てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

「てつがくカフェ@ふくしま」へようこそ!

2024年10月17日 22時07分54秒 | 「てつがくカフェ@ふくしま」について
「哲学カフェ」とは、身近にあるさまざまな問題について、
誰でも気軽に対等に、安心して何でも話せる場です。

「てつがくカフェ@ふくしま」は2011年5月より、
月に1回、福島市内で、毎回2時間ほど、
参加者どうしで対話を行っています。  → 詳しくはこちら

「対話のルール」にしたがって話し合いますので、
初めての方でも安心して気軽に参加できます! → 詳しくはこちら

  次回のてつがくカフェ  →詳しくはこちら



その後の開催予定もある程度決まっております。  →詳しくはこちら




これまではこんなテーマについて話しあってきました。
→ 2011年度  → 2012年度  → 2013年度  → 2014年度  → 2015年度
→ 2016年度  → 2017年度  → 2018年度  → 2019年度  → 2020年度
→ 2021年度  → 2022年度  → 2023年度  → 2024年度

実際の話し合いの様子を文字起こしした対話録もあります。
2018.6.16「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」

2022.3.12「復興とは何か?-『コロナ禍』と『復興五輪』を考える-」

お問い合わせは fukushimacafe@mail.goo.ne.jp ←現在ログイン/やり取りができないため
世話人(石井)のメールアドレス fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp まで。

皆さまと対話できることを心より楽しみにしております。
初めての方もお気軽にご参加ください!

てつがくカフェ2024 今後の日程

2024年10月16日 22時30分22秒 | 開催予定
今後のてつカフェのスケジュールをお知らせしておきます。

テーマや日付に関してはあくまでも現段階での予定ですので、変更する場合があります。ご了承ください。



・11月23日(土)  「生きづらさ」

・12月21日(土)  「笑い」

・01月18日(土)  「      」(テーマは当日の話し合いで決めます)

・02月15日(土)  「プロフェッショナルー職業倫理についてー」

・03月08日(土)  「3.11特別編」


今後の予定は現時点では上記の通りとなります。

会場はいずれも福島市市民活動サポートセンター(チェンバおおまち3階)、

時間帯は15:00-17:00を予定しています。

また各回とも会場とオンラインの同時開催を予定していますが、

状況次第で、完全オンラインとなる可能性もあります。

そのつど状況を見ながら判断していきますので、

このブログその他でご確認ください。



てつがくカフェ@ふくしま2024.11.23.「生きづらさ」

2024年09月26日 22時50分59秒 | 開催予定
「そうやって、嫌なことから逃げ出して、ずっと生きていくつもり? 」
ー綾波レイ『新世紀エヴァンゲリオン』第19話「男の戰い」ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.11.23.
【テーマ】「生きづらさ」
【日 時】2024年11月23日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us06web.zoom.us/j/83910188334?pwd=NhtO6q5gXHXfkkPPLU725DDP8tTFkm.1

        ミーティング ID: 839 1018 8334
        パスコード: 9q3BrC

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「生きづらさ」となります。

ここでいう「生きづらさ」という言葉を、仮に定義付けをするのであれば

「人生で直面する困難やストレスに対処しにくい状態」を指す言葉として捉えて頂ければと思います。

「生きづらさ」の原因は多岐に渡りますが、以下にその一例を挙げたいと思います。

・社会の中に自分の居場所が見つからない

・将来への展望を描けない

・疎外された孤立状態にあると感じる

・対人関係の中で精神的に苦しさを感じる

・生活苦から経済的に苦しさを感じる

など、上記の他にも沢山の「生きづらさ」があるかと思いますので

当日は参加者の皆様と一緒に問い、考え、語り合いたいと思います



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

シネマdeてつがくカフェ2024.10.19.『君たちはどう生きるか』

2024年09月24日 18時15分43秒 | 開催予定
10月はシネマdeてつがくカフェを開催いたします。

「シネマdeてつがくカフェ」とは、映画を観て感じたこと、考えたことを語り合う会です。

今回語り合う映画は、2023年公開のスタジオジブリ制作による日本のアニメーション映画

『君たちはどう生きるか』です。

シネマ・本deてつがくカフェ2024.10.19.
【課題映画】『君たちはどう生きるか』
【日 時】2024年10月19日(土)
     13:00~15:00 課題映画鑑賞会
     15:10~17:00 シネマdeてつがくカフェ(感想会)
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us06web.zoom.us/j/89672960206?pwd=mzG0CukK0pLr63CKQE6kuSbxiWTTBI.1

        ミーティング ID: 896 7296 0206
        パスコード: 3x3Lc5

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



同日の13時から課題映画の鑑賞会を行いますので、

映画を観たことがない方や観たことはあるがもう一度観たいという方は、是非ご参加ください。
※オンライン参加の方につきましては、事前に課題映画をご視聴の上、ご参加願います。


【あらすじ】
太平洋戦争中の1944年。

主人公の牧眞人(まひと)は母を失い、父と共に東京を離れ、

新しい母親である母の妹であるナツコと共に新しい暮らしを始めることになる。

眞人(まひと)は複雑な感情を抱き、転校先の学校でも孤立した日々を送るが、

不気味なアオサギに導かれ、異世界に足を踏み入れることとなり…。



「シネマ・本deてつがくカフェ」は

作品について感じたこと、考えたことを、安心して何でも語り合える場です。

カフェにふらっと立ち寄るかのように、作品を気軽に語れる場があってもいい。

作品のおもしろさを、ワクワクを、 時にはモヤモヤを話したっていい。

そんな想いで開催しておりますので、皆さまのご来場をお待ち申し上げます。

初めての方もお気軽にご参加ください。

「てつがくカフェ@ふくしま」の歩み 2024年度

2024年09月23日 16時55分44秒 | 「てつがくカフェ@ふくしま」について
・04月20日(土)  「常識ってなに?」→告知 →記録

・05月18日(土)  「宇宙開発」→告知  →記録

・06月22日(土)  「わたしの子育て」→告知  →記録

・07月20日(土)  「モノの価値」→告知  →記録

・08月24日(土)  「正しい決め方ー多数決は平等かー」→告知  →記録

・09月21日(土)  「あの東京都知事選挙は何だったのか?」→告知  →記録

・10月19日(土)  シネマdeてつがくカフェ『君たちはどう生きるか』→告知  →記録

・11月23日(土)  「生きづらさ」→告知  →記録

・12月21日(土)  「笑い」→告知  →記録

・01月18日(土)  「      」(テーマは当日の話し合いで決めます)→告知  →記録

・02月15日(土)  「プロフェッショナルー職業倫理についてー」→告知  →記録

・03月08日(土)  「3.11特別編」→告知  →記録

てつがくカフェ@ふくしま2024.9.21.「あの東京都知事選挙は何だったのか?」

2024年09月02日 15時38分37秒 | 開催予定
今回は急遽予定していたテーマを変更し、

今年の7月に行われた「東京都知事選挙2024」について問い、考え、語り合います。


てつがくカフェ@ふくしま2024.9.21.
【テーマ】「あの東京都知事選挙は何だったのか?」
【日 時】2024年9月21日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us06web.zoom.us/j/86536603950?pwd=cJB11NwtFSdGzrKqfYX7L7bsRlQuJg.1
        ミーティングID: 865 3660 3950
        パスコード: 7r45wW

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp




今回のテーマは久しぶりに時事的な問題について皆様と語り合いたいと思い

告知していたテーマを変更して開催いたします。


今年の7月7日に東京都で行われた知事選挙(第22期)について

連日ニュースや新聞等で報道されておりましたので、

皆様のご記憶にも新しい出来事かと思います。

世話人自身もリアルタイムでX(旧Twitter)を確認したり、

過熱するメディアの報道ぶりを見ておりましたが、

あの出来事については「一体何が起こっているのか?」と思うほど様々な事がありました。



予想の斜め上を行くような

これまでの常識では考えられない不可解な事件や事象があり、

起きた出来事を自分の中で理解する間にまた新たな出来事が生じるといった

単なる「選挙」という枠組みでだけでは語る事が出来ないほど、

あの選挙は「混沌」とした状況にあったかと思います。



現職東京都知事である小池百合子氏の任期満了(期日:2024年7月30日)に伴い実施され、

都知事選挙における立候補者の人数としては、歴代最多の56人が立候補しました。

候補者数の増加やポスターを巡るトラブル、政見放送を巡るトラブル、

殺害・爆破予告、公共物へのシール無許可貼り付けなど挙げればキリがないほど

選挙期間中、物議を醸す事態や公職選挙法が想定していない問題が多数生じておりました。

告示日までの動きから選挙結果を含め、

当日の参加者の皆様と一緒にあの「東京都知事選挙」について語り合いたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま2024.8.24.「正しい決め方-多数決は平等か?-」

2024年07月31日 16時42分31秒 | 開催予定
「安易に多数決に頼るのは残酷な行為である」
         渋沢栄一(1840~1931)


てつがくカフェ@ふくしま2024.8.24.
【テーマ】「正しい決め方-多数決は平等か?-」
【ゲストスピーカー】齋藤正臣さん(福島市議会議員)
【日 時】2024年8月24日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/82210245329?pwd=oU8IfDTuB9MnCDml0vzSFVqNb0hS15.1
        ミーティングID: 822 1024 5329
        パスコード: 2JCRZZ

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp






今回のテーマも1月にリクエストのあった「多数決」となります。

今更ながら説明するまでもない言葉かと思いますが「多数決」とは、

ある集団において意思決定を図る際に、多数派の意見を採用する方法です。



英語では「majority decision」や「majority rule」と表現されますが、

この賛成者の多さで物事を決めるやり方は

単純明快であり誰しも一度は経験したことがあると思います。

そして、その決定した事項が自分が望んでいないものとなった場合、

多数決という一見平等公平なようで、何か腑に落ちない決め方に

納得できずにモヤモヤしたことがある人もいるかもしれません。

そんな言語化できずに心の中で沈殿していた想いについて

答えは出ないかも知れませんが

皆で考え語り合いたいと思います。



今回はゲストスピーカーとして齋藤正臣さんをお招きしています。

齋藤さんはサイトウ洋食店のオーナーシェフであり、

2011年5月に開催された第1回てつがくカフェ@ふくしまに参加してくださった後、

お店をてつカフェの会場として提供してくださる等、

本会とはたいへん縁(ゆかり)の深い方ですが、

その後、福島市議会議員にもなられ、

地方政治の現場で物事がどのように決められていくかを、

間近に目撃していらっしゃいます。

今回のテーマをお伝えしたところ、

それに関しては日頃から思うところが多々あるとのことで、

ゲストスピーカーとして話題提供していただくことにしました。

今回は、はじめに齋藤さんから問題提起していだいた上で、

「正しい決め方 ―多数決は平等か?―」について自由に話し合っていきたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.7.20.「モノの価値」

2024年07月26日 20時15分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
7月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には16名、オンラインでは5名の計21名の方にご参加いただきました。





下記に発言の一部をご紹介致します。

・それでは本日の対話に入って行きたいと思います。今回は「モノの価値」というテーマです。これも1月に何もテーマ決めずに、皆さんからテーマを出して頂いて、その時に出たテーマの内の一つ「モノの価値について」というか、「どうやってモノの価値は決まるのか?」というような話だったかな。ちょっと今誰がどういう経緯で言ったのか覚えてないし、なんでこのテーマになったのかよく覚えてないんですけど、とにかく「モノの価値」について語りたいという事で。いわゆる骨董品の価値とかもあるでしょうし、そういうのじゃなくても良いので、今日は「モノの価値」という事について考えていきたいというふうに思っております。それでは。どなたからでもどうぞ。

・「モノの価値」は時代と共に、または時を重ねて、また人によって変わるものかなっていうふうに思いました。

・世話人からこのテーマについて1月に決まったということなんですが、テーマについて議論する場合、言葉の定義というのをはっきりさせる必要があるのかなと思います。ただ完全にはっきりはさせる事は難しいと思うんです。それで、このテーマで私思ったのは「モノとはなんだろう?」「価値とは何か?」という事。「目に見えるもの」なら分かり易いんですけど、そうでない「目に見えないもの」があるだろうと。「目に見えないもの」は一杯ある訳ですよね。ある意味で「愛情」とか「約束」だとか、見えないですよね。それも「モノ」かなと思う。それから「価値」という事なんだけど、分かり易いのは「値段」ですよね。物品商品が溢れてるわけだけど、それは皆値段が付いてるから「価値」とはそういうものかなと思いやすいんです。例えば、今我々生きて空気を吸ってる訳だけど、空気なんて値段付けてないんだけど、これは非常に命をを確保する為に欠かせない訳だから、「価値」としては絶大なものだと思うんですよね。あとは「価値とは何か?」という事をある程度明らかにしていければいいかなと思って出席をしております。

・テーマの「モノ」というのを「物」ではなくて、カタカナで表現しているという事で、幅の広い捉え方でいいのかなというふうに思うんですが。「物」というのが物体ですね、対して「モノ」はカタカナで広い意味に捉えれば、物体だけではなくて抽象的な「モノ」も含まれる。または物体ではないんですけれども、人間の体の一部あたりもだと思うのというふうに言えるのかな。私、二ヶ月ほどちょっと病気になりまして、左目が緑内障になって手術しまして、入院して二ヶ月程来れなかったんですけれども。それで「目の価値」としては、私個人としてはものすごい価値がある「モノ」なんですけれども、他の人にとっては「私の目」なんてどうでもいいという風な感じで。でも、買える「価値」は物体にしろ抽象的なものにしろ、身体的な「モノ」にしろ、価値というのは、皆が認める価値と、その人自身が持っている「価値」とに分かれると思うんです。だから、私自身の「体の価値」は私自身にしか分からない。それで、大勢の人が認める「モノ」が本当の価値があるもんじゃないのかなというふうに思いますね。例えば「金(ゴールド)」という品は、どなたでも価値があると思いますけれども。それはお金に換えられるという事もあるけど、貴重な「モノ」で、皆がそれには価値があると認めているからではないのかなと思います。金本位制てのが本来なんですけど、今は貨幣経済なので通貨の価値が一番という事なんで。後は証券類というか抽象的な「モノ」で、今大分上がってますがそういう「モノ」がある。また、資産も価値がその時折で色々な資産の「価値」は変わると思うんですけれども、Windowsを作られた方とか色々な「価値」が今はありますけれども、そういった「モノ」で色々分かれるんじゃないかなと思います。

・「モノ」の価値で、値打ちがあってもそれに気づかないという事があると思います。小学校の家庭科で生きて行くために必要な「モノ」として、衣食住と教わったんですけれども、空気とか水はどうなのかと。そっちの方が大事じゃないかと思ったりしたんですが。ありふれて手に入りやすい物だといくらあっても「価値」があると意識されないという事があるんじゃないかというふうに思いました。震災の時とか水とか電気とか、普段はあまり値打ちがあるというふうに思って無いものでも、欠乏すると必要性に気づいたりいって事があると思います。さっきの話にもありましたけれども、状況によって「モノの価値」は変わってくるし、見る人によって変わってくるものだというふうに思います。

・人それぞれ個人個人で「モノの価値」はそれぞれあると思いますし、時代時代で物の価値もそれぞれ変わると思います。やはり失ってから初めてその時の「価値」が分かるというか失って初めて分かるんですよね。ある時はそんなに一々意識はしてないですから。そして、結局失ってから初めて気が付くと思います。あと「見える価値」と「見えない価値」の話で、先ほど金本位制度とか証券の話が出ましたけど、今お札が変わりますよね、一万円と五千円と千円が。これの「価値」を考えた時、お札そのものは紙ですね。元々の価値は紙そのものの価値しかなくて、それに印刷されて数字が一万円、五千円、千円と価値が付く。ある意味では、経済的な価値の目安が表示されているだけ。ただ、それでもその価値は社会的に認められる訳じゃなくて、やっぱり政府なり公的機関がそれを補償するというという事があって、お札の価値が出てんのではないかなというふうに思います。

・「価値」は必ずしも公的な誰かが決めるような気がしていて、例えばポイントカードで「全部ポイント貯まったらどうなりますよ」というやつが成立する場合に、それで何か特典が凄いものだから値段が跳ね上がるというのは、お互いに欲しい人がそうだからというだけで値段が決まっているとこもありますよね。なので、誰か欲しい人がいたら決まるけれども、その中の決め方の一つとして「国が決めたら大丈夫でしょ」とか、「誰々が決めてるから大丈夫でしょ」というのも一つのそのなんだと思います。それに対して、価値があるということの保障があるという事は、より多くの人が「じゃあ、それそれを使いましょう」とか、「それを選びましょう」という事に選択する時、よりインセンティブになるかもしれないけども、なんかそれぐらいじゃないのかなと思いました。

・最近新しい紙幣が発行されましたけれども、あの紙幣の価値というのは、その国の力を表してるんじゃないかなと。国同士の関係で円高円安、ドル高ドル安が決まってるんで。今ドル高円安という事は、日本の国力が弱まっているという証明じゃないかなと。だからもうちょっと頑張って、国力を上げてもらいたいなという気がしますね。あと、先ほどのポイントの話ですけど、皆さんがこれは使えると認めているものがポイントなんじゃないかな。認められないのはポイントになりませんよね。勝手に「ポイントを付けます」とあちこちでやってもそれが認められないんでは通用しないという事が言えるんじゃないかなと。

・先程のお札の例で政府なり公的機関が認めたということを言ったんですが、要するに最終的には国民ですよね。政府と言ったって国民が選挙で選んで、国会議員が法律を作って、それに基づいて法による行政だから、政府がそれに基づいてやってると言うことで。だけど結局、国民がそれを信用するかっていうと、やっぱりそういう国会での法律の制定とか、政府の政策の執行だとか、そういうのを見てて信頼すればこそなんですよ。だから仰る通り、根本は国民が認めたと言うことだと思う。それと、お札は国力を表しているというのはその通りだと思うんですが、だからと言って貨幣やお札の価値が国との関係で動くというのは当然なんですけど、価値が生み出されるという過程は同じかなと。アメリカだって米ドル札を発行してる訳で、その米ドル札と日本円、国力といえば国力かもしれないけど、要するに物価に反映して変わってくるだけの話だと思ってます。

・価値というのが今なんか貨幣価値の方だけに話がいっているような気がしていて、そっちのほうに流れてる気がしていて、必ずしもでもそれだけが価値ではないのではないかなというのが、また論点の一つで。あともう一つその先ほど、「失って初めて価値が分かる」ていう言い方をしたけど、そういう面もあるかもしれないけども、逆に失う前から価値に気が付いているから、めちゃくちゃ儲けてる投資家みたいな人達もいて、多分価値を定義するに当たって、失ったから分かるものというふうに定義してしまうと、恐らく世の中のぼろ儲けしてる人達がやってるもの、彼らの行動規範にある価値というものは含まれなくなってしまうような気がして、なのでそういう場合もあると価値の一面は確かに表している気がするんですけども、じゃあ価値とは何かっていうより、本質的な所を何か探そうと思った時には外れてるのかなという気がしました。

・価値を値段とか人気とかだと考えるとすれば、権威のある人がそういったからという事で価値が増えたりすることがあると思います。古くは「千利休がこう言ったから、この茶道具はもの凄い値段だ」とか。今だったら「マツコ・デラックスが褒めたからこの食品は売れるんだ」とか。というふうに、権威付けというか軽い言い方をすればミーハー的に値段が値打ちが変わっていくという側面もあるかと思います。

・今の方のお話で色々なSNSのプラットフォームが出来て、そこで「いいね」を押すと投稿が拡散されたり、色々な現象が起きる訳なんですけど。確かフェイスブックの黎明期だったと思うんですが、うちの娘が「そのうち貨幣は価値がなくなって、多分いいねみたいなものが、価値を持ってくる時代になるかもしれないね」という風に言った事があって。私はもうそれについて行けなかったんですけど。正に今その「いいね」の数が価値になる時代になってきてるんですよね。インフルエンサーと呼ばれる人がどんどん「いいね」で拡散して行くという、そういう価値に変わりつつあって。色々な人によって見方で変わる、時代によって変わる価値というのが色々あるんですけど、私的には今どんどんこう流れが追いついていけないのが、アナログからデジタルになって物の価値がもの凄く変わってる気がするんです。デバイスが変わる度、プラットフォームが変わる度にどんどんどんどんデジタルになって。もう元々そのコンテンツが持ってた価値というものがどんどん薄くなってる気がするんですよね。だから本来のその価値をこのままデジタルの世界が進んで行ったら、もう無くなっちゃうんじゃないかという風な危惧すら覚える今日この頃でした。

・価値はその値段だけじゃないんじゃないかと仰っていて、その通りなんですよね。「価値」は分け方だと思うんですけど、今値段だとか商品の経済的価値、その他技術的な価値だとか、あとは技術的な価値だとか、道徳的な価値だとか、学術的な価値だとか。宗教的な価値とか、様々種類がある訳ですね。だから、色々な価値があるんだけど、それを経済価値だけで議論すると、ちょっと不足になってしまうのではないかなというふうに思います。それと「いいね」の話がありました。また、お金なんてその内使われなくなるんじゃないかと。要するにペーパーとしての効果が恐らく要らなくなるのかもしれない。今もスマホ決済どんどんどんどん進んでますけど、そういう形でのお金はデジタルで処理をするという事が起こっているんだと思います。先程アナログとデジタルの比較みたいな話でありましたけど、仮にデジタル化したとしても価値というのはランク付けされちゃうんですね。沢山値段付けされるんですよね。その他、研究学術的な研究だって「これはクリエイティブで非常に価値があるな」とか、「これはたいした事ないな」とかランク付けする。その最も良い例がノーベル賞。最高の研究だとランク付けされる。まあ、そういうふうに色んな種類もあるし、ランク付けもある。あと価値は言葉と非常に関係していて、言葉でモノや事でもいいんですけど、モノを現さないと価値付も出来ないと思うんです。金や経済、競争でそういう日本の国はそういう時代があって、もう必死で経済成長してきた時代がありましたけれども、これからの20代や30代がだんだん中年になってきますけども、そういう若い子は我々が「稼げ、稼げ」という時代を過ぎて、ある程度豊かになって落ち着いた時に生まれてきた子供達ですよね。ですから、今度結局我々「稼げ、稼げ」と思ってた人達は金の方に価値を見出しますけれども、これから中年になる方は時代がどんどん変わりつつありますから、金もありますけれども、文化や芸術に価値を見出す人もいれば、教育に見出す人もいれば、皆それぞれこう価値の感じられ方が、個人個人で変わると思います。金だけが価値だという時代は段々薄れてきて、皆分散的に芸術に見出す教育に見出すと。それぞれ平均的なそういう時代がなってくればまた変わるんじゃないかなと思います。

・「モノの価値」というのは、個人の物の価値に対する個人の価値の集合体のような気もしますね。その個人個人にとって何が価値があるのかと。例えばですね、私、今日「てつカフェに行く」と家内に言ったら、「「そんなのに何の価値があるの?」と言われましたけれども、私にとっては重要な場でありますので、それを無視してやってきました。それとですね。私は音楽が大好きなんですけども、あのYouTubeあたりからじゃんじゃんダウンロードして今多分データとして一テラぐらいになってると思うんですが、それは私にとって価値があるもので、他の人が例えばですね、昔からの歌謡曲から今のJpop、それからハードロックに色々好きな物があるんですけども、それ私にとって価値があるもので、私が亡くなってしまったらば、それらは誰も聞きませんし。また、それを死ぬまでに全部聞けるのかと言う意味では、全然価値が無いのかなと。

・価値についてなんですけど、先ほど教育とか経済と色々な事に価値を見出して行くというお話をされたと思うんですけど、自分にとって価値がある例えば自分がそれを知ったことによって助かったとかというものの、価値や宗教なり、教育なりあると思うんですけど、そういうものが自分にとっては信じる者は救われるじゃないですけど、そういうものが自分が価値あると思ったものは周りの人にこう進めたりもするように、自分と同じタイプの人とかとそういう感じでかけて分かる人には分かるし、分からない人には分からないんじゃないかなって思いました。

・最終的にお金で払えない、表せないものに価値があるかどうかというのも、最近ちょっと微妙だなと色々考えていて、例えば芸術的な価値というのも、結局そのオークションでいくら売れたかとか、そういうような形で必ず貨幣に換算して価値付をしてランク付けするというような傾向ありますよね。また学術的価値に関しても、発明とかの場合、それで結局特許としていくら稼げるかとか、そういうような所に換算されてしまう場合が、特に理工系にいるから、そういう所に対してなんとなくそう見えてしまっているだけかもしれませんけれども。なんか、学術的価値と言われるようなものに関しても、結局の所は貨幣的に換算した上で、それがどれくらい凄いものなのかというふうに見られるものが多いように思いますし。ノーベル賞を見ていても確かに何か根源的な発見をして、宇宙物理とかでそれで貰っている方もいるにはいるけれども、何か結局薬品とかとして、凄い皆が使ってるようなものを開発して、それで賞を貰っているというケースもあったりして。考えようによって、それで一旦貨幣価値に置き換えようと思ったら置き換えるわけですよね。そういう風に考えると、「じゃあ、なんでも貨幣的な価値を変えるんだろうか」と考えた時に、少なくとも今の時点で一個だけ、貨幣的価値に置き換えるのが少し難しそうだなと思ったのは、道徳的に価値があるというもの、それを貨幣に置き換えることはできるのかなと思って。他のものはなんとなく無理やり、何かひねり出したらお金の価値に変換できそうな気がするんですけど。道徳的価値はもしかすると、それから離れて、お金に換算できない価値として何か主張できないだろうかと思って、ほのかな期待をちょっとだけしているんですけど。

・「モノの価値」というのは極論すると、心の中にあるもので全て相対的だと思って見たんですけれども、「いや、そうじゃない。これは絶対価値がある。これは絶対価値がないというものはなんだろう?」と思ってみたんですが、絶対的価値があったり絶対価値がなかったりするものって、すぐには思いつかなかったんですけれども。「これは絶対価値がある」「これは絶対価値がない」というものを思い付く人がいたら教えてほしいなと思いました。「絶対これが価値がある」と言うふうなものを思い付いたら教えてほしいです。

・それはそれこそ「価値」というのは個人的にあるものを価値あるものと考えるかどうかというのと、社会的に価値づけられているものと私は二つあると思います。要するに、個人がこれは価値があると、神様がいて神様が絶対価値が個人にあると固く信じれば、それは絶対的な価値になると思います。だからと言って、それが全人類共通な価値観となるとは必ずしもそうは言えない。それと道徳性の価値については世話人が仰っていたけど、例えば朝起きたら、家族や友達だったら「おはよう」あるいは「こんにちは」と言いましょうと。これは中々経済的な評価は難しいのではないかなと思います。小さな一つの例ですが、人それぞれ個人個人で考えが違いますので、見えないものに凄く価値を感じる人もいれば、見えるものに多くの価値を感じる人もいれば、人それぞれ個人、個人で好みも色々あると、そういうことだと思います。

・先ほど道徳的価値は金銭に変えるというお話があったと思うんですけど、今思ったのが学術的価値と似てるんですけど、例えば道徳とか価値観とかネットを使ってサービスを受けるとか、そうした際に金銭が発生するだろうなというふうなことを考えていて。ちょっとそれはどうなのかなというふうにちょっと思ったので言いました。

・絶対的価値があると言われている道徳とか、神様とかって「モノ」ではないですよね。「モノ」で絶対価値があるというのはあるのかなというのがさっきの私の疑問でした。

・絶対的価値が有る無しで思い浮かぶシーンが一つあって、民主党時代に仕分け作業というのがありまして。その時に蓮舫さんがスーパーコンピューターのパソコンを審議してる時に「二位じゃダメなんですか?」という言葉があってですね、それは「一位じゃなきゃ価値がないんだ」という風な流れの中で、蓮舫さんが多分「二位じゃダメなんですか」と言ったと思うんですが。それがかなり曲解されてですね、そのシーンをマスメディアが何回も「二位じゃダメなんですか?」というふうに質問しているシーンだけをどんどん流しちゃったもんですから。蓮舫さんの真意というのは伝わらなかったんですよね。開発者としてはどうしても一位を取りたい、アメリカと中国に負けちゃうから。日本が一位を取りたいんだという思いで言った時に「一位だけが価値が有るのか」と「スピードが速いだけが価値があるんですか?」という意味で問いかけたのが真意らしかったんですけど。だからスピードだけが早いのが価値じゃなくて、総合的に使いやすさとか、正確さとか様々な要素があって、スピードだけが価値があるもんじゃないでしょという意味で蓮舫さんが問い詰めたらしいんですけど、それが未だにこう揶揄されてるネタになってるというのが、本当に「モノの価値」はどこを見て位置づけるんだろうなというのを思いましたよね。蓮舫さんが持つ価値と、「何が何でも一位のスピードを取るんだ」という開発側の価値の視点が、そこだけを切り取られてしまって流されて未だに言われてるというこの悲劇は本当に嫌だなと思います。

・先ほど道徳的な価値について仰っていましたが、倫理にも通じると思うんですけど、倫理や道徳的な価値というものは認められると思うんですけれども、それに対する対価というのは表彰状なり感謝状、また称賛の声でこれには変えられないと言うの私は思いました。

・今蓮舫さんの話が出てきたんだけど、僕もあんまり詳しくは知らないんですが、「№2ではダメなのか」という話ですよね。それはその当時、彼女が考えられた№2は良くないかと、それが周りにも伝播したと。ただそれもまたそういうことを言う人も彼ら自身のポイントであると、それが価値があると思って言っている人も沢山いるという事で。もし、それが政治的な戦略かも分かんないしでそういう事もあると。まあ良い悪いではなくただ政治的な戦略で言ってるんで、そう思えばそんな気になるような事でもないんじゃないかと。ただ、言ってる方もそんなに気にはしておられないんじゃないかとか思ったりします。

・私も蓮舫さんの演説よく理解している訳では無いですけど、今仰ってた蓮舫さんの本当の裏事情が伝わらないで叩かれてんじゃないかと仰っていたんだと思うんだけど、世の中そういう事一杯ありますよね。要するに表現をして分かってもらうには情報を発して、それが相手に伝わってどう解釈されるかによってコミュニケーションが行われている訳だけど、だから情報というのは解釈されないと生きてこない。だからその聞く方も、実は価値観を持っている訳で、価値観を持っている訳だから、その辺はずれちゃうということは、世の中一杯あるだろうと思います。だから真意を分かってもらうというのは非常に難しい。だから私はしょっちゅう女房と喧嘩をする。女房の真意は私は分かってると思わないし、私の真意を分かってくれてる人も、だからそのすれ違いがそういう争いに発展すると言う事が起こって来ちゃうのかなと思います。それともう一つ、先ほど絶対的な価値あるものはあるのかなと仰っていたんだけど、そんな事はありえないというのは私の感想です。だって「モノ」というのは、コレをテーブルなんて言ってるけど、これはこれだけの「モノ」でしかないですね。これを価値づけるから価値が出てくる。一般的には経済的になんぼとか、ホームセンターで売ってたり、家具屋で売ってるからそういうふうに価値づけられていると思うんだけど、これものそのものは別に価値付けられてる。初めから価値付けられている訳ではないというのが私の考えです。だから、「モノ」が絶対的に存在する事で価値があるという事は有り得ないというのが私の考えです。

・人それぞれ価値というのはありますが、先ほど蓮舫さんの話出ましたけれども、私もあの時テレビで見ました。「二番目はだめなんですか?」と言ったのをテレビで見ましたね。それで結局、それが今でも言われてるという事は、世界的にも世間的にも社会的にもやっぱり一番が貴重なんだろうね。一番に価値があるという、そういう流れなんでしょうね。今オリンピックでメダルの色に金銀銅ありますけども、やっぱり「銀メダルが欲しい」と言う人はいない。金メダルの№1を取らないと意味がないという。それだけでも凄いんじゃないかと言っても、やっぱり金なんだって。だから世間的にも社会的にも、世界的にも全て何て言ったって№1が貴重で価値があるというそういう流れなんでしょうね。皆それぞれ個人で色々な価値感は違いますけれども、もう社会的には流れで一番が良いというそういう流れなんだろうと思います。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.7.20.「モノの価値」

2024年07月06日 18時15分02秒 | 開催予定
価値は、お金でできているわけではない。期待や憧れが、絶妙に調和してできている。
ーバーバラ・キングソルヴァー(作家、1955~)ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.7.20.
【テーマ】「モノの価値」
【日 時】2024年7月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/83476906831?pwd=hLTaKM2wHR8zoaWo0ey3pZzeaNEshl.1
        ミーティングID: 834 7690 6831
        パスコード: 1vjZPv

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「価値」となります。

TV番組の一つに「開運!なんでも鑑定団」という

30年続いている長寿番組があります。

番組を知らないという方に向けて解説しますと、

毎回様々な方が持参する「お宝」を、専門家達が鑑定し、

番組独自の見解に基づいて値段付けを行うという番組です。

意外な物が高価な鑑定結果を得たり、

高価だと思われていた物が偽物などで安価になってしまうという意外性や

鑑定物に対するうんちくが堪能できるのが大きな特徴です。



また、コレクターと呼ばれる収集家の代表的な収集物の中に

「切手」や「古貨幣」などがあります。

「切手」は特に興味がない人であれば、ただ郵便物を送るために必要な物に過ぎませんが、

下記の様に、「切手」の中には高額で取引される希少価値のある物もあります。

(参考HP:https://www.valuation-postagestamp.com/premium_ranking/)

・竜銭切手(一銭第3版)…発行日:1872年 平均的な相場:60万円

・旧高額切手10円…発行日:1908年~1914年 平均的な相場:17~20万円

・琉球切手(沖縄切手)改訂加刷100円…発行日:1952年 平均的な相場:10万円~


さらに、「古貨幣」についてもオークションサイトを見ると、非常に価値が高いことが分かります。



詳しくない方にとっては、

処分に困る絵や家具であっても、

古美術品やアンティークショップの経営者といった見識のある人にとっては、

喉から手が出るほど欲しい一品という事もあります。

逆に家宝として大事にしていた物も

実は二束三文にしかならないガラクタだったという場合もあり得ます。



現代は経済成長や技術革新によって、

モノがあふれる時代と言われています。

ネット通販や物流の整備によっていつでも手軽に、高品質のモノが入手できるようになりました。

そんな便利な時代に生きる一消費者として

改めて、「モノの価値」について

参加者の皆様と一緒に問い、考え、語り合いたいと思います



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.6.22.「わたしの子育て」

2024年07月01日 22時30分05秒 | 定例てつがくカフェ記録
6月22日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には16名、オンラインでは5名の計21名の方にご参加いただきました。







会場の発言の一部をご紹介致します。

・それでは今日は「私の子育て」というテーマで、まあ、これもあの1月にノンテーマでやった時に皆様から出していただいたテーマの内の一つになっております。どういうテーマにしようかと考えたんですけど、問いの形にしないで、かつもう「子育て」だから。まあ、皆さんの話を聞ければいいかなという事で、さっき言ったように「どう子どもを育てるべきか?」みたいな、そういう「あるべき論」にはしないで、「私の子育て」という形でお互いの経験とかを共有しようかなというふうに思っております。最初に言わせていただくと、まだ自分の子供がいなかった頃に、もう大分前なんですけども、ジブリ映画で「思ひ出ぽろぽろ」という作品があって。あれが現在の女性と、それから小学生時代の女性を行ったり来たりしながらという小学校時代の彼女の経験が普通に色んなエピソードで語られるんだけども。初めてその映画を見た時に、物凄く「えっ‼」て思って。何ていうかその主人公があまりに可哀想で。親の言動とかお姉ちゃんの言動とか、あまりにも可哀想でそれをブログに書いた事があるんですね。昭和の話だから昔の話なんだけども、今の常識から考えて、あまりにも酷く可哀想だったみたいなふうなことを書いたら、物凄い炎上しましてそのブログ記事が。皆さんから色んなふうに「何言ってるんだ」みたいな。「これでいいんだ」みたいなジブリファンの方々から、物凄くお叱りを受けるみたいな、炎上した事があって。その記憶もあって、この哲学カフェでもう一度その映画「思ひ出ぽろぽろ」を題材に話した事もありました。それも皆さんだったらどう思うかというのも伺いたいなと思っておりますが。とにかく皆様の「子育て」について、ご自分の経験であれ、考え方であれ、なんでも自由に発言していただければというふうに思います。

・私三人子供居るんですけど、育てあげてずっと葛藤してる事があって。「子育て」は愛情と教育の葛藤みたいな。常に迷いながら、その愛情と教育のバランスをその都度その都度考えていたんですけど。これってもう本当に人それぞれ千差万別、色んな家庭だったり、ご両親だったり、まあ、あの母親だったりのその人独自のレシピみたいなものだと思うんですよね。そのブレンドの仕方というのは。常にもう迷って迷って、もう今だに何か「これは!」という確信が持てない、とても難しい事だと思うんですよね。私実はワインが好きでして、ワインのブドウを育てる時に、あんまり良い土地、肥えた土地にブドウを植えても良い物が育たない。実が沢山なりすぎちゃったり、薄い味の水ぶくれしたようなブドウになったり、あんまりおいしいブドウが出来ないんです。それはなんでかというと、根っこがですね栄養をすぐ取れる様な状態にしておくと、表面の栄養しか取らなくて、中に根が伸びないんですよね。それってその土地の特徴とか、固有の養分とかを自分から取りに行かないんですね。あんまり栄養を与えないと、その根っこはずっとずっと地下の奥深くにこう潜って、そこからその土地にしかない養分を自分から吸い取るんですよ。だからボルドーとかだともう表面砂利だらけで痩せた土地ですよね。そういう所に良いブドウが育って、本当のその土地を表現する味わいを持つブドウになるんですね。だからそれを考えると、ブドウは天地人のそのバランスでなせる技なんですけれども。「子育て」というのも、その家に伝わる歴史とか親から教えてもらったものとか、そういう縦の軸もかなり影響する訳ですよね。平面的にその時代、時代の社会も勿論影響するし、環境も影響する。だから、とてもそのバランスというのは難しいなといまだに答えが出ない。ずっと多分答えが出ないし、どんどん変わっていくものじゃないかなと思います。

・今の話を聞いて、最近の話と重なるなと思ったんですけども。やっぱり偉い人が子どもをダメにするのはすぐ手に入るようにしちゃってるんではダメにしちゃうんだって。やっぱりある程度忍耐とかそういうのも覚えさせなきゃなんないと、本当に子どもの為にはすぐ与えちゃう事だって。手に入れるものは全てすぐ与えちゃう事がそれが一番子どもを駄目にするんだって。今のもブドウの話も全部すべて整ってる良い土地には出ないっていうので、それと共通するなと思ってね。今の話を聞いてて感じました。

・今日のテーマは「私の子育て」となってるんですが、私は「子育て」一応は終わってるというふうに思いますけど。思い出して振り返ってみると、私の場合は現役の時は仕事、仕事、仕事。女房は専業主婦という事で任せっきりだったというふうに思います。だからなのか、子供達がなんか母親の方にくっついてて、私とあまり親しく無い感じを思ってて。未だに私に対して反抗期を脱していないというか、反抗的な所があると。という事からすると、今になって反省しきりというのが実態です。それと息子はいわきで家庭を持ってるんですが、子供が生まれて孫ですね。この7月に二歳になるんですが、特に目立つのは「スマホ」ね。子供はまだ二歳なのに、もうそれポコポコ打って凄い訳ですけど。そうすると将来「どうなっちゃうのかなと。スマホ依存症になっちゃうんじゃないかなというような気もして気掛かりな所です。

・私の場合はですね、今にしてというか大分前から思ってたんですけど、大分愚かな母親だったなと自分で思うんですけども。子供は親の作品だと言う考えがあって、それで私は長女が生まれた時に「この子を天才にしよう」と。子供を天才にする本とかを買ってそれを実践したりして。そうするとですね、結構案の定賢い子になっていって、「この子天才かな?」と2~3歳ぐらいまで思ったりして。でも、どの子も2~3歳ぐらいまで天才なんですね。そういう事から私は子どもを自分でコントロール出来るもんだと思ったフシがあって。無意識に子供に色んな事をやらせたり、あとこれがいいんだと思えばそれを与えたり教育的に良い事を与えるという事をずっとしてきたんですけれども、後々考えたんですけども、子供は親にそんな事を求めてはいない。ある人が言ったんですけど「子供は愛で育つ。与えるのは愛だけでいい」と。それは大分子供がもう成人した後に聞いた話でもう時既に遅しなんですね。そうこうしている内に三人子供がいて、上二人が娘で、十歳離れて男の子だったんですけど、その子が小学校四年生から不登校になりまして、もう本当にもうアンコントロール。私のコントロール下にはいなくなってしまって。それから色んな葛藤があったんですけれども、私の「子育て」がもうこのままじゃダメだという事を感じまして、色んな教育機関に行きますと「コントロールはもう止めてください。子供との信頼関係が結べてません」と言われてしまって。こんなに一生懸命教えたのになんて事言うんだと思ったんですけど。結局子供が望んでる事を、私は子供にしていないという事だと思いまして。紆余曲折あって、今はもう成人して自立して働いてますけれども、そこに至るまでは凄い大変な思いをしました。それで先ほどちょっと気になったのが、子供に忍耐させることが重要だという話なんですけれども、それはちょっと私的にはどうかなという部分がありまして。「背負わされた荷物は重い、背負った荷物は軽い」という言葉があるんです。自分から自ら進んでやる事には、どんな忍耐でも耐えられる。だけど、与えられた忍耐は耐えられない。誰でもそうだと思うんですけど、だから不登校になった息子を育てる時に気づいたのは、子どもは自分で決めた事はどんなに辛くてもやり遂げるという事。だから今の子供は駄目だというのは、不登校なんかもダメだと言うのはちょっと違うかなっていう感じがします。

・私は三人の子供を育てたんですが、二年ぐらいで転勤を転々としながら三人を生み育てたので。振り返ると、それぞれの子供にかける時間がどうだったのかなという所が反省にあって。それを真ん中の娘についこの前話しましたら、「一人ひとりにかけるエネルギーや時間が少なくて、子供が三人だったっていう事もあって、申し訳なかった」みたいな事を言いましたら、娘が「それでよかったんじゃないの」と言うんですね。「私一人にお母さんのエネルギーがドッとかかってきたら、それはそれで負担だったかもしれないし、嫌だったかもしれないし、三人兄弟がいてちょうどいいバランスだったかもしれないよ」と言われて。ある意味ホッとしたような、そういう事かという気付きを得られたという事がありました。なので、何が正解かというのは全く子育ては無いと思えますので、それぞれの子育て、それぞれの家庭の状況やらがそれはそれで良いのかなというふうにも思えた瞬間でした。

・私も今子供が男の子三人いまして。私が気をつけている事は、浪人してた時に、一緒に浪人してた友達がいて、ソイツの言葉を覚えているんですけども。先生に「お兄ちゃんは出来が良くて、お前は出来が悪いな」と言うことを結構言われてショックというか、偶々同じ母親から生まれてきただけであって、その兄貴と比較されるのは本当腹立たしいという事で。その人はずっと言ってたので、その事を私も出来るだけ三人男なんですけど、三者三様で全くやっぱ違うんですね。生まれる順番も違うんだなという事を感じていて、そこをやっぱり比較をなるべくしないように、でもやっぱり出来が良かったり、きちっとしてたり、真ん中はバランスが良くて。私も二番目なんですけど、そんな所に行ってるなと感じつつ、なるべく比較しないように意識しています。あと、「子育て」なのか、やっぱり親である前に一人の人間なので、自分の人生を楽しむ。うちの連れはあんまり楽しめてない気がするんですけど、やっぱり自分をきちんとしっかり生きているお父さんは「今日、友達と自転車に行くから」「遊びに行くから今日は遊べないよ」
とか。「今日は予定が無いから行けるよ」という事で。私の意識してるのはちゃんと自分の時間を持つ、いずれ子供も離れていくと思うのできちんと自分の楽しみとか、やりたい事をやらないといけないのかなと思って。まだ奥さんの方もあんまり言わないんでしょうね。「私ばっかり我慢して」と言って、私とは全然タイプが違うので「貴方は何が楽しくて生きてるのかな?」と思う感じもするんですね。子供をそんなに好きでもないような感じで、いつも怒ってばっかりで。それを聞いて、私はもう本当苦痛でしかないと。ここで愚痴を言ってもしょうがないんですが、そんな所で私は比較をしないという事と、自分の人生をきちんと生きる事が、子供もそれを見て、どんな風に育つか分かりませんが、そんなふうな所を意識しています。

・今の話を聞いて奥様が子供を怒ってばかりいるみたいな状況の時もあると言うような事でしたけど。それは私の経験からするとね、仕方がない事もあるなと思います。とにかく「子育て」は大変なんです、大変でした。結婚する前は「子育て」がこんなに大変かというふうにも思わなかったし。している最中はもう毎日一日を終わらす事で精一杯だったので。とにかく自分に時間を取れなくて当たり前だったので。三番目下の子が小学校一年生になって帰りの学校帰りが二時頃になった時に、「あー、私の時間が来た」とやっと思えたんですね。その時に「じゃあ、私何やろうかな」と思った時に、あれやりたいな、これやりたいなって言うのが偶々あったので、そこからの勝手に自分のドアが開いたなんて勝手に思ってるんですけど。それまでは、とにかくもう三人でしたので、自分の事は二の次、三の次、四の次、五の次ぐらいしか出来なかったんですね。近所に頼れる親とか知り合いとか兄弟がいれば別だったと思うんですけれども、先ほども話したように二、三年で転勤しながらの子育てだったので、中々そういう状況になれなかったので。自分の時間が取れる人が、取れるという事も人それぞれ違うんだなという事も思いますし。時期とかタイミングとか時間とかも皆違うでしょうし、それはそれぞれの人生の中の学びの一つなのかなとも思うし。この前、偶々子どもの番組を子育ての番組を見ていたらば、専門家の方がお母さん方、お父さんも含めてですけど「子育ては大変なんだから30%出来てれば上等と思う。それぐらいでいいんですよ」というのを聞いて、もう過去の自分を振り返って、なんか肩の荷が下りたというか、楽になったという事がありました。

・「子育て」はやっぱり親は自分の事はもう二の次、三の次って今聞いてその通りと私もそう思ってたからね。もう自分は二の次、その通りだなと思ってね。あたしも三人子供いますけども、三人とも性格違うからね。この子はこのようにやり方が通用したけど、次の子は通用しないし。頭を回転させていかないと。私は羨ましいなと思ったのは、祖母がいる人はね。結構孫の御守だなんだってしてくれるでしょ。私はあれ見てて何程羨ましかったか分からない。私は全部自分でやったから。だからもうね、目の前の事必死になってやってるから、もう子育ての理想がどうのよりも、がむしゃらがむしゃら。自分は一日一日それでも必死になって。その一生懸命さがね、やっぱり「親の背中を見て子供は育つ」と言うけどね。その通りだなと思ってね。「子育て」でこうやってとか、そんな事も考えても、目の前の事で。祖母がいる人は本当に、たっぷり自分の時間を取りたければ取れるしね。だから、どれ位羨ましかったが分かりません。でも、背中を見て育って、三人ともまともに育ってね。「子育て」は全然何の本を読む訳でもなんでもないけども、その必死さその一生懸命さを見てそうだったのかななんて思いました。

・先ほどこちらの方ですけれども、あの「自分の子育て」についてお話しされた時に、自分の人生も楽しいも、それから子供を一緒にしない。そういう事を仰ったんですけれども、とっても良い考えだなと思いました。しかも男の子三人ですよね。やっぱりお父さんがモデルになるので、お父さんが人生を楽しく過ごしてるのを見ると、自分の将来はこうも明るいものと、大人になってからなんか楽しいんだなと大人になるって楽しいんだなというものを感じる事が出来ると思うんですよね。だから、凄く良い子育てをしていらっしゃると思いました。私もそうやって子供を育てる事をもっと楽しめば良かったなと思うんですけれども、ただお母さんの場合は、どうしても「この子を幸せしなくちゃ」とか「きちんと躾をしなくちゃ」とか、「良い子にしなくちゃ」とか、そういうのに結構縛られてて。何が大変って、その躾けとか、そういうものに気持ちを取られがちだった。私の場合はだったと思うんです。お陰様で皆さんから子供はとても良い評価を得られる事になったんですけれども。そうすると本当にその子は自分の生きたいように生きてるのかなという、そういう心配も無きにしも非ずなんですね。だから、別にいい子に育てる必要はなくて、先ほど仰ったように、自分の生きたいように自分の人生を生きるという。親は見守るという、そういうサポートする立場でいれば、そんなに苦しくもないし、大変でもないような気がするんですよね。よく見ると子供は色んな事に興味もって、色んな事をしたりして、凄く親を楽しませてくれる存在なのに、「あれしちゃ駄目」とか「あれは駄目」とか言ってなんか余計な事で忙しい気持ちになって、子供にも良くなかったかなと思う所です。自分の人生を頼んで楽しんで、しっかり生きている姿を見せるっていうのは素晴らしいなと思いました。もう一つ、奥様がキリキリしてるという所は、やっぱりご主人の思いやりが必要なのかなと思うんですね。何かにつけて感謝の気持ちを表したり、「大変だね」とかちょっとした言葉かけとか、そういうものでも大分穏やかになるんじゃないかなと老婆心ながら思いました。

・今のピリピリで思い出したんですけれど、日本はとても日本の社会全体がとても働きすぎだという風な考えがありまして。確かにそうだなというふうには前から思ってたんですけど。ちょっと前に本の紹介でオランダ辺りだったと思うんですけども、労働時間が日本よりは短いんですね。かつ日本だと正社員の様々な社会保障が付きますけれども、その国では日本で言うパートのような短い時間で働いても、ちゃんとそうしたの保障は同じように付くので。給料体系も同じなのでそれぞれが休暇を取りやすいので、「子育て」も「じゃあ、今日私が休み午後から取るから、お父さん明日午後休暇取ってね」というような事も出来るらしいというような事が紹介されていたので。それであればお互いにキリキリする度合いも減るなというふうに思いました。働く時間にゆとりがあるので、どこかに行こうかとか、キャンプに行こうかという事も計画もできるし、心にゆとりができるというそういう社会であってほしいなというふうに、その本の紹介を読んで思いました。

・日本はいつからなんでしょうかね。明治からか戦後からなのか分かりませんが、とても長く働く、働いて当たり前みたいな。最近は変わってきましたけれども、男性が働いて女性が子育てをみたいな時間が結構長い期間ありましたので、それを引きずっている部分もあるし。日本の社会構造的な事も、日本の「子育て」の難しさ、やりづらさみたいな所や、辛さみたいな所にも繋がっているかなというふうに思います。

・私は前の結婚の時は子供は出来なかったんですけど、でも結婚する時には「もしも、子どもが出来たら家事と子育ては半々にしようね」というふうに言ってたんですね。再婚しても「やっぱり家事と子育て半々で行こうね」というふうに言っていて、まあまあ半分ぐらいやってんじゃないかなと思ってこの間妻に今日に向けて聞いてきたんですけども。「半分やっていると、この場で言ってきても大丈夫でしょうか?」と言ったら、「量的にはね」と言われましたね。「量的には寧ろ八割ぐらいやってると言ってもいいよ。ただ、色々気に食わない事が沢山ある」とかという風に言われましたけども。でも、それが出来るのは僕が偶々恵まれてるというか、仕事が凄く時間が割とフレックスというか自由になるという所があって、時間が決まってないという所があるのが一つあるのと。妻も働いて、だから子供を保育園に預ける事が出来たというのも、今は小学校で学童に預けているというのがあって。そうやって預かってくれて、一日の大半はそっちで見てもらってるというのは凄くありがたい事で。やっぱり、それがあってこその半々なんだろうなというふうには思う所があって。やっぱりでも働いていると、どうしてもこう子供優先に出来ない事もあるので、そうするとこう本当に半々と言っても、結局どっちかがやんなきゃいけない。大抵そういう時は女性にみたいになってしまいがちだけど、それをせずに済んでるのは偶々かなというふうには思っています。

・茶々を入れるような話になってしまうかもしれないけれども、今世話人が「保育園」というキーワードを言ったので思い出したんですけれども。仙台市の鳥が「カッコウ」なんですね。あの「カッコー、カッコー」と鳴く。2000年ぐらいに仙台の鳥がその「カッコウ」のままでいいのかというの話が、議会で真面目に議論されていて。その時の論点が「カッコウ」というのは、自分で子供を育ててない托卵する。そのような子育てのあり方を象徴としていいんだろうかと。それを真面目に議論した時期があるというの議事録を読んで初めて知ったんですけども。なので、「さあ、どうやって子育てをするのがいいのか」と言うのは多分、市議会議員やってる方というのは、相対的に年齢が高い男性の方が多くて、やっぱりそういう男性目線の意見が強かったりしているのを見てると、まぁそういうような議論が未だに残ってるんだなあとふと思いました。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。