7月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について
世話人から報告させていただきます。
会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、
会場には16名、オンラインでは5名の計21名の方にご参加いただきました。
下記に発言の一部をご紹介致します。
・それでは本日の対話に入って行きたいと思います。今回は「モノの価値」というテーマです。これも1月に何もテーマ決めずに、皆さんからテーマを出して頂いて、その時に出たテーマの内の一つ「モノの価値について」というか、「どうやってモノの価値は決まるのか?」というような話だったかな。ちょっと今誰がどういう経緯で言ったのか覚えてないし、なんでこのテーマになったのかよく覚えてないんですけど、とにかく「モノの価値」について語りたいという事で。いわゆる骨董品の価値とかもあるでしょうし、そういうのじゃなくても良いので、今日は「モノの価値」という事について考えていきたいというふうに思っております。それでは。どなたからでもどうぞ。
・「モノの価値」は時代と共に、または時を重ねて、また人によって変わるものかなっていうふうに思いました。
・世話人からこのテーマについて1月に決まったということなんですが、テーマについて議論する場合、言葉の定義というのをはっきりさせる必要があるのかなと思います。ただ完全にはっきりはさせる事は難しいと思うんです。それで、このテーマで私思ったのは「モノとはなんだろう?」「価値とは何か?」という事。「目に見えるもの」なら分かり易いんですけど、そうでない「目に見えないもの」があるだろうと。「目に見えないもの」は一杯ある訳ですよね。ある意味で「愛情」とか「約束」だとか、見えないですよね。それも「モノ」かなと思う。それから「価値」という事なんだけど、分かり易いのは「値段」ですよね。物品商品が溢れてるわけだけど、それは皆値段が付いてるから「価値」とはそういうものかなと思いやすいんです。例えば、今我々生きて空気を吸ってる訳だけど、空気なんて値段付けてないんだけど、これは非常に命をを確保する為に欠かせない訳だから、「価値」としては絶大なものだと思うんですよね。あとは「価値とは何か?」という事をある程度明らかにしていければいいかなと思って出席をしております。
・テーマの「モノ」というのを「物」ではなくて、カタカナで表現しているという事で、幅の広い捉え方でいいのかなというふうに思うんですが。「物」というのが物体ですね、対して「モノ」はカタカナで広い意味に捉えれば、物体だけではなくて抽象的な「モノ」も含まれる。または物体ではないんですけれども、人間の体の一部あたりもだと思うのというふうに言えるのかな。私、二ヶ月ほどちょっと病気になりまして、左目が緑内障になって手術しまして、入院して二ヶ月程来れなかったんですけれども。それで「目の価値」としては、私個人としてはものすごい価値がある「モノ」なんですけれども、他の人にとっては「私の目」なんてどうでもいいという風な感じで。でも、買える「価値」は物体にしろ抽象的なものにしろ、身体的な「モノ」にしろ、価値というのは、皆が認める価値と、その人自身が持っている「価値」とに分かれると思うんです。だから、私自身の「体の価値」は私自身にしか分からない。それで、大勢の人が認める「モノ」が本当の価値があるもんじゃないのかなというふうに思いますね。例えば「金(ゴールド)」という品は、どなたでも価値があると思いますけれども。それはお金に換えられるという事もあるけど、貴重な「モノ」で、皆がそれには価値があると認めているからではないのかなと思います。金本位制てのが本来なんですけど、今は貨幣経済なので通貨の価値が一番という事なんで。後は証券類というか抽象的な「モノ」で、今大分上がってますがそういう「モノ」がある。また、資産も価値がその時折で色々な資産の「価値」は変わると思うんですけれども、Windowsを作られた方とか色々な「価値」が今はありますけれども、そういった「モノ」で色々分かれるんじゃないかなと思います。
・「モノ」の価値で、値打ちがあってもそれに気づかないという事があると思います。小学校の家庭科で生きて行くために必要な「モノ」として、衣食住と教わったんですけれども、空気とか水はどうなのかと。そっちの方が大事じゃないかと思ったりしたんですが。ありふれて手に入りやすい物だといくらあっても「価値」があると意識されないという事があるんじゃないかというふうに思いました。震災の時とか水とか電気とか、普段はあまり値打ちがあるというふうに思って無いものでも、欠乏すると必要性に気づいたりいって事があると思います。さっきの話にもありましたけれども、状況によって「モノの価値」は変わってくるし、見る人によって変わってくるものだというふうに思います。
・人それぞれ個人個人で「モノの価値」はそれぞれあると思いますし、時代時代で物の価値もそれぞれ変わると思います。やはり失ってから初めてその時の「価値」が分かるというか失って初めて分かるんですよね。ある時はそんなに一々意識はしてないですから。そして、結局失ってから初めて気が付くと思います。あと「見える価値」と「見えない価値」の話で、先ほど金本位制度とか証券の話が出ましたけど、今お札が変わりますよね、一万円と五千円と千円が。これの「価値」を考えた時、お札そのものは紙ですね。元々の価値は紙そのものの価値しかなくて、それに印刷されて数字が一万円、五千円、千円と価値が付く。ある意味では、経済的な価値の目安が表示されているだけ。ただ、それでもその価値は社会的に認められる訳じゃなくて、やっぱり政府なり公的機関がそれを補償するというという事があって、お札の価値が出てんのではないかなというふうに思います。
・「価値」は必ずしも公的な誰かが決めるような気がしていて、例えばポイントカードで「全部ポイント貯まったらどうなりますよ」というやつが成立する場合に、それで何か特典が凄いものだから値段が跳ね上がるというのは、お互いに欲しい人がそうだからというだけで値段が決まっているとこもありますよね。なので、誰か欲しい人がいたら決まるけれども、その中の決め方の一つとして「国が決めたら大丈夫でしょ」とか、「誰々が決めてるから大丈夫でしょ」というのも一つのそのなんだと思います。それに対して、価値があるということの保障があるという事は、より多くの人が「じゃあ、それそれを使いましょう」とか、「それを選びましょう」という事に選択する時、よりインセンティブになるかもしれないけども、なんかそれぐらいじゃないのかなと思いました。
・最近新しい紙幣が発行されましたけれども、あの紙幣の価値というのは、その国の力を表してるんじゃないかなと。国同士の関係で円高円安、ドル高ドル安が決まってるんで。今ドル高円安という事は、日本の国力が弱まっているという証明じゃないかなと。だからもうちょっと頑張って、国力を上げてもらいたいなという気がしますね。あと、先ほどのポイントの話ですけど、皆さんがこれは使えると認めているものがポイントなんじゃないかな。認められないのはポイントになりませんよね。勝手に「ポイントを付けます」とあちこちでやってもそれが認められないんでは通用しないという事が言えるんじゃないかなと。
・先程のお札の例で政府なり公的機関が認めたということを言ったんですが、要するに最終的には国民ですよね。政府と言ったって国民が選挙で選んで、国会議員が法律を作って、それに基づいて法による行政だから、政府がそれに基づいてやってると言うことで。だけど結局、国民がそれを信用するかっていうと、やっぱりそういう国会での法律の制定とか、政府の政策の執行だとか、そういうのを見てて信頼すればこそなんですよ。だから仰る通り、根本は国民が認めたと言うことだと思う。それと、お札は国力を表しているというのはその通りだと思うんですが、だからと言って貨幣やお札の価値が国との関係で動くというのは当然なんですけど、価値が生み出されるという過程は同じかなと。アメリカだって米ドル札を発行してる訳で、その米ドル札と日本円、国力といえば国力かもしれないけど、要するに物価に反映して変わってくるだけの話だと思ってます。
・価値というのが今なんか貨幣価値の方だけに話がいっているような気がしていて、そっちのほうに流れてる気がしていて、必ずしもでもそれだけが価値ではないのではないかなというのが、また論点の一つで。あともう一つその先ほど、「失って初めて価値が分かる」ていう言い方をしたけど、そういう面もあるかもしれないけども、逆に失う前から価値に気が付いているから、めちゃくちゃ儲けてる投資家みたいな人達もいて、多分価値を定義するに当たって、失ったから分かるものというふうに定義してしまうと、恐らく世の中のぼろ儲けしてる人達がやってるもの、彼らの行動規範にある価値というものは含まれなくなってしまうような気がして、なのでそういう場合もあると価値の一面は確かに表している気がするんですけども、じゃあ価値とは何かっていうより、本質的な所を何か探そうと思った時には外れてるのかなという気がしました。
・価値を値段とか人気とかだと考えるとすれば、権威のある人がそういったからという事で価値が増えたりすることがあると思います。古くは「千利休がこう言ったから、この茶道具はもの凄い値段だ」とか。今だったら「マツコ・デラックスが褒めたからこの食品は売れるんだ」とか。というふうに、権威付けというか軽い言い方をすればミーハー的に値段が値打ちが変わっていくという側面もあるかと思います。
・今の方のお話で色々なSNSのプラットフォームが出来て、そこで「いいね」を押すと投稿が拡散されたり、色々な現象が起きる訳なんですけど。確かフェイスブックの黎明期だったと思うんですが、うちの娘が「そのうち貨幣は価値がなくなって、多分いいねみたいなものが、価値を持ってくる時代になるかもしれないね」という風に言った事があって。私はもうそれについて行けなかったんですけど。正に今その「いいね」の数が価値になる時代になってきてるんですよね。インフルエンサーと呼ばれる人がどんどん「いいね」で拡散して行くという、そういう価値に変わりつつあって。色々な人によって見方で変わる、時代によって変わる価値というのが色々あるんですけど、私的には今どんどんこう流れが追いついていけないのが、アナログからデジタルになって物の価値がもの凄く変わってる気がするんです。デバイスが変わる度、プラットフォームが変わる度にどんどんどんどんデジタルになって。もう元々そのコンテンツが持ってた価値というものがどんどん薄くなってる気がするんですよね。だから本来のその価値をこのままデジタルの世界が進んで行ったら、もう無くなっちゃうんじゃないかという風な危惧すら覚える今日この頃でした。
・価値はその値段だけじゃないんじゃないかと仰っていて、その通りなんですよね。「価値」は分け方だと思うんですけど、今値段だとか商品の経済的価値、その他技術的な価値だとか、あとは技術的な価値だとか、道徳的な価値だとか、学術的な価値だとか。宗教的な価値とか、様々種類がある訳ですね。だから、色々な価値があるんだけど、それを経済価値だけで議論すると、ちょっと不足になってしまうのではないかなというふうに思います。それと「いいね」の話がありました。また、お金なんてその内使われなくなるんじゃないかと。要するにペーパーとしての効果が恐らく要らなくなるのかもしれない。今もスマホ決済どんどんどんどん進んでますけど、そういう形でのお金はデジタルで処理をするという事が起こっているんだと思います。先程アナログとデジタルの比較みたいな話でありましたけど、仮にデジタル化したとしても価値というのはランク付けされちゃうんですね。沢山値段付けされるんですよね。その他、研究学術的な研究だって「これはクリエイティブで非常に価値があるな」とか、「これはたいした事ないな」とかランク付けする。その最も良い例がノーベル賞。最高の研究だとランク付けされる。まあ、そういうふうに色んな種類もあるし、ランク付けもある。あと価値は言葉と非常に関係していて、言葉でモノや事でもいいんですけど、モノを現さないと価値付も出来ないと思うんです。金や経済、競争でそういう日本の国はそういう時代があって、もう必死で経済成長してきた時代がありましたけれども、これからの20代や30代がだんだん中年になってきますけども、そういう若い子は我々が「稼げ、稼げ」という時代を過ぎて、ある程度豊かになって落ち着いた時に生まれてきた子供達ですよね。ですから、今度結局我々「稼げ、稼げ」と思ってた人達は金の方に価値を見出しますけれども、これから中年になる方は時代がどんどん変わりつつありますから、金もありますけれども、文化や芸術に価値を見出す人もいれば、教育に見出す人もいれば、皆それぞれこう価値の感じられ方が、個人個人で変わると思います。金だけが価値だという時代は段々薄れてきて、皆分散的に芸術に見出す教育に見出すと。それぞれ平均的なそういう時代がなってくればまた変わるんじゃないかなと思います。
・「モノの価値」というのは、個人の物の価値に対する個人の価値の集合体のような気もしますね。その個人個人にとって何が価値があるのかと。例えばですね、私、今日「てつカフェに行く」と家内に言ったら、「「そんなのに何の価値があるの?」と言われましたけれども、私にとっては重要な場でありますので、それを無視してやってきました。それとですね。私は音楽が大好きなんですけども、あのYouTubeあたりからじゃんじゃんダウンロードして今多分データとして一テラぐらいになってると思うんですが、それは私にとって価値があるもので、他の人が例えばですね、昔からの歌謡曲から今のJpop、それからハードロックに色々好きな物があるんですけども、それ私にとって価値があるもので、私が亡くなってしまったらば、それらは誰も聞きませんし。また、それを死ぬまでに全部聞けるのかと言う意味では、全然価値が無いのかなと。
・価値についてなんですけど、先ほど教育とか経済と色々な事に価値を見出して行くというお話をされたと思うんですけど、自分にとって価値がある例えば自分がそれを知ったことによって助かったとかというものの、価値や宗教なり、教育なりあると思うんですけど、そういうものが自分にとっては信じる者は救われるじゃないですけど、そういうものが自分が価値あると思ったものは周りの人にこう進めたりもするように、自分と同じタイプの人とかとそういう感じでかけて分かる人には分かるし、分からない人には分からないんじゃないかなって思いました。
・最終的にお金で払えない、表せないものに価値があるかどうかというのも、最近ちょっと微妙だなと色々考えていて、例えば芸術的な価値というのも、結局そのオークションでいくら売れたかとか、そういうような形で必ず貨幣に換算して価値付をしてランク付けするというような傾向ありますよね。また学術的価値に関しても、発明とかの場合、それで結局特許としていくら稼げるかとか、そういうような所に換算されてしまう場合が、特に理工系にいるから、そういう所に対してなんとなくそう見えてしまっているだけかもしれませんけれども。なんか、学術的価値と言われるようなものに関しても、結局の所は貨幣的に換算した上で、それがどれくらい凄いものなのかというふうに見られるものが多いように思いますし。ノーベル賞を見ていても確かに何か根源的な発見をして、宇宙物理とかでそれで貰っている方もいるにはいるけれども、何か結局薬品とかとして、凄い皆が使ってるようなものを開発して、それで賞を貰っているというケースもあったりして。考えようによって、それで一旦貨幣価値に置き換えようと思ったら置き換えるわけですよね。そういう風に考えると、「じゃあ、なんでも貨幣的な価値を変えるんだろうか」と考えた時に、少なくとも今の時点で一個だけ、貨幣的価値に置き換えるのが少し難しそうだなと思ったのは、道徳的に価値があるというもの、それを貨幣に置き換えることはできるのかなと思って。他のものはなんとなく無理やり、何かひねり出したらお金の価値に変換できそうな気がするんですけど。道徳的価値はもしかすると、それから離れて、お金に換算できない価値として何か主張できないだろうかと思って、ほのかな期待をちょっとだけしているんですけど。
・「モノの価値」というのは極論すると、心の中にあるもので全て相対的だと思って見たんですけれども、「いや、そうじゃない。これは絶対価値がある。これは絶対価値がないというものはなんだろう?」と思ってみたんですが、絶対的価値があったり絶対価値がなかったりするものって、すぐには思いつかなかったんですけれども。「これは絶対価値がある」「これは絶対価値がない」というものを思い付く人がいたら教えてほしいなと思いました。「絶対これが価値がある」と言うふうなものを思い付いたら教えてほしいです。
・それはそれこそ「価値」というのは個人的にあるものを価値あるものと考えるかどうかというのと、社会的に価値づけられているものと私は二つあると思います。要するに、個人がこれは価値があると、神様がいて神様が絶対価値が個人にあると固く信じれば、それは絶対的な価値になると思います。だからと言って、それが全人類共通な価値観となるとは必ずしもそうは言えない。それと道徳性の価値については世話人が仰っていたけど、例えば朝起きたら、家族や友達だったら「おはよう」あるいは「こんにちは」と言いましょうと。これは中々経済的な評価は難しいのではないかなと思います。小さな一つの例ですが、人それぞれ個人個人で考えが違いますので、見えないものに凄く価値を感じる人もいれば、見えるものに多くの価値を感じる人もいれば、人それぞれ個人、個人で好みも色々あると、そういうことだと思います。
・先ほど道徳的価値は金銭に変えるというお話があったと思うんですけど、今思ったのが学術的価値と似てるんですけど、例えば道徳とか価値観とかネットを使ってサービスを受けるとか、そうした際に金銭が発生するだろうなというふうなことを考えていて。ちょっとそれはどうなのかなというふうにちょっと思ったので言いました。
・絶対的価値があると言われている道徳とか、神様とかって「モノ」ではないですよね。「モノ」で絶対価値があるというのはあるのかなというのがさっきの私の疑問でした。
・絶対的価値が有る無しで思い浮かぶシーンが一つあって、民主党時代に仕分け作業というのがありまして。その時に蓮舫さんがスーパーコンピューターのパソコンを審議してる時に「二位じゃダメなんですか?」という言葉があってですね、それは「一位じゃなきゃ価値がないんだ」という風な流れの中で、蓮舫さんが多分「二位じゃダメなんですか」と言ったと思うんですが。それがかなり曲解されてですね、そのシーンをマスメディアが何回も「二位じゃダメなんですか?」というふうに質問しているシーンだけをどんどん流しちゃったもんですから。蓮舫さんの真意というのは伝わらなかったんですよね。開発者としてはどうしても一位を取りたい、アメリカと中国に負けちゃうから。日本が一位を取りたいんだという思いで言った時に「一位だけが価値が有るのか」と「スピードが速いだけが価値があるんですか?」という意味で問いかけたのが真意らしかったんですけど。だからスピードだけが早いのが価値じゃなくて、総合的に使いやすさとか、正確さとか様々な要素があって、スピードだけが価値があるもんじゃないでしょという意味で蓮舫さんが問い詰めたらしいんですけど、それが未だにこう揶揄されてるネタになってるというのが、本当に「モノの価値」はどこを見て位置づけるんだろうなというのを思いましたよね。蓮舫さんが持つ価値と、「何が何でも一位のスピードを取るんだ」という開発側の価値の視点が、そこだけを切り取られてしまって流されて未だに言われてるというこの悲劇は本当に嫌だなと思います。
・先ほど道徳的な価値について仰っていましたが、倫理にも通じると思うんですけど、倫理や道徳的な価値というものは認められると思うんですけれども、それに対する対価というのは表彰状なり感謝状、また称賛の声でこれには変えられないと言うの私は思いました。
・今蓮舫さんの話が出てきたんだけど、僕もあんまり詳しくは知らないんですが、「№2ではダメなのか」という話ですよね。それはその当時、彼女が考えられた№2は良くないかと、それが周りにも伝播したと。ただそれもまたそういうことを言う人も彼ら自身のポイントであると、それが価値があると思って言っている人も沢山いるという事で。もし、それが政治的な戦略かも分かんないしでそういう事もあると。まあ良い悪いではなくただ政治的な戦略で言ってるんで、そう思えばそんな気になるような事でもないんじゃないかと。ただ、言ってる方もそんなに気にはしておられないんじゃないかとか思ったりします。
・私も蓮舫さんの演説よく理解している訳では無いですけど、今仰ってた蓮舫さんの本当の裏事情が伝わらないで叩かれてんじゃないかと仰っていたんだと思うんだけど、世の中そういう事一杯ありますよね。要するに表現をして分かってもらうには情報を発して、それが相手に伝わってどう解釈されるかによってコミュニケーションが行われている訳だけど、だから情報というのは解釈されないと生きてこない。だからその聞く方も、実は価値観を持っている訳で、価値観を持っている訳だから、その辺はずれちゃうということは、世の中一杯あるだろうと思います。だから真意を分かってもらうというのは非常に難しい。だから私はしょっちゅう女房と喧嘩をする。女房の真意は私は分かってると思わないし、私の真意を分かってくれてる人も、だからそのすれ違いがそういう争いに発展すると言う事が起こって来ちゃうのかなと思います。それともう一つ、先ほど絶対的な価値あるものはあるのかなと仰っていたんだけど、そんな事はありえないというのは私の感想です。だって「モノ」というのは、コレをテーブルなんて言ってるけど、これはこれだけの「モノ」でしかないですね。これを価値づけるから価値が出てくる。一般的には経済的になんぼとか、ホームセンターで売ってたり、家具屋で売ってるからそういうふうに価値づけられていると思うんだけど、これものそのものは別に価値付けられてる。初めから価値付けられている訳ではないというのが私の考えです。だから、「モノ」が絶対的に存在する事で価値があるという事は有り得ないというのが私の考えです。
・人それぞれ価値というのはありますが、先ほど蓮舫さんの話出ましたけれども、私もあの時テレビで見ました。「二番目はだめなんですか?」と言ったのをテレビで見ましたね。それで結局、それが今でも言われてるという事は、世界的にも世間的にも社会的にもやっぱり一番が貴重なんだろうね。一番に価値があるという、そういう流れなんでしょうね。今オリンピックでメダルの色に金銀銅ありますけども、やっぱり「銀メダルが欲しい」と言う人はいない。金メダルの№1を取らないと意味がないという。それだけでも凄いんじゃないかと言っても、やっぱり金なんだって。だから世間的にも社会的にも、世界的にも全て何て言ったって№1が貴重で価値があるというそういう流れなんでしょうね。皆それぞれ個人で色々な価値感は違いますけれども、もう社会的には流れで一番が良いというそういう流れなんだろうと思います。
上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。
最終的な板書はコチラ↓
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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。