まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.最終的にどんな学者になりたいですか?

2015-10-30 18:20:51 | 哲学・倫理学ファック
本日、白河から一週遅れで郡山の看護学校も講義終了いたしました。

これで今年度の非常勤の授業はすべて終了です (採点はすべて残ってるけど…)。

お祝いに郡山駅ビル内の 「サイゼリア」 でプチ打ち上げしてきました



さて、講義は終わりましたが最初に申し上げたように皆さんの倫理学はこれで終わりではありません。

これからも正解のない問いをずっと考え続けていってください。

皆さんに最初にいただいた質問にもまだ全部答え終わっていません。

答えやすい問いにはあらかたお答えしてしまいましたので、

ちょっと答えにくい質問ばかり残っていますからこれまでのようなペースで書くわけにはいきませんが、

今後も急に思い出したようにブログに書くかもしれませんので、

たまにはこのブログにもお立ち寄りください。

今日の問いもいろいろと答え方がありそうなので、

どう答えようかなあと悩んで後回しにしていたものです。

で、いろいろ考えた結果やっとひとつの答えに落ち着いたので、それをお答えしておくことにします。

ただ最終的にたどりついた答えは、実はすでにこのブログに書いたことのある答えでした。

そんなことならとっとと例の 「倫理学FAQインデックス」 に載っけて、

「ブログ参照」 としておけばよかったようなものですが、

この答えに落ち着くまでに時間がかかってしまったので申しわけありませんでした。

その答えはこれです。


A.私は最終的にはタッチャブルな学者になりたいです。


「タッチャブル」 という言葉は今年皆さんからいただいた、

「Q.自分が人に与えている印象はどんな感じだと思いますか?」 という質問に答えたときに、

すでに使ったことがありますし、

3年近く前にそのまんま 「タッチャブルな人間」 という記事を書いたこともあります。

それらのなかではこんなふうに 「タッチャブル」 を説明しておきました。

「アンタッチャブルが 『近づき難い』 という意味だとすると、

 タッチャブルはその正反対で、『近づきやすい』、『手が届きやすい』 という意味になります。」

「学者然、教授然とした手の届かない存在ではなく、

 気軽に話しかけられて、何でも聞くことができ、何でも相談できるような、

 そんな教員でありたいと思っています。」

これらの記事を書いたとき、どちらかというと学者としてというより教員として、

タッチャブルな教員でありたい、という自分の願望を書いていました。

なので、今回の質問のように 「どんな学者になりたいか」 と聞かれたときに、

「タッチャブル」 という言葉もうっすらと頭のなかに思い浮かびながらも、

学者 (研究者) としても本当にそうありたいのか、

学者としては別の理想像があるのではないか、という迷いがあってずっと逡巡しておりました。

やはり第一線の学者・研究者としては、これまでの長い哲学・倫理学の蓄積の上に立って、

一般の人では及びもつかないような学問の高みを目指したい、

その意味で 「アンタッチャブルな学者」 でありたいという願望もないわけではないのです。

そういう思いもなきにしもあらずだったのでずっと悩んでいたのですが、

今回の質問には 「最終的に」 という限定が付いていましたので、

最終的に目指すところとしてはやはり 「タッチャブルな学者」 というところに落ち着きました。

どれだけ最先端の高度な学問研究を打ち立てることができたとしても、

(それ自体可能かどうかはなはだ疑問ですが…

私の目標はそれでおしまいではなくて、それを現実社会に活かす道をも提示し、

一般の皆さんにわかりやすく伝え、共有していくところまで追求していきたいと思います。

ジョン・レノンの 「イマジン」 から出発した私としてはやはりそこを目指したいと思うのです。

「てつがくカフェ@ふくしま」 の活動に取り組んでいるのもたぶんその一環なんだろうと思います。

「タッチャブルな教員」 というのはすでにある程度実現できている気がするのですが、

その上さらに、最終的に 「タッチャブルな学者」 にもなれるのか?

まさおさまの今後の健闘にご注目ください。

7回の講義にお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。

お互いに自分の理想を実現できるよう頑張りましょう

21年ぶりの東北哲学会@福島大学

2015-10-29 20:32:02 | 哲学・倫理学ファック
このあいだの週末は福島大学で東北哲学会が開催されました。
東北哲学会は、東北大学大学院で哲学・倫理学を専攻した人たちを中心として、
東北一円の大学で哲学・倫理学の教員をやってる人たちも加えたメンバーで構成される学会です。
したがって事務局は東北大学に置かれていて、東北大の教授や助教の方々が事務局を構成し、
学会の開催は、1年おきに東北大学とその他の5県のローテーションで行っています。
わかりますかね?
東北大学 → 岩手県 → 東北大学 → 青森県 → 東北大学 → 秋田県 → ………みたいな感じです。
この調子でいくと福島には10年に1度開催機会がめぐってきます。
何年か前にちょっとイレギュラーに新潟大学で開催したことがあったので、
今回の福島開催は11年ぶりだそうです。

その前が21年前。
ちょうど私が福島大学に赴任してきた1994年が福島大学での開催でした。
わけもわからないまま入会させられ、発表させられたのを覚えています。
(「カントの良心論 ―神へと至るもう一つの道―」 → 7年後に論文化
東北哲学会は2日間開催され、最後は特別講演となるのが慣例ですが、
その年は私の前任者の明珍昭次先生の講演でした。
現象学と宇宙論を繋ぐ壮大なお話だったことを覚えています。
で、そのときの学会準備は、私の同僚というか大先輩であった哲学教授、
内田詔夫先生がほとんど1人でやられていました。
私も案内板を立てたりといった力仕事で少しはお手伝いしましたが、
内田先生は年下の私を子分のようにこき使ったりするタイプではありませんでしたので、
私が 「何でもしますから言いつけてください」 とお願いしても、
「小野原先生は発表があるんだからそちらに集中してください」 と言って、
学会準備の事務作業等はほとんど自分で引き受けてくださいました。
内田先生のそうしたお人柄を思い出すと心温まる思いがしますが、
おかげで今回は学会準備に何をすればいいのか頭が真っ白だったので、
あのときもうちょっとお手伝いというか、ちゃんと準備に関わっておけばよかったと後悔しました。

というのは前回11年前の福島開催のときは、すでに内田先生も退職されたあとで、
本来ならそのときに私がひとりで東北哲学会を受け入れなければいけなかったはずですが、
とにかく福島大学は地の利が悪いので学会開催には不向きだなあと考えていたため、
福島県立医大の福田俊章先生と一緒に画策して、
当時、桜の聖母短期大学に東北哲学会会員である小笠原正薫先生がいらっしゃったので、
小笠原先生に頼み込んで桜の聖母で開催していただいたのです。
若干駅から離れてはいますが、駅まで歩けない距離ではないですし、
1時間に1本の電車でわざわざ金谷川まで来ていただくよりは便利だろうとお願いしたわけですが、
とてもいいキャンパスで会員の皆さまにもたいへん好評でした。
お願いするときには、私と福田先生で学会準備作業は何でもしますからと頼み込んだのですが、
結果的には小笠原先生がすべてお膳立てしてくださり、
私たちはただのお客さん状態で参加させていただきました。
唯一貢献したことと言えば、懇親会終了後の2次会会場までの道案内と店の選定くらいで、
忘れもしませんが、皆さん歩き疲れていたので、
繁華街に入ってすぐに目に付いた一見のお店に飛び込み、
狭い座敷にぎゅー詰めになって2次会を楽しみました。
それが私の日本酒の師匠の店 (「麦のはな」) との出会いでした。
当時はまだ師匠のお母さんがご存命で、1人でお店を切り盛りしていらっしゃいました。
その後は常連になりましたが、出会いは東北哲学会だったんだよなあと今でも時々思い出します。

おっと、話が逸れてしまいました。
そんなこんなで3回目の福島開催となるわけですが、
事務局から依頼を受けた当初は福島大学での開催を相当渋りました。
地の利の悪さはいっこうに解消されていないからです。
それと、今度こそ私1人で学会準備をしなきゃいけないと考えてみた場合、
地の利の悪さばかりでなく、胃の利の悪さもあるなと気がつきました。
勝手に造語してしまいましたが、要するに昼食をどうやって摂ってもらうかという問題です。
土曜日は大学生協の食堂が開いていますから問題ありませんが、
日曜日は購買部は開いているものの食堂の類いが学内にありません。
駅前の 「たんぽぽ」 や 「たまごカフェ」 も日曜日は休業です。
開店したばかりの 「中華蕎麦 こばや」 は日曜もやっているようですが、
噂によるとけっこうはやっているようなので、会員の皆さんが大挙して押しかけてしまうと、
皆さん、午後の部に戻ってこられないかもしれません。
そんな諸々を考えてみると、福島大学での開催はあまり現実的ではないような気がします。
とはいえ、小笠原先生ももう定年退職されていますので、桜の聖母も使えません。
福島駅周辺の会場を借りて開催することはできないでしょうかと事務局に尋ねてみましたが、
学会予算も潤沢ではないのでそれは難しいですと却下されました。

というわけでけっきょく21年ぶりに福島大学での開催が決定しました。
事務局の方とメールで入念なやりとりしたところ、
心配したほどにはこちらの準備作業はないようでした。
当日の受付なども東北大学の院生さんたちがやってくださるので、
こちらでバイトとかを雇う必要もないようです。
当日のお弁当の手配やグリーンでの懇親会の手配も全部事務局任せですみました。
こちらがやったことは会場の部屋を借りたり、その貸出料金を免除してもらうために、
福島大学に後援してもらうための手続きをとったりすることでした。
それから地の利、胃の利の不便さを補うためにこんなプリントを用意しました。



片面は生協で配っている金谷川駅の時刻表です。
これが地の利対策。
要するに自己責任で東北本線に乗り遅れないようにしてね、というだけのことです。
その裏に自作のこんな地図を組み込みました。



大学・駅近辺の数少ない食事処の案内です。
まあこれも、日曜日はほとんどどこも開いてないから自己責任で何とかしてね、です。
私は両日ともお弁当を注文していたので昼食には困らなかったのですが、
お弁当を注文していなかった会員の皆さんがどうされたのかまったく知りません。
どなたからも何の苦情も来なかったのできっと何とかされたんだろうと思いたいです。

あともうひとつの仕事は21年前にもやった案内板の掲示です。
今回、会場は共生システム理工学類後援募金記念棟にしたのですが、
駅からそこまで会員の皆さんを誘導しなければなりません。
この件に関してはあらかじめ学類支援室や入試課の方に相談したところ、
学内各所に立ててある 「試験場 福島大学」 という矢印付きの掲示板に、
A3の紙にパウチ加工して張ればいいと教わりました。
金曜日は看護学校の非常勤で1日留守にしていますので、
木曜日の夜にこの作業を1人で行いました。



パウチ加工までした時点ではなかなかのいい出来と得意げになっていましたが、
実際に屋外に掲示してみると意外と文字が小さくて見にくいことが判明しました。
夜だからよけい見にくいのかもしれませんが…。
昼間はこんな感じです。



うーん、やっぱり字はもっと思いっきり大きくしたほうがよかったですね。
10年後には気をつけたいと思います。
この案内板で総合教育センターと理工学類棟の間へと誘導し、
最後にこんな掲示を立てておきました。



会員控室と委員会室は理工学類棟の中へ、発表会場は後援募金記念棟です。
東北哲学会は個人研究発表も小会場に分けたりせず、
シンポジウムもすべて発表会場はずっと1つだけです。
共生システム理工学類後援募金記念棟というのは今回使わせていただくことになって、
私も初めて中に入ってみました。
21年前はもちろん11年前にもこんな建物はありませんでした。
というか共生システム理工学類自体がまだ存在していなかったのです。
(正確には11年前の10月には存在していましたが、学生が入ってきたのは翌年の4月から。)
この後援募金記念棟は会員の皆さまにたいへん好評でした。



いつもの大きな看板の代わりにドアに内側から養生テープで貼る形で掲示を出しました。



建物に入ってすぐのところに受付を設営します。



そして、いよいよ東北哲学会第65回大会が始まりました。



やはり地の利の悪さのせいか、開会挨拶をする先生が5分ほど遅れていらっしゃいましたが、
初日の会の進行には何ら問題はありませんでした。
午前中は両日とも個人研究発表です。



マイクやパワーポイント用のプロジェクタもひじょうに使い勝手はよかったですが、
それほど大きい部屋でもないので地声の大きい人はマイクから離れて発表していました。
実は、初日の午後に私も特別報告ということで、
「『てつがくカフェ@ふくしま』 における哲学的対話の試み」 という発表をさせていただきました。
福島大会へは参加予定者も少なく発表希望者も少なかったということで、
事務局からてつがくカフェ関係で発表をお願いしますと依頼されたのです。
これも開催校だしムリといったん辞退し、前述の福田先生に振ろうとしたのですがすげなく断られ、
けっきょく静岡のときや高千穂のときのを元にして何とか発表を終えることができました。
会員の皆さんからは、哲学カフェにおける哲学的対話とはいかなるものかという原理的な問いや、
実際に哲学カフェを始めたり運営したりするにはどうしたらいいかという実践的な問いまで、
刺激的な質問をたくさんいただきました。
ちょっと尻込みしていましたが、こういう機会を与えていただきどうもありがとうございました。
自分の発表のときの写真は撮れなかったので、事務局からもらえたらそのうちアップします。



こちらは初日最後のシンポジウムの様子です。
ハガキで参加を表明していた方は少なかったそうですが、
最終的にはけっこうたくさんの皆さまにお集まりいただくことができました。
懇親会はレストラン 「グリーン」 で開催しました。



先日の熊本大学で開催された日本倫理学会の懇親会が素晴らしかったので、
それと比べると福大生協のパーティメニューは明らかに見劣りがしていましたが、
今回の参加者で、日本倫理学会にも出席していた人はあまりいらっしゃらなかったようで、
苦情とかがもちこまれることはなく助かりました。
懇親会は18時から20時までの予定でしたが、20時20分の電車を逃すといけないので、
少し早めにお開きにし、乗り遅れる人のいないよう気を付けました。
急に雨が降り出したので2次会はできるだけ駅に近いところということで、「庵ぐら」 にしてみました。
懇親会では福島らしいメニューとしては会津こづゆだけでしたので、
2次会でいくらか福島の郷土料理を召し上がっていただきました。
2次会を11時すぎまで楽しんで解散しましたが、
まだ飲みたいと言い張る愚か者がいて、この時間に開いているお店も思いつかなかったので、
2名ほど我が家に招いてさらに飲んでしまいました。
これは完全に失敗でした。

翌朝、なんと私は寝坊してしまいました。
開催校だというのになんという失態でしょう。
しかし、こんなこともあろうかと会場のカギを事務局の方に預けておいたので事なきを得ました。
しかもその日は強風のため東北本線が遅れてしまいました。
福島の交通の便の悪さのなかでも、ちょっと雪が降ったり風が吹くと電車が遅れるという、
恐れていた最悪の面を露呈してしまったわけですが、
このため2日目の開会時間は30分遅れることになり、
なんとそのおかげで私は大会には間に合ってしまいました。
もちろん事務局の方々は車で定刻通りに来ているので、
会場のオープンには間に合わなかったわけですが、
それはまあカギを預けてあったのでノープレブレムですし、
大会にも間に合ったし奇跡の結果オーライです。
2日目はおかげで全体に押してしまいましたが、
何とか皆さんの電車の時間に間に合うように終了することができました。
東北哲学会の会員の皆さま、
こんな不便なところに東北各地からお集まりいただきありがとうございました。

あれ? 治ってる

2015-10-28 21:10:11 | 生老病死の倫理学
この2月からかかっていた五十肩ですが、なかなか治らずずっと引きずっておりました。

「天神マッサージ」 に行ったり、接骨院に行ったりもしましたが、

治療を受ければそのときは若干回復するものの、まったく完治する気配はありませんでした。

9月の健康診断のときには問診で 「五十肩が2月からずっと続いています」 と申告したところ、

「ちょっと長いですね。でも五十肩はいずれ治ります。

 問題は治ったときに可動域が小さくなってしまうと困るので、

 多少痛くてもできるだけ肩を動かすようにしてください」 とのアドバイスを受けました。

そう言われたからといって特に何かを頑張ったわけでもなく、

したがってその後もなかなか治る気配がなかったんですが、

先日ふと気づいてみたら五十肩がなくなっていたのです。

いつ治ったんでしょう?

なんの前触れもプロセスもなくいつの間にかフェードアウトしていたので、

回復していたことにすらまったく気づきませんでした。

何があったんだろう?

五十肩ってこういうものなのかな?

ただひとつ思い当たるのは、半月ほど前に五十肩とは関係なく、

ものすご~く肩が凝ったことがあって、

もう生まれて初めてくらいの重度の肩こりでゲロ吐きそうなほどだったんですが、

そのときにネットでたまたま見かけて 「肩甲骨はがしストレッチ」 というものをやってみました。

こちら↓です。

「セルフ肩甲骨はがしストレッチ」 (和歌山の整体「廣井整体院」)

これがそのときの肩こりにはよく効いて、夜と朝の2回やったくらいで肩こりは解消していました。

その後別にこのストレッチを続けていたわけではありません。

たしかその後も五十肩は残っていたような気がしますが記憶ははっきりしなくて、

ひょっとすると肩こりと一緒に五十肩も治っていたのでしょうか?

とにかくふと気づくと五十肩は終了していたのでした。

それにしてもヒザ骨折したときもそうだったけど、

ぼくは快復力が劣っていて、フツーの人よりも倍くらい時間がかかるようです。

150歳まで生きなきゃいけないのにこんなことじゃイカンなあ。

やっぱり少しは身体にいいこと心掛けなきゃいけないかもなあ。

白河看護学校 「倫理学」 終了2015!

2015-10-26 11:01:41 | 教育のエチカ
先週の金曜日、郡山よりも一足早く白河の看護学校の 「倫理学」 の授業が終了しました。
いつものように最後のワークシートの最後の問いでは、「倫理学」 の授業全体に対する感想と、
最後にやった積極的傾聴のワークに関する感想を書いてもらいましたのでご紹介しましょう。
なお、前期にやった相馬の看護学校の 「哲学」 の授業は、今年から1コマ増えたため、
新しいワークを増やしたりしなければなりませんでしたが、白河は今までどおりでOKでした。
では、まずは授業全体の感想から。


●人の生や死、看護のあり方など、医療の面だけでなく、「人」 としてたくさん学ぶことができた。

●本当にこの授業は楽しかったし、深い話もきけた。とても感謝している。とても有意義な時間だった。先生の哲学、倫理もっとききたかったです。ありがとうございました。

●倫理学ではとても学ぶことが多く、先生の授業をうけることができてよかったと思った。学んだことに対して、実習に行ったりするうちにもっと考えが深まっていくと思う。また、はっきりとした自分の考えを持つようにしたい。倫理の授業、たのしかったです。

●倫理学を学んで、少し大人?(精神的に) なれた気がする。自分で答えがないことを考えることも好きになれた。看護師はすばらしい職業だと思えた。倫理学を学べて良かった。ありがとうございました。

●倫理学を学んで、今まで深く考えたことがなかった死に関することや、人間に関すること、また看護師になるにあたってとても役に立つ話がきけて、すごく勉強になった。人間の一生により興味を持つことができた。

●倫理学は考えること・伝え方・文章にする力など頭を使うことが多くてパンクしそうだった。でも、看護師を目指す上で考えさせられること、学ぶことがたくさんあって、授業を受けてよかった。ありがとうございました。

●「倫理学」 って何だ、難しそう、とはじめは思っていたが、一番身近だけど気づかないこと、考えないことを改めて考えて自分の観を少しは育成できたと思う。看護師になった時に役に立つ考えが多々あり、もっと学びたいと思った。

●「倫理学」 の授業を受けて、今まであまり考えなかった死について、とても深く考えることができた。自分の考えを押し付けるんじゃなくて、相手の事も考えて相談に乗ったり話したりすることが大切なんだと感じることができた。ありがとうございました。

●倫理学の授業をうけて、とてもむずかしい問題ばかりで頭がおかしくなりそうだったけど、今まで心の奥にあった思いを発見して表に出すことができたし、考え方も変化があって、これから今までよりも生きている事を実感できるのではないかと思う。とてもむずかしくてイヤになりそうだったけどつまらないイヤではなく、とても興味深かった。看護師になるにあたって大きな影響を受けました。とてもおもしろい授業だった。小野原先生ありがとうございました

●倫理学の授業では、看護をする上で重要なことを多く学んだが、全ては 「看護師」 としてである前に 「人として」 どうあるべきかということにつながっていると学んだ。惰性で生きるのではなく、どのような事に対してもしっかりと自分の考えを持って人生を歩んでいくことが必要であると気付いた。毎回のワークシートを通し、自分の考えを文章化する力が身に付いた気がします。ありがとうございました。

●倫理学を受けて、普段の生活ではあまり考えないようなことを多く考え学んだ。特に死に対する話が多く、自分がどのように考えているのか見直すことができた。また、患者のためと思ってしたことが本当にその人のためかどうか分からないので、きちんと考えてから行いたいと思った。看護には正解がなく、いつでも考え続けなければいけない問題がつきまとってくると思うので、倫理学で学んだことを忘れずに看護師を目指したいと思った。


なかなかみんないいことを書いてくださっていて教師冥利に尽きます。
続いて積極的傾聴のワークについて。


●5分という長い時間しゃべれるか不安だったけど、他の2人がうなずいてくれたり、質問してくれたり、共感してくれたりしたので、思ったよりあっという間に時間も過ぎ、話してて苦しくなることはなかった。

●積極的傾聴をすると、相手の表現や声のトーンなどでその人がどんな事を思っているのかを普通に聞くよりはわかるかなと感じた。積極的傾聴をしてもらうと、自分の話していることに関心をもってもらえているような感じがしたり、何か安心した。

●普段の生活では話半分で聞いてしまったりしていたが、個人と向かって聞くことにより、何を言いたいのかが自然に分かった。積極的傾聴をしてもらった時は、尊重してもらえているなと感じたり、焦らず話して良いのだと感じたり、自分の話を真剣に聴いてくれてると感じた。

●傾聴をするということは、ただ聞くだけではなく、人の表情を観察したり、言った事を自分の頭の中で整理していく必要があると感じた。してもらって思った事は、目を合わせてうなずいてくれたり、質問をされたりすると、ちゃんと自分のことをきいてくれている、分かってくれているという安心感があった。

●積極的傾聴をした際に、人の目を見ることは大切だと感じた。相手の目を見て聴いたり、うなずいたりすることで、話の内容がよく自分の中に取り込まれると思った。積極的傾聴をしてもらって感じたことは、目を合わせることは少し恥ずかしいが、嬉しいということだ。また、あいづちややなずきがあることによって伝えようという自分の気持ちのモチベーションにもなると感じた。

●積極的傾聴をしてもらうと感じる事は、自分の存在を受け入れてくれている事である。姿勢を軽く向けてもらい、目線を合わせてもらっていると、自分に関心をもってくれていると感じる。普段から少しだけ意識をもって、自然と積極的傾聴ができるようになりたいと思った。

●まず、目を見て、うなずいてもらえるだけで、聞いている聞いていないなど関係なく、安心感を持って話をすることができた。しかし、表情が変わらないと不安を感じる点もあったため、自分が傾聴する際には表情の変化も取り入れながら傾聴した。

●積極的傾聴をしてもらって、とても話しやすかった。きちんと聴いてくれていると感じられた。積極的傾聴をして感じたことは、その人が一番伝えたいポイントで目が合うと分かった。

●言葉にしなくても、うなずいてくれてるだけでも、聞いてくれているということが伝わり、話しやすかった。共感したり、なるほどと思った時は、言葉にするだけで、相手も自分も目が変わるなと思った。

●うなずいてもらえたり、目を見て聞いてもらえたりして、受け入れてもらえている安心感がありました。傾聴をして共感したりうなずいたりする時に目を見て聞いてお互いに目だけでもコミュニケーションになっているなと思った。自分が看護をする際も積極的傾聴をして、目と耳と心で話を聞き入れたいと思う。

●積極的傾聴をしてみて、マイナスの言葉を反射することは難しかったし、相手を傷つけそうでなかなかできなかった。また、どの言葉がキーワードなのか見つけることが難しかった。積極的傾聴をされてみて、自分の言ったことを反射してもらうと、相手がちゃんと話をきいてくれている感じがして、気持がよかった。また、普段よりスラスラと言いたいことが出てきた。

●積極的傾聴してもらって、とても嬉しかった。あ、聞いてくれているんだなと思って、少しはずかしいなと思った事も話すことができた。「受け止められる」 ってこういうことなんだな、と思った。逆に聞いてみてとても勉強になったし、なんだか感動した。うけとめることができたと思う。


積極的傾聴ってべつに倫理学とは何の関係もないのですが、
キャリアカウンセラー (キャリア・ディベロップメント・アドバイザー) の資格を取ったときに、
一生懸命ロールプレイとかやって学んだので、
看護師の皆さんにも少しは役に立つのではないかと思い取り入れていますが、
なかなか好評だったようでよかったです。
最後にひとり、こんなことを書いてくれていた子がいました。


●先生! 14回の授業ありがとうございました! 先生のイメージはチェックのシャツって感じだったので、何人かで最後だからチェックでそろえよう!って着て来たのですが気づきましたか? おしくも今日の先生は無地のシャツだったので、授業のはじめ、みんなで笑ってしまいました 先生の授業は毎回楽しくて面白かったです! お世話になりました


申しわけない。
全然気づいていませんでした。
そういえば授業の最初に何人かがクスクス笑っていたような気はしますが…。
ぼくってそんなにチェックのイメージでしたか?
手帳で調べてみましょう。

第1回目 赤い無地のシャツ
第2回目 赤と白のチェックのシャツ
第3回目 紫の無地のシャツ
第4回目 緑のチェックのシャツ
第5回目 スーツ (シャツは遠目には無地に見える薄い紫のストライプ)
第6回目 デニムの無地のシャツ
第7回目 オレンジというか朱色っぽい無地のシャツ

チェックは2回だけだけどなあ。
それって多いほうですか?
まあ人間のイメージって回数ではないですからね。
おニューの白と黒のチェックのシャツを持っていたので、それを着て行けばよかったですね。
でも、最後にファッションまでぼくに揃えてくれようとしてくださってありがとうございました。
私のほうも最後まで楽しく授業をすることができました。
将来、重い病気にかかって皆さんが勤める病院にお世話になることがあるかもしれません。
その時はよろしくお願い申し上げます
それまでに、みんなが最後に誓ったとおりのステキな理想の看護師になっていてください
あと、皆さんから最初にいただいた質問にまだ全部お答えしきれていません。
そのうち書くかもしれないので、まさおさまのブログにも時々お立ち寄りください。

Q.先生の名前の由来は何ですか?

2015-10-22 18:56:28 | 哲学・倫理学ファック
こんな質問も初めていただきました。

「まさおさま」 が回文であると自己紹介したから、こんな質問をいただいたんでしょうか?

しかし、別にうちの両親は 「雅夫」 に 「様」 を付けると回文になるなあ、

それだったらきっと幸せな人生になるだろうなあ、なんて考えてこの名を付けたわけではありません。

というか、私の名前を付けたのはそもそも両親ではないのです。

今回改めてこの質問にお答えするにあたってわざわざ母親に由来を聞かなければなりませんでした。

私の名前を付けたのは両親ではなく当時の自民党の国会議員だった、

というところまでは聞かされて覚えていたのですが、具体的にそれが誰だったのか、

その人がなぜ 「雅夫」 と付けたのかということはよく知りませんでした。

なぜ自民党の国会議員が私の名付け親になってくれたのかというと、私が生まれた当時、

私の母方の伯母が自民党の派閥の領袖であった石井光次郎氏の事務所で働いていたのです。

母にいくら聞いても埒があかなかったので、ここからは私の想像になりますが、

父も母も九州の出ですから田舎の人間の常として議員さんとかの権威に弱かったんだと思います。

石井光次郎と言えば何度も入閣し、総裁選にも2度出馬したことのあるくらいの大物でしたし、

石井派の中にも入閣を果たした議員が何人もいて、

その方々が伯母さんを可愛がってくれていたわけですから、

そのうちの誰でもいいからと伯母を通じて名付け親をお願いしたのかもしれません。

あるいは、うちの伯母は元来お節介な人でしたので、うちの両親の希望も聞かないまま、

懇意にしてもらっている議員さんに勝手に名前をつけてもらったのかもしれません。

で、けっきょく私の名前を付けてくれたのは、石井派のなかの中垣國男議員だったそうです。

母は私の名前を付けたのは法務大臣だと言い張っていましたが、

調べてみたところ、私が生まれた当時の法務大臣は中垣氏ではありません。

翌年の第2次池田内閣第2次改造内閣 (何のことやらさっぱりわからん) で法務大臣になりました。

ちょうどその1年後に第3次改造内閣が成立したときにはもう入閣していません。

その半年後に妹が生まれたときにも中垣氏は妹の名前を付けてくれたそうです。

したがって、妹の場合は元法務大臣が名付け親ということになると思いますが、

私に関しては法務大臣が名付け親なのではなく、

のちに法務大臣を務めることになる国会議員の方に名前を付けてもらった、

という言い方が正しい表現になるのだと思います。

いやあ、こんな話、今まで誰にもしたことなかったなあ。

自民党の国会議員 (しかも入閣まで果たしたような人) が自分の名付け親だなんて、

その後の私の生き方からしてみると黒歴史にもほどがありますよね。

選挙権を得てから30数年、ただの一度も自民党議員に投票したことなんてない私なのに…

うちの両親や親戚たちは皆、熱心な自民党支持者でしたから、

政治の話になるといつも大喧嘩になっていました。

自我に目覚めず、哲学にも倫理学にも目覚めず、政治にも目覚めずにいたら、

私も名付け親にふさわしい体制支持者になっていたのかもしれません。

よかったのか悪かったのかわかりませんが、

今の私があるのはひとえにジョン・レノンの 「イマジン」 のおかげですね。

おっと話が逸れてしまいました。

私の名前の由来でしたね。

そんなエライ人に名前を付けてもらっちゃったもので、それ以上の由来はわからないそうです。

付けた本人に聞いていないそうなので。

なぜ 「まさお」 なんていうつまらない名前にしたのか、なぜ 「雅夫」 という漢字を選んだのか。

これもずっと昔聞いた話で信憑性のある話かどうかわからないのですが、

もともと付けてもらったのは 「雅男」 という漢字だったそうなのですが、

画数が悪いということで両親が 「夫」 に換えたという話を聞いたことがあります。

いずれにしても由来らしい由来は明らかではないようです。

今回は次のようにまとめておきましょう。

A.私はのちに法務大臣を務めることになる国会議員の方に名前を付けてもらったので、

  あまりにもエライ人だったため御本人から詳しい説明を受けることができず、

  なぜこの名前になったのかその由来ははっきりしないそうです。

民主主義と多数決原理

2015-10-21 17:27:10 | グローバル・エシックス
昨年、高千穂大学で 「民主主義の危機と哲学的対話の試み」 と題する講演をさせていただき、
それが今年になって 『現代日本の四つの危機 哲学からの挑戦』 という書物に収録されました。
このなかで私は、まず現代日本における民主主義の危機を指摘し、
それとの関連で 「てつがくカフェ@ふくしま」 の活動とその意義について論じました。
その際、民主主義の危機を論じる前に、
民主主義とは本来どうあるべきかを明らかにしておかなければならなかったのですが、
これをどう論じたらいいか、考え始めてみると意外と難しいタスクであることが判明しました。
で、民主主義とは何か、民主主義の原理・原則を簡潔に記した文書がないかと探してみたところ、
意外なところでとてもいいテキストに出会うことができました。
アメリカ合衆国国務省の国際情報計画局が作成している 「アメリカについて」 という公式サイトに、
「民主主義の原則 (Principles of Democracy) という文書が掲載されており、
これがなかなかいい内容なのです。
この文書は15個の内容から成っており、
講演ではそのトップページ 「概要:民主主義とは何か」 から引用することによって、
民主主義が本来どうあるべきかに関するアメリカ合衆国の公式見解を紹介することにしました。

ぜひ上記リンク先をご覧いただきたいと思いますが、この中にはこんな名言がごろごろ出てきます。
「民主主義とは、人間の自由を守る一連の原則と慣行である。つまり、自由を制度化したものと言ってもいい。」
「民主主義は、多数決原理の諸原則と、個人および少数派の権利を組み合わせたものを基盤としている。民主主義国はすべて、多数派の意思を尊重する一方で、個人および少数派集団の基本的な権利を熱心に擁護する。」
特に、今の日本の政治においては、時の選挙でいったん多数派を占めてしまえば、
少数派の意見も権利も踏みにじって何でも決めてしまえるかのような風潮がはびこっていますので、
多数決原理と個人および少数派の権利保障とのバランスというのはひじょうに重要でしょう。
「概要:民主主義とは何か」 の次のページでは、
まさに 「多数決の原理と少数派の権利」 について述べられています。
単純多数決主義はけっして民主主義とは呼べないことがクリアに論じられていますので、
現政権を担っている政治家の皆さんには (特に自由と民主を標榜する党に属している方々には)
ぜひとも声に出して読んでいただきたいと思います。


      多数決の原理と少数派の権利

 一見すると、多数決の原理と、個人および少数派の権利の擁護とは、矛盾するように思えるかもしれない。しかし実際には、この二つの原則は、われわれの言う民主主義政府の基盤そのものを支える一対の柱なのである。

◾多数決の原理は、政府を組織し、公共の課題に関する決断を下すための手段であり、抑圧への道ではない。ひとりよがりで作った集団が他を抑圧する権利がないのと同様に、民主主義国においてさえも、多数派が、少数派や個人の基本的な権利と自由を取り上げることがあってはならない。

◾民族的背景、宗教上の信念、地理的要因、所得水準といった要因で少数派である人でも、単に選挙や政治論争に敗れて少数派である人でも、基本的人権は保障され享受できる。いかなる政府も、また公選・非公選を問わずいかなる多数派も、それを取り上げてはならない。

◾少数派は、政府が自分たちの権利と独自性を擁護してくれることを確信する必要がある。それが達成された時、その少数派集団は、自国の民主主義制度に参加し、貢献することができる。

◾民主主義政府が必ず保護しなければならない基本的人権には、言論と表現の自由、宗教と信仰の自由、法の下での正当な手続きと平等な保護、そして組織を結成し、発言し、異議を唱え、社会の公共生活に全面的に参加する自由などがある。

◾民主主義国は、少数派には文化的独自性、社会的慣習、個人の良心、および宗教活動を維持する権利があり、それを保護することが、国の主要な責務のひとつであることを理解している。

◾多数派の目に異様とはまでは映らなくても、奇妙に見える民族や文化集団を受容することは、どんな民主主義政府も直面しうる難しい課題のひとつである。しかし、民主主義国は、多様性が極めて大きな資産となり得ることを認識している。民主主義国は、こうした独自性や文化、価値観の違いを脅威と見なすのではなく、国を強くし豊かにするための試練と見なしている。

◾少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題に、ひとつの決まった答などあり得ない。自由な社会は、寛容、討論、譲歩という民主的過程を通じてのみ、多数決の原理と少数派の権利という一対の柱に基づく合意に達することができる。そういう確信があるのみである。

- Bureau of International Information Programs "Principles of Democracy" -


アメリカの現実の政治がどこまでこの高邁な理想を体現できているかはなはだ疑問は残りますが、
少なくとも建前上、アメリカ政府はこの民主主義の原則を未だに手放してはおらず、
公式ウェブサイトに各国語で掲げ続けているということには大きな意味があるだろうと思います。
日本の為政者は自由と民主を擁護する覚悟があるのか、
そもそもその意味がわかっているのか、改めて問い直したいと思います。

健診結果2015・完全勝利宣言!

2015-10-20 15:53:01 | 生老病死の倫理学
本日、この秋に行われた健康診断の結果が届けられました。

昨年は一勝一敗の成績に終わった健診結果でしたが、

今年はみごと完全勝利を遂げることができましたっ

一昨年から昨年にかけては、脂質が 「4:要治療」 から 「3:要経過観察」 へと一勝、

尿酸値が 「1:異常なし」 から 「3:要経過観察」 へと一敗という結果だったんですが、

今年は、すべての項目が 「1:異常なし」 になってくれました。

「2:軽度異常」 も 「3:要経過観察」 も 「4:要治療」 もまったく何もないというのは、

福大で健康診断を受けるようになって初めてのことです。

(視力はずっと 「2:軽度異常」 判定ですが、これはまあどうしようもないのでいいでしょう。)

具体的な数字としては、総コレステロール (基準値:140~199) が 203 → 229 → 227、

LDL コレステロール (悪玉コレステロール、基準値:70~119) が 122 → 146 → 131 と、

いずれもずっと高め安定していたものが、それぞれ187、115とみごと基準値内に収まりました。

尿酸 (基準値:0~7) は 6.6 → 6.1 → 7.7 と昨年初めて基準値超えでしたが、

今年は5.8とここ数年で一番低い値を記録することができました。

3年前に 「3:要経過観察」 だった肝機能も、

GPT (基準値:0~35) が40 → 12 → 15 → 16、

γ-GTP (基準値:0~55) が83 → 18 → 34 → 24とあいかわらず順調です。

けっきょくこれらの数値を象徴的に代表しているのが体重なのかもしれません。

68.5kg → 63.4kg → 63.1kg → 62.0kg。

やはり体重が重ければ不健康だし、軽くなれば健康的になっていくのでしょう。

一昨年に糖質制限ダイエットに取り組んで、

その後も65kgを超えないように管理できているのは健康面でもきっといいことなのでしょう。

ただし、今年のできすぎた結果には別の意味で思い当たる節もあって、

例年、夏休みはいい加減飲みまくって、

身体がボロボロになったところで健康診断を迎えていたのですが、

今年の夏は先日もご報告したように、デカイ仕事を抱えてプチうつ状態だったため、

まったくみんなと飲もうという気分になれず、外飲みもうちパーティもしていなかったので、

思いがけずひじょうにいいコンディションで健康診断に臨むことができたのでした。

しかし、抱えてる仕事はいずれは終わらせなければならず、

終わったらそれはもうしばらくの間はドンチャン騒ぎをしまくることになるでしょうし、

来年の夏休みも絶好調で遊びまくっているでしょうから、

来年の健診結果が今年のようなわけにいかないことは火を見るよりも明らかです。

というわけですので、しばしの間だけこの束の間の勝利を楽しんでおくことにしたいと思います。

まあ偶然の産物とはいえたった1年だけでも完全勝利の記録を残せて本当によかったです。

なぜ私は血のつながらない親子ものが好きなのか?

2015-10-17 16:06:43 | 哲学・倫理学ファック
いよいよ明日は映画 『at Home』 でてつがくカフェです。



監督、脚本家、プロデューサーの皆さまをお迎えしてどんな哲学対話が繰り広げられるのか、

今から楽しみでしょうがないのですが、それにしても自分はなぜこの手の物語に惹かれるのか、

明日の本番前に頭のなかを整理しておきたいと思い、

自分の過去のブログ記事を読み返してみました。

するとどうやら2つの源泉があるらしいということに気づきました。

ひとつはこれです。

  「2世嫌い」

要するに血のつながりそのものが嫌いなのですね。

自分自身が親から受け継いだものがほとんどないプロレタリアートの出なので、

血のつながりによって才能や財産や権力を受け継いでいる人たちに対して、

妬みというか嫌悪感のようなものを抱いているのでしょう。

そのため必然的に血のつながった家族というものを敵視してしまうのかもしれません。

別に私自身は血のつながった家族と何か確執があるというわけでもないのですが…。

もうひとつはこれです。

  「血は水よりも濃いのか? 再論」

難しい言葉で言うと近代的機能主義ですね。

血のつながりによって家族 「であること」 よりも、

家族の機能をきちんと果たすことによって家族を 「すること」 のほうが重要である、

とみなす価値観です。

これは本能ではなく文化、遺伝ではなく伝達・教育が人間にとって重要だ、

といういつもの話と結びついています。

さらにこちらをご覧ください。

  「『そして父になる』」

ここでは家族として共に時間を過ごすことが大事だとも書きました。

これは例の話の蒸し返しであるとも言えるでしょう。

  「愛とは時間である」

こう考えてみると、私が血のつながらない親子の話が好きだというのは、

けっこう私の思想や感情の根幹部分に由来しているのかもしれません。

『at Home』 に惹かれるのは必然だったと言えるでしょう。

明日は映画と哲学対話を心ゆくまで楽しみたいと思います。

ぜひ多くの皆さんのご来場をお待ち申し上げております。

パスタの茹で汁

2015-10-16 22:42:54 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
私は主食がパスタと言っても過言ではありませんので、
自宅でパスタを茹でる機会がめちゃくちゃ多いです。
以前はパスタを茹でたとき、シンクにザルを置いておいて、
そこに鍋から茹で汁ごとパスタをザーッと流し入れて湯切りしていたものでした。
で、ザルでよくお湯を切ってからソースを作っておいたフライパンにパスタを戻したり、
あるいはレトルトを使う場合は、ザルからお皿にパスタを移し、
そこにレトルトソースをかけたりしていました。

最近になって、この方法は二重の意味でよくなかったと知りましたので、
今ではパスタの茹で汁の処理方法が以前とはすっかり変わってきました。
何がいけなかったのか、以下の2つのウェブサイトをご覧ください。
まずはこちら。

「手早く、混ぜない? ナポリタン秘密の裏技!~青ちゃんの解決きっちん#3」

第一に美味しいパスタを作るためには、茹で汁をしっかり切ってはいけなかったのです。
上記の動画でご覧いただいたように、茹で汁自体に塩味が付いており、
それが味の決め手にもなるので、ソースに茹で汁が加わったほうがよかったのです。
だからザルを使ってしっかり湯切りなどしてはいけなかったのです。

実は同様のことはパスタの師匠もそのレシピ本のなかで言っていました。
師匠は味付けというよりも、ソースの濃度を調整するために茹で汁を活用せよと言っていました。
そのためには茹で汁を全部捨ててしまってはいけません。
師匠のレシピ本を読んだときはなるほどと思って、
茹で汁を少しカップに取っておき、それ以外はシンクに流してしまい、
最後の仕上げの段階でソースが煮詰まりすぎているようなら、
その取っておいた茹で汁を足すというようなことをしたりしていました。
味付けという観点からするとその方法でもよかったのかもしれません。
ソースが煮詰まったときだけでなく、基本的にいつでも茹で汁を活用すればよかったのでしょう。
しかしながら、もうひとつまったく別の観点からの記事を読んで、
その方式でも不十分というか間違っていたということがわかったのです。
こちらです。

「あのシンクに熱湯を流してボコッは絶対出してはいけない音だった」

要するに、そもそも沸騰したての熱湯をシンクに流してはいけなかったのです。
それはシンクならびに排水管に対してとても侵襲的な行為だったのです。
カップ焼きそばのあれっぽっちのお湯を流してシンクをボコッと言わせるのすらNGなんですから、
大量のパスタを茹でた大量の熱湯を (3分間冷ますことすらしていない)、
火から下ろしてすぐにシンクに流してしまうなんて暴挙もいいところだったのです。

というわけで最近では新しい方法を確立しました。
もうザルは使いません。
その代わりにトングを使います。
トングで鍋から直接パスタをつかんでフライパンに移すという方法です。
お湯がポタポタ垂れるくらいのままどんどん移し入れていきます。
こうして茹で汁を有効活用します。
ソースの濃度を調整するためなどと思わず、味を決めるために茹で汁を積極的に活用するのです。
そして、残った茹で汁はそのまま鍋のなかに温存しておき、
十分に冷めてからシンクに流すようにします。
レトルトの場合も同様で、鍋から直接トングでお皿にパスタを移します。
で、その上にレトルトソースをかけてあげるのです。
レトルトのソースも茹で汁によっていい感じに仕上がってくれます。

これまでどれだけシンクにパスタの茹で汁を熱々のまま流してきたことでしょう。
それによって美味しさの面でも、シンクや排水管の保護という面でも、
二重に過ちを繰り返してきました。
無知というのは恐ろしいものです。
今後は正しい知識に基づいて、心してパスタを作っていきたいと思います。

18日てつカフェに 『at Home』 制作者が緊急参戦!

2015-10-15 17:46:00 | 哲学・倫理学ファック
今週に入ってから 「てつがくカフェ@ふくしま」 のメールアドレス宛てに、
下記のようにメールが届きました。

「シネマdeてつがくカフェ
 ご担当者さま

 はじめまして。
 映画 「at Home」 プロデューサーの三宅と申します。
 このたびはシネマdeてつがくカフェに映画 「at Home」 をピックアップして頂きありがとうございます。

 早い段階から映画 「at Home」 に興味をもってくださり、福島での上映にも働きかけてくださったこと、
 イベントを開催して下さること、心から感謝しております。
 18日のイベントに、もし問題ないようでしたら、
 蝶野監督・脚本家の安倍さんとともにお邪魔させて頂きたいのですが、いかがでしょうか?

 映画 「at Home」 プロデューサー
 三宅はるえ」

なんと、『at Home』 のプロデューサーの方から直メールです。
しかも、18日の 「シネマ de てつがくカフェ」 に、
監督、脚本家、プロデューサーのお三方がいらしてくださるというではありませんか!
私がフォーラム福島の阿部さんにかけあって、
半ば強引に 「シネマ de てつがくカフェ」 の開催を決めた経緯も、
ブログを読んで先刻ご承知のようです。
これはもう望外の喜びで、ぜひぜひご参加くださいとすぐに返信いたしました。
するとさらに以下のようなお返事をいただきました。

「おはようございます。
 早速のご返信ありがとうございます。
 それでは、蝶野監督、脚本の安倍さんとお伺いさせて頂きます。

 こちらこそ、このような機会を作って頂き感謝しています。
 本作は、設定上は原作のとおり泥棒や結婚詐欺師と少し現実離れした設定ではあるのですが、
 作り手として観客に伝えたいテーマは、家族の本質であったり、
 一概に正しい悪いと分けきれないグレーゾーンを考える機会になればと思っておりましたので、
 今回のような 「哲学カフェ」 に取り上げて頂けるのは本当に嬉しいです。

 監督、ライターにはご挨拶の旨、伝えておきます。
 日帰りで東京から参りますので、前後そんなに長くは滞在できないのですが、
 打ち上げにも少し顔出させて頂けたらと思っております。

 三宅はるえ」

うーん、うれしいなあ。
これまで、「第5回シネマ de てつがくカフェ」 のときに主演のアナーキーさん、
「てつがくカフェ@ふくしま特別編5」 のときに鎌仲ひとみ監督が参加してくれたことがありましたが、
それらはいずれもフォーラム福島の阿部支配人その他のお力によってお招きできたケースでした。
ところが今回はこちらから何か積極的に働きかけをしたわけでもないのに、
「てつがくカフェ@ふくしま」 のブログをご覧になって、
制作者サイドの方からわざわざこちらにアプローチしてきてくださったのです。
てつがくカフェ@ふくしまは本当に恵まれているなあ。

と喜んだのも束の間、よく考えてみると制作者サイドの方々がいらっしゃるとなると、
当日の観客動員数ってとても重要になってくるじゃないですか。
もちろん上映してくれるフォーラム福島さんに対してもある種、責任は感じていますが、
わざわざ東京から (たぶん?) てつカフェのために来てくださる監督たちの前で、
あんまり客席がガラガラだったりするとひじょうに面目ないことになってしまうじゃありませんか。
というわけで、急遽次のようなチラシとポスターを作成して、
学内各所に貼り出したり、学生たちに配付したりしてみました。



いつもと違い今回は純ちゃんのデザインですので、きわめてシンプルです。
さて、これがどこまで効果を発揮してくれるでしょうか?
ぜひ皆さん、私を助けると思って今度の日曜日、シネマ de てつがくカフェにお越しください
映画は絶対に保障します。
たぶん私が泣いてる姿も見ることができるでしょう。
どうしても参加できない方はぜひお近くの方にオススメください。
18日の14時00分から映画 『at Home』 とその後のてつカフェをよろしくお願いいたします。

Q.死に対しての先生の考えは?(その2)

2015-10-14 18:24:39 | 生老病死の倫理学
先日 「Q.死に対しての先生の考えは?(その1)」 ということで、
死んだらどうなるのかに関しての私の考えを開陳しておきました。
白河でも郡山でも 「どこからが人の死か」 の話を終えましたので、
今回はこの問題に関する私の考えをお知らせしておきましょう。
といってもここに改めて書くわけではなく、過去の記事を参照していただきたいと思います。
実は去年、「脳死に関する私の意見」 ということで、
脳死ならびに臓器移植についてどう考えるかの過去記事をまとめておいたことがありますが、
今回は、死に対して先生はどう考えますかという質問ですので、
「人の死とは何か?」 という問いに関連する記事だけピックアップしてみましょう。
とはいえ、脳死と臓器移植に関する記事の中で大々的にその問題を取り上げていたりもしますので、
それらの記事も挙げることになるとは思います。
授業の中ですでに話したことも混ざっていますが、興味をもった人は読んでみてください。

  「脳死臓器移植をめぐる諸問題 (改訂版)」

  「脳死と植物状態のちがい」

  「心臓死は人の死か?」

  「人工呼吸器と心臓死」

  「人の死とは何か?」

  「Q.脳幹の機能死の人は脳死ではなく何という呼び名になるんですか?」

  「日本人の死体観」

  「脳死・臓器移植の件数2014」

  論文 「脳死のための脳死論」 (2002年、臓器移植法改正前の論文なので要注意)

Q.休みの日は何をして過ごすんですか?

2015-10-13 23:27:44 | お仕事のオキテ
先日 「Q.大学の先生ってお休みはあるんですか?」 という質問をいただき、

きちんと休める休日は1年のうちでそれほどあるわけではないかもしれないけど、

いちおうお休みはありますよ、とお答えしました。

それを承けてもともと白河でも相馬でもいただいていた今日の質問に移ります。

では休みの日は何をして過ごしているんでしょうか?

これはもう完全に倫理学者とか大学教員という一般論ではなくて、

まったくもって私個人のことをお答えせざるをえません。

他の先生方はそれぞれにご自分の休日を過ごしていらっしゃることでしょう。

他人はどうあれ私自身は休みの日に何をしているでしょうか?

うーん、これといって何も浮かんできません。

休みの日に定期的に行っている活動とかがあるといいのですが、

そう言えるような活動は 「てつがくカフェ@ふくしま」 だけですし、

それは前回お話ししたように休みというよりも仕事としてやっている活動です。

他に何かあるでしょうか?

何かプライベートに趣味とかあって定期的にやっていたりするとカッコいいんですけど、

ちょっと思い当たりません。

6年ぐらい前まではゴルフをやっていたので、休日にゴルフに出かけることがありましたが、

今はとんとそんなこともなくなりました。

うーん、何してるんだろう?

ロールプレイングゲームとかも以前はよくやっていましたが、

これは自分へのごほうびとして大事な論文を書き上げたときに買ってあげるようにしているため、

このところもう何年も大事な論文がなかなか書き終わらないのでやれていません。

あとは何をやっているんでしょうか?

あ、そうだ。

週末に街なかでお酒関係のイベントとかやっているときは割とよく顔を出しています。

「ビアフェスタ」 とか 「ワイン・ヴァン・ヴィーノ」 とか 「地酒の陣」 とかです。

うん、これは今でも行けるときはできるかぎり行くようにしてるかも。

それに比してうち飲みが減りました。

以前はよく我が家に人を呼んで、自分で料理を作ってパーティを開いたりしていたもんですが、

ブログ内で検索してみると、一昨年の年末に卒業生たちを招いてパーティを開いたようですが、

それ以降の記録は見つかりませんでした。

まさおさまのことだから、たぶんうちでパーティを開けば、

それを必ずブログネタにすると思いますので、

ブログに書いてないということは開催していないということなのでしょう。

これも先ほど言った大事な論文が書き終わっていないために、

うちでパーティを開くだけの心の余裕がないということなんだと思います。

たぶんあの仕事のせいだと思うのですが、このところまたプチうつ気味です。

そうなるともう休日も何にもできないですね。

一日中ボーッとテレビを見ていたりとか。

でも別にそのテレビもまったく見たいわけではないんです。

ただ何もできずに身体を動かすことができないので、

テレビ前のソファに身を横たえ、これじゃいけないと自己嫌悪にひたりつつ、

ただひたすら画面を見続けているというような時間の浪費をしていることもよくあります。

やらなきゃいけないと焦れば焦るほど何も手につかなくなるという悪循環です。

さらにこのところの政治状況のせいでよけいに気が滅入ることが多く、

この夏休みは本当に悲惨でした。

というわけで今回の質問にはどうお答えしましょうか?

困ったな。

とりあえずこう答えておきましょう。

A.特に大した趣味があるわけでもないので、

  家で飲むか外で飲むか、お酒を飲んでいることが一番多い気がしますが、

  このところはプチうつ状態なのでパーティを開いたりする元気もなく、

  ただボーッとソファに寝転がって、

  なんて自分はダメなんだろうと自責の念に駆られていることが多いです。

うーん、病んでる答えで失礼いたしました。

何とか自分をポジティブに切り替えて、ずっと抱えている仕事に一区切りつけ、

1日も早くハッピーピーポーまさおさまを取り戻したいと思います。

大号泣(T_T) 映画 『at Home』 でてつカフェだあっ!

2015-10-11 10:57:49 | 哲学・倫理学ファック


いよいよ来週の日曜日は 「第7回シネマ de てつがくカフェ」 ですっ

映画 『at Home』 を見ての哲学対話、今から楽しみでしょうがありません。

実はシネマ de てつがくカフェのときはファシリテーターの私たちはあらかじめ映画を見ておきます。

やはりどんな映画かわかっていないと、哲カフェでどんなテーマが話題に取り上げられそうか、

当日の対話をどのように進行させたらいいかなど予想がつかないからです。

まあどっちみち予想は裏切られるのですが、それでも心の準備は重要です。

で、今回もだいぶギリギリになってしまいましたが、見ておくことができました。

本多孝好の原作 『at Home』 は大好きな小説でしたが、

私はいつも申し上げている通り小説優位派ですので、

原作がよければよいほど映画化作品には失望するということがありうるじゃないですか。

今回のシネマ de てつがくカフェは私の強い希望にもとづいて開催していただいてるわけですが、

それだけにどのように映画化されているのか心配でしょうがありませんでした。

私の目から見ても明らかに映画化失敗だったよなあという作品だったりしたら、

上映してくれたフォーラム福島さんにも、てつカフェのために集まってくださった皆さんにも、

本当に申しわけないことになってしまいます。

そんなわけである意味おそるおそる映画を拝見させていただいたわけですが、

結論から言うと素晴らしいの一言でした (もちろんあくまでも私個人の感想にすぎませんが…)。

もう大号泣ですよ

上記リンク先の2つの記事の中ですでに指摘しておいたように、

小説 『at Home』 が映画化されるにあたっては数々の心配点がありました。

それらはみごとにクリアされ、小説とは設定やストーリーなどがいろいろと改変されているものの、

原作が描こうとしていた現代における家族の崩壊の問題、家族の絆とは何かという問題等を、

楽しく、リアルに、そして感動的に映像化してくれていました。

蝶野監督、ありがとうっ

竹野内豊さん、松雪泰子さんほか森山家の家族を演じた皆さん、

ゲンジ役の國村隼さん、悪役を演じた芸人の皆さん、本当にありがとう。

この映画のおかげで、てつカフェではきっと深い哲学的・倫理学的対話が繰り広げられるでしょう。

私たちとしては 「第4回てつがくカフェ@ふくしま」 のときに取り上げた、

「血は水よりも濃いのか ―家族はどこまで他人か?―」

というテーマと対になるような議論が展開されることを想定しているのですが、

きっとそこに収まらない様々な問題にも広がっていくことでしょう。

10月18日 (日)14時00分から上映開始、

16時15分頃から哲学カフェ開始です。

どうしてもこの日に来られないという方は、

10月17日から23日までフォーラム福島で上映しておりますので、ぜひご覧ください

ティッシュかハンカチをお忘れなく。

ぼくもまた泣いちゃうだろうなあ。

みんなに泣いてるとこ見られるのだけが心配だなあ

Q.外国人と結婚するにはどうしたらいいですか?

2015-10-08 14:32:43 | 性愛の倫理学
これもヘンな質問ですね。
正確にはこんな口調でした。
「Q.外国人と結婚したいんですけど、どうすればいいですかね?」
どうもこうも 「知ったことか」 と返したくなってしまいますが、
なんでそんなことを倫理学者に聞こうと思うかなあ?
まあせっかく聞かれたのでいちおうお答えしますが、
私は国際結婚の斡旋業者とかではありませんので、
倫理学者っぽい、ごく常識的なことしかお答えできませんよ。
今回は3段階に分けてお答えすることにしましょう。

A-1.まずは外国人の方とのコミュニケーション手段として外国語をマスターしましょう!

第2回目の授業のときに人間は 「表現する動物」 であるとお話ししました。
言語・非言語、さまざまなコミュニケーション手段を通じて人間は伝達し合うわけですが、
やはり人間にとって言語というのはひじょうに高度かつ精細な表現手段ですので、
外国人の方と生活を共にするためには外国語を使えたほうがいいでしょう。
非言語コミュニケーションだけだとごく単純なことしか伝えられないので、
愛情表現くらいはできるかもしれませんが、
一緒に暮らし人生を分かち合うという高度で複雑な営みのためには、
言語を共有していることが必要でしょう。
日本語を話せる外国人の方を狙うという手もありえますが、
母数が一気に少なくなって、マッチングがうまくいく相手を見つけるのが難しくなるので、
やはり、こちら側が外国語をマスターしておくに越したことはありません。

とはいえ、外国人と結婚したいと言う人が外国語が苦手なわけがありませんね。
外国語が得意で外国人とのコミュニケーションが好きだからこそ結婚したいと思ったのでしょう。
まあそんなことはわかった上で、わざとこの第1段階の答えを書いておいたわけです。
それは、特に外国人と結婚したいと思っていない人にもあるメッセージを届けたかったからで、
日本人と結婚したいと思っている人にはぜひ日本語を練習してほしいと思います。
自分は日本人でふだん日本語を話しているから大丈夫などと過信せず、
自分の思いや感情をより豊かに伝えられるように、
そして相手の思いや感情をきちんと受け止められるように、
外国語を学ぶくらいの覚悟で日本語をきちんと使いこなせるように訓練してください。
とにかくコミュニケーション手段をちゃんとマスターするというのが第1段階です。
続いて第2段階。

A-2.外国人がたくさんいるところに行きましょう!

これも国際結婚に限ったことではなく、日本人どうしで付き合ったり結婚したりする場合も同じですが、
恋愛や結婚において一番難しいのは、お互いにピッタリ合った相手を見つけることです。
以前に書いたことがありますが (「Q.片思いしてれば相手にいつか思いは届くのですか?」)、
こちらがいくら相手のことが好きで相手と一緒に暮らしたいと思っても、
相手も同じように思ってくれないことには始まりません。
そのためにはマッチングというものが大事です。
ピッタリのマッチングを見つけるためにはたくさんの相手を試してその中から探す必要があります。
先ほども述べたように、母数が少なければピッタリの相手は見つかりにくくなり、
テキトーなところで妥協しなければいけなくなるわけですが、
そうしてしまうと長続きする可能性が下がってしまいます。
したがって、外国人と結婚したいのであればまずは外国人がたくさんいるところに行くべきです。
たくさんいる外国人のなかからピッタリの人を探せるという環境に身を置くことが大事です。

福島県内にももちろん外国人の方はいらっしゃいますが、絶対数は少ないと言わざるをえません。
日本国内ならばやはりもっと大都市圏に行ったほうがいいでしょうし、
それよりもとっとと海外に行くことをオススメします。
海外に行くといっても海外旅行ではなく、外国に暮らすくらいの覚悟でないといけません。
日本国内だって旅行先で恋人ができたことなんてまずないですよね?
ピッタリの相手を探すのはそんなショートステイの間ではムリなのです。
旅行中に恋人や結婚相手を見つけようなんて焦っていると、
詐欺師や犯罪組織のいい餌食になりかねません。
じっくり腰を落ち着けてちゃんとした人たちとたくさん出会い、
その中からじっくりとピッタリ合う相手を選ぶために、そこに暮らしている必要があるのです。

さらに付け加えるならば、
日本人と結婚したいと思っている外国人がたくさんいるところに行けるとより確率は高まりますが、
残念ながら私はどこにそういう人がたくさんいるかは知りませんので、
それは御自分で調べてみてください。
それでは最後に第3段階。

A-3.日本と外国では文化や常識が違うということをお互いに肝に銘じておきましょう!

国が違えば文化や常識が違います。
私たちが日本人として当然と思っていることが、
外国の方々にとっては全然理解できないことだったりする場合があります。
逆に彼らにとっての当たり前が、私たちにとっては非常識であったりします。
これは相手が悪いのではなく、文化とか常識というのはそもそもそういうものなのです。
ですからこちらの文化や常識を相手に押しつけることはできません。
反対に、相手がそれを押しつけてくるような人だとこちらは耐えられないでしょう。
国際結婚を目指す場合、こうした文化の差異をお互いが覚悟しておく必要があります。
何かすれ違いが生じたときにはお互いにそれをうまく相手に説明し、
相手の文化に理解を示し、互いに受容し合い、妥協点や合意点を探っていかなくてはなりません。
最初に 「外国語をマスターしましょう」 と言わずもがなのことをわざわざ断っておいたのは、
文化の差異を乗り越えるためには非言語コミュニケーションだけでは絶対にムリで、
どうしても言語コミュニケーションが必要となってくるためです。

国が違うと文化や常識が違うということの一例として、
今日の話にふさわしいネタをネットでたまたま見つけたのでご紹介しておきましょう。
「デイティング・ピリオド」 のお話です。

「欧米では交際までにセックス込みの「お試し期間」がある。複数人と同時並行もOK」

私も50年以上生きていますがこれは知りませんでした。
簡単にまとめると、日本ではお付き合いを始めたあとでエッチをするというのがフツーですが、
欧米では 「デイティング・ピリオド」 というお試し期間があって、
その間にエッチも含めていろいろと相手のことを確かめ合った上でお付き合いを始めるというのです。
その期間中に複数の相手を試してみてその中から選ぶというのもアリだそうです。
日本ではちょっと考えられないことなので、にわかには信じがたかったのですが、
ネットで検索してみるともっと詳しく説明してくれている記事もありました。

「ハワイの恋愛事情」

こちらの記事では 「デイティング・ピリオド」 ではなく 「シーイング・ピリオド」 と呼ばれていますが、
エッチ込みのお試し期間 (複数同時並行も可) という意味ではまったく同一のもののようです。
(ちなみにこの記事は、今回の質問者にとっては私の話なんかよりもよっぽど役立つと思います。)
お付き合いの始め方に関してもこれぐらい日本と外国では違いがあるわけです。
これを知らずに外国の方とエッチしてしまうとショックを受けてしまうかもしれませんね。
しかし、ちゃんと理解できていれば、これはとても合理的なシステムのように思います。
付き合い始めてからエッチの相性で悩むなんていう心配がなくなりますからね。
(性感染症の危険性の問題はここではとりあえず無視しておきます。
 日本式システムでも性感染症問題が完全にクリアされるわけではありませんし…)
日本にもこれが定着するといいのにと思いますが、私にはもう関係ありませんので、
これに賛同する若者の皆さんはぜひこういう文化を広めてみてください。

話を戻しますが、日本と外国ではまったく文化や常識が違います。
今回ご紹介した 「デイティング・ピリオド」 くらいはかわいい違いだと思いますが、
世界にはもっと過酷な文化もあったりします (「生きながら火に焼かれて」)。
宗教の厳格な地域では恋愛や結婚に関して日本とは全然違う文化が存在することもありますので、
イスラム教や儒教等 (実はカトリックも) 信仰の篤い国では、
相手を探す場合にも、付き合い始めたり結婚したあとでもいろいろと注意が必要です。
そういう文化や常識の違いをきちんと理解した上で、
自分にピッタリ合う素敵な外国人の方を見つけ、幸せな国際結婚生活を送ってください。

P.S.
言い忘れましたが、文化や常識が違うという点も国際結婚の場合に限った話ではありません。
たとえ同じ日本人どうしでも、生まれ育った地域が違い家庭が違い性格が違えば、
それぞれが当たり前だと考えている常識も全然異なるということがありえます。
「秘密のケンミンSHOW」 とかの番組を見ているとそれを痛感させられます。
同じ日本人だからなんていうことに安住しないで、
人間というのは実はひとりひとり全然違っているのだというところを出発点にして、
2人で合意し合えるまったく新しい文化を築き上げていくんだという覚悟をもって、
付き合ったり結婚したりしていただきたいと思います。

Q.大学の先生ってお休みはあるんですか?

2015-10-07 17:58:25 | お仕事のオキテ
「Q.休みの日は何をして過ごすんですか?」 という質問をいただきました。
これは前期の相馬の看護学校でももらっていた質問ですが、ずっと答えていませんでした。
というのも、相馬ではこんな質問ももらっていたのです。
「Q.大学の先生ってお休みはあるんですか?」
休みの日は何をして過ごすかの前にまずはこちらにお答えしておく必要がありますが、
これが簡単そうで意外と答えにくい質問だったため、
これにどう答えようか悩んでいるうちに今に至ってしまいました。
今日はまずこの問いにお答えしてみることにしましょう。

もちろん大学の先生にもお休みがないわけはないので、
フツーに 「A.ありますよ」 とお答えすればいいのでしょうけれど、
改めて聞かれてみると、ホントに休みなんてあったっけという気がしてきて、
ちょっと逡巡してしまうのです。
例えば、この週末は学会出張に行ってきました。
これはお休みではありません。
事務上は休日出勤という扱いになりますので、
この土日の分はウィークデーのどこかで代休を取らなきゃいけません。
しかし、いつ代休を取ればいいのでしょう?
この後期は月曜日から金曜日まで毎日授業が入っていますから、
代休を取りたくても休める日がないのです。
ということはこの週末は休みではなかったし、その分の休みも取れそうにないということになりますね。

それから私は月に1回 「てつがくカフェ@ふくしま」 を週末に開催しています。
これは事務的には休日出勤とはみなされず、この日は休んでいたとみなされます。
しかし、これははたしてお休みだったのでしょうか?
おかげさまで私はてつカフェの間はとてもリラックスして楽しい時間を過ごしていますので、
個人的にはこれが休日扱いでも特に何の不満もないのですが、
しかし私はこのてつカフェを実施するということを目的として科研費を頂いています。
つまりてつカフェは私にとってはれっきとした研究活動の一環であり、
かつ地域貢献の仕事でもあるわけです。
「Q.倫理学者ってどうゆうことをする職業なんですか?」 という質問にお答えしたときに、
大学教員には、教育、研究、大学運営、地域貢献という4つの仕事があると書いたことがありますが、
てつカフェはそのうちの2つを同時に行っているわけですから、
それはやっぱり休んでいたというよりは、仕事をしていたとカウントするべきなんでしょう。

そもそも大学教員にとってウィークデーは、
教育 (=授業) と大学運営 (=会議) の仕事でほぼ埋め尽くされてしまいますから、
本来一番やりたかったはずの研究の仕事をウィークデーに行うことは至難の業です。
となると必然的に研究はウィークエンドにやらざるをえなくなります。
それをいちいち休日出勤として届け出たりはしませんが、
そのウィークエンドははたしてお休みであったと言えるのでしょうか?
ね?
お休みはあるのかないのか、なかなか難しい問題でしょ。

さらに今回、素直な看護学生の皆さんからはとりたてて聞かれているわけではありませんが、
家族とか意地の悪い友人とかからよく質問というか揶揄として、
「Q.学校の先生って夏休みとか春休みとか長くっていいですよね。
 その間何やってるんですか?」 なんて聞かれたりします。
これは大学教員に限った話ではなく、小中高も含めて教師にはつきものの質問でしょう。
これを聞くときの人々の嫉妬と糾弾に満ちた表情には本当にうんざりさせられますが、
これには私はこう答えるようにしています。
「夏休みなど長期休業期間に休みなのは学生たちだけであって、大学はフツーに営業しています。
 授業がないというだけで、研究と大学運営と地域貢献の仕事はいつも通り、
 というか授業がない分、いつも以上にやっていたりします。
 教育の仕事も何もなくなるわけではなく、ふだんは授業をやるのに追われっぱなしなので、
 新しい授業の構想を練ったりネタを仕込んだりする仕事を夏休みにやっています。
 プレゼンの準備をしないとプレゼンはできないと思いますが、
 ふだんはプレゼンに次ぐプレゼンに追われているので、
 プレゼン準備は授業のない休み期間にやるしかないのです。」
というわけで、長期休業期間中もまるっきりお休みになるというわけではないのです。

それでも福島大学に赴任してきた最初の頃は、
がっつり休みを取って海外旅行に行ったりする余裕もありました。
ハワイでゴルフ三昧とかね。
それが年々多忙化が進んできて、ドカーンと休みを取るなんていうことは本当に難しくなってきました。
というわけで週末であれ長期休業期間中であれ、なかなかちゃんと休めないというのが実情なのです。
もちろん今日はちょっと誇張して書いたところもあるので、
お休みがまったくないわけではありませんが、
少なくとも大学教員という仕事をやっていると暦どおりに休みを取るということはできませんし、
長期休業期間中も皆さんが思っているほど休めているわけではないのです。
今回のお答えは以下のようにまとめておくことにしましょう。

A.大学教員にもいちおうお休みはありますが、
  きちんと休める休日というのは1年のうちでそれほどないかもしれません。
  ウィークデーはほとんど教育 (=授業) と大学運営 (=会議) に追われており、
  研究と地域貢献の仕事をお休みの日にやっていることが多いです。

これを踏まえて次回は 「Q.休みの日は何をして過ごすんですか?」 という質問に
お答えしていくことにいたしましょう。