まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

戦争のニュースにカント学者は何を思うか?

2024-02-09 18:31:16 | グローバル・エシックス
次の質問はちょっと意外な質問でした。

「現在中東で戦闘が勃発したり、ウクライナで戦争が行われていたりと、悲しいニュースが多いですが、カントの「永遠平和のために」を研究されている小野原先生は、戦争が起こっていることを知ったとき、何を思うのでしょうか。私のようなただの大学生が抱く「ひどいな、悲惨だな、募金でもしようかな」という感情だけではなく、カント研究者としての目線から生まれる特異な感情があったりするのでしょうか。(例えば、「戦争なんてしてあほだな。カントが怒ってるぜ。」など何でもいいので知りたいです。)」

別に「カント研究者としての目線から生まれる特異な感情」なんてありませんよ。
私もたぶん皆さんと同じで、「ひどいな、悲惨だな」と思いますし、
特に、大量虐殺にも似た空爆やら襲撃を受けている一般市民の方々に関しては、
「かわいそうだ、悲しい、何とか助かってほしい、この苦しみから一刻も早く解放されてほしい」
と心から思います。
最近では少しいろいろなことに慣れすぎて、感受性が鈍くなってきているのかもしれませんが、
大学院生くらいだった頃には、ニュースを見てぼろぼろ泣いたりしていたこともありました。

戦争することを決定した為政者に対しては、
「あほだな」なんていう軽いノリではなく、
「なんて愚かなことをするんだろう」という怒りまじりの呆れというのでしょうか、
ものすごくネガティブな感情が沸き起こってきます。
しかし、私は皆さんに非暴力コミュニケーションを教えている身ですので、
しばらくネガティブな感情に浸ったあとは、
その為政者に直接会うことができたら、何と伝えるだろうかと考え始めます。

そのためにまず、自分の感情を極力排して、
その地で起きていることを客観的に観察ことばで表現しようと努めます。
とはいえ、一般市民を無差別に殺戮しまくることを命令した人々ですので、
(↑この言い方はまったく観察ことばになっていませんね)
彼らの言動を冷静に分析するというのは至難の業です。
さらに、彼ら為政者がなぜ戦争という決定を行ったのか、
彼らの中にある感情や必要を想像しようとするのですが、
本当に彼らの中に私たちと同じ感情や必要が存在しているのか、
私たちとは違うタイプの人間なんじゃないか、理解なんてできないんじゃないか、
という気持ちに何度も負けそうになってしまいます。
それでもやはり、彼らも私たちと同じ人間であり、
同じ感情や必要に動かされているはずだと何度も言い聞かせ、
何とかいろいろなパターンを想像してみようとします。
そしてその想像に合わせて、もしもこうだったら何とお願いしようか、
もしもこっちだったら何と言えばいいだろうかと考えてみます。

そのように考えているうちに、
はじめのうちはただの小野原雅夫として何と言おうかと考えていたのですが、
もしも自分が攻撃されている国の外交官だったらとか、
和平調停に乗り出した国連の大使だったらとか、
その国の野党の政治家だったら、マスコミだったらなど、
いろいろと立場を変えて、どのようなお願いをするかを考えていきます。
もちろんなかなかいいお願いの文章は浮かびません。
浮かんでも、こんなこと言っても絶対に通じないよなあ、
とすぐに却下してしまうようなものばかりです。
相手に通じるようなお願いを作文するのなんて無理なんじゃないか、
と思いたくなってしまうこともしばしばです。

そんなときは、授業の中で紹介した、
ガンディーの「すべての日本人に」のメッセージを思い出すようにしています。
無力感が大きいときはただ思い出すだけじゃなくて、
このブログの中に引用してありますので、
その記事を(→こちら)もう一度読むようにしています。
最後の(14回目の)授業のときに言うのを忘れていましたが、
皆さんに紹介したガンディーのメッセージはすべて、
非暴力コミュニケーションで書かれています。
NVCのみごとなお手本と言っていいでしょう。
あのメッセージはたんなる自らの思想の表明ではなく、
日本軍がインドの戸口にまで迫ってきているときに、
その侵略者に向けて贈った「ことばの贈り物」でした。
彼はあのメッセージを書くのにどれほど時間をかけ、
どれほど推敲を繰り返したのでしょうか。
その時間とその試行錯誤に思いを馳せ、
きっと今の時代に、今戦争を遂行している人々に届くことばもあるはずだ、
と気を取り直して、お願いのことばを考え続けています。

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