まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.倫理と法律は何が違うのですか?

2016-09-10 11:27:27 | 哲学・倫理学ファック
いい質問ですね。
倫理学者として答えがいのある問いです。
今年は他にもこれと関連するような質問もいただいています。
順次お答えしていくことにしたいと思います。

さて、まずは今日の質問、倫理と法律の違いについてですが、
これにお答えするのは意外と難しいです。
というのは、法律に関してはだいたい皆さんある程度共通の語感やイメージを抱いていて、
それは大筋で合っている場合が多いのですが、
倫理に関しては、日本語だけで考えるとやはりある程度の共通イメージはあるかもしれませんが、
学問的に言うと明治時代に ethics の訳語として使われるようになった言葉であり、
そのもともとの ethics は歴史の流れのなかでいろいろな意味で用いられてきたので、
倫理とは何かというのを一義的に確定するのが難しいのです。
その話を以前に書いたことがありますので、まずはそちらの記事を読んでみてください。

「Q.道徳と倫理の違いはなんですか?」

読んでくれましたか?
わかりやすく書いたつもりですけど、もともと込み入った話なので、
たぶんわかりにくかっただろうと思います。
今日の質問に答えるために必要な分だけ簡単にまとめるとこうなります。
倫理には広い意味と狭い意味があります。
広い意味の倫理は、人間集団のなかに生じてくる決まり事やルールすべてを意味しています。
したがって法律も人間社会のルールの一種ですから、
法律は広い意味の倫理のなかに含まれることになります。
これに対して狭い意味での倫理は、人間集団のなかに生じてくる決まり事やルールのなかでも、
法律のような強制力をもっていないもののみを指して使われます。
習慣とかマナーといったようなものですね。
したがって狭い意味の倫理は法律とは対置され、はっきりと区別されることになります。
ここまでおわかりいただけたでしょうか。
したがって今日の質問に答えるためには、使われている倫理という言葉が、
広い意味なのか狭い意味なのかを確定しないといけないのです。

まあたぶん、「何が違うのですか?」 と聞いているということは、
今日の質問者の方は倫理と法律を違うものと捉えているわけで、
つまり狭い意味での倫理と法律との違いを聞いてくださったのでしょう。
おそらく大部分の日本人は倫理という語をそういうふうに狭い意味で理解しています。
私は自分の専門研究 (カント倫理学に関する) で論文を書くときには、
皆さんと同じように ethics を狭い意味で用いますが (カント自身がそういう使い方をしているので)、
大学や専門学校で授業をするときには広い意味で使うようにしています。
法律も含めてすべてのルールや決まり事のことを論じられたほうが楽しいからです。
その立場で今日の質問に答えると次のようになります。

Aー1.法律は国家が定めた強制力のあるルールで、
    (広い意味での) 倫理は、法律も含めてその他どのような形であれ、
    人間集団のなかに形作られるあらゆるルールや決まり事のことです。

続いて質問者の意図に沿った形で、狭い意味の倫理と法律との違いを考えてみましょう。
人間集団のなかにまず最初に生まれたのは、
暗黙の了解という形での習慣のようなものだったろうと思われます。
それは言語や国家が発明される前から存在していたのではないかと思います。
現代の私たちのなかにも、はっきりと言語化されているわけではない暗黙のルールみたいなものってありますよね。
うーん、何だろう?
例えば、イスには1人ずつ座るとか?
電車で座っていたら知らない人が膝の上に乗っかってきたなんてことは今までなかったですよね。
そんなこと家でも学校でも地域でも教わったこともなければ、
世界中のどこでもわざわざ確認されたこともないと思いますが、
たぶん地球上のどこでも共有されているルール (=倫理) ではないでしょうか?
そういうのから始まって、次は口約束のように言語 (まずは話し言葉) で確認されたルールが生まれ、
それがさらに成文化、すなわち文字によって記録されていくようになるのだと思います。

これは集団がだんだん大きくなっていくのに伴う流れでもあったでしょう。
少人数集団であれば言語的確認がなくともルールは成立したかもしれませんが、
ある程度の大きな集団が成立すると、はっきりと言語で確認する必要が出てきますし、
さらに大きな集団になれば全員といちいち話し合って確認し合うことはできませんので、
文字として残しておくという必要も出てきたでしょう。
マナーや習慣やある集団内の規則 (例えば校則や倫理規定など) といったものは、
必要に応じてこれらのいずれかの形態をとっていることでしょう。
こういったものを (狭い意味での) 倫理と呼ぶとすると、
これらと法律はどこが異なっているのでしょうか?

法律は少なくとも成文化されている必要があると思います。
(この点に関しては法律の専門家ではないのであまり自信はありませんが…)
しかし、成文化されているものがすべて法律かというとそんなことはありません。
校則は成文化されていますが法律ではありませんし、
家庭内のルールを成文化しているという家もあるかもしれませんが、それも法律ではありません。

法律と (狭い意味での) 倫理を区別する一番重要なポイントは、
先ほどから何回か出てきましたが、強制力があるという点です。
つまり、そのルールを守らなかった人がいた場合に罰則を科することができるということです。
しかも、違反者に罰を与えるためにはそれ相応の力 (=権力、暴力装置) が必要です。
警察や刑務所のような組織がないと違反者を捕まえたり、刑に服させたりすることができません。
そういう強制力があるかないかというのが一番の違いでしょう。

しかし、法律でなくともある程度の強制力をもっていて罰を科することができる倫理は他にもあります。
校則や職場の服務規程などは、その集団内においてはある種の強制力をもち、
違反者に罰が科されたりします。
そうすると、校則や服務規程などの倫理と法律とではどこが違うのでしょうか。
それはおそらく先に述べた集団の大きさということになるでしょう。
つまり、法律というのはさしあたり国家という大規模な集団が定めるものです。
国家のなかには大小さまざまな集団が含まれていますが、
そのうちのどの集団に属していようと関係なく、
国家のなかで活動する人間は皆、その国家が定める法律に従わなくてはなりません。
そして先ほど述べた強制力も、まさにこの国家が占有しているわけです。
というわけで法律には国家とその強制力が後ろ盾としてくっついています。
それが法律とその他の倫理との違いと言えるのではないでしょうか。

大きな違いとしてはそんなところです。
他にも、それに付随するいくつかの違いがありますが、
もう疲れたのでそれはまた別の機会にしたいと思います。
先ほどとあまり違いはありませんが、法律と狭い意味での倫理との違いをまとめるとこうなります。

A-2.法律は国家が定めた強制力のあるルールで、
    それ以外の、人間集団のなかに形作られるさまざまなルールや決まり事が、
    (狭い意味での) 倫理ということになります。

なんか頑張ったわりにはつまらないまとめになってしまいました。
もうちょっとカッコいいことが書けそうな気がしてたんだけどなあ。
どうも気に入らないのでそのうち書き直すかもしれません。
とりあえず今日のところはこれで勘弁してください。

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3 コメント

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法と道徳の峻別 (大塚要治)
2016-09-22 22:42:02
自分の不勉強に慙愧に堪えないながらも、それを棚に上げてのお尋ねです。
今、たまたま、樋口陽一氏と小林節氏の対論『「憲法改正」の真実』を読んでいて、法と道徳を峻別するのが近代法の大原則で、自民党が憲法草案に道徳やら倫理やらを盛り込むのは時代錯誤である、との指摘を目にしました。「家族を尊重せよ」とは道徳である。憲法に道徳をもちこむことの危険性として、思想統制の根拠となっていく可能性がある。教育勅語渙発の直後では、教育勅語は道徳規範であって、国務大臣の輔弼事項ではない、つまり、教育勅語を法としては認めていない、という了解があった。ところが、この輔弼事項ではないことをいいことに、天皇御みずからの直声であるとして、逆に神聖視されるという顛末があった。自民党の戦前郷愁派はファシズム的な絶対的な権力をもつ存在に憧れている。自民党草案は家族条項の中で、道徳観念に触れるものを、国家を縛るのではなく国民を縛る規定として盛っている。国家による国民の道徳への介入である。 
 これを読むと、小野原さんの、法律は「国家が定めた強制力のあるルール」というご説明にどうしても飽き足らなさを感じてしまうのですが、如何でしょうか。本当は私自身がきちんと反論できないといけないのですが、積年の付けが回っています。
上手い回答が出て来ません。糸口すら今は思い当たりません。自民党の改憲草案に、また、極右の論客に足元を掬われないような、強固な論理的説明が欲しいのですが、「法律にしてはいけない道徳がある、それは何か?」という問いが可能でしょうか。大塚拝
力及ばず… (まさおさま)
2016-09-22 22:43:28
大塚さん、コメントありがとうございました。
まさにその通りで、ぼくもこの記事を書き始めたときは、ではどのようなルール(倫理)は法律として外的強制力を与えられてもよく、どのようなルールにはそのような外的強制力を付与してはならないのか、という点まで書きたいと思っていたのですが、そこまで行き着かないうちに力尽きてしまいました。「法律にしてはいけない道徳がある、それは何か?」 という問い、そのうち頭の中が整理できたら書いてみたいと思います。
神はサイコロ遊びをする (ああいえばこういう熱力学)
2024-03-18 12:28:56
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の考えることを模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。一神教から多神教的何かへ。なにかしら懐かしい日本らしさへの回帰。

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