まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.生命倫理などに答えはだせますか?

2010-10-31 23:32:25 | 哲学・倫理学ファック
第1回目のときにいただいた質問にまだ全然お答えできていないんですが、
この質問に関しては、最初からすぐにはお答えせず、
第5回目の授業が終わったあとくらいに答えようと思っていました。
第5回目は尊厳死や安楽死について、第4回目は脳死・臓器移植について考えてもらったわけですが、
考えれば考えるほど、ひとつの正解なんてないんじゃないかと思えてきたのではないでしょうか。
いろいろな視点、いろいろな立場からさまざまな考え方ができるので、
自分一人で考えていたって統一的な答えを出すのは難しそうですし、
ましてや世界中のみんなが納得するような答えを出すなんて絶対ムリと感じたんではないでしょうか。
私自身もたしかにそう感じてはいます。
しかし、ふーむ、この質問にはなんて答えたらいいんでしょうか?

「答えは出せません」 と答えてしまうのは簡単ですし、
ほとんどそれがお答えではあるんですけれども、
そう答えてしまうと、たぶんみんなに誤解されてしまうような気がします。
「答えが出ないんなら考えなくてもいいじゃん。」
「みんながそれぞれ好きなことを自分で信じていればいいじゃん。」
そんなふうに思ってもらいたくはないのです。
「Q.倫理学を教える上で難しいと感じることは何ですか?」 という質問に対して、
「A.ひとつの正解があるわけではない、けれども考え続けなければいけない、
   そういう問題がこの世にはあり、それを考え続けることには意義がある」
とお答えしたことがありますが、
生命倫理に関する問題もすべてそのような問題だろうと思います。

しかも私は、いつか答えが見つかるだろうという希望も捨て去ってはいません。
みんなで疑って、疑って、疑い続けて、
お互いの答えを徹底的に吟味し合って、
いつの日か、すべての人間が納得できるような答えを見つけられるんじゃないだろうか、
という希望をもち続けているのです。
それは以前に書いたことに関連させていうならば、
まさに 「本物の倫理」 ということになるでしょう。
生命倫理に関しても、いつか人類は 「本物の倫理」 に行き着くだろうと信じているのです。

そのための手順としてはこんなことを考えています。
例えば、「脳死臓器移植はよいことか悪いことか?」 という問題は、
そのまま考えようとするととても難しい問題ですが、
この問いはいくつかの部分に分けて考えることができるはずです。

・脳死とは何か?(※)
・脳死をどうやって判定したらいいか?(※)
・脳死は人の死か?
・人の死とは何か?
・法的に人の死をどうやって決めたらよいか?決めなくてもよいのか?
・死体から臓器をもらってもよいか?
・自分が死んだあと自分の死体から臓器を提供することは許されるか?
・自分の意思で何をどこまで決めていいのか?
・他人から臓器をもらわずに治療する方法はないのか?(※)

※をつけた問題以外はどれも倫理学的な問題であり、
たしかにあいかわらず答えが出にくそうな問題もありますが、
じっくり考えていけばなんとかなりそうな気がしないでもない問題もあるのではないでしょうか。
例えば、どちらかに決めてしまうのではなく、
個人の自由を認める、というのも答え方の一つなわけですから、
それを考えると、けっこう答えが出せそうな問題もありそうだと思うのです。
こんなふうに、問いを分けていくことによって、
少しずつ正解に近づいていくことができるのではないでしょうか?

というわけで今回もあまりスキッとしませんが、
以下のようにお答えしておくことにいたしましょう。

A.生命倫理をはじめとして倫理学の問題にはそう簡単に答えを出すことはできません。
  しかしそれは答えが絶対に出ないということではなく、
  いつの日か答えが出ることを信じて、
  ずーっと考え続けていくべき問題だということを意味しているのだと思います。

映画 『私の中のあなた』

2010-10-30 19:02:49 | 生老病死の倫理学
予告編を見たときは、倫理学者として見とかなきゃいけないかなあと思ったのですが、
この手の重い話が苦手な私は、ついついパスしていました。
最近になってうちの院生から強く薦められたので、しかたなくDVDを借りました。
『私の中のあなた』 です。
キャメロン・ディアスがシリアスな役に挑んだというので話題になった映画ですが、
シリアスなキャメロン・ディアスも特に見たくなかったし、
院生に薦められていなければ本当にずっと見なかったかもしれません。
しかし、見ておいてよかったです。
とてもいい映画でした。
教え子に感謝したいと思います。

あらすじはご存知の方も多いかもしれませんが、
白血病を患った長女を救うために、遺伝子操作でドナーとなれる次女をつくり、
臍帯血移植や骨髄移植を行ってきたのですが、
病気の進行の中で腎不全にもなってしまった長女に、
次女から腎臓移植をすることにしたら、
次女が臓器提供を拒否して両親と法廷で争うことになるというショッキングな内容です。
知りませんでしたが、この映画には原作の小説があり、
その小説は実話に基づいているのだそうです。
うーん、ものすごい話です。
こんなことが実際に起こるなんてさすがはアメリカです。

ただし原作と映画ではラストが違っているそうです。
原作はまだ読んでいませんが、
ネットで知りえた情報によるかぎり、映画のほうが断然いい感じです。
原作のほうはちょっと耐え難い結末です。
なので、実話や原作がどうなっているかはよくわかりませんが、
映画を見ただけの判断で以下は書くことにします。
表向きのテーマは生体移植の是非です。
脳死・臓器移植をずっと行うことのできなかった日本において、
生体移植はごく普通の医療行為であるかのように受け入れられてしまっていますが、
私は生体移植は脳死・臓器移植よりもはるかに、倫理学的にグレーな行為だと思っています。
特に生体移植はたいていの場合、家族間で行われますので、
アホのマスコミがすぐに美談として報じたがりますが、
この映画の次女のように、家族だからといって臓器を提供なんかしたくない、
という人がいたってまったく不思議ではないわけです。
この映画の裁判ではさらに、子どもに自主的判断能力があるかどうかということも争われます。
子どもにはまだ意思表示する能力がないのだから、
親が代理で決めてあげて、妹から姉に臓器提供をさせようとしているわけです。
こんなパターナリズムが許されていいのでしょうか?
遡っていえば、デザイナーズ・ベイビーをつくってその子から移植するという手がありますよ、
と薦めた医者こそがこの問題の大元凶です。
訴訟大国のアメリカで、なぜこういう医者を傷害罪で訴える弁護士が出てこないのか、
不思議でしょうがありません。

とまあ、生体移植反対派の私としては許し難いポイントがいくらでもあるのですが、
しかしこの映画は愛に溢れています。
たんなるパターナリスティックな愛というだけでなく、
本当の家族愛に溢れています。
この映画のもうひとつのテーマは 「死の受容」 です。
これ以上はネタバレになってしまいますのでもう書けませんが、
原作との違いもこのもうひとつのテーマがあるかないかということになるのではないでしょうか。
このテーマが付加されたことによって、
原作よりもはるかに奥深く感動を呼ぶ物語になったのだろうと思います (あくまでも推測)。
ボロボロ泣くことは間違いありませんが、悲しい涙ではありませんので、
ぜひ一度ご覧になってみることをオススメします。

さて、この映画の原題は 「My Sister’s Keeper」 です (原作も同じ)。
カインとアベルの物語のなかの、弟を殺したカインのセリフ、
「私は弟の番人 (my bother’s keeper) でしょうか?」 から取られています。
英語の sister は姉と妹どちらも指すことができますので、
妹は姉の命の番人であるという意味で My Sister’s Keeper であり、
姉は自分の身体の中に妹からもらったものを keep しているという意味で、
My Sister’s Keeper であるという、なかなか凝ったタイトルです。
それに対して、邦題の 「私の中のあなた」 は、これも原作の邦訳タイトルと同じなのですが、
原作の場合はまあこれでよかったにしても、
原作とラストを変えてある映画の場合、
「私の中のあなた」 ではこの映画のストーリーやテーマをうまく表せていないように思います。
なんて訳したらいいのかちょっと難しいですが (『姉の番人』 ではヒットしないでしょうし)、
困ったときは原題のまま 『マイ・シスターズ・キーパー』 でよかったのではないでしょうか。

先生の教え (その1)・ブルッとする理由

2010-10-27 10:04:09 | 教育のエチカ
昨日は寒かったですね。

まだ10月というのにもう完全に冬でした。

ついこのあいだまで猛暑だったのに…。

こう寒くなってくると、小学校のときに聞いたある先生の言葉を思い出します。

たしかぼくは小学生で、その先生は中学校の数学のW先生だったんではないかと思うのですが、

横浜国立大学教育学部附属横浜小学校と中学校は同じ建物にあったので、

そういう出会いの機会もあったのだろうと思います。

ある寒い日、トイレでオシッコをしようとしたら、

隣にそのW先生がいらっしゃいました。

互いに用を足しながら、見ず知らずの私に彼は急に話しかけます。


「オシッコしたあとブルッとなるだろ?」

「ハイ、なります。」

「なんでブルッとなるか知ってる?」

「ええ? わかりません。」

「オシッコって湯気が立つだろ。オシッコはお湯なんだよ。

 身体の中にお湯が入っていて身体をあっためてるんだけど、

 オシッコするとそのお湯が出ていっちゃうから寒くなってブルッとするんだよ。」

「おお!」


すっかり信じた私を置いてW先生は去っていきました。

いたいけな小学生に彼は何を伝えたかったんでしょうか?

それ以来、冬場ブルッとするたびにW先生のことを思い出してしまうのでした。

科研が書けん'2010

2010-10-26 20:38:56 | 哲学・倫理学ファック
「科研が書けん」 という記事を昨年の11月3日に書きました。

今年もまた科学研究費補助金の申請締切の時期になってまいりました。

科研費研究というのはだいたい3~4年かけて行うプロジェクトとして申請しますので、

今年も申請しなければならないということは、

昨年申請したものが落ちたということを意味します。

(ちゃんと書いて申請することはしたんです

私は今までに一度だけ科研費に当たったことがあるのですが、

当たると何がうれしいって、数年間は申請書を書かずにすむというのが心からうれしかったです。

膨大な量の書類なので、これを作成するためにどれほどの研究時間が奪われることか

(もちろん、それによってお金の心配をせずに研究に取り組めるというのは研究者冥利に尽きますが…)

というわけで、なんとか受理してもらえるような申請書を書きたいのですが、

うううっ…

科研が書けん…

実験動物慰霊碑

2010-10-25 12:48:52 | 生老病死の倫理学
「科学技術と環境の倫理学」 の中で、
科学倫理が20世紀に入ってから変容してきたという話をしました。
科学者サークルの内輪だけで守っていればよかったルールに加えて、
社会からの要請により、科学者たちが社会に対して負うべき義務もつけ加わってきた、
というような話でした。
そのうちの1つとして 「自然に対する影響への配慮」 というものを挙げました。
科学・技術の発展によって、人間のもつ力が強大なものになってきたので、
自然を改変したり破壊してしまうことが可能となってしまったので、
人間が自然に及ぼす影響を見極めたうえで研究・開発は進められなければならず、
場合によっては、研究・開発を見合わせる必要もある、という内容です。

これってけっこう大きな問題なのですが、
その中に入れられうる、比較的小さな問題 (というと怒る人がいるかもしれませんが) として、
実験動物への配慮ということがあります。
現状においては、科学の進展のことを考えると、動物実験を完全にやめるということは不可能です。
一昔前は動物相手だったらどんなことでも平気で行われていたのですが、
近年では動物相手だからといってどんなにヒドイことでもしていいわけではないだろう、
ということになってきました。
動物愛護団体による反対運動や、動物実験をやめさせるためのテロ行為なども起きています。
そんな中で、動物実験はできるだけやらない、
どうしてもやらなければいけない場合は、できるだけ動物を殺したり傷つけたりしない、
どうしても殺したり傷つけたりしなければいけない場合は、できるだけ苦しめない、
といったルールができあがりつつあります。

さて、冒頭の写真ですが、福大生の中で見たことある人はいるでしょうか。
今年になってからふと気づくと、福島大学の理工学類棟と実験棟のあいだにできていました。
アップで撮ってみるとこうです。



タイトルに書いたように 「実験動物慰霊碑」 なんですね。
今年の3月に建立されたようです。
少し離れてみるとこうです。



まるでお墓のようですね。
下の2つのやつに寄ってよく見てみると、



今は空っぽですが、お花を供えるためのカップになっています。
完全にお墓です。

最近ではどこの大学でもこういったものを設置することが要求されるようになってきました。
これがあるということは動物実験で動物を殺しているという証ですが、
しかし、むやみやたらと殺戮しているわけではなく、
やむない場合にのみ、感謝しながら、できるだけ苦痛を与えないようにして行っており、
実験後もこうやって手厚く葬っているのですよ、というデモンストレーションです。
それにしてもうちの共生システム理工学類では、
だれがどんな動物実験を行っているんでしょうか?
実験動物が搬入されてくるところなんて見たことないけどなあ。
そして、もっと時代が経ったら動物実験なんてしなくても、
コンピューター・シミュレーションだけで科学が進展できるようになったりするんでしょうか。
この慰霊碑とかを見て、昔は動物使って実験とかしてたらしいね、野蛮だよねえ、
なんて学生たちが話してたりするようになるんでしょうか。
それとも科学があるかぎり、動物たちの犠牲はずっとつきものなのでしょうか。
今の私は人体実験するよりは動物を使わざるをえないだろうし、
動物実験を廃止することはできないんじゃないかなあと予想していますが、
それ自体、時代に囚われた古いものの見方かもしれません。
この先、科学倫理がどう変わっていくのか。
長生きして見届けたいと思います。

スポーツ選手と老い

2010-10-24 13:43:31 | 生老病死の倫理学
以前に 「老いるとは?」 という文章を書きました。

そこでは私は 「老い」 というものを次のように表現できるのではないかと書きました。


「私はもうできない、にもかかわらず私は存在する」
”I can’t any more, nevertheless I am.”

「これまでできたことをひとつずつ喪失していく悲しみ、
 にもかかわらず、それに耐えて生きていかなければならない苦しみ、
 それが 「老いる」 ということではないかと思うのです。」


そして、この理論からすると、トップレベルで活躍している一流のスポーツ選手というのは、

「老い」 の苦しみにいちはやく遭遇してしまう人たちなんではないかと思っておりました。

一般的にはまだ 「老人」 というカテゴリーに入れられる歳では全然ないのに、

30代の半ばぐらいからもう、今までできたことがだんだんできなくなっていく、

そういう苦悩を味わわなくてはならないからです。

ところで今日はこんな報道を目にしてしまいました。


「真央涙目…ジャンプ戻らず8位/フィギュア」


浅田真央選手はまだ20歳です。

ですから今回のジャンプ失敗も、たんなるスランプとか、

記事中にあるような 「ジャンプイップス」 にすぎないだろうと信じていますが、

しかし、フィギュアスケートのジャンプというのは、

身体が小さくて体重が軽かった子どもの頃のほうがラクラクと飛べて、

だんだん身体ができあがり大人の体型になるにつれて、昔のようには飛べなくなってしまうので、

子どもの頃とはまったく違うジャンプ方法を習得するか、

ジャンプとは別の形での表現力を開発していかないかぎり、

大人の選手として活躍し続けていくことはできないのでしょう。

子どもの頃みたいにはもう飛べないという感覚は、

きっと老いに伴って感じる喪失感と同じなのではないでしょうか。

他のスポーツの場合、まだ20歳ぐらいというと、

できることがどんどん増えていく時期だと思いますので、

その意味でフィギュアスケートというのは精神的に苛酷なスポーツだなあと思います。

浅田選手には新コーチの下でシニアとしてのスケーティングをどんどん身につけてもらい、

末永く活躍して、あの笑顔をいつまでも見せ続けてほしいと思うのでした。

Q.FFシリーズではどれが一番好きですか?

2010-10-23 11:23:19 | 幸せの倫理学
「Q.趣味は何ですか?」 という質問に対して、
そのひとつとしてRPG (ロールプレイングゲーム) を挙げ、
ドラクエ (ドラゴンクエスト) や FF (ファイナルファンタジー) をよくやってます、
とお答えしたところ頂戴した追加質問です。
正確には次のような2問でした。
 
「FFシリーズではどれが一番好きですか?
 好きなキャラクターは?」

もう完全に倫理学なんてどうでもよくなってしまっているようですが、
まあそれは想定の範囲内ですので、ちゃんとお答えすることにしましょう。

A-1.一番好きなのはFFⅡです。
    FFⅦとFFⅩもいい勝負で相当お気に入りです。

どれが一番かを決めるというのは難しいですね。
特に昔のやつは記憶が薄れてしまっていますし、
そもそも、ファミコンからプレステへと移行しながら、
どんどんハードが扱えるデータ容量自体が飛躍的に増大してきていますので、
昔のものと今のものを単純に比較することはできません。
なので純粋に並列的に比較したわけではなく、
印象に残っているインパクトの強さということで判断してみました。

いつだか申し上げたように、近年では自分へのごほうびとして、
なにか一仕事をやりとげたときにドラクエかFFを買ってあげるようにしていますので、
発売と同時に買ってプレイしているわけではありません。
で、論文を書くというのはけっこう時間のかかる仕事ですし、
特にここ数年、大きな仕事を抱えていて、それがなかなか終わる気配がないので、
なかなかRPGをやれずにいるという状態です。
現在までのところ、ドラクエはⅧまで、FFはⅩ-2までしかやっていません。
その中での比較ということでお聞きください。

FFシリーズでどれが一番好きか?
うーん、いろんな要素があるので本当に決めがたいですね。
FFⅦとFFⅩはシリーズ中、画期的なシステムが新たに導入された作品だったと思います。
FFⅦはプレステに移行した第1作で、
RPGが二次元から三次元 (3DCG) になったのでものすごく衝撃を受けました。
ストーリーも面白かったし、ミニゲームがたくさん用意されていたのも楽しくて、
相当やりこんだ記憶があります。
ただし、初めての3D作品ということでいろいろとプレイしにくい不備がありましたし、
武器にマテリアを装着するというシステムがけっこう鬱陶しかった記憶があります。
FFⅩはプレステ2に移行した最初の作品で、
キャラクターに表情がついたり、喋るようになって、
RPGというよりはCG映画を見ているようでした。
ストーリーもまるで映画のようで、主人公たちのラブストーリーがあり、
最後の悲劇を予感させながら、『ソフィーの世界』 のような大どんでん返しの結末を迎えるなど、
ゲームでこんなのあり?と思わせるくらい驚かされました。
しかし、スフィア盤の上を移動しながら成長していくというシステムは、
最初のうちは夢中になっていろいろ考えながらすごろくを楽しんでいましたが、
戦ってはいちいちすごろくしなきゃいけないのがだんだん面倒になってきました。
武器を改造するためにアイテムを集めなきゃいけないのも大変で、
ダークマターを手に入れるために訓練場でアースイーターと何度戦ったかわかりません。

どちらもナンバー1候補でしたが、未だに印象に残っているということで、
両者を抑えてFFⅡに軍配を上げました。
とはいえ、あまりに昔のことだったので、ⅡだったかⅢだったか曖昧で、
今回お答えするためにウィキペディアで調べてみなければなりませんでした。
何が記憶に残っているかというと、初めのうちはメインキャラクターの4人が揃っておらず、
その代わりに短期間同行してくれるサブキャラクターが何人かいて、
戦闘にも参加してくれるというシステムになっていたことです。
彼らは能力値も高く、ゲーム序盤の戦いで大いにメインキャラを助けてくれるのですが、
そのうちの1人 (調べてみたらヨーゼフ) が、ミッションクリア後、
大岩のトラップからみんなを救うために犠牲になって命を落としてしまうのです。
これは衝撃的でしたね。
それも含めて、もうよく思い出せませんが、
出会いと別れを繰り返すストーリーが面白かったという記憶が残っているのです。
今プレイしてみるとどう思うかわかりませんが、
思い出は美化されるということを承知の上で、FFⅡを一番に選ぶことにしました。

2問目の好きなキャラということですが、
昔のものでは名前も自由につけられたし、それほどキャラの個性がなかったような気がします。
FFⅡだと、今挙げたヨーゼフくらいの記憶しかありません。
メインキャラは初期設定のままやったのか、
イケヤマとかフルタみたいな名前をつけたんだったか思い出せません。
キャラで記憶に残っているのは、FFⅦのクラウドと、
一番最近にやったFFⅩの面々くらいでしょう。
うーん、その中で誰が好きか?

A-2.好きなキャラは、FFⅩのティーダとユウナでしょうか。

それ以外にもFFⅩには魅力的なキャラがたくさん登場していて、
アーロンやルールー、リュックなども捨てがたいですね。
しかし、先にも述べたようにRPGとしては初と言っていいくらいの、
本格的ラブストーリーを演じてくれましたし、
口笛を吹いたりなどの名シーンも数々ありましたので、
この2人をベストキャラに選んでおきたいと思います。
それにしても、来年には50歳になろうかというのに、
こんなに熱くFFのことを語っていていいのでしょうか?
当然のことながら、倫理学者がみんなこうだとは思わないであげてください。
RPG好きの倫理学者なんて他に聞いたことがありませんから、たぶん私くらいでしょう。
頼むから内田先生とかには内緒にしておいてください。

就活支援ゼミ!

2010-10-22 15:33:00 | お仕事のオキテ
わが 「倫理学ゼミ」 はこのところゼミ生が減少傾向にあります。

3年の新ゼミ生はたったの1人だけでした。

うーん、どうしたことでしょう。

うちのゼミは就職率高いんだけどなあ。

公務員や一般企業など、教員以外だったら100%だと思います。

なんせゼミの指導教員がキャリアカウンセラーなんだから、

エントリーシートや志望動機の書き方とかは徹底的に指導してるし、

面接での対応など就活中の相談にもちゃんと乗ってあげられるんだけどなあ。

今年の4年生3名も、金融と公務員に全員決まりました

教員、特に地元 (福島) 志向の場合、さすがに現役合格という人は限られてくるけど、

それでも例年、何名かは現役合格しているし、

そうでなくとも卒業後数年のうちには決まっていくし。

昨年度の卒業生も地元福島に合格してくれました

また、大学院の小野原ゼミに進学してきた人は、

小中学校の教員志望なら全員が現役で地元に合格しています。

今年の修士課程2年生も、今日みごとに地元東京の教採に合格しました

高校志望の修了生はさすがに苦戦していましたが、

やはり今年、地元ではないけれども関東圏の高校に合格してくれました

うーん、どうです。みごとな就活支援ゼミではありませんかっ

2年生の皆さん、ぜひ来年は倫理学ゼミへどうぞ。

そして、教員志望の人は大学院まで進んで倫理学を学び、一発合格を狙おうっ

吐血大講演会

2010-10-21 18:14:34 | お仕事のオキテ
昨日は、中高の社会科の先生たち相手の研修会でした。
正式名称は 「中学校・高等学校経験者研修Ⅰ」、5年間教職経験をした先生方を対象とした、
いわゆる 「5年研」 というやつです。
2年前から呼ばれるようになり、今年で3回目です。
最初にお話を頂戴したときは、2時間の講演をしてくださいとのことだったのですが、
社会科の中堅の先生たち相手に私なんかが2時間も話せることはありませんと辞退したんですが、
どうしてもということで、私の講義の後だか前に、先生たちどうしによる協議の時間があると聞いて、
では、その協議の時間も含めて、ワークショップをやったり、
ミニレクチャーをしたりしながら、皆さんと一緒に考えていくやり方でよろしければということで、
1時から5時まで4時間かけていろいろ話し合っていくというスタイルでやらせていただいています。

そこでどんなことをやったのかはまたの機会にご報告できたらしますが、
その最中にちょっと驚いたことがありました。
私が喋っているときって、夢中になったらけっこうツバとか飛んでいるんだろうなあとは思っていましたが、
昨日話している最中に、テーブルに置いたプリントに小さな赤い斑点がつくのです。
最初はほんの少し、ものすごく小さな点だったので、ん?と思いながらもスルーしていたのですが、
そのうちその赤い斑点の量が尋常じゃなくなってきました。
「あれ? ぼく血吐いてる?」
と皆さんに聞いちゃいました。
そうしたらみんなうなずいて口の周りを指さします。
ティッシュで拭いてみたら、けっこうティッシュが赤く染まります。
急いで話を一区切りつけて、休み時間にしトイレに行って鏡を見てみたら、
拭いたにもかかわらず口の周りにうっすらと血の痕がついています。
私は話しながら血の混じったツバを吐いていたのです。

ただちに講演を中止して、病院に行かなければいけないのでしょうか?
つい先日、心筋梗塞にもガンにもならないだろうと自慢していたばかりなのに、
知らぬ間に何か病魔が進行していたのでしょうか?
いえいえ、そういうことではありません。
お昼ご飯を県教育センターでいただいたのですが、
センターの先生たちと食べながら話していたからでしょうか、
口の内側を自分で噛んでしまっていたのです。
食事の最中から、頬の内側の肉が千切れて出血しているのに気づいていました。
ちょっと食事の味に血の味が混じり、
千切れた肉が頬の裏側でブラブラしています。
その状態で研修が始まってしまったのでした。

しかし、まあこういうことはよくあることですし、
特にものすごーく痛いというわけでもありませんから、気にせずに話していたんです。
ところが、血のツバが飛ぶほど出血していたとは…。
自分で自分の口の中を噛んでこんなに出血したのは初めてです。
鏡で見てみたところ、けっこう大きな傷口ができて、大きめの肉の塊がブラブラしていました。
その後も研修を続けたわけですが、話しているうちにこの肉が少しずつ取れてきたので、
そのたびに自分の頬肉をそうっと吐き出さなければなりませんでした。
出血も少しずつおさまってはきましたが、4時間のあいだに完全に止まることはありませんでした。
だからずーっと吐血しながら研修をやっていたのです。
見ている方としてはとても気色悪い光景だったろうと思います。
本当にお見苦しいところをお見せしてしまいました。
申しわけありません。

研修後、先生方の懇親会に混ぜてもらったのですが、
そのときにはさすがに血は止まっていました。
しかし口の中には血の味があいかわらず残っていて、
美味しい料理とお酒にほんの少し鉄っぽい風味がつけ加わってしまいました。
最後まで血の記憶に彩られた研修となりましたが、
こういうことがあると忘れっぽい私の頭にも深く刻み込まれますね。
飲み会の席で皆さんから聞いた現場の生々しい実態とともに、
忘れられぬ思い出となったのでした。

Q.自分のことを一言でいうとどんなですか?

2010-10-20 07:53:24 | 幸せの倫理学
A.キリギリスです。

今回は珍しく結論から述べてみました。
「一言でいうと」 という要望に対して、端的に短くお答えしてみましたがいかがでしょうか。
この質問は、代表質問に選ばれていた、
「Q.先生自身、自分自身をどうとらえているのか?」 と同じだと思いますので、
お答えしている内容も、あのときの答えとほぼ変わりません。
たしかあのときは 「幸せな人間」 とか 「安定している人間」 と答えたように覚えています。
それを一言でまとめてみると、「アリとキリギリス」 に出てくる、
キリギリスに譬えるのがふさわしいのではないかと考えました。

私のモットーの中には、「明日できることは今日やらない」 というのがあります。
「明日できることは今日やらない」 というとなんとなくカッコよく聞こえるかもしれませんが、
モットーというよりも 「明日できることは今日やれない」 性格なんだろうと思います。
大事なことも何もかもすべて先延ばしにしてしまいます。
日頃からコツコツと計画的に物事を進めておくということができません。
それで毎回、締め切り直前にあたふたしてしまうことになるのですが、
それでもたいてい何とかなってしまいますので、
最近ではもう自覚的にあらかじめ頑張ろうと思うのはやめようと開き直りました。

というわけで私はアリではなくキリギリスなのです。
最近、心筋梗塞で入院した友人からは、
「明日できることは今日やらない」 主義の人間は心筋梗塞になったりはしないらしい、
とお褒め (揶揄?) の言葉をいただきました。
昨年、ベテランナースの方々に講義をしたときに、
自分は最期はガンで、自分の死期を知ったうえで死にたいという話をしたのですが、
「先生みたいな性格の人はガンにはなれませんよ」 と一笑に付されてしまいました。
うーん、お気楽な人間にはカッコいい最期は望めないのですね。
ある方からは 「人生を楽しむ達人」 と評されたこともありますが、
いつまでも健康に明るく楽しく生きていきたいと思います。

おっと、今日は午後から中高の先生たちの研修会で講義をしなきゃいけないんだった。
まだ何にも準備してないや。
一度、大学に行って大至急、印刷しなきゃ。
それでは行ってきまーす

おくりびと

2010-10-18 14:23:18 | 生老病死の倫理学
看護学校では先週から死のテーマに入ったわけですが、
このあとはずーっと死のオンパレードですので、
このブログの中の 「生老病死の倫理学」 というカテゴリーの中に書いてある、
過去の記事なんかもヒマがあったら読んでみておいてください。

さて、遅ればせながら映画 『おくりびと』 をDVDで見ました。
私の映画鑑賞はどうしてもコメディとアクションものが中心になりますので、
この手の映画が先送りにされてしまいがちです。
でも、もっと早く見ておけばよかったと思いました。
とてもいい映画でした。
たぶん皆さんもうご存知かと思いますが、納棺師という職業を描いた映画です。
生と死やその他のことについていろいろと考える手がかりを与えてくれましたので、
2回か3回に分けてご紹介していこうと思います。

モッくん (本木雅弘) 演じる主人公・小林大吾は夢破れて故郷に帰り、
新聞広告につられて (だまされて?) 納棺師の仕事を始めることになります。
しかし、死体を扱う仕事ですから、けっこうヘヴィーであると同時に、
周囲からの偏見にもさらされます。
しだいに納棺師の魅力に目覚めはじめてきたときに、
妻がこの仕事を辞めるまで戻らないと言って実家に戻ってしまいます。
以下は、辞めるしかないと判断し、社長 (山崎努) に宣言するために社長の私室を訪れると、
社長はちょうど食事の支度をしているところで、一緒に食べていけと薦められる場面です。


社長 「さ、やろっか。」
小林 「何ですか、これ?」
社長 「フグの白子。あぶって塩で食うと旨いんだ。」

(白子を焼いている間、小林は社長の背後の仏壇の遺影に気づく。)

社長 「女房だ。9年前にな、死なれちまった。
    夫婦ってのはいずれ死に別れるんだ。
    先立たれるとツライ。
    キレイにして送り出した。
    オレの第1号だ。
    それ以来この仕事してる。」

(白子が焼き上がり、社長が一切れつまむ。)

社長 「これだってさ、これだってご遺体だよ。
    生き物が生き物を食って生きてる。だろ?」

(社長が白子を頬ばる。)

社長 「ああーっ、死ぬ気にならなきゃ食うしかない。
    食うんなら、旨い方がいい。」

(小林もふぅふぅしながら白子を食べる。)

社長 「旨いだろ?」
小林 「旨いっすねえ。」
社長 「旨いんだよなあ、困ったことに。」


生きること、死ぬこと、食べることの神髄を、
なにげないセリフで描いた名シーンだと思います。
これ以上は何も描かれていませんが、けっきょく小林は納棺師を続けていくことになります。
社長の最後のセリフが効いています。
「旨いんだよなあ、困ったことに。」
生の不条理、死の不可避を深く理解していながら、
生きること、食べることに固執せざるをえない人間の悲しさ、
それと同時に、人間の生を全肯定しようとする明るさに満ちています。
死に向き合い、死を意識して生きていくという 「本来的生き方」(ハイデガー) は、
けっして悲壮な面持ちで日々を暮らさねばならないということではなく、
この社長のように生きていくことかもしれないなと思ったのでした。

Q.子どもはお腹の中の記憶を覚えていると思いますか?

2010-10-17 23:13:33 | 人間文化論
今年のみんなはなんでこうも奇抜な質問をいろいろと思いつくのでしょうか?
「倫理学の先生に聞いてみたいこと」 ということで質問を募集したはずですが、
倫理学者ってこういうことを研究していると思われているのでしょうか?
日本倫理学会会長の鷲田清一先生っ!
倫理学の認知度ってものすごーく低いですよ。
ちょっとシャレにならないくらいマズイ状況ですよ。
学会として何とか手を打っていただけたらと思います。

さて、記憶に関する問題というのは、倫理学者ではなく、
認知心理学者とか大脳生理学者にお聞きになってみたほうがいいだろうと思いますが、
しかし、せっかくのご質問ですので、
素人の立場から軽くお答えしておこうかなと思います。
(チャレンジャーだっ!)
あまり真に受けずに、まさおさまがブログネタに困って、
あることないことテキトーに書いていやがると、
眉にツバをつけながらお読みください。

それにしても、質問者の方はなんでこんなことを聞こうと思ったのでしょうか?
その意図がよく読み取れません。
自分は覚えているんだけど、一般には覚えていないと言われていて、
自分の記憶に自信がなくなったので確かめてみたいということでしょうか?
逆に自分はまったく覚えていないのだけれど、
まわりのみんなは覚えているという人が多いので、
自分が異常なんじゃないかと心配になったのでしょうか?
うーん、それにしてもお腹の中の記憶を覚えているなんていう人はいるんですか?
私自身はまったく覚えていません。
あまり聞いてみたことはありませんが、
私の知人でも覚えていると言ってる人はいなかったように思います。
なので、今回このご質問を受けるまで、
お腹の中の頃の記憶なんてありっこないとなんとなく思い込んでおりました。

しかしながら、よく考えてみると最近、胎教の一環として、
赤ちゃんがお腹の中にいるときにあまり夫婦ゲンカをしちゃいけないとか、
クラシック音楽を流すようにしたほうがいいとか、
そんなような情報がまことしやかに流されるようになっていますね。
それはお母さんの精神状態を落ち着かせるのが大事だという意味かと理解していましたが、
赤ちゃんがお腹の中のことを記憶しているからだという解釈も可能ですね。
そういえばずっと昔のNHKの番組で、
泣きわめいている赤ちゃんに子宮内血流音を聞かせると泣きやむという実験をやっていて、
それは赤ちゃんがお腹の中にいたときのことを覚えているからだと解説されていました。
うーん、やっぱりお腹の中の記憶はあるということになるのでしょうか。

さて、この問題を考える上で、記憶に関する最近の知見を参照してみる必要があるでしょう。
一口に記憶といってしまうと、ひとつの作用のように思えてしまうかもしれませんが、
記憶というのは大きく言って、覚えるという作用と思い出すという作用の、
2つのプロセスからできているのだそうです。
つまり、ただ覚えるだけではダメで、
思い出すことができなければ記憶とはならないということです。
これは私たちもふだんよく経験しているのでわかってもらえるでしょう。
で、最近では、覚えるだけなら人間というのは全部覚えているのだ、という説があるそうです。
思い出すことができないから記憶していないように思ってしまうけど、
実は人間は見聞きしたことをすべて脳内にちゃんと格納しているのだ、というのです。
はっきり言って私はこの説をまったく信じていませんが、
例えば 『踊る大捜査線 ザ・ムービー』 なんかでもこの仮説が紹介されていて、
一般にはけっこう広まっているのではないでしょうか。

この説をどこまで信じられるかに関してはいろいろと問題があるかもしれませんが、
記憶とは、覚えるという作用と思い出すという作用の2つのプロセスからできているのだ、
ということに関してはまあある程度の同意を得られることだろうと思います。
そして、そう考えたときに、お腹の中のことを覚えているかもしれないけれど、
思い出すことができないのだ、と考えるならば、
いろいろなことが説明つくような気もしてきます。
つまり、お腹にいるときにはまだ赤ちゃんは言語をもっていません。
記憶するにしても言語ぬきで記憶しなければならないのです。
授業の中で話した通り、記憶の問題を考える上で、
言語というのはとても重要な要因だと思うのです。

もちろん、言語がなくたって記憶することはできるかもしれません。
例えばあの忠犬ハチ公は、
どんな臭いのどんな声で喋るどの人がご主人様なのかは記憶していたはずです。
しかし、ご主人様の名前とか、
ご主人様と一緒にいつどこで何をしたとかははっきり覚えていなかっただろうと思います。
それはひとえに犬が言語をもっていないからです。
事実を言語に置き換えて記憶することができないからです。
もちろん、言語に変換していなくても記憶を呼び覚ますことはできるかもしれません。
しかし、私たちが上手に記憶を想起できるのは、記憶を言語に変換し、
それを再び言語によって表現することができることによって、
すんなり思い出すことができるということになるのではないでしょうか?
つまり、覚えるときにうまく言語化し、
思い出しやすい形で頭の中にきちんと整理して覚えることができたときにのみ、
思い出すことのできる記憶というものができあがるのではないでしょうか。

というわけで今回の質問に対するお答えはこんなふうになると思います。

A.赤ちゃんはひょっとしたらお腹の中のことを覚えているかもしれません。
  しかし、赤ちゃんは当時まだ言語を習得していないので、
  いつでも思い出せるような形で記憶を形成してはいないでしょう。

いかがでしょう。
人間が言語をもっているって、やっぱり素晴らしいことだと思いませんか?
哲学・倫理学をやっている者として、
言語という文化を作り出した人間の卓越性に関しては、
声を大にして伝え続けていきたいと思います。

今こそ別れめ

2010-10-16 15:19:59 | 生老病死の倫理学
我が家の観葉植物 「旅人の木」 については、これまで何度かお伝えしてきました。
元はというと2006年9月4日にミクシィの日記を書いたのが最初ですが、
そのときは 「セローム」 の写真を使い、「旅人の木」 の写真は掲載しませんでした。
2009年9月13日に 「成長しすぎ?」 という記事を書き、
「旅人の木」 の順調な生育ぶりと、
成長しすぎてちょっとヤバくなりつつある様を見てもらいました。
案の定、それから1週間も経たないうちに 「倒れた」 ということになってしまいました。
さらに2週間後、大英断を下して4枚中3枚の葉っぱを伐採して、
「新たな命、新たな使命」 に賭けたのです。
それで半年ぐらいはがんばったのですが、けっきょく最後の1枚も力尽きてしまいました。
しかし、根元のほうに新芽が残っていましたので、その成長に期待をこめて、
「死と再生」 という記事を書いたのが、今年の4月3日のことでした。
寂しい絵面になってしまっていましたので、ベランダに移し様子を見てきました。
すると、あの小さな芽がグングンと伸びていってはいたのです。

ところが今日。
ふと気づくとその伸びた芽がカクンと折れて、こんなことになっています。



折れ目はこんな感じです。



前々から茎全体が前に傾いていたわけで、
まっすぐにならないかなと根元から調整しようとしてみたことはありましたが、
素人にはどうすることもできずそのままでしたので、
やはりまた重みに耐えかねてしまったのでしょうか?
そう思ってあちこち触りながらよく見ていたら、
折れ目のとこよりももっと下の方で突然こんなことに



えっ? ぼくのせい?ぼくのせい?と思いながら調べてみると、
もうこの部分↓から腐ってしまっていたようです。



こちら側↓は見にくいかもしれませんが、
やはり、すでに細胞レベルでダメになっていたようです。



というわけで4年ほどいろいろな意味で楽しませてもらいましたが、
とうとうこんな最期を迎えることになってしまいました。



一番最初にこんな予言をしていたわけですが、

 自他共に認める 「自然嫌い」 の私。
 賭けてもいい。
 絶対にほったらかしで枯らすか、
 水のやり過ぎで腐らすと思う。

けっきょく予言通りになってしまいましたね。
ただ最後はまったく私の手に負えない状態になっていたと思います。
枯れたのか腐ったのかはよくわかりませんが、
あのままあの芽が開いて葉っぱになっていたとしても、
自重を支えきれずに折れていたであろうことは火を見るよりも明らかです。
私にはどうしてあげることもできなかった気がするなあ。
むしろ私が4年ものあいだ生き物を育て続けられたことにビックリです。
4年間、うちのリビングの主役を張っていてくれたことに感謝しつつ、
静かにお別れしたいと思います。
旅人の木よ、いざさらば。

ちなみにあの 「セローム」 は大きな鉢に植えかわって未だ健在です。


Q.もしどうしようもなく落ち込んだらどうしますか?

2010-10-15 17:37:09 | 幸せの倫理学
うーん、この質問に答えるのは難しいなあ。
似たような質問で、こんな質問もありました。

Q.ストレス解消法はありますか?

こちらの問いなら簡単に答えられます。

A.ありません。
  ストレスを感じることはほとんどないからです。

そうなんです。
私、ストレスがないんです。
だからストレス解消する必要がないんです。
第1回目の授業のときに、若い頃に幸福になる方法を知ってしまったと言いましたね。
その方法は、下記のブログに書いてあります。

「幸福になる方法」
「幸福になる方法 (その2)」

この2つを1つにまとめるならば、「受け止め方のゲーム」 と言えるかもしれません。
受け止め方を自分でコントロールできるので、何が起こってもストレスを感じずにすむのです。
特に悪いこと、イヤなことが起こったときに人はパニックに陥りがちですが、
そういうとき私は、「身代わり理論」「芸の肥やし理論」 を使って、
それらを右から左へ受け流すことができるのです。
私のモットーのなかには、「悩んでもしょうがないことに悩まない」 というのがあります。
こういう人間はどうしようもなく落ち込んだりすることはありませんよね。

しかし、タイトルにかかげた問いは 「もしも」 という仮定つきの質問ですので、
どうしようもく落ち込んでしまった場合のことを想像してお答えしなければなりません。
「落ち込むことなんてありません」 では仮定つきの質問に対する解答にはならないでしょう。
というわけで、どうしようもなく落ち込んでしまった場合を想像してみるのですが、
うーん、どうするんだろうなあ?
こういう想像って難しいなあ。

ええっと、どうしようもなく落ち込むということではないのですが、
私もたまに 「プチうつ」 っぽい感じになることがあります。
やらなきゃいけない仕事があるのに、何もやる気がしなくなって、
大学にも行かず、家の中でも何もできなくなってしまうということが、たまーに起こるのです。
そういうときはどうするのか、というのがご質問に対する答えに一番近いのかもしれません。
で、お答えはこうなります。

A.ボーッとソファに横になってテレビを見て過ごします。

本当に週末中ずーっとひたすらソファでテレビを見続けるなんてことがたまにあります。
一番ひどかったのは、昨年末にずっと 「ダメな過ごし方」 をしたときでした。
自分でも自己嫌悪に陥ってしまうくらい 「ダメな過ごし方」 でした。
まあでも、それを数日やればそれでプチうつを脱することができますので、
どうしようもなく落ち込んだときは、それを1ヶ月か半年くらいやれば、
立ち直れるんじゃないでしょうかね。
どうしようもなく落ち込んでいたらそんなもんじゃなすまないのかもしれませんが、
まあそういうことを経験したことがないので、想像の範囲ではこの程度のお答えしかできません。
うーん、そんな状態には陥りたくないもんだなあ。
そうならないように 「幸福になる方法」 を日々実践していこうと思います。