まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

ソバ屋の格

2010-01-31 23:50:15 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
日本ソバというのは大事な日本文化のひとつですが、
今日はまともなソバ屋さんとイマイチなソバ屋さんの簡単な見分け方の話です。
といってもそんなたいそうな話ではありませんが…。

まともなソバ屋さんはいろいろなことがごく普通に真っ当です。
まずソバつゆに関して言うと、
ソバ猪口とは別に徳利 (?) にソバつゆが入っていなくてはなりません。
十分な量のソバつゆをそのつど適量ずつ使えるようにです。
そして、ソバを食べ終わるちょっと前をみはからって、
ソバ湯が運ばれてきます。
こちらの食べるペースをわかった上で、
残ったソバつゆを熱々のソバ湯で飲めるように取りはからってくれているということでしょう。
私としてはこの2点がまともなソバ屋さんを見分けるポイントだと思っています。
ワサビが、本物を摺り下ろしたものか練りワサビかというのも大きな違いですが、
これはまともなソバ屋さんとイマイチなソバ屋さんの見分け方というよりは、
いいソバ屋さんと普通なソバ屋さんの見分け方と言うべきでしょう。
今日は、まともかイマイチかを見分けたいだけなので、
とりあえず、ソバつゆとソバ湯だけに注目することにしましょう。

この2つで見分けていくとすると、
上記の2つをちゃんとやれればまともなソバ屋さんですが、
その次のランクは、ソバ湯の出方が早すぎて、
おソバと一緒に持ってきてしまうお店がワンランク落ちる店ということになるでしょう。
まあ、忙しい店の場合はしかたないかもしれないですね。
これくらいはまだまともな店に含めてあげてもいいかもしれません。
しかし、その次になるともう 「まとも」 とは言えなくなってきます。
それは、こちらがソバ湯をくださいと言わない限りソバ湯をくれない店です。
関東にいた頃、私が行ったことのある店というのはだいたいこんな感じでしたが、
これはソバそのもので勝負するのではなく、
メニューの豊富さや奇抜さで勝負している店が、こんな感じだったと言えるでしょう。
そして次は、ソバつゆを最初からソバ猪口に入れて、
それだけ持ってくる店ということになるでしょう。
こういう店に出会うと、この人たちは自分でソバを食べたことがあるんだろうかと、
とても心配になってしまいます。
自分で食べたことがあれば、そんな出し方がなぜダメかというのは、
一目瞭然わかりそうなものだと思います。
もちろんそういう店の場合、こちらがお代わりをくださいと言えば、
持ってきてくれるのかもしれませんが、
客にそんな気を遣わせるというのはいかがなものでしょうか。
先ほどの 「ソバ湯をください」 と言わせる店と同様、
言われなきゃやらない店というのはイマイチと言われてもしかたないでしょう。
そして、堂々最低ランクに君臨するのは、
ソバ湯をくださいと言われても、それを出すことができない店です。
あのソバ湯を入れるジョウロみたいなやつを置いていないのか、
それともお湯でソバを茹でていないのかよくわかりませんが、
ソバ湯を提供することのできないソバ屋さんというのはどういうことなんでしょうか?
大学の生協食堂なんかでソバ湯を提供できないというのはわからないではないのですが、
ソバ屋を名乗っているのにソバ湯を出せないというのはなぜなんでしょう?
いずれにせよ最後の2つは、とにかく安さで勝負している店に多く、
こういう店って意外とたくさんあるんですよね。
学生の頃はこういう店ばかり行っていたような気がしますが、
もはやこの歳になって、こういう店には二度と行きたくないと思います。
以上、イマイチなソバ屋さんの見分け方のお話でした。

番外ですが、ワサビをめぐってあるお店の話を。
その店はムチャクチャ本格的な店で、ソバの実からこだわり、
それをどう挽くか、どう打つか、どう茹でるかなど蘊蓄たっぷりのお店で、
もちろん、上述の2点なんてごく当たり前のようにクリアしていて、
それどころか、普通の店で出されるあのドロッとしたソバ湯というのは、
本当にソバを茹でたお湯ではなく、それ用のものをお湯で溶いてるだけなんだ、
なんて暴露話まで教えてくれて、わりとひいきにしていたんです。
ところがあるときそのお店で、今日はいい本ワサビがなかったからと、
市販のチューブ入りのワサビを出されてしまったんです。
これにはげんなりしてましいました。
いい本ワサビが手に入らなかったのはしかたないとして、
せめて練りワサビくらい練っておいてくれよ、と思いました。
どちらが美味しいかということとは別に、
やはり雰囲気っていうもんがあるだろうと思うわけです。
それによってその店がまともな店でなくなったというわけではないのですが、
その日以来その店には行っていません。

男の愛、女の愛

2010-01-30 18:42:07 | 性愛の倫理学
男も女も愛を求めている。

しかし、それぞれが考える愛はまったく別物である。

女にとって重要なのは共感である。

男にとって重要なのは自尊心である

女は共感してもらえると愛されていると感じる。

男は自尊心を満たしてもらえると愛されていると感じる。

男は共感が下手である。

女性になにか相談を受けると、すぐに解決策を提供しようとする。

解決策を示してあげることが愛だと思っている。

しかし、女性はそんなことを求めていない。

女性が求めているのは共感してもらうことである。

男はそれがとても苦手である。

それができる男性は、それができない男性からは、

「女々しいヤツ」 と蔑まれたりする。

女は共感能力に優れているが、自分が共感できないものには共感できない。

そして、女性が共感できないものの最たるものは男性の自尊心である。

したがって、大方の女性は男性の自尊心を理解することはできないし、

ましてや、男性の自尊心を尊重してあげられる女性は少ない。

それができる女性は、それができない女性からは、

「男に媚びている」 と毛嫌いされる。

男も女も相手からの愛を失いたくないのであれば、

相手が何を欲しているかを理解して、戦略を立てる必要がある。

女にとって重要なのは共感である。

男性はこのことを肝に銘ずべきである。

男にとって重要なのは自尊心である

女性はこのことをけっして忘れてはならない。

太陽と月

2010-01-29 23:59:59 | 教育のエチカ
今日は30人ほど集まる大宴会だったのですが、
途中で過酷な企画が待ちかまえていました。
各テーブルからランダムで1人が選ばれて、
主催者側が用意した40個くらいの質問のなかから、
これもランダムでいくつか質問が出され、
その場で答えなければいけないという余興です。
1人につき3~4問聞かれるのですが、
前半は本人のプライバシーに関する質問、
後半はミョーに学問的な、シュールな質問です。
1人めの方は唐突かつ奇抜な質問にとても的確にうまい答えをしていたので、
みんなから、お前はサクラかとか、
質問をあらかじめ知っていて就業時間中にずっと答えを考えていたんだろう、
などと囃されていました。
まあそれくらいみごとな回答だったわけです。

これはツラい余興だなあ、ゼッタイに当てられたくないなあと思っていた矢先、
2番めの回答者として指名されてしまいました。
うわっオレかよ、とビビりながら、
それによって1人めの方がサクラや仕込みでなかったことが判明します。
最初はプライベートな質問ですが、
それにしても急に 「あなたの得意なことは何ですか?」 なんて聞かれると困ります。
30人の視線が集まっていますから、皆さんを待たせるわけにもいかず、
その場で頭をフル回転させて、何とか切り抜けました。
今なら、ブログにこれまで書いてきたことのなかから、
ああ、あれもあるし、これもあったなあといろいろと思い出し、
あの話をすればよかったと若干後悔するところがないわけでもありませんが、
その場で素早く答えるというのは本当に難しいものです。
授業で学生たちにフレーリーゲーム (これについてはそのうちご紹介します) とかを課して、
「面接なんかのときのためにも頭の瞬発力を鍛えておかなきゃいけないぞ
なんて言っている私へのしっぺ返しがこんなところでやってきたということなのでしょう。

しかし、この程度のプライベートな質問でビビっている場合ではありません。
次のシュールな質問のほうが難関です。
司会の女性の先生からにこやかにこんなことを聞かれました。

「太陽と月は実際の大きさは全然ちがうのに、
 なぜ地球からは同じくらいの大きさに見えるんだと思いますか?」

なんじゃ、その質問は?
こんな大勢の前でこんな質問に答えてみせることにどんな意味があるんだ?
と頭の一方では思いながらも、
え? え? どう答えればこの場をうまく切り抜けられるんだろうと、
頭の半分は高速回転しています。
皆さんならこんな質問を突然投げかけられたらなんと答えますか?
さあ、少し時間をあげますからちゃんと考えてみてください。
私の苦しみを皆さんも少しは味わってください。
飲み会の場ですからまともに答えても誰も笑ってくれませんよ。
ちゃんと自分なりの答えを考えた人だけ、
スクロールして続きを読むことを許可いたします。




























答えは考えましたか?
まだの人はスクロールしちゃダメですよ。


























私はやはり一瞬沈黙してしまいました。
私にとっては一瞬でしたが、本当のところはどれくらい間があったのでしょうか。
とにかくこんなに自分の頭を高速で機能させたことはないというくらい考えたあげく、
次のように答えました。

「太陽と月が同じ大きさに見えるのは、
 人間にとって昼と夜が同じくらい大事だからです。」

うーん、みごとな答えだ。
我ながら、今から振り返ってみても、よくこんないい答えが思いついたもんだと感心します。
皆さんからも拍手喝采を頂戴しました
悪のりした私は 「夜はとっても大事なんです」 と付け加えて、
マイケル・ジャクソンの腰のフリ (手を股間のあたりにかざしてクイッと腰を上下動させるやつ)
をマネしてみました。
こちらはあまりうまくいきませんでしたが、
まあとにかく、なんとかその場を切り抜けることができました。
皆さんが考えた答えはどんなものだったでしょうか?
ぜひコメント欄に書き込んでください。

無限問題 (その2)・ステーキ分割

2010-01-28 19:07:42 | 哲学・倫理学ファック
肉食系の私は昔からステーキとか大好きです。
やはりコースの最後は肉でガツンと締めたいところですね。
厚めの肉を左から順番に切り分けて食べていきます。
だいたい2㎝くらいの幅に切っているんでしょうか。
はじめのうちは肉そのものの味を楽しみ、
だんだんソースをたっぷりからめてハーモニーを確かめ、
そして赤ワインとのマリアージュを堪能する。
至福のひとときです

しかし、人生とは空しいもので、
あれだけ大きかったステーキもいつの間にか、
右端の方が少しだけ残っているのみになってしまいます。
そういうとき皆さんはどうなさっているでしょうか?
これまでと同じペースで切り分けていき、
最後の一切れもえいやっと呑みこんでしまいますか?
私は往生際が悪いのでそういうことができないのです。
私の場合はだんだんと一切れの大きさが小さくなっていきます。
早くなくなってしまわないようにです。
そして、ワイン飲んだり、パンやサラダなど他の食べ物に手を伸ばしたり、
いろいろと手を尽くして大団円を先延ばしにします。
しかし、いくらがんばっても本当に最後の一切れという瞬間はやってきてしまいます。

ところが、哲学者の私はここで 「アキレスと亀」 を使うのです。
最後の一切れのはずを、半分に切って食べるのです。
すると、半分の大きさになった最後の一切れがまだ残っています。
そして、どうするか。
もちろん、また半分に切って食べるのです。
するとまだ残っています。
そしてまた半分。
もちろん、最後のはずの一切れはどんどん小さくなっていきますから、
そのうち、筋肉の繊維1本だけみたいな情けないことになっていきますが、
それでも気にせずさらに半分に切っていきます。
普通のステーキ用ナイフでは切りにくくなってきたら、
医療用のメスを借りて半分に切り、それを爪楊枝で刺して食べます。
だんだんミクロの世界に入っていき、
電子顕微鏡とかも必要になってくるかもしれませんが、
しかしどこまでいっても必ず半分に切ることは可能なはずです。
こうして私は永遠にステーキを食べ続けることができるのです。

ちなみに、この永遠にステーキを食べ続けるワザは、
レストランで女性と一緒にお食事とかいうときにはやめておいたほうがいいでしょう。
こちらが1人で永遠に食べ続けていると、相手が退屈してしまいますから…。

踏切注意!

2010-01-27 22:48:37 | ドライブ人生論
基本的にもう電車通学となっている私ですが、
冬の福島は不穏なので、クルマも時々使う必要が出てきます。
何が不穏って、雪よりも福島は強風がよく吹いて、
それによって電車が不通になってしまうということがしばしばあるのです。
先週もそんなことがありました。
駅に行ってみたら 「東北本線は運行を見合わせております」 とかって言われてしまうのです。
そうすると、私などは電車が動き出すのをじっと待つなんていうほど、
辛抱強くはありませんので、10分かけて家まで戻ってクルマの鍵を取りに行き、
立体駐車場から延々時間をかけてクルマを出し、
そして立体駐車場を元に戻してから出発する、
なんていう手間のかかることをすることになるわけです。
できるかぎりクルマを使わずにすむようにということを期待して、
立体駐車場の一番下を借りたのですが、
こういう非常事態の時にはそれが裏目に出てしまいます。
なんにせよ電車で行く気満々のときに、駅でただ今電車は不通となっております、
なんていうアナウンスを聞かされると、
ものすごーく出鼻をくじかれた気になることはまちがいありません
したがって、家のドアを出たときに強風が吹き荒れているのを感じたら、
駅まで行ってみるまでもなく、今日はクルマで行こうという気になっちゃうのは、
しかたないのではないでしょうか。

さて、今日はむちゃくちゃいい天気でした
しかも風もなく。
昨日からはかどりネコさんがやってきている私は、
昨夜終電まで働いていたにもかかわらず、朝はすっきり目覚め、
よーし今日も働くぞぉとハイテンションで駅に向かいました。
まさかそこに落とし穴があると思いもせず、意気揚々とホームまでグイグイ歩いていきます。
いつもは電車の時間ギリギリに駅に着いて改札からホームまでダッシュする私ですが、
今日はミョーに早く家を出ているので、
ホームに着いても電車はまだ来ていません。
電車より先にホームに着いたのなんていつ以来だろうなんて考えながら、
さらにテンションは上がっていたわけです
そうしたらそこに不幸のアナウンスが
「踏切事故のため東北本線は上下線とも一部区間において運行を見合わせています」 と言うのです。
一部区間ってどこだよ
金谷川までちゃんと動くのかどうか早く教えろよ
と思いますが、それっきりしばらく放置プレイです。
そして、ややしばらく待たされてから、
「東北本線上り9時37分発の電車は運転を見合わせます。
 10時27分の電車が先に発車いたします」
とかって言うじゃありませんか
チクショー
私のこのせっかくのやる気をどうしてくれるんだっ

それにしても、1時間に1本しかない電車が止まっちゃうと本当に困ります。
今日はたまたま授業もテストもなかったからいいけれど、
駅にいた人たちのなかにはきっと2限のテストを受けに行くつもりだった人もいたことでしょう。
ひょっとするとそのテストに卒業がかかっていたなんていう人もいたかもしれません。
それにしても誰だっ、踏切事故なんか起こしたのはっ
まさか、警報が鳴ってるのに踏切に突っ込んでいっちゃった、
なんていうことじゃないだろうなあ
福島の踏切なんてほとんど開きっぱなしなんだから、
ムリして突っ込んでいったりなんてゼッタイにしないでほしいもんです。
実際にどういう事故があったのかまったくわからずに言っているのですが、
踏切がらみの事故は大惨事になる可能性がありますし、
たとえ死傷者が出なかったとしても、
こんなふうにたくさんの人の時間を奪い取って、
場合によるとその人たちの人生に大きな影響を与えてしまいかねませんので、
踏切を渡るときはとにかく慎重に運転してもらいたいものです。

けっきょく今日も先週と同様、
駅で困っていた人たちを3人ほど引き連れて家に戻り、
クルマで大学まで行ったのでした
今日は終電の時間を気にすることなくいつまででも残業できるな。
はかどりネコさんがいるうちにいっぱい働いとこうっと

馬蹄ストラップ

2010-01-26 23:56:23 | 幸せの倫理学
私はケータイを使いはじめて5年くらいになります。
けっこう抵抗していたので、現代文明に屈してから、まだそれほど日が経っていないわけです。
ケータイを買おうかどうしようか悩んでいた時期、
もしもケータイを買ったらこれをしようと心に決めていたことがありました。
スワローズ・ケータイに作り上げるという夢です。
ストラップもスワローズもの、
待ち受け画面もスワローズもの、
着信音もスワローズものにしようと思っていました。
けっきょく、その夢はすべて簡単に叶い、
誘惑に負けてケータイを買ってしまった直後に、
私の初号機はみごとなスワローズ・ケータイとして転生を遂げたのでした。

しかし、弐号機に乗り換えるころには古田の解任劇などがあり、
スワローズに対する思い入れが一気にしぼんでしまっていました。
ですので、待ち受け画面や着信音をスワローズのサイトから取り寄せるという
ひと手間をかける気にもなれないまま、
ストラップだけ付け替えて、あとは初期設定のままという、
まったくやる気の感じられないオーナーに成り下がってしまいました。
そして昨年の秋ごろ、私のやる気のなさが伝わってしまったのか、
つば九郎のストラップからつば九郎が取れてしまい、
Swallows と記されたベルトみたいなものだけが残っているという状態になってしまいました。
なんとかしてあげなきゃいけないなあと思いながらも、
わざわざ新しいスワローズ・ストラップを入手するために神宮に行く気にもなれず、
もちろんネットで購入するなんていう甲斐性もなく、
私の弐号機はとても残念な感じになってしまっていたのでした。

ちょうどそんなときにある方から、ケータイ用とは限らないのかもしれませんが、
ストラップ的なものを頂戴してしまいました。
その名も 「イタリアから届いた幸運のお守り」 だそうです。
説明書つきで、こんなふうに書いてありました。

「ヨーロッパで幸運をもたらすと言われている馬蹄に、
 恋愛、健康、仕事、夢を叶える、学問、金運などの
 願いが込められたチャームが更についています。」

「ヨーロッパでは、馬蹄は幸運を運んでくれると言われています。
 馬蹄部分を両手で挟み良いことがありますように!とお願いして下さい。
 そして、いつも一緒に持ち歩いてください。
 一つ一つ職人さんの手作りです。
 皆さまに、幸運が訪れますように祈っています!」

馬蹄はすべてに共通ですが、ラッキーチャームのほうはたくさんの種類があるみたいで、
私がいただいたやつは、「夢を叶える」 という羽根のチャームがついていました。
近代合理主義者の私は、お守りとかまったく信じておらず、
初詣とかもまったく行かないタイプの人間なので、
この手の類のものを 「いつも一緒に持ち歩い」 たり、
「両手で挟んで良いことがありますように!とお願い」 したりはしないのですが、
ちょうどストラップが壊れてしまって次のアテがないときに、
こういうものを頂戴したというのは、何かの縁なんだろうと思い、
(近代合理主義者は 「縁」 なんかも信じてはいけないはずですが…)
試しに付けてみることにいたしました。
それが冒頭の写真です。

誰にも理解も共感もしてもらえないスワローズ・ケータイよりは、
こちらのほうがオシャレな感じかもしれません。
自分が信じているかどうかは別として、
「馬蹄っていうのはね…」 とか、「この羽根は実はね…」 とかって説明してあげると、
ほとんどの女の子が食いついてきてくれることでしょう。
つば九郎ストラップはまったくスワローズの優勝とかを運んできてくれませんでしたが、
馬蹄ストラップのほうはひょっとすると具体的な幸せを本当に運んできてくれるかもしれません。
しばらく、これで様子を見てみようかと思います。

ところでこの馬蹄、お守りとしてどうかということとは別に、
ひとつすでに気に入っていることがあります。
プラスチック製のつば九郎とちがい、この馬蹄は本物の金属でできていますので、
ケータイを持ち上げた瞬間に馬蹄を机の角とかにぶつけると、
音叉みたいにすごくきれいな音が鳴ることがあるのです。
毎回鳴るわけじゃなく、どうぶつければ音がするのかもまだ解明できていませんが、
とにかく何かの拍子に、金属が共鳴しあっているようなきれいな音を奏でることがあるのです。
今、その音を再現してみようとあちこちにぶつけてみていますが、うまく鳴ってくれません。
普通に物と物がぶつかってる音がするだけです。
あの音叉のように美しく響く音は、どういうときに鳴るのでしょうか?
鳴らそうと思って鳴らすことはできないのだけれど、
たまたま偶然に美しい音を奏でてくれることがあるというのは、
なんだかとても有り難い感じがしますね。
その音を聞けるということ自体が幸運なのかもしれません。
なるほど、「イタリアから届いた幸運のお守り」 ですか。
近代合理主義者をも納得させることのできるパワーを秘めているのかもしれませんね。

無限問題 (その1) ・アキレスと亀

2010-01-25 18:19:29 | 哲学・倫理学ファック
前に清水義範の 「アキレスと亀」 というパスティーシュをご紹介したことがありました。
先輩男性社員が新人女性社員にいろいろと教えていくというお話です。
電話の応対やらコピー機の直し方など何でも教えていったあげく、
最後は哲学の大問題まで教え始めてしまう、という恥ずかしいお話です。
そこで取り上げられている哲学の大問題というのが、「アキレスと亀」 というお話で、
これはギリシア時代から伝わる有名な哲学的アポリア (解きがたい難問) です。
テーマとしては 「無限」 を扱っているのですが、
先輩男性社員のみごとな説明、すなわち、清水義範の明解な叙述を引用することによって、
その問題をご紹介することにしましょう。


「足の速いアキレスがね、足の遅い亀を後ろから追いかけるわけ。ところがね、ところがアキレスは亀をどうしても追い抜くことができないんだよ。知ってる、この話」
「知りません」
「ね、じゃ話すよ。これ面白いんだから。まずさ、まず亀を追い越そうとするには、アキレスはまず、今その亀がいるところまではとりあえず行かなきゃいけないでしょう」
「そうですか」
「そうだよ。まずはたったたった、と歩いてそこまで行くでしょう。追い越そうとしているんだから、そのためにはまず、並ばなくちゃ」
「でも、その間に亀だって少しは進んでますから…」
「あっ、鋭いなあ。そうなのよ。いきなり答を言われちゃったなあ。そういうことだよね。まずアキレスは亀のいるところまで行こうとするわけだけど、その間にね、亀も少し前へ進んでいるから、並ぶことができない。そこまで来たんだけど亀はもうちょっと前にいるわけ。そこまでは、わかるでしょう」
「はい…」
「だから次にアキレスはさ、今、亀のいるところまで行くわけ。そうするとさ、さっきと同じで、亀はまた、ちょっと前まで進んでいるわけでしょう」
「そうですけど」
女の子の顔に疑問の色が浮かんだ。
「そうするとまたアキレスは行く。でもまた亀は、ほんのちょっとだけ前へ行ってる。また行く。また亀がちょっと前。また行く。またちょっと前。こういうふうになってしまって、足の速いアキレスは、足の遅い亀にどうしても追いつかないの。追い越すどころか、追いつくこともできないの」
「でも、本当は追い越しますよね」
私は笑いをこらえて、茶そばをすすっている。
「追いつかないじゃない。だって、さっき説明した通りになっちゃうよ。まず亀がいるところまで行こうとするでしょう」
「どうしてそんなふうに思うんですか」
「だって、追い越すためには、まず追いつかなきゃ。そのためには、とりあえず今、亀がいるところまで行こうとするでしょう」
「そんなふうに区切って考えることはないと思うんですけど」
「区切りたいんだもの。そうやって区切って考えてみると、どうしてもアキレスは亀に追いつくことができない。ね。これ面白いんだから」
「アキレスはバカなんですか」
ぷっ、と吹きだして、茶そばが鼻の穴に入りそうになった。私は目に涙をため、あわててハンカチで目と、鼻をぬぐった。もちろんさり気なさを装ってそれをした。
「そうじゃなくてさ、考え方の問題なのよ。そういう考え方をするとね、とても不思議なことが起こっておかしいなあ、という話」
「でも、追い越せるような気がします」
「でもさ。まず亀が今いるところまで行くでしょう。そうすると亀はちょっとだけ前に…」
男はまたしても同じ説明をくどくどとやった。私は気を取り直してそばにとりかかる。
「そうやって何度もやっていると、亀とアキレスとの差はすごくちょっとになりません」
「そうそう。そういうことになるよ。でもどんなにちょっとでも、亀が前にいることは確かなんだから、追いついてはいないわけだよ」
「もう、1ミリくらいの差になりますね」
「なるだろうね」
「そして、アキレスがその1ミリを前へ進むとします」
「すると亀はまたちょっと前へ」
「いや、亀はたまたま4本の脚が全部地面についていたとして、さあ、脚をあげようかなあ、と思っているうちにちゃっ、とアキレスに並ばれてしまいますよ。きっとそういうふうになるんです」
わはははは、と私は大声で笑いだしてしまった。
隣の2人はびっくりして私のほうを見た。私は、ほんの少し茶そばを残したまま、そそくさと伝票を持って席を立つしかなかった。
逃げるように、支払いをすませてその店を出たのである。
そして店の外で私は、もう一度笑った。


うーん、素晴らしいっ
この問題をこんなにわかりやすく説明できる人は清水義範くらいでしょう。
しかも、女の子の返しもただのボケのようで、
実はこの問題に対する根源的批判をうまく表現しています。
これは、みごとな問答法になっているのです。
さて、無限に関する問題といってもいろいろあるのですが、
この 「アキレスと亀」 の話は無限分割に関わる問題です。
無限分割に関しては、私もふだんよく考える事例がありますので、
次回その話をご紹介することにいたしましょう。

仕事の友 (その4)・自分宛てのメール

2010-01-24 22:58:03 | お仕事のオキテ
私はよく自分宛てにメールを出します。
しばらく前に、「書き留めなければ何も起こらなかったも同じこと」
と書いたことがありますが、
私は本当に記憶力が弱いので、せっかくいいことを思いついても、
ほんの数十分もするとすっかり忘れてしまったりします。
登校中の電車やクルマの中でブログに書くネタを思いついても、
大学に着いた頃には、何か思いついたということは思い出せるのですが、
その中身がまったく思い出せなくて、とても悔しい思いをしたことが何度もあります。
ですので、何か思いついたらすぐその場で書き留めることが必要です。
書き留めるためには、手帳か何かを常に携帯しておく必要があります。
手帳についてはそのうちまた論じたいと思いますが、
手帳って意外と携帯していないことが多いです。
したがって、何かを思いついたときにそれを書き留めるのに使えないということが
手帳の場合はけっこうあるのです。

そこで便利なのがケータイ電話です。
ケータイ電話というくらいですから、携帯している率が高いです。
(私の場合、携帯していなくって、皆さんに迷惑をかけることも多いのですが…)
ともあれ、何か思いついたらその場でそれをケータイに打ち込んでしまうのです。
これを習慣にするようになってから、
せっかく何かを思いついたのにそれが思い出せないということがだいぶ減りました。
そして、ケータイに打ち込んだネタは、そのまま大学や自宅のパソコン宛てに送ります。
というわけで、私は自分宛てのメールを送受信する機会が最近とても多いのです。

先日、インフルエンザのときに見た夢の話を書きましたが、
あのときはベッドサイドにケータイを置いていましたから、
目が覚めてすぐにケータイに打ち込んだので、生々しい記事を書くことができました。
しかし、私は健康なときはケータイをベッドサイドに置いていないので、
昨日の夜、久しぶりに眠れなくてものすごくいろいろなことを思いついて、
ケータイを取りに行こうかどうしようか悩みながら、
いやこれだけクリアにいろいろ考えてしっかり覚えているのだから、
わざわざケータイを取りに行くまでもないだろうと決断し、
そのまま書き留めないままほったらかしにしておいたら、
朝、すべてを忘れてしまっていました
いろいろ思いついたことは覚えているのですが、
その中身がまったく思い出せません。
あれだけはっきりといろいろ考えて、それをちゃんと覚えていられると確信していたのに…。
これからは病気であろうとなかろうと、
ケータイはベッドサイドに置いておこうと思います。
昼も夜もケータイは常に携帯し、アイディア帳としてなんでも書き留め、
その思いつきをどんどんメールで自分宛てに送りつけることにいたしましょう

頭がデカイ

2010-01-23 19:06:29 | 幸せの倫理学
シャンプー台の話をしたときに、私の頭がデカイという問題に触れました。
今日はその話を。
私は子どもの頃から頭が大きかったです。
私は横浜国立大学教育学部附属横浜小学校というところに通っており、
そこには制服があって、制帽をかぶることが義務づけられていたのですが、
それほど背は高くはないのに、
帽子に関してだけはみんなのよりも一回り大きなものをかぶらなくてはならなかったのです。
小学生ぐらいのときは、自分としてはあまりそのことを問題と認識してはいませんでした。
頭がデカいんだから、みんなより脳も大きくて、きっと頭もいいんだぞ、
ぐらいに思っていたように思います。

しかし、中学、高校と進むにつれてそれはコンプレックスとなっていきました。
頭がデカイから頭がいいという仮説は、経験によって否定され、
それよりもルックスとかスタイルが重要になってくるにつれて、
頭がデカイということは大問題と化していったのです。
みんなからからかわれたこともあったように思います。
大学ではダンス部に入部して、部室の大鏡に自分の踊る姿を映したりしていましたから、
いよいよこの問題は自分にとって可視化されるようになったわけです。
とはいえこの問題は如何ともしようがないので、
自分にとってはずっと躓きの石であり続けました。

ある程度年をとって、ルックスやスタイルもどうでもよくなってきた頃、
この問題をポジティブに捉える視点が自分の中に育ってきました。
ひとつは、目の錯覚による利点です。
私は身長が168㎝しかないのですが、
ひとは私のことをもっと背が高いと思ってくれている、
ということがわかってきました。
ほぼすべての人が、私を170㎝以上あると思っているようです。
それはどうやら私の顔が長いので、
その顔の長さから類推して身長はこれくらいあるだろうと、
みんなが錯覚を起こしているようなのです。
実際以上に背が高く見られるということはとても有り難いことですので、
わざわざ本当は168㎝だなんて触れ回る必要はなく、
みんなの勝手な思い込みは特に訂正せずに甘受しようと思います。

もう一つは教えるショーバイに携わる者として、
自分の頭のデカさはけっこうネタに使えるということです。
塾で教えていたときに、たまたまそんな話題になり、
生徒のひとりが 「先生、マッチ棒みたいだぁ!」 と言ったら、
それがみんなの共感を呼んで、
しばらく生徒たちから 「マッチ棒先生」 と呼んでもらえたことがありました。
卒業のときの色紙にマッチ棒の絵を描いてくれた子もいました。
子どもにとってはなんであれ印象に残るということが大事ですので、
外見の弱点も、教師にとっては大きな長所となります。

また、先ほど私は顔が長いと言いましたが、
やはり塾でその話になったときに、
たしかに前から見ると顔が長いんだけど、
横から見るとオレの頭はけっこう奥行きが深いんだぞ、と自慢したところ、
これもある生徒が 「うわー、エイリアンみたいだっ!」 と叫び、
この呼び名も一世を風靡しました。
私もエイリアンはひどいだろうと思いながらも、
こいつ、うまいこと言うなあ、と我ながら納得してしまい、
「エイリアン先生」 の呼び名も甘受することになりました。

マッチ棒にせよエイリアンにせよ、外見でインパクトがあるというのは、
芸人にとっては、じゃなくて教師にとっては有り難いことです。
子どもの頃は、なんで自分はジミー・ペイジみたいに生まれなかったんだろうと、
けっこう悩んでいたものでしたが、
大人になってくれば外見というのはたんなる誘い水にすぎなくて、
人に覚えてもらえるようなインパクトさえあれば、
プラスのものであれマイナスのものであれ関係ないと思えるようになってきます。
現に悩んでいる子にそんなことを言ってあげてもしょうがないかもしれませんが、
早くこのことに気づいて幸せになってほしいなあと思う今日この頃でした。

アイドリング・ストップ (その1)

2010-01-22 19:06:20 | ドライブ人生論
最近では 「アイドリング・ストップ」 が叫ばれるようになっています。
クルマを走行させていないときにエンジンをかけておくのはやめよう!ということです。
私は昔からこれを心がけていました。
それは別に環境にやさしいからということではなく、
たんにケチだったからです。
大学時代はムリしてクルマを買ってしまったため、
そのローンと維持費と駐車場代に追われ、
東京のど真ん中の交差点の中でガス欠によりエンストしてしまったことがあるくらい、
いつもガソリン不足に悩まされていて、
できるだけエンジンを止めるというのが習慣になっていました。
それが今でも続いているというわけです。
もちろん最近ではある程度、経済的に余裕ができてきましたから、
いちいちガソリンを10リットルだけ入れてください、などと頼んだりはしませんし、
ちょっとクルマを停めておくあいだ、エンジンかけっぱなしでも、
財布の心配をする必要はなくなりましたが、
駐車するときいちいちエンジンを止めるというのはいい習慣なわけですから、
わざわざそれをやめる必要はないわけです。

福島に来て思ったのは、コンビニやスーパーで買い物しているあいだ、
エンジンをかけっぱなしにしている人がとても多いということです。
特に夏場や今のような寒い冬はそういう人が多いです。
それはたぶんエアコンをつけっぱなしにしておいて、
クルマの中を涼しいまま、あるいは、暖かいまま保っておきたいからなんでしょう。
しかし、やったことがある人はわかると思いますが、
買い物中にどんなに車中が暑くなってしまったり、冷えてしまったりしても、
運転を再開してエアコンを入れれば、ほんの少し走るあいだに、
車内温度はすぐに元に戻ってくれます。
わざわざエンジンとエアコンをかけっぱなしにしておくほどのことはないのです。
ただでさえ、クルマに乗っているということは、
大気を汚し続けているわけですから、
ほんの短い時間の暑さや寒さは辛抱すべきではないでしょうか。

同様に、クルマで出かける前に、自宅の駐車場でしばらくアイドリングをする人がいますが、
それもムダな行為と言っていいでしょう。
昔のクルマはエンジンの回転を安定させるために、
暖機運転 (=アイドリング) が必要だったようですが、
今どきのクルマはもうそんな必要はまったくなくなっているようです。
また、冬場などはクルマの中が冷え切っていて、
エアコンをつけてもしばらくのあいだは冷気しか出てきませんから、
エンジンが暖まって、温風が出てくるようになるまで、
アイドリングしておくという人も多いようです。
しかし、これもムダな行為だと思います。
停車した状態でいくらエンジンをかけっぱなしにしておいても、
なかなかエンジンは暖まらず、温風になってはくれないからです。
それよりも、とっとと発進させてエンジンの回転を上げたほうが、
早くエンジンは暖まり、温風も出てきてくれます。
これも私の経験だと、1㎞も走らないうちにほんの数分でエンジンは暖まってくれます。
停車したままだと10分くらい待っても温風は出てきてくれないでしょう。
最近ではリモートコントロールでエンジンをかけて、
クルマが暖まるのを待つなんていう装置が売られているようですが、
そんなもんつけるよりもとっとと走れ、と言いたいです。

私は縦に3台停められる立体駐車場の一番下を借りていて、
自分のクルマを駐車場から出すためには、
ボタンをじーっと90秒くらい押し続けて、地下から自分のクルマを呼び出し、
いったん自分のクルマを出して、また90秒かけて立体駐車場を地下に沈める、
という作業を毎回しなくてはなりません。
他の人たちを見ていると、自分のクルマを出して駐車場を元に戻すあいだ、
ほとんどの人がやはりエンジンをかけっぱなしにしているようですが、
私はいちいちエンジンを切るようにしています。
駐車場の操作のためにボタンを押しているあいだって、
クルマの近くでじーっと立っていなければならないのですから、
エンジンをかけっぱなしにしておくと、
そのあいだずーっと自分のクルマの排気ガスを自分で吸うことになると思うのですが、
皆さんは気にならないのでしょうか?
自分の健康のためにも、地球の環境のためにも、そして自分の財布のためにも、
エンジンはこまめに切った方がいいと思うのですが…。

というわけでアイドリング・ストップのオススメの話でした。
ところが、最近のアイドリング・ストップ問題は、
そういうレベルをもうとっくに超えてしまっているようです。
私は新しい時代のアイドリング・ストップにはまだついていけていないのですが、
それはまた別の機会に論ずることにいたしましょう。

シットダウン・プリーズ

2010-01-21 16:49:38 | 人間文化論
もう古い話ですが、こんな記事がありました。

3割弱の男性が自宅トイレで小用も座って足しているそうです。

かく言う私もかれこれ20年ぐらい前から「座って小用」派です。

20年前というのはつまり実家を出た年で、

一人暮らしをするようになってから座るようになったということです。

だって自分でトイレの掃除しなきゃいけないんだもん。

立ってするとたいてい逸れ弾が発生して、掃除がたいへんなんだよね。

記事によると狙いが外れていなかったとしても、

「立ちスタイルでは、壁まで飛まつが飛んでいる」(メーカー「TOTO」) んだそうです。

自宅にいた頃はそういう後始末はすべて母親に任せていたわけで、

ひとにやってもらっていたときにはまったく意に介さなかったくせに、

自分でやらなきゃいけなくなったら、

急に長年慣れ親しんだスタイルを変えるんですから身勝手なもんです。

まあなんにせよ自分のであれ、他人のであれ、

こぼれたションベンの後始末なんてしたくはありません。

うちで飲み会やるときは来客にも座ってすることを強要しています。

でも酔っぱらってくるとみんな立ちションに戻って派手に撒き散らしてくれるんだよなあ。

食器の後片付けはいくらでもするけど、

ひとのションベンの後片付けはいやなもんです。

ドイツでは「座って小用」が普及しているそうで、

こんな商品もバカ売れだそうです。

日本でも売ってくれないかな。

日本人の死体観

2010-01-20 20:44:59 | 生老病死の倫理学
脳死や臓器移植の問題を考える際に、
死体に対する考え方・感じ方が、この問題への賛否を左右しているということがわかります。
英語の場合、body という語が面白くて、
「身体」 という意味ももちろんあるのですが、
元はというと body は 「物体」 を意味しています。
物体である body に anima 「霊魂」 や spirit 「精神」 が宿っているうちは、
body は身体であるわけですが、
anima や spirit が抜け出てしまえば、body は物体に戻り、
body は 「死体」 という意味にもなるのです。
物体も身体も死体もすべて body という語で表せてしまうというところに、
英米人の死体観が集約されているように思います。
個人差は当然ありますが、body ということばを三種の意味を重ね合わせて使っているかぎり、
死んでしまった人の肉体にそれほど執着しないであろう、ということは想像がつきます。

それに対して日本人は死体にこだわる民族だなあと思います。
若い人たちに聞いてみても、だいたいみんな、
死んだときは死体が 「五体満足」(?) にきちんと全部揃っていることを望んでいます。
足がないと三途の川を渡れない、とか、
目がないと天国でものが見えなくて困るだろう、という発言が、
看護学校で医学を学んでいる学生さんたちからも頻繁に聞かれます。
かつて日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落したとき、
考えられないような山奥であり、かつ遺体の回収が困難な状況であるにもかかわらず、
遺族たちは現場を何度も訪れ、遺体をすべて集めようと努力されていました。
このように死体を大事にする日本人ですから、
臓器提供に対する抵抗感が大きいのは当然と言えるでしょう。
心臓や肝臓や腎臓などに関しても、死ぬときにはきちんと揃っていないと、
あの世に行ってから困るだろうというわけです。

ところが不思議なことに、これほど死体にこだわる民族であるにもかかわらず、
日本人はあっさりと死体を焼いてしまいます。
世界的に見て、火葬を行っている国というのはそれほど多くありません。
文化や宗教によっては、燃やすというのは死体に対する最大の侵犯や冒涜を意味することがあります。
それほどではなくても、死体は棺桶に入れて、そのままお墓に埋めるという、
土葬がごく普通の埋葬法だと世界中の多くの人びとが思っているのです。
その中で日本人はほぼ100%の割合で火葬を行っています。
土地が狭いのでしかたないといえばしかたないのでしょうが、
死体に対する日本人の感覚というのはどうなっているのでしょうか?
あれだけ大事にしていた死体を、葬儀終了後すべて燃やしてしまうというのは、
どういう感覚なのでしょうか。

実際、臓器提供に賛成の人たちの中には、
どうせ焼いちゃうんだから、それくらいなら有効活用してほしいという意見も聞かれます。
火葬してしまうというところを重視するなら、
臓器移植の賛成派が日本にはもっと居てもいいように思われます。
おそらく多くの日本人は、火葬が特異な埋葬法であるということを知らないのだろうと思われます。
したがって、遺体を大事にするという自分の感覚と、
遺体を焼いてしまうという習慣の残虐性とのあいだのギャップを理解していないのでしょう。
まずはそのあたりからきちんと考えてみる必要性がありそうです。

シャンプー台のこだわり

2010-01-19 18:37:13 | 人間文化論
美容院ではシャンプーがつきものですね。
昔は、床屋さん(理容室、理髪店)に通っていたんですが、
床屋さんの場合、シャンプー台って髪を切ってもらう席にそれぞれついています。
女性にはなんのことかわからないかもしれませんが、
あのカットのために上下するイスにお客さんは座り、
その前にはデカイ鏡がありますね。
床屋さんでは、あの鏡の下の部分に洗面台がしまわれていて、
髪を切り終わったら取っ手をもってガクンと引っ張り出すと、
あーら不思議、そこがシャンプー台に早変わりするわけです。
美容院のように、あのハリー・ポッターのような恰好で歩き回らなくていいので、
便利っちゃあ便利なんですが、
私にとってはひとつ大問題が。
床屋方式だと、シャンプー台に向かって頭を突き出し、
下を向いた状態で頭を洗ってもらい、
後頭部のほうからシャワーをかけられることになるのです。
先日も書いたように、私は顔に何かがかかるのが大嫌いで、
顔に水がかかるのなんて何よりも苦手です。
なのに床屋でシャンプーしてもらうと、
ありとあらゆる水が顔のほうに向かって垂れてきてしまうのです。
目にも鼻にも口にも入り込んできます。
それはまるであの北大西洋のタイタニック号の事故で溺れ死んだ日のような苦しみです。

それに比べて美容院では、こんなふうに
イスを後ろに倒して上を向いて洗ってもらえますから、
これはもう極楽です。
床屋に比べると天国と地獄の差くらいあります。
床屋よりも美容院のほうが若干高くつくのですが、もうこれだけのために、
ここ最近はすっかり美容院派になっていると言っても過言ではありません。

しかーし!
人間のというのはぜいたくなもので、
だんだん慣れてくると、それはそれでまた文句が出てきたりします。
さて、ご存知の方はご存知かもしれませんが、
私は頭がデカイです。
これをネタに記事を書けるくらいデカイです。
そして首が細いです。
最近若干太り気味で、シャツの襟のボタンがきつくなりつつありますが、
まあそんなのは誤差の範囲内であって、とにかく平均よりは細いです。
頭がデカクて首が細いとどうなるかというと、
首が弱っちょろいので首にかかる負担がハンパないことになります。
そのムリが一番かかるのが美容院でのシャンプー時なのです。
最初のうちは顔に水がかからなくて快適にシャンプーしてもらってるのですが、
しばらく経ってくるとだんだん首が痛くなってきます。
最後のほうはこれ以上続くと脳溢血かなにかで死んじゃうんじゃないかと、
本気で心配になってきてしまいます。
(実際にそういう事故はあったらしいですね)
写真で見ても首が辛そうなのがよくわかりますね。

さて、私の今のごひいきの美容院は西口のピンキーですが、
ピンキーには2種類のシャンプー台があります。
先ほどのやつが基本のタイプのフラットシャンプーです。
しかしそれだけではなく最新式のリアシャンプーというのもあって、
これがその写真です。
どうです。ラクそうでしょう。
実際むちゃくちゃラクです。
フラットシャンプーでは頭の全重量がモロに首にかかってきますが、
リアシャンプーでは頭の重みがあちこちに分散されています。
背中がけっこう立っているので、ガーゼを顔にかけることもできません。
(ガーゼをかけないのはお客さんと目が合わずにすむかららしいですが)
きっと欧米の頭がデカイ人用に開発されたんだろうなあ。
いやあ、素晴らしい発明品です。
この快適さを知ってしまったら、もうフラットシャンプーには戻れません。

どうやらピンキーの基本はまだフラットシャンプーのようで、
全部のシャンプー台が空いているときに、黙っているとフラットシャンプーに案内されます。
でも私は日本人的な遠慮なんかまったくせずに、
「いや、こっちで」と自ら進んでリアシャンプーのほうに座るようにしています。
もしも自分で家を建てることがあったら、ゼッタイにリアシャンプーを設置したいなあ。
まあ自宅にシャンプー台を設置するってありえないだろうけど。
(だいたい誰に洗ってもらうんだ?)
とにかく、首から上にいろいろな問題を抱えている人間の、
シャンプー台に対するこだわりのお話でした。

無限背進・○○のための○○

2010-01-18 19:09:17 | ドライブ人生論
目のいい人にはわからないかもしれないけど、
ぼくのように極端に視力の低い人間が朝起きてまず最初にすることは、
メガネを探すことです。
ところが目が悪いのでメガネがなかなか見つかりません。
メガネを探すためにメガネがほしい、という感じです。
子どもの頃実際にそういうメガネを用意したことがありますが、
おわかりの通り、
そのメガネも夜寝るときに外してしまうんだとすればけっきょく同じことで、
メガネを探すためのメガネを探すためのメガネが必要、という具合に、
無限に背進を続けることになります。

この問題の唯一の解決策は、
寝るときにメガネを置く場所を決めておく、という以外にありません。
そうすれば朝起きたとき手探りでそれをさがすことができるのです。
でも、寝るときに正気を保ってるときはだいたいこれでうまくいきますが、
酔っぱらってるときとか、
布団の中で本を読みながらいつの間にか寝てしまったときなんかは、
メガネかけっぱなしならいいけど、
たぶん寝ている間にいつの間にか外してしまうのでしょう、
けっきょく朝起きてどこだどこだと大騒ぎが始まることになります。
そういうときはやはりメガネを探すためのメガネがほしくなります。

さて、今年の福島は久々に雪が多くなりました。
東京出身のゼミ生には、最近の福島市内はほとんど雪が積もることはないから大丈夫だよ、
なんて甘い話を春先にしてぬか喜びさせてしまいましたが、
まったくのウソ情報になってしまいました。
雪国の福島でなんとか生き延びていって欲しいと思います。

さて、雪の降る日は電車は不安なので車で行くことになりますが、
私はこういうとき大学に着くと必ずある物を持って研究室に向かいます。
それは何でしょう?















先のメガネの話との連想ですぐにわかったと思いますが、
私はスノーブラシを研究室まで持っていくことにしています。
雪の日に1日働いて駐車場に行ってみると、
車が雪にすっぽり埋もれていたりします。
そういうときに大活躍するのがスノーブラシですが、
スノーブラシはたいてい車の中に置いてあるので、
スノーブラシを取り出すためのスノーブラシが必要になってしまうのです。
またまた無限背進の始まりです。

これを解決するには、スノーブラシを車の中に置いておかず、
必ず一緒に持って歩くようにするしかありません。
大学の構内や校舎の中をスノーブラシを持って歩くのは
けっこう恥ずかしいのですが (ほかにそんな人を見たことはありません)、
帰るとき駐車場で四苦八苦してる人たちを横目で見ながら、
持参したスノーブラシで悠然と雪を下ろすときの爽快感はたまりません。
そういうとき 「ああ自分は目が悪くてよかったなあ」 と思うのです。

無限背進解決法のお話でした。

大泉洋、または、ベートーベン

2010-01-17 23:12:42 | 幸せの倫理学
私は顔になにかがかかるのがキライです。
顔を洗って水がかかったりするのは最悪です。
髪を洗うときも下を向いて流すのは不可能で、
美容院のように上を向いて流してもらうのが好きです。
自分の髪の毛が自分の顔にかかってくるのも、イヤでイヤでしょうがありません。
ところが、私の髪の毛は前に向かって生えてくるクセがあるようで、
放っておくとどんどん自分の顔にかかってくるように伸びていくのです。
ですので、最近はいつも軽くパーマをかけていて、
髪の毛が全体にうしろに流れていくように調整しています。
あくまでも髪の毛をうしろに流すためだけですので、
それほどパーマがかかっているとはっきりわかることはないと思いますが、
コンスタントにパーマをかけているわけです。

さて、前回のパーマはかかりかたが弱かったのか、
すぐに髪の毛が伸びてきて、それが顔にかかってきてイヤでイヤでしょうがありませんでした。
今回はそのことに関して文句を言い、
すぐに顔にかかってきたりしないように強めにパーマをかけてほしいと頼みました。
いつもの美容師さんは、そんなに髪の毛がまだ伸びていないので、
強めにかけることには若干難色を示していましたが、
まあ顧客の言うことは絶対ですから、やってみましょうと言ってくれました。
というような諸々のやりとりがあって、今回のパーマが完成したわけなのです。

結果は、私の要望が通り、パーマがしっかりかかって、
当分、自分の顔に髪の毛がかかるというあの不愉快な思いはしなくてよくなりました。
本人的にはものすごくすっきりしています。
大成功です。
しかしながら、美容師さんの危惧は現実のものとなってしまいました。
パーマが強くかかりすぎてしまったのです。
軽く後ろへ流す、なんていうレベルをはるかに超えています。
もはや 「パーマの王様」 です。
「くるくるパーマ」 と言っても過言ではありません。
髪の毛が濡れている状態だと完全に林家三平師匠です。
これを一生懸命乾かしていき、なんとか髪の毛を伸ばしていくのですが、
がんばった結果が、せいぜい大泉洋と言った感じです。
あるいは、音楽の教科書に載っていたベートーベンにも似ているように見えます。

センター試験監督でお会いした先生方にはだいぶ不評を買いました。
ものすごいイメージチェンジに見えるようです。
しかし、本人的にはいつものパーマが少し強めにかかっただけですので、
いずれいつもの自分に戻っていくのはわかっていますし、
今はとにかく顔に髪の毛がかかることがありませんので、
すっきりさわやかいい気持ちです。
まあ髪型というのは、ひとからどう見えるかがすべてなわけですから、
本人的なさわやかさなんて関係ないのかもしれませんが、
本人はこの大泉洋もしくはベートーベンにすっかり満足しているわけです。
というわけで、大学生の皆さんには明日がお披露目ですが、
皆さんの率直なご感想をお聞かせいただきたいと思います。
それでどうにか修正できるわけではありませんが、
次回以降の参考にさせていただきたいと思います。
しばらくのあいだは、この大泉洋もしくはベートーベンをお楽しみください。