まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

梅雨明け?

2009-08-31 16:56:56 | グローバル・エシックス
昨日、今日と福島はすごい雨です。
もう8月も終わりだというのに、なかなか梅雨が明けませんね。
え? ちがう?
もはや梅雨の問題ではない?
そうでしたか。
それにしても東北にはとうとう夏が来ないままでした。
もう一気に肌寒くて、秋も通り越して冬が近づいているのか、という感じです。
冬暖かく、夏涼しいというのは、地球が壊れ始めている証拠のような気がしてなりません。

さて、昨日は歴史的な一日になったようですが、
はたしてこれで長い政治の梅雨は明けるのでしょうか?
2005年の総選挙のときも感じましたが、
この小選挙区制の選挙というのはわずかな差を最大限に増幅するので、
勝った政党を勘違いさせてしまう効用をもつように思います。
新しい政権政党が私たちは国民から全面的に支持されたのだと勘違いを起こすなら、
日本政治の梅雨はまだまだ続くということになるでしょう。

そもそも2005年の総選挙は自民党が圧勝したのではなかったはずです。
あれは 「自民党をぶっつぶす」 と宣言した小泉さんが勝った選挙だったのです。
論点を郵政民営化一本に絞り、旧自民党 VS 新自民党という構図を巧みに作り上げて、
どちらが勝っても自民党の勝ちという選挙になってしまいました。
そのための歴史的大勝だったわけです。
けっして自民党の旧来からの諸政策や政権運営が支持されたわけではありません。
むしろその批判票がなぜか自民党(小泉チルドレン)に流れてしまった、
という特異な選挙だったのです。
その点を完全に誤解したまま、
歴史的大勝と勘違いして自民党は突っ走ってしまいました。
数を頼みに自分たちが前々からやりたいと思っていたことを次々と強行してしまいました。
それが今回の歴史的大敗につながってしまったわけです。

辛勝した森元首相は、自民党大敗の結果について、
「小泉(純一郎元首相)さんへのアンチテーゼ」と分析しているようで、
あいかわらず何にもわかってないなあ、という感じです。
今回の選挙中 「風が変わった」 とか 「逆風」 とかいう言葉がよく聞かれましたが、
私の分析では、風は前回の選挙の頃からずっと変わっていないように思います。
政権政党がやってることはまったく信用できない。
それが変わらぬ風です。
今回、民主党が大勝したわけですが、それも小選挙区制のマジックに過ぎず、
国民があの議席数に表れるほど諸手を挙げて民主党政権を喜んでいるかというと、
まったくそんなことはないでしょう。
したがって、ほんのちょっとの失政でまた形勢は大逆転してしまうでしょう。
風は変わっていないのです。
そのことに鳩山さんや小沢さんが気づくことができるか、
長い政治の梅雨が明けるかどうかは、そこにかかっていると言えるでしょう。

(選挙が終わったので心おきなく政治のことを論じてしまいました。
 まあこの内容なら選挙運動にはあたらないはずですが…)

第45回衆議院議員総選挙

2009-08-30 14:32:06 | お仕事のオキテ
投票に行ってまいりました。
引っ越して以来初めて、投票日に投票しに行けたので (これまでは期日前投票)、
投票所である街中の小学校は少しはにぎわっているのかと期待して行ったのですが、
福島の投票所はどこもそう変わりはなく、
まったく行列などもなく、チャチャッと投票は終わってしまいました。

今回の選挙に関しては、いろいろと言いたいことがあったのですが、
ちょっとボーッとしてる間に、選挙期間に突入してしまい、
下手すると公職選挙法違反となりかねないので、
ブログでの発言はちょっと自粛しておりました。
私が選挙違反で関係しそうなのは、次の2点でしょう。

①地位を利用した選挙運動の禁止
 (一定の公務員や教育者による地位を利用した選挙運動の禁止)

②不特定多数への法定外文書図画の頒布
 (選挙期間中のインターネットやメールによる選挙運動の禁止)

このブログは、基本的に学生さん向けに作っていますので、
ここにマズイことを載せれば、①と②の両方に抵触してしまう可能性があるわけです。
ちなみに選挙運動というのは、
特定の候補者や政党に投票することやしないことを勧誘する活動のことです。
だから、別に自分が立候補していなくても、
みんなでスワローズ党に投票しよう、ジャイアンツ党には絶対入れるな!
みたいなことをブログに書くと、選挙運動をしたことになってしまうのです。
皆さんもこのことは知っておいたほうがいいでしょう。
ただのプライベートなブログだからといって、
なんでも好きなことを書いていいというわけにはいかないのです。
特に教員になった人、めざしている人は注意してください。

ただしこの問題は難しくて、選挙運動はダメだけど、
政治活動の自由は認められているので、
自分の政治的意見を表明することはある程度OKなんです。
スワローズ党は好きだけど、ジャイアンツ党は大嫌いだ!
というぐらいなら許容範囲内だという解釈もあるようです。
ただまあこれは警察の運用次第というところもあるようなので、
やはり気をつけるに越したことはないでしょう。

①に関しては当然、ある種の規制が必要だと思われます。
これは 「教職につきものの危険性」 のシリーズで取り上げてもいいくらいですが、
教員の学生に対する影響力の大きさを考えると、
選挙運動であれ政治活動であれ、教員という立場を利用してやるのは、
ひじょうに危ないことであり、禁止されるべきだと言えるでしょう。
特に選挙権をもつ学生を相手にしている大学教員は気をつけなくてはなりません。
大学教員だって政治的意見をもっているでしょうし、
それを表明することは許されているはずですが、
学生に向かってそれを言うときは、けっして押しつけになったり、
あたかも客観的な真理であるかのように語ったりしてはなりませんし、
ましてや特定の政党や候補者に投票することを強要するようなことがあってはなりません。

②に関してはそもそも今回の選挙までに、
なぜ公職選挙法が改正されなかったのかが不思議でなりません。
上記のウィキペディアの中でも、次のように書かれています。
「そもそも公職選挙法にこのような条文が制定された時代はインターネットの発達を想定しておらず、これほどインターネットが発達した時代にあって、この制限は有権者の情報取得を阻害している欠陥にもなっており、改革を求める意見が高まっている。インターネットでの選挙運動が禁止される一方で、電話やはがきなどでの選挙運動は合法であり、法律の矛盾が指摘されている。比較的安価で自らの主張を発信できるインターネットは、知名度や資金力に乏しい候補者にとっては有用な手段であるため、インターネットの制限は多様な人材の政治参加を妨げているという批判もある。」
この問題に関しては、次の選挙までにちゃんと法の見直しをしてくれなかったら、
それは政治の怠慢ということで、皆さん忘れずに覚えておきましょう。

今日が投票日なので、②の禁止はまだ生きています。
しかし、この記事は何度も読み直してみましたが、
選挙運動にはあたらないはずですので、アップしてしまいます。
選挙権をもっているけど、まだ投票に行っていない皆さん、
まだ間に合います。
民主主義の国に生まれたことに感謝しつつ、
清き3票 (小選挙区、比例代表制、最高裁国民審査) を投じに投票に行こう
(これもセーフなはず。というより総務省から表彰されてもいいかも)

Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか?(その4)

2009-08-29 23:55:13 | 哲学・倫理学ファック
長々と話してきたこのシリーズも、今回が最終話です。
考えることに目覚め、哲学に目覚め、書くことに目覚めた私ですが、
哲学をやっていこうと心に決めるにはまだそれだけでは足りません。
哲学に身を捧げるためには、最後の決定打が必要だったのです。

A-4.『ノストラダムスの大予言』を信じていたからです。

実はこの話、以前にほんの少し書いたことがあるのですが、
そのときはこう書きました。
「私は1999年第7の月に世界が滅びると信じていたので、
 10年ちょっとくらいは何とか食っていけるだろうと思って、
 この道に進む決心をしました。」
これをもうちょっと詳しく説明しましょう。

恥ずかしながら若かりし頃の私は、「ノストラダムスの大予言」 を信じていました。
彼の予言そのものというより、当時大ベストセラーとなっていた
五島勉 『ノストラダムスの大予言』(祥伝社、1973年) における、
五島独自の解釈を信じていたのです。
ノストラダムスの有名な4行詩があります。

 「1999年7の月,
  恐怖の大王が天から降りてきて,
  アンゴルモアの大王をよみがえらせる。
  その前後,軍神が幸福に統治する。」

これを、五島氏は1999年7月に核戦争によって
人類が滅亡することを予言した詩であると解釈し、大ブームを巻き起こしました。
その後も五島氏は続編において、原因に関して様々な新説を持ち出しつつ、
人類滅亡の日が刻一刻と近づいていることを訴え続けました。
今でこそその主張がいかに怪しいものであったかを、
説得的に解説してくれる書物が現れていますが、
(山本弘『トンデモノストラダムス本の世界』宝島社文庫、1999年、他)
しかし米ソ冷戦の当時は、そうした奇説が広く受容される土壌が確実に存在し、
子どもの私はみごとに信じていたのです。

私と同世代の人間はけっこう信じていたのではないでしょうか。
ちびまるこちゃんの作者のさくらももこ氏も私とほぼ同年齢ですが、
ちびまるこちゃんがノストラダムスの大予言を信じて、
勉強をやめてしまうというエピソードを残しています。
どうせもうすぐ死んじゃうんだとしたら、
そりゃあ勉強なんてするのはバカらしいし、
あくせく働くのもバカらしいですよね。
だから私は、真っ当に就職して、真っ当に生きていく道は放棄して、
37歳 (1999年) まで、好きなことをやって好きに生きていこうと決心し、
哲学の道に進むことを決めたのです。

哲学・倫理学で大学教員になることは、とても難しいということを書きました。
それはもう、努力していればいずれ何とかなる、
というレベルの話ではまったくありません。
私の先輩たちにも、哲学の世界ではすでに功成り名を遂げているにもかかわらず、
大学教員になっていないという方々が何人もいらっしゃいます。
私はそういうもんだと思っていましたし、今でもそうだと思っています。
たまたま私は大学教員になっていますが、
それは本当にさまざまな偶然が積み重なった末の奇跡にすぎず、
ほんのちょっと偶然が足りなければ、
未だにフリーターであったとしても全然おかしくはなかったのです。

そして、私は 「フリーター」 なんていう言葉がなかった頃から、
一生フリーターとして生きていく覚悟ができていました。
未だに中萬学院 (神奈川県にある学習塾) で非常勤講師として小中学生を教えながら、
哲学研究を続けているという自分の姿をリアルに思い描くことができます。
あるいは夜は銀座か歌舞伎町でバーテンとして働き、
昼頃起き出して、哲学書を読み、論文を書くという生活を送っていたかもしれません。
そういう茨の道に踏み出す勇気 (というか諦め?) を、
ノストラダムスの大予言が与えてくれたのです。

もしもノストラダムスの大予言をあれほど深く信じていなかったら、
私はどうなっていたでしょうか。
きっと20代のどこかの時点で、ちゃんと就職して生きるための努力をしていたでしょう。
妹や弟が先に就職してしまって、
家の中では「穀つぶし」だの「碌でなし」だの言われ続けていたわけですし、
大学時代に付き合っていた彼女とうまくいかなくなったのも、
こんな私の生き方が争点だったわけですから、
世界が滅びてしまうと信じていなければ、
いつでも真っ当な道に戻っていたことと思います。
そう思うと五島勉さんは罪深い人だなあと思います。
いたいけな青年の道を誤らせてしまったのですから。

というわけで、哲学を学ぶことによって合理的に考えられるようになった私ですが、
哲学をやっていこうと決心する根底には非合理的な信念があったのだというお話でした。
このクソ長いどうでもいい独白におつきあいいただき、ありがとうございました。

自然の脅威(その2)

2009-08-28 18:19:04 | グローバル・エシックス
ここ数年、夏が来るといつもなんですが、

クルマの中にアリが出没するのです。

蟻です。ちっちゃいやつ。

今もシフトレバーのあたりに5、6匹、

ダッシュボード周辺に2、3匹いて、元気に這い回っています。

どうやらエアコンの送風口から出入りしている模様。

今年はそれほど暑くなかったのでこれくらいですんでいますが、

もう少し暑くなっていたらもっとたくさん出てきて、

ちょっとヤな感じになっていたでしょう。

とはいえ、彼らはセミとちがっておとなしく這い回っているだけですので、

自然の脅威というとちょっと大げさかもしれません。

実害を及ぼすわけではないので、

殺虫剤か何かで大量殺戮するというのも気が引けるし…。

それにしても、夏のクルマの中はものすごく暑くなるし、

アリが喜びそうな食べ物なんて何もないと思うんだけど、

彼らはこんなところに住んでいて何が楽しいのでしょうか?

宇宙船地球号には人間も動物もアリも一緒に住んでいるわけですが、

この宇宙船はそこまで狭いわけでもないのだから、

もうちょっと棲み分けとかしてもよさそうなもんだと思うのですが…。

片思い

2009-08-27 13:12:56 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
日本酒というのは我が国が生んだ素晴らしい食文化のひとつです。
銀座や歌舞伎町で育ってきた私は、
けっこう若い頃からその道のプロの人たちに、
日本酒文化についていろいろと教わってきました。
私の若い頃というのは、まだ冷や酒というのが流行り始める前、
純米酒とか大吟醸とかがもてはやされるようになるはるか以前のことで、
日本酒といえば燗で飲むものというのが常識であるような時代でした。
そんな時代に私は、バーテンダーの皆さんにいろいろと教わったのです。

「いろんなお酒があるけど、酒飲みが最後に行き着くのは日本酒だよ。」

「日本酒ってのは飲めば飲むほど、お米の甘みがどんどん感じられるようになってくるんだ。
 だから最初から甘口のを選んじゃいけない。できるだけ辛口のを飲みなさい。」

「日本酒には赤出汁が合うんだよ。蜆の赤出汁なんかがあればいくらでも飲んでられる。」

仕事の合間に聞く蘊蓄は、なんだか大人の世界の雰囲気でキラキラしていました。
今はビールとか酎ライムばっかだけど、
いずれは日本酒を飲む大人になるんだろうなあ、と憧れを抱いていたものです。
当時、日本酒が苦手だったのはお燗という飲み方についていけなかったからですが、
その後、純米酒なんかがいろいろと出回り始め、それを冷酒で飲むというのが流行ってきて、
やっと私も日本酒に目覚めることになりました。
それまではただメニューに「日本酒 燗 冷」としか書かれていなかったものが、
だんだんワインリストのように、たくさんの銘柄が名前を連ねるようになってきました。
そういうのをみんなで片っ端から飲み比べるなんていうこともよくしました。
日本酒の美味しさがわかってきて、
自宅の冷蔵庫にもたいてい4合ビンが何本か入っているようになりました。

ところが、その頃からでしょうか。
ひどい酔っぱらい方をよくするようになってきたのです。
それも並大抵の酔い方ではありません。
記憶をなくし、暴言を吐き、ゲロも吐き、店のトイレで寝てしまうという有様です。
そして、よくよく思い出してみると、
そういうときっていつも日本酒を大量に飲んだときなのです。
日本酒と私の体質が合わないのでしょうか?
いつの頃からか、そういう私と日本酒の関係を 「片思い」 と表現するようになりました。
私は日本酒を好きで好きでたまらないのだけど、
日本酒は私のことを嫌っている、
そういう悲しい関係なんだなあ、と思うようになり、
私のほうから少し距離を置くようになりました。
それからは外国人との付き合いのほうが多くなり、
今やワインが私のステディです。

しかしよく考えてみると、あの頃は若くて、
お酒の飲み方がわかっていなかっただけなのかもしれません。
日本酒とワインて同じ醸造酒ですから、
体質的に受け付ける受け付けないがそうそう変わるとは思えません。
あの頃は日本酒が美味しくて、つい飲み過ぎてしまっていたということなのかもしれません。
そう考えて、ムチャな飲み方を謹むようにしながら、
最近また片思いだった相手と少しヨリを戻しつつあるところです。

近ごろの私の日本酒の師匠は、かわいい20代女性です。
福島で行きつけの居酒屋 「麦のはな」 の女将はとても気っぷのいい人だったのですが、
昨年、急逝されてしまい、
OLをやっていた娘さんがその店を継ぐことになりました。
彼女は顔に似合わず酒豪で、しかも大の日本酒好き。
その店はほとんどの料理が500円以下というむちゃくちゃ低価格な安居酒屋なんですが、
日本酒リストはものすごくて、
純米酒やら大吟醸やらその時その時いろいろな銘柄を取り揃えているのです。
最初は生ビールで餃子をつまんだあと、
「2つか3つ飲もうと思うんだけど、今日はどれとどれを飲んだらいい?」と聞くと、
その日一番お奨めの日本酒をセレクトして、順番に飲ませてくれます。
このあいだは、「凱陣」「小鳥のさえずり」「会津中将」を飲ませてくれました。
「会津中将」はこの店で何度か飲んだことのある定番ですが、
最初の2つは初耳で、同じ日本酒とは思えないほど個性溢れる味です。
それにしても、昔は父親くらいの歳の方々に日本酒のことを学んでいたのに、
今は娘くらいの歳の子に教わっているなんて、
文化の伝承というのは奥深いなあ。

幸福になる方法(その2)

2009-08-26 12:33:42 | 幸せの倫理学
以前に書いた自分のブログを読み返してみると、
締めの言葉に 「○○についてはまたの機会に書くことにします」 とか
「つづく」 などと書いてあって、
それっきり放りっぱなしということがけっこうあるようです。
約1年前に 「幸せの倫理学」 カテゴリーを立ち上げたとき、
最初の記事が 「幸福になる方法」 でしたが、
その最後は 「これが幸せになるための第一の秘訣です。第二の秘訣はまた今度。」
と締め括られていました。
そしてそれっきり放置プレイになっていました。
申しわけありません。
まあその後すでに関連する話は書いてしまっていますが、
いちおう約束を果たすことにいたしましょう。

1年前の話なので軽く復習しておくと、
幸福の定義は 「自らの欲求・欲望が満たされて、自分の状態に満足していること」 です。
この定義の前半部分から導き出される、幸福になるための第一の秘訣が、
欲求・欲望をできる限り小さく抑えておくこと、でした。
欲求・欲望が大きければ大きいほど、満たされる可能性が低くなるので、
欲求・欲望を小さくしておく方が幸福になれる可能性が高まるのです。

さて、第二の秘訣は定義の後半部分から導き出されます。
幸福とは 「自分の状態に満足していること」 です。
つまり、満足を感じるか感じないかが決め手なのです。
幸福というのは自分の外からやってくるものと思っている人が多いですが、
それは完全に間違いです。
幸福とは、自分で感じるものです。
感じなくてはいけません。
幸福な出来事が起こるのではなく、
ある出来事が起こり、それを自分がああよかったと感じたときに初めて、
自分の中に幸福が発生します。
同じ出来事が起こっても、それに満足を抱かなければ、幸福は生じません。
幸福とは幸福感なのです。

街で福山雅治に声をかけられたら、それは幸せな出来事のような気がしますが、
それ自体はニュートラルな出来事にすぎません。
福山雅治の大ファンだったら、もちろんものすごい幸せを感じるでしょう。
自分は特にファンでなくても、友だちに福山の大ファンがいれば、
その話をして羨ましがらせることができるので、少しだけ幸せになれるかもしれません。
しかし福山雅治が生理的にキライという人だったら、
ああ気持ち悪い、と不快な気分に陥るかもしれません。
逆にストーカーに近いくらいの熱狂的なファンの場合も、
ただどうということのない言葉をかけられただけでは満足できず、
なんでデートに誘ってくれなかったんだろうと、不満を抱くかもしれません。
このように幸福とは客観的な事柄ではなく、
自分が幸福を感じ取ることができるかどうかという、内面的な問題なのです。

したがって、幸福になるための第二の秘訣は、
満足しやすい体質を作っておくこと、にほかなりません。
つまり、日頃から幸せの感受性を高めておくことが大事なのです。
これは以前にお話しした、「ありがたい話」 と関わってきます。
なんでも当たり前と思うのではなく、それを有り難いことだと感じ取る能力、
それが大事です。
何にでも不満を感じる人はけっして幸せにはなれません。
ちょっとしたことにも満足し、感謝できる人だけが幸せになれるのです。

第一の秘訣と第二の秘訣は関連しているということがわかってもらえるでしょうか。
どちらも練習しだいでできるようになります。
晴れた朝には、いい天気だなあと窓を開け、
雨の日には、これでまた湖に水がたまってよかったなあと美味しい水を飲み、
月曜の朝学校に向かうときは、通学路の軒先の花の香りを楽しみ、
選挙カーの騒音を聞いたら、民主主義の国に生まれたことを感謝する。
日々の生活のちょっとしたことの中にいちいち満足を感じるように努力して、
少しずつ幸福の感受性を高めていってください。
最後に自作の格言をひとつ披露しておきます。

「幸福になりたいと切望している人は一生幸福になれない、
 幸福になる方法を知っている人はすでに幸福である」


心臓死は人の死か?

2009-08-25 14:13:47 | 生老病死の倫理学
脳死・臓器移植の問題を考えるときに、
私は脳死の問題と臓器移植の問題はいったん切り離して考えるべきだと考えています。
「脳死は人の死か」 という問題はとても重要で、かつ、とても難しい問題ですが、
ほとんどの人は、臓器移植との関連でのみその問題を考えています。
今のところたしかに脳死の問題と臓器移植の問題は密接に絡みあっていますが、
しかし私は、たとえ安全かつ安価な人工臓器が開発され、
脳死の人から臓器をもらう必要がなくなったとしても、
「脳死は人の死か」 という問題は残り続けると思っています (拙論参照)。
それは別の言い方をすると、「心臓死は人の死か」 という問題でもあります。
心臓死というのは、従来からある普通の死に方のことで、
医学的には、医師が三徴候 (1.呼吸停止、2.心拍停止、3.瞳孔散大) に関して
確認することによって診断されます。
今日はそれにまつわるエピソードを。

私の父はガンで入退院を繰り返したのち、1994年に亡くなりました。
最後の数ヶ月は横浜の病院に入院しており、
毎日家族の誰かがそばに付き添って寝泊まりしていました。
私は福島大学に来ていたので、週末は付き添いをし、
ウィークデーは福島に戻って授業をするという日々でした。
Xデーはそのウィークデーにやってきました。
私が福島の自宅でお酒を飲んでいた深夜に、母からその電話がかかってきました。

母「お父さん、息が止まった」
私「ふぅん、そりゃたいへんだねぇ」
母「あんた、何言ってんの お父さん死んだのよっ
私「死んだんなら死んだって言えよ。
  息が止まったって言われても、まさか死んだとは思わないだろっ
母「死んだなんて言葉使いたくないから、息が止まったって言ったのに…」

父が亡くなったというのに、母と長男のあいだで間抜けな会話を交わしたものです。
でも私は本当に 「息が止まった」 と言われてもまったく死んだとは思わず、
これから人工呼吸器につないだり、蘇生術を施したりするんだろうなあ、
たいへんだなあ、なんとか助かってくれるといいんだけど…、と思ったのです。
テレビや映画の見過ぎでしょうか。
『医龍』なんかでも、患者の心臓が停止したとき、
朝田先生は 「まだあきらめるな、脳死まで4分ある。手術を続行するぞ」 とかいって、
救命治療を施して、患者を救ったりしているじゃないですか。
私にとっては、心停止、呼吸停止しても、それがただちに死ではなく、
脳が完全にやられてしまって回復不能になったときに初めて死なのです。

その日はもう遅かったので、私は病院に向かうことはできず、
翌朝、まっすぐ斎場のほうに向かうことになりました。
私が着いたときはすでに家族がみんな集まっていて、
通夜や告別式の準備を進めているところでした。
午後になったころ弟夫婦が突然、家に戻ると言い出しました。

弟「オレたち、家に帰って喪服を取ってくる」
母「あんたたち、これからお葬式だってわかってるのになんで喪服を持ってこなかったの
弟「オカンは電話で、お父さん心臓止まったって言ったじゃん。
  だから、取るものもとりあえず来たんだよ、喪服なんて持ってくるわけないだろっ

よく聞いてみると、母は私に電話して「息が止まった」と言っても伝わらなかったので、
言葉を変えて弟には 「心臓が止まった」 と言ったのだそうです。
そう言えばさすがにわかってもらえるだろうと思って。
弟は関東に住んでいたので、
それを聞いて 「すぐ行く」 とだけ言って電話を切りただちに病院に向かいましたが、
残念ながら弟はそれを聞いても父が死んだとはまったく思っていませんでした。
私と同じように、これから必死の救命措置が始まるのだろうと思い、
回復を信じて病院に向かったのです。
だから、その時点では縁起が悪くて喪服を持っていくなんてありえません。
こんなふうに私たちの世代はもう、呼吸が止まったとか心臓が止まったとか言われても、
それがイコール死だとは思わないのです。

この話にはさらに続きがあります。
その日父に付き添って病院にいたのは妹でした。
病室で父のベッドの横でうつらうつらしていると、
お医者さんや看護師さんたちがバタバタっと入ってきたのだそうです。
そして、「心停止、呼吸停止です。ひじょうに危ない状態です。
すぐにご家族にご連絡ください」 と言われたのです。
で、実家の母に電話して 「お父さん、心臓と呼吸止まった」 と伝えたのです。
母はそれを聞いて、父が死んだのだと思い込み、
私や弟に父の死を知らせようとしたのですが、
「死」という言葉を使いたくなかったので、
「息が止まった」 とか 「心臓が止まった」 という言葉を使ったわけです。
つまり、この時点で父はまだ死んでいなかったのです。
心停止、呼吸停止となりましたが、まだ死亡診断が下されたわけではなく、
なんとか救おうと最後の努力が続けられていたのです。
母だけが勘違いしていたのであって、私や弟は間違っていなかったのです。

最初に心臓死の三徴候を、心停止、呼吸停止、瞳孔散大と書きましたが、
実はこれは不正確な言い方です。
心停止や呼吸停止は、
一時的 (専門用語で可逆的と言います) な停止ということがありえます。
もしもたんなる一時停止で、しばらくしたら回復可能なのであれば、
それはまったく死ではありません。
不可逆的な (絶対にもう回復しない) 停止の場合に初めて死と言えるのです。
つまり、心臓死を判定するためには、
心臓の不可逆的停止、呼吸の不可逆的停止、瞳孔の不可逆的散大を
確認しなければいけないのです。
ただ止まったというだけではまだ死とは呼べないのです。
では、心臓や呼吸の停止が一時停止ではなく
不可逆的停止だと言えるのはどういう場合でしょうか?
それは朝田先生が言うように、脳が完全にやられてしまったときではないでしょうか。
ということは、心臓死を正確かつ厳密に判定しようと思ったら、
脳が死んだかどうかを調べなければならないということになるのではないでしょうか。
もちろん現在は、心臓死の判定のために脳死判定を行ったりはしていません。
私もそうしろと言っているわけではありませんが、
心臓死の判定がそれほど確実でも自明でもないということは
覚えておいたほうがいいでしょう。

悩んでもしょうがないことに悩まない

2009-08-24 11:44:04 | 幸せの倫理学
スティーブン・コヴィーの 『7つの習慣』 という本は、
ビジネス書とか自己啓発本なんかの中でもめちゃくちゃ売れまくっている本ですが、
私はずっと敬遠していたんです。
タイトルがダメでしたね。
「習慣」 というのはカントの倫理学と真っ向から対立する概念なんです。
その点については近々カントに関するカテゴリーを立ち上げてゆっくり論ずるつもりですが、
とにかくカント・ラブの私は、カント倫理学に引きずられて、
「習慣」 について語るやつなんてロクなもんじゃないという偏見をもっていたわけです。

ところがこのたびたまたまある事情があって (これについてもそのうち書きます)、
この本を読むことになったんです。
そもそも私はビジネス書とか自己啓発本のたぐい全般をかつては毛嫌いしていたのですが、
幸せの倫理学とかキャリアのこととかを考えるようになって、
最近ではけっこういろいろ読むようになりました。
しかし、それら類書に比べてみても、
この 『7つの習慣』 はずば抜けて優れた本だと言えるでしょう。
読む前は完全になんかのハウツー本だろうと思っていたんです。
ビジネスを成功させるために毎日やるべき7つの習慣とかが
エラそうに書かれているんだろうな、と。
全然ちがいました。
むしろこれはカント倫理学をわかりやすく説いた本だと言ってもいいかもしれません。
(ああ、今世界中のカント研究者を敵に回したかも…)

さて、コヴィー氏が説く7つの習慣のうちの第1の習慣は、
「主体性を発揮する」 です。
これは 「自己責任の原則」 とも言いかえられています。
「自己責任」 って最近、新自由主義の文脈でひどい意味で使われるようになっていますが、
ここでいう自己責任はそういうことじゃなくて、
「問題は自分の外にあると考えるならば、その考えこそが問題である」
ということを意味しています。
つまり、問題は外から自分に降りかかってくるものと考えるのではなく、
自分はすべての問題に対して主体的に対処することができるのであり、
その責任を引き受けよ、ということです。
これは私の 「幸せの倫理学」 とも合致する考え方でしたし、
たぶんカント倫理学の自由概念とも両立するのではないでしょうか (ああ、また…)。

コヴィー氏は 「すべての問題は影響できる」 と言い、
私たちが直面する問題を3種類に分類することを提案しています。

・直接的にコントロールできる問題 (自分の行動と関係している問題)
・間接的にコントロールできる問題 (他人の行動と関係している問題)
・全くコントロールできない問題 (誰も影響できない問題、過去の出来事など)

第1のグループは当然、自分の行動で影響できます。
第2のグループは、自分が他人に影響を及ぼすことによってコントロールできます。
第3のグループにも、自分の態度を変えることによって影響を及ぼすことができるのです。
つまり、笑顔をつくり、穏やかな気持ちでそれを受け入れればいいのです。
これは私のモットーのひとつ、
悩んでもしょうがないことに悩まない、とまったく同じではありませんか。

コヴィー氏は、本書の中でアルコール依存症連合会の座右の銘を引用していました。
これはけっこうヒットしました。
「主よ、変えるべき変えられることを変える勇気を、
 変えられないことを受け入れる平和を、
 そして、その区別をつける知恵を与えたまえ」
若い人たちを見ていると、
悩んでもしょうがないこと (コントロールできない問題) に悩んでいる人を
たくさん見かけますので、
3種類の問題を区別する知恵というのがまずは大事だなと思いました。

夜の街の敬語文化

2009-08-23 12:33:21 | 人間文化論
日本という国は、敬語文化がひじょうに発達した国です。
儒教思想など、上下関係を重んずる倫理が浸透していたからだと思いますが、
相手への敬意の有無によって動詞そのものや、動詞の語尾まで変わってしまうなんて、
日本語を外国語として学ぼうと思っている人には、厄介な言語なんだろうなと思います。

ところで私は学生時代、銀座や歌舞伎町でバイトしていました。
水商売を始めて最初に誰もが驚くのは、
出勤のときの挨拶です。
夜なのに「おはようございます」なんです。
すぐに慣れてしまいましたが、しばらくは違和感を覚えたものです。

なんでこんな時間なのに「おはよう」なんだろうとずっと疑問でしたが、
あるときいつもの挨拶の光景を見ながら、私の中に仮説がひらめきました。
そのときの様子はこんな感じでした。

出勤してきた店の女の子 「おはようございまーす
出迎える店のママ 「おはよう

そうなんです。上下関係なんです。敬語なんです。
これが、時間に合わせた正しいあいさつだったらどうなるでしょうか。

出勤してきた店の女の子 「こんばんはっ
出迎える店のママ 「こんばんは

これでは締まらないんです。
ママの威厳が失われるんです。
それではいけないのです。

「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」という3種類のあいさつの中で、
丁寧語の「ございます」を付けられるのは「おはよう」のみです。
「こんばんはでございます」なんていう言葉はありません。
「おはよう」だけが、「おはよう」と「おはようございます」の使い分けが可能なのです。
唯一、上下関係を表すことのできるあいさつ言葉だったから、
水商売の世界で広まったのではないか。
それが私の仮説です。

ところで私は福島に来て生まれて初めて、
「お晩でございます」という言葉に触れました。
忘れもしない、世界史のI先生が学部長をやっていた頃、
送別会のあいさつに立って開口一番、この言葉をおっしゃったのです。
私にとってその衝撃たるや、
夜の街の「おはようございます」なんてものじゃありませんでした。
ええっ、そんな丁寧語があったんだ。えっ、何? これって福島弁?
と度肝を抜かれて周りを見回しましたが、
みんな当たり前のような顔をして聞いていましたから、
横浜育ちの私だけがたまたま知らなかったということなのでしょうか。
皆さんは「お晩でございます」って聞いたことありますか?

「こんばんは」の丁寧語が実在するんだとしたら、
先の私の仮説は崩壊してしまいます。
「こんばんは」と「お晩でございます」のセットを使えばいい話なので、
わざわざ朝用のあいさつセットを持ち出す必要はありません。
つまり夜の街で「おはよう」を使うのは何か別の理由があるということになるでしょう。
それともやはりあれは福島の方言で、他の地域には存在しない言葉なのでしょうか。
だから関東圏では「おはよう」セットを使っているんでしょうか。
ひょっとして福島の夜の街では「こんばんは」セットであいさつしている?
妄想は広がりますが、やはり私はちょっとついていけないなあ、こんな世界↓。

出勤してきた店の女の子 「お晩でございます
出迎える店のママ 「こんばんは

危機回避の方法

2009-08-22 13:52:58 | ドライブ人生論
街中のちょっと広めの国道を調子よくクルマの流れに乗って走っていたら、
突然、前のクルマが急にブレーキをかけて、
なんだ?と思っていたらノロノロと、国道沿いのファミレスに入っていった、
なんてことはありませんか。
みなさんはそういうとき、どうやってそのクルマを回避するでしょうか?

今みたいなケースはまだそれほど危機的状況じゃありませんが、
けっこう高速で飛ばしていたら、道路に落下物や動物の死体が転がっていたとか、
住宅街の路地を走っていたら、突然横道からクルマが出てきたとか、
思いもかけない事態が発生するというのは、運転しているとよくあることです。

そういう危機を回避しなきゃいけないときに、
ハンドル操作に頼る人ってけっこう多いんですよね。
つまり、ハンドルでうまくクルマを操って障害物を回避しようとする人。
これは本当に危険なので絶対にやめてほしいです。

最初の例で言うと、私は追い越し車線を走っていたんです。
そうしたら左側の走行車線でそういうことが起こって、
すると後ろを走っていたクルマは「どうだ、うまいだろ」と言わんばかりに、
スピードを落とさないままこちらの車線に割り込みながら、
みごとなハンドルさばき(?)で、左折車をよけていったんです。
アホか
左折車はよけられたかもしれなかったけど、
オレのクルマにぶつかるところだっただろ
こっちが前のクルマの不穏な動き(ミョーに変なところでブレーキを踏んでいた)と、
後ろのクルマが車間距離を全然取ってないのに気づいていて、
あらかじめそれなりの対策を取っていたから、ラッキーにも無事にすんだんであって、
さもなきゃここで何台もの玉突き事故が発生しているところだったぞっ

ハンドル操作で何とかしようとする人がけっこう多いのって、
テレビや映画のカーチェイス・シーンの影響なんだろうなあ。
あんなの現実世界ではありえませんから。
あれはプロの人たちがすべてを計算し尽くして決められたとおりにやってるだけで、
実際にあんなことはどんなに運転の上手い人だってできませんから。
現実世界でハンドルさばきで危機回避しようとすると、
隣の車線や、片側一車線道路なら対向車線に飛び出しちゃうとか、
逆に歩道に乗り上げて歩行者をはねちゃうとか、
当初の危機よりももっとたいへんなことになりかねません。
なので危機回避の第1はなんといってもブレーキなのです。
スピードを落とす。
最悪の場合は止まる。
これにまさる危機回避の方法はありません。

人生も同じ。
何かあったら、まずはスピードを落とす。
最悪の場合は止まる。
危機のときにスピードを落とさないまま、
うまいことハンドルさばきで何とかしようとしたら、
よけいに深みにはまっていっちゃいますから。
何とかうまくやるのではなく、
思い切ってやめてみる。
ブレーキを踏む勇気をもちましょう

平和のための戦略

2009-08-21 12:45:39 | グローバル・エシックス
このあいだたまたま本屋で見つけて、
『地球全体を幸福にする経済学 ―過密化する世界とグローバル・ゴール―』
という本を読みました。
国際ミレニアム・プロジェクトのリーダーをつとめる経済学者
ジェフリー・サックスが書いた本です。
この人はグローバル・エシックスの大家と言っていいでしょう。

この本の最初のほうで、
J.F.ケネディの 「平和のための戦略」 という演説の一部が紹介されていました。
キューバ危機を回避した翌年に行われた演説です。
とてもいい内容だったので、これも引用しておきましょう。
訳文は上掲書の訳者、野中邦子さんによるものです。


 平和のための戦略

 あまりにも多くの人びとが平和は不可能だと思っている。あまりにも多くの人びとがそれを非現実的だと考えている。だが、それは敗北主義的で、危険な信念だ。そんな考え方から導かれるのは、戦争が避けられず、人類は破滅を運命づけられ、私たちが制御不能な力に支配されているという諦念である。そんな考えを受け入れてはいけない。私たちが抱えている問題は、人間が作ったものなのだから、人間の手で解決できるはずだ。人間はそう望みさえすれば、どんなに大きな存在にもなれる。人類の将来を左右する問題といえども、人類の存在を超えるものではない。人間の叡智と魂は、これまでも解決不能と思われた問題を解決してきたのだから、これからも同じことができるはずだ。私がいいたいのは、妄想や狂信に通じかねない絶対的な世界平和や無条件の善意のような机上の空論ではない。希望や夢の価値は否定しないが、それを私たちの唯一かつ緊急の目標にしたら、失望と不信を招くだけだろう。
 そのかわり、もっと実際的で達成可能な平和に目を向けよう。人間の本質を急激に変革するのではなく、人間社会を段階的にゆっくり進化させていくのだ。つまり、関係する全員にとって利益になるよう、一連の具体的な活動や効果的な合意にもとづいて、平和を構築するのだ。この平和の扉を開けるには、たった一本の簡単な鍵では不足だ。一人か二人の権力者だけが用いる壮大な、あるいは魔法のような特効薬もない。本物の平和は、多くの国家の協力のもとに、さまざまな活動の総和として達成されるものなのである。それはじっと動かないものではなく、ダイナミックでなければいけない。新しい世代の課題に合わせて、たえず変化しなくてはならない。なぜなら、平和とは一つのプロセスだからだ。それは問題解決のための一つの手段なのである。
 だから、おたがいの違いから目を背けるのではなく――人類共通の利益に目を向け、相違点をのりこえる方法を考えよう。その違いをいますぐ解消できないにしても、少なくとも世界が多様性を受け入れられるように手助けすることはできる。とどのつまり、私たちの最も基本的なつながりは、私たち全員がこの小さな惑星の上に住んでいるということなのだ。私たちはみな、同じ空気を呼吸している。私たちはみな、子どもたちの将来を案じている。そして私たちはみな、死すべき存在なのだ。


うーん、とても格調の高い文章ですね。
どこかの国の前大統領には思いつくこともできない内容でしょう。
どこかの国の首相のために教えておいてあげると、
「諦念」 は 「ていねん」 と読みます。「叡知」 は 「えいち」 と読みます。
日本人を自負するなら自分で辞書を開いて、ちゃんと意味を調べてくださいね。

ちなみに私が昨年出した訳書『共通価値 ―文明の衝突を超えて―』の作者シセラ・ボクは、
10年以上前に『戦争と平和 ―カント、クラウゼヴィッツ、と現代』 という本を出していますが、
その原題も 『平和のための戦略 Strategy for Peace』 でした。
どちらも、ただ絶対的世界平和みたいなものを祈っていればいいんではなくて、
それを今この場で私たちにできる具体的な手段(平和的手段)を用いて、
どうやったら実現できるか戦略を練っていこうという、
「平和実現のための仮言命法」 を模索する提言だと思います。
サックスのグローバル・エシックスの提言も同様です。
互いの違いを認め合いながら、人類共通の利益や価値を互いに尊重しあうというのは、
それほど難しいことではないのではないでしょうか。
そんな希望を与えてくれるいい本でした。

Q.哲学を学んでよかったことは何ですか(その2)

2009-08-20 14:08:51 | 哲学・倫理学ファック
今ふと気づいたら、クルマのカギがないんです。
いつもは写真のように、着脱のラクなキーホルダーに、
クルマのカギ(黒いほう)と立体駐車場のカギをつけてあるんですが、
なぜか駐車場のカギしかついてなくて、クルマのカギが見当たりません。
今までそんなことはなかったのですが、
ひょっとしてポケットのなかで外れちゃったのかなと思って、
ポケットもひっくり返して調べてみますが、ありません。
ありえないのだけれど、クルマのカギだけ机のどこかに置いたのかと思って、
研究室の中もザッと見回してみますが、やはりありません。
というか、先日お伝えしたように研究室は現在ゴミ溜め状態なので、
万一この中で行方不明になっているとしたら、発見の可能性はゼロでしょう。

さて、こういうとき人は普通パニックになるのではないでしょうか。
カギを盗まれ、そのままクルマも盗まれてしまったのではないか、とか、
カギが神隠しにあってもう発見されないから、今日はクルマを諦めて電車で帰り、
明日スペアキーでクルマを動かさなきゃいけないんじゃないか、とか、
なんで私はカギをなくしちゃったんだろう、なんて自分はダメな人間なんだろう、とか、
自分は何かにたたられているんじゃないだろうか、とか、
想像や思考はどんどん悪いほうにふくらんで、
キーッとなってしまったりするんではないでしょうか。
(私は何人かそういう人を知っています)

ところが哲学を学んだ私は、こういうときにまったく動じないのですね。
この世で起きることはすべて因果律にしたがって生じる、
ということを私は哲学で学びました。
つまり、何か出来事が起こったならそれには必ず原因があり、
その原因は人間に理解可能な自然的なものであるに決まっているのです。
超自然的なことが起きているはずはあまりせんし、
普通の人の身の回りでそうそう陰謀とかが進行していることもないでしょうし、
もちろん自分の内面とか人間性のせいなんかでもないのです。
ただ単純に何かごく普通のことが起こっただけという確率が最も高いのです。

そこで私はモノをなくしたときは、それまでの自分の行動をゆっくり振り返ってみます。
いつの時点までそれはあったのか。
いつ以降、その存在は確認されていないのか。
存在が確認されなくなって以降、自分はどこに行き何をしたのか。
物がなくなる原因は、だいいその線上のどこかで、落としたか、置き忘れたか、
どこかにしまったのを忘れてしまったか、のいずれかしかありません。

今回はクルマのカギですから、運転してる間はあったことは確実です。
今日は駐車場が混んでいたので、ちょっといつもと違うヘンなところに停めて、
たぶんクルマのドアもロックしたと思うけど、
そこらあたりから記憶はあいまいで、それ以降はもう存在を確認できません。
私のズボンの右ポケットには、上記のクルマのカギ束と、
もう一つ別のキーホルダーに研究室や自宅のカギなどをつけた束が入っていて、
研究室のカギ束を取り出すときに、クルマのカギ束がくっついて出てきてしまって、
その場に落っこちたという可能性もありえます。
ポケットの中に2つもカギ束が入っているとポケットがふくらんでイヤなので、
研究室に着いてから、クルマのカギ束をバッグの外ポケットに移しかえる場合もありますが、
今日はそんなことをした覚えがありません。
いちおうバッグは調べてみましたが、やはりありませんでした。
その後、事務室に行ったり、生協にメシを食いに行ったりしましたので、
そこで何かが起こったということもありえますが、
わざわざカギに触れた覚えはないので、可能性は低いでしょう。

というようなことをゆっくり考えたあげく、
やはり一番可能性が高いのは、
朝駐車場に着いてから研究室に歩いてくるまでのどこかに落としたってことなんだろうなあ、
という結論に達しました。
しかも一番怪しいのはやはりクルマを降りてすぐのあたりです。
とここまで分析してみた上で、駐車場まで戻ってみることにしました。
歩いてきた途中ということもありえるので、
目を皿のようにして見ながらゆっくり歩いていきます。
残念ながら、研究室のドアの前には落ちていませんでした。
途中、図書館や情報処理センターの脇を通りながら、
誰かがすでに拾って届けてくれているということもありえるので、
帰りがけは図書館と情報センターにも確かめてみようなんてことまで冷静に考えながら、
クルマのところまで歩いていきます。
自分が通った経路をそのまま逆に辿りながら、運転席のドアに近寄ろうとしたら、
ビンゴ
やっぱりクルマのそばの草の上に落ちているじゃありませんか。
これほど推理がピッタリ当たると自分の才能がちょっと怖くなります
こんなふうになくした物を見つけるの、けっこう得意なんです。
掃除の一件で下がりまくっていた自己効力感が一気にアップします

というわけで、「哲学を学んでよかったことは何ですか?」パート2です。
以前すでにこの問いにはお答えしたことがあるんですが、
たまたまこんなことがあったので、また書いてしまいました。
今回のお答えはたんに 「なくし物を見つけるのが上手くなった」 じゃなくて、

A-2.物事に動じなくなって、冷静に頭を働かせて対処できるようになる

でした。うーん、今日もいい日だっ

自然の脅威

2009-08-19 18:30:24 | グローバル・エシックス
授業では環境倫理学とかを教えている私ですが、
私自身は知る人ぞ知る 「自然ギライ」 です。
人工衛星に住むのとジャングルに住むのだったら、100 vs 0 で人工衛星を選びます。
動物はキライだし、虫なんてありえないくらいキライです。
植物はそこまでキライじゃないけど、まあそんなになくてもいいかな。
ごくたまにハイキングとかに行って自然に触れるのは、
それはそれでレジャーとしては楽しいですが、
でもやっぱりアスファルトとコンクリートに囲まれた都会が一番安心できます。
(ただし大都会は人間が多いのがイヤですが…。人間も動物のうち?)

そんな私にとって、この時期の最大の脅威は、
建物の中に飛び込んできたセミです。
セミって虫のなかでもちょっと強烈ですよね。
建物の外でミンミン鳴いてるのを遠くで聞いている分には、
まあ夏だなあという感じでかまわないのですが、
あれが建物の中に入ってきちゃうともうたまりませんね。
あの人たちはなんでもっと静かに飛べないんでしょうか。
蛾かなにかのように静かに飛んだり留まったりしていてくれればまだ許せるのに、
建物の中であんなにワンワン騒ぎまくることはないじゃないですか。
ミンミン言うわ、バチバチ壁にぶつかりまくるわ、
一時もじっとしていてくれないし。

大学の校舎ってこの時期よくセミが飛び込んでくるんです。
私は自分の研究室の窓を開け放したりはゼッタイにしませんが、
校舎の廊下とかは窓やドアが開きっぱなしなので、
そっから入ってきちゃうんですよねぇ。
特に夜は電灯につられて入ってきてしまうんでしょうか。
私が帰ろうとする頃に廊下をバチバチ飛んでられたりしたら、もう地獄ですね。
泣きそうです
で、今もいるんですよ。
ウウ、帰れない…

エントロピー増大

2009-08-18 13:01:29 | 幸せの倫理学
春休みにせっかく片づけた研究室ですが、

日々の授業や会議に追われているうちにまた崩壊してしまいました。

当然のことながら、幸福感や自己効力感はガタ落ちです。

熱力学の第2法則 「エントロピー増大の法則」 というものがあるので、

世界は無秩序な状態のほうに向かって進むことになっているから、

こうなることは自然法則によって運命づけられていたのだと受け容れようとしましたが、

大好きな Wikipedia を見てみると (例のところ)、

どうやらその解釈は間違っているようです。

自然法則のせいにしてないで、ちゃんと片づけようっと

塵も積もれば山となる

2009-08-17 15:29:06 | お仕事のオキテ
今日は記念すべき日です。
ちょうど2ヶ月前の6月17日に「仕事に追われてはいけない」という記事を書きました。
その日は4月以来サボっていたブログを再開した日でした。
6月の始めにけっこう大事な発表をしなければならず、
その仕事に全力を注ぐためにブログ更新はずっと控えていたのでした。
しかし私は、上記の記事に書いたように、
コツコツと計画的に仕事をしていくタイプではなく、
締切直前にガーッと一気に追い上げるタイプですので、
何ヶ月も前からブログ更新を控えたからといって、
その間じゃあ本業を着々とやっているかというと、まったくそんなことはなくて、
やらなきゃやらなきゃとずっと思って、気持ちばかり追い込まれているだけで、
実際には仕事は手につかず、YouTube に逃避したりしていたわけです。
ブログ再開にあたってその点を反省し、
どうせギリギリにならなきゃやらないんだと開き直って、
どんなに大きな仕事を抱えていようと、ブログ更新は続けていこうと宣言したのでした。

その日以来着実にブログ更新を続けてきました。
最初のうちはウィークデーだけでしたが、
7月13日からは土日も休むことなく毎日何か書くようにしています。
実は何日か、酔っぱらってブログを書けなかった日もあるんですが、
その分は翌日に2つ書いて、日付を操作するなんていう卑怯な手も使いながら、
毎日更新記録を着々と伸ばしつつあります。

ヒマ人なので、これまでのブログ更新実績を調べてみました。

2008年
5月  1本   
6月~8月 0本 (5月に仮オープン後、しばらく放置)
9月  9本   (本格始動)
10月 11本   (看護学校の授業が始まり「哲学・倫理学ファック」を開始)
11月  1本   (11月末に大事な発表があり休止)
12月  2本   (ウィスコンシン出張等があり放置)

2009年
1月  2本   (研究会や大学の事務的な仕事に追われ、しばらく放置)
2月  3本   ( 〃 )
3月  0本   (3月末の発表に向け休止)
4月  6本   (また看護学校が始まり「哲学・倫理学ファック」が活性化)
5月  0本   (6月の発表に向け休止)
6月  9本   (17日からブログ再開!)
7月  27本   (週末を除き更新!)
8月  17本   (毎日更新中!)

うーん、わかりやすいなあ。
ブログ更新をサボってるときは必ず何かしらの仕事に追われているんだよなあ。
でも6月17日の決心以来、この悪弊は過去のものとなったようです。
6月16日までのブログ更新本数は、1年以上のあいだに35本。
6月17日以降は、2ヶ月で53本。
塵も積もれば山となるんですね。
ほんのちょっとした決心で、これだけの差が生まれてきてしまいます。

実は今週末には6月のときと同じ、大事な論文発表が控えています。
これまでだったら、今ごろはブログのほうは休止状態にして、発表準備に専心し、
しかし、けっきょく筆は進まないまま、ソリテアの連勝記録を伸ばすなんていう、
まったくもって実りのない、ムダな時間の使い方をしていたことでしょう。
しかし、気ばかり焦ってもしょうがないから、
ブログはブログ、論文執筆は論文執筆と割り切って、
書きたいことは書くというようにしていたほうが、結果的に生産性は上がるようです。
発表まで2週間もあるというのに、先週から論文執筆のほうも順調なんです。

先日、書くのが好きという話をしましたが、
たぶんブログみたいな軽い書き物が一番性に合っていて、
それをやってるときはものすごく集中して、時間を忘れることができるんです。
論文執筆のほうは私の大事なお仕事ですが、
これはなかなか、いつでもアイディア全開でバンバン筆が進むなんていうことは稀です。
締切に追われているときは、そのことだけに専念しようとしますが、
そうするとよけいに煮詰まってしまうみたいで、
けっきょく締切ギリギリになってから、
何とかラストスパートで間に合わせるということになってしまいます。
それよりは、やりたいことをやり、ストレスないようにしておくほうがいいみたいですね。
おっと、この記事もネタに困ってむりやりひねり出した話題だったのに、
気がついたらこんなに書いてしまっているじゃないか。
うーん、すごい集中力だっ!
この調子で論文もガンバルぞっ! オーッ