びえもカフェふくしま

「びえも」とはフランス語で「生と死」を意味するVie et mortをひらがな表記したものです。福島の死生学カフェです。

明日「第2回びえもカフェふくしま」!!

2017年05月19日 19時14分12秒 | 開催予定
いよいよ!明日!開催です!


第2回びえもカフェふくしま のご案内です。

【日 時】 2017年5月20日(土) 15:00~17:00
・延長の可能性あり
・途中参加、途中退出OK

【場 所】 チェンバおおまち3階 福島市市民活動サポートセンター 多目的ホール
 
【テーマ】 しあわせな最期とは?

【参加費】 コーヒー代 800円
珈琲楓舎スペシャルブレンド
今回は飲み放題♫


【申 込】 不要

【連絡先】
問い合わせは「メッセージ」でお願いします。





今回のテーマは
「しあわせな最期とは?」です。
孤独でないこと。苦痛のないこと。
など、どんなふうに人生を終えたら幸せかは人によって違うと思います。
突然死ぬのと、病などであらかじめわかっているのとは、何が違うでしょう。
病院で死ぬのと、家で死ぬのとは、どう違うのでしょう。

「あの死に方はしあわせだ」
と微笑みながら言われるようなじいちゃんやばあちゃんがいます。
自分もあんなふうに人生を終えたいと思うような見送りもあることでしょう。
逆に「あんな亡くなり方は気の毒だ」と思ってしまうこともあります。

大事な何かを失う側にも、後悔の残る失い方もあれば、そうではない手離し方もあるのでしょう。
人生とは、死に方や失い方だけで決まってしまうものではないはずですが
生き方は決められても、なかなか自分で別れ方は決められないものです。

願はくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月のころ


わたしたち現代人には、西行のように桜の下で最期を迎えることは不可能に近いのではないかと思います。
では、あなたにとっての「しあわせな最期」とは?

ぜひ、びえもカフェでの対話に参加して思考を広げてください。
今回も珈琲楓舎さんのスペシャルブレンドをご用意してお待ちしています!


びえもカフェふくしまについて
第1回の様子はこちら
「第1回びえもカフェふくしま」無事終了しました!
第1回の報告はこちら
「第1回びえもカフェふくしま」報告
びえもカフェのルールはこちら
「大切にしたいこと(参加のルール)」


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

自分の感受性くらい

2017年05月17日 19時31分58秒 | 生について
大好きな、茨木のりこさんの詩です。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが
ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ



厳しいことばに背筋が伸びる。

自分への戒めに
頻繁に読み返しています。

人生の中で何度も訪れる分岐点は
自分の失敗だったり
誰かの悪意だったり
思わぬアクシデントだったり
しあわせなことばかりではないけれど

決めるのはぜんぶわたしです。

何を思い、どんな行動を取るか
根拠はわたしの中にあり
共有していない人が何を感じようと
それはわたしの人生とは関係ない。

これを読むと、イヤなことがあっても
フガー!!って蹴散らせる気がします。


『ヒカリノアトリエ』で桜井さんも歌っています。

過去は消えず
未来は読めず
不安が付きまとう
だけど明日を変えていくんなら今
今だけがここにある

中島みゆきさんも『宙船』で歌っています。

おまえが消えて喜ぶ者に
おまえのオールを任せるな

(これは元気は出ますが怖い歌ですね。)



今日は自分を励ましてみました。

vie et mort

いつだかわからないけど必ず死にます。
最近、死にたくないなと思います。
年齢のせいかな。
結局しあわせってことなんだろうな。

みなさんは自分の人生を好きですか?

死ぬまでは生きているので
どうせなら明日も笑顔で。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日々是好日

2017年05月15日 18時28分03秒 | 生について
以前このブログで書いたAさんとは別の
これまたスーパー認知症Bさんの話です。

その日、Bさんは眠れなかったんです。
「何回も起きてきます」と遅番の子から申し送りをされ勤務を引き継ぎました。
「夜中なので寝てください」「眠れない」の繰り返しだったそうです。

案の定、交代してわたしの勤務が始まると同時にまたBさんが起きました。

「なんだか眠られないのよ。眠たいんだけどね」と話すBさん。
さっき起きたことなど覚えていないBさんにとっては、これが初めてのSOSです。
眠いのに眠れないのはツライことです。
Bさんが眠れない原因はわかりません。

「じゃあ起きていましょう。こちらへどうぞ」と起こしました。
赤ちゃんじゃないから抱っこして寝かしつけるわけにはいきません。それなら、せっかく起きているんだし、おしゃべりでもしようと思ったのです。

でも、そうするとなぜか人ってあまのじゃくなもので「いやいや寝るわよ〜」となるわけですネ。
今度はさっきと逆で、「寝ます」「寝なくていいですよ」の押し問答になりました。

「わたしは当直だからどうせ寝ないので
ずっと一緒に起きていましょう。」と誘いました。
わたしはBさんが普段から大好きなので
一晩じゅう一緒におしゃべりしても苦になりません。
しかしBさんは愛すべき『スーパー認知症ばあちゃん』ですから、わたしのことは知らないのです。
知らない人と一晩じゅう一緒にいるなんて本当はとても気持ち悪いはずです。

でもBさんには気持ち悪がっている様子はありませんでした。
不思議に思って「わたしのこと知ってるんですか?」とお聞きしました。
会話を始めて30分以上経過しているのに今さら変な質問ですが
わたしを知らないという前提でBさんの訴えを聞いていたので
Bさんが発する親しみのこもった言葉に
だんだんと違和感を覚えていたんです。

そうしたらBさん
「知ってるも何も、なんだかよくは知らないのよ。でも心がね、知っているような気がするの。」
とおっしゃいました。
嘘みたいですがホントの話です。
そうか。脳の記憶にはないけど心が知っているような気がするのか、と
医学的根拠は何もないですが妙に納得できました。

その後、さっきまで「眠れない」を繰り返していたBさんは
「あとでまた来るのでちょっとだけ仕事してきていいですか」と聞いたわたしに
「あとじゃなくて、まもなく来てね!」
と言い残し、すとーんとすこやかな眠りにつかれました。
夜中に取り残され、寂しくなってしまったのはわたしのほうでした。


人間は
子どもでも大人でも、いくつになっても
病気になっても
もちろん認知症になっても
好かれているか嫌われているかは
同じように感じ取れます。
記憶がないだけで、感情はあります。
自分のことをとても好きな人がそばにいるって実感したら
それだけで安心できてしまうものなのかもしれません。

わたしは恋愛においても
好かれるより好きになるほうが勝ちだと
ひそかに思います。
もちろんストーカー的な執着ではなく
一緒にいて居心地がいいレベルの
「好き」ですが!

忘れるプロである認知症の方でも、自分のことをとても好きっぽい人間のことは
もしかしたらちょこっと覚えてしまうんじゃないかな。
そう信じて接しています。
もちろんわたしも人間なので、いつもそんなに優しさ満載ではないですが…

長くなりましたが
こんな経緯があって、あらためて自分の終末を考えました。

わたしは「わたしのことを好きな人」にかこまれて最期を迎えたいです。
現実的には
何歳まで生きるのか
どんな病気や事故に遭うか
医療行為をどこまで施すのか
お墓、相続、保険など
さまざまな心配事はあります。
誰にでもあります。

そのいろんな心配事を
ただひたすらの安心に変えることができるのは「愛」だと思います。
たくさんである必要はない。
誰か1人で充分。
でも今のところ、娘や息子や家族がいて
近くに住む親友などもいますので、5〜6人くらいはいてくれそうです。
1人で充分なのに、そうとうなしあわせ者です。
そのためにわたしは、いま思い浮かぶ
愛し愛される人たちを大事にして生きようと思います。
機を織るように、一本一本の糸を丁寧に紡いでいく日々を送りたいと思います。

みなさんはどんな最期がしあわせだと思いますか?
ゴールが見えると、そこに至るまでの道のりもおのずと見えます。

ぜひお話を聴かせてくださいね。
5月20日(土)お待ちしています!

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『こんな夜更けにバナナかよ』

2017年05月12日 19時38分31秒 | 生について
タイトルは、北海道新聞社から2003年に発行された
ノンフィクションの単行本です。
進行性筋ジストロフィーを患った鹿野靖明さんと、そこに集まったボランティアの方たちとの日常が綴られています。

図書館で見つけて読んだのですが
あまりの面白さに夢中になり
イッキに読めました。

このタイトルは、一人のボランティアさんが介助中に心の中でつぶやいた言葉だそうですが

ひじょうに秀逸です!!

わたしも介助のときには、
何度も何度もイラだち、思います。

「なんで今?!」と。

1人では何もできない要介助者。

介助するのがわたしの仕事。

でも、なんで今言うの?

今それやらなきゃならないの?

いくらあっても足りない足りない、忙しい時間のなかで

だんだん無表情になることがあります。

「やってあげなきゃいけない」

と感じる自分に、罪悪感が重たくのしかかる瞬間です。

それでも何とか関わる。

そして
いや〜な気分をリセットするために
ふーっと深呼吸をして立ちどまります。

お茶を飲みたい。
アイスを食べたい。
歩きたい。
立ちたい。
動きたい。
トイレに行きたい。
テレビを観たい。

それらすべてに、他人を納得させる理由なんて必要ない。

なんで今?に

答えなんてなくて当たり前なのです。

このタイトルは介助という仕事の本質であり、現状をとても良く表していると思います。

そして
この言葉を発したボランティアさんは
続けて2本目のバナナを要求されたときに
怒りが急速に冷えたそうです。

わかる!わかる!
と読みながら1人で喜びました。

わがままに見える行為が幾度も重なって
あるラインを越えると
なぜか急に愛おしくなってしまうものなんです。

葛藤のあとに芽生える
なんだかよくわからないけど
温かい感情。

それは、一方的な奉仕や献身ではなく
優しさや思いやりがいっぱいの
ただの人間同士の愛であると思います。

福祉に対して
善意のかたまり
自分には無理!
みたいに感じてしまう方にはぜひ読んでいただきたい。

誰もが自分の中に無意識に持っている
「優越感」「弱者観」そして「偽善」

そういうものに目を向けて生きることで
自分の人生と向き合えると思います。

この本の中に出てきた
『一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる』
という言葉がとても印象的でした。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

つながりのお知らせ

2017年05月10日 21時11分54秒 | 開催予定
第2回びえもカフェふくしまのテーマは
「しあわせな最期とは?」です。

何を「しあわせ」と感じるかは人それぞれです。
身近な体験談でもいいですし
自分の人生の終末期を想像してみてもいいですし
「いま継続している何かが終了する」
ということを考えていただくのもなかなかオススメです。
仕事を辞める、転居をする…などなど。

自分の考える「しあわせな最期」を他者と共有できたら
生きることで得られている「しあわせ」も見えてくるかもしれません。
5月20日(土)15:00〜の開催です。
どうぞ皆様ご参加くださいね!

ちなみに当日
びえもカフェ終了後の18時半から
同じ場所、チェンバおおまち3階で
ふくしまダイバーシティ・ナイト」が開催されます。
第22回のテーマは「職場とダイバーシティ」だそう。いち労働者として、とても興味深いテーマです。
参加者の皆様はトークイベントのはしごができるチャンス?!

今回は主催者の体調不良等により、びえもカフェふくしまに二次会の設定がございませんので
(全体の二次会は行いませんが、ご希望があれば個別の延長戦は可能です!)

どうぞ「びえもカフェ」のあとには「ダイバーシティ・ナイト」に
ぜひご参加ください!!


「ダイバーシティふくしま」は、福島県のかたちが7色に彩られたかわいいロゴマークが象徴的です。

「びえもカフェふくしま」は「死生学カフェ」をイメージしていますので、虹色をびえも風にするとこんな感じです。
↓↓↓↓↓


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第2回びえもカフェ開催のお知らせ(再)

2017年04月25日 14時11分57秒 | 開催予定
新年度を迎え、どなたさまも忙しく毎日をお過ごしかと思います。

わたしもブログを更新できないまま
あっというまに桜の季節が終わってしまいました。

が!!
次回第2回びえもカフェふくしまのご案内です。

【日 時】 2017年5月20日(土) 15:00~17:00

【場 所】 チェンバおおまち3階 福島市市民活動サポートセンター 多目的ホール
 
【テーマ】 しあわせな最期とは?

【参加費】 コーヒー代 800円(珈琲楓舎スペシャルブレンド飲み放題♫)

【申 込】 不要

【連絡先】
問い合わせは「メッセージ」でお願いします。
※)返信の仕方がわからず、メッセージいただいた方にご迷惑をおかけしております。
メッセージには返信先アドレスをご入力いただきますようご協力お願いします。




今回のテーマは
「しあわせな最期とは?」です。
孤独でないこと。苦痛のないこと。
など、どんなふうに人生を終えたら幸せかは人によって違うと思います。
突然死ぬのと、病などであらかじめわかっているのとは、何が違うでしょう。
病院で死ぬのと、家で死ぬのとは、どう違うのでしょう。

「あの死に方はしあわせだ」
と微笑みながら言われるようなじいちゃんやばあちゃんがいます。
自分もあんなふうに人生を終えたいと思うような見送りもあることでしょう。
逆に「あんな亡くなり方は気の毒だ」と思ってしまうこともあります。

大事な何かを失う側にも、後悔の残る失い方もあれば、そうではない手離し方もあるのでしょう。
人生とは、死に方や失い方だけで決まってしまうものではないはずですが
生き方は決められても、なかなか自分で別れ方は決められないものです。

願はくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月のころ


わたしたち現代人には、西行のように桜の下で最期を迎えることは不可能に近いのではないかと思います。
では、あなたにとっての「しあわせな最期」とは?

ぜひ、びえもカフェでの対話に参加して思考を広げてください。
今回も珈琲楓舎さんのスペシャルブレンドをご用意してお待ちしています!

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

誰もが生きづらい

2017年03月03日 12時02分02秒 | 生について
生きづらさについて。
最近よく目にする、耳にする
「自称・発達障害」の大人たち。
正式に医師から診断を受けた方なのかどうかわからない場合が多いですが
「自分は◯◯だから!」と誇らしげに病名をおっしゃる方にたまに遭遇します。

先日受講した、東北福祉大学の三浦教授の講義で知りましたが
最近は保護者にもこの傾向がよく見られているそうです。
育てにくい我が子に対して
発達障害の病名を欲しがる親が増えているとのことでした。

福祉制度の整備が進んでも
社会は窮屈なままです。
差異を多様性として受容できないから
病名に頼って、マイノリティである自分(または子)を正当化するのでしょうか。

発達障害の方たちは、
人間関係の中で生きづらさを抱えながらも制度のはざまで充分な支援を得られず苦しんでいます。

わたしは友だちも少なく
子ども時代は孤独だったし
学生時代は悲惨だったし
大人になってからいじめを受けたし
自己肯定感に満たされたこともないし
いつも誰かからイヤなことをされ
いつも誰かに対してイヤな思いを抱き
何事も予定通りにこなせず
こだわりが強く人に合わせられず
マイナスの感情を抑えられず
やることが長続きせず
自分の望み通りになったことなど今までに皆無です。

診断テストなどをためしにやってみると高確率で発達障害に当てはまりますが、わたしは発達障害ではありません。(自称)

そもそも人生ってそういうものじゃないですか?
みんな何かしら抱えているのではないですか?

「生きづらい自分」や「関わりの難しい子ども」に病名がつくと納得できるんですか?

それが安心なんでしょうか。

ご自分を発達障害だと思われる方は
不特定多数の人にカミングアウトする前に専門の医療機関を受診なさると良いと思います。

気軽に病名を語ることは、共感しあうこととはちょっと違う気がします。




びえもカフェは福祉カフェではなく
死生学カフェです。
今日のは余談でした。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第2回びえもカフェふくしまのご案内

2017年02月22日 20時42分30秒 | 開催予定
みなさんこんにちわ!!
前回の投稿からだいぶ時間が経ってしまい、そろそろびえもカフェのことをお忘れではないでしょうか。

第2回びえもカフェふくしま のご案内です。

【日 時】 2017年5月20日(土) 15:00~17:00

【場 所】 チェンバおおまち3階 福島市市民活動サポートセンター 多目的ホール
 
【テーマ】 しあわせな最期とは?

【参加費】 コーヒー代 800円(珈琲楓舎スペシャルブレンド飲み放題♫)

【申 込】 不要

【連絡先】
問い合わせは「メッセージ」でお願いします。
※)返信の仕方がわからず、メッセージいただいた方にご迷惑をおかけしております。
メッセージには返信先アドレスをご入力いただきますようご協力お願いします。




今回のテーマは
「しあわせな最期とは?」です。
孤独でないこと。苦痛のないこと。
など、どんなふうに人生を終えたら幸せかは人によって違うと思います。
突然死ぬのと、病などであらかじめわかっているのとは、何が違うでしょう。
病院で死ぬのと、家で死ぬのとは、どう違うのでしょう。

「あの死に方はしあわせだ」
と微笑みながら言われるようなじいちゃんやばあちゃんがいます。
自分もあんなふうに人生を終えたいと思うような見送りもあることでしょう。
逆に「あんな亡くなり方は気の毒だ」と思ってしまうこともあります。

大事な何かを失う側にも、後悔の残る失い方もあれば、そうではない手離し方もあるのでしょう。
人生とは、死に方や失い方だけで決まってしまうものではないはずですが
生き方は決められても、なかなか自分で別れ方は決められないものです。

願はくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月のころ


わたしたち現代人には、西行のように桜の下で最期を迎えることは不可能に近いのではないかと思います。
では、あなたにとっての「しあわせな最期」とは?

ぜひ、びえもカフェでの対話に参加して思考を広げてください。
今回も珈琲楓舎さんのスペシャルブレンドをご用意してお待ちしています!


  びえもカフェについて

人間は誰しもが生まれた瞬間から死を抱えて生きています。
死生観は、自分て何だろうという哲学的思考の隣にあるものだとわたしたちは考えます。
死について考えを深めていくことは、自分自身の思考を掘り下げていくことにつながるのではないでしょうか。
さらに死別や不治の病がもたらす死だけではなく、大切な「もの」「ひと」「場所」を失うという喪失の経験もまた、
個人の哲学的な思考をかたちづくる重要な契機だと思います。

喪失や分断の体験に苦しんでいる方、
生きるって難しいなと思っている方、
死生学カフェに関心のある方、
専門的な言葉は不要ですので、ぜひお話を聞かせてください。
もちろん何も考えていないという方も大歓迎ですし、聞いているだけでもかまいません。
共通の答えを出すことが目的ではありません。
対話を通して開かれる、新しい世界をお楽しみください。
人はみな孤独ですが、共有することで豊かになる時間もあります。
友達と一緒でもお一人でもお気軽にご参加ください。

第1回の様子はこちら
「第1回びえもカフェふくしま」無事終了しました!
第1回の報告はこちら
「第1回びえもカフェふくしま」報告
びえもカフェのルールはこちら
「大切にしたいこと(参加のルール)」

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

蕎麦屋の視察

2016年12月20日 07時02分02秒 | 開催予定
今年は、念願だった「死生学カフェ」である
「びえもカフェふくしま」
たくさんの皆様のお力添えをいただき開催することができました。
本当にありがとうございました。

来年は5月の開催を目標に準備を進めていきたいと思っています!

開催の詳しい要項が決まり次第、またこちらのブログからお知らせしていきますのでどうぞよろしくお願いします。

さて、第1回が終わってから気が抜けてしまいブログの更新を怠っておりましたが 今さらですがアンケートでいただいたご意見を掲載させていただきます。

参加してみた感想

『わたしのまわりにはパワフルな老年の方が多いので生きることにポジティブであることは当然に思っていましたが、死に対してもポジティブなのか?!と思いまして大変面白く興味深いです。』

『老いと死についての意見が聞けて良かった。』

『死んだらどうなるのかをもっと話したかった。』

『グループによる討論は意見を出しやすいと思った。』

『死を普段あまり考えていないのですが
僕の手帳には
Learn as if you will live forever
Live as if you will die tomorrow
と書いてあります。
僕にとっての死生学の一つの分かりやすい形かもしれません。』

『死について考える機会はあまりなかったので今回参加してみて改めて自分の中に思いや考え方などが再発見できたと思います。』

今後取り上げてほしいテーマについて

『肉親(親しい人)の死をどう考えるか・・・親しい人を亡くしたという経験がなく、今のところ自分の死よりもそっちのほうが怖いから』

『自死についてもっと深く取り上げてほしいと思いました。日本は世界的に見ても自殺する人の割合が多いと聞いたので・・・』

貴重なご意見をくださった参加者の皆さま、ありがとうございました。

来年もぜひ「びえもカフェふくしま」で生と死について語り合い
死生観を探求し、自らの哲学を深めていきましょう!!

 第1回開催のお知らせ


 大切にしたいこと


ちなみにタイトルは全く関係ないかのように思われますが、関連のお知らせです。
来年の3月11日(日)には
「びえもカフェふくしま」の先輩でもある「てつがくカフェ@ふくしま」の特別編があります。
その日に来福するスペシャルゲストの皆さまをお連れするための蕎麦屋を視察してきたのです。
視察と言っても、ただ蕎麦を食べてきただけです。

しかし3月のイベントために今から蕎麦屋選びをしているわたしですから、5月に開催予定の「びえもカフェふくしま」に関しても年明け早々にお知らせできることと思います!


それでは、どうぞ良いお年をお迎えください。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『第1回びえもカフェふくしま』報告

2016年11月24日 08時11分38秒 | 開催報告


11月19日に開催された、第1回びえもカフェふくしまの内容をまとめました。

まず、それぞれのグループで話し合ったことを各グループのファシリテーターがマインドマップを書きながら発表しました。
そのため発表では、長い語りかけの言葉ではなく、各ファシリテーターがグループの対話の中から拾い集めた単語や短い言葉がメインになっています。

グループM

生と死は対義語なのか。
生の反対は本当に死なのか。
死ぬことは怖いか、怖い人と怖くない人に分かれる。
怖い人にとっては消滅、自我の喪失、これはとても怖い。
怖くない人にとってはむしろ死にたい。
若い人は死を怖がる。
老いてくるといつまでも生きたくない。
年をとるごとに怖くなる。

「家族がICUに2カ月くらいいて、生かされているというのは生きていると言えないと思った。」

葬式の話。
死を受容していく。家族やみんなが、死んだことを受容していく儀式。

「叔父が死んだけど葬式には呼ばれなかった。呼ばれなかったことによって死を受容できないでいる。葬式はすごく大事だ。」

看護・介護の疲れから受容しない人も。
または、最期それらに疲れてしまうことによって受容できるのではないか。

自分の死と他人の死。
「死ぬのはいつも他人ばかり マルセル・デュシャン」
他人の死はわからないけど自分の死は怖い。



グループN

生と死は別々の概念ではなく隣り合わせの存在なので分けて考えることはできない。

生と死を考えるきっかけは3・11だった。
福島で言うと放射能。でも単純に物理的に地震で死ぬと思った。

生と死は必ずリンクしている。別々には考えられない。
じわじわ死ぬのと突然に死ぬのでは考え方も感じ方も違う。

生きるのが楽しい、闘い、ツライ、いろんなことが生きることに付随。
1か月単位、3か月、1年、時間の概念が入ると考え方が変わっていく。

メメントモリ。死を思うことに対して自戒して、死を考えることによって、生きることをより深くする。

自死についてどう考えるか。
自殺、安楽死、電通での自殺。生まれてくることを選ぶことはできない。
自分で死を選ぶことは欺瞞である。
生はあくまでも授かったものであって、自分で死を選ぶということは、生に対する冒涜であり傲慢だ。
自死の裏側には、自分の存在を肯定してほしいという気持ちの表れがある。
それは生に対しても言える。
生きるということは、誰かに認めてもらいたい。
死を選ぶのは不可分。

(ここで「不可分」の使い方について他グループから指摘があり、短い議論になりました。)

死を考えることは最高に生に直面している状態。
いつ死ぬかわからない。
だからこそ死を考える。
明日死んでもいいように生きたい。
死は常に隣にある。



グループA

驚くほど各グループで同じ話をしていたなという感想。
死というもののイメージ、若い人にとっては近くて遠いもの。

必ず自分が死ぬというのは普段は意識しない遠いところにある避けたいもの。
他人の死と自分の死があって、死別には2通りある。

死ぬときに苦しみや痛みが伴うとすればイヤだ。

さみしさ、孤独、人間関係が切れてしまう。

「死のことを考えると暗くなる。じゃあ生のことを考えると明るくなりますか、と聞かれて、明るくあってほしいけれどそればっかりではない。」

『老い』も怖い。でも『老い』のことを話すと、なんとなくみんな笑顔になる。なんとなく笑いながら話してしまう。
『老い』というのは死んでいないということだ。生きている証拠だ。『老い』を語れるのは距離があるから、少し前向きとか明るくなる。
私たちから見て充分に老いている方でもそれより老いている人を笑う。

自分を特別視してしまう。それが健全に生きること。
だからこそ生きられるのだ。

必ず死ぬということは知っているが、少なくとも明日も自分は生きると思っている。
高い確率で明日も生きる。


全体討論

「おれ老いちゃってアピールってさ、あれって何だろう。若い人にしてしまう。ほんとは暗いのに明るくすることで自分たちが救われるのか。お年寄りが集まると不健康合戦。逆手にとって笑いにすることで楽しんじゃおうという抵抗か。」

「わたしは年をとって初めて経験したことが素直に新鮮で面白い。老眼とか、この前初めて自覚して、新しいことの発見が嬉しかった。」

(ここで監修から「きみ全体ファシリテーターだよね」と注意が入り、書記に集中していた代表の、パソコンへの打ち込みは強制終了しました。猛烈にスタッフ募集中です!以下、受付スタッフによる走り書きから抜粋します。)

老いという生の発見!
老いた話は始めは盛り上がるが(笑うことで喪失感を払拭したいのか)実際には喪失感が強くなる。
発見と喪失感はいつも一緒にある。

老いの一歩目は新鮮!
進むと…病気自慢。
悪いことができてやっと一人前みたいな感じ。

老いを感じて生きることへの感じ方は変わるのか。

生きること=シジフォスの神話
意味あるの?きっとある、そう思わないとやってられない。

同じことの繰り返しでもいつか変わってくる。
同じような日常でも、長いスパンで見れば同じではない。

長生き
「したいわけじゃない。けどやりたいことがたくさんある。だから生きたい。」
「やりたいことがあるのにできない長生きはイヤだ。」
「自我の喪失が怖い。自分を保っていられるなら長生きしたい。」
「まわりは長生きしてほしいと思っているが、本人はどう思っているのか。」

生と死に老いの問題は外せない!!


考察

記録をじっくり読んでみると、次回以降のテーマに取り上げたくなるような話題がたくさん上がっていました。
特に「老い」の問題に関しては、それぞれが強い想いを抱えていることがわかりました。

第1回目の拙い進行ではありましたが、悪天候にも関わらず足を運んでいただき最後までお付き合いくださった参加者の皆さまには感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。

これからも生と死に関するさまざまなことをテーマに、生きること、死のことを身近に考える死生学カフェを提供していく予定です。

哲学的な学びの場であることはもちろんですが、生や死に対して苦しみを抱えている方にとって、心のよりどころとなれるような場所を目指して活動を続けていきたいと思います。

文責 吉川 瞳
コメント
この記事をはてなブックマークに追加