まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

卒業生飲み

2009-12-31 23:09:20 | 教育のエチカ
昨日は、年の暮れだというのに、
日本各地から倫理学ゼミの卒業生たちが集まってきてくれて、大忘年会を決行しました。
この代は1学年にゼミ生が6名もいた初めての代で、
しかも、6名のうちのひとりが大学院に進学してくれ、
もうひとりも大学に長居してくれたため、
全員が同時に卒業してしまってみんな散り散りバラバラになるということがなく、
そのため卒業後もみんなで集まって飲むという縁がつながっています。
今ではそれぞれみんな日本全国に散らばって活躍しており、
今回の参加者で福島市内在住者は私だけ、
遠くは静岡や神奈川からもはるばる駆けつけてくれました。

福島在住の私が店の手配とかしておく予定でしたが、
この数日間のプチうつな感じのまま、昨日も午後の眠りを貪ってしまい、
店の予約をするどころか、待ち合わせ時間にも遅れる始末です(一番近いのに!)。
予想外の年末の人出にビビりつつも、
2軒めにトライした中華料理屋 「香港ドール」 が運よく空いていて、
「中華料理屋で飲むのなんて初めてですよぉ」 と、店のチョイスは意外にも好評で、
「店はオレが取っておくよ」 なんて大口叩きながら何もしなかったポカは、
なんとかごまかすことができました。

小学校教員、中学校教員、非常勤講師、一般就職してやめちゃった子、
みんなそれぞれいろいろですが、
社会人としていくばくかの経験を積んできているので、
話す内容は、学生の頃とは比べものにならないくらいしっかりしています。
倫理学ゼミで学んだことが少しは役に立っているのか、
それともすべては現場に出てからひとつひとつ学んだのであって、
大学なんてクソの役にも立たなかったのか、
ちょっと怖くて聞いてみることはできませんでしたが、
何はともあれ、みんなの成長した様子を見るのは、
教員としてうれしいものです。

そう思って考えてみると、卒業生と飲むというのは、
教員にとってこの上ないご褒美ではないでしょうか。
昔は新入生にもお酒の飲み方をちゃんと実地で指導したものでしたが、
最近のバカな風潮 (モンスター・マスコミや過剰反応お役所) のおかげで、
大学生といえども未成年者と飲むのははばかられるようになってきています。
夢や理想の話なんて、酒を飲まなきゃ語れないと思うのですが、
そうした文化がどんどん大学から消えてゆきつつあります。
とすると、安心して飲んで心から語り合えるのは卒業生だけ、
ということになるじゃないですか。
しかし、卒業生がいつまでも集まってきてくれるほど、
大学は敷居の低い場所ではありませんから、
卒業生と飲むことができるというのは僥倖のような、とっても有り難いことなのです。

そういう得難い機会を与えてくれた卒業生たちに感謝したいと思います。
また、私の誕生日に近かったということもあって、
「こっこ」 (これについてはまたそのうち熱く語ります)をはじめとして、
いろいろなお土産まで持ってきてくださったことにも感謝したいと思います。
大晦日にわざわざこういうことを書いているのは、
卒業したっきり音信不通になっているゼミ生たちに、
たまには手土産持って大学に顔を出せ、と言っているのではなく、
ホントに何か困ったことがあったときとかには、
手ぶらでいいからひょっこり顔を出して、
何でもグダグダと話を聞かせてもらいたいな、と思うのです。
それは教員にとって時間のムダではまったくなく、
そうやって話しに来てくれること自体が、教員にとってのご褒美だからです。

冬の好物

2009-12-30 23:59:59 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
東京で行きつけのバー、東麻布の 「Bar 510」 では、

冬になるとホット・ブラッディメアリーを作ってくれます。

ブラッディメアリーというのは、ウォッカをトマトジュースで割るカクテルです。

『BARレモン・ハート』 の読者の方はご存じかと思いますが、

本格的に作りたい場合は、

「クラマト」 というハマグリのエキスの入ったトマトジュースを使います。

これをホットにすると、カクテルというよりスープみたいな感じになります。

しかも、この店のレシピでは、

まず最初に細かく刻んだベーコンやタマネギを油で炒めるところから始まり、

仕上げに香辛料もたっぷり入りますので、ほとんどトマトスープです。

(写メでも上の方にベーコンなどが浮かんでいるのが確認できることと思います)

寒い日はまずこれを頼んで身体を暖め、

落ち着いたところで、ウィスキーに移行するというのが定番になってきました。

そのうち、自分で作れるようになりたいなと思っていますが、

もうしばらくのあいだはプロが作る本物を堪能していこうと思います

ダメな過ごし方

2009-12-29 23:59:59 | お仕事のオキテ
マニアの方はお気づきだと思いますが、
ブログの更新を2日もサボってしまいました。
むろんこのブログも日付を操作して、29日に書いた体を装うわけですが、
実際にそうでないのは、本人である私が一番はっきりとわかっているわけです。
ブログの更新ができないような、特殊な事情があったのか?
何にもありません。
ずっと家にいました。
家でもブログの更新は可能です。
ただ何もやる気が起きず、ボーッとテレビを見ていました。
スカパー!で本当にどうでもいい番組を見てしまいました。
フジテレビ系列でたまたまやっていた 「ゲームセンターCX」 という番組の再放送。
よゐこの有野氏が昔のファミコンゲームをやるという番組です。
これを延々と一挙放送していて、
しまいには、特別番組まで始まってしまいました。
今年の夏に放映されたとかいう 「24時間生放送」。
いつもは1時間番組に編集されていて、
何10時間もファミコンゲームをやり続けているなかの、
肝心な部分だけが放送されているわけですが、
この特別番組では、生で24時間ゲームをやり続け、
それをずっとたれ流して放送しているわけです。
こんな番組を作って放送しちゃうやつらもバカだけど、
これを見続けるバカがいるのか?と思いながら、
ずっと見続けてしまったのです。
たぶん 「ダメな時間の使い方世界選手権」 があったら、
ダントツで優勝できそうなくらい、アホな時間の使い方です。
これを見ながら、いつの間にかソファで寝てしまい、
起きたらまたそれを見てしまうという日々です。
年も押し詰まって、師も走るというくらいの時期なのに、
本当に何をやっているんでしょう。
まあ、この番組を見たかったというよりも、
何もやる気が起こらなくて、ひたすら逃避していたという感じですが、
それにしても、もっとましな逃避の仕方があったのではないでしょうか。
とても悔やまれます。
なんかプチうつな感じです。
プチうつだからこんな日々を送ってしまったのか、
こんな日々を送っているからプチうつになってしまったのか、よくわかりませんが、
こんな気分になってしまった原因に心当たりがないわけではありません。
こういう時はしょうがないのでしょう。
思いっきりダメな人間として過ごすしかありません。
新年はもっと活動的な1年にできるといいな。

今日は誕生日

2009-12-28 06:00:00 | 幸せの倫理学
今日は48回目の誕生日です。

今年は丑年で年男でしたが、今日に至るまでずっと47歳だったので、

どうも年男という実感がないままでした。

そして、やっと48歳になったというのに、

あとほんの数日で丑年は終わってしまいますので、

やはり年男気分はほとんど味わえないで終わってしまうようです。

たぶん、12年後の還暦の時も同じように過ぎ去ってしまうのでしょう。

こんな年の暮れに生まれたというのは、

いろいろな意味でハンディキャップを背負っています。



以前書いたように、

子どもの頃はクリスマスと誕生日を同時に祝ってもらっていた幸せな長男でしたが、

小学校に進んで以来、

12月28日なんて冬休みの真っ最中ですから、

友だちからは私の誕生日はいつも完全に忘れ去られていました。

それで友だちを恨んだりしたことはありませんが、

なんでこんな日が誕生日なんだろうと両親に問いただしたことはあります。

そうしたら 「あんたはハネムーン・チャイルドなんだからしかたないの」 と言われました。

なるほど、それは仕方ないですね。

結婚した当時、父の実家は旅館を経営していたので、

温泉のかき入れ時に新妻が身重ということで、

母もけっこう肩身の狭い思いをしたそうです。



近年、私の誕生日はたいてい年賀状の作成日となっております。

以前はもう少し早く年賀状を書いていたのですが、

年を追うごとに忙しくなって、少しずつ年末にずれ、

とうとう28日まで手をつけられずにいるという状態になってしまったのです。

さすがにここを越えるとヤバイ感じなので、

この日よりも後にずらすわけにはいきません。

というわけで今も年賀状の作成中です。

皆さんたぶん、元旦には届きません。

でも、その遅れて届いた年賀状を見て、

あ、これは誕生日に書いていたんだな、と思いだし、

遅ればせながら私の誕生日を祝ってあげてください

セックス・ルール (つづき)

2009-12-27 14:20:11 | 性愛の倫理学
ついでですので、田村さんの議論をもう少し引用しておきましょう。

「ここまで要求されるのかと 「引いて」 しまう男性が多いかもしれない。だが、女性はここまで要求してもよいのである。これらは、男性身体を持つ人にとっては当たり前に実現することだからである。
 これらの条件には、自己決定について、男女が対称的ではないという発想が含まれている。女性が自分に不利な自己決定をしている場合であっても、男性の配慮義務は解除されないということは、女性の自己決定能力を低く見ることでも、女性をパターナリズムで扱うことでもない。女性の自己決定を尊重しつつ、女性のハンデを埋め合わせること。それが、女性のセクシュアリティにおける主体性を尊重するということなのである。
 ここまで考えてきて、筆者は、性の二重基準 [男性には性的放縦を許容・推奨し、女性には貞淑を (受身であることを) 要求する考え方] を解除する観点をつかめたように思う。それは、「セクシュアリティの質 (QOS)」 である。セクシュアリティの質を諦めないことによって、女性は自らのセクシュアリティの主体となれる。
 女性側のハンデを埋め合わせるための義務を負うこと、とりわけ女性側のQOSを重視すること、これらは男性にとって、既得権を失う不愉快なことだろうか? そうではないと期待したい。なぜなら、これらは、男性のQOSをも高めることにつながるからである。セクシュアリティにおいて女性と対等で相互的な人間関係を持てるようになった男性は、「弱みを見せてはいけない」 「戦いに勝たなければならない」 という男らしさの鎧を脱ぎ、男らしさと暴力性の結び付きから自由になれるのではないだろうか。」
                       (日本倫理学会編 『倫理学年報』 第58集、31ページ)

たしかに男性の側も、さまざまな因襲や前提に縛られているように思います。
いまどき、田村さんが言うような、「弱みを見せてはいけない」、
「戦いに勝たなければならない」 と思っている男性はそれほどいないと思いますが、
ことセックスに関しては、「立たなければいけない」、「入れなければいけない」、
「射精しなければいけない」 等々の強迫観念は根強いものだと思います。
また、昨日の⑤とはちょっと違うのですが、
「女性をイカせなければいけない」 と思い込んで、
そのために闇雲に強い刺激を与えようとしてしまう勘違いもあるようです。
これらの妄念に打ち勝って、男女ともにQOSを高めていくべきである、
という田村さんの主張には、基本的に賛同の意を表しておきたいと思います。

セックス・ルール

2009-12-26 11:38:04 | 性愛の倫理学
古い話になりますが、昨年の日本倫理学会で興味深い発表を聞きました。
シンポジウムのテーマが 「仕事・職業・労働」 で、3名の方が提題者として発表されました。
そのうちのお1人、田村公江さんという研究者が、
「今日の労働観の特質とその倫理学的意味 ―特に女性にとって―」
というタイトルで発表されたのです。
このタイトル自体はおそらく日本倫理学会のほうから与えられた題目で、
フェミニズムの立場から労働について語ってもらいたいという依頼だったのでしょう。
昨今の労働環境のなかで、女性や若者はひじょうに厳しい状態に置かれていますので、
労働弱者の立場から倫理学的にこの問題について論じてもらえるというのは、
それだけで十分興味深いことですので、このシンポジウムはとても楽しみにしていたのです。
ところが、田村さんのご発表は私の期待をはるかに上回るとても刺激的なもので、
労働問題なんてぶっ飛んでしまうくらい衝撃的でした。

はじめのうちは労働における性差別の話だったんです。
そこからじょじょに公的領域 (職場など) でも私的領域 (家庭など) でも
性差別はあるという話になっていき、
最後はとうとう完全にセックスの話になってしまいました。

田村さんは、セックスにおいて男性と女性は対等ではない、と言います。
女性身体を持つ人には次のようなハンデがあるからです。
①妊娠することがあり得る。
 妊娠を避けるためには(ピルを使わない限り)、男性の協力を必要とする。
②レイプされることがあり得る。
 セックスしたくない時にセックスしないでいるために、男性の協力を必要とする。
③性感染症から身を守るために、男性の協力を必要とする。
④性的快感を得るために、男性の協力を必要とする。
これらのハンデが埋め合わされない限り、
セックスにおいて男女は対等になれない、と言うのです。

そこで田村さんは、
「セクシュアリティにおける女性側のハンデを埋め合わせるための5つの条件」
というものを掲げます。
これを聞いたとき私は、「おお、これはまさにセックス・ルールだあ」 と思いました。
それは次の5つです。
①性的行為をする際、最終決定権は女性にあるものとする。
②女性は、性的行為をするかしないかの自己決定を、性的行為のたびに行使する。
 結婚したから、一度セックスしたからという理由で包括的合意が成立するわけではない。
③性的行為をする女性の自己決定は、途中で放棄することができる。
 いったん始めたからには最後までやらせろと言われたくない。そのような要求は不当である。
④妊娠、性感染症のリスクに関して自分を守ることを女性が放棄していたとしても、
 だからといって男性の配慮義務が解除されるわけではない。
⑤女性の性的快感に協力しないセックスは、男性の一方的で身勝手なセックスである。
 男性は自分の性的快感よりも、女性の性的快感獲得を優先すべきである。

どうです。ものすごい内容でしょう。
これが、フェミニズムの分科会とかではなく、
日本倫理学会の会員参加者全員が集うシンポジウムの場で堂々と発表されたのです。
学者然とした古株の倫理学者の方々がどんな顔で聞いているんだろうと周りを見回しましたが、
一番後ろのほうに座っていたため確認することはできませんでした。
しかし、こういう斬新な提案がなされる場に居合わせられるというのは、
とても痛快な経験です。

女性の側の4つのハンデというのは、あまり意識したことがありませんでしたが、
たしかに言われてみればその通りだと思います。
問題は5つの条件 (=セックス・ルール) のほうです。
これらは男性に対する要求という形になっています。
はたして男性はこれらを受け容れることができるでしょうか?
②の 「包括的合意」 というのは、要するに 「いつでもやらせろ」 ということです。
たしかに男性は、一度肉体関係を持ってしまうと、
あとはいつでもやらせてもらえるものと思い込みがちですが、
それは大いなる誤解だと言っていいでしょう。
③は男性にとって辛い条件ですね。
そこに至るまで時間をかけて手順を踏んでやっとそういう雰囲気になったというのに、
これからという時に 「はい終了、撤収!」 という事態がありえるということですから、
これは男性にとっては相当きつい条件だと言えるでしょう。
しかし、性に関する不一致というのは実際に始めてみないとわからないことですから、
こういう条件も必要なのかもしれません。
④も前半部分が 「えっ?」 という感じですが、
しかしけっきょくのところ、妊娠や性感染症の予防の手立てを講じることができるのは、
男性の側でしかありえないので、
男性にはこういう配慮義務が課されていると言えるのかもしれません。
⑤は当然と言えば当然でしょうね。
うまくいくかどうかは別として、
今どきこれを念頭に置かずにセックスしている男性なんているんでしょうか?
でも若い頃はやっぱり一方的で身勝手だったかな?
そして①に戻りますが、ここは 「両者の合意に基づいて行う」 ではダメだったんでしょうか。
たぶん田村さんは、女性の側のハンデを埋め合わせるためには、
女性に最終決定権があるとすることが必要だと考えたのでしょう。
まあ、男は常にセックスすることに合意してしまっていると考えるならば、
合意を最終的に成立させるのは女性の側だと言ってもいいかもしれません。
ただし、最近では男性にも草食系の人が増えているそうなので、
もう少し慎重に考えてみる必要があるかもしれません。

この問題については、男性の側からも一度考えてみる必要がありそうなので、
また取り上げたいと思います。
しかしとにかく、こういうことを考えるのも倫理学の仕事なのだ、
ということを理解していただけたのではないでしょうか。
皆さんも、自分たちカップルのセックス・ルールを考えてみてはいかがでしょうか。

MFT(その7)・苺のショートケーキ

2009-12-25 17:35:34 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
辛党の私、あまり甘いものは食べないのですが、

苺のショートケーキだけは未だにこよなく愛しております。

子どもの頃の作文で、自分の夢を書くという課題があり、

みんなは将来何になりたいとか書いていましたが、

私は、「ぼくの夢はこたつに入ってショートケーキを食べることです」 と書いていたそうで、

うちの母親はそれを読んで、こいつの将来には何も期待するのはやめようと思ったそうです。

それくらい苺のショートケーキが好きでした。

私の好みは、たんに上に苺が乗っかってるだけではなく、

真ん中にもぎっしり苺が入っているやつです。

よくまがい物で、上には苺が乗ってるけど、中は何か黄色い果物が入れられてるやつがあって、

そういうのを売ってる店では2度と買い物はしません。

中までたっぷり苺が入っていて、しっとりしたスポンジとフワフワのクリーム、

うーん、この組み合わせは最強ですね

写真は福島にあるケーキ屋さんレパコのガトー・フレイズです。

レパコのケーキはどれも美味しそうなのですが、

悩んだあげく、けっきょくいつもこのガトー・フレイズを買ってしまいます。

私は食に関してはけっこう保守的なようで、

自分の中の定番を脱却することがなかなかできません。

でも、確実に幸せにしてくれるアイテムがあるのですから、

ムリに新規開拓などせず、小確幸を大事にしていきたいと思います

文化と文化系

2009-12-24 16:43:41 | 人間文化論
「文化創造論」 というスポーツ・芸術創造専攻の必修科目のなかで、
文化とは何か、について講義しています。
本能の壊れた動物である人間が、本能の代わりに生みだしたものが文化であり、
私たちの身の回りにある一切のものは文化です、と話しているのですが、
どうもこの私の説明がピンと来ない人が多いようです。
辞書を引いてみれば、私の説明がそんなに奇抜ではない、
ということがわかってもらえると思うのですが、
どうやら日本人、特に大学生に固有の 「文化」 観が正しい理解を阻んでいるようです。

小学館の 『大辞泉』 には次のように書かれています。
「①人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の――」「東西の――の交流」 ②①のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。③世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多くの他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「――住宅」」
私が使っている 「文化」 は①の意味です。
ウィキペディアでは次のような説明がありました。
「文化(ぶんか、culture)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。」
「人類学においては、人間と自然や動物の差異を説明するための概念が文化である。」
これがまさに私の言う 「本能の代替物としての文化」 になります。

ところが、『大辞泉』 のなかの②の定義で、
文明と区別された、精神的な活動や所産を文化と呼ぶ、とありますが、
たぶんここから派生したと思われる、日本独特の用語法が、
「文化系」 という言葉だと思います。
辞書にはこの言葉は記載されていませんが、
ウィキペディアにはちゃんとありました。
「文化系(ぶんかけい)とは、文化的性質を有するものの総称である。
1.クラブ活動などにおいて、学問や芸術、奉仕などの文化的な活動を行うものの総称。部活動においては、文化部を指す。部活動においては、運動部が対置される概念である。
2.スポーツよりも、芸術(音楽や美術、演劇など)、学問(特に文学、歴史、語学、文化研究など文系の学問)など文化的な事項の方をいちじるしく好む人の総称やそのような人の性格の総称。スポーツが得意であるかどうかではなく、その人がどちらの方がより好きかどうかで文化系といえるかが判断されると考えられている。
共に対義語は、運動系、体育会系などである。」
この 「文化系」 という言葉から 「文化」 をイメージしてしまう人が多いようなのです。

特に大学生のあいだでは、文化部と運動部、文化系と体育会系という区別が、
当然の前提のようになってしまっていますので、
スポーツ・芸術創造専攻という自分たちの所属している専攻は、
本来区別されるべきまったく別種の人間をむりやりくっつけた集団だと感じているようなのです。
ですから、「スポーツも美術も音楽もすべては文化だよね」 という私の話に、
なかなか付いてきてもらえないのです。
しかし、皆さんにとって常識となっているその 「文化」 観は、
本来的な意味での 「文化」 を表していませんので、
頭を切り替えるようにしてください。
スポーツも人間が生み出した文化の一種ですから、
そのつもりで私の話を聞いてもらいたいと思います。
文化と文明の区別についてもそのうちお話しします。

〈観〉 の育成

2009-12-23 17:04:35 | 教育のエチカ
何年か前に、「福島の教員スタンダード」 というものを
策定するプロジェクトに加わっていたことがあります。
福島大学と福島県の教育委員会とが協力して、
学校教員が備えるべき資質、能力を明らかにし、
大学での教員養成や、現場での現職研修て活用しよう、
ということで始められたプロジェクトでした。
こうしたものを考えていくにあたって、
アメリカで制定されている 「教員スタンダード」 も参考にさせてもらいました。

このアメリカの 「教員スタンダード」 は10個の項目から成るのですが、
それぞれがさらに3つの要素でできています。
その3つというのは、
knowledge
performance
disposition
の3つです。
よく調べてみると、この3つというのはなかなかよくできた構成です。
日本だったら、「知識」 と 「スキル」 と 「態度」 みたいに分けるかと思うのですが、
そうではなく、knowledge、performance、disposition に分けるというのは、
なかなかの慧眼です。
「知識」 と knowledge は同じなわけですが、
残りの2つが 「スキル」 ではなく performance、
「態度」 ではなく disposition というのが、
なるほどなあと考えさせられました。

今日はこのうちの disposition の話をしたいのですが、
これをどう訳すかで本当に悩みました。
辞書を引いてみると次のような訳語が出てきます。
1.(人の) 気質、性質、性分、性向、性癖、気だて
2.(なにかについての) 心の持ちよう、気分、(心の) 傾向、意向
気質や気だてや気分というのは、どうもスタンダードにはふさわしくありません。
けっきょく上述の 「態度」 みたいなものかなあという気もしてきますが、
個々の項目の disposition の内容を見ていくと、
どうも 「態度」 という日本語ではうまく表現しきれていないように思えます。
「(なにかについての) 心の持ちよう」 というのはけっこう近い気がするのですが、
しかし 「心の持ちよう」 ではスタンダードのなかに用いる訳語としては、
ちょっと冴えない感じです。
それをじゃあ別の日本語でどう表現したらいいのか、
みんなで相当話し合いましたが、なかなかいいアイディアが出ずにいました。

そんなある日、うちの大学の教育方法学の吉永紀子先生が、
「これって 〈観〉 のことじゃないですか
とひらめいてくれたのです。
最初そう言われたときは 「カン????」 ていう感じだったんですが、
説明を受けて 「ビンゴッ」 でした。
つまり disposition というのは根本的な心の構えのことで、
あるものをどのように捉えるか、その根源的なものの見方を意味しています。
だから教師にとっては、
子どもをどのような存在者として捉えるかという 「子ども 〈観〉」 や、
勉強をどのような活動として捉えるかという 「学習 〈観〉」、
学校をどのような場所として捉えるかという 「学校 〈観〉」、
それらすべてを踏まえて、教育をどのような営みとして捉えるかという 「教育〈観〉」 などが、
重要になってくるわけです。
disposition として論じられていたのはまさにそのような、
根本的なものの見方 = 〈観〉 だったのです。

教師のタマゴを育てていくにあたっては、
もちろん知識や技術も必要でしょうが、
それらの根本にある 〈観〉 というものをしっかり育成していく必要がある、
というのが、この disposition という概念に込められた意味だったのでしょう。
そしてこれは、教員養成ばかりでなく、
さまざまな専門家の育成にあたって留意すべきことだろうとも思います。
さらに素晴らしいことに、もしもそうだとすると、
私のような哲学・倫理学というわけのわからない学問をやっている人間も、
専門家の養成に一役買うことができるようになるのです。
例えば私は今看護学校では、
「死生観」、「医療観」、「患者観」、「病気観」、「人間観」 などを育てるつもりで、
授業を行っています。

私は、看護師国家試験に出てきそうなことを教えてあげることはできませんが、
しかし、現場に出た後に自分の仕事の根幹を支える 「ものの見方」 を作っていく、
そのお手伝いくらいはできるかもしれません。
教員をめざしている人にとっても同様です。
専門職業人を育てていくにあたってはそのような 〈観〉 の育成が必要である、
というのは私にとっても大事な気づきでした。
それまで漠然とやってきたことにはっきりとした意味が与えられ、
やるべきことがクリアになってきたのです。
その意味で、〈観〉 の育成というのは今の私の実践の核を成しているといえるでしょう。

ブランド (=世界観) の破壊

2009-12-22 16:35:40 | お仕事のオキテ
トム・クルーズは背が低いのにがんばっているので、
真田広之とともにお気に入りの俳優のひとりです。
しかし、トム・クルーズの所業でひとつどうしても許せないことが。
映画 『ミッション・インポッシブル』 です。
これは、テレビドラマ 『スパイ大作戦』(原題は 『ミッション・インポッシブル』) の映画化権を、
トム・クルーズが買って、プロデューサーとして製作し、主演も務めた映画です。

テレビドラマの 『スパイ大作戦』 は子どもの頃から大好きでよく見ていましたが、
大人になってスカパー!に加入したら、ちょうどやっていて、
たぶんほとんど全話、ビデオに録画してあると思います。
それくらい好きだったので 『スパイ大作戦』 にはものすごく思い入れがあるのですが、
映画 『ミッション・インポッシブル』 はそれをものの見事に打ち砕いてしまったのです。
『スパイ大作戦』 の映画化にも、トム・クルーズにも大いに期待していただけに、
ショックは大きかったと言えるでしょう。

『スパイ大作戦』 というドラマは、次のような決まり事によって構築されていました。
①不可能と思われるような難しい使命を、
②ハイテク機器を駆使して、
③直接的暴力を用いることなく (メンバーが敵を直接殺したりすることはない)、
④緻密な計画で相手を騙すことによって、
⑤みごとなチームワークで成し遂げる。
このうちのどれかひとつが欠けても、
『スパイ大作戦』(『ミッション・インポッシブル』) というブランドは崩壊してしまいます。
ところが、映画 『ミッション・インポッシブル』 は、
このうちの①と②だけしか引き継がなかったのです。
これは 『スパイ大作戦』 に対する冒涜といっても過言ではないでしょう。

映画自体の出来はとても素晴らしかったと思います。
シリーズのいずれも、ストーリーもよく出来ていましたし、
アクション・シーンも見事でした。
ただしかし、これはどう転んでも 『ミッション・インポッシブル』 ではないのです。
別のタイトルで、役名とかも引き継がずにまったく新しい映画として製作すれば、
それでよかったじゃないですか。
なぜわざわざ 『ミッション・インポッシブル』 を騙る必要があったのでしょうか。
特に⑤に手を加えて、チームのなかに裏切り者を置いてしまったなんていうのは、
『スパイ大作戦』 の世界観そのものを根こそぎ覆してしまったとしか言いようがありません。
原作に対してそんな暴力を加えてしまっていいのでしょうか。
いい例が思いつきませんが、
ハリー・ポッター・シリーズで、最後の最後、実はロンがヴォルデモートの手先だったとか、
釣りバカ日誌シリーズで、実はハマちゃんはもともとあの会社のオーナーだった、
みたいなどんでん返しです。
それは確かにみんな驚くかもしれませんが、別にそうまでして驚かせてほしくはありません。
設定の根幹を揺るがしてしまったら、物語全体が崩壊してしまうのです。

似たような危うさは007シリーズの最近の2作にも感じられます。
ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じた
『カジノ・ロワイヤル』 と 『慰めの報酬』 はやはり映画の出来は素晴らしいと思いますが、
しかし、これは007じゃないだろうという気がしてなりません。
それはダニエル・クレイグ演ずるジェームズ・ボンドがあまりにがむしゃらすぎて、
ユーモアのひとかけらも感じられないからです。
ジェームズ・ボンドというのは常に余裕をもっていて、
ユーモアを絶やさず、窮地に追い込まれても敵に向かって軽口を叩いている、
というのでなければなりません。
そこの設定を変えてしまうと、ボンドはボンドでなくなってしまうと思うのです。
スーツを着てアタッシュケースを提げて出社し、パソコンでバリバリ仕事をこなす寅さんは、
はたして寅さんと言えるでしょうか。

ブランドは大事にしなければいけないと繰り返し言ってきました。
ブランドの崩壊を招くような設定変更はできるだけ行うべきではないし、
どうしてもしたいなら、別の新しいブランドを立ち上げるほうが得策でしょう。

人殺しの外部関連問題 (その3)

2009-12-21 19:41:09 | 生老病死の倫理学
このシリーズ (その1その2) もいよいよ最終話ですが、さらにわけわからなくなってきます。
ふつう 「殺し」 と言えば、命を奪うことですので、
地球上であれ地球外であれ、とにかく生き物 (生物) を殺すのが 「殺し」 でしょう。
では、ドラえもんはどうでしょうか?
ドラえもんは21世紀からやってきたネコ型ロボットです。
ロボットというのは要するにただの機械ですから、命をもっていません。
となると、ジャイアンが暴れてドラえもんを徹底的に破壊し尽くしたとして、
それはたんなる 「器物損壊」 なのでしょうか?
日本の現行法ではその通りですが、のび太君はきっとこう叫ぶでしょう。
「この人殺しぃ

たぶんアムロ君はガンダムを壊されたとしても 「人殺し」 とは叫ばないでしょう。
兜甲児もマジンガーZが壊されて 「人殺し」 とは思わないでしょう。
ガンダムやマジンガーZとドラえもんの違いは何か?
それは操縦士がいるかいないかということです。
ドラえもんは自律型のロボットです。
ドラえもんの眼がカメラになっており、耳はないけどどこかにマイクが仕込まれていて、
それらを通して未来人がのび太の様子をモニタリングしていて、
のび太の要求に合わせて何かボタンを押し、
それによってドラえもんにポケットからタケコプターを取り出させるよう、
未来で誰かがドラえもんを操縦しているわけではありません。

ドラえもんの中に埋め込まれたコンピューター (集積回路) が、
のび太の動きや音声を捉えてその意味を分析し、
それに対してどのように反応したらいいかを判断して、
「はい、タケコプター」 という音声を発すると同時に、
ポケットの中からタケコプターを取りだし、のび太君に渡すという動作を行っているのでしょう。
もちろん、それでもコンピューターにすぎませんから、
もともとプログラミングされているとおりの反応の中から、
どれかを選んで動作しているだけかもしれませんが、
それにしてはドラえもんの応答はあまりにもその場にふさわしすぎますので、
自己学習機能も備えているものと思われます。
とはいえ、つきつめるところドラえもんはただのロボットであり、
コンピューターにすぎません。
つまり、ドラえもんは意識をもっているわけではなく、ただの機械なのです。

しかし、のび太君にとっては、
ドラえもんには意識はなくたんなる機械にすぎないとはとても信じられないでしょう。
自分の言葉には正しく答えを返してくれ、
自分の要求に対してはそれにふさわしい物をいつも提供してくれるのですから、
お父さんやお母さんと話しているのとなんら変わりはないはずです。
そのような機械をはたして機械だと思い込むことができるでしょうか。
むしろ逆に、哲学には昔から 「他我問題」 という難問があって、
自分に心 (意識) があるのは自明だけれど、
他人にも本当に心 (意識) があるかどうかを証明することができないのです。
つまり、お父さんやお母さんだってよくできたロボットかもしれないのです。
こちらの言動に正しく反応さえしてくれれば、
こちらは勝手に、相手には心 (意識) があると判断してしまうのですが、
しかし心 (意識) なんて手に取って見ることができませんから、
肝心なのはけっきょく、こちらの言動に合わせた相手の反応 (表情や言葉や行動) が
あるかないかだけだということになるのでしょう。
つまり、お父さんもお母さんもドラえもんも同じことになるのです。

さらにこの問題が難しくなるのは、
人間の脳もけっきょくのところ、
今あるコンピューターをちょっと複雑にしただけだということがわかりつつありますので、
この先、順調にコンピューターが進歩していった場合、
どこかの時点でそれが心 (意識) をもつようになることがありえる、ということです。
そういう世界を描いたのが、『ブレードランナー』 でした。
そこに登場するレイチェルは、外見も人間そっくりのロボットであるだけでなく、
心 (意識) も持ってしまっているのです。
『ターミネーター』 でもスカイネットというコンピューターが、
意識をもって自分で判断し始めてしまうという未来世界が描かれていました。
さて、そうなってしまった場合に、生命は持たないけど意識は持っているロボットに関して、
たんなる機械と同じ扱いですむのでしょうか。
命がないのだから、それを壊してもたんなる 「器物損壊」 にすぎないのか、
心 (意識) を持っていて、それを奪うわけですから、
それはやはり 「殺し」 に含まれることになるのか。
大事なのは命なのか、心なのか。

どうです。
もうわけがわからなくなってきたでしょう。
「非生物殺し」 というものが成立するのかどうか。
冬休みのあいだにアニメや映画を見ながら、よーく考えておいてください。

MFT (その6)・お布団

2009-12-20 10:31:02 | 幸せの倫理学
冬になると思い出す My Favorite Things (私のお気に入り) のひとつですが、

ぬくぬくのお布団ってサイコーですね

人類の発明品のなかでも、布団ってそうとう上位にランキングされると思うんです。

誰がこんなもの考えついたんでしょう?

福島の冬は厳しいですから、いくら屋内とはいえ、明け方近くになってくると、

室温は10℃以下 (場合によったら0℃近く) まで下がっているはずなんです。

ところが、お布団のなかにいれば、外気温なんてまったく関係なく、

ぬくぬくと暖かみを感じていられるじゃないですか。

布団の外に出ている顔は、ヒンヤリした空気を感じていますが、

それとのコントラストで感じ取られる布団のなかの暖かさは格別です。

冬の朝はくっきりはっきり目覚めた後も、

いつまでもお布団のなかに籠もっていたいと思ってしまうのは私だけでしょうか?

私は現在ベッドを使っていますので、

ここで布団と言っているのは、和風・洋風を問わず、寝具一般を指しています。

また、昔はできるだけ重たい綿の布団が好みでしたが、

大人になって羽毛布団を使い始めてみると、

軽いのに暖かいというこの贅沢感も捨てがたく、

いずれも甲乙つけがたいので、どんなタイプでもいいことにしましょう。

とにかく布団ってスゴイと思うんです。

これがなかったら、とっくに人類は滅亡していたでしょう。

(いや、ハワイあたりは大丈夫かな? 少なくとも日本人は全滅です。)

毎日当たり前のようにお世話になっているお布団ですが、

そう考えてみると、とってもありがたい人類の宝じゃないですか。

お布団のなかで眠ることのできる有り難さに感謝しつつ、

もしも地球上に布団の恩恵にあずかることができない人がいるとしたならば、

その人々にこの幸せを分けてあげたいと思うのでした。

スベってナンボ

2009-12-19 14:24:53 | ドライブ人生論
このところ雪の話題ばかりですが、
久しぶりに福島市内に積もった雪がとけてしまわないうちに、もうひとつだけ。
昨日、タイヤもスタッドレスに交換してあるし、冬の対策は万全だと書きましたが、
それを書き終えて家に帰る雪道の話です。
国道4号は、往生際の悪い負け組の人たちのせいで大渋滞するのではないかと予想して、
最初から迂回路を選びました。
114号線を使うルートです。
片側1車線道路ですが、道は整備されているし、クルマの絶対量が少ないので、
渋滞の心配はありませんし、万一スリップしても事故になる確率は低いと思われます。

道が凍結してしまう前にと思って、夕方の6時前には帰途につきましたが、
時すでに遅く、昼に積もった雪が一度とけて、再凍結を始めているという、
最悪のロード・コンディションです。
パッと見、道に雪はないように見えるけれども、
実はスケート・リンクのようにツルツルになっているところや、
シャーベット状になっていてタイヤが空回りしてしまうところなど難関だらけです。
いっそのこと何10センチも積もってくれていれば、
むしろスタッドレスタイヤの真価を発揮できるのですが、
この状態ではいくらスタッドレスでもスリップは免れません。

とはいえ福島市内の雪道というのは、基本的にこんなもんですから、
15年もここで運転していると、もう慣れたもんです。
福島に来て何年めかで体得した極意は、「スキーといっしょ」 ということでした。
スキーの初心者は極度に滑ることを恐れるのですが、
滑らないことにはスキーになりません。
つまり、スキーというのは雪で滑ることをいかにコントロールするかというスポーツなのです。
雪道ドライブの場合、もちろん滑らないに越したことはないのですが、
昨日のような道路状況では滑ることは必至です。
特に私のように、車体が重たいFR (後輪駆動) のクルマに乗っていると、
一度も滑らずに帰り着くなんていうことは至難の業です。
実際、昨日も何度スリップしたりタイヤが空転したか数え切れないほどでした。

滑らないように滑らないようにと思って運転していて滑ったら、
たぶんパニックに陥るだろうと思いますが (福島初心者の頃はそうでした)、
滑ることを前提にして走っていれば、スキーといっしょです。
滑りながら前に進めればいいと思えばいいのです。
そう考えると、クルマの場合は4輪ですから、滑っても転ぶ心配はありません。
雪道を歩いていたり、スキーをしていて失敗すると転倒してしまいますが、
クルマの場合は、よっぽどスピードを出していてコースアウトしてしまったとか、
なにかに激突して横転してしまうとかいうことがないかぎり、
ちょっとぐらい滑っても転ばずに走り続けられるのです。
というわけで、コントロールできる範囲内で滑りながら進んでいこうと覚悟を決めれば、
福島の最悪の雪道もなんとか克服できるのです。
雪道はスベってナンボ、なのです。

そのためにも、歩行者や対向車のできるだけ少ない道を選択するというのは重要です。
スピンしてしまうほどスピードを出すつもりは毛頭ありませんが、
歩行者や自転車が行き交う道だと、ほんのちょっとスリップしても、
対人事故へと発展してしまう可能性がつきまといます。
また対向車を運転しているのが賢いドライバーばかりとは限りませんから、
ちょっと滑って対向車線にはみ出してしまった場合、大事故にならないとも限りません。
歩道がきちんと確保され、路肩や中央分離帯などに十分な余裕があって、
かつ交通量が少ない道を日頃から開拓しておく必要があるでしょう。
昨日はそういう道を選んで、ツルツル滑りながら久しぶりのスキー・ドライブを楽しみました。

市街が近づいてきて片側2車線になったあたりで、前方に異変が。
クルマがつまって軽く渋滞が始まりかけていたので、
どうしたんだろうと目を凝らして見てみると、
2車線を塞ぐように斜め向きに止まっているクルマが一台います。
事故ったのかなと思って見ているとバックし始めて、こちら側向きに体勢を整えました。
つまり、ヘッドライトがこちらを照らしている感じです。
その場所で切り返しをするのはムリと判断したらしく、
そのままゆっくりバックして行きました。
どこか歩道が途切れるあたりまでそのままバックしていくつもりなのでしょう。
脇を通り抜けるときチラッと見てみましたが、特にクルマに傷はついていないようでした。
おそらく車線変更か何かのときにスピンしてしまったのでしょう。
スピンするほどスピードを出してしまったのは失敗でしたが、
このすいている道を走っていたおかげで、
他のクルマや歩行者を巻き込む大惨事にならずにすんだのは幸いでした。
危険がいっぱいの条件下では、何重ものリスク・マネジメントを施しておくことが必要だ、
という教訓を目の当たりにした、今シーズン初のスキー・ドライブでした。

福大雪景色

2009-12-18 16:31:01 | 人間文化論
昨日、冬のチキンレースのゲームセットを宣言したばかりですが、

今日は積もるほど雪が降ってしまいました。

キャンパス内も一面雪景色です。

年が明けて、センター試験や一般入試の季節になってくると、

事務の方々がシフトを組んで、学内の雪かきに奔走してくださるのですが、

今はまだその体制が整っていないのか、どこもかしこもどっさり雪が積もりっぱなしで、

早くも凍結気味の箇所もあり、

先ほどハデに転んでいる学生を見かけました。

ですが、私はニットのタートルネック1枚で颯爽と授業をこなしています。

このあいだ買ったユニクロのヒートテックを下に着ているので、

こんな薄着でもへっちゃらなのです。

今日はまださすがにズボンの下にタイツははきませんでしたので、

若干、下半身がスースーしていますが、

それに比べて上半身はしっかり守られている感じがします。

さすがは最新の科学技術

これだけあったかくて、しかも1万円のボーナスつきとは、

ユニクロには感謝、感謝です

ヒートテックもあるし、タイヤも交換ずみだし、冬の備えは万全だぁっ

ゲームセット

2009-12-17 23:59:59 | ドライブ人生論
福島市民の皆様、市内にもとうとう雪が降りました

正確には今日ではなく、昨日すでにチラついていましたが、

今日はもう誰の目にも明らかなほど完全に降っていましたね。

幸いなことに積もりはしませんでしたが、積もったか否かには関係なく、

これをもって今年のチキンレースはゲームオーバーとさせていただきます。

まだタイヤを替えていない人はもう負けですので、

とっととガソリンスタンドかオートバックスに行き、スタッドレスに交換しましょう。

この時期は例年、潔く負けを認めない人たちがいつまでも夏タイヤを履いたまま、

帰り道に雪に降られてしまい、スリップして渋滞を発生させることがよくあります。

国道4号線の下り方面、伏拝の手前から黒岩にかけての長い下り坂で、

いつもなら5分もかからない距離を2時間以上の大渋滞なんていう目に、

今まで何度あったことでしょう。

それはすべて負け組のあなたがたのせいなのです。

たしかに市内では雪が積もるなんていうことはひと冬のなかでもほとんどありませんので、

スタッドレスタイヤがむき出しのアスファルトでどんどん削られていくのは、

断腸の思いかもしれませんが、

雪道でスリップなんてしてしまったら、どんな大事故になってしまうかわかりません。

事故にせよ渋滞にせよ、勝者の人たちを巻き込むなんて言語道断です。

敗者にはペナルティがつきものですので、

オートバックスで2時間待たされるのを覚悟して、

なにか読もうと思っていた本でも持って、ただちにタイヤ交換に行ってください