まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

「反省ゲーム」 の闘い方 (その1)

2010-02-28 14:39:01 | お仕事のオキテ
先にオリンピック選手の 「服装の乱れ」 について取り上げ、
その手の問題で誰かを道徳的に非難したり、
反省を求めたりするのはナンセンスである、と論じました。
それはそれでいいのですが、
あの問題があれほど拡大したのは、
記者会見での当人の受け答えがまずかったために、
火に油を注いでしまったという面が多々ありましたね。
この点についてはあの問題とは別に論じる必要があります。

すべからく現代の民主主義社会においては、
マスコミ報道と、それによって操作される世論というものを十分に考慮して、
行動する必要があります。
特に問題を起こしてしまった場合、
あるいは、事実がどうあれみんなに問題を起こしたと疑われている場合には、
そうした配慮が必要になります。
謝罪会見とか、国会喚問とか、公聴会証言などといったケースは、
まさにそれに当たるといえるでしょう。
そんなところに引っ張り出されるような目にはあいたくないものですが、
万が一そんな目にあってしまった場合には、どうしたらいいのでしょうか?

例えば、カメラの前でウソ偽りのない真実を誠実に打ち明ける、という手もあります。
しかし、これは最悪の選択肢です。
「チッ、うっせぇなぁ」 はまさにウソ偽りのない真実だったと思いますし、
私が当事者だったとしても、あの質問にはそう感じただろうと思います。
が、それをそのまま誠実に打ち明けてしまってはゲームに負けてしまいます。
そうです、これも、以前お話しした
Games of Perceptions のひとつにほかならないのです。
覚えていますか?
「受け止め方のゲーム」 ってやつです。
こちらがどういうつもりで言ったりやったりしたか、ということとは関わりなく、
相手がそれをどのように受け止めるかによって進行していくゲームです。
とにかくこれはゲームなのです。
真実を明らかにするとか、何が正しいかを議論するとか、
そういうことをしているわけではありません (特にマスコミは)。

マスコミはこのゲームに何を求めているのでしょうか。
彼らの勝利は、できるだけ問題を引っ張り、煽りたて、
視聴率やら発行部数やらを稼ぐことにあります。
そのためにはヒール (悪役)、またはスケープゴート (犠牲者) が必要不可欠です。
スケープゴートというのは、本当は悪くない (あるいは悪いか悪くないかよくわからない) のに、
本人の失言やらミスによっていつまでもヒール扱いできるような人のことです。
したがって、マスコミは、ヒールの暴言やスケープゴートの失言を心待ちにしています。
それを待ち望んでいるひとたちに対して、
こちらのウソ偽りのない真実を吐露するのは負け以外の何ものでもない、
ということは容易にご理解いただけるでしょう。

そういうゲームに引っ張り出されてしまったとき、
私たちはどう振る舞えばいいのでしょうか。
まずはこれがゲームであるということを認識することが重要です。
あらゆるゲームの中でも最も高度で難解な Games of Perceptions に
巻き込まれてしまったということを理解しなければなりません。
多くの参加者はそのことを知らないままゲームに引き入れられ、
迂闊な言動を繰り返したあげく大敗を喫してしまいます。
かのオリンピック選手もその1人でしょう。
まあ日本の場合は、政治家ですら、自分が Games of Perceptions に
参加しているということを自覚していない人が多いので、
一般人にその自覚をもてというのはムリな話かもしれませんが、
しかし、ゲームに参加していることを知らないまま、
ゲームに惨敗してしまうというのはもったいない話ですね。

好むと好まざるとに関わりなく、すでにゲームに招待されてしまったのですから、
こちらとしてはこのゲームにどう勝つかということを考えなくてはなりません。
その場合まずは、何をもってこのゲームに勝利したと言えるのか、
ゲームの終着点をはっきりさせなければなりません。
マスコミの側が問題を大きくし、いつまでも引っ張り続けることを目的としているのであれば、
こちらとしてはその逆を戦略目的とせざるをえないでしょう。
つまり、一刻も早く問題を終熄させるために、
マスコミと世論に納得してもらうことを目指さなければならないのです。
かのオリンピック選手を例に挙げるなら、できるだけ早く騒ぎを鎮めて、
競技に集中できる環境を取り戻すことが彼の勝利であったはずです。
美的センスをめぐって、自分の着こなしがカッコいいということを世間に認めさせるとか、
そこまでいかなくとも、美的感覚が人それぞれ相対的であることを認めさせるとか、
あるいは、これから競技に臨もうとしているオリンピック選手に向かって、
競技とは関係ないことで難癖つけるのはスポーツに対する冒涜である、
ということをマスコミに認めさせるとか、
そんな大それたゴールを設定してしまったら、
問題が長引くのは必至ですから、その時点で敗北は決定的です。
倫理学者としては正攻法でとことん闘ってもらいたい気持ちがないわけではありませんが、
競技を前にしたオリンピック選手にそこまで要求するのは酷な話ですね。
やはり、マスコミと世論に一刻も早く納得してもらう、
というあたりをめざすしかなかったでしょう。

そして、そのためには、
反省しているように見せるのが一番手っ取り早い方法だったろうと思います。
別に悪いことをしたわけでもないし、だから反省しているわけでもないのに、
反省と謝罪のことばを述べるというのは内心納得いかないものがあるだろうと思いますが、
できるだけ早く問題を終熄させるためにはいたしかたありません。
つまり、この Games of Perceptions は、
マスコミにとっては 「問題糾弾引き延ばしゲーム」 であり、
こちらにとっては 「反省ゲーム」 という形を取ることになるのです。
ただし、「反省ゲーム」 に勝つのもなかなか至難の業です。
すでに長くなってしまったので、その方法については稿を改めて論ずることにしましょう。

病の贈り物

2010-02-27 22:51:23 | 生老病死の倫理学
先日、死の贈り物という話を書きました。
死をポジティブに受け止めようという話でした。
死ですらポジティブに受け止めることができるのだとしたならば、
病気をポジティブに受け止めることは当然可能でしょう。
最近、入院して手術をした人からこんなメールをもらいました。


この病気のおかげで、いろんなことを学びました。
自分の体は私そのものではなく、私が生きるために最も大事な機能を果たす道具だということ。
生きるってことは、大切なひと達との繋がりを確認しながら感謝してその時を楽しむんだってこと。
だからこそ、私の体は私だけのものではなく、私がつながっている全ての人のものだということ。
その大切なみんなの大切なものを預かって大切にする責任が自分にあるということ。
自分を大切にするのは、周りの人を大切にするのと同じだし、逆も真なりということ。
明日からは、これまでとは違う生き方をします。
ありがとうございます!


手術をするとふだんやっているごく当たり前のことが、
有り難く感じられるそうです。
寝返りがうてることとか、シャワーを浴びられることとか。
わたしたちはそういう当たり前のことについつい感謝を忘れがちですね。
ただこうやって普通に生きていること、
それ自体がとてつもなく奇跡的なことであるということを、
ときには思い出してあげなくてはいけませんね。
私はまだエゴから脱しきれないので、
この方のように、自分の身体をみんなからの預かり物だとまでは思えませんが、
それくらい大事な物だということは意識して生きていきたいと思います。

子どもの発見 (その1)

2010-02-26 13:26:27 | 人間文化論
子どもの頃、世界は驚き (タウマゼイン) に満ち溢れていました。
世界の仕組みをまだよくわかっていない子どもにとっては、
毎日が発見の連続だったのです。
私はボーッとした子どもだったので、それほど好奇心の強いほうではありませんでしたが、
それでも自分なりにしばらく悩んでいた問題に対して、
ある日突然その答えがわかったりしたときには、
「おおーっ」 と驚き、目からウロコが落ちたような気分になることが幾たびかありました。
そんなシリーズをお届けします。
栄えある第1回は、まーちゃんの発見の中でも1、2を争うものすごい発見です。




発見その1 「エレベーターのドアは二重になっているっ!」




おおーっ、ものすごい。
そうだったのかあ。
ヘンだなと思っていたんだよ。
エレベーターが来るのを待っているときエレベーターのドアは閉まっていますね。
エレベーターがやってきてドアが開き、エレベーターに乗ります。
そしてドアが閉まります。
エレベーターは別の階に移動します。
移動しているあいだドアは閉まったままですね。
さっき1階で待っていてエレベーターに乗り、今は5階あたりを通過中なのですが、
今このとき1階のエレベーターのところはどうなっているのでしょうか?
あのドアは今は5階に来てしまっているのですから、
とすると1階はドアがなくなり、大きな穴が開いてしまっているのでしょうか?
そんなのはとても危険ではないでしょうか?
つまり、エレベーターが停まっていない階のエレベーターホールは、
全部ぽっかり穴が開いているのでしょうか?
しかし、エレベーターを待っているときもドアは閉まっていましたよね。
不思議だっ!
エレベーターのドアってホントはどうなっているんだろう?

こんなことを不思議に思っていたのは私だけでしょうか?
皆さんは子どもの頃からわかっていましたか?
私としては、子ども心にとっても不思議で、
デパートとかに行くとしげしげとエレベーターのドアが開閉するところを見ていたものです。
しかし、当時エレベーターなんてめったに見る機会はありませんでしたから、
たまにデパートに行ってちょっと覗き込んだくらいでは、
この謎は解明されませんでした。
だってエレベーターのドアってとてもよくできていたんですもの。

解明のカギは古い洋画から得られました。
そこには昔のエレベーターが映されていたのです。
昔のアメリカのエレベーターって、乗るための箱がオリみたいにスケスケじゃないですか。
(意味わかります? 鉄格子みたいになっているのです)
しかも、ドアは手動で。
で、見ていると主人公たちはエレペーターを乗り降りするとき、
ドアを2回ずつ開け閉めしているのです。
つまり、待っている人たちが落っこちてしまわないようにするための各階のドアと、
上下に動く箱のためのドアと、その2枚を開け閉めしないといけないわけです。
これはとても理に適っています。
エレベーターのドアは二重になっているのか?

しかし、次にデパートに行ったときにエレベーターのドアを見てみても、
分厚いドアが1枚あるだけでした。
それが1発でガーッと開き、1発でガーッと閉まっています。
謎は深まるばかりです。
けっきょくこの謎が解明されたのは、おばさんのマンションに遊びに行ったときです。
エレベーターで何度も上に行ったり下に行ったりし、
ドアが開閉するのを繰り返し横からジーッと見つめてみて、
やはり、一見一体化しているように見えるけど、
実はドアが二重になっているということが判明したのです。
うーん、すごい発見だっ。

なんか、こんなことをこんなに一生懸命書いていると、
当時の私はちょっと頭の弱い子だったのかなあと心配になってきます。
今回の発見はそれでもまだ自慢できるほうの発見なので、
これから先はさらにイタイ感じになっていきます。
うーん、皆さんは今なら当たり前と思えるようなことを、
子どもの頃すごく不思議に思っていたことってありませんか?
こんなのぼくだけなのかなあ?

Q.テストでいい点を取るにはどうしたらいいんですか?(その1)

2010-02-25 20:00:31 | 教育のエチカ
看護学校の 「哲学」 や 「倫理学」 の授業の最初に、
哲学・倫理学の先生に聞いてみたいこととして質問を受け付けていますが、
「どうやったら集中力ややる気がつくのか、
 テストでいい点が取れる勉強法を教えてください」
という質問を頂戴してしまいました。
私の意図とはズレていますので、
「哲学・倫理学ファック」 のカテゴリーで扱うべき問題ではありませんが、
学生の皆さんにとっては最も重要な問題でしょうから、
こちらの教育関連のカテゴリーの中でお答えすることにしましょう。

いつものように、まずは問いを問い直さなくてはいけません。
「テストでいい点を取りたい」 というのは学生の誰もが思う切なる願いだと思いますが、
こういう心持ちでする勉強というのが、
一番効率の悪い勉強法だということは知っておいたほうがいいでしょう。
皆さん、定期試験のために一夜漬けの勉強とかしたことがあるだろうと思います。
それは、集中力が高まって一見効率的な勉強法であるかのように思えます。
しかし、そのときに覚えたことって、
テストが終わった瞬間にきれいさっぱり忘れてしまっていませんでしたか?
人間の脳は本当に効率的にできているので、
「直近のテストをしのぐために」 という目的意識をもって学んだことは、
その目的が果たされたとたんに不必要な知識として捨て去られてしまうのです。
(正確に言うと、覚えてはいるけれど思い出せなくなる)
例えば、看護学校の皆さんに引きつけて言うと、
各講義を学び終えたあとにその科目の試験を受ける際、
「この単位を取るためにテスト勉強しなきゃ」 と思って勉強すると、
そのテストが終わるときまでしか覚えていられません。
で、けっきょく看護師の国家試験を受けるときには、
またイチから勉強し直さなきゃいけなくなってしまうのです。
これは短期的には効率よかったのかもしれませんが、
結果的に効率が悪いですね。
では、常に目先のテストではなく、
3年後だか4年後の国家試験を念頭に置いて勉強しておけばよいのか。
それも違います。
皆さんが勉強しているのは国家試験に合格するためでしょうか。
そうではないはずです。
看護師になって現場に出たときに必要な知識だからそれを学んでいるはずなのです。
ですから、国家試験に合格した瞬間に忘れてしまってはいけないのです。
なので、「現場に出たときに最高の看護を提供するために学んでいるんだ」
という心持ちでふだんから勉強しておくと、
定期試験が終わっても、国家試験が終わっても失われることのない、
長期記憶を獲得することができるでしょう。
今回はたまたま看護師国家試験を例にとって説明していますが、
教員採用試験や公務員試験の勉強に関しても同じことです。
けっして試験勉強をしてはいけません。
勉強する目的は常に、合格後実際に現場に出たときに使うため、
というところに置いておかなくてはなりません。

この点は、集中力ややる気の問題とも連動しています。
講師の先生のお話を聞いたり、教科書に書いてあることを覚えるときに、
ただ覚えなきゃいけないからとか、
国家試験に出るからという理由で勉強しようとしても、
なかなかやる気にはならず、集中もできないでしょう。
すべての知識を、現場に出たときにどう活かせばいいんだろう、
どうやったらよりよい看護 (よりよい授業やよりよい行政) に繋がるんだろう、
という主体的な関心と結びつけて学ぼうとするならば、
先生方の退屈な話にも、お経のような教科書の文章にも、
眠くならずに積極的に取り組むことができるし、
集中して身につけることができるでしょう。
勉強しようとすることに対して、興味や関心をもつというのは、
とても大事なことです。
逆に教員の側から言うと、
生徒に対してまず興味や関心をもたせるというのが、何よりも重要です。
それがない人たちに対してどんなに素晴らしいことを話してあげても、
全部右から左へ通り抜けていってしまうでしょう。
ところが、お医者さんや大学の先生たちというのは、
自分が面白いと思っていることは、
誰もが面白いと思ってくれるはずだと勘違いしている人たちが多いので、
興味・関心を抱かせるという努力はしてくれないと思います。
ですので、そこは自助努力で、自ら興味や関心をかきたてておかなくてはなりません。
そのためにも、手っ取り早い興味・関心としては、
現場でどう使ったらいいんだろう、という観点で考えてみることをオススメします。

もう少し具体的な話はまたしたいと思いますが、
さしあたり、以上お答えしておきます。

酔っぱらいにも一分の理性?

2010-02-24 23:33:17 | お仕事のオキテ
昨日は東京に出張に行ってました。
そして東京に行くと毎度のことですが、夜はしこたま飲んでしまい、
ブログ更新もまたズルをすることになってしまいました。

自分としては、特別な場合を除いて (新学期の 「哲学・倫理学ファック」 とか)
できるかぎり同じカテゴリーの話を2日続けないようにしたいと思っています。
そのために昨日は話題に困っていたのですが、
行きつけのバーに桃の花が飾ってあったのがみごとだったので、
写メを撮っておいて軽く季節ネタでごまかそうと、飲みながら企んだのです。
これはなかなかいい思いつきだと思いました。

ところが、そのバーに行く前にすでに十分出来上がっており、
冷静な判断ができなくなっていて、
そろそろ帰らなきゃと思った頃に他のお客さんたちがみんな一斉に帰ってしまい、
ここで自分も帰って誰もいなくなってしまうとマスターに悪いんじゃないかなんて、
よけいな気を遣ってしまって、
けっきょくさらに2時間くらいよけいに飲むことになってしまったんです。
東京の別宅に帰り着いたらもう2時近くで、
この時間から新たに文章を書くのはさすがにムリだろうと判断し、
同じカテゴリーが続くことになってしまいますが、
すでに書いてあった 「なぜ上下関係で生まれた恋は長続きしないのか」 を、
アップしちゃうことにしようと方針転換を決めます。
これもなかなか素早い決断で、みごとな判断であると言えるでしょう。

で、テキストファイルで作ってあった文章を、
編集画面にコピペしてアップしようとするのですが、
何度やってもうまくいきません。
投稿ボタンを押して、これでOKだなと思ってブログ画面を見てみても、
一昨日の 「上下関係があるところに恋は生まれやすい」 という記事が表示されるだけです。
今アップした記事はどこ行っちゃったんだろうと記事一覧で探してみますが、
どこにも跡形もありません。
で、しかたなくまた同じことをしてみるのですが、やはり上手くいきません。
けっきょく4回くらいトライしてみましたがどうしてもダメです。
なんでダメなんだろう、gooブログが不具合なのかなとも考えてみますが、
ふと気づくとパソコン画面が揺れていて、
しばらく考えてから、それは自分の身体がイスの上で揺れているからだと気づきます。
ああなんだ、自分はまっすぐ座ってられないくらい酔っぱらってしまっているのか、
とその時点でやっと上手くアップできない本当の理由に気づきます。
この状態では何度やってもムダだろうなあと思い、
夜のうちにアップするのはあきらめて、
翌朝、酔いがしっかりさめてからやることにしました。
酔っぱらいの判断としては至極まともな判断であったと思います。
あのグラグラの状態の中で、かすかな理性が残っていたのでしょうか。
しかし、その理性は仕事をするためにではなく、
仕事をあきらめて寝ちゃうことぐらいにしか使えないのですが…。

というわけで、昨日のブログ更新がズルになってしまったことの言い訳で、
ブログを1本書いてしまいました。
だって桃の花の写メで何か書こうとしたけど、
何をどう書いていいかまったく筆が進まなかったんですもの。
「軽く季節ネタでごまかす」 だなんて、
何をどうごまかせると考えていたんでしょうか。
酔っぱらいの理性なんてホント当てにならないものですね。
やはり、仕事をするためには使えなさそうです。
これからは酔っぱらいの理性よりも、
酔っぱらわないようにする理性を涵養していきたいと思います。
(意志の弱い私にはムリかな)
おっといけない。
そうこうしてるうちにまた12時を回ってしまった。

なぜ上下関係で生まれた恋は長続きしないのか

2010-02-23 23:59:59 | 性愛の倫理学
昨日書いたように
上下関係が上手く機能したおかげで、みごとに恋が芽生えたわけですが、
悲しいことにこの恋は長続きしません。
今日はその仕組みを解明していくことにしましょう。
上下の恋が急速に冷めていくのは、
男性の側と女性の側双方がそれぞれに変質を遂げてしまうからです。
それぞれの側から見ていくことにします。

まずは女性から。
というよりもこれは女性の側が一方的にどうこうという問題ではないのですが、
男女の関係には一般的に次のような法則があると思われます。
「もともとどんなに上下関係があろうとも、つきあっているうちに対等な関係になる。」
どうですか皆さん。この法則、思い当たるところはありませんか?
先輩と後輩であろうが、先生と生徒であろうが、どれほど年が離れていようが、
つきあい始めるといつの間にか、当初あったはずの上下関係はどこかへ消え失せてしまうのです。
あるいは消え失せてしまうというよりも、薄まってしまうと言った方がいいかもしれません。
それはどういうことかというと、
仕事上のことや部活のことや学業上の事柄において、知識・技能・経験に差があったとしても、
それらは人間の生活の中のほんの一部を占めているにすぎません。
いったんつきあい始めると、それら以外の日常生活の全般を共有するようになるわけです。
趣味に関すること、食事や健康に関する事柄、ファッションに関すること、
デートスポットの情報、時事問題、金銭問題、キャリアや進路選択に関する問題、
一般常識、家族やその他人間関係に関するトラブル対処法、等々。
これらすべての面で男性が常に優っているということはまずありえないでしょう。
したがって男性の優位はしだいに相対化され薄められていき、
だんだんと対等な関係に近づいていかざるをえないのです。

これに加えて、女性には相手の可愛いところを見つけようとする性向が、
生まれつき備わっているように思えてなりません。
もともと相手のことを尊敬の眼差しで見つめていたのに、
つきあっているうちにどんどん相手の弱いところ、ダメなところを探し出し、
それを 「カワイイ」 と言って愛でようとしないでしょうか、世の女性たちって。
それは男性によって一方的に支配されないための知恵 (?) なのかもしれませんし、
あるいは、相手の世話を焼いてあげるためには、ただ相手を尊敬するだけでなく、
相手を可愛いく思うということがどうしても必要なのかもしれません。
いずれにせよ、先輩男性や年上男性が相手の女性のことを可愛く思っていただけの関係から、
後輩女性や年下女性も相手のことを可愛く思う (つまり相手を下に見る) ようになっていき、
2人の関係は対等な関係へと変質していくのです。
そのこと自体は、関係の長期化に伴う不可避的なプロセスですから、
特に問題視すべきことではありませんが、
たとえそうなったとしても男性はあいかわらず、
自尊心を満たしてもらうことを求め続けているということは、
けっして忘れてはならないでしょう。
しかし、世の多くの女性はどうもあっさりそこを忘れてしまいがちなような気がするのです。
やはり 「カワイイ」 とか 「ダメな人ね」 ばかりではなく、
時には 「すっごぉい」 と言っておいてもらえないと、
男性たちは、そう言ってくれる人を新たに求め始めてしまうのではないでしょうか。

次に男性の側の問題。
これも男性云々というよりも一般的な法則として次のようなことが言えます。
「他人には上手に教えられても、身内には上手く教えられない。」
これにはさらに2つの下位法則が含まれています。
その1「仕事なら上手に教えてあげられるけど、仕事外では上手く教えられない。」
上の側に立って相手に教えてあげるというのはけっこう大変だし面倒なので、
仕事でなければやっていられないということがまずあります。
仕事上の付き合いの場合、相手に教えることが自分のチームの成果に影響してきますので、
そもそも教えないわけにはいきません。
そうやって教えていると自尊心が満たされていい気分になり、
さらに教えていくこともできるわけですが、
いずれにせよ仕事に関わる部分でしょう。
もちろんさらに進んで趣味の分野でもなにか教えてあげられれば、
それはたいへんけっこうなことですが、
趣味が同じとは限りませんし、上述したように、
趣味の分野に移ったとたんに相手の方が詳しくなるということもありえるでしょう。
いずれにせよ教えるというのは大変な作業ですので、
たとえ教えてあげられるような何かを持っていたとしても、
仕事がらみでなく教えてあげるというのはけっこう鬱陶しいことなのです。
学校ではいい教師なのに、
家で自分の子どもに教えているとヒステリックになってしまって、
上手に教えてあげることができないという先生の話はよく聞くのではないでしょうか。

しかし、より重要なのはもうひとつの下位法則です。
その2「身内のことはわかっている気になってしまうので、
     きちんと相手のことを理解してあげる努力を怠ってしまう。」
これは決定的です。
前回、相手のことをきちんと把握しないと上手く教えてあげることができないと書きました。
身内の場合、相手のことはもう十分にわかっているという過信がありますので、
ついこの部分を軽視してしまい、上手く教えられなくなるわけです。
しかも、男女関係に話を戻すならば、
相手に教えてあげるために相手のことを理解しようと努力するという部分が、
共感してあげる努力に似ているために、女性は愛されていると感じられたわけです。
しかし私は実はこの2つは別物であるだろうとも書きました。
つまり、この段階で男性がやっていたのは、
実は共感ではなくて、情報収集にすぎなかったのです。
情報収集は、情報が集まればもう必要なくなります。
つきあいが長くなれば長くなるほど、情報がすでに十分集まっていますので、
男性は相手の話を聞く必要がなくなっていきます。
ですから、ふたことみこと聞いただけで、
ああ、それはあれの話ね、そういうときはこうすればいいよ、
とすぐに教えに入ってしまうのです。
これでは女性の共感してもらいたいという欲求はけっして満たしてもらえないでしょう。
こうして女性はもう愛してもらっていないという不満を募らせていくことになるのです。

男性はもはや自尊心を満たしてもらうことはなく、
女性はまったく共感してもらえなくなってしまうのです。
この関係が破綻するのは目に見えていると言えるでしょう。
当初の上下関係のことを忘れて、
互いに相手のことを尊敬してあげたり、共感してあげたりすることができるならば、
その関係は長続きしていくかもしれませんが、
関係が変質するということすらわからないまま、
関係成立当初のあの蜜月の関係を懐かしく思っているだけだったとしたら、
2人の恋に未来はないでしょう。
2人の関係をどう進展させていくのかいかないのか、
互いの覚悟を確かめておく必要があると思います。

上下関係があるところに恋は生まれやすい

2010-02-22 22:40:19 | 性愛の倫理学
以前お話しした 「教えることはエロい」 をもうちょっと一般化すると、
「上下関係があるところに恋は生まれやすい」 という法則が導き出されます。
それは、これも先にお話ししましたが、男は自尊心を満たされることを求め、
女は共感されることを求めているということとも繋がっています。
年上と年下、先輩と後輩、上司と部下、先生と生徒といった関係は、
対等な関係ではなく、構造的にどうしても上下という関係にならざるをえません。
上というのは知識、技能、経験が優っており、
したがって下の者に教えてあげるという関係が成り立つという意味です。
とりあえず今回は男性が上 (年上、先輩、上司、先生)、女性が下 (年下、後輩、部下、生徒)
というケースを取り上げることにしますが、
教えてあげるというのは上の者にとっては、
まさに自分の知識、技能、経験が全肯定されることを意味しますから、
これほど自尊心が満たされることは他にないと言えるでしょう。

そして、教えてあげるためには、相手の現在の状態を知っておく必要があります。
何を知っていて何を知らないのか、どこまでできてどこからできないのか、
何に困っているのか、何を悩んでいるのか、
そうしたことをわかろうとせずに誰相手であろうとイチから教え始めてしまったり、
逆にものすごく高度なことから教え始めてしまう人は、
(大学教員は後者の人が多いですね)
教えるのが下手くそな人であると言えるでしょう。
教える人の側は、そんな教え方でも一時的に自分の自尊心は満たされるかもしれませんが、
そんな人に習いたがる人はあまりいませんので、
そのうち教わりに来る人がいなくなってしまい、
けっきょく彼の自尊心戦略は失敗に終わります。
むしろ、上手に教えられるということも自尊心を満たしてくれるわけですから、
だとするとそのためにはやはり相手の状態をきちんと把握するということが必要になります。
把握するためには相手の話にもよく耳を傾けなければなりません。
正しい診断があってこそ正しい治療が可能となるのです。
相手がひと言ふた言話し始めただけで、
すぐにそれにかぶせるように教え始めてしまう男性も多いですが、
それでは相手に必要なものを適切に与えてあげることはできませんね。
相手の話をじっくり聞き、何に困っているかをきちんと把握した上で、
そういうときはこうしてごらん、と適切な助言指導を与えてあげられると、
相手からの信頼を得ることができるわけです。

これを教えてもらう側から見てみると、
じっくり話を聞いてもらって自分のことを理解してもらうという段階は、
まさに共感してもらっているということに等しいと言えるでしょう。
「等しい」 という言い方をしているのは、
私はこの2つ (教えるために相手のことを把握することと共感すること) は、
実は同じものではないと考えているからですが、
しかしとにかく女性の側からすると、共感してもらえているように思えるので、
とても安心することができるわけです。
以前に、男は共感することが苦手な動物だと書きましたが、
共感下手な男性が唯一、共感っぽいことをしてあげられるのが、
この上下関係初期の 「教える」 という行為においてではないかと私は考えています。
そうやって擬似的に共感してもらえているところへさらに追い討ちをかけるように、
適切な助言指導をもらって、
それによって難局を乗り切ったり、自分が成長することができたとしたら、
「すっごぉーい」 と相手への尊敬の念を抱かないわけにはいかないでしょう。
そうやって尊敬されれば、男性の自尊心はさらに満たされるわけです。
ここまできたら恋に発展しないわけがありません。

「上下関係があるところに恋が生まれやすい」 と言いましたが、
これはけっして「上下関係があるところに必ず恋が生まれる」 ということではありません。
上手く疑似共感してあげられ、上手く教えてあげられる男性と、
眼をキラキラさせて話を聞く、教わり上手な女性のあいだに、
恋が生まれやすいというだけの話にすぎないのです。
ただ自尊心が強くて頭ごなしにガミガミ怒鳴りつけるだけの上司と、
話も上の空でまったく敬意を示そうともしない部下のあいだには何も起きるはずがありません。
そのことは私がわざわざ指摘するまでもなく、
皆さんご自分の経験に照らして十分わかっていらっしゃることでしょう。

もうひとつ大事な注意点は、
恋が生まれたからといってそれが長続きするわけでもないということです。
上下関係が発生した初期には、
ごく一時的に上述したような蜜月の時代が構造的に成立しやすいのですが、
この美しい関係はとても脆くてとても儚く、次の段階に移行せざるをえません。
そこで上手く次に移行できれば、2人の関係は長続きしていきますが、
多くの場合その移行はなかなか上手くいきません。
この移行の問題については稿を改めて論じることにいたしましょう。

プッとブーーッ

2010-02-21 23:05:38 | ドライブ人生論
運転していると、クラクションを挨拶や合図代わりに使うことがあります。
これは法律上定められた正しい使い方ではないですが、
実際の道路上ではよく用いられます。
道路脇のお店の駐車場から道に出てこようとしているクルマがいたときに、
どうぞ入っていいですよ、という意味でプッ。
クルマどうしがすれ違うことができないくらい狭い道で、
どうぞお先にお通りください、という意味でプッ。
先に通してもらった方がすれ違いざまに、
どうもありがとう、という意味でプッ。
信号待ちしているときに、信号が青に変わったのに、
前のクルマが別のことに気を取られているのかなかなか発進しないときに、
青になりましたよ、という意味でプッ。
などなど。
運転のベテランになってくると、
こうした手段を使ってクルマどうしのコミュニケーションをはかったりするわけです。

このようにプッと鳴らすためには、
乗っているクルマにもよると思うのですが、
たいていはハンドルの中についているクラクションのボタン (?) を、
軽く叩くようにそっと短く押さなければなりません。
本来のクラクションの使い方だと、そのボタンを強い力でグーッと奥まで押し続けるのですが、
そんな鳴らし方をしたらブーーッどころかパーーッンみたいな、
物凄い轟音が鳴り響いてしまいます。

ところがこのクラクションのボタン (?) はクルマによって本当に感度が違っています。
小さな音から大きな音までさまざまに鳴らし分けられる場合もあれば、
ちょっと軽く触ったり叩いたりしたぐらいではまったく音が鳴らない場合など、
まさにクルマによっていろいろです。
で、今私が乗っているクルマは歴代の愛車の中でも最も感度が悪いほうなのです。
なので、どうもありがとう、という意味でプッと鳴らそうとしているのに音が出ないで、
2、3度やっても鳴らないうちにすっかり通り過ぎてしまって、
けっきょく挨拶ができないままになってしまうなんていうことはザラです。
あるいは、信号で前のクルマがなかなか発進しないので、
ちょっと教えてあげようとプッと鳴らそうとしても鳴らず、
もう少し強く押してみたら、今度はブーーッとけっこうデカイ音が鳴ってしまって、
まるで、なにトロトロしてやがんだこのヤロー
と前のクルマを脅してるみたいになってしまったり。
そんなときは、ごめんなさいごめんなさい、けっして脅かすつもりじゃなかったんです、
とクルマの中で謝っているのですが、
そんな声は相手の運転手に届くはずもなく。
これも受け止め方のゲームですから、相手はきっとコワイ思いをしたり、
なんだこいつ偉そうにと頭に来たりしていることでしょう。

そういうすれ違いが起こらないように、
自動車会社の方にはぜひ、感度のよいクラクションを開発してほしいと思います。
あるいは、普通のクラクションボタンとは別に、
挨拶用のクラクションボタンをつけておいてもらうのもいいかもしれません。
(法律上それが許されるのかわかりませんが)
以前書いたように、クラクションを本来の用途で使うというのは、
よっぽど危険が差し迫っているときに限定されていますので、
それよりも挨拶用のクラクションのほうが使用頻度が高いと思うのです。
クルマに乗っていると相手のドライバーが何を考えているかは直接わからず、
ウィンカーやクラクションやライトやハザードランプによる表現から推し量るしかありませんので、
コミュニケーションのための手段にも十分配慮したクルマの設計をお願いしたいものです。
そして、ドライバーの側もそれらをうまく使って自己表現する術を磨いておく必要があるでしょう。
しかも、そうしているつもりでもなお私のクルマのように、
自己表現できなかったり、表現方法が間違ってしまう可能性もありますので、
受け止める側もいちいちカリカリしたりせず、
押し間違っちゃったのかもしれないなぐらいの余裕をもって臨んだ方がいいと思います。

ココア・ダイエット

2010-02-20 16:30:26 | がんばらないダイエット
ずっと前にココアがダイエットにいいという話をテレビでやっていたような気が。

ポリフェノールとかなんとかが効くということなんでしょうか。

ホントに効くかどうかはわかりませんが、

あの恐怖のインフルエンザ・ダイエット以来、

また始めることになりました。

朝食をココアにするというだけのお手軽ダイエットです。

しかし、私にとってこれは意外と難しいのです。

ふだん私は、カップラーメンとか袋メンを朝食に食べています。

そう言うとほとんどの人に驚かれ、引かれてしまうのですが、

なぜか食べたくなってしまうのです。

それがダイエットどころか健康にも悪いであろうということは、

言われなくてもわかっているのですが、

朝台所に立つと、フラフラと食料庫から、

大好きな 「サッポロ一番ソース焼きそば」 とか 「辛ラーメン」 とかを取り出して、

お湯を沸かし始めてしまうのです。

しかし、インフルエンザ以来、

朝起きたときの食欲というのがあまりなくなっていて、

そんなにお腹が空いていないのであれば、

わざわざそんな不健康な食事をする必要はないですね。

とはいえ朝一番で炭水化物ないしは糖分を補給してあげないと、

大事な脳が働いてくれませんから、

何も口に入れないというわけにはいきません。

そこで、牛乳でココアを作って、ミルクココアを飲むというのが最近の日課になりつつあります。

たまたま冷蔵庫に果物もあったりしたら、それも一緒に食べたりしますが、

一般的に言って一人暮らしの男の冷蔵庫にそんな洒落たもんは入っていませんので、

ココアだけを飲んで出かけるわけです。

カップラーメンや袋メンも常に買い置きしておくのはやめるようにして、

このココア・ダイエットを側面支援します (あれば食べちゃいますから)。

果たして効果のほどはよくわかりませんが、

すっかり夜は元の暴飲暴食生活に戻ってしまっているのに、

なんとか60㎏台はキープしていますので、

この朝のささやかな節制が少しは功を奏しているといっていいのではないでしょうか。

いつまで続けられるのか、行けるとこまで行ってみたいと思います

芸術文化クラス卒業制作展覧会

2010-02-19 17:32:13 | 人間文化論
今日は福島県文化センターで開催されている 「卒業制作展覧会」 に行ってきました。
写真の文字は見えにくいと思うので、ここに記しておきましょう。

福島大学人間発達文化学類 スポーツ・芸術創造専攻 芸術文化クラス (美術)
卒 業 制 作 展 覧 会
2010.2.17.(wed) ~ 21.(sun)
10:00~19:00(最終日は16:00まで)
福島県文化センター3F 入場無料

私は福島大学で 「文化創造論」 という授業を担当しています。
人間発達文化学類のスポーツ・芸術創造専攻の必修科目で、
2年生のときに全員が取ることになっています。
専攻名称から明らかなように、この専攻にはスポーツと音楽と美術の学生がいるのですが、
本来、文化探究専攻に所属していて、社会科教員をめざしている人たちを中心に教えている私が、
なぜか、よその専攻の必修科目をたった1人で健気に担当しているわけです。
スポーツや音楽や美術の学生に何を教えたらいいのか悩みましたが、
昨年卒業した1期生らとともに手探りしながら、授業を構築してきました。
私のほうからは、文化とは何か、スポーツとは何か、芸術とは何か、みたいな講義を3回だけして、
あとはほとんど学生たちに自分で課題をこなしてもらう感じです。
まずは、自分の専門 (サッカーとかピアノとか彫刻などなど) の魅力を
みんなに伝えてもらうプレゼンテーション。
それらを全部見た上で、スポーツと音楽と美術の共通点を探ってもらうグループ・ディスカッション。
そして、最後は混成チームを作って、
3つが融合した新しい文化を創造してもらうプレゼンテーション。
こうした活動を通して、みんなが互いの文化に触れ、互いに相手のことを尊敬・尊重しあい、
必要に応じてコラボレーションできるようになってほしい、
というのが授業者である私の願いです。
授業後の感想では、視野が広がったとか、他の文化への興味関心が増した、
この3つはまったく無関係だと思っていたけれど実は共通しているところがあるとわかった、
などといった声が多く聞かれ、そこそこに成功しているのではないかと自負しています。

さて、2年前にその授業を取った美術の学生さん (2期生) から招待を受けて、
今や卒業間近の4年生たちの卒業制作を見に行ってきたわけです。
実を言うとそんなに期待していたわけではなかったんです。
ぼくの授業を取ってくれたみんなだし、
せっかく招待してくれたんだから、いちおう義理は果たしておこうかな、ぐらいな。
ところが、むちゃくちゃ面白かったですねぇ。
本物の美術館よりも全然飽きさせないというか。
まあ、工芸、デザイン、絵画、彫塑と、
いろいろな専門の学生たちがいるからというのもあるかもしれませんが、
それ以上に1人1人の個性が際立っていて、
あの子たちはこんなパワーの持ち主だったんだ、
あるいは、その後の2年でこんなに伸びていたんだ、
ということをまざまざと感じさせられました。
こんなに記憶力の悪い私なのに、何を見たか今でも全部思い出せそうです。

・クローゼットやソファなど洋風家具
・文机や衝立など伝統的和風家具
・建物からお買い上げ商品用紙袋まで、おもちゃ屋さんの総合デザイン計画
・とってもキレイだけどとっても悲しい絵本
・14分に及ぶ大作アニメーション
・文学を題材に取った版画
・文字を取り込んだ抽象画
・生命倫理の授業で使えそうな深遠なマンガ 「dream body」
・自分の心象風景を描き出した大作絵画
・生命の神秘を描いた絵画 (というか精子と卵子)
・花を題材にした洋風とも和風とも言い難い絵画
・肉体を具象的または抽象的に表した彫刻

これは面白いです
とにかくみんな強烈な個性の持ち主です。
ひとりひとりの世界観がビンビン伝わってきます。
大学4年生でもうホントに一人前の表現者なんですね。
展覧会の趣旨として、本人たちの制作ノートとか、卒業研究ノートが置いてあるのも、
素人の私には理解の助けになって、とてもよかったです。
「文化創造論」 のテーマじゃありませんが、
ふだん美術に関心のない方にこそぜひ見ていただきたいです。
今週の日曜日までやっています。
行く場合はある程度時間の余裕を見て行ったほうがいいでしょう。
私は全部見るのに2時間かかってしまいましたが、
もうちょっと余裕があればもっとゆっくり見たかったくらいです。
ぜひうちの学生たちが創造した文化に触れていただきたいと思います。
なお、3月5日には音楽の学生たちの卒業コンサートもあります。
こちらも楽しみです。

外来語に関する発見

2010-02-18 23:59:59 | 人間文化論
欧米語はそもそも日本語とは発音体系がちがうので、
欧米語を外来語として日本語の中に取り入れるときに、
どのようなカタカナをあてるかに関して一通りの正解があるわけではありません。
例えば、shake は最近では 「シェイク」 とするのが一般的になっていますが、
私の子どもの頃は 「セーキ」 という日本語に変換されていて、
「ミルクセーキ」 というのは子どもにとってのごちそうでした。
shake がセーキなんてありえないと思いますか?
でも皆さんだって、cake を 「ケーキ」 と呼んでいませんか。
ちゃんと原音に近づけて 「ケイクください」 と言ったりはしていませんよね。

ともあれ、シェイクとセーキ、ケイクとケーキは、
同じ単語に別のカタカナをあてているにすぎないわけです。
しかし、私たち日本人にとってはカタカナが違ってしまうと、
まったく別の単語に思えてしまいますので、
カタカナで聞いていたときには別の単語と思っていたものが原語は一緒だったんだと気づくと、
なんだかミョーに 「おお!」 と感動してしまったりするわけです。
例えば幼稚園の頃に砂場で使っていたシャベルってかわいいイメージがありますね。
それに比べて工事現場で使われているパワーショベルってものすごく力強いイメージがあって、
カタカナもちがいますし、なんだか別物と思っているのですが、
どちらも shovel ですから元はといえば同じ言葉なわけです。
そのことに気づくとちょっとうれしくなります。
「ショベル」 は 「シャベル」 なのかあ、と。

私の世代の人間には、「マネキン」 と 「マヌカン」 が同じだったというのも、
大いなる発見だったのではないでしょうか。
私たちにとってはマネキン人形のほうが太古の昔から存在していましたが、
言語としては mannequin という語は、
商品の服を着て売る売り子やファッションモデルのことを指していたようです。
この単語の場合は元がフランス語で、そちらの発音は 「マヌカン」 に近く、
それが英語になったときに 「マネキン」 に近い発音になったという事情も絡んでいるようですが、
その2つが同じ単語だったというのはやはり 「おお!」 です。

これらとはちょっとパターンが違うかもしれませんが、
私が個人的に大発見だと思ったのは 「ネックレス」 です。
ネックレスはネックレスとして外来語として定着してしまっていますから、
これの原語は何なんだろうと不思議に思う人はそんなにいないかもしれません。
ちょっと英語のことを知っている人ならば、
neckless (首なし) であるはずはないよなあということくらいはわかるはずですが、
しかし、みんなそれ以上辞書を引いてみたりしているでしょうか。
引いてみれば、necklace であることはすぐにわかるはずなのです。
つまり、neck (首) のまわりに付ける lace (レース) が、
「ネックレース」、すなわち 「ネックレス」 になるわけです。
「レス」 では何のことかわかりませんが、「レース」 と言われれば、
刺繍飾りのことだとピンときますね。

他にも、「ミシン」 は 「マシーン machine」 である、というのは有名ですし、
こんなふうに日本語に別の言葉として定着してしまっているのに、
元をただすと同じ単語だったという言葉を発見すると、
なんだか、やった!勝った!という気分になれたりしませんか?
そんなことで喜んでいられるのは私だけなんでしょうか。

桧原湖のワカサギ

2010-02-17 23:58:10 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
ええ、福島に住んでいる皆さん、

桧原湖がワカサギで有名だということをご存知だったでしょうか。

不勉強なもので私は昨日まで知りませんでした。

昨晩は行きつけの居酒屋 「とと炉」 で夕食を食べたのですが、

本日のおすすめメニューの中に 「ワカサギ焼き」 がありました。

「何それ?」 と聞いてみると、

この季節になると常連さんがたまに、

桧原湖で釣ったばかりのワカサギを持ってきてくれるのだそうです。

で、ワカサギといえばたいてい唐揚げにしてしまうわけですが、

桧原湖のワカサギは日本一美味しいと言われているそうなので、

唐揚げにしちゃうのはもったいないなあと店主は考えて、

他の調理法はないか試行錯誤してみたあげく、

弱火でじっくりカリカリになるまで焼いて食べるという食べ方を考案したそうなのです。

塩コショウで軽く味付けをしてあり、

ディスプレイのためにレモンが添えてありますが、

レモンは搾らなくていいというサジェスチョンでした。

これは最高でした

ちっちゃいシシャモがたくさん並んでいる感じです。

(いや、シシャモに譬えちゃうとむしろ誤解を与えてしまうかもしれません。)

唐揚げにしちゃうときは気づきせんでしたが、

ワカサギもメスは子を持っています。

黄色いちっちゃ~いタマゴがちょこっと入っていたりするのです。

そして、この 「焼く」 という食べ方だと、

身の部分のサクッとした淡泊な味わいと、子の部分のちょっとねっとりした食感が、

あの小さな1匹1匹からちゃんと伝わってきます。

うーん、素晴らしい文化の伝承です。

こちらの店は福島の地物の食材にこだわっているのですが、

私がここ最近ずっと強調しているように、

日本人は日本のものに、福島県民は福島のものに、

もっと優先的に目を向けるようにすべきではないでしょうか。

私たちの足下に誇るべきものはたくさんあるのですから、

私たちが消費者としてどれだけ賢い選択をできるかどうかに、

この国の経済の未来はかかっていると思うのです。

恋のBGM

2010-02-16 16:28:06 | 性愛の倫理学
恋には音楽がつきものです。
最近のお気に入りは、
ロッド・スチュワートの 『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』 です。
ロッド・スチュワートといえば、
独特のハスキーボイスで一世を風靡した偉大なロック・ボーカリストですね。
かつてはジェフ・ベックとバンドを組んでいたこともあるし、
独立してからの 「セイリング」 や 「今夜決めよう」 など、
CMソングにもよく使われていましたから、
みんな一度は耳にしたことがあるでしょう。

そのロッド・スチュワートが21世紀に入ってから取り組み始めたのが、
『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』 のシリーズです。
ロッド・スチュワート自身はイギリス人ですが、
昔からアメリカのスタンダード・ナンバーが大好きで、
レコーディングやコンサートのウォーミングアップに歌ったりしていたそうです。
そうした曲のカヴァーアルバムの企画をずっと温めてきて、
2002年に満を持してVol.1を発売し、これが大ヒットしたのです。
そのライナーノーツには、ロッドのこんな言葉が紹介されていました。

「いわゆる "そのきれいなフレンチガウンの紐を解いてごらん"
 的なアルバムを作りたいと思ったんだ。
 誘惑の香りが部屋いっぱいになった時にかけるアルバム、ということさ。」

これが、当時57歳のオッサンの言うセリフでしょうか。
でも彼が言うとなぜか納得してしまいます。
本人の制作意図からしてはなっから 「恋のBGM」 が目指されていたわけですから、
そりゃあエロいに決まっています。
使わない手はありません。

今のところVol.4まで出ていますが、
一番のオススメはVol.3です。
全米1位を記録した実績にも現れていますが、
他の3枚に比べても、選曲もいいしジャケットもいいし、
「恋のBGM」 として鉄板と言っていいでしょう。
こじゃれた料理を用意し、スパークリングワインを開け、
このアルバムをかけようではありませんか。

I love you for sentimental reasons
  I hope you do believe me
  I'll give you my heart

服装は乱れない

2010-02-15 12:50:33 | 人間文化論
このところオリンピック選手の 「服装の乱れ」 が連日報道されています。
哲学的・倫理学的に言うと、今のマスコミの論調はまったく的外れなのですが、
最近のご多分に漏れず、マスコミはこの問題に関しどんどんヒートアップしているようです。
まさおさまとしてはひとことコメントしておく必要があるでしょう。

カントは 『判断力批判』 の中で次のように言っています。
「美とは主観的な普遍妥当性要求である」
これは、美についての非常に鋭い定義だと思います。
わかりやすく説明すると、
美について客観的な基準があるわけではないので、
どんな時代だろうと、どんな国や地方だろうと関係なく、
これを満たしていればゼッタイに 「美しい」 と言えるような条件などがあるわけではありません、
その意味で 「美しい」 という判断は主観的な判断でしかありえないのですが、
しかし人は何かを 「美しい」 と言うとき、
私だけではなく他の人もそれを 「美しい」 と思うはずだ、
いや、思わなければならない、と考えており、
「○○は美しい」 という判断がみんなに当てはまる (=普遍的に妥当する)
ということを要求しながら、「美しい」 と判断しているのである、
とカントは言うのです。

ちょっと小難しい話ですが、私は自分の経験に照らして、
カントのこの話にとても納得することができました。
今の若い皆さんにはまったく想像もつかないかもしれませんが、
今から30年以上前、私が高校生の頃には、
学ランに白い靴下を履くというのが流行りました。
この流行り方は異常なほどで、
オシャレに敏感な子はほとんどみんな白靴下でした。
当時は校則で靴下は黒か紺と決められており、
先生たちは朝校門に立って、靴下チェックとかをしていましたが、
私たちは学校が近づくと履き替えたりなどして、
なんとかチェックをかいくぐりできるかぎり長い時間、白靴下を履こうと努力していました。
たぶんおわかりの通り、学ランに白靴下って普通に考えてヘンです。
合いません。
黒いズボン、黒い革靴のあいだに白い靴下が見えていると、
異様に目立ち、全体の調和を損ねます。
ということを、今の私は冷静に判断することができるのですが、
当時はそういうふうに考えることも感じることもできませんでした。
とにかく白靴下がカッコよく (=美しく) 思えたのです。
そして、黒靴下や紺靴下は果てしなくカッコ悪く (=醜く) 思えたのです。
だから、先生や世の大人たちが黒や紺の靴下を履いているのも許せなく思っていました。
まさしく 「主観的な普遍妥当性要求」 です。

私は20代のある時期に 「白靴下=美しい」 という呪縛から解放されました。
これも、なぜその呪縛が解けたのかはまったく謎です。
とにかくある日突然、白靴下はカッコ悪いと思う (感じる) ようになったのです。
しかし私と同世代の人たちで相変わらずその呪縛から抜け出ていない人が存在します。
その人たちは大人になってスーツを着るようになっても、
あいかわらず白靴下を履き続けています。
しかもこれ見よがしに履いています。
彼らにそれはおかしいといくら指摘してもムダです。
彼らはそれを 「カッコいい (美しい)」 と思っているからです。
ここが大事なポイントなのですが、
白靴下は別に、大人に対する反抗や既存の規範に対する抵抗を表現するものではありませんでした。
正しい服装のあり方を知った上で、それをわざと乱していたのではないのです。
もしもそうなら大人になってからもそれを続ける必要はありません。
あくまでもそれが 「カッコいい (美しい)」 からそうしていただけなのです。
したがって大人から見れば 「服装の乱れ」 に見えたかもしれませんが、
(彼らの美的センスに反していますので、彼らがそう判断するのはしかたありませんが)
高校生にとっては何も乱れてはいなかったし、
むしろ大人のほうが服装が乱れているように見えていたのです。
つまり、美意識のちがいにすぎないのであって、
どちらが正しい、どちらが間違っているというような問題ではないのです。

当時の女子たちがカカトまであるような長いスカートを履いていたのも、
たぶん同じ心理だったのだろうと思います。
その後いろいろな着こなしの流行が出現しましたが、それも同様でしょう。
今回問題になったうちのひとつ、シャツをズボンの外に出す、というのは、
私の学生時代からあったような気がしますが、
私が福島大学に赴任した頃にはこの呪縛が相当強くなっていたように思います。
私はその日のファッションによって、シャツを出したり出さなかったりしていましたが、
ある日、シャツをズボンの中に入れてエレベーターに乗っていたところ、
知り合いの学生から、「シャツは外に出さなきゃダメですよ」 と注意されました。
「おお、まさに主観的な普遍妥当性要求だあ」 と思い、
ここまで来たら、そのうち大人になってスーツを着ても、
シャツを出さずにいられない人たちが出現するだろうなあと予想していたら、
案の定その通りになりました。
ネクタイを弛めるのなんてもはやおおかたの大人もやっていますし、
スーツのズボンをパンツが見えるくらいずり下げて歩く大人が出現するのも、
そう遠くないことだろうと思っています。

そういう人たちに向かって、本来スーツはこう着こなすべきだと教えてあげるのはかまわないし、
必要なことだと思いますが、それはたんなる助言や提案でしかありえず、
しかもそう言われたからといって、その人はそれを改めることはできないでしょう。
本人が、このカッコはヘンだということに目覚めない限り、
自分が 「カッコいい (=美しい)」 と信じている着こなしを続けるしかないのです。
したがって、それを 「服装の乱れ」 だと言って道徳的に非難するのはバカげたことです。
ましてや、そのことに関して本人に反省を求めるなど愚の骨頂でしょう。
本人はなぜ非難されているのか、何を反省したらいいのかわからないはずです。
どうしても非難したいのであれば、
オリンピック選手は移動の際は制服であるスーツを定められたとおりに着こなさねばならない、
といったルール (校則) をあらかじめ決めておき、
そのルールを承認した者のみを代表選手に選考し、
それでもなおそのルールに反した者がいた場合に、
ルールを守らなかったということに関してのみ非難するというふうにするしかないでしょう。
今回はそういうルールがあらかじめ定められていたわけではないので、
これをやるとしたら次回のオリンピックからしか適用できませんし、
私は倫理学者としてそのようなバカげたルールの制定には断固として反対していきたいと思います。

雛人形

2010-02-14 14:56:00 | 人間文化論
年末から年明け、インフルエンザをはさんで忙しくしていました。
もう2月に入り、大学の授業も終わりましたが、
それでもあいからわずずっと忙しく、
遅く帰ってきてはチャチャッと夕食をすませてすぐに寝ないと、
翌日の朝、大学の仕事に間に合わない、という日々を送っておりました。
そんなふうに慌ただしく過ごしていたもので、
自宅の階段箪笥のディスプレイがずっとクリスマス仕様のままでした。
クリスマスが終わって、年末家で年賀状を書いているときから、
もう片づけなきゃなあと思い始めていましたが、
けっきょく年が明けて気分はすっかり正月だというのに、
家に帰るとサンタクロースが出迎えるし、
1月が過ぎ、もう節分だというのにあいかわらずクリスマスツリー。
季節感もなにもありゃしないなあとちょっとブルーになっていたのです。

しかし、先週の火曜日、本当に久しぶりにぽっかり時間が空いて、
わりと早く家に帰ってくることができました。
テレビを見ようか、借りっぱなしのDVDを見ようか悩みましたが、
ここで一念発起するしかないと決断し、
ディスプレイの模様替えに取りかかったのです。
クリスマス・グッズをすべて片づけ、
階段箪笥に積もったホコリをきれいに拭き取り、
新たなディスプレイに取りかかったのです。
それが写真でご覧いただいているような、雛人形なわけです。
雛人形を出すとしたら、このタイミングしかないというくらい、
絶好の時期と言えるでしょう。

それにしてもめんどっちいです。
クリスマスのときのように、ゴンゴンゴンと
クリスマス・プレートなんかを並べればいいなんていうのとはわけがちがいます。
1個1個の造作がちっちゃいですし、
それにさらにちっちゃい付属品が山のように付随しています。
しかも、三人官女とか五人囃子とか、どれも似たような作りでありながら、
それぞれ微妙に違っていて、それによってどの付属品を持たせたらいいか変わってくるようです。
よくわからないことが多すぎて、
詳しそうな女性に電話で助けを求めてみたところ、
わざわざインターネットとかで調べてまで教えてくださいました。
それによると、役割によって並べる場所も違っているようなのです。
しかも、お内裏さまとお雛さま、どちらが右か左かといった問題に関しても、
向かって右なのか、本人 (つまり人形) から考えて右なのか、など、
その解釈もさまざまあるようで、考え方に地域差があるようです。
ホントにしちめんどくさい文化だなあと思いつつ、
助言を頼りに飾っていきました。

近代合理主義者である私は、並び順なんてどうでもいいと思っているところもあり、
せっかく教えていただいたので、わかるところはできる限り従いつつ、
よくわからないところはテキトーに手を抜いて、
2時間近くかけて並べていきました。
完成した全体像は上掲の写真のとおりですが、
もうちょっとアップで撮ってみるとこんな感じです。
まずは主役級の人たちが居並ぶ上の3段
そして、名脇役の人たちとなんかちまちました家具が並ぶ下の4段
うーん、疲れた。
まあ、でもいい気分転換になりました。
これでしばらくは、家に帰ってくるたびに、
女の子のような優しい気持ちになれるでしょう。

しかし、すでにちょっとイヤな予感が…。
これを片づけるときってまた大変だろうなあ
新学期が始まる前に片づけられるといいのですが…。