てつがくカフェ@ふくしま

福島市で哲学カフェをゆるゆるやってます。専門知識はいりません。
身近な哲学的問題をみんなで考え語り合いましょう!

第9回シネマdeてつがくカフェのご案内―森達也監督『FAKE』―

2016年06月23日 01時14分09秒 | 開催予定
       森 達也・監督、哲学カフェに参加決定!!!



《シネマdeてつがくカフェとは》
シネマde哲学カフェとは、映画作品を参加者たちが鑑賞し、そこから浮かび上がる哲学的なテーマについて哲学的に語り合う場です。


【上映作品】 森 達也・監督『FAKE
【日 時】7月29日(金)
     上映時間 18:00~20:00(映画109分・予告6分)
      哲学カフェ 20:00~22:00
【ゲスト】森 達也・監督 
【場 所】フォーラム福島(福島市曽根田町7-8・℡024(533)1717)
【事前申し込み】不 要
 直接会場にお越し下さい。上映後、そのまま哲学カフェに参加できます。
 なお、フォーラム福島での上映期間は7月23日~29日となっておりますが、哲学カフェ当日前に鑑賞された方も、29日の哲学カフェに参加いただけます。その際にはフォーラム福島で配られる哲学カフェ参加券が必要となりますので、鑑賞された際には受付窓口で参加券をお受け取り下さい。

【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


なんと、森達也監督が、あの佐村河内守氏をめぐる騒動をドキュメンタリー映画化しました。
佐村河内守氏と言えば、「現代のベートーベン」と評され、NHKスペシャルで特集が組まれるほど話題を集めた人物です。
ところが、彼が「全ろう」であるということが虚偽であり、しかも作曲した作品は新垣隆氏がゴーストライターとしてつくったものであったことが発覚したことから、一大スキャンダルにまで発展しました。
しかし、アレは果たして単なる「偽装スキャンダル」だったのだろうか…?
今回の森達也監督のドキュメンタリー作品「FAKE」からは、そのような問いかけが聴こえてきそうです。

森達也監督と言えば、オウム真理教事件を一方的にバッシングする側とは異なる角度から、オウム信徒たちの姿を描き出した『A』、『A2』の作品で知られるように、一方的に「絶対悪」を糾弾する「正義」の側の危うさをあぶりだす、いわば日本社会の暴力性を察知する「知的カナリヤ」ともいうべき存在です。

もし、ワタシたちが世界の見方の多様性を失いかけている社会に、知らず知らずのうちに生きているのだとすれば…
それを知らずに、メディアが喧伝する「正義」を、疑いもなくワタシたちも声高に叫んでいるのだとしたら…
「佐村河内」とは、実はワタシ自身のことなのかもしれない…
本作品ホームページ内にある予告編イントロダクション森監督の言葉著名人らのコメントからは、そんなことを考えずにはいられないワクワク感に満ち溢れています。

「真実とは何か?」、「正しさとは何か?」
そんな問いをめぐって、映画を鑑賞された皆さんと一緒に語り、考え合いたいと思います。
何より、今回は森達也監督ご自身にも哲学カフェに参加していただきます。
この貴重な機会を多くの方々と一緒に共有できれば幸いです。


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫
てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人 小野原 雅夫 ・ 渡部 純 ・ 杉岡 伸也
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第38回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「図書館とは何か?」

2016年06月21日 21時49分43秒 | 開催予定
告知が少し早いですが、8月の哲学カフェの日時・会場・テーマが決定しましたのでご案内申し上げます。なお、7月の哲学カフェは森達也監督・映画『FAKE』をテーマにしたシネマdeてつがくカフェです。こちらも多くの皆様にご参加いただければ幸いです。

メキシコ国立自治大学の中央図書館・フアン・オゴルのモザイク画,2016年,渡部撮影】

【テーマ】 「図書館とは何か?」
【日 時】 8月20日(土)15:00~17:00
              ※いつもより1時間早い開始時間です。
【場 所】 福島県立図書館・第2研修室(3階)
      福島市森合字西養山1
【参加費】 なし(飲み物が必要な場合は各自でご用意ください)
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


これまでてつがくカフェ@ふくしまは、「フォーラム福島」や「はじまりの美術館」といった「映画」や「アート」の現場での哲学カフェを実践したことがありましたが、今回はいよいよ「図書館」という「情報/資料の収集/発信」の現場での哲学対話を試みます。
しかも、「図書館とは何か?」というテーマに示されるとおり、その現場のありようそのものを問い直そうというものです。

昨今、「図書館」は様々な変化にさらされています。
海老名市や武雄市、多賀城市にオープンされた「TSUTAYA図書館」は、カルチュア・コンビニエンス・クラブが運営主体となって公立図書館の民営化・コンビニ化(深夜営業・スタバ導入・ポイントカード導入など)を実現したものですが、その賛否をめぐっては今なお議論が続いています。
その一方で、「図書館のせいで本が売れない」といった出版社や作家からの批判も生まれています。
中には、新刊書が売れないのは図書館の貸し出しの影響があるものだという批判から、一定の貸し出し制限を加える必要性を求める意見もあります。
また、昨年は「学校が死ぬほどつらいなら図書館へ」という鎌倉市の図書館司書のツイートが話題を集めたように、子どもの安全な居場所としての図書館という役割についても様々な議論を呼んでいます。

いずれにせよ、いま、図書館がさまざまな変化の波にさらされているのは間違いありません。
しかし、これは同時に、この社会の文化の質そのものが問われているということでもあります。
かつて、ナチスドイツはナチズムの思想に合わない書籍をすべて焼き尽くすという儀式を行いました。
『ホロコースト全史』を書いたマイケル・ベーレンバウムは、この出来事を「ビブリオ(図書)コースト」と名づけ、「本が焼かれたなら、次に焼かれるのは人間である」と記しています。
つまり、図書館を問うということは、同時に私たちの民主主義のレベルを測り直すことに他ならないのです。
日本図書館協会が掲げる「図書館の自由に関する宣言」はこのことと無関係ではありません。

もちろん、多岐にわたる図書館の抱える諸問題を、ざっくりと「図書館とは何か?」というテーマだけで語り切れるものではありませんが、ぜひこの機会に一般市民の方々も専門職の方々もこぞって集まって「図書館」について語り、考えあってみましょう。
そのことが、財政難の克服を図書費や教育費の削減から始めるこの社会のあり方を問い直すと同時に、地域の図書館と図書館運営に携わる方々を勇気づける機会になれば幸いです。


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェ@ふくしま世話人 小野原 雅夫 ・ 渡部 純 ・ 杉岡 伸也
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哲学カフェ@arcoirisのご案内

2016年06月17日 22時46分34秒 | 開催予定
去る5月に開催された第8回本deてつがくカフェに参加された方が中心となり、このたび和光市で哲学カフェを開催するとのことなので、ここにご紹介申し上げます。
@ふくしまの様子に刺激を受けて、開催に踏み切られたようです。
嬉しい限りです。
開催場所が埼玉県和光市と遠いのですが、お近くの方やご関心のおありの方は、ぜひ足を運んでみて下さい。
以下、主催者(同書の著者の一人)からの案内です。



みなさま
はじめましての方もいるかと思います。
東京学芸大学博士課程に在籍しながらも、妙縁から埼玉県和光市で、
「大人の秘密基地」と題されたコミュニティカフェなるものを経営している川上と申します。
拠点となるこのカフェは、池袋駅から電車で10分ちょっとの和光市駅近く。
大都会・大消費地の横で、人つながりを生かした新たな文化をつくろうと模索しています。
今回、さまざまな方とのご縁から、日本各地で実践されている「哲学カフェ」を参考にして、
新たに1つの学び場をつくる実践をはじめます。
市外・県外からの参加も大いに大歓迎です!
というよりも、多様な場所・多様な世代・多様な経験をもつ方たちがご参加すればそれだけ、
この場がもつおもしろみが増していくものと考えています。
以下、イベント詳細となります。
少しでも興味を持った方いらっしゃれば、ぜひご参加いただければ幸いです。

【哲学カフェ@arcoiris】
第1回テーマ:「わがままに生きるとは?」
日時:7月9日(土) 15時~17時
場所:大人の秘密基地arcoiris (東京メトロ・東武東上線「和光市駅」より徒歩5分)
参加費:500円(1ドリンクつき)
定員:20名(先着順⇒今回、お断りをさせてしまった場合は、次回もありますのでそちらを心待ちに…)
課題図書:『わがままに生きる哲学』  
 

※カフェ店内で閲覧・貸出・販売中。ご購入の場合は、定価1,836円のところを1,300円で割引販売します。
※当日14時より、予習タイムあり(課題図書の閲覧が自由にできます)

交流会:17時~19時 参加費:1500円(お酒・ソフトドリンクはキャッシュオン)
その他:課題図書の執筆者たちも数名、何気なく当日の会に参加しています。
詳細・お申込みはこちらより⇒ http://www.base-arco.com/哲学cafe/

【運営者の思い】
ある程度大人になって思う。悩みは、尽きない。
もうすぐ70歳になる年の離れた友人に聞くところ、「40歳にして惑わず」は、まったく嘘らしい。
嘘であるどころか悩みはつきず、深まるばかりだという。 70歳にして人生に悩みまくりならば、人は一生涯悩みまくりではないか!
得た資格や、学んできたハウツーなどで乗り越えられる問題に直面している間は、まだいい。
問題は、それらが、まったく歯が立たない困難や問題に直面したとき。
そんなとき、、、ふと 人の考えや言葉に、触れたくなる。
小手先だけのハウツーではなく、もっと深いことを、学んだり、考えてみたくなる。
さまざまなところで「哲学カフェ」が試みられていますが、ここで開く「哲学カフェ」は、そんな場にしてみたい。

そのため、ここでは、
①毎回異なるテーマを設け、テーマにあった素材(話題提供者・本・映画・ドキュメンタリーなど)を設定する
②その素材に触れ、 それぞれが、何を思い、何に気づき、何を考えたのか、シェアする
この2つを基本的な柱としたいと思っています。
が、この活動は、参加するみなさんとともにあるものなので、いまのところのビジョンとして。

初回の素材は『わがままに生きる哲学』という本(本については以下に詳細)。
さあ、自分たちの経験や人生を通して、話に花をさかせてみようか。

★★★★課題図書★★★★
『わがままに生きる哲学』 著:多世代文化工房、はるか書房、2016年 
今年の春に発刊された本。 参考URL:https://goo.gl/Q6KHNo
「結婚のいいところってなに?」、「わたしは社会の落ちこぼれ?」、「家族、“卒業”できますか?」など、
誰もがふっと心に浮かぶ “問い(悩み)”ってありますよね。
このような悩みに、大学教授、高校教員、起業家…など、20~60代の“変人”たちが、真摯に、かつ思うがままに答えた対話集。
読んでみると…悩みが解決するばかりか、さらに深まってしまうことも??
全部で22個の問いと、45個の回答からなるこの本を使って、
参加するみなさんが興味をもったテーマや、気づき、 考えたことなど、それぞれの見えた世界をシェアします。

【アクセス・お問合せ先】
 大人の秘密基地arcoiris 和光市丸山台1-9-19
 ▶東武東上線・東京メトロ有楽町線/副都心線 和光市駅より、徒歩5分
 【電話】048₋462₋1000
 【mail】cafe.arcoiris.wako@gmail.com
 【HP】http://base-arco.com
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第37回てつがくカフェ@ふくしま報告―「〈不倫〉はイケナイのか?」―

2016年06月06日 09時39分15秒 | 定例てつがくカフェ記録
2016.6.4 「不倫はイケナイのか?」 参加者19名

まずは「不倫」とは何かと共通認識を図るところから会は始められました。

「結婚している男女が他のパートナーや異性と恋愛関係になるのが、いわゆる「不倫」です。肉体関係を含むと性的サービスのお店に行くのとどう違うのかという問題があるので難しいけれど。」

「肉体関係があるのは「不倫」です。不倫は結婚していることが前提で、結婚は「一生、君だけ」という約束があるものですが、そういった約束を交わした相手と違う人と同等の関係を結ぶのが不倫です。」

「何が「不倫」でそうではないかというのは、異性間かどうかは関係のないことです。結婚をしていようがしていまいが、合意の上でステディの関係にあった場合にそれ以外の人と関係を結んでしまうことが不倫です。ただし、パートナーが「自分以外の相手と寝ても構わない」と許したものであれば不倫と呼ばないのではないでしょうか。相手に秘密にしているということが不倫の不倫性を際立たせるものだと思います。」

「最近の女性誌に「セカンドパートナー」という言葉をよく見つけます。これは夫婦同士でも自分のパートナー以外に、色々な面でのパートナーがあって、家族に相談できないような話や、家庭に持ち込みたくない話などを交わせる心の許し合える相手のことを指すようです。ただし、その関係には肉体関係を持ってはいけないよという約束があります。なので、「不倫」には肉体関係の有無が関わってくるんじゃないでしょうか。」

「秘密性というのが「不倫」の条件に挙げられましたが、セカンドパートナーについては、結婚相手に明かすものなのでしょうか?」

「できれば、公にしておこうという風に言われるようです。結婚相手に公にしている肉体関係のない恋人と言えばいいでしょうか。」

「「不倫」の定義的には配偶者がいることが前提にあります。昔は不義密通と呼ばれました。人によっては肉体関係だけではなく精神的な浮気も不倫と捉えるでしょう。その相手に会って「大好きだよ」というだけでも「不倫」。肉体的かつ精神的な関係をもつのも許せないという人もいますから。結婚相手の感情次第で「浮気」なのか「不倫」なのか「遊び」なのかが決まるのだと思います。」

「昔は「不倫」という言葉はなかったはずです。私が子どもの頃は、皆さん堂々とやっていました。お妾さんと本妻が一緒の家で生活していたという形もあり、独り身の女性の家に男性が通っているというのが、緩い関係として割と日常的にみられる時代がありました。誰が「不倫」って決めたんですかと思っています。誰目線で「不倫」となるのでしょうか。」

「誰の目線かというのは二つあって、当事者同士の目線でと、法的な視点で「不倫」とか姦通罪というのがあるのですが、肉体的な関係か精神的な関係かはそれほど関係ないと思います。」

「「不倫」と「浮気」の違いは結婚の有無が前提になっているけれど、いま話題に上がったように、社会制度や時代が違うとその意味も変わるので「不倫」は普遍的に定義できないと思います。人の気持ちの部分なのかな。法律上は不貞行為には肉体は入るけれど、肉体関係を一度もったくらいでは認められないのが通例です。」

「「いまの日本において」という風に限定して考えてみた方がいいのではないでしょうか。浮気と「不倫」は違うかというと、浮気は個人と個人の裏切り関係に近いのかな。「不倫」というと世の中に共有される倫理から外れているというイメージです。法律的に「不倫」という言葉はないので、そのときの一定のこうすべきという約束事から外れるものに過ぎないのではないでしょうか。」

「浮気と「不倫」の違いはほとんどないと思います。一夫一婦制の結婚制度下で恋愛関係も一夫一婦制を規範のモデルにしているに過ぎないのだと思います。」

「法律的に絡めば結婚制度の問題になるけれど、浮気も恋愛関係でもやられた方はダメージはある。お互いが合意していれば、裏切られると傷つく点では結婚の有無は関係ないと思います。たしかに浮気は個人間の問題で済ませられ、結婚していて不倫する場合は社会的に影響はあるという点で違いはあるけれど、裏切られて傷つくという点では本質的には変わらないと思います。」

「これまでの議論を聞きながら「不倫」を定義できるかというと、やっぱり無理だという風に思いました。どこか他人を責めたいときに「不倫」が発生したり、あるいは自分の振る舞いを律しようときに「不倫」の定義が必要になるのではないでしょうか。そうであれば、「不倫」とは何か?」と問うよりも、「もし「不倫」を責めるんであれば、何を根拠に責められるのかと問うた方が見えてくるものがあるのではないでしょうか。」

「たしかに、「不倫」を定義するのは難しいという気がしていますが、そもそも不倫は1983年の金曜日の妻たちというドラマ以来生まれた言葉で、それほど古くないんです。マスコミが新しい言葉を作ったときにきちんと定義していればよかったのでしょうが。ただ、法律的には不貞行為として法的に責任は問えることになっていますので、言葉の定義というよりは、結婚も恋愛も一対一の関係にあるべきだという規範をどう考えるのかと問うことはできるのではないでしょうか。」

「日本の場合、結婚は一対一に向き合うことになっていますが、私自身は結婚していても別なパートナーを選んでもいいんじゃないと思っています。結婚する前には、複数の人とオープンにつきあうことを認めようというポリアモリーという考え方は素敵だなぁ、と思っていたのですが、いざ結婚すると夫との関係性が枷になりました。つきあい方には多様性があってもいいと思っています。」

「結婚するときは相手を束縛したいし、相手にも束縛もされたい、そういう人と結婚したいものです。その感情をお互いフラットにしようというのは、なかなか一致せず、無理があると思います。」

「僕もデーティングピリオドという欧米にあるやり方はいいなと思ったことがあります。これはステディな人をみつけるまで肉体関係を含めて色々なパートナーシップを試していくシステムですが、一人に絞りたいというか、相手も自分も複数の相手とつきあっていけるかというと、そうではなく束縛したいという感情をもつのが自然だとは思います。問題は、問題はこれが長続きしないかもしれないという点です。結婚は制度的にこの感情を縛ってしまっているけれど、一対一になりたいというのは感情的にある一方で、それが続かないという問題をどうするかということを考えてみる日打つ用があると思います。」

「その感情はなんと呼べばいいのでしょうか?」

「独占欲。」

「縛りたいという感情は嫉妬と呼んでもいいかもしれませんね。」

「じゃあ、イスラームや英語圏、アフリカ世界でも「不倫」はあるのか。一夫多妻の人たちにもそういう感情は持ち合わせているのでしょうか?イスラームは一夫多妻制を認めているでしょう。」

「イスラーム世界において一夫多妻は無条件に認められているわけではなく、セックスでも経済的にも愛情的にも、すべての奥さんを等しく満足させなければいけないとコーランで規定されているので、相当厳しい縛りがあり、実際は複数の妻を持つムスリムはいないというのが実態です。」

「江戸時代には夜這いをして一人の女性に対して複数の男性と交わって、誰の子かわからない。一妻多夫の世界だと財産を持っていないから、父親誰だかわからない社会では逆にみんなで育てようということになることがあります。」

「戦前の日本では事実上、女性のみ姦通罪の対象となり、戦後は民法上不貞行為が離婚の理由になっています。」

「私の前の夫もおつきあいしている女性がたくさんいらしたのだけれど、私は嫉妬というのがなくて、夫が第一婦人という地位を確立してくれていたことに満足していました。家族を第一に考えてくれていれば、特に嫉妬とかそういう感情は生まれませんでした。」

「そもそも「不倫」はいけないことなのかと考えると、何が「不倫」で何が「不倫」じゃないかと考えた時に、その人の行動を制限することだと思うんです。でも、それこそ人の行動制限することなんて、世の中様々だし、個人レベルでも様々でしょう。「不倫」の多様性があって、「不倫」の定義が多様化した方が彩のある世の中になるんじゃないかな。だから「不倫」は悪いことなんだけれど、いいことなのかもしれない。」

「自分に「不倫」という感覚をもてないのはなぜかというと、みんなとつきあえたら最高だなと思っているからなんだと思います。もちろん、若い頃には独占欲も味わったりもしました。年とっても一緒になれているのは最高だけれど、そこまで感情が持続しない問題をどうするかというのと関係しますが。私の場合、友達結婚だったので、始めから一緒に添い遂げなければいけないという義務感は薄かったと思います。だから、子育てなど義務を果したらいったん夫婦は解散した方がいいと前回発言したのはそのことと関係します。みんな幸せになりたいと思って生きていると思っているんだから、お互いが納得できる選択を尊重できる社会になればいいんはないかな。」

「性交渉の話も含めて、性風俗産業の利用に関しては「不倫」に当てはまるかもしれないのに法的にはそうはならないのが気になりました。もう一つ、男性のマスターベーションも嫌だという不倫感覚をどのように考えるべきでしょうか?」

「性風俗はその時の性衝動を処理したいという問題であって、心の交流を求めていくのは、人の道に外れた感じがするということではないですか。風俗嬢に性衝動の処理を求めていくのは許せるけれど、個人的な愛情を求めに行くのは許せないという感情の問題だと思います。」

「日本には売春防止法があるので法的に認めているわけではないですよね。表向きには認めていない。けれど、実態として風俗産業を認めています。」

「相手に秘密にしているという問題があったけれど、先ほどの第一婦人の話はオープンにしていたから問題が生じなかった。やはり、オープンか秘密かというのは重要な要素なのかもしれません。」

「恋愛の独占とか排他性が出たので、聴きたいのですが、自分が第一婦人であるという自信がなければ語れたでしょうか。」

「そうですね。でも、二度目の夫のときは結婚していたにもかかわらず、私の位置は二番目だったので、そのときは悔しい思いをしました。」

「パートナーの人がどう思うのかが大事だと思います。絶対にお互いに相手はひとりと誓い合ったわけではないけれど。」

「「不倫」はどっからがいけないと決めるのは、所詮、第三者的なワイドショーネタでしかないでしょう。」

「乙武氏のケースを見てもパートナーの考え方次第で世間の納得の仕方が変わりましたよね。だから、相手の考え方次第という側面はあるのではないでしょうか。」

「でも、ベッキーのケースを見ていても、いつも女性ばかりが「不倫」を責められる構図になっています。乙武氏の「不倫」問題のケースのように、男の場合は妻が納得すると世間も納得する構図がありますが、それはフェアとは言えないと思います。」

「けっきょく「不倫」を定義するのはワイドショーだけではないでしょうか。」

「問題はマスコミの質なのではないかというのは、そのとおりだと思います。むしろ、「不倫」は当事者間で問われることで、社会の倫理を犯したとかそういうレベルの問題ではないと思います。だから、お互いが納得している関係であれば問題にはならない。むしろ、それをお互いに尊重し合うことで多様なパートナーシップが実現する社会にならないかな。」

「マスコミが不倫を取り上げるから実際以上にみんなが騒いでいるという理屈は、半分はその通りだと思うけれど、そうとも言い切れない面も残るのではないでしょうか。私自身は「不倫」を責める気も関心も全くないのだけれど、しばらく考えていたのですが、もし僕の親友が配偶者の「不倫」によって辛い思いをしていると知ったときには、私は親友の妻に対して悪感情を持ってしまうと思います。こうなってしまうのは、なぜなんだろうと思うのです。」

「最近読んだ本の中で、アナーキストの大杉栄と伊藤野枝のような関係が友情とも情愛とも混在している複雑な関係性が表現されていました。一概に夫婦だから愛情をもって接しなければいけないとか、友情だから性愛関係を抜きにしなければいけないとか、そんな単純な関係性では割り切れないのが人間であることを考えさせられたものです。その相手とのかかわり方が大切。婚姻以外の恋愛は宿命的に誰にでもあるんだろうな、友情に近い感情で結びついたのは配偶者はつらいだろうな。そんな風に考えました。その昔、映画「マディソン郡の橋」が多くの主婦たちの共感を集めましたが、彼女たちはふだん人格が認められない女性たちばかりだったように思います。そんな女性たちが夫以外に自分の存在を認めてくれる男性に惹かれるのは、単に性的な魅力だけで引かれるのではなく、人間の存在として認めてほしいという願望がシンクロしたのだと思います。一方、男性には「不倫」がないわけですよ。ベッキーもそう。理想としては婚姻に縛られない社会になった時に男女ともに生きやすいパートナーシップになるんじゃないかな。」

「オシドリ夫婦は二人だけの世界に閉じて、人間関係に対して貧しいといっていたラジオ番組のことを思い出しました。そういう意味で言えば、浮気は人間関係が豊かといえるのではないでしょうか。SNSのように「ともだち」の数が多い方が人間としての価値が高いと認める社会になれば、そんな浮気な関係も人間関係が豊かだという指標になって認められていくかもしれません。」

「色んなつきあい方の形があった方がいいと思いました。これが一つのつきあい方だという形を卒業して、個人でこう思うからという生き方を選ぶ方が豊かな社会になるのではないでしょうか。」

「個人の独立性とか自分が持っている自由とか、自分が幸せになっていく互いに尊重し合えるからこそ許し合えるという縛らないという関係の理想像があるんじゃないかな。共同体の中でみんなで育てるというコミュニティのように、お互いの自由独立性を尊重し合う中で人を育んでいく世界がいいな。」

「社会的に見て「不倫」のいい悪いは決めないけれど、親友の妻の「不倫」問題をどう考えるかという場合ですが、たしかにメディアがマイノリティや弱者の立場に立ったつもりで書くから極端な批判をしている姿に対して、「世の中そんなに割り切れないよね」と思いたくなる。けれど、関係の近しい人には、その悪感情というか攻撃性が働いてしまいます。」

「なぜでしょう?」

「近しい人の方が感情を移入してしまうからではないですか。友達側の情報量がたくさん入る一方で、不倫してしまった妻側の情報は入らないから、なおさら親友の側に立って攻撃的になってしまうということです。」

「子どもがいると、両親には「不倫」してほしくないと思います。「不倫」するしないという場合、当事者だけの問題だけではなく、第三者として「子どもの」存在が大きな比重を占めるのではないでしょうか。」

「たしかに20年前に離婚の危機があった時、娘に「学校を卒業するまでは離婚しないで」と言われたときには、その選択はやめましたね。」

「これまでの話をまとめると、「不倫」は当事者間の問題であり、世間がどうこう批判できる問題ではないことがおおむね了解されていたかと思います。その際に、結婚の有無や秘密にするかオープンにするかという要素が「不倫」を規定する条件として共有されていた気がしますが、最後の方には、むしろ自分とのパートナーシップ以外の関係性をお互いに尊重し、認め合うことで多様な関係や社会性が形成されることを望む声が多かったと思います。では、その多様な関係性を認め合うことを求める方々に聞きたいのですが、自分のパートナーに「それは傷つくからやめて」と言われたらどうするんですか?」

「私の場合、それは夫との関係が冷えたときに別の魅力的な男性が表れて、そのことを率直に夫に伝え、だからあなたも別の素敵な女性が現れたらお付き合いしていいよと伝えました。すると、不思議なことに夫にも別のおつきあいする女性が現れたんですね。だから、個人的な体験から言うと、それはそうなればうまくいくというか…うーん、何をいいたいかわからなくなりました。」

終了時間になったため、議論はここで終了となりました。(文:渡部 純)
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第37回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「〈不倫〉はイケナイのか?」―

2016年05月21日 08時48分47秒 | 開催予定
           

【テーマ】 「〈不倫〉はイケナイのか?」
【日 時】 6月4日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
 懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。

【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


芸能人の〈不倫〉が世間をざわつかせています。
それも、なんだか必要以上に過熱したバッシングで。
いつから日本人はそんなに倫理的になったのでしょう。
というわけで、ここはひとつ〈不倫〉とは何かを問いながら、それがなぜイケナイのか、ほんとうにイケナイことなのかをキワドク問い直してみたいと思います。
不倫中の方もそうでない方も、こぞって集まって考えましょう。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人 小野原 雅夫 ・ 渡部 純 ・ 杉岡 伸也
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平井有太『ビオクラシー』に哲カフェのインタヴューが載りました!

2016年05月20日 12時46分55秒 | メディア掲載

第五回シネマdeてつがくカフェを開催した際に、ラッパーのアナーキーをゲストに招くなど、色々と尽力して下さった平井有太さんが、このたび『ビオクラシー 福島に、すでにある』(SEEDS出版)を出版されました。
冒頭から、あのムヒカ大統領との突撃インタヴューが掲載されるなど、文句なしに面白い内容になっています。
この本は、福島をめぐって様々な文化が新しく立ち上がっている場面を、その活動を担う人々に対するインタヴューを通じてユニークに紹介しています。
その中に渡部のインタヴューを通じて「てつがくカフェ@ふくしま」の活動が紹介されているのです。


インタヴューといっても、その文体は箇条書きにされており、若干の違和感があります。
けれど、しばらく読み進めていくと、それがどこかラップのリリックのように響いてくるのです。
たとえば、

てつカフェ、最初は人がこないと思った。
「二人でしゃべろう」と言っていた。
蓋を開けてみたら、結構来た。
「てつがく」の言葉は、あった方がいいのか、ない方がいいのか。
それで敷居が高く感じられたり、だからこそ人が来たり。


いかがでしょう。
なんだかノリノリのラップにのせた詩的なリズム感ですよね。
もちろん、実際のインタヴューはこんなノリノリであるわけがありません。
これも平井さんの思考のリズムの反映なのでしょう。

他にもてつカフェゆかりの方々のインタヴューが載っています。
本deてつがくカフェでお世話になっていたサイトウ洋食店の齋藤正臣さんは、ムヒカ大統領と同じ見開きに紹介されています。


第二回アートdeてつがくカフェでお世話になった、はじまりの美術館館長・岡部兼芳さんも載っています。



店頭販売はこれからのようですが、ぜひ多くの方々にお読みいただければ幸いと思い、ここに紹介させていただきます。
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第6回エチカ福島のご案内―「金山町で未来を、日本を考える」―

2016年05月09日 16時25分24秒 | エチカ福島
世話人・渡部が共同代表を務め、小野原がアドバイザーを務めるエチカ福島という団体があります。
その第6回目のイベントが5月21日(土)に開催されますので、ここにご案内申し上げます。



「金山町で未来を、日本を考える」
日 時:2016年5月21日(土)14時~17時
場 所:福島県大沼郡金山町生活体験館
発表者:押部邦昭さん(金山町役場復興政策科の方です)
申 込:不要
費 用:資料・飲み物代100円
連絡先はethicafukushima@gmail.com


以下は、今回のイベントの趣意書です。ご覧の上、多くの皆様にご参加いただければ幸いです。
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第6回エチカ福島が迫っている。5月21日、金山町。
金山町は人口2000人強。高齢化率は60%に近い。
僕がそこに暮らしていた30年前は30%で、その頃は日本社会を先取りしていると言われていた。
同じ頃、都会ではバブルに浮かれていた。
しかしこの町に暮らす僕たちは、真面目にこれからの僕たちの生活を見直さなければならないと思っていた。
その頃若かった僕は、それはおカネというもの価値について考えることだと思った。

金山町は只見川沿いにある。
只見川は戦後復興から経済成長をささえた電源開発の舞台である。
只見町、金山町、三島町には巨大なダムが林立する。
ダムができる前は、谷あいの寒村であったろう。
狭い耕地に農作を行いつつ、木を育てて生活をしていたという。
しかしダム建設はその生活を一変させる。
ダム建設のために鉄路も作られ、それが只見線となる。
新しい道路、新しいトンネルが作られる。
そのための労働力が必要となり、町には多額のダムの補助金がもたらされ、人びとがここに集まって来た。
やがて電源開発政策は原発にシフトしていく。
工事の需要も減り、補助金も減額される。
それに加えて、木材需要が輸入木材によって激減してしまう。
かくして急激な過疎化が進んでいく。
30年前には、三島町では付加価値のある木材を商品化しようと試みられていた。
金山町のこの自然そのものを資源とした金山町の「自然教育村」という試みは、自然と自然に培われた生きる知恵に基づいた人々の生活、その蓄積としての歴史を、根無し草の都市生活者に「教育」をしてあげようという意味だと僕は解釈し、実に痛快に思った。
どこの田舎も観光リゾート一色で、有り体に言えば、都市生活者の落とすカネをあてにしようといた。
そういう試みの多くはバブルとともに潰えた。
さて、金山町の「自然教育村」はどうだったのだろうか。
残念ながら目覚ましい成果を上げたという話は聞かない。
しかし、僕はその考え方にこそこれから僕らが目指すべき社会のヒントがあると思う。
つまり、田舎にこそ人間の生活の豊かさがあるという発想である。
もちろんその豊かさとはカネとは別の価値である。

金山町の人口は30年前に比べて3分の2に減少してしまった。
ある時期、ダムやそれに関係する工事によって人口は急増したわけだが、現在の人口はダム以前の人口をも下まわってしまっている。
ダムなどの工事やダムの補助金は、財政をバブルのように膨らましたただろうし、工事の労働賃金は農作や木材生産のもたらすカネとは比較にならなかったはずだ。それは町にとって間違いなく恩恵であった。
しかし、やがて補助金というバブルも工事の需要もしぼんでしまった。
これは金山町だけの話ではく、日本中の中山間地域をはじめとする、いわゆる田舎が抱える問題だ。
田舎が自活する術を講じさせないような政策が続けられた。
田舎の自治体の首長の多くが建設土木関係者であることは象徴的だ。
しかし、おそらくは田舎の再生のカギは、建設や土木の需要をもたらす誘致ではないと思う。 

深瀬幸一(福島県立橘高等学校教諭)
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第8回本deてつがくカフェ報告―『わがままに生きる哲学』―

2016年05月08日 18時39分06秒 | 本deてつがくカフェ記録
今回は、この4月に出版されました、多世代文化工房著『わがままに生きる哲学』(はるか書房)を課題図書とした哲学カフェを開催しました。
参加者は24名。
その中には、著者である佐藤和夫さんと片山南美子さんにも参加していただき、「わがまま」な議論が展開されました。

 

●僕はわがままな人が嫌いで、職業上わがままな人に振り回されているんですが、皆さんは「わがまま」を好意的に受け取っているのか、そうではないのか。そこをまず確認させてもらえばなと思います。

●なんで嫌いなの?

●常にわがままな人にはふりまわされて、結局その人の「わがまま」を追認させられるというか、そんな否定的なイメージしかないです。

●僕も大人の「わがまま」は嫌いですが、子どもの「わがまま」は、まぁ受け入れられます。今回の哲カフェに参加するにあたって、「わがまま」っていったいどういうことなんだろうと始めから考えて読みましたが、僕も人生相談を読むのは好きで、新聞なんかではお気に入りの人の時しか読みません。この本の場合、三人くらいが回答者となっていてこれまでの人生相談とは異なるなと思いました。実践人生経験が豊かな人ばかりが描いているのが印象的です。「わがまま」について、現代社会における問題を扱いながら各々が回答しているスタイルがよかったなと思います。結局は、「わがまま」とはあるがままに生きるということなのかな、というのが結論です。

●この本を一読してみて、読みやすかったところと、読みにくかったところに分かれました。自分に関係がなく、割と客観視できるところは読みやすかったけれど、自分自身の問題と重なって身につまされて苦しかったところは、一気に読めなかったです。外で読んだり暗くしたり読んだりしました。自分に当てはまるところが読みにくかったのは、知りたいけれど知りたくないという感情が生じるからなのだと思います。自分の悩んでいる内容について回答を読むと、理屈ではわかるけれど、「でもさ」って言いたくなるところもある。その葛藤の中で読みにくかったのだと思います。

●冒頭にいきなり「暗い時代だ」という言葉があるけれど、この言葉についてどうなのかと考えました。私が小さい頃は貧しいのが当たり前の時代で、高度成長の時代は先が開けてきたという感じがあったんですね。でも自分の子供なんかを見ていると将来が見えない。これからの若い人たちにとっては暗い時代だというのは頷けると思いました。本の最後の方を読むと、けっきょく「わがまま」に生きるということは、いろんなユニークな生き方をしなさいということなのだろうなと思いました。皆が同じ方向を目指しすぎているので、それぞれの生き方をしなさいというのは同感です。自分本位で「わがまま」を肯定する。あまり周囲に流されずに、自分らしく生きなさいと言うことなのだろう、と。

●夏目漱石の「自己本位」というのがこの本でのわがままの一つなのかなと思っていましたけれど。

●自己本位って引き受け感がある人をイメージするんだけれど、僕が「わがまま」を否定的に評価してしまうのは「自分勝手」というイメージしかないからなのかな。僕が念頭に置いているのは、未成年で、自己本位に生きることを模索する人たちは割と自分のことを責任をもって引き受けられる大人なのだと思うんです。

●その「自分勝手なわがまま」の例を一つ挙げてください。

●たとえば、「5千円もかけて行く意味がない」といって、学校行事の遠足を拒否する生徒がいるんです。それはそうなんだけれど…

●今の例で思ったのは、自分の思いを言えない人と言える人がいて、自己表現ができて自分を大切にするという点では、私はその「わがまま」を肯定したいと思います。そこには先生と生徒という立場の違いによって葛藤があるのかもしれませんが。

●自己表現があって、生徒と教師の対話が発生するというのは重要だと思っているけれど、組織の人間としてふるまわなければいけない中で、それは何とも肯定しがたい自分もいます。声を上げて社会が変わっていくということもありうることはわかるし、その理屈はわかるんだけれど……。

●子どもたちにとっての「わがまま」を取り上げるときと、大人にとっての「わがまま」を取り上げるのは違うなと思いました。「自己本位」から始めたいというのは、みんなが思っていることだと思うけれど、そこには自分のことを考えることが、同時に他人のためになるんじゃないかということではないでしょうか。そのことが、この本の全般に貫かれているんじゃないかな。この本の回答には、その意味での自己本位をもって社会の中で生きられればいいのにねというのが通底している。

●大人なら「自己本位」の意味を分かったうえで、ちゃんとやってほしいのにそういう大人が少ないということですね。子どもの「わがまま」を許せるのは、その意味を今は知らなくても、対話を通してこれから関係を作っていく途上にある人だから許せるのだと思います。でも、大人でその意味を知っている人がもう少し増えてもいいと思う。

●153ページで、「当事者にしか理解できない何か」とあるんだけれど、ここが「わがまま」のことを示しているのではないかなと思う。他者にはわからないけれど、でもどうしても他者に頼らざるを得ないもの。けれど、それがなかなか人には伝わらないものというか。

●少し話の内容が抽象的になっているので、ちょっとここで本に関して尋ねてみたいんですけれど、この本の人生相談で関心を持つところは世代によって異なるものなんですか?

●第4章の「おカネに縛られずに生きる」というのが惹かれました。

●40代後半ですが、圧倒的に第3章「家族とパートナーシップをくみかえる」がおもしろかった。というのは、その他の章というのはステレオタイプで聞かれるのですが、この章だけは他の章と異なる印象というか、インパクトがあります。たぶん、他の章はそれを突き抜ければ何とかいけそうなんだけれど、この家族の問題だけは切実で、それこそわかってはいるけれどできないというか、直視できない。けれど、それを突破する痛快さがありました。

●60に近い年齢ですが、子どもが30代なので、第4章の「おカネと仕事にしばられずに生きる」ですね。共感できる。たしかに、先ほどの意見にもあったけれど、観たくないんだけれど、答えを読むとつらくて読めないんだけれど。

●60代だけれど、次々と職探しに苦労している親戚の子を念頭に置くと、第1章「人生の不安をふりきる」と第2章「わかりあえない関係を生きる」を読ませたいと思っていました。けれど、だんだん先を読み進めていくと、第3章第4章なんて、読ませちゃまずいんじゃないかと思うようになった。キケンすぎる。けれど、やっぱり第3章が一番面白かった。自分も60歳になったら、家族を解消したほうがいいんじゃないかなと思っていたので、それをまさに論じているところがあって共感しました。

●なぜ、60歳になったら家族を解消したいと思ったんですか?

●それまでは子どもに対する責任があるけれど、人まず親の責任を果たし終えたところで、夫婦で我慢してきたところをいったん解消して、お互いに自由になろうと思いまして。

●60で夫婦関係を解消した後、もう一度同じ相手とパートナー関係をもちたいですか?

●なりたいですよ。相手次第ですが。

●著者から各相談内容と世代の関心をリンクさせる質問が出されたのは意外でしたが、そういう意図があって編集したんですか?

●以前、この本を何人かの人に読んでもらったところ、たまたまか年齢の違いによって関心を持つ相談内容が違うことがあって、それが印象に残っていたからです。特に編集上、世代によって関心事が異なるかどうかまでは意図していなかったと思います。この場では、割と年配の方から本の人生相談に関して意見が出されましたが、それを聞いて若い世代の方々はどう思われたのでしょうか?

●私は20代で、割と妊婦さんや母親が来る職場なんですが、113ページを読むまでは、出産とか子育てを幸せだと思っていたんだけれど、色々読んだり意見を聞いたりする中でわからなくなりました。

●読んでいてつらいところもあるのですが、若い人ほどすっと読めると思う。というのも、年齢を重ねると色々な経験を重ねていくので、この本で引っかかる場面が多くなるような気がする。人生相談の回答コメントを読むと、わかっているんだけれどできない自分がいます。ただ、それが第1章、第2章、第4章は割り切れればいけるところがあるけれど、第3章はちがう。あまりにも自分の現実的な悩みに近すぎて生々しすぎる。その中で、特に家族を相互扶助の保険契約システムという考え方がとても興味を持ちました。自分の親の介護とか生きづらさを考えると、その意味がよくわかる。でも、「わがまま」に生きることにうらやましさを感じてしまう自分がいます。

●58ページにある「自己本位」と「わがまま」がイコールにならない。「自己本位」の人のように他者の自己本位を尊重できるということなのでしょう。

●「わがまま」という言葉は、やっぱり一般的にはネガティブなイメージがあると思います。それをポジティブな意味に反転させているところに本書の意味はあるんだけれど、僕にとって、他人の自己本位を認めながら自己本位に生きている人のイメージは、まさに佐藤さんなんですね。

●「わがまま」の意味をネガからポジに反転させているというのは、そのとおりだと思いました。204ページにある「生き方の大転換が必要だ」という言葉や、「時代の転換期」という言葉に、今まで安定していた環境が変わってどれが正しいかわからないという意味で、「わがまま」に生きるのが最適な生き方になったという意味なのではないでしょか。

●私の人生の大転換期として、38歳のころに一人になりたいという欲求が生まれたんですね。それまでは一人になりたいという欲求が生まれるのは、妻の他に好きな人ができたとか言われるんだけれど、そうではなくて単に「一人になりたい」という欲求が生じた問題を研究してみたことがあります。それについて文章に書いたのは男性にはいないけれど女性にはいたんです。その代表的な人はバージニア・ウルフ。そういう心を持っている人がいるのだということを知って、自分の中に持っている感情をうまく肯定できたんですね。そのことを考えてみると、世の中に示しちゃいけないという感情があると思うんですが、それについては皆さんはどうですか?たとえば、与謝野晶子の「君に死に給うことなかれ」という発言がそうだと思うんですが、戦争時代には「そんなこといっちゃいけないだろう」という世間一般の圧力がある。けれど、そうした思いを声にだせないという問題をどう考えるか、ということなんですが。

●そんなのいっぱいありますよね。実行したら犯罪になるということもあるし。文化の中によって言っちゃいけないこと、やっちゃいけないこともあるわけで。それを全部言ってしまえばいいのかと疑問に思う。賛成する人もいれば不愉快に思う人もいるし。苦労しなきゃイイ人になれないという世の中の価値観があるじゃないですか。だから、ぐっとその思いを我慢しなければいけないと生きていかなければならないと思います。

●最近、印象に残った言葉の中に、「しょせん、人生は芝居でしょ」というのがありました。つまり、役割を演じているのが大半で、対外的には制度・慣習の枠組みの中に合わせて生きている。でも、自分の中ではもっとこうした方がいいのにということが、先ほど60歳になったら家族は解散することを制度化した方がいいということにつながったんです。

●40代前半ですが、一番面白かったのは「家族の卒業」で、それを子どもの立場で親に言うことは想定していなかったけれど、子供世代からではなく親世代の方から家族の卒業旅行をしたという話が提起されたことが印象的でした。「わがまま」に関して言うと、「自己本位」になることで誰かを翻弄するかもしれませんが、そうすることによって救われる人もいる。「わがままな人」は、他者を責めない人が多い気がします。我慢している人ほど他者を批判するような気がしていて、それはなぜかというと自分を抑圧しているが故の結果なのだと思うのです。その点、「自己本位」になれる人は、自分が解放されている分だけ誰かを縛る欲求が生まれないのではないでしょうか。それと「わがまま」には、自分の中でもっている「わがまま」という感情と、次にその「わがまま」を他者に対してどう表現するかという2段階があると思います。この本で論じられている「わがまま」は、その第2段階だと思います。

●難しいところは、「俺、一人になりたいんだよ」といわれたら、妻は衝撃を受けるんだと思うんです。こうした人生の問題についてパートナーと一緒に考えるときに、私は3人以上の中で話し合わなければいけないという原則を持っています。つまり、一対一の対話では、どうしても行き詰ったり、関係を悪化させてしまう対話になってしまうんですね。
●その場合に、三番目の人はどう選ぶのですか?

●離婚の危機の時は親友を呼びました。家族の問題に関しては家族だけで話し合うのは難しいです。

●今の話を聴いて、私にも同じようなケースがあって、夫と二人で話すとわがままになり、話し合いをファミレスでするようにしたんですね。そうしたら夫は紳士的に話したので、誰かの目の届かない二人だけの空間では、暴力的にわがままになってしまうというのは経験的に理解できます。

●それに関して言うと、私には「神様」がいて、「神様」がいると想定して、つまり自分たち夫婦の間に自分たちを超えたものを想定して話しています。

●今の意見でまた思い出したんですが、私の頭上から光のシャワーがあると思っていて、その光のシャワーが降り注いでいると感じるときには、誰かの眼がなくてもお互いに冷静に話し合えるということがあります。

●一応、哲学的なことを言うと、アリストテレスという人は家族の関係は独裁的になるといっていますが、それは公的な光が届かない領域だからというのですね。その公的なものというのは今おっしゃったように、家族にも光を照らせばそうした危険性を回避できるのかもしれませんね。

●今の話で思い出したのは、コールバーグの道徳性の発達の理論です。これは、簡単に言うと道徳は下のレベルから言うと怒られるから善い行いをする、次に他者(世間)の目を気にして善い行いをする、最終的には神の目お天道様が見ているから道徳的にふるまうという段階に意識は発達するという理論です。その光のシャワーというのは、そこで言い神様やおてんとうさまのイメージなのかなと思いました。

●そこでいう「光」というのは見られているということだと思いますが。それは常識の範囲内でふるまうということになると、わがままにふるまえないということではないですか。すると、「光」と「わがまま」にふるまうということとは、どう関係するのでしょうか?

●光のシャワーのレベルは、夫の要求にしても魂のレベルで合意ができたねという経験をしました。

●今までの話を聞いていると、自分が常識的なものにとらわれているから、逆に「わがまま」にふるまえる人を羨ましい思う気持ちが働き、自分を「わがまま嫌い」にさせたのではないかと思いました。

●わがままに生きたいし自己本位で期待と思うけれど、それを邪魔しているものは何かと思うと、世間だったり慣習だったりが邪魔するんですよね。じゃ、それがなくなっていいのかといえば、それはないでしょう。自分自身の声が聞こえてくると書いてあるけれど、40歳後半になってもそれが明確に聞こえてこない。じゃ、それらを全部一蹴できるかというと、それもできない。そのせめぎあいなんですね。だから、「自己本位」とか「わがまま」ということが問題化できる。でも、皆がわがままに生きちゃったら「わがまま」が成立しないんじゃないかな。皆が「わがまま」に生きたら、「わがまま」に生きられないということになるんじゃないか。

●いや、むしろみんなが「わがまま」に生きるようになったら、それを超えた何かが出てくるのだと思う。みんなが「わがまま」になって肯定しあって、それが肯定して成り立つ社会になったならば、次に出てくるのは、いま私たちが考えてくる「わがまま」を超えた何かが出てくるのではないでしょうか。

●今の議論に出ている「わがまま」は、「自己本位」を意味しているのでしょうか。それとも、ネガティブな意味での「わがまま」なのでしょうか。

●たしかに混乱して「わがまま」という言葉を使ってしまいましたね。最初は「自己本位」という意味での「わがまま」だったのですが、後半はごっちゃになってしまっていたかな。

●ちょっと、自分を抑圧しているものを捨てきれない。それを本当に捨てきっちゃっていいのかと考えちゃうんですね。世捨て人になりたいとは思わないので。

●ここに集まっている人は、「わがままな人」が多いと思いますが、みんな本当に自由になりたいんでしょうか?僕は、ちょっとだけ日本は自由になりたい人が増えてもいいと思うんですが、自由になんかならないで楽したい人って多いんじゃないかな。皆が自由になりたいということを前提として話し合いを進めていること自体がおかしいんじゃないかな。

●それぞれが思うように生きることができるというのが「わがまま」なんじゃない。だから楽をしたいということも含めて、それを選んでいるのが「わがまま」ということでしょう。

●自分で決定することが「わがまま」なんだと思うけれど、決定したくない人が多すぎるような気がする。

●「楽だから自由なんていらない」という人が増えれば、今の政権のトップが正しいんだという人が多くなって、結局、全体主義みたいな事態になりかねないんじゃないでしょうか。

●僕は〇〇長とか総理大臣なんか、とてもなりたいと思わない人間なんです。それはなぜかというと、「わがまま」には次元があるんじゃないかと思うのです。自分の人生については「わがまま」になれるけれど、首相をするレベルでそれを実現してしまっては、膨大な他者を傷つけてしまうでしょう。だから、どう公平にふるまおうとしても首相になった以上、1億3千万人全員に公平に振舞うことは不可能です。ある政治家と会合を持ったとき、「あなたはもしかして政治は全員が幸福になるような営みだと思っているんですか?それは勘違いですよ。政治は誰かの犠牲の上に成り立っているんです」と言われたことがあります。つまり権力を行使するというレベルで、「わがまま」を実現するととてつもない加害者になってしまう。実は、若い人が自由を放棄するというのは、「楽だから」というよりも、この「わがまま」を行使するレベルを混同してしまっていて、自分が他者を傷つける加害者になるくらいなら被害者でいた方がいいという思いの現れなんじゃないかな。

●たしかに、決定しなければならない問題を他者に譲っちゃったり、決めたくない、決めなくて楽でいられるという風潮は、決定することは他者に迷惑をかけるという葛藤が若い人の中にあるのかもしれません。

●断ってもいいんだということを知っているのと知らないで育つのでは大きな差があります。お見合いは断っていいんだということを知っていれば、断っていたのにと、お見合い結婚した自分の経験を思い出します。人と人とのコミュニケーションを育てずに生きてきちゃうと、自分のわがままをニュートラルに出せないのかなと思いました。

●「断ることもできたんだ」と選択肢の問題は、ブラック企業の問題でもありますね。そこから抜け出ることも難しいし、エネルギーが要りますよね。それに疲弊し、「仕方がない」と悶々と毎日を過ごしている若者が多いと思いますが、ただ仕方がないんだというんじゃなくて、自分だけじゃなくてみんなで変えようという動きが労組なんかと相まって動き出さなきゃいけないと思います。

●私の研究したところによると、過労死してしまった人の多くは、「いやだ」という感情を持たないで、「申し訳ない」と思うようです。ある女性が「生きるということは社会的義務を果たすことだ」と私に話してくれたことがあるのですが、じゃ、それを果たした先にあなたの人生の何があるんだと絶句してしまったことがあります。

●「わがまま権」があるのに、それを知らずに行使できない状態があまりにも日本は多すぎるんじゃないかな。

●農家がみんな自民党を支持することとも関係すると思います。自民党を支持しなくてもいいということを知らないんじゃないかとしか思えないんですよ。TPPなんて自分たちを苦しめるような政策を決めた政党を、なぜ選ぶのか理解不能ですが、たぶん彼らは「選ばない」という選択肢を知らないだけなんじゃないかとしか思えないんです。

●選択権があるのに行使しないということには共感します。その業界の分断を生んでいるのは事実です。

●そもそもどっかでみんな加害者意識を持っているがゆえに、わがままを攻撃しているのではないでしょうか。生きづらさはわかっているけれど、その加害者性を知っているがゆえに黙ってしまうのではないか。

●時間も少なくなってきました。最後に聞きたいのですが、この本は制作するにあたって世代間の差を意識したのですか?

●制作した当初は、それを想定したんだけれど、生き難さという問題は世代間の差ではないということがわかりました。よく若い世代は年配の世代の話なんか聞いていられないというし、上の世代は「今時鵜の若い者は」と言いがちですが、問題に対して世代間の経験の違いはあるけれど、問題それ自体を考えること自体には世代の差はないということが、この出版計画を通じて発見したことでした。

●私自身は世代によって考え方の違いはあると思います。世代の持つ悩みというのは実際のところあると思います。私は40代ですが、若い世代が直面しているブラック企業の問題なんかはわからないし。

●だから世代の違いというのは問題のぶつかり方なんだろうということですね。

●「わがまま」を抑えきれるというのは、どういうものなのかなと聞きたいです。つまり、自分の「わがまま」を、皆さんどうやってコントロールできているのかなというのが一番気になっています。

●20代です。公私ともに「わがまま」だと思いますが、「わがまま」であることを「わがまま」だよと突っ込んでくれる人がいるから、自分は「わがまま」にふるまえていると思います。

●私は自己決定を大事にしてはいるけれど、あなたは「わがまま」だとよく言われると、そうかと気づかされる。

●40歳になったばかりだけれど、30歳まではレールの上を歩かされてきて、その抑圧者であった祖父が死んだことで、家族全員が解放されました。それ以来、「わがまま」になりすぎて、こまっちゃっているんですけれど、40歳になったことで、わがままを応援し、認めてくれる年上の人も多くて、それで今は逆に「わがまま」をどうすればいいんだろうと悩んでいます。決められていた方が楽だと思うようになっています。

●自分をコントロールできる力ということで、自分の場合は人に決めてもらった場合は、他人のせいにできるけれど、自分で決めると不利益は自分で責任を取らなくてはいけないし、それが不安で怖いのでそれを避けています。被害者感覚の方が,後でつらいことがあったときも人のせいにできるということです。
(文:渡部 純)
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てつがくカフェ@ふくしまへの提言

2016年05月08日 01時03分04秒 | 参加者感想
4月の「私にとって〈哲学〉とは何か?」を終えたあとに、ある参加者の方からてつがくカフェ@ふくしまの運営について、貴重なご意見を長文で送っていただきました。
前回の議論に関する意見も含め、運営そのものへの貴重なご指摘もあり、世話人として反省させられました。
ご本人の承諾も得て、記事としてアップさせていただきます。
これに関する世話人の回答はもちろんですが、お読みになられた方のご意見もコメント欄にどしどしお寄せいただければ幸いです。


いつも哲カフェを楽しみに参加しています。毎回毎回参加できれば何よりなのですが、あいにく仕事等の都合でそれも叶いません。
なので、参加できる日はとてもわくわくしながら向かっています。
テーマについて、どんな話が聞けるのか、また自分はどういう風に思っていて、それが哲カフェでどのように化けるのか・・・・(考えは毎回自分の中で変幻自在に姿を変えるのです(笑))
また、いつものメンバーに久しぶりに会えることも楽しみですが、どちらかといえば初めて参加される人がどのくらいいるのか、その人からどのような意見が出るのか、ということに哲カフェの魅力を感じています。哲カフェの存在を何で知ったのか、どう思って参加してみたのか、今回のテーマについてどう考えているのか。(二次会に参加するならどこで何をしている人なのかとかも)
どんな立場の人でも入ってきて、話が出来る空間を作ることは出来るか?という議論に前回なりましたね。
公共性のある空間でしたでしょうか?
自分の立場や相手の立場を無視できるなら可能かも知れませんが、それは実際には難しいのではないか・・・と思った記憶があります。
哲カフェはそれを実現できる空間となり得るのか。でも、それを目指す空間である、ということはすごく素敵なことだと思うのです。
私が何より、‘哲カフェ’が好きなのは、思考をする、そしてそれについて純粋に意見を交換し合うだけの‘場’であるからです。
馴染みの人たちと会うだけなら、それはサークル活動であり、個別に連絡を取って飲むなり食事をするなり集まればよい話です。
でも、それは‘場’ではないですよね。

哲カフェは毎回異なる、不特定多数の老若男女も専門家も素人も関係なく集まって、一つのテーマについて話ができる空間というか次元というか。そういう認識をしています。
前回の哲カフェで誰かが、哲カフェはあくまでも‘場’であって、集団ではない、と話していたのがすごく印象的でしっくりしたので‘場’という言葉をつい使いまくってしまいました(笑)

ただ、哲カフェを‘場’とすることが出来るのは、いつも紙に書いて配布される、哲カフェでのルールとファシリテーターの存在によるものが大きいことも事実だと思います。
理想を言えば、この両者がなくても成り立つのが究極の哲カフェなのかも知れませんが、やはりそれは無理ではないかと思っています。(そもそも無しでやれるものですか?純粋な疑問です)
それくらいこの二つの存在は大きいのだな、と私は哲カフェに行き始めた最初の頃から感じています。特にファシリテーターについては、誰にでも出来るかもしれない、私もできるかもしれない。
でもやはり出来ないと思うのです。
あるテーマについて話しているとき、自分が考えていることを話し始めると、どうしても人には“色”が出ます。
濃淡にかかわらず、必ず。
でも、全体を仕切るファシリテーターに色が出ると、それは哲カフェ全体に影響を及ぼす色になりかねません。ファシリテーター本人に意図があろうが無かろうが関係なく、です。
私がファシリテーターをすると、自分の色を消すことは出来なそうだな、と思うので無理だと言っています。
あくまで無色に徹する存在。
私はファシリテーターがそういう存在なのだ、すごいなぁと毎回思って参加してきました。
もし、本来はそういうものではないのだ、そういう絶対条件は無いというなら、今まで書いたことは私が今まで哲カフェに参加してきて捉えた像、だと理解してください。
それらを踏まえて前回の哲カフェで感じたことが多少なりあったのでまとめてみました。

(1)開始時に、哲カフェについてのルールを説明していない気がします。
いつも、新しい人が入ってくることが前提なので、どんなに顔なじみばかりでも、一通りのルール説明はあるべきだと思いますが、どうですか?始まる前に滑り込みセーフで間に合ったと思っていましたが、もしもうすでに終わっていたのなら謝罪して撤回します。

(2)始まってから最初の発言時に、軽く名称の自己紹介が無かった。
たぶん、一言言ってから始めないと、常連さんは忘れがちです。
でもこれも(1)と同じで知り合いばかりの中に来た、と初めての人に誤解されてしまいかねないと思います。
私がもし初めての場所で、『ここは知り合いばかりが集まっているところなんだな』と感じたら、次から行くのはたぶん止めます。

(3)ときおり、言葉の意味の確認やそこまでの意見のまとめがほしい。
今回使わせてもらった“公共性”とか。
専門的な意味がわからないと、字面や音で捉えるしかなくなり、意見に対してきちんとした返答が出来ない不安にかられます。
あと、いろんな方向に意見が発散し始めると、『いまどこにいるんだっけ?』と思考が迷子になります。
今はこんなところにいますね~、今の発言はこういう意味でいいですか?など小さいまとめが入ってくると、何を話そうか戻ってこられるのでありがたいです。ホワイトボードはかなりありがたいです。

(4)やはり時間はきっちり終わり、全体的な一応のまとめがないと。
哲カフェは2時間で終わるからこそ、どう議論を展開しようか頭をフル稼働させます。
最後の方は、まだ発言していない人に発言を譲ろう、と考えている時もあります。
みんな話し始めると話題が尽きなくなるでしょう。でも、それはその後も継続して話し合う場所があるのだから、そちらでやれればよいですよね。ついでに、まとまらなくでも落としどころである程度まとめはほしいです。
今日の全体はこんな感じだったねーくらいでいいです。

(5)最後は、まだ発言していない人に話をふって、全員発言できるチャンスを作るべきでは。
慣れている人は話せても、なかなか声が出せない人もいるはず。
初めての人は特に。
感想でもなんでも、今日来てどう思ったでもいいですが、一言いかがですか?のチャンスは必要だと思います。
それでも、発言しない・したくないならそれは個人の問題なので無理に話して貰う必要はありませんが。
私はそれを楽しみにしている部分もあるので書きました。

 今回のこれは、文句を言っているわけではないです。
本当に誤解をされたなら謝ります。文句ではありません。今までとなんかやり方違うなぁ、と思ったことを述べただけです。
最初から、本来はこういうものだったのだ、私が誤解していただけとか、これをしなきゃいけないというものではないからやらなかっただけ、というなら、別にいいです。
ただ、今までのやり方が個人的に公平で良かったなぁ、と思うので続けてもらえるならその方がいいな、と思っただけです。
集団ではない以上、毎回人も入れ替わるし、そのつどやり方も色々変わるでしょうから、そうなったなら、なったで‘場’としての哲カフェが保たれるならば、構いません。
ただ、いままではこれをやっていたけど、これからはやりませんよ~くらいの連絡がほしいです。
個人の色の話もそうです。そういう展開にしたいのならば、別に文句はありません。
ただ、そう言う方向に展開する旨を、最初に一言言っておいて欲しいと思います。
まぁ、言ったところで議論がそちらに進むかどうかは不明でしょうが。

たまにしかいかないから、わかっていないんだよ、といわれてしまえばそれまでですが、そういう場所ではないはず。
初めての人も常連さん(この表現もおかしいですが)も等しく毎回が初回、という場を保って欲しいなぁと思うのです。
私たちは毎回取りまとめ役の皆さんが苦労して作り上げてくださった‘場’にただ乱入するだけで何もしていないので、えらそうなことをいうつもりはありませんが、哲カフェ@福島のファン(あの空間のファン)の一人として?とりあえず言うことは伝えないとなぁ、と思い今回こんな感じで文章にしました。
本当は口頭でお話したいですが、じっくりと話す時間が毎回なくて。今回もあまりなくて。
でもお伝えしたかったので。
人も時代も経過とともに変わるものですが、哲カフェ@福島のスタイルは最初から変わらずにあってほしいという意見です。
あたらしいものを取り入れてより良くしていくのに反対しているわけではありません。
しつこくいいますが文句じゃありません(笑)
これからも宜しくお願いします。
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第8回本deてつがくカフェのご案内

2016年04月10日 11時42分55秒 | 開催予定
本deてつがくカフェとは
「本deてつがくカフェ」とは、あらかじめ課題図書を選定し、事前にそれを参加者全員が読んできて、その作品に含まれる哲学的テーマについて語り合う会です。文学鑑賞会とはちがい、作品論や作家論を論じ合うのではなく、その作品が取り上げている哲学的テーマについて、対話を通じて掘り下げていこうとする試みです。

【課題図書】多世代文化工房著「わがままに生きる哲学」(はるか書房)
【日 時】 5月7日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



今回は、多世代文化工房著「わがままに生きる哲学」(はるか書房)を課題図書とした哲学的対話を試みたいと思います。
この本は、6人の「ソクラテスたち」による人生相談という形式をとりながら、現代社会の生き難さをめぐって「わがまま」に生きることの意味を哲学的に考えることを目指しています。

「転職を繰り返しています。私は社会の落ちこぼれなのでしょうか?」
「18歳で人生の先が見えました。」
「本当に実感できる「幸せ」とは、どうやったら手に入るのでしょうか?」
「LINEの書き込みや返信で、けっこうストレスがたまります。」
「親から逃げる人生だってアリであってほしいのに。」
「最近、自分がゲイであることが友達にわかってしまいました。」
「子どもをもちたくないと思うのは「不自然」なことなのでしょうか?」
「家族に卒業はないのですか?」
「親の介護をどうやって乗り切っていったらいいのでしょうか?」
「仕事にやりがいを感じなければいけないのでしょうか?」
「就職活動で何社も不採用になり、落ち込んでいます。」
「今の意欲の湧かない仕事を辞めても生きていける方法はないでしょうか?」

などなど、これらの人生相談に対してどのように「ソクラテスたち」が答えているのか?
そして、読者はそれに対してどのように考えるのか?
「哲学」といっても、誰にでも読んでもらえるような内容になっていますし、気軽にお読みいただける内容となっていますので、ぜひ皆さんで「わがままに生きること」の意味を考えてみましょう!


なお、福島市内の西沢書店大町店と北店で4月中旬より店頭販売をしていただけることになりました。
こちらでご購入できますので、よろしくお願い申し上げます。

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