まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.好きなアイドルはいますか?

2014-09-30 16:19:42 | 性愛の倫理学
A.いません。

今回も結論から端的に答えさせていただきました。

本当に子どもだった頃、浅田美代子のファンだったことがあって、

天井にでっかいポスターとか貼ってたことがあります。

そうです、「さんまのSUPERからくりTV」 のレギュラーだったあの天然ボケのおばさんです。

今じゃとても想像がつかないかもしれませんが、彼女は日本のアイドルのはしりでした。

今思えば歌は下手くそだったしセリフは棒読みだったし、

なんで彼女が人気あったのか (そしてなんで自分が夢中だったのか) まったく理解できませんが、

彼女の活躍によってその後の日本の芸能界の趨勢が決まったといっても過言ではないでしょう。

「アイドル idol」 という言葉は 「偶像」 という意味ですが (由緒正しい哲学用語です)、

芸のない人が芸能界でもてはやされてしまう現象は特に日本において目に余るものがあります。

その趨勢を作りだすのに私も一役買ってしまったのかと思うと忸怩たる思いがあります。

まあ、若気の至りだったんでしょうね。

その反動でか、その後アイドルを好きだったのは河合奈保子ぐらいまでで (これは知らないよね)、

それ以降アイドルと呼ばれる人たちには一切興味がなくなりました。

私の高校時代に 「おニャン子クラブ」 という、

今で言う 「モーニング娘。」「AKB48」 みたいな元祖アイドルユニットが登場しましたが、

1ミクロンも興味はなく、こんな素人を起用するから日本の芸能界はダメなんだよと嘯いていました。

その後、アイドルではなくとも日本の女性歌手で好きな人っているかな?

自分でわざわざアルバム買った人ってまったくいないような気がします。

あ、ジャズシンガーの浅田尚美のアルバム買ったけど、この人はぼくの同級生のお姉さんだし。

海外アーティストでもやっぱりダイアナ・クラールとかフィリッパ・ジョルダーノとか、

みんないい歳の人ばっかりだなあ。

女優でも一番好きなのは高橋惠子 (旧姓・関根恵子) だし (挙げた中で一番年上だ)。

かつては吉永小百合が好きだというオジサンたちをバカにしてたけど、自分も十分オジサンだなあ。

というわけでオジサンはアイドルには何の興味もないのでした。

Q.人間より長生きするカメは何を子孫に伝えているのですか?

2014-09-29 22:41:04 | 生老病死の倫理学
これは第2回目の授業で 「人間とは何か」 について講義した際にいただいた質問です。
正確にはこんな質問を2人の方からいただいていました。

「Q.人間は、学習や伝達をするのに長い時間が必要だから寿命が長いということでしたが、
   亀など人間より長く生きる動物たちはなぜ寿命が長いのか疑問になりました。」

「Q.先生は人間は学習、伝達する使命があるから長生きするとおっしゃっていました。
   カメとかは人間より寿命が長いですが、カメも何か子孫に伝えているのでしょうか?」

私の話はあくまでも仮説として話したわけですが、
授業でテキトーな話をしてしまうとこうやってしっぺ返しを受けることになるのですね。
講義では、人間というのは遺伝子を伝えるだけでは使命は終わっておらず、
文化も伝えなければならないので、セミのように卵を産んでおしまいではなく、
生殖能力を失ったあとも長生きをするのだ、と話させていただきました。
たしかにそう言われれば、じゃあ人間よりも寿命の長い動物は何をしているのだということになります。
私もその点については知りませんでしたので、今回調べてみました。

しかし、残念ながら私の調べた範囲内では答えはわかりませんでした。
(と言ってもサッとネットサーフィンしただけですが…)
まずご指名いただいたカメですが、カメの寿命から調べてみました。
たしかに長生きしているカメがいます。
例えばウィキペディアの 「カメ」 の項目には長寿記録が記載されています。
そこには150年から250年を越えるような数字も出てきます。
ただし、そうした記録はすべて野生状態ではなく、人工的な飼育状態での話ですし、
しかも、飼われていた特定の個体がたまたまそれだけ長生きしたという話にすぎません。
人間だってまれに110年や120年くらい生きる長寿な人もいますが、
それが人間の寿命ということにはなりません。
全個体の寿命を平均して平均寿命が割り出されるわけです。
それでいくとカメの平均寿命はどうなるのでしょうか。
以下の記事でそこらへんのことを説明してくれていました。

「カメの寿命について」

全般的にはカメの寿命というのは30年~50年くらいになるようです。
そう考えると人間よりも寿命が長いわけではありませんね。
カメは万年というのはあくまでも誇張表現にすぎなかったわけです。
(ちなみにツルも30年ぐらいのようです。)
とはいえ人間より長生きする動物はたしかにいます。

「地球上で長生きする10の動物」

この記事も平均寿命を論じているわけではなく、基本的には個体の記録で比べていますが、
それでも長寿のカメですら太刀打ちできないほど長生きする動物がいるようです。
こういった動物たちは長生きして何をしているのでしょうか?

今回調べがつかなかったというのは、それぞれの動物の生殖可能期間です。
私はただ 「人間とは長生きする動物だ」 と言ったのではなく、
「生殖能力を失ったあとも長生きする」 という言い方をしました。
私の話のポイントはそこにあったわけで、何年生きるかどうか自体が問題なのではありません。
とすると、人間より長く生きる動物がいたとして、彼らがいつまで生殖能力を保持しているか、
ということが明らかにならないと、人間だけが生殖能力を失ったあとも長生きしているのか、
他の動物でも生殖能力を失ったあとも長生きする動物がいるのか、ということがわかりません。
で、この点を調べようとしたのですが、どうにも調べがつきませんでした。
どうやって調べればいいのかということすらわかりませんでした。

貝やウニや海綿動物なんかは何百年何千年も生きてる間じゅう繁殖していそうな感じがしますね。
ホッキョククジラやゾウガメはどうなんでしょうか?
100年や200年を超えて生きている個体も生殖可能なんでしょうか?
(もしもそうだとしたら羨ましいかぎり、あやかりたいものです。)
もしもとっくに生殖能力なんて失っているのだとしたら、
彼らは何のためにそんなに長生きしているのでしょうか?
先日来 「老い」 のことを考えていますが、
「老いの使命は文化を伝えることにある」 と定式化したい私としては、
人間より長生きする動物たちがいつまでも生殖能力を失わずに、
ただ遺伝子を伝えるためにのみ長生きしてくれていると嬉しいのですが、果たして真相はいかに?
動物学者の先生とかに聞くと教えてもらえるのでしょうか?
どうやって調べたらいいかがわからないので途方に暮れています。
とりあえず今回は回答保留ということで。
この件、なにか進展があったらまたご報告いたします。

発泡酒ダイエット新時代へ!

2014-09-28 23:21:04 | がんばらないダイエット
後期の 「倫理学FAQ」 が始まってしまったために書くの忘れてましたが、

この9月より我らが 「発泡酒ダイエット」 が新時代を迎えました!

もとはといえば 「サントリーダイエット生」 によって始まった発泡酒ダイエット

当時の効能は、カロリー50%OFF、糖質70%OFF、プリン体50%OFFでした。

ところがこの 「サントリーダイエット生」 が2011年に終売となってしまいました。

そのため発泡酒ダイエットはしばらく中断を余儀なくされていましたが、

昨年 「サッポロ極ZERO」 が発売されたことによってみごとに復活を遂げることができました。

(当時私はよくわかっていませんでしたが、あれは発泡酒ではなく第3のビールだったようです。)

しかも今度は、糖質0、プリン体0です

ところがこの 「極ZERO」、全国的な動静はわかりませんが福島界隈では販路が開拓されておらず、

野田町のヨークベニマルや4号沿いのYAMAYAなど限られた店舗でしか売られていませんでしたし、

しかも置いている店でもだんだんと取扱量が減らされているような状況でした。

私はどうも一般大衆と趣味嗜好が合わないみたいで、

私の好きなものはいつの間にか終売になることが多いのでビビっていましたが、

今年6月、思いもかけない終焉を迎えてしまいました。

「極ZERO」 は第3のビールに該当せず酒税法違反ということで終売になってしまったのです。

予想外の展開です。

そんなことがあっていいのでしょうか。

まあ事件発覚当時から発泡酒として販売再開するとのニュースが伝わっていましたので、

それほど心配はしていませんでしたが、一時的に発泡酒ダイエットは中止せざるをえませんでした。

そして7月に予告通り、発泡酒として販売再開されることになりました。

出荷中止騒動の「極ゼロ」、発泡酒でも販売好調 1カ月で3千万本突破 (産経ニュース 2014.8.18)

ニュースでは販売好調と伝えられていましたが、福島ではあいかわらず取扱店は少ないままでした。

ただそれよりも私として気になったのは発泡酒になって味が変わったように思うのです。

どうも前と同じようにライムを入れて飲んでみてもコロナビールな感じがしません。

ですので発泡酒になってからはわざわざ販売店まで買いに行く気にならず、

近くのMAXで本物のビールを買ってしまうということもしばしばだったのです。

ところがこの9月。

このジャンルではサッポロの独走を許していたライバル3社が、

いっせいに糖質0、プリン体0の発泡酒の販売を開始しました。

ビール大手4社の 『プリン体ゼロ』 出そろう (神奈川新聞 2014.9.3.)

“プリン体ゼロ” で反転攻勢 (NHK NEWS WEB 2014.9.28.)

これだけ種類が揃えば私の味覚に合うものがひとつくらいはあるでしょう。

そして何よりうれしいのは販路の問題です。

4社のラインナップが出揃ったのであれば、さすがに品揃えに問題のあるMAXでも、

全部を無視するということはありえないのではないでしょうか。

さっそく行って調べてみました。



ありました、ありました。

やはり全社のものを揃えてはいませんでしたが、

「アサヒSUPER ZERO」 と 「キリン端麗プラチナダブル」 はちゃんと売っていました。

さっそく買ってきて現在飲み比べてみているところです。

試してみたところ現在の 「極ZERO」 よりもイケてるような感触を受けました。

今度MAXに売っていない 「極ZERO」 と 「サントリーおいしいZERO」 も揃えて、

きっちり試飲会を開きたいと思います。

発泡酒ダイエットの後継者となるのは誰か?

こうやって選択ができるということこそ自由の本質であり、自由主義の唯一の取り柄ですよね。

ネコの無駄遣い

2014-09-26 22:49:35 | お仕事のオキテ
とあるきっかけでとある仕事を引き受けることになりました。

3000字程度の小文を書くというお仕事です。

その内容についてはそんなに遠くない先にご紹介できるでしょう。

今日はまた1週間ぶりに郡山と白河に出稼ぎの日でしたが、

電車にパソコンを持ち込んで、朝からせっせとその作文をしておりました。

そして郡山の授業が終わってからも白河行きの電車まで50分以上間が空くので、

講師控え室で振り返りシートの採点を終えたあと、そのまま朝の書きものの続きをやっておりました。

そうしたらなんと、いつの間にか電車の発車時刻を過ぎてしまっていたのです

相当時間の余裕があったはずなのに、あっという間に時間が経ってしまっていました。

ものすごい集中力だっ

これこそ 「ゾーンに入る」 状態ではありませんかっ

まさにはかどりネコさん降臨ですっ

それにしてもなんで今日このタイミングで来るっ

一番来てほしかったときには全然来てくれなかったくせに、

特に呼んでもいないこの時になんで突然現れるのだっ

締切まではまだ少し余裕あるし、そもそもネコの手を借りたいほどの大仕事ではありません。

なんだかなあ。

おかげで電車に1本乗り損なってしまいました。

次の東北本線は1時間後なので白河の授業にギリギリ間に合いません

というわけで郡山で食事をすませてから、新幹線で白河まで行かなければなりませんでした。

昼食代も新幹線代もすべてはムダな出費です。

それもこれもすべてははかどりネコさんのせいではありませんかっ

なんで来てほしいときに来てくれないかなあ

もしも自由自在にネコさんを呼び出すことができたら、

今ごろ私はカント級の大哲学者になっていたかもしれません。

ところが現実はネコさんがTPOをわきまえず来たり来なかったりするもんだから、

私はあいかわらず小者のまま、ただ小銭を失ったりしているだけなのです。

これははかどりネコさんの無駄遣い以外の何ものでもないではありませんかっ

うーん、なんかもっとネコさんを有効活用できないかなあと思う今日この頃でした。

歳をとること・成長・老い

2014-09-25 19:28:37 | 生老病死の倫理学
先日の 「第26回てつがくカフェ@ふくしま」 では 「老い」 について話し合いました。
そのときの議論の中身はすでにてつカフェのブログにアップされています。
ひじょうに深い議論が交わされたなあと思いますし、
1人で考えていたときよりもはるかに思考を深めることができました。
私もインスパイアされていろいろと言いたいこともあったのですが、
今回は初めての会場で、モニターにパソコンをつないでマインドマネージャというソフトを使い、
マインドマップを打ち込みながらのてつカフェだったため、

(クリックすると拡大)

1回発言しただけであとは書記に徹していました。
そのためちょっとモヤモヤ感が残ってしまったので、まだ考え中ではありますが、
とりあえず考えたことを忘れないうちに書き留めておくことにします。
その前にすでにこのブログ内で、老いについて考えたこと感じたことを書いたことがあります。
それを思い出しておきましょう。
内容的に整理はできないので、古い順に並べておきます。

  「哲学者は長生きしたもんの勝ち」 2009.9.21.
  「満腹感」 2010.5.15.
  「老いるとは?」 2010.5.24.
  「1リットルの男」 2010.5.26.
  「老化 (?) 現象」 2010.6.8.
  「スポーツ選手と老い」 2010.10.24

この中で、私の老いの哲学の根幹は 「老いるとは?」 に書いたことになります。
その中心テーゼはこれですね。

「私はもうできない、にもかかわらず私は存在する」
”I can’t any more, nevertheless I am”

老いをこのように定式化するならば当然、老いることは悪いことになります。
今回のてつカフェでまた問いの立て方 (老いることは悪いことか?) が間違っていると指摘され、
老いは自然現象であってよいことでも悪いことでもないと集中砲火を浴びてしまいましたが、
私はやはり老いというのはそもそも基本的には悪いことなんじゃないかと思っています。
もちろん、本来悪いことである老いを個人的・主観的にポジティブに受け止めることは可能です。
というか、むしろそうすべきだと思いますし、
私がいつも 「受け止め方の問題」 と言っているのはまさにそういうことです。
そして、「1リットルの男」「老化 (?) 現象」 で書いたことは、
そのように老いをポジティブに受け止める試みだったと言えるでしょう。
ただ、基本的に 「老い」 という言葉は分かちがたく負の価値を背負った言葉であると思うのです。

今回のてつカフェの冒頭で、老いとは成長の放物線の後半部分だという発言がありました。
放物線の譬えはなかなかわかりやすいと思います。
人間はだんだんといろいろなことができるようになっていき、
そしてある時点を過ぎると今度はそれを失っていきます。
ただ、その放物線の全体を 「成長の放物線」 と名づけてよいのか疑問に思いました。
というのは 「成長」 という言葉は 「老い」 と対照的に正の価値をもつ言葉だと思うからです。
そこで考えたのは、この放物線の全体は 「歳をとること (エイジング)」 と名づけるべきであり、
その前半部分、つまりできることが増えていく段階が 「成長」 であり、
後半部分、できることが失われていく段階が 「老い」 なのではないか、ということでした。
それで言うならば、「歳をとること (エイジング)」 はまさに自然の流れであって、
そこに価値的な意味は含まれません。
つまり、よいことでも悪いことでもないわけです。
その中で正の側面 (=増加部分) を 「成長」 と呼び、
負の側面 (=喪失部分) を 「老い」 と呼んでいるのではないか、と思うのです。
このようにもうすでに日本語として、成長はよいこと、老いは悪いこと、
というふうに使い分けられているのではないかと思うのです。

ここからさらに、1人の人間のエイジング曲線は1本の放物線では表せない気もしてきました。
人間の能力というのは果てしなく多様ですから、
それらの能力がすべて同じタイミングで高まっていき、ある時点を境にすべてが減少に転ずる、
なんていうことはどう考えてもありえないと思うのです。
スポーツ選手の例で言うならば、速い球を投げるとか何回転もジャンプするという能力は、
比較的、早い時期にピークに達してまだ若いうちに喪失の段階を迎えますが、
コントロールや組み立てで打ち取るとか、芸術的表現力などは経験を積めば積むほど高まります。
身体的機能だけをとってもこのようにエイジング曲線にはズレが生じています。
精神的能力に関しても、暗記力や数学で使う直観的ひらめきは早くに失われるかもしれませんが、
すでに知っている知識や経験をもとに判断を下す能力は歳とともに増していくでしょう。
ここにさらにコミュニケーション能力とか人間的魅力を加えていくと、
それらのピークは相当歳をとった後にやってくるということがわかるでしょう。
身体的老いが始まったとしても、精神的・人間的にはまだ成長中ということは普通にありえるのです。

今思うと、今回てつカフェの議論が若干錯綜したのは、歳をとること、成長、老いの三つを、
みんながそれぞれ好き勝手に使っていたからではないかという気がしてきました。
それはとりもなおさず世話人の私たちがこの三つをきちんと整理した上で問いを立てなかったからで、
「歳をとることはよいことか悪いことか?」 という問いにしていたら、
歳をとるなかで成長していくことはよいことであり、老いることは悪いことである、
しかしながら、歳をとるなかでさまざまな成長と老いが同居しているので、
歳をとること自体はよいこととも悪いこととも言えない、
みたいな感じですっきりと合意することができたのではないでしょうか。
(いや、この説自体またボコボコにされるのがオチだろうなあ)
ま、てつカフェに参加してくるような皆さんは、どれだけ年配者の方でも、
多少身体的老化が始まっているとはいえ、大部分においてまだ成長段階にいる (みんな若い) ので、
「老い」(=せっかくできるようになったことがだんだんできなくなっていくこと) を
本格的に実感できていないのではないか、というのが私の抱いた感想でした。
私としては今回の議論を通じて、老いはあくまでも悪いことであり、
それをいかにポジティブに捉え返すことができるのかできないのか、
というところに問題の本質があるというふうに考えました。
反論どしどしお寄せください。
他にもまだ言いたいことがありましたが、それはまた別の機会に。

Q.どうすれば文章をたくさん書けるようになりますか?

2014-09-24 13:10:12 | 哲学・倫理学ファック
看護学校では、「倫理学 (哲学) の授業で学んだこと」 をテーマにレポートやテストを課しています。
で、この授業を受けてどれだけ考えが深まったかをレポートやテストに書き表すよう要求しています。
したがってある程度以上の分量を書くことが必要になってきます。
最低限度枚数を定めていますし、それをクリアしても最低点がもらえるだけで、
考えが深まったことを表現するためにはできるだけたくさん書くようにと伝えてあります。
もちろん書いた分量と点数が単純に比例するわけではありませんが、
ギリギリの分量で高得点をもらうというのはよっぽど素晴らしい答案を書かないかぎりムリでしょう。

というようなことを第1回目の授業の冒頭で説明してあったので、
今回のような質問が出てきたのでしょう。
特に日頃から書くのが苦手と思っている人は上記の説明を聞いたとたんに不安になるようです。
これには2つの側面からお答えしてみたいと思います。
まずは日頃の心がけから。

A-1.とにかくふだんからできるだけ文章を書くようにし、書くことに慣れることです。

日記でもラブレターでも何でもいいので、とにかく毎日何かしら文章を書くようにしてみてください。
最初のうちは長い文章が書けなくてもかまいません。
とにかく思ったこと感じたことを言葉に表してみる。
それが出発点です。
思ったこと感じたことを的確に表す言葉というのはなかなか見つからないかもしれません。
だとしてもそこですぐに諦めてしまうのではなく、
それを何とか言葉に置き換える訓練を続けてみてください。
授業でも話した通り 「表現」 というのは英語で 「express」
自分の内側にあるものを外に向かってギュッと押し出すことです。
その努力を怠っていてはいつまで経っても書けるようにはなりません。

そして、特に授業中に配付しているワークシートの問いに対しては、
(郡山の場合はノートや振り返りシートに書いてもらっていますね)
できるだけ自分の思いや感じをたくさん書けるようがんばってみてください。
毎週のワークシートには、①当初自分が抱いていた思いや感じと、
③授業を受けてどう自分の考えが深まったかを書いてもらっています。
けっきょくそれらを集積したものがレポートやテストの答案になるわけですから、
毎週、授業のなかで自分の思いや感じを書き表す訓練をしているのだと思って取り組んでください。

だいたい毎週のワークシートや振り返りシートを見ていれば、
その人が実際のレポートやテストでどれくらい書けそうか予想がつきます。
ふだんから書く分量が少ない人がいざとなったときに急に書けるようになったりはしません。
そういう人たちの書いたものを読むと、ものすごくぶっきらぼうです。
結論しか書いていなかったり、理由があってもものすごく浅薄なことしか書いていなかったりします。
そこで2つ目のアドバイスに移りたいと思います。

A-2.とにかくよく考えましょう。
    考えるとは理由や根拠を問い質すことです。
    ただ思ったこと感じたことを書くのではなく、
    なぜそう思ったり感じたりしたのか、その理由や根拠をできるだけ詳しく書くようにしましょう。

浅薄な答案というのはこういう感じです。
例えば、家族が脳死になったとき臓器移植に賛成しますか反対しますかという問いに対して、
「病気で苦しんでいる人を助けてあげられるので臓器移植に賛成します」 とか
「大切な家族の身体に傷をつけたくないので臓器移植には反対します」 など。
たしかにここには臓器移植に賛成したり反対したりする理由は書いてあります。
しかし、ここで思考が止まってしまっているのです。
これでは倫理学になりません。
ここからさらに理由の理由、根拠の根拠を探していってみてください。
なぜ病気で苦しんでいる人をまだ心臓の動いているあなたの家族が助けなければならないのか、
なぜ脳死になってしまった家族の身体に傷をつけたくないと思っているのか、
そのように考え進めていくと、
あなたが脳死について心の奥底でどう思っているのかがはっきりしてくるでしょう。
考えを深めるというのは、いろいろな物事の根本のところを突き詰めていくことです。
パッと思いついた最初の理由で満足してしまうのではなく、その理由の理由、
さらにその理由へとどんどんさかのぼっていってもらいたいのです。
このような考え方に慣れてくると、最初に思いついた理由というのは本当の理由ではなかった、
ということに気がつく場合も出てきます。
自分でもわかっていなかった自分の考えまで行き着くこと、それが考えを深めることなのです。
ついでにもうひとつのアドバイスも書いておきましょう。

A-3.深めていくと同時にいろいろなことへと発展させながら考えていきましょう。
    そして、自分の立場からだけでなく、いろいろな人の立場に立って多角的に考えましょう。

先の例で言うならば、家族が脳死になったことを聞かれてただそれだけを考えるのでなく、
では自分が脳死になったらどうかも考えてみることです。
そうすると、けっこう多くの人が家族の場合は反対だけど、
自分が脳死になったら臓器移植してもいいと思っていたりするようです。
それにはそれなりの理由があるのでしょうが、
先ほどの理由とバッティングしないか考えてみる必要があります。
それから、脳死の場合だけではなく植物状態の場合にはどうかと考えてみるのもいいでしょう。
また皆さんはいずれ医療者になるわけですから、自分の場合、家族の場合と別に、
医療者の立場として、職場に臓器移植を待っている患者さんがいた場合にどう考えるか、
あるいは、自分もしくは自分の家族が臓器移植でないと助からないとしたらどうするか、
といったように様々な面から考えてみるようにするとどんどん深まっていきます。
人間というのは他の動物と同様、基本的には自己中心的な生き物ですが、
しかし人間には想像力が備わっていますから、
自分とは異なる立場に身を置いて考えてみることもできます。
そうやって多角的に考えることに慣れてくると、文章もたくさん書けるようになるでしょう。
あと4週間、こんなことに気をつけながら書く訓練、考える訓練を積んでみてください。
どこまで考えを深めることができたか、楽しみにレポートやテストを読ませていただきたいと思います。

Q.人間は死んだらコオロギになると思いますか?

2014-09-23 12:16:49 | 生老病死の倫理学
A.思いません。

今回は結論から先に言わせていただきました。

すでに4年前に 「Q.人は死んだらどこへ行くのだと思いますか?」 という質問をいただき、

このブログのなかでお答えしておいたことがあります。

基本的にはそこで書いたことの繰り返しになるのですが、

今回の質問はひじょうにピンポイントでした。

人間は死んだらコオロギになる、の一択なんですか?

他の選択肢はないんですね。

天国に行くとか、あるいはせめて他の動物になるとか…。

私はコオロギになるなんて話は聞いたことがなかったのでヤホーで調べてみたところ、

この話の出所を特定することはできませんでしたが、

たしかにコオロギになるという話は出回っているようですね。

これは 「死んだらどうなるのか?」 の仮説のなかの、

「B-c 別の人間や動物として、現世に生まれ変わってくる」 という、

輪廻転生説の一種ということになります。

でもコオロギ一択なんですか、ウーン。

死後どうなるかは誰にもわからないので、ひょっとするとコオロギという可能性もあるでしょう。

ただその場合、コオロギは自分が人間だったことを覚えているのでしょうか?

覚えていないのだとしたらこの仮説はまったくの無意味になってしまいます。

そして、たとえ覚えていたとしても、コオロギと人間は意思疎通ができませんので、

コオロギから 「実は自分は前世ではプロ野球の選手だったんだよね」

なんて打ち明け話を聞くことができません。

ですのでこの仮説が正しいということを確かめることはできないわけです。

もちろんこの仮説を反証する (否定する) こともできないわけですが、

私としてはあまりこの説に信憑性を感じることはできませんでした。

前に 「Q.天国は定員オーバーにならないんですか?」 ということについて考察しましたが、

例えば、近代以降、人類の人口は爆発的に増えているのですが、

それと同じようにコオロギの数も近代以降、爆発的に増えているというようなことがあるならば、

ちょっとは信じる気になるかもしれませんが、そういう証拠を示されないかぎり、

この説に賛同することはできなさそうです。

Q.子どもにはどんな名前を付けたいですか?

2014-09-22 15:29:26 | 教育のエチカ
こんな質問も初めていただきました。

自分の名前 「まさおさま」 の由来について話したので、

それにインスパイアされてこのような質問が出てきたのでしょう。

こんなふうに聞かれていました。

「Q.先生は自分の名前が嫌いだったと話されていましたが、

   子供にはどんな名前を付けたいですか?」

それとは別にこんな質問もいただきました。

「Q.キラキラネームはどう思いますか?」

ついでですので一緒にお答えしてしまいましょう。

私は今のところまだ子どもを持ったことがないので、

子どもの名前をどうするかについて真剣に考えたことがありません。

実際に生まれたときにどんなふうに付けるか自分でも想像つかないところがありますが、

とりあえず今の段階で考えられることを考えてみましょう。

名前というのは厄介なものです。

親から子どもへ与えられる最初の贈り物であり、

その後ほぼ毎日、日常的に頻繁に使用しますし、

しかも、よっぽどのことがないかぎりそのままの形で一生背負っていかなくてはなりません。

こんなに重たい贈り物ってほかに考えられないんじゃないでしょうか?

ですので付ける場合はそれはもう慎重にならざるをえないでしょう。

名前の意味、漢字の美しさ、音の響き、苗字と名前のバランス、

(ただし結婚等により苗字は変わる可能性もあるので、どんな苗字とも合う必要もあり)

そういったことを考え出すとキリがありません。

私の場合、占いの類は信じていないので、画数とか気にせず付けると思いますが、

本人はそういうのを結構、気にするタイプということもありえます。

それでいったら、古風な名前がいいか今風の名前がいいか、

平凡な名前がいいか奇抜な名前がいいか、

それも親の好みと本人の好みが合致しないということもありうるでしょう。

キラキラネームやDQNネームを付けてしまった場合、

よりいっそう親の思いと子どもの受け止め方がズレてしまう危険性が高まる気がします。

こちらのサイトには、小中学生のうつの原因で一番多いのが名前の問題であると書かれていました。

キラキラネームやDQNネームに限ったことではありませんが、

名前というのは子どもたちが真っ先にイジメの標的にするものでもありますから、

同年代の子たちからどんなふうにう受け止められるかということも気にしてあげる必要があります。

そう考えると本当に名付けというのは困難なタスクです。

私としてはとにかく、赤ちゃんに名前を付けるのではなく、

その子の一生に名前を付けるのだということをしっかり頭に入れた上で名前を考えたいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんはむちゃくちゃ可愛いですから、

その可愛さに引きずられて可愛いキラキラネームを付けてしまいたくなるかもしれませんが、

そうではなく、その子が学校で友だちに名前を呼ばれているところ、社会人になって初めて作る名刺、

お葬式のときに名前を読み上げられるところなど人生のすべてのステージを想定して、

その子自身がこの名前でよかったと思えるような名前を付けてあげたいと思います。

A.キラキラネームのような親の短慮や自己満足ではなく、

  本当にその子自身が気持ちよく一生使い続けられるような名前を付けてあげたいです。

受刑者の安楽死認める ベルギー、強姦致死などで収監

2014-09-22 11:51:00 | 生老病死の倫理学
強姦(ごうかん)や強姦致死などの罪で刑務所に30年間収監されていた男が、ブリュッセルの控訴審で、安楽死を認められた。地元紙のルソワール紙などが弁護人の話として伝えた。ベルギーの法相も許可しており、男は安楽死のため、近く病院に移送されるという。

 フランク・バンデンブレーケン受刑者(50)は1980年代、婦女暴行事件を繰り返し、19歳の女子学生については、暴行の末に死なせた。終身刑を言い渡された。収監後は自身を「社会の脅威」と考えて仮出所を拒む一方で、刑務所にいることは「耐え難い精神的な苦痛だ」として、何年にもわたって安楽死を求めていた。地元テレビに録画出演し、「やってしまったことはどうであれ、私は人間だ。どうか安楽死を認めて」と訴えたこともあった。

 ベルギーは2002年、オランダに次いで安楽死を合法化。条件として、当事者に判断能力がある▽自発的、熟慮のうえ、繰り返し訴えている▽複数の医師が認める――などが求められている。バンデンブレーケン受刑者の場合、医師3人がこれらの要件に当たると判断した。ベルギーの安楽死は昨年、過去最高の1800件以上だったという。

 (ブリュッセル=吉田美智子)

朝日新聞デジタル 2014年9月22日11時51分

自転車操業! てつカフェポスター完成

2014-09-20 14:13:05 | 哲学・倫理学ファック
金曜日に郡山と白河の看護学校に行っていると丸1日つぶれてしまいます。

特にその日に飲み会とかが入っていると直帰せざるをえず、

ということは金、土、日と連チャンで大学を留守することになってしまいます。

ですので、木曜日に大学から帰宅するときは忘れ物はないだろうかとか、

何かし忘れた仕事はなかっただろうかと一生懸命考えてから帰るのですが、

今週の木曜日は大学院の修士論文中間報告会があって午後はずっとバタバタしていたあと、

その打ち上げのため報告会終了後ほどなく大学を出なければならなかったので、

じっくり考える余裕のないまま電車に飛び乗ってしまいました。

そして、昨日になってやっと思い出したのは、

本日開催のてつカフェのための当日用ポスターを作っていなかったということでした。

前もって貼っておくならまだしも当日用ポスターなんて何の意味があるかわかりませんが、

本日のてつカフェは初めての会場で、ビルの2階に上がる上がり方がわかりにくいですので、

今日に限っては何があっても当日用ポスターが必要なはずでした。

それを作り忘れていたのです。

昨日それに気づいたときは暗澹たる気持ちになりました。

当日用ポスターはいつも大学の大型プリンターでプリントアウトしているのですが、

それが置いてある部屋はカギが掛けられていて、事務の方にカギを借りないと入れないのです。

当然、土曜日には事務の方はいらっしゃいませんから入ることができません。

一瞬あきらめかけましたが、すぐに白河駅から事務に電話をかけ、

土曜日にどうしても使いたいからカギをある場所に隠しておいてくれないかとお願いしてみました。

快くお引き受けいただき、昼前に大学に来たらちゃんと入室できてポスターを作成できました。

いやあ、ホント冷や汗ものです。

大慌てで作成したものがこちらです。



これでみんなちゃんと2階に上がってきてくれるでしょう。

今回は 「老い」 がテーマですから、

「老い」、「老人」、「老人介護」、「老害」 などで検索して画像を探し、

ご覧のような感じに仕上げてみました。

4枚のうち左下の画像は見にくいでしょうからここにもう一度貼っておきます。



なかなかいいですね。

「老害」 を表すのに本当はこちらの画像を使いたかったんですが、



この老害の方のセリフは何度聞いても腹が立つので、

ポスターを見てこの人への怒りがてつカフェへの怒りと混同してしまうことを恐れ、

使用を控えることにいたしました。

こういう人たちを見ていると老いることは 「悪」 以外の何ものでもないように思えてきますが、

今日のてつカフェではそうではない明るい側面にもスポットライトが当たるといいですね。

「老い」 の明るい側面を表現するためにこんな画像も準備していましたが、

それらも使うことはできませんでした。

  



こんなふうにカッコよく 「老い」 を体現している人たちもいるのです。

今日はどんな新しい発見があるか楽しみです。

「かーちゃんふるさと農園わいわい」 の2階で16時からです。

おヒマな方はぜひお越しください!

Q.なぜ浮気した本人ではなく浮気相手を責めるのですか?

2014-09-19 18:40:32 | 性愛の倫理学
いただいた質問は正確には次のような問いでした。

「Q.浮気された彼女はなんで浮気した彼氏ではなく、
   その彼氏の浮気相手のほうをせめることが多いんですか?」

この問いに対しては、その問いの前提条件そのものを信じられないので、
安易にお答えすることができません (問いを問い直す)。
つまりこの方は、浮気された彼女は浮気した彼氏ではなく、
その彼氏の浮気相手のほうを責めることが多い、ということを信じていて、
その上で、なんで多いのかと問うているわけです。
しかしながら私としては、本当にそういうことが多いのかどうか事実問題として怪しいと感じており、
浮気した本人を責める人もけっこういるんじゃないかなあと疑っています。
というわけで、今回は少し問いの形を変えさせてもらって、どちらが多いかどうかとは関係なく、
浮気した本人ではなく浮気相手を責める人というのは、
なぜそういうことをするのかということだけを考えてみたいと思います。

そのためにまずは、浮気した本人を責めるとどうなるかを考えてみましょう。
その場合、「なんで浮気なんかするの」 と本人に問い質すことになります。
この問いは別に答えを求める問いではなく、
たんに相手を責めるための言葉ですよね (トラップ質問)。
さすがにこの質問に正直に答える男はいないと思いますが、
本当に答えてしまうと、「お前に飽きたからだよ」 みたいなことを言わざるをえなくなります。
これを言ってしまうと本当に2人の関係は危機に陥ってしまいます。
この話をさらに押し進めていくと、なんで飽きたの?
お前の◯◯や△△なところがイヤになったんだよ、
というように話の矛先が自分のほうに返ってきてしまうことになります。
浮気された被害者だったはずなのに、なぜか自分が責められるような話になってしまうわけです。
ここまで話を進めてしまうと関係修復は難しくなってしまいます。

それに比べて浮気相手を責めるという場合は、
相手を私たち2人の間に割り込んできて彼氏をたぶらかした悪者に仕立て上げることができます。
政治家はよく国内問題がうまくいっていないときに、
国外に敵がいると宣伝してみんなの目を外に向け、国内の団結をはかることがありますが、
それと同じ戦略です。
このやり方だと私も彼氏も被害者ですから、
先ほどの場合のように自分たちの関係そのものを問題視したりせずにすみます。
浮気相手を責めるという事態は、こういうメカニズムによって生じるのではないでしょうか。

このように考えてくると、浮気した本人を責める場合というのは、
その人とその後うまくいかなくなるのをある程度覚悟しているような気がします。
逆に浮気相手を責める場合というのは、
浮気した彼氏とまだ関係を続けていきたいと思っているのではないでしょうか?
どちらが多いかはわかりませんが、その浮気した本人との関係をどうしたいかによって、
責める相手が変わってくるのではないかというのが私の仮説です。
あくまでも仮説にすぎませんが、今回は次のようにまとめておきましょう。

A.浮気した本人との関係をまだ持続したいと思っているから、
  浮気した本人ではなくて浮気相手のほうを責めるのではないでしょうか。

ここからもともとの問い (なんで多いのか?) に戻ってみると、
もしもそういう人が多いのだとするならばそれは、
浮気した本人との関係をまだ持続したいと思っている人が多いから、
ということになるのではないでしょうか。
ま、ホントに浮気相手を責める人のほうが多いのかどうか私にはよくわからないのですが…。

Q.サルから人間に進化したように他の動物も進化して別の生物になったりしないんですか?

2014-09-18 13:56:15 | 人間文化論
これは第1回目にもらった質問ではなく、

第2回目の授業で例の 「本能の壊れた動物」 の話をしたときにもらった質問ですが、

私は愕然としてしまいました。

今までこんな質問をもらったことはありませんでしたが、

今年は2人から次のような質問を受けてしまったのです。

「Q.サルが人間になったのであれば、

   サル以外の動物も発達し違う生物になることはあるのだろうか?」

「Q.他の動物は猿が人間に進化したというように何かに進化しないのだろうか!!!!」

ええっ、マジですかっ

これ本気で聞いてるの?

ひょっとしてお2人は原理主義的なクリスチャンだったりしますか?

でももしもそうなら疑問に思ったりせず、私の説に対して怒り出すのがフツーだろうなあ。

うーん、どういうことなんだろう?

今どきの学校では理科の時間に進化論って教えてないんですか?

すべての生物は不変のものではなく長期間かけて次第に変化 (=進化) してきたということ、

したがって現在地球上に生息する生物はすべて (動物も植物も) かつては別の生物だったのだ、

ということって現代人の常識ではないんですか?

私みたいな哲学・倫理学の研究者がいちいち説明するようなことではありませんので、

情報化の時代ですし、本でもネットでも進化や進化論について調べてみてください。

とりあえず今日のところはいただいた質問にのみ結論だけお答えしておきましょう。

A.人間以外のすべての生物も進化して別の生物になってきたし、これからも変化していくでしょう。



P.S.

ただし私の説明のしかたも若干誤解を招く言い方だったかもしれません。

サルが人間に進化した、という言い方は正確ではありませんね。

ボールカウントの順番

2014-09-17 23:32:59 | 人間文化論
私たちはグローバルスタンダードに合わせなければいけないんでしょうか?

TPP なんかに乗せられる必要があるのでしょうか?

グローバルだろうが何だろうが間違ってるもんは間違ってると、

断固反対すべきなんじゃないでしょうか?

あまり野球放送を見なくなってしまっていたあいだに、

ボールカウントの順番が変わってしまっていました。

昔は 「2ストライク3ボール」 みたいにストライクの数を先に言っていたはずで、

それを略して 「ツースリー」 と称していたはずなんですが、

いつの間にかボールカウントを先に言うスタイルに変わってしまっていました。

ウィキペディアはさすがで、「ボールカウント」 という項目できちんと解説してくれています。

それによるとかつての日本のように、

ストライクカウント、ボールカウント、アウトカウントという順番で表記するのは、

SBO方式といって世界では少数派らしいです。

世界的にはボールカウントがストライクカウントの先に来るBSO方式が主流だったそうです。

で、高野連では1997年から、オリンピックやWBCなどの世界大会は2008年頃から、

そして日本のプロ野球でも2010年からBSO方式に変更されたのだそうです。

アホですかっ

みんな野球のルールわかってるんですかっ

ボールカウントよりもストライクカウントのほうが重要に決まってるじゃないですかっ

投げるほうだって打つほうだってまず気にするのはストライクカウントじゃないですか

なぜボールカウントを先に言う必要がある

アメリカのバカモノどもにきちんと理論立てて説明してあげればいいだけのことじゃないですか。

そんなことも説得できないのかっ

「名誉の殺人」 は間違ってると時間をかけて説得すればいいだけのことなのです。

そりゃあ長い間の習慣なのだから向こうもそう簡単に変更できないかもしれませんが、

どう考えたって合理的に考えたらこっちのほうが正しいんだから、

粘り強く説得し続ければいいだけのことなのです。

そして、説得が成功しないあいだはあっちはあっち、こっちはこっちのルールでやればいいんです。

なのに、なぜこっちがあっちに合わせてしまうのだっ

まだ説得できなくてしかもあっちが多数派だからって日本でも 「名誉の殺人」 を始めるのですか

喝っ

ええ、ちょっと興奮してしまいましたが、

私はストライクカウントを先に言うSBO方式のほうが理に適っていると思います。

Q.倫理の移り変わりを知るにはどうしたらいいですか?

2014-09-16 15:05:10 | 哲学・倫理学ファック
これは郡山のほうで出された質問だったかな?
郡山は毎週1コマずつしかなく、自分を知るワークとかもやっていないので、
倫理学の先生に聞きたい質問を募るとわりとまじめな質問が多く出されます。
代表質問でもまじめな質問が基本ですし、代表質問に取り上げられなかった質問も、
たいがいはまじめな内容が多いです。
それに比べて相馬や白河では、自分を知るワークである程度アイスブレイクしておいてから、
私に聞きたい質問を考えてもらっていますので、哲学や倫理学というよりは、
生き方とか恋愛とか私のプライベートとか手描きの窓とか、
わりとくだけた質問やヘンテコな質問が増えてくるわけです。
ま、どちらがいい悪いという問題ではありませんが…。

さて、質問はこうでした。
「Q.今の日本と昔の日本 (世界) ではどのように倫理が変わっていったのか、
   知りたいのですが、どうすればいいですか?」
まじめかっ!
いや、もちろんまじめなんでしょう。
素晴らしいです。
こんな質問、今までいただいたことありませんでした。
たいへん向学心があってよろしいと思います。
そういえば、郡山には私の授業を受けてさっそく、
『高校倫理からの哲学3 正義とは』カントの 『永遠平和のために』『友だち幻想』 と3冊も、
私のオススメ本を買ってくださった人がいらっしゃいました。
倫理学の研究にかまけて看護学の勉強がおろそかになってしまわないかちょっと心配ですが、
私の話に興味をもってもらえたというのは大変ありがたいことです。

さて、今回のご質問に戻りますが、
今の日本と昔の日本や世界とではどのように倫理が変わったのか、
これを知るにはどうしたらいいのでしょうか?
質問をいただいてみて、これも意外と盲点だったなと気がつきました。
概説書という意味で探してみるとご要望にぴったり合うものというのが思いつきません。
特に私が西洋倫理学を専攻としているもので、
日本の倫理や東洋の倫理にも言及しているものをあまり知らないのです。

という意味で考えてみると、高校の倫理の教科書が一番ご要望に合っているかもしれません。
日本も含めて古今東西の思想、倫理を網羅しています。
もちろん倫理 (人々のあいだのきまり) そのものよりは思想寄り、倫理学寄りですが、
ざっくりと倫理についても書かれていたように思います。
というわけで、もしも高校のときの倫理の教科書をお持ちなら、
それをもう一度読んでみるというのがオススメです。
ただし高校時代に倫理を履修した人という人はそれほど多くはないでしょう。
その場合は 『もう一度読む山川倫理』 が市販されていますので、これが入手しやすいでしょう。
山川出版の教科書というのは他社のに比べて叙述が詳しくちょっと難しいかもしれませんが、
学校の授業で無理やり読まされるのでなく、興味をもって読む分にはちょうど手頃かと思います。
なお、アマゾンで 「倫理 教科書」 で検索してみるとフツーの教科書もヒットしますので、
山川出版以外の教科書も手に入れようと思えば入れられるはずです。

私の関わった岩波書店の 『高校倫理からの哲学』 シリーズも5巻本で出されています。
できればぜひこちらもご購入いただければと思うのですが、
テーマに即した編集になってしまっているので、倫理の移り変わりを時代を追って知りたい、
という質問者の御意向に沿っていないかもしれません。
ただまあぜひ、教科書を読んでみたあとの副読本としてこちらもご参照願えればと思います。
また他に何か思いついたら書き足していこうと思いますが、
とりあえず今の段階では次のようにお答えしておくことにいたします。

A.倫理の移り変わりをざっくり知るためには、高校の倫理の教科書を読むことをオススメします。

Q.道徳の授業で先生と意見が違ったらどうしたらいいんですか?

2014-09-15 19:31:43 | 哲学・倫理学ファック
こんな質問は初めて頂きました。
正確には次のような質問でした。

「Q.小学校の道徳の授業で担任と意見が異なり指摘を受けたという事がありました。
   それについてどう思いますか?」

素晴らしいですね。
道徳の授業って小学校と中学校でしかないんですが、
なんとすでに小学生のときに担任の先生と意見が違っていたなんて
小学校くらいだと道徳の授業ってもうすべて先生の言いなりで、
子どもたちも何とか先生の言うことに合わせようとするもんじゃないかと思うのですが、
先生の意見との違いをきちんと認識して、それをちゃんと先生 (やみんな) に伝えていたのですね。
本当に素晴らしいです。
先生が押しつけてくる道徳 (=倫理) に対して疑問を抱き、
自分なりに道徳 (=倫理) について思索をめぐらせていたわけですね。
それはまさに倫理学の第一歩です。
そんな小さな頃にもう倫理学に目覚めていたなんて
本当にうらやましいです。

私は学校の授業で先生の意見と自分の意見が食い違い、
それを押さえつけてしまうのではなく、きちんと自分の意見を主張できたのは、
高校のときの現代国語のときが初めてでした。
当時、私は国語は得意科目で、特に論説文なんかだとテストでも高得点を取れていたのですが、
文学は昔から苦手で、自分でも推理小説司馬遼太郎なんかは読んでいましたが、
国語の教科書に載るような純文学はまったく意味がわからず悪戦苦闘していました。
それでも中学までは先生が言うとおりの解釈をそのまま受け入れて、
テストでもそれをそのまま書いていればよかったので何とかなっていました。
しかし、高校の教科書で森鴎外の 「舞姫」 が出てきたときにもうどうしようもなくなりました。
授業受けているときからことごとく先生と解釈が異なるのです。
先生の言う解釈はもちろん指導書とかに記載されているとおりの、
一般的にも通用する正しい解釈だったのでしょうが、
私にはあまりにも美化されすぎているし、あまりにも当たり前すぎて受け容れがたいものでした。
それまでだったらテストのときは先生が好みそうな解答を書いてあげることができたのですが、
そのときはさすがに自分を抑えきれず、自分の思ったとおりの解釈を書き連ねて、
ことごとくバツをつけられてしまいました。
国語の成績がガクンと下がったのはあのときだけだったと思います。

高校生にしてようやく自我に目覚めて、自分でもいろいろと考えるようになっていた時期だったので、
よけいにあのときは自説を曲げることができなかったんだと思いますが、
質問者の方はすでに小学生のときにその境地に達していらっしゃったんですね。
私のように奥手だった人間からすると本当にうらやましく思います。
倫理学や哲学の素養満点だと思いますし、別に倫理学、哲学ばかりでなく、
すべての学問に懐疑の精神は必須ですから、
どんな分野であれ学問の道にも合っているのではないでしょうか。
今も看護学校でいろいろ学びながら、ただ先生方の言うことを鵜呑みにするばかりじゃなくて、
それはおかしいんじゃないとか、もっといい方法はないんだろうかと考えているんじゃありませんか?
そんなあなたは、しばらく看護師として現場で経験を積んだあと、
大学や大学院に戻って看護学の研究者を目指してみてはいかがでしょうか。
あるいはそこまで本格的にやらずとも、
看護学校教員養成講座を受講して指導者を目指すという手も考えられます。
人に教えるという仕事も、与えられた業務を自明のものとして受け取るだけでなく、
一度それらを根底から疑って自分なりに組み立て直すということをしないとできません。
ただ自分が社会科が好きだからっていい社会科の先生になれるわけではなく、
そもそもなんで社会科なんて勉強させなきゃいけないのというところまで遡って考えられる人だけが、
よい社会科の教師になれるのです。
看護師の教育もまったく同じことでしょう。
ぜひあなたには看護学の研究者か、後進の看護師の指導者になってもらいたいと思います。
というわけで今回の質問には以下のようにお答えしておきましょう。

A.小学校の道徳の授業で先生と意見が合わなかったというのは素晴らしいことです。
  あなたは小学生にしてすでに倫理学に目覚めていました。
  今後はぜひとも学問の道や後進指導の教育者の道を目指してみてください。