まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

祝・日本代表初ベスト8進出!

2010-06-30 01:43:17 | 幸せの倫理学
まだ前半を0-0でしのいだところですが、
試合終了と同時にアップしたいので、気が早いですが書き始めてしまいます。
今日は厳しい展開ですねぇ。
そりゃあ決勝トーナメントに入ったわけだし、
イタリアを予選落ちさせたグループFを1位通過したパラグアイ相手ですから
そう簡単にいくなんて思っていませんでしたが、
それよりも日本選手の動きがちょっと気になります。
運動量もパスも予選リーグのときのような冴えがないように思います。
奪ったボールはすぐに奪い返されちゃうし (というかミスで相手に渡しちゃうし)。
しかし、その中で前半を0-0でしのげたというのは、
やはりかつての日本代表とはちがうような気がします。
なのでなんだか勝っちゃうような気がするので、もうブログを書き始めてしまうわけです。

実は今日、日本戦があるとは知りませんでした。
あいかわらず熱心なファンではありません。
もしも飲み会に誘われていたらふらっと行ってしまっていたでしょう。
9時まで働いて帰ってきてテレビをつけたら、
「このあと日本×パラグアイ」 という表示をたまたま見かけたということです。

おっともう後半も0-0で終わり、これから日本初の延長戦が始まりました。
全体的に押され気味ではありますが、しかしなんだか安心感があるのです。
ハーフタイムには堀北真希のそんなCMが流れていますが、
なんとなく点を取られる気がしないのです。
けっこう危ない局面がよくあるのですが、それでもなぜだか点を取られる気がしないのです。
このまま延長戦も0-0で行くのでしょうか?
延長戦を零封してPK戦に入ればもう完全に負ける気はしません。
きっと川島が何本か止めてくれるでしょう。
おっと今もボコボコに攻められまくりましたが、やっぱりしのぎました。
あっ今度は本田のフリーキックだが、ああダメかあ。

うーん、そして延長前半も0-0です。
おお、もう延長後半が始まった。
延長戦の前半と後半のあいだはぜんぜん休みがないんですね。
過酷だあ。
みんなガンバレ!
どっちもみんなヘロヘロだなあ。
でもこの中でよく走ってるよなあ。
ところどころいい場面も作るし。
ああ、そして延長も終了だあ。
しかし、よくパラグアイ相手に引き分け零封で乗り切ったなあ。
素晴らしいっ!
これで、私の予言通りPK戦だっ!
勝つな、きっと。
頼むぞぉ川島あ~、止めてくれぇ!

川島、エライッ!
日本のオリバー・カーンと呼んであげよう。
次はベスト8ですか。
スペインかポルトガルですね。
長友と遠藤が出られなくなったのはイタイですねぇ。






と、ここまで書いてあったのに残念です。
まさかPK戦で負けるとは…。
でも、いい試合でした。
よく戦いました、日本代表。
夢を見せてくれてありがとう、岡田監督。
私も初めてサッカーを楽しんだ気がします。
本当にありがとうございました。

生きながら火に焼かれて

2010-06-29 21:03:16 | グローバル・エシックス
しばらく前に師匠のブログで知って、これはぜひ読まねばと思い注文しておいた本、
スアド 『生きながら火に焼かれて』(ソニーマガジンズ、2004年) をやっと読み終えました。
タイトル通りの壮絶な本なので、読むのに時間がかかってしまいましたが、
倫理学者として、授業で人権を語っている者として、
グローバル・エシックスについて考えている者として、
この本に出会えてよかったと思います。

この本が一番訴えようとしているのは、今なお世界各地で残る 「名誉の殺人」 という風習です。
名誉の殺人とは、ウィキペディアによれば、
「女性の婚前・婚外交渉を女性本人のみならず「家族全員の名誉を汚す」ものと見なし、
 この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する風習のこと」
だそうです。
これだけでも十分に衝撃的です。
著者はスアドとなっていますが、スアドは偽名です。
もしも生きていることが知られたら、家族が彼女を殺しに来るかもしれないからです。
じっさい彼女は義兄によって火あぶりにされてしまい、
かろうじて命をとりとめ病院に入院させられますが、
病院でもまったく手当をしてもらえないでいたところ、
その病院に母親が毒薬を持ってやってきたというのです。
そのときはたまたま通りかかった医師が阻止したのですが、
その医師も彼女を救うためにそれ以上のことは何一つできませんでした。
その病院を訪れていたスイスの人権活動家が彼女を救い出し、
ヨーロッパに連れていってやっと九死に一生を得ることができたのです。

本を読んでみると、スアドは婚前交渉をしてしまうずっと前から、
父親にちょっとしたミスを咎められては徹底的に鞭打たれるということを繰り返しており、
いつ殺されるかわからないと感じて生きていたようです。
「人権」 という考え方がまったく存在しない悪夢のような世界です。
それが昔話などではまったくなく、私たちと同時代の話なのです。
スアドは私よりもほんの3つか4つ年上なだけです。
同時代に生きながらこの苛酷な人生は何なんでしょうか。
私たちがふだん当たり前のように享受しているものが、
どれほど有り難いものかということをまざまざと感じさせられます。
その壮絶な内容に関しては、ちょうど私が引用したいと思ったところを、
師匠がブログに全部載せてくれているのですが、
重複を厭わず、私も引用しておくことにしましょう。
まずは本書の冒頭部分から。

「私は1957年か58年に、ちいさなちいさな村に生まれた。人から聞いた話では、その村はかつてはヨルダンの領域の一部で、その後トランスヨルダン、さらにシスヨルダンとなっていった土地らしい。一度も学校に通ったことのない私は、自分の国の歴史はおろか、地球が丸いのか平らなのかも知らなかった。
 女の子には学校に通う権利はない。そもそも、権利と呼べるものなど何ひとつない。ひとりで歩く自由さえ与えられない。その村では女の子として生を享けること自体が不幸なことなのだ。男たちが勝手に定め、盲目的に守りつづけてきた法に従い、朝から晩まで家事、畑仕事、家畜の世話を奴隷のように黙々とこなし、10代の後半にさしかかる頃には親の決めた相手と結婚し、夫となった者に服従しながら男の子を産まなくてはならない。女の子ばかり産んでいると夫から捨てられる。娘は2、3人はいてもいいが、それ以上は必要ない。
 結婚前に男の人とつきあうことなど論外だ。視線を合わせたり話をしたりするだけで「シャルムータ」、つまり娼婦のようにみなされ、「名誉」を汚された家族はそのままふしだらな娘をほうっておけば村八分にされ、ついには村から追放されてしまう。そこで「名誉」を挽回するため、実の娘を処分することになる。両親および息子たちのあいだで家族会議が開かれ、いつ、どこで、どんな方法で、誰が死刑を実行するかが決まる。
 私は17歳くらいの頃、ある男の人に恋をした。好きになった気持はどうすることもできなかった。家を出て結婚したい、その一心で家族に嘘をつき、隠れて彼と会った。たった数回の秘密のデート。その結果、私は家族の手によって火あぶりにされることになったのだ。」

ここではちょっとロマンチックに、情熱的な恋をしたかのように書かれていますが、
じっさいに読み進めてみると、そんなにステキな恋でもありません。
私に言わせれば、この国の女性の弱みにつけ込んで男がいい思いをしただけです。
彼女が妊娠した責任は100%その男にあると言っていいでしょう。
しかし彼はまったくお咎めなしで、彼女1人が火あぶりにされたのです。
それにしても、ただ生きていくというだけ、
ひとに (特に家族に) 殺されたりしないという最低限の権利すら保障されていないのですから、
それ以外のありとあらゆる自由や人権といったものなど、
まったく与えられていないということがよくわかると思います。
次に引用するのは、ヨーロッパの人たちの前で、
「名誉の殺人」 を含む祖国の状況を証言したときのスアドのスピーチからです。

「私の生まれた国では、女性には暮らしと呼べるものなどないんです。多くの娘が虐待され、打たれ、首を絞められ、火あぶりにされ、殺されています。それでも、あの国ではそれが当たり前のことなんです。義理の兄の仕事を遂行しようと、母は自分の娘である私に毒をもろうとしました。母にとっては当然のことなんです。めった打ちにあって当たり前、首を絞められても当たり前、虐待されることが普通なんです。父はよく言っていました。牛や羊のほうが娘などよりずっと価値があると。もし死にたくなかったら口をつぐんで服従し、はいつくばい、処女のまま結婚して息子を産むことです。もし私も野原で男性と会っていなかったら、こうした生活をしていたでしょう。産んだ子供たちは私のようになって、子孫の子孫も、同じことを繰り返すでしょう。もし今でもあの国で生きていたら、母のように産んだばかりの女の赤ちゃんを窒息死させていたでしょう。娘が火あぶりに遭っているのを見ても、ほっておくでしょう。向こうではそれが普通のことだからです。
 今は、こうしたすべてのことにぞっとします。凶悪なことです。でも、あの村で生きていれば、同じようにするのです。向こうの病院のベッドで死にかけていたときでさえ、死んで当然なのだと思っていました。それでも、ヨーロッパに来て、二十五歳ぐらいになり、まわりの人たちの話を聞くうちに、私にも物事が理解できるようになってきました。女性を火あぶりにするなどとんでもないと考えられている国がたくさんあること、女の子も男の子と同様に育てられている国のほうが一般的なのだということ。私は村のことしか知らなかったのです。村がすべてだったんです。市場を越えると、もうそこは異常な世界でした。というのも、そこでは娘たちが化粧をし、短いスカートをはき胸元を見せて歩いていましたから。彼女たちが異常で、私の家族は正常。私たちは純粋で、市場の向こうの人々は不純、そう頭に叩きこまれていました。
 女の子はなぜ学校に行かせてもらえないか? 世の中のことを知ってはならないからです。私たちにとってもっとも重要な人物、それは両親。両親が言うことには、何があろうと従わなくてはならない。知識も教育も法律も、すベて両親から与えられるのです。だから女の子に学校は必要ないのです。通学かばんを手にバスに乗ったり、きれいな服を着たりしなくてすむように。書いたり読んだりできるようになると頭がよくなりすぎてしまいますから、女の子にとってはよくないんです。私の弟は家族で唯一の男の子でした。ヨーロッパの男性と同じような服を着て、学校にも映画にも床屋にも、自由に外出できるのです、なぜでしょう。それは両脚のあいだにおちんちんがついているからです。弟は幸いにもふたりの息子に恵まれました。でも、一番ラッキーだったのは彼ではありません。この世に生を享けなかった彼の娘たちです。生まれてこなかったという最高のチャンスに彼女たちは恵まれたのです。」

スアドはイスラム教徒です。
しかしウィキペディアにも書いてありますが、
「名誉の殺人」 はイスラム文化圏に多く見られるものの、イスラム教とは直接関係はありません。
このような女性に対する徹底的な差別もイスラム教とは無関係です。
スアドの証言の中にも、市場の向こうに住む女性たちの様子が出てきました。
イスラム文化圏においても、解放されている女性たちは存在するのです。
宗教というよりは、ある特別な地方の因襲としてこうした女性差別が残されているのでしょう。
しかし、こうした因襲の残っている土地はひじょうに多いです。
この本にはいまだに年間6000人が 「名誉の殺人」 によって殺されていると書いてありました。
ウィキペディアには年間5000人と書いてあります。
スアドの証言や、それによって広がった救済活動によって少しは減少したのでしょう。
それでも年間5000人がこうやって葬られているのです。

これをたんなる文化の多元性とか文化相対主義ということで許容できるでしょうか?
「人権」 なんてヨーロッパの白人男性が考え出した勝手な思想にすぎないと言えるでしょうか?
私は 「人権」 というのは人類が生みだした大切な宝だと思います。
じっさいにそういうものを人間が生まれつき持っているということではなく、
人間は生まれつき平等に人権を持っているものとして扱われるべきである、
という考え方、ものの見方を人類が共有していくべきだと思うのです。
シセラ・ボクが言う通り、人類には 「共通価値」 があると思います。
それは文化の違いを超えて共有されるべきものだと思うのです。
カントの 「定言命法」 に倣って、「ならぬものはならぬのです」 と断言したいと思います。

NHK文化センター 「哲学って何だろう?」 第3回講座

2010-06-28 22:53:32 | 哲学・倫理学ファック
昨日はNHK文化センターの3回目の講座でした。
今回は 「哲学と科学」 という副題で、近代自然科学革命以後の話をするつもりでしたが、
その話をするためには、それ以前の様子も語っておく必要があるなあと考え、
キリスト教の発展史から論じてしまいました。

1.キリスト教の発展史

  30年 イエスの弟子12使徒がエルサレム教会を設立し、伝導開始
 70年頃 福音書の成立 (この頃にユダヤ教から独立しキリスト教となる)
 1~3世紀 皇帝ネロやディオクレティアヌス帝らによる再三のキリスト教徒迫害
 2~3世紀 新約聖書の成立
  313年 ローマ帝国がキリスト教を公認
  325年 ニカイア宗教会議 (コンスタンティヌス帝が開催、三位一体説が正統教義となる)
  380年 ローマ帝国がキリスト教を国教にする (392年には異教が禁止)
  395年 ローマ帝国東西分裂
 -426年 アウグスティヌス 『神の国』 (プラトン・キケロ哲学とキリスト教信仰を統合)
  476年 西ローマ帝国滅亡
  800年 ローマ教皇レオ3世が戴冠してフランク国王カール大帝が即位
 1054年 東西教会の最終分裂 (ローマ・カトリック教会とギリシア正教会)
 1077年 カノッサの屈辱
 1096-1270年 十字軍遠征 (アラビア世界からギリシア・ローマ文化の逆輸入→ルネサンスへ)
 1265年- トマス・アクィナス 『神学大全』 (アリストテレス哲学とキリスト教信仰を統合)
 1303年 アナーニ事件 (十字軍の失敗により教皇の権威が失墜、のちにアヴィニョン捕囚)
 1414-7年 コンスタンツ宗教会議 (教会大分裂の解決、初期宗教改革者ウィクリフ、フス有罪)

イエスの死後、まだキリスト教がユダヤ教からはっきりと自立しておらず、
聖書も出来上がっていなかったような時代から、
数百年のあいだに一気にキリスト教が広まっていき、
その勢いに抗しきれなくなって、ついには公認され、まもなく国家宗教となっていく。
そして、中世に入って国家よりもカトリック教会のほうが上位に立つようになり、絶頂期を迎える。
ところが絶頂期を迎えた瞬間に、ヘーゲルが言うように、内部の矛盾も最大化していて、
やがて凋落の兆しが見え始める。
キリスト教の歴史を振り返るたびに、人間の栄枯盛衰というものを感じさせられます。
このあたりはサクッと終わらせるつもりだったのですが、
ついつい長々と熱弁を振るってしまいました。
この部分で言いたかったことは、信仰 (=宗教) のほうは次々と浮かんでくる疑問を、
宗教会議などを開いてひとつひとつ全部つぶしていき、
正統教義 (=正しい答え) を確定していこうとする営みである、
そういう時代において、疑問を大切にし自由に考えることをよしとする学問 (=哲学) は、
危険な思想として闇に葬られるか、
キリスト教神学を補完する機能が認められた場合にのみ特別に認容されたのだということでした。
したがって、この頃は哲学の冬の時代だったと言うことができるでしょう。

2.ルネサンスと宗教改革

 1321年 ダンテ 『神曲』
 1351年 ボッカチオ 『デカメロン』
 1486年 ミランドラ 『人間の尊厳について』  
 1511年 エラスムス 『痴愚神礼賛』    
 1516年 トマス・モア 『ユートピア』    
 1517年 ルターの宗教改革
 1532年 マキァヴェッリ 『君主論』     
 1536年 カルヴァン 『キリスト教綱要』

キリスト教が凋落するにともなって、哲学には春がやってきます。
それが、ルネサンス (と宗教改革) の時代ですが、
時間配分上、このあたりの話は簡単にすまさざるをえませんでした。
十字軍遠征によってアラビア世界に遺されていた古代ギリシアやローマの文献が、
どっとヨーロッパ世界にもたらされることになります。
それらを手がかりとしつつ、キリスト教世界の中で抑圧されていたものの解放が始まりました。
神や正統教義が絶対であった時代から、
人間や、人間が懐く疑問を大切にするような時代へと、
少しずつ移り変わろうとしていたのであろうと私は捉えています。
宗教改革の話だけでも90分くらい軽く話せてしまうのですが、
なんとか自分をなだめながら、ここは手短に終えることにしました。

3.科学の発展史

 1543年 コペルニクス 『天体の回転について』 (死後出版、地動説を唱える)
 1600年 ブルーノ火刑 (宇宙無限論や地動説支持などの自説を撤回しなかったため)
 1609年 ケプラー 『新天文学』 (惑星の楕円軌道を唱え、地動説を完成する)
 1616年 第1回ガリレオ裁判 (無罪判決、地動説は禁止)
 1620年 ベーコン 『ノヴム・オルガヌム』 (観察や実験を重んじる帰納法を主張、知は力なり)
 1621年 ガリレオ 『偽金鑑識官』 (「自然という書物は数学の言葉で書かれている」)
 1633年 第2回ガリレオ裁判 (再び地動説を唱えたとして有罪判決、終身刑、禁書 →1992年)
 1637年 デカルト 『方法序説』 (一切を疑う人間の合理的理性)
 1651年 ホッブズ 『リヴァイアサン』 (自然学の方法論を人間や政治に適用)
 1661年 ボイル 『懐疑的化学者』 (錬金術から化学の分離を唱える)
 1687年 ニュートン 『プリンキピア』 (物理学の原理、天文学と物理学の統合)
 1735年 リンネ 『自然の体系』 (生物学や地学の基礎となる自然物の分類法の確立)
 1776年 アダム・スミス 『国富論』 (経済学の祖)
 1789年 ラヴォアジェ 『化学原論』 (質量保存の法則、元素表)
 1809年 ラマルク 『動物哲学』 (「生物学」という語を初めて用いる、進化論の初期提唱者)
 1830-42年 コント 『実証哲学講義』 (社会学の祖、実証的学問の優位を主張)

ここまでですでに1時間近く話してしまっていましたが、やっと本題に入ります。
すべての学問が哲学であった時代から、
現在のように、哲学がなんだかわけのわからない学問となってしまう、
その移行期に何が生じたのでしょうか。
簡単に言うならば、学問の 「実証化」 と 「分業化」 でした。

先に起こったのは 「実証化」 です。
それを自覚的に行ったのがガリレオ・ガリレイだったと言えるでしょう。
学問の実証化とは、自分の仮説を、人間の経験と人間の理性に照らして証明しようとすることです。
それ以前の学問 (=哲学) の営みは、悪い言い方をすれば、
人から与えられた答えを疑い、自分で考え抜くのはいいのですが、
けっきょく自分なりの答え (=仮説) を提示するところで終わっていました。
それに対して、別の人がまた疑って、自分なりの仮説を打ち立てる。
これをいくら続けても、どれが正しいのかということを決着させることはできず、
たくさんの仮説、つまりそれぞれの思想、哲学がどんどん増えていくだけです。
とりわけ、それまでの学問 (=哲学) では、キリスト教的であるかどうかは別として、
やはり超自然的なもの (神様とか前世とか) を用いて答えることが多かったので、
その説を証明することも反証することもできなかったのです。
これをやめて、人間の経験と人間の理性だけで説明できることを説明しようとし始めたのが、
「自然科学革命」 以降の学問 (=哲学) の特色なのです。

この試みはものすごい成果を生み出しました。
望遠鏡などの観測器具が開発されたということも関係していますが、
新たな発見が相次ぎました。
互いの経験と理性で共有できる正しい知識が爆発的に増えていったのです。
それまでのような、それぞれが好き勝手なことを言い合っている時代とは比べものになりません。
むしろみんなが共同、協力し合って、正しい知識をどんどん蓄積していくのです。
学問 (=哲学) の財産は加速度的に増えていきました。
それはたいへん喜ばしいことなのですが、しかしひとつ困ったことがあります。
前回話したように、すべての学問は哲学であり、
哲学者は 「ザ・学者」 として1人ですべての学問を担っていたわけですが、
学問が実証化されたことによって爆発的に発展を遂げてしまうと、
もう1人ですべてを扱うなんてとてもじゃないけどムリになってきます。
それでもカントやヘーゲルらはなんとかがんばって1人で全部やろうとしていましたが、
彼らより前の時代から、もうすっかりあきらめて、
自分はここだけやろうと限定してしまう人が増えてきました。
それが学問の 「分業化」 です。

じっさい分業というのは非常に効率的なシステムです。
1人で全部やるというのがそもそもムチャな話なわけで、
分業化がいったん始まると、これも加速度的に進んでいきました。
そうしてさまざまな個別学問が、実証的な学問として学問 (=哲学) から独立していったのです。
自然哲学のなかからは、天文学、物理学、化学、生物学などがいちはやく独立していきました。
実践哲学 (道徳哲学) のなかからは、政治学、経済学、社会学などが独立していきます。
これら独立した個別学問のことを、日本語では 「科学」 と呼んでいます。
「科学」 とは 「科目に分かれた学問」 という意味です。
明治期に、分離独立化したあとのもろもろの個別の学問 sciences の姿を見て、
中国の 「科挙の学」 になぞらえて付けられたのが 「科学」 という訳語なのです。
欧米語では、「学問」 という言葉と別に 「科学」 という言葉があるわけではありません。
どちらも science で同じ言葉です。
日本にのみ、分業化したあとの学問を指すための特別な言葉が存在するわけです。

以上のように、「実証化」 と 「分業化」 を経て、
「実証科学」 が学問の新しいあり方として誕生し、大いに発展していきました。
そしてすべての学問を意味していた哲学のなかから実証科学が順次、分離独立していったのです。
実証化が可能であった分野があらかた独立していったあと、
実証化できなかった部分が哲学のなかに残されました。
それが現在の哲学です。
実証化、特に観察や実験によって証明することができない知が、今の哲学なのです。
そりゃあわけがわからないに決まっています。
次回は、このわけがわからなくなってしまった現在の哲学についてお話ししていこうと思います。

今回は、たっぷり時間がありましたので、
講座終了後、ゆっくり皆さんのご質問に答えることができました。
3~40分質疑応答をしていたのではないでしょうか。
講義の内容に直接関わりない、
「友人の定義はなんですか? 友人と親友の違いはなんですか?」 といった質問にも、
思いつく範囲内で適当に答えていましたが (「適当」 であって 「テキトー」 ではない)、
こういった時間を取ることは大事だなと感じました。
次回が最終回となりますが、できるかぎり皆さんに満足していただけるよう、
最後の力を振り絞りたいと思います。

WiMAX でどこでもお仕事

2010-06-27 18:06:46 | お仕事のオキテ
東京のほうで引っ越ししたのに伴い、インターネット環境を変更しました。
WiMAX って聞いたことがあるでしょうか?
関東のほうではけっこう大々的にテレビコマーシャルとかしてるんですが、
福島では聞いたことがありませんでした。
その WiMAX のCMがおもしろくて、けっこうインパクトがあったので、
WiMAX ってなんだろうなあとは思っていました。

実をいうと私はまだ WiMAX が何のことかはっきりはわかっていないのですが、
ウィキペディアとかで調べても、書いてあることの意味がまったくわからない)
私の理解でざっくり説明するならば、無線LANの一種ではなかろうかと思います。
つまり、ケーブルなしでインターネットに繋ぐことができるサービスのひとつです。
ただし、フツーの無線LANは自宅までは有線で引っ張ってきて、
自宅の中だけ無線LANの機器を用いて電波を飛ばしているわけですが、
WiMAX の場合はケータイやラジオのように最初っから無線だというところがミソだと思います。
最近では新しいパソコンを買うと、最初から WiMAX 対応になっていて、
加入申し込みさえすれば、いつでもどこでもインターネットを利用できるようになるみたいです。
(ただし、利用場所がサービスエリア内かどうかの確認は必要)

で、東京での引っ越しの際に、妻は新しいパソコンも購入し (当然 WiMAX 対応)、
これまでのインターネット契約を解約して、WiMAX に切り替えたのです。
妻は福島の家がサービスエリア内かどうかも確認ずみで、
これでどこでも仕事ができると大喜びです。
以前よりも通信速度も速くなって、インターネットがサクサク見られるようになった、
とも自慢していましたが、それは WiMAX のおかげというよりも、
パソコンが新しくなって、
ハードディスクに溜まっていたよけいなものが一掃されたせいじゃないのと思いましたが、
無邪気に喜んでいる妻に水を差すような言葉をかけたりするような私ではありません。

ところが、当初は他人事だと思っていて、
「ふーん、よかったね」 ぐらいですませていたのですが、
すぐに自分にも関わる問題だとわかりました。
これまで私は東京に行ったとき、
ブログを更新したり、ウェブメールをやりとりしたりするのに、
妻の有線LANに繋いでインターネットを利用していたのですが、
それができなくなってしまったわけです。
WiMAX を利用するためには、自分も WiMAX の契約をしなければならないばかりか、
私のパソコンは WiMAX 対応ではないため、
WiMAX 対応の新しいパソコンを買うか、
WiMAX 通信端子を買うかしなければならないのです。
そして、もしもそれをするのだとしたら、
現在契約しているインターネット・プロバイダも解約する必要があるでしょう。
(両方契約するのはどう考えてもムダです)
他人事どころか、なんだかものすごく大事 (おおごと) ではありませんか。

けっきょく私のほうも、現在のインターネット契約を解約して、
WiMAX 通信端子を買い、WiMAX と契約することにいたしました。
大事ではありましたが、これによってモデムや無線LAN用の機器などなくとも、
家中どこでもケーブルなしでインターネットを利用できるようになりましたし、
もちろん東京でもインターネットができるようになりました。
それは喜ぶべきことでしょう。
若干問題もないわけではありません。
高速移動体のなかでも利用可能という触れ込みでしたが、
新幹線の中ではまだ一度も繋がったことがありません。
関東圏の在来線の中なら利用可能なことは確かめましたが、
福島の東北本線では、やはり走り始めると使えないようです。
これは、スピードのせいなのかサービスエリアの問題なのかまだわかっておりません。
ただし、これまでは電車の中でインターネットなんてまったく使えなかったので、
不便になったということではないと言えるでしょう。

一番大きな問題は、インターネット接続が切れてしまうことがある、ということです。
モバイルパソコンはしばらくほっておくと、
勝手にスタンバイ状態になってしまうわけですが、
そうなると WiMAX 通信端子との接続が切れ、通信も切断されてしまうのです。
これは時に由々しき問題を生じさせます。
例えばこのブログ記事を書くとき、普通はブログの新規投稿画面で文章を入力していきます。
私は文章が長いですから、書くときにそれなりの時間がかかってしまうわけです。
特に飲んだあとの酔っぱらっているときは、
書いてる途中でちょっと寝てしまったりすることもあります。
そうでなくとも、本の紹介をしているときなどは、
しばらくその本を読んで引用する箇所を探したりするわけですが、
その間、ちょっと時間が空いてしまうと、パソコンがスタンバイ状態になってしまうわけです。
パソコンを再び起ち上げれば、元の画面に戻りますので、
書きかけのところから先を書き進んでいくことができます。
で、ようやっと文章が完成したと思って 「送信」 ボタンを押した瞬間に、

「Internet Explorer ではこのページは表示できません
 対処方法:
インターネットに接続していません。インターネット接続を確認してください。」

という画面に飛ばされて、自分のミスを思い知らされることになるのです。
スタンバイ状態になったときにインターネット接続が切れていたので、
もうあの入力画面に戻ることもできません。
つまり、これまで書いてきた部分はすべて消え失せ、もうどこにも残っていないのです。

先日の 「ルーツへの旅 (その5) ・ 陶磁器の町、有田」 がそれでした。
菊池さんのライブのあとさらに飲んで帰ってきて、
もうすでに0時をまわりそうな時間でしたが、
ほろ酔い気分でブログを書いていて、途中で寝てしまい、
起きて再開して、やっと書けたと思って勇んで 「送信」 ボタンを押したら、
「Internet Explorer ではこのページは表示できません」 です。
あの長い文章が全部消失してしまうのです
そのショックったらありません
スタンバイ状態になってしまう以外にも接続が切れてしまうことがあるようで、
あの夜はなんだかよくわからないまま2度ほど文章消失を味わい、
そのたびに思い出しながらまた同じ文章を打ち込むという作業を行いました。

物書きにとって書いた文章が失われ、それをもう一度書くという仕事ほど、
辛く切ない作業はありません。
これを防ぐためには、①できるだけモバイルパソコンではブログ投稿は行わない、
②モバイルパソコンでブログ投稿する場合は、
 「送信」 ボタンを押す前に、インターネット接続を確認する。
③モバイルパソコンでブログ投稿する場合は、
 「送信」 ボタンを押す前に、書いた文章を (テキストデータなどで) 保存する。
④モバイルパソコンでブログ投稿する場合は、ブログ投稿画面で文章を入力するのではなく、
 ワープロやテキストデータなどで文章を作成し保存しておいて、
 インターネットを利用するのは、出来上がったものを送信するときだけにする。
といった自衛措置が必要となります。
(ちなみに今は④の方法でこの長い文章を作成中です。)

とまあ、こういう困った問題もないわけではありませんが、
それは WiMAX のせいではありませんので、
私が正しい使い方を覚えればいいだけのことです。
うちのエアコンの3台中2台が壊れている今現在、
唯一元気に稼働中の寝室のエアコンをめいっぱい働かせながら、
涼しい中ベッドの上でブログ更新ができるというのは、
WiMAX のおかげ以外のなにものでもありません。
一昨日もタイヤ交換を待つあいだ、オートバックスの中でブログのコメントを書いたり、
ホームページを見たり、メールのやりとりをすることができました。
いつでもどこでもインターネット接続して仕事ができるなんて、
WiMAX さまさまではありませんか。
せっかくの文明の利器を、痛い目を見ず使いこなせるよう、
自分なりの活用法を編み出していきたいと思います。
(④の安全策を講じているとはいえ、この文章が消失してしまいませんように

惨敗・春のチキンレース

2010-06-26 12:40:07 | ドライブ人生論
冬のチキンレースがあれば、春のチキンレースもあります。
どれだけ早くスタッドレスタイヤからノーマルタイヤに履き替えられるかを競う戦いです。
例年でしたら、相馬ドライブのあいだのどこかの時点で履き替えていたので、
4月から5月のあいだにタイヤ交換を行っていました。
それでもやはり115号線の山越えをしなければいけないので、
万一のことを考えてしまい、たいてい春のチキンレースは敗北で、
誰よりも遅いタイヤ交換だったろうと思います。
ところが今年は厳冬がそのままずれ込んで、春が来ないままの感じでしたので、
相馬に通っているあいだにタイヤを履き替えるなんてとてもできませんでした。
5月14日に相馬看護学校の最後の講義を終え、
さすがにそのあとは雪の心配はないだろうと思いつつも、
チキンな私はなかなか履き替えられずにいました。

そうこうしているうちに激動の6月に突入してしまい、
週末のたびに附属小学校での授業公開やら、ルーツへの旅などがあり、
とてもタイヤ交換に行ってるヒマなどない状態になってしまいました。
もう完全に梅雨に突入して、しかも意外と雨は少なくて、
けっこう夏と見紛うような晴天の日も多いなか、
スタッドレスタイヤがアスファルトによってガリガリと削られていくのを感じながら、
そのたびにチキンな自分を思い知らされていたわけです。

そんなこんなで延び延びになってしまいましたが、
昨日やっとタイヤ交換に行くことができました。
日本代表が快勝して決勝トーナメント出場を決めた記念の日というのに、
同じ日が春のチキンレース惨敗記念日ともなってしまったわけです。
オートバックスでは 「タイヤ交換60分待ち」 となっていて、
お?自分と同じ負け犬が他にもいるのかなとちょっと期待しましたが、
見ているかぎり私以外にタイヤ交換をやってもらっている人はまったくおらず、
たんにオイル交換やカーナビ取り付け作業待ちのクルマでピットがいっぱいで、
タイヤ交換をやってもらうまでにけっこう待たなければいけない、
というだけのことだったようです。

まあチキンの称号は甘んじて受けましょう。
どれだけ人からチキンと蔑まれようが、安全第一ではありませんか。
基本、電車通学の私は、あれだけ雪が降りながらも、
けっきょく雪道を走ったことなんて片手にも足りないくらいでしたが、
まあそれでもいいのです。
なんといってもスリップなんかして他人様に迷惑をおかけしてしまうことが、
一番いけないことなわけですから、
この冬もそんなことをせずにすんだことを感謝するようにいたしましょう。
でもたぶん次のタイヤ交換のときあたり、
そろそろすり減ってるので新しいのを購入されてはいかがですか、
なんて薦められちゃうんだろうなあ。
しかたない、チキンレース敗者へのペナルティだ

祝・日本代表W杯決勝T進出!

2010-06-25 05:32:43 | 幸せの倫理学
午前3時試合開始ですから、そうとう迷ったんですが、
けっきょく見ることにしました。
私は野球派ですので、サッカーのことはまったく詳しくないのですが、
カメルーン戦もオランダ戦も日本代表はよくがんばっていたと思います。
まあカメルーン戦は勝ちはしたものの、むしろ相手の調子が悪かったおかげという感じでした。
オランダ戦は逆に負けはしたものの、おっ?オランダ相手にここまで戦えるのかという感じでした。
しかし、いずれの試合も選手がみんなよく走っていて、
今までの何回かのW杯のなかでは一番強さを感じさせてくれるチームのような気がします。
とはいえ、デンマークは完全に格上ですので、引き分けでいいとはいえ、
これで見納めという可能性もおおいに大です。
ここまで楽しませてくれた御礼も兼ねて、観戦することにしました。

ところがなんと、みごとな勝利ではありませんかっ。
3対1
できすぎですっ
おめでとう、日本代表
おめでとう、岡田監督
本当にいい試合を見せてくれました。
みごとなフリーキック (×2)、みごとなダメ押しのゴール
そして、よく守りました。
1点は取られたものの、PKも止めちゃったし
いやあ、素晴らしい試合でした。

おっといかん、もう寝なきゃ。
福大生も含めて、日本中の人がまだ起きてるとは思うけど、
だからといって倫理学者が仕事に遅れていくというわけにもいかんでしょう。
それにしても、今年もまだヤクルトの試合を1試合も見ていないというのに、
W杯は、このあいだのイングランド戦も見てしまったし、韓国戦も見ているし、
私はまるでサッカーファンみたいじゃないですか。
うーん、いいのかプロ野球、いいのかスワローズ?

ナスを生でいただく

2010-06-24 12:42:55 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
筋肉痛がまだ癒えません。
もう4日も経ったというのに…。
おそるべし、アシュタンガ・ヨガ

さて、日曜日はヨガのせいで疲労困憊で、
夕食を作るどころか買い物に行く元気さえなく、
よろけるようにしながらいつもの 「オステリア・スゲロ」 に行ってしまいました。
席についたときにはメニューを見てオーダーを決める力さえなく、
しばらくボーッとしていましたが、
グラス・シャンパンを飲み干したあたりからやっと元気が回復してきて、
ヨガで消費した水分とカロリーを、
美味しいワインとイタリアンで補給してやろうという気になってきました。

とはいえ以前のときとは異なり、今回はやはり余力が残っていなかったのか、
料理の写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました。
出された料理を一気にがっつき、食べ終わってから、
しまった写真撮るの忘れた、と反省するのですが、
また飲んだり、シェフと話したりしているうちにそのことを忘れてしまって、
次の料理が出されたらまたすぐにがっついてしまうということを繰り返しているうちに、
もう写真撮影は完全にあきらめてしまいました。
というわけで、オーダーしたメニューを正確に思い出せず、
これで全部ではなかったかもしれませんが、だいたい以下のようなラインナップだったと思います。

軽くスモークしたカンパチのカルパッチョ
フレッシュポルチーニ茸のソテー
全粒紛のタリアテッレ
水ナスと生ハムのサラダ
ホウボウのアクアパッツァ

あいかわらず、どれも絶品でしたねぇ
写真でご紹介できないのが本当に残念ですが、
まあ料理の神髄は写真なんかでは伝わりませんから、むしろよかったのでしょうか。

で、今回特にご報告したいのは 「水ナスと生ハムのサラダ」 です。
調理するところをじーっと見ていて驚いたのは、ナスが生なんです。
ちょっと思い出してみても、漬け物以外でナスを生で食べたことはないような気がします。
しかもアク抜きもしていないのです。
水ナスというのは丸っこい形をした大ぶりのナスなんですが、
他の品種に比べてアクが少ないのだそうで、だからナスのサラダにできるのだそうです。
まずこの皮を厚めにむいていきます (もちろんアク対策のためです)。
これを一口大に切ってあげてボウルに移し、
ここからは私が見た限りなので定かではありませんが、
エクストラ・バージン・オリーブオイル、バルサミコ酢、粉チーズ、塩、胡椒を加えて和えていきます。
基本はこれで完成で器に盛ってあげ、
仕上げとしてこの上に生ハムとルッコラ少々をトッピングして完成です。
これが絶品なんです。
生で食すナスの歯ごたえや甘みがたまりません。

で、見ているかぎりなんとなく自分でも作れちゃいそうな気がしました。
もちろん素材の味で勝負しているメニューなので、
美味しい水ナスが手に入るのかというところが一番の難関でしょう。
福島のスーパーでも水ナスはたまに売っていたような気がするのですが、
どうだったでしょうか?
それとも東京の高級スーパーで見かけたのと混同してしまっているのかなあ?
水ナスさえ手に入れば、生ハムは固まりから切り出さずとも、
スーパーで売ってるパック入りので代用できそうだし、
ルッコラも本当は、よく見かける葉っぱの幅広いやつではなく、
スゲロのルッコラは細くて苦みがあるやつなんですが、
まあ贅沢を言うのはやめましょう、市販のルッコラで代用してあげるか、
エンダイブなどで代用してしまえば、
なんとなくなんちゃっての 「水ナスと生ハムのサラダ」 は作れそうではありませんか。

そう思って今週はスーパーや八百屋に行くたびに水ナスを探すのですが、
やはり福島では見当たりません。
これでナスまで水ナスではなくフツーのナスで代用してしまうと、
さすがに 「なんちゃって」 にすらならなくなってしまいそうです。
これからナスも美味しくなっていきますし、なんとか自分で作ってみたくもあり、
しかし、水ナスが手に入らないというのは、
こういう料理はちゃんとした金額を払って、然るべき場所で食べなければいけないよ、
ということのお告げであるようにも感じますし、はたしてどうなるやら。
福島市内のどこぞで水ナスを見かけた方はぜひご一報くださいませ。
教えてくれた方には 「なんちゃって」 を作ってさしあげます。
あるいは、私が作らなくとも、上記のざっくりしたレシピでたぶん誰でも作れるでしょうから、
作ってみた感想をお知らせください。

ヨガ初体験

2010-06-23 19:46:57 | がんばらないダイエット
ものすごい筋肉痛です。

もう3日めだというのに、太ももの裏側にまだ筋肉痛が残っています。

このあいだの日曜日に、東京でヨガの体験レッスンを受けてきました。

それほど興味があるわけでもないし、身体の硬い私に向いているとも思えないし、

行かずにグータラ家で寝ておくという選択肢もあったのですが、

ほんのちょっと好奇心が湧いてしまったというのと、

このところまた暴飲暴食が続いていたので、

軽く運動でもしておくぅ?みたいな軽いノリで行ってしまいました。

死ぬほど後悔しました。

インド4000年の歴史をなめてかかった私が悪うございました。

たまたま行ったのはアシュタンガ・ヨガの初心者用クラスというやつだったのですが、

このアシュタンガ・ヨガというのはけっこうヘヴィなやつなんだそうです。

いろいろなポーズを一連の流れで行っていきます。

ヨガってじっとしているっていうイメージだったんですが、とんでもありません。

運動とか体操の範疇でしょう。

しかも、ひとつひとつのポーズがありえない感じです。

一歩まちがうと中国雑技団というところでしょうか。

アソコは柔らかいけれど、それ以外はみごとに硬くって、

前屈なんてどんなにがんばってもカタカナの 「ヒ」 の字型にしかならない私にとっては、

ひとつひとつのポーズが拷問です。

それを一連の流れでやっていくわけですから、筋肉が悲鳴を上げるのもムリはありません。

3000円で90分もやってくれるのですが、それが終わったときには全身汗だくで、

息も絶え絶え、身体中がバキバキでした。

足がカクカクして、いつ舗道に突っ伏してしまうか心配なくらいです。

「がんばらないダイエット」 なんてどこへやら、私、本当にがんばりました。

こんなにがんばったのは、大学時代のダンス部の合宿のとき以来でしょう。

またやるかですって?

うーん、この筋肉痛が消え失せてからゆっくりじっくり考えてみたいと思います。

菊池南里 『ピアノ音泉 in 赤坂 ・ 杜のうた』

2010-06-22 20:43:29 | 人間文化論
「ルーツへの旅」 シリーズで延々引っ張ってしまったので、
先週の出来事のご報告が今週にずれ込んでしまっているのですが、
先週の金曜日にはライブを聴きに行ってきました。
菊池南里 (きくちなんり) さんというポップ・ピアニストの方のトーク&ライブショーです。
会場となった赤坂のジャズバー 「杜のうた」 はさして広くなく、
カウンターとボックスあわせて20人も入ったら満員という感じでしょうか、
お客さんもほとんどが菊池さんのお知り合いのようで、
とてもアットホームな感じのコンサートでした。

うちには彼の 『ピアノ音泉』 というCDがあり、それを聴いたことはありましたが、
私自身は菊池さんとは初対面です。
会場に入っていくと、御本人がすでにその狭い店のなかでスタンバッていて、
すぐにこちらにやってきて、名刺交換です。
アーティストと名刺交換をしてしまうコンサートってあるでしょうか
菊池さんはうちの妻とどこかで知り合っていて、
それを機縁として、どれだけ好奇心旺盛なんだか、私のこのブログも見てくださっているそうです。
「それはそれは、どうもありがとうございます」 と、
ライブが始まる前にすっかり打ち解けてしまいました。

みんなが思い思いのドリンクとフードを飲んだり食べたりしているなか、
ライブがスタートしました。
先に 「トーク&ライブショー」 と書きましたが、
「トーク&ライブ」 という命名がすでにヘンです。
そう名づけるだけあって、トークに重きが置かれたライブでした。
曲を弾いている時間と、その曲の説明を語っている時間とでは、
半々か、むしろ後者のほうが長いくらいで、
軽妙な語り口で語られる蘊蓄を楽しみながら、音楽の世界に誘われていきました。

彼のピアノは、『ピアノ音泉』 というタイトルからもわかるとおり、
ゆっくりのんびり音に浸かってリラックスさせてもらえる感じです。
弾かれる曲もほとんど知っているか、どこかで聴いたことがあるような曲ばかりで、
安心して菊池ワールドに身をまかせていられるのです。
すでに梅雨入りし、当日もちょうど雨でしたが、
そうした季節にちなんで、雨にまつわる曲をけっこう弾いてくださいました。
レパートリーは次のとおりです。

1.朝空
2.埴生の宿
3.雨降り
4.雨にぬれても
5.シェルブールの雨傘
6.A列車で行こう
7.Top of the World
8.MMM (メタボリック・ミスティック・マジック)
9.三度が差シリーズ (津軽海峡冬景色~サンバ~ボサノバ)
10.冷たい雨~あの日に帰りたい
11.即興曲(雨の赤坂見附)
12.大丈夫
13.仰げば尊し

1曲め、8曲め、11曲め、12曲めはオリジナル曲です。
それ以外はすべてどこかで耳にしたことのある曲でした。
1曲めは地方番組の主題歌として使われている曲だそうです。
9曲めは、長調と短調を変えてしまうとどうなるかを楽しむシリーズで、
「津軽海峡冬景色」 は長調に変えると、まるでラジオ体操の曲みたいになってしまうのですが、
逆にサンバを短調に変えても、それほど曲調は変わらないといったことを実演してくれました。
12曲めの 「大丈夫」 は作曲は完成しているのですが、
これに歌詞をつけて売り出したいのだけれども、歌詞がなかなか決まらなくて、
ということで未完成のまま、
「ダ・イ・ジョ・ブ、ダ・イ・ジョ・ブ、ンンンンンン~
とハミングでごまかしながら弾き語りを披露してくれました。
作成途上の曲を聴かせてもらうことなんてフツーありませんから、
それだけでものすごく興味をひかれたのですが、
「大丈夫」 という曲のタイトルにピッタリ合った旋律でしたので、
これが完成した暁にはぜひカラオケで歌わせてもらおうと心に決めました。

これから毎月第3金曜日にはこの 「杜のうた」 でトーク&ライブショーを開催されるそうですし、
銀座TACTでもライブをやるそうです。
福島や仙台に来てくれる機会もきっとあるでしょう。
ぜひまた軽妙な語りと心地よい音楽を浴びにおうかがいしてみたいと思います。

「私の就職と転職」

2010-06-21 16:21:37 | お仕事のオキテ
去る6月17日、経済経営学類の 「キャリアモデル学習」 という授業で、
福大の卒業生であり、
私がキャリアカウンセラー (CDA) の資格を取ったときの同級生でもあるMさんが、
「私の就職と転職」 というタイトルで講義をしてくださいました。
彼女は現在37歳で、人材派遣会社で働いていらっしゃいます。
今の会社が4社めで、離婚や再婚も経験しておられる波瀾万丈の人生を、
隠すことなくぶっちゃけ自己開示してくださり、
学生たちにとっても、私にとっても、たいへんタメになるお話でした。
その波瀾万丈伝をここで再現するのは困難ですので、
就職活動や、働いて生きていくこと、人生全般に関して披露してくださった、
ちょっとした教訓などを記すことによって、ご報告に代えさせていただきたいと思います。
私が汚い字で取ったメモに基づく再現ですので、
御本人のおことばそのままではありませんが、その点御了承ください。


・自分の新卒時の就職活動を振り返って
「コネも実力のうち。ズルいことをしたなどと悩んだりする必要はありません。使えるコネはなんでも使いましょう。」

・夫の転勤にくっついてイギリスに2年間滞在したときを振り返って
「言葉すら通じない、なんにもできないゼロの自分に向き合うことになりました。しかし、そこで引きこもってしまうのではなく、チャリティショップでのボランティアを始め、最初のうちは接客をしなくてすむよう裏方の力仕事をさせてもらったりしながら、人から必要とされる喜びを味わいました。」

「そのチャリティショップには、目の見えない80歳くらいのおばあちゃんが週に1回働きに来ていました。衣料品のタグを取るという作業を手探りでやっていくだけなのですが、そんな歳になっても、目が見えなくなっても、人のために何かをするということがどれだけ大事か、働くということの本当の意味がわかった気がしました。」

・離婚後、32歳で就職活動をしたときについて
「10社以上受けました。最終面接まで行ったのも何社かあります。最終面接には1ヶ月くらいかかるので、そのあげくに落とされると、まるで失恋したかのようなショックを受けます。落ちたその日だけはやけ酒を飲みましたが、その翌日からはまた気を取り直して就活に励みました。」

・人材派遣会社に就職して
「最初に入った銀行が破綻して転職を余儀なくされたりなど、いろいろなことがあったので、その経験を活かした仕事がしたいと思い、キャリアカウンセラーの資格を取ったりもしました。33歳で今の人材派遣会社に就職できました。現在は25歳のときよりも給料は低いですが、やりたい仕事を見つけることができ、自己満足度はとても高いです。」

・今の会社で1,000人以上の人たちの面接をしてきて
「最近の若者は離職率が高くなっていますが、就職したら少なくとも3年は勤めてほしいと思います。各会社で1年もっていない人は、企業のほうから 「やめやすい人」 という目で見られてしまいます。1年未満での転職はよく 「履歴書を汚す」 と言うのですが、その後の就職活動でもどうしても不利になってしまいます。」

「上司に怒られたといって辞めてしまう人がいますが、会社側は新卒を育てようと思ってくれています。新卒は会社からすると給料分ほどの役にはまったく立っていないのですが、そこをガマンして育てるためにいろいろと注意してくれるのです。逆に、派遣社員とかには注意はできないと言います。注意したりなんかしないで、黙って別の人に替えてしまうのです。だから、注意してくれるというのは、ありがたいことなわけで、むしろ感謝するべきなのです。」

「転職する場合は、今の会社を辞めてから就活をするのではなく、働いているうちに次の仕事を決め、辞めると同時にすぐに次の仕事を始められるくらいがいいです。仕事と仕事のあいだを空けないようにしたほうがいいでしょう。」

「退職理由で多いのは、同僚にイヤな人がいた、というものです。しかし、どこの会社にもイヤな同僚は必ずいます。私が働いてきた4社にも、セクハラまがいの気持ち悪いことをしてくる上司をはじめ、必ずそういう人がいました。イヤな人がいたときの克服法を教えてもらったので、それを皆さんにも伝授いたしましょう。輪廻転生の考え方では、この世の生きとし生けるものは何度も生まれ変わってきていると言いますね。会社のなかにいるイヤな人、ヘンな人というのは、人間に生まれ変わってきたのが初めてなんだ、と思いましょう。前世は虫かなんかだったのかもしれませんが、人間に生まれてきたのは初めてなので、どう振る舞ったらいいかよくわからなくて、きっととまどっているんですよ。それはもう仕方ないですよね。だからそういう人は大目に見てあげるようにしましょう。こう考えるとけっこうどんなにイヤな人でも克服できます。」

「就活でも就職してからでも、とにかく大事なのはコミュニケーションスキルです。面接でもとにかく決まったことしか喋れない、棒読みの人とかがいます。何を聞かれても強引に、用意してきた答えにもっていってしまう人とか。相手との会話のなかで臨機応変に受け答えができないと、この人といっしょに働こうと思ってもらえません。コミュニケーション能力を高めるよう日々心がけてください。」

・クルンボルツのプランド・ハプンスタンス・セオリーについて
「キャリア・カウンセリングの世界では、クルンボルツという人の、プランド・ハプンスタンス・セオリー (planned happenstance theory) というのがあります。予期せぬ出来事が生じたときに、それをしかたのないものとして受け止めて、それを機会として積極的に行動することによって未来を切り開いていこう、という考え方です。私の人生もそうでしたが、まったく予期せぬこと、望まないことが突然起きてしまいます。それをどう受け止めるかが大事です。なんでこんなことになっちゃったんだろうとクヨクヨ悩むのではなく、おかげで新しいことにチャレンジできるぞ、くらいの精神的なタフさがあれば、人生なんとかなっていくものです。」


いやあ、本当に示唆に富むお話でしたが、
こうして文章化してみると、やはり私がそうとう勝手に言葉を足してしまっている気がいたします。
しかしまあ、趣旨はそんなに違ってはいないはずですので、
これからみなさんが就活をしていく際に、
あるいは就職したあとにも、ぜひこの話を思い出して活かしていただければと思います。
Mさん、経験に裏打ちされた深イイ話を本当にありがとうございました。

脳死・臓器移植の実施件数

2010-06-20 17:13:27 | 生老病死の倫理学
理工学類の樋口良之先生と2人で担当している、
共通領域 (いわゆるパンキョー科目) の 「倫理学」 ですが、
先週から私の番になり、脳死・臓器移植について詳しく論じているところです。
まずは脳死と臓器移植に関する歴史的経緯を説明させてもらいました。
1968年の和田移植の影響により長らく日本では脳死・臓器移植はタブー視されてきました。
30年ほどの停滞があったのち、今からほんの十数年前の1997年、
現行の臓器移植法がやっと成立・施行されました。
昨年、その改正法案が通ったということは、
このブログでもご紹介しましたが、
間もなく今年の7月17日から施行されることになります。

さて、授業のなかでは、学生の皆さんに、1997年の臓器移植法の施行以来今日までに、
日本では何件の脳死・臓器移植が実施されたと思うか、予想してもらいました。
現代の脳死・臓器移植では1人のドナーから、
心臓や肺や肝臓など複数の臓器が提供され、複数のレシピエントが救われるわけですが、
1人のドナーから何人のレシピエントが臓器を提供受けようが、
それをひっくるめて1件と数えることにして、
これまでに何件の脳死・臓器移植が行われたか (つまり何人の脳死者が臓器提供したか)、
を予想してもらったのです。
みなさんはその数字をご存知でしょうか。
ご存知なければぜひ予想してみてください。
日本ではこれまでの約13年のあいだに何件の脳死・臓器移植が行われたでしょうか?






















学生で正確に知っている人は1人もいませんでした。
私だって最新のデータを常にチェックしているわけではありませんので、
それは別にかまいません。
それにしても彼らが予想した答えはまったくバラバラでした。
思わずほほ笑ましくなるくらいです。
一番多めに見積もった答えは30,000件でした。
30,000という数字を書いた学生は2人いました。
一番少なく見積もった答えは3件でした。
たしかに最近いちいち脳死・臓器移植が行われてもあまり報道されなくなっていますが、
それでもニュースでこの話題に接する機会はもっとあったんではないかと思いますが、
そもそもニュースなんて目にしていないのでしょうか。
さすがにその答えは1人だけで、
続いて10例、30例という答えがやはり1人ずつくらいありました。
学生の予想で一番多かったのは、1,000件から3,000件あたりの答えでした。
続いて3ケタの予想と5ケタの予想が同数くらいだったでしょうか。
皆さんの予想はどれくらいだったでしょうか。

脳死・臓器移植の実施件数について調べるためには、
「日本における臓器移植の歴史」 というサイトが一番見やすいのですが、
残念ながらここには昨年末までのデータしか載っていません。
昨年末までに実施された脳死・臓器移植は83件です。
最新のデータが載っているのは、日本臓器移植ネットワークによる、
「移植に関するデータ」 というページです。
ここは、ちょっと数を確認しづらいのですが、わりと最初のほうに小さい文字で総数が説明してあり、
またはデータに振られた番号を見てみると、これまでに何例行われたかがわかるようになっていて、
現在までに、86例の脳死・臓器移植が行われたということがわかります。
今年に入ってから3件の新たな脳死・臓器移植が行われたのですね。

というわけで答えは86件でした。
いかがでしょうか。
13年で86件です。
予想よりもはるかに少なかったという方がおおかただったのではないでしょうか。
年間10件に満たないペースです。
内訳は以下の通りです。

1997年  0件
1998年  0件
1999年  4件
2000年  5件
2001年  8件
2002年  6件
2003年  3件
2004年  5件
2005年  9件
2006年 10件
2007年 13件
2008年 13件
2009年  7件
2010年  3件 (現在までのところ)

臓器移植法の施行後1年半ほどは脳死・臓器移植は行われませんでした。
1999年の高知での第1例のあとも年間10件に満たない提供数でした。
2006年に初めて2ケタに乗り、その後順調に増えていくかと思われましたが、
昨年は再び2ケタを割り、今年ももう半年が過ぎようとしているのにまだ3件だけです。
国民の8割が脳死・臓器移植をよいことと思っているにもかかわらず、
施行以来たったの86件しか行われていないというのはたしかに少ないと言っていいでしょう。
こうした現状を承けて昨年の法改正が行われたわけですが、
7月以降、実施数は爆発的に増えていくのでしょうか?
私は個人的には今回の改正には反対の立場ですが、
今後、実施数や国民の意識がどのように変化していくのか見守っていきたいと思います。

ルーツへの旅 (その6) ・ 結婚20周年の記念の品

2010-06-19 23:56:18 | 性愛の倫理学
うちは去る6月17日 (木) に結婚20周年を迎えました。

うーん、もう20年ですか。

早いものですね。

そのうち16年間は単身赴任です。

最初の4年間だけ一緒に暮らして、残りの8割は別居生活です。

よくぞこれだけ続いたものです。

たいへんめでたいのでお祝いしなければなりませんが、

木曜日なんていう完全なウィークデーに上京するわけにもいかないので、

2日遅れの本日、それぞれの両親 (小野原のほうは父の代わりに母方の伯母) を招いて、

簡単なお祝いの会を催しました。

こういう変則的な結婚生活というのは、それぞれの家の理解がないと続かないものです。

そのような感謝の意味を込めて、家族で写真撮影をし、食事会を催しました。

食事会から家 (東京の新居) に戻ってきて、

2人で買った記念の品を披露しました。

それが、有田の 「チャイナ・オン・ザ・パーク」 で買ってきた、

深川製磁のワインクーラーです。

ご覧頂いているとおり、桐の箱つきで、

しかもくっきりはっきりと 「ワインクーラー」 と記されていますので、

見間違いようがありません。

中身はこんな感じです。

有田らしい染め付けです。

当然のことながら職人さんの手描きで一品ものです。

「支那山水」 という柄になりますが、

この中国人のおじさんの表情がかわいらしくって、一目惚れしてしまいました。

まあ、はっきりいってお高いです。

50%引きだというのに6桁は下りません。

ワインクーラーごときにこんな金額をかけるのかと親族からもあきれられましたが、

しかし20周年なんてとってもめでたいことですので、若干の贅沢は許されるでしょう。

ふだんは部屋の中心部に飾りつつ、

みんなを呼んでのパーティのときにはワイン2本と氷をガンガンとぶちこんで、

実用的に使い倒してやろうと思います。

器というのは使ってナンボです。

後生大事にしまいこむのではなく、元を取れるまで使いまくろうと思います。

今日のこの日にギリギリ間に合って届けられたのですが、

このワインクーラーのお披露目をもって、

延々引っ張り続けてきた 「ルーツへの旅」 のシリーズを終了させていただこうと思います。

ほとんど17回忌のことは記憶の彼方になってしまいましたが、

これだけブログネタをいろいろと提供してくれた父には、

もう一度感謝をこめて手を合わせたいと思います。

ルーツへの旅 (その5) ・ 陶磁器の町、有田

2010-06-18 23:59:59 | 人間文化論
有田焼ってご存じでしょうか?
有田は陶磁器で有名な町です。
有田焼は知らなくとも、伊万里焼や古伊万里という言葉は聞いたことがあるかもしれません。
実は伊万里焼というのは伊万里で作られたわけではなく、
有田焼をはじめとする九州の焼き物が伊万里の港から各地へ送られていたために、
それらを総称して伊万里焼と呼ばれていたにすぎません。
したがって伊万里焼と呼ばれている焼き物のうちの主要部分は有田焼なのです。
以前にご紹介した深川製磁も有田焼ですし、
柿右衛門、源右衛門、今右衛門といった有名どころもすべて有田焼です。

幼い頃から有田焼に囲まれていたということもあるかもしれませんが、
うちの家族はみな有田焼が大好きです。
ですので、法事という数少ない九州旅行のチャンスには、
必ず有田を訪問するようにしています。
しかも有田ではゴールデンウィークに 「陶器市」 というのが開かれています。
これはニュースにもなるくらいものすごい人出になるのですが、
上述したような有名メーカーが、二級品、三級品を格安で放出するのはもちろん、
床屋さんや八百屋さんも含めて有田じゅうのお店が、
ゴールデンウィーク中は臨時の陶器店となって、
あちこちからやってきた陶器商が有田焼をものすごいプライスダウンで売りまくるのです。
で、うちの父の祥月命日は6月28日だというのに、
3回忌、7回忌、13回忌はいずれもゴールデンウィーク中に行い、
法要の後にはみんなで 「陶器市」 に出かけていたのです。
(母の言によると、法事を前倒しでやるのはOKなのだそうです。)

特に前回の13回忌のときは、今のマンションへの引っ越しが決まっていましたから、
それはもう買って買って買いまくりました。
食器類は収納場所が必要ですので、許容量を超えるともう買い足すことができなくなります。
前の家ではすでに飽和状態に達していたのですが、
ちょっと広い家へ引っ越し、食器棚も強化されることがわかっていたので、
存分に買うことができたわけです。
ところがそれによってすでに引っ越し先においても飽和状態に達してしまったので、
今回はもうそれほど買うことができません。
いくつか必要なものはあったのですが(福島というよりもむしろ東京のほうで)、
買い足せるのはほんのわずかです。
そう判断したのはうちだけではなかったようで、
そのため、今回は 「陶器市」 には行かなくてもいいんじゃないという話になり、
それゆえ6月のツアーということになったのです。

「陶器市」 の時期は人でごった返しますので、クルマで行くなんて考えられませんが、
今回はレンタカーを利用しました。
見慣れた光景とはまったくちがい、すいすいクルマで走れるので驚くほどです。
「陶器市」 は、有田駅と上有田駅のあいだの数㎞の通り沿いに展開されるのですが、
今回はレンタカーですので、その通りからけっこう離れたところを攻めていきました。
まずは大好きな深川製磁がやっている 「チャイナ・オン・ザ・パーク」 を訪ねます。
ここにはアウトレットがあって、二級品を格安で販売しています。
そればかりでなく、わけありの一級品を50%オフで売っていたりもします。
そのなかに一目惚れしてしまう一品を見つけてしまったので、
そうとう悩んだ末にとうとう購入してしまいました (これに関しては明日にでもまた書きます)。

つづいて、「有田陶磁の里プラザ」 に向かいました。
別名 「有田焼卸団地」 とも呼ばれているように、
20軒以上もの陶商が軒を並べる一大ショッピングモールです。
どの店でも常時、一級品を3割引くらいで販売していますし、
なかには奥のほうで二級品をさらに安く売っているお店もありますので、
言ってみれば 「万年陶器市」 状態です。
せっかく 「陶器市」 の時期を外したというのに、これでは元も子もありません。
あれもこれもと手が出そうになるのを必死でこらえながら、
店から店へと渡り歩いてゆき、ものすごい時間がかかってしまいました。
ここでは自分用のお土産として焼酎カップだけを買いました (冒頭の写真です)。
最近の焼酎ブームに乗って、焼き物の世界でも焼酎カップ (グラス?) が流行っているらしく、
さまざまな形状のものが売られていましたが、
キハラという会社の 「香酒盃」 というのがあり、
実際に店頭に、普通の焼酎カップとこの香酒盃とにほんの少し焼酎を入れて置いてあって、
香りを比べてみると断然違っていたので、
この手の実演販売 (ただ置いてあっただけですが) に弱い私としては、
これは買って帰られねばと、今回の旅の記念品に決定しました。

最後は時間が中途半端に余ってしまったので 「九州陶磁文化館」 を訪ねることにしました。
ところが、まったく期待せずに行ったにもかかわらず、
ここは旅の締めとして最高の場所でした。
朝鮮半島から陶磁文化が日本に伝えられた歴史や、
特に、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに連れ帰ってこられた李参平が有田焼の祖であることなど、
日本の陶磁文化の歴史を学ぶことができるとともに、
17世紀における発祥以来の代表的な有田焼の作品が系統的に展示されており、
見ごたえ十分でした。
飛行機の時間があったために最後のほうは駆け足で回らなければならなかったのが、
たいへん悔やまれます。

今回の有田の旅は、これまでの旅とちがい、
非常に落ち着いた雰囲気で過ごすことができました。
やはり 「陶器市」 のときはあまりにも人が多すぎて、それはそれでにぎやかでいいのですが、
この歳になるとちょっともう疲れてしまいます。
しかも陶器でいっぱいになったリュックを背負って、
ずっと歩いていなければならないというのは老化が進んだ私たちにはキツイものがあります。
わざわざ 「陶器市」 に行かなくとも、掘り出し物に出会えるということもわかりましたし、
次の23回忌のときもたぶんゴールデンウィークは外すことになるでしょう。
というわけでわざわざ 「陶器市」 のときでなくともいいと思いますので、
佐賀県にお越しの際は (佐賀に用があることってそうそうないと思いますが…)、
ぜひ有田まで足を伸ばしてみてください。
もちろん、宿泊は嬉野温泉や武雄温泉でどうぞ。

ルーツへの旅 (その4) ・ ホタル狩り

2010-06-17 14:07:18 | グローバル・エシックス
せっかく嬉野温泉に来たのですから、嬉野温泉に泊まっていきたいところですが、
2日目は有田に行く予定ですので、初日のうちに少しでも有田に近づいておきたいところです。
残念ながら有田には宿泊施設がありませんので、
JRで有田から2駅のところにある武雄温泉に泊まることにしました。
武雄温泉の宿に関しては、
北海道在住で小学1年生を抱えているため今回は不参加だった妹が、
手配しておいてくれました。

妹は、あらかじめ詳細な 「旅のしおり」 を作成して届けてくれていましたので、
その指示通り、法要会食のあと嬉野から武雄までバスで移動しました。
武雄のバス停に着いたら、やはり 「旅のしおり」 の指示にしたがって宿に電話をし、
クルマで迎えに来てもらいます。
やってきたのはご覧いただいているようなクラシックカーでした。
トヨタの初号機のレプリカだそうです。
このクルマで送っていただいた先が今日の宿 「大正浪漫の宿 京都屋」 さんです。
宿の名前についてもお尋ねしてみたところ、
初代の創設者が京都からこの地に渡ってきて作ったためにこの名前になったのだそうです。
「大正浪漫の宿」 を名乗るだけあって、ロビーや喫茶コーナーには、
アンティークな家具が数多く陳列されています。
またアンティークオルゴールもいたるところに置かれていて、
コーヒーを頼んだり、何かの折りにはオルゴールの演奏も聞かせてもらえます。

しかし、そうしたサービスよりももっと感激したのは、
夕食終了後、十分に暗くなった夜の8時半からホタル狩りに連れて行ってもらえたことです。
ホタルはこのあたりからも長いこと姿を消していたのだそうですが、
最近では環境整備の取り組みを進めて、
野生のホタルが還ってこられるような環境を人工的に整えていき、
とうとう野生のホタルが繁殖するようになったのだそうです。
野生と人工とが入り交じっていてややこしいですが、
ホタルというのは完全なる大自然のなかにはあまり生息せず、
人里離れていない、田園風景のなかの小川や用水路のほとりとかが好きなのだそうです。
しかし、田畑で農薬が大量に使われるようになって姿を消していたのだとか。
そこで、小川をきれいに清掃し、近隣での農薬の使用を控えるなどして、
ホタルの里を復活させつつあるのだそうです。

行きたい人は8時半にロビーに集合してくださいとのことでしたが、
参加者は意外なことに私たちを含めてたったの5名でした (うちは3名)。
この5名が、これもレトロなバスに乗せられて、
およそ5分強、住宅地からもそんなに離れていない小高い田園地帯に運ばれました。
それ用に駐車場も作られていて、多くのクルマがやってきていますが、あたりは真っ暗です。
蛍光灯をもっている人が何人か立っていて、うっすらと足下を照らしてくれるだけで、
基本的には眼を凝らしながら川べり (用水路?) の舗装された道をゆっくり歩いていきます。
歩き始めてすぐに、あれっ? なんか光ったかな? と思っているうちに、
薄緑の光が点々と見えてきました。
ホタルなんて見たのは何年ぶり、いや何十年ぶりでしょうか。
この弱々しい光はまさに 「儚い」 という形容詞がふさわしいですね。
あいにく小雨が降り始めたところでしたので、それほど大量にいたわけではありませんが、
むしろこれくらいの数のほうが興趣にかなっていたといえるでしょう。

当然のことながら、写メには何も写りませんでした。
最新式のカメラをもっていたらこの光景を写すことができたのかもしれませんが、
最近なんでも写メに撮って記録を残すことばかりに気を取られがちなところ、
こうして目に焼き付けるしかない美しい光景に接することもたまには必要なのでしょう。
自然と人工の微妙なバランスの上に成り立つこの儚い風景、
まったく期待していなかっただけに、
この旅でこんなステキな出会いができて、とても嬉しくなりました。

P.S.
なお、いちおう補足しておきますが、「ホタル狩り」 といっても、
ホタルを捕るわけでも、ましてや食べるわけでもありません。
ただホタルを見るだけです。
「モミジ狩り」 と同じ用法ですね。

ルーツへの旅 (その3) ・ お茶どころ嬉野

2010-06-16 15:08:38 | 幸せの倫理学
嬉野は温泉地であるとともに、お茶どころとしても有名です。

今は新茶の季節ですから、お茶もお土産に買ってきました。

(見にくいかもしれませんので拡大写真もアップしておきます。)

ところで、昨日書いた 「ホテル桜」 の和風レストラン 「花月」 ですが、

テーブルに置いてある紙ナプキンが、普通の白いやつではありません。

ホテル桜のオリジナルナプキンなんですが、なんだかうすーく緑色がかっています (写真参照)。

使うとかすかにお茶の香りがします。

よく見てみると小さな字で 「このナプキンは、茶殻を再利用しています」 と書いてありました。

これはステキなアイディアだなあと思い、ちょっと欲しくなって、

すぐに 「花月」 を出て、隣の売店に行ってみますが、売り場には置いていません。

お店の人に、「花月に置いてある紙ナプキンはお茶の香りがしてとてもいいですね。

ちょっと買って帰りたいんだけれど売ってないんですか?」 と聞いてみたところ、

「売ってはいないんです。でも、よろしかったら差し上げますよ。」 と言ってくださり、

花月のレジカウンターのなかから1袋 (たぶん100枚入り?) 出してきて、くださいました。

うーん、なんでも言ってみるもんだ。

家族からは 「どこに行っても自由だなあ」 と呆れられましたが、

ユーミンじゃないけれど、「欲しいものは欲しいと言ったほうが勝ち」 ですので、

私としては大満足です。

お茶の香りの特製紙ナプキンも、嬉野土産として持ち帰ってくることができました。

今うちに遊びに来てくれたら、ナイフレストの代わりに、

このナプキンの上に、お箸やカトラリーを並べてさしあげます。

もちろん食後には嬉野茶です。

近くまでお越しの際はぜひお寄りください。