まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

職業選択の自由から高度産業化社会へ

2021-05-10 16:12:55 | キャリア形成論
前回、分業の説明をするときに、
狩りの得意な人は狩りだけを行い、
農耕の得意な人は農耕だけを行うようになった、と書きましたが、
現実には分業というのは個人単位の得意不得意で分かれていたわけではありません。
今の世の中では「職業選択の自由」がごく当たり前に認められていますが、
そんな自由は昔から認められていたわけではなく、
このほんの数百年の間に広がってきた本当に新しい文化にすぎないのです。

例えば江戸時代では士農工商が身分制度として確立していて、
農民の子は農民に、商人の子は商人になるように定められていました。
つまり、分業は身分と結びついた固定的な制度だったのです。
それは社会のあり方としてもある種、理に適ったシステムです。
農民の親が農業の知識を自分の子どもに伝えてあげれば、
子どもは最短で良い農民として育ちます。
文化を伝達するのには長い時間が必要なのですから、
生きていくのに必要な文化を親から直接教えてもらえれば、
無駄な時間を使わずにすみますし、
どの職業を選ぼうかなどと無駄に悩む必要もなくなります。
また、血統や素質という考え方からしても、
親の素質を子が受け継いでいるのであれば、
親と同じ職業に就いたほうがよりよく社会に貢献できることになるでしょう。
こうして分業化が進んだのちも、人類は長いあいだ、
身分と結びついた固定的な分業体制の下で生きてきました。

しかし実際のところ、教育の手間の問題は別として、
血統や素質(いわゆる遺伝)という側面は職業適性に関係あるでしょうか。
農家の子どもが植物栽培が好きだったり、得意だったりするとは限りませんし、
国王の子どもに生まれたからといって、政治の才能に恵まれているとは限りません。
兄弟姉妹が複数いれば、ひとりひとり素質や適性は異なっているはずです。
だとしたら、血筋とは関係なく、
個人単位でそれぞれにふさわしい職業に就いたほうが本人のためであり、
ひいては社会全体の生産性の向上に繋がるのではないでしょうか。
身分制社会が既得権益にしがみつく閉鎖的な社会であったことに対する批判もあいまって、
近代市民革命によって身分制からの解放が推し進められることになり、
しだいに職業選択の自由が認められるようになりました。

それは世界的に言ってもほんの数百年前の話ですし、
日本で言えば明治になってからのことですから、
まだ150年の歴史しかありません。
皆さんはどうですか?
生まれながらに職業が決められていた身分制の時代と、
職業選択の自由が認められた現代と、どちらの社会が好きですか?
江戸時代であれば、自分は何の職業に向いているんだろうと悩む必要はなかったし、
就職活動をして就職先を探すなんていう苦労も必要ありませんでした。
しかしその代わりに自分のやりたいことをやるという自由はなかったわけです。
どちらが幸福なのか、なかなか難しい問題です。

さて、職業選択の自由の社会になったことによって、
教育のあり方も変わってきます。
身分制社会であれば、家庭内で親から子へ、
家業に関わる知識や技術を伝達していればよかったわけですが、
子どもが何の職業に就くかわからないとなると、
職業に関する専門的知識を伝授しても意味がありません。
職業選択の自由が認められる社会においては、
何の職業に就いても必要となるような一般的、汎用的な知識や技術を、
すべての子どもに学習させておかなければなりません。
そうすると各家庭で親が子どもに伝えるのではなく、
子どもたちを一堂に集めて、
教育を得意とする専門家に任せたほうがよくなります。
それを行う場として学校が設置されることになりました。
かくして現在のような教育システムが構築されたのです。

産業革命以後、社会の変化は激しくなっていきます。
工業化が進んで第二次産業が中心となった時代には、
時間通りに規則正しく工場生産に従事できる人材が求められました。
そのためには基本的な「読み書きそろばん」の能力を身に付けて、
指示やマニュアルどおりの工程をこなせなければなりません。
学校の授業が時間割にしたがって進められていくのもその頃の名残です。
しかし、機械化やオートメーション化が進んでいくと、
単純な工場労働は減っていきます。
新しい製品を開発したり、販路を開拓したりといった、
創造的な仕事が求められるようになります。
そうした仕事に対応する能力は義務教育だけでは身に付きませんので、
先進国では多くの若者が高等教育を受けるのが普通になっていきます。

産業の中心は重工業からさらに第三次産業へとシフトしていきます。
そうなると社会の変化はますます速くなっていきます。
船や車など形ある物はどんなに進歩したとしても限りがありますが、
無形のサービスは無限に変わり続けることができるからです。
そして、計算機がパソコンに進化を遂げ、
電話機が携帯電話へ、そしてスマートフォンへと進化を遂げたとき、
人類はまったく新しい段階に突入しました。
高度産業化社会とか、知識基盤社会とか、情報化社会と呼ばれる社会です。
これからの社会の変化は、これまでとはケタ違いになっていくでしょう。
職業選択の自由はあいかわらずあるわけですが、
子どもの頃に憧れた職業が、
大人になったときにも存続しているかどうかわかりません。
逆に、聞いたこともないようなまったく新しい職業が現れて、
それが人気の職種になっているかもしれません。

そのような時代において求められるのは、
高等教育において得られる専門的知識だけではありません。
専門的知識もどんどん更新されていってしまうからです。
それよりも重要なのは変化に対応できる力です。
それは言い換えると「解のない問いを考え抜く力」と言っていいでしょう。
これからの時代において、どんな商品を開発すれば、
どんなサービスを提供すればうまくいくのか、
誰にも正解はわかりません。
正解がないからといって考えなくていいかというとそんなことはなく、
何とか自分なりに正解に近づいていかなくてはならないのです。

どの職業に就いたらいいのか、そのために何を学んでおいたらいいのか。
これにも正解はありません。
正解はありませんが、考えなくてはなりません。
親や先生や先輩の言ったとおりにしていれば何とかなる、
という時代はとっくの昔に終わりを告げました。
自分なりに情報を集めたうえで、自分なりに考え抜いて、
これからのキャリアを築いていってください。
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分業から貨幣経済へ

2021-05-10 16:09:42 | キャリア形成論
農耕のおかげで食料を大量に生産し、保存・貯蓄できるようになった人類は、
みんながみんな日々の食料の確保に汲々とする必要がなくなります。
こうして分業と物々交換が始まります。
(図には「物々交換」しか書いてないと思いますが、
 横に「分業」と書き加えておいてください。)
狩りが得意な人は狩りだけを行い、農耕が得意な人は農耕だけ行い、
大量に獲れた獲物や穀物の余剰分を物々交換することによって、
双方が豊かな食生活を送れます。
さらには狩りや農耕などの食料確保(いわゆる第一次産業)には関わらず、
弓矢や鍬や土器といった道具だけを生産して、
それを食料と交換して生きていく第二次産業従事者も現れてきます。

こうなってくると毎回毎回それぞれが獲れた物、作った物を持参してきて、
直接交換するというのが面倒になってきます。
せっかく持っていっても互いに欲しい物がうまくマッチするとは限りませんし。
そこで発明されたのが「おカネ」という文化です。
それぞれが生産した物そのものではなく、
その代わりの何か(石やら貝殻やら金属など)を交換の基準とし、
それとの引き替えによって交換を成立させるという画期的なシステム、
いわゆる「貨幣経済」というものが生み出されたのです。
(貨幣の起源については諸説ありますので詳しくはこちらこちらを参照。
 最近では物々交換社会もなかったという説が主流のようで、こちらこちら参照。)

それに伴い、食料確保(第一次産業)でもなく、道具の生産(第二次産業)でもない、
新しいタイプの仕事、第三次産業が生まれてきます。
その代表が、貨幣を介した交換を仲介する商業です。
実際に物を生産することなく、物を仲介するマージンで生計を立てる商業は、
多くの国で低い地位を与えられていました。
日本でも士農工商と四身分のうち最下位に置かれていました。
しかし、最高位にある「士(=侍)」は、本来の仕事は防衛であり、
江戸時代にあっては主たる役目は政治だったわけですが、
いずれも物の生産に携わるわけではない第三次産業です。
つまり、第三次産業というのは何らかのサービスを提供することによって生計を立てる仕事であり、
それが成り立つためには貨幣経済が成立していることが前提となります。

皆さんは「働く」というとおカネを稼ぐことと思っているのではないでしょうか。
しかし、アウストラロピテクス以来400万年の人類(ヒト属)の歴史のなかで、
人間がおカネを使うようになったのは、ほんの数千年前からのことにすぎません。
本来「働く」というのは、エサを捕る、食料を生産するということでした。
農耕という文化によって食料が安定的に供給できるようになり、
貨幣経済という文化によって、
お店におカネを持っていけばいつでも食料その他を手に入れられる、
という仕組みが作られたがゆえに、
皆さんは野山を駆けまわって狩りをしなくてすんでいるのです。
農耕も凄かったですが、おカネなんていうものを発明した人も凄いですよね。
今私が研究や教育という仕事に専念していられるのも、
ひとえにおカネを発明してくれた人のおかげです。
日々感謝しながら生きていきたいと思います。
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狩りから農耕へ

2021-05-08 13:18:46 | キャリア形成論
図の一番左側の列を説明していきます。
森から出たサルははじめのうち狩りをすることによって食物を得ていたわけですが、
狩りというのは大変です。
常に狩りが成功するとは限りませんし、
それ以前に、いつも獲物が見つかるとは限りません。
獲物に出会えなかったり、狩りに失敗したりすると、
その間ずっと飢えていなくてはならないのです。
食料を確保できないかもしれないというのは、
生物にとって常に存亡の危機にさらされているということです。

この問題を根本的に解消したのが、
「農耕・牧畜」という新しい文化でした。
狩りとの類比でわかりやすいので牧畜を例にとって説明すると、
狩りというのは捕まえた獲物を全部食べてしまう文化です。
これを続けていると食料の安定供給はできません。
そこで狩りをして大量に獲物を捕らえたときに、
獲物を全部食べてしまわずに、オスとメスを残しておいて、
このつがいが逃げてしまわないように、
柵か何かの中で飼育し、自分たちの管理下で子どもを産ませます。
その子どもが大きく育ったら食べるのですが、
その時もまた全部食べてしまわずに、オスとメスを残しておくのです。
これを無限に繰り返すのが牧畜であり、
これによって人類は日々の食料確保の問題から解放されるのです。

同じことを動物ではなく植物で行うのが農耕になります。
採れた植物をすべて食べてしまうのが採集生活ですが、
全部食べてしまわずに種を少し残しておいて、
自分たちの管理下で栽培して収穫し、
そしてまた植えるということを繰り返すのです。
牧畜も画期的な文化でしたが、
農耕のほうはさらに飛躍的な発展を人類にもたらしました。
穀物は食べる時に加熱する必要がありますが、
加熱しなければかなり長い期間保存しておくことができるからです。
人間は農耕によって、今日や明日の分だけでなく、
何年も先までの食料を収穫し蓄えておくことができるようになりました。
もはや目先の食料の確保に日々追われる必要はなくなったのです。
これにより人類は食料確保以外のことに時間を割けるようになり、
人間の文化は一気に花開いていくことになります。

文化のことを英語で culture と言いますが、
culture は「耕す」という言葉、つまり「農耕」という言葉に由来します。
農耕は人類が生み出した文化のひとつですが、
人類の歴史を大きく変えた最も偉大な文化であり、
文化の中の文化、「The 文化」と言っても過言ではなく、
したがって農耕を意味する culture が、文化全般を意味する言葉にもなったのです。

農耕というのがどれほど凄い文化であったか理解いただけたでしょうか。
今後のブログ記事で説明いたしますが、皆さんが職業選択の自由で悩めるのも、
元はと言えば、人類が農耕という文化を生み出したおかげなのです。
もしもそれがなかったら、皆さんは今ごろ大学で学ぶどころか、
小中高で学ぶことすらなく、毎日ひたすらその日の食料を確保するために、
狩猟採集に走り回っていたことでしょう。
誰だかわからないけれど農耕という文化を発明してくれた祖先に、
日々感謝しながら大学生活を送ってください。
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死の受容と人の死

2021-01-11 22:35:50 | 生老病死の倫理学
先に(こちら)、人の死の構成要素として、
①回復不可能性 (=不可逆性)
②残存意識の消滅
の2つが不可欠だという話を書きました。
その2つに加えてさらに、「家族による死の受容」 という問題もあるのではないかという話を、
以前にちらっと書きましたが、
その後よく考えた結果、それは死の構成要素としては不要であるという結論に達しましたので、
ここではそれについて書いておきます。

そもそも 「死」 の受容なわけですから、
受容できるか否かの前に 「死」 が確定していなければならないはずです。
家族が死を受容できるかどうかによって死んだかどうかを決めるというのは、
論理学的にいって本末転倒(論点先取の誤謬)なわけです。

たしかに脳死の場合、まだ心臓は動いていますし、身体も温かいですから、
それが死だと言われてもそれを受け容れにくいということはあるでしょう。
しかし、脳死でなくて心臓死だったとしても、例えば突然の死だったりした場合には、
家族はその死を受容することは難しいでしょう。
家族が死を受容できないからといって、それが死ではないとは言えないはずです。
したがって、家族による死の受容という問題は、
人の死とは何かを決定するという場面には無関係であって、
別の文脈のもとで論じられるべき問題だと言うことができるでしょう。

ただし、家族による死の受容のためにも、
死の判定は確実であるべきだ、とは言えると思います。
もしも死の判定が不確実で、ひょっとすると回復するかもしれなかったり、
ひょっとするとまだ意識が残っているかもしれなかったりするならば、
それを死として受容するのは家族にとっては至難の業でしょう。
絶対に回復はしない、絶対に残存意識はない、
その2つを前提とした上で死を受容できるかできないかという話になるのであって、
回復するかもしれない、意識が残っているかもしれないという段階で、
それを死として受容しろというのはいくら何でもムリな注文です。

私は死の定義や死の判定方法を考える際には、
自分だったらと考えるべきではなく、
自分の家族(愛する人)だったらと考えて、
自分の家族の死の定義や判定方法として受け入れられるものであるかどうか、
ということを大切にするべきだと思っています。
それは、家族による死の受容という問題を死の定義に含めるということではなく、
自分に関する死の判断は、「そうなったら(大事な活動ができなくなったら、寝たきりになったら等々)
もう死んだも同然」という個人的価値観に左右される部分が大きいのに対して、
家族の死に関しては、回復の可能性はなくもう絶対に死んでいるのかどうかという、
より客観的な死の概念が必要となってくるからです。

ですので、死の定義と死の判定方法はとにかく厳密かつ確実であるべきだ、
というのが私の意見です。
そして、人工呼吸器や人工心肺装置が開発されてしまった現在においては、
心臓死はもはやその厳密かつ確実な死の定義や判定方法とはなりえない、
したがって心臓死よりも確実な死の定義・判定基準として、
全脳の器質死としての脳死を人の死とすべきであるというのが私の考えです。
コメント (1)
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脳死・臓器移植の件数2020

2021-01-11 18:11:44 | 生老病死の倫理学
脳死・臓器移植の件数はずっと数え続けているのですが、
ブログで報告したのは2014年が最後だったようです(こちら)。
後期に開講している基盤教育「倫理学」 の授業が1月からまた遠隔開講になってしまったので、
これを機にブログ記事を更新しておくことにします。
いつもの臓器移植ネットワークのサイトで調べた数値です。
臓器移植法が施行されてからの各年の移植件数を記していきます。
2010年7月に改正臓器移植法が施行されたので、
その前後で比べてみましょう。

1997年  0件
1998年  0件
1999年  4件
2000年  5件
2001年  8件
2002年  6件
2003年  3件
2004年  5件
2005年  9件
2006年 10件
2007年 13件
2008年 13件
2009年  7件
2010年 32件 (改正前3件、改正後29件)
2011年 44件
2012年 45件
2013年 47件
2014年 52件
2015年 57件
2016年 64件
2017年 77件
2018年 68件
2019年 98件
2020年 70件
通算   737件(改正前86件、改正後651件)

2014年に書いたブログ記事の時と、
若干数値が変わっているところがあります。
今、調査中ですが、ブログを書いた当時は正しくカウントしたつもりです。
臓器移植ネットワークのデータがのちに修正されることがあるので、
そのせいかもしれません。

法改正前は毎年10件足らず。
2006年に初めて2ケタに到達しましたが、
それでも10数件程度でした。
臓器移植法が改正されてから30件を超え、
その後はコンスタントに伸びていき、
2019年には3ケタに届きそうなところまで増えました。
改正前までの13年間で86件。
改正後の11年で651件。
合わせて計737件です。
やはりドナーカードなしで臓器移植ができるようになった効果は高かったと言えるでしょう。

皆さんの予想は合っていたでしょうか。
意外と、法改正前後でそんなに変わらないと予想した人や、
いずれも実際よりも少なめに見積もっていた人が多かったです。
昨年度までは少なめに見積もる人はむしろ少数派で、
ほとんどの人が1,000件とか10,000件とかかなり多めに見積もっていたのですが、
今年は現実的かつ悲観的な人が多いのでしょうか。
いずれにせよ、日本ではまだまだ諸外国に比べて脳死・臓器移植の実施数が少ないのはたしかです。
これを今後どうしていくか考えながらこのあとの講義を聴いてみてください。
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Q.文化相対主義か、普遍的倫理か?

2020-07-13 10:54:05 | 「倫理学概説」
急遽予定を変更して、2週にわたって文化相対主義について考えてもらいました。
第7回学修指示書のなかで私は、次のように書いていました。
「文化相対主義の考え方と人権の考え方は真っ向から対立する場合があります
(私はむしろ対立しないという立場ですが、それは少数派です)」
この (   ) 内の注意書きを見逃さずに読んでくれた人から、
次のような質問を頂戴しました。

「なぜ小野原先生は、文化相対主義の考え方と人権の考え方が対立しないと考えるのですか?」

さて、これに対して何とお答えしたらいいでしょうか。
まず、「人権」 と言ってもひじょうに多岐にわたる内容を含んでいるので、
少し整理しておきましょう。
歴史のなかで 「自然権」 から出発して 「基本的人権」 へと発展を遂げるなかで、
少しずつその内容も拡張されてきました。
ざっくり言うと 「自由権」、「参政権」、「社会権」 の3つです。
皆さんはこれら3つをセットで習ったかもしれませんが、
最初から3つセットで基本的人権とされていたわけではありません。
まずは自由権でした。
今回の文化相対主義との関連で重要になってくる人権は自由権ですので、
自由権に絞って話を進めていきましょう。

皆さんは、人権としての自由にはどのような自由が含まれていると思いますか?
何でも自分のしたいことを思い通りにすることが自由であり、
それが人権としての自由なのでしょうか?
そうではないということはわかりますね。

ホッブズは当初そのような、何でもしていい無制限の自由を自然権と考えていましたが、
そんなものを認めてしまうと 「万人の万人に対する闘争」 状態に陥らざるをえません。
ホッブズの理論ではそのような事態を避けるため、
各人が社会契約を結ぶことによってリバイアサンとしての国家を結成し、
各人がもっていた自然権としての無制限的自由を放棄して、
国家に全面的に委譲して国家に従うということになっていました。
これはこれで当時としては十分先進的な思想でしたが、このような考え方では、
人権を保障するための政治体制を構想することには結びつきませんでした。

人権としての自由という考えが有意味なものになるためには、
何をしてもいい無制限な一方的な自由ではなく、
他の人の自由を侵害しない限りでの自由、
他の人の自由と両立可能な自由というものを考えなくてはなりません。
カントの言い方を借りるならば、普遍化可能な自由ということになります。
自分だけが自由なのではなく、自分も他の人もみんなが自由でありうるような自由、
そういうものでないと人権としての自由とは言えないのです。

そのような人権としての自由として真っ先に概念化されたのが、信教の自由でした。
時は宗教戦争の時代、カトリックとプロテスタントが、
同じキリスト教徒どうしだというのに血で血を洗う過酷な戦争を繰り広げていた時代です。
信教の自由というのは、互いの信仰・宗教が違っているからといって、
神の名において相手の命を奪うようなことはしてはならない、ということです。
相手がどんなに許しがたい信仰・宗教を信奉していたとしても、
それを信ずる自由を認めて相手と共存しなければならないという、
きわめて高度な寛容が求められることになったのです。
生命・身体の自由というのもこの流れで保障されなければならないことになりました。
つまり信教の自由というのは、自分がどんな宗教を信じてもいいというだけではなく、
相手の信教の自由も認めるものでなくてはならず、
しかも両者が相互に生命・身体の自由を保障した上で初めて成り立つものなのです。

このような信教の自由、生命・身体の自由といった人権としての自由は、
異なる宗教、異なる文化が相互に共存するための枠組み、土台であった、
ということはご理解いただけたでしょうか。
もちろん、当時はまだ文化相対主義という考え方は生まれていませんし、
文化相対主義は、ヨーロッパ出自の人権思想そのものをも
相対化しようとして登場してきたことは間違いありませんが、
文化相対主義が登場せざるをえなかった背景と、
人権としての自由という考え方が登場してきた背景には共通する問題があった、
と私は考えています。
そして、人権としての自由が何でもありの自由ではありえなかったのと同様、
文化相対主義の相対性も何でもありの相対性ではありえないと思うのです。
万人の自由を保障するための枠組み、
すべての文化の相対性を保障するための土台といったものがどうしても必要で、
それが人類に共通の普遍的な倫理=人権ではないかと思うのです。

皆さんのなかにも私と似たようなことを考えてくれた人がいました。
例えばこんな意見。

「教科書を読んだ時には、国や地域によって文化は異なり、それらを認める文化相対主義に賛成であるが、ブログ記事を読むと、それに賛成しきれなくなった。しかし、ブログ記事のような悪い文化だけではなく、善い文化もあるだろうから、文化相対主義を真っ向から批判することはできない。そこで、道徳に関する 『土台』 は世界共通でも、その上の部分はそれぞれの文化によって異なってもよい、と考える。土台というのはまさに、世界人権宣言や子どもの権利条約のことで、これらは世界が共通して守らなければならないものである。この人権という土台が、世界共通で守られ、侵害されないものであるならば、国や地域によって文化は異なってもよいと思うし、道徳判断も異なると思う。人権などの最低限のことは世界共通で普遍なもので、これに関しては国や地域によって違いは認められないが、その上の習慣などは、文化相対主義でよいと考える。つまり、非人道的な行為を行わない文化だけが、その地域特有の文化として認められ、他からも批判されず、守られる、というものである。」

「私は、文化相対主義に賛成である。道徳は社会に基づいて形成されるものであり、社会の在り方が異なっていれば、道徳の在り方も異なる。そこに普遍的な真理は存在しない。ある事柄を絶対的な真理や価値だと位置づけることは、自分たち以外の社会にもその価値観を押し付けることにつながる。それは、相手の社会の価値観を否定することになり、両者の対立を招く。そうした事態を防ぐためには、相手の文化や価値観を受け入れる姿勢が必要である。文化相対主義に対し、レイチェルズは自分の文化の道徳を批判できなくなると指摘している。しかし、私はこの指摘は不適切だと考える。文化が相対的であるということは、様々な道徳が存在しうるということである。そのため、自分たちと異なる価値観の存在を認めることになる。したがって、文化相対主義の方が自らと異なる価値観に寛容だと考える。一方、道徳に絶対的価値を求めた場合、絶対的とされたものは時間、場所、個人に関わらず価値があるものであるとみなされるため、それを批判することは許されない。このことから、むしろ文化相対主義に反する立場の方が、自分たちの道徳を批判できなくなると考える。また、レイチェルズは、文化相対主義によってある文化の非人道的行為を非難できなくなるとしている。これに関して、私は、文化相対主義と人権は対立しないと考える。そもそも、道徳や文化は人生をより良くするためのものである。究極的に言えば、文化や道徳を失ったとしても生きていくこと自体は可能である。つまり、文化や道徳について考えることができるのは、自分の生命や権利がある程度保障されていることが前提である。「名誉の殺人」のように、その前提が脅かされるような状況下では道徳や文化などを語ることはできない。そのため、人権や生命は道徳や文化とは別の問題であり、それらを脅かす行為は道徳という以前に許されざる行為である。したがって、文化相対主義を受け入れても異文化の非人道的行為を非難することは可能であると考える。」

例えば、今回考えてもらった 「名誉の殺人」 ですが、
私はなぜあれをひとつの文化として尊重すべきものと考えず、
人権や普遍的倫理にしたがって改善されるべきものだと判断するのでしょうか。
それは、そこに生きる彼ら自身のロゴス (理性、ことば) によって選び取られた文化ではない、
と判断せざるをえないからです。
選択するためには、それ以外の選択肢が提示されている必要があります。
自分たちの世界の外には 「名誉の殺人」 という文化とは異なる文化があまた存在し、
それらとの比較対照によって何を継承し何を改善していくか、
自分たちのロゴスを用いて判断できて初めて、
文化は継承されていくべきだと思います。
むろん各地域が孤立していた時代はそうした比較対照はできなかったわけですが、
グローバル化した現代においては、情報の共有が可能になりました。
文化が生き残っていくためには、そうした切磋琢磨にさらされ、
それでも選択され継承されることによって尊重に値する文化となるのだと思います。

しかし、あの文化が存続できているのは、
一番の当事者であるあの世界の女性たちにまったく教育が施されず、
彼女たちのことば (ロゴス) が完全に封じられることによってのみ可能となっています。
彼女たちが他の選択肢を知ったら、あの文化を選び取るでしょうか。
ひょっとするとはじめのうちは選ぶかもしれません。
しかし、それは長い年月持ちこたえることはできないだろうと思うのです。

では、知識が与えられ、ロゴスを用いることが許されたら、
文化は変わっていくのでしょうか。
私は変わると思います。
実際に日本でも似たような文化が廃れていった事例があります。
切腹文化です。
江戸時代の日本においても誇りが尊ばれ、
恥が極端に嫌われていました。
そして恥を受けたり、受けそうになったときには、
潔く自ら割腹することが誇りを取り戻す方法として推奨されていました。
家族によって殺されるのではなく、自ら死を選ぶのですから、
「名誉の殺人」よりは当事者も納得して受け入れていた文化だったと思いますが、
その文化も文明開化とともにあっという間に廃れていきました。
文化はいくらでも変わっていくものなのです。
文化とロゴス、文化と選択の問題に関して、
次のように書いてくれていた人たちもいました。
片や文化相対主義に賛成の人、片や反対の人ですが、
主張している内容は共通していると思います。

「私は文化相対主義に賛成します。その地域で根付いてきた文化や環境が異なれば、そこで生き、成長した人々の考え方もほかの地域で育った人々とは異なることは必然であり、絶対的に正解であるとされる環境や文化がない以上、誰にとっても正しいとされる対的な道徳も存在しえないと考えます。しかし、どれだけ文化の違いを認めるといっても、閉鎖的な環境のなかで自分たちだけの文化を基準に生きていくことは間違っていると考えます。ブログにあった「名誉の殺人」ですが、絶対的な正解が分からない以上は完全に間違っている文化だと言い切ることはできないと考えます。しかし、私たちからすれば残虐だと感じる行為をするには、相応の理由と多文化の理解、同意が必要であると考えます。スアドさんが住んでいた村の住人たちは、「人権」という考え方を理解し、そのうえで自分たちの行為がどのような意味を持つのかを確認し、行為の対象にもその考えや文化を認めてもらうことが必要であると考えます。地域ごとに文化や価値観が異なるように、一人一人が違う人生や考え方を持っています。そのような権利や思想を自分が正しいとする文化で抑えつけたり、奪ったりすることは間違っていると思います。よって私は、文化相対主義には賛成しますが、個人が文化に巻き込まれることはあってはならないと考えます。文化とは押し付けるものではなく、形を変えながらも代々継承されていくものであり、自分が継承していく文化は個人が選択するべきであると考えます。」

「私は文化相対主義に反対です。自分は自分、他人は他人という考えでは何も生まれません。確かにその独自の文化を守ることは大切だと思います。しかし情報を遮断して、自分の殻に閉じこもっていてはその文化は停止し、発展しなくなってしまいます。今は特にグローバル化が進んでいて、享受しようと思えばたくさんの情報が入ってくるのでなおさら文化相対主義になってはいけないと思います。他の文化の良いところは受け取り、自分の文化に取り込むことが重要だと思います。他の多くの人に非難されるような道徳は変えるべきです。世界では、真逆の道徳が普遍的であるかもしれません。どちらが正しいのか、客観的に見つめ直す必要があると思います。よって私は文化相対主義に反対です。」

前回、カント倫理学に対する私の立場について書きました。
そのなかでカントの「批判倫理学」(2~5)と「実践哲学体系」(6、7)を分けて論じました。
それと今回の話を絡めて説明すると、
人類に普遍的な倫理としての人権を唱えているのが「実践哲学体系」のほうです。
私はそちらには全面的に賛成しています。
それに対して、カント自身は「批判倫理学」のほうも人類に普遍的な倫理であって、
これ以外の倫理は認められるべきではないと考えていましたが、
私はカントの「批判倫理学」はあくまでもいろいろありうる倫理のなかのひとつにすぎず、
あんなに厳格な倫理学に固執しなくとも、他にもいろいろ考えてみていいんじゃない、
とわりとルーズに考えています。
批判倫理学を一途に信奉し遵守する人がいたならば、
「大変だと思うけどがんばってね」と温かく応援してあげたいと思いますが、
お前もカント主義者の端くれなら「批判倫理学」にのみしたがって生きろと強制されたら、
ごめんなさい、ぼくにはムリです、ぼくにそれを押しつけないでください、
と文化相対主義の立場に立って丁重にお断りさせていただくでしょう。
人権と文化相対主義とはそれぞれの依って立つレベルが異なり、
人権が保障されて初めて文化相対主義が成り立つと考えているので、
両者は対立しません、というのが今回のお答えです。
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カント倫理学に対するまさおさまの立場

2020-07-06 14:07:07 | 「倫理学概説」
「倫理学概説」でカント倫理学を取り扱ったのは第4回のときでしたが、
その後もなぜだかよくカント倫理学について聞かれます。
特にカント倫理学に対する私のスタンスを問われることが多いです。
ひとつはこんな質問。

「Q-1.先生はカントの倫理学についてどのような立場をとっていますか。私は幸福主義の文章を読んでなるほどと思いましたが、それ以上追求したいとは思いませんでした。なぜなら、幸福主義について納得してしまったからです。一方、カントの倫理学などは正直あまり理解できませんでした。しかし、理解できなかったからこそもう少し知りたいと思いました。先生がなぜカントの倫理学を研究しているのかを教えていただければ幸いです。」

最後に書かれている 「なぜカントを研究しているのか」 に関しては、
以下の3つのブログ記事をご覧いただければと思います。

  「Q.一番好きな哲学者は誰ですか?」

  「Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか?(その1)」

  「Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか?(その2)」

これらを読んでいただければ、最初に書かれた問い
「先生はカントの倫理学についてどのような立場をとっているか」
についても、自ずからわかってもらえるでしょう。
あるいは、これらのブログを読まなくとも、
学修指示書の中で自分がカント主義者であることはすでに公言していたかもしれません。
したがって次のような質問もいただいておりました。

「Q-2.以前先生のブログ記事を読んだ際、先生はカント派の人間である、ということを仰っておりましたが、倫理学研究者の中では 『私はカント派である』 と言ってしまうと、カントの主張すること全てに賛成しなければならないのでしょうか? ちなみに、私はカントとは多少違う考えを持ち合わせていても何ら不思議はないと考えております。先生としては、今更何を聞いてくるんだ、と呆れていることは容易に想像できますが、気になったので質問させていただきました。」

別にこう聞かれたからといって呆れたりはしません。
当然ありうる質問ですよね。
これに関しては、実は第2回のときに読んでもらった以下のブログ記事の中にすでに書いてあります。

  「Q.倫理学者は倫理的な人ばかりですか?」

この記事のなかの一番最後のところに、こう書いておきました。
「私はカント派なので第2段階レベルの倫理学者をめざしていますが、
 でもカントはけっこう怪しいこともいろいろ言っていて、
 そうするとどうしても新たな問いが湧き上がってきてしまうので、
 第2段階に留まるのはなかなか難しいですね。」
ここで言う 「第2段階レベルの倫理学者」 というのは、
「本当の普遍的な倫理を追い求めていく」 カントのような倫理学者のことです。
まさにこの2回皆さんに考えてもらっていた 「普遍的な倫理」 を
私も追い求めているわけで、そこがカントに惹かれるポイントでもあるわけです。
しかし、ではカントが打ち立てた義務論的・動機主義的倫理学こそが普遍的な倫理であると、
全面的に信奉しているかというと、なかなかそうはいかないわけです。
賛同する部分もあるけれど、ヘンだなと思う部分もあるわけで、
そもそも哲学や倫理学というのはそういう学問なのであって、
誰かが唱えた学説をそのまま全部鵜呑みにするような人はおよそ、
哲学者・倫理学者とは言えないのです。
それは自分が一番好きな哲学者の学説であったとしても同じなのです。

そこで最初の質問者の方の冒頭の質問に戻って、
私はカント倫理学に対してどういう立場に立ち、
どういう部分に賛成し、どういう部分に反対しているのでしょうか。
実はこれに関しても、皆さんにすでに読んでもらったブログ記事に書かれていたはずなのです。
こちらです。

  「カント倫理学の魅力と限界」

鋭い人であれば、「魅力と限界」 というタイトルが、
賛成しているところも反対しているところもあることを表していた、
ということに気づいてくれていたかもしれません。
ただまああの記事は学生の皆さんのための書き下ろしではなく、
日本倫理学会で名だたる倫理学者の方々と議論するために書いた文章を転載したもので、
カント倫理学のことはみんな知ってるという前提で書かれていたので相当難しかったですよね。
でも、今読んでみると第4回に読まされたときよりはだいぶ理解できると思うので、
ぜひもう一度チャレンジしてみてください。
私はあの中でカント倫理学の特徴を8つ挙げておきましたので、
それを使いながら私の立場を説明したいと思います。

まず最初に 「1.道徳的立場の選択」 ですが、
これに対しては全面的に賛成しています。
私は倫理学にとっては、普遍的な道徳的立場に立つことが最も重要であり、
倫理学にとっての最大の敵は利己主義であると考えています。
自分さえよければ、自分たちさえよければという利己主義者を見ているとムカムカします。
最新の倫理学では利己主義でいいんだ、
自分の利益を守るためにこそ倫理は発展してきたんだ、
と唱える進化倫理学が主流になりつつありますが、
それに対してはカントとともに断固として反対していきたいと思っています。

続いて 「2.形式主義と理性主義」 ですが、これはひじょうにビミョーです。
2つ含まれているうちの 「理性主義」 にはある程度賛成しています。
哲学や倫理学は、「理性」 すなわち 「ロゴス(=ことば)」 の産物でしかありえない、
と私は考えています。
カントのように理性に絶対の信頼を寄せているわけではありませんが、
しかし、「本能の壊れた動物」 としての人間は、
ロゴス (理性、ことば) を駆使して何とかやっていくしかないと考えているので、
カントの理性主義には基本的に賛同しています。
そして、第1で述べたように、普遍的な立場に立つことが重要だと考えているので、
カントが前面に押し出す 「普遍性の形式」 にも基本的には賛同するのですが、
じゃあ自分は 「形式主義者」 かというとちょっとそこは素直にウンとは言い難いです。
これは後の論点とも関連しますが、
カントは 「形式主義」 をとことんまで徹底しすぎて、
「ちょっと何言ってるかよくわからない」 という域にまで達してしまっており、
それはいくら何でもやりすぎだったんじゃないかなあと思っております。

「3.反幸福主義」 にも、「4.感情軽視」 にも基本的に賛成しています。
第3回のときに読んでもらったブログに書いたように、
幸福になること、幸福にすることを倫理学の原理として立てることはできないと思います。
また、上記2の前半で書いたように、
倫理学はロゴスに基づいて構築するしかないので、
人間の壊れてしまった本能や、移ろいやすい感情や感性や欲求なんかに依拠して、
首尾一貫した倫理学を打ち立てることはできないだろうと思います。
その意味ではカントに全面的に賛成と言ってしまってもいいのですが、
倫理学の原理にするか否かというところとは別にするならば、
幸福や感情の問題は人間にとってきわめて重要だと私は思っており、
このブログでも幸福や感情のことばかり書いているので、
このブログを読む限り、私のことを反幸福主義者であるとか、
感情軽視論者であると思う人はそんなにいないかもしれません。
カント研究者のあいだでも、私は快楽主義者と思われているらしく、
よく 「なぜお前なんかがカントを研究しているのだ」 と言われたりします。
自分がカントのリゴリズム (厳格主義) とはほど遠い存在であることは自覚しているので、
倫理学者としてカントの反幸福主義や感情軽視論に賛同していることと、
現実の生活者としてカントの教えを実践していないように見えることとの間にある、
大きなギャップをどう埋めていくのか、今後考える必要があると思っています。

今の話とも関連しているのですが、
カント倫理学のなかで私が最も憧れると同時に最も疎外感を感じるのは、
「5.究極的善への志向」 のところです。
先に 「なぜカントを研究しているのか」 にお答えするブログとして読んでもらったなかに、
「カント哲学のもつ崇高な 『理想』 の力に魅せられた」 と書きました。
このあと 「8.理想と現実の峻別」 でも触れるわけですが、
カントはロゴス (=理性) の力を総動員して理想を理想として極限まで純化しました。
人間にはまったく及びもつかないような究極の善を提示してみせたのです。
その究極的善は人間にとっての実現可能性などまったく歯牙にもかけない、
とことんまで研ぎ澄まされた理想です。
自分がそれに近づきたいとか、近づけるよう努力してみたいなんてまったく思わせない、
ただひたすら圧倒されるしかないような遠い遠い理想です。
自分にはまったく無理だとわかっているがゆえに、
それは限りなく貴いものだと憧れずにはいられませんでした。
「魅力と限界」 の最後で 「作品 (理性の産物) としての完成された美を認めている」
と書いたのはそのためです。
しかし、憧れる一方で、「カントの善はあまりにも純化されすぎていて、
通常の人間からかけ離れたものとなってしまっている」 とも思わざるをえません。
この倫理学は普通の人間にとって何か生きる指針を与えてくれるのだろうか。
人間に対して人間の不完全性を突き付け、
無力感や疎外感を感じさせるだけの空虚な理想ではないのか。
つまり、作品としては果てしなく美しいのだけれど、
現実の人間の生き方には何の影響も与えられないのでないか、とも思うのです。
したがってこの 「5.究極的善への志向」 の部分は、
これこそカント倫理学の真骨頂と畏敬の念をもって評価する半面、
これは、私の求める倫理学ではないし、私が倫理学に求めているものでもないなあ、
と思わざるをえないのです。
魅力と限界が同居しているこの両義的な感じを理解していただけるでしょうか。

カントの狭い意味での倫理学は2~5によって成り立つ 「批判倫理学」 でした。
しかしカントは、その作品として完成された 「批判倫理学」 を打ち立てただけでなく、
晩年には 「6.正と善を包含する規範体系」 をも打ち立てようとしました。
「魅力と限界」 のなかではそれを私は 「実践哲学体系」 と呼びましたが、
私がずっと研究対象にしてきたのはこの 「実践哲学体系」 のほうなのです。
こちらは人間の有限性にも配慮した、人間にとっての義務の体系です。
これは 「批判倫理学」 とは異なる立脚点に立って構築されているので、
正統的なカント研究者には毛嫌いされてきました。
しかし、私が考える倫理学というのは、
人間が人間であるがゆえに守らなければならない普遍的な規範の体系を提示すること、
だったので、「批判倫理学」 よりも晩年の 「実践哲学体系」 のほうに大きな魅力を感じ、
これをずっと研究してきました。

そのなかでも特に、「7.世界市民主義」 のところに一番惹かれています。
文化や国家や宗教などの違いを超えて、人類が世界市民として共有する義務は何か。
多様な人間たちが多様性を保持したまま、
互いに世界市民として共存し、「永遠平和」 を築いていくにはどうしたらいいのか、
そのような普遍的な倫理を打ち立てていくことこそが、
現代の倫理学 (実践哲学) の使命だと思うのです。

私がカント倫理学 (実践哲学) のなかでも6や7の部分に一番賛同している、
ということはご理解いただけたでしょうか。
6や7においてもあいかわらずカントは 「8.理想と現実の峻別」 を徹底しているので、
私が出発点において感じていたカント倫理学の 「崇高な理想の力」 は健在です。
ただ、5と8が結びついたときには憧れよりも疎外感のほうが絶大でしたが、
6や7と結びついた8はそこまで排他的ではなく、
むしろ適度な緊張感を与えてくれる、
いい感じの目標としての 「理想」 を提供してくれるので、とても魅力的です。

以上、カント倫理学に対する私のスタンスをわかっていただけたでしょうか。
まとめると、1、6、7に関しては全面的に賛成、
2、3、4、5、8に関しては賛同する部分もありつつ、
ちょっと違うところや疑問に思うところもある、ということになるでしょうか。
書き始めたときはもっとサクッと書き終わるかと思っていましたが、
けっこうダラダラと長い話になってしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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本能と変化の関係

2020-06-29 02:44:53 | 「倫理学概説」
「倫理学概説」の第3回の遠隔授業で幸福について考えてもらったとき、
ワークシートの質問欄に長文の所見を書いてくれた方がいらっしゃいました。
力作なのでぜひ引用してみましょう。

「今回の講義を受けて、あらためて人間はよくできている生き物だと感じた。結局人間は本能の中で種を残すことを考えているんだと思う。『幸福』は子孫を残すための手段にすぎないのだと思う。きっと『本能』の中で幸福=子孫を残すことになっているのだろう。それに気づいていないだけで。ただそれに気づかなかった古い哲学者たちが人間が生きやすいように『幸福』を定義して世の中に広めてきた。その結果が今の世の中なのだと思う。都合のいいように『幸福』の定義がされ、だれもそれを疑わない。疑ったとしても世の中の大多数の人間の考えにのまれ、自分は間違っているのだと勝手に思ってしまう、もしくは間違っているとして世の中から一方的に考えがかき消される。社会の上にいるものは世の中の考えが大きく変わることを恐れる。自分たちの支配が崩れるのを恐れる。だから、危険な新しい考えは普通の人にはわからないようにこっそりとかき消される。そうやって人間は人間を支配し、世の中の人は支配されるのが当たり前になってしまっている。かといって、私には世の中を変えるような定義は浮かばないし、浮かんだとしても世の中にそれを発信し、世界を全く別のものにする勇気もない。人間は現状維持を強く望む。新しいものを恐れる。ただ、新しいものを恐れ、現状維持をしたところで人間は生き残っていけるのか。この地球上で変化していないのは人間だけだろう。このままなら人間は確実に絶滅する。変化を求めないと確実に絶滅する。変化を恐れてはいけないのだと感じた。申し訳ありません。意味の分からない文章書きました。倫理学の講義を受けると、答えのないものを考えているのですごく深く考えてしまいます。今回の文章も自分が考えたことです。所詮1個人のどうでもいい文章なので、読んでいただかなくてもいいです。自分でもきっと寝ると忘れてしまうようなものなので。自分のような人間がこんなことを書いてしまい申し訳ありません。もしかしたら自分の中で思っていることも小野原先生のような普段から深いことを考えている人であればわかっていただけるような気がして書きました。このような無礼をお許しください。大変失礼いたしました。」

大変おもしろく読ませていただきました。
が、私はこの方とはだいぶ違う意見をもっています。
というか、この方も私がこれとは違う意見を持っていることを、
これを書いたのとちょうど同じ時期に聞いていた(読んでいた)はずです。
「倫理学概説」の第3回遠隔授業は5月26日から6月1日にかけて行われました。
その同じ週の5月27日から6月2日にかけて、
「キャリア形成論」の第3回「働くとは」の遠隔授業を行いました。
これを書いてくれた方は人間発達文化学類の1年生なのでどちらも履修しています。
「キャリア形成論」では例の「本能の壊れた動物」という話を読んでもらいました。
はたしてその話を覚えていた上で、それに対する反論としてこの文章を書いてくれたのか、
それともあの話とこの話が関係すると思わなかったのかわからないのですが、
せっかくですので、この件に関する私の見解を述べておきましょう。

まずこの方は「結局人間は本能の中で種を残すことを考えているんだと思う」
と書いてくれましたが、
「本能の壊れた動物」の話はまさにそんな本能はない(=壊れている)と主張したのでした。
古代ギリシアや江戸時代までの日本などでは
同性愛(男色)が当たり前の文化として根付いていたので、
そのことが種の保存本能がない(=壊れている)ことを証明していると思います。
したがってその次の「『幸福』は子孫を残すための手段にすぎない」という論にも、
「『本能』の中で幸福=子孫を残すことになっている」という論にも私は同意できません。
そういう人もいるだろうし、そのほうが多数派かもしれないけれど、
そうでない人が「13人に1人」とか「33人に1人」とかの割合で確実にいるのだとすると、
子孫を残すことが本能であるとか幸福であると言うことはできないでしょう。

その次の「それに気づいていないだけで」と「ただそれに気づかなかった」を除いて、
「古い哲学者たちが人間が生きやすいように『幸福』を定義して世の中に広めてきた」
から始まり、
「人間は人間を支配し、世の中の人は支配されるのが当たり前になってしまっている」
のところについては、私も同意見です。
ただしこの部分は本能の話ではなく、文化の話になっていると思います。
「人間は現状維持を強く望む。新しいものを恐れる」という部分は、
人間のある一面を捉えていると思いますし、
ひとりひとりの人間や短い時間に定位して考えるならばそういう傾向が強いと思いますが、
人類全体やちょっと長い時間(10年程度で十分)で見てみると、
むしろ人間はどんどん変化して新しいものに順応していっていると言えるでしょう。
文化は可変性が高いところにその特徴がありますので、
個人レベルでいくら現状維持を望んだところで、文化の変容を受け入れざるをえないのです。

私が福島大学に赴任した1994年当時、
喫煙者が多数派であって、禁煙場所は設けられていたとしてもほんのわずかでした。
教員会議が開かれる会議室には各テーブルに灰皿が置かれていました。
それから20年も経たないうちに福島大学がキャンパス内全面禁煙になるなんて、
まったく想像もできませんでした。
その頃はまだ「セクハラ」という概念自体が存在していませんでした。
男性教授が女性教員や事務職員に対して、
「まだ結婚しないのか」とか「付き合ってる人はいるのか」とか「子どもは産まないのか」
と聞くのは当たり前のことで、相手のために心配してあげているのだと、
本人たちは心から信じていました。
ボディタッチですらスキンシップという名の親密性を共有する行為として、
まったく悪気なく行われていました。
まさかそれが懲戒処分の対象になる日が来るなんて想像もできませんでした。

こんな短いスパンで変化していく動物は他に存在しません。
というよりも他の動物ははたして変化しているのでしょうか?
進化というのは元の生物が遺伝子レベルで変化して、
別の種の生物へと枝分かれすることです。
これは個体レベルでの変化ではありません。
ある動物が産まれてから死ぬまでの間に、遺伝子変化を遂げるのではなく、
突然変異として遺伝子変化を遂げた個体が産まれてきて、
それがたまたま何らかの環境変化に適応するのに有利に働き、
その遺伝子を受け継ぐ者たちが増えていくということによって新しい種が生じます。
その際、元の種は絶滅しない限りは元の種のまま存続しますから変化するわけではありません。
進化というのは、元の種から新しい種が枝分かれして増えるということであって、
現に存在している種が別のものに変化するというわけではないのです。

私たちホモ・サピエンスも、動物の種という意味で言うならば、
他の動物と同様、誕生以来20万年間、遺伝子レベルでは変化(=進化)していません。
その意味では人間はまったく変化していないと言えるでしょう。
しかしだからといって「この地球上で変化していないのは人間だけだろう」とは言えません。
他の動物も変化しておらず、チンパンジーはチンパンジーのままだし、
ボノボはボノボのままなのです。
この先、ホモ・サピエンスが進化して何らかの新しい種が生まれることがあったとしても、
それは新しい種が増えたというだけであって、
ホモ・サピエンスはホモ・サピエンスのままなのです。

しかしホモ・サピエンスはもはや進化なんかしなくとも、
たいがいの環境変化に適応していくことができます。
遺伝子レベルで変化せずとも、文化を変化させることによって適応できるからです。
その最たる例が宇宙ロケットです。
人類は地球外に飛び出ることができるようになりました。
地球という環境以外のところですら生活することができてしまうのです。
他の動物が何億年かかって進化したところで地球の外に出て行くことはできないでしょう。
それを人類は遺伝子を変えることなくたった20万年で可能にしてしまったのです。
そう考えるとこの地球上で人間ほど変化している動物はいないと言えるのではないでしょうか。
人間がただ本能にしたがって子孫を残すことだけを目的にしていたのなら、
こんな偉業はけっして達成できませんでした。
本能とは関係ないところで文化を発達させ、
変化し続けてきたからこそ今の私たちがあると思うのです。
というわけで、今回この意見を書いてくれた方と私は、
出発点の本能のとらえ方のところでまったく対立しているのですが、
最後の結論に関しては全面的に同意したいと思います。
「このままなら人間は確実に絶滅する。
 変化を求めないと確実に絶滅する。
 変化を恐れてはいけないのだ」
この方が何に関して絶滅の危機を感じていらっしゃるのかわかりませんが、
私もこのままでいったら絶滅する危険性を感じています。
日本なんか真っ先に滅びるでしょう。
選択的夫婦別姓制度を導入することすらできなければ少子化→絶滅は必至です。)
変化を恐れず、新しい文化を生みだしていかなければいけないと思います。
こちらの思考を誘発するような意見をありがとうございました。
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Q.自分を見つけるにはどうしたらいいんですか?

2020-06-16 15:24:36 | キャリア形成論
今年の看護学校の質問コーナーでは、代表質問でも聞かれましたし、

ワークシートにも何人かの方が同様の質問をくださっていました。

「Q.自分のことがあまり分かりません。
   先生は自分をみつめなおすとき、何を考えますか?」

「Q.看護学校に入ってから、自分についていろいろと模索してきました。
   今もしているのですがけっきょくいろいろ試しもしたがよく分かりません。
   自分を見つけるには?」

みんな自分を見つけられなくて困っているようですね。

そんな皆さんのために信頼のおける方法を紹介してあげましょう。

福島大学ではいろいろな授業で紹介しているし、

看護学校の先輩たちから質問されたときに教えてあげたこともあるのですが、

こんな本があります。



これは超オススメです。

私自身がこれを読んだことによって新しい自分 (才能) に目覚め、

その後の人生がさらに楽しく開けてきました。

この本に関してはこのブログのなかで何度か紹介していますので、

ぜひそちらを読んでみてください。

  「強みを活かして生きる」

  「34位までわかるストレングス・ファインダー」

  「Q.どうすれば自信や自分をしっかり持てるようになりますか? (その2・回答修正)」

  「Q.人の気持ちをわかってあげるのが下手なんですがどうしたらいいでしょうか?」

  「Q-2.先生はどんな盲点の窓を指摘されたことがありますか?」

  「Q.初対面の人と無理なく自分らしく接するにはどうすればいいのですか?」

  「Q.考え方に人それぞれ癖というのはあるんですか?」

探してみたらけっこう見つかりました。

どれだけ推してるんでしょうか?

でも、これは自分でやってみて本当に目からウロコが落ちました。

自分の強みって自分にとっては当たり前の力ですから、

それが自分だけに備わっている特別な力だということに気づきにくいんですね。

そんなの誰でも持っていて当然だろうって勝手に思い込んでしまいがちなわけです。

それを 「ストレングス・ファインダー」 という自己分析ツールで客観的に判定してもらうと、

あ、なるほど、これって誰もが当たり前に持っている力ではなく、

自分に固有の強みだったんだとやっと気づくことができるわけです。

まさに 「盲点の窓」 ですね。

これは全学生にオススメです。

皆さんもぜひやってみてください。
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強みを活かして生きる

2020-06-16 14:47:14 | キャリア形成論
自分の強みを活かして生きるというのは、
幸せに生きていくためにとても大事なことです。
私は、自分の強みの1つである 「着想」 を活かすことができているので、
大学教員という職に就けて本当にラッキーであった、という話を書きました。
今日は、この自分の強みをどうやって知ったかをご紹介いたします。

日本では2001年に発売されて爆発的に売れ、
2017年には新版が発売されて、さらに売り上げを伸ばしている、
『さあ、才能 (じぶん) に目覚めよう 新版』 という本があります。
この本はお薦めです。
「教養演習」という (現在の「スタートアップセミナー」)
私が担任している1年生の授業では、全員にこれを買ってもらっています。

この本の哲学が好きで、人間はとかく弱いところ、苦手なところを克服し、
劣っている部分を補っていこうとしがちだけれど、
そんなことはしなくていいから、自分の強みをどんどん伸ばしていこう、
というのがこの本の基本的主張です。
初版の著者はポジティブ心理学を提唱し、ギャラップという調査会社を創立した人で、
200万人ものインタビューに基づいて、人間の強みを34に分類し、
「ストレングス・ファインダー」 という、
自分の強みを特定するための心理テストを開発したのです。
この本には、34の強みがそれぞれどういうものか書いてあるのですが、
それだけではなく、本の末尾に付されたアクセスコードを使って、
インターネット上から 「ストレングス・ファインダー」 を受けることができるのです。

「ストレングス・ファインダー」 をやると、
自分の上位5つの強みがわかります。
私の強みは以下の5つでした。
1位 着想
2位 内省
3位 親密性
4位 ポジティブ
5位 戦略性
本を読んで34の強みの説明を見ながら、
きっと自分の5つはこれだろうなあと予想したものがあったのですが、
2位の 「内省」 くらいしか当たっていませんでした。
他の4つはとても意外だったんですが、
しかし、この結果を受けてよくよく自分の行動や選択などを振り返ってみると、
なるほどたしかに自分はこういう人間かもしれないと思えてきます。
特に、1位の 「着想」 はまさにこれが自分の核だったんだと、
ものすごく納得がいきました。
自分でも気づいていない、意識していない強みに気づいてみると、
これを活かさない手はないよなあと思いますし、
また実際に仕事の中ですでにけっこう活かしているということにも気づきます。
40歳を過ぎるまでこれに気づかずに生きてきたのはもったいなかったなあ、と思います。

というわけで 「ストレングス・ファインダー」 はお奨めです。
本を全部読まなくてもいいけど、
とにかく本を買って 「ストレングス・ファインダー」 をやってみてください。
(古本では 「ストレングス・ファインダー」 をできないので注意!)
学生もみんなやってよかったと言います。
自分のキャリアを考えていく上でも、とても参考になるでしょう。
キャリア・カウンセリングのほうでもいろいろな心理テストを学びましたが、
(Y-G性格検査、適職診断検査CPS-J、MBTI、など)
「ストレングス・ファインダー」 のほうが断然お奨めだと思います。
勝間和代さんは私と同じ 「着想」 が強みらしいですが、
彼女の推薦のことばはこう↓でした。

「ぜひ、隠れた能力を見つけて、わくわくしてください」

ホントにわくわくできますよ
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