第1回目のときにいただいた質問にまだ全然お答えできていないんですが、
この質問に関しては、最初からすぐにはお答えせず、
第5回目の授業が終わったあとくらいに答えようと思っていました。
第5回目は尊厳死や安楽死について、第4回目は脳死・臓器移植について考えてもらったわけですが、
考えれば考えるほど、ひとつの正解なんてないんじゃないかと思えてきたのではないでしょうか。
いろいろな視点、いろいろな立場からさまざまな考え方ができるので、
自分一人で考えていたって統一的な答えを出すのは難しそうですし、
ましてや世界中のみんなが納得するような答えを出すなんて絶対ムリと感じたんではないでしょうか。
私自身もたしかにそう感じてはいます。
しかし、ふーむ、この質問にはなんて答えたらいいんでしょうか?
「答えは出せません」 と答えてしまうのは簡単ですし、
ほとんどそれがお答えではあるんですけれども、
そう答えてしまうと、たぶんみんなに誤解されてしまうような気がします。
「答えが出ないんなら考えなくてもいいじゃん。」
「みんながそれぞれ好きなことを自分で信じていればいいじゃん。」
そんなふうに思ってもらいたくはないのです。
「Q.倫理学を教える上で難しいと感じることは何ですか?」 という質問に対して、
「A.ひとつの正解があるわけではない、けれども考え続けなければいけない、
そういう問題がこの世にはあり、それを考え続けることには意義がある」
とお答えしたことがありますが、
生命倫理に関する問題もすべてそのような問題だろうと思います。
しかも私は、いつか答えが見つかるだろうという希望も捨て去ってはいません。
みんなで疑って、疑って、疑い続けて、
お互いの答えを徹底的に吟味し合って、
いつの日か、すべての人間が納得できるような答えを見つけられるんじゃないだろうか、
という希望をもち続けているのです。
それは以前に書いたことに関連させていうならば、
まさに 「本物の倫理」 ということになるでしょう。
生命倫理に関しても、いつか人類は 「本物の倫理」 に行き着くだろうと信じているのです。
そのための手順としてはこんなことを考えています。
例えば、「脳死臓器移植はよいことか悪いことか?」 という問題は、
そのまま考えようとするととても難しい問題ですが、
この問いはいくつかの部分に分けて考えることができるはずです。
・脳死とは何か?(※)
・脳死をどうやって判定したらいいか?(※)
・脳死は人の死か?
・人の死とは何か?
・法的に人の死をどうやって決めたらよいか?決めなくてもよいのか?
・死体から臓器をもらってもよいか?
・自分が死んだあと自分の死体から臓器を提供することは許されるか?
・自分の意思で何をどこまで決めていいのか?
・他人から臓器をもらわずに治療する方法はないのか?(※)
※をつけた問題以外はどれも倫理学的な問題であり、
たしかにあいかわらず答えが出にくそうな問題もありますが、
じっくり考えていけばなんとかなりそうな気がしないでもない問題もあるのではないでしょうか。
例えば、どちらかに決めてしまうのではなく、
個人の自由を認める、というのも答え方の一つなわけですから、
それを考えると、けっこう答えが出せそうな問題もありそうだと思うのです。
こんなふうに、問いを分けていくことによって、
少しずつ正解に近づいていくことができるのではないでしょうか?
というわけで今回もあまりスキッとしませんが、
以下のようにお答えしておくことにいたしましょう。
A.生命倫理をはじめとして倫理学の問題にはそう簡単に答えを出すことはできません。
しかしそれは答えが絶対に出ないということではなく、
いつの日か答えが出ることを信じて、
ずーっと考え続けていくべき問題だということを意味しているのだと思います。
この質問に関しては、最初からすぐにはお答えせず、
第5回目の授業が終わったあとくらいに答えようと思っていました。
第5回目は尊厳死や安楽死について、第4回目は脳死・臓器移植について考えてもらったわけですが、
考えれば考えるほど、ひとつの正解なんてないんじゃないかと思えてきたのではないでしょうか。
いろいろな視点、いろいろな立場からさまざまな考え方ができるので、
自分一人で考えていたって統一的な答えを出すのは難しそうですし、
ましてや世界中のみんなが納得するような答えを出すなんて絶対ムリと感じたんではないでしょうか。
私自身もたしかにそう感じてはいます。
しかし、ふーむ、この質問にはなんて答えたらいいんでしょうか?
「答えは出せません」 と答えてしまうのは簡単ですし、
ほとんどそれがお答えではあるんですけれども、
そう答えてしまうと、たぶんみんなに誤解されてしまうような気がします。
「答えが出ないんなら考えなくてもいいじゃん。」
「みんながそれぞれ好きなことを自分で信じていればいいじゃん。」
そんなふうに思ってもらいたくはないのです。
「Q.倫理学を教える上で難しいと感じることは何ですか?」 という質問に対して、
「A.ひとつの正解があるわけではない、けれども考え続けなければいけない、
そういう問題がこの世にはあり、それを考え続けることには意義がある」
とお答えしたことがありますが、
生命倫理に関する問題もすべてそのような問題だろうと思います。
しかも私は、いつか答えが見つかるだろうという希望も捨て去ってはいません。
みんなで疑って、疑って、疑い続けて、
お互いの答えを徹底的に吟味し合って、
いつの日か、すべての人間が納得できるような答えを見つけられるんじゃないだろうか、
という希望をもち続けているのです。
それは以前に書いたことに関連させていうならば、
まさに 「本物の倫理」 ということになるでしょう。
生命倫理に関しても、いつか人類は 「本物の倫理」 に行き着くだろうと信じているのです。
そのための手順としてはこんなことを考えています。
例えば、「脳死臓器移植はよいことか悪いことか?」 という問題は、
そのまま考えようとするととても難しい問題ですが、
この問いはいくつかの部分に分けて考えることができるはずです。
・脳死とは何か?(※)
・脳死をどうやって判定したらいいか?(※)
・脳死は人の死か?
・人の死とは何か?
・法的に人の死をどうやって決めたらよいか?決めなくてもよいのか?
・死体から臓器をもらってもよいか?
・自分が死んだあと自分の死体から臓器を提供することは許されるか?
・自分の意思で何をどこまで決めていいのか?
・他人から臓器をもらわずに治療する方法はないのか?(※)
※をつけた問題以外はどれも倫理学的な問題であり、
たしかにあいかわらず答えが出にくそうな問題もありますが、
じっくり考えていけばなんとかなりそうな気がしないでもない問題もあるのではないでしょうか。
例えば、どちらかに決めてしまうのではなく、
個人の自由を認める、というのも答え方の一つなわけですから、
それを考えると、けっこう答えが出せそうな問題もありそうだと思うのです。
こんなふうに、問いを分けていくことによって、
少しずつ正解に近づいていくことができるのではないでしょうか?
というわけで今回もあまりスキッとしませんが、
以下のようにお答えしておくことにいたしましょう。
A.生命倫理をはじめとして倫理学の問題にはそう簡単に答えを出すことはできません。
しかしそれは答えが絶対に出ないということではなく、
いつの日か答えが出ることを信じて、
ずーっと考え続けていくべき問題だということを意味しているのだと思います。