まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

太陽の光の砂時計

2010-05-31 11:14:05 | 人間文化論
砂時計を買いました。

ご覧頂いているようにたんに砂時計としてもステキですが、

3分とか5分とか実用的な時間を計るためのものではありません。

付属していた皮のマットには文字がプリントされています。

「太陽の光が地球に届く時間

 In this time : sunlight reaches Earth」

これは、西村佳哲 (よしあき) さんというクリエイターが作った、

「太陽の光の砂時計」 というタイトルの作品なのです。

彼の作品群の中には 「ある時間をしめす砂時計」 というシリーズがあって、そのうちの1つです。

他にも 「星が消えてゆく時間の砂時計」 や 「100人の子どもが生まれる時間」 などがあります。

私たちが買ったのは、太陽の光が地球に届く時間をしめす砂時計で、

計ってみたらだいたい8分10何秒かでした。

光の速さっておよそ秒速30万㎞ (地球のまわりを7周半) のはずですが、

それで8分以上もかかっているんですね。

これを見ていると、時間のこととか宇宙のこととか生命のこととか、

哲学的テーマへと思索が誘われて (いざなわれて) いきます。

「違くて」 は違うっ!

2010-05-30 12:14:09 | 人間文化論
授業中、学生にワークシートにいろいろ書いてもらったりしているのですが、
そのなかですごく気になってしかたないことば遣いがあります。

「講義のなかで先生が話してくれた自由の分類は、
 私たちが考えた分類とは違くてびっくりしました。」

「ホッブズとロックでは自由の捉え方が全然違かったのが印象的でした。」

「違くて」 ってなんだあ
「違かった」 なんて言うなあ
これを福大の学生も、看護学校の学生もけっこうみんな使っているんですよ。
うう、気持ち悪い
何年も前からこの言い回しは気になっていたんですが、
福島の方言なんだろうなあと思って、ブログには取り上げずにきたんです。
ワークシートではそう書かれるたびに、
「違くて」 → 「違い」
「違かった」 → 「違っていた」
と添削してあげてはいましたが、それは、
正式な文書では方言ではなく標準語を使うようにしましょうね、
という老婆心による助言にすぎなかったわけです。

ところが調べてみると、これは方言ではなく、全国区の若者ことばのようです。
だとしたら大手を振って 「お前ら間違っとるっ」 と注意してもいいではないですか。
というわけで、今回晴れてブログネタにさせていただきます。
「違う」 というのは動詞です。
ワ行五段活用の動詞です。
したがって、
違わない、違います、違う、違うとき、違えば、違おう
と活用させなければいけないわけです。
連用形では 「違いて」 が音便になって 「違って」 と変化しますが、
いずれにせよ、これが正しい日本語の文法なのです。

「違くて」 や 「違かった」 は形容詞のような活用になっています。
「正しい」 とか 「深い」 という形容詞なら 「正しくて」 「深かった」 と活用させます。
しかし、繰り返し言いますが、「違う」 というのは動詞です。
形容詞とは違うのです。
上で引用した記事のなかでは、「違う」 は動詞だけど、
その反対語の 「正しい」 は形容詞なので、
それに引きずられて 「違くて」 の誤用が生じたのではないかと推測されています。
しかし、「違う」 の反対語は 「合う」 のはずで、
「合う」 もやはりワ行五段活用の動詞であって、
「合くて (あくて)」 とか 「合かった (あかった)」 なんて絶対に言わないのと同様に、
「ちがくて」 とか 「ちがかった」 も完全に間違いなのです。

上記の記事には、Mr.Children の曲に、
「例えばこれが恋とは違くても」 という歌詞が出てくると書いてあります。
調べてみると、「Everything (It's You)」 という桜井和寿さん作詞の曲で、
なんと1997年にリリースされています。
そんな昔に 「違くて」 なんてことばを聞いたことはなかったと思いますので、
ひょっとすると、この誤用の出発点は桜井さんだったのかもしれません。
もしもそうだとするとおそろしい影響力だっ。
桜井さんは東京都練馬区の出身らしいので、やはり方言とかではないのでしょう。
本人はそれが間違いだということを知っていたのでしょうか?
ぜひとも全CDを回収して、
「例えばこれが恋とは違っても」 と正しくレコーディングし直したCDと
交換してあげてほしいものだと思います。

忍空

2010-05-29 11:51:25 | 哲学・倫理学ファック
福島市内を走る国道4号線は、北は仙台、南は郡山へとつながる、最も重要な幹線道路です。
福島市内で渋滞が発生するのはこの道だけだと言っても過言ではないくらい、
交通量の多い道でもあります。
クルマで福島大学へ通学する場合もこの道路を利用しなければなりません。
したがって沿線の様子をよく見ていたりしていて、
ファミレスなど郊外型の駐車場つきの店舗がいろいろあるのですが、
けっこう店の入れ替わりが激しくて、つぶれてしまう店が後を絶ちません。
交通量は多いけれど、この沿線で一休みしようという人はそんなにいないということでしょうか。

さて、もうだいぶん前のことになりますが、4号線沿線にまた1軒の新しいお店がオープンしました。
「忍空」(にんくう) というお店ですが、屋号といい店の作りといいどう見ても居酒屋さんです。
クルマでなきゃこ来られないようなこんな場所に飲み屋をオープンしてどうするんだろう、
でもひょっとすると飲み屋じゃなくて、なにか別のお店なのかなあと、
ちょっと気になっていたのでした。
で、ある日、大学の先生と帰りに夕食を食べていこうという話になり、
その先生もクルマで通勤しているのですが、
お互いクルマを置いて飲みに繰り出すという気分ではなく、
サクッとファミレスかなんかで食事をすませたかったので、
私が 「忍空 (にんくう) って知ってる?」 と聞くと、
その方も通勤のときに見かけて知っていたようです。
ひょっとすると居酒屋かもしれないけど、どんな店か確かめたいし、
とにかくそこ行ってみて食事だけしようということになり、
「じゃあ、忍空で現地集合ね」 と各自、自分のクルマでお店に向かうことになりました。

お店に入ってみてメニューを見てみるとやっぱり居酒屋さんでした。
たくさんの種類のお酒と美味しそうなおつまみの類が並んでいます。
みんなこんなところで飲んで、どうやって帰るつもりでしょうか?
駐車場はクルマでいっぱいでしたから、やはりクルマで来店したのでしょうが、
今どき飲酒運転なんてもうできませんよね。
代行でも頼むのか、でもここからだといくらかかっちゃうんだろうとか、
各グループには必ず飲めない人が1人まざっているのかなあ、なんて心配しながら、
私たちはウーロン茶と、できるかぎり食事っぽいメニューをいくつか頼んだのでした。

ところで今回話したかったのはそういうことではなくて、この店の名前です。
すでにお気づきの方もおおぜいいらっしゃるだろうと思いますが、
この店は 「忍空 (にんくう)」 ではなく 「忍家 (しのぶや)」 さんだったのです。
正確には 「隠れ菴 忍家 (かくれあん しのぶや)」 というのだそうです。
でも、看板の 「家」 っていう文字がミョーに崩してあって読みにくく、
遠目に見て完全に 「空」 だと思い込んでいました。
そして、何が恐ろしいって、「忍空 (にんくう) で現地集合ね」 とだけ電話で打ち合わせて、
2人がちゃんと落ち合えたということです。
2人が2人ともまったく同じ誤解をしていなければ、
ここで会うことはできなかったでしょう。
例えば私が 「じゃあ、しのぶやに行こうか」 と言っていたとしたら、
福島市民は 「しのぶや」 という音だけを聞いたらたぶん
「信夫屋」 という漢字を当てて認知するだろうと思いますので、
(福島市内には信夫山があるので)
まさかそれが 「忍空」 のこととはわからなかっただろうと思います。
実はこの話は 「真理とは何か」 というきわめて高度な哲学的テーマにつながっているのですが、
それはまた別の機会にお話しすることにいたしましょう。

福大生協はもっとエライっ!

2010-05-28 14:38:59 | お仕事のオキテ
ずっと前に 「アメリカ人はエライ?」 という記事を書きました。
プロは仕事に慣れてくると自動的に作業できるようになっていくのだけれど、
そうすると、いつもと違うことを要求された場合にそれに対応できないということが生じてしまいます。
ところが、アメリカの食堂では、ひとりひとりの客の個性的な注文に合わせて、
きっちりと作り分けているから、ああ見えてアメリカ人ってエライなあ、という話でした。
それと対比するために福大生協食堂を例に出し、次のように書きました。

「ざるソバであれば、薬味は別盛りになっていますので、
 それを使わなければいいだけのことですが、
 (近くにあるだけでソバの香りを台無しにしているとも言えますが…)
 大学の生協食堂では冬場はかけソバ系しか置いていませんので、
 毎回 「ネギ抜きで」 とお願いしなければいけないわけです。
 ところがネギ抜きを注文しても、まず5回に3回はネギが入って出てきてしまいます。
 これは仕方ないでしょうね。
 街中のちゃんとしたプロがやっているお店で、そんなもの出されたら、
 「注文したものとちがいます」 と毅然として突っ返すところですが、
 大学生協でソバを作っているのはほとんどみんなバイトのおばちゃんたちでしょうから、
 手順通りに同じものを作るのが精一杯で、
 客ひとりひとりのスペシャルな注文に正確に応えるということまで要求するのは酷というものでしょう。」

その後やっと冬が去り、学食のメニューにもざるソバがのるようになって、
今は毎昼、石原先生の教え通り、ざるソバ+山芋を食べているのですが、
まず前半部分に関して事実関係を訂正しておかなければなりません。
福大生協食堂のざるソバは薬味が別盛りになっていませんでした。
氷が2~3粒入ったどんぶりに茹で上がったソバが盛られ、
そこに海苔ととともにたっぷりのネギがトッピングされるシステムなのです。
ワサビはカウンターにでかいチューブが置いてあって、
各自が絞り出すようになっています。
というわけで、ざるソバの季節になっても私は、
スペシャルなリクエストをしなければならない、という点は変わらないのでした。

ところがこの間とても驚いたことが。
3月の頃って学食はめちゃくちゃ空いていますから、
麺コーナーで毎回スペシャルリクエストをすることが可能だったんです。
(大半は裏切られていましたが)
しかし新学期が始まってからは、食事時間をずらしているはずなのですが、
それでもお客さんがいっぱいで、
麺コーナーなんて待ってるお客さんでごった返しているのです。
ざるソバを初めて見かけて注文したときは、たまたま空いていたため、
いちおうネギ抜きでお願いしてみたら、その通りのものが出てきて感激していたのですが、
その後はもうあまりに人がいっぱいで、
スペシャルリクエストをするという気にもなれずにいたのです。
生協の皆さんもいっぱいいっぱいだろうし、
どうせネギぬきでお願いしてみても、こんなに忙しい状況の中ではけっきょく、
自動的に手が動いてネギは入れちゃうだろうし、
まあ、その場合は文句も言わずに自分で排除して食べるんだから、
だったら最初っから面倒くさい注文なんかせずに、
黙ってネギ入りのざるソバを受け取って、自分でネギを抜けばいいや、と。

そんなわけで13時前後のまだ混み合っている時間帯に食べに行ったときは、
特にスペシャルリクエストはせずにいたのです。
で、私よりも前から待っていた人たちがだんだんはけていって、
そろそろ自分の番かなあと思って出食口に近づいて待っていたら、
こんなことばをかけられたのです。

「お客さん、ネギ抜きでしたよね?」

その日はそんな注文したわけではないので、
以前にネギ抜きで注文されたことを覚えていてくれたのでしょう。
私がどぎまぎしながら、「は、はい、そうです」 と答えると、
みごとにネギ抜きのざるソバを出してくれたのです。
おお、すごいこともあるもんだあ、と感動していたのですが、
ところがそれはその日だけに限らなかったのです。
その後も、こちらが何も言わないのにあちらから、
「お客さん、ネギ抜きでしたよね?」 と声をかけてくれ、
その通りのものが出されるようになったのです。
これってアメリカのレストランのレベルをはるかに超えていませんか?
まあ、生協のオバさんたちが福大の教職員や学生全員の好みを暗記して、
黙っていてもそれに応えられるようになったとは思いませんが、
少なくとも私ひとりに関する限りは、
常連さんとしての特別待遇を受けられるようになったといっても過言ではないでしょう。

冷静になって考えてみれば、毎日ざるソバを食べ続ける客なんてそうそういないでしょうから、
あちらの記憶にも残りやすいのだろうとは思います。
あるいは別の可能性としては、
生協関係者の誰かがあの 「アメリカ人はエライ?」 のブログを読んで、
やばい、小野原先生はブログに生協の悪口を書いている、クレーマーだっ、
これ以上あのブログから風評被害が広まってはたまらないっ、と考えて、
麺コーナーの内側には私の写真がデカデカと貼り出されていて、
お昼にざるソバの注文が入ったら、要注意人物じゃないか写真で確認して、
もしも小野原だったら、とりあえずネギのことを聞け、
という指示を出したのではないでしょうか。
うーん、それはそれでものすごいリスクマネージメントだ。

まあいくらなんでもそんなことはあるわけなくて、
よく観察していると、どうやら私のことを覚えていてくれる方が、
お2人ほどいらっしゃるようです。
彼らが麺類の出食担当で、出来上がる前にちらっと私を見かけると、
「ネギ抜きでしたよね?」 と聞いてくださっているようなのです。
その条件が揃うのがだいたい80%くらいの確率でしょうか。
つまり5回に4回は、こちらが何も言わなくても、
私の好みに合わせたものを出してもらえるのです。
これってものすごいことと思いませんか?
働く人には次の5段階があると思うんです。

第1段階 何をやればいいかまだ全部覚え切れていない
第2段階 やっと一通り覚えてゆっくり思い出しながらならなんとか1人でできる
第3段階 身体が覚えているので自動的に素早く全部できる
第4段階 特別な注文にも個別に応えることができる
第5段階 顧客のことを覚えていて相手の必要なものを注文されずとも提供することができる

非正規雇用の労働者には、私は第3段階より上のものは求めていないんです。
第2段階や第1段階にとどまっている人もおおぜいいるじゃないですか。
だから学食でネギ入りのソバが出てきても文句言ったりはしないわけです。
ブログに書いたのもけっして文句をつけたかったからではありません。
むしろそこまで自動化できたことを褒めてあげたかったくらいです。
第4段階以上のレベルは、ちゃんとした報酬を受け取っているプロにのみ求められるべき水準でしょう。
ところが福大の生協食堂には最高レベルの第5段階にまで達しているプロが厳然と存在しているのです。
うーむ、素晴らしいっ
これからも私は学食でネギ抜きのソバを食べ続けますよ
そして、学生のみなさん、
みなさんもたとえバイト先であっても自分を甘やかすことなく、
より高みをめざしてカッコいい労働者として働いてください

監督責任

2010-05-27 17:32:38 | お仕事のオキテ
「監督責任」 という言葉は保護者や責任者などが、
自分が管理している人間が犯した過ちに対して責任を負うことを意味する、
広い意味の一般名詞ですが、
今日のところはスポーツにおける監督の責任という意味で使います。
その意味での 「監督責任」 に関して、普通の日本人は、
直近では、サッカー日本代表の岡田監督のことを思い浮かべるのでしょう。
それに対して私の場合は、東京ヤクルトスワローズの高田監督のことが真っ先に思い浮かびます。
しかし、いずれにせよ最近のホットな話題であります。
ただし私は、サッカー日本代表の最近の動向を知りませんし、
(韓国戦で負けたことどころか、そんな試合をやっていたことすら知りませんでした)
ヤクルトスワローズの最近の動向も知りませんでした。
(ダントツのビリだということは知っていましたが、交流戦0勝ということは知りませんでした)
したがって、岡田監督の采配や高田監督の采配についても何も知りません。
ただ、どちらもネット上で相当批判されているところはよく見かけました。
そして、今日になって高田監督が休養 (事実上の辞任) したということを知ったのです。

シーズンの途中 (しかもこんな早い時期) に辞任を決意した高田監督、
留任してこれからすぐにワールドカップに臨まなければならない岡田監督、
どちらも苦渋の決断だったのでしょう。
私としては、これらの件に関して何の意見もないのですが、
ただまあファンの人たちの喧噪を見ていて思うのは、
プロスポーツの監督というのはたいへんな仕事だなあということです。
監督はどこまで責任を負わなければならないのか、
別の言い方をすると、監督の力でどこまで勝ったり負けたりできるのか、
これって難しい問題だと思うのです。
けっきょくフィールドに立って実際に戦うのは選手たちなわけですから、
名監督が采配をふるえばそれでどんなチームでもすぐに勝てるというわけではないでしょう。
しかも、采配というのは結果論でしか評価できませんから、
当たれば名采配として激賞されますが、外れれば迷采配として非難の的となるわけです。

それよりも、監督としての本来の腕のふるいどころはチーム作りの部分でしょう。
しかし、これにはまず時間がかかりますから、
例えば野村さんが監督になればすぐに優勝できるというようなものではないわけです。
でも、今の監督さんたちにどれくらいの時間が与えられているでしょうか。
マスコミもサポーターもフロントもすぐ結果を出すことを望みますし、
なんとか結果を出したとしても、翌年結果を出せなければすぐにまた責任が問われます。
しかも、チーム作りは監督ひとりでできるものではありません。
特にプロ野球チームの場合、選手を集めてくるという意味でのチーム作りはフロントの仕事であって、
監督は与えられた手駒を短い期間で教育するという意味でのチーム作りしかできません。
日本代表チームの監督の場合は、選手集めというところから任せてもらえる場合もありますが、
それでもやはり完全に自由にやらせてもらえるわけではないでしょう。
(野球のWBC代表チームの場合は相当制約がありました)
そういう意味では監督というのは中間管理職にすぎませんから、
そんな人にどこまで責任を負わせるべきか難しい問題だと思います。

プロスポーツの世界というのは、本当にギリギリのところで戦っている世界ですから、
読売ジャイアンツのようにフロントがあれだけいい選手をザクザク集めてきたとしても、
だからといって、年間通して全試合勝ち続けるとか、
毎年リーグ優勝して日本一になり続けるなんていうことはできないわけです。
1試合1試合の勝敗にせよ、シーズンや大会全体を通しての成績にせよ、
けっきょくのところ人事を尽くした上で、あとは天命を待つしかないのであって、
ちょっとした偶然やたまたまの運によって良いほうに転ぶこともあれば、
悪いほうに転ぶこともあるでしょう。
しかし、人はなにかある結果 (特に悪い結果) が生じると、
その原因を探し出そうとしてしまう生き物であり、
しかも、複雑で複合的な諸原因よりも、単純でわかりやすい単一原因を求めがちですし、
責任を帰せない自然原因よりも、責任を帰することのできる人為的原因を好みますので、
勢い 「犯人捜し」 が行われることになるのです。
私にいわせると、たんに相手のほうがほんのちょっとだけ強かったとか、
たまたま相手のほうがツイていた、なんていうことはよくあるのだろうと思いますが、
そういう原因は、こちらが負けた原因とは認定してもらえないのです。
で、責任を取ることのできる1人の人間が犯人とか戦犯として名指されることになります。
これを私は 「犯人捜し症候群」 と呼んでいますが、
その恰好の生け贄となって、責任を取らされやすいのが監督なわけです。

うーん、監督ってたいへんな仕事だなあ。
会社の社長さんだって、業績不振になってもここまで責任を取らされたりしないよなあ。
(不祥事を起こした場合は別ですが)
ましてや一国の元首や首長は、戦争に負けようが国を借金まみれにしようがまったく知らん顔だし。
学校の先生が子どもの成長に対していちいち責任取らされたらたいへんなことになってしまうよなあ。
うーん、それに比べるとやっぱりスポーツの監督はたいへんだあ。
高田元監督、お疲れさまでした。ゆっくりお休みください。
岡田監督、がんばってください。お身体に気をつけて。

1リットルの男

2010-05-26 12:50:33 | 生老病死の倫理学
先日、48歳になって初めて満腹感を感じられるようになった、という話を書きました。
その記事をミクシィのほうにも転載したところ、
マイミクさんのひとり (小中高とずっと一緒の同窓生) がコメントをくれて、
そこから数回のやりとりが始まりました。
今日はそのやりとりをご紹介いたします。
ミクシィ上では私は 「ボス」、マイミクさんは 「むさっち」 を名乗っています。


【むさっちさんよりコメント】

をいつまでも飲み続けないボスさんなんて・・・

魅力半減だなぁ
これからの美味しい季節なのに



【私からのコメントバック】

一昨日、500mlの缶ビールが飲みきれなくて、
ひどく衝撃を受けました。
むさっちさんはこのあいだも美味しそうにを飲み続けていましたよね。
若くていいなあ。



【むさっちさんからさらにコメント】

お互い毎日を飲むけれど
どれくらい飲むか?と話したのを覚えていますか?

その時ボスさんが
「まずは1リットル飲んで、それから・・・」
と言ったのを聞いて
1リットルとびっくりしたのです。

でもよ~く考えたら500mlが2本でもう1リットル
それ以来、私の中では燦然と輝く

1リットルの男 

だったのに・・・。500も飲めないなんて・・・



【私からのコメントバック】

たしかにそんな話、昔したような記憶が (かすかに) あります。
1リットルの男
なんかむちゃくちゃカッコいいですね。
それももはや遠い過去の栄光…



以上です。
たしかに昔は1リットルは当たり前だったなあ。
そのあと何を飲むかが問題で、
バーボンに移行するか、そのままを飲み続けるかで悩んだりしていたような。
でも 「1リットルの男」 なんていう称号を頂戴していたとは知りませんでした。
ちなみにむさっちさんは未だに
オーバー1リットルの女」 であり続けていらっしゃるようです。
1リットルというとなんかものすごい感じがしますが、
むさっちさんも書いていらっしゃるように、
500ml缶2本でもう1リットルなんですよね。
飲みにとってはどうということのない量です。
ところが、そのどうということのない量が飲めなくなってしまったばかりか、
500mlも飲みきれなくなってしまったのです。

最近 「老い」 について考察を進めていて、
「私はもうできない、にもかかわらず私は存在する」
なんていう定式を披露したりしましたが、
そういう考察は、が飲めなくなってしまった経験などに基づいているわけです。
このブログの 「老いるとは?」 の記事に対して、
同じく同窓生である 「ねこまた」 さんから下記のようなコメントを頂戴しました。


「だからこそ
高齢者の支援には
“できないこと”ではなく
“今できること”や“残っている能力”
に目を向け
それらを維持、または少しでも向上
していくことが
重要である」
と、習いました。

あーそうだなぁと
何の疑いもなく思ってたんだけど
ブログを読んだら
あれ、そういう方向性って
ほんとにいいのかな、幸せなのかなと
なぜか思ってしまいました。

なんでかな???(笑


ねこまたさんが懐いた疑問がどんなものか定かではないし、
今から述べることは老い全般に当てはまることではないとも思いますが、
少なくともの飲酒量に関してのみ言うならば、
1リットルの男」 であることは別に自慢でもなんでもないような気がするんです。
昔はビール瓶イッキなんてよくしたものですが (よい子は絶対にマネしないでください)、
そんな命がけのアホな飲み方ができる必要はまったくないでしょう。
つまり、「できる」 ことが正常なんではなく、
「もうできなくなった」 ことのほうが喜ぶべきという場合もあるんではないでしょうか。
そう考えると、「若さ」 というのは 「過剰」 であって、
過剰部分を失っていくのは、人として正しい成長と見ることはできるのではないかと思うのです。

最近、ファミレスなどのメニューを時間内に全部食べ尽くすとか、
人気ベスト10のメニューを全部当てるまで帰れまテンなんていう、
飽食時代にふさわしいどうでもいい企画の番組が氾濫していますが、
バラエティ好きの私が、あの手の番組には怒りを覚えるのです。
そう思えるようになったのは、
満腹感を感じてしまった後にさらに食べ続けることのアホらしさに気づけたからだと思います。
「老い」 による 「喪失」 は、「過剰」 の 「排除」 であって、
それは 「人としての正しい成長」 である、という線で解釈を進めていけないか、
もうちょっと考えてみようと思います。
というわけで 「1リットルの男」 の称号は謹んで返上させていただくことにいたします。

NHK文化センター 「哲学ってなんだろう?」 第2回講座

2010-05-25 07:45:01 | 哲学・倫理学ファック
高校の同期会の興奮で危うく忘れてしまうところでしたが、
先週の土曜日の昼間には、NHKカルチャースクールの2回目の講座をやってきたのでした。
13時から15時まで講座をやり、
15時18分の新幹線に飛び乗って横浜の崎陽軒本店に向かうというハードスケジュールでした。
15時ピッタリには会場を後にしたいので、終了後に質問等を受け付ける時間がありませんと、
受講の皆さんには最初にお断りしての講座でした。
本当にあわただしくて申しわけありませんでした。

しかも今回は、古代ギリシアから19世紀までの哲学の歴史を一気にたどるという、
かなりムリな計画でした。
哲学史をたどるといっても、さまざまな哲学者の思想を概観するというわけではありません。
先に、「Q.哲学って何ですか?」 という質問に対して、
「A.哲学とはすべての学問のことでした」 とお答えしましたが、
その意味合いをじっくり2時間かけて話させていただいたわけです。

実を言うと、辞書の類を引いてみると、ちゃんとそのことが書いてあったりします。
例えば、ネット上でも閲覧することのできる 『大辞泉』 には次のように書いてあります。

哲学
《philosophyの訳語。ギリシア語のphilosophiaに由来し、「sophia(智)をphilein(愛する)」 という意。西周(にしあまね)が賢哲を愛し希求する意味で 「希哲学」 の訳語を造語したが、のち 「哲学」 に改めた》
1 世界・人生などの根本原理を追求する学問。古代ギリシアでは学問一般として自然を含む多くの対象を包括していたが、のち諸学が分化・独立することによって、その対象領域が限定されていった。しかし、知識の体系としての諸学の根底をなすという性格は常に失われない。認識論・論理学・存在論・倫理学・美学などの領域を含む。
2 各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する理念。「仕事に対しての―をもつ」 「人生―」

2番のほうの説明はとりあえず今回は関係ないのですが、
1番の説明の中に、「古代ギリシアでは学問一般として自然を含む多くの対象を包括していた」
とはっきりと書かれています。
さらにウィキペディアの 「哲学」 の項の冒頭部分には次のような概要が書いてあります。

哲学 (てつがく、古希:φιλοσοφία、英:philosophy、独:Philosophie) は、古代ギリシャでは学問一般を意味した [1]。近代における諸科学の分化独立によって、現代では専ら、特定の学問分野を指す。
1.学問一般 [注 1]。 (注1 ただし、古代ギリシャから19世紀ごろにかけて)
2.問題の発見や明確化、諸概念の明晰化、命題の関係の整理といった、概念的思考を通じて多様な主題について検討し研究する、学問の一分野。なお、この意味の哲学に従事する学者を哲学者と呼ぶ。
3.哲学者がそのような研究から形成したものも 「ソクラテスの哲学」 などというように、哲学と呼ばれる。「ウィトゲンシュタインを専攻している」 など言うように、哲学者の名がその哲学者の哲学を指す場合もある。

こちらでははっきりと、2番の意味と区別してまず1番目の意味として、
哲学が 「学問一般」 を意味するということが明記されています。
しかも、『大辞泉』 の説明よりも 「ウィキペディア」 のほうが正しいと思うのですが、
「古代ギリシャから19世紀ごろにかけて」 という注釈が加えられているのです。
そうです。
古代ギリシャの頃だけではなく、ほんの200年くらい前まで、
哲学とはすべての学問のことを指す言葉だったのです。

そのことを示す資料として3つを挙げました。
まずは、『アリストテレス全集』 (山本光雄編、岩波書店) の全巻の構成です。
アリストテレスというのは B.C.384年から322年にかけて生きていた、古代ギリシアの哲学者です。
彼は 「万学の祖」 という異名を取っているほどで、
2300年以上前に、すでに今ある多くの学問の礎を築いていました。
 
1 カテゴリー論 命題論 分析論前書 分析論後書
2 トピカ 詭弁論駁論
3 自然学
4 天体論 生成消滅論
5 気象論 宇宙論
6 霊魂論 自然学小論集 気息について
7 動物誌(上)
8 動物誌(下)
9 動物運動論 動物進行論 動物発生論
10 小品集
11 問題集
12 形而上学
13 ニコマコス倫理学
14 大道徳学 エウデモス倫理学 徳と悪徳について
15 政治学 経済学
16 弁論術 アレクサンドロスに贈る弁論術
17 詩学 アテナイ人の国制 断片集

1巻、2巻、12巻、16巻などは、どうやって言葉を正しく用いて真理を認識していったらいいか、
どう議論を組み立てていったらいいかといったことを論じる学問。
3巻から9巻までは、自然に関する諸学問。
13巻から15巻までは、自然に存在するのではなく人間が生み出したものに関する諸学問。
こういう多岐にわたる諸学問をアリストテレスは1人で論じていたのです。

私の大好きなカントは、1724年生まれ、1804年没という18世紀の人ですが、
ある本の中で、哲学の区分はアリストテレス以来変わっていないと述べ、
大きく3部門、論理学、自然学、倫理学に分けられると言っています。
(ここでいう倫理学は人間が生み出したものに関する学問という広い意味で使われています)
そして、彼もまたこの3部門すべてにわたって著書や論文を残したのです。
ウィキペディアに彼の著作一覧がありますが (ここには再掲いたしません)、
それを見ても、カントがアリストテレスと同様に、
すべての学問に執念を燃やしていたことがわかるでしょう。
つまり、哲学者というのは諸学問を1人で一手に引き受けるエキスパートだったのです。

とはいえ、カントの頃はすでに 「近代における諸科学の分化独立」 が始まり、
ものすごい勢いで進行中でした。
したがって、諸学問を1人で一手に引き受けるというのがもはや困難になりつつあったのです。
私の見るかぎり、すべての学問を全部1人でやろうとした最後の哲学者は、
ヘーゲルだったろうと思います。
ヘーゲルは1770年から1831年まで生きた19世紀前半の人です。
私がヘーゲルをキライだという話はしましたが、
しかし、ヘーゲルが知の巨人であったことは疑いようもない事実ですし、
あれだけ諸学問が発展してしまった時代において、
なおかつすべての学問を統括しようとした精神の力には圧倒されてしまいます。
思い出すたびに私は笑ってしまうのですが、
彼は自分の主著に 『哲学的諸学のエンツィクロペディー綱要』 というタイトルをつけました。
「エンツィクロペディー」 というのは英語にすると 「エンサイクロペディア」、
すなわち 「百科事典」 です。
ヘーゲルは 「百科事典」 という名の著書を1人で書いてしまったのです。
ただしその書物は、いわゆる百科事典のようなアルファベット順の項目羅列ではなく、
カントがアリストテレスから受け継いだ3部構成で作られていて、
第1篇 「論理学」、第2篇 「自然哲学」、第3篇 「精神哲学」 となっています。
ちょっとその概要を記しておきましょう。
(詳しい人はわかるかもしれませんが、有名な弁証法によって構築されているので、
 中身はすべて3、3、3という作りになっています)

第1篇『論理学』
第1部 存在論
 A 質
 B 量
 C 限度
第2部 本質論
 A 現存在の根拠としての本質
 B 現象
 C 現実性
第3部 概念
 A 主観的概念
  a 概念としての概念
  b 判断
  c 推論
 B 客観
  a 機械論
  b 化学論
  c 目的論
 C 理念
  a 生命
  b 認識
  c 絶対的理念

第2篇『自然哲学』
第1部 力学
 A 空間と時間
 B 物質と運動
 C 絶対的な力学
第2部 物理学
 A 普遍的な個体性の物理学
 B 特殊な個体性の物理学
 C 統体的な個体性の物理学
第3部 有機的な自然学
 A 地質学的な自然
 B 植物的な自然
 C 動物的な有機体

第3篇『精神哲学』
第1部 主観的精神
 A 人間学 心
 B 精神の現象学 意識
 C 心理学 精神
第2部 客観的精神
 A 法
  a 所有
  b 契約
  c 不法に対する法
 B 道徳性
  a 計画
  b 意図と福祉
  c 善と悪
 C 人倫
  a 家族
  b 市民社会
  c 国家
第3部 絶対的精神
 A 芸術
 B 啓示宗教
 C 哲学

よくぞまあこれだけすべてを取り込めたものです。
こんな物好きはヘーゲルが最後だと言っていいでしょう。
ヘーゲル以降は、「哲学」 というのは諸科学とは区別されたある特殊な学問になっていくのですが、
(『大辞泉』 の1番や 「ウィキペディア」 の2番で説明されている学問)
ぎりぎりヘーゲルまでは、すべての学問が哲学であり、
哲学者は1人ですべての学問を担う 「ザ・学者」 だったわけです。
この頃までの 「フィロソフィア」 は 「哲学」 なんていうわけのわからない新造語ではなく、
そのまんま 「学問」 と訳せばよかったんではないかと思っています。
「学問」 ということばには、「問いを学ぶ」、「問うことを学ぶ」 と、
疑問を懐くことを意味する文字 ( 「問」 ) が入っていますので、
日本人がその意味をよく知らない 「哲」 とか、
日本人が意味を誤解しがちな 「知」 の文字を使うよりもはるかに、
「フィロソフィア」 の意味をうまく表していたと思うのです。

とはいえ、すでに定着してしまった訳語について嘆いたり反対したりしても無意味でしょう。
(「権利」 についても同様)
「哲学」 というわけのわからない学問について、
講座やこういうブログなどの場で繰り返し繰り返し説明し続けていくしかないのでしょう。
最後はあわただしく立ち去る形になってしまいましたが、
ここまで理解していただけましたでしょうか。
質問は次回の講座の冒頭で受け付けますので、なんなりとお聞きいただければと思います。

老いるとは?

2010-05-24 16:04:39 | 生老病死の倫理学
先日、デカルトの 「コギト・エルゴ・スム」 の話をしましたが、
デカルトの 「私は考える、ゆえに私は存在する」 に対抗して、
20世紀のメルロ・ポンティという現象学者が次のようなことを主張しました。
デカルトのように思考や意識ばかりを強調してしまうと、
人間を歪んで捉えることになってしまいます。
人間は本来、身体をもって外界と関わり合いながら生きているのです。
彼はそうしたことの重要性を 『知覚の現象学』 という著作のなかで分析していきました。
そのなかでこんなことを言っています。

「私はできる、ゆえに私は存在する」

訳書ではもうちょっと古めかしい言葉で、
「我為し能う (なしあたう)、ゆえに我あり」 なんて訳されていますが、
英語で言うならば、 ”I can, therefore I am” です。
(『知覚の現象学』 はもともとフランス語で書かれた本ですが…)
つまり、身体を用いていろいろなことが1つずつできるようになっていく、
そうなってこそ初めて私はこの世界のなかに存在していると言えるのである、ということです。
デカルトの問題の立て方と、メルロ・ポンティの問いの立て方は全然違っていますので、
両者を一概に比較することはできないだろうと思います。
ただメルロ・ポンティの 「私はできる、ゆえに私は存在する」 という思想は、
具体的な人間のあり方を考えていく場合にいろいろと参考にできるだろうと思っています。

さて、このメルロ・ポンティの思索にインスパイアされて、
私は 「老いる」 とはどういうことであるのかについて考えたことがあります。
人間はたしかに成長段階においては、ひとつずつできることが増えていき、
それによって自分の存在を確かめていっています。
しかしながら中年期から老年期にさしかかってくると、
それと逆のことが起こってくるわけです。
つまり、今までできたことがだんだんできなくなっていく。
最初からできなければ、できないということに悲しみを感じたりはしないでしょうが、
若い頃にはできたことがしだいにできなくなっていくとしたら、
それは自らの存在が脅かされる感覚を伴うのではないでしょうか。
しかし、だからといって自分の存在を否定してしまうわけにはいきません。
そこで私は 「老い」 というものを次のように表現できるのではないかと考えました。

「私はもうできない、にもかかわらず私は存在する」
”I can’t any more, nevertheless I am”

これまでできたことをひとつずつ喪失していく悲しみ、
にもかかわらず、それに耐えて生きていかなければならない苦しみ、
それが 「老いる」 ということではないかと思うのです。
私もそろそろ 「老い」 に片足突っ込んで、
少しずつ喪失を味わいつつあります。
それについてはまたの機会に記したいと思います。

緑が丘高校同期会

2010-05-23 22:47:14 | お仕事のオキテ
昨日は高校の同期会でした。
卒業以来ちょうど30年ぶりの一大イベントです。
一昨年、プレ予行大会ということで、簡単に連絡つく人だけで、
それでも40人くらいでしょうか、集まって会をもったことがあったのですが、
その集団を母体として、
今回は神奈川県立横浜緑が丘高校32期生としての正式な同期会が開催されました。

いやー、ものすごい盛会でした。
出席者は総勢180名を超えていたそうです。
会場は横浜駅東口の崎陽軒本店
ハマっ子が集まる会場としてこれ以上の絶好の場は考えられません。
当日配布された同期会名簿によれば、同期生は全部で404名。
これだけ集まったというのに、まだ半数にも届いていないのだそうです。
だいたい各クラス45人くらい生徒がいてそれが9クラス。
はっきり言ってとんでもない数ですね。
これだけの人数がいると、高校3年間で一度もふれあう機会もなく、
まったく顔も名前もなんにも知らないという人も相当数います。
そういう人と、
高校時代はつきあいがあったはずなのにこちらの記憶力のせいで忘れてしまったという人と、
ちゃんと覚えてはいるけれど、高校時代の面影をまったく失ってしまっているため、
会っても誰だか同定できないという人と、
いろいろなタイプがいるため、最初のうちはお互い手探り状態です。
幸いなことに主催者がとても気の利く人で、
当時の氏名 (要するに旧姓) と1年次、2年次、3年次のクラスを明記した名札を、
全員に付けさせてくれたため、相手の顔というよりは胸の名札を見ながら、
「おー久しぶり、○○君」 といういかにも同期会的な挨拶をたくさん交わすことができました。

半数とはいえ、それにしてもむちゃくちゃ人が多いです。
これだけ人が多いと私語をコントロールすることは不可能といっていいでしょう。
しかもあちこちで30年ぶりの邂逅が生じているのですから、
黙って人の話を聞けというのがそもそもムリというものです。
もう開宴前から一気にみんなのボルテージは上がってしまい、
主催者にもまったく制御不能な状態になってしまいました。
隣の人と話すだけでも声を張り上げなければなりません。
今日は 「TRAIN TRAIN」 と 「あんたのバラード」 をいっぺんに歌った翌日のように、
声が完全に嗄れてしまっていました。
会には当時の学年担任の恩師の先生方が5人も来てくださって、
お一人ずつスピーチをしてくださったのですが、
残念ながらちゃんと耳を傾けていたのはステージ近くの数十名だけという感じでした。
結婚披露宴の乾杯後のスピーチって、もう誰も聞いてくれなくて、
この世でこれほど空しいスピーチはないなと思っていたんですが、
そんなものまったくお話にならないくらい、悲惨な状態でした。
主催者は一所懸命みんなの注意を集めるよう努力していましたが、焼け石に水でした。
ただ、先生方はそんなアウェイな状態にもかかわらず、
淡々とスピーチを続けてくださいましたので、
同業者になった私としては、本当に頭の下がる思いがいたしました。

この同期会でいろいろと感じるところはあったので、
今後もまた少しずつこのブログに書いていくつもりではありますが、
懐かしいみんなと名刺交換などをして一番心に強く思ったのは、
私たちは本当に恵まれていたなあということでした。
皆さん、それはもう素晴らしい企業に勤めて、素晴らしい肩書きを持っていらっしゃるのです。
私が集めてきた名刺を福島大学の学生さんたちに見せてあげたいくらいです。
松田優作ならずとも 「なんじゃ、こりゃあ」 と目をむくことでしょう。
私たちはバブル直前の世代になるんだと思いますが、
それでも大企業に正規入社するのが当たり前の時代でしたし、
そこで勤め上げればもうそれなりの地位についていますし、
転職したとしてもそれは確実なステップアップの一歩だったのです。
バブル崩壊のあおりをくらって破綻してしまったある銀行に勤めていた、
私の心の師匠のG君がその後どうなったのか心配していたのですが、
心もちふっくらした顔でニッコリ微笑みながら、
ある有名IT系企業の子会社の代表取締役社長の名刺をくれたので、
ああ、やっぱり私たちはいい時代に生まれていたんだなと確信いたしました。

女性で家庭をもっている人たちもみんな幸せそうでしたし、
バリバリ働き続けている女性たちもみんなものすごく充実しているようでした。
みんながちゃんとそれぞれの居場所を見つけて、
安定した収入を得ながらやりがいを感じて毎日を生きていける。
それってものすごく重要なことではないでしょうか。
最近はそういう当たり前の環境がどんどん失われつつありますが、
元気そうな同期の面々の顔を見、皆さんの話を聞かせていただいて、
古き良き時代の理想を再確認した1日でした。

P.S.
緑高の皆さん、久しぶりにお会いできて本当に楽しかったです
もしもこのブログを見てくださいましたら、
コメントを書いていただけるか、直接メッセージなりメールをいただけると、
本当にうれしいです
ぜひまた近いうちにお会いしましょう

Q.哲学に必要な視点はなんですか?

2010-05-22 12:14:59 | 哲学・倫理学ファック
これも難しい質問ですね。
哲学の先生によって答え方がいろいろと変わってくるだろうと思います。
私もどう答えようか迷っていたので回答が遅くなってしまいましたが、
今回は次のようにお答えすることにいたしましょう。

A.既成の答えを一度は疑ってみること、それが哲学の出発点です。

デカルトがその昔 「コギト・エルゴ・スム」 と言いました。
「我思う、ゆえに我あり」 なんて訳されたりしますが、
デカルトが 「コギト」 という言葉で表わそうとしたことに対して、
「思う」 という訳語の響きは軽すぎると思うので、
私はせめてこれを 「私は考える、ゆえに私は存在する」 と訳したほうがいいと思っています。

デカルトは方法的懐疑の末に、この唯一の拠り所に到達しました。
方法的懐疑とは、絶対確実なる真理を手に入れるために、
いったんすべてを疑ってみる試みです。
そうしてほんの少しでも疑わしいものはすべて排除していきます。
デカルトによれば、人間の感覚はもちろん、外界の存在や、数学的真理ですら、
すべては疑わしいということになります。
こうやってすべてをとことん疑い排除していった結果、
しかし、こうして私が一切を疑っているという事実だけは疑いえない、という結論に達します。
その事実をデカルトは、コギトと言い表したのです。

どうです、「我思う」 なんていう、
皆さんがぼーっと物思いにふけっているようなイメージとはまったく違うでしょう。
「私は考える」 でもまだ足りないくらいです。
ここははっきりと 「私は疑っている、ゆえに私は存在している」 と訳したいくらいです。
コギトというのはそれぐらい強靱な精神活動のことなのです。
以前に、哲学とは 「知への愛」 であるけれども、
その場合の 「知」 とはイコール 「疑」 なのであると書きました。
哲学にとってはこの 「疑う」 という営みが最も重要なのです。
何でも疑ってかかることができるようになったら、
あなたはもう立派な哲学者だと言えるでしょう。
そうなったときには下手するともう常識的な一般市民として生きていくことは、
難しくなってしまっているかもしれませんが、
みんなからヘンなオジサン、ヘンなオバサンとして一目置いてもらえることはまちがいないでしょう。

なお、ほかにもこんな質問↓を頂戴していましたが、

Q2.哲学の先生は普通の人とココが違うと自分で思うことは何ですか?
Q3.哲学者はどういう性格の人が向いているか?

これらにも同様のお答えを返しておこうと思います。

A2.何でも疑ってかかるところです。
A3.何でも疑ってみることのできる人が向いています。

ふぅ、看護学校の授業も終わってしまったというのに、
全部お答えし切れていない質問が山のように残っていて、ちょっと気がかりだったのですが、
一気に3つも片づけることができました。
みんなは今ごろ看護実習の真っ最中でしょう。
とりあえず哲学のことは置いておいて、
目の前に病気で苦しんでいる患者さんがいることを疑ったりせずに、
これまで看護学校で学んできた知識や技術や心構えをしっかりと信じて、
自分の理想の看護を実践してみてください。

倫理学と男女平等

2010-05-21 16:00:00 | 性愛の倫理学
今日は共通領域 (いわゆるパンキョーの授業です) の 「ジェンダーと現代」 という授業で、
1年生250名くらいを相手に講義をしてきました。
この科目は総合科目というくくりで、いろいろな専門の先生方や社会人の方々にも加わっていただき、
1人1コマぐらいずつ、さまざまな角度からジェンダーを論じていくオムニバス形式の講義です。
私は今までこの授業には関わっていなかったのですが、
3月に入ってから急遽、今年度この授業の中で1回話してくれませんかと頼まれ、
講師の手配に困っていらっしゃったようなので、
まあ1回くらいならいいですよと軽い気持でお引き受けしました。
ジェンダーとかフェミニズムとか男女平等の問題というのは、
私のなかでも大事なテーマのひとつなのですが、
それを直接の研究対象としているわけではありませんので、
よく考えてみると、これまで大学の授業のなかでこのテーマで講義したことは一度もありませんでした。
引き受けた時点で何を話そうというビジョンがあったわけではないのですが、
まあこのブログのなかの 「性愛の倫理学」 のカテゴリーに書いてあることとかを、
テキトーに組み合わせて話していけば90分くらいは何とかなるだろうとタカをくくっていたわけです。

で、「明日できることは今日やらない」 主義の私のことですから、
それっきり放りっぱなしにしているうちに今週になってしまい、
ようやく重い腰を上げて準備を始めたわけです。
まず最初にやったのはシラバス (詳しい授業内容紹介のこと) を見てみることでした (学生かっ!)。
授業の趣旨がわからないことには話の内容を組み立てられませんから。
しかし、今さら初めて見てみてちょっととまどいました。
「多様な専門家がジェンダーの視点によって地域の多面的な現実を解読しながら、
 ジェンダー主流化はどこまできて、これからどこへ向かうのだろうか、
 ともに考えていくことにしたい。」
なんて書いてあります。
全体としてジェンダー主流化 (男女共同参画社会の実現に向けた動きのことをこう呼んでいるようです)
の流れを自明のものとして受け止めて、
その上でそれがどこまでうまくいっていて、今後どうやってそれを推進していったらいいか、
を考えていく講義のようなのです。
私個人としてはその流れに同意していますが、
倫理学者としてはそこを自明視できるほど社会的合意が形成されてはいないだろうと思っていますので、
この講義のなかでの立ち位置をどう定めようかちょっと苦慮しました。
このブログのこのカテゴリーでも、これまであまりジェンダー的な問題を取り上げてはいません。
むしろ、男がいて女がいてそこにどう恋が芽生えるかとか、男と女はどう違うかとか、
最近では、精力を維持するにはどうしたらいいかみたいな話ばかりしてしまっています。
(しばらく前に引用した 「セックス・ルール」 の話が数少ないフェミニズムの立場からの話でしたが…)
そんな話をこの授業のなかでしたらコーディネーターのK先生にこっぴどく叱られるだろうなあ、
とか考えながらどうやってこの1回を乗り切るか頭を悩ませたわけです。

悩んだとはいってもそんなに時間がありませんから、
けっきょく 「倫理学と男女平等」 というタイトルにして、
倫理学という学問の特性を強調しながら、
少しラディカル (根本的) に考えてもらって、
男女が平等であるべきだ、という理念ですら自明のものではなく、
現実に今でもそんなことまったく考えていない人たちもいるのだから、
まずは、男女は本当に平等であるべきなのか、なぜそうなのか、
ということからきっちり考えて理論化しておく必要がありますよとか、
平等であるべきだとしても、じゃあ男女が平等であるってどういうことなのか、
ちがいを無視して均質化するのが平等なのか、
ちがいを尊重してそれぞれのちがいに対応するのが平等なのかとか、
そういう根源的なことを考えてもらって、すぐに答えは出せないかもしれないけど、
でもずっと考え続けていってほしいなあ、ということを伝えることにいたしました。

とはいえ、こんな話を最初っからしてしまったら1年生にどん引きされてしまいますから、
最初は自己開示から始めて、大学時代や自分の結婚生活とかの話をし、
自分は同年代のなかでもわりとジェンダーバイアスのかかっていなかったほうだと思うけど、
それでも社交ダンスという性別役割分業、男尊女卑の権化のようなスポーツにはまり、
まったく悪いこととも思わずに、今でいうセクハラ (当時はそんな概念がありませんでしたが) を、
毎日のように繰り返していた、なんていう暴露話からスタートしました。
そこからしだいに、倫理学という学問は新しいものの見方を提供する学問であり、
「人権」 というのもこれは人類が生んだ画期的なものの見方のひとつだし、
「ジェンダー」 や 「男女平等」 なんてまだできたてほやほやのホントに真新しい価値観にすぎなくて、
新しいものの見方ができたことによって、世界はガラッと変わってしまうけど、
この新しいものの見方を承認する人、伝えていく人びとがいなくなれば、
すぐに別の見方に取って代わられてしまう可能性があるのだ、という話をしていきました。

最後は難しい応用問題として、
「男女共同参画社会基本法」 と 「セクシャル・ハラスメント」 の2つを取り上げ、
長い間蓄積してきた差別や抑圧を是正するための方策としてそれらは評価されるべきであるけれども、
(特に 「セクハラ」 という新しいものの見方は確実に人類を進歩させたと思うけれども)
そこには逆差別とか濫用の危険性とかが潜んでいるのだということを話し、
すごーく難しくて最後の最後まですっきりした答えは出ないけれども、
それでも考え続けて、人類がせっかく生みだした新しいものの見方を伝え広めていってほしい、
というメッセージを投げかけて授業を終えました。
最後までみんな静かに私の講義を聞いてくれて、最後は盛大な拍手を送ってくださいましたので、
講師冥利に尽きるとはこのことをいうのでしょう。
まだ感想用紙を読ませてもらっていませんが、
はたしてこのわけのわからない講義をどこまで理解してもらえたのか興味津々です。
最後まで聞いてくれて (そして最後までこのブログを読んでくれて) どうもありがとうございました

フゥ、単発大講義の多い1週間であった
明日はNHKカルチャースクールの2回目だっ
今から準備しよっと

夢の靴 MBT

2010-05-20 18:23:23 | がんばらないダイエット
最近、東京のほうではけっこう流行っているらしいのですが、
私はこのところ 「MBT」 という靴をよく履いています。
この名前と、謳い文句がすごいんです。
MBTというのは Masai Barefoot Technology の頭文字です。
アフリカのマサイ族の人たちってみんな痩せていますが、
それは舗装されていない柔らかくて平坦ではない地面を裸足で歩いているから、
それによって現代人よりも多くのカロリーを消費しているのだということで、
彼らの歩きを再現するようなテクノロジーをもった靴を開発したのが、
MBT (= マサイ族の裸足のテクノロジー) なんだそうです。
これを履いて正しい歩き方をするだけでダイエットができるということで、
謳い文句は 「世界最小のフィットネススタジオ」
さらには 「The Anti-Shoe」 とも名乗っており、
これまでの靴に反対しています。
ものすごい自信ですね。

たしかに今までの靴とはまったく異なるヘンな靴です。
写真をご覧ください。
靴底が丸みを帯びています。
これによって、ただ立っているだけでもグラグラしてしまうというか、
とっても不安定なんです。
しかも靴底部分が厚いです。
そのなかにマサイセンサーという特許取得ずみの技術が仕込まれており、
これがまたよりいっそう靴の不安定感を高めてくれるのです。

MBTを履いて歩くだけでフィットネススタジオに通うくらいの効果が現れるのだとしたら、
これはまさに 「がんばらないダイエット」 と言えるでしょう。
1足25,000円から40,000円くらいしますが、
ジムに通ったり、ヒルズダイエットを買うことを考えれば安いもんです。
私は写真のやつのほかに、もう1足持っています。
まあ見た目が丸まっちくてオシャレでないので、
ドレスアップしているときなどにはちょっと履く気がせず、
そのため毎日使うということができずにいますが、
私の妻なんかはブーツも含めて5足くらい持っていて、
しかもサンダルを室内用にしてしまってもう四六時中履いています。

問題は効果のほどですね。
実を言うと私は1年前から履き始めています。
で、効果が検証されたらブログでご報告しようとずっと思っていたんですが、
残念ながら、目立った効果が出ずにいたので、
これまでなにも報告できずにきました。
しかも効果が出るどころか、そのうち人生最重量記録を更新してしまっていましたし…。
やはり、電車通勤になったとはいえ、
都会の生活に比べて圧倒的に歩く時間や歩数が少ないので、
せっかくのMBTも宝の持ち腐れだったのでしょうか?
しかしながら、近いうちに悦ばしい知らせをご報告できそうな気配です。
先日も書いたように、「がんばらないダイエット」 にはいろいろ取り組んできたので、
万が一効果が現れたとしても、
どれが一番効いたのかははっきりしないということになるのですが、
だからこそ、そのときに向けて、自分が取り組んできた 「がんばらないダイエット」 を、
片っ端から全部ご紹介しておこうとしているわけです。
というわけで、本当に 「夢の靴」 なのかどうかはよくわからないのですが、
どなたか騙されたと思って、私の代わりにMBT単独での効果を検証してみてくれませんか?

Will - Can = Must

2010-05-19 12:46:00 | お仕事のオキテ
このあいだの日曜日、キャリアカウンセラーのスキルアップ研修を受けてきました。
キャリアカウンセラー (正確にはCDA、キャリアディベロップメントアドバイザー)
の資格を維持するためには、
定期的に研修を受けてポイントをためておかなくてはいけないのですが、
このところサボり気味だったので、久しぶりに一念発起です。
「ホランド理論をやさしく学ぶ!!」 というテーマだったので、
理論好きの私としては重い腰をあげやすかったといえるでしょう。
講師は弓ちひろ先生とおっしゃる方で、私は初めてお会いしましたが、
とてもクリアな説明で、お話を聞いていると頭の中がすっきり整理されていくようでした。

ホランドという人は、人間には6つの特性があり、
仕事にも同じ6つの特性がある、ということを理論化した心理学者です。
自分のタイプに合った仕事を選ぶことができると、
働いていて充実感を感じることができ、不適応をおこさずにすむという、
キャリアカウンセリングの世界では有名なマッチング理論を打ち立て、
彼の理論に基づいていくつかのフォーマル・アセスメントが開発されています。
今回の研修ではそのうちの1つ、VPIというアセスメントを実際に行い、
それに基づいてどのようにカウンセリングを進めていったらいいかを、
グループ演習などを行いながら学んでいきました。

で、ちょうどその翌日、月曜日の1限に 「キャリア形成論」 という授業があり、
私が担当する回だったので、
この研修会で弓先生から聞いたことを2つほど、
さっそく学生たちの前で話してしまいました。
あたかも自分が考えたことであるかのように。
あいかわらず 「授業はパクってナンボ」 を実践中です。

パクリその1。
「自己分析は1度やっておしまいではダメです。
 少なくとも1年に1回はやるようにしましょう。
 経験に伴って興味や価値観は変わっていくものです。
 人間は日々成長しているのです。
 変わりゆく自分をその時々把握するようにしましょう。」

弓先生のお話では 「アセスメントは年に1回やるようにしましょう」 という話でしたが、
それを授業の内容に合わせて、「自己分析」 に置き換えて話しました。
学生の場合、自己分析をさせても1年生の段階ではあまり書けない子が多いので、
今は書けなくても、次にやるときには書けることがたくさん増えているように、
学生生活を充実させて、いろいろ経験していこうね、
と話してあげると安心する子が多いため、その流れで上記の話を付け加えたわけです。
この話、けっこうヒットしたようで、
ワークシートで関連するコメントを書いてくれた学生がたくさんいました。

「毎年やってみるといいということだったので、
 この授業だけで終わらせずに、毎年これからもやってみたいと思った。
 1年後、2年後の自分がどのように変わっているのか、
 自己分析するのがすこし楽しみになった。」

うーん、素直ないい子たちだ。

パクリその2。
「Will - Can = Must
 なりたい自分(Will)から、今の私ができること(Can)を引いてあげると、
 課題、つまり、これから身につけなければいけないこと(Must)がわかってきます。
 課題を明らかにするためにも、常に自己分析をしておくようにしましょう。」

こちらはもう大ホームランでしたね。
この授業では「自分を成長させるために自分にちょっとだけ負荷をかけてみよう!」
と話しているのですが、この公式はまさにその負荷の説明になっているわけです。
「Will - Can = Must」と大きく板書しただけで、
みんな、なにあれ?、みたいな感じで興味津々で、
説明してあげたらものすごくうなずいて、一生懸命ノートを取っていました。

「will - can = must  ← その通りだと思いました。
 今は、差が大きいですが、これから縮めていきたいです。」

「will - can = must (4年間でやらなければならないこと)
 自己分析によって「自分がどういう人間であるのか」が明確に見えてきた結果、
 現在から未来にかけてやらなければならないことが浮かび上がってきて、
 一層情熱が湧いてきた。」

おおっ、300人相手の大講義で学生の情熱をかきたててしまうなんて、すごいじゃないですか。
最新の(昨日教わったばかりの)知識を受け売りしただけなのに、効果覿面、大成功です。
やはり研修というのは大事ですね。
弓先生、本当にありがとうございました。
また、バンデューラやシャインの理論などを教えにぜひ仙台までいらしてください

階段ダイエット

2010-05-18 19:38:57 | がんばらないダイエット
これは 「がんばらないダイエット」 ではなく、「少しはがんばるダイエット」 だと思いますが、

わたくし 「階段ダイエット」 というものを実践しております。

私の研究室は、7階建ての建物の7階にあります。

そうするとついついエレベーターに乗りたくなってしまうんですが、

そこをガマンして階段で7階まで上り下りするというのが 「階段ダイエット」 です。

同じ7階にいる特別支援クラスのH先生 (侍みたいなカッコいい先生) が、

福島大学にいらした頃からずっと階段を使われていて、

スッゲェなあと思いつつも、自分ではとうていやる気になれなかったのですが、

体型がピンチになってきて以来、ときどきマネしてやってみるようになっていたのです。

で、しばらくはちゃんと階段を使っているんですが、

たまたまエレベーターホールあたりで他の先生と一緒になってしまうとか、

生協でご飯食べすぎた直後でお腹がものすごく重いとかいうときなど、

なにかの機会にエレベーターを一度使ってしまうと、

そのままエレベーター生活に戻ってしまい、

三日坊主で終わるということがこれまで何度もありました。

やはり、7階まで階段で上るわけですから、

全然がんばらないですむというわけにはいきません。

しかも、階段のすぐ脇にエレベーターがあるので、

毎回、意志の強さを試されるわけです。

「がんばらないダイエット」 なんて言ってる人間に意志の強さがあるわけありませんから、

あっさり誘惑に負けてしまうという結果に落ち着くわけです。

もうひとつの難点は、これだけではなかなか成果が現れないという問題があります。

息が上がるほど苦しいんですが、せいぜい6階分の階段を上がるだけですから、

所要時間は大したことありませんし、

それを1日にほんの数回やったくらいで、目に見える成果が出てくるわけありません。

するとモチベーションは下がり、すぐに誘惑に負けてしまうということになるわけです。

しかし、今回はけっこう続いています。

もうかれこれ1ヶ月くらい 「階段ダイエット」 を続けているんではないでしょうか。

おそらく、「朝だけ断食」 = 「石原式基本食」 と組み合わせてやっているので、

若干成果が出つつあり (これについてはそのうち書きます)、

そのためやる気が維持されているのでしょう。

組み合わせてやってしまうと、どれが効果的だったのか検証できなくなってしまうのですが、

どれが一番効果があったかを調べるのが目的ではなく、

あくまでもダイエットに成功することが目的ですので、

どんな卑怯な手を使ってでも、今回は痩せてやろうと思っております。



P.S.

クソー、今日こそはこの半分くらいの長さで終えるつもりだったのに、

けっきょくまたこんなに長くなってしまった

話が長いっ!

2010-05-17 19:10:45 | お仕事のオキテ
先週久しぶりにスナックに飲みに行きました。

もう長い付き合いの 「銀河倶楽部」 というお店です。

たいていはベロベロに酔っぱらったあげくに行って、

イスに座らずにそこいらで踊りまくったり、カウンターの上に寝転がったり、

ありえない大声で 「TRAIN TRAIN」 や 「あんたのバラード」 を絶唱したりして、

いつもご迷惑をおかけしている、私としては頭の上がらないお店です。

こちらのママさんと女の子の1人が、私のこのブログの読者で、

しかもこのどうでもいいブログの内容をよく覚えてくださっていて、

先週も、以前書いて私がもう忘れてしまっているような記事の話になったりして、

盛り上がっておりました (まあ、プロとしてお客さんに関する情報を収集しているだけでしょうが…)。

そのときに言われたことなのですが、

お2人はパソコンではなく、ケータイで読んでくださっているらしいのですが、

私のブログを最後まで読めないことが多いのだそうです。

私のブログって文章が長いですからね。

たしかに、その自覚はあるんです。

私だって本当は短いブログを書きたいと思っているんです。

というか書き始める前は、そんなに長く書くつもりなんてまったくないんです。

まれに短い記事を書いたときは、今日のように1行おきにしていますが、

実は、たいてい書き始めるときは、1行飛ばしで書いているんです。

ところが、書いてるうちにどんどん長くなってしまって、

1行飛ばしだとどれだけスクロールしても終わらないくらいになっちゃうので、

けっきょく途中で改行を全部 delete したりしているのです。

先週ブログが長いと指摘されて以降に書いた、

「可逆的冬? or 不可逆的梅雨?」 とか 「満腹感」 とか 「今さら地デジ対応」 なんて、

どれも短く終えるつもりだったので、最初は1行飛ばしで書いていたんです。

なのに、あんなどうでもいい話題でなんであんなに長くなっちゃうんだろうなあ?

私が敬愛するカント研究者の同志、舟場保之先生のブログ 「ふなちょのお部屋」 は、

(正確にはブログではなくホームページですが、ノリは完全にブログです)

毎日の記事がとても短く、なのに奥深くって、とてもカッコいいんです。

私も毎回あんなふうに書こうと思って書き始めてはいるんです。

でも長くなっちゃうんです。

うーん、悔しい。

そして、この記事もだんだん長くなってきてしまっているではないですか。

今日こそはゼッタイに短く終えようと思って1行飛ばしで書き、

しかもそのことに記事のなかで言及しているというのに、

( 「まれに短い記事を書いたときは、今日のように1行おきにしていますが、」 )

そろそろ1行飛ばしでは読みにくいぐらいの長さになってしまっているではないですか。

ああ、いかんいかん。この5行がそもそも不要なんだ。だから長くなっちゃうんだ。

だれか助けてくれ~

この指を止めてくれ~

優子ママにカオリさん、きっと今日も最後まで読めませんね。

ごめんなさい

あっ、最後まで読めないんだから、ここで謝っても意味ないかっ。

あっ、これも不要だっ。

ああ~、無限ループにはまってしまったあ

終わらないーっ