てつがくカフェ@ふくしま

福島市で哲学カフェをゆるゆるやってます。専門知識はいりません。
身近な哲学的問題をみんなで考え語り合いましょう!

第2回てつがくカフェ@あいづのご案内

2016年12月03日 09時05分05秒 | 開催予定
てつがくカフェ@あいづさんからのお知らせです。
第2回の開催が告知されました。
冬ごもり直前の奥会津・三島町へ皆さんで集いましょう!




【テーマ】おいしいってなんだろー?
【日 時】12月10日(土)  15:00~17:00
【場 所】つるのIORIカフェ
大沼郡三島町大字早戸字湯ノ平888(早戸温泉つるの湯隣り)
【参加費】 飲み物代 300円(コーヒーまたはほうじ茶)
【事前申し込み】不要(直接会場へお越しください)
【お問い合わせ】つるのIORIカフェ  TEL 0241-42-7355
        ✉ t.ioricafe@gmail.com


『おいしい』から連想するのは、どんなことですか?
好物の食べもの、誰かと囲む食卓、ひとり静かに燻らす煙、、、
炎天下の清流や波打つ稲穂、黒々と耕された大地を思い浮かべるかもしれません。

あるいは、うまいことやりやがったあいつの顔 とか。

わたしたちにとって、おいしいってなんなんでしょう。
1回の食事も満足に摂れない人がまだまだいる中で、おいしいって必要なんでしょうか。

おいしいから得る何か、おいしいために失われる何か。
ふだんは考えないような『おいしい』のことを、ゆっくりみんなで考えてみましょう。

《世話人》小松今日子  荒川信一  林 裕文

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第9回本deてつがくカフェのご案内―宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」

2016年11月27日 07時50分40秒 | 開催予定
           

【課題図書】 宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」
【日 時】 2016年12月18日()16:00~18:00
【場 所】 チェンバおおまち3階 福島市市民サポートセンター A-2会議室 (福島市大町4-15)
【参加費】 100円(珈琲などを準備させていただきます)
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


本deてつがくカフェとは
「本deてつがくカフェ」とは、あらかじめ課題図書を選定し、事前にそれを参加者全員が読んできて、その作品に含まれる哲学的テーマについて語り合う会です。文学鑑賞会とはちがい、作品論や作家論を論じ合うのではなく、その作品が取り上げている哲学的テーマについて、対話を通じて掘り下げていこうとする試みです。

今年最後のてつがくカフェ@ふくしまは、久々の本deてつがくカフェです。
課題図書は宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」。
一言でいえば、火山活動を人間の科学力でコントロールできるか、というのがこの物語のテーマです。
もう、おわかりでしょう。
「3.11」後の科学を考えるのにうってつけの童話です。
しかし、そこはさすが宮沢賢治、一筋縄ではいきません。
そもそも人間が科学の力に幸福を求めたのはなぜだったのか。
東北に生まれ生きた賢治の洞察から書かれた同書を読みながら、そのことを考えさせられずにはいられません。
そして、小松左京『日本沈没』や映画『アルマゲドン』を思い起こさせるような「犠牲」の問題。
科学者としての賢治と宗教家としての賢治。
これらのあいだを私たちはどのように生きましょう?

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。


てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

世話人一同
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出張てつがくカフェ@盛岡報告記―「〈伝える〉とは何か?」

2016年11月21日 16時32分20秒 | 世話人のつぶやき




去る11月19日~20日にかけて、岩手県盛岡市にて明るい選挙推進協会主催・若者リーダーフォーラムが開催され、その際に哲学カフェを実施したいとの意向を受け、ワタクシ(渡部)がファシリテーターを務めさせていただきました。
同協会からは、昨年度同フォーラムが福島市で開催された際に、ワタクシの方から「哲学カフェとシティズンシップ教育」について講演させていただいたこともあり、今年度は哲学カフェの実践をご依頼いただいたという経緯がありました。
ただ、昨年度の福島開催では80名ほどの参加者があったことから、果たして実施が可能かという懸念がありました。
それでも全員を参加させたいという主催者側の意向から、ともかくいくつか工夫しながらやってみようということになりました。

とはいえ、お互い初顔合わせですし、そもそも「哲学カフェ」ってなんだ?という参加者ばかりでしょうから、どうなるやら見当もつかないまま盛岡へ突入です。
まず、会場の岩手県公会堂に驚きました。

まるで大学の講堂を思わせるその建造物は、1927年に建てられたものがそのもまま使用されています。
旧知事室や旧議事堂も残っているのですが、なんと当日は一階ホールでロックのライブが行われていました。
地下には新渡戸稲造も利用したというフレンチレストランもそのまま営業しています。
その伝統の重厚さが残った建物ののなかの一室におずおずと入っていくと、さっそく参加者たちの報告会が行われていました。


さすが若者リーダーフォーラムの参加者だけあって発表は立派ですし、昨年度の参加者の様子からも話すことに関しては得意な参加者が多いだろうということは推測していました。
今回の参加者数も20名を超える程度でしたので、いつものてつカフェと同じ感じでやれそうだと一安心です。


とはいえ、毎度新しい場でファシリテーターを務めさせていただくときは、先の読めない緊張感がつきまといます。
冒頭10分に自己紹介と簡単な哲カフェのルール、そして本日のお題を伝えたところから開始させていただきました。
ルールや哲カフェの議論の深め方に関しては、@ふくしまのものを参考に以下のものを提示しました。

◎ 哲学カフェの方法
【基本ルール】
① 年齢や属性にかかわりなく、お互いに対等な立場で話し合って下さい。
② 他者の発言を聴くときは最後まで聴き、自分の意見を話すときはわかりやすくまとめて下さい。
③ 反対意見を述べるのは自由ですが、相手の人格を否定してはいけません。
【より哲学的対話が深まるために意識すること】
① 独白ではなく対話が循環するために、他の発言を受け継ぐ発言になるように努力しましょう。
② 自分と他者の意見のズレを大事にして、その違いの根本に何があるのか明らかにしながら、テーマに向かって答えをともに導き出せるように努力しましょう。
③ 哲学は常識を疑うことから始まります。常識という土台を切り崩しながら、ラディカル(根本的/過激)に思考する自由を対話しながら楽しみましょう。

◎ 今回のテーマ 「〈伝える〉とは何か?」
誰しも自分の思いが相手には伝わらない経験をしたことはあるのではないでしょうか。恋愛や友人、家族関係でのすれ違いはもちろんのことですが、世のため人のために様々な活動をする中で訴える声が、むなしく無視されることも珍しくありません。そのとき、人は、「この伝わらなさとはいったい何なのか」と考え込んでしまうものです。
さて、あなたは〈伝える〉難しさに考え込まされたことはありますか?いったい、他者に〈伝える〉とは何でしょうか?
民主主義の基本は言葉を伝え合う対話であるとすれば、この問題を考えることは政治について考えることにも通じます。ぜひ、皆さんで額を寄せ合って考えてみましょう。

そもそも、このテーマに関しては、選挙の啓発活動などに取り組んでいる方々ばかりだろうということで、そこでの経験から〈伝える〉ことのむずかしさを経験することが多いのではないだろうか、そこからお互いに議論を共有して思考を深めることができるのではないだろうかという推測を起点として設定しました。
そのことも含めた説明を経て、いよいよ若者リーダーフォーラムでの哲学カフェを開始します。

とはいえ、参加者の様子もわからずにいきなり全体で話し合うのはハードルが高い気がしましたので、まずは3~4人のグループに分かれて15分程度テーマについて話し合っていただきました。



さすが、そういう場にはなれている参加者ばかりなので、特に補足することもなくその時間を終えます。
そして、いよいよ本番です。
〈伝える〉ということは何か。
まずは、自分の「語彙力」が不足していることから、相手に伝わらないという意見が挙げられます。
その結果、ジェスチャーなどに頼ってしまうというに伝わらなさを感じてしまうというわけですが、それに対してはジェスチャーも言葉も含めた表現によって相手に伝わる物だという意見が挙げられます。
その意見によれば、むしろ相手に自分の意志を伝える上で重要なのは、相手に「聞く意志」があるかどうかだといいます。
さらに、その「聞く意志」が成り立つためには、その前提に「色々な意見がある」ことを認めていることが必要だというのです。
どんなに言葉やジェスチャーが巧みでも、それが相手になければ、自分の伝えたいことは伝わらないだろうというわけです。

では、どんな説得にも「絶対に自分の意見を変えない相手」はどう考えればいいのか?
個々で、それぞれの評価に微妙な差が生じます。
たとえ相手が絶対に意見を変えなくても、聴く耳を持ってくれさえいれば、それは伝わったことになるのではいか。
いや、行動そのものにその変化が現れなければ、伝わったとは言えないのではないか。
どうでしょう?
果たして、行動を変えたことにおいて「伝わった」と判定すべきなのか。

それに対しては、たとえ相手が意見を変えなくても、なにがしかの「反応」があれば、伝わったと理解してよいのではないかという意見が挙げられます。
無視されないことが「伝わる」ことの条件だというわけです。
この論点は後半に再度議論されることになりました。



すると、たとえ言葉を尽くさなくても自分の意図が伝わる相手もいるという意見が挙げられます。
ひと目合った瞬間から、なんとなく気が合う相手というものがいることは経験的にも理解できるでしょう。
表現活動に取り組んできたという参加者からは、ダンスや日本舞踊などは非言語的な活動だけれども、〈伝える〉とは何かを常に考えざるをえなかったといいます。
そのうえで、もちろんその時々で反応は異なるけれども、それ以前に「観客」という存在がなければ、それは成立しないという条件を挙げてくれました。
これに対しては、いや、さらにその前提には自分というものが存在していなければ成立しないという意見も挙げられます。

すると、その「反応」を含め、自分の意図が通じた相手かどうかとわかるのはなぜなのか?
それに対しては五感で感受するものであり、それによって成り立つ「経験」だという意見が挙げられます。
人間、誰でも気が合うわけではありません。
自分とフィーリングが合う合わないは、いくつもの出会いを通じて感覚的に形成されるものであり、それが「伝わる」ことの土台としてあるというわけです。
中には、それは「遺伝子」に基礎づけられているという意見もありました。
なるほど、自分が投票行動を促しても動かなかった友人が、家族の言葉で変わったというエピソードを話してくれた意見によれば、だから「身近な人間関係」ほど伝わりやすいということも言えそうです。
それについては「信頼」の有無が〈伝わる〉ことの条件だと言えるとの意見も挙げられました。

では、この「信頼」がない関係においては「伝わる」ことはあり得ないのでしょうか?
そのことを、ある参加者は「信頼関係はあったにこしたことはないけれども、必要条件ではない」と言います。
そもそも、このフォーラムにおいてさえ、お互い初対面で信頼関係があるとは言えないにもかかわらず、「伝わった」という瞬間はあるのではないかと言います。

すると、「伝える」と「伝わる」は違うのではないだろうかという点に注意を促す意見が上がりました。
実は、わたし自身、今回のテーマを設定する際に〈伝わる〉/〈伝わる〉を同時に問いに立てるかどうか迷うところがありました。
この二つは関係があるけれども、同時に問いのテーマにしてしまえば、議論は混乱してしまう恐れがあることから、〈伝わる〉という言葉はあえてテーマにおいて不問にしておいたわけですが、図らずもその問題に参加者が突き当たったわけです。

これに対しては、相手に伝わったかどうかにかかわらず、発信すること自体が〈伝える〉ということなのかという意見と、相手に「反応」があって初めて成立するものなのかという意見とに分かれました。
発声の宛先もないまま自分の名前をひたすら連呼する選挙カー演説を〈伝える〉行為に含めていいのか?
それは〈伝える〉という行為ではないという意見。
いや、相手に伝わったかどうかはわからないけれど、ともかく五感に訴えればなにがしかの反応があることは人間に限らないものである以上、相手に〈伝える〉ことそのものがなにがしかの反応を生んでいるはずだという意見。

いくつかの意見が交錯する中、やはり〈伝わる〉ことの条件は「信頼」や「言語」、「非言語的表現」も含めて、それを了解する「共通認識」が共有されていることが条件だという意見が出されました。
いくら〈伝える〉ことがあっても、それを認識できない相手にはそれは不可能であるというわけです。
しかし、これに対して、それは〈伝わる〉ことに関しては通用するけれど、〈伝える〉ことには通用するだろうかという意見が挙げられます。
たとえば、グーグルの広告のように反応が見えない不特定多数の人に〈伝える〉行為だってあるわけです。
そのような場合でさえ、「伝える」ことは可能になるわけだけれども、〈伝わる〉に関しては反応が見える相手、すなわちそれはコミュニケーション成り立つ「共通認識」をもつ相手であるわけですが、そうした相手にのみ通用する条件ではないかというわけです。
さらに言えば、赤ちゃんや言葉の通じない外国人には〈伝える〉ことは可能でも、〈伝わる〉ことは不可能ということになるでしょう。
そもそも、相手に伝わったかどうかは証明できるのか。
いや、なにがしかのデータから証明できるという意見も挙げられます。
おもしろかったのは、この両者のやり取りを聞いていた第三者の立場から、「両者のやりとりは、お互いに伝わっているのか?」という問いが投げかけられたことでした。
これには、それぞれが答えに窮しながらも「伝わっていると思う」と答えていた姿がとても印象的だったものです。

こうした議論の展開の中で、いや自分の意図しなかったことが相手に伝わっているという場合もあるという意見も挙げられました。
これまで「自分の意図」が相手(観客)に〈伝える〉という方向が、そもそも「自分」の意図さえなくても〈伝える〉ことが成り立ってしまうのではないかという、きわどい意見が挙げられたわけです。

どこか行き詰まりを感じながらも、そこを突破したい、突破できそうだけれど、なかなかできないというとても哲学的な時間が続く中、そもそも〈伝える〉とは何かと定義する必要があったのではないかという問いが投げかけられました。
問いを問い直すというのは、哲学の真骨頂ですが、まさか初の哲カフェ参加者同士の対話において、それが成立するとは驚きでした。
終盤、この問いかけに対して図らずも、「〈伝える〉の最上級が共感を含めた「伝わる」ことだ」という意見、「〈伝える〉を何回も繰り返していけば、〈伝わる〉に近づいていく」という意見、「〈伝える〉が〈伝わった〉に変わるものだ」という意見、などいくつも興味深い定義を上げていただきました。

あいかわらず、議論をまとめない哲カフェの手法には、消化不良の参加者もいたのではないかと思います。
時間が来れば、バッサリそこで終了。
今回の経験が何かの役に立つかどうかはわかりません(たぶん、役に立たない可能性の方が高いでしょう。)
にもかかわらず、自分とは異なる他者の意見によって自分の思考がかき乱され、それが不快ではなくむしろ自分が解体される快楽を覚えていただいたとすれば、それが哲学的思考の快楽であり、政治的な世界において機能する批判的思考の端緒なのだと思います。
ぜひ、その魅力を少しでも感じていただけた参加者に皆さんには、今回のテーマの議論を地元や身近な人たちと一緒に語りながら継続していっていただければ幸いです。
と言いながら、個人的には今回の皆さんの議論はとても政治的に重要な論点がいくつもあったように思いました。
そもそも〈伝える〉ことが問題になるのは、何も「共通認識」がない相手との関係においてのことだと思います。
その関係において、どのような構えを取るのかで、それぞれの政治的な行為は変わっていくのではないでしょうか。
今回の議論によって、そのことがどこまで可能になるか。
ご参加いただいた皆様に、対話を通じて発見されたことなどがあればコメントなどでお知らせいただければ望外の喜びです。

ともかく、さすが若者リーダーフォーラムに参加される方々だけあって、言葉と思考のレベルの高さに驚かされながら楽しませていただきましたことに感謝申し上げます。
今回初の試みがご満足いただける「哲学カフェ」となったか、甚だ自信はありませんが、必要であれば、個人的に可能な限りで出張哲学カフェも協力させていただきます。
またいずれお会いしましょう!(文:渡部 純)
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触って、話して、見て楽しむワークショップ報告

2016年11月03日 17時59分09秒 | アートdeてつがくカフェ記録


さわって・話して・見て楽しむワークショップが福島県立美術館で開催されました。
午前中の部には、視覚障がい者の方々5名と美術館友の会の方々5名、ファシリテーター渡部、午後は視覚障がい者5名とてつがくカフェ@ふくしま参加者5名、ファシリテーター小野原によって行われました。

まず主催者である県美の荒木さんから今回のワークショップの趣旨が説明され、参加者同士の自己紹介の後、真下弥生さんからロダンに関する紹介がありました。

「地獄の門」はロダンが37年間作り続けた作品だが、今回触察する「影の頭部」は地獄の門のてっぺんに「三つの影」という題をつけられた3体のうちの一体の頭部です。
実際には、その3体が向かい合って首を下にもたげていていますが、表情はわかりません。
今回扱う頭部の作品は正面を向いているので、表情もわかります。
ダンテの「神曲」は地獄と天国をめぐる話ですが、これをモチーフにした「地獄の門」の入り口には「汝ら個々に立つものは一切の希望を捨てよ」という言葉が書かれています。
また、ロダンの作品はほとんど人間の姿を作ったものばかりだが、想像ではなく必ずモデルを観察して作っていた作家ですが、その彼の言葉に「偉大な彫刻家は画家のように一流の色彩家なのだ」というものがあります。
こうした言葉をヒントにしながら、今回扱うロダンの作品を鑑賞してみましょう。


この後、3グループに分かれ、それぞれ15分ずつブロンズ彫刻の「影の頭部」と「髪をすく女」、さらに県内作家による制作途中の作品を触らせていただきながら、視覚障がい者と健常者とが対話をしながら鑑賞する作業に取り組みました。
そして、鑑賞終了後に30分間の哲学カフェが行われました。

午前の部の記録は県立美術館さんのブログをご覧ください。
http://www.art-museum.fks.ed.jp//index.php?key=jolkinwi1-388#_388

以下は、午後の部の対話記録になります。

 

※【視】=視覚障がい者の参加者 【健】=健常者の参加者 【フ】=ファシリテーター
【視】いつも美術館では触らないで下さいといわれるけれど、最近はレプリカで触れさせてもらえる機会が増えました。大宰府の博物館では手で触れる博物館としてオープンしたと聞いたことがあります。それはどういうきっかけかというと、全盲の奥さんに旦那さんが説明しているという姿を見た館長さんが、色々な人に作品を触れてもらえる博物館として出発させたと聞いています。それ以降、触れられる美術館が増えたました。私は盲学校の教員でしたが盲学校設立100周年の時に、ロダンの作品などを東京の美術館の協力を得て実施しましたが、今日、こういう機会を設けてくださって感謝しています。視覚障がい者は触れないとわからないので、こういう会を開催してもらえればありがたいです。

【視】弱視なんだけれど、その時によって見えることもあります。つい見たくて近づいてみようとすると、注意されるのですが、やっぱりそういうのはダメなんですかね?

【視】私も初めて触らしていただいて、小さい作品はわからなったけれど、大きい作品ははっきりわかってよかったです。親切に教えてもらえたので、本当にありがとうございます。

【健】今、お話ししてくださった方と同じ班だったのだけれど、特別な体験をしたような気がしました。美術作品は目で見てきた自分だけれど、一緒に触ってみて、皆さんと確認しながら自分のものにしていく体験が新鮮で、みんなで共有した感じがします。今でもひんやりした作品の感覚が忘れられなくて、ただ見ただけではその作品はわからないけれど、触ってみることを通しては全然違う経験でした。一緒に触ってくださった方に感謝です。

【フ】「触る」のだと部分から全体に広がる違いもあるかもしれませんね。

【視】私は弱視ですが、触ってわかる場合と見てわかる場合がありますが、触った場合と見た場合が全然違うこともあります。年度は目が開いているのか閉じているのかわからなかったし、粘土で触ったのは初めてです。細い足も、触っただけではわかりませんが、見てわかるものでした。

【健】今までは見るだけだったんだけれど、触ってわかったのは作者の視点で触って、作者になっているんじゃないかなという視点で見ることができたことです。粘土の作品も、仕上がったものではないけれど作者の視点で見ることができました。

【フ】たしかに、作者がつくる過程は隠されている部分ですね。

【視】いつも美術鑑賞では一緒についた方が説明してくれますし、それに近いイメージを頭の中で作るわけですが、しかし何かピンと来ない部分もありまました。今回のワークショップでは自分が納得するまで自分の手で触れることで、そのイメージがより鮮明になった気がします。より立体的にイメージが作られる、これは非常に素晴らしいのではないか。どうしても我々ふれる機会がありません。触れることが視覚障碍者には一番大事なことです。岩手盲学校の桜井さんは手で触れる博物館をつくって、それを視覚障がい者は観に行った方も多いでしょう。それ以来、健常者といっしょに取り組むという企画は、最近こういう風潮が出てきたのではないか。お互いに気が付かないところを補い合えるということで、素晴らしい取り組みをしているのは東京の方で色々な団体や美術館が取り組んでいることは知っていましたが、いよいよ福島にもそれが来たのだなぁと、そう思っていました。福島県の美術館の取り組みは早い方ということですばらしいです。

【健】今、話されたことと関係ありますが、私が視覚障碍者の方に説明をしていて躊躇いを感じた部分があります。僕が感じているのを話しちゃっていいのかなとためらいが生じたことが自分自身の中で新鮮でした。普段は自分の勝手な解釈で、一方的に観ているわけですが、今回は視覚障碍者といっしょでこの説明の仕方でいいのかなと、ためらいを感じながら説明しました。触覚の想像力みたいなものが、ここから膨らましていくのも一つ加わってくるようなそんな感じが、兆しがしました。

【視】触ってみて、ぼこぼこ感とかみたいなのは触ってみないとわからないんですよね。弱視だから、見えることはあったのですが、さわってみて全然違うんですよ、見えている方の意見も大事なんですよ、自分の中で触ってみる想像力もあれば、見える人の意見からも想像力が膨らみます。

【健】過去に視覚障碍者とのワークショップに取り組んだことがありますが、今回は自分の意見を言っていいんだなと逆に思いました。観て触って、自分が言った感覚を、さらに相手に触って確認していただいて、そういうことが見える人が感じるのだなと感じてもらえればいいのかなと思いました。これがお子さんや途中で障害を負った方などは難しいと思うんです。触覚は小さいころから経験を積んでおく必要があるのかなと思うので。

【健】率直な疑問なのですが、目の見えなくなった方は、途中から見えなくなった方は見えていた時の記憶があって像を結びやすいと思うのですが、初めから見えずに過ごしてきた方の触覚の仕方はまた違うのかなと思うのですが?

【視】私は小学校前から見えないんですけれど、展示会とは個人的な趣味でスカイツリーってどんな形しているのかと思うと、デパートでおもちゃを触るのですが、大きすぎるのは把握できない。同じ新幹線なのに、どうしてこんなに形が違うんだろうと思うんです。おもちゃですけれど、自分自身を納得させる。だから私の場合はただのおもちゃじゃないんですよね。みんなに何でこんなに集めているのと言われるんだけれど、知るためにはどうしても必要なので、けっきょく全部集めたくなるんです。だから機関車と客車が違うとか、だんだん覚えているんですよ。ロダンの場合は、前に全身像を触ったことがあります。全身像、特に裸の像なんかは、たくさんのイメージが生まれるんだけれど、今回の作品はイメージがわかりにくかった。今日見たのはどれ見てもざらざらのが多く、同じロダンさんの彫刻でも違うんだなぁと思いました。


午前の部の話し合いも興味深い内容でしたが、今回は哲カフェ参加者が参加された午後の部の記録のみにとどめさせていただきました。
会の終了後の反省会では、健常者視覚障碍者の方々から、この経験を両者で共有できる機会があったことに意味があるというご意見をいただきました。
まだまだ健常者と一緒に何かを共有するという場が少ないという視覚障がい者の方々からの生の声は、ふだん意識しないバリアがごく当たり前に存在していることに改めて気づかされたものです。
また、健常者に親切にしてもらえることはありがたいのだが、しかし視覚障がい者の立場からすれば、健常者ができることを当たり前のように自分で選べる環境の実現を望んでいるという言葉も心に残りました。
これは親切が不必要だということではありません。
そうではなく、そうした親切な手助けを必要としなくてもお互いに、負い目なく自分で自由に選択できる社会環境を築いていこうとすることです。
こうした話も情報としてはどこかでしっているのかもしれませんが、実際にお互いに顔を突き合わせて初めて伝わり、理解を進めるものになります。
今回、こうした機会にお誘いいただいた県立美術館の皆様にはもちろん、色々な形で関わって下さった皆様には心より感謝申し上げます。
この貴重な縁を引き続き大切にしてまいりたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
(文:渡部 純)
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第40回てつがくカフェ@ふくしま報告―「〈笑い〉はどこに生まれるのか?」

2016年10月31日 09時24分36秒 | 定例てつがくカフェ記録

(メキシコ国立人類学博物館のなかの所蔵品)

「笑いはどこに生まれるのか?」(参加者17名)

まず、東京からいらした学生さんからどうしてこのテーマになったのかの経緯を話していただきました。
前回の哲カフェ懇親会で、話をさせていただいたんですが、自分の研究は、震災後の福島の冗談や笑いをテーマにしています。自分は、東京で震災を経験し、その年の夏に福島に戻ってきました。帰るまでは、テレビやネットの情報ばかりで、暗くなり、すごく不安だった。帰ってきて家族などと話してみると、暗く沈んでいるばかりでなく、震災や放射能のことを明るく冗談を交えて話すのを知って、どうして、そういう風な会話が成り立つのか考えてみたいと思い研究に取り組んでいるのですが、哲カフェに集う皆さんの意見も聞いてみたと思い、テーマにしていただきました。

実際、あの頃は、「東京に出張に行った時など、福島は、大丈夫?」などほかの地域の人にしょっちゅう言われて嫌になったことがあり、「鼻血が出て止まらない。」なんて冗談を言った経験談から対話は、スタートしました。

ある人は、日本と海外の笑いの違いについて触れ、「日本の漫才では、ボケと突っ込みがある形で、他人を馬鹿にした感じで笑いをとる形式が多いが、海外だと、一人でパフォーマンスすることが多く、自分を笑ってもらう形式で、文化によって笑いが違うのではないか?との意見が挙げられた。
しかし、林家三平さんなどは、自分を下に見せる形で、誰も傷つけない笑いを作っていたと聞いたが、自分を笑いものにするという形式をとっていて、文化とも違うのではないかと、反対の意見もあった。
自分を笑いものにするのはいいが、他人を笑いものにするのは、ちょっと難しく、笑えない場合もあるので、文化というか、笑わせる手段・方法の違いではないか、との見方もあった。

また、ある人は、笑いが起きるのは、3つの種類に分類できるのではないかということで、以下の3つを挙げられた。
①楽しかったり嬉しかったりした時に、自然に出てくる笑い。
②人がつまずいて転んだりして、状況が一変した時に出る笑い。
③自分ではどうしようもなく勝手に出てくる笑い。

この方は、過去に自分が笑われたことが快感になったという経験を話された。子供が小さいころ、保育園で保護者が集まって廊下に並んでいた時に、廊下を歩いていておもいっきり転んだことがあり、それを見たある人が、「あなた何してんのよ~!」なんて、突っ込みを入れられ、大爆笑されたんだけど、この時、今までは嫌だと思っていたが、笑われることに快感を感じ、今までとちょっと考えが変わったことがあると話されました。笑いによって、心配や不安といった緊張がほぐれ、和やかな雰囲気を作り出せたことで、笑われたことよりも笑いを作り出したことに喜びを感じたそうです。そういった経験もあり、笑いは、緊張状態をほぐし、自分をナチュラルな状態に戻す力があるのではないか、との意見が挙げられた。

一日のうちの喜怒哀楽のうちで一番多いのは、静寂と笑いではないか?と日々幸せに生きておられる人の意見もありました。また、他人との関係において笑いが生じるということで、笑いには、相手が必要という意見が挙げられた。

笑うことで、自分自身の感情も盛り上げることができるのではと思う。ダンスの指導時も口角を上げて踊るように指導している。筋肉の話なのですが、口角を上げること、つまり笑顔を作ることと脳の楽しかった記憶がつながっているから、無理やり口角を上げるだけも、心も明るくなる、ポジティブになると聞いたので、生徒には、いつも指導しています、といった筋肉の働きから笑顔を作るといった今までとは逆の考え方もありました。

私の娘が小さい時、はしが転がってもわらうというけど、一時期ですが、娘の笑っているのを見て、本当だなと思ったことがありました。また、クリスタルボールヒーリングというのがあり、クリスタルボールをなでることでその振動を体で感じて笑顔が出てくるという経験がありました。そういった波動を感じて笑いが生まれるということも自分で感じたので、脳ではなく身体の振動によって笑いが生まれることはあると思うという、同じような意見も上げられました。

中学・高校のころに、くすぐったいわけではなく、床屋に行って顔をそってもらう時に、おかしくて笑えをこらえることが大変なことがありました。
お葬式とか、絶対笑ってはいけない場合に、笑いたくなってしまったりすることは、なぜ起こるのでしょう?といった疑問が挙げられた。それは、緊張や不安・はたまたギャップが関係しているのではないだろうか、と意見が上がった。

くすぐられて笑ってしまうのは、ほ乳類の多くにあると聞いたことがあるので、おそらく本能が関係しているのではないか?との意見が挙げられ、それに対して、でも、それは、笑いではなく快・不快の快の反応として表に出てくる笑いであって、本能とは違うのではないかといった意見も上げられた。

先ほども出てきましたが、ギャップが笑いに関係していると思います。普段とは違う新しいことや変わったことが起きたりすると笑いが生まれるので、そういったギャップが笑いを生んでいるとの意見が挙げられ、先に上がった本能からの笑いと人間の創造的な活動による笑いということで、まったく逆の意見がそれぞれに挙げられた。

楽しくて笑う、面白くて笑う以外にも、変なことを言ってる人に対して笑ってしまうことがあり、考えが違うこと、つまり自分とのギャップ対して笑ってしまうことがあるから、本能とはちょっと違う気がするとの意見も。

くすぐられる快感によっての笑いは、人間だけではなく動物もあると思うので、本能に関係していると思われるが、人間は、動物と違って知性があるので、クリエイティブなことによる笑いというのもありうると思うので、どちらも、同じ笑いの中にあるものであって違うものではないと思うとの意見が挙げられました。

笑いには、個人的な笑いと社会的な笑いがあると思います。個人的な笑いは、本能に近いもので、人それぞれ感受性が違うので、人によって笑いのツボが違うということで、社会的な笑いは、社交的な人間関係の中で生まれるものだと思います。どういったものを面白いと思うかは、個人差があって笑いのツボというのは、人それぞれ違っていると思う。「地味にすごい」という番組があって、自分の業界に近いので、笑いが止まらなくなってしまった、と経験を話されました。面白いから笑うので、くすぐられて笑うのとは違うと思う、と。

笑いは、個人的なものだと思う、子供の運動会のときに、強い風が吹いていて砂が舞って、子供の演技が見れない状況だった。そんな時、どういようもなく笑ってしまう自分がいて、今思うと、それは個人的な笑いだったと思う。どうしようもない諦めのときに私は、笑いが出てしまいます、と。

笑いはとても文化的なものだと思う。アメリカンホームコメディに私は馴染みがあり、私はすごく面白いのに、一緒に見てる人は全然笑っていなかった経験から、文化の違いによって笑いのツボも違うと感じた。落語を初めて聞く人は、本当に、面白いと感じるのかとても疑問です。何を面白いと思うのかは、すごく文化の影響を受けていると思います。

面白いとかおかしいと感じるものには、文化的な違いがあると思うが、しかし、共通に面白いと思うことはあると思う。例えば、普段とは違ったおかしな言動、おかしな服装のようなことをする道化師などは、文化の違いを超えて、共通の笑いが生まれると思う。落語などもおかしな行動を取り上げていると思います。

おかしいと面白いの違いは、理由がわかっているのとわかっていないのとの違いではないかとの意見が挙げられ、「ラッスンゴレライ」は、理由がわからないけども、おかしいのかな。と。

文化の違いが挙げられましたが、翻訳をしてる時に、ジョークなどを翻訳するが、全然笑えないことがあり、文化の違いを感じる。日本で、お笑いが流行っているが、人を笑いものにするようなものが多く、笑えないことが多い。漫才やコントは、落語が辿ってきたのとはまた違う笑いだと思う。「ラッスンゴレライ」なんか、今まで想像できないようなものが生まれてきたのは、やはりそれは、ギャップという言葉が通底するのかと思う。。

お笑い芸人の変な行動や話芸によって、いつもちゃんとしていないといけないと思っている普段の緊張した生活をほぐしたり、和らげる働きがあり、そこに笑いが生まれるのではないかと思います、との意見が挙げられ、笑いには、深刻さや心配から解きほぐす効果があると。

面白いなと思えるのは、その背景(ストーリー性)を想像できるかだと思う。女友達が、旅行のことを面白く話しても、いまいち笑えないのは、その友人との関係や旅行の背景等をきちんとわかっていないから、そういうことが生じるので、背景を理解していないと笑えないことがある。

変な服装だと笑えるかというとそうではなく、カズレーサー(芸人)は、最初金髪に赤い服の人で、最初は全然笑えず、怖いと思った。が、彼がどういう人かわかってくると、だんだん笑えるようになった。

オフィスの給湯室での女性同士の会話とか、そういう状況を自分でも経験しているので、そういった場面を映像で見ると笑うことができると思う。自分が知っている状況の中で、何かが起こると笑ってしまうのは、そのシチュエーションを理解できているからだと思う。

共有するというのは、一つのキーワードかなと思う。映画館などで、誰も笑っていないと笑いづらくて、周りが笑いだすと自分も笑いやすくなるということがあると思います。また、笑われるのと笑わせるというのは、違うと思っていて、笑われるというのは、場というかその状況を共有できていないから起きるのであって、笑わせるというのは、その場というか、状況をコントロールできているというか、共有できていることによると思う。その場を共有できていなくて、笑われるのは、残酷だと思うとの意見が挙げられた。

笑う、笑われるという話を受けて、ある参加者は、自分のブログに書いた内容について話した。女子高生が常識のない会話をしていて、それを外から見ている人が笑ってしまったという内容。女子高生は、まじめな内容を話しているが、それは、いわゆる常識から外れていて、それを常識のある人が外から見て笑ってしまったという内容。女子高生は、笑わせるために話しているのではないが、笑われているのです。

笑われるのは嫌だという意識は人間だれしもが持つかもしれません。でも、初めの方に発言された方は、笑われたのではなく、笑ってもらった、笑わせれたというポジティブなとらえ方をしていたので、もう一度話してもらいました。

笑われたくないと思っていたが、転んで笑われたのだが、自分のこんなことで笑ってくれるんだ、笑ってもらえるんだ、だったら、もっと笑ってもらいたいなと思った。でも、笑われてるのかな~私。と感じてしまう人もいるのもわかります、と話してくれました。

その発言者の話を聞いて、昔の話を思い出した別の参加者が、最初のデートで彼女が思い切りすっ転んでケツを打った時、大爆笑したら、怒られたという話をした。普段しゃんとしていた彼女だったので、そんなことになったので思わず笑ってしまった。彼女に、大丈夫?という言葉もなく笑ってしまったので、すごく怒られた。その時、彼女は、笑われたと思ってしまったと思う。自然に笑いが出てしまったので、あれを笑うなと言われてもすごく難しかったと思う。

失敗したことを笑われる。例えば、「あ、失敗しちゃった!?」という感じに自虐的にふるまえる能力を関西の方では、強く求められると思います。そういう人間は、高く評価される。コミュニケーションの能力なのか、そういう風にとらえられていると思います。

ここで、震災後の笑いについて、少し話を進めていけたらとファシリテーターが話した。今まで上げられた緊張とか、深刻さ、心配がある中で自分たちが笑いのネタとして笑わせることはできるが、外の人たちが笑いのネタにするのは、自分たちが笑われることになるのは嫌か、その辺を話していけたらどうでしょうか?

自虐を受け入れるということと関連すると思うのですが、震災直後に、避難所を運営していた時、笑うしかないという経験がよくありました。例えば、原子炉に自衛隊がヘリで水を撒いていたのを見るとどうしてもドリフとしか見えなくて、笑うしかなかった。でも、彼らはまじめにやっていたのでしょう。また、放射能の雨が降っている中、避難所にプールの水をバケツリレーをしている人たちは、笑いながらやっていた。自分は、まじめにやれよ、と突っ込みを入れたいところだったが、ああいうどうしようもない状況を彼らが受け入れるには、笑うしかないのではなかったかと今では思う。

被災地外の人が、「セシウムさん」のような形で笑いをとるというのは、被災地の人たちの怒りをかったと思うのですが、被災地内の人が自分を笑いにするのと何が違うのか、その辺はどうなのでしょうか。

先日、サンドイッチを買ったときに、嫌いな刻んだキュウリが入っていて、そのブログを書いた時に、自分は、最初「除染」と書いていたが、アップする前に検討して、自分だけならいいが、これはまずいだろうと判断して、撤去という風に書き直した。自分としては、除染レベルなのだが、それを使ってしまうと不謹慎ととられかねないと思って、訂正して載せました。

震災後、あまりに深刻な状況になってしまっていて、もぅどうしようもないから笑うしかないという状況に今置かれていると思います。賠償金が入ってきたことにより、笑いがゆがみはじめた気がする。一方では、家族が沢山いて、沢山もらっていて、一方では、金銭的にも苦しい状況に置かれていたりする。

フラダンスは、4月1日から再開していた。妊婦はやめたが、ほとんどの人は、楽しみがなきゃやってられない、ということで止める人が居なかった。
震災復興のイベント等で、他県に行って踊ったときに、向うでは、つらく大変だった話をしてほしい、笑いはいっさいいりません。と、お願いされてすごく驚いた。
福島の中にいる人たちは、笑いを求めているが、福島以外の人は、笑いを求めていないのだと、驚いた。

被災地外の人は、笑いにしてはいけないという気持ちがすごくて、震災後の復興イベントで、オリンピックのバドミントン選手が、県北の学校に来た時に、すごく大変だったですよね、私は笑いにはしません。というスタンスが明らかだった。被災現場から距離が遠くなると笑いにすることがより難しくなるのだと感じた。

私たちの年代では、他人を笑ってはいけないという価値観があるので、3.11のことを他地域の人が見ると笑いにできないのではないか。でも、笑いヨガというのがあって、笑いで悩みを吹き飛ばそうという取り組みが3.11以降、身近なところであった。

笑いは、解放効果があって、当事者には、必要なことだったと思う。原発から距離がある人が見ると福島がすべて危険ととらえてしまって、笑いにできなかったのだと思う。でも、実際は、福島と言っても限りなくグラデーションがあって、どこからが危険なとこで、どこからがそうでもないと明確に区別できないので、外部の人にはわからない。でも、当事者は笑いを必要としていた。自主避難をしている人は、自分が福島人だと名乗ると、嫌がらせを受けたりもあり、そそくさとその場から逃げることもあった。それは、笑いにできなかったということもあったからではないか。

出張で東京に行ったときに、向こうの人間は、かわいそうだと思っていたから、福島では、思いっきり空気をすえないんだと自虐的に言ったら、本気にされて驚いたことがあった。

震災でも福島市ないと浜通りの津波被災地では、違いがあるのか、どうなのかファシリテーターから話がふられた。

浜通りに住んでいて、自分は大きな被災はなかったのですが、自分の姉の嫁ぎ先が被災し、泥や大洲海岸の松が家の周りや家の中に流れ着いていました。当時、お店で買い物することも難しい状況だったため、被災した家の中の冷蔵校の食材を松を乗り越えて取りに行ったのですが、その食材は、袋がドロドロだったため、川で洗って食べれるようにしてましたからね。その光景は、ほんと笑える状況でしたよね。

でも、それは、被災したお姉さんたち自身は笑いとして話せたのだろうか?本人が、笑って話せるかどうかではないか?

しかも、当時火力発電所に勤めていた兄が、津波で建物にとどまることを強制されていたが、家族が心配で、周りが真っ暗な中、その辺にあった自転車で先を探りながら、親戚の家まで夜中に帰ってきたと聞いて、すごく大変なことだと思うんだけど、それを本人が笑って話せるかどうかじゃないかな?と、近くにいてもその助かった当事者が笑いにできたかどうかではない?

しかし、中には「笑い」として扱うにはシビアすぎると被災事故もあったでしょう。

笑いにできるかどうかは、当事者だけの特権ではないでしょうか。当事者以外には、難しいかと。

笑いは、悲惨な現実を受け入れるとかという話できたけれども、笑いは、コミュニケーションとしても使えるのではないかと思います。放射能の話などでは、正しさと正しさのぶつかりあいで、どちらも譲らない状況が生まれているが、茶化しながら、「なんでやねん!?」といった関西的なノリで、伝えるということが笑いにはできるのではないかと思います。日本では、ザ・ニューズペーパーのような集団が政治のネタを笑いにして伝えるということができているように。

先程の方の彼女が転んで笑ってしまったという話からは、あ、そういう時は、笑っちゃダメなんだな、って学べたけど、ちょっと厳しい被災事故のケースもあるのではないかと思う。程度の差っていうのはあるかと。。

やはり、当事者の特権というのはあって、先程の発言者も、話す前まではトラウマがあって話せなかった時期があると思うけど、こうして笑い話として話せるようになったというのはあるでしょうね。その出来事を対象化できるかということも関係しているのでは。その経験と距離をとれるとか。

神聖喜劇というのを最近読んでいて、これは、ダンテの神曲の日本語訳なんです。つまり、人間のどんな出来事も神の目から見れば、喜劇だと言えるということかと思ってます。

「人生はすべて笑いになる」という本を読んだことがあります。

シビアな被災事故などの話が笑えないのは、死がかかわっていることが大きいと思います。死んでしまったら、笑いにならないですよね。距離があれば笑えるというが、横浜で、ヘリの水かけを見ていたが、皆さんと違って全然笑えなかった。福島にいた皆さんと違って、真剣に成功を願っていた。距離があったので、笑いがなく見ていた。福島にいなかったから、笑いには至らなかった。それは、地理的な距離ではなく、確実に身の安全が確保できていれば、原発から近いかどうかは関係なく、気持ちが原発の問題に近くて真っただ中にいて、真剣に考えていた。

笑いは、心の余裕の度合いによって違うと思います。原発の爆発の瞬間は、驚くけど、だんだんその状況に慣れてきて、心の余裕が生まれて、水をかけている状況も笑いが生まれたのでは。

余裕・ゆとり・距離・ギャップというのがポイントとして挙げられました。

横浜で仕事をしていた時、銀行の担当者が富岡の出身だった。その人の母親が富岡に残っていた。その人と原発の話をしましたが、その人も笑えてなかったです。自分は、半年後に福島に戻り、不幸コミュニティに一度入ってから、横浜にもどったら、「靴の裏に放射能ついてるよ」と笑いにできた。不幸コミュニティに一度参加すると、笑いにできました。職場の同僚も、その笑いにのってくれて、普通に笑ってくれました。

生きているから笑える。死んでしまうと笑えない。死んでしまうと当事者が居なくなるから笑いにできなくなりますね。
(文:杉岡伸也)
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「触って、話して、見て楽しむ美術鑑賞ワークショップ」のご案内

2016年10月30日 15時33分07秒 | 開催予定
「触って、話して、見て楽しむ美術鑑賞ワークショップ」のお誘い

このたび、福島県立美術館が主催する、視覚障がい者の方と美術作品を鑑賞するワークショップにてつがくカフェ@ふくしまが協力させていただくことになりました。なんと、あのロダンの作品を触りながらですよ!!
以下、哲カフェ常連であり、主催者の荒木康子さんからのご案内です。



※写真はイメージであり、実際に触れる作品とは関係ありません。
もっとも、皆さんでこんな感じで考え合いましょう!

このたび、福島県立美術館は、てつがくカフェ@ふくしまさんとともに、視覚障がい者の方と美術作品を鑑賞するワークショップを開催いたします。
美術館では2011年から毎年1回、「視覚障がい者のための鑑賞ワークショップ」を開催してきました。
それは学芸員にとっても刺激的な体験でした。
見えない人の鑑賞をサポートするために、見える私たちは、ひとつひとつの「言葉」の意味や使い方を吟味し、想像力をフル活動させることを要求されます。
そして見えない人との対話を通じて作品についても多くの発見をし、普段私たちが当たり前にやっている「見る」とはどういうことなのか、あらためて考えることになりました。
それは視覚に寄らない世界の把握の仕方に思いを馳せるきっかけにもなりました。

視覚、触覚、聴覚、そして時には嗅覚、それぞれ得意とする感覚が違う人たちが集まって、お互いに補いながら鑑賞をしてみたらどうだろう。
そんな考えからこのワークショップの準備が始まりました。
福島県立美術館の作品を、見える人見えない人の区別なく、地域の皆さんと一緒に楽しんでいただくことがこのワークショップの目的です。

視覚中心の美術館ですから、「見えない人が鑑賞する」ことに比重が置かれることにはなります。
見えない人の鑑賞(触察)の傍らに立ち、サポートし、そして言葉を重ねることから、いつもとは違った美術作品の楽しみ方を味わっていただきたいと考えています。
ちなみに、今回鑑賞するのは、昨年度寄贈されたロダンの彫刻作品です。
そして鑑賞が終わったら、参加者みんなでてつがくカフェをやり、鑑賞体験を共有し深めましょう。

皆さまのご参加をお待ちしております。 (福島県立美術館学芸員 荒木康子)

日 時:2016年11月3日(木・休)①10:30-12:00、②14:00-15:30
※おかげさまで①②の部はいずれも定員に達しました。
鑑賞作品:.オーギュスト・ロダン作品
 (1)彫刻 《影》の頭部 制作年不詳 ブロンズ
(2)彫刻 髪をすく女 1900年以前の制作 ブロンズ 

場 所:福島県立美術館 講義室・常設展示室B

講 師:真下弥生氏(ルーテル大学非常勤講師)
半田こづえ氏(筑波大学人間系障害科学域助教)
渡部 純氏(てつがくカフェ@ふくしま)
小野原雅夫氏(てつがくカフェ@ふくしま)

参加者:視覚障がい者(定員・各回6名、同伴者を除く)
てつがくカフェ@ふくしま参加者(定員・各回5-6名)

参加費:無料

参加申込:下記の【 】内の内容をご記入の上、fukushimacafe@mail.goo.ne.jpへメールでお申込み下さい。
【ご氏名】
【参加希望時間】①か②をお書き下さい。
※定員に達した時点で申込受付を終了させていただきます。
※参加希望を受け付けましたら、メールにて返信させていただきますので、パソコンからのメールを受信できるメルアドをお知らせください。特にパソコンからのメールを受信しない設定でなければ、そのまま返信させていただきます。


主催:福島県立美術館
協力:てつがくカフェ@ふくしま、福島県点字図書館、福島県立美術館協力会



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第8回エチカ福島のご案内―映画『たゆたいながら』

2016年10月27日 14時28分46秒 | エチカ福島
世話人・渡部が共同代表を務め、小野原がアドバイザーを務めるエチカ福島という団体があります。
その第8回目のイベントが10月29日(土)に開催されますので、ここにご案内申し上げます。

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第40回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「笑いはどこに生まれるのか?」

2016年09月27日 18時44分27秒 | 開催予定


【テーマ】 「笑いはどこに生まれるのか?」
【日 時】 2016年10月15日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
   ※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
     懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。

【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



今回は初めて「笑い」をテーマに取り上げます。
前回のてつカフェ後の懇親会で、参加者のひとりである大学院生の方が、
〈3.11〉後の福島における笑い(ジョーク)について研究していると自己紹介され、
それを受けて参加者のあいだで、笑いとは何か、人はどういうときに笑いを求めるのか、
苦しい状況のなかでジョークで笑い飛ばすことによって救われる場合と、
「セシウムさん騒動」のようにまったくシャレにならない場合とでは何が違うのか、
といったことについてけっこう盛り上がり、ぜひ次回のテーマにということになりました。

〈3.11〉後、どんどん悪化していく政治状況のなかで、
もはや笑ってる場合じゃないという危機感がある一方で、
ここまで来たら笑わなければやっていられないという気もしています。
笑いは人々を救うのか、それとも現実を隠蔽するだけなのか?
自然に漏れる笑みは、どういうときに、どういうきっかけで生まれるのか?
笑いについて真面目に、そして楽しく語り合ってみたいと思います。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら
てつがくカフェの進め方については⇒こちら

世話人一同
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第39回てつがくカフェ@ふくしま報告―「公共性とは何か?」

2016年09月26日 08時11分37秒 | 定例てつがくカフェ記録

※ 本画像は某教科書会社の高等学校「倫理」資料集に掲載される予定です。高校「倫理」で「哲学カフェ」が取り上げられるとは、時代も変わりました。

さて、9月24日(土)に39回目の定例てつがくカフェが、「イヴのもり」にて開催されました。
参加者は23名。
「〈公共性〉とは何か?」という、おカタいテーマであるにもかかわらず、23名の参加者に恵まれました。
今回は、4月に行われた議論の継続であることを踏まえましたが、そこに参加されていない方もいらっしゃるため、その継続にとらわれずに話し合うことを確認しました。
とはいえ、遠隔地で今回の議論に参加できない方のコメントを紹介しつつ、それを話のとっかかりとして始めることにいたしました。
そのコメントとは、これです。

「多様性といえば、公共性には必須の条件だと思っています。
多様性がない状態は公共ではないとも思っています。
公共は、社会集団とか色々と定義はあると思いますが、個人が組み合ってる状態、みんなのことですかね。
公共が皆のことなら、個人が窒息しては皆と組み合おうとは思わないと考えます。
目的がはっきりしている小集団、例えば会社は、目的が同じ個人が集っています、目的を達成するために個人は何をするのかに帰結していくと思います。
そういった状態では、個人間に差をもうけて、例えば待遇とか、目的達成を推進します。
僕の中では、これは公共ではありません。
少し分かりにくいかもしれませんが、皆のことを考える場面が公共で実行するのは公共ではないという整理です。
公共性とは個人が公平であり、尊重された上で、公共の話しが可能なことだと思います。抑圧されることがなく、公平にものが言える、存在できる事と言い換えられます。
このようなことが約束されていることは、公共性の大事な要だと思います。否定があると力関係が発生しますし、力関係が前提となればものが言えなくなることにも繋がります。
言いたいことが言えない、存在が認められない、窒息します。窒息すると公共のことなんて考えなくなります。
公共性のためには、公平であることを追及する必要はあると思います。
誰でも生理的に受け入れられない主張はあると思いますが、主張を封じ込めては公共性は成り立たないと考えます。
居心地が悪いかも知れませんね、公共は・・修行の場ですね、一体になることはないんでしょうからね。
雑多であるし、画一化されていない。僕が考える公共性とはこんな感じです。」


ちなみに、この方も4月の哲カフェには参加されていません。
これをもとにしてまずは、公共性を「公園」のような場であることからとらえる次の意見が出されました。
「多様性が公共であると出ていたが、主婦で子育てをしてきて、ポスターの公園を見て、公共ってこういうことかなあ。公園には多様性がある。サッカーで遊んでいる子が広がってくると、ちょっとこっちまでは来ないでくれると言いたいことを言って、それぞれを尊重できる場。身近な公共を感じられる多様性を尊重できる場であった。」

これに対して「公共のためには公平性を追求しなくてはならないとあったが、公平ではなく平等ではないか」としながら、「必要な人と必要でない人が折り合いをつけながら、お互いに別の目的をもつ人たちが対話をして公共性を追求していく」イメージを上げる意見も挙げられます。

さらに「みんなに開かれていることが公共性なんだろう」という意見が出されます。
ただし、ここで「みんな」と言っても、税金を使って作るもののように、「みんな」のお金を使ってやることは「みんなのもの」でなければならないということを「みんなが了解をしている」ことが必要であるといいます。
その了解が広がっているいれば、「公共性」の高い社会といえるのではないか。
逆に、その了解がないと、閉じられると集団だけになってしまうのだろうということです。

議論は「公園」から、一気に「社会」のレベルにまで引き上げられたため、いったん「社会」のレベルと「公園」のレベルの公共性とを区別した上で議論することがファシリテーターより指摘されました。。
そのうえで、「公共性」に共通するものが「みんなに開かれている」という点で一致していることが確認されました。

すると、「ひとりで生活していれば公共性を考えなくていいけれど、公共性を考えなくちゃならないのは利害の対立があるからではないか」という意見が挙げられます。
逆に、利害対立のないような状態においては、「みんなのもの」なんて考える必要もないわけです。
そのように考えれば、「公共性は創り上げていくもの」にほかならず、しかも、それはいろいろな集団や文化のなかで公共性は創られていくものである以上、一言で「公共性」と括れることはできないのではないかとの指摘がなされました。

ここまで議論したところで、「そもそも「公共」と「公共性」は何が違うのか?」という疑問が投げかけられました。
果たして、「性」が付くと意味はどのように変わるのか?
可能と可能性、現実と現実性、人間と人間性…
さしあたり、「性」には性質を意味しながら、「らしさ」とか「っぽさ」という言葉を当てはめることができるでしょう。
ということは、「公共性」とは「公共らしさ」とか「公共っぽさ」ということになりましょうか。

これに関して「公共」は制度、システムを指し、「公共性」は対話が発生してその間、対話のなかに含まれているものであり、そこに生まれる差異結びつけるなかに公共性が生まれるとの意見が出されます。
「場」として固定されたものではなく、そこにいる人たちの「あいだ」に現れるもの、すなわち「関係」において公共性が現れるという意見は、これまでの「公共性」観とは異質なものでしたが、とても興味深くかつ斬新な見方の提示でありました。
ただし、その発言者は、そのあいだをつなぐものを「情」と表現し、感性的なものに根拠を求めます。
近代的な意味で言えば、「情」は果たして公共性の基盤となるのか、むしろ同質性の塊になるだけではないのかという疑いも生じますが、むしろここでの「情」や「感性」はそれとは別種のものを言い表そうとしているように思われました。

すると、あらためて「公共性」とは何か整理するところに議論は立ち戻ります。
「どういうところを公共の場というのか。駅も公共の場。2人でカフェで話しているときも公共の場。そこでは相手に殴りかかったりしないし、いきなり歌ったりしないで、お互いに公共性を担保する」という意見には、そこになにがしかのルールや決まりが共有されているところに、公共性が成立することを言い表しています。

それに対して、「哲学カフェにおいてはいろいろな意見、対立する意見が出るけれど、そのテーマのいろいろな側面が見えるので、哲学カフェではまったく違う意見が出ても暴力ではない。暴力的な言い方をされたら違うけれど、意見の対立は否定ではない」という意見や、「誰かの意見に対して否定するとは公共性を壊すことではない。違う意見を出し合うことは否定ではない」という意見が出されます。
一方、「会社など一般の場では必ず対立がある。負けない工夫して臨んでいる。でも、それは公共ではない。公共はあるものが満たされたとき、その前提のもとで成り立つ。否定をしないとか、他人を罵倒しないとか。でもそういうのはなかなか成り立たない」という意見も出されます。
どうも、生活全般にわたって秩序を保ちながら自由に物事を言い合える場というのは、実に少ないというのが共有されているようです。

ところで、「否定があると公共性は担保されない」とは、冒頭のコメントにも合った主張ですが、そこでいう「否定」は暴力的なものではなく、一定程度決まり事を守ったうえで交わされる異論・反論とは異なるということです。
さらに、「異論はいくらでも出していい。国会の論戦など高いところを目指しての議論はあまり見たことがないが、哲学カフェでの議論は理解を深めるものである。決めつけたり排除したりするといけない。あくまでも食い下がって議論するのはあり」という意見も挙げられます。
そこには「言い方」を問題にする意見も付け加えられました。
「私道には植木鉢を置いておいてもいいが、公道に置かれると邪魔になる。でもここに置いちゃダメだろうと否定されると話し合いが壊れる。公共の場では、○○だから~してください、と言葉の使い方、言い方によって分かち合っていくようにしなければならない。」

けれど、公共性は言い方の問題に収斂されるものなのでしょうか?
そこに公共性を求めてしまっては、それこそ「気性の激しい人」や「言葉の荒い性質の人」などは排除されないでしょうか。

「第三者がどう見るかをどう意識するかによって変わってくる。都会では干渉しないという公共性。村社会では村のために望ましいことをするのが公共性。てつカフェでは意見を出し合うのが公共性。」という意見には、やはり、その社会や場、文化によって「公共性」の意味合いは異なることを示されています。
けれど、「ムラ社会」に公共性なんてあるのでしょうか?
「世間体」が支配するような、狭い範囲で暗黙のルールを強制される社会を公共性とは言わないのではないでしょうか。

これに対しては、「公共性は「みんな」が大事。公共の場で大声を出さないという暗黙のルールを守るのが公共性。ルールを守っている、ルールが大事。」という意見があらためて挙げられます。
「公共性にも影と光がある。ルールを守る人たちにとっては有益なものになるけれど、ルールを守らない人は淘汰、排除、村八分にされる。それが闇。公共は過激になれば悪いものにもなりかねないのではないか。」
「民主制社会のなかでの公共性という条件がつく。暗黙の了解というよりは共通認識とか「いい意味での」常識によって保証されるのが公共性である。」

なるほど、「ルール」や「いい意味での常識」、「話し方」も含め、それらを守ったうえで対話が成立することが「公共性」に値するというのが、全体として共有されたことです。
 
すると、「公共性は限りなく自由がある状態と思っていたが、ここまで話してきてどうも違うような気がしてきた。ある社会的集団のなかでルールが守られた秩序が保たれた状態のことを意味するということらしい」という感想を漏らした方がいらっしゃいました。
これも大変興味深い意見です。
「公共性」は「自由」と関連すると思われていたものが、どうも「ルール」や「言い方」、「常識」に規定されるのだとしたら、むしろ「秩序」に依るものらしいということです。
これに対しては、「秩序が保たれて、でも異論が言える空間。それは公共性の自由ではないのか」という意見が挙げられます。
「自由がどれだけ実現されているか、民主主義の成熟度を左右するのが公共性。感性というのはその実践能力としての感性を指しているのではないか。」
なるほど、「常識的」な理解では「公共性」はそのように定義できるのかもしれません。
でも、それと「ムラ社会」とはどこまで違いがあるのでしょう?
民主的な「ムラ社会」というのも当然あるでしょうし、その社会のルールを共有するとか決まりを守るというのは、「郷に入れば郷に従え」という閉鎖性とどう異なるのか、その違いを明らかにしなければならないでしょう。
公共性が「みんなに開かれた場」を基準とすれば、その「みんな」とは、果たして誰のことなのか?

こうした疑問が頭の中に浮かぶ中、突然、「人間同士のなかでしか公共性は成立しないのか? 動物との間でも公共性は成り立たないのか? 人間だけは公共的だけれど動物が抑圧されている社会は公共性と言えるのか?」という、別の角度からの問題提起がなされます。
「生き物の群れがもっている距離感が公共性ではないか。部屋のなかにムシや生き物が入ってきて、それを放っておくのは公共性か?」
「動物と人間の公共性を考えれば、飼い犬どうしが噛み合わないのは人間がそういう公共性を作ったからだろう。人が正しいと思うものを動物に当てはめているだけで、動物の公共性は人間が作ったものに過ぎない。」
動物と人間の共生という意味で「公共性」を用いるのであれば、たしかに人間中心主義という意味において成り立つでしょう。
これに対して、「赤ん坊が電車のなかでギャーギャー泣いていたらどうするか。人間と動物を同じ目線で語ることはできない」との意見も挙げられます。
とはいえ、「躾」という意味では、やはり「赤ん坊」という自然状態を公共性に適応させるために矯正する営みが教育にはあるとも言えます。

さらに、その問題提起者は、「宇宙は公共のもの。地球は人類のものなので公共と言えないかもしれないけれど。何かしらの条件付けがあって、何かしらの対立が出てきてそうなってしまう。来るもの拒まず、去る者追わずが公共性という意味に尽きる。税金を使ってトキを保護しているけれど、あれは人間のためにやっているのではないか。牛や豚が絶滅すると人間は困るがトキは絶滅しても困らない」と言います。
話題が宇宙―地球レベルの「公共性」に至り、、ますますどこまで「みんな」を広げられるのか、議論は混迷を深めます。
「自然をどれだけ壊してきたかという罪の意識が芽生えてきた。贖罪の意識で守っているだけ。公共性はあくまでも人間の文化的な産物だ」

すると、宇宙の話題から、今度は一気に御町内の話題に移ります。
「近所に猫屋敷があってあちこちに猫が糞をしたので、申し入れをした。猫にとってはどこだって公共の場だけど、ご近所のみんなにとっては困りものだった。その飼い主は猫に関しては自由というスタンスの人なのですが、ご近所の皆さんはお金をかけて猫排除対策をしなければならなかった。その人の問題は猫問題だけでそれ以外の面では尊敬できる人だったので、じっくりと対話したがなかなか解決しなくて、公共性のつらさというか弱さというか。その人を全否定はできない。うまくやっていけるものならうまくやっていきたい。けれど、そこで忍耐しなければいけないというう点では公共性はつらい時もある。」

ご近所トラブルは、一般に「常識」のないご近所さんによって周囲が迷惑するという構図が成り立ちます。
では、その対話も通じない「非常識」な相手にどう対処すべきか。
哲カフェのような時限的な場はよいとして、町内のような空間はなかなか移転などできません。
暗黙のルールが共有されているなかで秩序が成り立って多様性を認めあえて公共性が成り立つというのがこれまでの議論音主流でしたが、ここでは、「いい意味での常識」を共有していない人は排除しなければならないのか、という疑問が生じます。
これは、今後日本社会に移民が増えると常識どころか言語も共有されなくなる事態が増加するだろうという想定を踏まえれば、さらに深刻でリアルな問題を指摘するものでしょう。
果たして、そこにおいて公共性はどう成り立つのか。

「掃除、犬猫の問題は辛抱強く呼びかけ続けなけばならない。あの人公共性なくて困るとは思っているけれども、その人相手に辛抱強く対話をしている。」
「ゴミの集積所問題。ゴミ捨てのルールはなかなか守られない。」
「ゴミは排他性の先鋭的問題。他者が来た時に真っ先に問題になる。」
「避難の人が増えてゴミのルールを守らない人が増えた」という言い方をする人が現実にいることを考えると、まさに常識や決まりを共有できない「他者」との間に「対立」が生じた時にこそ、「公共性」の真価が問われるとも言えるでしょう。
その点では、「ゲーテッド・コミュニティ」がある種の階層の人々が、自分たちの公共性を保つために排他的なコミュニティを作っているという問題についても考えなければならないでしょう。

「ルールを破るのは通りすがりの人。コミュニティのなかの人ではない。するとだんだん監視社会になっていく。監視社会になるのはやめようとがんばっている。」
定住しない、いわゆる「流れ者」は公共性を無視するというのも常識的な解釈の一つでしょう。
それに過剰に反応することが監視社会を招くのではないか、というのは重要な指摘です。
一方、「夜働いている人もいるので前の日に出す人がいるということがわかった。出したあとにネコや鳥が荒らすことがあるが、そのときはゴミ集積所に一番近い人が片付けてくれたり、正しいゴミの日まで保管してくれたりしている。辛抱強く公共性が育つように待つ。きちんとした公共性というよりは柔軟なゆるさのある動的公共性であったらいいのかなあ」という意見も出されます。
この発言者は「辛抱強さ」や「ゆるさ」という表現を用いますが、これは社会的には「寛容」という問題に接続します。
「不寛容」な社会が移民排斥や差別的暴力に結びつくことは、つとに問題にされています。
では、この「寛容」をどう理解すべきなのでしょうか。

「公共性と民主主義は似通っている。権利と義務。いいことと悪いこと。公共性にもいいことと悪いことがある。自由と責任。自分がゴミを保管したり道を掃いたりしてくれる人、公共に奉仕する人がいることによって公共性は保たれている。」
「気持ちにゆとりがあるから辛抱強く受け止めてくれる。日常に溶け込んでいけるのが公共性。」
これらの意見には、どうしても勝手なことをする人間がいるのだけれど、社会はそこを埋め合わせる人々が必ず存在する。
その存在の割合に応じて、その社会の「公共性」や「寛容」の尺度が決まるのではないか。
それを「割り勘」や「動的平衡」という言葉で解釈する参加者もいました。

しかし、こうした公共性が成立したとしても、さらにそこに困難や問題があることが指摘されます。
「公共性は共存関係と言い換えることができる。共存関係を乱すものに対して排除することになり、監視社会になってしまう。弱者が共存できうるような形が望ましい公共性であるとすれば、動物も社会的弱者として共存する。けれど、その対話が社会的弱者を排除してしまう側面を持ってしまうこともあるのではないか。福島の放射線を恐れているお母さんたちが声を抑え込んでしまうというのは、まさにその問題だと思う。」
「言葉を発することそのものに暴力を受けるのではないかと感じてしまう人たちがいる。そういう人たちを排除しないのが公共性ではないか。」
福島の復興を声高に叫ぶ、ある種の「常識」が別の少数者の声を封じてしまう。
そのマイノリティを排除する言説空間を「公共性」と名指すわけにはいかないでしょう。
この夏、「ヤクザと憲法」というドキュメンタリー映画を観ましたが、まさに社会の無法者ですらも法の下において平等に扱うのが、憲法の両義的な公共性です。
対話の「場」としての公共性においても、なおこうした声なき声を排除しないことを志向することは多様性を保証する上で必須条件です。

最後に年配の参加者から、貴重な問題提起を受けます。
「公共性はよくわからないが、キーワードは対話。飯舘村の自分の属していた行政区は対話ができなくてバラバラだったが、他の行政区では80%の集会参加率。親戚の血筋のつながりがものすごく強くて、腹を割って話していない。総会で意見を言っても、行政府が勝手にやってしまう。ディスカッションの時間が短縮され、議長がなるべく発言しないでくださいと進めていく。放射性物質の仮仮置き場も地権者が勝手に決めてしまう。対話がなくて公共性が成り立たない。私道と市道が入り組んでいる場所で対話ができない。公共性の認識が対話する以前から崩れてしまっている。対話しようとしても対話できない。対話がちゃんと成立して腹を割って話し合いみんなで理解し合って成立させていくものである。それが哲カフェのようにきちんと議論できる条件がない。だから公共性以前の問題がある。」

職場や地域社会の会議などで対話が成り立たないというのは、ある意味で日本社会全体が抱えている深刻な問題ではないでしょうか。
お任せ民主主義。
公共性が対話に基づくというのが、今回の哲カフェの一つの知見であるとすれば、そもそもその条件である「対話」の仕方を共有できなくなっているのが日本社会の根本的な問題なのではないか。
いや、そもそも日本社会に「公共性」など果たしてあったためしがあるのだろうか?
「公共性の認識は未熟。みんなで話し合って決めていくことが日本にも福島にも浸透していない。」
「公共性がある場や公共性のある人というのは? 個人として自立している人が多ければ多いほど気持ちのいい公共性が成り立つ。」
「公共性が保たれている場は参加して楽しい、そこに行きたいと思える。参加するためにはその場のルールを守るという意識がある。」
これらの意見には、これからの「公共性」の可能性が示されていると思われます。

最後に、個人的に最近知り合った若者から投げかけられた印象的な言葉を紹介します。
「激しい議論の末に破綻してしまうような場を公共性があるとは言えないでしょう。」
今回の哲カフェでは、そのことが「言い方」や「ルール」の共有を主眼に置かれてきたように思われますが、むしろ彼の言葉は、いかに「言い方」が激しかろうが、対話のルールを無視した発言であろうが、それを許容できない公共性など公共性に値しないというわけです。
愛知県在住の哲学カフェウォッチャーの方は、@ふくしまは参加者が安心して対話ができる場として成り立っていることが最大の特徴と称賛して下さいました。
それはとてもありがたい評価ですが、一方で「多様性」を本気で尊重する場を「公共性」の基準であるのだとすれば、そこに安住するだけでは不十分な気がします。
「公共性は創られるもの」という今回の知見一つに依るならば、まさにそれは「不可能な公共性」を目指してこそのもののはずです。
まだまだ哲学カフェでの「公共性」は発展途上なのだと考えさせられる時間でした。
(文:渡部 純)
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第39回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「〈公共性〉とは何か?」

2016年09月18日 08時53分37秒 | 開催予定
   

【テーマ】 「〈公共性〉とは何か?」
【日 時】 2016年9月24日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
   ※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
     懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。

【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


今回のテーマは、4月に行われた哲学カフェのテーマ「私にとって〈哲学〉とは何か?」で論点となった〈公共性〉について、再度取り上げます。
もちろん、その会に参加されなかった方でも対話には自由に参加できるようになっていますが、念のため上記のリンクにアクセスしてその会の記録と文脈をお読みいただければ幸いです。
それを踏まえて、ざっくりとテーマ設定の文脈を記しておきたいと思います。

そもそも「公共性」には多義的な意味合いがありますが、少なくとも①公共事業のように「国家」行為という意味、②「公共の福祉」のように市場原理では達成され得ない「社会全体」の幸福という意味、③公園などの公共空間のように不特定多数の者が排他性を持たずに自由に交通(交流)できる場という意味が確認されます。
前回の議論では、民主主義との関連で③についての議論に焦点が当てられていました。
すなわち、排他性のない〈公共性〉などありうるのか、という問いです。

一応、哲学カフェは誰にでも開かれた公共空間を目指しています。
自分とは意見が違うからといって他の参加者を排除することは論外だとしても、やはり障がい者など一定の人々にとっては参加が困難であるという面があることは否めなません。
その点でも「対等に話し合う」という哲カフェのルールが共有されていれば、〈公共性〉は実現されていると無邪気に肯定するわけにはいかないでしょう。
ルールによってしか〈公共性〉は実現され得ないというのはたしかですが、そのルールが排他的ではないという保証はありません。
たとえば、憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会 的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」と定めていますが、それによってさえも「国民」でなければ平等に扱われないのかという問題が残されます。
むしろ、昨今はヘイトスピーチ問題のように過激な排外主義が社会にむき出しにされたり、あるいはゲーテッドコミュニティのように治安上の理由から富裕層に居住を制限する街が登場するなど、ある種の属性による社会的囲い込みと分断が進展している面があります。

果たして、こうした社会において排他性なき〈公共性〉などありうるのか?
そのことを皆さんで考え抜きましょう。


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

世話人一同
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