まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

1月の飲み会を振り返る

2011-01-31 12:00:41 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
このブログの左欄にある 「カレンダー」 を見てみると、
今月は金曜日にブログ更新をサボりがちだったことがわかります。
これは振り返ってみると、金曜日 (ないしは木曜日) に飲み会がよく入ったためだと思われます。

1月14日は飲み会は何もありませんでしたが、
前日の13日 (木) にT先生とA先生と3人で飲みました。
T先生は私と同じ年に福島大学に赴任した教育学の先生です。
A先生はとてもデカい歴史学者です。
たった3人で、しかも19時から飲み始めていたにもかかわらず、
これが明け方5時くらいまで続いたため、金曜日は1日中死んでいて、
とてもじゃないけどブログを書く元気もなかったのです。
1次会は一度行ってみたいと思っていた 「博多水炊き 晴れのひ」 で、
4,300円なのにけっこういい日本酒が飲み放題だったというのも敗因のひとつでしょう。
この店はホントは3,800円で飲み放題つきのコースが頼めるのですが、
その場合、飲み放題は90分しかできないので、
あらかじめ500円プラスして飲み放題を120分にしてもらうという、
幹事 (私ですが) の細かい心配りも仇になったと言えるでしょう。
その後、スナックでカラオケは歌うわ、
みんなもうベロベロなのに3次会に遅くまでやってる店を選んでしまうわ、
ダメのオンパレードでした。
とにかく翌日 (というかもう当日) はツラかったの一言です。
たまたまゼミもなんもなくなって休んでいられた私はよかったですが、
金曜日は授業が目白押しのA先生は大丈夫だったんでしょうか?

1月21日はすでにご報告したとおり仙台の書評カフェに行きました。
19時からと真面目な (お酒抜きの) 会にしてはスタートが遅いのですが、
その時間までに仙台に着くには早めに福島を出なければならず、
一生懸命ブログを書いていたのですが、出発前に完成してアップすることはできませんでした。
書評カフェが終わったのが21時過ぎで、それからぢゅんちゃんたちと飲んだのですから、
いちおうパソコンは持って行っていましたが、
金曜日中にホテルに戻ってくることはできませんでした。
この週末は結婚式の話題などずっと時事ネタだったにもかかわらず、
1日遅れの報告になってしまい、たいてい書き出しが 「一昨日は…」 となっていました。

1月28日はどこかでちらっと書きましたが、福大教職員組合の飲み会でした。
他学類の先生方や事務職員の皆さんと一緒に飲むことのできる貴重な機会です。
そういえば昨年のこの会では苛酷な試練にさらされたことも今となってはいい思い出ですね。
今年はそういう怖い余興とかもなく、ビンゴゲームではこんなオサレなカレンダーも頂いたりして、



楽しく飲んでいたのですが、ちょっと不安材料としては、
この会を仕切っている一番エラい人が上述のT先生なんです。
だから一筋縄では終わらないだろうなあと思っていたところ案の定、けっきょく4次会まであって、
最後は 「炭火焼だいにんぐ わたみん家」 が閉店で追い出されるまでいましたので、
また朝の5時になってしまいました。
T先生は淋しいんだろうなあ。
一度飲み始めるとなかなか帰りたがらないから。
ま、でもこの日は経済経営学類のK先生 (私以上に壊れている人です) に連れられて、
初めてのスナックに行ってみんなで大合唱したり、
元教え子で今は福大の職員になっている人といろいろと話せたり、
最後まで楽しく飲むことができました。
「ウコンの力」(顆粒) を飲んでおいたためかダメージも最小限ですみ、
14日みたいなことにはならずにすみました。

金曜日 (近辺) だけを振り返ってみてもいろいろあったと思うけど、
他の曜日にも相当飲みましたから、
この1月はよく飲んだ月だったと言えるでしょう。
今日の月末はぢゅんちゃんたちとカントの読書会があり、
ということはそのあとまた飲むことになるのではないでしょうか?
ちょっと怖くて最近、体重計には乗っていません。
いずれ近いうち勇気を出して体重測定し、リバウンド報告をすることになるかもしれません。
まいっか、それもネタだっ!

歴代最高アクセス

2011-01-30 14:00:26 | このブログについて
ブログの弟子のぢゅんちゃんが、ブログ書くのに疲れてきたらしく、
1月の半ばに 「ブログ開始、200日目!」 を期して、
「gooのブログランキングに順位がついたときにブログをやめるぞー」 と宣言しました。
ぢゅんちゃんのブログには1日90~120名ほどのお客さんが訪れているそうなのですが、
これが300名ほどになったら順位がつくだろうと彼は思っていたようなのです。
それに対して私は情報修正のためのコメントを書いてあげました。


「情報修正」 (まさおさま)
                               2011-01-16 03:29:08
その情報は間違っているな。
私のブログは今毎日順位がついていますが、300名もお客さんはいらっしゃいません。
私の頃は150名くらいに見てもらって初めて9000位台の順位がついていました。
その後、どんどんブログ数が増えているので、
もうちょっとハードルが上がっているかもしれませんが、
200IPくらいアクセスがあれば完全に順位はつくでしょう。
うちのブログはだいたい今アクセス数300IP弱くらいで、
300を超えるか近づくと2000位台、
200台だと3000位台という感じです。
150IPくらいなら、ホントにもう、すぐ達成できちゃうだろうから、
あまり 「順位ついたらブログやめる」 とか公言しないほうがいいと思いますよ。


文中にある 「IP」 というのがお客さんの数のことです。
1月16日ですが、この段階で私は、
「うちのブログはだいたい今アクセス数300IP弱くらい」 ですと書いています。
これを承けてぢゅんちゃんは目標を 「上方修正」 されました。


「いくらブログが苦行になってきたとはいえ、
 明日明後日にでも達成できそうな目標設定値ではおもしろくありません。
 師匠の教えを素直に受けて、目標値を上方修正したいと思います。
 ズバリ!師匠の最高IP記録を抜いたときに、ブログの筆を折ります

で、こんな質問をいただいたわけです。

「つーわけで、目標は師匠越え
 ところで、師匠の最高記録ってどのくらいなのでしょう?」


ここまではっきり質問されたら答えないわけいかないですが、
最高IP記録って私の場合なにかをパッと見てわかるようにはなっていないわけです。
「アクセスランキング」 の結果を私は見ることができますが、
(ぢゅんちゃんのブログではそれを読者も見られるようになっていますね。
 どうやったらそうできるのか、私の頃にはそういう機能はありませんでした。)
そこでわかるのはその週の7日間の日別ランキング結果と、
過去3週間の週別ランキング結果のみです。
まあ私は物好きですので毎週、ランキング結果をファイルとして保存していますので、
そのファイルをいちいち調べていけば歴代最高記録もわからないわけじゃないでしょう。
特にアクセスの多かった日はいつ頃だったかというのもだいたい覚えてはいますし。
というわけでめんどっちいけど弟子のために調べてあげたわけです。
その結果をコメントとして書き込んであげました。


「面倒な質問」 (まさおさま)
                               2011-01-18 15:51:12
面倒な質問をなさいますね。
メンドっちいけどあなたのために調べてあげましたよ。
最高は、2010年3月5日に記録した390IP (2404位) ですが、
これは私の弟が 「エコな金冷法」 という記事を、
彼が所属しているMLで紹介してくれたときに記録した数字です。
彼のMLは1000人規模の参加者がいるらしく、
その方々がどっと見に来てくださったためなので、瞬間最大風速というか、
私のブログの最高記録というのはちょっとはばかられます。
自力での最高記録は2010年12月14日の381IP (1997位) じゃないかな。
このときは 「性本能のこわれた動物」 という記事でした。
南郷中学校での講演会の直後だったし、「性愛の倫理学」 の記事は支持者が多いようです。
ぢゅんちゃんがいつまでもブログを続けられるよう頑張りたいと思います。


ところがですねえ、このコメントを書き込んでから10日も経たないうちに、
歴代最高アクセス記録を更新してしまったのです。
2011年1月27日のことですが、397IP (1695位) を記録いたしましたっ
「ワイン皿?」 の記事を書いた日です。
そんなに注目を集めるような記事でもタイトルでもないと思うのですが…。
更新したのが21時過ぎでしたので、その記事目当てに来ていただいたのではなく、
前日の記事 「人を紹介する責任」 を見に来ていただいたのかもしれません。
あるいは、皆さんがそうそう毎日毎日私のブログをチェックしているわけでもないでしょうから、
昨日書いたT先生は1週間分くらいをまとめて見に来るとおっしゃっていました。)
特に記事に惹かれたというのではなく、たまたまみんながヒマだっただけかもしれません。

ただまあ、このところ後期の授業が終わっていっていますので、
最終回の授業で別れの言葉代わりに、
「この授業はこれで終わりだけれど、今後も関連する話を書くかもしれないので、
 たまには私のブログも見に来たりして、これからも考え続けていってください。」
と挨拶していたので、それで学生さんたちが見に来てくださっているのかもしれません。
実際、先週は27日の前も、
24日 355IP、25日 326IP、26日 362IPと、
ほんの1週間前と比べてもアクセス数が格段に増えていたのです。
いずれにせよ27日の397IPというのは、
弟のメーリングリストによるバックアップなどもなく、
自力で達成した正真正銘の歴代最高記録であると言えるでしょう。

もちろん、教員が自分の授業を取っている学生さんたちに対して、
自分のブログ見るよう薦めるというのは、
権力関係を利用した卑怯なやり口と言えないこともないでしょう。
弟子のぢゅんちゃんは自分の職場では一言も宣伝していないそうです。
まあ、それはそれで正しいやり方かもしれませんが、
私の場合は、そもそも学生さんたちのためにこのブログを開設したのだし、
そうでなければブログなんて始めなかったと思いますので、
卑怯と言われようがどうしようが気にしないことにいたしましょう。
というわけでぢゅんちゃん、私のほうは記録更新してしまいましたよ。
400IPを超えるのも時間の問題でしょう。
だから、やめるなんて言わないでいつまでもブログ書き続けてください。
それがいやなら、教え子に宣伝するという最終的解決法に頼るしかないんじゃないでしょうか。

気づきませんでした

2011-01-29 17:15:05 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
このところミョーにブログの話題がつながっているような気がします。
特に連作を意識しているわけではないのですが、
シンクロニシティなのでしょうか、
毎日関連する出来事が起こってしまうわけです。

一昨日の木曜日は、3連続の授業のうちの1つのテストを終え、
「基礎演習」 という自分のクラスの必修授業の最終回も終え、
やっとすべて終わって清々しいながらも、疲れ切って研究室でちょっと居眠りしてしまったり、
早く帰ればいいのに長ったらしいブログを書いたりして、
けっきょく21時半の電車に乗って帰ることになりました。
金谷川の駅で行政政策学類のT先生に出会いました。
T先生はありがたいことにこのブログの読者ですので、
盛岡の卒業生の話や、ワインバーの話で盛り上がりながら電車に揺られておりました。
で、今日はもう1軒別のワインバーの話をブログに書いたばかりなんだよと、
「マリアージュ」 のことを教えてあげたところ、
ちょうどこれからどこかに寄って帰ろうと思っていたとのことで、
今から行ってみようかという話になりました。
私は翌日 (金曜日のことです) も教職員組合の飲み会がありますから、
飲むというよりは夕食を食べるだけと思って同行することにいたしました。
(以前にそんな感じで大失敗をしたことがあったような気がする…)

お店に着いてカウンター席に座ろうとしたところ、
うしろから 「あ、小野原さんだ」 と呼びかけられました。
なんとボックス席で英文学のK先生が院生と2人で飲んでいるじゃありませんか。
K先生とはよくワイン屋で出くわすのですが、昨日のブログで書いた、
「Your’s を失ったワイン好きたちがここに集っているようです」 の言葉どおり、
彼もちゃんとここに来ていたようです。
T先生はK先生と委員会で顔見知りだし、
私はその院生と必修の授業で顔見知りだしということで、
同席して4人で飲むことになりました。
これはもう完全に危ないパターンです。
夕食をサクッと食べてなんていう感じではありません。
私はひたすらピザやらバーニャカウダやらを注文して腹ごしらえをし、
みんなは端から順番にグラスワインを飲んでいきます。
いつものメンバーとは異なる新しい組み合わせで話も盛り上がってしまい、
けっきょくまた深夜遅くまで飲んでしまいました。

お会計を頼むと、最初からいた2人の分と、後から合流した私たちの分が、
別々に計算されて請求されました。
料理をバクバク食べていたのは私ひとりだったので、
割り勘にするのは申しわけないと思っていましたから、マスターの配慮に感謝しつつ、
T先生より少しだけ多く払って夕食の分は勘弁してもらいました。
ちなみにK先生たち2人はどれくらい早くから飲んでいたのか知りませんが、
お会計はいくらだったんだろうなあと思って聞いてみたら、
ぶったまげるような高い値段でした。
私たちも相当飲んで食ったつもりでしたが、その倍以上の金額です。
ケタがちがいます。
この店でなんでそんなに高額になるんだと聞いてみたところ、
私たちが来る前にものすごく高いワインを飲んでいたのだそうです。
ボトルで頼んだのかと思ったら、そうじゃないよコレだよ、とメニューを見せてくれました。

そのメニューはグラスワインを頼むときに私も何度も見たはずのメニューです。
そのグラスワインが載っているページの一番下に、
「特選ワイン」 と書いてあって5つくらいワインの名前が載っています。
シャトー・ムートンなどの誰でも知っているような超有名な高級ワインばかりです。
ふつう 「マリアージュ」 ではグラスワインを1/6ボトルずつ注いでくれるのですが、
こちらの高級ワインは50mlずつ売っているのだそうです。
その量にもかかわらず1杯2000円から4000円くらいの値段がついています。
私たちが着く前に彼らはこれらをガブガブと注文しまくっていたそうなのです。

それにしても何がビックリしたって、K先生が最後にメニューを指差してくれるまで、
私はそこに 「特選ワイン」 が書いてあったことをまったく知らなかったということです。
あんなに何度もメニューを見たはずなのに…。
どれを飲もうか一生懸命考えて選んだはずなのに…。
なんで同じページの一番下までちゃんと見なかったのでしょうか?
たぶん、私たちが来たとき最初にマスターがメニューを説明してくれて、
(このあいだまでこのメニューは存在せず、つい最近できたばかりなのです)
「こちらがスパークリングワインです、これらが白で、次はロゼ、赤ワインはこの3種類ですが、
 3番目のは切らしてしまったので、チリのカベルネ・ソーヴィニヨンを680円でお出ししています。」
と、「特選ワイン」 のすぐ上のところまでは解説してくれたのですが、
一番下の欄に関してはなんにも言及しなかったのです。
それで心理的に誘導されてしまって、
ページの上のほう4分の3くらいしか目に入らなくなってしまったのではないでしょうか。
暗示にかかりやすいというか、だまされやすいというか、
哲学者として倫理学者としてもうちょっと理性的、自主的に文書を読むことはできなかったのでしょうか?
なんだかお恥ずかしいかぎりです。
というか、自分にビックリしてしまいました。
そして、とっても残念なことをしました。
まあお財布的には、気づかずに幸せだったのかもしれませんが…。
でも次回はぜひ 「特選ワイン」 に挑戦してみたいと思います

ワイン皿?

2011-01-27 21:05:28 | 人間文化論
昨年の8月に 「Wine Pub Your’s」 がなくなったあと、
近々マスターの後輩が新しいワインバーを開店するはずだと聞いていたんですが、
10月だか11月にできたのを私は知らずにおりました。
年も押しつまった頃にやっと情報を得て、1人で行ってみたのです。
その名も 「ワイン&チーズ マリアージュ」 です。
SHIDAXの裏手にあるビルの地下1階にあります。
とてもいい店でした。
Your’s ほどではありませんが、各種のワインがグラスで飲めます。
Your’s から譲り受けた額なども飾ってあって、
すでに Your’s を失ったワイン好きたちがここに集っているようです。

その初めて訪れた日の1週間後くらい、ホントにもう年末という時期に、
マリアージュのマスターからメールが届きました。

「先日は御来店誠にありがとうございます。
 ワイン皿の件で御連絡致しました。問い合わせたところ、一枚¥2,300税別だそうです。
 1月上旬には入荷出来ますが、いかがいたしましょうか? 御連絡お待ちしております。」

というメールを頂いたんですが、なんのことか意味がわかりません。
「ワイン皿」 って何でしょう?
たしかになにかお店で使っていた食器が気に入って、
どうやったら手に入るの?みたいな話をしていたような気がします。
ただ、自分がどんな物を欲しがったのかまったく思い出せないのです。
その日は同伴で早い時間から生ビールや日本酒をガンガン飲んでおり、
さらにスナックにも繰り出して (同伴だから当たり前ですね)、
焼酎 (S先生のボトル) の水割りもいい加減グイグイ飲み続けていたのです。
そんな状態で行ったのですから、マスターとどんな話をしたのかなんて覚えているわけありません。
なにか食器を欲しがったということを思い出せただけでも十分リッパと言えるでしょう。
それにしても自分は何を欲しがったのでしょうか?
ワイン皿?
飲みかけのワインボトルを置いておく皿?
別にそんなもの欲しくないし…。
ワインの絵とか、あるいは葡萄の絵が描かれたお皿でしょうか?
ちょっと大きめのお皿が欲しいなとは思っていたので、そういうこと?
とまあ、自分で欲しいと言ったのでしょうけれども、
どんな物を欲しがったのかがまったく見当つかず、どう返信しようか困っていたのです。
で、年が明けて元日に、何食わぬ調子で次のようなメールを送ってみました。

「お皿の件、ご連絡ありがとうございました。
 お恥ずかしいことに、お皿のサイズがどれくらいだったか確かな記憶がなく、
 もう一度お店にうかがって実物を見てみてから発注したいと思いますが、それでよろしいでしょうか?
 新年はいつから営業されますか?
 今年もよろしくお願いいたします

これなら、自分が言い出したことをすっかり忘れているとは思われないでしょう。
収納の関係もあってお皿のサイズは大事ですから、
もう一度見てみたいんだよという雰囲気になっているかと思います。
マスターからはすぐに次のような返信を頂戴しました。

「お皿の件ですが、実物を見て頂いてからでも全然かまいません。
 今年は3日から営業しております。御来店お待ちしております。」

というわけで1月6日の木曜日、新年早々授業を3つもやって疲れ果てた帰りに、
再び 「マリアージュ」 を訪れてみたわけです。
実物を見てみて、「ワイン皿」 の謎はみごとに解けました。
これですっ







おわかりでしょうか?
ワインボトルをつぶして平らにしてあり、それをオードブル用のお皿にしているわけです。
なるほどっ
まさに 「ワイン皿」 だっ
これはたしかに欲しいです。
パーティとかにこれでちょこちょこっとチーズとか出したらカッコいいです。
ベロベロに酔っぱらった私が欲しがったというのもうなずけます。
ちょうどその日に入荷したとのことで、
1枚1枚全部色や形が違うのですが、
何十枚ものなかから私の好みのものを選ばせてもらって、2枚購入してきました。



ただし、どれもワインボトルなんですから大きさは大して違うわけがありません。
そう思うと私の返信 (「お皿のサイズがどれくらいだったか確かな記憶がなく」) は、
完全に的外れだったということが今となるとわかります。
マスターは気づいておられたのかどうかわかりませんが、とにかく正直に、
実はあのメールもらったとき何のことか覚えていなかったんですと告白しておきました。
マスターは笑ってご理解くださいましたが、
それにしても自分の記憶障害には本当にビックリしました。
こんなにインパクトのあるお皿のことを忘れてしまえるなんて…。
そして、「ワイン皿」 と言われてもまったく思い出せないなんて…。
「ワインボトルの皿」 と言われていたら思い出せたでしょうか。
いや、同じことかな?
とにかく、新年早々また新たな認知症伝説を作っちまったというお話でした。


P.S.
このお皿は福島の業者さんが作っています。
先方のご都合によりまだその名を明かすことはできないのですが、
「マリアージュ」 に行けば1枚¥2,300 (税別) で販売していますので、
気になった方は 「マリアージュ」 にご来店ください。

人を紹介する責任

2011-01-26 22:40:01 | お仕事のオキテ
去年から今年にかけて、これこれこういう人を探しているんですけど、
誰かいい人はいませんか、みたいな依頼を立て続けに3件くらい受けました。
いつものように特に深く考えたりすることもせず、
困っているときはお互い様だよなあと思って、軽い気持で引き受けたのですが、
いざ紹介するという段になって、人を紹介するということにはものすごい責任が伴うなあ、
ということを実感いたしました。
自分としては、この人なら相手の要望に答えてくれるだろうと信じて紹介するわけですが、
しかし、なんだかんだ言っても他人なわけですから、
完全にその人のことを理解しているわけではありません。
自分が知っているのは相手の一面だけかもしれませんし、
あるいは、ある場ではみごとに仕事を果たしていたかもしれないけれど、
紹介先に行ってみたら全然力を発揮できなかったということもありうるではありませんか。
たぶん依頼者だってそういうことはわきまえてくれていて、
いくら紹介があったからと言っても、最終的には自分の判断で採否を決定してくれるのでしょうが、
それでも、例えば採用の段階でこの人はダメと判断したり、
最悪の場合、採用してしまった後でこいつは使えなかったと判明してしまったりした場合、
その人を紹介してきた人物の、人を見る目を疑うことになるでしょう。
紹介を依頼するということは、ある程度相手のことを信頼していたからお願いしたわけですが、
人選に失敗してしまうと、その信頼関係は失われてしまうことになりかねないのです。
そう考えると人を紹介するってけっこう大変な仕事ではありませんか。

さて、昨日はワインパブ 「Arche de Noe」 に行ってきました。
こちらは女性がひとりで経営しているビオワイン専門のお店だったのですが、
女性ひとりだとヘンなお客さんが来たときに困るし、
この方はとても疲れやすい方なので、ちょっと忙しくなってくると身体がもたないとのことで、
バイトで男の子を雇いたいんだけど、福大生を雇うにはどうしたらいいんですか?
と昨年末に相談を受けていたのです。
たしか福島大学は、バイトの斡旋とかはしているのですが、
夜の飲み屋系のバイトは紹介していないと聞いたことがあったので、
調べてから教えてあげようと思っていたところ、
当時ちょうど私のクラスの学生たちと個人面談をやっていて、
どういうきっかけかある男子学生がバイトを探している最中だという話を聞いたのです。
そこで私はおお偶然だなあと思って、こんな店で求人があるんだけど行ってみる?と、
軽~い気持ちで紹介してしまったのです。
お店のほうにも連絡し、それぞれのメアドを教えてあげて、
あとはテキトーに面接やって、互いの折り合いがつけばバイトすることになるのかなあ、
なんて気楽な気持ちでいたのですが、
学生から 「バイト決まりましたあ。年明けから働きます」 と報告されて初めて、
けっこう大変なことをしてしまったんじゃないかと不安になってきました。

大学生だからワインのことなんて何にもわからないだろうし、
フランス語やイタリア語で書かれたラベルなんて区別つくはずもなく、
居酒屋のジョッキとちがってワイングラスは壊れやすいし、
ワインを飲みに来る年輩のお客さんたちとお話しもしなきゃいけないでしょうから、
はたして彼はちゃんとバイトで仕事をこなせるんだろうかと心配になってきたのです。
私だって誰かれかまわず紹介したわけではなく、
彼ならある程度の仕事はこなせるだろうなあと思って紹介したわけですが、
紹介したあとになって、いやあのワインパブは普通の居酒屋でのバイトとは違うよなあと、
みるみる後悔の念が高まってきました。
学生には、紹介者のオレの顔をつぶさないようしっかり働いてくれよ、とクギを刺し、
マスターには、学生で何にも知らないから手取り足取り全部教えてあげてくださいね、
とくれぐれもお願いし、あとは祈るような気持ちでいたわけです。
年が明けて彼のバイトも始まったはずでしたが、
ちょっと恐くてお店からは足が遠のいておりました。
とはいえ、紹介した手前もあるし、
いつまでも顔を出さないわけにもいかないよなあと思って、
とうとう昨日行ってみることにしたわけです。

その前にマスターからは、「よくやってくれています。ありがとう」
みたいなメールはもらっており、
学生からも 「先生、今度飲みに来てくださいよ」 と、
人の気も知らないで、お気楽な誘いを受けてはいました。
そこで勇気を振り絞って行ってみたところ、昨日は珍しく団体さんがお越しで、
私が見たなかでも一番の大忙しでした。
そんななか彼は、ワインやグラスを出したり、下げてきて洗ったり、
生ハムの盛り合わせを盛りつけたりなど、テキパキと働いていました。
常連さんからも 「彼はがんばっていますよ、ワインのことも勉強しているし」 と、
お褒めのことばを頂戴することができました。
マスターからも 「雇ってよかった。
特に今日なんて彼がいなかったらどうなっていたか」 と言ってもらえました。
紹介者としてはひと安心です。

この件に関してはたまたま上手くいったようですが、
人を紹介するって本当に難しいですね。
そして責任が重いです。
上記では片方の話しか書いていませんが、
実を言うと、紹介する場合は逆の心配もしなければなりません。
職場がいい職場かどうか、今回の件で言うと、
学生の彼にとっていい仕事であるか、いい上司に恵まれるかも大事になってきます。
ろくに仕事を教えてもくれないで間違えると怒鳴り散らす店長の話なんてよく耳にします。
紹介を依頼してきた人が人使いのうまい人かどうかというのも気にしなければいけないわけです。
おかげさまで、彼はいろいろな意味でよくしてもらっているようで、
マスターのご家族とのお食事にも呼ばれたりなど可愛がってもらっているようです。
それもたまたまとしか言いようがないですね。
お互いの信頼関係のうちに紹介しているわけですが、
それぞれの全部を知り尽くしているわけではありませんから、
ある程度以上は、運を天に任せるしかないわけです。
今回のようにたまたまいいカップリングに成功すると喜ばしいかぎりですが、
何でもかんでもそううまくいくとはかぎりません。
人を紹介する仕事を頼まれた際は、引き受けるかどうかよーく考えて、
慎重にならないといけないなと反省する今日この頃でした。

ウコンの力、一流営業マンの力

2011-01-25 12:32:35 | お仕事のオキテ
土曜日の盛岡での結婚式について昨日ご報告させていただきましたが、
あれだけ飲んで食べたのだから翌朝はちゃんと10時にチェックアウトできるかどうか心配でした。
ガンガン頭痛がして、吐き気もして、ベッドから起き上がれないだろうな、と。
ところが、いちおう8時半にかけておいた目覚まし時計よりも少し早めに自然と目が覚め、
普通のビジネスホテルではありえないくらい大きめのバスタブにたっぷりお湯を張り、
(新郎の手配により、泊まったのは街中にある盛岡グランドホテルANNEX)
久しぶりにお風呂に浸かって気分も爽快、
9時半までの朝食バイキングにも余裕で間に合って、
以前にここに泊まったとき以来のお気に入りであるシェフ特製カレーを平らげられるくらい、
スッキリさっぱり気分よく目覚めることができました。

12時間もかけてチャンポンして飲みまくり、
アワビやらステーキやらのフルコースから、二次会のジャンクフード、最後はシメの盛岡冷麺まで、
それはもう暴飲暴食を絵に描いたような半日を過ごしたというのに、
どうしてこんなにピンピンしているのでしょうか?
おそらくそれは 「ウコンの力」 のおかげだったのだろうと思うのです。
披露宴の受付のときに、受付台の横に 「ウコンの力」 が山積みに陳列されており、
「ご自由にお持ちください」 となっていました。
ドリンクばかりでなく顆粒の袋も置いてあって、顆粒のほうはけっこう余っていましたから、
最後のほうは、どうぞどうぞこれ持ってっちゃってくださいと、
ドリンクの他に顆粒を7袋も頂いてしまいました。
で、披露宴の前にドリンクを1本、2次会の前に顆粒を1袋のんでおきましたので、
たぶんそのウコンの力が私を守ってくれたんだろうと思うのです。
今どきの披露宴ではあらかじめ 「ウコンの力」 を配布するようになっているのでしょうか?
それともこれも盛岡一という 「盛岡グランドホテル」 のサービスの一環なのでしょうか?
たいへん助かりました。

ところで、この披露宴では私は初めて祝辞も乾杯の挨拶もせずにすんだと昨日書きました。
それはなぜかというと招待客が豪華な顔ぶれで、
新郎の大学時代の部活の顧問なんかが出る幕なんてまるでなかったからです。
席次表を見たときからみんな驚き、不思議がっていました。
新郎は卒業後、外資系の製薬会社に勤め営業としてずっと働いています。
そういう場合、普通だったら新郎側の主賓席は、
自分の会社のお偉いさんばかりになるはずじゃないですか。
ところが違うんです。
新郎側の主賓席は医大の先生たちで埋め尽くされているのです。
中には 「医大教授の令夫人」 なんていう肩書きの人までいます。
つまり、製薬会社にとってはお得意様になりますね。
そういう方々を1テーブル分お呼びしているのです。
当初は、会社からの命令でお得意先を招待しろと言われたのかななんて噂していました。

ところがそうではなかったのです。
主賓の祝辞はその医大のある准教授の方がされました。
その方は新郎のことを担当の営業であるとともに自分の友人でもある、と紹介していました。
そして、自分と新郎との関係についてもお話しされたのですが、
途中で、当日出席できず代わりに奥様に出席してもらっていた医大教授の祝辞も、
代読という形で読み上げ始めたのです。
つまり、本当の主賓はその教授だったのだけれど、
どうしても外せない用があって本人は出席できず、
そういう場合はたんに欠席すればいいだろうに、
その教授は律儀にも自分の代わりとして奥様を出席させた挙げ句、
(つまり、ちゃんとご祝儀を出すということです)
祝辞の原稿も部下に託したというわけです。
これはけっしてお義理で呼ばれた得意先のすることではなく、
むしろ医大教授の側が新郎に対して礼を尽くしているということになります。
一介の製薬会社の営業に対して普通ここまでするでしょうか?

披露宴が進行していくなかでその謎はしだいに解けていきました。
もともと彼の製薬会社はその医大とはまったく取り引きがなかったのだそうです。
営業に行ってもけんもほろろに追い返されてばかりだったそうです。
そんななかで新郎は時間をかけて先生方と人間関係を作っていきました。
たんにモノを売ろうとしたのではなく、自分という人間を売っていったのです。
営業と得意先という関係を超えて、先生方に 「友人」 と呼んでもらえる関係を構築したのです。
そうして営業的にも少しずつ食い込んでいき、
とうとうトップセールスを記録するまでになっていったのです。
会社の同僚や上司の方々の話によれば、
自分の披露宴に得意先の先生方をお招きするなんていうことは滅多にないそうです。
それができたのは、彼がただの営業マンとしてではなく、
ひとりの人間として、友人として信頼を勝ち得ていたからだったのでしょう。

そもそも彼の結婚式が盛岡で開かれたというのも不思議だったのです。
彼は仙台出身なのです。
新婦は盛岡出身ですが、そういうときはたいてい新郎側の郷里が選ばれたりするものです。
日本各地から親せき一同が集うということを考えても、
仙台のほうがはるかに便利だと言えるでしょう。
おそらく彼の親せきからはなんで仙台でやらないんだという声も上がったのではないでしょうか。
しかし、それを新婦の郷里であると同時に、
自分の勤め先であり、得意先もいる盛岡で開催することにしたというところに、
すでに彼のさまざまな気配りを感じ取ることができます。
大学時代から人づきあいのうまい人間だなあとは思っていましたが、
正直ここまでとは思っていませんでした。
社会に出て彼の資質に磨きがかかり、一流の社会人として開花したのでしょう。

そんなこんなでディープな1日を過ごした翌朝、
一流営業マンの力を思い出しつつ、ウコンの力も実感しつつ、
きっちり10時にホテルをチェックアウトすることができました。
ロビーに下りてきてみると、3時までカラオケに付き合っていたはずの新郎の姿がありました。
皆さんをお見送りするために来たんだと言うではないですか。
ホントはもっと早く来たかったんですが、さすがに起きられなくて少し前に着いたところです、
とは言っていましたが、普通、新郎がそこまでするでしょうか?
(ちなみに新婦も一緒に来ていて別の集団を送っていっているところだそうです。)
ただでさえ結婚式、披露宴で疲れているのですから、
それだけでも今頃ぐっすり眠っていても誰にも文句を言われないところです。
とりわけこの夫婦は4次会まで付き合っているんですから、
夕方まで死んでいてもおかしくないはずです。
それをちゃんと朝、ホテルまで見送りに行こうと思う、
その尋常でなさが彼を一流の営業マンたらしめているのでしょう。
おそらく医大の先生たちは市内や近郊在住だからこのホテルには泊まっていないはずです。
得意先がいるかいないかとかは関係なく、自分の知人、友人を大切にする心、
それが自然と仕事にも活かされているということではないでしょうか。

「先生は大丈夫ですか?」 と聞かれたので、
「おかげさまで 『ウコンの力』 のおかげでスッキリ目覚められたよ」 と答えました。
ついでに 「あれってグランドホテル独自のサービスなの?」 って聞いてみたら、
「いや、ぼくが持ち込んだんですよ。皆さんに心おきなく飲んでもらおうと思って。
 ああやってキレイに並べてくれたのはホテルの人たちですけど。」
とのお答えでした。
いやあ、完敗です。
ぼくたちの肝臓の心配をしてくれただけでなく、
ホテルの人たちにも感謝のことばを述べちゃうのかい、君は。
参りました
素晴らしいっ
こういう人間が福島大学の卒業生だと思うと (人間発達文化学類ではないけど)、
本当に誇らしい気持になれます。
一流営業マンのホスピタリティに感動しつつ、盛岡の街をあとにしたのでした。

盛岡のディープな1日

2011-01-24 19:28:41 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
一昨日はダンス部の卒業生の結婚式に呼ばれて、盛岡に行ってまいりました。
仙台からさらに盛岡へと北上です。
このところ福島がものすごく寒いので、
岩手はどれほどひどいことになっているんだろうかと恐れつつの旅行でしたが、
年末にどっさり降った雪が道の脇にうずたかく盛られているものの、
当日は雪もなく、とてもあたたかかったので、拍子抜けしてしまいました。

結婚式は盛岡グランドホテルでした。
盛岡では一番格式が高い結婚式場だそうです。
市街地からちょっと離れた小高い丘の上に立派な建物が建っているのですが、
そこのチャペルは 「天空のチャペル」 と呼ばれていて名物なんだそうです。



こんな感じでチャペルの正面が壁ではなく、一面ガラス張りです。
その向こう側に盛岡の街並みと山並みが広がっています。
この絶景を望みながらの結婚式でした。
牧師さんも本物だそうで、近年臨席したなかでは最もちゃんとした講話をうかがえました。
オルガンも生演奏、聖歌隊も3人くらいいるし、
最後2人が退場するときにはチャペル中に本物の羽根が大量に降らされていましたし、
盛岡一という噂はダテではないなと感心させられました。

披露宴も結婚式に負けないぐらい力が入っていました。
受付時にもらった席次表を見てみると、招待客の数がハンパじゃありませんし、
招待されている人の肩書きもハンパありません (これについてはまた別の機会に書きます)。
さて、披露宴の会場に入っていくと、
テーブルに着く前に司会の方から 「小野原先生」 と呼び止められました。
今回は卒業生の結婚式としてはたぶん初めてだと思うのですが、
来賓祝辞も乾杯の音頭も何も事前に依頼されることなく、ものすごーく気楽にやってきたというのに、
開会前に司会の人に声をかけられるなんて何ごとだろうと一瞬緊張が走ります。
しかし、よく見てみると司会者は私の知り合いでした。
一緒にキャリア・カウンセラーの資格を取った、大村陽子さんです。
彼女がフリーのプロの司会者として盛岡で活躍されているということは知っていましたが、
まさかこんなところでお会いすることになるとは思ってもいませんでした。
私が盛岡の結婚式に出席するなんていう機会はほとんどなく、
そこをたまたま大村さんが担当するなんていう偶然もまったく想定していませんでしたから、
私はただただ意表を突かれて、ことばを失ってしまいました。
彼女も前日に席次表を渡されて私の名前を発見し、ビックリしたんだそうです。
しばらくのあいだ2人で立ち話をしていたところ、
参列した卒業生たちから、なんで司会の方と知り合いなんですかとみんなに聞かれてしまいました。



新婦とは初対面だったんですが、のちに3次会の席で聞いたところによると、
新婦は7年間盛岡グランドホテル・グループに勤めていたそうなんですが、
たくさんいる司会者のなかでも大村さんはホテルの従業員に人気があるらしく、
従業員が結婚式を挙げるときはたいてい大村さんを指名するんだそうで、
彼女も迷わず大村さんを指名したのだそうです。
というわけで、読者の皆さんで盛岡で式を挙げる人がいらっしゃいましたら、
ぜひ盛岡グランドホテルで、
そして司会には大村洋子さんを御指名ください。
(大村さんは専属ではないので別の式場でも指名可能ですが、
 新婦の元職場でもありますし、天空チャペルもぜひお試しください。)

披露宴は3時スタートで料理もめちゃくちゃ美味しく、
質 (たち) の悪いダンス部の卒業生たちとベロベロになるほど飲みまくりました。
そのまま2次会へ。
ここでも引き続き飲み続け、さらには3次会へ。
新郎新婦も最後まで付き合ってくれて、もうとっくに12時を回っているというのに、
質 (たち) の悪い先輩たちはさらに新郎新婦を拉致して、カラオケに乗り込んでいきました。
さすがに前日も仙台で遅くまで盛り上がってしまった私は、
この上カラオケに行く元気はなく、みんなと別れてひとりホテルに歩き出しました。
疲れているんだからそのままスッとホテルに戻ればいいのに、
酔っ払ってると判断力を失ってしまうのですねえ。
そして、ふだんあんなに記憶に障害を抱えているというのに、
お酒のことになるとなんで記憶が甦ってきちゃうのでしょうか。
昨年のゴールデンウィークにダンス部の試合で盛岡に来たとき、
前日に寄った今はなき 「Wine Pub Your’s」 のマスターに教えてもらって、
バーテンダー仲間 (後輩かな) のお店 「The Bar 佐藤」 に行ったことを、
急に思い出してしまいました。
この店がなかなか見つけづらくて、電話番号まで教えてもらって、
直接行き方を聞いたにもかかわらず全然たどりつけなかったことも思い出しました。
ケータイの中を探してみたら、もう電話番号は見当たらず、
だからどうせ見つけられないだろうなあと思いつつ、
盛岡の中心的な繁華街である大通 (「おおどおり」 という地名) をブラブラ歩き始めてしまいました。

そうしたら奇跡的にも、auショップが1階に入っているビルの前を通りかかったとき、
あれ、ここなんとなく見覚えがあると閃いてしまったのです。
前回なぜお店を見つけられなかったかというと、
看板らしきものをちゃんと出していないからです。
大通を普通に歩いていると 「The Bar 佐藤」 の表示を見つけることはできません。
そのビルが 「アキヤマビル」 ということもやはり通りからはわかりません。
このビルに入るつもりでちょっと奥まったところにあるエレベーターのところまで行くと、
その脇にこんな、ビルのテナント案内の看板がこじんまりと貼ってあります。



これを見ても 「The Bar 佐藤」 が本当にあるのかはすぐにはわかりません。
よーく眼を凝らしてみてみると下のほうのちっちゃい銀色のプレートがそれだとやっと気づくでしょう。



とまあ、こんなに秘密主義のお店なのに、中に入ってみるとけっこう広いです。
こちらのマスターは女性で、従業員を1人くらい雇って営業しています。
最初のお通しにちっちゃいカップでコンソメスープが出てきたり、
スプーンに一口で食べられるオードブルが乗っていたりするんですが、
これはいかにも女性マスターらしい趣向です (あいかわらずジェンダー・バイアスですが何か?)。
もう限界はとっくに超えているはずですが、
甘くないロングのカクテルを1杯と、スコッチウィスキーのアードベックのロックを1杯いただきました。
前回は満員でしたが、今回は時間が遅かったせいか、客は私だけでした。
おかげでいろいろ話をすることができたのですが、
マスターは前回私が座った席や、アードベックを頼んだことまで覚えていました。

マスターとの話の中で盛岡が誇る3大麺の話になりました。
言わずと知れた、わんこそば、ジャージャー麺、盛岡冷麺の3つです。
キュウリたっぷりのジャージャー麺は論外ですが (キュウリ抜きにもしてくれるんですが…)、
わんこそばと盛岡冷麺は大好きです。
ただし、どちらも飲んだ後のシメとしてはどうだろうと思っていました。
いくら、そばとはいえ夜中に大量に食べるのはいかがなものかと思いますし、
あのもっちりした冷麺も消化が悪そうな感じがしたからです。
ところがマスターによると盛岡冷麺はラーメンなんかよりも遥かに消化がいいのだそうです。
そんな話をうかがっていたら無性に冷麺が食べたくなってしまいました。
お腹というよりも脳が冷麺を求めるのです。
そこで近くでお奨めの店はないか聞いてみました。
すると、一般ウケするような店ではないけれど、
自分も含めてお店をやっているような人たちが営業終了後に通う、
玄人に評判のお店を教えてくださいました。
こちらの冷麺はスープがむちゃくちゃ濃厚で、
スープが上手く取れないと冷麺は出さなかったりするときもあるそうです。
そんなことを聞いたら食べに行かないわけにいかないじゃないですか。
マスターはあらかじめ今日は冷麺をやってるか電話で確認してくれて、
丁寧に地図まで書いてくださった上、ビルの外まで出てきて指差して教えてくれました。

そうやって深夜の2時くらいに訪れたのが、
ホテルロイヤル盛岡の裏手にある 「炭焼厨房 HAKO」 です。
ここも丁寧に教えてもらったから来られたようなものの、
ビルの奥まったところにわかりにくく存在していますし、
普通の観光客ではゼッタイに見つけられなかったでしょう。



もちろん、基本は焼き肉屋さんです。
しかし、冷麺だけでもイヤな顔ひとつせず対応してくださいます。
さすがにもうアルコールも入らないくらいでしたので、
本当に冷麺だけ注文させていただきました。
出てきたのがコレです。



キムチは別盛りになっています。
まずはその濃厚なスープだけで味わってくださいとのことだそうです。
たしかにそれだけで十分美味しいです。
コラーゲンたっぷりでお肌にも相当よさそうな気がします。
ちょっと他では味わえないような冷麺です。
このままいっちゃってもいいくらいですが、
辛いもの好きの私としてはやはりキムチも合体させることにします。
このキムチとキムチの素、見た感じは大人しそうに見えるのですが、
食べてみるとけっこう凶悪です。
辛いものが苦手な人はほんの少しで様子を見ながら食べる必要があるでしょう。
私はけっきょく全部投入して激辛にして食べていきました。
麺もスープもこの辛みと出会うことで、抜群の味わいとなっていきます。
お腹が空いているわけでもないのに、こんな時間に盛岡冷麺を食べられるのかと、
実は注文しながら内心ヒヤヒヤしていたのですが、
その美味しさにペロリと完食してしまいました。
今度、盛岡に来たときにはぜひ焼き肉からちゃんとスタートして、シメに冷麺を食べ、
そのあと 「The Bar 佐藤」 に行くようにしようと心に決めました。

けっきょく盛岡に来て、12時間近く飲み続け食べ続けていたことになるでしょうか。
思いがけぬいろいろな出会いもあり、忘れえぬ旅となりました。
新郎新婦の幸せとダンス部のみんなの益々の活躍を祈りつつ、
パンパンに膨らんだ腹をさすりながら、深い眠りについたのでした。

第1回書評カフェ 『ともだち刑』

2011-01-23 23:56:21 | 教育のエチカ
一昨日は仙台で開催された 「書評カフェ」 に行ってきました。
昨年の11月に 「てつがくカフェ@せんだい」 に参加しましたが、
今回はみんなで同じ本を読んできてそれについて語り合おうという初の試みです。
同行したぢゅんちゃんすずめさんがすでに報告してくださっていますが、
重複をおそれずにご報告することにいたしましょう。
課題図書は雨宮処凛 『ともだち刑』 (講談社文庫) です。
雨宮さんについてはいろいろと噂は聞いていましたが、
実際に本を読んだのは初めてです。
とても面白い本でした。
中学生の女の子のあいだでのいじめを扱った小説です。
私にはまったく理解できない世界なのですが、
中学生くらいの女の子たちってきっとこういう世界を生きているのだろうなあ、
ということがものすごいリアリティをもって伝わってくる本でした。
教師になろうと思っている人は (特に男子は) ぜひ読んでおくべき本だと思います。

これをあらかじめ読んできた上でみんなで語り合おうというのが 「書評カフェ」 です。
今回は 「カフェ・ド・ギャルソン」 というとても雰囲気のいい喫茶店での開催でしたので、
定員が設けられていて事前申し込み制でした。
参加者は主催者も含めて全部で9名。
前回の40名はあまりにも多すぎましたから、
今回は全員の顔と名前も覚えられてちょうどいいくらいの感じです。
いやあ、とても楽しかったし、ものすごく勉強になりました。
自分ではまったく思いつかなかったような読解、解釈が後から後から提示され、
目からウロコが落ちるとはまさにこのことでした。
私の当初の感想は、上にも書いたように、
これは女の子たちの内面世界の話であって、
男子はこんな複雑な世界を生きていないよなあと思っていましたが、
それはジェンダー・バイアスに汚染されたものの見方であって、
男子のあいだでもこういうことはあるという実体験もお聞きすることができました。
男とか女という問題ではなく、
たんに私が単純な (薄っぺらい) 内面世界を生きていただけなのねとわかりました。
(でもやっぱり男子の多くはこんなに繊細じゃないだろうと思ってしまうけど…)
また、「ともだち刑」 というタイトル自体が刺激的ですが、
ではこの小説のなかで何が 「刑」 なのかということに関しても、
さまざまな解釈が可能であるということもよくわかりました。

初めての書評カフェということで、
主催者の方は議論をどう進めていいか悩んでいて、
読んできた作品の話だけにとどめるのか、
もうちょっと抽象度を上げて一般的な話にもっていくのか苦慮されていました。
しかし、今回はいい感じで作品に寄り添いつつ、それと同時に、
「そもそも、ともだちってなんだろう?」 という一般論も少し語り合うことができて、
ひじょうに実りの多い話し合いになったのではないでしょうか。
私も含めて何人かから、この小説に出てくる 「私」 と 「あなた」 は、
はたしてともだちと呼べるのだろうかという疑問が出されました。
ある方が 「非対称」 ということばで表現してくれましたが、まさにその通りで、
「ともだち」 ということばから連想される対等性がこの2人のあいだにはまったくありません。
「私」 が一方的に 「あなた」 に憧れているだけで、
片思いの相手のことを 「恋人」 とは言わないのと同じように、
この2人は 「ともだち」 どうしではないように思えてしかたないのです。
この問いをきっかけとして 「そもそも、ともだちってなんだろう?」 という話題に、
自然と移行していくことになりました。

例えば、「いっしょにいて気を使いあってるけれど疲れないのがともだち」
と定義してくれた人もいました。
昔ともだちだったけれど、今ではともだちではなくなってしまったという例から、
(女性どうしの場合、だれかに彼氏ができるとともだちではなくなることがよくあるらしい)
ともだちであったりなくなったりできるものなのか、という問いも出され、
その問いにインスパイアーされて私は、
「ともだち」 という実体があるわけではなく、
(私にとってAさんやBさんが 「ともだちである」 というわけではなく)
「ともだち行為」 があるだけではないか、
(「Aさんと飲みに行く」 とか 「Bさんに相談に乗ってもらう」 とか)
したがって、ともだち行為を頻繁に行っているあいだはともだちだけれど、
それが行われなくなればともだちではなくなるのではないかとも考えたりしました。
この意見はあまり賛同を得られず、
年賀状のやりとりしかしていなくともともだちはともだちだという意見もあれば、
こちらはともだちと思っていなくとも、
相手はともだちと思っているということもあるのではないかなど、
「ともだちとは何か」 の問いに答えが出たわけではありませんが、
それぞれ考えを深めていくことができました。

美味しいコーヒーを飲みながらの2時間はあっという間に過ぎ、
第1回目の書評カフェは大成功のうちに終わりました。
第2回目を4月1日にやろうということも決まり、
今後取り上げたい本もいろいろと候補が出されました。
書評カフェとは別に、普通の哲学カフェも2月6日に開催されます。
今度は 「大人になるってどういうこと?」 だそうです。
これもたいへん興味深いテーマです。
特に教育を志す者にとっては一度は考えておかなければならない問いでしょう。
みんなもぜひ参加してみてください。
そして、いよいよ福島でも哲学カフェを開催しようという話になりつつあります。
ぢゅんちゃんと相談して、着々と準備を進めているところです。
乞うご期待!

スマートフォン・アプリ 「まさおが行く」

2011-01-22 06:47:55 | 人間文化論
後期の木曜日は授業が3つもあるので、一日中バタバタと慌ただしく過ごし、
そのために研究室が荒れていってしまうのですが、
半期間がんばってきた甲斐があって、一昨日ご報告した 「科学技術と環境の倫理学」 ばかりでなく、
「文化創造論」 も一昨日で講義終了しました
(この授業がどんな科目だかは以前にご説明いたしました
例年のように、最後は音・美・体を融合した新しい文化を創造してもらうという、
とてつもなく難しい課題を与えたのですが、
みんなそれなりに頭を悩ませて、今年もいろいろな文化を創造してくれました。

今年は10チームあるなかでわりと、
音楽に合わせて身体を動かしながら、あるいは、身体を使ってアートを完成させていく競技、
みたいなものを考えてくれたチームが多かったのですが、
その中で、過去5年間でまったく初めてのタイプのものもありました。
スマートフォンの新しいアプリを作るという提案です。
これは音楽は抜きで、スポーツと美術の融合なんですが (それも認めています)、
その名も 「まさおが行く」 だそうです。
提案理由は以下の通り。

「現代社会において、スマートフォンの普及率は著しく上昇している。
 それに伴い、私たちは新しい文化としてスポーツと美術が融合した
 運動ができてなおかつ美術作品について知識関心が高まる
 スマートフォンのアプリを作ることを企画する。」

内容はこうです。

「アプリのシステムは万歩計。歩数や距離によって有名な美術作品が
 完成していくというものである。本人が歩いていることに連動して、
 スマートフォン上のキャラクター (まさおさま) が歩く。
 その歩いた足跡によって作品が出来上がっていき、
 最終的に美術作品についての解説が表示される。」

アプリの例としてモナリザ編が例示されていました。
まずは、アプリを起動するとこんな感じ。



そして、歩き始めると画面右下で 「まさおさま」 がテクテク歩きます。
それに合わせて足跡が表示されていき、モナリザの輪郭を少しずつ浮かび上がらせていきます。
たぶん足跡がついたところだけ、モナリザの絵が透けて見えてくるのでしょう。



そして、最終的にモナリザの絵が完成します。



すると、
「  モナ・リザ
 作者:レオナルド・ダ・ヴィンチ
 所蔵:ルーヴル美術館(パリ)…」
みたいに、作品情報が表示されるのだそうです。

私なんかにとってはケータイが万歩計の代わりをする
というところからしてもうすでについていけないのですが、
彼らはそんなところはあっさりと乗り越えて、
現代社会にふさわしい新しい文化の創造に取り組んでくれました。
スマートフォンはそれくらい若者たちの間で当たり前の文化として普及しているのでしょう。

この提案はスポーツと美術の2つを融合した案でしたが、
例えば、モナリザ編を選択すると、歩いている最中にBGMとして、
ナット・キング・コールの 「モナ・リザ」 が流れるなんていうふうになっていたら (古すぎ?) 、
音楽・美術・スポーツ3つの融合にもできたかもしれません。
どなたかこういうことに詳しい人、
ぜひこれを商品化していただけないでしょうか。
成功した暁には、発案したチームのみんなと、
この授業を提供した私に相応のアイディア料を頂戴できればと思います。
この他にも楽しい案がいろいろ出たので追い追いご紹介していくことにいたします。

エコとピースのオルタナティブ

2011-01-20 19:55:04 | グローバル・エシックス
本日で 「科学技術と環境の倫理学」 の講義が終了しました。
今年はなぜか時間のやりくりがうまくいかず、ミョーに時間が余ってしまう日と、
時間が足りなくてアワアワしてしまう日とが交互にやってきて、
なんだか例年とは勝手がちがってしまいました。
いつもどおりやっていたつもりなのに、なんでこんなことになってしまったかわかりません。
で、最終回の今日はアワアワのほうでした。
先週終わるはずの話が大幅に今日に食い込んでしまったので、
しかたないと言えばしかたないのですが、いくつか話を端折ったにもかかわらず、
最後のワークシートとFDアンケートの記入時間が十分取れず、
次の休み時間が終わっても書き終わらない人がいたりして、
本当に申しわけありませんでした。

そして、アワアワのなかで、今日ぜひ紹介しようと思っていた本を持って行くのを忘れ、
タイトルの長い本なので、なんとなくの題名すら言ってあげることもできず、
それに関しても申しわけありませんでした。
ご紹介したかったのはコレ↓です。

田中優 『戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方』 合同出版

です。
副題が 「エコとピースのオルタナティブ」 です。
こんなに長いとけっきょく 「戦争」 と 「環境」 と 「オルタナティブ」 という、
3つの単語ぐらいしか思い出せませんでしたね。
タイトルを覚えられないからと思って本を持参するつもりだったのですが、
研究室の机の上にちゃんと出しておいたのに、持って行くのを忘れてしまうんですから、
もうホントにボケ老人丸出しという感じです。
この本、ちょっと前まで大学生協に、中里見先生の授業の教科書として並んでいたので、
見たことがある人もいるかもしれません。
(ただし、今日見に行ったら、本コーナーの配列が変わっていて、この本は見当たりませんでした。)
もともとこの本のことは、ブログの弟子のぢゅんちゃんに教えてもらいました。
弟子のブログの中では、直接この本のことではありませんが、
田中優氏に関してここここで紹介されています。

私は先に 「ハインツのジレンマ」 について書いたときに、
近々 「オルターナティブ倫理学」 のことをご紹介しますと予告して、
まだその務めを果たしておりませんが、
この本はまさに私が 「オルターナティブ倫理学」 と呼ぶものの一例にほかなりません。
「環境破壊か禁欲か」 みたいに究極の二者択一を迫るのではなく、
もっと別の選択肢はないか、創造的・発見的に考えていこうとするところが、
新しい倫理学のあり方として気に入っているのです。
しかも、たんに環境問題を扱うだけではなく、
それが戦争の問題と一体化しているんだという分析は重要です。
そして、エコとピースの問題を同一の問題として捉えた上で、
2つのアポリア (解きがたい難問) を同時に解決できるような、
オルターナティブ (別の選択肢) を実践していこうじゃないかという提言が、
絶望に囚われている私たちにとってはとても小気味いいではありませんか。
田中優氏には、この他にも似たような本がいろいろとありますので、
それらと一緒にぜひ読んでみてください。
ぢゅんちゃんも高校でこの本を使った授業実践をしていましたし、
学校現場でもいろいろな形で有効に使えるのではないかと思います。

フゥ、なんとか今日中に本の紹介をすることができたぞ。
よかった、よかった。
それでは皆さん、半期の間聴講ありがとうございました。
来週の試験がんばってください!

正戦に関するFAQ

2011-01-19 18:29:34 | 哲学・倫理学ファック
「社会と人間 ―戦争への学際的アプローチ―」 の2回目の講義では正戦論を紹介しました。
戦争を全否定してしまうのではなく、ある条件を満たしている戦争は 「正しい戦争」 として
容認できるのではないかという考え方です。
倫理学のなかでは戦争全否定論 (絶対的平和主義) よりも主流派の立場です。
正戦論に関して次のような質問をいただきました。


「Q.開戦ルールについてですが、正義に基づく開戦理由の例に、自衛と、奪われた物を取り返す場合とが挙げられていましたが、現在、日本は尖閣諸島のことや、北方領土のことについて日中、日露間で関係が悪いように思えますが、これは開戦ルールに当てはまるものなのか? 奪われた物を取り返す場合に当てはまるものなのでしょうか? 仮にそうなら日本はなぜ攻めることをしないのでしょうか? 北朝鮮の拉致についても決定的な証拠があれば戦争をするのでしょうか?」


こういう質問をいただいてしまうと自分の説明の仕方が悪かったのだなあと落ち込んでしまいます。
あの講義では 「正戦論の倫理学的系譜」 ということで、
歴史の流れのなかで登場した正戦論をいくつかご紹介しました。
最初に紹介したのが、キリスト教的正戦論です。
これは中世から近代にかけて流行っていた正戦論ですが、
未だにこの正戦論が通用しているというわけではありません。
ご質問のなかで取り上げているのはまさにこのキリスト教的正戦論のなかの開戦ルールの話です。
たしかに、キリスト教的正戦論に照らして言うならば、
領土を奪われたり、国民を拉致された場合に、それを奪い返す戦争は正戦ということになります。
しかしながら、現代の正戦論はキリスト教的正戦論の教えをすべて受け継いでいるわけではありません。
特に、奪われた物の奪還というのは、今では正義に基づく開戦理由とは認められなくなっています。
これを認めてしまうと、時代をどこまで遡るかによって、
盗られた物を取り返すのだからということで、どんな戦争でも正戦になってしまいかねないからです。
北朝鮮による拉致の例が挙げられていましたが、
その奪還のための戦争が正しい戦争ということになってしまったら、
逆に北朝鮮の側 (韓国も同様です) は、
強制的に日本に連行されてしまった国民とその子孫 (すなわち在日コリアンの人々) を奪還するために、
日本に攻め込んでもかまわないということになってしまいます。
この手の問題を開戦理由にしていいということになると、
それこそ現在の世界の秩序が崩壊してしまいますので、
現代の正戦論はこれを含めていません。
国連憲章の第7条にあるように、現在において容認される開戦理由は、
自衛の場合と、平和への脅威がある場合に限定されています。

そして、もうひとつ。
特に日本の場合は、昨日も書いたように日本国憲法第9条がありますから、
そもそも正戦論という立場を取っていません。
国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄しているのですから、
領土問題があったとしても、それを理由にこちらから戦争を仕掛けるということは絶対にありえません。
これは日本人の常識として知っておくべきことだと思います。
では、次の質問に行きましょう。


「Q.世界史の中で 『正戦』 はあったのですか? 民間人を巻き込んでしまうのなら、どんな理由・理論をつけても 『正戦』 にはならないのでは?」


正戦論には開戦ルールと交戦ルールがありました。
交戦ルールというのは戦い方の条件です。
戦争だからといって何でもありではなく、ある種の決まりがあって、
その決まりを守って戦わないと正しい戦争とは言えないというのです。
「非戦闘員を攻撃してはならない」 というのはキリスト教的正戦論のなかの交戦ルールです。
歴史上それをきちんと守って戦われた正戦は本当にあったのか?
この問いは倫理学者の私ではなく、歴史学者の先生に答えてもらったほうがいいと思いますが、
正確な歴史的根拠もないままに私の想像でお答えさせてもらうならば、
そういう正戦はちゃんとあったのではないだろうかと思います。
「武器の進化」 についてお話ししたときに少し論じたと思いますが、
私たちは戦争というと、飛行機によって都市が爆撃されるところをイメージしがちですけれども、
それって20世紀になって飛行機が発明されてから以降の戦争の姿であって、
それ以前は軍隊どうしが戦場に行って戦っていただけなのです。
もちろん非戦闘員を巻き込んでしまう戦争もあったかもしれませんが、
国境近くの人里離れたところが戦場となるならば、
非戦闘員民間人を巻き込まずに戦争するということはありえただろうと思うのです。

しかも、キリスト教的正戦論の交戦ルールのなかには 「ダブル・イフェクト」 の決まりもありますから、
意図的に非戦闘員を狙って攻撃したのではなく、相手の軍隊に対して攻撃をしたのだけれど、
たまたま近くに民間人がいて巻き込まれて非戦闘員が犠牲になったという場合には、
「非戦闘員を攻撃してはならない」 というルールが破られたことにはならず、
したがってそれは正戦ということになるのです。
そういう許容も含めて考えると、昔は正戦と呼べる戦争はあったのではないかと思います。

しかし残念なことに、「非戦闘員を攻撃してはならない」 という交戦ルールは、
現代の正戦論には受け継がれていません。
先にも触れたように、飛行機やミサイルの開発によって、
戦争のあり方がガラッと変わってしまったからです。
1937年、スペイン内戦のときにゲルニカという都市が空襲によって破壊し尽くされ、
民間人の犠牲者も出ましたし、ピカソがその様子を描いた絵 『ゲルニカ』 も有名になって、
この空襲に対しては世界中から非難が向けられましたが、
その後は、日中戦争で日本軍が重慶爆撃を行ったり、
第二次世界大戦になるとアメリカによる東京大空襲や、
さらには広島・長崎への原爆投下など、
非戦闘員が暮らしている都市への攻撃が日常茶飯事になってしまいます。
したがって、現代の正戦論は 「非戦闘員を攻撃してはならない」 というルールを採用していません。
もはや、そんな戦争はありえないからです。
だから質問者の2番目の質問にお答えするなら、
現代においてはあのルールはもうないので、非戦闘員を犠牲にしてしまったからといって、
正しい戦争ではないということにはならないのです。

でも、これってなにかヘンですよね。
私に言わせると、
「非戦闘員を攻撃してはならない」 という条件が取っ払われてしまうのならば、
もはや正戦論には何の魅力もないという気がします。
これほどまでに武器が進化してしまった現代においては、
正しい戦争はどういうものかを考えるよりも、
日本国憲法第9条のような絶対的平和主義の立場に立って、
いかにして戦争をしないようにするか、どうやってなくしていくかを考えたほうが、
生産的な気がするのでした。

戦争の定義に関するFAQ・その2

2011-01-18 20:35:02 | 哲学・倫理学ファック
「Q.正直、武力を使うよりもインターネットなどのコンピュータの方が現代では武器になる気がするのですが、コンピュータを使った戦争は戦争になりますか?」

「コンピュータの方が武器になる」 というのをどういう意味で言っているのかがよくわかりません。
現代の武器はたいていコンピュータ制御になっていますので、
コンピュータ抜きの戦争というのはもう考えられないでしょう。
でも、質問者は 「武力よりもインターネットなどのコンピュータの方が」 という言い方をしているので、
コンピュータ内蔵の武器の話をしているのではないでしょうね。
ただのコンピュータが武器になるというのはどういうことでしょうか?
例えば、トム・クランシーの 『日米開戦』(文春文庫) では、
ウォール街のメインコンピュータにウィルスを送り込んで、
アメリカの経済システムを崩壊させるという物語を描いていました。
たしかにこういう攻撃は、普通の武力による攻撃よりもはるかに相手国に対して破壊力がありますし、
やられたほうからするならば、たしかに戦争行為と思えるかもしれませんが、
これを戦争と呼ぶのはどうでしょうか?
戦争とは別の言葉をあてておいたほうがいいように思います。
例えば 「サイバー・テロ」 とか 「サイバー・アタック」 ぐらいかな。
『ダイ・ハード4.0』 もサイバー・テロを描いていましたね。


「Q.自衛隊の自衛による武力行使は戦争ですか?」

これは難しい問題です。
私の個人的な考えを述べるならば、自衛隊は軍隊であり、
自衛隊が自衛のために武力行使をすればそれは戦争 (自衛戦争) であると思います。
というか、普通に考えてそれ以外の答えはありえないと思いますが、
日本の法律論議のなかでは、これまでその普通の答えがなかなか市民権をもてずにきました。
憲法第9条との絡みで、9条が紛争解決の手段としての戦争と武力行使を禁じ、
陸海空軍その他の戦力の保有を禁じているなかで、
自衛隊は合憲か違憲かという問題がこれまで幾度となく提起されてきましたが、
これに対してはっきり違憲だという結論に落ち着いたことはありません。
なので、今のところ日本の公式な答えは、
自衛隊による自衛のための武力行使は戦争ではない、ということになっているのでしょう。
しかしながら、そう主張する人たちの多くは改憲論者で、
憲法第9条を改正し、自衛隊を自衛軍に改めるべきだとも主張してしまうわけですから、
それは裏を返せばやはり、自衛隊は軍隊であり、自衛隊の武力行使は戦争である、
と本音のところでは認めているということになるのではないでしょうか。

戦争の定義に関するFAQ

2011-01-17 17:25:22 | 哲学・倫理学ファック
福島大学には 「現代教養コース」 という夜間のコースがあるのですが、
そこで毎年、 「社会と人間」 という講義を何人かの先生方といっしょに開講しています。
なんでこんなに漠然とした科目名かというと、夜間開講の負担を軽減するため、
4~5名くらいの教員で担当するのですが、構成メンバーが入れ替わる可能性もあるので、
誰でも担当できるようにわざとボカしたタイトルにしてあるわけです。
しかし、この授業の発足時に科目代表者をやらされた私は、
このままのタイトルでオムニバス形式の授業なんかやってしまったら、
まったくまとまりがつかなくなって、しっちゃかめっちゃかなことになるだろうと判断し、
もうちょっと絞ったテーマを設定しましょうと担当者の皆さんに提案しました。
発足時のメンバーは、倫理学者である私のほかに、
経済学者、日本史学者、社会科教育学者、イギリス文学者の計5名です。
救いようもなく寄せ集めのメンバーです。
こんな5人でどんなまとまりのある授業ができるというのでしょうか?
しかし、私たちは頑張りました。
いろいろ話し合った末、「そうだ、戦争をテーマにしよう!」 ということになり、
副題を 「戦争への学際的アプローチ」 としました。
第1回目は全員が出張って自己紹介など交えながらオリエンテーションをしていき、
その後は1人が2~4回の講義をしていきます。
最初の頃はお互いの講義に出席しあって、ちょっとした検討会なんかもしたものでした。
そして、最終回にはまた全員が顔を合わせて、ミニ・シンポジウムみたいなことをします。
うちの大学のオムニバス形式の授業はどれも評判が悪い中で、
この授業はそこそこいい評価を得てきているのではないかと思っております。
その後、社会科教育学者が抜け、その代わりに西洋史学者が新加入し、
さらに日本史学者が抜けて現在に至っています。

さて、この授業の中で私はだいたい2~3回講義をしていますが、
今年はいろいろと日程的に都合がつかなかったために、
2回だけで勘弁していただきました。
ほぼ次のような構成で、2回だけのときは3が省略になります。

1.戦争とは何か?
2.正戦論の倫理学的系譜
3.現代においていかに国を護るか?

たいていこの授業では私がトップバッターで、
まずは戦争の定義から考えておこうという作戦です。
それも、こちらから戦争の定義を教えてしまうのではなく、
最初みんなにグループに分かれてもらって、
それぞれ戦争を定義してみてそれを発表してもらうというところから出発します。
毎年、4人組のグループが10チームほどできるでしょうか。
各班の意見はおもしろいほどバラバラで、
それを見てもらうことによって、自分たちが戦争について語り合いながら、
それぞれが考えている戦争のイメージがどれほどかけ離れているか、
というのを身をもって実感してもらうことになります。
授業後のワークシートにはこんなことを書いてくれた人がいました。

「言葉の定義についてはとても考えさせられました。いかに自分たちはあいまいなまま言葉を使っているのか気付かされました。以前、女の子に 『○○君のこと好きだよ』 と言われのぼせあがっていたら、後で 『友達としてにきまってるじゃん!』 と言い放たれたことを思い出しました。言葉の定義については、日常や、議論の場等、様々な場で必要とされることだと思うので、常に意識のスミに置いておきたいです。」

身につまされるお話ですね。
質問ではこういうのがありました。

「Q.日本や韓国では 『受験戦争』 と呼ばれていますが、これは比喩的表現ということでしょうか?」

定義を考えるときに、もともと比喩であった表現で概念として定着してしまっているものを含めてしまうと、
定義がブレてしまうので気をつけるようにという話をし、
「冷戦 cold war」 という語はあくまでも比喩的表現なんだと言いましたが、
「受験戦争」 はもちろん、それ以上に比喩的表現だということはおわかりいただけるだろうと思います。
別に軍隊が出動するわけでも、人が死ぬわけでもありませんから。
しかし、この授業をやっていて、冷戦や受験戦争などに引っ張られてしまって、
戦争という語を正確に定義できなくなってしまっている学生が多いということには驚かされました。
インリン・オブ・ジョイトイはかつて 「エロテロリスト」 と自称していましたが、
「テロリスト」 を定義しようとするときにインリンのことが頭から離れなかったりすると、
もうグチャグチャになってしまうでしょうね。

テロリズムの話になったので、それに関する質問も紹介しておきましょう。
みんなの定義を聞いてきて、さらにいくつか辞書的定義もご紹介した上で、
私としてはこの授業では戦争を 「大規模集団間の武力闘争」 と定義しますと宣言したわけです。
そして、もともとテロリズムは戦争のなかに含まれてはいなかったという話もしました。
それに対する質問というか反論です。

「テロリズムの主体は犯人 (個人) であるというお話がありましたが、その背後には実行犯を養成する集団が存在し、またその集団を支援する国家 (場合によっては複数の) が存在するわけで、必ずしも小さな集団によるものではないと思います。ただし、一般的に考え得る大規模集団と言えるかというと、これも難しいと思います。」

この方はちょっと私の話を聞き違えてしまったのかもしれません。
「テロリズムの主体は個人だ」 と言ったつもりはありません。
その背後に養成したり支援する集団がいることも確かでしょうし、
そもそもテロリズムを計画・実行するのは小規模か大規模かは別としてある種の集団でしょう。
私が言ったのは、かつてはテロは戦争ではなく犯罪として扱われていて、
だからそれに対処するのは軍隊ではなく警察 (アメリカならFBI) であった、ということです。
これが変わってきてしまったのは9.11以降のことであって、
だからテロが起きたからといって、
どこかの国に軍隊を送り込んで戦争を仕掛けるなんていうのは、
ちょっと前なら考えられないくらいデタラメなことだったんだというのは、
常識として知っておいたほうがいいでしょう。
戦争の定義との関連で言うならば、「大規模集団間の武力闘争」 のうち、
「大規模」 かどうかというよりも 「武力」 すなわち軍隊を用いているかというところで、
テロリズムは戦争とは言いがたいのではないかと思います。
ただし、冷戦終結以後は 「新しい戦争」 ということが言われるようになり、
「低強度紛争」 も戦争と呼ぶというようになってきていますので、
テロリズムを戦争に含めるかどうかというのは現在、最先端の問題であることは確かです。

いくつか理由があって、この授業の中で出された質問にお答えしておきたいのですが、
とりあえず今日はここまでにしておきましょう。

就活にバカヤロー!

2011-01-13 13:43:15 | お仕事のオキテ

就活支援団体 Glow Lamp のセミナーが2月に開催されます。

すでに学内各所にキレイなポスターが貼られているから、

ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。

タイトルがいいですね。

「就活にバカヤロー!と叫びたいセミナー」 だそうです。

なんと、『就活のバカヤロー』 (光文社新書) の著者、石渡嶺司氏をお招きして、

講演会だけでなく、学生との対談までしていただけるそうです。

このところ水曜日にいろいろセミナーなどを開催しても、

たいてい何か別の大学側の催し物とバッティングしてしまって、

せっかくいい企画を立ててもあまり人が集まらないということが多かったようで、

今回は本気 (と書いて 「マジ」) の土曜日開催です。

私もぜひ参加して、ご本人にお目にかかってみたいと思っております。

就活中の3年生はもちろんですが、それよりもぜひ2年生に聞きに行ってもらいたいと思います。

それから小・中はあまり関係ないかもしれませんが、

高校教員をめざしている人はこういうものにも参加しておいて、

面接のときに、「高校生の就活支援にも関心をもっていろいろ学んでいます」 なんて言うと、

ちょっと差をつけられるかも。

とにかく皆さま、奮ってご参加ください。



≪就活にバカヤロー!と叫びたいセミナー≫

【日付】 2月12日 土曜日

【時間】 13:00~16:30

【場所】 L棟 L-1教室

【持ち物】 メモ帳 筆記用具