうだけを映像化して、
延々と130分見させられたという印象が否めません。
原作の面白いところが全部カットされて、ダルな不思議ちゃんの部分だけ残した感じです。
まあ私は原作と比べながらどうブログに書こうか考えながら見ていたので、
なんとか最後まで付いていくことができましたが、これを映画だけ見るのはツライんじゃないかなあ?
というわけで 『きいろいゾウ』 に関しては小説のみの一点押しとさせていただきます。

P.S.
小説のほうでは最後まで謎のまま残されていた (と思う) ツマは日記を読んでるのか問題。
映画ではあっさりと読んでいるほうの結論に落ち着いていましたが、
原作の解釈として本当にあれでよかったんでしょうか?
これに関しては小説と映画、両方見た方にご意見をおうかがいしたいところです。

ふくしまノート

2014-05-19 16:08:33 | グローバル・エシックス
先日4コマ漫画 『うちはおっぺけ~3姉妹といっしょ』 を読める

「すくパラ倶楽部」 のホームページを紹介しましたが、

その 「すくパラ倶楽部」 の中に井上きみどりさんの 「ふくしまノート」 という漫画もありました。

漫画なので読みやすいですが、内容はとても真面目でとてもまとも。

何かを煽り立てたりすることなく、福島に暮らす人々の実態を伝えてくれています。

これもいずれ会員しか読めなくなってしまうと思われるので今のうちにどうぞ。


①なぜ福島に住み続けるのか?

⑰原発避難者の中には障がい者もいることを知ってください

⑱農業関係者のノート

⑲米専業農家のノート

相馬ドライブ・その後の顛末

2014-05-17 12:23:39 | ドライブ人生論
今年はいろいろと変化のあった相馬ドライブですが、その後の顛末を若干ご報告しておきましょう。

まずはへんてこ看板です。

こんなこと↓になってしまっていた看板ですが、



先々週ぐらいにこう↓なっていました。



正しい日本語に修正されるわけでも、新しい看板に変えられるわけでもなく、

ただ以前の状態に復帰しただけです。

約1ヶ月ほどの間なぜ 「減   い」 になっていたのでしょうか?

まったく意味がわかりません。

どうなってるのだ、日本の道路行政


そしてもうひとつ、この看板↓によって



長らく私にとって相馬ランチの代名詞となっていた 「間乃次郎庵」 とお別れとなってしまいました。

今後、相馬に来たときランチをどこで食べたらいいんだよとブログでこぼしていたところ、

すぎっちから駅前の蕎麦屋 「ふくしまや」 とイタリアン 「ばりお食堂」 を紹介されました。

「ふくしまや」 は去年からすでに行ったことがあったのですが、

「ばりお食堂」 のほうはまったく知らなかったので、5月になってから初めて訪れてみました。

お店の外観はこんな感じ↓です。



まず店名がナゾでしたが大きくこんな看板↓が出ていました。



ひらがな表記の下に Osteria di Vualio と書かれていて、

なんだイタリア語だったのかと得心いたしました。

こちらはけっこう広いお店なんですが基本シェフがひとりでやっているようです。

料理も接客も皿洗いも会計もすべてひとりでこなさなくてはならない 「すき家」 状態 です。

ところがシェフはとても気さくな方で、手の空いたすきにあちらから話しかけてきてくださいました。

そこで Vualio の意味を聞いてみたところ、

馬陵公園の馬陵ですと教えられて2度ビックリです

馬陵公園というのは毎年、桜の様子をお伝えしているあそこのことです。

なんだ、全然イタリア語でもなんでもなかったんじゃん。

まあでもこうしてお客さんに疑問をもたせ会話の種になるんだからいい店名だと思います。

ランチメニューはこんな感じ↓です。



どれも心惹かれます。

「プリプリ海老とセロリのレモンバターソース」 なんてちょっと素人には考えつきませんし、

「石窯焼きナポリタン」 というのもインパクト抜群で頼んでみたくなります。

しかし私はこと食に関してはとても保守的なので、

初めてのイタリアンレストランではどうしても基本のトマトソースに流れてしまうのでした。

(ちなみにめったに食べないケーキだとけっきょく毎回イチゴのショートケーキになってしまいます。)

というわけで 「元気100倍パスタランチ」 を選ぶことになりました。

「サラダ付」 と書いてありましたが、このように↓スープも付いていました。



そしてパスタは 「サンマルツァーノとモッツァレラの濃厚トマトソース」 です。



本格的にウマイっ(^O^)/。

ランチじゃなくてディナーに来てワインと一緒にいただきたかった感じです。

パスタなので糖質制限には反してしまいますが、

すっかり気に入ったので新しい定番ランチ処と認定いたしました。


以上、相馬ドライブその後の顛末でございました。

もう来週が7回目、最後の講義です。

始まったときは長い道のりと思っていたけど、あっという間だったなあ。

まだ哲学FAQにも全然答え終わっていないので頑張らねばっ

自由の分類ワークショップ

2014-05-16 15:14:21 | 教育のエチカ
この写真、授業風景なんですが、みんなが何をしているかわかるでしょうか?



実は前回の 「倫理学概説」 ではみんなに自由とは何かを考えてもらい、

自由をひとつに定義するというのは難しいので、

自由に含まれる多様な意味を整理・分類するというワークショップをやってもらいました。

100名超のクラスを16のグループに分けて、

ディスカッションの成果を黒板に書いてもらいました。

こんな感じ。



それを今までだったら全部ノートに書き写してもらっていたんですが、

グループ・ディスカッションだけでだいぶ押してしまっていたので、

写メで撮ってもいいよと指示したところこういう光景になったわけです。

かく言う私も写メで保存させていただきました。





各班、なかなかがんばってくれました。

なのでこれを全部板書するとなったらちょっと大変だったことでしょう。

以前にはみんなに板書してもらうのは大変なので、

私がパソコンに打ち込んでまとめたプリントを配付したこともありましたが、

それだと私の負担がものすごく大きすぎて、数年で挫折しました。

そう考えると便利な時代になったものです。

このように技術の力を駆使して今までできなかったことが簡単にできるようになるというのは、

まさに自由の拡張のように思えます。

とはいえ、今回は私が許可したからみんなでやっているわけですが、

授業中の板書をすべて写メですませてもいいものか、

みんながノートを取っている傍らでひとりでカシャカシャやっている自由はあるのか、

というとこれはそうそう認められないのではないでしょうか。

しかしながら、そういう学生が現れたときにその自由を制限する権限を教員はもつかというと、

その根拠も薄弱な気がします。

多くの班が悩んでくれていましたが、自由と制限、自由とルール、自由と責任の関係って、

考えてみるとなかなか難しい問題を含んでいて一筋縄ではいきません。

また、技術により可能となる自由と、他者 (例えば教員) によって制限されうる自由って、

同じ自由と言いながら、その意味合いがかけ離れていることはご理解いただけるものと思います。

はたして自由とは何か、自由はどれほど多様な意味をもっているのかについて、

今回の各グループ・ディスカッションの成果を踏まえ、

次週からの私の説明も聞いてみた上で思索を深めてもらえたらと思います。

Q.ソクラテスは好きですか?

2014-05-15 18:48:43 | 哲学・倫理学ファック
A.ソクラテス、大好きです。

ソクラテスという人は書物を残しませんでした。
したがってソクラテスの哲学がどのようなものであったのかはっきりとはわかりません。
ソクラテスの弟子のプラトンはすべての著作を対話編という形で書き、
その主人公はすべてソクラテスとなっています。
つまり、プラトンの著作の中ではソクラテスが哲学を語っているのですが、
それはソクラテスが本当に言ったこと、ソクラテス自身の哲学なのか、
それともプラトンの哲学をソクラテスという登場人物に語らせているだけなのかがはっきりしません。
おそらく後者なのでしょう。
ただ、プラトンの初期の著作、『ソクラテスの弁明』 や 『クリトン』 などは、
ソクラテスの言葉をそのまま伝えているのではないかとも言われています。
もうひとりの弟子クセノポンが書いた 『ソクラテスの思い出』 という書物もあり、
それらを通してソクラテスの人となりや思想を推定してみるしか私たちにはできないのです。
ですから、これから書く話も本当にあったことなのかどうかはわからないのですが、
とても気に入っているエピソードで、それが私がソクラテスを好きな理由です。
これはプラトンの 『パイドン』 のなかに書かれている話です。

ソクラテスは哲学の祖として、懐疑の精神を人びとに伝えていました。
ソクラテスは当時のアテナイを支配していた既存の倫理 (=法) をも疑い、
これに問いを投げかけたため、一般市民や政治家たちの反感を買うことになりました。
けっきょく彼はそれがもとで裁判にかけられ、死刑判決を下されてしまいます。
ソクラテスを敬愛する弟子たちは脱獄の手はずを整え、いつでも国外逃亡できるように準備して、
なんとか師を救おうとしたのですが、ソクラテスはこれを固辞しました。
ソクラテスは真の人間の生き方として、たとえどんな法であったとしても、
人びとを説得して法を改めることに失敗してしまったならば、
ポリスに生きる者としてそのポリスの法には従わなければならないと考えていたのです。
その信念に従いソクラテスは死刑を受けることになりました。

死刑当日、ソクラテスのもとに弟子たちが集まってきます。
彼らに向かってソクラテスは 「哲学者は喜んで死のうとするものだ」 と語ります。
しかし、弟子たちはこれに納得せず反論してきたのです。
そのときソクラテスはその執拗な議論を喜んでいるようでした。
そして、残された時間ソクラテスと弟子たちは、霊魂は不死なのかどうか、
死によって霊魂は消滅してしまうのか、それとも肉体の牢獄から解放されることになるのか、
等々といったことについて激しい議論を交わすことになるのです。
議論のなかで厳しい問いを向けられて答えに窮してしまうことがありましたが、
そんなときソクラテスはいつも通りのクセで、目を大きく見開いてほほえむのでした。
この議論のあいだ中ソクラテスは幸せそうだったと弟子のひとりが証言しています。

このエピソードって、よく考えてみるとものすごい話だと思うのです。
ソクラテスはこの議論のあとすぐに死刑執行のため毒薬を飲まなければならないのです。
師匠が今まさに死を迎えようとしているわけです。
その師匠は、哲学者は喜んで死を迎えるものだ、死んでも霊魂は消滅するわけではなく、
霊魂は不滅で、死によって肉体のくびきから解放されるのだと信じ、死を受容しているわけです。
その師匠に対して弟子が、霊魂は不死ではない、死んだら霊魂は消滅するのだと反論するのって、
むちゃくちゃだと思いませんか?
せっかくの死の受容を根本から否定しようとしているのです。
それって師匠思いの弟子のすることでしょうか?

しかし、ソクラテスは弟子たちのそうした様子を喜んでいます。
ソクラテスが弟子たちに伝えたかったのはまさに懐疑の精神でした。
師匠の言うことを素直に受け止め信じるまっすぐな心ではなく、
たとえ尊敬する師匠が言ったことであろうと、
たとえ死を目前にしているといった切羽詰まった場面であろうと、
おかしいものはおかしいと言い、納得できないことは徹底的に追究する、
そういう懐疑の精神をソクラテスは弟子たちに伝えようとしてきたのでした。
そして、最期の最期の場面で弟子たちはみごとにその懐疑の精神を発揮してくれました。
そのことをソクラテスは喜び、それによって幸福感に包まれていたのでしょう。

なんだかとてもいい話だと思いませんか?
自分の言うことを素直に信じるイエスマンを育てるのではなく、
自分の言うことに本気で反論してくる真の意味での哲学者を育てる、
そうやって育てた弟子たちととことん議論を交わすことを心から楽しむ、
これってそうとう心が広くないとできないことだと思います。
私はまだまだここまで人間ができていませんが、
哲学にとって疑うことが大切であると言い続けている以上、
いつかはこれぐらいの高みに達したいものだと思います。
というわけでソクラテスは大好きだし、哲学者の鑑として心から尊敬しています。

おっぺけですけどいいでそべつに

2014-05-14 16:28:50 | 幸せの倫理学
震災直後くらいまで、松本ぷりっつの 「うちの3姉妹」 というブログが、

私の心の支えだったときがありました。

松本ぷりっつという漫画家さんが自分のお子さんたちの日々の言動を描いたブログで、

マンガ化やアニメ化もされたようなのでご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

3姉妹の言動がぶっ飛んでてむちゃくちゃ笑えるというのもありますし、

子どものいない私としては子どもの実態がわかるという意味で勉強にもなっていました。

ところが、2011年の4月にそのブログは更新終了してしまいました。

閉鎖はしていないのでまだ見ることはできますが、今は更新されていません。

その代わりに、松本ぷりっつの公式ブログ、

「おっぺけですけどいいでそべつに」 が新たに開設されました。

以前に比べて更新のペースが少し落ちているのと、

3姉妹の話のほかに松本家のペットたち、犬や猫たちの話も描かれるようになっています。

動物ギライの私としてはペットの話はどうでもいいのですが、

3姉妹のエピソードは、みんなだいぶ成長したために若干インパクトは衰えてきているものの、

あいかわらず温かい笑いを提供してくれます。

おヒマな方はぜひ覗いてみてください。

今日は私のお薦めエピソードをいくつかご紹介しておきましょう。


「遊園地いってきた」

「おいろけムン」

「子どもの例え」

「セクシーなカレンダー」

「猫のポーズ」

「判決」

「料理酒」

「タイヤ」

「江戸博物館」

「えびぞり会社 (1)」

「えびぞり会社 (2)」


つい最近になってやっと 『天空の城ラピュタ』 を見た私としては、

ちょいちょいはさまれるムスカネタがツボだったのと、

なんといっても大作 「えびぞり会社」 が絶品でした。

松本家の3姉妹、いまだ健在のようです。


P.S.

あとオマケで4コマ漫画 『うちはおっぺけ~3姉妹といっしょ』 も貼っておきます。

期間限定公開のようなのでそのうち見られなくなってしまうと思いますが…。

「ソチオリンピック編」

「東京に大雪編」

「春到来 花粉症編」

修明高校メガ講演会・敗戦記 (生徒編)

2014-05-13 17:58:59 | お仕事のオキテ
先々週、講演会に行ってきた修明高校から感想用紙が送られてきました。
800名を超えるメガ講演会でしたので、さすがに感想用紙の回収は難しかったようです。
生徒さんの分が350枚あまり、保護者の方々の分が20枚弱、教員分が4枚と回収率は低めです。
とはいっても相当な数ですので集計には手間取ってしまいました。
今日はとりあえず生徒さんの分だけ結果報告させていただきます。

いつもの満足度の5点満点評価ですが、生徒さんの評価の平均は3.86でした。
予想どおり今までで最低の評価です。
同じメガ講演会では福島高校で3.91、
福島三中で3.97、
白河高校で4.43でしたから、
それらと比べてもいちだんと低い評価であることがわかると思います。
うーん、まあ予想はしていましたが、しかしこうやって現実を突きつけられるとショックです
話している最中も、なんだかオーディエンスの皆さんとものすご~く遠い気がして、
(実際、物理的にも最前列の皆さんとも距離がけっこう離れていましたから、
 一番うしろなんてこちらからはまったく見えない感じでした)
こちらの話が届いている、聞いてもらっているという実感がまったくもてずにいました。
話しているほうがそう感じていたくらいですから、聞いていたほうからはよけいにそうだったのでしょう。
本当に申しわけないことをしてしまいました。

さて、具体的にはどう受け止められたのでしょうか?
いつものように自由記述の部分をいくつかピックアップしてみましょう。
今回は敗因分析のために満足度の評点ごとに分けてご紹介することにいたします。


【満足度5点の皆さん】

●今まであまり考えたこともなかったけど、今日の講演会を聞いてこれからの進路に役立ちました。

●話がおもしろかった。毎日してもらっているのをあたり前だと思わないで、感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思いました。生きていくためにはやっぱり勉強が大切なんだとあらためて思いました。

●人間がなぜ学び働くのか、改めてまなぶことができた。また、自分自身であたりまえと思ってたことが、じつはあたりまえではないと知り、とても驚きました。人間と動物はとても近く、かぎりなく遠いと思いました。人間はずっと考えて生きていくと聞いて、答えがないのになぜ考えなくてはいけないのだろうと思いました。今回まなんだことを生かして、これからの生活を充実させていきたいと思います。

●小野原さんの話を聞いて、新たに視野が広がった気がします。答えのない問いを考える力を、私たちは身に付けなければならないと学ぶことができました。

●当たりまえなことを当たりまえに思わず 「感謝の気持ち」 を忘れずに生活していきたいと思えるような講演会になりました。

●今日の講演を聞いて、人が学び働くのは生きていくためだということがわかりました。勉強するのがイヤでも生きていくためにがんばりたいと思います。

●今日、話を聞いてとってもいい人だと思いました。なんかめっちゃいい人だし、考え方もなんかすごいこと言ってるし、今日の話を聞けてとっっっってもよかったですヽ(^^)/

●今回講演を聞いて、私はまだ2年生ですが進路について考えさせられました。なぜ働くのか、なぜ勉強するのかなど、講演をきくまで自分の軽い考えしかなかったのでとても貴重な講演でした。これからはずかしがらず、親に 「ありがとう」 といいたいと思います。

●動物の赤ちゃんはすべて自分でやるのに、人間の赤ちゃんは長い時間をかけて文化を身に付けていくところが不思議だなと思いました。子供のときは答えがある問題を考えて、大人は答えのない問題を考える、だから知識を身に付けなくてはならないんだな~と思いました。「教育は永久に終わらない」 という言葉が印象に残りました。文化を身に付けることは大切だなと思いました。日本人でよかったなぁ~

●文化の意義について考えさせられる講演でした。文化は作り出されたものだが、先生の仮説を聞いて、文化が人間の生きていくための理由なのでは? ということに興味がわきました。また、ノーブレス・オブリージュの意味、説明をきいて、改めて自分たちがいかに恵まれているかがわかりました。このところからも 「人間にとってあたりまえのことはない」 というところにつながっているのではと思いました。他人が何かをしてくれることは有り難いことであることは少なからず認識していましたが、「他人のためにしてあげることはあたりまえではない」、「人間にとってあたりまえのことはない」 というものは初めてきいたのでとても印象に残りました。

●世界を100人の村と考えたとき、日本人に生まれたことがどんなに恵まれているかを知って、今までめんどくさいと思ってた勉強が、生きてくために必要だとわかりました。今、学校に通い、学べることが幸せな事だということを忘れず生活していきたいと思いました。

●人が働かなければいけない理由、僕達が勉強しなければいけない理由が、本能と結びつけて教えてくれたので、説得力がありました。将来のことを考えていろいろなことを学びたいと思いました。今日は講演会を開いてくださりありがとうございました。

●「ノーブレス・オブリージュ」 という言葉がすごく印象に残りました。「恵まれた者の義務」 を私も果たしていきたいです。人間について様々な観点からお話しして頂き、今まで気づかなかったことに対する関心を持つことができました。今日は為になるお話を有難うございました。

●サルの進化について、特徴や環境変化で今の人間に変わるのがとてもおもしろく納得できました。人間早産仮説も、他の動物と違う点で早く産まれたということも仮説なのですが、おもしろくうなずけました。私達はめぐまれているのでノーブレス・オブリージュという言葉の通り、100人のうちの8人なので、のこり92人のためすこしでも役に立てるように自分でもなにか行動をおこせるように考えていこうと思います。本日はありがとうございました。


【満足度4点の皆さん】

●文化はとても大切なんだと思いました。大人になっても学ぶことはたくさんあるし勉強しない年はなんてない。これから就職、進学と自分の将来のために今、とてもだいじな時期だと思った。

●自分が満足した生活をしているのは親や周りの大人たちのおかげなんだとあらためて思った。

●ノーブレス・オブリージュ=恵まれた人の義務。「日本に生まれた時点で恵まれてんだから人の役に立てるような仕事をしなさい」 みたいな事を言っていて、本当にそうだなーって思った。人の役に立てるような仕事につけるようにしたい。なにがあっても 「あいさつ」 と 「ありがとう」 は言うように心がけて、これからも生活していきたいです。

●私が一番印象に残ったことは人間早産説です。考えてみれば馬やヤギは産まれてすぐに立ち、魚は泳ぎます。人間とちがい、産まれてすぐに立つ馬やすぐ泳ぐ魚は自然で生活する技術を身につけます。そう考えてみると、資料に書いてあるように赤ちゃんは無能です。私は産まれてすぐ歩き、話せたら、親に迷惑をかけないなと、馬や魚が少しうらやましくなります。ですが、人間は成長し、様々な技術を身につけ、将来親こうこうするので、小さいころに少しは迷惑をかけてもいいと思います。非遺伝的適応能力や高度産業化社会など、わからない言葉等がでてきましたが、わかりやすい説明だったので、すごく良かったです。本能のこわれた動物と書いてあってはじめはあまりわかりませんでしたが、複数の例によりくわしく理解できました。今回の講演はとてもよかったです。

●しんぶんしなど私もそうゆうのが好きなので、まさおさまとゆうのはおもしろかったです。自分の名前でそうゆうのが思い浮かぶのがすごいと思いました。ごまたまごもいいかんじですよね。

●自分が当たり前だと思っていたのは当たり前にならないのが少しびっくりしました。大人はすごく苦労しているんだと改めて分かりました。文化を学ぶことは大切だと思いました。

●今日の講演を聞いてこれから生きてゆくうえでためになったし、今までずっと 「なんで勉強しなきゃいけないの」 って疑問に思ってたけど誰もちゃんとしたことを教えてくれませんでした。ほんとうに今日はありがとうございました。

●講師の方の話し方はよかったと思います。また人間は本能の壊れた動物という話をし、その中でありがたいことなども話を聞けてよかったです。ですが、少し難しすぎる話はちょっと分からなかったです。でも、これからの自分のためになる話もあったので参考にし、頑張って行こうと思いました。

●よい話だった。少しねむかった。

●良く分かりにくかったけど、考えさせられた講演だった。

●スクールーン [? 原文のままです。何のことだろう?] とかあった方がおもしろい。生徒に質問を問いかけたり生徒と関わりながら楽しくした方がいい。


満足度5点とか4点を付けてくれた人はほとんどいいことしか書いてくれていませんが、
4点を付けた方のうちの最後の4名は若干意見・要望を書いてくださっていました。
要するに話がわかりにくい、難しいということなのでしょうね。
ふだん中学生にも話している内容ですので、
高校生ということでちょっと丁寧な説明をおろそかにしていたのかもしれません。
特に高校1年生はついこのあいだまで中学生だったわけですからね。
あまり高校生だからという意識で臨むべきではなかったのかもしれません。
さて、満足度3点以下の方々で感想を書いてくれていたものに関しては、
取捨選択せず全部記しておくことにしましょう。


【満足度3点の皆さん】

●今日の講演を聞いて、これからはもっと勉強をしようと思った。

●よく話が難しかったです。でも、答えのない問題をよくよく考えることは、難しいことなのかと思いました。

●なぜ勉強するのかということがよくわかりました。

●頑張って生きていこうと思った。

●なぜ働くのか分かった。人間は本能がこわれた動物だということが分かった。

●とても難しい話でした。

●理解できる話とわかりにくい話があったから。

●資料があるから少しは分かりやすかった。サルとヒトの違いについて具体的でよかったと思う。少し声が小さいのと専門的語句が難しかった。

●少し難しかったです。

●学生には難しい話だった。

●内容はかなり難しかった。


【満足度2点の皆さん】

●『世界がもし100人の村だったら』 の話はなかなか興味深かったです。「ノーブレス・オブリージュ」 という言葉はとても気に入りました。

●少し勉強するいみがわかったきがした。


【満足度1点の皆さん】

●いろいろなことが分かりました。

●ありがたいの気持ちを忘れないでいきたい。


満足度2点とか1点を付けた人たちは残念ながら白紙の方が多く、
自由記述を書いてくれた人自体が少なかったですし、
書いてくれた人の内容も、なぜ2点や1点なのか、
どこが悪かったか等についてまったく触れられていませんでした。
3点を付けた人のうちの最後の6名が、やはり難しかったと書いてくれていました。
また、声が小さかったことと専門用語が多かったことを指摘してくれた人がひとりいました。
マイクを使って喋っていて、壇上で自分の声を聞く分には、
音が割れるギリギリの大音量だったように思い、
むしろ口からマイクを離し気味にしたりしていました。
それがいけなかったのでしょうか?
後ろのほうの席の人に自分の声がどの程度届いているかわからないというのはやっかいなものです。
途中で、ちゃんと聞こえているか確認するといったことを怠ったのは失敗でした。
専門用語は難しいのは承知の上で、口頭で補足説明したつもりだったんですが、
声がよく聞こえていないなかで、プリントにわけのわからない専門用語を見ただけだと、
やはり難しいという印象を与えてしまったのかもしれません。
メガ講演会ではふだん以上に目で見てわかるわかりやすさを追求する必要があるかもしれません。
あるいは、長らく同じ内容で同じ話をしてきましたが、
そろそろ少し大幅に中身を変えてみる必要もあるのかもしれません。
これだけ多くの人から難しかったと言われるのはよくない兆候ですし、
何よりも、いくら大人数相手の講演会だったとはいえ、
3.86という数字はヤバすぎます。
心の底から反省し、講師人生をやり直すくらいの覚悟が必要かもしれません。
修明高校の皆さん、満足度の低い講演をしてしまい本当に申しわけありませんでした
皆さんにあの60分をお返ししてあげることはできませんが、
今回の私の学びを別の機会に反映し、別の人たちに対してよりよい講演を提供することによって、
新しい文化を生み出し、文化を継承していきたいと思いますので、
なにとぞご容赦くださいますようお願い申し上げます。