てつがくカフェ@ふくしま

福島市で哲学カフェをゆるゆるやってます。専門知識はいりません。
身近な哲学的問題をみんなで考え語り合いましょう!

第37回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「〈不倫〉はイケナイのか?」―

2016年05月21日 08時48分47秒 | 開催予定
           

【テーマ】 「〈不倫〉はイケナイのか?」
【日 時】 6月4日(土)16:00〜18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
 懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。

【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


芸能人の〈不倫〉が世間をざわつかせています。
それも、なんだか必要以上に過熱したバッシングで。
いつから日本人はそんなに倫理的になったのでしょう。
というわけで、ここはひとつ〈不倫〉とは何かを問いながら、それがなぜイケナイのか、ほんとうにイケナイことなのかをキワドク問い直してみたいと思います。
不倫中の方もそうでない方も、こぞって集まって考えましょう。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人 小野原 雅夫 ・ 渡部 純 ・ 杉岡 伸也
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平井有太『ビオクラシー』に哲カフェのインタヴューが載りました!

2016年05月20日 12時46分55秒 | メディア掲載

第五回シネマdeてつがくカフェを開催した際に、ラッパーのアナーキーをゲストに招くなど、色々と尽力して下さった平井有太さんが、このたび『ビオクラシー 福島に、すでにある』(SEEDS出版)を出版されました。
冒頭から、あのムヒカ大統領との突撃インタヴューが掲載されるなど、文句なしに面白い内容になっています。
この本は、福島をめぐって様々な文化が新しく立ち上がっている場面を、その活動を担う人々に対するインタヴューを通じてユニークに紹介しています。
その中に渡部のインタヴューを通じて「てつがくカフェ@ふくしま」の活動が紹介されているのです。


インタヴューといっても、その文体は箇条書きにされており、若干の違和感があります。
けれど、しばらく読み進めていくと、それがどこかラップのリリックのように響いてくるのです。
たとえば、

てつカフェ、最初は人がこないと思った。
「二人でしゃべろう」と言っていた。
蓋を開けてみたら、結構来た。
「てつがく」の言葉は、あった方がいいのか、ない方がいいのか。
それで敷居が高く感じられたり、だからこそ人が来たり。


いかがでしょう。
なんだかノリノリのラップにのせた詩的なリズム感ですよね。
もちろん、実際のインタヴューはこんなノリノリであるわけがありません。
これも平井さんの思考のリズムの反映なのでしょう。

他にもてつカフェゆかりの方々のインタヴューが載っています。
本deてつがくカフェでお世話になっていたサイトウ洋食店の齋藤正臣さんは、ムヒカ大統領と同じ見開きに紹介されています。


第二回アートdeてつがくカフェでお世話になった、はじまりの美術館館長・岡部兼芳さんも載っています。



店頭販売はこれからのようですが、ぜひ多くの方々にお読みいただければ幸いと思い、ここに紹介させていただきます。
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第6回エチカ福島のご案内―「金山町で未来を、日本を考える」―

2016年05月09日 16時25分24秒 | エチカ福島
世話人・渡部が共同代表を務め、小野原がアドバイザーを務めるエチカ福島という団体があります。
その第6回目のイベントが5月21日(土)に開催されますので、ここにご案内申し上げます。



「金山町で未来を、日本を考える」
日 時:2016年5月21日(土)14時〜17時
場 所:福島県大沼郡金山町生活体験館
発表者:押部邦昭さん(金山町役場復興政策科の方です)
申 込:不要
費 用:資料・飲み物代100円
連絡先はethicafukushima@gmail.com


以下は、今回のイベントの趣意書です。ご覧の上、多くの皆様にご参加いただければ幸いです。
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第6回エチカ福島が迫っている。5月21日、金山町。
金山町は人口2000人強。高齢化率は60%に近い。
僕がそこに暮らしていた30年前は30%で、その頃は日本社会を先取りしていると言われていた。
同じ頃、都会ではバブルに浮かれていた。
しかしこの町に暮らす僕たちは、真面目にこれからの僕たちの生活を見直さなければならないと思っていた。
その頃若かった僕は、それはおカネというもの価値について考えることだと思った。

金山町は只見川沿いにある。
只見川は戦後復興から経済成長をささえた電源開発の舞台である。
只見町、金山町、三島町には巨大なダムが林立する。
ダムができる前は、谷あいの寒村であったろう。
狭い耕地に農作を行いつつ、木を育てて生活をしていたという。
しかしダム建設はその生活を一変させる。
ダム建設のために鉄路も作られ、それが只見線となる。
新しい道路、新しいトンネルが作られる。
そのための労働力が必要となり、町には多額のダムの補助金がもたらされ、人びとがここに集まって来た。
やがて電源開発政策は原発にシフトしていく。
工事の需要も減り、補助金も減額される。
それに加えて、木材需要が輸入木材によって激減してしまう。
かくして急激な過疎化が進んでいく。
30年前には、三島町では付加価値のある木材を商品化しようと試みられていた。
金山町のこの自然そのものを資源とした金山町の「自然教育村」という試みは、自然と自然に培われた生きる知恵に基づいた人々の生活、その蓄積としての歴史を、根無し草の都市生活者に「教育」をしてあげようという意味だと僕は解釈し、実に痛快に思った。
どこの田舎も観光リゾート一色で、有り体に言えば、都市生活者の落とすカネをあてにしようといた。
そういう試みの多くはバブルとともに潰えた。
さて、金山町の「自然教育村」はどうだったのだろうか。
残念ながら目覚ましい成果を上げたという話は聞かない。
しかし、僕はその考え方にこそこれから僕らが目指すべき社会のヒントがあると思う。
つまり、田舎にこそ人間の生活の豊かさがあるという発想である。
もちろんその豊かさとはカネとは別の価値である。

金山町の人口は30年前に比べて3分の2に減少してしまった。
ある時期、ダムやそれに関係する工事によって人口は急増したわけだが、現在の人口はダム以前の人口をも下まわってしまっている。
ダムなどの工事やダムの補助金は、財政をバブルのように膨らましたただろうし、工事の労働賃金は農作や木材生産のもたらすカネとは比較にならなかったはずだ。それは町にとって間違いなく恩恵であった。
しかし、やがて補助金というバブルも工事の需要もしぼんでしまった。
これは金山町だけの話ではく、日本中の中山間地域をはじめとする、いわゆる田舎が抱える問題だ。
田舎が自活する術を講じさせないような政策が続けられた。
田舎の自治体の首長の多くが建設土木関係者であることは象徴的だ。
しかし、おそらくは田舎の再生のカギは、建設や土木の需要をもたらす誘致ではないと思う。 

深瀬幸一(福島県立橘高等学校教諭)
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第8回本deてつがくカフェ報告―『わがままに生きる哲学』―

2016年05月08日 18時39分06秒 | 本deてつがくカフェ記録
今回は、この4月に出版されました、多世代文化工房著『わがままに生きる哲学』(はるか書房)を課題図書とした哲学カフェを開催しました。
参加者は24名。
その中には、著者である佐藤和夫さんと片山南美子さんにも参加していただき、「わがまま」な議論が展開されました。

 

●僕はわがままな人が嫌いで、職業上わがままな人に振り回されているんですが、皆さんは「わがまま」を好意的に受け取っているのか、そうではないのか。そこをまず確認させてもらえばなと思います。

●なんで嫌いなの?

●常にわがままな人にはふりまわされて、結局その人の「わがまま」を追認させられるというか、そんな否定的なイメージしかないです。

●僕も大人の「わがまま」は嫌いですが、子どもの「わがまま」は、まぁ受け入れられます。今回の哲カフェに参加するにあたって、「わがまま」っていったいどういうことなんだろうと始めから考えて読みましたが、僕も人生相談を読むのは好きで、新聞なんかではお気に入りの人の時しか読みません。この本の場合、三人くらいが回答者となっていてこれまでの人生相談とは異なるなと思いました。実践人生経験が豊かな人ばかりが描いているのが印象的です。「わがまま」について、現代社会における問題を扱いながら各々が回答しているスタイルがよかったなと思います。結局は、「わがまま」とはあるがままに生きるということなのかな、というのが結論です。

●この本を一読してみて、読みやすかったところと、読みにくかったところに分かれました。自分に関係がなく、割と客観視できるところは読みやすかったけれど、自分自身の問題と重なって身につまされて苦しかったところは、一気に読めなかったです。外で読んだり暗くしたり読んだりしました。自分に当てはまるところが読みにくかったのは、知りたいけれど知りたくないという感情が生じるからなのだと思います。自分の悩んでいる内容について回答を読むと、理屈ではわかるけれど、「でもさ」って言いたくなるところもある。その葛藤の中で読みにくかったのだと思います。

●冒頭にいきなり「暗い時代だ」という言葉があるけれど、この言葉についてどうなのかと考えました。私が小さい頃は貧しいのが当たり前の時代で、高度成長の時代は先が開けてきたという感じがあったんですね。でも自分の子供なんかを見ていると将来が見えない。これからの若い人たちにとっては暗い時代だというのは頷けると思いました。本の最後の方を読むと、けっきょく「わがまま」に生きるということは、いろんなユニークな生き方をしなさいということなのだろうなと思いました。皆が同じ方向を目指しすぎているので、それぞれの生き方をしなさいというのは同感です。自分本位で「わがまま」を肯定する。あまり周囲に流されずに、自分らしく生きなさいと言うことなのだろう、と。

●夏目漱石の「自己本位」というのがこの本でのわがままの一つなのかなと思っていましたけれど。

●自己本位って引き受け感がある人をイメージするんだけれど、僕が「わがまま」を否定的に評価してしまうのは「自分勝手」というイメージしかないからなのかな。僕が念頭に置いているのは、未成年で、自己本位に生きることを模索する人たちは割と自分のことを責任をもって引き受けられる大人なのだと思うんです。

●その「自分勝手なわがまま」の例を一つ挙げてください。

●たとえば、「5千円もかけて行く意味がない」といって、学校行事の遠足を拒否する生徒がいるんです。それはそうなんだけれど…

●今の例で思ったのは、自分の思いを言えない人と言える人がいて、自己表現ができて自分を大切にするという点では、私はその「わがまま」を肯定したいと思います。そこには先生と生徒という立場の違いによって葛藤があるのかもしれませんが。

●自己表現があって、生徒と教師の対話が発生するというのは重要だと思っているけれど、組織の人間としてふるまわなければいけない中で、それは何とも肯定しがたい自分もいます。声を上げて社会が変わっていくということもありうることはわかるし、その理屈はわかるんだけれど……。

●子どもたちにとっての「わがまま」を取り上げるときと、大人にとっての「わがまま」を取り上げるのは違うなと思いました。「自己本位」から始めたいというのは、みんなが思っていることだと思うけれど、そこには自分のことを考えることが、同時に他人のためになるんじゃないかということではないでしょうか。そのことが、この本の全般に貫かれているんじゃないかな。この本の回答には、その意味での自己本位をもって社会の中で生きられればいいのにねというのが通底している。

●大人なら「自己本位」の意味を分かったうえで、ちゃんとやってほしいのにそういう大人が少ないということですね。子どもの「わがまま」を許せるのは、その意味を今は知らなくても、対話を通してこれから関係を作っていく途上にある人だから許せるのだと思います。でも、大人でその意味を知っている人がもう少し増えてもいいと思う。

●153ページで、「当事者にしか理解できない何か」とあるんだけれど、ここが「わがまま」のことを示しているのではないかなと思う。他者にはわからないけれど、でもどうしても他者に頼らざるを得ないもの。けれど、それがなかなか人には伝わらないものというか。

●少し話の内容が抽象的になっているので、ちょっとここで本に関して尋ねてみたいんですけれど、この本の人生相談で関心を持つところは世代によって異なるものなんですか?

●第4章の「おカネに縛られずに生きる」というのが惹かれました。

●40代後半ですが、圧倒的に第3章「家族とパートナーシップをくみかえる」がおもしろかった。というのは、その他の章というのはステレオタイプで聞かれるのですが、この章だけは他の章と異なる印象というか、インパクトがあります。たぶん、他の章はそれを突き抜ければ何とかいけそうなんだけれど、この家族の問題だけは切実で、それこそわかってはいるけれどできないというか、直視できない。けれど、それを突破する痛快さがありました。

●60に近い年齢ですが、子どもが30代なので、第4章の「おカネと仕事にしばられずに生きる」ですね。共感できる。たしかに、先ほどの意見にもあったけれど、観たくないんだけれど、答えを読むとつらくて読めないんだけれど。

●60代だけれど、次々と職探しに苦労している親戚の子を念頭に置くと、第1章「人生の不安をふりきる」と第2章「わかりあえない関係を生きる」を読ませたいと思っていました。けれど、だんだん先を読み進めていくと、第3章第4章なんて、読ませちゃまずいんじゃないかと思うようになった。キケンすぎる。けれど、やっぱり第3章が一番面白かった。自分も60歳になったら、家族を解消したほうがいいんじゃないかなと思っていたので、それをまさに論じているところがあって共感しました。

●なぜ、60歳になったら家族を解消したいと思ったんですか?

●それまでは子どもに対する責任があるけれど、人まず親の責任を果たし終えたところで、夫婦で我慢してきたところをいったん解消して、お互いに自由になろうと思いまして。

●60で夫婦関係を解消した後、もう一度同じ相手とパートナー関係をもちたいですか?

●なりたいですよ。相手次第ですが。

●著者から各相談内容と世代の関心をリンクさせる質問が出されたのは意外でしたが、そういう意図があって編集したんですか?

●以前、この本を何人かの人に読んでもらったところ、たまたまか年齢の違いによって関心を持つ相談内容が違うことがあって、それが印象に残っていたからです。特に編集上、世代によって関心事が異なるかどうかまでは意図していなかったと思います。この場では、割と年配の方から本の人生相談に関して意見が出されましたが、それを聞いて若い世代の方々はどう思われたのでしょうか?

●私は20代で、割と妊婦さんや母親が来る職場なんですが、113ページを読むまでは、出産とか子育てを幸せだと思っていたんだけれど、色々読んだり意見を聞いたりする中でわからなくなりました。

●読んでいてつらいところもあるのですが、若い人ほどすっと読めると思う。というのも、年齢を重ねると色々な経験を重ねていくので、この本で引っかかる場面が多くなるような気がする。人生相談の回答コメントを読むと、わかっているんだけれどできない自分がいます。ただ、それが第1章、第2章、第4章は割り切れればいけるところがあるけれど、第3章はちがう。あまりにも自分の現実的な悩みに近すぎて生々しすぎる。その中で、特に家族を相互扶助の保険契約システムという考え方がとても興味を持ちました。自分の親の介護とか生きづらさを考えると、その意味がよくわかる。でも、「わがまま」に生きることにうらやましさを感じてしまう自分がいます。

●58ページにある「自己本位」と「わがまま」がイコールにならない。「自己本位」の人のように他者の自己本位を尊重できるということなのでしょう。

●「わがまま」という言葉は、やっぱり一般的にはネガティブなイメージがあると思います。それをポジティブな意味に反転させているところに本書の意味はあるんだけれど、僕にとって、他人の自己本位を認めながら自己本位に生きている人のイメージは、まさに佐藤さんなんですね。

●「わがまま」の意味をネガからポジに反転させているというのは、そのとおりだと思いました。204ページにある「生き方の大転換が必要だ」という言葉や、「時代の転換期」という言葉に、今まで安定していた環境が変わってどれが正しいかわからないという意味で、「わがまま」に生きるのが最適な生き方になったという意味なのではないでしょか。

●私の人生の大転換期として、38歳のころに一人になりたいという欲求が生まれたんですね。それまでは一人になりたいという欲求が生まれるのは、妻の他に好きな人ができたとか言われるんだけれど、そうではなくて単に「一人になりたい」という欲求が生じた問題を研究してみたことがあります。それについて文章に書いたのは男性にはいないけれど女性にはいたんです。その代表的な人はバージニア・ウルフ。そういう心を持っている人がいるのだということを知って、自分の中に持っている感情をうまく肯定できたんですね。そのことを考えてみると、世の中に示しちゃいけないという感情があると思うんですが、それについては皆さんはどうですか?たとえば、与謝野晶子の「君に死に給うことなかれ」という発言がそうだと思うんですが、戦争時代には「そんなこといっちゃいけないだろう」という世間一般の圧力がある。けれど、そうした思いを声にだせないという問題をどう考えるか、ということなんですが。

●そんなのいっぱいありますよね。実行したら犯罪になるということもあるし。文化の中によって言っちゃいけないこと、やっちゃいけないこともあるわけで。それを全部言ってしまえばいいのかと疑問に思う。賛成する人もいれば不愉快に思う人もいるし。苦労しなきゃイイ人になれないという世の中の価値観があるじゃないですか。だから、ぐっとその思いを我慢しなければいけないと生きていかなければならないと思います。

●最近、印象に残った言葉の中に、「しょせん、人生は芝居でしょ」というのがありました。つまり、役割を演じているのが大半で、対外的には制度・慣習の枠組みの中に合わせて生きている。でも、自分の中ではもっとこうした方がいいのにということが、先ほど60歳になったら家族は解散することを制度化した方がいいということにつながったんです。

●40代前半ですが、一番面白かったのは「家族の卒業」で、それを子どもの立場で親に言うことは想定していなかったけれど、子供世代からではなく親世代の方から家族の卒業旅行をしたという話が提起されたことが印象的でした。「わがまま」に関して言うと、「自己本位」になることで誰かを翻弄するかもしれませんが、そうすることによって救われる人もいる。「わがままな人」は、他者を責めない人が多い気がします。我慢している人ほど他者を批判するような気がしていて、それはなぜかというと自分を抑圧しているが故の結果なのだと思うのです。その点、「自己本位」になれる人は、自分が解放されている分だけ誰かを縛る欲求が生まれないのではないでしょうか。それと「わがまま」には、自分の中でもっている「わがまま」という感情と、次にその「わがまま」を他者に対してどう表現するかという2段階があると思います。この本で論じられている「わがまま」は、その第2段階だと思います。

●難しいところは、「俺、一人になりたいんだよ」といわれたら、妻は衝撃を受けるんだと思うんです。こうした人生の問題についてパートナーと一緒に考えるときに、私は3人以上の中で話し合わなければいけないという原則を持っています。つまり、一対一の対話では、どうしても行き詰ったり、関係を悪化させてしまう対話になってしまうんですね。
●その場合に、三番目の人はどう選ぶのですか?

●離婚の危機の時は親友を呼びました。家族の問題に関しては家族だけで話し合うのは難しいです。

●今の話を聴いて、私にも同じようなケースがあって、夫と二人で話すとわがままになり、話し合いをファミレスでするようにしたんですね。そうしたら夫は紳士的に話したので、誰かの目の届かない二人だけの空間では、暴力的にわがままになってしまうというのは経験的に理解できます。

●それに関して言うと、私には「神様」がいて、「神様」がいると想定して、つまり自分たち夫婦の間に自分たちを超えたものを想定して話しています。

●今の意見でまた思い出したんですが、私の頭上から光のシャワーがあると思っていて、その光のシャワーが降り注いでいると感じるときには、誰かの眼がなくてもお互いに冷静に話し合えるということがあります。

●一応、哲学的なことを言うと、アリストテレスという人は家族の関係は独裁的になるといっていますが、それは公的な光が届かない領域だからというのですね。その公的なものというのは今おっしゃったように、家族にも光を照らせばそうした危険性を回避できるのかもしれませんね。

●今の話で思い出したのは、コールバーグの道徳性の発達の理論です。これは、簡単に言うと道徳は下のレベルから言うと怒られるから善い行いをする、次に他者(世間)の目を気にして善い行いをする、最終的には神の目お天道様が見ているから道徳的にふるまうという段階に意識は発達するという理論です。その光のシャワーというのは、そこで言い神様やおてんとうさまのイメージなのかなと思いました。

●そこでいう「光」というのは見られているということだと思いますが。それは常識の範囲内でふるまうということになると、わがままにふるまえないということではないですか。すると、「光」と「わがまま」にふるまうということとは、どう関係するのでしょうか?

●光のシャワーのレベルは、夫の要求にしても魂のレベルで合意ができたねという経験をしました。

●今までの話を聞いていると、自分が常識的なものにとらわれているから、逆に「わがまま」にふるまえる人を羨ましい思う気持ちが働き、自分を「わがまま嫌い」にさせたのではないかと思いました。

●わがままに生きたいし自己本位で期待と思うけれど、それを邪魔しているものは何かと思うと、世間だったり慣習だったりが邪魔するんですよね。じゃ、それがなくなっていいのかといえば、それはないでしょう。自分自身の声が聞こえてくると書いてあるけれど、40歳後半になってもそれが明確に聞こえてこない。じゃ、それらを全部一蹴できるかというと、それもできない。そのせめぎあいなんですね。だから、「自己本位」とか「わがまま」ということが問題化できる。でも、皆がわがままに生きちゃったら「わがまま」が成立しないんじゃないかな。皆が「わがまま」に生きたら、「わがまま」に生きられないということになるんじゃないか。

●いや、むしろみんなが「わがまま」に生きるようになったら、それを超えた何かが出てくるのだと思う。みんなが「わがまま」になって肯定しあって、それが肯定して成り立つ社会になったならば、次に出てくるのは、いま私たちが考えてくる「わがまま」を超えた何かが出てくるのではないでしょうか。

●今の議論に出ている「わがまま」は、「自己本位」を意味しているのでしょうか。それとも、ネガティブな意味での「わがまま」なのでしょうか。

●たしかに混乱して「わがまま」という言葉を使ってしまいましたね。最初は「自己本位」という意味での「わがまま」だったのですが、後半はごっちゃになってしまっていたかな。

●ちょっと、自分を抑圧しているものを捨てきれない。それを本当に捨てきっちゃっていいのかと考えちゃうんですね。世捨て人になりたいとは思わないので。

●ここに集まっている人は、「わがままな人」が多いと思いますが、みんな本当に自由になりたいんでしょうか?僕は、ちょっとだけ日本は自由になりたい人が増えてもいいと思うんですが、自由になんかならないで楽したい人って多いんじゃないかな。皆が自由になりたいということを前提として話し合いを進めていること自体がおかしいんじゃないかな。

●それぞれが思うように生きることができるというのが「わがまま」なんじゃない。だから楽をしたいということも含めて、それを選んでいるのが「わがまま」ということでしょう。

●自分で決定することが「わがまま」なんだと思うけれど、決定したくない人が多すぎるような気がする。

●「楽だから自由なんていらない」という人が増えれば、今の政権のトップが正しいんだという人が多くなって、結局、全体主義みたいな事態になりかねないんじゃないでしょうか。

●僕は〇〇長とか総理大臣なんか、とてもなりたいと思わない人間なんです。それはなぜかというと、「わがまま」には次元があるんじゃないかと思うのです。自分の人生については「わがまま」になれるけれど、首相をするレベルでそれを実現してしまっては、膨大な他者を傷つけてしまうでしょう。だから、どう公平にふるまおうとしても首相になった以上、1億3千万人全員に公平に振舞うことは不可能です。ある政治家と会合を持ったとき、「あなたはもしかして政治は全員が幸福になるような営みだと思っているんですか?それは勘違いですよ。政治は誰かの犠牲の上に成り立っているんです」と言われたことがあります。つまり権力を行使するというレベルで、「わがまま」を実現するととてつもない加害者になってしまう。実は、若い人が自由を放棄するというのは、「楽だから」というよりも、この「わがまま」を行使するレベルを混同してしまっていて、自分が他者を傷つける加害者になるくらいなら被害者でいた方がいいという思いの現れなんじゃないかな。

●たしかに、決定しなければならない問題を他者に譲っちゃったり、決めたくない、決めなくて楽でいられるという風潮は、決定することは他者に迷惑をかけるという葛藤が若い人の中にあるのかもしれません。

●断ってもいいんだということを知っているのと知らないで育つのでは大きな差があります。お見合いは断っていいんだということを知っていれば、断っていたのにと、お見合い結婚した自分の経験を思い出します。人と人とのコミュニケーションを育てずに生きてきちゃうと、自分のわがままをニュートラルに出せないのかなと思いました。

●「断ることもできたんだ」と選択肢の問題は、ブラック企業の問題でもありますね。そこから抜け出ることも難しいし、エネルギーが要りますよね。それに疲弊し、「仕方がない」と悶々と毎日を過ごしている若者が多いと思いますが、ただ仕方がないんだというんじゃなくて、自分だけじゃなくてみんなで変えようという動きが労組なんかと相まって動き出さなきゃいけないと思います。

●私の研究したところによると、過労死してしまった人の多くは、「いやだ」という感情を持たないで、「申し訳ない」と思うようです。ある女性が「生きるということは社会的義務を果たすことだ」と私に話してくれたことがあるのですが、じゃ、それを果たした先にあなたの人生の何があるんだと絶句してしまったことがあります。

●「わがまま権」があるのに、それを知らずに行使できない状態があまりにも日本は多すぎるんじゃないかな。

●農家がみんな自民党を支持することとも関係すると思います。自民党を支持しなくてもいいということを知らないんじゃないかとしか思えないんですよ。TPPなんて自分たちを苦しめるような政策を決めた政党を、なぜ選ぶのか理解不能ですが、たぶん彼らは「選ばない」という選択肢を知らないだけなんじゃないかとしか思えないんです。

●選択権があるのに行使しないということには共感します。その業界の分断を生んでいるのは事実です。

●そもそもどっかでみんな加害者意識を持っているがゆえに、わがままを攻撃しているのではないでしょうか。生きづらさはわかっているけれど、その加害者性を知っているがゆえに黙ってしまうのではないか。

●時間も少なくなってきました。最後に聞きたいのですが、この本は制作するにあたって世代間の差を意識したのですか?

●制作した当初は、それを想定したんだけれど、生き難さという問題は世代間の差ではないということがわかりました。よく若い世代は年配の世代の話なんか聞いていられないというし、上の世代は「今時鵜の若い者は」と言いがちですが、問題に対して世代間の経験の違いはあるけれど、問題それ自体を考えること自体には世代の差はないということが、この出版計画を通じて発見したことでした。

●私自身は世代によって考え方の違いはあると思います。世代の持つ悩みというのは実際のところあると思います。私は40代ですが、若い世代が直面しているブラック企業の問題なんかはわからないし。

●だから世代の違いというのは問題のぶつかり方なんだろうということですね。

●「わがまま」を抑えきれるというのは、どういうものなのかなと聞きたいです。つまり、自分の「わがまま」を、皆さんどうやってコントロールできているのかなというのが一番気になっています。

●20代です。公私ともに「わがまま」だと思いますが、「わがまま」であることを「わがまま」だよと突っ込んでくれる人がいるから、自分は「わがまま」にふるまえていると思います。

●私は自己決定を大事にしてはいるけれど、あなたは「わがまま」だとよく言われると、そうかと気づかされる。

●40歳になったばかりだけれど、30歳まではレールの上を歩かされてきて、その抑圧者であった祖父が死んだことで、家族全員が解放されました。それ以来、「わがまま」になりすぎて、こまっちゃっているんですけれど、40歳になったことで、わがままを応援し、認めてくれる年上の人も多くて、それで今は逆に「わがまま」をどうすればいいんだろうと悩んでいます。決められていた方が楽だと思うようになっています。

●自分をコントロールできる力ということで、自分の場合は人に決めてもらった場合は、他人のせいにできるけれど、自分で決めると不利益は自分で責任を取らなくてはいけないし、それが不安で怖いのでそれを避けています。被害者感覚の方が,後でつらいことがあったときも人のせいにできるということです。
(文:渡部 純)
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てつがくカフェ@ふくしまへの提言

2016年05月08日 01時03分04秒 | 参加者感想
4月の「私にとって〈哲学〉とは何か?」を終えたあとに、ある参加者の方からてつがくカフェ@ふくしまの運営について、貴重なご意見を長文で送っていただきました。
前回の議論に関する意見も含め、運営そのものへの貴重なご指摘もあり、世話人として反省させられました。
ご本人の承諾も得て、記事としてアップさせていただきます。
これに関する世話人の回答はもちろんですが、お読みになられた方のご意見もコメント欄にどしどしお寄せいただければ幸いです。


いつも哲カフェを楽しみに参加しています。毎回毎回参加できれば何よりなのですが、あいにく仕事等の都合でそれも叶いません。
なので、参加できる日はとてもわくわくしながら向かっています。
テーマについて、どんな話が聞けるのか、また自分はどういう風に思っていて、それが哲カフェでどのように化けるのか・・・・(考えは毎回自分の中で変幻自在に姿を変えるのです(笑))
また、いつものメンバーに久しぶりに会えることも楽しみですが、どちらかといえば初めて参加される人がどのくらいいるのか、その人からどのような意見が出るのか、ということに哲カフェの魅力を感じています。哲カフェの存在を何で知ったのか、どう思って参加してみたのか、今回のテーマについてどう考えているのか。(二次会に参加するならどこで何をしている人なのかとかも)
どんな立場の人でも入ってきて、話が出来る空間を作ることは出来るか?という議論に前回なりましたね。
公共性のある空間でしたでしょうか?
自分の立場や相手の立場を無視できるなら可能かも知れませんが、それは実際には難しいのではないか・・・と思った記憶があります。
哲カフェはそれを実現できる空間となり得るのか。でも、それを目指す空間である、ということはすごく素敵なことだと思うのです。
私が何より、‘哲カフェ’が好きなのは、思考をする、そしてそれについて純粋に意見を交換し合うだけの‘場’であるからです。
馴染みの人たちと会うだけなら、それはサークル活動であり、個別に連絡を取って飲むなり食事をするなり集まればよい話です。
でも、それは‘場’ではないですよね。

哲カフェは毎回異なる、不特定多数の老若男女も専門家も素人も関係なく集まって、一つのテーマについて話ができる空間というか次元というか。そういう認識をしています。
前回の哲カフェで誰かが、哲カフェはあくまでも‘場’であって、集団ではない、と話していたのがすごく印象的でしっくりしたので‘場’という言葉をつい使いまくってしまいました(笑)

ただ、哲カフェを‘場’とすることが出来るのは、いつも紙に書いて配布される、哲カフェでのルールとファシリテーターの存在によるものが大きいことも事実だと思います。
理想を言えば、この両者がなくても成り立つのが究極の哲カフェなのかも知れませんが、やはりそれは無理ではないかと思っています。(そもそも無しでやれるものですか?純粋な疑問です)
それくらいこの二つの存在は大きいのだな、と私は哲カフェに行き始めた最初の頃から感じています。特にファシリテーターについては、誰にでも出来るかもしれない、私もできるかもしれない。
でもやはり出来ないと思うのです。
あるテーマについて話しているとき、自分が考えていることを話し始めると、どうしても人には“色”が出ます。
濃淡にかかわらず、必ず。
でも、全体を仕切るファシリテーターに色が出ると、それは哲カフェ全体に影響を及ぼす色になりかねません。ファシリテーター本人に意図があろうが無かろうが関係なく、です。
私がファシリテーターをすると、自分の色を消すことは出来なそうだな、と思うので無理だと言っています。
あくまで無色に徹する存在。
私はファシリテーターがそういう存在なのだ、すごいなぁと毎回思って参加してきました。
もし、本来はそういうものではないのだ、そういう絶対条件は無いというなら、今まで書いたことは私が今まで哲カフェに参加してきて捉えた像、だと理解してください。
それらを踏まえて前回の哲カフェで感じたことが多少なりあったのでまとめてみました。

(1)開始時に、哲カフェについてのルールを説明していない気がします。
いつも、新しい人が入ってくることが前提なので、どんなに顔なじみばかりでも、一通りのルール説明はあるべきだと思いますが、どうですか?始まる前に滑り込みセーフで間に合ったと思っていましたが、もしもうすでに終わっていたのなら謝罪して撤回します。

(2)始まってから最初の発言時に、軽く名称の自己紹介が無かった。
たぶん、一言言ってから始めないと、常連さんは忘れがちです。
でもこれも(1)と同じで知り合いばかりの中に来た、と初めての人に誤解されてしまいかねないと思います。
私がもし初めての場所で、『ここは知り合いばかりが集まっているところなんだな』と感じたら、次から行くのはたぶん止めます。

(3)ときおり、言葉の意味の確認やそこまでの意見のまとめがほしい。
今回使わせてもらった“公共性”とか。
専門的な意味がわからないと、字面や音で捉えるしかなくなり、意見に対してきちんとした返答が出来ない不安にかられます。
あと、いろんな方向に意見が発散し始めると、『いまどこにいるんだっけ?』と思考が迷子になります。
今はこんなところにいますね〜、今の発言はこういう意味でいいですか?など小さいまとめが入ってくると、何を話そうか戻ってこられるのでありがたいです。ホワイトボードはかなりありがたいです。

(4)やはり時間はきっちり終わり、全体的な一応のまとめがないと。
哲カフェは2時間で終わるからこそ、どう議論を展開しようか頭をフル稼働させます。
最後の方は、まだ発言していない人に発言を譲ろう、と考えている時もあります。
みんな話し始めると話題が尽きなくなるでしょう。でも、それはその後も継続して話し合う場所があるのだから、そちらでやれればよいですよね。ついでに、まとまらなくでも落としどころである程度まとめはほしいです。
今日の全体はこんな感じだったねーくらいでいいです。

(5)最後は、まだ発言していない人に話をふって、全員発言できるチャンスを作るべきでは。
慣れている人は話せても、なかなか声が出せない人もいるはず。
初めての人は特に。
感想でもなんでも、今日来てどう思ったでもいいですが、一言いかがですか?のチャンスは必要だと思います。
それでも、発言しない・したくないならそれは個人の問題なので無理に話して貰う必要はありませんが。
私はそれを楽しみにしている部分もあるので書きました。

 今回のこれは、文句を言っているわけではないです。
本当に誤解をされたなら謝ります。文句ではありません。今までとなんかやり方違うなぁ、と思ったことを述べただけです。
最初から、本来はこういうものだったのだ、私が誤解していただけとか、これをしなきゃいけないというものではないからやらなかっただけ、というなら、別にいいです。
ただ、今までのやり方が個人的に公平で良かったなぁ、と思うので続けてもらえるならその方がいいな、と思っただけです。
集団ではない以上、毎回人も入れ替わるし、そのつどやり方も色々変わるでしょうから、そうなったなら、なったで‘場’としての哲カフェが保たれるならば、構いません。
ただ、いままではこれをやっていたけど、これからはやりませんよ〜くらいの連絡がほしいです。
個人の色の話もそうです。そういう展開にしたいのならば、別に文句はありません。
ただ、そう言う方向に展開する旨を、最初に一言言っておいて欲しいと思います。
まぁ、言ったところで議論がそちらに進むかどうかは不明でしょうが。

たまにしかいかないから、わかっていないんだよ、といわれてしまえばそれまでですが、そういう場所ではないはず。
初めての人も常連さん(この表現もおかしいですが)も等しく毎回が初回、という場を保って欲しいなぁと思うのです。
私たちは毎回取りまとめ役の皆さんが苦労して作り上げてくださった‘場’にただ乱入するだけで何もしていないので、えらそうなことをいうつもりはありませんが、哲カフェ@福島のファン(あの空間のファン)の一人として?とりあえず言うことは伝えないとなぁ、と思い今回こんな感じで文章にしました。
本当は口頭でお話したいですが、じっくりと話す時間が毎回なくて。今回もあまりなくて。
でもお伝えしたかったので。
人も時代も経過とともに変わるものですが、哲カフェ@福島のスタイルは最初から変わらずにあってほしいという意見です。
あたらしいものを取り入れてより良くしていくのに反対しているわけではありません。
しつこくいいますが文句じゃありません(笑)
これからも宜しくお願いします。
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第8回本deてつがくカフェのご案内

2016年04月10日 11時42分55秒 | 開催予定
本deてつがくカフェとは
「本deてつがくカフェ」とは、あらかじめ課題図書を選定し、事前にそれを参加者全員が読んできて、その作品に含まれる哲学的テーマについて語り合う会です。文学鑑賞会とはちがい、作品論や作家論を論じ合うのではなく、その作品が取り上げている哲学的テーマについて、対話を通じて掘り下げていこうとする試みです。

【課題図書】多世代文化工房著「わがままに生きる哲学」(はるか書房)
【日 時】 5月7日(土)16:00〜18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



今回は、多世代文化工房著「わがままに生きる哲学」(はるか書房)を課題図書とした哲学的対話を試みたいと思います。
この本は、6人の「ソクラテスたち」による人生相談という形式をとりながら、現代社会の生き難さをめぐって「わがまま」に生きることの意味を哲学的に考えることを目指しています。

「転職を繰り返しています。私は社会の落ちこぼれなのでしょうか?」
「18歳で人生の先が見えました。」
「本当に実感できる「幸せ」とは、どうやったら手に入るのでしょうか?」
「LINEの書き込みや返信で、けっこうストレスがたまります。」
「親から逃げる人生だってアリであってほしいのに。」
「最近、自分がゲイであることが友達にわかってしまいました。」
「子どもをもちたくないと思うのは「不自然」なことなのでしょうか?」
「家族に卒業はないのですか?」
「親の介護をどうやって乗り切っていったらいいのでしょうか?」
「仕事にやりがいを感じなければいけないのでしょうか?」
「就職活動で何社も不採用になり、落ち込んでいます。」
「今の意欲の湧かない仕事を辞めても生きていける方法はないでしょうか?」

などなど、これらの人生相談に対してどのように「ソクラテスたち」が答えているのか?
そして、読者はそれに対してどのように考えるのか?
「哲学」といっても、誰にでも読んでもらえるような内容になっていますし、気軽にお読みいただける内容となっていますので、ぜひ皆さんで「わがままに生きること」の意味を考えてみましょう!


なお、福島市内の西沢書店大町店と北店で4月中旬より店頭販売をしていただけることになりました。
こちらでご購入できますので、よろしくお願い申し上げます。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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第36回てつがくカフェ@ふくしま報告―「わたしにとって〈哲学〉とは?」―

2016年04月10日 09時32分46秒 | 定例てつがくカフェ記録
テーマ:「私にとって哲学とは?」 18名 場所:イヴのもり


●ストレートなテーマだけれど、自分で考えてみると、これまた難しいなと思い2,3週間考えていました。
朝日新聞で鷲田さんの折々の言葉を書かれているけれど、それを読んでいて、自分にとって哲学とは一つの答えは、自分がいま、今日存在している、生きていることに対する答えをほしがっている自分に気付いた。自分が生きていることへの応答、でもあり、その答えを問うものだなという答えにたどり着きました。

●私も問いかけという言葉がひらめいたのだけれども、自分にとって一番何が大切かと問いかけることが哲学じゃないかな。対象が自分自身ということもあるし、他者や社会全般ということにもなるけれど、そして自分の中に価値観を創り出して行動していくことが哲学になるのだと思います。

●わたしにとって哲学とは、他人を理解し、寄り添う能力を高める魔法の学問です。わたしが仕事上で関わる病気で、幻覚や幻聴の症状が著明な方がいます。最初の頃は、その方といるのが苦痛で仕方ありませんでした。何を考えているのか、なぜ声かけを無視するのか、なぜ硬直しているのか、なぜごはんを食べないのか。もしかしたら介護拒否なのかなって、行動のすべてが全くわからなかったんです。
その方の病気をたくさん調べて勉強しました。そして医療的なケアの部分はある程度は理解しました。
それでもその人との関係性は深まりませんでした。わたしはその方のこと嫌いになりそうで、なるべく避けたいと思うようになりました。
でもあるとき、食事を提供しようと用意しているあいだ、着席して待っているその方を何気なく見ると、何もないテーブルの上をティッシュで軽く叩いていたんです。まるで虫でもつぶすみたいに。わたしは近寄って「虫いたの?」と聞いて、どうせ答えてくれないから勝手に虫退治の手伝いをしました。見えないけど。そうしたらその方が、わたしが叩いていたより30cmくらい逆方向を指差して「そっちにも」と言ってくれたのでした。見えねえよと思いましたが、わたしは嬉しくて、ずっと叩きました。しばらく指示どおりに叩いていたら虫はようやく全滅したのか、初めて「ありがとう」って言ってもらえました。とても嬉しくて楽しかった記憶です。
その方には感じて、わたしにわからない、そこにいる虫や小人。でも、わたしには感じないというだけで、果たして本当にこの世界に存在しないと言えるのか。わたしが見えているその雑草だって、もしかしたらわたしの頭が勝手に作り出した映像かもしれないのに。
好きで参加していたてつカフェと自分の職業が初めてつながった時でした。その時にわたしは、きれいごと抜きに「この人の人生に寄り添える!」と思いました。その方がいると言うなら、わたしに感じるか感じないかは関係なく、いるでいいじゃないか、と。
それ以来、その方と過ごすのが楽しくなりました。毎朝「おはよう、わたしの顔みて!わかる?」と聞きます。そうすると「あなたはわかるけど、あの天井にいる人は誰?」と聞かれます。場所は天井じゃなくタンスの裏のこともあります。わたしは「誰だかわかんな〜い」と答えます。いるらしいので、いないとは言えません。見えないけど。ときどき、わたしのこともわからないみたいです。オペラ座の怪人みたいなマスクがついている日があるようです。そういうときは硬直したまま動かないので、顔を見ないでしばらく自分1人でおしゃべりしたり歌ったりします。
そんなふうに、彼女の見え方が日々わたしと全く違うことをすんなり受け入れられたのは、てつがくカフェで培った習慣のおかげだと思います。たまに本当に突飛なことを言われ困惑はしますけど、その人がわたしと同じ見え方をしていないことが、わたしには不安ではないのです。それがわたしにとっての「てつがく」の魔法です。

●存在への応答というところへ述べたので、今の意見にある他者へ寄り添うという応答という意見に僕ちょっと感動しちゃった。

●私は生きづらさとは何かと考えていた時に、語られうるものではないんじゃないかと思っていて、もしかしたらこの場に行ければそのことをかたりあえるんじゃないかと思って参加していました。言葉にならないものを言葉にする過程になのかなと思っていました。自分はどう思っていても他の人たちはどのように物事を見ているのかなと思って参加しています。

●僕は哲学をやって生きやすくなったなと思っています。哲学というのは一つは何でもいいから根本的に疑ってかかることだと思っていて、それは普通はしない。普通は常識を身に着けて大人になっていくものだけれど、常識にがんじがらめになっていたものを疑ってかかって、生きづらさが解消されているなというのが一点です。もう一点は、哲学を勉強し始めてみると、難解な哲学者がたくさんいて、哲学体系を作り上げて、そのあとにすぐぼこぼこにされる。哲学の歴史を見てみると、これしかないよという歴史を見ていると正解はないんだねということを知って楽になったかなと思っています。

●私も若干哲学の先生のところにいたんですけれど、人それぞれの悩みや常識を疑う空間が、だったので、私も田舎の常識が嫌で首都圏の大学の倫理学を受けて、パーソナルイズポリティカルという、個人の悩みは社会の問題になるということ、その常識を疑うというが好きでした。一般企業に入って考えないで生活できれば楽なんでしょうけれど、考えるようになっているというか、疑うことはしているように生きています。

●生きづらさと同じことだと思うんですけれど、若いころから世界への違和感があちこち自分の中にあって、それほど深刻なことはなくきたんですけれど、40代の時に、この世界の仕組みとか人間の仕組みってどうなっているんだろうと思い始めたんですね。それを自分で調べ始めたら、たくさんのブロックのボードゲームみたいなのがあるとしたら、次はこれが見えた次はこれが見えたという風に全体像が見えてきたら、とても楽になった。楽になって、自分の中に余裕ができて楽しさにもつながってきた。次はどのボードが見えなくなっていくんだろう、と自分の中の何かができてきて、それがボードのどこかとうまく合ったときに、ああこれかと。こういう場で私と違う人がいろいろ教えてくれることで、自分の哲学が愛と知という風に理解すると、他者の違った意見を自分に取り入れていくと自分の狭い見方がよく見えてきたという喜びがもたらされ、これから何が見えるんだろうという楽しみがあります。

●哲学って自分だけで突き詰めていくイメージがあるんですけれど、この場は他者の意見を聞きながら考えるという点で、そのイメージとは異なるものでした。

●来月でてつがくカフェ@ふくしまは5年になりますが、哲学を専門に研究していると自分で研究しているときは、それこそ自分で考える営みだったものが、やっぱり哲学カフェとは異なる。それがどう違うのか、どうつながるのかというのは、興味深いなと思っていました。なので、哲学とは何かという問いもそうですが、哲学カフェとは何かという問いについても話し合えればありがたいです。

●子供のころから人生とは何かとか考えていて、こんだけ考えているのは自分だけだろうとと思っていたんだけれど、そしたらみんな考えているんだなと気づいて、自分で考えたことは誰かが考えていることなんだなと思った。みんなこういうこと考えていたんだということを知って、安心したというか。

●「みんな」というのは誰?

●もちろん、先人とかだけれど、哲学カフェに集う人もそうです。

●それ以外の人は考えていない気がするんだけれど。

●どうかな。「みんな」って結構広げられる気がするけれど。

●私も高校時代に何のために生きるんだろうと考えて、武者小路実篤なんか読んだ気がする。

●僕が大学生のときにオウム真理教の地下鉄サリン事件があったんだけれど、あの時のオウムの若者がなぜ凶行に走ったのかというのは、直感的にわかる気がしたんですね。バブル崩壊後に学生生活が始まったとはいえ、大学はまだまだレジャーランドの雰囲気があって、それこそ『人生とは何か?』みたいな話はお互いに野暮な話だとして、話せる雰囲気がなかったんですね。でも、そういう問題を真剣に考えていきたいという若者が、オウムのような団体に回収されていったという問題は、実感としてわかる気がするんです。

●僕は大学時代にS学会という宗教団体に入信したことがあるんですね。僕は社会思想を研究したいと思っていただけなんだけれど、話を聴いて入信しちゃったんだけれど、別に悩みや生きづらさや苦しさを感じてはいったわけではなかったんですね。いいことがあったら前世の徳だと説明され、悪いことがあっても前世の魔と説明され、それってどっちに転がっても説明できるじゃんと思ったときに、脱会することができたんです。この経験を通じて、信じると疑うこと、答えをくれるのが宗教であって、それは信じなきゃいけないのが宗教だけれど、哲学はどんな大哲学者でも疑いをかけていく。最後の最後は信じるのか疑うのかというところで異なっていると思います。

●哲学やったことないので、哲学って何といわれると困るんですけれど、自分の中に最低3人の自分がいて、賛成する自分と反対する自分と斜め上から見る自分がいて、脳内会議をやって、答えを出すときってその3人4人の自分を統合する作業が哲学だと思っています。哲学カフェって普段無意識でやっているからあまり考えないけれど、ここは脳内会議を発展させられる。ここで発散するスポーツみたいなものだと思います。

●感情で動く、賛成反対によって脳内が動くだけではなく、社会的な立場で脳内会議が変わる自分がいる。つまり、自分の中でいくつか分かれていて、自分の場合答えが出なくて、それがすごく疲れちゃうんです。その時に哲学をすると楽になるとおっしゃっていましたが、常識的に考えれば楽なのに、苦しんじゃうのでここにきてその苦しみをみんなで共有したいのです。

●自分がいま置かれている状況から距離が置ける。一瞬当事者から離れられて、楽になれるという面があります。

●もしかすると、自分中心に考えちゃうから疲れちゃうのかも。

●逆に、自分のことを考えていると楽じゃないですか。他者のことを考えるとつらくないですか。

●自分のことだけ考えているときだけは楽だけれど、私は哲カフェに安心感を持って参加できるのは、自分のことだけを考えなくて済むというか。ここにくるとみんな変だから、安心できます。社会に適応していかなきゃいけない自分から解放されてここにいるときはすごく楽です。

●ここのカフェに通い始めて間もないのですが、私も学校では保健室で過ごした時間が長くて、保健室はいじめっ子といじめられっ子が一緒にいてもトラブルが発生しなかったのだけれど、それに近い気がしています。哲学ってなんだかよくわからないけれど、それでも居心地が悪いわけでもなく、なんとなくいられる。何かを得られるところが安心していられます。

●今のなんとなくいられるって、いい言葉ですね。ここでは話さなくてもいいし、場を壊す発言をしてもいいし。

●保健室の居心地の良さというのは、色々な意見があることをゆっくり思わせてくれる。そのままでOK、いていいというのが愛だと思うので、哲学の愛知ということと結びつくのだと思う。そういう組織が理想だと思う。

●これまでの意見というのは、とても肯定的で哲カフェの世話人としてはとてもありがたく思います。でも、一方で哲学の世界では、哲学カフェなんて哲学じゃないという人だっています。それで、あえて問いたいのですが、それは色々な意見が許容される空間といっていながら、誰でも参加を拒まないと言いながら、ほんとうにそうなのか。僕はそれを公共性という言葉で表現してきたけれど、じゃ誰でも参入可能という意味での公共的な空間はありうるのか、という問いです。たとえば、ヘイトスピーチのような人たちでもこの場にきて対等に対話することは可能かいう問いです。

●哲学の大学院というのは、きっちりつめて戦って自分の解釈を戦わせる議論の場なのですね。それが哲学の場だと思っていたんだけれど、これはこれ意味があって、哲学の出発点は対話だと思うから、とことん議論しあうと、それはそれで哲学のイメージに近づくんだけれど、これはこれでありかなとも思うんですが。

●そもそも公共性なんてはありうるのかと思いました。結局、公共性はあり得ないんじゃないかと思って、こういう場も含めて、こういう場に集まった人。それぞれの場が色々あって公共性なのではないか。こういう場の一つ一つの集合が公共性なのかなと思う。

●哲学カフェは福祉とか社会からこぼれた人が力をえられる場として意味があるのだと思います。どうして公共性でなければいけないのか意味がわからない。

●僕が哲学カフェを取り組むときには民主主義の危機という問題意識があって、民主主義の原点であった古代ギリシアのアテネに憧れがあって。もともと僕は公共性というのはとても大事だと思っていて、みんながとことん語り合って、何かを作っていく場を作りたかったということがある。あるべき民主主義社会につながっていってほしいと思うんだけれど、哲学カフェはそこにつながることがあるんだろうかということも思いがないわけではない。この先民主主義の再生はありうるんだろうかと思うところがあります。

●私は公共を念頭に哲学カフェが終わった後に、それが実践できるかを考えてしまう。「保健室」を出てからその先なんですよ。そこを出て何ができるか。先ほどオウム真理教事件の話がありましたが、私の場合は秋葉原事件に同情してしまったのです。民主主義が崩壊したとおっしゃっていましたが、それは対話がなくなってしまったからだと思うんです。対話がなくなったところから、それをどう再生できるかという点で、哲学カフェはとても画期的だと思ったのです。公共の場に戻ったときに、そこで哲学があるんだなと思ったときに、情があって考え方の多様性があってと考えることができる。哲学と哲学カフェの違いというのは、哲学はアカデミックな世界ですが、哲学カフェは情を感じることができる。文字は見えないんだけれど、それを言葉の端々から感じることができる。哲学カフェにはテーマに自分で考え、対話し、明日から実践に移そうという気持ちになれることが、この場の一番いいところだなと思いました。

●聞くということは、聴きあうということはそれぞれの存在を響かれるということ、それが心地よいんです。自治会でもPTAの中でもこういう対話を実践したいんだけれど、疑義を提示すると変な奴だと思われる。そうじゃなくて、色々な意見を交わしあうことで成熟して結論を出すのが民主主義。

●ハワイにも、ホーホノポノという昔から伝わる哲学があるんですけれど、みんなが同じ立場になって意見を言い合いましょうという文化があるんだけれど、日本ではそれが成り立たない。それぞれが意見を言い合える場を持つというのがとても難しくて、いつもそれを引き出せなくて悩むことがあります。みんな実は、話し合うのは面倒くさいし、誰かの指示に従った方がいいと思っているんじゃないかな。

●僕はそれは慣れていないだけだと思う。

●僕も慣れの問題だと思う。公共性という話になったけれど、哲カフェのルールに賛成できる人たちが参加できるだけだから、これは誰に対しても開かれているんじゃないかな。

●先ほど上げた哲学カフェの公共性への問いかけに関してです。そもそも哲学と民主主義のあいだには折り合いがつかないという問題があります。先ほどから上がっているように、哲学は社会の常識をラディカルに問うわけですから、そもそも反社会的な側面があります。それが民主主義とどう折り合うのかという問題がありました。でも、僕はその哲学のラディカルさは民主主義を支える上で結びつくと考えているんですね。だから、この場そのものを問い直すことだって、むしろ必要なことだし、それがなくなってしまえば単なる同質集団に過ぎないのではないか、ということです。問題は、この場が理解できない他者を排除していないだろうか、という問いを持つということです。それに疑問を付さなければ、多様な意見を保障すると言いながらも矛盾を犯さないだろうか、という問いです。先ほど、この場は参加者の意見の言葉から情を感じるという意見もありました。僕もそれは賛成します。けれど、情というものがこの場を結びつけるのだとしたら、それこそ同質集団になってしまうのではないか、という問いです。

●聞くということは相手を認めること、というのは気づかされたことで。ルールが公共性を担保するというのはその通りだなと思うけど、国会はヤジがひどくて聞きあおうとしないことが民主主義の崩壊につながっているんだと思う。聞くというができて、それは向こうにも聞くということができて、それが民主主義の再生につながるのかなと思っている。

●なぜ、意見が違うから話せないというのがわからない。

●ヘイトスピーチという話もあったけれど、いかなる団体組織があったとしても、どうしてそういう過程になったのというところに関心があります。彼らと対話することは大事だけれど、ともに考えるというヘイトスピーチという風に考えない方がうまく対話ができるのかなと思います。日本人は何かに所属していたい、守られていたい、というところがある。彼らの正当性を聴く側がどのようにしてとらえるかが大切だと思います。

●オウムもそうだけれど、どうしてそこまで行っちゃったの、というその前の時点で何かをできることがあったのでは。個人として尊重されることが成熟していないと、いけないんじゃないかな。

●個人が尊重されるということで、一人の人間として失敗することをフォローする度量があって初めて民主主義であり、公共性であると思う。

●ヘイトスピーチを悪と決めつけないのは大事だけれど、信じる人というのは信じない人を拒んでしまう。民主主義では100パーセントの答えはない。50パーセントの民主主義。

●100パーセントを目指さない。それでは全体主義になってしまう。

●もちろん、そのとおりですね。僕はヘイトスピーチの考え方をまったく理解できないし、賛成できない。だからといって自分が100%正しいというつもりもありません。僕の方が誤っていることだってありうるんじゃないか。それが前提にあって対話が求められるのだと思います。

●なぜ対話をするのか?先ほどからヘイトスピーチの人でも参加できるかどうかという話題が上がっていましたが、なぜ、そこまで対話を求めるのでしょうか?

●それは理解したいからです。先ほどの意見にもありましたが、なぜ、彼らがそういう思考にいってしまったのか。それを理解したいからなのだと思います。

●それと、人間は変わるかもしれないということもあるよね。お互いに理解し合えないかもしれないけれど、もしかしたら対話を通じて人間は変われるのかもしれないということだよね。

●それもありますね。それに関して言うと中国帰還者連絡会が例として興味深いです。彼らは、中国の撫順戦犯管理所に 戦争犯罪人として抑留されていたときに、日々自分たちが戦時中に中国において何を為したかを対話と反省において自覚していったといいます。もっとも、彼らは戦後日本へ帰還した際に中国共産党に洗脳されたとバッシングされたわけですが、その当時は自分が正しいと思っていたことが、誤っていたということに気づくという点では変わりうるという点に希望を持つということはありますね。だからといって、相手の考え方を変えたいというわけではありません。相手も自分の考え方も「変わりうる」という可能性があるからこそ、対話が存在するということなのだと思います。

●対話するときに、自分の枠を持っちゃうと、枠対枠との戦いになっちゃうと思う。もし、その相手がイスラム国に参加しているとなると平等な対話ができない。だから、ヘイトスピーチの人とか、イスラム国の人といった枠を外した対話の中で、その人を理解していくことが大切だと思います。

●今までの議論を聞いていてもやっぱり意味が分からない。なんで、この場に公共性が必要なのか。ヘイトスピーチの人たちだって理解されたいと思っているわけじゃないと思います。だから、彼らを理解しようなんて傲慢じゃないですか。別に彼らがこの場にくる必要もないし、この場で話が通じる人たちで理解し合えるだけで十分じゃないですか。哲カフェの場が常連ばっかりになって、なれ合いの場になってきているからといって、それで哲学カフェを辞めるなんて話には納得がいきません。

●この場を共有できている人たちの考えは理解できるという態度こそ傲慢だと思います。僕は理解できない他者だからこそ、理解したいと思っているだけです。それから、この場が同質集団になってきているから哲学カフェをやめるなんて話は、どこから出てきたのですか?まったく意味が分かりません。
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5月7日・本deてつがくカフェ課題図書の先行販売のお知らせ

2016年04月06日 12時08分39秒 | 開催予定


春ですね〜
わかりにくい写真ですが、ここ福島市の信夫山の麓にも桜が咲き乱れ、素敵な春の訪れを感じる今日この頃です

さて、少し早いお知らせですが、5月7日(土)にイヴのもりで、第8回本deてつがくカフェの開催を予定しています。
課題図書は、この4月中旬に出版販売が予定されている、多世代文化工房著『わがままに生きる哲学―ソクラテスたちの人生相談―』(はるか書房)です。
この書籍を、今週4月9日(土)に開催される第36回てつがくカフェ@ふくしまの会場で、先行販売させていただきます。
その場では本体価格1,700円+税のところ、著者割引価格1,360円+税での販売とさせていただきます。



そうなんです。渡部が著者の一人になっています。
けっこうプライベートなことを書いているので、実はあまり地元の方々には読まれたくないという思いもあるのですが、ぜひこの本を通じて「わがまま」とは何かを哲学的に問う機会にしていただければ幸いです。
「哲学」といっても、誰にでも読んでもらえるような内容になっていますし、気軽にお読みいただけるように工夫しましたので、ご一読いただければ幸いです。

なお、西沢書店大町店と北店で4月中旬に店頭販売をしていただけることになりました。
こちらは定価販売となってしまいますが、こちらでのご購入も可能となりますので、よろしくお願い申し上げます。
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第36回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「わたしにとって〈哲学〉とは?」―

2016年03月11日 06時46分59秒 | 開催予定
【テーマ】 「わたしにとって〈哲学〉とは?」
【日 時】 4月9日(土)16:00〜18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
※ただし、カフェ終了後の懇親会に参加される場合は、懇親会費4,000円に含まれます。
 懇親会への参加の有無は、カフェ冒頭で確認させていただきます。

【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


春ですね。
新天地での新生活に期待と不安を抱きながら、新しいことに挑戦される方も多いことでしょう。
それぞれのご活躍をお祈り申し上げます。

さて、新年度一発目のテーマは、「わたしにとって〈哲学〉とは?」です。
想い起せば、第1回てつがくカフェ@ふくしまのテーマは「いま、〈ふくしま〉で哲学するとは?」でした。
原発事故の混乱の中、切迫した思いで、その問いを立てずにはいられなかったわけですが、もちろん思考も言葉も混乱したまま対話が交わされた記憶があります。
あれから5年が経ちます。
「哲学とは何か?」を問うには、まだ早い気もしますが、この5年間のてつがくカフェ@ふくしま、あるいはそれぞれの生活や思考の変化も含めて、再びあなたにとっての〈哲学〉を問い直してみましょう。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人 小野原 雅夫 ・ 渡部 純 ・ 杉岡 伸也
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てつがくカフェ@ふくしま〈3.11〉特別編6のご案内

2016年02月29日 04時43分14秒 | 開催予定




てつがくカフェ@ふくしま 特別編6
東日本大震災・福島第一原発事故から5年が経とうとしています。
あの日、私たちの<たましい>と生きることの根源が揺さぶられました。
あの日に福島にいた者、いなかった者。
その後、福島にとどまった者、去った者、訪れた者、帰ってきた者。
誰もが傷つき、誰もが試され、何らかの選択を迫られました。
あの巨大な経験が時とともに風化の危機にさらされています。
あの日から5年、今一度あの経験を胸に刻む時間を共有したいと思います。


【テーマ】<揺れるたましい>と生きることの根源
   ―震災・原発事故から5年あの日を振り返る―

【日 時】3月6日(日)
     15:00〜18:00
      
【場 所】ホテル辰巳屋 8階 瑠璃の間


参加費無料・飲み物代無料
事前申し込み不要(直接会場へお越し下さい)
問い合わせ先:fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


【第1部】 ゲストスピーカーとともにあの日を振り返る
15:00〜16:00

ゲストスピーカー 中間玲子(元福島大学、現兵庫教育大学准教授)
元福島大学・心理学准教授で〈3.11〉当時は兵庫教育大学に転出されていた中間玲子氏をお迎えし、論文「「揺れるたましい」と「死の欲動」 ―被災しなかった私の震災体験」を手がかりに、特別編世話人の6名とともにあの苦しかった日々を振り返ってみたいと思います。

中間さんの論文はこちらから閲覧できます。
「揺れるたましい」と「死の欲動」 ―被災しなかった私の震災体験
 (山中康裕監修『揺れるたましいの深層 こころとからだの臨床学』創元社、2012年)



【第2部】 哲学カフェ「<揺れるたましい>と生きることの根源」
16:10〜18:00

震災・原発事故から5年が経ち、すべてが忘却の彼方へと葬られようとしている今、会場の皆さまとともに<たましい>と生きることの根源を揺さぶられたあの日々を振り返り、もう一度心に刻む時間を持ちたいと思います。

【テーマ設定の趣旨】

2年前のことです。
ワタシ(渡部)は県立図書館の震災コーナーで、偶然、手にした中間玲子さんの論文「「揺れるたましい」と「死の欲動」―被災しなかった私の震災体験」に衝撃を受けました。
中間さんとの面識はなかったものの、ワタシはいろいろな偶然から震災・原発事故のさなかに、彼女から放射線に関するさまざまな情報をメールで教えていただいていました。
その当時、とても冷静かつ的確な中間さんの対応に「さすが研究者だなぁ」と感嘆していたものですが、その彼女がまさか被災地外で自分を責め苦しんでいたという事実を、その論文を通して知り、とても驚いたのでした。

中間さんは、かつて福島大学に勤務されていたのですが、その地が原発事故で苦しんでいるとき、そこに自分がいないという「負い目」に苛まれたというのです。
原発事故の被災地から避難した人々の「負い目」について耳にすることはあったものの、まさか被災地の外部でそのような「負い目」に苦しむことがあるとは、想像もしませんでした。

たしかに、その当時、被災地の内部と外部とのあいだでは様々な混乱と対立が生じていました。
あのとき、ワタシ自身も色々な人と対立しましたし、引き裂かれた人間関係もありました。
原発事故が進行する中、やりきれない怒りの矛先を色々な立場の人に向けたものです。
あれから5年を経てもなお、いまだにその相手を赦せない自分がいます。
けれど、その一方で、5年近くも経つのに、その相手を赦せない自分とはいったい何なのかと、虚しくなるときもあります。

あれだけの出来事の後に、のうのうと教員として働き続けている自分自身をもてあますこともあります。
あのときに、未曾有の状況の中をともに格闘した当時の同僚たちとは、あれきりあの出来事について何も語ることもなくなりました。
いまだ整理できないそれらの思いが、中間さんの論文とどこか重なり合ったのです。
読んだ当初は、世話人の小野原にもその論文の内容を伝えることができませんでした。
おそらく、直感的にあの論文を咀嚼するには、それなりの時間を要すると思ったのでしょう。

そして、あれから、ある程度の時間が経ちました。
そろそろ、あの当時の自分に向き合えることができるかもしれないし、向き合わなければいけないと思えるようになりました。
あの時の自分の判断や為したこと、考えたこと、あのとき共に闘ったり、分断した他者との関係のこと。
あのときの自分にいま何が言えるのか。

震災・原発5年目を迎える今回の〈3.11〉特別篇では、
第1部で中間玲子さんの論文をもとに、ご本人をお招きしてのトークセッションを行います。
第2部では、第1部での議論をもとに、参加者それぞれが5年前に「揺れた魂」を見つめ直す哲学カフェの時間としたいと思います。

どなたでも参加は自由です。
震災・原発事故に向かって思いのたけを語りあいましょう!

≪特別編世話人≫
相原博   (法政大学兼任講師)
大森一三  (法政大学兼任講師)
小野原雅夫 (福島大学教授)
齋藤元紀  (高千穂大学教授)
牧野英二  (法政大学教授)
渡部純   (福島商業高校教諭)

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