まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

相馬ドライブへんてこ看板

2013-04-30 16:44:06 | 人間文化論
福島-相馬間の60kmの道のりは自然に恵まれ、

桜の季節から新緑の季節へと移り変わりつつあります。

早朝の1時間半のドライブはたいへんと言えばたいへんですが、

自然ギライの私にとっては数少ない自然と触れ合う機会ですので貴重です。

クルマから下りてまで触れ合いたいとは思いませんが、

車窓から見る田園風景は心を和ませてくれます。

しかし、それ以上に心和ませてくれるのは、やはり人間が作った人為としての文化のほうでしょう。

昨年はこんな看板のことを紹介しましたが、

あの看板はあいかわらずドーンと立てられたままでした。

たぶん 「カマス」 の意味がわからないので借り主が現れないのでしょう。

この道にはあれ以外にも、以前から気になっていた看板がありました。

これは相馬から福島に戻る途中、霊山こどもの村からずーっと山を下ってきて、

角にセブンイレブンのある信号つきの交差点のちょっと手前のところにある看板です。

こんな感じ。



なにか危険を訴えているようですが、これではよく見えませんね。

もうちょっとアップにしてみましょう。



「減速下さい」

いやまあ 「カマス」 同様、意味はわかるんですが、なんでそうなっちゃうかなあ?

日本語文化にうるさい私としては、「そんな日本語はないっ」 と声を大にして言いたいです。

あと2本看板を増やして 「減速して下さい」 ってちゃんとお願いしましょうよ。

「減速下さい」 ってなんだか、

子どもが駄菓子屋に行って 「あんず飴下さい」 って言ってるみたいじゃないですか。

福島の看板業者の皆さん、ぜひ私に文字の校閲の仕事をやらせてください。

Q.生と死について先生はどう考えていますか?

2013-04-29 16:00:32 | 生老病死の倫理学
これについてはすでにブログのなかで何度か関連することを書いていたので、

もっと早くにインデックスとかでご紹介してもよかったんですが、

第3回目の授業で扱うつもりでいましたから、わざと後回しにしていました。

第3回目の授業では死んだらどうなるのかについて考えてもらいました。

まずは私が死についてどう考えているか、以下をご覧ください。

  「Q.人は死んだらどこへ行くのだと思いますか?」

授業でやったことと関連して、次の2つも見ておいてもらいましょうか。

  「Q.『死んだらどうなるの?』 と聞かれたら」

  「Q.臨死体験は現実体験 or 脳内現象どちらだと思いますか?」

続いて生についてどう考えているかですが、直接お答えしているわけではありませんが、

以下の2つを読んでもらうとだいたい私の考えがわかるだろうと思います。

  「Q.人間として一番大切なことは何ですか?」

  「Q.自殺をどう思いますか?」

あくまでも私の個人的意見にすぎませんので、参考程度に読んでいただければと思います。

『おもひでぽろぽろ』 の自然観

2013-04-28 19:04:00 | 人間文化論


『おもひでぽろぽろ』 の気に入ったところについても書いておく必要があるでしょう。
主人公のタエ子は東京生まれの東京育ちで、田舎というものがありません。
なので子どもの頃から田舎への憧れがありました。
たまたま姉の嫁ぎ先の実家が山形県山形市高瀬地区だったため、
休みを取ってはそこを訪れ、紅花の収穫やら有機農業を手伝わせてもらっています。
ある日、義兄の又従兄弟のトシオに蔵王までドライブに連れて行ってもらいますが、
蔵王は開発され尽くしていてタエ子の思う田舎とは異なり、
高瀬地区に戻ってきて2人はこんな会話を交わします。

タエ子 「あああー、やっぱりこれが田舎なのね。本物の田舎。蔵王はちがう。」
トシオ 「うーん、田舎かぁ。」
タエ子 「あ、ごめんなさい、田舎、田舎って。」
トシオ 「いや、それって大事なことなんですよ。」
タエ子 「え?」
トシオ 「うん、都会の人は森や林や水の流れなんか見て、すぐ自然だ自然だってありがたがるでしょ。でも、ま山奥はともかく、田舎の景色ってやつはみんな人間が作ったものなんですよ。」
タエ子 「人間が?」
トシオ 「そう、百姓が。」
タエ子 「あの森も?」
トシオ 「そう。」
タエ子 「あの林も?」
トシオ 「そう。」
タエ子 「この小川も?」
トシオ 「そう。田んぼや畑だけじゃないんです。みんなちゃーんと歴史があってね。どこそこの曾祖父さんが植えたとか開いたとか、大昔から薪や落ち葉や茸を採っていたとか。」
タエ子 「はあ、そうっかあ。」
トシオ 「うん。人間が自然と闘ったり、自然からいろんなものをもらったりして暮らしているうちにうまいこと出来上がってきた景色なんですよ、これは。」
タエ子 「じゃ、人間がいなかったらこんな景色にならなかった。」
トシオ 「うん。百姓は絶えず自然からもらい続けなきゃ生きていかれないでしょ。だから、自然にもねずーっと生きててもらえるように、百姓のほうもいろいろやってきたんです。ま、自然と人間の共同作業っていうかな。そんなのがたぶん田舎なんですよ。」
タエ子 「そっかあ。それで懐かしいんだあ。生まれて育ったわけでもないのに、どうしてここがふるさとって気がするのか、ずーっと考えてたの。はぁ、そうだったんだ。」

このシーンが私のお気に入りです。
私の 「人間文化論」 とも合致しています。
私たちのまわりには本物の自然というものはもはやほとんど存在しない。
田舎の自然というものも実は人間たちが長い時間をかけて手を入れて作り上げてきた、
「文化」 にほかならない。
誰も足を踏み入れない山奥とかジャングルの奥地でもないかぎり、
私たちが 「自然」 と思って見ているものはすべて人間が生み出した 「文化」 なのです。

タエ子はこのあと、いろいろな農業体験をさせてもらい、
すっかり田舎を知ったつもりになって得意になっていますが、
東京へ帰る直前になって自分の甘さを思い知らされることになります。
そして、小学校時代のあべくんのことを思い出しています。
あべくんは田舎から転校してきた子で、すべてが田舎くさく汚らしいので、
みんなから嫌われています。
隣に座ることになったタエ子は、そんな同級生たちを軽蔑していますが、
心の底ではタエ子自身もあべくんのことを嫌悪していて、
あべくんにもそのことを見透かされていました。
都会の人が懐く田舎や自然への憧れというものの実体を、
ひじょうに客観的に捉えたエピソードだと思いました。
完全に自然ギライの方向に突き進んだ私と、
田舎への憧れを懐き続けたタエ子とは最終的に別々の道を歩むことになりましたが、
田舎や自然への憧れというものの両義性を描き出したところが、
この作品の大きなポイントだったと言えるのではないでしょうか。

『おもひでぽろぽろ』 に見る昭和時代の家庭教育

2013-04-26 16:19:39 | 教育のエチカ
ある方からジブリの 『おもひでぽろぽろ』 は必見と薦められまして、遅ればせながら見てみました。
見てみての感想ですが、うーん、なんと言ったらいいかなあ、
ところどころ共感できるシーンやセリフもあったんですが、
全体としてはどうもこの映画の世界に入り込んでいくことができませんでした。
気に入った部分はまた別の機会に書くことにして、
今日はどこがダメだったかを書き記しておこうと思います。
毎度のことですが、これはあくまでも私個人の私的な感想というか受け止め方ですので、
そんなものによってこの作品の価値が影響を受けるわけではありません。

まずダメだったのが絵と声でした。
ストーリーは、主人公・岡島タエ子の現在 (1982年、27歳) と、
小学校5年生時 (1966年、10歳) とを行ったり来たりしながら進んでいくんですが、
27歳のタエ子の顔にほうれい線が出たり消えたりするんですよ。
ほうれい線がないバージョンはこんな感じ。



これはまあかわいいですよね。
ところがほうれい線があるバージョンはこんな感じ。



これどう見ても同じ歳の同じ人物には見えませんよね。
少なくとも10年後、場合によったら20年後の岡島タエ子って感じがするでしょ。
この2種類の顔が同じ場面のなかで何度も交互に出てくるんです。
たぶんほうれい線ではなく、笑ったときの頬骨を描いているつもりなのかもしれませんが、
ちょっとどうなのって気がしませんか?
まあ私ごときが、アニメの大御所スタジオジブリに絵の注文をつけるなんておこがましいんですが、
とにかく気になって気になって物語に集中できませんでした。

そして、声。
27歳の岡島タエ子を吹き替えた今井美樹もわたし的には今ひとつだったんですが、
トシオ役の柳葉敏郎がどうにも受け入れられませんでした。
いや、上手いんです。
東北弁の農家の青年の声をみごとに演じているんですが、
どうにも絵とうまくマッチしないんです。
その声を聞くたんびにトシオではなく、
アフレコをしている柳葉敏郎のことしか頭に浮かんでこないんです。
頼むからそんな大物俳優を起用したりせず、
名もなきプロの声優さんを使ってくれよと思ってしまいます。

という感じでアニメ映画だというのに絵と声でつまずいてしまっているわけですから、
なかなか作品の世界に入っていくことができません。
しかしそれよりも、小学生時代のタエ子のエピソードというのが、
どれもこれもあまりにもかわいそうすぎて正視していられない感じでした。

出だしの感想文のエピソードからしてギョッとします。
タエ子は自分が書いた読書感想文が先生に褒められて、
東京都のコンクールに出すかもしれないっていうことをお母さんに報告するんですが、
お母さんは、タエ子が給食のおかずを残してパンにはさんで持って帰ってきたことに気がついて、
こんなふうに叱るんです。
「好き嫌いばっかりして。
 作文がちょっとくらい上手な子より、
 好き嫌いしないで何でも食べる子のほうがずっとエライのよ。」
もうエーッ?て感じです。
小5のタエ子が不憫で不憫でなりません。
お母さん、今はそんなこと言わなくてもいいのに、
まずは感想文のことをちゃんと褒めてあげればいいのにって思います。
せめて褒めてあげたあとで、でもね、って言ってあげればいいのにって思ってしまいます。
いや、たしかに昭和の時代の家庭教育って、子どものいいところを褒めて伸ばすのではなく、
足りないところできないところを指摘して匡正するっていうのがフツーで、
私も家庭でも学校でもそんなふうに指導されてきましたし、
この映画が公開された1991年の段階でもそれはそんなに変わってなかったと思いますが、
コーチングやら何やらいろんな新しい教育指導法が普及してしまった現代において、
このエピソードを見てみるとなんだか背筋が凍る思いがするのです。

タエ子が生涯でたった一度だけお父さんにほっぺたをぶたれたときのエピソードも理不尽でした。
末っ子のタエ子はなんでもお姉ちゃんたちのお下がりばかりで常々それを不満に思っていますが、
家族でおめかしをして出かけるという日、
お出かけ用のハンドバッグを買ってもらえなくてふてくされ、
お姉ちゃんがイヤイヤ貸してくれたその渡し方にも腹が立って、もう行かないとすねてみせたら、
じゃあ留守番してなさいとみんな自分を置いて出かけようとしてしまいます。
置いて行かれそうになってあわてて 「やっぱり私も行く」 と裸足で外に飛び出していったら、
裸足で出てきたことを理由にお父さんにぶたれてしまうのです。
このエピソードが、父の理不尽な体罰の話としてではなく、
「あの頃の私は我が儘だったなあ」 という思い出として語られるのです。
もう全然意味がわかりません。
岡島家、どうなっているのだ?

そして、算数。
それまでは何とかついていっていたものの、分数の割り算になってタエ子はつまずいてしまいます。
3分の2を4分の1で割るということの意味が理解できないので、
ただ分子と分母を逆にしてかければいいのと教えられてもそれができず、
タエ子は計算問題で全滅してしまいます。
その答案を見て母や姉はタエ子はバカなんじゃないか、IQが低いんじゃないかと大騒ぎします。
そして、母のとどめのひとこと、「普通じゃないの、タエ子は!」
このお母さん、別に児童虐待する特殊な人物ではなく、
基本的にはタエ子をとても愛している優しいお母さんとして描かれているようです。
が、そのちょっとした一言が恐ろしい破壊力を秘めています。
まあでもあの頃は親も先生もみんなこうだったと言えばこうだったかもしれません。
「何やらせても何やってるかわからん」 参照。)
このような家庭に育ってタエ子が心に大きなトラウマを負ったとか、
そういったことはまったくなさそうなので、
たんにタエ子が素直な性格ではなかったということを表すためのエピソードにすぎないんでしょうが、
これも現代的観点からするとちょっと看過しえないお話でした。

最後は芝居のスカウト問題。
タエ子は端役だったにもかかわらず学芸会で自分なりに工夫して演技をし、
それが認められて大学の演劇部の芝居に子役として出演してくれないかとスカウトされます。
自分なりの努力が人に認められたのですからタエ子はどれほどうれしかったことでしょう。
お母さんもお姉さんたちもスカウトされたことを喜んであげますが、
お父さんを交えた夕食の席で、このまま芸能界にデビューかもとか宝塚を受けたらなど、
話を盛ってしまったところ、お父さんは芸能界なんてダメだと芝居出演の話を一蹴してしまいます。
別に芸能界入り云々というような話でも何でもなかったにもかかわらず、
お母さんもお姉さんたちもそれ以上一言もタエ子の加勢をしてあげるでもなく、
芝居に出る話はそのまま立ち消えになってしまいました。
こんなことがあっていいのでしょうか?
その芝居にもしも出られていたら、それによってタエ子はどれほどの学びを得、
どれほど自分に自信をつけ、どれほど人間的に成長を遂げることができていたでしょうか?
その後、芝居の道に進むかどうかなどということとはまったく関係なく、
成功するにせよ失敗するにせよ、他では得がたい貴重な経験を積むことができていたはずなのです。
それをほんの数十分の、話し合いとも呼べないお粗末な家庭談義によって、
もののみごとに潰してしまった岡島家の家庭教育。
なんだかもう本当にタエ子がかわいそうでかわいそうで見ていられませんでした。
挙げ句にお母さんは、タエ子の代わりにその芝居に出ることになった学校の友だちへの気遣いを、
タエ子に向かって厳しい口調で強要するのです。
エエッ、お母さん、そう来ますか。
それはもう虐待と言っていいレベルじゃないですか?
自分の子どもが可愛くはないのですか?
ぼくがタエ子だったら絶対に荒れてますね。
家出するか家庭内暴力かのどっちかでしょう。
こんな仕打ちを受けた子どもが、田舎に憧れる勤勉な女性に育つなんて、
そんなのアニメの世界のなかだけです。

うーん、公開された1991年に見ていたらもっと素直に見ることができたのでしょうか?
あの当時 (公開時または1960年代) はどこの家庭でもこういうのが常識だったんでしょうか?
おそらく制作者サイドはこの岡島家のあり方に何の疑問も抱いていなかったことでしょう。
あの頃の家庭教育を批判するといった意味でこれらのシーンを用意したわけではなく、
たんにタエ子がどんな人間であるかを示すためのエピソードとして描いただけなのでしょう。
映画公開時からほんの20年あまりですが、
その間に教育の常識がガラッと変わってしまったということなのでしょうか?
あの頃の当たり前の教育が、現代から見ると虐待に見えるということなのでしょうか?
たしかにあの頃は体罰とかシゴキとかごく当たり前の教育行為として日常にあふれていました。
反対にコーチングなんて概念そのものがなかったしなあ。
そう考えると教育の世界はこの20年のあいだでガラッと様変わりしてしまったのかもしれません。
だとすると、私ならずとも、今 『おもひでぽろぽろ』 を改めて見た人は、
誰しもが私と同じように上記のようなシーンに対して違和感を覚えてくれるのでしょうか?
ぜひ皆さんも 『おもひでぽろぽろ』 をご覧になってみて、
岡島家の家庭教育についてどう思うかお聞かせ願いたいと思います。
特に、公開当時に見たことのある人は、
あの頃と今とであれらのシーンの受け止め方が変わったかどうか教えていただけたらと思います。
それともたんに私のものの見方がひねくれているだけなのかなあ?
うん、なんかそういう気もしてきた。
私はジブリの映画を見る資格がないのかも…。
昨日に続いて今度は世界中のジブリファンを敵に回してしまったかも
ああ、心配。

Q.アダムとイヴの話って真実ですか?

2013-04-25 18:56:18 | 哲学・倫理学ファック
うわぁ、ヤバイ質問だなあ。
今年の11期生はホントに危ないとこ攻めてきますね。
これ、本気で聞いてるんですか?
それともたんに私を困らせたいだけですか?
あるいは、このブログを炎上させてやろうっていう目論見ですか?
誰が読んでいるかわからないので、これはひじょうに答えにくい質問です。
今日の授業でも死生観 (死んだらどうなるのか?) に関わって、
多くの日本人は信仰や宗教というものに関してルーズだけれど、
世界中の人たちの大多数は確固とした信仰、宗教をもっていて、
それに伴って死生観についても厳格な考えをもっているので、
日本人の感覚でテキトーなことを言ったりしないようにと注意しておきました。
信仰や宗教に触れる問題というのはどこに地雷があるかわかりませんので、
取り扱い上、細心の注意が必要です。

とはいえ、哲学・倫理学研究者としては、宗教やその他の学問が提示している既存の答えに対して、
自由に疑問を提起し、自身の考えを忌憚なく述べる責務も負っています。
ですので、聞かれた以上、率直にお答えするしかないでしょう。
アダムとイヴの話というのは、旧約聖書の 『創世記』 に出てくる人類創造の物語である
ということは皆さんよくご存知のことでしょう。
神が天地を創造し、さまざまな生き物で天地を満たしたあと、
「神の似姿」 としてアダムを創造し、その後アダムのあばら骨からイヴを創造したというお話です。
さて、この話は真実なのでしょうか?

A.アダムとイヴの話は真実ではないと私は思います。

うわあ、今、世界中のキリスト教徒とイスラム教徒の方々を敵に回しちゃったよ。
まあでも自分の思っているところは正直に言うしかないですね。
私は信仰をもっていない無宗教の人間ですし、
(世界標準で言うと、自分は無宗教であるとか無神論者であると公言するのも危険なことです)
科学的知見に基づき、アダムとイヴの話を信じることができません。
神による天地創造という説よりはビッグバン理論のほうがしっくり来ますし、
神によるアダムとイヴの創造という説よりは進化論のほうが納得できます。
(だから先週 「サルから人間への進化」 という話をしたわけです。)
私としては、アダムとイヴの話というのは、人類の起源を説明するために大昔に考え出された、
ひとつの仮説にすぎないと理解しています。
昔の人びとがこの寓話を信じることによって豊かな 「文化」 を築き、
人類の歴史に根づいてきたことは正しく評価されるべきだと思いますし、
現在においてもこれを強固に信じている人びとがいることは尊重されるべきだと思いますが、
私としては、この話自体はもはや支持することのできない仮説のひとつだと考えます。

ここまで読んできてすでに相当気分を害されている方々もいらっしゃると思うので、
これ以上なぜそう考えるのかの根拠等をあげつらうのはやめておきます。
あくまでも、まさおさまの個人的見解として真実ではないと信じているという結論だけを、
一方的に宣言してこの話はおしまいにしておきたいと思います。

有川浩 『阪急電車』

2013-04-23 23:49:30 | 性愛の倫理学
先々週の週末にある方主催のお花見に行き、
私がふだん知り合わないようないろいろな方々と交流を深めてきました。
そのなかの1人に本屋さんに勤めている方がいて、
なんかいろいろ本の話をしているうちに有川浩の話になりました。
有川浩は間もなく実写版映画が公開される 『図書館戦争』 の作者です。
私はもともと有川浩のことも 『図書館戦争』 のことも何も知らなかったんですが、
このあいだ卒業したうちのゼミ生が小説 『図書館戦争』 の大ファンで、
その影響で卒論のテーマを 「図書館員の倫理」 と設定して卒論を書き上げました。
私は 『図書館戦争』 というタイトルを聞いて、
「図書館」 という概念と 「戦争」 という概念を結びつける意味がまったくわからず、
何の興味も引かれなかったんですが、彼女からいろいろと熱い説明を受けているうちに、
とりあえずちょっと読んでみようかなという気になり、
読んでみたらハマってしまってシリーズ全巻あっという間に読破してしまいました。
『図書館戦争』 についてはそのうちいくつかの観点から論じてみたいと思っています。

さて、お花見に話を戻すと、その本屋さんの方は有川浩なら絶対に、
『阪急電車』 がオススメと教えてくださいました。
自分の本の趣味はちょっとフツーと違っているとずーっと思っていましたので、
人に本を薦めたことも、人に本を薦めてもらったこともあまりなかったのですが、
昨年あたりから人から薦められた本がほとんどアタリで、
あ、こうやって自分の世界って広がっていくんだなあと、
51歳にもなってやっと実感していましたので、
『阪急電車』 もぜひ読んでみようと思って、すぐに本屋さんでゲットして読んでみました。
みごとにアタリでした。
一気に読み終わってしまいました。

この本、いろんな読み方が可能な本なのですが、
ちょうど昨日、青春の思い出の話を論じたばかりですので、
今日のところはそれに絡めて話を進めてみたいと思います。
この小説では、恋の終わりのところも描かれていますが、
それよりも恋の始めのお話というのがいくつかあって、
それがけっこう胸キュンです。
まあ、現実にはこんなにすんなり恋は始まらないよなあとも思いますが、
偶然を必然へと変えていくその戦略が描かれていて参考になります。
昨日私は、「どうやって告白するか策を練るときの心細さ、
当日、2人きりになってからどのタイミングでなんと切り出すか、
心臓がバクバクし頭が真っ白になってしまうような緊張感」 と書きました。
この最初の部分のハードルをどうやって乗り越えていくか、
これは青春の永遠の課題だと思います。
この本にはそのマニュアルというわけではありませんが、
心構えとか、うまくいったケーススタディみたいなものが描かれていて、
それは現実の世界においても十分に参考にできるものだと思います。

有川浩は 『図書館戦争』 でもそうでしたが、今どきの若者の男女が、
お付き合いの過程においてそれぞれどんなことを考えているのかという、
心の内面をストレートに描くのを得意としている作家だと思います。
それは文学作品としてどこまで深いのかという批判を惹起するかもしれませんが、
今どきの若者にはクリアに直接届くメッセージになっていると思います。
男の子と女の子がお互いにそれぞれのことを気遣いながら、
場合によってはそれがすれ違ってしまってマイナスに働いたり、
また場合によっては得も言われぬ深い思いやりに昇華して2人を強く結びつけたり、
そういうどっちに転ぶかわからない儚い、でも繊細な機微に満ちた関係性を、
わかりやすい言葉で小説化しているのが有川浩だと思っています。
『阪急電車』 はそういう彼女 (有川浩は女性です) の特長がよく表れた作品です。

みんながみんな同じ感想を抱くかどうかわかりませんが、
私はこの小説を読みながら、自分の青春の一番の思い出を思い出していました。
皆さんもぜひこれを読みながら、青春の思い出に浸ってみてください。


P.S.
この小説を語るのにこの観点というのはあまりにも限定されすぎていますが、
その他の観点、見方に関してはまた別の機会に論じたいと思います。

Q.一番青春だなと感じた思い出はありますか?

2013-04-22 10:26:20 | 性愛の倫理学
青春の思い出ですか。
そんなこと哲学・倫理学研究者に聞きますか。
若い頃から早く年を取りたいと思って生きてきた私ですから、
青春なんていうものから一番遠い存在なんですけど、
そんな私に青春の思い出を聞きますか。
うーん、何だろうなあ?
部活関係の思い出はやはり青春というにふさわしいものが多いかもしれません。
高校の軽音楽部時代はコンサートというのは一大イベントでしたし、
大学の社交ダンス部時代は試合が一大イベントでした。
特に社交ダンス部の最後の試合では、自身初めて優勝することができましたし、
しかも私の所属する東京外国語大学も初めて団体優勝することができましたので、
その嬉しさったらなかったですね。
青春の1ページという感じです。

しかし、青春の一番の思い出となるとやはり恋愛関係ではないでしょうか。
恋が始まるか始まらないかあたりのドキドキ感、
恋が実ったばかりの頃のあの高揚感、
これは何ものにも代えがたく、ああ青春だなあという感じがします。
ある人のことが気になり出して、つい目で追ってしまう楽しさ、
好きで好きでどうしようもないけど、告白してフラれちゃったらどうしようという苦悩、
告白するぞと心に決めて、どうやって告白するか策を練るときの心細さ、
当日、2人きりになってからどのタイミングでなんと切り出すか、
心臓がバクバクし頭が真っ白になってしまうような緊張感、
そして、付き合い始めた頃の天にも昇るようなルンルン気分、等々…。
ああ、青春だあっ

数ある恋愛の思い出のうちのどれを一番と決めることはできませんが、
(ブログって誰が見てるかわかりませんから下手なことは言えません)
やはり一番の青春の思い出といったら恋の始まりの頃の記憶に勝るものはないでしょう。
あるときからあの緊張感に耐え切れなくなって、
言葉で告白するのではなく実力行使するようになったという話をしたら、
皆さんにチャラいと言われてしまいましたが、
けっしてチャラくてそんなことをしているわけでなく、
あまりにも純粋すぎてパニックに陥ってしまっているからこその暴挙であるということを、
ご理解いただければと思います。
というわけで質問に対しては以下のように答えておきましょう。

A.恋したときのトキメキが一番の青春の思い出です。

皆さんは青春のまっただ中。
素敵な思い出をたくさん作ってください

「間乃次郎庵」 休業 (T_T)

2013-04-20 17:42:26 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
このところ 「哲学FAQ」 に追われていて、ひとつ大事な話題を書くの忘れていました。

相馬の行きつけのおソバ屋さん 「間乃次郎庵」 が今年はやっていないのです。

「間乃次郎庵」 といえば2年前に私が無銭飲食をしてしまったお店です。

とろろソバをペロリとたいらげたあとに、前日の夜から財布にお金が入っていなかったことを思い出し、

しどろもどろで事情を説明したら、今度来るときでいいですよと快くツケにしてくれた、

毎年この時期の2ヶ月間だけ通いつめている、私のお気に入りのおソバ屋さんです。

今年も午前中の2コマ続きの看護学校の授業を終え、

115号線で2、3km福島方面へ戻っていった山道の途中のお店に向かいました。

するとお店の駐車場の前は鉄パイプで通行止めにされており、中には入れないようになっていました。

「間乃次郎庵」 は冬季期間中は閉店していて、この時期に営業を再開すると聞いていましたので、

今年は営業再開よりも早く相馬に来てしまったのかなと一瞬思いましたが、

鉄パイプのところにはこんな告知文が貼り出されていました。

「道路工事の期間中、休業いたします。」

おおっ、なんじゃそりゃあ

たしかに見てみると、お店のすぐそばで山が切り崩されて道路工事をしているようです。

とはいえお店が立ち退かなきゃいけないとかいうようなことではなさそうですが、

工事の音とかがうるさいので、ゆっくりソバを楽しんでもらえないからということでしょうか?

工事期間中休業ということは今年はもう 「間乃次郎庵」 のソバをいただくことはできないのでしょう。

相馬に行く楽しみのひとつでしたので、たいへん残念です。

一昨日は今年2回目の相馬看護学校の講義日でしたが、

講義終了後、事務の方から謝金と旅費の入った封筒を渡されながら、

(相馬の看護学校は今どき珍しく毎回現金払いなのです)

ああ、今日はこれからどこに行って何を食べようかと途方に暮れていました。

以前は 「間乃次郎庵」 以外にも、パスタ屋や中華料理店などいろいろ行きつけがあったのですが、

「昼はソバ」 ダイエットを始めてからは 「間乃次郎庵」 の頻度が高まり、

無銭飲食事件後はもっぱら 「間乃次郎庵」 に頼り切りになっていたのです。

今年はまた毎回何を食べるか頭を悩ませなければいけないようです。

フゥ………

今日は何を食べようかな…。





あれ



ん?



なんかヘンだぞ




今、お金の入った封筒渡されたよな。

相馬の看護学校に来たときは毎回帰りにこれを渡されるよな。

あれ? そうだとしたらあの日もこの封筒持ってたんじゃないの?

「間乃次郎庵」 で財布にお金が入ってなくて恥ずかしい思いをした日。

平謝りに謝ってオバさんにお金を借りて帰っていったあの日。

財布は空っぽだったかもしれないけど、万札が何枚も入っているこの封筒持ってたんじゃないの?

そうだよ、カバンには絶対この封筒が入ってたはずだよ。

おおおーっ、お金持ってたんだあ

無銭飲食なんてしなくてよかったんだあ。

なんだ、バカみたい。

2年も経って今ごろやっと気づくなんて…。

いやあ、ビックリしました。

私アホでした。

今さら判明した衝撃の事実のお話でした。

早くこの話をしてもう一度謝罪したいので、早くお店再開してください

Q.看護学校にいる男子ってどう思いますか?

2013-04-19 18:26:21 | 哲学・倫理学ファック
これも初めてもらった質問です。
看護学校には各学年1名~5名くらいの男子学生がいます。
だいたい平均して1割弱といったところでしょうか。
やはり常に少数派ですから、自分たちがどう見られているかというのは気になるのでしょうね。

看護学校では以前まで 『ホスピスの理想』 という本を教科書に使っていました。
この本が刊行されたのは1997年のことですが、その頃はまだ 「看護師」 という概念がなくて、
本のなかではすべて 「看護婦」 と記載されていました。
ほんの20年前ぐらいまでは看護は女性の仕事だという先入観があったのですね。
今年の相馬の看護学生は11期生。
1期生のときにはすでに男子学生が1人か2人いたと思います。
その後はだいたい、先に述べたとおり1割弱くらいの男子学生が常にいました。
「看護師」 という概念も定着して、男がいるのが当たり前という感覚になってきています。

さて、質問に戻りますが、看護学校にいる男子のことを私はどう思っているのでしょうか?
初めて看護学校で教えるようになったときは、男子のことよりも、
女子も含めて看護学生というものそのものに対していろいろな偏見をもっていました。
『おたんこナース』 のなかに看護師は 「白衣の天使」 という目で見られがちだ、
というエピソードが出てきてなるほどと思いましたが、
私も当初は看護師や看護学生に勝手なイメージというか、過剰な期待を抱いていました。
みんな献身的に人助けをする仁愛の心に満ち溢れた若者なんだろうとか、
国家試験に向かってすべてをなげうって勉強する生真面目な学生なんだろうとか、
医学・看護学を修めた科学者の卵のような人たちなんだろうとか…。
しかし、実際に授業で出会って、ワークシート等を通していろいろ知ってみると、
看護学生もフツーの大学生と変わらない、ただのキャピキャピした今どきの若者なんだなあ、
ということがだんだんわかってきました。
ファッションに気を遣い、恋に悩み、友だちと一緒にバカ話で盛り上がる、
そういうごくフツーの生活を送って青春を謳歌しながら、
学校の課題もこなし、国家試験の勉強もイヤイヤながらがんばっているという姿が見えてきました。

私にとっては看護学生全般に対して抱いていた勝手な過剰な期待と、
現実の看護学生像とのギャップのほうが大きかったので、
その中での男子と女子の違いというのはほとんど大差ありませんでした。
そして実際、大勢の女子に囲まれた少数派であるからといって、
女の子っぽいとか、召使い的位置づけであるとか、逆にハーレム状態であるということもなく、
ごくフツーにクラスのなかに溶け込んでいるなという感じでした。
ですので、ご質問に対しては次のようにお答えしておきましょう。

A.看護学校にいる男子だからといってどうということもなく、
  福島大学の男子学生と変わらない、ごくフツーの男の子たちなんだなあと思いました。

Q.先生の秘密の窓は何ですか?

2013-04-18 19:46:27 | 幸せの倫理学
看護学校の第1回目の授業では 「汝自身を知れ」 というワークをしてもらう際に、
「ジョハリの窓」 の話を紹介しています。
これって哲学とは全然関係なくて、心理学者が考えたものですが、
ホントの自分とは何かという問いに引き込むのに便利なので使わせていただいています。
ジョセフ・ルフトとハリー・インガムという2人の心理学者が考案したものなので、
2人の名前を合わせて 「ジョハリの窓」 と呼ばれているのですが、
それはこういうやつ ↓ です。



私の話のなかでは、自分を知る上で 「盲点の窓」 というのが大事なんだよと強調しています。
だから人が自分をどう見てくれているかを聞いてみたほうがいいし、
そこで言われた自分が、自分の思っている自分とズレていたとしても、
そんなの自分じゃないと否定する必要はなくて、それもまた自分なんだと胸を張っていいんだ、
というような話を例年しているわけです。

さて、今回の質問はこの 「ジョハリの窓」 にちなんだ質問です。
正確にはこんな質問でした。
「Q.先生が知っていて他人が知らない秘密の窓は何ですか?」
どうお答えしましょうか。
例えばこんな答え?

A-1.私、脱いだらスゴイんです。

なぜか私はふだんそれほど太っているように見られていないようなのですが、
福島大学に来て以来ずっと体重増で悩んでいます。
人に見せることはないのでまさに秘密の窓なわけですが、
服を脱ぐとお腹がポッコリ出ていて笑えます。
でもこれって体型、外見のことですから、ジョハリの窓の話にふさわしくないかもしれません。

では内面に関してはどうでしょう。
私は第1回目の授業でもいろいろぶっちゃけましたし、
このブログのなかではさらにいろいろとぶっちゃけていますから、
けっこう積極的に自己開示していくほうで、
その意味では 「開放の窓」 が広いタイプと言えるのではないでしょうか。
ですから 「秘密の窓」 というのはそれほどないのではないかと思っています。
「秘密の窓」 が私にあるとしたら、それはたんに人に知られていないのではなくて、
理由があって人に知らせることができない、
したがって、意図的に人に知らせないようにしている部分だと言えるでしょう。
いわゆるダークサイドなわけです。
というわけでお答えはこうなります。

A-2.私の 「秘密の窓」 は…、ヒ・ミ・ツ

残念でした。
教えてあげないよっ、チャン (ポリンキーのテーマソングのメロディで)

Q.先生もふだん思ったことを書き留めているのですか?

2013-04-17 18:08:37 | お仕事のオキテ
看護学校の 「哲学」 や 「倫理学」 の授業では講義の目的を次のように定めています。

「自分が抱いている思いや感じを、文章化して書き留めたり、人に話したり、

 人の思いに耳を傾けたりすることによって、自分なりの考えへと深めていく。」

で、この話をするときに私の座右の銘 (そうか、これも私のモットーなんだな)、

「書き留めなければ何も起こらなかったも同じこと」 の話をしてあげます。

それを聞いてこういう問いを思いついてくれたんでしょう。

まあ今、私のモットーだと言ってしまったから答えは明白ですが、いちおうお答えしておきましょう。


A.私は毎日考えたことをムチャクチャ書き留めまくっています!


まず、私のこのブログ全体が私が考えたことを書き留めたものだと言えるでしょう。

ほぼ毎日更新していますので、もう日記みたいなもんです。

しかし、これだけではありません。

まずシステム手帳を必ず持ち歩いています。

手帳の場合はスケジュール管理が第一の目的ですが、

思いついたことを書き留めるページも用意していて、

電車のなかとかではよくそこに書き留めています。

それから、ケータイ電話もよく使います。

以前のガラケーのときは、思いついたことを自分宛てにメールで送ったりしていました。

スマホにしてからはもっぱら 「メモ」 というアプリに書き留めています。

とにかく書き留めまくらないと、ものすごいスピードで忘れていってしまうのです。

手帳やケータイを取り出しているうちに何を書こうと思ったのか忘れてしまうこともたまにあります。

そんな老人性ボケが進行中の私には、書き留めるという行為は不可欠です。

忘却スピードが書くスピードを追い越してしまうその日まで、私はせっせと書き留め続けることでしょう。

Q.人と付き合っているなかで半信半疑で付き合うのはさみしいことなんですか?

2013-04-16 23:36:21 | 幸せの倫理学
Q.人と付き合っているなかで半信半疑で付き合うのはさみしいことなんですか?
長い質問ですね。
哲学の先生になぜこういうことを聞こうと思うんでしょうか?
まあ、でもそう思ったのはこの方が初めてではありません。
以前にも似たような質問をもらったことがあるので、
まずはそこを見てみてください。

  「Q.一度信じられなくなった人を信じることは可能ですか?」

私はこういうことに関する専門家ではないのですが、
このときの回答は皆さんからそこそこ支持してもらえました。
さて今回の質問ですが、上の質問と前半部分は似ていると思いますが、
最後のところがだいぶ違います。
「信じることは可能ですか?」 という質問はわりと答えやすい感じですが、
「さみしいことなんですか?」 ってなんか答えにつまってしまう問いですね。
なにがあったのでしょう?
心配です。
なんかつい、けっしてさみしいことではないよ、と慰めてあげたくなってしまいますが、
半信半疑で付き合うことは別にさみしいことではないよ、なんてさすがにそんなウソは言えません。
ていうか、別に誰かに聞いてみるまでもなく、この方も答えはわかっているのではないでしょうか。
さみしいことだと自分で思っていなければ、こんな質問はしなかったと思います。
というわけで、ズバリこうお答えしておきましょう。

A-1.相手に対して半信半疑で付き合うのはさみしいことです。

と答えてみて、ちょっと気になることがありました。
「半信半疑で付き合う」 ってそもそもどういうことなのでしょうか?
そうです、問いを問い直すというやつです。
そのように聞かれて私は、上で挙げた以前の記事で聞かれていたような事態を思い浮かべました。
一度信じられなくなってしまった人をなんとか信じようとしているとか、
相手とは基本うまくいってるはずなんだけど、なんかちょっと怪しいところがあって、
実はダマされているんじゃないか、みたいなシチュエーションですね。
そういう状況を 「半信半疑」 と言うのだと私は思っていたのですが、
なんかひょっとすると別のことを聞かれてるのかもしれないという気がしてきました。
相手の人間そのものとか、現在の相手に対して 「半信半疑」 というのではなく、
相手との将来に対して 「半信半疑」 ということなんではないかと思い始めました。
前者だったら、そりゃさみしいことに決まってますが、
あまりにも当たり前すぎて、そんなこと人に聞いたりしないような気がしてきたからです。
そうではなくて、相手と将来いつまでも付き合って、最終的にゴールインできるかどうか、
ということに関してまだ確信がもてなくて、半信半疑で付き合っているんだけど、
それってさみしいことですか、という質問なら問いとして大いに成り立つように思うのです。
質問者の方、どっちの意味の質問だったのでしょうか?
確かめている余裕がないのでこちらに関してもお答えしておきましょう。

A-2.相手との行く末に関して半信半疑で付き合うことはさみしいことではありません。

というか、未来のことに関して何ひとつ確かなことはないのです。
はっきり言って将来何が起こるかまったくわかりません。
今どんなにラブラブに付き合っている相手だって、別の人に心変わりしてしまうかもしれませんし、
逆にあなたが相手のことを大嫌いになるかもしれません。
みごとゴールインできたとしても、結婚してから2人の関係性が変わるとか、
子どもが生まれてから恋愛気分がさめるなんていうことはごくフツーのことですし、
結婚後や出産後にDVが始まるなんていう最悪のケースも存在します。
恋愛関係のことばかりでなく、まったく別のところで考えられないようなことが起こりえます。
3.11を経験した私たちには、絶対なんて何もないということは骨身に沁みているでしょう。
私たち人間は未来を確約することは何ひとつできないのです。
そういう意味では私たちは相手との将来に関して半信半疑でしかありえないのです。
絶対の確信をもつことはできないのです。
そして、そんなものはなくても付き合うことはできますし、
そうせざるをえないとも言えるでしょう。
それはさみしいことなのでしょうか?

さみしく感じる人はいるでしょうし、そう感じる人はたぶん多数派かもしれません。
しかし、それをさみしく思ったからといって事態は何も改善しません。
だったらそんなことでいちいち思い悩んでさみしがっていても仕方ないのではないでしょうか。
先日ご報告したように私は 「悩んでもしょうがないことに悩まない」 がモットーですので、
まだ来てもいない未来のことをいちいちさみしく思ったりはしません。
そういう人間にとっては、相手との将来のことに関して半信半疑で付き合うことは、
けっしてさみしいことではないのです。
それでもつい思い悩んでしまうのが人間というものなのかもしれませんが、
私のようにそういうことをさみしいこととは思わない人間も現に存在していますので、
「さみしいことではありません」 と断言してしまっておきましょう。
さみしがっているあなた、こっちの世界に来られたらラクだよぉ。
何事にも動じない、安定した人生を満喫してみてください。

どちらのことを問われていたのかよくわからなかったので、二通りの答えを用意しました。
お好みのほうを読んでみてください。
本当はどっちのことを聞きたかったのか、
ワークシートかコメント欄で教えてもらえるとうれしいです。
それでは、さみしくない人生をお送りください。

プライベート質問3連発

2013-04-15 14:43:19 | 哲学・倫理学ファック
「哲学の先生に聞いてみたいこと」 ですが、
哲学とはほとんど関係のないプライベート質問もいくつか頂戴しました。
簡単に答えられそうなものをとりあえずチャチャッとやっつけておきましょう。
全部同じ人からの質問です。

Q-1.視力はどれくらいですか?

なんでそんなことが知りたいんでしょうか。
変わってます、11期生。
とはいえせっかくのご質問ですのでお答えしておきましょう。

A-1.裸眼視力は0.05くらいです。

メガネを外したらほとんど何も見えません。
視力検査のときに一番上のデッカイ文字が読めないくらいと言えばおわかりいただけるでしょう。
私が学生の頃は視力検査って、壁のところに検査表が貼ってあって、
3~4m離れたところから片目を隠して、検査員の人が棒で指した文字を読んだり、
「C」 みたいなやつのどちら側が空いているかを答えたりしていたものでした。
なので並んで順番待ちしているあいだに、上のほうの文字や、
「C」 の空いてる方向などを覚えておいて、少しでも検査結果をよくしようとしたものですが、
あるときから、せっかく覚えておいても、検査員の人がどれを指しているのか、
指示棒そのものが見えなくなってしまいましたので、ムダな抵抗はやめることにしました。
最近の視力検査は機械の前に座って覗きこむ形に変わりましたので、
もうあらかじめ覚えておくなんてズルはできなくなってしまいました。
ちなみに矯正視力は0.7くらい。
車の運転ができるギリギリのところです。
次回の免許更新で視力検査をパスできるかけっこう心配です。

Q-2.泳げますか?

これも初めての質問だなあ。
なんでこんなにピンポイントなんだろう。
でもこれってYes、Noで簡単に答えられそうで、意外と答えるのは難しいかも。
こんなふうに答えておきましょう。

A-2.まったく泳げないわけではありませんが、息継ぎができないのでほとんど泳げません。

哲学という学問は、問いに素直に答えてしまうのではなく、
問いそのものを問い直すということをします (くわしくはコチラをご覧ください)。
この問いに関してそれをしてみるならば、泳げるかどうかを答える前に、
そもそも 「泳げる」 とはどういうことか、と問い直してみることが必要でしょう。
私は今書いたとおり、息継ぎができません。
最初に大きく息を吸って息が続くかぎり泳いでいくことはできます。
例えば学校のプールを横切って12mくらい泳いでいくことはできました。
小学校だか中学校の頃一度、タテの25mも息継ぎなしで泳ぎ切ったことがあります。
たぶんそれくらいが限界でしょう。
50mを泳ぐことはできないと思います。
遠泳大会とか絶対ムリです。
最初に水死体で浮かび上がるのが私でしょう。
さて、こういう人のことは泳げると言うべきなのか泳げないと言うべきなのかどちらでしょうか?
まあ自分としては私は泳げないのだと思っています。

Q-3.プライベートでやっているスポーツはありますか?

これは昨日の 「哲学FAQインデックス」 に載せておくのを忘れてしまいましたが、
とりあえずこちらを読んでいただければ、この質問への答えが書いてあると思います。

A-3.  「Q.好きなスポーツは何ですか?」

この方にはほかにもいろいろな質問をいただきましたが、
それらについてはまた追い追いお答えしていくことにしたいと思います。

哲学FAQインデックス (2013年相馬編)

2013-04-14 13:11:34 | 哲学・倫理学ファック
11期生の 「哲学の先生に聞いてみたいこと」 は例年と比べてちょっと変わっていました。
これまで必ず代表質問に挙げられ聞かれなかった年はないというくらいのよくある質問、
「Q.なぜ先生は哲学を学ぼうと思ったんですか?」 がまったく聞かれませんでした。
その代わりに、aikoは好きですかとか、おすすめのレストランはとか、
意表を突く質問が多かったです。
とりわけ、「Q.ニワトリと卵はどっちが先ですか?」 には参りました。
今までで初めて聞かれた問いですが、お答えするのに四苦八苦してしまいました。
はたしてあの答えでよかったのかどうかも未だに自信がありません。
さて、昨日のブログで次のように書きました。
「いつものように看護学校では、『哲学の先生に聞いてみたいこと』 Q&Aをやってきました。
 代表質問に選ばれなかった問いには、このブログで少しずつ答えていきたいと思います。
 すでにこのブログのなかでお答えしてあるものも相当ありますので、
 どこを読めばいいか、近いうちにインデックスを作成したいと思います。」
というわけでさっそくインデックスを作ってみることにしましょう。
ただしインデックスもこれまですでに何度も作っていますので、
まずは過去に作成されたインデックスをご覧いただき、
そこからご希望の記事に飛んでいただければと思います。
なお、私にとって 「哲学」 と 「倫理学」 は同義語ですので、
「倫理学」 と書いてあるところは全部 「哲学」 に置き換え可能ですので、
そのつもりで読みたい記事を探してみてください。
(哲学と倫理学の関係についてはこちらをご覧ください。)

以前のインデックス
  「倫理学の先生に聞きたいこと (インデックス版)」
  「哲学の先生に聞きたいこと (インデックス版2012)」
  「看護学校教員養成講座・インデックス2012」
  「倫理学FAQインデックス (2012年白河編)」

これらのインデックスに載っていないもので、すでにどこかで書いたことのあるものは以下です。

「Q.ソクラテスの時代と現代の哲学は同じですか?時代によって哲学の在り方はかわってますか?」
  「NHK文化センター 「哲学って何だろう?」 第2回講座」
  「NHK文化センター 「哲学って何だろう?」 第3回講座」

Q.ペット飼ってますか?
Q.犬と猫どっちが好きですか?
  「Q.なんの動物が好きですか?」 

その他まだお答えしたことのない質問に関しては、
そのうちこのブログ内でお答えしていこうと思います。
とはいえ答えにくい質問をたくさんいただいてしまったので、
いつお答えできるかちょっと自信がありません。
まあ慌てずゆっくり待っていてください。