まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.弱者側の人は人間ではなくなるのですか?

2014-04-30 15:49:35 | 人間文化論
これも 「人間とは何か?」 の話をしたときに頂戴した質問です。
正確にはこういう質問でした。

Q.看護との関わりで人間の特徴をきき、「弱者の世話をする動物」 であると言っていましたが、
  「弱者」 側の人は人間ではなくなるのですか? 
  世話ができない=人間ではないとつながるのですか?

ひょっとすると質問者の方もこれに対する答えはわかった上で聞いているのかもしれませんが、
この問いには2通りの答え方をしてみることにしましょう。
ひとつめはどんな特徴づけにも当てはまる一般的な答え方です。
これまで人間の定義というか特徴づけとしていろいろなことが提唱されてきました。
例えば、「知恵のあるヒト (ホモ・サピエンス)」、「直立するヒト (ホモ・エレクトゥス)」、
「作るヒト (ホモ・ファーベル)」、「遊ぶヒト(ホモ・ルーデンス)」 など。
あるいは、「言語を用いる動物」、「道具を作り使用する動物」、「文化を持つ動物」 などなど。
いずれも人間の普遍的特徴を捉えているとは思いますが、
ではすべての人間がそれをできるかといえばそんなことはないでしょう。
人間というのは本能が壊れているおかげで可塑性が高い動物です。
「可塑性が高い」 とは生まれたあとに後天的に形成されていく部分が大きいという意味です。
授業でも話したとおり、生まれたばかりの赤ちゃんはほとんど何もできず、
長い時間をかけてしだいにいろいろなことができるようになっていきます。
そして人間は多くの場合長生きするのですが、
長生きしているあいだにせっかくできるようになったことがだんだんできなくなったりもします。
いくら人間に生まれてきたとしても、赤ちゃんのうちは直立することも言語を用いることもできません。
また、病気や障害や老衰などによって知性や言語や直立歩行能力が奪われることもあります。
そうしたことが 「まだできない/できなくなった」 からといって
「=人間ではない」 ということになるわけではありません。
というわけで、ひとつめの答え方としては以下のように答えることにしましょう。

A-1.人間をどのように特徴づけるとしても、それは人間の一般的可能性を論じているだけなので、
    個別的に 「まだ/もはや」 そうした特徴をもっていない人がいたとしても、
    ただちに 「そのような人は人間ではない」 ということになるわけではありません。

これがひとつめの答え方です。
もうひとつの答えは 「弱者の世話をする動物」 というこの言い方に固有の問題に関わっています。
人間以外の動物は基本的に病気やケガをした弱者の面倒をみませんが、
人間だけはそうした人たちを放っておかずに、元気な者たちが彼らの世話をしてあげるという意味で、
人間のことを 「弱者の世話をする動物」 と特徴づけました。
しかし 「弱者の世話をする」 という言い方は、世話をする側と世話をされる側を前提する物言いです。
そのため、世話をする側が人間で、世話をされる側は人間ではないのかという、
質問者の方が抱いてくれたような疑問が生じてきてしまうのは当然と言えるでしょう。
この疑問に対しては最初の答えとは違う次のような答え方も必要となってくるのかもしれません。

たしかに 「弱者の世話をする動物」 という特徴づけは世話をする側だけを意味しているように聞こえ、
世話される側を人間から排除しているように聞こえるかもしれません。
しかし、フツーに考えてみてもわかるとおり、
「世話をする/世話をされる」 という関係は固定化された関係ではなく、交換可能な関係です。
ある同じ人が、自立していて元気なときは世話をする側に回るのであり、
その同じ人が、まだ幼かったり病気になったりすれば世話をしてもらう側に回るわけです。
これはどの人にも当てはまることです。
よっぽどの例外的ケース (生まれつき重篤の障害を持っている場合など) でもないかぎり、
すべての人間は世話をする側でもあり、世話をされる側でもあるわけです。
そのうちの一方だけを取り上げて特徴としてまとめたのでああいう疑問が出てきたわけですが、
正確に述べるならば次のようにまとめておくべきだったのかもしれません。
人間とは 「弱者の世話をしたり、弱者として世話をしてもらったりする動物」 である、と。
ただまあこれはいくらなんでも長ったらしいので、
これを簡潔に表現したのが 「弱者の世話をする動物」 だったんだとご理解いただければと思います。
というわけで2つめの答え方としては次のように答えておくことにしましょう。

A-2.「弱者の世話をする」 というのは交換可能な概念で、
    あるときには 「弱者の世話をする」 人が場合によっては 「弱者として世話をされる」 こともあり、
    その両方を含めて人間のことを 「弱者の世話をする動物」 と特徴づけたので、
    世話をされる側が人間ではなくなってしまうというわけではありません。

いかがでしょう、ご理解いただけたでしょうか。
このような質問をいただくまで、自分のなかでもここまで整理して考えてみたことはありませんでした。
ご質問どうもありがとうございました

文化の断絶

2014-04-29 16:35:23 | 人間文化論
大学宛てにこんな封書が届いていました。



最初は学内の誰かからの通信かと思いましたが、

切手ではないですが、ちゃんと郵便局の領収書が貼られていますので、

れっきとした郵便物のようです。

それにしてもよくこんなので届きましたね。

郵便番号は書かれていないし、住所もまったくなく、

私の所属先の名称も 「学類」 が省かれてしまっていて尻切れトンボです。

裏面を見てみても差出人等の情報はまったくありません。

ムチャクチャ怪しいです。

はたしてこれを開封してよいものかどうかしばらく悩みました。

中にはカミソリとか発火装置とかが仕込まれているのかもしれません。

まあそこまで恨まれてる覚えもないので、

勇気を振り絞っておそるおそる開けてみました。

すると出てきたのは、岩手大学競技舞踏部から送られてきた、

今度のゴールデンウィークに行われる春大会の実施要綱でした。

それにしてもお粗末すぎるっ(>_<)。

私、全東北学生競技ダンス連盟の会長だからといって、

彼らに対して威張り散らしたりするつもりは毛頭ありませんが、

競技ダンスってもともと社交ダンスから発している紳士淑女のスポーツじゃないですか。

それに携わる人間がこんな無礼な封書を目上の人間に対して送りつけていいものでしょうか?

これでちゃんと届くんだから問題ないという合理的な考え方もあるかもしれませんが、

大学で体育会系の運動部に所属してこうした大会の運営に携わるというのは、

この手の社会常識をひとつひとつ身につけていくためでもあるのではないでしょうか?

これを投函した本人よりも、この程度の文化を伝達できなかった歴代のシステムに、

怒りというよりは無念さを禁じ得ません。

これが私だからブログネタにされるぐらいですみますが、

例えば名誉会長の先生方やプロダンサーの先生方、何十年も前のOB・OGの先輩方に、

こんなものをお届けしていたらと思うと冷や汗が止まりません。

「喝」 だな、カーツッ

盛岡に行ったらどえらいカミナリを落としてやろうと思います。

棚倉ドライブ・修明高校メガ講演会

2014-04-28 23:55:37 | ドライブ人生論
今日は棚倉にある修明高校で講演会でした。
去年みたいにすっぽかしたりしてはいけませんから、
担当の先生に当日が近づいてきたら思い出させてくださいとあらかじめ頼んでおいたところ、
先週リマインダーのメールをいただいたときには案の定すっかり忘れてましたので、
頼んでおいてよかったと心の底から思いました。
昨日のてつカフェ打ち上げでも、
今日は棚倉まで運転しなきゃいけないので飲み過ぎないように止めてくださいと皆さんにお願いし、
酒量管理もバッチリうまくいきました。
このところ自分が一番信用ならないので、ひとに頼ることを覚えました。
皆さまのおかげで何とか仕事をこなすことができています。
本当にありがとうございますm(_ _)m。

朝はアルコールも完全に抜けて目覚まし時計に頼ることもなくスッキリ目覚め、
棚倉までのロングドライブに出発することができました。
修明高校は地名を校名にしていないので近くに似たような名前の小学校や中学校はなく、
行き先を間違えてしまう心配はなかったのですが、
そもそも棚倉というのがメチャクチャ遠いし経路も複雑で、
カーナビのない私としては無事に着けるか心配でした。
それ以上に心配なのが、今日の講演会は800人を超える大オーディエンスということでした。
過去最多が600人でそれでも相当苦戦を強いられましたが、
今回はそれをはるかに超える新記録です
日程管理や酒量管理はうまくいったもののまだまだ心配の種は尽きません。

修明高校までの行き方をグーグルマップで検索してプリントアウトしておきましたが、
はたしてそれを見ながらうまく行き着けるものか全然自信がありませんでした。
ところがクルマに乗り込んでから気づきました。
スマホにナビ機能が付いているじゃないか、と。
しかもうちのクルマのカーステレオはiPod対応なのでiPhoneを繋ぐことも可能です。
スマホでカーナビしてると電池をものすごく食うので目的地まで充電がもたないのが心配ですが、
カーステレオに繋いでおけば電池切れの心配はありません。
繋いだものをこんなところに置いてみました。



ここに置くととても見やすいです。
しかも右折や左折の指示音声はカーステレオを通して流れてきますから、
聞き落としたり聞き間違えたりする心配もありませんでした。
これならカーナビなんか買わなくともスマホで十分です。
iPodを外しちゃうと道中、音楽が聴けなくなることを恐れていましたが、
ナビ機能を使っていても、iPhoneに録音されている音楽を自動的に再生してくれていたので、
快適なドライブを楽しむことができました。
おかげさまで危なげなく修明高校にたどり着くことができました。

13時からの講演会でしたが12時には高校に到着し、
お弁当をごちそうになりました。
こんな感じの豪華なお弁当です。



右下のメインディッシュは大根おろしと天つゆのついた天ぷら盛り合わせです。
右上に見えるのはうなぎ入りのとろろです。
こんな豪勢なお弁当をいただいたのは生まれて初めてではないでしょうか。
すごいぞ、棚倉!
このお弁当を一気にいただき大満足、大満腹でしたが、
講演の時間が近づいてくるにつれてだんだん緊張してきました。
なんといっても52年間の人生のなかで最も多くの人相手の講演会です。

当然のことながら会場は体育館です。
入るなりその人数に圧倒されましたが、壇上に上がって見てみるとさらに圧巻でした。
こうです!



体育座りの生徒さんたち470名とうしろのほうでイスに座っている保護者の方々350名。
今日はPTA総会だそうで、この講演会もPTA主催の講演会です。
だからこんなメガ講演会になってしまったんですね。
思わず壇上から写真を撮ってしまいましたが画面に入りきれませんでした。
保護者の方々は本当にずーっと遠くにいるという感じで、声が届いている気がまったくしません。
とにかくこの人数に圧倒されっぱなしで、思ったように話すことができませんでした。
演目はいつもの 「人はなぜ学び、なぜ働くのか」 ですから、
もう何十回となく繰り返してきた得意中の得意の話のはずです。
しかし、どうも思うように笑いも取れず、時間も押してしまって慌ただしく終わることになりました。
はたしてどんな評価を受けたのか、後日感想用紙を届けていただけることになったので、
届きしだい結果をご報告させていただくことにいたします。
今回はあまり期待できないなあ

講演終了後、花束を頂戴しました。
中学校や高校での講演会でこのように花束をいただくことはよくあるのですが、
帰り際には花束以外に鉢植えの花も頂戴しました。



母の日も近いということでカーネーションと、
その左側はニューギニア・インパチエンスという花だそうです。
修明高校というのは6年前に棚倉高校と東白川農商高校とが合併してできた高校で、
普通科と農業科と商業科があります (これは全国でも珍しいケースだそうです)。
このうちの農業科では牛の飼育もしているし、温室で花も育てています。
今日は保護者の皆さんも生徒さんたちが育てた花を買っていらっしゃいました。
それを私もお土産にいただくことができたのです。
本当にどうもありがとうございました
帰りはクルマのなかが花の香りでいっぱいでした。
今日の講演がどう評価されたのかちょっと不安が残りますが、
とにかく講演会をすっぽかしたりせず、迷ったり別の学校へ間違えて行ってしまったりすることもなく、
無難にこのメガ講演会を乗り切れたことを今は喜んでおきたいと思います。
修明高校の皆さん、私のようなダメ人間ではなく、
皆さんのご両親や先生方のようなカッコいい大人になってください

Q.日本の犬とアメリカの犬を対面させたら意思疎通はどうなるんですか?

2014-04-27 12:27:37 | 哲学・倫理学ファック
これも 「人間とは何か?」 の話をしたときに頂戴した質問です。

正確にはこういう質問でした。


Q.人間には色んな言語があり、日本語、英語などあり、

  互いの言葉で会話することは難しいですが、

  日本の犬とアメリカの犬を対面させたら意思疎通はどうなるんですか?


うーん、困りました。

動物好きの人はこんなことを考えているんですね。

これはもうまったく私の専門外の質問です。

知らないことは素直に知らないとだけ答えればいいのかもしれませんが、

いちおう当てずっぽうでテキトーなことをお答えしておくことにしましょう。

まず 「問いを問い直す」 でいくと、そもそも意思疎通とは何かということが問題になります。

Weblioで引いてみると次のように書いてありました。

「互いに考えていることを伝え、理解を得ること、認識を共有すること、などの意味の表現。

 意思の疎通。コミュニケーションとも言う。」

前半の説明を読んでいるかぎり、意思疎通は言語による相互理解のことのように思えますが、

一番最後に 「コミュニケーション」 と同義と書いてありますので、

とりあえずそれを信頼して考えてみることにしましょう。

授業でも話したように、

コミュニケーションには言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションがあります。

人間の場合、お互いが相手の言語をまったく知らないまま意思疎通しようとすると、

言語を使わずに、あるいは、それぞれ自分の言語を闇雲に話しながら、

身ぶりや手ぶりなど非言語コミュニケーションだけで何とか意思疎通を図ろうとするでしょう。

細かいニュアンスは伝わらなくとも、それで何とかなってしまう部分もあるかもしれません。

犬は言語を持っていないので (たぶん)、

けっきょくそれと同じことを犬どうしでずーっとやっているのではないでしょうか。

つまり同じ日本に住んでいて同じ町内会に住んでいる犬どうしであっても、

言語なんてないので非言語コミュニケーションだけで、

ワンワンと吠えたり、ウーッと唸ったり、歯を見せたり、

尻尾を振ったりすることによって意思疎通するんだと思うのです。

それで疎通できる意思なんて人間に比べたらはるかにわずかだと思いますが、

そうやって非言語コミュニケーションだけでやっていくしかないんじゃないでしょうか。

だとすると日本の犬とアメリカの犬が出会ったとしてもやることは同じでしょう。

そもそも言語がないのだから、

お互いに自分は日本生まれだとかアメリカ出身だというような意識はないでしょう。

「日本」 とか 「アメリカ」 というのも言語によってのみ区別されるものですから。

したがって相手が隣の家の犬であろうがアメリカから来た犬であろうが、

非言語コミュニケーションで伝えられる範囲内のことだけを意思疎通しあうしかないでしょう。

というわけで今回の答えは次のようにまとめておきたいと思います。


A.日本の犬とアメリカの犬を対面させたら、日本の犬どうしがやってるのと同様に、

  非言語コミュニケーションによって意思疎通を図るのだと思います。


これはあくまでも動物学の素人がテキトーな推測で言ってるだけなので、

あまり信用しすぎないようにしてください。

どうしても気になるなら私なんかに聞かないで自分で専門家や専門書にあたって調べてみましょう!

いよいよ明日 『ある精肉店のはなし』 de てつがくカフェ

2014-04-26 17:20:41 | 哲学・倫理学ファック
『ある精肉店のはなし』 を見てのシネマ de てつがくカフェ、いよいよ明日です!



第4回シネマ de てつがくカフェ
【開催日時】 2014年 4月27日(日) 
    ≪映 画 上 映≫ 14:00~16:00
    ≪てつがくカフェ≫ 16:00~18:00
【開催場所】 フォーラム福島
 (たぶん3か4)


遅ればせながら私は4月20日に見てきました。

今回いちおうフォーラムのちらしでは 「いのちをいただくとは?」 がテーマですと宣伝しましたが、

この映画はそればかりでなく、同和問題 (被差別問題) という観点からも見ることができますし、

家族のあり方という観点からも見ることができるし、多様な解釈の可能な映画だなと思いました。

本deカフェやシネマdeカフェの醍醐味はテーマをひとつに限定してしまわず、

その作品から読み取れるさまざまなテーマを取り出していけることですから、

ファシリテーターとしてはそのあたり気をつけながら対話を進めていきたいと思っています。

トークショーでの纐纈監督のお話もたいへん興味深いものでした。



映画にする際の留意点として話してくださったのは、

この映画では屠畜のシーンが2回出てくるわけですが、

それをできるだけ残酷に見せないように、そしてお肉を美しく見せるように、

撮影したり編集したりするよう心がけたとのことでした。

この映画がトラウマになってお肉が食べられなくなるなんていうことがないよう気をつけたそうです。

むしろこの映画を見てお肉を食べたくなったという感想をたくさんいただき (実際に私もそうでした)。

ホッとしたとおっしゃっていました。

というわけですので、安心して懇親会にもご参加ください。

あと数人分の空きがありますので早い者勝ちです (今日中!)。

できれば今後の懇親会参加申し込みは、

小野原の Facebook のメッセージ宛てにいただけますようお願い申し上げます。

Q.先生は人間は好きですか、ペットは何を飼いたいですか?

2014-04-25 08:37:54 | 哲学・倫理学ファック
昨日の質問と関連するような質問もいただいていましたので、

まとめてお答えしておきましょう。

Q-1.先生は動物が嫌いとのことですが、人間はどうですか?

子どもではなく、もっと大きく人間は好きですかと聞かれてしまいました。

これには昨日の流れでこうお答えしたいと思います。


A-1.基本的に人間は好きです。

    ただしロゴスが十分に成熟していない人間は苦手ですし、

    ロゴスを全然持ち合わせていない人間は大キライです。


もはや理由を述べるまでもないと思いますが、

私は言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションだと、

圧倒的に言語コミュニケーションに依存している人間ですので、

(赤ちゃんにもフツーの言葉で話しかけるくらいですから)

ロゴスで意思疎通できる人間を相手にしているのが一番安心できます。

したがって昨日書いたように、ロゴスの未成熟な赤ちゃんや子どもは苦手なわけです。

ロゴスを全然持ち合わせていない人間というのは、

自分ないし自分たちの利益や欲求だけを押し通そうとする利己主義者のことです。

そういう人たちは本当にキライです。

日本は最近そういう人たちがどんどん増えてきている気がします。

ああ、考えただけで腹が立つ

続いてもう一問。

Q-2.これから飼ってもいいなと思う動物は何ですか? (動物が嫌いとお聞きしたので)

いや、この質問まったく意味がわからないです。

動物が嫌いと言ってるのに、そういう人が飼ってもいいなと思う動物が存在するのでしょうか?

この方はよっぽど動物がお好きなのでしょうね。

私は通常のこの世に存在する動物で、飼ってもいいなと思うものなんてありません。

だってロゴスが通じないのですから。

それに動物を飼うと養育の責任が生じてきますよね。

そうすると突然飲みに行ったり、

何日間かの旅行や出張に出かけたりすることができなくなりませんか?

その間、自分で水やエサを用意して食べてくれたり、

自分で電話して出前を取ったりしてくれればいいのですが、

きっとそういうわけにはいきませんよね。

世の動物を飼っていらっしゃる人々はどうしているんでしょう?

というわけで、この質問には次のようにお答えしておきましょう。


A-2.もしも言葉が通じ、自分で自分の世話ができる動物が存在するならば、

    飼ってみてもいいかもしれません。

Q.先生は子どもが好きですか?

2014-04-24 07:07:35 | 哲学・倫理学ファック
代表質問のなかで 「Q.なぜ先生は動物がキライなんですか?」 という質問をいただきました。

それには 「A.動物はロゴスを持っていないから」 とお答えしました。

動物はロゴス、つまり言葉を持っておらず、ゆえに理性も持っていません。

ゆえに言葉を使って理性的に対応することができません。

ロゴス重視の私としてはどう動物の相手をしていいかわからないわけです。

それとの類比で言うと、人間の子どもというのもまだロゴスが十分に育っていないので、

私としてはあまり得意ではありません。

赤ちゃんなんて泣くか笑うかだけですから、

何が気に入らないのか、何に困っているのか、何が楽しいのか、どうしてほしいのか、

いろいろ推測はしてみますが本当のところはまったくわかりません。

早くロゴスを身につけてちゃんと口で言ってくれよと思ってしまいます。

というわけで、子どもはあまり好きではありませんというのがお答えになるかと思います。

ただ不思議なことに、子どもはぼくのことが好きみたいです。

特に乳幼児やちっちゃい子どもには好かれる確率が高いです。

私は子どもだからといってあまり相手に合わせようとはしません。

抱っこしている赤ちゃんが泣き始めたら、なぜ君は泣いているのだ、

君が泣くとぼくは途方に暮れてしまうのだ、欲しいものがあったらちゃんと口で言ってくれ、

え、まだ言葉はしゃべれない?

じゃあ3つ選択肢を挙げるからどれに当てはまるのか教えてくれ、

などと延々としゃべりかけています。

そうしているうちにけっきょく意思疎通はできないのだけれど、

なんとなく仲よくなってしまうのです。

幼児ぐらいになるとある程度ロゴスを解するようになっていますが、

そういう子どもたちはどうも私のことを対等な遊び相手と勘違いするようです。

時には私のことを目下のように思っている者もいる感じです。

そういうやつらには、こっちは大学教授だぞ、

お前らよりもたっくさんいろんなこと知ってるんだぞと知識をひけらかしたりしますが、

そうするとよけいにバカにして寄ってきたりするようです。

まったく納得いかない話ですが、ご質問には以下のようにお答えしておきましょう。


A.子どもはロゴスが育っていないので私としてはあまり好きではありませんが、

  子どものほうはなぜか私のことを好きになることが多いみたいです。


P.S.

あ、あと私は 「オノハラ声」 と呼ばれる奇声を発することができるので、

(居眠りしている学生を起こすときのあの 「オハヨウ」 という甲高い声です)

その周波数は子どもにとっても好まれるようです。

Q.中学や高校の数学はなぜ学ばなければいけないんですか?

2014-04-23 19:45:27 | 人間文化論
先週、相馬の看護学校で 「人間とは何か?」 の講義をし、
みんなに、他の動物とは異なる人間の特徴は何かを考えてもらったあと、
いつもの 「人はなぜ学び、なぜ働くのか」 の話をしました。
その話を聞いて出された質問がいくつかありました。
答えにくい質問もありましたが、答えられそうなものから答えていきましょう。
今回の質問は正確には以下のようなものでした。

Q.生きていくための学習 (人間として困らないための教養、読み書きなど) は重要だと思うが、
  中学、高校での数学は今までの人間生活で役立ったことがないのでなぜ学ぶのか疑問です。
  (サインとかコサインとかナゾすぎます…。)

中学校や高校で 「人はなぜ学び、なぜ働くのか」 という演題で講義をするときは、
なぜあの難しい数学とかを学ばなければならないのかということも話してあげるのですが、
看護学校では 「人間とは何か」 というテーマで話しているので、
なぜ生活にすぐに役立つとは思えないような学校の勉強も学ぶ必要があるのかということまで、
話す余裕がありませんでした。
この場で補足しておきましょう。
この質問には2種類の答え方をしておきたいと思います。

A-1.数学をはじめさまざまな学問は人間の日常生活に役立つので学ぶ必要があります。

例に出された三角関数は家や建物の設計などには不可欠ですし、
パソコンのプログラミングにも必要となります。
私たちが家のなかでパソコンでインターネットを見ることができるのは数学のおかげなわけです。
もちろん設計士になったりSEになったりするのでなければ直接の必要はないかもしれませんが、
そういう仕事に就く人がいないとそれらを日常生活で享受することはできないので、
やはり私たちの生活に役立っていると言うべきでしょう。
これがひとつめの答えですが、設計士やSE等の特別な職に就くつもりのない人にとっては、
あいかわらず高校で三角関数を学ぶ意味は見えてこないでしょう。
そこで2番目の答えとして次のように答えてみることにしましょう。

A-2.大人になってから答えのない問題を考え抜くことができるようになるために、
    学校では答えのある問題を、最初のうちは簡単なものから次第に高度で複雑な問題へと、
    考える訓練として学んでいます。

大人になり社会に出ると答えのない問題ばかりになります。
好きな人とずっと仲良くやっていくにはどうしたらいいか、
子どもを一人前の大人に育てるにはどうしたらいいか、
職場で有能な人材として働くにはどうしたらいいか、
さまざまな患者さんに対して看護師はどのような看護を提供したらいいか、
どうしたら幸せになれるのか、
いずれの質問に対しても何か正解や必ずうまくいくマニュアルがあるわけではありません。
答えはないのですが、しかしこうした難問を考えないわけにはいきません。
考えることを放棄してしまったら、よりよい人生を送ることはできなくなるでしょう。
正解はないけれど、そのつど自分なりの答えを考えて生きていかなくてはなりません。

こうした答えのない難問を最初から自分で考えることはできません。
いずれそうした問題を考えることができるように、
最初は答えのある問題から始めて少しずつ考える力を養っていくのです。
考えるのがキライな人や苦手な人は、人間関係がうまくいかなくなると、
どうやったら人間関係をよくすることができるだろうかと考えてみることなく、
すぐに関係を断ってしまったり、暴力を振るったりしてしまうでしょう。
考える訓練を積んだ人だったら、うまくいかない原因を考えたり、
改善方法を何通りか考えてみたりすることができます。
そういうじっくり考える力というのは学校時代の勉強によって養われているのです。
実際こんなデータがあるそうです。

・高校時代までに少なくとも数学学習を放棄することなく、
 基礎的な数学力を身につけた学生は、大学教育においても高い学業成績をあげ、
 生涯にわたってより高い所得を獲得し、より高い職位に昇進し、
 転職時にも収入面において有利な条件に恵まれる。

これは数学が直接、社会に出て役立っているということではなく、
数学の勉強を通して培った考える力 (論理的思考力) が社会で役に立ったということなのでしょう。
現代は高度産業化社会になっているとお話ししましたが、
そういう社会では、ただこれまでどおり親や先輩に教えられたことをそのままやっていてもだめで、
自分の頭を使って今必要なのは何かを考えていかなくてはならないのです。
学校では数学をはじめとしてさまざまな教科でそうした考える力を養っているのだと思います。

Q.メガネにこだわりはありますか?

2014-04-22 16:52:55 | 哲学・倫理学ファック
A.昔はありませんでしたが最近はメガネにこだわりあるかも。

何にこだわっているかというと小ささです。

私はものすごいド近眼です。

視力はどちらも0.1ありません。

0.1ないというのは視力検査で一番大きい文字が読めないレベルです。

一番上の文字や記号が見えるところまで前進していかなくてはなりません。

昔、健康診断のとき視力検査の結果をよくするために、

順番待ちしているあいだに一番上の列を全部覚えたことがありましたが、

けっきょく検査員の人が例の指示棒でどの文字を指しているのかが見えなくて、

覚えてもまったくムダだったことがあります。

それくらいのド近眼だとメガネのレンズが厚くなってしまいます。

以前に比べるとレンズはだいぶ薄くなってくれましたが、

それでもやはり私くらいの近眼になるとけっこうな厚さになってしまうのです。

以前使っていたちょっと大きめのメガネのフレームが、

飲んでるときのふとしたはずみで壊れてしまったことがありました。

福島の自宅にはスペアのメガネがあったのですが、

それはたまたま東京に行っていたときのことだったため、

替えのメガネがなくて大パニックです。

すぐにメガネ屋さんに行きましたが (ひとりでは歩けないので手を引いてもらって行きました)、

普通に新しくメガネを作ろうとすると数日かかると言われました。

もちろんそんな余裕はありません。

すると、今まで使っていたレンズをそのまま使うとすぐにできると教えられました。

古いレンズを再利用できるように以前のよりもだいぶ小さいフレームを選び、

レンズをカットしてそれに入れてもらいました。

そうしたらレンズがものすごく薄くなったんです。

そりゃそうですね。

メガネのレンズというのは虫眼鏡のレンズと逆で、

中心部分が一番薄くて縁に行けば行くほど厚くなっていきます。

したがってレンズが大きくなればなるほど端は厚くなってしまうのです。

それをカットして小さくすれば厚みはものすごく減ってくれるのです。

今までと同じレンズがこの大きさにするとこんなに薄くなってくれるのかと衝撃でした。

それまでは視界のなかにフレームが入ってくるのがキライで大きめのメガネをかけていました。

それによって厚いメガネをかけることになっていたわけですが、

レンズが厚いのは自分がド近眼のせいだとばかり思っていたわけです。

同じレンズでもこんなに薄くできると初めて知って、

それ以来、小さめのメガネをかけるようになっています。

私の場合メガネに対するこだわりってそれくらいですね。

今のメガネは気に入っていてもう相当長く使い続けています。

一度福島で転倒して壊してしまったことがありましたが、

そのときはまったく同じものを作ってもらいました。

ふだんあまりメガネのことって意識していませんでしたが、

ド近眼の私にとっては朝起きた瞬間から片時も手放すことのできないものですので、

今回の質問をいただいて、改めてメガネのことを考えてあげることができました。

どうもありがとうございました。

Q.哲学は覚えるものではなくて考えていくものなんですか?

2014-04-21 16:09:41 | 哲学・倫理学ファック
これにはすでにお答えしたのかもしれませんし、

簡単に、「はい、そうです」 とだけお答えすればいいのかもしれませんが、

もう少し正確に、次のようにお答えしておくことにしましょう。


A.哲学は基本的には覚えるものではなく考えていくものです。


「基本的には」 という限定を付けておきました。

たぶん皆さんは3年生の今ごろになって 「哲学」 の授業を受けなければいけないと聞いた時、

哲学者の名前や本のタイトルや難しい哲学用語を覚えなければいけないと思い、

絶望的な気分になったことと思いますが、

私の 「哲学」 の授業に関するかぎり、そういったことは必要ではありません。

なぜなら私は、哲学は基本的には覚えるものではなく考えていくものだと思っているからです。

ですので、私の授業ではひとつひとつのテーマについてじっくり考えてもらうことになりますし、

その考えたことをレポートにまとめてくれればいいので、

何かを覚えなければいけないということはほとんどありません。

しかし、私の授業ではなく哲学一般のことについてお答えするのだとすれば、

やはり 「基本的には」 という限定を外してしまうわけにはいきません。

以前に 「Q.哲学の何が難しいですか?」 という問いにお答えしたことがあります。

そのときにこんなことを書きました。

「A-2-①.それぞれの学問には長い歴史があり、
        そのなかで蓄積されてきたたくさんの答えや考えがあるので、
        それらを踏まえて順番に考えなければいけないので難しいです。」

「A-2-②.それぞれの学問には特有の専門用語がたくさんあり、
        それらを理解しておかないと意味がわからないので難しいです。」

この2つのことは哲学にも当てはまることです。

哲学にも長い歴史がありそのなかで蓄積されてきたたくさんの答えや考えがあって、

それらを踏まえて順番に考えていかなくてはなりません。

そんなのまったく無視してゼロからひとりで考え始めたとしてもそれはそれで哲学ですが、

一生懸命考えてもけっきょくとっくの昔に誰かが考えたことと同じことに行きつくだけかもしれません。

医学や自然科学と同様に哲学の分野でも最先端の研究をしようと思ったなら、

誰がどの本で何と言ったかとか、無数に生み出されてきた哲学の専門用語を覚えておき、

それらを踏まえた上で自分で考えていくことが必要となってきます。

ですので、哲学のなかにも覚えておいたほうがいいことが何もないわけではないのです。

ただまあ、考えていくために必要な事柄というのは無理に覚えようとしなくとも、

いやでも頭に残ってしまうものです。

「汝自身を知れ」 ってもう覚えてしまったでしょ?

専門用語はわざわざ覚えるようなものではなく、

それを使って考えていけば自然と覚えてしまえるものです。

覚えなければと意識したりせず、与えられたテーマを考えることに集中してみてください。

Q.ホームページやブログを始めたきっかけは何ですか?

2014-04-20 18:15:01 | 哲学・倫理学ファック
ホームページやブログを始めたのは2008年のことでした。
ホームページを作ったのがちょっと先で、ほぼそれと同時くらいのタイミングでブログも開設しました。
ブログの最初の記事にはこんなふうに書いてありました。
「ホームページ開設とともに、ブログも始めてしまいますっ。」
同記事によれば本当は春休みに開設したかったのが、5月にずれこんでしまったようです。
さて、始めたきっかけは何だったのでしょうか?
それぞれ目的が違っていますので別々にお答えしましょう。

A.ホームページを始めたきっかけは、福島大学での卒論生募集のための宣伝活動としてでした。

福島大学人間発達文化学類では (前身の教育学部でも) 、3年生の後期から卒論ゼミに入ります。
そのため3年生の4月に卒論ガイダンスを行い、前期のあいだに各ゼミを回って先生と相談し、
どこのゼミに所属するか、卒論テーマを何にするかを決めていくことになります。
ゼミ所属を決めるためにはその先生がどんな研究をしているのか、
ゼミの先輩たちがどんなテーマで卒論を書いたのか等の情報が必要になります。
毎年、卒論ガイダンスでその手の話をしてあげるわけですが、
ガイダンスの時だけでなくいつでもその手の情報を提供してあげる必要があるなと思い、
ホームページを作ったほうがいいなとはちょっと前から考えていたわけです。
ただまったくの素人でしたのでホームページを作るというのはちょっとハードルの高い仕事で、
なかなか思うように準備が進まみませんでしたが、
当時、IT関係に強い先生が福島大学にいらっしゃって、
その方のホームページを参考にしながらいろいろと教えてもらったりして、
やっと2008年の5月になって開設できたというわけです。
このブログの左側の 「ブックマーク」 の欄に 「ブログの師匠のブログ」 と紹介していますが、
正確には 「ブログの師匠」 ではなく 「ホームページとブログの師匠」 と呼ぶべきでしょう。
その方のホームページを見ていただくと、
私のホームページがデザイン的にそれをほぼパクっているというのが一目瞭然です。

そんなふうに卒論生募集のための情報提供が第1目的でしたので、
ホームページのなかでは 「講義・演習」 のページが一番重要だと思っていたわけです。
ただまあホームページというのは基本、全世界向けの情報発信となりますので、
「プロフィール」 や 研究業績の紹介のほうが先になっています。
また、第2の目的としては講演会や出前講座の受注を増やすということも目論んでいたので、
「講演・出前講座」 のページもけっこう重視しており、冒頭にこう書いておきました。

「公開講座や出前授業などの講師をお探しの皆様へ
 たいがいのリクエストにはお応えいたします。
 これまで下記のようなテーマで講義・講演をしてきましたが、これらに限らず、
 この世のありとあらゆるテーマを倫理学的に語ってみたいと思っています。
 聞き手にあわせてわかりやすくお話しすることが私の生きがいです。
 ご注文はメールでどうぞ。」

実際、これを読んで直接申し込んできてくださる学校とかがありますので、
そっちの面でも営業効果はあったかなと思っております。
続いてブログを始めたきっかけに移りましょう。

A.ブログを始めたきっかけは看護学校での 「哲学・倫理学の先生に聞いてみたいこと」 です。

毎年、看護学校の第1回目の講義では、
「哲学・倫理学の先生に聞いてみたいこと」 のQ&Aをやっているわけですが、
代表質問に選ばれなかった質問に対して、
以前は1人1人のワークシートに書き込んで答えていました。
これがものすごい手間がかかりました。
しかもどんなにいい文章を書いてあげたとしても、
その答えは書いてあげたその人だけにしか読んでもらえないのです。
何人かから同じ質問が出ていたらそのつど書かなくてはなりませんし、
翌年になるとまた似たような質問が出てきたりします。
これを何とかしたいというのが一番の動機でした。

もちろん、看護学校の哲学・倫理学FAQだけでなく、
福島大学でも授業内容に関してワークシートで質問をもらうことがあり、
最初はやはりワークシート上に書き込んでお答えしていましたが、
それだと質問者本人だけにしか返してあげることができないので、
いい質問に関しては次の講義のときにみんなに向かって答えてあげるということもしていました。
それはそれでいいのですが、それだと講義時間が短くなってしまいます。
そこで講義時間外に自分たちで読んでもらえる方法としてブログは最適だなと思いました。
しかも 「書き留めて」 おけるのでその年の学生たちだけでなく他の人たちにも残しておけます。
このようにブログというのは学生たちとのやりとりにとってひじょうに便利な手段なのです。

このことはすでに以前にも書いたことがあります。
そこには 「ブログを開設した一番の趣旨は、学生からの質問に答える場を設けることでした」
と書いてあります。
ですので、今回のご質問の後半部に対してはその記事を読むように指示してもよかったのですが、
「ブログを開設した趣旨」 ではなく 「ブログを始めたきっかけ」 と聞かれましたので、
やはり始めるきっかけとしては看護学校のこのQ&Aを挙げるべきでしょう。
福大の授業で学生たちから質問をもらうことってそんなにあるわけではないので、
とりあえず困っているというほどのことはなかったのです。
しかし看護学校のQ&Aは毎年の恒例行事でクラス全員から何個も質問をもらってしまいますので、
その処理には本当に手を焼いていて何とかしなければならないという緊急性があったのです。
というわけで、振り返ってみると看護学生の皆さんのためにこのブログを開いたようなもんですね。
がんばって書いていますので、皆さんぜひ読んでくださるようお願い申し上げます。

『ある精肉店のはなし』 de てつがくカフェ

2014-04-18 16:09:50 | 哲学・倫理学ファック
フォーラム福島×てつがくカフェ@ふくしまのタイアップ企画第2弾です。

映画 『ある精肉店のはなし』 を見てシネマ de てつがくカフェを開催いたします。



第4回シネマ de てつがくカフェ
【開催日時】 2014年 4月27日(日) 
    ≪映 画 上 映≫ 14:00~16:00
    ≪てつがくカフェ≫ 16:00~18:00
【開催場所】 フォーラム福島
 (たぶん3か4)


1月に 『ハンナ・アーレント』 でシネマ de てつがくカフェをやったばかりというのに、

たたみかけるような波状攻撃です。

2月に 「食べてよい命と食べてはいけない命はあるのか?」 のテーマでてつカフェを開きましたが、

あの記録的な大雪のために参加者がたったの9名という記録的な大敗を喫してしまったので、

そのリベンジです。

というのはちょっと言い過ぎですが、あのテーマをもう一度考えてみるのに最適の映画でしょう。

しかも今回は、福島市内で乳牛の出産、飼育から生産、出荷、販売まですべてを手がける乳牛家、

佐々木光洋さんを囲んで 「いのちをいただくとは?」 をテーマに語り合います。

さらになんと (有)ささき牛乳さんの牛乳をいただきながら議論できるという、

「てつがくカフェ」 ならぬ初の 「てつがくミルク@ふくしま」 の試みとなります。

みんなで唇のまわりに白い輪っかをこしらえながら哲学的対話に興じましょう

『ある精肉店のはなし』 は明日4月19日から5月2日までフォーラム福島で上映します。

(てつカフェ当日以外は11時30分からと18時45分からの2回上映。)

明後日4月20日の18時45分の回の終了後に纐纈あや監督のトークショーも行われます。

私は試写会を見られなかったので、この日にトークショー付きで見てこようと思っています。

纐纈 (「はなぶさ」 と読むらしい) 監督のお話をうかがえるのも楽しみです。


P.S.1

前売り券 (1,000円) を小野原が絶賛発売中です。


P.S.2

懇親会は 「たなつもの食堂」 でなんと熟成牛肉をいただいちゃいます。

前回同様、先着20名様までとさせていただきますので、

参加ご希望の方は大至急 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp までメールでお申し込みください。

相馬ドライブへんてこ看板のその後・ヘイ!

2014-04-17 08:57:03 | ドライブ人生論
昨年、相馬ドライブの途中にヘンテコな看板を見つけたことをご報告しました。

覚えていらっしゃいますでしょうか?

これです。



変な日本語ですね。

ところが今年1年ぶりに行ってみたら、これがもっと大変なことになっていました。

なんとこうです!



どう読めばいいんでしょう。

「ヘイ!」 ですか?

なんでこんなことになってしまったのでしょうか?

「速」、「下」、「さ」 が気に入って誰かが持っていってしまったんですか?

それとも誰か私のブログを読んで、「し」 と 「て」 を足すために、

サンプルとしてあの3枚を持っていったとか?

後者であることを祈ります。


P.S.

ちなみにカマスは健在でした。

Q.男性が看護師になるということを先生はどう思いますか?

2014-04-16 17:08:22 | 哲学・倫理学ファック
以前はこういう質問ってなかったんですが、最近になってこの手の質問を受けるようになりました。

12期生は38名中3名が男子です。

12年経っても男子の比率はそれほど上がっていくわけでもなくずーっと横這い状態で、

したがって看護の仕事の門戸が男性にも開かれたといっても、

看護職のなかで男性はあいかわらず少数派の位置に置かれているのでしょう。

そんななかで生まれてきた質問なのかもしれません。

昨年の質問はこんな感じでしたね。

「Q.看護学校にいる男子ってどう思いますか?」

それに対しては以下のように答えさせていただきました。

「A.看護学校にいる男子だからといってどうということもなく、

   福島大学の男子学生と変わらない、ごくフツーの男の子たちなんだなあと思いました。」

今回の質問ですがもうちょっと一般的に、

「男性が看護師になることをどう思いますか」 となっています。

どうなんでしょう。

いまだに男性が看護師になることに関して偏見をもっている人っているのでしょうか?

バスやタクシーや電車の運転手など以前は男性の職業と決まっていたところに、

今ではどんどん女性が進出しつつあります。

女性の刑事というのが現実にどれくらいいるのか知りませんが、

小説やドラマの世界ではむしろ女性が主人公の警察もののほうが増えてきている気がします。

研究者や大学教員というのも一昔前は男性が圧倒的多数でしたが、

最近では小保方さんの騒動にも見られるようにリケジョもそれほど珍しくなくなってきました。

逆に保育士や幼稚園教諭など女性の仕事と思われていた職種に男性がどんどん進出しています。

美容師とかファッションデザイナーなどは一昔前はやはり女性の仕事だったような気もしますが、

とはいえだいぶ前から男性でもそれらの世界で名を馳せてる人は数多くいました。

そうしたことはとてもいいことだと私は思っています。

男性だから女性だからある職業に向いているということではなく、

その職業に向いている個人のある特性があるというだけの話だと思うのです。

男性でもクルマの運転が下手くそな人もいれば、女性でも子どもの相手が苦手な人もいます。

女性でも格闘技の強い人もいれば、男性でもファッションセンスに優れた人もいます。

看護師に要求されるケアの技術や細やかな心配り、観察力なども、

男だから女だからといったことに関係なく、得意な人は得意だし苦手な人は苦手なんでしょう。

ということで今回の答えは次のようにまとめておくことにいたします。

A.男性が看護師になることに関して私は特にどうとも思わず、当たり前のことと考えています。

  男性・女性関係なく看護師になるにふさわしい人に看護師になってもらいたいと思います。

手作り代用食品・豆腐ご飯

2014-04-15 14:25:49 | がんばらないダイエット
今さらなんですが、こんな本を買ったんですよ。



『糖質制限完全レシピ』 です。

江部先生、大柳先生という 「おやじダイエット部」 の顧問の先生お2人が監修された本です。

この本の最初に 「豆腐ご飯」 というレシピが紹介されているんです。

この本は糖質制限ダイエットをこれから始めようという人のために、

第1週、第2週、第3週とどんな献立を組み立てていったらいいかを説明してくれています。

そのスタートのところで豆腐ご飯というものを作ってこれをご飯代わりの主食とし、

それ以降だんだんとおかずのみの食事に切り替えていくことを提案しています。

そんなこと知らないまま、すでに5ヶ月間の糖質制限ダイエットで結果を出し、

勝手に糖質制限を卒業してしまった私にはまったく必要ない気もしたんですが、

たまたま駅ビルで生おからを売っていたのと、

ちょっと興味もあったので、今さらながら作ってみました。

レシピをご紹介していきましょう。


1.鍋に多めの湯を沸かしそこに木綿豆腐300gを手でほぐしながら投入していきます。

2.再沸騰してから5分間茹でてザルに取り、15分ほど置いて水切りします。



3.その間に生おから80gを耐熱皿に広げ600wのレンジで1分間加熱しておきます (ラップ不要)。



4.2と3をボウルに入れ塩少々を振り、フォークでつぶしながら混ぜていけば完成です。




レシピ本によれば和定食などの場合にこれを白ご飯の代わりとして食してもいいですし、

これでチャーハンを作ったりすることも可能のようです。

私はレトルトカレーをかけて 「なんちゃってカレーライス」 にしてみました。



使ったのはセブンプレミアムのインド風チキンカレーですので炭水化物量は16.4g。

みごとにスーパー糖質制限の基準をクリアした一食です。

『おやじダイエット部の奇跡のレシピ』 には、

豆腐 (冷や奴でも湯豆腐でも可) にレトルトカレーをかけるという定番のメニューが載っていて、

スーパー糖質制限実行中は何度か試してみたものでしたが、

あれだとちょっと食感といい腹持ちといい物足りないんですね。

しかし、この豆腐ご飯を使ったカレーライスもどきはけっこう食べごたえがありました。

おからが水分を吸ってくれるのでベチャベチャしないところがいい感じです。

これが白ご飯の代わりになるかというと、あくまでも豆腐とおからで作った代用食品であって、

おかずとともにこれを食べるという気には私はちょっとなれませんが、

カレーライスにしたりチャーハンにしたりという食べ方であればそこそこいけると思います。

あと、少し残った豆腐ご飯で 「卵かけご飯もどき」 も作ってみました。



これもなかなかいけました。

これから糖質制限ダイエットを始めようという方、

生おからが近くで手に入るようでしたらちょっとやってみてはいかがでしょうか?