てつがくカフェ@ふくしま

福島市で哲学カフェをゆるゆるやってます。専門知識はいりません。
身近な哲学的問題をみんなで考え語り合いましょう!

9月は哲学カフェ関係行事が目白押しです

2016年08月24日 02時05分09秒 | 開催予定
9月は毎週末に哲学カフェ関係の行事が目白押しです。
どしどしご参加ください!



(「目白押し」の図)

9月10日(土) 第1回てつがくカフェ@あいづ
【テーマ】 友だち、いる?
【時 間】 15:00~17:00
【場 所】 つるのIORIカフェ
 大沼郡三島町大字早戸字湯ノ平888(早戸温泉つるの湯隣り)
【参加費】 飲み物代 300円(コーヒーまたはほうじ茶)
【事前申し込み】 不要 (直接会場へお越しください)
【お問い合わせ】 つるのIORIカフェ TEL 0241-42-7355
          ✉ t.ioricafe@gmail.com
【懇親会】 場所:つるのIORIカフェ 
      時間:18時~ (てつがくカフェは15時~17時) 会費:3500円
 ※つるのIORIカフェでは、通常アルコールの販売がありません。今回は生ビールのみご用意しております。その他のお酒については、お客様の持ち込みでお願いしております。(持込み料はかかりません。グラスは当店のものをお使いください。)
懇親会に参加希望の方は、9/9(金)までにご連絡ください。


9月17日(土) 第7回エチカ福島
【テーマ】 沖縄と福島から〈責任〉を問う
      ―米軍基地と原発事故の〈責任〉とは何か―
【講 師】 新垣 毅(あらかき つよし)氏
      琉球新報社東京支社報道部記者
【時 程】14:00 開会・あいさつ・エチカ福島の趣旨説明
     14:10 今回のテーマ趣旨説明
     14:20 報告 新垣毅氏「沖縄から責任を呼びかける―沖縄米軍基地県外移設問題」
     15:20 休憩
     15:35 渡部 純(エチカ福島)「福島で責任に応えること/福島から責任を語ること」
     16:00 参加者全体での討議
     17:00 閉会
【会 場】 県立橘高校セミナーハウス(同窓会館)
       福島市宮下町7番41号
【参加費】 300円(飲料代・資料代込み)/学生無料
【申 込】 不 要 
【連絡先】 ethicafukushima@gmail.com


9月24日(土)第39回てつがくカフェ@ふくしま
【テーマ】 「〈公共性〉とは何か?」
【日 時】 2016年9月24日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
   ※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
     懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp
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第39回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「〈公共性〉とは何か?」

2016年08月22日 09時58分49秒 | 開催予定
   

【テーマ】 「〈公共性〉とは何か?」
【日 時】 2016年9月24日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
   ※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
     懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。

【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


今回のテーマは、4月に行われた哲学カフェのテーマ「私にとって〈哲学〉とは何か?」で論点となった〈公共性〉について、再度取り上げます。
もちろん、その会に参加されなかった方でも対話には自由に参加できるようになっていますが、念のため上記のリンクにアクセスしてその会の記録と文脈をお読みいただければ幸いです。
それを踏まえて、ざっくりとテーマ設定の文脈を記しておきたいと思います。

そもそも「公共性」には多義的な意味合いがありますが、少なくとも①公共事業のように「国家」行為という意味、②「公共の福祉」のように市場原理では達成され得ない「社会全体」の幸福という意味、③公園などの公共空間のように不特定多数の者が排他性を持たずに自由に交通(交流)できる場という意味が確認されます。
前回の議論では、民主主義との関連で③についての議論に焦点が当てられていました。
すなわち、排他性のない〈公共性〉などありうるのか、という問いです。

一応、哲学カフェは誰にでも開かれた公共空間を目指しています。
自分とは意見が違うからといって他の参加者を排除することは論外だとしても、やはり障がい者など一定の人々にとっては参加が困難であるという面があることは否めなません。
その点でも「対等に話し合う」という哲カフェのルールが共有されていれば、〈公共性〉は実現されていると無邪気に肯定するわけにはいかないでしょう。
ルールによってしか〈公共性〉は実現され得ないというのはたしかですが、そのルールが排他的ではないという保証はありません。
たとえば、憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会 的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」と定めていますが、それによってさえも「国民」でなければ平等に扱われないのかという問題が残されます。
むしろ、昨今はヘイトスピーチ問題のように過激な排外主義が社会にむき出しにされたり、あるいはゲーテッドコミュニティのように治安上の理由から富裕層に居住を制限する街が登場するなど、ある種の属性による社会的囲い込みと分断が進展している面があります。

果たして、こうした社会において排他性なき〈公共性〉などありうるのか?
そのことを皆さんで考え抜きましょう。


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

世話人一同
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第1回U-19てつがくカフェ@ふくしまの報告―「学校の勉強は本当に必要か?」

2016年08月21日 16時41分10秒 | U-19哲学カフェ


昨日に引き続き、本日は西澤書店さんの二階をお借りして、初のU-19てつがくカフェが開催されました。
とはいえ、外は36度の猛暑です。
同じ時間帯には甲子園の決勝戦が放映されています。
果たしてどれだけの参加者に来場してもらえるのか…
しかも明日始業式だという高校もある中、参加者はゼロという可能性も否定できません。
そんな悪条件の中、なんと高校生4名大学生1名の参加者に恵まれました。
各人単独の意志と判断で参加されたことに敬意を表したいと思います。

                

その中には、本日のテーマ「学校の勉強は本当に必要か?」を提案してくれた参加者もいました。
そのテーマ設定の背景には何があったのか?
その高校生によると、大人になってから問題解決能力やそのスキルが求められるというけれど、それが学校の勉強とのかかわりが薄いのではないかという疑問から生まれたと言います。
英語などは外国人と会話したときに勉強した意味を感じることはあるけれど、実生活に生かされない数学などは遠く感じられるし、数式なんて覚えていない。
勉強もその活かし方がわからなければ、そもそも無駄でしかないじゃないかというわけです。

むしろ、何に役立つか考えないからこそ勉強そのものが楽しいし、テスト勉強に燃えるという意見も出されます。
テストそのものが楽しすぎて、解答中にテスト用紙にうっすら赤い文字が浮き上がってきて、そのまま書き写していたら100点を取ったという不思議体験をしたという話も出ます。
また、テスト勉強はしたことがないけれど、テストの問題を解くこと自体が楽しいという意見も出されます。
それによれば、そもそも授業を聞いて新しい知識が自分の中に入ってくることはそれ自体楽しいことだし、テストは自分に欠けているところを確認するために必要であり、ただテスト勉強が嫌なだけであると言います。
ワタクシ自身は教員人生において、こうした考え方は初めて聞いた話なので、とても驚いたのですが、その気持ちはわかるという意見は他の参加者にも見られました。
ただし、その意見によれば、テスト勉強自体は燃え上がるとしつつも、それがいったん大学受験の役に立つとか、「利害関係」が生じたとたんに、一気にやる気が覚めると言います。
「目的」それ自体として楽しかった勉強が、ある「手段」に位置づけられた瞬間に冷めてしまうのだそうです。

これに対して、大学生の参加者は、高校時代にそんなことを考えたことなどないという驚きが示されました。
そもそも、学校の勉強が必要かどうかなど考えたこともなく、それをしなければならないものである以上、とりあえずやっておくものであるとしか認識していなかったというのです。
むしろ、テストが楽しいかどうかという以前に、テストがあるがゆえに勉強はするものだと思っていたのだし、もしなければ勉強などしなかっただろうと言います。
とはいえ、その参加者は英語に対してかなりの学習意欲をもっています。
それは「勉強」ではないのかと問うたところ、彼の中ではそれは好きでやっていることであり、したがって勉強ではないのだと言います。
なるほど、彼にとって「勉強」は強いられるものである以上、好きな英語学習は「勉強」には当てはまらないというのです。
そして、そうであるがゆえに、高校時代に勉強したことはほとんど何も覚えていないということもあると言います。
所詮、強制的に覚えさせられたものは瞬時に失われるということでしょう。
すると、記憶にも残らない勉強は何のためにするのでしょうか?

それに対して、そもそも勉強は高校生の「仕事」としてこなすものであるという意見も出されます。
必要性なんてわからないけれども、とにかく勉強する過程で根性なんかが身につくし、それが社会に出てから自ずと何かの役に立つという認識だと言います。
なんの役に立つかわからないし、いつ役立つかもわからないにもかかわらず、とにかく最低限の勉強は自分の可能性拡げる上では必要だという認識は全員が共有しているようでした。

しかし、これに対しては、テストがあるから勉強意欲がなくなるのだという意見も出されます。
テストがなければもっと自由に知識欲や探求心が生まれるはずなのに、テストがあると思うからこそその意欲が失せてしまうのだと言います。
その理由として、テストの評価が点数という一律で唯一の評価尺度しかないことの問題が指摘されました。
勉強の成果については、それ以外にも評価される尺度があっていいはずなのに、高校に入ってから点数一辺倒の評価にうんざりさせられていると言います。
果たして、人はテストがあるから勉強するのか、それがあるからこそ勉強したくなくなるのか。

この「評価」の問題については別の意見からの指摘がありました。
たとえば、国語の小説文などでは、自分の解答が正答に合わないときに、どこか問題作成者に適応させられているかのような違和感があることも示されます。
テストが自分の客観化に役立つという意見がある一方で、こうした自分の答えが何かに従属させられる違和感は「道徳」の授業でも感じるという意見も出されます。
もし、その「道徳」が国家に決められて、それを一方的に押しつけられるとしたらいかがなものか。
しかし、それに対しては、「道徳」の授業のように何が正しいのか答えが決まっていない問題を考える時間は好きだったという意見も出されます。

答えが決まっていないものごとを、原因に遡って本質的に考え抜くことが好きだというその参加者にとっては、やはり知識を外から注入させられる勉強の仕方ばかりの学校には、自分の存在感を得られるような学びがないように思うようです。

その一方で、全ての授業が楽しいと感じる参加者にとっては、授業で知り得ることがすべて新鮮で、単純に新しいことを知ることの喜びがありと言います。
さらにその参加者によれば、知識を得ることが「勉強」であるのに対して、自分で何かを考えるような営みは「学習」というのではないかと区分されます。
この二つの区分は重要であると思われます。
果たしてこれらは異なるものなのか、通じ合うものがあるのか。

これについて数学が好きだという参加者からは、答えが決まっている教科であっても、物事の筋道を原理的に考えるという点では、それほど異ならないのではないかと言います。
自分で自由に考えて答えを見出そうとする「学習」であっても、数学のように何かの公理があれば問題を解決していけるように、やはり知識は必要なものであるというわけです。

結論において、大方の参加者がやはり「学校の勉強は必要である」という認識を再確認したようです。
曰く、今の自分を形づくるのはやはり「勉強〉があってこそであるし、学校はその場として必要だと言います。
では、もしその学校で教えられていたことが嘘だったら?
こんな意地悪な問いを投げかけてみたところ、それでも国家が教科書をつくるのも未来の社会をよくするためにやっているわけだから、やはり肯定できると言います。
あるいは、それが嘘だと気づけるのも学校で勉強するからできることだと言う、全面的に学校での勉強に信頼を寄せている意見が目立ちました。
それに対して、やはり今回のテーマを提案してくれた参加者からは、なんのために勉強するのか腑に落ちない感じが拭い去れないようでした。
それが少数派だからと言って、その心にいつも引っ掛かりを覚えることをなしにすることはできません。
そもそも、その参加者によれば今回のテーマはその学校の勉強の空虚さに違和感を持ったことから生まれたものだと言います。
その意味で言えば、否定的な意味でも勉強をするということはその違和感に気づかせてくれたという点で必要と言えなくもないでしょう。
いったい、勉強が意味を持つということはどういうことなのか。
それが腑に落ちるところまで、とことん考え抜くことを継続していただきたいと願い、初のU-19哲学カフェは幕を閉じました。

終わってみれば、多忙を極める高校生たちが4名も集まり、しかもそこに大学生が1名加わることなど、ある意味で奇蹟的な機会だったと思います。
正直なところ、試しに取り組んだ初回で終わる可能性の方が大きいように予想していましたが、終了後、今回の哲学カフェについて感想を聞いてみたところ、おもしろかった、あるいはまた次回もあればやってみたいという声を聴くことができたことは大いに励まされました。
また、次回実施してみたいという勇気を若い世代にいただいたことは、たいへんうれしい出来事でした。
これに懲りず、また周囲の「声なき思考欲のあるマイノリティ」をお誘いいただいて、次回の開催を期したいと思います。

また、会場を無料でお貸しいただいた西澤書店様には心より御礼申し上げます。
こうした地域の方々に支えられることは我々にとっても願ってもないことです。
多くの皆様に支えられてこうした活動に取り組めることに感謝してやまぬ一日となりました。
(文:渡部 純)
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第38回てつがくカフェ@ふくしま報告―「図書館とは何か?」

2016年08月21日 16時27分00秒 | 定例てつがくカフェ記録






県立図書館を会場として、「図書館とは何か?」を問う哲学カフェが終了しました。
参加者数は36名。
中には、青春18きっぷで愛知県より来られた方がいらっしゃるなど、図書館に対する市民の関心度の高さがうかがえました。
何より、図書館司書の方々にも多数ご参加いただき、専門/非専門の垣根を超えた対話が実現したことは、これからの哲学カフェの新しい可能性を感じたものです。

さて、対話は図書館の魅力について語られるところから始められました。
ある司書の方は図書館の魅力を「自由」と「継続性」というキーワードで示されました。
そこでの「自由」とは「多様な資料を選択できること」と「誰が来てもいい場」という意味であり、「継続性」とは収集・蓄積された資料を未来に引き継ぐという図書館の使命において用いられます。
この「自由」について別の参加者からは、「無料」で閲覧できる点や「資料の収集力」、「言論・思想・信条・表現の自由」という点が加えられました。

これに対して、果たして図書館の「資料収集の自由」はどこまで認められるのか、あるいは本当に図書館は自由なのだろうかという問いが挙げられました。
とりわけ著作権と予算という縛りの中で選書しなければならない不自由を司書の方から挙げられます。
これについて、ある高校教員からは県立高校の図書予算比が年間20万円しかない窮状が訴えられ、その中で何を読ませるべきかは悩ましい問題であることが語られました。
しかし、ここには教育上の配慮から選書することはパターなリズムであり、「自由」とは相反するものではないかという疑問も投げかけられました。
そして、そこには「選書」する権利は果たして誰にあるのかという重い問いも含んでいます。

犯罪被害者遺族が出版差し止めを求めたにもかかわらず発売された『絶歌』を公立図書館は購入すべきか
あるいは、『はだしのゲン』の閲覧利用を制限することは認められるべきか
そこには図書館側の「資料収集の自由」が、公権力として市民が知る権利を阻害する可能性があります。
これに対しては「情報の価値判断は利用者側にある」という意見が出されます。
つまり、価値判断は利用者=市民の側にあり、図書館は国立国会図書館のように価値判断を排して資料収集に努めるべきであるというわけです。

しかし、これに対して司書の方から「図書館の種類」によって役割の「すみわけ」があることが示されます。
すなわち、県立図書館には郷土資料や専門書をメインに、市立図書館委はわりと「売れ専」の書籍をメインに収集する役割があり、学校図書館には読書になじませる教育的役割が備わる以上、それぞれにおいて選書の基準が異なるのはありうることだというわけです。

ここで「図書館の役割とは何か?」という論点がクローズアップされます。
そして、今回の議論のもっともホットな話題となりました。



まず、図書館とはそもそも「社会教育施設」として「知る権利」を実現する場であるはずなのに、昨今のツタヤ図書館問題は、市場原理を導入させたがゆえに、この社会教育という公共性を喪失させていったと言う意見が挙げられました。
そもそもベストセラー本のように、売れる本は市場に任せればいいだけの話なのに、そこにわざわざ税金を使う意味はないのではないか、というわけです。
そこでの評価尺度は図書館の集客数でしかなく、そのことが結果的に人や本におカネをかけずに消費文化だけを推し進めるため、残すべき文化遺産が継承され得なくなると言います。

しかし、これに対して「なぜ図書館がレジャーランド化することがいけないのか?」という問いが投げかけられます。
なぜ、図書館が「楽しさ」を追求することがいけないのか。
売れる本=市民が選ぶ本であるとすれば、売れる本を図書館が選書することは正しい税の使い方ではないか。
そもそも選書に「教育的」という要素を入れる点が押しつけがましいのだという意見が挙げられました。

この議論では、まさに図書館が「自由」と「パターなリズム」のはざまで揺れ動いている様が示されています。
学校司書の方の中には、教育的に読ませたいという選書が、生徒の好みと一致しない葛藤の中で、常に揺らぎながら選書のスキルが問われていると言います。
この対立について、「両方あってもいい」と言いう意見が挙げられました。
図書館には質の高い文化を蓄積する役目がある一方で、学校図書館では「ラノベ」のようなレジャー性をきっかけに生徒の本に対する関心を拡げる段階的な教育的方法もあるだろうとのことです。

すると、そもそも図書館が収集保存すべき本とは何かという問いが生まれます。
なるほど、ベストセラーのように売れる本を図書館が購入することは否定されるべきではないでしょう。
しかし、他方でその耐用年数を考えた場合、果たして図書館で購入すべきかどうかは疑問に思うというところがあるという意見もあります。
むしろ、売れる本ばかりが出版されることになれば、学術図書のように本は出版されなくなるという出版文化の危機を招くとの指摘もありました。
その点でリアルタイムではなく、知の遺産の未来への継承という役割が図書館にはあることになります。

また、「図書館の歴史」について少し専門職の方から説明が欲しいという要望も挙げられました。
日本では明治初頭(1872年)に新聞縦覧所として制度化されたときには、新聞を共同購入して読み聞かせなどをする組織として生まれたと言います。
その時代には図書資料は保管され容易に貸し出しは為されなかったところ、1970年代に貸出・閲覧が図書館の機能として始められたと言います。
閲覧・貸し出しが割と最近のことであるというのは驚きでした。
また、学校図書館でも司書が配置されるのは近年のことであるということ、福島市では1976年に市立図書館設置運動が為されたことで市立図書館が設立された経緯についても話題に挙げられました。



こうした時代の流れにおいて、近年では電子書籍化が進んでいる中で、果たして「図書」という概念そのものが変容しているのではないかという疑問も生じます。
なるほど、「情報」という点では青空文庫のように、ネット上ではアクセスする機会が拡大しています。
しかし、デジタル情報に対する違和感は少なからぬ違和感が挙げられました。
そもそも本に書き込みをしたり線を引いたりする研究職のような立場からすると、本は所有の対象であり借りるものではないと言います。
何度も何度も同じ本を読み返しても新たな発見があるというのは、単なる情報収集の対象として本を扱うのとは異なる向き合い方です。
これについては、「出会い直し」の経験を可能にするほんの「モノ」としての価値があるという意見が挙げられます。
高校生を相手にしている方からは、スマホ文化の浸透がウィキペディアを調べれば「わかった気になる」意識を蔓延させていると言います。
これに対して本の「出会い直し」の経験を何度も繰り返すことは、他者と出会う経験でもあり、その人の選書力を鍛えぬく意義があることも示されました。
その意味で言うと、単なる資料提供から学ぶための場としての図書館、自己教育の場としての図書館という姿が浮き彫りになります。
そのことが民主主義の基礎となる、個人の自分で考え判断する素養を育むというわけです。

最後に、「居場所」としての図書館についても議論になりました。
家庭に書籍がない子供と読書をしない傾向の関係性にふれながら、そのような子どもたちを以下に図書館に足を運ばせ、読書にふれさせられるかが図書館の課題として挙げられます。
「ホスピタリティ」というキーワードが図書館の存在にどのように関わるか。
もちろん、レジャー性がなければ図書館への来館も促せないでしょう。
しかし、ツタヤ図書館がいかに話題性を呼んでも、それが全国に広がれば、結局はレンタルショップとしてのツタヤ同様、どこでも同じサービスを受けられる画一的なコンビニ化にしかならないのではないでしょうか。
それに対して、むしろ地元の特産品を売りにするような地域的な資料収集などの特性を前面に押し出した図書館こそが、最終的には個性を売りにして人を集める場になるのではないか、という意見が出されました。

今回は図書の専門家である司書の方々と、一般市民がそれこそ対等に話し合いながら、お互いがそれぞれ見えない点を共有できた貴重な機会となりました。
図書館の発信力も取りざたされましたが、むしろ図書館側の一方的な情報発信ばかりに依存するのではなく、市民同士がこうした対話を通じて図書館をエンパワーメントする機会を増やしていくことが肝要なのではないかと考えさせられました。
こうした機会をまだまだこれからも創り出していきたいものです。
(文:渡部 純)
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本日、U-19てつがくカフェ@ふくしま開催!

2016年08月21日 10時05分32秒 | 開催予定



【名 称】 U‐19てつがくカフェ@ふくしま
【テーマ】 「学校の勉強は本当に必要か?」
【日 時】 2016年8月21日(日)14:00~16:00
【場 所】 西澤書店大町店2F
      福島市大町7-20・ TEL(024)522-0161
【参加資格】年齢19歳以下であれば、どなたでもご参加いただけます。
      ※ なるべく制服ではなく私服でご参加下さい。
      ※ 原則として関係者以外の成人の参加・見学はご遠慮していただいております。

【参加費】 無 料
    (飲み物はこちらで準備いたしますが、ご自由に持ち込んでいただいてけっこうです。)
【主 催】 てつがくカフェ@ふくしま
      小野原雅夫(福島大学教授/倫理学) 渡部 純(県立高校教諭/大学院生)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


≪案内≫
哲学カフェをご存じですか?
人間は「死んだらどうなるのだろう?」とか、「生きる意味なんてあるの?」と答えの出ない問いを考え始めてしまう存在です。
でも、そんな疑問を独りで考えているだけでは、いきづまってしまうのも人間です。
そんなとき、お茶を飲みながら、同じような疑問を抱いている人たちと、いっしょに語り合って考えを深めていく場が哲学カフェです。

こうした場が全国の小中学高校生にも少しずつ開かれつつあります。
そして、この夏休み、いよいよ福島で未成年の、未成年による、未成年のための哲学カフェを開催することになりました。
今回のテーマは「学校の勉強は本当に必要か?」です。
就職活動に、受験勉強に、課外に、部活に、そもそも学校そのものに疑問を抱いているそこのあなた!
もちろん、19歳以下であれば学生である必要もありません。
ふらっと、一人で、あるいは友だちといっしょに哲学カフェに立ち寄ってみませんか?

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

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主催者一同
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いよいよ明日は県立図書館de哲学カフェです!

2016年08月19日 12時25分29秒 | 開催予定
 
(伊万里市民図書館・和光市 Iさん撮影)

明日は、いよいよ福島県立図書館で「図書館とは何か?」をテーマとした哲学カフェが開催されます。
会場をお借りする上で、諸手続きに奔走して下さった県立図書館職員の皆さまには、この場を借りてあらためて御礼申し上げます。
今回の開催に当たっては、様々な方々から関心度の高さが示されています。
それだけ「図書館」に市民の関心が高まっているということなのでしょう。
明日は専門職の方々にもご参加いただけるようです。
さまざまな立場から未来の「図書館」像を明らかにしていけることを期待しています。

さて、そのような関心を抱きながらも、どうしても都合がつかず参加できないという方からメッセージをいただきました。
和光市在住のその方は、この夏、帰省がてら、これまた話題の伊万里市民図書館へ訪問されてきたそうで、そこで考えたことを詳細にまとめて下さいました。
以下、その方のアツい思いが込められた文をご紹介します。

   

今回帰省した目的の1つは伊万里市図書館への訪問でした。 伊万里市は武雄市、 TUTAYAが運営している図書館のお隣の町です。
ご存知の通り、 武雄市の図書館は話題に事欠かない刺激的な図書館です。
刺激的な図書館があるお隣に、魅力的な図書館がある。 これはいくしかないでしよ。そんなノリで行ってきました。( ここで言う魅力的とは武雄市とは逆方向の試みをしているというこ とです。)
この魅力的とは、図書館をどう定義するのか? で変わってくると思いました。
そもそも図書館とは何か?
僕は知が蓄積され、 自由に知に触れることができる場であると考えています。 図書館の魅力とは蓄積の量と触れやすさ、 これに尽きるのではないかとも思っています。
最近は、それだけではないかもしれないと思い始めています。
そう感に始めたのは、 図書館が企画している各種イベントからです。
絵本の読み聞かせ、ビブリオバトル、本のリサイクル、 司書さん達のお勧め本の紹介。理科の実験。各種展示企画。 僕が子供のころ通っていた頃の図書館では、 なかった試みだと思っています。
図書館は、本を読みに行ったり、勉強したりするだけでなく。 情報を得たい市民が集う場所に変化しているみたいです。 変化したいと思っているのかな。
これは、てつがくカフェ@ ふくしまのテーマ説明でも書かれている、『 図書館を問うということは、 同時に私たちの民主主義のレベルを測り直すことに他ならないので す。』に関係してくると思います。
民主主義の基盤である市民社会が変化している。 変化を映し出しているのが図書館なのかもしれないと思います。
伊万里市民図書館が魅力的と言われているのは、 貸出期間は2週間と一般的な貸出期間なんですが、 貸出書籍数の制限がないとか(個人的にはこれだけで充分ですが。 )
テーマに沿った本棚作りがなされていて、 そのテーマに関する新聞のスクラップブックがあったりとか( 司書さん達結構攻めてます。かなり捻った記事が多かったです。)
学校図書館や図書館ボランティアの専用スペースがある。
市民が参加して図書館を運営している。
岩波文庫が揃っている!これは大きいです。
情報発信を工夫していて、 市民も使いやすい図書館を目指しているところみたいです。
このあたりは市や町によって大きく差が開いているようです。
この違いは図書館の予算規模の大小だけではないように思います。
今回、おじゃました伊万里市図書館はそこまで大きくないです。 規模だけなら、福岡市の方が大きいです。 和光市よりは大きいですが。。
そもそも、 TUTAYAが運営することに騒いだ理由ってなんだろうか?
本の選別うんぬんが問題だよの前に、図書館を民間に任せたこと、 「委託事業として、お金を出すから運営は任せたよ」 この丸投げ感に違和感を感じた人が多かったのかなって思います。
24時間で使いやすくといった、 利便性や委託事業での投資対効果といった経済合理性で語るべき対 象でない物を、武雄市は語ってしまったのですかね。
継続性への不安もあったんですかね。図書館は場所ですから、 存在すればよいのではなく、存在し続けること、 色々なことが蓄積されることが肝要だと思っています。
本棚作りは楽しいですが、少し不安を覚えたのはバイアスがかかるかも、 図書館が選別したテーマや情報が偏るかもしれないことです。 図書館が公平であること、 思想や考え方に偏りがない大人な場所でなければならない、 現時点での僕の考えです。
僕の纏まりのないボールが、 てつカフェで参加された方々と図書館で対話するとどう変化してい くのか?
参加したかったです。
開催後のブログ楽しみにしています。


メッセージを送ってくださったIさん、ありがとうございました!
このメッセージを手がかりに、明日は福島の夏に負けないくらいのアツい対話を交わしましょう!
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第一回てつがくカフェ@あいづのご案内―「友だち、いる?」

2016年08月12日 18時18分32秒 | 開催予定


過日、お知らせしましたてつがくカフェ@あいづの開催日時・会場・テーマが
確定しました。
世話人は、会場である「つるのIORIカフェ」の支配人・小松今日子さん、@ふくしまの常連で奥会津の住人・荒川信一さん、林裕文さんです。
以下、@あいづのブログの案内を転載させていただきます。


【テーマ】 友だち、いる?
【日 時】 9月10日(土) 15:00~17:00
【場 所】 つるのIORIカフェ
 大沼郡三島町大字早戸字湯ノ平888(早戸温泉つるの湯隣り)
【参加費】 飲み物代 300円(コーヒーまたはほうじ茶)
【事前申し込み】 不要 (直接会場へお越しください)
【お問い合わせ】 つるのIORIカフェ
          TEL 0241-42-7355
          ✉ t.ioricafe@gmail.com
 

『友だち』と聞いて思い描くイメージは、ちょっと前とは大きく様変わりしていると思いませんか?

幼なじみや同級生、気の合う同僚、ご近所さん・・・など 
相変わらずの友だちが思い浮かぶ一方で
よく知らないけど繋がってるSNS友だち、たいへんな時に突然名乗り出る「トモダチ」・・・?

わたし達は『友だち』に何を求めているんでしょうね。

さらに『おひとり様』なんてことも当たり前になってきたこの頃です。
はたしてリアルな友だちは必要なんでしょうか。

初めてのてつがくカフェ@あいづを開催するにあたり、テーマはとても身近な存在を選びました。
身近だからこそ、なかなか深く考えることも少ないけれど、
いろんなひとと語り合うことで、あなたにとっての友だちの意味や価値を知る機会になるかもしれません。
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第38回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「図書館とは何か?」

2016年08月07日 12時50分55秒 | 開催予定

メキシコ国立自治大学の中央図書館・フアン・オゴルのモザイク画,2016年,渡部撮影】

【テーマ】 「図書館とは何か?」
【日 時】 8月20日(土)15:00~17:00
              ※いつもより1時間早い開始時間です。
【場 所】 福島県立図書館・第2研修室(3階)
      福島市森合字西養山1
【参加費】 なし(飲み物が必要な場合は各自でご用意ください)
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


これまでてつがくカフェ@ふくしまは、「フォーラム福島」や「はじまりの美術館」といった「映画」や「アート」の現場での哲学カフェを実践したことがありましたが、今回はいよいよ「図書館」という「情報/資料の収集/発信」の現場での哲学対話を試みます。
しかも、「図書館とは何か?」というテーマに示されるとおり、その現場のありようそのものを問い直そうというものです。

昨今、「図書館」は様々な変化にさらされています。
海老名市や武雄市、多賀城市にオープンされた「TSUTAYA図書館」は、カルチュア・コンビニエンス・クラブが運営主体となって公立図書館の民営化・コンビニ化(深夜営業・スタバ導入・ポイントカード導入など)を実現したものですが、その賛否をめぐっては今なお議論が続いています。
その一方で、「図書館のせいで本が売れない」といった出版社や作家からの批判も生まれています。
中には、新刊書が売れないのは図書館の貸し出しの影響があるものだという批判から、一定の貸し出し制限を加える必要性を求める意見もあります。
また、昨年は「学校が死ぬほどつらいなら図書館へ」という鎌倉市の図書館司書のツイートが話題を集めたように、子どもの安全な居場所としての図書館という役割についても様々な議論を呼んでいます。

いずれにせよ、いま、図書館がさまざまな変化の波にさらされているのは間違いありません。
しかし、これは同時に、この社会の文化の質そのものが問われているということでもあります。
かつて、ナチスドイツはナチズムの思想に合わない書籍をすべて焼き尽くすという儀式を行いました。
『ホロコースト全史』を書いたマイケル・ベーレンバウムは、この出来事を「ビブリオ(図書)コースト」と名づけ、「本が焼かれたなら、次に焼かれるのは人間である」と記しています。
つまり、図書館を問うということは、同時に私たちの民主主義のレベルを測り直すことに他ならないのです。
日本図書館協会が掲げる「図書館の自由に関する宣言」はこのことと無関係ではありません。

もちろん、多岐にわたる図書館の抱える諸問題を、ざっくりと「図書館とは何か?」というテーマだけで語り切れるものではありませんが、ぜひこの機会に一般市民の方々も専門職の方々もこぞって集まって「図書館」について語り、考えあってみましょう。
そのことが、財政難の克服を図書費や教育費の削減から始めるこの社会のあり方を問い直すと同時に、地域の図書館と図書館運営に携わる方々を勇気づける機会になれば幸いです。


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人 小野原 雅夫 ・ 渡部 純 ・ 杉岡 伸也
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第9回シネマdeてつがくカフェ報告―『FAKE』 

2016年07月31日 14時22分38秒 | シネマdeてつがくカフェ記録
第9回シネマdeてつがくカフェ記録:『FAKE』 2016年7月29日 フォーラム福島



森達也監督を招いてのシネマdeてつがくカフェが、フォーラム福島で行われました。
視聴作品は、佐村河内守氏をめぐってのドキュメンタリー映画『FAKE』です。
参加者数はこれまでの「ハンナ・アーレント」の最多記録を抜き約110名です!
ほとんどの方は森さん目当てだったと思いますが、それにしても驚異的な数字ですね。
今回は、館内で「SAKAMOTO COFFEE」さんと「RIVER BEACH COFFEE」さんに出店いただき、本格的なコーヒーを淹れていただくことができました。
また、聴覚障害の方々も参加されて、手話通訳付きという哲カフェ初の試みも為されました。
参加された方の中には、健常者の方々の考えを聞くことができてとてもよかったというご感想をいただくと同時に、今回に限らず字幕スーパーによる上映がもっと増えれば聴覚障がい者の世界がもっと広がるので、その機会を増やしてほしいとのご要望もカフェの中で提起されました。
色々な意味で初の試みとなった哲カフェでしたが、議論もまた刺激的なものになりました。

カフェの冒頭、森さんより昨今の正邪、白黒をつけて二項対立的に流布されるメディアの言説への危うさにふれながら、しかし、「この映画のテーマは何か」ということについては自分では答えられない、それは映像の中にあり、観る側に判断してもらうしかないということを語っていただきました。
この映画を撮るきっかけについては、はじめは佐村河内問題について本の出版のオファーを受けたのだけれど、佐村河内氏本人と話す中で「映像向きだな」と思い映画化することにしたとのことでした。
では、その映像の中から哲学カフェの参加者たちは何を探り当てていったのか。
以下、ネタバレに注意しながら渡部から「見えた」対話の過程を記します。

森さんの挨拶の後、30分程度映画に関する質疑応答が交わされました。
「佐村河内氏を信じていたか?」という質問に対しては、森さんは信じるか信じないかは、どちらか100%ということはありえず、そのあいだを絶えず揺らいでいたとおっしゃいます。
たとえば、彼の聴こえ具合もその日の体調によって変わることもあるし、口の動きで言葉を読み取るのも、日常をともにする香さん(佐村河内氏の妻)であれば可能だけれど、他人であればわからないということもある。
聞こえているのかと思えばそうではないかもしれないと思う信と不信の「あいだ」があり、悩みながらどちらでもないと思ってくれてよいとの答えが出されます。
今回の対話の中では、この「あいだ」はしばしば「グラデーション」という言葉にも置き換えられました。
別の参加者から、「映画の冒頭で森さんが佐村河内氏の『悲しみ』を撮りたいと語っていたがそれは達成できたのか」と問いかけがありました。
それに対して、森さんは逆に「撮れていると思いましたか」と問い返すと、「撮れていなかった」という答えがあり、基本的には森さん自身それに同意するとのことでした。
では、この映画では何が撮れていたのか?
この森さん自身の観客への問い返しから、『FAKE』の中にある哲学的テーマを探り当てていくことに移っていきました。

この映画では、嘘か本当かを問うことの中で「失われた想像力」がテーマになっているという意見が挙げられます。
また、この映画のメインは実は妻である香さんであり、彼女と佐村河内氏との関係を観るにつけ、人は根拠があって人を信じるというよりも、むしろ「覚悟を決めて信じる」ということを考えさせられたという意見も挙げられます。
さらには、「自分自身で判断すること」を観る側に突きつけている点が、この映画のテーマではないかという意見も出されました。

想像力、信じること、自分の判断力。
これらの真偽を定める上でのキーワードは、「客観的」に証明されるとされる、いわゆる科学的な真実(事実)とは別の位相を言い当てています。
しかし、これに対して別の参加者は、むしろこの映画はそれらの限界を超えた「平面」においてこそ、拡がりがあるということを表現しているのではないかと述べます。
なるほど、真実は想像力、信じる力、自分自身の判断力に基づくのかもしれないけれど、実は真実はむしろそれを超えるほどに奥行きがある。
逆に言えば、それらをもってして真実と判断してしまうことは、「実は本当はわかっていないんじゃないか?」という自己反省を失っていることになるというわけです。
これについて別の参加者は、「FAKEって悪いの?」と問いかけながら、世にFAKEがいっぱいあるのに佐村河内氏だけがなぜ叩かれるのか、この社会にどれだけ本物があるのか?と問います。
この問いの前提には、偽物に対する「本物」があることが仄めかされています。
「本物」はあるのか、それともFAKEだけで現実は構成されているのか。

すると、「FAKEが真実になるのは何によってか?」という問いが提起されます。
それは私たちの中に「真実めいたもの」を「信じたい」という心があって、それが真実や事実を成り立たせているのではないか。
それを得られなければ、私たちは不安に駆られてしまうし、それが現代社会においては狂気に結びついてしまってはいないだろうか。
だから、真実をファッションのように身につける仕方が、現代社会において蔓延しているという意見も出されました。
これに関しては、やはり「香さんの愛は100%で、本物である」と思ったという参加者から、みんな何かを愛したいから偽物でも真実であると見なすものだと思えたし、そう考えると、結局は嘘でも本当でもどちらでもいいんじゃないかと思えてきたと言います。
そして、「最終場面で流れた音楽」を聞いて涙が出たときにそれを確信したと言うのです。
この「香さんの愛」や「最終場面で流れた音楽」は、今回の対話の中でしばしばキーワードとして登場したものです。

一方、この「嘘でも本当でもどちらでもいいんじゃないか」という意見に対しては、それはそう思うところもあるけれど、嘘にまみれた福島で生きている身としてはどこか違和感があるという意見も出されます。
たしかに、いま生きている世界に嘘も真実もないとなったら…、実は後でだまされていたと知ったら…、果たしてその世界に生きている価値はあるのか。そんな疑問も払拭できません。
しかし、これに対して佐村河内問題のように被害者がいない事件のレベルと、原発事故のように国家の嘘によって被害者が出た事故のレベルを混同すべきではないという意見も出されます。
真実を明らかにする必要があるケースもあるけれど、様々なレベルがある。
その手前でいったん考えよう。
果たして、それは真実なのか、と。
森さんはこのように応えられました。

映画撮影に関わる別の参加者は、映画を観る側としては信じたくなるけれど、ドキュメンタリーを撮る側の立場としては嘘をつきたくなると言います。「ドキュメンタリーは嘘をつく」とはまさに森さんの言葉ですが、編集作業それ自体が嘘になるということでしょうか。
これに対して森さんは、真実は100人いたら100通りあると言います。
観る立場の分だけ真実はあるのであり、全てが真実だったら世界はつまらないというわけです。
ここで、解釈された事実と科学的事実という、二通りの真実が混同されていることを指摘する意見が挙げられました。
今回のテーマに関して言えば、それは前者に関して議論してきたことになるはずです。
そうであるがゆえに、真実を決めるのは自分の判断であり、そこに責任が伴うという意見も出されます。
森さんはドキュメンタリーの演出は、撮る側と撮られる側の相互作用で生まれる化学実験のようなものだと言います。
そして、映画という手法へのこだわりについて、活字は直接話法だけれど、映像は多義性を持つ間接話法だという点を重視します。
つまり見る側に解釈や判断の余地を与えることで、まさに自ら考えさせることを要求するのが、映画等の表現だというわけです。
自ら考えるとは疑うことだと言ってもよいでしょう。
そして、それが真実の前提にあるのではないか。
それに関して、3.11前に原発を100%信じていたという参加者が「だまされた」という怒りをもってあの出来事を捉えたと語りました。
私自身は、3.11以前から原発の安全性を疑わしいと思っていたにもかかわらず、あの出来事に直面したときに覚えたのは「ありえないことが起こった」というものでした。
すると、これは自分で考える=疑うということに値しなかったと言うべきか。
今回、参加された聴覚障害者の方からは、感音性難聴を持つ人が、果たして音楽を創れるのか疑問に思うところもあるというお話をいただきました。
佐村河内氏と同じ感音性難聴を持つ立場から、そうした意見を聞かせていただけるのは、また新しい視点を持てた気がします。
そして、それはやはり誰も証明できないという点では、「わからない」ということでもあるのでしょう。
この「わからなさ」と「疑う」ことのあいだに佇むことの難しさもあらためて感じさせられました。

さて、終盤、私の方から佐村河内問題に被害者はいないというのは果たしてそうなのか、という疑問を呈しました。
問題が起こる以前に彼を扱ったNHKスペシャルの中に登場する人物たちを指してのことです。
これ自体は今回の映画とは関係ないところでの話なので、取り上げることも不適切な面もありましたが、それ以上にある参加者の方から痛烈なご批判をいただきました。
この問題は「佐村河内氏の音楽」が美しいということだけでいいだけのはずなのに、それを後から嘘をついていたとあげつらうのはお門違いだ。少なくとも、彼らは傷ついていないにもかかわらず、「差別的でおかしい」渡部のような人間が彼らを傷つけるのだというわけです。
残念ながら時間もなかったので、それに対する応答はしませんでした。
録音からも聞き取れないほどの激烈な彼の批判を聞くにつけ、なるほど、私の方に本人たちの与り知らないところで、安易に「被害者」と名指す迂闊があったかもしれないと反省させられたものです。
それにしても私の偽善的な発言を批判しながら、この場面において、彼が「差別的でおかしい」人間というあげつらい方を彼自身に許すのはどういうわけなのか。
真実のグラデーションにおける「他者」との「対話」の難しさを痛感させられるばかりでした。

最後に森さんに議論をふり返っての感想をいただきました。
東北の人たちは寡黙だというイメージとは裏腹に、こんなに福島の人たちが語ることに驚かれたとのこと。
また、自分では気づけなかった『FAKE』のテーマがいくつも提示されたこと。
はじめは「哲学カフェ」と聞いてもピンと来なかった対話の展開に、今までにない新鮮さを感じたという最大級の賛辞をいただき、今回のシネマde哲学カフェを閉じることができました。
私自身、カフェを終えてから森さんに尋ねたいことがいくつも出てきました。
それはおそらく参加された皆さんも同じでしょう。
それだけ『FAKE』の奥深さに感嘆しながら、なお私たちの思考は森さんの問いかけに刺激され続けていくわけです。
どうでもいいことですが、初めて森さんにお会いした瞬間、予想に反するほど背丈がありながらも少年のようなハーフパンツスタイルに、一瞬驚きましたが、やさしい語り口の中にある鋭い思想に参加者一同魅了されたものです。
遠路福島までお越しいただいた森さんにはもちろんのこと、長時間にわたって手話通訳をしていただいたお二人の方々には感謝の念に堪えません。
また、今回初めて聴覚障がい者の方々にご参加いただき、健聴者には理解できないことをいくつか教えていただけました。
今後、こうした機会をまた設けていただき、相互に「他者」理解を図れれば望外の喜びです。
フォーラム福島の阿部さんには、いつもながら会場の提供、監督とのコーディネート等並々ならぬご配慮をいただきましたこと、あらためて御礼申し上げます。これを機に、これからてつがくカフェ@ふくしまは、ますます「他者」との交流の機会を企画していきたいと思います。
次回は県立図書館で「図書館とは何か?」を問います。
多くの方々にご参加いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

なお、今回参加された皆様からいただいた感想を、氏名を伏せて「コメント欄」にアップさせていただきました。
当日、ご意見・ご感想をお書きになられなかった方でも、よろしければぜひコメント欄にお書きいただければ幸いです。


(文:渡部 純)
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第7回エチカ福島のご案内 ―沖縄と福島から〈責任〉を問う―

2016年07月31日 09時12分18秒 | 開催予定
世話人・渡部が共同代表を務め、小野原がアドバイザーを務めるエチカ福島という団体があります。
その第7回目のイベントが9月17日(土)に開催されますので、ここにご案内申し上げます。



【テーマ】 沖縄と福島から〈責任〉を問う
      ―米軍基地と原発事故の〈責任〉とは何か―
【講 師】 新垣 毅(あらかき つよし)氏
      琉球新報社東京支社報道部記者
【日 時】 9月17日(土)

    14:00 開会・あいさつ・エチカ福島の趣旨説明
    14:10 今回のテーマ趣旨説明
    14:20 報告 新垣毅氏「沖縄から責任を呼びかける―沖縄米軍基地県外移設問題」
    15:20 休憩
    15:35 渡部 純(エチカ福島)「福島で責任に応えること/福島から責任を語ること」
    16:00 参加者全体での討議
    17:00 閉会

【会 場】 県立橘高校セミナーハウス(同窓会館)
       福島市宮下町7番41号
【参加費】 300円(飲料代・資料代込み)/学生無料
【申 込】 不 要 
【連絡先】 ethicafukushima@gmail.com


【今回の開催趣旨】
あれから5年。
原発事故がなぜ引き起こされたのかという〈責任〉について、私たちはどのように考えてきたでしょうか。
なるほど、検察審査会は事業者である東電の刑事責任を問う起訴を決定し、その審理がこれから始まります。
しかし、「復興」が喧伝される一方で、市井のあいだで原発事故の〈責任〉を問うことは、どこか語りにくさを引きずったままです。

原発政策を推進してきた政治家・官僚の政治責任。
それを支持し、受け入れてきた市民の政治的責任。
科学者、メディア、教育の責任。電力を使用してきた受益者の責任、etc…。
たしかに、これらを問い直すことはお互いの「負い目」にふれざるを得ず、そのことが「寝た子を起こすな」とばかりに、私たちにこの事故の〈責任〉の語りにくさをもたらしている面があることは否めません。
いや、むしろ私たちはその語りにくさに甘んじながら、それと向き合い、問い直すことに目を背けることに慣れ切ってしまったのではないでしょうか。

これは福島だけの問題ではありません。
被害者(社会的弱者)が「負い目」によって自らの声を抑圧するだけでなく、それに乗じて加害者(社会的多数派)が自らの〈責任〉を見て見ぬふりをするさまは、これまで様々な構造的な暴力関係下でくり返されてきたことです。
しかし、人為的に破壊された共同体の傷は、その暴力の〈責任〉を問うことなしに修復されることはありません。
その意味で、私たちは原発事故の様々なレベルにおける〈責任〉を問い直す術を、勇気をもって学ばなければならないでしょう。

今回のエチカ福島では、その手がかりとして琉球新報社の新垣毅氏をお招きし、昨今の沖縄米軍基地問題の現状と県外移設問題についてお話しいただきます。
周知のとおり沖縄では米兵による犯罪が後を絶ちません。
そして、その我慢の臨界に達した翁長雄志沖縄県知事を代表とする沖縄の声は、米軍基地引き取りの〈責任〉を本土へ訴え続けています。
その呼びかけに対し、福島に生きる私たちはどう応えるべきか。
この沖縄からの呼びかけに対する応答を考えることは、重い問いを私たちに突きつけるでしょう。
しかしながら、その問いについて考えることは、とりもなおさず私たちが語りにくくなっている〈責任〉を、いかにして言葉にして語りうるものにするのか考えるヒントが含まれています。

〈責任〉を問うとは、その相手をバッシングして殲滅することでありません。
それは人為によって破壊された側の尊厳や社会的正義を回復させると同時に、将来、同じ失敗を二度とくり返さないために人間が考え出した術です。さらにいえば、それは暴力をふるわざるを得ない加害者と、それを被らざるを得ない被害者のあいだにある構造的な暴力関係から、お互いを解放させるための術でもあります。
第7回エチカ福島では、沖縄からの〈責任〉の呼びかけにいかに応えるかを考えるとともに、そこから福島で〈責任〉を語り出す意味を考える機会とさせていただきます。
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