goo blog サービス終了のお知らせ 

まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

トシちゃんは女?

2025-05-24 21:47:54 | そして父になる
小学校2年生になる娘と日々いろいろなごっこ遊びをさせられているわけですが、

昨日は初めてのタイプのごっこ遊びに参加させられました。

「会社の会議ごっこ」です。

たぶんアップルに対抗して設立された、キャロットという会社で、

タブレットパソコンやら、その他いろいろな家電を作成している会社の、

彼女は社長の鈴木このみさんという方だそうです。

で、これから新製品開発会議のごっこをするというので、

参加者の名前を決めるように言われました。

私と娘以外はエアーの登場人物なわけで、

会議室のテーブル(我が家のリビングのダイニングテーブルです)の、

この席に座っているのは佐藤りんかさんね、

その隣は松田よしださん、その隣は田中りえさんね、と決まっていき、

次は私がテキトーな名前を名乗らなきゃいけなかったわけですが、

パッと何も思いつかず、困ったあげく、「じゃあ、ぼくは田原俊彦で」と言ったら、

即座に却下されました。

「なんでダメなの」と聞くと、

「パパは男なんだから男役にして。としひこは『子』だから女の名前」と言われました。

「『ひこ』というのは『子』じゃなくて、

 『彦』で一文字で男の子によくつけられる名前なんだよ」と

マジレスしそうになりましたが、『彦』が元来どういう意味で、

なぜ男の子にその漢字が充てられるのかきちんと説明できるわけでもなく、

「わかった。じゃあ田原俊也でお願いします」と修正要求を受け入れることにしました。

トシちゃん、最後まで戦えず、トシヒコは女の子になってしまいました、ごめんなさい。


戦争する本能は壊れていないのではないか?

2025-05-18 09:26:47 | キャリア形成論
「人はなぜ働くのか?」という問いとはあまり関係ないのですが、
次のような問いもいただきました。

「人間は古代から『土地』の取り合いによって戦争などを引き起こしていたと思います。
 ロシア・ウクライナの戦争は現実としてあります。
 そういう意味では、完全に『本能』は壊れてはいないと思ったのですがどうなのでしょうか。」

これは学生の皆さんが持っている、人間の本能に関する誤解のなかでも、
最も広汎に共有されている偏見だと思います。
これに対しては端的にこうお答えしておきたいと思います。

A.人間には、それどころか、いかなる動物にも
  戦争をする本能なんてありません!


これは絶対に覚えておいてほしい人間、ならびに動物に関する事実です。
動物は戦争なんてしません。
戦争は、人間が生み出した「文化」にすぎません。
たしかに人間は昔からずっと戦争をしていますが、
「本能」で戦争をしているのではなく、
「文化」として戦争をしているだけなのです。

動物、特に肉食動物は自分より弱い動物を捕まえて食べます。
それはたしかに生存本能に基づいて行っている活動ですが、
そのような捕食行動は「戦争」ではありません。
動物たちはあくまでも食べるために、食べて生存を維持するために、
自分とは異なる種の動物を狩りしているだけなのです。
皆さんも毎日3回くらい食事をしていると思いますし、
ヴィーガンでもないかぎり他の動物の肉を食べていると思いますが、
それを「戦争」と呼んだりはしませんよね。

「戦争」というのは、人間どうしが集団で武器を用いて殺し合いをすることです。
戦争する理由は様々あります。
質問者の方は「土地の取り合い」という例を挙げてくださいました。
その他、国家のため、宗教のため、資源の取り合いのためなどいろいろありえますが、
お腹が空いて相手を食べるために戦争をするなんて聞いたことがありませんよね。
したがって人間の行う戦争は、
動物が行う生存本能に基づく捕食活動とは何の関係もないのです。

もちろん動物も同種どうしで争うことがないわけではありません。
例えば縄張り争いというのは「土地の取り合い」に似ていなくもありません。
しかし、動物の縄張り争いはたいていの場合、
相手を自分の縄張りから追い払うくらいで終結します。
動物のなかには、同種の相手を殺すところまで発展する行動が見られる場合もありますが、
(カマキリの雌が雄を食べる、群れ(ハーレム)を乗っ取った雄が以前の雄の乳児を殺す等)
いずれも自分の遺伝子を残す確率を高めるための本能に基づいた行動であり、
人間の戦争とは何の関係もありません。

「本能」というのは、遺伝的特性として親から子へと受け継がれた、
身体的特徴ならびに身体的能力によって自然と必ずやってしまう行動です。
「ダイエット」の話をしたときに書きましたが、
「呼吸する」とか「排泄する」というのは本能的行動です。
「お腹が空く」というのも本能的反応です。
そういう本能があるという意味であれば、
たしかに人間の本能は完全になくなってはいないともいえるでしょう。
しかし、それらをどのように行うかという段階になると、
その行動様式はもう本能的には決定されていなくて、
人間が生まれた後に後天的に生み出した「文化」の影響を受けることになります。
多くの人間は「鼻呼吸」をしているらしいですが、私は「口呼吸」をしています。
便意を催したその場でではなく、「トイレに行って排泄する」というのも文化です。
お腹が空いたからといって「食べ物を取って食べる」とは限らず、
「お店で食べ物を買ってきて調理して食べる」こともできるし、
「我慢して食べない」こともできます。
どのように行動するかが遺伝的に決定されていないということを指して、
「本能が壊れている」と表現しているのであり、
それを補うために人間が脳で考え出した手段や方法のすべてが「文化」なのです。

皆さんはこれまでの人生で、銃を撃って人を殺したり、
飛行機で他国まで飛んで行って爆弾を落としたことがありますか。
まだやったことはないけれど、やりたくてやりたくてうずうずしていたりしますか。
人類全員がそうなのであれば人間には戦争本能があると言えますが、
そうでなく、一生そんなことはしたくないと思っている人もいますし(むしろ多数派)、
実際に一生戦争に行かずにすませる人がいるわけですから、
人間には戦争本能なんてないのです。

「土地(ここからここまでは私たちの土地であると定めること)」とか、
「家族」とか「国家」とか「宗教」といったものはすべて「文化」です。
それらのものを守るために武器を取って戦わなければならない、
という考えも「文化」です。
ルソーは「第二の自然」ということを言いました。
幼い頃から慣れ親しんできてそれが習慣化すると、
後天的に身に付けたものであることが忘れ去られて、
あたかも生まれつき自然に身に付けていた能力であったかのように思い込んでしまう、
つまり、そういう本能をもともと持っていたかのように、
誤解されてしまうことがある、というのです。
例えば、人間には自転車に乗る本能なんてないので、
初めて自転車に乗る練習をしたときは、上手くこげなくて苦労したと思いますが、
慣れてしまうと、どうこげばいいのかいちいち考えたりすることなく、
無意識で運転できるようになり、
スマホをいじりながらだって(それは道交法違反ですが…)運転できてしまい、
まるで自転車に乗る本能がもともとあったかのような気がしてきませんか。
そうしたものが「第二の自然」です。

「第二の自然」の最たる例が「家族」です。
普通の(一般的な)両親の下に生まれて普通に育てられてくると、
男女が結婚し子どもを産んで家族を形成するというのは、
自然な営み(本能的行動)のように思えてくるかもしれませんが、
人間には「家族」を作る本能なんてありません。
結婚」も「子育て」も「家族」もすべては、
人間が歴史のなかでたまたま生み出した「文化」にすぎないのです。
「第二の自然」はどれほど人間にとって自然(本能)のように思われようとも、
それはあくまでも「第二の自然」であって「文化」なのです。

「家族」が「本能」ではなく「文化」なのだということが理解できたら、
「戦争」が「本能」ではなく「文化」にすぎないということは、
はるかに理解しやすくなるのではないでしょうか。
そして、「家族」のように、本能の壊れた人間が生存確率を高めるために、
本能の代わりに生み出した良き文化を、
できるだけたくさん後世に残し、より改善していくとともに、
「戦争」のような、生存確率(特に一般庶民の生存確率)を下げるだけでしかない、
愚かな悪しき文化を1つずつなくしていくことが、
私たち人間に課された課題なのだろうと思います。

ダイエットは本能が壊れた行動なのか?

2025-05-17 11:20:16 | キャリア形成論
先に、「人はなぜ働くのか?」と「本能の壊れた動物」との関係がわからない、
という質問をくれた方が、それに続けて次のように書いていらっしゃいました。

「働くということは人間が失ったどの本能を補うための文化としてうまれたのだろうか。
 “ダイエット”を例として挙げると、この行為は人間が生きるための手段として身につけた
 食欲という本能を故意に抑制しており、これは本能の崩壊にあたるため、
 働いて腹をすかせるという文化からダイエットによって失われた本能を回復する、
 といった流れなのだろうか。
 もっと深い話なのは分かっているがリアリティに欠けるため、
 先生の考えをぜひご教授いただきたい。」

質問者の方は「ダイエット」という現象(文化)を間にはさむことによって、
「人はなぜ働くのか?」と「本能の壊れた動物」との関係を理解しようとされていますが、
その2つの関係を考えるのに、「ダイエット」を持ち出す必要はないと私は思います。
「ダイエット」というのは本当にごくごく新しい文化なので、
「働く」という古くからある文化の起源とは無関係だと言えるでしょう。
「人はなぜ働くのか?」と「本能の壊れた動物」との関係については
すでに書いたのでもう再論はしませんが、
「ダイエット」に絡めて、人間の壊れた生存本能について少し補足しましょう。

前回の記事で、動物の生存本能として、
「お腹が空く(=何かを食べたい)」→「食べ物を取って食べる」
という本能があるという話をしました。
実は動物の本能として考えた場合、もう少し続きがあります。
「食べ物を取って食べる」→「お腹いっぱいになったら食べるのをやめる」
ここまでひと続きのセットとなって正しい本能的行動の完結となります。
お腹いっぱいになってるのにいつまでもいつまでも食べ続けたりしたら、
胃が破裂して死んでしまいますね。
そこまで行かなくとも、栄養過多で大きくなりすぎ運動能力が低下して、
狩りの成功率が下がり、したがって生存確率も下がってしまうかもしれません。
成長と(捕食)活動に必要な分の栄養を摂ったら、
そこで摂食をやめるのが本能的行動としては正しいのです。

実際、動物たちはいったんお腹いっぱいになったら食べるのをやめますし、
狩りをする(食べ物を取る)のもやめます。
ライオンは狩りをして獲物を食べますが、お腹いっぱいになったら、
ガゼルが目の前をウロウロ歩いていても狩りはしません。
次にお腹が空いたときにガゼルがいるとは限らないし、
狩りが成功するとも限らないので、
今そこにいるうちに狩りをしておけばいいのにと人間なら思ってしまいますが、
食欲という名の生存本能に従っているライオンはそんなことはしないのです。

それに対して人間の食欲にまつわる生存本能は壊れてしまっています。
出発点の「お腹が空く(=何かを食べたい)」という身体的欲求だけは、
すべての人間にきちんと本能として備わっているわけですが、
そこから後の部分が全然壊れてしまっています。
他の生理的欲求と比べてみても、人間の食欲の壊れ方は尋常ではありません。
呼吸欲求や排泄欲求は、ほんのしばらくの間であれば我慢することができますが、
けっして長続きはしません。
呼吸を止めていられるのはほんの数分単位のことですし、
排泄欲求のほうもせいぜい数時間くらいのものです。
どんなに頑張って我慢していても限界が来ればけっきょく息をしてしまいますし、
排泄(お漏らし)もしてしまいます。

これに対して食欲のほうは、相当我慢することができます。
もちろん自然界において食べ物が手に入れられなくて、
食欲を我慢しなければならないという状況は人間に限らずどんな動物にもあることですが、
人間は文化としてわざと(食べ物を入手できるにもかかわらず)食べない、
ということができます。
例えば「断食」は、儀式のひとつとしていろいろな宗教で取り入れられています。
その究極の姿として、仏教における「即身仏」があります。
これはミイラ化する(つまり、死ぬ)まで断食を続け生きたまま仏になるという荒行です。
人間の場合は、「お腹が空く」という身体的本能と、
「食べ物を取って食べる」という能力・活動的本能が結びついておらず、
そこをわざと断ち切るような、生存本能に反した文化を作り上げることもできるのです。

ここまで行かなくとも、人間はいろいろな形で「食べるのを控える」ことができます。
自分の好きなもの、美味しいものしか食べないという偏食もその1つでしょう。
『美味しんぼ』海原雄山のように、
出された食事が気に入らなくてちゃぶ台ごと引っくり返すのも、
本能が壊れた人間ならではの行動と言えるでしょう。
質問者が例に出してくれた「ダイエット」も同様に、
人間の食本能が壊れているがゆえの新しい文化です。

ただし、ダイエットのことを語る場合には、
その一歩手前の段階についても押さえておく必要があります。
すなわち、「食べる」→「お腹いっぱいになったら食べるのをやめる」という部分に関して、
そのような本能も壊れてしまっているがゆえに、
暴飲暴食とか食べ過ぎといった行動が引き起こされるわけですが、
暴飲暴食が可能となるには、それだけ潤沢に食べ物がある、
いつでも手に入るという状況が作り出されている必要があります。
王侯貴族は別として、一般庶民にはそんな贅沢は許されていませんでした。
大量の食べ物を生産できるようになってからも、
その大半は税(年貢)として簒奪されていたからです。

現代ではスリムな体型が好まれているようですが、
理想の体型とか美というのも文化にほかならないので、
歴史のなかで、どんな体型が美しく理想とされるのかは、
その時代時代の考え方でどんどん変わってきました(こちら参照)。
人々が十分に食べられなかった時代には、
ふくよかで豊満な体型が理想とされていたようです。
おそらくそれは富の象徴でもあったのでしょう。

身分制が撤廃された近代以降、少しずつ庶民の暮らしも上向いて、
日々の食生活には困らない、むしろ十分に食べ物が手に入れられるようになって、
暴飲暴食とか食べ過ぎといった本能の壊れた行動が普及していったのだと思います。
それ以前は、食べ物が足りない→痩せ細る→飢え死にするかもしれない、
というのが生存への一番の脅威だったわけですから、
その脅威から解放されたら、食べられるうちにできるだけ食べておこう、
お腹いっぱいになってもさらに食べてやろうと思うのは、
本能からは逸脱していますが、人間の脳がそう考えたくなるのはわからないではありません。
しかし、度を超してしまえば、
食べ過ぎによる肥満もまた生存や健康によくないということがわかってきました。
そうなって初めて「ダイエット」という新しい文化が生み出されました。
ウィキペディアによると、それはだいたい19世紀くらいのことだそうです。

現代の「ダイエット」は、19世紀に提唱されはじめたダイエットとも意味を変えています。
これ以上詳しく語るのは私の専門外となりますので、最後に、
本能が壊れたところから現代に至るまでの大雑把な流れをまとめて終わりにしましょう。
1.「食べ物を取って食べる」という本能が壊れているために
 人間は「食べ物を生産する(働く)」という文化を生み出した
2.農耕・牧畜という文化によって食べ物の余剰が大量に蓄積された
3.貨幣制度という文化によっていつでもお店で、
 働いて得たおカネと食べ物を交換できるようになった
4.近代民主制という文化によって身分制から解放され、
 一般庶民もある程度豊かな暮らしをすることができるようなった
5.「お腹いっぱいになったら食べるのをやめる」という本能が壊れているために、
 人間は満腹感が得られた後も食べ続けることができる
6.医学という文化によって、過度の肥満が生存や健康に悪いということが解明され、
 肥満を解消するための様々な方法が提唱されるようになった
7.マスコミによって6の医学的知識が一般庶民に周知された
8.20世紀のマスコミが「スリム=美しい」という価値観を生み出し、浸透させた
9.同様に、20世紀のマスコミが、6をねじ曲げて、
 「スリムになるためにダイエットすべきである」という言説を一般庶民に浸透させた

以上です。
過度な肥満はたしかに健康に悪いですが、
痩せ過ぎのほうが生存にとってはるかに危険ですので、大学で学ぶ皆さんは、
マスコミの言説やそれに由来する同調圧力という悪しき文化に屈することなく、
健康的な食生活(壊れた本能を補う正しい文化の選択)を心がけてください。

子どもを育てる本能?

2025-05-16 12:01:57 | キャリア形成論
「キャリア形成論」の受講者からこんな質問もいただきました。

「子どもを育てる本能について、人間の中でその本能も壊れているのだとしたら、
 世間一般で言う『母性本能』は
 『本能』を冠するのに相応しくないと捉えてもよいのだろうか。
 それとも、その本能が壊れている人間が欠陥品なのだろうか。」

これと関連してこんな意見もいただきました。

「親が子どもを育てるという本能について考えてみると、
 その本能が正常に働いていないのは人間だけではないのではないかとも思った。
 鳥の中には、自分で巣を作らずに他の鳥に卵を預けて育ててもらう托卵鳥がいる。
 この托卵鳥には、親に子どもを育てるという本能がないと考えていいのではないか。
 そうすると、本能の壊れた動物といえるのは人間だけではなく、
 他にもいるといえるのではないかと感じた。」

私の話は基本的に、動物は本能で行動する、
人間は本能が壊れているので本能だけで行動することができず、
壊れた本能を補うために文化を生み出し、文化を学び、
文化を使って行動している、というように、
動物と人間をまったく異なる生き物として対置的に描き出していました。

あの説は20世紀の後半に唱えられるようになった説で、
当初はまさに人間の特殊性を際立たせる形で、
動物と人間はまったく違うんだということが強調されていました。
しかしながらその後研究が進むなかで、
動物にも文化的な行動が見られるということがいろいろとわかってきていますし、
「本能」という言葉もふさわしくないということで、あまり使われなくなるなど、
人間と動物の連続性が唱えられるようになりつつあります。
テキストの図のなかに「小野原仮説」と書いておいたのは、
あくまでもこれは仮説のひとつ(しかもけっこう古い)にすぎませんよ、
ということをお伝えしたかったからです。
ただ私としては人間と動物を連続的に捉えるよりは、
人間と動物の断絶面を強調したほうが、人間の特徴を捉えやすいし、
実際に、大学生の皆さんが人間の本能と思っているようなもののほとんどは、
本能なんかではまったくありませんので、
講義では「動物=本能 vs 人間=文化」という対立図式を紹介させていただきました。

さて、今回のご質問に関して言うと、「動物=本能 vs 人間=文化」の図式で説明可能です。
まず最初の方の質問ですが、たしかに世間一般では「子どもを育てる本能」という意味で、
「母性本能」という言葉を使っている人が多いです。
しかし、人間には(たとえ女性であっても)そんな本能はありません。
医学用語では「母性本能」ではなく、ただ「母性」という言葉が使われますが、
それは、妊娠・出産に向けた基本的な身体的特徴を備えていることのみを指しています。
つまり、膣や子宮や乳房を備え、卵巣のなかに卵子を蓄え、
ある程度の年齢になると月経(排卵)が始まり、
出産後には母乳が出るようになる、等々の女性特有の身体的特徴です。
これらは遺伝子レベルで親から女性の子どもに伝えられた能力ですので、
私が言うところの「本能」と呼んでいいでしょう。
母性本能と呼べるものはこのような身体的特徴の部分だけであって、
それらを実際に使って子どもを育てるという本能まで、
人間(女性)に備わっているわけではありません。

それを指して「本能の壊れた動物」と呼んでいるわけですが、
それがイコール「欠陥」と呼ばれるべきものであるかどうかは、
評価の観点によりけりだろうと思います。
動物中心の観点に立って、何でも本能によって自然に自動的にできることを良しとするなら、
子育てを自然と行うことのできない人間は「欠陥動物」となるでしょう。
しかし人間の立場に立って、子育ての自由という観点から考えると、
子育てが本能で決定されているとすると、実の母親しか子育てをできないことになりますが、
そこが限定されていなければ、血のつながらない乳母が母乳を与えてもいいのだし、
それどころか人間の母乳である必要もなくて、牛の乳を与えて育てたっていいわけです。
さらには粉ミルクや哺乳びんみたいな新しい文化を生み出せば、
女性だけではなく男性だって授乳をすることが可能となります。
実際我が家は、妻の母乳の出が悪かったためにほとんど粉ミルクで子育てすることになり、
そのおかげで夜中の授乳などの負担を夫婦で等分に担うことができました。
もしもこれが本能で決定されたままだったとするならば、
母親の母乳の出が悪いという段階で、
うちの子どもの生存確率は大きく下がってしまっていたことでしょう。
人間は本能が壊れてしまっているおかげで様々な文化を生み出し、
それによって動物よりもはるかに生存確率を高めるとともに、
動物がけっして手に入れることのできない自由を手に入れているのです。

続いて、「托卵鳥」についてです。
たしかにおっしゃるとおり、「托卵鳥には、親に子どもを育てるという本能がない」
と言うことができるかもしれません。
しかしながら、それがただちに「本能が壊れている」ということにはなりません。
というのも、ほぼすべての動物には「親が子どもを育てるという本能」はありません。
魚類や昆虫類は産んだら産みっぱなしで、親が子どもを育てたりしませんよね。
全動物のなかでごくごくわずかの鳥類と哺乳類などだけが、
幼体にエサを与えるとか、幼体に授乳するという方向に進化を遂げ、
そのような本能を備えることになりました。
それは進化の過程のなかでたまたまそういう種が生まれ生き残ったというだけで、
動物にそのような本能が必ず必要だというわけではないのです。

鳥類や哺乳類が誕生しても、進化はそこで終わりを遂げるわけではありません。
鳥類や哺乳類のさらなる進化の過程で、
たまたま子育てに不利な種が出てきてしまったとき、
(例えばカッコウは、卵を産む数が多いので全部を育てるのが大変、
 体温変動が大きいので卵をうまく孵すことができない、等の特徴があるらしいです)
それでも何とか生存確率を高めようと、
さらに新しい方向へと進化(新しい本能の枝分かれ)していくことになりました。
その1つが「托卵」という新しい生存戦略だったわけです。
戦略というと何か意図的、意識的な行動のように聞こえますが、
そういう意味ではなく、親鳥は「托卵」行動をするのに向いたものが生き残り、
(カッコウはほんの10秒くらいで産卵を終えられるそうです)
ヒナは「托卵」された先で力強く生き残れる特性をもつものが生き残り、
(カッコウのヒナは背中に触れたものを巣の外に押し出す本能があるそうです)
そうやって「托卵本能」を持つ新しい種が生まれてきます。
そうです。
托卵鳥は本能が壊れてしまって自分の脳で考えた文化として「托卵」しているのではなく、
「托卵本能」を持った新しい種として進化を遂げ、
本能に基づいて托卵行動を行っているのです。
本能に従って生きているのですから、「本能の壊れた動物」とは言えませんね。

進化というのは、遺伝子レベルで変化が起こって、
身体的特徴やそれに伴う能力が変わることを言います。
その身体的特徴や能力が「本能」です。
本能だけでこの世界に適応して生存していけるのであれば、
それは「本能の壊れた動物」ではありません。
本能だけでは生きていくことができず、
脳が後天的に生み出した「文化」の助けを必ず必要とする動物のことを、
私は「本能の壊れた動物」と呼んでいます。
人間には生殖本能がかろうじて(身体的特徴や性欲として)備わってはいますが、
壊れてしまっていますし(すべての人間が本能で子どもをつくるわけではない)、
子育ての本能は完全に壊れてしまっていますので、
子育ての文化(オムツや哺乳びんなどの子育てグッズや、子育ての知識や、
親は子どもを育てるべきであるという倫理、等々)がなければ、
誰も自分の子どもを育てることはできないでしょう。
子育てに関しても、人間は「本能の壊れた動物」なのです。

本能が壊れるとなぜ人は働くのか?

2025-05-15 16:23:03 | キャリア形成論
「キャリア形成論」の第4回【働くとは】に対していただいた質問にお答えしていきます。
まずはこんな質問をいただきました。

「今回の講義で一つ疑問に残ったことがある。
 『人はなぜ働くのか』という問いに対し、人間の本能崩壊説を絡めて考えてみたが、
 どうしても働くという行為が本能の崩壊とどう繋がっているのかが分からなかった。
 働くということは人間が失ったどの本能を補うための文化としてうまれたのだろうか。」

これは致命的な質問ですね。
「働くとは何か?」、「人はなぜ働くのか?」という問いに答えるための講義だったのに、
その肝心な問いに対する答えが何だったのかが伝わっていなかったなんて。
私の説明が不十分でした。
本当に申しわけありません。
私としては、「狩りから農耕へ」「分業から貨幣経済へ」の記事でそれにお答えしたつもりでした。
特に「分業から貨幣経済へ」の最後の段落に書いた、
「本来『働く』というのは、食料を生産するということでした。
 農耕という文化によって食料が安定的に供給できるようになり、
 貨幣経済という文化によって、
 お店におカネを持っていけばいつでも食料その他を手に入れられる、
 という仕組みが作られたがゆえに、
 皆さんは野山を駆けまわって狩りをしなくてすんでいるのです。」
という2文が、「人はなぜ働くのか?」への答えのつもりだったのですが、
今読んでみると、たしかにこれだけでは伝わりにくかったかもしれません。
改めて補足説明させていただきます。

「働く」に関わる根本的な本能は生存本能です。
生存本能もいろいろな形で発現するわけですが、
(講義では、生存にとってよくないものから逃れる例を出しました)
光合成を行うことのできない動物においては、
「お腹が空く(=何かを食べたい)」→「食べ物を取って食べる」
という食欲に基づく摂食が、一番基本的な生存本能に基づく行動となります。
動物は成長するためのほかに、動き回るためにもエネルギーを消費するので、
定期的に摂食し続けないと生存できません。

人間の赤ちゃんの場合は「食べ物を取って食べる」ことがまだできませんが、
お腹が空いたら泣くとか、口許の突起物に吸い付くという本能はあって、
それによって母乳を飲むことができるそうです。
これは人間以外の哺乳類も共通に持つ本能ですね。
魚類や昆虫類は、生まれた直後から自分で食べ物を取って食べますが、
哺乳類は生まれてすぐに立ち上がれるとはいえ、
十分に動き回れるようになるまでは、母乳を飲んで生存を保ちます。
しかし、この段階は短期間で終了し、ほどなく、
草食動物であれば、自分で植物のところまで行って植物を食べるようになるし、
肉食動物であれば、自分で動物を狩って動物を食べるようになります。

これに対して、人間はどうでしょうか。
講義で触れたとおり、人間は自分で動き回れるようになるまでに長い時間が必要だし、
自分で動き回れるようになっても、自分で食べ物を取れるようになるわけではありません。
人間はそこらへんに生えている草のほとんどをナマのままで消化することができませんし、
他の動物よりすばしっこくもなければ、力も弱いので、狩りが成功する確率も低いです。
つまり、人間は「お腹が空く」という生存本能はあるけれど、
「食べ物を取って食べる」という目的に適った本能は十分に備えていない、
すなわち、生存本能が壊れてしまっているわけです。
これを補うために、火を使って食べ物を加熱して消化できるようにしたり、
弓矢や釣り竿などの道具を作って狩りの成功率を高めたりするなど、
非遺伝的適応能力である文化を発達させて何とか生存を図ってきたわけです。

とはいえ、この段階であれば、文化の助けを借りているとはいえ、
「お腹が空く」→「食べ物を取って食べる」という生存維持行動の延長線上ですので、
まだ「働く(労働)」にはなっていないと考えることもできるかもしれません。
やはり、農耕や牧畜という新しい文化が生み出されて、
自分が今日食べる分の食べ物を手に入れるだけでなく、
自分や家族以外も含めたみんなの食べ物を作る、
しかも未来の分まで生産するというようになったら、
そこからが「働く(労働)」のスタートと言えるのかもしれません。
さらに食べ物の生産(第一次産業)ではなく、道具の生産(第二次産業)だけを行い、
自分の作った物を誰かが作った食べ物と交換してもらって生きていく人たちが現れると、
それはもう完全に「働く(労働)」ですね。
そして現在は貨幣経済が成立して、働いておカネを稼ぎ、
そのおカネで食べ物を買って、それを食べることによって生存を維持しています。

今どき、稼いだおカネをすべて食べ物を買うためだけに使っている、
エンゲル係数100%なんていう人はほとんどいないでしょう。
日本人のエンゲル係数の平均は、このところ上昇気味だそうですが、
それでも28%くらいだそうです。
したがって多くの人は、生存を維持するために働いているとは思わず、
良い暮らしをするために働いていると思っているのでしょうし、実際そのとおりなのですが、
しかし根本において「人はなぜ働くのか」と言えば、生存を維持するためであり、
他の動物が本能に基づいて「食べ物を取って食べる」行動をする代わりに、
人間は「働く」という文化的行動をしているわけです。
というわけで質問には次のように答えておきましょう。

A.人間は「食べ物を取って食べる」という生存本能が壊れているので、
  その代わりに「働く」という文化的行動をすることによって生存を維持しています。

なぜカントは子どもの喧嘩やスポーツまですべてを戦争だと定義したのですか?

2024-02-10 02:35:05 | グローバル・エシックス
カントに関わって次のような質問をいただきました。

「カントは、暴力を用いた紛争解決は規模に限らず全て戦争であると述べていましたが、私は子供同士の喧嘩や、柔道、相撲等のスポーツで解決を図ることは健全なことであり、戦争ではないと考えています。なぜカントはすべてを戦争だと定義しようとしたのでしょうか。」

そもそもことばの定義というのは時代や地域・集団によって変わりうるものなので、
私はこう定義すると宣言して、それから逸脱することなく使っていくならば、
どう定義しようと自由なのだと思います。
ホッブズから始まる社会契約説の系譜においては、
国家間の戦争の話をする前に、そもそも国家なんて存在していなかった自然状態を想定して、
そこでの諸個人間の紛争をどう解決するかというところから議論を組み立てていったので、
個人間の紛争を暴力的に解決しようとすることを禁ずるというのがスタート地点でした。
ホッブズやロックはそのために国家を作らなければならないと論じたわけですが、
彼らの社会契約説は国家を設立したところで終わってしまっていて、
そこから先の国家間の戦争をどうなくすかということまではまったく考えておらず、
国家には国民を守るために戦争をする権利と義務があるのは当然のこととみなしていました。
カントは、社会契約説を推し進め、
諸個人間の暴力を廃絶するために諸個人は国家法に従わなければならないのと同様に、
国家間の暴力である戦争を廃絶するために諸国家は国際法に従い、
国連の場で暴力によらない紛争解決を試みなければならないと唱えました。
暴力による紛争解決は、個人間のものであれ国家間のものであれ禁じられるべきなのですから、
両者を引っくるめて「戦争」と定義したことは、
カントの立論からすると当然の成り行きだったと言えるのではないでしょうか。

さて、質問者の方は暴力による紛争解決の例として2種類挙げてくれていました。
子ども同士の喧嘩と、柔道や相撲などの格闘技系のスポーツの2種類です。
その例示のうちの後者は間違っていると言わなければなりません。
スポーツというのは、きちんと定められたルールの下で勝敗を競う競争ですので、
それは暴力ではありませんし、紛争解決でもありません。
たしかに格闘技は他の陸上競技などとは違って肉体的コンタクトがあり、
殴ったり蹴ったりという行為が伴うので、相手に対して力を用いてはいますが、
それはプレイヤーの安全を守るためのルールに従って振るわれる力であって、
限度を超えていこうとする暴れる力ではありません。
したがって格闘技を含むスポーツを暴力と呼ぶことはできませんし、
それゆえ戦争の中に含めることもできません。

また、質問者の方は「スポーツで解決を図ることは健全なこと」とおっしゃっているのですが、
何を想定しているのかよくわかりませんでした。
私のイメージでは、スポーツはスポーツのため(勝敗を競うため)にやるのであって、
スポーツを用いて何かスポーツ以外の別の紛争や問題の解決を図る、
なんていうことがありうるでしょうか?
もしもそういうことが行われたとするならば、
それは私も健全な解決法だとは思いますし、カントもそう言うとは思いますが、
(当然それは戦争ではありません)
例えば北方領土問題とか、竹島問題とか、パレスチナ問題をスポーツで決着つけようなんて、
そんな平和な提案が受け入れられて、その結果に双方が納得するとはとても思えないのです。
たとえそういう問題解決方法がありえるとしても、
スポーツで決められるような事柄って本当に些細な、
重大な国益に関わらないようなことだけじゃないかなあ。

さて、もう一つの例、子ども同士の喧嘩ですが、
これは口喧嘩とかではなくて殴り合いの喧嘩をするのであれば、
それは暴力による紛争解決であり、カントの定義によれば戦争になるだろうと思います。
子どもが本当に小さければどんなに殴ったり蹴ったりしてもたかが知れており、
暴れる力にはならないという見方もあるかもしれせんが、
そもそもそれは紛争の正しい解決には結びつかないという点において、
けっして健全な紛争解決手段とは言えないと思います。
なぜなら喧嘩の勝敗はどちらが強いかということを決するだけであって、
どちらが正しいか間違っているかとは無関係だからです。
私が育った昭和の時代には、子ども同士は何かトラブルがあったら殴り合いの喧嘩をして、
すっきりして仲直りをすればいいんだみたいな風潮がありましたが、
令和の学生さんから「子ども同士の喧嘩は健全な解決法だ」と聞くとは思っていませんでした。
なぜそう思うのかもっと詳しく聞いてみたい気がします。
私は、自分が喧嘩に強いタイプの子どもではなかったからかもしれませんが、
喧嘩に勝ったほうが正しいとする紛争解決方法って健全な決着とは思えないけどなあ。

平和の実現に寄与している国はどこですか?

2024-02-10 00:55:53 | グローバル・エシックス
以下のような質問をいただきましたが、これに答える能力は私にはなさそうです。

「現代において、平和の実現に最も寄与している国家はどこですか? その理由はどうしてですか?」

この質問には自分では答えられそうにないので、生成AIに頼ってみました。
Microsoft 365 にオマケで付いていた Copilot というソフトを使ってみたところ、
それっぽい回答を返してくれました。

「こんにちは、Copilotです。平和に関心があるのですね。😊

現代において、平和の実現に最も寄与している国家というのは、一概には言えないと思います。平和というのは、紛争やテロ、暴動などの暴力的な行為だけでなく、貧困や格差、人権侵害などの社会的な問題も含めて考える必要があります。また、平和の実現には、国際的な協力や連携が不可欠です。一国だけで平和を作り出すことはできません。

しかし、それでも平和の実現に向けて積極的に取り組んでいる国家はいくつかあります。例えば、国連の活動において、平和維持や平和構築、人道支援などに貢献している国家が挙げられます。国連の平和維持活動(PKO)には、現在約12万人の人員が参加しており、そのうち約4割がアフリカからの人員です1。アフリカの国々は、自国の紛争や内戦を経験したこともあり、地域の平和と安定に責任を持っています。また、PKOには、日本やドイツ、カナダ、オーストラリアなどの先進国も人員や資金、物資などを提供しています2。これらの国々は、平和主義や人権尊重などの価値観を国際社会に発信し、多国間の協調を重視しています。

平和の実現に貢献している国家は、PKOに参加している国々だけではありません。紛争やテロの原因となる貧困や格差、気候変動などの問題に対処するために、開発援助や技術協力などを行っている国々もあります。例えば、スウェーデンやノルウェー、デンマークなどの北欧諸国は、国連が定めた公的開発援助(ODA)の目標である国内総生産(GDP)の0.7%以上をODAに充てており、世界の平和と繁栄に貢献しています3。また、中国やインド、ブラジルなどの新興国も、近年ODAの拡大や南南協力の推進などを通じて、途上国の開発に協力しています4。

以上のように、平和の実現には様々な側面があり、それぞれに貢献している国家があります。平和というのは、一つの目標ではなく、常に追求し続けるべきプロセスだと思います。私たち一人一人も、平和に関心を持ち、行動することが大切です。」

だそうです。
私が下手なことを書くよりもよっぽど信頼に足る内容のような気がします。
これで十分な気もしますが、私が自分で書くとしたらこれらのほかに、
次のような情報を加えて、そちらをメインに論を組み立てただろうと思います。

現在、憲法において軍隊の非保有を宣言している国がいくつかあります。
日本、コスタリカ、パナマなどです。
日本の自衛隊でわかる通り、
それらの国が本当にまったく軍隊を保有していないかというと、
なかなかそう簡単に言い切れるわけではありませんが、
それでもやはり、国の根幹たる憲法において軍隊の非保有を宣言するというのは、
ひじょうに勇気のいることであり、
そうした憲法をもつ国家と国民が現実に存在するということは、
世界の平和に大きく寄与していると言うことができるでしょう。

というようなことを私だったら書いたと思いますが、
いずれにせよ、平和の実現に最も寄与している国を1つだけ挙げることはできないわけです。
重要だと思うので、Copilot の回答の最後の段落をもう一度繰り返しておきたいと思います。
「平和の実現には様々な側面があり、それぞれに貢献している国家があります。
 平和というのは、一つの目標ではなく、常に追求し続けるべきプロセスだと思います。
 私たち一人一人も、平和に関心を持ち、行動することが大切です。」

戦争のニュースにカント学者は何を思うか?

2024-02-09 18:31:16 | グローバル・エシックス
次の質問はちょっと意外な質問でした。

「現在中東で戦闘が勃発したり、ウクライナで戦争が行われていたりと、悲しいニュースが多いですが、カントの「永遠平和のために」を研究されている小野原先生は、戦争が起こっていることを知ったとき、何を思うのでしょうか。私のようなただの大学生が抱く「ひどいな、悲惨だな、募金でもしようかな」という感情だけではなく、カント研究者としての目線から生まれる特異な感情があったりするのでしょうか。(例えば、「戦争なんてしてあほだな。カントが怒ってるぜ。」など何でもいいので知りたいです。)」

別に「カント研究者としての目線から生まれる特異な感情」なんてありませんよ。
私もたぶん皆さんと同じで、「ひどいな、悲惨だな」と思いますし、
特に、大量虐殺にも似た空爆やら襲撃を受けている一般市民の方々に関しては、
「かわいそうだ、悲しい、何とか助かってほしい、この苦しみから一刻も早く解放されてほしい」
と心から思います。
最近では少しいろいろなことに慣れすぎて、感受性が鈍くなってきているのかもしれませんが、
大学院生くらいだった頃には、ニュースを見てぼろぼろ泣いたりしていたこともありました。

戦争することを決定した為政者に対しては、
「あほだな」なんていう軽いノリではなく、
「なんて愚かなことをするんだろう」という怒りまじりの呆れというのでしょうか、
ものすごくネガティブな感情が沸き起こってきます。
しかし、私は皆さんに非暴力コミュニケーションを教えている身ですので、
しばらくネガティブな感情に浸ったあとは、
その為政者に直接会うことができたら、何と伝えるだろうかと考え始めます。

そのためにまず、自分の感情を極力排して、
その地で起きていることを客観的に観察ことばで表現しようと努めます。
とはいえ、一般市民を無差別に殺戮しまくることを命令した人々ですので、
(↑この言い方はまったく観察ことばになっていませんね)
彼らの言動を冷静に分析するというのは至難の業です。
さらに、彼ら為政者がなぜ戦争という決定を行ったのか、
彼らの中にある感情や必要を想像しようとするのですが、
本当に彼らの中に私たちと同じ感情や必要が存在しているのか、
私たちとは違うタイプの人間なんじゃないか、理解なんてできないんじゃないか、
という気持ちに何度も負けそうになってしまいます。
それでもやはり、彼らも私たちと同じ人間であり、
同じ感情や必要に動かされているはずだと何度も言い聞かせ、
何とかいろいろなパターンを想像してみようとします。
そしてその想像に合わせて、もしもこうだったら何とお願いしようか、
もしもこっちだったら何と言えばいいだろうかと考えてみます。

そのように考えているうちに、
はじめのうちはただの小野原雅夫として何と言おうかと考えていたのですが、
もしも自分が攻撃されている国の外交官だったらとか、
和平調停に乗り出した国連の大使だったらとか、
その国の野党の政治家だったら、マスコミだったらなど、
いろいろと立場を変えて、どのようなお願いをするかを考えていきます。
もちろんなかなかいいお願いの文章は浮かびません。
浮かんでも、こんなこと言っても絶対に通じないよなあ、
とすぐに却下してしまうようなものばかりです。
相手に通じるようなお願いを作文するのなんて無理なんじゃないか、
と思いたくなってしまうこともしばしばです。

そんなときは、授業の中で紹介した、
ガンディーの「すべての日本人に」のメッセージを思い出すようにしています。
無力感が大きいときはただ思い出すだけじゃなくて、
このブログの中に引用してありますので、
その記事を(→こちら)もう一度読むようにしています。
最後の(14回目の)授業のときに言うのを忘れていましたが、
皆さんに紹介したガンディーのメッセージはすべて、
非暴力コミュニケーションで書かれています。
NVCのみごとなお手本と言っていいでしょう。
あのメッセージはたんなる自らの思想の表明ではなく、
日本軍がインドの戸口にまで迫ってきているときに、
その侵略者に向けて贈った「ことばの贈り物」でした。
彼はあのメッセージを書くのにどれほど時間をかけ、
どれほど推敲を繰り返したのでしょうか。
その時間とその試行錯誤に思いを馳せ、
きっと今の時代に、今戦争を遂行している人々に届くことばもあるはずだ、
と気を取り直して、お願いのことばを考え続けています。

大量虐殺は戦争の中に含まれているか?

2024-02-08 14:53:08 | グローバル・エシックス
次のような質問もいただきました。

「先生は戦争と言われたが実は大量虐殺であることについてはどう思いますか。大量虐殺は戦争の中に含まれていますか。」

以前にいただいた質問とも重ね合わせると、
これはイスラエルとパレスチナの戦争のことを指していると思われますが、
これはとても難しい問題です。
私はパレスチナ問題の専門家ではないですし、
今行われている戦争のことも日本の報道で伝え聞く程度の知識しか持ち合わせていないので、
前半部分に関しては、学者としての正式な回答というよりも、
あくまでも素人の一意見として読んでください。

イスラエルとパレスチナの間の抗争に関しては、
私も以前から、これは戦争と呼べるものだろうかという疑問を懐いていました。
私は「戦争と平和の倫理学」の授業の最初のほうで、
戦争に関して、「大規模集団間の武力闘争」と簡単に定義しました。
つまり、国家レベルの大規模な集団が、それぞれの軍隊と軍隊を用いて戦うこと、
それが戦争であると定義したのです。

第一次から第四次まで戦われてきた中東戦争は、
上記の定義に照らしてまさに戦争であったと言えると思います。
しかしその過程でイスラエル側が軍事的には圧倒的に優位に立っていきます。
アメリカをはじめとする先進国がイスラエルへの軍事支援を続けてきたからです。
軍隊と軍隊との正面衝突という方法では勝てる見込みがなくなっていく中で、
パレスチナ側はテロという、軍隊によらない新しい戦い方に頼るしかなくなりました。
私は先の定義に照らして、テロは戦争とは別物であると理解していますが、
現代において両者の区別が難しくなっていることは否めません。
しかし、いずれにせよその背景には軍事力の圧倒的格差という問題があることは、
きちんと理解しておくべきでしょう。
そして、そのような圧倒的な軍事力の格差の中で行われる軍事攻撃は、
もはや戦争ではなく、一方的な「大量虐殺」に似たものになってしまう、
そんな可能性を秘めていると言えるでしょう。

いちおう私は「大量虐殺」と「戦争」は区別しています。
戦争は両者が戦い合うものです。
実際には両者の間で戦力の差があったとしても、
形式的には互いに対等に戦い合っています。
それに対して大量虐殺は一方が他方を一方的に殺戮していく行為です。
殺される側は武装した軍人ではなく、無辜の民である一般市民であり、
何らの対抗も抵抗もできません。
ナチスによるユダヤ人のホロコーストや、
ルワンダにおけるフツ族によるツチ族のジェノサイドなどがそれに当てはまります。

今回のハマスによるイスラエルへの攻撃は、
軍隊によって武力を用いて行われましたので、
(一般市民を人質に取るというのはいかにもテロっぽいやり方ですが)
これは戦争として始められたと判断すべきだろうと思っています。
しかし、イスラエルが反撃を始めた段階で、
戦況が一気に一方的になっていったのは当然の成り行きだったろうと思います。
そして、イスラエル側の攻撃は空爆が中心となりますので、
パレスチナ住民の側からするならば、
軍隊と軍隊の武力闘争というよりは、
イスラエル軍によるパレスチナ住民の大量虐殺と映ることだろうと思います。

授業の前半で武器の進化の話を紹介し、
飛行機が開発されたことによって戦争のあり方が一変したと話しました。
武力闘争と言えば、軍隊(軍人)と軍隊(軍人)が戦い合うことだったわけですが、
空爆という、軍隊による一般国民への直接攻撃も戦争の一手段となってしまいました。
私も空爆や、その他の軍隊による一般国民への直接攻撃は、
やってることは大量虐殺と同じだと思いますが、
それを「大量虐殺」と名付けて、その部分だけを戦争と切り離して禁止することは、
無理だろうと思います。
正戦論について考えてもらったときに、
軍隊のみ攻撃し一般国民への攻撃は行わないのが正しい戦争である、
と答えてくれた人がたくさんいましたが、
そんなところで線引きするのは不可能でしょう。
いったん始まった戦争は、勝つためには手段を選ばず、
正しくない(とされる)戦略・戦術も積極的に選択されるだろうと思います。

ご質問に対する答えをまとめると以下のようになります。
1.戦争は「大規模集団間の武力闘争」であり、
  大量虐殺は「ある集団が他の集団を一方的に殺戮する行為」であり、
  私は両者を別のものとして定義します。
2.戦争も大量虐殺も悪ですが、悪の程度からすると、
  大量虐殺のほうがより悪だと私は判断しています。
3.現在のイスラエルとハマスの軍事衝突は戦争として捉えています。
4.20世紀以降の戦争においては、軍隊による一般国民への直接攻撃という、
  大量虐殺に似た一方的な殺戮行為が、軍事行動として含まれることになりました。
5.したがって20世紀以降の戦争は正しい戦争ではありえず、
  すべて悪であり、否定すべきであると判断しています。

非暴力実践の認知度は?

2024-02-08 12:34:00 | グローバル・エシックス
「戦争と平和の倫理学」の最終回の授業が、
私のコロナ罹患のためにオンライン授業になってしまいました。
オンラインで寄せられた質問に対してはこの場でお答えしていきます。
まずは、つぎのような質問。

「非暴力の実践について、非暴力平和隊などありましたが、平和を願っている人類としてこのような活動があまり知られていないような感覚がありました。実際の認知度はどれほどなのか、また、日本のマスコミはこのような活動や非暴力の実践を取り上げないのだろうかと思いました。」

質問は2つありますね。
まず1つ目。

Q-1.非暴力実践の認知度はどれくらいですか?

これに対しては残念ながら正直に次のようにお答えするしかありません。

A-1.とても低いです。特に日本においてはほとんど知られていません。

その原因は大きく2つあると思っています。
1つは、日本の現政権が戦争できる国になることを目指しており、
その方向性でのプロパガンダを続けており、
それを支持する国民もひじょうに多いので、
それに反対する思想や実践は少数派のなかに埋没してしまうということ。

もう1つは、授業の中でも少しお話ししたことがありますが、
これまでの日本の平和運動というのは基本的に反戦運動として展開されており、
特に太平洋戦争(第二次世界大戦)の悲惨さを伝承することによって、
戦争を厭い、戦争に反対する心性を育むことを主眼としていました。
その反面、厳しい現実世界の中で、敵対的な国際関係に晒されたときに、
どのようにして平和を構築していったらいいかという、
具体的な運動論、実践論、政治論の視点が欠けていたと言えるでしょう。
ガンディーやキング牧師の平和運動のことは多くの人が知っていると思いますが、
どちらかというと暴力や戦争に反対した人物像ばかりが取り上げられていて、
どうやって非暴力によって暴力に対抗したのかという、
具体的な運動の中身のことはあまり伝えられていませんでした。
これら2つの理由により、非暴力実践の認知度が低いのだと思われます。

2つ目の質問にいきましょう。

Q-2.日本のマスコミは非暴力実践を取り上げないのか?

A-2.これまではほとんど取り上げられてきませんでした。

A-1のような情勢下ではA-2のような結果になるのは避けられないでしょう。
マスコミにとっては視聴率が取れてナンボですから、
国民の関心がそこにないのなら番組や記事にするメリットはないわけです。

ただそんな中で、NHKの『100分 de 名著』という番組で、
授業の中でも紹介した、
ジーン・シャープの『独裁体制から民主主義へ』が取り上げられました。
この1月にも再放送されたので、見た人もいるかもしれません。
見そびれた人はNHKオンデマンドで見ることができますし、
テキストも発売されていますので、
ぜひ見たり読んだりしてみてください。
この番組を作成したプロデューサーの言葉をこちらのサイトで読むことができますが、
その中で、「『100分de名著』という番組のミッションの一つは、戦争をなくすことである」
と公言されています。
こういうマスコミ人が増えていくならば、
A-2やA-1のような状況はどんどん変化していくものと思われます。
質問者の方も「平和を願っている人類」のお1人のようなので、
認知度が上がるのを座して待つのではなく、
自分の力でどうやって認知度を上げるか、
学校教員になったときにどうやって子どもたちに非暴力実践を伝えていくか、
自分事として考え、取り組んでいただければと思います。