てつがくカフェ@ふくしま

福島市で哲学カフェをゆるゆるやってます。専門知識はいりません。
身近な哲学的問題をみんなで考え語り合いましょう!

第8回エチカ福島のご案内―映画『たゆたいながら』

2016年09月28日 11時09分01秒 | エチカ福島
世話人・渡部が共同代表を務め、小野原がアドバイザーを務めるエチカ福島という団体があります。
その第8回目のイベントが10月29日(土)に開催されますので、ここにご案内申し上げます。

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第40回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「笑いはどこに生まれるのか?」

2016年09月27日 18時44分27秒 | 開催予定


【テーマ】 「笑いはどこに生まれるのか?」
【日 時】 2016年10月15日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
   ※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
     懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。

【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



今回は初めて「笑い」をテーマに取り上げます。
前回のてつカフェ後の懇親会で、参加者のひとりである大学院生の方が、
〈3.11〉後の福島における笑い(ジョーク)について研究していると自己紹介され、
それを受けて参加者のあいだで、笑いとは何か、人はどういうときに笑いを求めるのか、
苦しい状況のなかでジョークで笑い飛ばすことによって救われる場合と、
「セシウムさん騒動」のようにまったくシャレにならない場合とでは何が違うのか、
といったことについてけっこう盛り上がり、ぜひ次回のテーマにということになりました。

〈3.11〉後、どんどん悪化していく政治状況のなかで、
もはや笑ってる場合じゃないという危機感がある一方で、
ここまで来たら笑わなければやっていられないという気もしています。
笑いは人々を救うのか、それとも現実を隠蔽するだけなのか?
自然に漏れる笑みは、どういうときに、どういうきっかけで生まれるのか?
笑いについて真面目に、そして楽しく語り合ってみたいと思います。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら
てつがくカフェの進め方については⇒こちら

世話人一同
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第39回てつがくカフェ@ふくしま報告―「公共性とは何か?」

2016年09月26日 08時11分37秒 | 定例てつがくカフェ記録

※ 本画像は某教科書会社の高等学校「倫理」資料集に掲載される予定です。高校「倫理」で「哲学カフェ」が取り上げられるとは、時代も変わりました。

さて、9月24日(土)に39回目の定例てつがくカフェが、「イヴのもり」にて開催されました。
参加者は23名。
「〈公共性〉とは何か?」という、おカタいテーマであるにもかかわらず、23名の参加者に恵まれました。
今回は、4月に行われた議論の継続であることを踏まえましたが、そこに参加されていない方もいらっしゃるため、その継続にとらわれずに話し合うことを確認しました。
とはいえ、遠隔地で今回の議論に参加できない方のコメントを紹介しつつ、それを話のとっかかりとして始めることにいたしました。
そのコメントとは、これです。

「多様性といえば、公共性には必須の条件だと思っています。
多様性がない状態は公共ではないとも思っています。
公共は、社会集団とか色々と定義はあると思いますが、個人が組み合ってる状態、みんなのことですかね。
公共が皆のことなら、個人が窒息しては皆と組み合おうとは思わないと考えます。
目的がはっきりしている小集団、例えば会社は、目的が同じ個人が集っています、目的を達成するために個人は何をするのかに帰結していくと思います。
そういった状態では、個人間に差をもうけて、例えば待遇とか、目的達成を推進します。
僕の中では、これは公共ではありません。
少し分かりにくいかもしれませんが、皆のことを考える場面が公共で実行するのは公共ではないという整理です。
公共性とは個人が公平であり、尊重された上で、公共の話しが可能なことだと思います。抑圧されることがなく、公平にものが言える、存在できる事と言い換えられます。
このようなことが約束されていることは、公共性の大事な要だと思います。否定があると力関係が発生しますし、力関係が前提となればものが言えなくなることにも繋がります。
言いたいことが言えない、存在が認められない、窒息します。窒息すると公共のことなんて考えなくなります。
公共性のためには、公平であることを追及する必要はあると思います。
誰でも生理的に受け入れられない主張はあると思いますが、主張を封じ込めては公共性は成り立たないと考えます。
居心地が悪いかも知れませんね、公共は・・修行の場ですね、一体になることはないんでしょうからね。
雑多であるし、画一化されていない。僕が考える公共性とはこんな感じです。」


ちなみに、この方も4月の哲カフェには参加されていません。
これをもとにしてまずは、公共性を「公園」のような場であることからとらえる次の意見が出されました。
「多様性が公共であると出ていたが、主婦で子育てをしてきて、ポスターの公園を見て、公共ってこういうことかなあ。公園には多様性がある。サッカーで遊んでいる子が広がってくると、ちょっとこっちまでは来ないでくれると言いたいことを言って、それぞれを尊重できる場。身近な公共を感じられる多様性を尊重できる場であった。」

これに対して「公共のためには公平性を追求しなくてはならないとあったが、公平ではなく平等ではないか」としながら、「必要な人と必要でない人が折り合いをつけながら、お互いに別の目的をもつ人たちが対話をして公共性を追求していく」イメージを上げる意見も挙げられます。

さらに「みんなに開かれていることが公共性なんだろう」という意見が出されます。
ただし、ここで「みんな」と言っても、税金を使って作るもののように、「みんな」のお金を使ってやることは「みんなのもの」でなければならないということを「みんなが了解をしている」ことが必要であるといいます。
その了解が広がっているいれば、「公共性」の高い社会といえるのではないか。
逆に、その了解がないと、閉じられると集団だけになってしまうのだろうということです。

議論は「公園」から、一気に「社会」のレベルにまで引き上げられたため、いったん「社会」のレベルと「公園」のレベルの公共性とを区別した上で議論することがファシリテーターより指摘されました。。
そのうえで、「公共性」に共通するものが「みんなに開かれている」という点で一致していることが確認されました。

すると、「ひとりで生活していれば公共性を考えなくていいけれど、公共性を考えなくちゃならないのは利害の対立があるからではないか」という意見が挙げられます。
逆に、利害対立のないような状態においては、「みんなのもの」なんて考える必要もないわけです。
そのように考えれば、「公共性は創り上げていくもの」にほかならず、しかも、それはいろいろな集団や文化のなかで公共性は創られていくものである以上、一言で「公共性」と括れることはできないのではないかとの指摘がなされました。

ここまで議論したところで、「そもそも「公共」と「公共性」は何が違うのか?」という疑問が投げかけられました。
果たして、「性」が付くと意味はどのように変わるのか?
可能と可能性、現実と現実性、人間と人間性…
さしあたり、「性」には性質を意味しながら、「らしさ」とか「っぽさ」という言葉を当てはめることができるでしょう。
ということは、「公共性」とは「公共らしさ」とか「公共っぽさ」ということになりましょうか。

これに関して「公共」は制度、システムを指し、「公共性」は対話が発生してその間、対話のなかに含まれているものであり、そこに生まれる差異結びつけるなかに公共性が生まれるとの意見が出されます。
「場」として固定されたものではなく、そこにいる人たちの「あいだ」に現れるもの、すなわち「関係」において公共性が現れるという意見は、これまでの「公共性」観とは異質なものでしたが、とても興味深くかつ斬新な見方の提示でありました。
ただし、その発言者は、そのあいだをつなぐものを「情」と表現し、感性的なものに根拠を求めます。
近代的な意味で言えば、「情」は果たして公共性の基盤となるのか、むしろ同質性の塊になるだけではないのかという疑いも生じますが、むしろここでの「情」や「感性」はそれとは別種のものを言い表そうとしているように思われました。

すると、あらためて「公共性」とは何か整理するところに議論は立ち戻ります。
「どういうところを公共の場というのか。駅も公共の場。2人でカフェで話しているときも公共の場。そこでは相手に殴りかかったりしないし、いきなり歌ったりしないで、お互いに公共性を担保する」という意見には、そこになにがしかのルールや決まりが共有されているところに、公共性が成立することを言い表しています。

それに対して、「哲学カフェにおいてはいろいろな意見、対立する意見が出るけれど、そのテーマのいろいろな側面が見えるので、哲学カフェではまったく違う意見が出ても暴力ではない。暴力的な言い方をされたら違うけれど、意見の対立は否定ではない」という意見や、「誰かの意見に対して否定するとは公共性を壊すことではない。違う意見を出し合うことは否定ではない」という意見が出されます。
一方、「会社など一般の場では必ず対立がある。負けない工夫して臨んでいる。でも、それは公共ではない。公共はあるものが満たされたとき、その前提のもとで成り立つ。否定をしないとか、他人を罵倒しないとか。でもそういうのはなかなか成り立たない」という意見も出されます。
どうも、生活全般にわたって秩序を保ちながら自由に物事を言い合える場というのは、実に少ないというのが共有されているようです。

ところで、「否定があると公共性は担保されない」とは、冒頭のコメントにも合った主張ですが、そこでいう「否定」は暴力的なものではなく、一定程度決まり事を守ったうえで交わされる異論・反論とは異なるということです。
さらに、「異論はいくらでも出していい。国会の論戦など高いところを目指しての議論はあまり見たことがないが、哲学カフェでの議論は理解を深めるものである。決めつけたり排除したりするといけない。あくまでも食い下がって議論するのはあり」という意見も挙げられます。
そこには「言い方」を問題にする意見も付け加えられました。
「私道には植木鉢を置いておいてもいいが、公道に置かれると邪魔になる。でもここに置いちゃダメだろうと否定されると話し合いが壊れる。公共の場では、○○だから~してください、と言葉の使い方、言い方によって分かち合っていくようにしなければならない。」

けれど、公共性は言い方の問題に収斂されるものなのでしょうか?
そこに公共性を求めてしまっては、それこそ「気性の激しい人」や「言葉の荒い性質の人」などは排除されないでしょうか。

「第三者がどう見るかをどう意識するかによって変わってくる。都会では干渉しないという公共性。村社会では村のために望ましいことをするのが公共性。てつカフェでは意見を出し合うのが公共性。」という意見には、やはり、その社会や場、文化によって「公共性」の意味合いは異なることを示されています。
けれど、「ムラ社会」に公共性なんてあるのでしょうか?
「世間体」が支配するような、狭い範囲で暗黙のルールを強制される社会を公共性とは言わないのではないでしょうか。

これに対しては、「公共性は「みんな」が大事。公共の場で大声を出さないという暗黙のルールを守るのが公共性。ルールを守っている、ルールが大事。」という意見があらためて挙げられます。
「公共性にも影と光がある。ルールを守る人たちにとっては有益なものになるけれど、ルールを守らない人は淘汰、排除、村八分にされる。それが闇。公共は過激になれば悪いものにもなりかねないのではないか。」
「民主制社会のなかでの公共性という条件がつく。暗黙の了解というよりは共通認識とか「いい意味での」常識によって保証されるのが公共性である。」

なるほど、「ルール」や「いい意味での常識」、「話し方」も含め、それらを守ったうえで対話が成立することが「公共性」に値するというのが、全体として共有されたことです。
 
すると、「公共性は限りなく自由がある状態と思っていたが、ここまで話してきてどうも違うような気がしてきた。ある社会的集団のなかでルールが守られた秩序が保たれた状態のことを意味するということらしい」という感想を漏らした方がいらっしゃいました。
これも大変興味深い意見です。
「公共性」は「自由」と関連すると思われていたものが、どうも「ルール」や「言い方」、「常識」に規定されるのだとしたら、むしろ「秩序」に依るものらしいということです。
これに対しては、「秩序が保たれて、でも異論が言える空間。それは公共性の自由ではないのか」という意見が挙げられます。
「自由がどれだけ実現されているか、民主主義の成熟度を左右するのが公共性。感性というのはその実践能力としての感性を指しているのではないか。」
なるほど、「常識的」な理解では「公共性」はそのように定義できるのかもしれません。
でも、それと「ムラ社会」とはどこまで違いがあるのでしょう?
民主的な「ムラ社会」というのも当然あるでしょうし、その社会のルールを共有するとか決まりを守るというのは、「郷に入れば郷に従え」という閉鎖性とどう異なるのか、その違いを明らかにしなければならないでしょう。
公共性が「みんなに開かれた場」を基準とすれば、その「みんな」とは、果たして誰のことなのか?

こうした疑問が頭の中に浮かぶ中、突然、「人間同士のなかでしか公共性は成立しないのか? 動物との間でも公共性は成り立たないのか? 人間だけは公共的だけれど動物が抑圧されている社会は公共性と言えるのか?」という、別の角度からの問題提起がなされます。
「生き物の群れがもっている距離感が公共性ではないか。部屋のなかにムシや生き物が入ってきて、それを放っておくのは公共性か?」
「動物と人間の公共性を考えれば、飼い犬どうしが噛み合わないのは人間がそういう公共性を作ったからだろう。人が正しいと思うものを動物に当てはめているだけで、動物の公共性は人間が作ったものに過ぎない。」
動物と人間の共生という意味で「公共性」を用いるのであれば、たしかに人間中心主義という意味において成り立つでしょう。
これに対して、「赤ん坊が電車のなかでギャーギャー泣いていたらどうするか。人間と動物を同じ目線で語ることはできない」との意見も挙げられます。
とはいえ、「躾」という意味では、やはり「赤ん坊」という自然状態を公共性に適応させるために矯正する営みが教育にはあるとも言えます。

さらに、その問題提起者は、「宇宙は公共のもの。地球は人類のものなので公共と言えないかもしれないけれど。何かしらの条件付けがあって、何かしらの対立が出てきてそうなってしまう。来るもの拒まず、去る者追わずが公共性という意味に尽きる。税金を使ってトキを保護しているけれど、あれは人間のためにやっているのではないか。牛や豚が絶滅すると人間は困るがトキは絶滅しても困らない」と言います。
話題が宇宙―地球レベルの「公共性」に至り、、ますますどこまで「みんな」を広げられるのか、議論は混迷を深めます。
「自然をどれだけ壊してきたかという罪の意識が芽生えてきた。贖罪の意識で守っているだけ。公共性はあくまでも人間の文化的な産物だ」

すると、宇宙の話題から、今度は一気に御町内の話題に移ります。
「近所に猫屋敷があってあちこちに猫が糞をしたので、申し入れをした。猫にとってはどこだって公共の場だけど、ご近所のみんなにとっては困りものだった。その飼い主は猫に関しては自由というスタンスの人なのですが、ご近所の皆さんはお金をかけて猫排除対策をしなければならなかった。その人の問題は猫問題だけでそれ以外の面では尊敬できる人だったので、じっくりと対話したがなかなか解決しなくて、公共性のつらさというか弱さというか。その人を全否定はできない。うまくやっていけるものならうまくやっていきたい。けれど、そこで忍耐しなければいけないというう点では公共性はつらい時もある。」

ご近所トラブルは、一般に「常識」のないご近所さんによって周囲が迷惑するという構図が成り立ちます。
では、その対話も通じない「非常識」な相手にどう対処すべきか。
哲カフェのような時限的な場はよいとして、町内のような空間はなかなか移転などできません。
暗黙のルールが共有されているなかで秩序が成り立って多様性を認めあえて公共性が成り立つというのがこれまでの議論音主流でしたが、ここでは、「いい意味での常識」を共有していない人は排除しなければならないのか、という疑問が生じます。
これは、今後日本社会に移民が増えると常識どころか言語も共有されなくなる事態が増加するだろうという想定を踏まえれば、さらに深刻でリアルな問題を指摘するものでしょう。
果たして、そこにおいて公共性はどう成り立つのか。

「掃除、犬猫の問題は辛抱強く呼びかけ続けなけばならない。あの人公共性なくて困るとは思っているけれども、その人相手に辛抱強く対話をしている。」
「ゴミの集積所問題。ゴミ捨てのルールはなかなか守られない。」
「ゴミは排他性の先鋭的問題。他者が来た時に真っ先に問題になる。」
「避難の人が増えてゴミのルールを守らない人が増えた」という言い方をする人が現実にいることを考えると、まさに常識や決まりを共有できない「他者」との間に「対立」が生じた時にこそ、「公共性」の真価が問われるとも言えるでしょう。
その点では、「ゲーテッド・コミュニティ」がある種の階層の人々が、自分たちの公共性を保つために排他的なコミュニティを作っているという問題についても考えなければならないでしょう。

「ルールを破るのは通りすがりの人。コミュニティのなかの人ではない。するとだんだん監視社会になっていく。監視社会になるのはやめようとがんばっている。」
定住しない、いわゆる「流れ者」は公共性を無視するというのも常識的な解釈の一つでしょう。
それに過剰に反応することが監視社会を招くのではないか、というのは重要な指摘です。
一方、「夜働いている人もいるので前の日に出す人がいるということがわかった。出したあとにネコや鳥が荒らすことがあるが、そのときはゴミ集積所に一番近い人が片付けてくれたり、正しいゴミの日まで保管してくれたりしている。辛抱強く公共性が育つように待つ。きちんとした公共性というよりは柔軟なゆるさのある動的公共性であったらいいのかなあ」という意見も出されます。
この発言者は「辛抱強さ」や「ゆるさ」という表現を用いますが、これは社会的には「寛容」という問題に接続します。
「不寛容」な社会が移民排斥や差別的暴力に結びつくことは、つとに問題にされています。
では、この「寛容」をどう理解すべきなのでしょうか。

「公共性と民主主義は似通っている。権利と義務。いいことと悪いこと。公共性にもいいことと悪いことがある。自由と責任。自分がゴミを保管したり道を掃いたりしてくれる人、公共に奉仕する人がいることによって公共性は保たれている。」
「気持ちにゆとりがあるから辛抱強く受け止めてくれる。日常に溶け込んでいけるのが公共性。」
これらの意見には、どうしても勝手なことをする人間がいるのだけれど、社会はそこを埋め合わせる人々が必ず存在する。
その存在の割合に応じて、その社会の「公共性」や「寛容」の尺度が決まるのではないか。
それを「割り勘」や「動的平衡」という言葉で解釈する参加者もいました。

しかし、こうした公共性が成立したとしても、さらにそこに困難や問題があることが指摘されます。
「公共性は共存関係と言い換えることができる。共存関係を乱すものに対して排除することになり、監視社会になってしまう。弱者が共存できうるような形が望ましい公共性であるとすれば、動物も社会的弱者として共存する。けれど、その対話が社会的弱者を排除してしまう側面を持ってしまうこともあるのではないか。福島の放射線を恐れているお母さんたちが声を抑え込んでしまうというのは、まさにその問題だと思う。」
「言葉を発することそのものに暴力を受けるのではないかと感じてしまう人たちがいる。そういう人たちを排除しないのが公共性ではないか。」
福島の復興を声高に叫ぶ、ある種の「常識」が別の少数者の声を封じてしまう。
そのマイノリティを排除する言説空間を「公共性」と名指すわけにはいかないでしょう。
この夏、「ヤクザと憲法」というドキュメンタリー映画を観ましたが、まさに社会の無法者ですらも法の下において平等に扱うのが、憲法の両義的な公共性です。
対話の「場」としての公共性においても、なおこうした声なき声を排除しないことを志向することは多様性を保証する上で必須条件です。

最後に年配の参加者から、貴重な問題提起を受けます。
「公共性はよくわからないが、キーワードは対話。飯舘村の自分の属していた行政区は対話ができなくてバラバラだったが、他の行政区では80%の集会参加率。親戚の血筋のつながりがものすごく強くて、腹を割って話していない。総会で意見を言っても、行政府が勝手にやってしまう。ディスカッションの時間が短縮され、議長がなるべく発言しないでくださいと進めていく。放射性物質の仮仮置き場も地権者が勝手に決めてしまう。対話がなくて公共性が成り立たない。私道と市道が入り組んでいる場所で対話ができない。公共性の認識が対話する以前から崩れてしまっている。対話しようとしても対話できない。対話がちゃんと成立して腹を割って話し合いみんなで理解し合って成立させていくものである。それが哲カフェのようにきちんと議論できる条件がない。だから公共性以前の問題がある。」

職場や地域社会の会議などで対話が成り立たないというのは、ある意味で日本社会全体が抱えている深刻な問題ではないでしょうか。
お任せ民主主義。
公共性が対話に基づくというのが、今回の哲カフェの一つの知見であるとすれば、そもそもその条件である「対話」の仕方を共有できなくなっているのが日本社会の根本的な問題なのではないか。
いや、そもそも日本社会に「公共性」など果たしてあったためしがあるのだろうか?
「公共性の認識は未熟。みんなで話し合って決めていくことが日本にも福島にも浸透していない。」
「公共性がある場や公共性のある人というのは? 個人として自立している人が多ければ多いほど気持ちのいい公共性が成り立つ。」
「公共性が保たれている場は参加して楽しい、そこに行きたいと思える。参加するためにはその場のルールを守るという意識がある。」
これらの意見には、これからの「公共性」の可能性が示されていると思われます。

最後に、個人的に最近知り合った若者から投げかけられた印象的な言葉を紹介します。
「激しい議論の末に破綻してしまうような場を公共性があるとは言えないでしょう。」
今回の哲カフェでは、そのことが「言い方」や「ルール」の共有を主眼に置かれてきたように思われますが、むしろ彼の言葉は、いかに「言い方」が激しかろうが、対話のルールを無視した発言であろうが、それを許容できない公共性など公共性に値しないというわけです。
愛知県在住の哲学カフェウォッチャーの方は、@ふくしまは参加者が安心して対話ができる場として成り立っていることが最大の特徴と称賛して下さいました。
それはとてもありがたい評価ですが、一方で「多様性」を本気で尊重する場を「公共性」の基準であるのだとすれば、そこに安住するだけでは不十分な気がします。
「公共性は創られるもの」という今回の知見一つに依るならば、まさにそれは「不可能な公共性」を目指してこそのもののはずです。
まだまだ哲学カフェでの「公共性」は発展途上なのだと考えさせられる時間でした。
(文:渡部 純)
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第39回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「〈公共性〉とは何か?」

2016年09月18日 08時53分37秒 | 開催予定
   

【テーマ】 「〈公共性〉とは何か?」
【日 時】 2016年9月24日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
   ※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
     懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。

【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


今回のテーマは、4月に行われた哲学カフェのテーマ「私にとって〈哲学〉とは何か?」で論点となった〈公共性〉について、再度取り上げます。
もちろん、その会に参加されなかった方でも対話には自由に参加できるようになっていますが、念のため上記のリンクにアクセスしてその会の記録と文脈をお読みいただければ幸いです。
それを踏まえて、ざっくりとテーマ設定の文脈を記しておきたいと思います。

そもそも「公共性」には多義的な意味合いがありますが、少なくとも①公共事業のように「国家」行為という意味、②「公共の福祉」のように市場原理では達成され得ない「社会全体」の幸福という意味、③公園などの公共空間のように不特定多数の者が排他性を持たずに自由に交通(交流)できる場という意味が確認されます。
前回の議論では、民主主義との関連で③についての議論に焦点が当てられていました。
すなわち、排他性のない〈公共性〉などありうるのか、という問いです。

一応、哲学カフェは誰にでも開かれた公共空間を目指しています。
自分とは意見が違うからといって他の参加者を排除することは論外だとしても、やはり障がい者など一定の人々にとっては参加が困難であるという面があることは否めなません。
その点でも「対等に話し合う」という哲カフェのルールが共有されていれば、〈公共性〉は実現されていると無邪気に肯定するわけにはいかないでしょう。
ルールによってしか〈公共性〉は実現され得ないというのはたしかですが、そのルールが排他的ではないという保証はありません。
たとえば、憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会 的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」と定めていますが、それによってさえも「国民」でなければ平等に扱われないのかという問題が残されます。
むしろ、昨今はヘイトスピーチ問題のように過激な排外主義が社会にむき出しにされたり、あるいはゲーテッドコミュニティのように治安上の理由から富裕層に居住を制限する街が登場するなど、ある種の属性による社会的囲い込みと分断が進展している面があります。

果たして、こうした社会において排他性なき〈公共性〉などありうるのか?
そのことを皆さんで考え抜きましょう。


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

世話人一同
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第7回エチカ福島のご案内 ―沖縄と福島から〈責任〉を問う―

2016年09月13日 17時45分07秒 | 開催予定
世話人・渡部が共同代表を務め、小野原がアドバイザーを務めるエチカ福島という団体があります。
その第7回目のイベントが9月17日(土)に開催されますので、ここにご案内申し上げます。



【テーマ】 沖縄と福島から〈責任〉を問う
      ―米軍基地と原発事故の〈責任〉とは何か―
【講 師】 新垣 毅(あらかき つよし)氏
      琉球新報社東京支社報道部記者
【日 時】 9月17日(土)

    14:00 開会・あいさつ・エチカ福島の趣旨説明
    14:10 今回のテーマ趣旨説明
    14:20 報告 新垣毅氏「沖縄から責任を呼びかける―沖縄米軍基地県外移設問題」
    15:20 休憩
    15:35 渡部 純(エチカ福島)「福島で責任に応えること/福島から責任を語ること」
    16:00 参加者全体での討議
    17:00 閉会

【会 場】 県立橘高校セミナーハウス(同窓会館)
       福島市宮下町7番41号
【参加費】 300円(飲料代・資料代込み)/学生無料
【申 込】 不 要 
【連絡先】 ethicafukushima@gmail.com


【今回の開催趣旨】
あれから5年。
原発事故がなぜ引き起こされたのかという〈責任〉について、私たちはどのように考えてきたでしょうか。
なるほど、検察審査会は事業者である東電の刑事責任を問う起訴を決定し、その審理がこれから始まります。
しかし、「復興」が喧伝される一方で、市井のあいだで原発事故の〈責任〉を問うことは、どこか語りにくさを引きずったままです。

原発政策を推進してきた政治家・官僚の政治責任。
それを支持し、受け入れてきた市民の政治的責任。
科学者、メディア、教育の責任。電力を使用してきた受益者の責任、etc…。
たしかに、これらを問い直すことはお互いの「負い目」にふれざるを得ず、そのことが「寝た子を起こすな」とばかりに、私たちにこの事故の〈責任〉の語りにくさをもたらしている面があることは否めません。
いや、むしろ私たちはその語りにくさに甘んじながら、それと向き合い、問い直すことに目を背けることに慣れ切ってしまったのではないでしょうか。

これは福島だけの問題ではありません。
被害者(社会的弱者)が「負い目」によって自らの声を抑圧するだけでなく、それに乗じて加害者(社会的多数派)が自らの〈責任〉を見て見ぬふりをするさまは、これまで様々な構造的な暴力関係下でくり返されてきたことです。
しかし、人為的に破壊された共同体の傷は、その暴力の〈責任〉を問うことなしに修復されることはありません。
その意味で、私たちは原発事故の様々なレベルにおける〈責任〉を問い直す術を、勇気をもって学ばなければならないでしょう。

今回のエチカ福島では、その手がかりとして琉球新報社の新垣毅氏をお招きし、昨今の沖縄米軍基地問題の現状と県外移設問題についてお話しいただきます。
周知のとおり沖縄では米兵による犯罪が後を絶ちません。
そして、その我慢の臨界に達した翁長雄志沖縄県知事を代表とする沖縄の声は、米軍基地引き取りの〈責任〉を本土へ訴え続けています。
その呼びかけに対し、福島に生きる私たちはどう応えるべきか。
この沖縄からの呼びかけに対する応答を考えることは、重い問いを私たちに突きつけるでしょう。
しかしながら、その問いについて考えることは、とりもなおさず私たちが語りにくくなっている〈責任〉を、いかにして言葉にして語りうるものにするのか考えるヒントが含まれています。

〈責任〉を問うとは、その相手をバッシングして殲滅することでありません。
それは人為によって破壊された側の尊厳や社会的正義を回復させると同時に、将来、同じ失敗を二度とくり返さないために人間が考え出した術です。さらにいえば、それは暴力をふるわざるを得ない加害者と、それを被らざるを得ない被害者のあいだにある構造的な暴力関係から、お互いを解放させるための術でもあります。
第7回エチカ福島では、沖縄からの〈責任〉の呼びかけにいかに応えるかを考えるとともに、そこから福島で〈責任〉を語り出す意味を考える機会とさせていただきます。
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てつがくカフェ@あいづ訪問記―「友だち、いる?」

2016年09月12日 01時51分53秒 | 世話人のつぶやき
てつがくカフェ@あいづが、ついに開催された。
しかも、奥会津の三島町である。
始まる前からずいぶん多くの人が関心を寄せていた。
一週間前に和光市での哲学カフェに参加した際、なんと僕を含めて会津出身者が4人もいた。
その方々がとても興味を示していたのだけれど、「なぜ、三島町?」という疑問は拭い去れなかったようだ。
そりゃそうだ。
大都会(?)の会津若松市内とは違い、三島町は高齢化と過疎化では日本のトップを行く地域なのだ。
そんな地域で開催されたユニークな哲学カフェに一参加者として参加した感想を書き連ねよう。

会場である「つるのIORIカフェ」の主であり、@あいづの主催者の小松今日子さんは横浜出身。
会津若松市よりもちょっとだけ都会からやってきたシティガールが惚れたのが三島の風景である。
そして、「哲学カフェをここでやってみたい」という彼女の情熱が発端となって始まったこの哲学カフェには、世話人として@ふくしまの常連・荒川信一さんと林裕文さんが加わった。
いずれも、常識人の仮面をかぶった哲学人である。
そんな素敵な世話人たちのもとに集ったのは、@ふくしまの常連に加え、地元の高校生らを加えた総勢20人を超える面々である

テーマは「友だち、いる?」。
「いる」には「もっている?」という意味と「必要ですか?」という二重の意味が込められている。
小松さんの発案だが、とてもナイスな問いの仕掛けになっている。
印象的だったのは、この問いに対する世代間のギャップである。
とりわけ、高校生から出された意見には、「友だち」のプレッシャーの強さが示されていた。
「友だち」であることを確認するわけにはいかないのは、「違う」と言われることへの恐れからであるとか、「親友」以上の存在がいて、それは「安定」をもたらす相手だとか。
正直、大人たちは「うーん」とアタマを悩ませていた。
「友だち」って、そんなに厄介なものだっけ、と。
「親友」は友達の最上級の存在だと思っていたものが、それを上回る存在として何を言い合っても関係が壊れない「安定」を持つ存在が想定されているなど、これまでの「友だち」概念とは、かなり異なったものが想定されていることに、大人たちは困惑させられた。
これが、やたら学校で「友達」をつくることを強要される教育文化に批判の矛先が向けられたことは、至極当然の流れだった。

実は僕の小学生の姪っ子も、一人で本を読んでいたいのにそれが許されない息苦しさに苦しんでいるとの話を聞いた。
独りでいることを許されない空気は学校に支配的だ。
独りで昼食をとる姿には、「お友達」空間からの落後者のレッテルが張られる。
その恐怖におびえ、独りでいるところを誰にも見られないように、トイレの個室の中で昼食をとる大学生さえも存在するという。

けれど、意図的に仲間外れになれば、意外とたいしたことないんだぞと伝えたい。
むしろ、その姿勢を貫くと、皆ほっておいてくれるようになるもの。
「あいつはそういう人だから」と、皆が思ってくれるようになればしめたもの。
今では食べ放題レストランで、独りで食べるのもまったく気にならない。
いや、むしろご飯は一人で食べていた方がいいくらいだ。

その意味で、「真の友は共に孤独である」というボナールの言葉はとてもしっくりくる。
そこを理解できない人間と友達になれるとは、到底思えない。
「人見知り」というのは、単に人としゃべるのが苦手な人のことを指すのではなく、その機微をよく知っている人なり。
そこを共有できた人とだけが一生つきあえる関係になる。
やたら馴れ馴れしい人間は苦手であるどころか嫌悪に値する。
「勝手にお前の『友達』だと思うなよ」と。
やたらと他人を「友だち」だと思い込みたがる人間からして無礼なのは、この承認の相互性を認識できないからだ。

こう考えることは傲慢だろうか?
でも、今回のカフェで話題に上がったように、日本人の多くは目的を共有する「仲間」と、それがなくとも付き合える「友達」を区別できていないという指摘は、この問題を考える上で重要だ。
『スラム・ダンク』の桜木花道と流川楓は「仲間」であっても、「友達」ではない。
その区別なく「仲間」の領域に「友達」関係を持ち込み、馴れ馴れしくなるからややこしくなる。
日本人の働き方の失敗の根源はそこにある。
その意味で言うと、親睦を深める意図から、職場でバレンタインチョコだとかをやたらと振る舞う文化は暴力的でさえある。
そこには、渡す側に「振る舞わなければいけない」というプレッシャーを与えると同時に、受け取る側にも「いりません」と断れない暴力がつきまとうからである。
カフェの話題では、相手に「友だち」かどうか確かめることの不安が挙げられていたけれど、逆に言うと、そこにはあなたとは「友だち」ではありませんと宣言することもまた、憚れるような力学が働いていることの証左でもある。
いい加減、「仲間」の領域に「お友だち」文化を持ち込むのは止めてはどうだろうか?

もっとも、これは誰かを「友だち」だと思い込まないとやっていけないほどに、不安な心性が社会を支配している現れとも言えるかもしれない。
しかし、そもそもそんなに「友達」と呼べる人間はどれだけいるのか?
「誰の友にもなろうとする人間は、誰の友人でもない」(ヴィルヘルム・ペッファー)。

カフェに行く道中、友人三人とこの問題について語り合った。
その中の一人が「葬式に来てくれた人間が真の友だ」と言った。
これには半分だけ同意する。
半分だけというのは、僕ともう一人の友人のように、そもそも自分の葬式を挙げないだけでなく、友人と呼べる人の葬式にも行かないという人間には、これはどうでもいい定義になってしまうからだ。
でも、そういいながらも、他方で「この人は友人だ」とわかるのは、おそらくその人が死んでからだとも思っている。
少なくとも、僕にはそう呼べる故人が一人はいる。
とすると、その車中の三人は友達なのか?

暫定的にはそう呼べるだろう。
ここには、石川啄木が「ひとりの人と友人になるときは、その人といつか必ず絶交する事あるを忘るるな」と言った事が思い起こされる。
啄木はとんでもなくダメでタチの悪い人間だったが、この言葉は真理をついている。
「必ず」というのがミソだ。
これを乗り越えられる相手というのは、よほどの早世である。

だから、「親友」を超えるのは「安定」した関係を永続的に維持できる相手だなんて幻想は捨てた方がいい。
人間関係なんて、こわいほどに脆い。
いかに「親友」だなんて思っていたって、いつ裏切られるかわからない。
そのことは漱石の『こころ』を読むまでもない。
(ちなみに、漱石の後期三部作(『彼岸まで』、『行人』、『こころ』)は、孤立と人間不信に苛まれる近代人の姿を見事に描いていると思う。)
そんな「安定」幻想にしがみつくよりも、共同の目的を共有した仲間と、目的それ自体となる友達と分ける習性を身につけた方がよほど楽に生きられる。
ただし、その分類ができたからといっても、「友だち」に期待なんぞしない方がいい。
期待すればするほど、それは絶交の苦しみの反動が大きくなるだけである。
なぜなら、その期待は相手に自分を投影しているだけだからである。

自分を抑え、相手に合わせなければいけない「友だち」の苦しさを訴えたのは高校生だけではなかった。
「友だちは大切にしろ」という物謂いも、なんだか説教にしか聞こえないのはその所以である。
自分を抑えてまで付き合わなければいけないのは「友だち」でも何でもない。
「往く者は追わず、来る者は拒まず」(孟子)である。
これは厭世的な物謂いではない。
むしろ、離れた相手だって、時とともにまた邂逅する自由に開かれていることを示している。
「友だち」に期待できるのは「安定」した永続的な付き合いではない。
それは、離れてもまたいつの日か邂逅できる自由だけである。
その邂逅の自由において、刹那的な友情の豊かさを楽しめれば十分に幸福なのだ。

ポリス(政治)の原理を「友愛φιλια」に求めたアリストテレス最期の言葉は、「おおわが友たちよ、一人も友がいない」(モンテーニュ『エセー』・「友愛について」)であったという。
何だろう、この謎めいた言葉は。
死に際でこんなことを友人が聞いたらたまったものじゃない。
でも、その言葉の方が真理であるようにも思えるし、「一人も友がいない」と思っていた方が実は楽に生きられるのではないか、という結論は今回の哲学カフェで生まれた一つの知見であった。

では、相手が死なない限り、自分にとって「友だち」であるか否か確証を持てないのだろうか?
実は最近、そうでもないかもしれないと思う経験をした。
それは、学生時代以来、10数年ぶりに再会した友のことである。
彼は、100人いれば98人が彼を忌避するという気難しい性質の人間である。
実際、僕自身も彼とは好きこのんで会いたいとは思わない。
だから、社会人になって以来、音信不通だった。
それが、ひょんなことから再会することになったのだ。
正直、会うまでは戦々恐々としていた。
しかし、会った瞬間にそれは氷解し、かつてのような会話が夜中まで続いた。
もちろん、その会話の端々で彼の毒舌に不快を覚えることもしばしば。
「まったく変わっていない」というのが第一印象だった。

けれど、その再会は、なぜか僕に彼を「友人」だとはっきり認識させてくれる機会だった。
たぶん、戦々恐々としながらも、そのことを確かめたくて会いに行ったのだろうと、後から思えたものだった。
なぜだろう。
今でもそのことを考え続けている。

かつて、彼も僕も就職することを積極的に捨ててフリーターを選択しながら、それでも学問しようと意志し続けていた不遇で孤独な時期をともに過ごしていた。
その中で彼とは、他に誰も参加するあてのない読書会をやり続けた唯一無二の関係だった。
朝方まで議論し続けることもしばしばだった。
だからといって友達のように、いつもつるんでいるわけではなかった。
当時の彼は結婚していたが、おつれあいが不在のときだけ自宅に招いてくれた。
彼はおつれあいに僕の存在が知られるのは嫌だったらしい。
まるで「間男」である。
「渡部君みたいなダメなお友達とは付き合っちゃいけません」と自宅で言われていたのだろうか。
すると「悪友」という言い方も当てはまる。

それでも、彼はけっして僕を尊敬していないし、僕は彼を困った人間だと思っていた。
にもかかわらず、再会した彼は僕のことを「戦友だ」と言ってくれた。
そのとき妙に腑に落ちてその言葉を承認した。
でも、それが単に苦難の時期を共有しただけに止まるのかは、いまだによくわからない。
それだけが「友だち」であることの理由であるというのでは、なんだか物足りなさすぎる気がする。
いったい、彼との関係の根本には何があるというのか。
それでも、少なくともこうはいえるかもしれない。
およそ、彼は「友だち」とは言いがたい存在であるからこそ、その真価を確かめる上では試金石になりうると。

その彼が重い病に罹っていると言った。
おそらく先も長くないかもしれないと言った。
仮にそうだとしても延命措置などしないとも言い切った。
とはいえ、一緒に酒を酌み交わしたので定かではない。
そこも含めて彼らしいと思った。
再会を約束して別れたが、やっぱりもう一度会いたいかと言われれば、積極的にそうは思えない自分がいた。
彼が死んでも葬儀には行かないだろう。
それでも彼は間違いなく、唯一無二の「友人」であると確信できた。
それが四十二の夏の収穫である。
それでも「友だち」とは何か、彼との関係を考えれば考えるほどわからなくなる。
でも、少なくとも彼とぼくとはお互いに自由な関係であることは疑いえない事実である。

そんなことを考えながら@あいづでの時間を過ごした。
また皆さんとお会いしましょう!(文:渡部 純)
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9月は哲学カフェ関係行事が目白押しです

2016年08月24日 02時05分09秒 | 開催予定
9月は毎週末に哲学カフェ関係の行事が目白押しです。
どしどしご参加ください!



(「目白押し」の図)

9月10日(土) 第1回てつがくカフェ@あいづ
【テーマ】 友だち、いる?
【時 間】 15:00~17:00
【場 所】 つるのIORIカフェ
 大沼郡三島町大字早戸字湯ノ平888(早戸温泉つるの湯隣り)
【参加費】 飲み物代 300円(コーヒーまたはほうじ茶)
【事前申し込み】 不要 (直接会場へお越しください)
【お問い合わせ】 つるのIORIカフェ TEL 0241-42-7355
          ✉ t.ioricafe@gmail.com
【懇親会】 場所:つるのIORIカフェ 
      時間:18時~ (てつがくカフェは15時~17時) 会費:3500円
 ※つるのIORIカフェでは、通常アルコールの販売がありません。今回は生ビールのみご用意しております。その他のお酒については、お客様の持ち込みでお願いしております。(持込み料はかかりません。グラスは当店のものをお使いください。)
懇親会に参加希望の方は、9/9(金)までにご連絡ください。


9月17日(土) 第7回エチカ福島
【テーマ】 沖縄と福島から〈責任〉を問う
      ―米軍基地と原発事故の〈責任〉とは何か―
【講 師】 新垣 毅(あらかき つよし)氏
      琉球新報社東京支社報道部記者
【時 程】14:00 開会・あいさつ・エチカ福島の趣旨説明
     14:10 今回のテーマ趣旨説明
     14:20 報告 新垣毅氏「沖縄から責任を呼びかける―沖縄米軍基地県外移設問題」
     15:20 休憩
     15:35 渡部 純(エチカ福島)「福島で責任に応えること/福島から責任を語ること」
     16:00 参加者全体での討議
     17:00 閉会
【会 場】 県立橘高校セミナーハウス(同窓会館)
       福島市宮下町7番41号
【参加費】 300円(飲料代・資料代込み)/学生無料
【申 込】 不 要 
【連絡先】 ethicafukushima@gmail.com


9月24日(土)第39回てつがくカフェ@ふくしま
【テーマ】 「〈公共性〉とは何か?」
【日 時】 2016年9月24日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
   ※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
     懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp
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第1回U-19てつがくカフェ@ふくしまの報告―「学校の勉強は本当に必要か?」

2016年08月21日 16時41分10秒 | U-19哲学カフェ


昨日に引き続き、本日は西澤書店さんの二階をお借りして、初のU-19てつがくカフェが開催されました。
とはいえ、外は36度の猛暑です。
同じ時間帯には甲子園の決勝戦が放映されています。
果たしてどれだけの参加者に来場してもらえるのか…
しかも明日始業式だという高校もある中、参加者はゼロという可能性も否定できません。
そんな悪条件の中、なんと高校生4名大学生1名の参加者に恵まれました。
各人単独の意志と判断で参加されたことに敬意を表したいと思います。

                

その中には、本日のテーマ「学校の勉強は本当に必要か?」を提案してくれた参加者もいました。
そのテーマ設定の背景には何があったのか?
その高校生によると、大人になってから問題解決能力やそのスキルが求められるというけれど、それが学校の勉強とのかかわりが薄いのではないかという疑問から生まれたと言います。
英語などは外国人と会話したときに勉強した意味を感じることはあるけれど、実生活に生かされない数学などは遠く感じられるし、数式なんて覚えていない。
勉強もその活かし方がわからなければ、そもそも無駄でしかないじゃないかというわけです。

むしろ、何に役立つか考えないからこそ勉強そのものが楽しいし、テスト勉強に燃えるという意見も出されます。
テストそのものが楽しすぎて、解答中にテスト用紙にうっすら赤い文字が浮き上がってきて、そのまま書き写していたら100点を取ったという不思議体験をしたという話も出ます。
また、テスト勉強はしたことがないけれど、テストの問題を解くこと自体が楽しいという意見も出されます。
それによれば、そもそも授業を聞いて新しい知識が自分の中に入ってくることはそれ自体楽しいことだし、テストは自分に欠けているところを確認するために必要であり、ただテスト勉強が嫌なだけであると言います。
ワタクシ自身は教員人生において、こうした考え方は初めて聞いた話なので、とても驚いたのですが、その気持ちはわかるという意見は他の参加者にも見られました。
ただし、その意見によれば、テスト勉強自体は燃え上がるとしつつも、それがいったん大学受験の役に立つとか、「利害関係」が生じたとたんに、一気にやる気が覚めると言います。
「目的」それ自体として楽しかった勉強が、ある「手段」に位置づけられた瞬間に冷めてしまうのだそうです。

これに対して、大学生の参加者は、高校時代にそんなことを考えたことなどないという驚きが示されました。
そもそも、学校の勉強が必要かどうかなど考えたこともなく、それをしなければならないものである以上、とりあえずやっておくものであるとしか認識していなかったというのです。
むしろ、テストが楽しいかどうかという以前に、テストがあるがゆえに勉強はするものだと思っていたのだし、もしなければ勉強などしなかっただろうと言います。
とはいえ、その参加者は英語に対してかなりの学習意欲をもっています。
それは「勉強」ではないのかと問うたところ、彼の中ではそれは好きでやっていることであり、したがって勉強ではないのだと言います。
なるほど、彼にとって「勉強」は強いられるものである以上、好きな英語学習は「勉強」には当てはまらないというのです。
そして、そうであるがゆえに、高校時代に勉強したことはほとんど何も覚えていないということもあると言います。
所詮、強制的に覚えさせられたものは瞬時に失われるということでしょう。
すると、記憶にも残らない勉強は何のためにするのでしょうか?

それに対して、そもそも勉強は高校生の「仕事」としてこなすものであるという意見も出されます。
必要性なんてわからないけれども、とにかく勉強する過程で根性なんかが身につくし、それが社会に出てから自ずと何かの役に立つという認識だと言います。
なんの役に立つかわからないし、いつ役立つかもわからないにもかかわらず、とにかく最低限の勉強は自分の可能性拡げる上では必要だという認識は全員が共有しているようでした。

しかし、これに対しては、テストがあるから勉強意欲がなくなるのだという意見も出されます。
テストがなければもっと自由に知識欲や探求心が生まれるはずなのに、テストがあると思うからこそその意欲が失せてしまうのだと言います。
その理由として、テストの評価が点数という一律で唯一の評価尺度しかないことの問題が指摘されました。
勉強の成果については、それ以外にも評価される尺度があっていいはずなのに、高校に入ってから点数一辺倒の評価にうんざりさせられていると言います。
果たして、人はテストがあるから勉強するのか、それがあるからこそ勉強したくなくなるのか。

この「評価」の問題については別の意見からの指摘がありました。
たとえば、国語の小説文などでは、自分の解答が正答に合わないときに、どこか問題作成者に適応させられているかのような違和感があることも示されます。
テストが自分の客観化に役立つという意見がある一方で、こうした自分の答えが何かに従属させられる違和感は「道徳」の授業でも感じるという意見も出されます。
もし、その「道徳」が国家に決められて、それを一方的に押しつけられるとしたらいかがなものか。
しかし、それに対しては、「道徳」の授業のように何が正しいのか答えが決まっていない問題を考える時間は好きだったという意見も出されます。

答えが決まっていないものごとを、原因に遡って本質的に考え抜くことが好きだというその参加者にとっては、やはり知識を外から注入させられる勉強の仕方ばかりの学校には、自分の存在感を得られるような学びがないように思うようです。

その一方で、全ての授業が楽しいと感じる参加者にとっては、授業で知り得ることがすべて新鮮で、単純に新しいことを知ることの喜びがありと言います。
さらにその参加者によれば、知識を得ることが「勉強」であるのに対して、自分で何かを考えるような営みは「学習」というのではないかと区分されます。
この二つの区分は重要であると思われます。
果たしてこれらは異なるものなのか、通じ合うものがあるのか。

これについて数学が好きだという参加者からは、答えが決まっている教科であっても、物事の筋道を原理的に考えるという点では、それほど異ならないのではないかと言います。
自分で自由に考えて答えを見出そうとする「学習」であっても、数学のように何かの公理があれば問題を解決していけるように、やはり知識は必要なものであるというわけです。

結論において、大方の参加者がやはり「学校の勉強は必要である」という認識を再確認したようです。
曰く、今の自分を形づくるのはやはり「勉強〉があってこそであるし、学校はその場として必要だと言います。
では、もしその学校で教えられていたことが嘘だったら?
こんな意地悪な問いを投げかけてみたところ、それでも国家が教科書をつくるのも未来の社会をよくするためにやっているわけだから、やはり肯定できると言います。
あるいは、それが嘘だと気づけるのも学校で勉強するからできることだと言う、全面的に学校での勉強に信頼を寄せている意見が目立ちました。
それに対して、やはり今回のテーマを提案してくれた参加者からは、なんのために勉強するのか腑に落ちない感じが拭い去れないようでした。
それが少数派だからと言って、その心にいつも引っ掛かりを覚えることをなしにすることはできません。
そもそも、その参加者によれば今回のテーマはその学校の勉強の空虚さに違和感を持ったことから生まれたものだと言います。
その意味で言えば、否定的な意味でも勉強をするということはその違和感に気づかせてくれたという点で必要と言えなくもないでしょう。
いったい、勉強が意味を持つということはどういうことなのか。
それが腑に落ちるところまで、とことん考え抜くことを継続していただきたいと願い、初のU-19哲学カフェは幕を閉じました。

終わってみれば、多忙を極める高校生たちが4名も集まり、しかもそこに大学生が1名加わることなど、ある意味で奇蹟的な機会だったと思います。
正直なところ、試しに取り組んだ初回で終わる可能性の方が大きいように予想していましたが、終了後、今回の哲学カフェについて感想を聞いてみたところ、おもしろかった、あるいはまた次回もあればやってみたいという声を聴くことができたことは大いに励まされました。
また、次回実施してみたいという勇気を若い世代にいただいたことは、たいへんうれしい出来事でした。
これに懲りず、また周囲の「声なき思考欲のあるマイノリティ」をお誘いいただいて、次回の開催を期したいと思います。

また、会場を無料でお貸しいただいた西澤書店様には心より御礼申し上げます。
こうした地域の方々に支えられることは我々にとっても願ってもないことです。
多くの皆様に支えられてこうした活動に取り組めることに感謝してやまぬ一日となりました。
(文:渡部 純)
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第38回てつがくカフェ@ふくしま報告―「図書館とは何か?」

2016年08月21日 16時27分00秒 | 定例てつがくカフェ記録






県立図書館を会場として、「図書館とは何か?」を問う哲学カフェが終了しました。
参加者数は36名。
中には、青春18きっぷで愛知県より来られた方がいらっしゃるなど、図書館に対する市民の関心度の高さがうかがえました。
何より、図書館司書の方々にも多数ご参加いただき、専門/非専門の垣根を超えた対話が実現したことは、これからの哲学カフェの新しい可能性を感じたものです。

さて、対話は図書館の魅力について語られるところから始められました。
ある司書の方は図書館の魅力を「自由」と「継続性」というキーワードで示されました。
そこでの「自由」とは「多様な資料を選択できること」と「誰が来てもいい場」という意味であり、「継続性」とは収集・蓄積された資料を未来に引き継ぐという図書館の使命において用いられます。
この「自由」について別の参加者からは、「無料」で閲覧できる点や「資料の収集力」、「言論・思想・信条・表現の自由」という点が加えられました。

これに対して、果たして図書館の「資料収集の自由」はどこまで認められるのか、あるいは本当に図書館は自由なのだろうかという問いが挙げられました。
とりわけ著作権と予算という縛りの中で選書しなければならない不自由を司書の方から挙げられます。
これについて、ある高校教員からは県立高校の図書予算比が年間20万円しかない窮状が訴えられ、その中で何を読ませるべきかは悩ましい問題であることが語られました。
しかし、ここには教育上の配慮から選書することはパターなリズムであり、「自由」とは相反するものではないかという疑問も投げかけられました。
そして、そこには「選書」する権利は果たして誰にあるのかという重い問いも含んでいます。

犯罪被害者遺族が出版差し止めを求めたにもかかわらず発売された『絶歌』を公立図書館は購入すべきか
あるいは、『はだしのゲン』の閲覧利用を制限することは認められるべきか
そこには図書館側の「資料収集の自由」が、公権力として市民が知る権利を阻害する可能性があります。
これに対しては「情報の価値判断は利用者側にある」という意見が出されます。
つまり、価値判断は利用者=市民の側にあり、図書館は国立国会図書館のように価値判断を排して資料収集に努めるべきであるというわけです。

しかし、これに対して司書の方から「図書館の種類」によって役割の「すみわけ」があることが示されます。
すなわち、県立図書館には郷土資料や専門書をメインに、市立図書館委はわりと「売れ専」の書籍をメインに収集する役割があり、学校図書館には読書になじませる教育的役割が備わる以上、それぞれにおいて選書の基準が異なるのはありうることだというわけです。

ここで「図書館の役割とは何か?」という論点がクローズアップされます。
そして、今回の議論のもっともホットな話題となりました。



まず、図書館とはそもそも「社会教育施設」として「知る権利」を実現する場であるはずなのに、昨今のツタヤ図書館問題は、市場原理を導入させたがゆえに、この社会教育という公共性を喪失させていったと言う意見が挙げられました。
そもそもベストセラー本のように、売れる本は市場に任せればいいだけの話なのに、そこにわざわざ税金を使う意味はないのではないか、というわけです。
そこでの評価尺度は図書館の集客数でしかなく、そのことが結果的に人や本におカネをかけずに消費文化だけを推し進めるため、残すべき文化遺産が継承され得なくなると言います。

しかし、これに対して「なぜ図書館がレジャーランド化することがいけないのか?」という問いが投げかけられます。
なぜ、図書館が「楽しさ」を追求することがいけないのか。
売れる本=市民が選ぶ本であるとすれば、売れる本を図書館が選書することは正しい税の使い方ではないか。
そもそも選書に「教育的」という要素を入れる点が押しつけがましいのだという意見が挙げられました。

この議論では、まさに図書館が「自由」と「パターなリズム」のはざまで揺れ動いている様が示されています。
学校司書の方の中には、教育的に読ませたいという選書が、生徒の好みと一致しない葛藤の中で、常に揺らぎながら選書のスキルが問われていると言います。
この対立について、「両方あってもいい」と言いう意見が挙げられました。
図書館には質の高い文化を蓄積する役目がある一方で、学校図書館では「ラノベ」のようなレジャー性をきっかけに生徒の本に対する関心を拡げる段階的な教育的方法もあるだろうとのことです。

すると、そもそも図書館が収集保存すべき本とは何かという問いが生まれます。
なるほど、ベストセラーのように売れる本を図書館が購入することは否定されるべきではないでしょう。
しかし、他方でその耐用年数を考えた場合、果たして図書館で購入すべきかどうかは疑問に思うというところがあるという意見もあります。
むしろ、売れる本ばかりが出版されることになれば、学術図書のように本は出版されなくなるという出版文化の危機を招くとの指摘もありました。
その点でリアルタイムではなく、知の遺産の未来への継承という役割が図書館にはあることになります。

また、「図書館の歴史」について少し専門職の方から説明が欲しいという要望も挙げられました。
日本では明治初頭(1872年)に新聞縦覧所として制度化されたときには、新聞を共同購入して読み聞かせなどをする組織として生まれたと言います。
その時代には図書資料は保管され容易に貸し出しは為されなかったところ、1970年代に貸出・閲覧が図書館の機能として始められたと言います。
閲覧・貸し出しが割と最近のことであるというのは驚きでした。
また、学校図書館でも司書が配置されるのは近年のことであるということ、福島市では1976年に市立図書館設置運動が為されたことで市立図書館が設立された経緯についても話題に挙げられました。



こうした時代の流れにおいて、近年では電子書籍化が進んでいる中で、果たして「図書」という概念そのものが変容しているのではないかという疑問も生じます。
なるほど、「情報」という点では青空文庫のように、ネット上ではアクセスする機会が拡大しています。
しかし、デジタル情報に対する違和感は少なからぬ違和感が挙げられました。
そもそも本に書き込みをしたり線を引いたりする研究職のような立場からすると、本は所有の対象であり借りるものではないと言います。
何度も何度も同じ本を読み返しても新たな発見があるというのは、単なる情報収集の対象として本を扱うのとは異なる向き合い方です。
これについては、「出会い直し」の経験を可能にするほんの「モノ」としての価値があるという意見が挙げられます。
高校生を相手にしている方からは、スマホ文化の浸透がウィキペディアを調べれば「わかった気になる」意識を蔓延させていると言います。
これに対して本の「出会い直し」の経験を何度も繰り返すことは、他者と出会う経験でもあり、その人の選書力を鍛えぬく意義があることも示されました。
その意味で言うと、単なる資料提供から学ぶための場としての図書館、自己教育の場としての図書館という姿が浮き彫りになります。
そのことが民主主義の基礎となる、個人の自分で考え判断する素養を育むというわけです。

最後に、「居場所」としての図書館についても議論になりました。
家庭に書籍がない子供と読書をしない傾向の関係性にふれながら、そのような子どもたちを以下に図書館に足を運ばせ、読書にふれさせられるかが図書館の課題として挙げられます。
「ホスピタリティ」というキーワードが図書館の存在にどのように関わるか。
もちろん、レジャー性がなければ図書館への来館も促せないでしょう。
しかし、ツタヤ図書館がいかに話題性を呼んでも、それが全国に広がれば、結局はレンタルショップとしてのツタヤ同様、どこでも同じサービスを受けられる画一的なコンビニ化にしかならないのではないでしょうか。
それに対して、むしろ地元の特産品を売りにするような地域的な資料収集などの特性を前面に押し出した図書館こそが、最終的には個性を売りにして人を集める場になるのではないか、という意見が出されました。

今回は図書の専門家である司書の方々と、一般市民がそれこそ対等に話し合いながら、お互いがそれぞれ見えない点を共有できた貴重な機会となりました。
図書館の発信力も取りざたされましたが、むしろ図書館側の一方的な情報発信ばかりに依存するのではなく、市民同士がこうした対話を通じて図書館をエンパワーメントする機会を増やしていくことが肝要なのではないかと考えさせられました。
こうした機会をまだまだこれからも創り出していきたいものです。
(文:渡部 純)
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本日、U-19てつがくカフェ@ふくしま開催!

2016年08月21日 10時05分32秒 | 開催予定



【名 称】 U‐19てつがくカフェ@ふくしま
【テーマ】 「学校の勉強は本当に必要か?」
【日 時】 2016年8月21日(日)14:00~16:00
【場 所】 西澤書店大町店2F
      福島市大町7-20・ TEL(024)522-0161
【参加資格】年齢19歳以下であれば、どなたでもご参加いただけます。
      ※ なるべく制服ではなく私服でご参加下さい。
      ※ 原則として関係者以外の成人の参加・見学はご遠慮していただいております。

【参加費】 無 料
    (飲み物はこちらで準備いたしますが、ご自由に持ち込んでいただいてけっこうです。)
【主 催】 てつがくカフェ@ふくしま
      小野原雅夫(福島大学教授/倫理学) 渡部 純(県立高校教諭/大学院生)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


≪案内≫
哲学カフェをご存じですか?
人間は「死んだらどうなるのだろう?」とか、「生きる意味なんてあるの?」と答えの出ない問いを考え始めてしまう存在です。
でも、そんな疑問を独りで考えているだけでは、いきづまってしまうのも人間です。
そんなとき、お茶を飲みながら、同じような疑問を抱いている人たちと、いっしょに語り合って考えを深めていく場が哲学カフェです。

こうした場が全国の小中学高校生にも少しずつ開かれつつあります。
そして、この夏休み、いよいよ福島で未成年の、未成年による、未成年のための哲学カフェを開催することになりました。
今回のテーマは「学校の勉強は本当に必要か?」です。
就職活動に、受験勉強に、課外に、部活に、そもそも学校そのものに疑問を抱いているそこのあなた!
もちろん、19歳以下であれば学生である必要もありません。
ふらっと、一人で、あるいは友だちといっしょに哲学カフェに立ち寄ってみませんか?

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

主催者一同
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