まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.恋人が欲しい場合どうしたらいいのか?

2018-06-19 00:35:24 | 性愛の倫理学
先日、授業内で話せなかった話として、「幸福になる方法」を紹介しましたが、
ワークシートではもっと具体的な例に即した質問をいただきました。

「Q.例えば、『恋人が欲しい』 という欲求があった際に、
   先生の考えではどうすればよいのでしょうか?」

ひじょうに切実な問題ですね。
特に恋愛というのは相手のある話ですから、
なかなかこちらの思い通りになることではありません。
授業のなかでは幸福の獲得方法には2通りの考えがあるとして、
a.外的偶然性によって外から幸福が与えられるのを待つ
b.主体的努力によって自ら幸せをつかむ
という2つの方法を紹介しました。
白馬に乗った王子様がどこからともなく現れて、
自分に一目惚れして求愛してくれて、
自分を一生大切にし幸せにしてくれるという恋愛観が a ですね。
それに対して、自分磨きにいそしんで自らの価値を上げていくと同時に、
自分にふさわしい相手を見つけるために出会いの場を積極的に求め、
これぞという相手を見つけたらこちらから果敢にアプローチしていく、
というのが b でしょう。
あるいはもうちょっとやり手の場合は、
自分から告白はせずとも、相手が告白してくれるよう誘導する、
なんていう高度なテクニックをもっている方もいらっしゃるようですが、
それも主体的な努力のうちのひとつだと思います。

a か b かでいったら、私のような庶民は b でいくしかないと思います。
a でうまくいくのは、もともと本人がどこかの王女様であったり、
よほどの資産家の娘であったり、または、
生まれつきものすごく容姿に恵まれている、というような場合だけでしょう。
ただ、その場合もアナに近づいてきたハンス王子のように、
王国や資産めあてであればハッピーエンドとはいかないでしょうし、
容姿につられてやってきた男の場合も、こちらが歳を取るにつれて、
より若くてより美しい誰かのところにふらふらと行ってしまうかもしれません。
そうではない人をきちんと選別しなければいけないという意味では、
やはり何らかの主体的努力は欠かすことはできないでしょう。
以前に、「外国人と結婚するにはどうしたらいいですか?」 と質問され、
それに対して3段階に分けてお答えしたことがありますが、
それは完全に b の方法でした。
たぶんそこに書いたことは同国人と結婚したい人にもほぼ当てはまりますので、
一度読んでみてください。

ただそこにも書いておいたのですが、
恋愛の場合はどうしても b だけではうまくいかなくて、
a の要素が不可避的に絡んできます。
つまりマッチングという問題です。
こちらがいいと思った相手が、
あちらもこちらのことをいいと思ってくれないと恋愛は成り立ちません。
その意味で 「恋が実を結ぶかどうかは運次第、確率の問題だ」
と論じたこともあります。
そういう相手に巡り会えるかどうかは外的偶然性に委ねられた問題でもあるのです。

さて、そこで前回お話しした 「幸福になる方法」 が重要になってきます。
「自らの欲求・欲望がむやみやたらと肥大化しないようコントロールし、
 自分の状態に満足していつでも幸福を感じられるよう幸せの感受性を高める」
というやつです。
あなたはどんな人を自分の恋人にしたいと望んでいますか?
容姿や体型など外見に関わる好みもあるでしょう。
長続きさせるためには性格や人間性などは重要ですね。
話が合うかどうかも大事ですから、
趣味や好みが似ていたほうがいいかもしれません。
とはいえ何もかもそっくりというのでは驚きがないので、
意外性もあるに越したことはありません。
結婚まで視野に入れるとなると、
社会人基礎力や将来性も考えなければなりませんし、
家事や育児に対する考え方、実家との関係性 (いわゆるマザコンかどうか等)、
将来の居住地 (どこで就職するつもりか) 等、
条件を挙げ始めたらキリがありません。
はっきり言って、それらすべてを満たす相手はほとんどいません。
たとえいたとしても、その人にも相手に求める条件があるでしょうから、
あなたがその条件を満たしている可能性は限りなくゼロに近いです。
というわけで相手に求める条件をむやみやたらと肥大化させないよう、
自分の欲求・欲望をある程度抑えるというか、
コントロールする必要が出てくるのです。
あれが足りない、これが足りないと相手のあら探しをするのではなく、
1つでも2つでも相手の素敵なところ、優れたところに焦点を当てましょう。
この件に関する最初のアドバイスはこうなります。

A-1.相手に完璧を求めすぎないこと。
    あなただって完璧ではないのだから。

次に重要なのは、最初から生涯の伴侶を期待しないことです。
ゴールインできなくたって、途中で破局を迎えたっていいじゃないですか。
というか、人生の最初のうちに付き合った人とそのままうまくいく、
なんていうことはそうそうあることではありません。
だっていろいろな意味でお互いに未熟なのですから。
付き合ってみるなかでそれぞれ成長していくのです。
自分のことだってだんだんわかってきます。
出会いと別れを繰り返していくなかで、
例えば、相手に求めるさまざまな条件のうち、
どれが絶対に外せないのか、どれは大して重要でもないのかといったことが、
しだいにわかってきたりするでしょう。
そうしたことは実際に付き合ってみないと見えてこないのです。
それよりも何よりも、未来の結果ばかりを気に病むのでなく、
今そのとき一緒に過ごす時間や経験を純粋に楽しむことが大事です。
結婚という結果に結びつかなかったとしても、
その恋愛が失敗だったということになるわけではありません。
けっきょく離婚してしまうことになったとしても、
その結婚が無意味だったというわけでもありません。
すべては貴重な経験としてその人の成長につながってくるのですし、
それを抜きにしても、一緒に過ごした楽しい時間は、
本当に楽しかったのですから、それはそれでいいじゃありませんか。
最初から結果を求め過ぎてしまうと、始まるものも始まらなくなってしまいます。
2番目のアドバイスは次のようになります。

A-2.恋愛に結果を求めすぎないこと。
    恋愛のプロセスそのものを楽しむ心のゆとりをもちましょう。

ほかにもいろいろと言いたいことはありますが、
最後にこれだけは言っておきましょう。
万人にモテる必要はありません。
私たちはアイドル歌手になりたいわけでも、
イケメン俳優になりたいわけでもありません。
ただ私を愛してくれる私の恋人を見つけたいだけです。
そりゃあ安室奈美恵や福山雅治レベルであれば (チョイスが古い?)、
みんなからちやほやされて恋の相手なんて選びたい放題でしょう。
でもそんなレベルの人が今回のような質問はしませんよね。
恋人が欲しい場合どうしたらいいのかと聞く人は、
ああいう誰かれかまわず求愛されそうなモテの権化ではなく、
なかなかいいマッチングに恵まれず困っている人なのだろうと思います。
そういう人に対しては声を大にして言いたいです。
私たちは自分に焦がれてくれる何万人もの人間を求めているわけではありません。
ただ本当に自分のような人を求めてくれるほんの少数の人を求めているだけです。
たしかに前述したように、ピッタリのマッチングを見つけるのは難しいですが、
しかし、この地球上にあなたを好きになってくれる人は必ずいます。
あなたがどんなに変わっていても (というか変わっているからこそ)、
そんなあなたを好きになってくれる人が必ずいます。
今までそういう人に出会わなかったのだとしても、
それはそういう人が存在しないからではなく、
たまたま今のところ出会えていないだけなのです。

あのレベルのアイドルやイケメンになるのはもちろんのこと、
クラス1の人気者になりたいという欲求・欲望だって過剰です。
そんな欲求・欲望を振りかざしていたら、
なかなかそれが満たされることはないでしょう。
でも私たちに必要なのは、ただ私のことを好きになってくれて、
かつこちらも相手のことを好きになれるようなごく少数の人間だけです。
そして、人間というのは不思議なもので、
幼いうちはみんな未熟なので好きになる相手が少数の人に集中しがちですが、
年を経るとともにみんなの好みがどんどん分散していき、
いずれは誰もが自分にピッタリの相手を見つけられるようになるのです。

今のところそういう相手を見つけられていない人は、
そりゃあ不安になって、自分にピッタリの相手なんていないんだ、
と思いたくもなるでしょう。
でもあなたはこれまでのほんの20年足らずの人生において、
何人の人と知り合いになりましたか?
例えば、1クラス40名で、毎年完全に総入れ替えのクラス分けをしたとして、
小中高で出会えるのはたったの480名です (担任の先生を入れて)。
実際には完全総入れ替えのクラス分けなんてありえませんし、
バイセクシャルでないかぎり、恋愛対象はそのうちの半分だけでしょうから、
同級生以外の他のクラスの人や先輩・後輩、
部活やその他の知り合いを全部含めたとしても、
やはり恋愛対象候補となりえた知り合いは、
500名もいたとしたらむしろ相当多いほうではないでしょうか。
おそらくはその500名のことも、
ひとりひとり完全に知っていたわけではないでしょう。
(ひょっとするとあなたはすでに運命の人に出会っていたのに、
 よく知ろうともせずにすれちがっていたかもしれません。→こちらのブログ参照)

あなたはまだたった500名 (おそらくはそれ以下) しか知らないのです。
その中に自分を愛してくれる人がいなかったからといって、
この世にいないと決めつけていいんですか?
だってある方によればこの世には恋愛対象候補者が、



「35億」

もいるんですよ。
(男性・女性の実際の人口はとっくに37億を超えているそうですが、
 同性愛の方の数とかを引くとまあ35億あたりに収まるかもしれません。)
そのうちのたった500名足らずしか知らずに、
私には誰もいないなんて決めつけるのは愚かじゃないですか。
とにかく私たちは何万人、何十万人にモテたいわけではありません。
長い人生のなかでたった数人、自分を愛してくれる人に出会えればいいのです。
その人たちを35億もの候補者のなかから見つけられればいいのです。
そういう人は必ずいますから、そういう人に的を絞って、
そういう人をどうやったら見つけられるか戦略を練りましょう。
(私が立てた戦略に関してはこちらを参照。)
欲を出して万人受けを狙ったら失敗します。
とにかく自分に興味をもってくれて、
かつ自分も好きになれそうな人はどういう人で、
そういう人はどこにいそうなのか、
そんな人はいないと思うのではなく、
どこにいるのか、どうやったら出会えるのかと考えてみてください。
最後のアドバイスはこうなります。

A-3.万人にモテようなんて思わないこと。
    35億の候補者の中からあなたを好きになってくれて、
    あなたも好きになることができるような人だけに的を絞って、
    その人をピンポイントで探すための戦略を練ってみてください。

よい出会いを。
Good Luck!

遅刻したために割愛せざるをえなかった話

2018-06-14 12:48:43 | 幸せの倫理学
一昨日の 「倫理学概説」 では幸福の話に入っていったわけですが、

私がやらかしてしまった自然休講ぎりぎりの30分近い遅刻のために、

いろいろと端折って話をしなければなりませんでした。

特に、カントの幸福の定義を紹介し、

(「幸福とは、自らの欲求・欲望が満たされて、自分の状態に満足していることである」)

私はこの定義を知った学生時代に、この定義から自動的に導き出される、

幸福になる方法も同時にわかってしまい、それ以来ずっと幸せだと話したわけですが、

時間がなくて肝心のその幸福になる方法について話すことができませんでした。

ワークシートではやはり、話してくれなかった話を聞きたいという声が数多く聞かれました。

そりゃそうですよね。

というわけで、このブログ上に記しておきたいと思います。

といっても実はもう何回かに分けて書いたことがありますので、

以下に、リンクを張り付けておきますので、そちらをご参照ください。

  「幸福になる方法 (その1)」



  「幸福になる方法 (その2)」



いかがだったでしょうか。

簡単と言えば簡単でしょう?

学生の皆さんのなかにも惜しいところまで考えられた人、

ばっちり正解の人も何人かいました。

惜しかったのはこちら。

「社会学で 『現代の人間の欲望は無限化している』 とあった。
 カントの幸福の定義だと、現代人は皆不幸になってしまうなと思った。」

まさにその通り。

私の授業のなかでも自由の話をしたときに、

人間の欲望は他の動物と違ってどんどん肥大化していく、と説明しました。

「(その1)」 のなかで書いたとおり、そのままだとみんな幸せになれません。

そこでその先の消極的な努力が必要になってくるのです。

その先まで考えてくれたのはこちらのお2人。

「『自らの欲求・欲望が満たされていること』 が幸福の条件ならば、
 欲の深い人ほど幸福には程遠いと思いました。
 欲望・欲求を抑えることで幸福のハードルが下がり、
 より幸福を感じられるというのは興味深い。」

「私は自らの欲求・欲望を自分でしっかり認識して
 それを叶えられれば幸せと感じると考えました。
 また、あまり良くはないかもしれないけれど、
 自分で満たすことができるようなハードルに欲求を下げ、
 実行すれば幸福だと思えるのではないかと考えました。」

2人とも私が大学時代に到達したのと同じ真理に到達してくれています。

カントの幸福の定義からするならば、幸福になる方法はこれしかないと言えるでしょう。

ただし最後の方はその方法に関して、

「あまり良くはないかもしれないけれど」 とコメントしてくれています。

そうなんです。

欲求・欲望を抑える、ハードルを下げるというのは、

体育会系の競争性の強い人にとっては敗北主義のように映るらしく、

これまで 「もっともっと、がんばれがんばれ」 と

尻を叩かれて育ってきた若い人たちには評判が悪いんです。

こういう具体例を書いてくれた人もいました。

「妥協した目標では達成しても不満が残る。
 高い理想に向かって前進している、
 と実感している間が一番幸せといえるのだろうか」

この方も妥協した目標には納得いかず満足できないようです。

ただこの方は高い理想を実現・達成できたときのみ幸せになれるというのではなく、

それに向かって前進しているときが幸せなのではないかと言ってくれています。

まさにその通りで、これもまた欲求・欲望を抑えることの一例となっています。

目標自体は下げないまま、

その高い目標を達成できた場合にのみ満足するのではなく、

そのプロセスに満足するという戦略です。

これはこれでハードルを下げているというのがわかるでしょうか。

あと、私の場合は、目標は下げるんだけど、

あまり下がったように感じない下げ方というのも編み出しました。

それについてはこちら↓をご覧ください。

  「Q.先生の好きな言葉は?」

というわけで、幸せになりたいのならば、

自らの欲求・欲望がむやみやたらと肥大化しないようコントロールし、

自分の状態に満足していつでも幸福を感じられるよう、

幸せの感受性を高める練習を日々の生活のなかで積んでみてください。

以上が、授業時間中に幸せな午睡をむさぼっていた不届きな教員による幸福論でした。

ご静聴ありがとうございました。

受講生の皆さん、申しわけありませんでしたm(_ _)m

2018-06-13 17:03:53 | お仕事のオキテ
2年ぶりにやらかしてしまいました。
昨日は4限が 「倫理学概説」 で午後2時40分から授業だったわけですが、
ワークシートの採点やプリントの印刷もすませてあり、
3限は空きコマだったので、委員会のお仕事などをバリバリこなしていたわけです。
2時20分頃に、「ああ、まだ授業まで20分あるなあ」 と思い、
緊急のメールに対する返信などを書いていたんです。
ところが、ふと気づくとなんだか頭がボーッとしていて、
今日が何曜日で今が何時なのかよくわからない感じです。
腕時計を見てみるとこうなっています。



「ああ、9時かあ、まだそんな早い時間なんだあ」 と思い、
今日が火曜日だったことを思い出し、だとすると2限が大学院の演習授業で、
4限が倫理学概説だったよなあということも思い出してきます。
と、そこで 「あれ、大学院の演習はもうやったよなあ、ロールズ読んだし」 と思い出し、
もう一度時計を見てみます。



「あれ、これは9時じゃなくて3時だな」
ん?
3時?
4限って何時からだっけ?
3限が1時から2時30分までだから、
10分休んで2時40分からが4限だろ。
で、今何時だっけ?
あ、3時ね。

えええええっっっーーーーーー!!!
遅刻じゃあああっっっ!


どうやらほんの一瞬の隙に爆睡してしまっていたようです。
パソコンのモニターを見てみると、打ちかけていた返信の最後は、
「000000000000000000000」
と意味のない 「0」 が無数に打ち込まれています。
それを見てやっと本格的に覚醒した私は、
大慌てで用意してあった荷物を抱え、教室に向かいました。
3時ピッタリに起きて、覚醒するまでしばらく時間がかかりましたし、
教室への移動時間もありますから (間違えてM1教室に入りそうにもなったし)、
到着したのは3時10分のほんの少し前だったと思います。
教室では大きなため息と笑い声に迎えられました。
大学では30分経っても教員が来ないとその授業は自然休講になるというルールがあり、
みんな時計を見ながら来るのか来ないのかと固唾を呑んでいたようなのです。
「あとちょっとだったのにぃ」 という声も聞こえてきました。
いや、本当に申しわけありません。
もう平身低頭で謝りまくりました。

私なんて第1回目の授業のときに全員に 「教室の倫理」 というプリントを配り、
教員の不完全義務として 「時間を厳守する」 と自ら宣言していたのに…。
不幸中の幸いは完全義務ではなく不完全義務にしてあったことですが、
完全義務に入れなかったのは、授業の終わりの時間をコントロールしきれないからで、
始業時間に関しては遅刻したりせず時間通りに来るつもりですと口頭で補足していたので、
倫理学者自らが遂行的矛盾を犯してしまいました。
本当に申しわけありませんでした。

ワークシートの最後の設問では、教員に対する苦情や要望など自由にお書きください、
とお願いしたところ、やはり厳しいお言葉を多数頂戴しました。

「寝坊はさすがに駄目だと思います。」

「中途半端な遅刻は精神的にきついです。」

休講を望んでいた方もけっこういらっしゃったようです。

「どうしてあと10分寝てなかったんですか。
 あと10分先生が来なければ休講だったのに…」

「先生があと10分程寝ていたら休講になって、私は幸福でした (笑)」

「本来、先生が遅れてくれば、授業は短くなり lucky と感じるのに、
 そこに 『あと数分こなければ休講だった』 と付け加えるだけで
 不幸に感じてしまうのは不思議だなと思った。」

昨日の授業のテーマが 「幸福」 だったので、
幸・不幸の問題と絡めて書いてくれていました。
なるほど、短期的にはその日の授業がなくなれぱ一時的に幸せかもしれませんが、
今どきの大学は休講したらその分、補講をすることが義務づけられていますから、
8月に補講なんてことになっていたら、みんなよっぽど不幸になって、
よりいっそうぼくに対する怒りが増していたのではないでしょうか。
幸・不幸というのはなかなか難しい問題です。
その他、具体的なアドバイスをくれた方もいます。

「目覚ましかけてください。
 30分って割と長いと思いました。」

「先生がおくれそうな時、『今日、おくれまーす』 って
 生徒にメールを出したらいいと思う。」

残念ながらこれらのアドバイスに対しては、
まさか自分寝るつもりはなかったので、あらかじめ目覚ましかけたり、
メールを送ったりすることはできませんでした、とお答えせざるをえません。
眠くてしょうがなくてちょっと昼寝しようと思って昼寝をするときは、
自分でちゃんと目覚ましをかけるようにしているんですが、
今回はまったくそんなつもりはなかったもので…。
ただ今後に向けては、いつ突然睡魔に襲われるともかぎらないので、
昼寝するかどうかは別として常に、
授業の5分前くらいに目覚まし時計がかけておくべきだなとは思いました。
今後、再発防止に努めたいと思います。

反対に温かい言葉をかけてくださった方々も若干いらっしゃいました。

「休める時間はゆっくり休んでください。
 誰でもやらかすときはあるので…。」

「無理をなさらず、休めるときは休んでください。」

「大学の先生もお忙しいと思うので遅刻は仕方ないと思いました。」

「私も眠かったので大丈夫です。
 教員も寝ぼうするとわかって安心しました。」

いやいや、こんな温かい言葉に値するような人間じゃないんです、私は。
いろいろあって疲れがたまっているというのはたしかだけれど、
それが休講したり遅刻したりしていい理由にはなりません。
皆さんの貴重な時間を無駄にしてしまって本当に申しわけありませんでした。
遅刻してしまったせいで割愛せざるをえなかった話に関しては、
このブログ上で補足、紹介しようと思います。
このたびは本当に申しわけありませんでした

粉ミルクによる男女平等

2018-06-07 06:34:13 | そして父になる
生後1~2ヶ月の頃、昼夜問わず2時間おきに授乳という時期があって、

さすがに2人とも睡眠不足で、これがいつまでも続いたらたまらんなあと思い、

子育て大先輩の同僚の先生方 (男性) にグチったことがあったんです。

ところがみんなやけに反応が薄いんです。

フーンとかヘェとかぐらいで。

「やっぱその頃は大変だよねぇ、あと○ヶ月くらいの辛抱だからがんばってね」

みたいな親身な共感やアドバイスを期待していた私としては、

なんか肩すかしを食らったような気分を味わっていました。

ところがある時にある方に同じことを言ってみたら、

その方はとても丁寧な方でこんなふうに返してくださって、

それでやっと反応の薄さの原因がわかりました。

「小野原さんとこって粉ミルクなの?

 うちは母乳だったから全部妻に任せっきりだったなあ。」

そうだったのです。

うちは退院直後くらいから母乳がほとんど出なくなっちゃって、

それ以降はもうずーっと粉ミルクなのです。



だから授乳の仕事を男でも引き受けることができて、

夜中の授乳も起きられたほうがするということにしてあって、

半々くらいの割合で負担できていたんですが、

それはうちがたまたま早い時期から粉ミルクだったからなのです。

母乳が出るという場合は基本、授乳は女性の仕事になってしまうんでしょうね。

(搾乳して保存しておくこともできるようですが、

 それでも男性が授乳作業を半々の割合で引き受けるのは至難の業でしょう。)

それを聞いて、母乳の家族はいいなあとはまったく思いませんでした。

むしろ、うちはたまたま粉ミルクでラッキーだったなあと思いました。

どっちにしろ女性が育休を取っているという場合は、

子育ての負担は大半が女性にかかってしまいますので、

夜中の授乳くらいはできるかぎり引き受けてあげたいじゃないですか。

実際には私が爆睡していて1回も起きなかったということも多々あるらしいですが、

それでも自分的には育児 (の中の夜の授乳) を半分負担しているぞと、

なんとなく誇れるわけです。

しかし、それ以上によかったと思うのは、

私もそこそこの割合で授乳していますから、

赤ん坊の私に対する態度がけっこう暖かいように思うのです。

この人はミルクをくれる人のうちの1人だと認識されている感じがするのです。

以前ご紹介した 『ヨチヨチ父』 では、

お乳をくれる絶対的な存在である母親に比べて、

父親というのは 「母親じゃない人間」 のうちの1人にすぎない、と書かれていました。



なるほどそうなのかもしれませんが、

私の場合はそれよりはもう少し高い位置に置いていただいているような気がするのです。

それもこれもすべては粉ミルクのおかげだなあと、つくづく思います。

全家庭のなかで粉ミルク派は少数派なのかもしれませんが、

粉ミルクに関しては思うところがいろいろありましたので、

今後も折に触れて書き留めておきたいと思います。

Q.哲学・倫理学の先生になって後悔していることはありますか?

2018-06-06 23:27:45 | 哲学・倫理学ファック
これはまたネガティブな質問ですね。

前回書いたように、自分が哲学・倫理学の教員になれたというのは、

本当に奇蹟的なこと、フツーじゃありえないような僥倖だと思っていますので、

基本的には感謝こそすれ、後悔してることなんてまったくありません。

それが今回の問いに対する回答として一番ふさわしいんじゃないかと思いますが、

せっかく問われたので、いろいろと考えてみました。

するとひとつだけ思い当たることが出てきました。

哲学・倫理学は日本社会ならびに日本の大学で差別・迫害されています。

福島大学でもどんどん人を減らされ、今や自分たった1人になってしまい、

自分の後任の人も取ってもらえるかどうかわからないという状況です。

自分がこれだけ哲学・倫理学から恩恵を受けたにもかかわらず、

それを学界ならびに後進の研究者たちに恩返しすることができないというのは、

私の中でけっこう後悔というか悔しく思っていることかもしれません。

私が福大に就職したとき、経済学部に共通教育の哲学を担当する先生がおひとり、

私と同じ教育学部には社会科教員免許用の哲学の先生がおひとりいらっしゃって、

そこに倫理学担当の私が赴任して、計3名の哲学・倫理学教員がいました。

それ以前には教育学部だけで哲学2名、倫理学2名の教員がいて、

それにプラス共通教育の哲学の先生がいらっしゃるという時代もあったそうです。

しかし、公務員がどんどん削減される時代に突入して、

大学も法人化されて国家公務員でなくなりましたし、

そうなると退職した順番にすべてのポストで後任採用するわけにはいかず、

どうしても必要かどうかという優先順位がつけられるようになってきます。

そうなってきたときに哲学・倫理学は弱いんですねえ。

日本では昔から哲学・倫理学は、実際に役立つ実学ではなく、

社会に出ても何の役にも立たない虚学だと言われてきたのですが、

目先の金儲けに走る昨今の日本ではその傾向がよりいっそう強まっています。

欧米では、物事を根本的にじっくりと論理立てて考える力があるということで、

哲学や倫理学を修めた人は実業界でも一目置かれ重用されているのですが、

覚えた知識が直接的に富を生み出すかどうかという、

きわめて短絡的な学問観がまかり通っている日本では、

哲学・倫理学は役に立たない学問の代表みたいに扱われているのです。

教育学部の中でも、たしかに哲学や倫理学は、

社会科教員免許を取るために必要な科目として免許法上位置づけられてはいますが、

高校の公民科倫理の教員にでもならないかぎり、

小学校や中学校の社会科の中で哲学や倫理学の知識を教える場面はほぼありませんので、

そうすると日本史や世界史、地理の教員は優先的に後任補充されても、

哲学や倫理学は別に専任教員取らなくても非常勤の先生にやってもらえばいいよね、

といった感じにどんどん後回しにされてしまうのです。

けっきょく私のほかに2名いた哲学の先生方が退職されたあとは、

後任補充はしないと決めたわけではないのですが (そこは私ががんばりました)、

他に優先的に補充すべきポストがあるので当面は取れないよね、

という形でもうずーっと後回しにされ続けています。

私は 「福島大学は哲学のない大学だ、それでいいのか?」 と言い続けていますが、

ただまあ私としても大学の苦しい台所事情は重々承知していますので、

他にどうしても優先しなきゃいけない人事があることは認めざるをえません。

今、私は大学の改革の仕事に携わっているわけですが、

今回の改革の中でとうとう後任補充されていない哲学の2つのポストのうちのひとつは、

正式にもう大学としては断念して完全に消滅させることになりそうです。

この改革に取り組み始めた当初はなんとかこれを復活させようと努力し、

改革本部の皆さんからも賛同を得て一瞬何とかなりそうな気配もあったのですが、

その直後に人件費削減の大波がやってきて水泡と帰してしまいました。

まさか自分 (が関わっている改革案) が哲学のポストに引導を渡すことになってしまうとは、

まったく予想もしていませんでした。

これは本当に大きな後悔として私の中に残ることでしょう。

というわけで今回のお答えは次のようになります。


A.哲学や倫理学に理解のない日本という国で哲学・倫理学の教員になったために、

  数少ない哲学・倫理学のポストがどんどん削減されていくところを、

  間近で指をくわえて見ていなければならないというところが、

  哲学・倫理学の教員になって後悔していることです。


今回は暗い話になってしまい申しわけありませんでした。

でも質問自体が暗かったんだから、明るく答えようがありませんよね。

早いとこ教育や学問に理解のある政権が成立して、

若者を育てるためにきちんと投資してくれるような世の中にならないかな。

右を向いても左を見ても、近視眼的な金儲け至上主義者しか見当たらないから、

日本ではどう転んでもそんな夢のような話は実現しないんだろうな。

Q.生まれ変わっても哲学・倫理学の先生になりたいですか?

2018-06-03 15:14:34 | 哲学・倫理学ファック
ブログを再開したものの、やはりなかなかブログ更新できずにおりました。

けっきょく相馬の看護学校でいただいた質問にはたった4問お答えしただけで、

看護学校の授業も終了してしまいました。

予想していたこととはいえ、うーむ。

ただまあ、3月末が締め切りで、それをGW明けまで延ばしてもらい、

それでも書き終わらなかった論文が、先日やっと書き上がりましたので、

その分、少しだけ時間ができるかと思いますので、

またぼちぼち書いていこうと思います。

学生さんや卒業生から、ブログ再開を喜ぶメールも頂いておりましたので、

少しはがんばらないといけませんね。


さて今回の質問は、「生まれ変わっても哲学の先生になりたいですか」 でしたが、

私は正確には哲学の教員ではなく倫理学の教員なので、

標題のように質問を言いかえさせていただきました。

これはイエス・ノーでお答えすべきクローズド・クエスチョンですが、

今回は問いに対して素直に答えず、少しずらしてお答えしたいと思います。


A.せっかく生まれ変われるのなら今の職業とは別の仕事に就きたいです。


ふたつ理由があります。

たしかに私は哲学・倫理学が大好きですし (こちら参照)、

大学教員という仕事も自分に合っているなあと思いますが (こちら参照)、

もう一度生まれ変わったときにまた哲学・倫理学の教員になれるとはとうてい思えない、

というのが第一の、そして最大の理由です。

とにかく大学で哲学・倫理学の教員になるのはめちゃくちゃ難しいです (こちら参照)。

自分がなれるなんて1ミクロンも思っていませんでしたし、

人類が滅亡すると信じていなければ、この道に進むことはなかったでしょう。

今自分がこの仕事に就いていられるのは本当に奇蹟的なことだと思っています。

そうそう奇蹟が何度も起こるとは思えないので、

またこの道を歩もうとは微塵も思えないのです。


もうひとつはもうちょっとポジティブな理由です。

以前にももしも生まれ変わったらという質問にお答えしたことがありますが (ここここ参照)、

本当に生まれ変われるのだとしたら、いろいろと比べてみたいのです、

今の人生と生まれ変わった後の人生とを。

ていうか、それができないのだとしたら、

生まれ変わる意味なんて何もないと思うのです。

私にとっては生まれ変わることというのは比較するチャンスをもらうことなわけです。

ですから、せっかくそのチャンスをもらえたのだとしたならば、

今とは違う人生を送ってみないことには何の意味もないですよね。

というわけで、もしも生まれ変われたら哲学・倫理学の教員ではなく、

何か別のものになりたいと思います。



P.S.

まあそもそも生まれ変わりということを信じていないので、

この問い自体が私にとってはあまり意味がないのですが、

せっかくのご質問でしたのでいちおうこんなふうに考えてみました。