まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.この世に曖昧ってあるんでしょうか?

2016-10-30 19:19:04 | 哲学・倫理学ファック
今年の郡山の看護学校には、第1回目のときに限らず、
毎回のように振り返りシートに質問を書いてくれた方がいらっしゃって、
先日お答えした 「Q.文化と文明は違うものですか?」 という問いもその方からの質問でした。
あれは第2回目の授業に関連した質問でしたが、
その後は授業の内容とは関係なくいろいろな質問を出してくれていました。
たぶんもともと哲学・倫理学の素養があった方なんでしょうね。
今回のはずいぶん哲学的な問いです。
けっこう長々と質問を書いてくれていました。
たった90分の授業のなかのどこにそんな時間があったのかと思うくらい、
授業とは関係のないことを詳しく説明してくれていました。

「曖昧って何なんでしょうか。この世に曖昧ってあるんでしょうか。
 例えば、信号機の赤と青。
 信号機の赤と青は黄があるからこそ赤と青の区別がはっきりとする。
 赤と青だけだったとしたら事故が多発するか、警察につかまる人が増える。
 これは、曖昧な黄が確実にあるためになりたっている。
 こうなると曖昧なものは確実なものとなる。
 さらに飛行機の揚力は未だに誰も説明がついていないにもかかわらず飛行機は飛ぶ。
 曖昧なものは確実にあるとなると、この世に曖昧とはあるのでしょうか?」



ね?
とても哲学的でしょう?
質問された当初は言ってることが難解でうまく理解できなかったのですが、
何度も読み返しているうちに、だんだん質問者の真意が見えてきたように思います。
問いは2つあります。
ひとつめの問いは 「Q.曖昧とは何なんでしょうか?」 ですが、これは本丸ではなく、
2番目の問い 「Q.この世に曖昧ってあるんでしょうか?」 が本来の疑問のようです。
この問いの力点を見きわめると、この問いに対する答え方が見えてきました。
最初の問い 「Q-1.曖昧とは何か?」 にはいつものように辞書を使ってお答えすることにしましょう。

デジタル大辞泉の解説
あい‐まい【曖昧】[名・形動]
1 態度や物事がはっきりしないこと。また、そのさま。あやふや。「曖昧な答え」

大辞林 第三版の解説
あいまい【曖昧】( 名 ・形動 ) [文] ナリ 
〔「曖」も「昧」も暗い意〕
1 はっきりしないこと。確かでないこと。ぼやけていること。また、そのさま。あやふや。 「態度が-だ」 「 -なことを言う」

ウィキペディアの解説
曖昧(あいまい)とは、1つの表現や文字列、項目などが2つ以上の意味にとれること、もしくは、周辺が不明瞭なことである。


大辞泉と大辞林にはどちらにも2番目の意味が載っていますが、
それは私でも使わないような古い意味ですのでここでは引用しないでおきます。
(気になる方は自分で調べてみてください。)
これら2つの辞書によれば、要するに 「曖昧」 とははっきりしないこと、確かでないことのようです。
それに対してウィキペディアの説明はちょっと毛色が違っています。
これはもともとウィキペディアというのが英語で作成されたものを元にしていて、
英語の ambiguity (多義性) という語に引きずられてこうなっているものと思われます。
多義性の 「義」 とは言葉の意味を表す漢字で、
ambiguity とか多義性という語は、ひとつの言葉や表現がいろいろな意味をもつことを指しており、
ウィキペディアはそれを中心に解説してくれているわけです。
日本語の 「曖昧」 というのは別に言葉の意味に限って使われるわけではないので、
もうちょっと広く、はっきりしないこと、確かでないこと一般に対して使用できる語だと思います。
これら3つの定義をまとめると以下のようになるかと思います。

A-1.曖昧とは、物事や言葉の意味や態度等がはっきりしないこと、確かでないことです。

物事や言葉の意味や態度がはっきりしないとはどういうことか、
質問者の方が信号機の例を出してくれていましたので、それを使って説明してみましょう。
まず物事がはっきりしないというのはどういうことかというと、
例えば赤や青や黄という色は光学的、色彩学的に言えば、
赤は赤、青は青、黄色は黄色とはっきり決まっています。
しかし赤と青を混ぜると紫になり (紫は紫ではっきり決まっているのですが)、
その赤と青の配合バランスによって無限のバリエーションの色を作ることができ、
赤とも青とも (そして紫とも) はっきり決めることのできない無数の曖昧な色が存在します。
これが物事がはっきりしない、確かではないということです。

言葉の意味がはっきりしないというのは、
普通 「青」 という言葉は先ほどのきっちりと決まった青色、
ならびにその周辺の青に近い曖昧な色のことを指して使われますが、
ところが信号機の例で言うならば、全然青ではなくて緑色なのに、
「緑信号」 と言わずに 「青信号」 と言ったりします。
また、青いという形容詞は、色とは関係なく未熟なとか若いという意味でも用いられます。
このように青に限らず言葉というのはどんな言葉もはっきりとひとつの意味だけをもつわけではなく、
いろいろな意味をもつ曖昧なものなのです。

態度がはっきりしないというのは、たぶんこれまで生きてきてたくさん目にしてきたでしょうし、
自分自身も態度をはっきりさせなかったことはいくらでもあったのではないでしょうか。
信号機を作った人は最初は、青=進め、赤=止まれの2つだけで考えていたのかもしれませんが、
車が止まるにも、人間が横断歩道を渡りきるにも時間がかかりますので、
ちょうど信号が赤になった瞬間に交差点のなかにいた人や車はどうしたらいいんだろうと考えて、
進めとも止まれともはっきりしない別の態度が必要だと思い至り、
黄色ないしは青の点滅というものを赤と青の間に加えたのだろうと思います (ただの想像です)。
黄色信号を見た人の態度もまちまちで、黄色は加速と思っている人もいるだろうし、
黄色は減速して停止と思っている人もいるだろうし、
同じ人でもそのときの交差点までの距離やスピードや交通状況によって態度を変えたりするでしょう。
黄色信号という曖昧なメッセージに対しては、対応の仕方も曖昧になるわけです。
また、黄色は加速と思っている人はたいてい赤になってから交差点を通過したりするものですが、
それを見かけたおまわりさんも、全部が全部信号違反で逮捕するかというとそうでもなくて、
まあ今のはぎりぎりセーフかなとか、これは完全にダメでしょうとか、
ケースバイケースで逮捕したりしなかったりいろいろな態度を取っているのではないでしょうか。
これもはっきりとしない曖昧な態度だと言えるでしょう。

さて、ここからが今回の質問の本題になるわけですが、
このようにこの世には曖昧なものが確実に存在しています。
そうなると曖昧なものははっきりと存在する確かなものとなり、
だとすると曖昧なものではなく確実なものとなってしまうので、
曖昧なものなんてこの世には存在しなくなってしまうのではないか、
というのが第2の問いでした。
もう一度ご質問を見てみましょう。

「これ [信号のシステム] は、曖昧な黄が確実にあるためになりたっている。
 こうなると曖昧なものは確実なものとなる。
 曖昧なものは確実にあるとなると、この世に曖昧とはあるのでしょうか?」

たしかに先ほど見たように定義上、曖昧とははっきりしないこと、確かでないことでした。
しかし、曖昧なものははっきりと確かに存在しているわけで、
だとするとそれは曖昧なものではなく確実なものになってしまうのではないか、
というのがご質問です。
はっきり申し上げましょう。
これは 「曖昧」 という言葉の意味の曖昧さ (=多義性) によって生じてきた錯誤です。
したがって 「曖昧」 という言葉の意味をはっきり区別することによって答えることが可能です。

先に私はいくつかの辞書を統合して次のように 「曖昧」 という語を定義しておきました。
「曖昧とは、物事や言葉の意味や態度等がはっきりしないこと、確かでないことです。」
先に説明した3つ (物事、言葉の意味、態度) のあとに慎重に 「等」 を付しておいたのですが、
お気づきだったでしょうか。
今回の質問者が最後に 「曖昧」 という言葉に託していたのは、
物事、言葉の意味、態度の曖昧さということではなくて、
この世にあるかないかがはっきりしない、確実ではないという、存在の曖昧さだったわけです。
質問者のロジックを次のように論理的に整理してみましょう。

・曖昧なものは確実に存在する
・確実に存在するものは曖昧なものとは言えない
・ゆえに曖昧なものは存在しない

これだけ見ると一見正しい推論であるかのように見えますが、
「曖昧」 という語に多義性があり、第1文と第2文の 「曖昧なもの」 が別の意味で使われているので、
この推論は成り立たないわけです。
第1文で言う 「曖昧なもの」 とは、物事や言葉の意味や態度に関して曖昧なものです。
(質問者の出した信号機の例は、態度の曖昧さの例になるのかな?)
それに対して第2文で言う 「曖昧なもの」 は、存在に関して曖昧なものです。
したがって第1文の意味での 「曖昧なもの」 が第2文の意味での 「曖昧なもの」 とは言えないので、
第3文のような結論を導き出すことはできないのです。

それでは、存在に関して曖昧なものとはどういうものでしょうか?
あるかないかがはっきりしない、確かではないものということですね。
例えば、神様とか天国とか幽霊とか超能力といった超自然的なものは存在が曖昧です。
(超自然的とは、私たち人間の普通の五感によって捉えることのできないものです。)
超自然的とは言えないものの、今のところ人間が経験的に出会ったことのないもの、
例えば、宇宙人はいるかもしれないしいないかもしれないし、その存在ははっきりしません。
さらに言えば、現代科学の最先端で唱えられている仮説のひとつであるビッグバンなども、
今のところ多くの傍証から大方の科学者の賛同を得られているようですが、
まだ解明しきれていない謎も残されているようで、
この先まったく別の仮説に取って代わられるという可能性がないわけではありません。
となるとビッグバンが本当にあったのかなかったのか、その存在は曖昧と言えるのかもしれません。
何と言っても138億年も前の話ですから、それ自体を私たちが経験することはできないのでね…。
存在に関して曖昧なものというのはこういうようなもののことを指すのでしょう。
なお、質問者の方は存在が曖昧なものの例として揚力を挙げてくれていましたが、
どうやらこれ (揚力は科学的に証明されていないという言説) は最近広まった都市伝説のようです。
揚力はすでに100年前にその複雑なメカニズムが解明されているそうなので、
詳しくはこちらをご覧ください (「飛行機はなぜ飛ぶのかまだわからない??」)。
揚力は別としても、存在が不確かという意味での曖昧なものというのはいろいろとあることでしょう。

それに比べて、私たちが今目の前に見ている様々な、何色とはっきり特定できない曖昧な色は、
この世にしっかりと存在しています。
オスともメスとも分類することのできない、未分化であったり、両性具有であったり、
時や条件とともに性が変わってしまうような、性の曖昧な動物もたしかに存在しています。
いろいろな意味を表すことのできる 「青」 とか 「曖昧」 というような言葉もたしかに存在しています。
ふだんの人間関係のなかで煮え切らない曖昧な態度なんていくらでも見たことがあるでしょう。
それらはいずれも曖昧なものですが、存在に関して曖昧なわけではなく、たしかに存在しています。
たしかに存在はしているのですが、だからといってそれらが曖昧でなくなるわけではないのです。
というわけで第2の問いに対するお答えは次のようにまとめておきましょう。

A-2.物事や言葉の意味や態度に関して曖昧なものはこの世にたしかに存在しています。
    たしかに存在しているので、それらは存在が曖昧なものの中には含まれませんが、
    物事や言葉の意味や態度がはっきりしないという意味で 「曖昧なもの」 として存在しています。

いかがでしょう、これで納得いただけたでしょうか?
哲学の一部である論理学には、「媒概念曖昧の虚偽」 というのがあるので、
今回はそれを参考にしながら答えてみましたが、
たぶん今回のケースに 「媒概念曖昧の虚偽」 を直接適用することはできない気がします。
それよりも哲学の歴史のなかには神の存在証明というとても大事な仕事があったのですが、
今回のご質問はその神の存在証明とはちょうど反対の 「曖昧の非存在証明」 になっていて、
とても面白かったと同時に、これにお答えするにはとても頭を使いました。
たぶんこういう答え方でよかったんだろうと思っていますが自信があるわけではありません。
(実は1カ所、自分で書いていてこれは矛盾してるなと思っているところがあります。)
ご自分でもさらに考え続けてみて、納得いかなかったらまたコメント欄に質問してください。

これは何?

2016-10-26 23:14:58 | お仕事のオキテ
研究室に着いて机に座ってみたらば、なんか粉っぽいんです。



机の上にいつのものかわからないのど飴や、

使い終わったインクタンク等が散乱しているのは自分のせいですから一向にかまわないのですが、

この白っぽい粉のようなものは何でしょうか?

特にこの机で大福とか粉っぽい食品を食べた覚えはありません。

よーく見てみると、粉末ばかりでなくもうちょっと大きめの切れっ端のようなものも混ざっています。

プリンターでからまってビリビリになった紙とかでしょうか。

しかし、プリンターを新調してからそんなことことが起こった記憶はありません。

うーん何なんだろうと天を仰いでみたらこんなものが見えました。



なんじゃこりゃあ

天井に黒いシミが広がり、白っぽい粉のようなものが浮いています。

たぶんあれが落ちてきていたのでしょう。

この黒いシミはずっと前からあったんですが、今まで白い粉は吹いていませんでした。

何なんですか、これは?

あの向こう側で何かヤバイことが起きていたりしますか?

うちは最上階なんだよなあ。

雨漏りですか?

まさかアスベストとかではないですよね?

うーん、何なんだろう?

どうしたらいいんだろう?

どなたかこういうことに詳しい方はいらっしゃいませんか?

Q.文化と文明は違うものですか?

2016-10-25 20:09:30 | 人間文化論
看護学校の授業は終わってしまいましたが、いただいた質問はまだ残っているので、
今後も答えられそうなものから順番にゆるゆるとお答えしていくつもりですので、
たまにはこのブログも見に来てください。
(おーい、みんな見てるかあ

今回の質問は第1回のときに出してもらったやつではなく、
人間とは何かを考えてもらった回にいただいたものです。
もう忘れちゃいましたか?
人間は本能が壊れていて、その代わりに文化を生み出して生きていく動物だという話です。
あのとき私は、ここで言う 「文化」 は文化人類学で言う文化なので、一番広い意味の文化であり、
人間が生み出したものは有形のものも無形のものも含めてすべて文化ということになります、
と説明させていただきました。
あのときの用語法で言うならば、文明は文化に含まれることになりますから、
次のようにお答えしておけばいいということになるのでしょう。

A-1.文明は文化に含まれますので、文化と文明は同じものです。

ただ、ああいうふうに文化を広い意味で使うことというのは一般的な用法ではありませんので、
今回の質問に対してA-1のようにだけ答えておけばいいということにはならないでしょう。
フツーは文化と文明は区別して使われていますよね。
こういうときは辞書で確かめてみましょう。
まずは『大辞泉』 による文化と文明の定義。

ぶん‐か【文化】
1.人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」
2.1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
3.世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」
[用法] 文化・文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。◇「文化」のほうが広く使われ、「文化住宅」「文化生活」「文化包丁」などでは便利・新式の意となる。

ぶん‐めい【文明】
人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。


このように 『大辞泉』 では文化には大きく3つに分けられる意味があるように説明されていました。
このうちの1番が私が使った広い意味での文化です。
それに対して今回の質問に関連するのは2番の意味での文化ですね。
文明のほうの説明も、文化の2番目の意味と対を成していることがおわかりいただけるでしょうか。
文化の3番目の意味は今の若い人にはまったくピンと来ないかもしれませんが、
ぼくの親の世代くらいまではいろいろなものに 「文化」 を付けて、
何かしら先進的なものを指すという用語法があったようです。
『大辞林』(第三版) も見ておくことにしましょう。

ぶんか【文化】
1.〔culture〕 社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教、種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては、それぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており、その間に高低・優劣の差はないとされる。カルチャー。
2.学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。
3.世の中が開け進み、生活が快適で便利になること。文明開化。
4.他の語の上に付いて、ハイカラ・便利・新式などの意を表す。 「 -鍋」 〔「文徳によって教化する」の意で「文選」にある。当初、「文明」と共に英語 civilization の訳語。中村正直訳「西国立志編」(1871年)にある。明治30年代後半英語 culture やドイツ語 Kultur の訳語へ転じた。現在の意では西周にしあまね「百学連環」(1870~71年)が早い例〕

ぶんめい【文明】
1.文字をもち、交通網が発達し、都市化がすすみ、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化をさす。 「オリエントの-」
2.人知がもたらした技術的・物質的所産。 「 -の利器」 〔「学問や教養があり立派なこと」の意で「書経」にある。明治期に英語 civilization の訳語となった。西周にしあまね「百学連環」(1870~71年)にある。「文明開化」という成語の流行により一般化〕


こちらは文化には4つ、文明には2つの意味が記されていて、
『大辞泉』 よりもそれぞれ1つずつ定義・解説がよけいに付されています。
内容的に見てみると、「文化」 に関しては、『大辞泉』 の3番に書かれていた内容が、
『大辞林』 では3と4に分けられていて、
『大辞泉』 には載っていなかった culture や civilization といった原語に言及されています。
「文明」 に関しては 『大辞泉』 と 『大辞林』 で共通する点もありながら、
まったく 『大辞泉』 では触れられていなかった点にも言及されていることがわかるでしょうか。
「文字」、「交通網」、「都市化」、「国家的政治体制」 といった語は、
『大辞泉』 にはまったく出てきておらず、『大辞林』 のほうにだけ見られます。
これは 『大辞泉』 が欧米語の原語に触れておらず、
『大辞林』 が欧米語との関係を見据えていることと関連しています。
「道徳」 や 「倫理」 という語と同様、「文化」 も 「文明」 も元々は中国から伝来した言葉ですが、
幕末から明治にかけての開国期、欧米語を翻訳する際の訳語としていろいろと試されるなかで、
最初は 「文化」 も 「文明」 も civilization の訳語として当てられていたのですが、
だんだん時が経つとともに 「文明」 が civilization の訳語として定着し、
「文化」 は culture のほうの訳語として定着していくことになったわけです。
したがって文化と文明の違いを知るためには culture と civilization の違いを知る必要があります。
これを説明しようと思うとはてしなく面倒くさいのですが、
とりあえず百科事典の解説を簡単にご紹介することで何とか乗り切ってみましょう。
以下は 『百科事典マイペディア』 の解説です。

文化【ぶんか】
英・仏語 culture,ドイツ語 Kultur などの訳。欧語はいずれもラテン語 cultura に由来し,元来〈栽培・耕作〉の意をもつ。すなわち,動物のそれと区別されるところの,人間に固有な生活様式の総体をいい,しばしば自然に対比される。

文明【ぶんめい】
英語 civilization,ドイツ語 Zivilisation などの訳。ラテン語 civis (市民) に由来し,元来市民たる身分の特性や教養を意味したが,しばしば文化と同義に,動物ないし〈未開〉とは区別される,洗練された人間生活・活動の総体をいう語として用いられる。


culture が 「農耕」 に由来する語だということは授業中に話したような気がします。
それに対して civilization のほうは 「市民」 とか、
さらにその元となった 「都市」civitas に由来する語なわけです。
先ほどの 『大辞林』 のなかで 「都市化」 に言及されていたのはそういう意味合いなんですね。
世界史のなかで黄河文明とかメソポタミア文明と言う場合、
ある特定の場所に多くの人々が集まってきて都市国家が形成された所を指して用いられます。
そういう所ではみんながみんな農耕 (=食物生産) に携わっているわけではなくて、
分業が進みさまざまな産業が発達していきますね。
したがって順番的に言うと、まず culture (文化) があり、
その先にさらに進んでいくと civilization (文明) が形成されていくということになります。
『マイペディア』 では、文化は動物や自然と対比される言葉であり、
文明は未開社会と対比される言葉というふうに説明されていました。
元々の欧米語はそういうニュアンスで使われていたと言っていいでしょう。
したがってこういうふうにまとめておきましょう。

A-2.動物とは異なり自然をそのままを受け入れるのではなく、
    人間が自らの手で生み出していったものすべてが文化と呼ばれます。
    文化が発達していくなかで都市国家が形成されるほど豊かになった段階で生み出された、
    より高度で洗練された文化が文明と呼ばれています。

この2番目の答えにおいても、文明は文化に含まれるという形になっていることに注意してください。
基本的には文化と文明というのはこのA-2のように捉えておけばいいんだと思います。
ウィキペディアの文化文明の説明もおおよそこの枠組みで書かれていると言っていいでしょう。
さて、問題は最初の 『大辞泉』 や 『大辞林』 にあった精神的なものと物質的なものという区別です。
この分類はどこから生じてきているのでしょうか。
これもきちんと論じるのは難しいのですが、
英語やフランス語の culture には 「文化」 という意味のほかに 「教養」 という意味があり、
これが影響してきているのだと私は考えています。
ドイツ語だと Kultur (文化) という語のほかに Bildung (教養) という語があるんですが、
英語やフランス語には教養を表すための別の単語が存在せず、
culture という語が文化という意味で使われる場合と教養という意味で使われる場合があるのです。
人間の知能というか精神的能力を耕し開墾していくことによって教養が身に付いていく、
というイメージで culture が教養を意味するようになったのでしょう。
culture が教養であるとするならば、それが精神的なものを指すというのは理解できますね。
それとの対比で、civilization というのは都市化によって生み出されたものですから、
精神的なものよりは物質的なものや制度的なものを指す場合が多くなったのでしょう。
もちろん都市化によって精神的なものも生み出されます。
都会的な洗練された習慣とか社交界のマナーなどです。
カントなどはそういう精神的なものを表すために civilization という語を使ったりしていましたが、
やはり大多数の人々は civilization と言えば物質的なものを思い浮かべ、
文化であると同時に教養も意味する culture という語によって精神的なものをイメージしたのでしょう。
その区別が現代語にも引き継がれているのだと思います。
というわけで3番目の答えです。

A-3.現代においては、人間が生み出したもののうちで精神的なものを文化と呼び、
    物質的、制度的なものを文明と呼ぶ区別が定着しているようです。

このような限定された意味での文化という言葉からさらに派生して、
日本では (特に学校社会のなかでは) 「文化系」 という言葉がよく使われています。
「体育会系」 という語と対を成す言葉ですね。
これについては以前に書いたことがあるのでそちらを読んでみてください。
さらには 「理数系」 と 「文化系」 を区別する用語法もあります。
数学や自然科学って私には人間精神の産物としか思えないんですが、
それらは文学や芸術のような曖昧さを伴わず、
科学技術によって物質的なものを生み出すことができるというところが、
文化っぽくないということなんでしょうか。
「文化系」 という言葉の使い方は日本独自のものと思われますので、
これ以上詮索するのはやめておきましょう。
長々と書いてきてしまいましたが、
文化と文明の違い (や共通点) に関してご理解いただけたでしょうか。
よくわからなかったらまたコメント欄に質問ください。

子どもの発見 (その4)

2016-10-20 21:26:57 | 人間文化論
昨日の朝、駅に向かって歩いていたら、駅前通りがこんなふうになっていました。



わかりますかね?

舗装が剥がされているんです。

昨日と一昨日は一晩中、重機の音やクラクションなどが鳴りまくっていて、

何だか騒がしいなあと思っていましたが、こんな工事をやっていたんですね。

舗装道路の舗装って時とともにどんどん傷んで、

穴が空いたり轍ができたりしますから、時々こうやって張り替え工事をしなきゃいけないんですね。

舗装が剥がされたあとはどうなっているのか、もうちょっとアップにしてみるとこんな感じです。



土がローラーで固められた状態です。

相当踏み固められていますから、今朝はこの上をクルマがフツーに走っているわけです。

しかし、舗装しないでこのまま放ったらかしにして、そのうち雨が降ったりしたら、

ここも舗装されていない山道と同じようにただのドロドロの土の道に戻っていくでしょう。

こういうのを見ると子どもの頃のある光景が思い出されます。

私は子どもの頃横浜に住んでいましたが、通学路の途中に舗装されていない細い道がありました。

人間は通り抜けられるけどクルマは通り抜けることができず、

したがって道路沿いに建っている家の自家用車がごく稀に通ることはあっても、

それ以外にはめったにクルマの通ることのないような細い道です。

今にして思えば、そういう道だったからこそ舗装されていなかったんでしょうが、

小っちゃいまあちゃんにはそういうことは何もわかっていませんでした。

そしてその道は先ほどの駅前通りのようにローラーで踏み固められたりもしていなかったので、

雨になるとぬかるんでそれはもうグチャグチャになってしまうから、

子ども心にそこを歩くのがとてもイヤだった覚えがあります。

そのとき小っちゃいまあちゃんはこんなふうに思っていました。

「なんでこの道は公園でもないのにこんなふうに土が盛ってあるんだろう?」

当時私は団地に住んでいたのですが、団地の敷地内は基本的にどこも舗装されていました。

舗装されていないのは公園や芝生など子どもたちが遊ぶための特別な場所だけでした。

(本当は芝生は立ち入り禁止で遊ぶための場所ではありませんでしたが、

 子どもにとっては格好の野球場でありサッカースタジアムでした。)

そして小っちゃいまあちゃんは何を勘違いしたか、

公園や芝生というのは子どもたちのためにわざわざ土を敷き詰めてあるところで、

この土の下には舗装道路があると思い込んでいたのです。

自然ギライの私の原点がここに見て取れますね。

私にとっては舗装道路がデフォルトで (つまり、自然なありのままの姿)、

土のある場所というのはわざわざ人工的に作られた場所というイメージだったのです。

したがって先ほどの細い道も舗装道路の上にわざわざ土を敷き詰めてあると思っていたのです。

たしかにそんなことされたら迷惑千万ですが、そんなことをする人がいるはずありません。

と、大人の常識では思うのですが、子どもの思い込みっておそろしいですね。

いくつくらいまでだったかなあ、かなり長じるまでずっとそう信じ続けていました。

その思い込みから脱したときは大きな発見をしたような気分になったものでした。

ずいぶんご無沙汰していましたが、

以前に 「子どもの発見」 というシリーズを連載したことがあります (その1その2その3)。

今回もあのときのシリーズに倣って子どもの発見としてまとめてみると次のようになります。




発見その4 「土で覆われた道路は舗装道路の上に土が盛られているんじゃない。

       地面というのは基本的に土でできていて、

       その上を人間が人工的にアスファルトで固めたのが舗装道路である。」



うーん、いいことに気づきましたね。

誰かに言いふらす前に気づいてホントによかったです。

舗装道路の上に土が盛られているということは、

小っちゃいまあちゃんにとってはあまりにも当たり前すぎて、

わざわざ誰かに言おうという気にもならなかったのが幸いしました。

今はこの誤解も解けて、1日も早く舗装工事が終わってくれないかと願う今日この頃でした。

白河の非常勤終了&卵先生たちとの再会

2016-10-17 07:42:32 | 教育のエチカ
このあいだの金曜日で白河の看護学校の授業が終了しました。

同じ金曜日の午前中に行っている郡山の看護学校のほうは、

途中、台風のため休講となったことがあったため1週間ずれてあともう一回残っています。

白河の看護学校といえばあの衝撃のちらし寿司事件が忘れられませんね。



いや、たんに病院のレストランの話なので看護学校とは本来何の関係もありませんが、

まあ、でもつい思い出してしまいますよね。

最終日、あのちらし寿司はまだ健在なんだろうかとおそるおそるレストランに行ってみましたが、

幸いメニューからはなくなっていました。

このあいだの金曜日のラインナップはこんな感じでした。



これらは日替わり、週替わり、月替わりのメニューで、

(ミックスフライは9月からずっとこの中に並んでいました。)

これらとは別にレギュラーメニューがこんな感じであるわけです。



まあ、なかなかの力の入れようですね。

どれも美味しいです (あれを除けば)。

どのメニューにもご飯、スープか味噌汁、サラダ、お新香、デザート、ドリンクが付くという、

ひじょうにボリュームのあるランチメニューとなっております。

ただ前からちょっと気になっていたのですが、

病院のレストランのメニューとしては少しボリュームがありすぎるんじゃなかろうかという気がします。

病院のレストランってどういう方が利用されるのでしょうか?

看護学校の非常勤講師なんていうのは少数派として、

これまで見てきた感じでは、お見舞い客が圧倒的に多く、

たまに病院のお医者さんらしき人の一団が使っていたりもしますが、

あとはお見舞い客と一緒に、あるいは単独で入院患者さんらしき人々がけっこうな割合で来ています。

入院患者さんはいろいろと制限のある病院食をふだん食べていらっしゃるんだと思いますが、

そういう方々があの充実しすぎるラインナップの中から何を選んでいるんだろう、

一発でカロリーオーバー、塩分オーバーになってしまっているんじゃなかろうかと、

他人事ながらちょっと気になっていたのでした。

これは偏見なのかもしれませんが、やはり病院のレストランといったら、

あのタニタの社員食堂みたいにいろいろと控えめなメニューを提供しなくていいんだろうかと、

よけいな心配をしていたわけです。

そうしたらですよ、もうこの病院が新築移転し、このレストランができて9年目になるわけですが、

今回初めてこんなメニューが登場しましたっ



やったあ、健康減塩メニューだあっ

素晴らしいっ

なんと病院長まで乗り出してきての大プッシュじゃないですか。

ウラには詳しい説明が書かれていました。



ああ、よかった。

これで入院患者さんも安心してこちらのレストランで食事ができますね。

残念ながらこの日私はとても身体が塩分を欲している感じだったので、

健康減塩メニューを自ら試してみることはできず、不健康塩分投入メニューをいただきました。

新メニューのリポートは来年度以降に行わせていただきます。

さて、この日はキュウリにうなされることもなく美味しく昼食をいただいて、

白河の看護学校の授業も滞りなく無事にすませることができました。

あいかわらず、皆さんからいただいた質問に全部答える間もなく終講してしまいましたが、

今後も書けそうな気がした時に追い追いお答えしていきますから、

たまにはこのブログをのぞいてみてください。

帰りの電車のなかではいつものように一心不乱にワークシートの採点をしていました。

最終回のワークシートには学生さんたちがレポートを書くときに必要な内容が書かれていますので、

できるだけ早く採点して返送してあげなければなりません。

福島に着くまでのあいだに終わらせたいと鬼のように採点をしておりました。

途中からだんだん混んできて立っている乗客も増えてきているようだとは感じながらも、

ワークシートから目を上げることもなく採点を続けていたのですが、

郡山に着く何駅か前のあたりでふと疲れて大きく伸びをしてみました。

すると私の目の前に立っていた2人の女性が私のほうをじっと見ていて、

それがなんだか見覚えのある顔です。

すぐにお2人のほうから挨拶してくれて、6月に郡山で行った看護教員養成講座の受講生たちでした。

お2人は須賀川から乗ってきて、採点しているワークシートに見覚えがあって、

すぐに私だと気がついてくれていたようです。

あの講座はまだ続いていて、10月に入ってあちこちの看護学校に分かれて教育実習中だそうです。

お2人は須賀川の看護学校に配属されて、ちょうど実習からの帰りだったとのことでした。

何だか私の授業のこともよく覚えていてくださって、

パワーポイントの授業だと眠くなってしまうから、

小野原先生みたいに板書で授業をするつもりだと言ってくださいました。

他にもやはりあのときの受講生のなかには板書中心の授業案を作っている人がいるそうで、

そんなレトロなやり方を流行らせてしまってちょっと責任を感じてしまいます。

お2人からは、ブログも読んでます、今日会ったこともブログに書いてくださいね、と頼まれました。

あのあと福島に着いて金曜日は大学の先生や職員の方々と飲み会、

土曜日は二日酔いのあとてつがくカフェ

日曜日も二日酔いのあと今度は相馬の看護学校のレポートの採点に追われていたため、

なかなかブログを書くヒマがありませんでしたが、ようやく書くことができました。

みんな読んでくれてる?

未だに覚えていていただいてたいへん恐縮しております。

教育実習たいへんだと思いますが頑張ってください。

今度、死や生を中心に扱う死生学カフェ (「びえもカフェふくしま」) を新たに始めます。

実習中でお忙しいかもしれませんが、興味のある方はぜひいらしてみてください。

というわけで、キュウリちらしの代わりに健康減塩メニュー始めましたの告知と、

東北本線のなかで看護教員の卵の方々と奇跡の再会を果たしましたというレポートでした。

健診結果2016は1勝2敗

2016-10-13 22:27:03 | 生老病死の倫理学
健診結果が返ってまいりました。

昨年は特に何を頑張ったわけでもないのにまさかの完全試合を達成してしまいましたので、

この1年間はいい気になってけっこう不摂生な生活を送っていました。

ブランチにカップラーメンとか頂いたりして、糖質制限どころか糖質大摂取。

そうするとお腹が重いので階段を上がる気にもならず、ついエレベーターに頼る日々。

まあこれでは完全試合再びというわけにはいかないよなあと諦めつつ受けた今年の健康診断でした。

結果は案の定、1勝2敗でした。

まあこの1年間の生活を思えば 「4:要治療」 がつかずにすんで万々歳と言うべきかもしれません。

まずは 「2:軽度異常」 の腹囲。

88.5cmまで戻ってしまいました (基準値:85未満)。

糖質制限に成功して80.0cmの金字塔を打ち立てた2013年。

その後、81.0cm、82.0cmと微増ですんでいたのに、

一気に6.5cmもリバウンドしてしまいました。

糖質制限再びなのか⁉️

もうひとつが 「3:要経過観察」 の脂質、総コレステロールとLDLコレステロールでした。

総コレステロールは204 (基準値:140〜199)、

LDLコレステロール (いわゆる悪玉コレステロール) は138 (70〜119)。

ちなみに2013年からの4年間の推移を見て見ると、

総コレステロールは229→227→187→204、

LDLコレステロールは146→131→115→138でした。

こう見てみると、やはり去年が出来すぎだったというのがよくわかります。

なんであんなにいい数値を記録できたんだろう?

特に何を気をつけていたというわけでもなかったのに。

ま、とりあえずカップラーメン控えるのと階段ダイエットの再開かなあ。

このまま坂道を転げ落ちてしまわないように何とか頑張りたいと思います。

さて、昨年の完全試合に対して何を1勝できたのかと訝っていらっしゃる方もおられるでしょう。

私もビックリしてしまったんですが、なんと視力が 「1:異常なし」 に改善していたんです。

昨年、視力のところが 「2:軽度異常」 の判定でした。

私はもう幼い頃からずっとど近眼でしたから、視力はどうしようもないよなあと思って、

昨年 「2:軽度異常」 の表記を見ても前からそうだったんでしょと勝敗判定に含めず、

完全勝利を宣言してしまったのでした。

視力のところには基準値が記されていなかったので、よけいにど近眼はど近眼みたいに、

軽度異常は当たり前的に受け止めてしまっていました。

しかし、今年 「1:異常なし」 の判定がされたということは、

裸眼がど近眼であることとは関係なく、矯正視力の値で正常異常の判定が下されていたんですね。

たしかに健診では裸眼視力は測っていないのですから、

矯正視力が問題にされているに決まっていますね。

そういう観点からこの4年間の矯正視力の推移を振り返ってみましょう。

0.6/0.7 → 0.7/0.5 → 0.6/0.6 → 1.0/0.8。

で、2年前、3年前の検診結果報告書を見てみると、視力は 「1:異常なし」 でした。

つまり、どちらか片目の矯正視力が0.7あれば異常なしだけど、

両目とも0.7を切るようになると軽度異常と判定されていたようです。

視力のことなんか覚えていなくてずーっと前から軽度異常だったものと思い込み、

それはカウントしないことにして昨年は完全勝利宣言をしてしまいましたが、

本当は去年は2勝1敗だったんですね。

矯正視力が回復してよかったです。

それはこの年始に免許更新に向けてメガネを買い換えたおかげですね。

たしかにちょっと昨年の矯正視力では免許は更新できなかったかもしれません。

新しいメガネ買っておいてよかったです。

1.0と0.8ってものすごい改善じゃないですか。

とはいえ今回の勝利はこの金で買った視力だけでした。

腹囲とコレステロールかあ。

うーん、来年の健診までに少しは何とかしなきゃなあ (あまり気乗りしないけど…)。

今度のてつカフェはお笑いです!

2016-10-12 16:54:24 | 哲学・倫理学ファック
先月のてつカフェは 「公共性とは何か?」 というたいへん重厚なテーマで開催したのですが、

私たちの予想に反して23名もの参加者が集まってくださって、とても深い議論が交わされました。

さて、その重厚なてつカフェから一転、今度は 「笑い」 をテーマに取り上げます。



今回のテーマは前回のてつカフェ後の懇親会のなかで決まりました。

テーマが決まるまでのいきさつはてつカフェのブログに書いてありますので、そちらをご覧ください。

お読みいただければわかると思いますが、

前回重厚だったから次は軽めにしとこうとかっていう単純なバランス感覚なんかではありません。

〈3.11〉 後の福島における笑いとは? みたいなきわめて真面目な問いから出てきたテーマなのです。

とはいえ、〈3.11〉 や福島のことばかり考えたいわけではないので、

テーマとしては笑い全般のことを考えられるように一般化してあります。

でも 「笑いとは何か?」 ではちょっと抽象的すぎますし、答えが出せる気がしませんよね。

どういうときに人は笑うのか、逆にどういうときに人は笑えないのか、

そういうことを考えるために 「笑いはどこに生まれるのか?」 という問いを立ててみました。

自分としてはこの問いけっこう気に入ってるんですが、

ひょっとしたらまた参加者の皆さんに問いの立て方が悪いとボコボコに叩かれるのかもしれません。

それも含めてどんな議論が繰り広げられるのかとても楽しみです。

遅ればせながらポスターも完成しました。

下手ウマなイラストがいい味を出してくれています。

ほんの3日後の土曜日 (10月15日) がてつカフェです。

こんな時代だからこそぜひ笑いについてみんなで考えてみましょう

みんなが刻んで入れるから10月7日は◯◯◯◯記念日(T_T)

2016-10-08 17:00:18 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
昨日は郡山と白河に出稼ぎでした。

朝は郡山に着いたらいつものようにスタバに寄り、

珍しくお腹が空いていたのでエッグサンドも頼んでみたら、

お会計でショートの珈琲は300円くらいのはずなのに、

合計金額が800円近くもしたのでひどくビックリしまいました。

ここのサンドイッチ、たった1つで440円もするんですね。

商品の裏にはちっちゃく書いてあったけど、

買う前にわかるように料金表示はされていなかったような気がします。

金額を聞いてからじゃあやめますと言えるほどの度胸はなかったのでそのまま購入しました。

そして、こんなに高いんだからよっぽど美味しいんだろうと、

相当ハードルが上がった状態でパクついてみたところ、オーマイゴッド

口中に広がる予期せぬ異臭

なんとこうでした



衝撃を受けてその場で解体してしまった後に撮影したのでわかりにくいかもしれませんが、

小さく刻んだキュウリがどっちゃり入ってました(>_<)。

袋の外からざっと見てキュウリは入っていないなと判断してしまい、

いつものように原材料表示を入念にチェックすることを怠っていました。

サンドイッチに入れる場合フツーは輪切りのキュウリですから、

だいたい目視だけで確認できるんですよねえ。

まさかここまで細かく刻んで卵マヨネーズソースのなかに隠蔽するなんていう、

そんな悪辣な業者が存在するとは思ってもいなかったのでまんまと騙されてしまいました。

まあ、エッグサンドにキュウリは付きものなんですから、細かいチェックを怠った私が悪いんですが…。

キュウリを撤去してでも食うべきか食わざるべきか、それが問題でしたが、

440円もしたので何とか鼻をつまんでキュウリ臭に耐えながら珈琲で流し込みつついただきました

朝から縁起が悪いなあと思いながら、郡山での授業は無事に終え白河に移動しました。

白河の看護学校では、厚生総合病院の展望レストランで昼食をいただくことができます。

毎回、数種類のランチがあっていろいろなメニューを楽しめるのですが、

そろそろ白河での非常勤も終盤に近づいてきて、

だいたいどのメニューも食べたことあるなあという感じになっていました。

そのなかで今までで初めて見かけたメニューがひとつだけラインナップされていました。

バラチラシ定食です。

ちらし寿司ですか。

なかなかいいかもしれません。

ただしちらし寿司には必ずキュウリが載ってますよね。

朝、あんな事件があったばかりですからちょっとナーバスになっています。

しかし、ちらし寿司に入れるキュウリはそれこそ輪切りのはずです。

(丸く切っていくやつじゃなくてちょっと斜めに楕円に切っていくやつ、あれは輪切りでいいんですか?)

あれだったら撤去作業は簡単です。

冷やし中華のときの千切りキュウリなんかよりも作業は楽チンです。

一瞬、オーダーのときにキュウリは入っていますかと聞いたり、

キュウリを抜いてもらえますかと頼んでみたりしようかなとも考えましたが、

まあ、輪切りのキュウリを取り除くくらい自分でもできますので、

何も言わずにバラチラシ定食を頼みました。

それにしてもついていない日というのはとことんついていないもんなんですね。

出てきたバラチラシ定食を見て息が止まりました。



ガビーン

こんなちらし寿司は見たことありません。

私のイメージではちらし寿司というのは、にぎり寿司の上に乗るような切り身の刺身が、

丼の酢飯の上に所狭しと並べられているという感じなんですが、

こういうちらし寿司って皆さん見たことありますか?

ネギトロのときのマグロのすき身で全体が覆われています。

写真ではわかりにくいかもしれませんが、

イカや白身魚の小さな角切りがそのなかに埋め込まれています。

ま、それはいいのですが、それに加えてこのみじん切りのキュウリの山

これは新しいなあ。

ネギトロのなかに満遍なく大量に混ぜ入れられています。

酷すぎる

極悪にもほどがある

仕方ないので撤去作業しましたよ。

いやもう出てくる、出てくる。

いくら撤去しても先が見えません。

食べ始めるまでに10分近くかかってしまいました。

これが最後の1個。



これで撤去作業終了です。

こちらがキュウリ抜きのネギトロチラシ丼となります。



ん? 待てよ。

拡大してよーく見てみましょう。



危ない、危ない。

ありえなく小さいひとかけらがまだ残っていました。

キュウリセンサーの私の目をごまかすことはできません。

これで本当に作業終了です。



ようやく浄化されたネギトロチラシ丼と撤去されたキュウリたち。

目の毒ですがキュウリの量を確かめるためにアップにしてみましょうか。



こんなに入っていました。

ネギトロもだいぶ廃棄されてしまっていますが、キュウリと接触していたのですから仕方ありません。

もちろん入念に撤去したとは言っても全体にこびりついたキュウリ臭は如何ともしようがありません。

いつもよりも多めに醤油をかけ、一口ごとにガリで口内を消毒しながら何とか食べ終えました。

私はこの不運かつ不幸な日を一生忘れることはないでしょう。

しかし、私の不幸はすべてを不運に帰すことできず、自分の不注意や確認不足に負うところ大です。

この日の戒めを忘れることのないよう、この教訓を歌にして残しておきたいと思います。

みんなが刻んで入れるから10月7日はキュウリ記念日

Q.直感と理性的判断、どちらが自分の本当の意志なんですか?

2016-10-07 19:59:05 | お仕事のオキテ
タイトルは私なりの解釈で言い換えてありますが、

今回いただいたのは、こういう質問でした。

「Q.自分の中で最初に思いついたことと、正反対のものを頭の中で比べて、

   良い方を選択するが、どちらが自分の本当の意志なのか? 

   (良いものを選ぶことか、直感的なものか?)」

いい質問ですね。

これを哲学・倫理学風に言い換えると、タイトルのような問いになります。

最初に思いついたことと正反対のものとを比べてみて良い方を選択するというのは、

まさに理性を用いて理性的に判断しているということなわけです。

それにしても若いのにふだんこんなふうに選択している人がいるなんて本当にビックリしました。

とても素晴らしいと思います。

全人類のほとんどの人は最初に思いついた直感的な選択肢を、

特に深く考えてもみないまま素朴に選んでしまっているのではないでしょうか。

そういう人たちに対して、実行に移してしまう前にいったん立ち止まって、

ちょっと考え直してみてはどうですかと提案し続けるのが倫理学の使命のような気がします。

そういう意味では質問者の方は、すでに十分に倫理的・倫理学的な人だと思います。

ただご質問は倫理 (学) 的かどうかではなく、どちらが本当の自分の意志かでしたから、

それにはどうお答えしたらいいでしょうか?

例えば、私が専門に研究しているカントなら、

間違いなく 「良い方を選択するのが本当の意志だ」 と断言することでしょう。

(その場合の 「良い方を選択する」 というのは、カント独自の意味で使われていますが…)

それに対して最近のスピリチュアル系の人たちなんかは、

「最初に思いついたことが本当の自分の意志だ」 と言うかもしれません。

拠って立つ立場や学説によって答えは変わってくるでしょう。

私としては 「問いを問い直す」 という観点から、「自分の本当の意志って何ですか?」、

「どちらが本当の自分の意志なのかを決めることにどんな意味があるんですか?」

と問い返してみたいと思います。

人間には感性的・衝動的な欲求があり、真っ先に浮かんでくる意欲はそのレベルの欲望でしょう。

そこまで動物的なものでなくとも、人間が最初に思いつくような意欲というのは、

理性的な熟慮を経ておらず、環境によって刷り込まれた習慣的なものが多いでしょう。

直感的な判断というのはこれら2種類のうちのどちらかになるのではないかと思います。

それとは別に、悩みに悩んで、熟慮に熟慮を重ねて、じっくり考えた末の選択というのもあるでしょう。

それが理性的な判断ですね。

それらのうちのどれが自分の本当の意志なのか?

やはり 「自分の本当の意志」 が何を意味するのかがわかりません。

一番自分らしいという意味でしょうか?

一番自分にとって根源的という意味でしょうか?

しかし、自分らしさや自分の根源など、どのような意味に取ったとしても、

感覚的なものと習慣的なものと理性的なものとで、

どれが一番自分らしいか、どれが一番根源的かを決めることはできないように思うのです。

働き方や求められる場面が違うだけで、どれも大事なような気がします。

その都度の評価基準によるとでも言いましょうか。

瞬間的な反応の速さが求められるときは感覚的・衝動的なものが大事でしょうし、

伝統や周りの人々との関係性の維持を重視するなら習慣に従うのが一番だし、

先まで見通した冷静な判断が求められるときは理性でじっくり考えて決めることが必要でしょう。

感性的・衝動的なものも、習慣によって培われたものも、そして理性的な判断も、

いずれも自分固有のものとも言えるし、

自分のものではない (外から与えられたもの) とも言えるのではないでしょうか。

したがって、それらのうちのどれが本当の自分の意志なのかと問うことに意味はないと思うのです。

というわけで今回の質問には直接的にお答えすることはできませんが、

次のようにお答えしておくことにしましょう。

A.自分の中で最初に思いついたことと、正反対のものを頭の中で比べて選択した良い方と、

  どちらが自分の本当の意志かなんてことに悩む必要はありません。

  最初に思いついたことをそのまま実行してしまわず、

  一度立ち止まって正反対のものと比べてみることができるというのは、

  誰にでもできることではなく、きわめて理性的な人にしかできない希有なことですので、

  これからもぜひその習慣を続けていってください。

Q.考え方に人それぞれ癖というのはあるんですか?

2016-10-05 23:12:54 | 幸せの倫理学
しばらくサボってましたが、引き続き看護学校の学生さんからいただいた質問に答えていきましょう。
今回の質問は正確には次のように2問から成っていました。

「Q-1.考え方に人それぞれ癖というのはあるのか?
 Q-2.あるとしたらどうすればよいのか?」

これもどうお答えするか難しい質問ですね。
どうしましょうか。
では、先日ご紹介したあの本を使ってお答えしてみることにしましょう。
あの本というのはこの本です。



この本では人間の強みを34個に分類していました。
本のなかでは触れられていないのですが、その34個は大きく4つのカテゴリーに分類できるようです。
実行力、影響力、人間関係構築力、思考パターンの4つです。
(正確には4番目のカテゴリーは 「戦略的思考力」 と名づけられていますが、
 34の強みのなかに 「戦略性」 というのがあるので、
 それとの混同を避けるためにここでは思考パターンと名づけておきます。)
今回のご質問には、この4番目の思考パターンのことをご紹介してみるのがいいかと思います。
思考パターンに分類される強みは8つあります。
内省、分析思考、戦略性、着想、学習欲、収集心、原点思考、未来志向の8つです。
ひとつひとつ簡単に説明してみましょう。

内省・・・理論的に理解を深め考え続けられる。物事を1人で深く概念的に考え続ける。
分析思考・・・複雑さの中にシンプルな原理を見つけ出せる。事実を基に冷静に物事の原因・理由を明らかにする。
戦略性・・・先を予測し、適切な最善策を見出せる。状況に応じた最善策を考え出す。
着想・・・まったく新しい何かを思いつく。リスクや既成概念に囚われずに考える。
学習欲・・・アンテナを張り関心の持てることをキャッチする。興味関心の惹かれるものを学習するプロセスを楽しむ。
収集心・・・役立ちそうなものや情報を集め、必要に応じて提供できる。周囲の役に立ちそうなものをとことん集める。
原点思考・・・出来事を正確に記憶、記録している。先人や過去の出来事を大切にする。
未来志向・・・未来のビジョンを創造する。未来のビジョンを描き、周囲に語る。

この中では最初の 「内省」 が一番ざっくりしていて、
とにかく考えるのが好きな人はだいたいみんな内省をもっています。
で、内省という強みを持っている人はそれだけでは終わらないで、
では具体的にどんな考え方をするかということで、
残り7つのうちのいくつかをさらに持っている場合が多いようです。
「分析思考」 というのは理系的な、データに基づき原因や法則性を突き止めていく考え方です。
「戦略性」 は現実の複雑な場面のなかでどう最適解を導き出すかという応用型の思考法です。
「着想」 はもうとにかくアイディア勝負です。
これらは互いに重なり合っているようでいて、
実は全然ベクトルの異なる異質な考え方だというのはご理解いただけるでしょうか。
同じく考えるのが好きといってもそれぞれまったく考え方の癖が違うわけです。
「学習欲」 と 「収集心」 というのは今の3つとはまた方向性がだいぶ違います。
「学習欲」 の人はとにかく勉強するのが好きです。
誰に強制されたわけでもないのに何カ国語もマスターしちゃうような人はこれを持っていたりします。
「収集心」 は思考パターンに分類していいのか若干悩ましいところで、
物の収集に走る場合は思考パターンというわけではないかもしれませんが、
情報の収集が好きという場合はたしかにこれも思考パターンのひとつと言えるでしょう。
こういう人は図書館に行くのとか大好きだったりしますね。
「原点思考」 は原語が 「Context」 なので 「文脈」 と訳したほうがいい気がしますが、
とにかく前後のつながりというか、過去が気になる人です。
どういう歴史的経緯を踏まえて現在に至ったのかということをものすごく大事にします。
歴史好きな人はほぼ間違いなくこれを持っています。
「未来志向」 の人はそれとは逆に未来のほうを向いています。
将来こうなりたい、こうなるべきだという方向に頭を使う人です。

こうやって並べてみると、同じ考えるのが好きといっても、
考え方は人それぞれまったく違うということがおわかりいただけるでしょうか。
私は上位5つのなかに内省、着想、戦略性が入っていました。
そして、ちょっとよけいにお金を出して1位から34位まで全部調べたことがあるのですが、
なんと最下位5つのなかに学習欲と原点思考が入っていました。
考えるのが好きといっても、アイディアや戦略を自由に考えているのが好きなだけで、
きちんと勉強したり、歴史的経緯を調べた上で考えるというのは大の苦手なんですね。
というわけで、一番目の質問には次のようにお答えしておきましょう。

A-1.考え方には人それぞれ癖があります。
    同じ考えるのが好きにしても、得意な考え方、苦手な考え方は人によって千差万別です。

考え方に癖があるとしたらどうしたらいいのか、というのが2番目の質問でしたが、
以前にも書いたように、『さあ、才能に目覚めよう』 という本だったら以下のように答えるでしょう。

A-2.自分の得意な考え方をガンガン伸ばせばいいです。
    自分の苦手な考え方は自分で何とかムリしてやってみようなんて思わずに、
    それが得意な人にやってもらえばいいのです。

苦手なところを補ってみんなと同じようにやっていけるようにする、
というのが日本的な教育観かもしれませんが、
私はストレングス・ファインダーの考え方のほうが好きです。
強みというのは、特に意識しなくてもできてしまうことだし、本人やっていて楽しいことなので、
それを発揮している分にはまったく苦労もストレスもありませんし、
それでいてそこから生み出されるパフォーマンスはハイレベルなわけですから、
強みを活かして貢献したほうが自分にとっても周りにとっても幸せなはずです。
自分の苦手なところを克服するのではなく、強みをとことん伸ばしたほうがいい結果を残せるでしょう。
そのために大事なのは、まずは同じ考えるといってもいろいろな思考パターンがあることを知ること、
そのうち自分の得意な思考パターンが何であるのかを知ること、
他の人は自分と同じ思考パターンを持っているわけではないということを肝に銘ずること、
チームを組んだときに自分と違う思考パターンの人がいるとストレスがかかるので、
ついつい自分と同じ思考パターンの人ばかりを選びがちになってしまいますが、
たんなる友だち関係ならそれでもいいけれど、
何か仕事をしなきゃいけない、結果を出さなきゃいけないという場合には、
意図的にそれぞれ異なる思考パターンの人を集めるようにすること、等々です。
自分の苦手な部分は人に任せられるという状況を作っておいたほうが、
自分の得意なところを思う存分発揮できるはずです。
学生のうちはまだよくわからないかもしれませんが、
社会に出たときにはぜひ意識して実践してみてください!

『友だち幻想』 菅野仁先生ご逝去

2016-10-04 16:24:18 | 生老病死の倫理学
かつて私がこのブログで大絶賛した 『友だち幻想』。

こちらの本です。



その著者である菅野仁先生がご逝去されたという連絡を、本学のK先生からいただきました。

K先生は社会学がご専門で菅野先生ともご親交があったようで葬儀にも参列されたそうです。

おそらくK先生は私がブログで菅野先生の本を取り上げていたのを見て、

「直接の面識はおありではないかもれませんが、念のため」 ということでご連絡くださいました。

たしかに直接の面識はありませんでした。

しかし、菅野先生は宮城教育大学にお勤めでしたし、私の1個上と歳も近かったので、

何かの機会にお会いできたらいいな、できるんじゃないかなと漠然と思っておりました。

1960年生まれの享年56歳。

まさかこんなに若くして亡くなられるとは思っていませんでした。

K先生情報によると菅野先生は現在、宮教大の副学長を勤められていたそうで、

おそらく学内の先生方も、ひょっとするとご本人自身も、

まさかこんなに早く亡くなられるなんて思っておられなかったのではないでしょうか。

私としても面識ないながらに他人とは思えず、

若干嫉妬をまじえながら敬愛申し上げておりましたので、本当に残念でなりません。

菅野先生には 『友だち幻想』 のほかに同じ出版社から 『教育幻想』 という本もありました。



こちらもとてもいい本ですので、そのうち紹介しようと思っていたところでした。

「人柄志向」 ではなく 「事柄志向」 で、「心の教育」 ではなく 「行いの教育」 を、

「規律か自由か」 の二者択一ではなく 「間をとる」 努力を、

「働かなければ、生き続けることはできない」 を教えるのが教育であり大人のつとめである。

この本もまさに 「お前はオレか」 状態です。

いや、もちろん私なんかではこんなふうにクリアに書くことはできないんですが…。

倫理学者としても教育学者としても尊敬していました (社会学者としてはよく知らない…)。

本当に惜しい方を若くして亡くしてしまいました。

菅野仁先生のご冥福をお祈り申し上げます。

競技ダンスにおける採点の偏りについて

2016-10-02 20:20:37 | ダンス・ダンス・ダンス
昨日はせっかくいただいた質問にまったく答えないまま、
全然別の問題に関して語ってしまいました。
今日こそはご質問にお答えすることにしましょう。
競技ダンスの採点に関するこういう質問でしたね。

「競技会の採点についてですが、ジュニアの場合、男子の数が少ない場合、
 女子同士ペアで出場することがあります。
 その場合、ある指導者の方から、女子同士ペアに比べてどうしても
 男女ペアの方が優先的に点数が入り易いと聞いたことがあります。
 女子同士でも立派にリーダーを務める女子もいるのに
 実力とは裏腹な採点があるのは本当でしょうか?
 あと、男女ペアについても、リーダー7割、パートナー3割の配分で採点されているとも…
 そんなことがあるのでしょうか?」

質問は2つあります。
2番目のほうが答えやすそうなのでそちらから答えていくことにしましょう。
ただ昨日も述べたように、私はもう競技ダンスの世界から身を引いてしまっていますので、
この手の質問に対してきちんと答えられる立場にありません。
ずっと昔にジャッジを務めた経験を思い出したり、
その他、いろいろと想像をめぐらせながらお答えしてみますが、
これはあくまでも素人の私見ですので、
競技ダンス界の公式見解ではないということをご理解の上お読みください。

Q-1.競技ダンスの試合ではリーダー7割、パートナー3割の配分で採点されているんですか?

A-1.競技ダンスの採点に際しては、基本的にリーダーとパートナーを同じ比重で、
    カップルのまとまりとしてそれぞれの組のダンスを評価しているはずで、
    リーダー7割、パートナー3割といった配分が決められていたりはしません。
    ただし、現在のシステムではゼッケンがリーダーの背中にのみ付けられていますので、
    ジャッジが未熟な場合、どうしてもリーダーの背中ばかり目で追ってしまう、
    ということが起こりえるかもしれません。

繰り返し申し上げているとおり、今のところ競技ダンスというのは、
同一フロア内で複数のカップルが同時に踊り、それを相対評価するという方法で採点しています。
多い場合には12カップルくらいがいっぺんに踊っているわけです。
ところが選手を特定するための番号が記されたゼッケンはリーダーの背中にしか付されていません。
競技中は選手たちは激しく動き回っていますので、常にそのゼッケンが見えるわけではありません。
すると勢い、ジャッジはゼッケンの付されたリーダーの背中を目で追うことになります。
ジャッジが未熟な場合、短時間で全カップルの相対評価をするために、
ゼッケンが見えている時にのみそのカップルの踊りの良し悪しを判断してしまうこともあるでしょう。

これはひょっとすると昨日論じた競技ダンスの黒歴史の一部なのかもしれません。
もともとはリーダーの踊りさえ評価できればいいと考えられていたのかもしれません。
(以前は、カップルを解消した場合にリーダーのみがA級やB級といった級を維持できましたが、
 これもこの問題と連なる根深い男女差別問題だと思います。)
この問題を解消するために私はパートナーにもゼッケンを付けるべきだと思っています。
パートナーはドレスを着用しますので、リーダーのような大きなゼッケンは付けられないし、
たしかにドレスにゼッケンを付けるとちょっと興ざめな感じもしてしまうかもしれませんが、
競技ダンスにおける男女平等を推進するためには、
パートナーの肩のあたりとかにちょっと小さめのゼッケンを付けるという工夫は必要な気がします。
このような改善を加えていけば、質問者が抱いたような疑問は少しずつ解消していくでしょう。
続いて今回のメインの質問です。

Q-2.女子同士カップルに比べて男女カップルの方が採点上優遇されていたりするのですか?

A-2.システムとして女子同士カップルの出場を認めた以上、男女か女女かに関わらず、
    純粋にダンスが上手いか下手かという観点だけで平等に評価されているはずです。
    ただし個々のジャッジの明白な信念や隠された価値観によっては、
    上手い下手の判断のなかに別の基準が紛れ込んでいる可能性があるかもしれません。

これもちょっと玉虫色なお答えで申しわけありません。
建前上は最初の文でお答えしたことがすべてのはずです。
しかしながら、そんなに簡単に割り切れるのであればこの世に差別なんて存在しませんよね。
質問者の方がどこからそういう話を仕入れてきたのかわかりませんが、
そんなこと絶対にあるはずないと言い切れるほど単純な話でないことはたしかでしょう。
実際にそういうことがあるかないかは私としては確かめようがありませんので、
事実としてそうなのかどうかという観点からではなく、
もしもそういうことがあるとするならばそれはどういう原因によるのか、
という観点から補足説明をしておきたいと思います。

ひとつには競技ダンスがどうあるべきかに関する明白な信念にもとづいて、
採点の偏りが意図的ないし無意識的に生じてしまうということがありうるでしょう。
つまり、昨日述べたような、競技ダンスとは男女で踊るべきだという理想像ですね。
それを堅固に信じているジャッジがいたとすると、
女性同士カップルなんて邪道だと思ってわざとチェックを入れないとか、
順位を低く付けるなんていうことがひょっとするとあるかもしれません。
まあ、さすがにそこまでやる酷い人はいないと信じたいですが、
そうだとしても、男女で組んで踊るダンスが基本でありそれが美しいと信じていると、
その人にとっては女性同士カップルのダンスが美しくも上手くも見えないので、
本人は客観的な判断だと信じて女性同士カップルを低く評価することがありうるでしょう。
以前にコメント欄で、自分のお弟子さんに甘い採点をするジャッジがいるのではないか、
という質問にお答えしたことがありますが、
あれも意図的に甘く付けるという可能性とは別に、
ジャッジにはそれぞれ自分の理想のダンス像があるはずで、
それを自分のお弟子さんに優先的に教え体得させているのだから、
彼にとってはお弟子さんの踊りが一番よく見えてしまうということがありうるはずです。
それと同じようなことが今回の場合にも起こりうると思うのです。

より複雑なケースとしては、それが明白な信念として本人に意識されておらず、
隠された価値観として植え込まれているということもありえるかもしれません。
女性同士カップルの導入に賛同していて、自分は偏らずに審査できると信じているのだけれど、
実は長いあいだに育まれてきた価値観に基づいて、
上記と同様、客観的に判断していると信じながら、
結果的に偏った評価を下していることがありうるかもしれません。
今回は女性同士カップルを特に取り上げたので、女性がリーダーである場合に関しては、
わりと客観的に判断できそうな気がするのですが、
これが例えばパートナーが男性であった場合にははたしてそううまくいくでしょうか?
その際、男性パートナーにドレスを着させるのか、
化粧をさせるのかといった運営上の問題もいろいろと絡んできますが、
男性パートナーの踊りをどこまで客観的に、
偏見を差し挟まず純粋にダンスとして評価できるのか、これはけっこう難しい気がします。
はるな愛などニューハーフの方がパートナーだったら、
そのまま男性とも気づかずにジャッジできるかもしれませんが、
まるっきり見た目男性という人がパートナーだったら、
もしも私がジャッジだったらついプッと吹き出してしまうかもしれません。
そんな状況で客観的な評価を下すのはけっこう難しいのではないでしょうか。
女性リーダーの場合はそこまであからさまには問題化しないかもしれませんが、
原理的には同じ問題が存在しているはずです。
私たちのなかに長いあいだかけて築かれた競技ダンスに対する価値観、
それを無意識のまま放置しておくと、
新しいシステムのなかで純粋に客観的にダンスを評価することはできないでしょう。
個人的には今後競技ダンスは、
性別とは無関係にリーダーでもパートナーでも務められるという万人に開かれたスポーツとなり、
大会や部門を分けたりすることもなく、
同一フロアで男女、女女、男男、女男、その他のカップルが一緒に競うという、
世界史上初のセクシャリティフリーなスポーツになってもらいたいと思っております。
そのためには踊る側にも見る側にも、これまでの歴史的伝統を覆す大きな意識変革が必要となるでしょう。
それを乗り越えて新しい時代の新しいスポーツとして生まれ変わり普及してくれることを期待します。

競技ダンスにおるリーダー・パートナー問題

2016-10-01 13:58:30 | ダンス・ダンス・ダンス
ずいぶん前になりますが、「競技ダンスの採点方法」 という記事を書いたことがあります。
ダンス関係者には未だに時々読んでいただいているようで、
つい最近、その記事に対して以下のようなコメントをいただきました。

「初めまして!お尋ねします。
 競技会の採点についてですが、ジュニアの場合、男子の数が少ない場合、
 女子同士ペアで出場することがあります。
 その場合、ある指導者の方から、女子同士ペアに比べてどうしても
 男女ペアの方が優先的に点数が入り易いと聞いたことがあります。
 女子同士でも立派にリーダーを務める女子もいるのに
 実力とは裏腹な採点があるのは本当でしょうか?
 あと、男女ペアについても、リーダー7割、パートナー3割の配分で採点されているとも…
 そんなことがあるのでしょうか?」

この質問に対してお答えする前に、
(どっちみちこの質問に直接お答えすることはできないんですが…)
今回提起された問題は競技ダンスの根幹に関わる重要な問題ですので、
まずはその点に関して私の思うところをいくつか述べさせていただきたいと思います。

まず私が驚いたのは、このコメントのなかに何気なく書かれていたこの一文、
「ジュニアの場合、男子の数が少ない場合、女子同士ペアで出場することがあります。」
というところでした。
立場上、全東北学生競技ダンス連盟の試合を見に行くことはあっても、
自分自身は競技ダンスの世界からすっぱり身を引いてしまっておりますので、
昨今の競技ダンス事情から完全に隔絶されておりました。
今は女子同士のペアなんていうのが認められているんですね。
さっそくググってみたところ、たしかにもうそういうことになっているようです。

「社交ダンスって女性同士で踊れるの? 男性同士はいい?」

「社交ダンスで女性同士の競技会が新設」

これらの記事によると、高校生以下の部ではすでに以前から女性同士のカップルが認められており、
近年ではシニアの部でも女性同士のカップルの部門が設けられるようになっているようです。
いやあ時代が変われば変わるもんですねえ。
たしかに社交ダンス、競技ダンスの世界では女性の比率が圧倒的に多いため、
これまでもずーっと慢性的に男性不足でカップルが組めないということが起こっていました。
ダンス人口をこれ以上減らさないために、まずは若年層で女性同士のカップルが認められ、
それが次第にシニア世代にも及びつつあるということのようです。
私としては男女平等推進の立場から、この流れに全面的に賛同を示したいと思いますし、
実は以前から、学連の試合でいろいろな方に会ったときには、そうすべきだと主張していました。

しかしながら、それが簡単なことではないということは理解していたつもりです。
以前に、それぞれのスポーツには構成的ルールと運営上のルールがあり、
運営上のルールはその時々の必要に応じて変えていけばいいけれども、
構成的ルールに手を加えてしまうとそのスポーツの本質が変わってしまったり、
歪んでしまったりする可能性があるので気をつけなければいけない、と論じたことがあります。
その際、競技ダンス (=社交ダンス) にとっての構成的ルールは、
「舞踏室 (場)= ballroom」 でたくさんのカップルが同時に踊るなかで美しさを競うことであり、
そこを変えてしまうと競技ダンスの本質的部分が変質してしまうかもしれないと書きました。
競技ダンスは現在、オリンピック種目入りを目指してロビー活動中であり、
そのために、採点方法を現在の同一フロア内複数カップル相対評価システムから、
フィギュアスケートのような、個別演技ポイント制絶対評価システムへと変更しようとしています。
私は構成的ルールはそう簡単に変えるべきではないという観点からそれには批判的なわけです。

が、女性同士のカップルを認めるということは、採点方法の変更なんかよりもはるかに、
競技ダンス (=社交ダンス) の根幹部分を壊すことになるかもしれません。
社交ダンスというのは、社交の場における男女の嗜みとして発展を遂げてきました。
この世界では男性はリーダー、女性はパートナーと呼ばれています。
次にどのステップを選ぶか、どちらの方向に進んでいくかなどのリードをするのが男性なので、
ダンスの世界に身を置いている者にしてみたら、男性をリーダーと呼ぶことに不自然はないのですが、
現代の世間一般の常識からするならば、たった2人のチームにリーダーがいるということも、
それが男性と決まっていて、女性はあくまでもパートナーにすぎないということも、
いずれもきわめて封建的で時代錯誤のように見えるかもしれません。
しかしながら社交ダンスというのはまさに男女平等なんていう概念がなかった頃に、
家父長制的男尊女卑という風潮の下で歴史的に形成されてきました。
ですから、あくまでも男と女がカップルを組み、男がリーダーであるという形は、
社交ダンスの歴史から見ると変更不可能な構成的ルールであるのかもしれません。
テニスの混合ダブルスや、フィギュアスケートのペアというのがたんなる運営上のルールにすぎず、
たとえそういう種目がなくなったり、男同士や女同士のペアが認められたりしても (実際ありますが)、
テニスやフィギュアスケートの根幹が揺らぐわけではないのとはちょっと事情が異なるわけです。

この問題をどう考えるかというのはひじょうに難しいです。
歴史的伝統を重んじてこれまで通りを貫くのか、
近代合理主義的に変革すべきはどんどん変革していくのか?
私としては、スポーツに徹するのであれば近代合理主義を受け入れていくしかないと考えています。
相撲が伝統的神事であることを盾に女性を土俵に上げないという方針を貫く気持ちもわかりますが、
スポーツとしての広がりを重視するならば、その伝統的部分を捨てて、
女性や子どもでも楽しめる安全な格闘技として全世界に普及することを考えたほうがいいでしょう。
それと同様に社交ダンスも、社交の場における男女のコミュニケーション手段としてばかりでなく、
スポーツとしてオリンピック種目を目指そうというのであれば、
男性=リーダー/女性=パートナーというこれまでの家父長制的な黒歴史とはきっぱり縁を切り、
男女が平等に楽しみ競い合えるような新しいシステムを構築していくしかないと思います。
ほんの一昔前までは、サッカーやスキージャンプなどは男の競技と考えられていましたが、
今やなでしこジャパン高梨沙羅選手の活躍を前に、
サッカーやジャンプは女性にはムリなどと決めつける人はもういないことでしょう。
サッカーやジャンプができるのだとしたら、
競技ダンスのリーダーくらい女性にできないわけがありません。
これからは女性がリーダーというカップルも積極的に受け入れていく必要があるでしょう。

ただし、その場合も試合の運営の仕方をどうするかというのは考える必要があります。
現在のジュニアの部のように、男女カップルと女性同士カップルを一緒に競わせてよいのか、
それともシニアの部で試みられているように女性同士カップル部門というのを新しく設けて、
それぞれ別に競技をするべきか?
女子サッカーも女子ジャンプも、男子と同じ試合に出場しているわけではなく、
女子だけの試合というのが開催され、そこに女子選手は出ているわけです。
かつて大学野球部に女子選手が在籍し、男子選手とともに試合に出場していたことがありました。
それに対しては賛否両論がありました。
女性も野球をやろうというのであれば女子だけのチームどうしで戦うべきだとか、
それほどの女性野球人口がいない以上、
実力があるのであれば女子が男子のなかにいてもいいだろうとか。
男女平等という基本方針のなかで、では実際にどのように試合を運営するかとなると、
これもやはりけっこう頭を悩ませる難しい問題です。

以前、うちの大学にいたフェミニズム研究者の人は、
長い歴史のなかで性別役割分担が固定化してきたために男女の体格差も生まれてきたけれど、
今後、男女を平等に扱い続けていくならば、今の体力差は解消し、
スポーツにおける男女別競技も不要になっていくだろう、という予想を立てていました。
私はそこまでラディカルな男女平等主義者にはまだなれていなくて、
男女平等がどこまで進んでも男女の体格差、体力差は解消しないんじゃないかと思っています。
だとすると男女は別々に競い合うべきであり、競技ダンスに女性リーダーを導入したとしても、
男女カップルと女性同士カップルは同じフロアに立つことはなく、
別の大会、別の部門でそれぞれが争えばいいということになるでしょう。
ただし、先にも述べたように、ダンスのリーダー役というのはそれほど体格的、体力的に、
男性にしかできないというものでもないし、
だったら男女カップルと女性同士カップルが同じフロアで競っても問題ないとも言えそうです。
どちらを選ぶのか、それはダンスにおける男女人口比等を勘案しつつ、
その時々に競技ダンス連盟総本部が選んでいけばいいのだろうと思います。

むしろきちんと考えておかなければならないのは、
いったん女性同士カップルを認めたとするならば、
今度は男性同士カップルも認めなくていいのかという問題が出てくるでしょう。
今のところは男性リーダーが圧倒的に少ないので、その補填のために女性同士カップルだけ認めて、
男性同士カップルは認めないという方向で話が進んでいるのだと思われます。
(女性が大量に余ってしまっているからこそ女性同士カップルを認めるのであって、
 男性同士カップルを認めてしまうと今よりもさらにいっそう男性不足が進んでしまう…)
しかしながら、女性にもリーダー向きの体格の人がいるのと同様に、
男性のなかにも身体が柔らかくてパートナー向きという人がいたとしたっておかしくありません。
男女平等をとことん考えていくならば、男女カップルのほかに、
女性同士カップル、男性同士カップルも認めなければいけないでしょうし、理論的には、
女性=リーダー/男性=パートナーという逆転カップルも認める必要が出てくるでしょう。

さらには男とか女という二者択一に当てはまらない、
インターセックスの人たちはどうするんだというよりいっそう厄介な問題も生じてきます。
スポーツが現状、男女別競技制を取っているなかで、
インターセックスの人たちはスポーツへの参画を大幅に阻害されているわけですが、
しかし、競技の公平性を考えた場合、男女に体格差や体力差があるとするならば、
場合によってはセックスチェックをして競技者集団を分けるということも必要なのかもしれません。
スポーツにおけるセクシャル・イクォリティ (男/女/その他) と競技の公平性はどう両立可能なのか?
これ自体とても難しい問題ですが、
男と女が組んで踊るということを構成的要素として成り立ってきた競技ダンスが、
この問題にどこまで積極的に取り組むことができるのか、私にはまったく先が見えません。

さて、いただいた質問にはまったく答えないまま、はてしなく遠いところまで来てしまいました。
今回の質問にお答えするためには、
その前にまずこういった原理的なことを考えておかなければならなかったわけです。
問題を投げっぱなし、広げっぱなしで答えは全然見出せていませんが、
以上の考察を踏まえた上で、いただいた質問に対して答えていくことにしたいと思いますが、
もう疲れちゃったので本論は次回以降に展開させていただきます。