白河に続いて、本日をもって郡山の看護学校の授業も終了いたしました。
7回おつきあいいただき、ありがとうございました。
こちらでは1日1コマずつ全7コマで開講しましたので、
他の看護学校と比べて半分しか授業がありません。
よそでは1日2コマずつ全14コマやっていますが、内容はほぼ同じで、
自分で考えてワークシートに書いたり、グループで話し合ったりという作業を、
時間をかけてゆっくりやっています。
郡山ではそうした時間を十分に取れないために、
ちょっとかけ足になってしまい、授業についてこられない人もいたかもしれません。
今日なんかとうとうグループで話し合う時間はまったくなしで、
ほぼ私の話を一方的に聞かされるだけでしたから、
本当につらい受け身の授業になってしまったかもしれませんね。
そうしたハンディキャップの中で皆さんは本当によくがんばってくれたと思います。
帰りの電車の中で皆さんの 「振り返りシート」 を読ませていただきました。
他の看護学校では毎回A4の紙、裏表にぎっしり書いてもらっているのですが、
郡山ではA4の紙に表に4回分、裏に3回分 (+1の余白) の枠を設けて、
授業の最後にちょっとだけその日印象に残ったこと等を書いてもらっていたので、
書いてもらった量は少ないですが、7回分全部をまとめて見比べることができました。
すると、最初の頃はこの小さな枠がスカスカに余ってしまうくらい、
あまり自分の考えを文字にすることができなかった人たちも、
回数を重ねるにつれ少しずつ自分の考えを文章化できるようになっていったことが見て取れました。
最初からたくさん書いてくれていた人たちは、今日はもうとうとう、
あの小さな枠に収まりきれずに、+1の余白のところまでフルに活用して、
自分の思考の軌跡を書き留めてくれていました。
ほんの短い間ではありましたが、それぞれの成長が感じられてとてもうれしかったです。
受け身の授業になってつまらなかったんじゃないかと心配していましたが、
多くの人が、今まで考えたことのない死について考えるのが楽しかった、
という感想を書いてくれていました。
例えばこんな感じ。
「小野原先生の授業は、”死”という重いテーマの中でも、
なぜかとても楽しく、前向きに勉強する事ができたと思います。」
これは私の授業に対する最大の賛辞で、有り難く頂戴いたします。
今日の授業で、現代では 「死の教育 Death Education」 が求められており、
実はこの 「倫理学」 の授業も私なりの 「死の教育」 であったということをお伝えしました。
いつもとは言わないまでも、たまーに死について考えてみることは人間にとって大切であり、
看護師にとってはそうやって自分なりの死生観を確立していくことが必要だと私は思っていますが、
あんまり暗く深刻になって、イヤ~な気分になってしまうようでは、
これから先も考え続けていこうとは思えないでしょう。
この問題には答えはないので、いつまでもずーっと考え続けていくことが大事なのですが、
そのためには、死について考えたりみんなと話し合ってみることはけっこう楽しいことだ、
と思ってもらえることが必要だと私は考えていました。
患者さんに 「死んだらどうなるんでしょう?」 と聞かれたらどう答えるかとか、
それぞれ国家に分かれてもらって各国の 「人の死の基準」 を決めてもらったりというのは、
難しい問題を楽しみながら考え話し合いつつ、
少しずつ死という深刻な問題に慣れていってもらうための作戦だったのです。
その結果として、「死について考えることで自分自身成長することができるのだ」 とか、
「人の死と向き合って行く仕事を選んだからこそ死について考え、
自分の命を大切に生きたいと思います」 なんていうことまで考えてもらえたのは、
本当に教師冥利に尽きると思います。
「倫理学」 の授業はこれで終わりますが、結論は何ひとつ出ていません。
これからもさらに深く深く考え続けて、みんなといっぱい話し合ってください。
そして、哲学者のような看護師になって、
ひとりひとりの患者さんの身体と魂のケアをしてあげてください。
皆さんの病院に私が搬送されたときにはなにとぞ手厚い看護の程よろしくお願い申し上げます。
7回おつきあいいただき、ありがとうございました。
こちらでは1日1コマずつ全7コマで開講しましたので、
他の看護学校と比べて半分しか授業がありません。
よそでは1日2コマずつ全14コマやっていますが、内容はほぼ同じで、
自分で考えてワークシートに書いたり、グループで話し合ったりという作業を、
時間をかけてゆっくりやっています。
郡山ではそうした時間を十分に取れないために、
ちょっとかけ足になってしまい、授業についてこられない人もいたかもしれません。
今日なんかとうとうグループで話し合う時間はまったくなしで、
ほぼ私の話を一方的に聞かされるだけでしたから、
本当につらい受け身の授業になってしまったかもしれませんね。
そうしたハンディキャップの中で皆さんは本当によくがんばってくれたと思います。
帰りの電車の中で皆さんの 「振り返りシート」 を読ませていただきました。
他の看護学校では毎回A4の紙、裏表にぎっしり書いてもらっているのですが、
郡山ではA4の紙に表に4回分、裏に3回分 (+1の余白) の枠を設けて、
授業の最後にちょっとだけその日印象に残ったこと等を書いてもらっていたので、
書いてもらった量は少ないですが、7回分全部をまとめて見比べることができました。
すると、最初の頃はこの小さな枠がスカスカに余ってしまうくらい、
あまり自分の考えを文字にすることができなかった人たちも、
回数を重ねるにつれ少しずつ自分の考えを文章化できるようになっていったことが見て取れました。
最初からたくさん書いてくれていた人たちは、今日はもうとうとう、
あの小さな枠に収まりきれずに、+1の余白のところまでフルに活用して、
自分の思考の軌跡を書き留めてくれていました。
ほんの短い間ではありましたが、それぞれの成長が感じられてとてもうれしかったです。
受け身の授業になってつまらなかったんじゃないかと心配していましたが、
多くの人が、今まで考えたことのない死について考えるのが楽しかった、
という感想を書いてくれていました。
例えばこんな感じ。
「小野原先生の授業は、”死”という重いテーマの中でも、
なぜかとても楽しく、前向きに勉強する事ができたと思います。」
これは私の授業に対する最大の賛辞で、有り難く頂戴いたします。
今日の授業で、現代では 「死の教育 Death Education」 が求められており、
実はこの 「倫理学」 の授業も私なりの 「死の教育」 であったということをお伝えしました。
いつもとは言わないまでも、たまーに死について考えてみることは人間にとって大切であり、
看護師にとってはそうやって自分なりの死生観を確立していくことが必要だと私は思っていますが、
あんまり暗く深刻になって、イヤ~な気分になってしまうようでは、
これから先も考え続けていこうとは思えないでしょう。
この問題には答えはないので、いつまでもずーっと考え続けていくことが大事なのですが、
そのためには、死について考えたりみんなと話し合ってみることはけっこう楽しいことだ、
と思ってもらえることが必要だと私は考えていました。
患者さんに 「死んだらどうなるんでしょう?」 と聞かれたらどう答えるかとか、
それぞれ国家に分かれてもらって各国の 「人の死の基準」 を決めてもらったりというのは、
難しい問題を楽しみながら考え話し合いつつ、
少しずつ死という深刻な問題に慣れていってもらうための作戦だったのです。
その結果として、「死について考えることで自分自身成長することができるのだ」 とか、
「人の死と向き合って行く仕事を選んだからこそ死について考え、
自分の命を大切に生きたいと思います」 なんていうことまで考えてもらえたのは、
本当に教師冥利に尽きると思います。
「倫理学」 の授業はこれで終わりますが、結論は何ひとつ出ていません。
これからもさらに深く深く考え続けて、みんなといっぱい話し合ってください。
そして、哲学者のような看護師になって、
ひとりひとりの患者さんの身体と魂のケアをしてあげてください。
皆さんの病院に私が搬送されたときにはなにとぞ手厚い看護の程よろしくお願い申し上げます。