まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

バラのための時間

2011-10-31 04:40:51 | 性愛の倫理学
以前に 「愛とは時間である」 という一文を書きました。

その後、「愛とは飲食をともにする時間である」 という続編も書きました。

これらは意外と好評を博し、コメントやらメッセージやらで多くの反響をいただきました。

ところで私は 「愛とは時間である」 の冒頭でこんなふうに書きました。

「愛とは時間である、と私は思います。

 今までこんなことを語った哲学者や文学者がいたのかどうか知りませんが、

 私は、愛とは時間である、と思うのです。」

この部分に関わって、ある方が次のような情報をお寄せくださいました。

私の文章を読んでいて、サン=テグジュペリの 『星の王子さま』 の一節を思い出したというのです。

キツネと王子様のシーンです。



(以下、引用)

キツネは言いました。

「じゃ秘密を言うよ。簡単なことなんだ。ものは心で見る。肝心なことは目では見えない。」

「肝心なことは目では見えない」

と、王子様は、忘れないために繰り返しました。

「君がバラのために費やした時間の分だけ、バラは君にとって大事なんだ」

「ボクがバラのために費やした時間の分だけ、バラは…」

と、王子様は、忘れないために繰り返しました。

(引用、終わり)



なるほど。

たしかにバラのくだりは同じ話のように思えます。

実を言うと私は 『星の王子さま』 を読んだことがないんですが、

知らないうちにサン=テグジュペリと同じことを語っていたなんてスゴイじゃないですか。

と、ちょっといい気になっていたのですが、

よーく読んでみると 「あれっ?」 となにかおかしな感じがしてきました。

サン=テグジュペリの真意は前半部分にあります。

「ものは心で見る。肝心なことは目では見えない。」

それに比して私の論点は、そのブログのコメント欄に記したように、

愛を測る尺度を簡素化するというところにあります。

つまり、愛を時間によって測る、肝心なことを目で見える (時計で測れる) ようにする、

というのが私の執筆の動機だったのです。

そう考えるとまるっきり逆ですね。

なーんだ。

やっぱり私はファンタジーとは無縁の人間だったのか。

だから今まで 『星の王子さま』 を読む気にならなかったんですね、残念っ!

ケータイ弐号機4歳の誕生日

2011-10-29 08:46:35 | 人間文化論
昨日は私のケータイ弐号機の4歳の誕生日でした。

これをもう4年も使っているんですね。

時の経つのは早いものです。

この弐号機は一度オシャカになってデータが全部消失してしまったことがあります。

それが2009年の11月でしたから、

なんとなくそのとき修理して戻ってきたのが使い始めのような錯覚に陥っているんだと思います。

でも実は、2007年の10月28日から使い始めていたんですね。

2007年といえばまだこのブログを始めていなかった頃ではありませんか。

物持ちがいいというか、時代遅れというか、

その後iPhoneがあっという間に普及し、

わがauでもスマートフォンが発売されるようになりましたが、

今のところまだスマホに切り替える気はサラサラありません。

ちなみに私の現在のこの弐号機はauのW53Sです。

Sony Ericsson 特有のジョグダイヤルがついている最後の機種と思われます。

ジョグダイヤルさえあれば、スマホみたいに画面を指でヒョイヒョイとやる必要はありません。



ついでなので、ケータイ初号機をいつ買ったんだったか調べてみたら、

2004年3月27日でした。

同じくauで Sony Ericsson でジョグダイヤルのA5404Sでした。

私がケータイを使い始めてから7年半になるのですね。

おそらく大学生の皆さんよりもはるかにケータイ歴は短いのではないかと思います。

私もだいぶケータイには抵抗していましたから。

その私がもう7年半もケータイを使っているなんて…。

ケータイなんて必要ないと嘯いていたあの頃がウソのようです。

ケータイがないと生きられないとまでは言いませんが、

これがないともう不便で不便でしょうがないでしょうねえ。

出先でサクッと人に連絡ができて外で待ち合わせすることができるのをはじめとして、

緊急連絡が取れるというのが最大のメリットです。



先日、「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 が開催されましたが、

東京から来て下さった世話人の方1名と、

福島側の世話人1名が未だにケータイ不要論者なのですね。

2人で 「あんなものなくても生きていける」 と意気投合していらっしゃいましたが、

残り3名は目を見合わせて、この方々がケータイ持ってないおかげで、

私たちがどれほど苦労しているかというのをお互いの表情で読み取り合いました。

最新機種を求めて目まぐるしく機種変更を繰り返している人たちのようにはなりたくありませんし、

入試のカンニングなど最新機器を駆使した犯罪者にもなりたくありませんが、

外出用情報端末機器をそこそこに使いこなせる大人としてこれからもがんばっていきたいと思います。

クルマは222,222kmを超えても乗り続けている私ですが、

この弐号機はあと何年使い続けられるのでしょうか?

物持ちのよさに関してもがんばっていきたいと思います。

カラオケ・ルール

2011-10-28 11:46:18 | 幸せの倫理学
昨日はゼミ飲みでした。
4年生の就職祝いと3年生の新歓を兼ねた久しぶりの飲み会です。
前期のあいだは倫理学ゼミには4年生1名、大学院1年生1名ずつしかおらず、
しかも4年生は就活に追われていましたから、
なかなか、よーし飲みに行こう! というノリにはなりませんでした。
(けっして男ばっかりだったからその気にならなかったというわけではありません)
後期になって、3年生が男子1名、女子3名入ってきてくれて、
私を入れて総勢7名となり、飲み会を開くのにいい人数になってきました。
というわけで昨日は日本酒の師匠の店 「麦のはな」 で鍋パーティとなりました。
カツオとしめ鯖の刺身、焼き餃子、サンマの塩焼き、水炊きなどなどをたらふく食べ、
飲み放題つきで3,500円というのは満足度が高いです。
残念なのは若者中心のメンバーだったので日本酒を飲まなかったことですが、
まあそれはまた別の機会に日本酒好きな人とゆっくり飲みに来ることにいたしましょう。

さて、一次会が終了し、ひとりは明日の朝が早いということで帰っていきましたが、
残りの6名でどこに行こうかという話になり、SHIDAXに歌いに行くことになりました。
私はスナックとかではよく歌っていますが、カラオケボックスに来るのは本当に久しぶりです。
今年の倫理学ゼミ生はみんな上手で、それぞれ独自の世界をもっており、
これからもたびたび歌いに来ることになるのではないかと予感させられました。

ところで、カラオケボックスとかに行った場合、
私はみんながどんなふうに曲を入れるのかをそーっとチェックしていたりします。
みんなに薦められてもなかなか入れようとしない人、
リモコンを独占して自分の歌いたい曲を探し続け、入れ続け、歌い続けている人など様々です。
私としては次の3つのカラオケ・ルールを自分に課しています。
1.人が歌っているときはちゃんと聞く。
2.みんなが均等に歌っているか気を配りながら、自分の曲を入れるようにする。
3.全然歌っていない人や、みんなよりもあまり歌っていない人がいたら曲を入れるように薦めるが、
  本人がそんなに歌いたがっていないならばムリ強いはしない。
カラオケにおける自分のモットーみたいなものです。
あくまでも自分のモットーにすぎないので、このルールを人に強制したりはしません。
チェーン・カラオケ状態の人がいたとしてもそれを責めたりするわけではないのです。

さて、初めてのメンバーでカラオケボックスにやってきて、
この新しい倫理学ゼミのみんなはどんなふうに振る舞うのかなあと見ていたら、
誰も何も言ったわけでもないのに、それはもうみごとに統制が取れていました。
全員がカラオケ・ルールの1と2をみごとに遵守しているのです。
自分が歌い終わったら、人の歌もちゃんと聞き、拍手や手拍子などで盛り上げ、
その人の歌を褒め、その曲やアーティストについて思い出を語り、
そして、他のみんなが曲を入れ終わったのを確認してから次の曲を入れる、
という行動を6名全員が守り続けていたのです。
特にカラオケ・ルールの2ですが、これを守り続けるとどうなるか?
最初1巡目に歌った順番がまったく入れ替わったりすることなく、
2時間のあいだ毎回毎回同じ順番で全員が歌い続けたのです。
それはもうみごとなものです。
こうなるとカラオケ・ルールの3はまったく必要ありません。
そして、カラオケ・ルール1もきっちり守られていますので、
ただ自分が歌いたい歌を歌うだけではなく、
カラオケがみんなのコミュニケーション・ツールとなっています。
こんなに気持ちよく楽しいカラオケは生まれて初めてだったと言ってもいいのではないでしょうか。

うーん、さすがは倫理学ゼミだっ!
カラオケすら倫理的なのか?
みんなはいつも友だちと歌うときも、こんなふうなのでしょうか?
それとも昨日はゼミの先生との初歌だったので、
遠慮していてたまたまああなったというだけなのでしょうか?
もう少し打ち解けた頃にまた、今度は全員で歌いにいき
今回の出来事がたんなる偶然だったのか、
それとも全員が本当に倫理的な人なのか確かめてみたいと思います。

Q.「死んだらどうなるの?」 と聞かれたら

2011-10-27 16:25:35 | 生老病死の倫理学
看護学校では、第3回目以降はずっと 「死」 の問題を扱っていきます。
とはいえ、死の問題はなかなか難しいし、そもそもできれば考えたくない問題です。
そういう問題へと導入していくために、まずは 「死んだあと」 について考えてもらっています。
宗教に対する信仰が厳格な他の国々ではどうかわかりませんが、
あまり明確な死生観が共有されていない日本では、
「死んだらどうなるのか」 という問いはわりと気軽に考えられる問題です。
学生の皆さんの回答を集計して死後観について分類整理してみた結果を教えてあげると、
だいたいみんな納得してくれるようです。
死後についてのイメージは5パターンしかないという私の持論です。

そうやって 「死んだらどうなるのか」 について自分やみんながどう考えているか確認してもらったあと、
今度は看護師の立場で考えてもらうため、こんな問いを与えます。
「Q.病院で死期の間近な患者さんに、『死んだらどうなるんでしょうか?』 と聞かれたら、
 看護師としてどう答えますか?」
むちゃくちゃ難しい問題です。
実習中や就職先の病院でもしもこんな質問をされたらたぶんみんな絶句してしまうでしょう。
しかし、いつこんな質問をぶつけられないともかぎりません。
そのときになってしどろもどろになってしまうより、今のうちに考えてみておくべきでしょう。
まずは1人で考えてもらい、次にグループで話し合い、発表してもらいます。
やはり1人ではなかなかいい答えも考えつきませんが、
みんなで話し合ってみると名案が浮かんできたりするものです。
例年、なかなかいい答えが出てきて感心させられます。

とまあ、そんなワークをやったあとの感想用紙にこんな質問が書かれていました。
「Q.先生は、死んだらどうなるのかとナースにきいて、どんな答えがきたら安心とゆーか、
 納得がえられますか? 教えて下さい。」
あんな難しい質問をした以上、私としても学生さんからのこうした質問には、
ちゃんとお答えしなくてはなりません。

とはいえ、この質問にお答えするのは難しいですねぇ。
というのも、私は 「死んだらどうなるんでしょうか?」 なんて、
看護師さんに聞いたりはしないと思うからです。
私はこの問いに対しては、自分なりのはっきりとした信念をもっており、
したがって、自分なりの死生観も確立していないような年端もいかない看護師さんに、
そんな厳しい問いをぶつけるなんて意地悪なこと、たぶんしないだろうと思うのです。
だから、「A.私はそんな質問はしません」 というのが正直な答えなんでしょうが、
それでは質問者に対するお答えになっていませんよね。
さて、なんと答えたらいいでしょうか?

すでにはっきりとした答えをもっているにもかかわらず、
私がもしもそういう質問を看護師さんにぶつけたとしたら、
やはりそれは、その答えそのものを知りたいのではなく、
その質問の裏になにかしらの別の意図があるからでしょうねえ。
例えば、この看護師さんはなんと答えるだろうか確かめてやろうみたいな、
元看護学校非常勤講師としての底意地の悪い意図があるとか、
あるいは、死が迫ってきている恐怖に耐えきれず、
その恐怖や不安を看護師さんにわかってもらいたいと思っているのかもしれませんし、
あるいは、かわいい看護師さんに甘えてみたいだけなのかもしれません。
そういう裏の意図を秘めた患者さんに対し、看護師さんはどう対応すればいいのでしょうか?

私として一番理想的なのは、
私の授業を取ってくれた看護学校の卒業生の誰かが私を担当してくれて、
その看護師さんがちょっとバカにしたような強い口調で、
「先生ったらなに言ってんですか?
 先生はそんなこととっくにご存じのはずじゃありませんか。
 授業やブログでその問題について語っていたの覚えていますよ。
 ホントは何が聞きたいんです?」
みたいなツッコミを入れてくれるのがベストですね。
病人扱いされたり、末期患者扱いされるより、
昔 「哲学」 や 「倫理学」 を教え教わったどうしとして、
授業の延長みたいな会話ができたらサイコーだと思います。

とはいえ、私の現住所からすると、私の教え子に看取ってもらう可能性は
とてつもなく低いと言わざるをえないでしょう。
そうすると、私が元看護学校で 「哲学」 や 「倫理学」 を教えていた、
なんてことをまったく知らない人に看護してもらうということになるでしょう。
そういう人に向かってあの質問をしたとしたら、なんて答えてもらいたいでしょうか?
まあやはり、なにかテキトーな答え (Bのaやbやc) をでっち上げられるよりは、
「私にはわかりません」、「小野原さんはどう思われますか?」 というような、
多くのグループで出してくれたような答えが一番安心できるような気がします。
あるいは、これはフツーの (私に習ったのではない) 看護師さんにはムリかもしれませんが、
「ウソか本当かはわからないんですが、死にかかって生き返ってきた人のなかには、
 臨死体験というものをする人がいて、その人たちはこんなことを見たり聞いたりしたそうですよ。…」
というように、臨死体験の話をしてもらうというのもいいかもしれません。
臨死体験が現実の死後の世界の体験なのか、
たんなる幻覚であって脳内現象にすぎないのかは今のところまだ決着がついていませんが、
どちらであれ、臨死体験をした人がいるということは確かですので、
ただその体験談を教えてあげることはウソをつくことにはなりません。
「~を体験した人がいるそうですよ」 という言い方をすればそれはウソではなく事実なのです。

そんなところでしょうか。
まあ私はもはやフツーの患者さんではありえませんので、
やはりあんな質問はしないでしょうし、したとしても私が満足する答えが、
フツーの患者さんにも通用するとは思えません。
そういう意味では、私から聞いたことを正解と思うのではなく、
よりよい答えを探して、これからもずっと考え続けていってほしいと思います。
今回の課題は大変だったかもしれないけれど、これからはもっともっと難しくなっていきます。
でも簡単にあきらめてしまわないで、なんとか答えを見つけ出していってください。

初めて尽くしの 「てつカフェ」 終了!

2011-10-26 08:01:20 | 哲学・倫理学ファック
ご報告が遅くなってしまいましたが、
22日の 「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 無事 (?) 終了いたしました。
「特別編」 と銘打っただけあって、今回は初めて尽くしでした。
なんといっても福島ビューホテルの披露宴会場を借りてしまったわけですから、
いつものような15~6名程度というわけにはいきません。
みんなでじっくり話し合うには20名弱ぐらいというのはちょうどいい規模なのですが、
今回の会場でそれくらいの集客では、すきま風が吹くことになってしまいます。
今回は恥も外聞も捨て去って、私のゼミ生や授業を取っている学生さんたち、
前期に必修の授業を取ってくれた院生の皆さんに、
脅しにも近い勧誘をかけてしまいました。
せっかくの休日を私のために割いてくださった学生や院生の皆さんに、
心から感謝申し上げたいと思います。
また、私の苦境を知っていろいろな方に声をかけてくださった院生もいらっしゃいます。
本当に有り難いことと思いました。
どうもありがとうございました。
おかげさまでなんと参加者は計50名 (世話人含む)!
きらびやかな部屋に負けないくらいのリッパな会になりました。



このうちゼミや授業関係で来てくれた学類生は17名。
院生は2名。
院生が勧誘してくれた方が7名。
これだけでもう26名です。
この方々がいらしてくれなかったらと思うとゾッとしますが、
しかし、別の見方をするならば、
動員されたわけでもなく参加してくださった方が20名近くいらっしゃるわけです。
たいへんに有り難いことだと思います。
やはり原発問題というのは関心の高い問題なんだなと思いました。

さて、これだけの人数が集まると、いつものようなやり方ではできません。
マイクを使ってのてつがくカフェとなりました。
仙台メディアテークでの 「考えるテーブル」 は常時50名以上、
ときには100名近く集まっていますので、いつもマイクを使用していますが、福島では初の試みです。
どうもこれは慣れないというか、私の哲学カフェのイメージとはずれてしまいますねえ。
マイクを回すためには、発言希望者に挙手してもらわなければなりませんし、
自由な対話の場という感じが殺がれてしまいます。
ぢゅんちゃんとは常々、もしも福島の 「てつがくカフェ」 に仙台くらい人が来てしまったら、
グループを2つに分けて少人数でやるようにしようねと話していたんですが、
今回の特別編はもともとの趣旨からしてそういうわけにもいかず、
けっきょくこの大人数のまま、マイクを使っての会となりました。
感想用紙にはこのスタイルに対する不満がけっこう書かれていましたが、
今回はこうするしかなかったのでご勘弁いただければと思います。
次回以降はなんとか工夫したいと思います。

そして、もうひとつの初めては私がファシリテーターを務めたことでした。



福島で哲学カフェをやるようになって今回が6回目ですが、
今までの5回はことごとくぢゅんちゃんに任せっきりでやってまいりました。
今回は開催までの経緯等いろいろあり、
私がファシリテーターを引き受けざるをえない状況でした。
しかし初めてのファシリというだけでもいっぱいいっぱいだったのに、
そのデビューがこの大規模カフェですから、もうグチャグチャでした。
いつもは書記役をやっていますが、マインドマップ (風) を描いていると、
議論の流れがパーッと見えてくるんですね。
で、これとこれが大事な問題だとか、こことここが関連しているとかがわかるんですが、
ファシリテーターをやってると個々の発言を追うのが精一杯になってしまって、
全体が全然見えなくなってしまいます。
今回はぢゅんちゃんがホワイトボードを3枚も使って書記を務めてくれましたが、
ファシリテーションしながらマインドマップを見てみても、
なんにも頭に入ってこなくて、ただの文字の羅列のようにしか見えてこないのです。

しかも今回は初めて、2時間ではなく3時間もやるということで、
最後の1時間は頭がクラクラしてきていました。
私を知る何人かの方々からは、休憩明けの最後の1時間は疲れ切っているのが丸見えで、
どんどん歳を取っていっているみたいだったと言われてしまいました。
いやあ、ホントつらかったです。
いつもぢゅんちゃんにファシリテーションを任せっきりだったことに関しても、
本当に申しわけなかったと思いましたし、
今回の仕切りをする前に、少なくとも一度はいつもの規模のうちに、
ファシリテーターを経験しておくべきだったとも反省しました。
会の終了後、ぢゅんちゃんが 「いやあ、書記はラクだわ。今日は楽しかったなあ」 と、
ものすごく爽やかな笑顔で心からカフェを楽しんだ様子だったのが印象的でした。
きっといつもは、ぼくが終了後に 「いやあお疲れさま、いい議論だったねぇ」 と声をかけたとき、
疲れ切った顔のぢゅんちゃんは、苦々しく 「こいつ首絞めてやる」 と思っていたんだろうなあ。
せっかくの議論をうまく仕切れなかったのは本当に申しわけなかったですが、
とにかく初めて尽くしの巨大てつカフェをなんとか終えることができてホッとしました。
議論の内容や参加者の皆さんの感想を 「てつがくカフェ@ふくしま」 ブログに掲載しておきましたので、
そちらでご確認ください。

毎度開催している打ち上げの会には22名も参加してくれました。



いつもの 「てつカフェ」 の参加者数よりも、今回の打ち上げ参加者数のほうが多いわけで、
こんな巨大打ち上げも初めての経験でした。
しかもこの日は 「福島の熱い土曜日」 で 「福コン2」 が開催中とあって、
お店がことごとく満席で、会場がなかなか取れませんでした。
これも参加者のひとりがコネと機転をフル活用してお店を探してくださったおかげで、
なんとか会場を確保することができました。
皆さまのご協力のおかげでどうにかこうにかこの巨大イベントを終了させることができました。
本当にありがとうございました。
これに懲りずにまたぜひ 「てつがくカフェ@ふくしま」 にお越しください。

フェイク・オーガズム問題再び

2011-10-24 08:34:18 | 性愛の倫理学
「BOOK OFF」 でたまたま見つけて、杉本彩 『インテリジェント・セックス』(祥伝社新書) を読みました。

社交ダンスもやっていらっしゃいましたし、肉食系女子の代表みたいな感じで注目しています。

この本のなかで杉本氏も 「フェイク・オーガズム問題」 に触れていました。

私がかねがね哲学的問題として考え続けている難しい問題のひとつです。

そこでは、自分の若い頃のことも振り返ってまずこんなふうに書かれていました。

「わたしもすごく若い頃はそうでしたが、

 よく、女性はせっかく頑張ってくれている男性に悪いと思ってイッたフリをするようです。

 また、不感症と思われるのがいやというのもあるでしょう。

 今となって思うことですが、そんな女性のフリに気づかないこと自体が男性の未熟なのですね。」

うーん、手厳しいですねえ。

しかしこの問題、本当に 「男性の未熟」 とかが原因なのでしょうか?

男性が気づけないくらい女性のフリは熟達してしまうのではないでしょうか?

メグ・ライアンにあれをやられて見抜ける男はいるのでしょうか?

ある方に紹介されて 『ショートバス』 という映画を見ましたが、

これもフェイク・オーガズム問題を扱った映画でした。

このフェイクがまた壮絶なのです。

こんなフェイク絶対に反則だろうと心から思いました。

あれをやられたら男にはもうなすすべがありません。

したがって、フリに気づくことのできない男性が悪いのだ、という杉本氏の議論には賛同しかねます。

しかし、杉本氏の議論はそれで終わるわけではありません。

現在の彼女のモットーも語られていました。

こちらには素直に賛同することができました。

「わたしは、絶対にイッたふりはしません。

 そもそも、そんなことは無意味ですし、イッたふりでは、男性のセックスは成長しません。

 それに何よりも、2人の関係も深まりません。

 ほんとうに快楽やセックス、そして相手との関係に真面目で前向きで貪欲であれば、

 やはりフリをしてはいけないと思います。」

素晴らしいっ!

さすがは肉食系です。

しかも、教育的ですらあります。

一時的に相手に偽の満足を与えるよりも、

真実に向き合わせることによって、相手の成長を促そうとする。

これは病気の告知の問題とも密接に関わってきます。

哲学的であると同時に、きわめて倫理学的な問題でもあるわけです。

ただのエロ話をしているわけではないのです、私はっ!

女性の皆さん、杉本師匠を見習って今後一切イッたフリはやめましょう。

ウソで固めた 「マトリックス」 は破棄しようではありませんか。

熱烈歓迎メニュー

2011-10-23 09:44:52 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
怒濤の週末を過ごしております。
土曜日の 「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 に向けて、
金曜日の夜に法政大学の3名が到着しました。
ひとりは恩師であり、ふたりはゼミの後輩です。
東京で皆さんにお会いすることはあっても、福島に来ていただくのは初めてです。
熱烈歓迎しないわけにはいきません。
3人が福島に着いたのは7時46分、けっこう遅い時間です。
ホテルにチェックインとかしていると軽く8時は過ぎてしまいます。
それから 「てつカフェ」 の打ち合わせをし、その後宴会になるというスケジュールですから、
どこに行くべきかというのも限られてきます。
けっきょくまたわが家にお招きしてホームパーティを開催することにいたしました。
もうひとりの世話人であるぢゅんちゃんも含め、総勢5名のパーティです。

早い時間に買い物に行き、開始は遅い時間なのですから、
今回は十分、準備の余裕があるはずでしたが、
よほど私の手際が悪かったのでしょうか、やはりまた後手後手の対応になってしまいました。
打ち合わせはダラダラと続き、飲み食いが始まったのは9時過ぎでした。
前回同様、最初は 「鯛のカルパッチョ」 から始めます。
手を抜くべきところは抜く、ひとりホームパーティの鉄則です。
「ヌーベルバーグのパン」 と、
残り物のドライトマトやミモレットチーズを盛り付けただけの 「オードブル風」 も、
定番の手抜き料理と言えるでしょう。

このあたりは、皆さんにも 「ダイエット生+ライム」 をお試しいただきます。
健康に気をつけなければならない師匠への配慮でしたが、
別にちゃんと本物のビールも買ってあったにもかかわらず、若者たちも喜んで飲んでいました。
ひとしきり発泡酒ダイエットを堪能していただいたあと、白ワイン、赤ワインへと移行していきました。

ここからは、大量に余っていた野菜類を消費するために挑戦した、初めて作る料理が続きます。
どちらも料理の師匠である平野レミ本からの料理です。
まずは 「ねぎカッキグラタン」。
ネギが大量に余っていたので探し出してきたレシピです。
レミ師匠によるとネギと牡蠣は相性がいいのだそうで、
斜め薄切りにしたネギと牡蠣をバターで炒め、小麦粉と牛乳を投入してホワイトソースにし、
ほんの少量の白ワインと味噌、そして塩こしょうで味を調えて、
あとはチーズをのっけてオーブンで焼くというオシャレな料理です。
牡蠣を食べると活気が出るから 「ねぎカッキグラタン」 なんだそうです。

続いてはその名も 「丸ごとキャベツ」。
キャベツもなぜか丸ごと1個残っていたので、これを一気に消費できるレシピです。
キャベツに十文字に切り込みを入れ (今回は十文字ではなく5等分)、
オリーブオイルで炒めたベーコンとみじん切りタマネギを、切り込みにはさみ、
缶詰のホールトマトと水と固形スープを入れて30~40分煮込むだけという豪快な料理です。
味付けはちょっと失敗していたような気がしますが、
キャベツがどーんと出てくるという見た目のインパクトで客を惑わすいいメニューでした。
レミ師匠らしい一品です。

お次は 「焼き野菜+明太子マヨネーズソース」。
こんなに野菜ばっかりで若者には物足りないかもしれませんが、
あいかわらず野菜が残っていたのでしかたありません。
今回残っていたのは赤ピーマン、ブロッコリー、しいたけ、長いもでしたので、
蒸し野菜ではなく、焼き野菜にしてみました。
これであらかた冷蔵庫に残っていた野菜類はほぼ消費し尽くしたと思って喜んでいましたが、
ビールの陰に隠れていたカボチャを使うのを忘れてしまったのが悔やまれました。

このあとメインの鶏料理とパスタがまだ残っていましたが、
この時点ですでに12時を回っており、若者たちも野菜でお腹がふくれてしまったということで、
鶏はパスすることになりました。
もも肉が2枚も残ってしまって、これをどう処理したらいいのか途方に暮れます。
パスタは例の 「フジッリ・プッタネスカ」
パスタの師匠のおかげでもはや得意料理のひとつと言っていいでしょう。
今回はちゃんと黒オリーブも買ってきて、見た目もそれなりに仕上がりました。

ひととおりすべての料理を出し終えて、最後はティータイムです。
実はこれが今回の最大のメインディッシュとも言える 「加賀棒茶」 を皆さんに振る舞いました。
法政大学のこのゼミのメンバーであった1人がこの春から金沢大学に就職しており、
富山大学での日本倫理学会のときにやってきて、私に金沢土産ですといって下さったものです。
このメンバーにとってはいろいろな意味で感慨深い一品です。
ほうじ茶の一種なんでしょうが、その香りと味にみんなで舌鼓を打ちながら、
単身、北陸に赴任して孤軍奮闘している彼に想いを馳せたのでした。



ところで、昨日。
「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 やそのあとの打ち上げのことはまた別に書くとして、
午前中には 「復興マルシェ」 に行ってきました。
浪江焼きそばや赤ペコカレーを美味しく食べたのはいいのですが、
福島県産の野菜がたくさん売られていたので、ついいろいろ買ってきてしまいました。



せっかく残っていた野菜をやっと全部消費できたと喜んでいたのに、
何をやっておるのだ、私は…。
まあでもどれも美味しそうです。
「復興マルシェ」 本日も開催しています。
街なか広場と北日本銀行駐車場の2ヶ所で開催されるようです。
皆さま、福島の農業を守るためぜひ行って、いろいろ買ってみてください。

Q.倫理学と論理学の違いは何ですか?

2011-10-22 09:16:23 | 哲学・倫理学ファック
白河と郡山の看護学校の皆さんは、私の 「倫理学」 とほぼ同じタイミングで、
内田詔夫先生の 「論理学」 も受講しているわけですね。
私もみんなにいろいろと書き留めてもらいますと宣言したわけですし、
論理学の講義でも、たくさんの文章を書かされているでしょうから、
この2つはどう違い、どう同じなのかというのは気になるところでしょう。

さて、どうやって説明したものか…。
とりあえずこんなふうにまとめてみることにいたしましょう。

A.倫理学も論理学も哲学の一部です。
  倫理学は実践哲学に属し、論理学は理論哲学に属します。

郡山の皆さんには、哲学が理論哲学と実践哲学から成るという話はしましたね。
白河の皆さんは、 「Q.哲学と倫理学ってどう違うんですか?」 を読んでみてください。
その中で、理論哲学が研究しているテーマのひとつとして、
「人間はどうやって真理を認識することができるのか」 という問題を挙げておきました。
私たちがなにか物事を認識する場合には、ことばを使って考えます。
そのことばを使って論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか、
ということを研究するのが論理学なのです。

論理学はすべての学問の基礎といってもいい重要な部分です。
他のさまざまな学問を研究している人たちも、論理学のルールに従わなくてはなりません。
例えば医療現場でも、こんなことがありうるでしょう。
人が死んだら呼吸が止まります。
これを 「人が死ぬ」 をA、「呼吸が止まる」 をBと表してみると、
「AならばB」 という関係が成り立っていることがわかりますね。
さて、論理学を知らないフツーの人は、「AならばB」 という一般的知識から、
簡単に 「BならばA」 と推論してしまいがちです。
つまり、「呼吸が止まっていたらその人は死んでいる」 と判断してしまいがちなのです。
この判断が間違っているということは、医学の知識をもっている皆さんならすぐにわかるでしょう。
呼吸が止まる原因は死だけではないからです。
無呼吸症候群とか全身麻酔や脳死などによっても呼吸は止まってしまうのです。
しかし、そんな知識をもっていなかったとしても、論理学の規則を知っていれば、
「人が死んだら呼吸が止まる」 からといって、
「呼吸が止まっているからその人は死んでいる」 と言ってしまってはいけない、
そもそも 「AならばB」 から 「BならばA」 を導き出してしまうのはすべて論理的な誤りである、
と言うことができるのです。
そんなふうに論理学は正しい考え方の方法について研究しているのです。

ウィキペディアの哲学の項には、「哲学」 の2番目の意味として次のように書かれています。
「問題の発見や明確化、諸概念の明晰化、命題の関係の整理といった、
 概念的思考を通じて多様な主題について検討し研究する、学問の一分野。」
このうちの前半部分 「諸概念の明晰化、命題の関係の整理といった、概念的思考」
について研究しているのが 「論理学」 になるわけです。
で、この論理学の成果を利用して (「~を通じて」)、
「多様な主題について検討し研究する」 ことができるわけですが、
特に人間の実践 (行為や生き方など) について検討し研究していこうとするのが実践哲学、
すなわち 「倫理学」 になるわけです。
したがって、哲学の中でも基礎的、根本的な部分が 「論理学」 であって、
それを応用して人間の生き方にかかわる部分を研究するのが 「倫理学」 であると言えるでしょう。

論理学と倫理学の違いをわかってもらえたでしょうか?
たまにワークシートやレポートで、「倫理学」 のことを 「論理学」 と書き間違える人がいます。
「にんべん」 か 「ごんべん」 かの違いだけですので混乱してしまうのはわかりますが、
内田先生と見間違われてしまったのと同じくらいショックを受けますのでやめてください。
(「論理学」 のことを 「倫理学」 と書き間違えてしまうと、
 内田先生も相当ショックを受けられるだろうと思いますのでそちらも十分気をつけましょう!)

福島の熱い土曜日

2011-10-21 08:01:56 | 幸せの倫理学
       

この週末は 「復興マルシェ」 が開催されます。

昨年行けなかった 「街なかマルシェ」 が、

今年は 「震災復興」 をタイトルに掲げて大々的に行われるようです。

農産物を販売するばかりでなく、生産者と消費者が直接語り合える、

「ファーマーズカフェ」 という場が設けられたり (「てつがくカフェ」 のパクリでしょうか?)、

放射能検査のデモンストレーションなんかも行われるようです。

22日 (土) と23日 (日) の2日間、街なか広場で10時から4時まで開催されますので、

今年はぜひ行ってみたいと思います。



22日 (土) にはさらに 「福コン2」 も開催されます。



あの 「福コン」 の第2回ですね。

まさか年内にまた開催されるとは思っていませんでした。

第1回のときは人が集まりすぎてお店に入れず通りに人が溢れるという事態が多発していましたが、

今回はあのときの教訓を踏まえてシステムは改善されているのでしょうか、気になるところです。



そして、22日はなんといっても 「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 があります。



明日は福島の熱い土曜日になりそうですね。

お昼には 「復興マルシェ」 でうどんや焼きそばを食べ福島の野菜を買い、

2時までに西口に移動してビューホテルで福島の未来についてテツガクし、

頭と口の回転が鋭くなったところで東口に戻って 「福コン2」 に参戦するというのが、

この土曜日に福島を満喫するフルコースではないでしょうか。

たぶん 「てつがくカフェ」 の打ち上げがあるので、私は 「福コン2」 には参加できないと思いますが、

マルシェと哲カフェは堪能してきたいと思います。

皆さんもぜひ福島の熱い土曜日をお楽しみください。

原発のない社会へ

2011-10-20 12:00:57 | グローバル・エシックス
先日メールをいただいた大学院生の方から、雑誌を献本していただきました。
『季刊 ピープルズ・プラン』 という雑誌の55号です。
彼女がこの雑誌に、金井淑子 『依存と自立の倫理 〈女・母〉 の身体性から(ナカニシヤ出版) という本の
書評を書いたということで献呈していただいたのです。
その書評は、フェミニスト臨床哲学を提唱する金井氏の本を東日本大震災の問題と絡めて論じた、
興味深い文章で、金井氏の本を読んでみたくさせるいい書評でした。

ところでこの 『季刊 ピープルズ・プラン』 の55号は、
「原発のない社会へ ――現地から、世界から」 という特集号になっています。
私はこの雑誌初めて読みましたが、ひとつひとつの論文が短めで読みやすく、
いろいろな観点から原発問題を考えることができました。
例えば、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」 世話人の佐藤幸子氏へのインタビュー記事、
「行く人、残る人――いま福島で起きていること」 は、
明後日の 「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 でまさに論じあいたいと思っていた問題を扱っていますし、
武藤一羊 「核武装潜在力としての原子力体制の解体へ」 は、
もともと原発は核武装への準備として導入されたということを教えてくれました。
また、宮部彰 「社会運動と政治運動をつなぐ脱原発運動を」 は、次のように断言してくれていました。
「脱原発は不可逆的である。現在は、いつまでに原発をゼロにするのかという
 タイムスケジュールをめぐる論点に事実上移行している。」
他にも、鎌田彗 「原発はモラルに反している」 など興味深い記事や論文が満載でした。
福大生協でも3冊くらい置いてありましたので、関心のある方は読んでみてください。

そして、いよいよ明後日は 「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 です。
テーマは 「〈いま、健康をてつがくする〉 ―福島で人間らしく生きるために―」 です。
ぜひ22日 (土) の2時には福島ビューホテルにいらしてみてください。
多くの方々の、震災や原発に対する思いをうかがってみたいと思います。

緑が丘高校軽音楽部飲み

2011-10-19 17:32:16 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
8月に、高校のとき軽音楽部で一緒だった同窓生から、
このブログのコメント欄に連絡をもらいました。
月に3回くらい福島に出張に来ているとのこと。
それはぜひ福島で飲みましょうということになって、
9月に一度、福島の街をご案内いたしました。
「はなれ」 だったらハマっ子も驚いてくれるだろうと思いお連れしたところ、
入り口からバナナまでたいへん喜んでいただけました。
そのあとはムチャを許してもらえる行きつけのスナック 「銀河倶楽部」 に繰り出し、
軽音楽部の頃を思い出して、ハードロッカーの懐メロを絶唱しまくったのでした。

そのときに店の女の子も含めて 「天ぷら ひら井」 は旨いよという話になり、
次回は 「ひら井」 にご案内するということになっていたのです。
ところが早くから日程が決まっていたにもかかわらず、私が予約を入れるのを忘れていて、
前日に電話してみたところ超満員で申しわけありませんと断られてしまいました。
しまったあ、あれだけ 「ひら井」 に連れていくと約束していたのに大失態だあと、
立ち直れなくなりそうでした。
みんなでメチャ褒めして、「ひら井」 への期待を高めてしまっていたのに、
その 「ひら井」 に行けないなんて…
代替案が思いつかず途方に暮れてしまい、
こうなったら仕方がないと、趣向をガラッと変えることにいたしました。
別のお店を探すのはあきらめ、うちで宅飲みすることにしたのです。

幸いパーティの残り物や人からの頂き物などがなんやかやと冷蔵庫に余っていました。
それらを整理するという意味でもいい機会です。
というわけで急遽、自宅で2人のパーティを開催することになりました。
あらかじめ料理を作っておく余裕はなかったので、
とりあえずうちにお越しいただき、ゲストにも料理を手伝ってもらったりしながらのスタートです。

2人ともお腹も空いていますから、とにかく最初は手間のかからない料理から始めます。
1品目は 「鯛のカルパッチョ」 にしました。
洗ったベビーリーフの上に鯛のお刺身を並べ、イタリアンドレッシングをふりかけ、
黒コショウやレッドペッパー (粒) をばらまくだけのなんちゃってイタリアンです。
まずはこれだけ作ってビールで乾杯しました。

一口食べたところで 「フランスパン&オリーブオイル」 を用意し、
さらに、もらい物のピクルスやドライトマトなどを盛りつけただけの
「オードブル風」 の皿を出しておけば、これで少し時間稼ぎができるでしょう。

自分もパンを食べて空腹を少し和らげたところで、
「蒸し野菜&明太子マヨネーズソース」 に取りかかります。
明太子をほぐす作業は客人に任せ、私はブロッコリーやらアスパラ、人参、大根などを蒸していきます。
この作業にはけっこう時間がかかってしまい、
さらにカボチャやしいたけも焼こうかなと思っていたのですが、
残念ながらそこまで行き着くことができませんでした。

ここまで出したところでちょっと落ち着いて、飲みながらの歓談に移行しました。
スペインワインなんかを飲みながら、高校時代の思い出話に花が咲きます。
たまたま先日、大掃除&模様替えをしたときに、高校の卒業アルバムを見つけていましたので、
それを出してきて、ああだこうだと大盛り上がり大会になりました。



先日のブログに書いた私の写真はこれ↓です。



なんでこんなに大口開けて笑っているのでしょうか?
例えば同じクラスの人たちはこの程度の笑い方です。



みんななかなかいい笑顔ですが、口の中まで見えるほど笑っているのは私だけです。
ちなみにこの年、ペ・ヨンジュン君はまだ7~8歳の小僧でしたので、
私が彼を意識しているわけではないのはご理解いただけるでしょう。
しかも、私も忘れていましたが、高校の頃はコンタクトレンズを使っていて、
眼鏡はかけていなかったんですね。
ふーん、そうだったんだあ。

さて、ひとしきり卒業アルバムのなかで自分たちの写真を探したり、
女の子たちの品評会をしたりしたあと、メインディッシュの調理に取りかかります。
余っていた鮭と梅干しとネギを使える 「鮭の梅ネギ焼き」 に挑戦しました。
レシピ通りに作ったらまあそこそこの味に仕上がりましたが、
ちょっとワインに合う料理ではなかったかなと、食べてみてから反省しました。
余り物料理の難しいところです。

ジェフ・ベックやレッド・ツェッペリン、ディープ・パープル等をBGMに、
楽しい時間はあっという間に過ぎていき、
最後は得意の 「カルボナーラ」 を作ってコースの完了です。
赤ワインが空いたあと、17年熟成の泡盛を飲んでいましたので、
これもやはりお酒と料理のマリアージュは今ひとつでしたが、
心優しいゲストは何を食べても飲んでも美味しいと言ってくださいました。
翌朝には 「サプライズにサンキュ!」 なんていうタイトルのメールまでくれて、
中には 「素敵な時間をありがとう」 などと書いてあり、
なんだかロックンローラーはいくつになってもカッコいいなあと思ったのでした。
今回はなんとか余り物手料理でごまかすことができましたが、
次回に向けての私の最大の使命は 「ひら井」 を押さえること、
これに尽きると言えるでしょう。

Q.先生の目標は何ですか?

2011-10-18 23:47:51 | 哲学・倫理学ファック
たぶん今年が初めてだと思うのですが、けっこう何人もの人から、
「先生の今の目標は何ですか?」 というような質問を頂戴してしまいました。
今年の1年生たちはどうしてしまったんでしょうか?
みんな自己啓発系の本とかにハマっているんでしょうか?
なんでぼくの目標なんかを知りたがるのだ?

ただまあ、「明日できることは今日やらない」 をモットーに生きている私としては、
こういう先の目標を見定める質問というのはとても有り難いもので、
今まであまり目標なんて考えることはなく、毎日を楽しくキリギリスらしく生きてきましたが、
学生の皆さんからこういうプレッシャーのかかる質問を頂戴して、
ちょっと先のことも考えてみる機会を得ることができました。
まずはそのことに対して看護学校の皆さんに感謝の気持ちを表明しておきたいと思います。

さて、それで私の目標ですが、しばらく何も思いつきませんでした。
やはり、できるだけ先のことは考えないようにして生きてきたからでしょう。
とはいえ、目標なんて何もありませんじゃカッコつきませんので、
なんとか考えてみました。
そこで思いついたのがまず1つ。

A-1.看護学校で使える教科書を書いて出版することです。

これは私の今の目標と言っていいでしょう。
長らく看護学校で使ってきた 『ホスピスの理想』 が絶版になってしまい、
ここ数年、看護学校では教科書を何も指定せずに授業を行っております。
これは不便であると同時に、たいへんもったいないことでもあります。
看護学校向けの教科書さえあれば、毎年皆さんに強制的に売りつけることができるのに、
それがないばかりに、『ホスピスの理想』 の数章をコピーして配付したり、
教科書をまったく使わずに授業をしたりしているのです。
うーん、なんてもったいないんだ。
早く教科書を書いて出版しなければ!
これは数ある私の目標のうちの1つだと言っていいでしょう。

しかし、この目標を達成するためにはその前に別の目標を達成しなくてはなりません。
それを終えないうちは、教科書を書くという目標に着手することができないのです。
その目標は何かというと、

A-2.博士論文を完成させる

これですっ!
これがなんといっても喫緊の課題です。
これがすまないうちは、教科書なんて書いている場合ではありません。
博士論文というのは、これまであちこちで書いてきた論文を使いながら、
それらをまとめたうえであれこれと加筆して、一冊の研究書として出版したもののことです。
もうずーっとこの仕事に取りかかっていますが、なかなか仕上がらずにいます。
こいつをまず片付けてしまわないことには、別の仕事に手を出すことができないのです。
というわけで、私の今の第1目標は博士論文を完成させることでしょう。
この仕事は人から依頼された仕事ではないので基本的に締切がありません。
締切がない仕事というのは、「明日できることは今日やらない」 をモットーに生きている私にとっては、
どうしても後回しになってしまうものなので、これまでなかなか日の目を見ずに来たわけです。
しかし、もうそんなことは言ってられません。
締切があろうがなかろうが、こんな仕事はとっとと終わらせなくてはなりません。
なにがなんでも近いうちに終わらせてしまいたいと思います。
これが今の最大の目標と言っていいでしょう。

しかし、まあA-1もA-2も個人的なちゃちな目標だと言ってしまえばその通りです。
私が教科書を出版して看護学生に売りつけようが、
博士論文を提出してうまいこと受理され博士号をいただこうが、
それで幸せになれるのは小野原雅夫個人のみであって、
みんながそれで幸せになれるなんていうことはまったくありません。
そんなもの、小野原だけのちっちゃなちっぽけな目標にすぎないということは
火を見るよりも明らかでしょう。
もうちょっと見栄えのいい目標はないのでしょうか?
あった、あった。ありました。
何年か前の代表質問に出されてお答えしたこともあったのですが、
こんなふうにお答えしておきたいと思います。

A-3.私の最終目標は世界平和です。

一気に話が壮大になってしまいましたね。
まあでも個人的な幸福を離れて、人類全体とも共有できるような普遍的な目標といったら、
もうこれしかないでしょう。
世界平和です。
多様で異質な人びとが互いの違いを認めあった上で、
それでも異質な他者たちとの共存を選択するというのが平和だと思います。
そんな平和がいつの日かこの地上に訪れるのではないか、訪れさせてみよう、訪れさせてやる、
それが平和を願う心にほかなりません。
私自身のちっぽけな夢なんかはいいとして、
できるだけ多くの人とそのスケールのでっかい夢を共有できることを夢見て努力していく。
こっぱずかしいですが、それが私の最終目標だと言えるでしょう。
「イマジン」 から出発した私は、けっきょくこの目標に帰っていくのでした。
自分がどれくらいあのときから成長したかわかりませんが、
その時々のベストを尽くして、あの目標 (=夢) に近づいていきたいと思います。

福島に暮らし続けるということ

2011-10-14 12:58:38 | 生老病死の倫理学
福島大学を卒業して、今は関東の大学院で研究している方からメールを頂きました。
今度福島で、10月22日 (土) に原発問題で哲学カフェをやると知って、
自分は参加したいけれども参加できないのでと言って、
自分の身近で聞いた話を知らせてきてくださったのです。
ご本人の了承を得て、一部を引用してみたいと思います。


(以下、引用)

福大時代の友人が、そしてその多くが乳幼児を抱えて
福島で日々暮らし息をしております。
疎開した人もいれば、福島に留まり続ける人もいて
そしてそれぞれいろんな思いがあって。
疎開した友人にかける、あるいは求められる言葉と
福島に残る友人へのそれは正反対で。
二枚舌である自分がいます。

幼子を抱えて疎開した人は、自身が郷里を捨てた裏切り者ではないかと悩み
私のような福島の 〈ソト〉 にいる人間にその心境を吐露し
「子どものためにも、避難するってのはいい選択だったんじゃない?」
と、私がいうことを期待しているのがありありと伝わってきます。
そして、私がそういうと 「ほっとする」 「そうだよね」 と繰り返します。

避難をめぐって、家族 (特に舅・姑) やパートナーとの意見の相違に
苦しむ人もいます。
そういう福島に残っている人には
「むずかしいよね…」 とひたすら相槌を打っていたり。

放射線の健康への被害がどれくらいになるのか、
いろんなデータを見てみてもどれが妥当なのかよくわかりません。

いったいどうすればいいのか。何もできません。
アメニモマケズのでくのぼうのように、ただおろおろするばかり。
せめて、人の苦にならなければよいのですが。

けれども、忘れないこと、風化させないこと、水俣に学び
保障をどうしていくか水俣関係の仲間たちと虎視眈々と作戦を練ること。
それぐらいが、関の山。
考えること、福島を想うことはやめられないしやめるべきではない。
それが、今の自分の精一杯です。

ほんと、どうしたらよいのやら。
答えは出ませんが。

(引用終わり)


うーん、みんな悩んでいるんですね。
ぼくにも答えはありませんが、みんなで一緒にこの問題について考えられたらと思います。

Q.誰かに似ていると言われますか?

2011-10-13 22:43:23 | 哲学・倫理学ファック
白河の看護学校では、何年かぶりに代表質問のなかで、
「Q.誰かに似ていると言われますか?」 という質問が出されました。
たぶん、その場合の 「誰か」 というのもすでに念頭にある特定の人のことがあるのでしょう。
授業後に回収したワークシートを見てみると、
「誰かに似ていると言われたことはありませんか?」 みたいな質問を書いていたのが5名、
もっと直接的に 「ペ・ヨンジュンに似ていると思います! どうでしょう?」 とか、
「ヨ○様を意識していらっしゃいますか?」 と聞いてきた子が5名と、
おそらく歴代のなかでもこんなに多くの人が、
この問題にストレートに触れてきたのは初めてだったんじゃないでしょうか。
「Q.51回生の印象は?」 という代表質問に対してもお答えしたように、
今年の白河看護学校生は、つまらないときはつまらなさそうな顔をし、
気になったことは何でも遠慮なく質問する、とっても素直な代だと思います。

昨年の前期の相馬の看護学校では、この手の質問がまったく1つも出されませんでした。
別にその質問を心待ちにしているわけではないのですが、
1人もそれに触れないとなると、それはそれでちょっと不安になって、
昨年ブログに 「質問されなかった質問」 という記事を書きました。
昨年の春というのは絶好調に太っていた時期でしたので、
そのせいで似ていなくなったのかなどと考えたりもしました。
その後 「ちょっとはがんばるダイエット」 に成功し、人生で最大の減量を達成しましたが、
震災その他いろいろあって、けっきょくこの秋には 「ふりだしに戻る」 ということになってしまいました。
ですので、条件的には昨年の春と今とではそんなに変わっていないと思うのですが、
ペ問題に言及した人が史上最低の0名から史上最高の10名へと変化を遂げたのはなぜなのでしょうか?
うーん、不思議だっ

回答としては、まあ、
A.ペ・ヨンジュンに似ていると言われることはよくあります。
と答えるしかないのでしょうが、はたして本当に似ているのでしょうか、私とペさんは?



メガネをかけていて、笑うときに口元がだらしなく開いているというぐらいしか、
共通点はないと思うのですが…。
高校のときの卒業アルバムを見てみると、みんなにっこり微笑んで写っているのに、
私だけ大口開けて笑っている写真なんですね。
写真撮影の時ってみんな緊張するから、カメラマンさんはいろいろと笑わせるテクニックをもっていて、
そのおかげで爆笑してしまった1枚がなぜか卒業アルバムに採用されてしまったわけですが、
ペさんの写真を見ると、なぜかあの卒業アルバムを思い出してしまいます。
あの人はたぶんイメージ戦略として、微笑みではなく、
歯を見せるニッコリ笑顔で写真に写るようにと事務所から言われているのでしょうが、
こんなにヘラヘラ笑ってばかりいて大丈夫だろうかと、他人事ながら心配になってしまいます。
そして、もっと心配になってくるのは、私も他人からあんなふうに見られているのだろうかということです。
まあ、いつも笑顔というのは、人としては幸せなことかもしれないけれど、
学者としてそんなにいつもヘラヘラしていていいのでしょうか、私は?
人のふり見て我がふりを直さなければなあと思う今日この頃でした。

看護学校の皆さんへ (倫理学FAQインデックス)

2011-10-12 23:49:48 | 哲学・倫理学ファック
今週から白河と郡山の看護学校での 「倫理学」 の授業が始まりました。

第1回目の授業では、皆さんからの代表質問にお答えしてまいりました。

代表質問に選ばれなかった質問に対してはブログのなかでお答えしていくと申し上げました。

このブログは2008年からやっていますので、

皆さんの先輩たちからいただいた様々な質問にすでにけっこうお答えしています。

このブログの左側に 「カテゴリー」 という欄があると思いますが、

その一番上に 「哲学・倫理学ファック」 というカテゴリーがあります。

そこをクリックして何ページかさかのぼっていくと、過去の質問に対する答えが載っていますので、

ヒマな方は順番にさかのぼって読んでみてください。

あと、特に毎年多くの方から頂戴する質問に関しては、

インデックスとしてまとめておきました。

昨年の先輩たちのためにまとめたインデックスがこれ↓です。

「倫理学の先生に聞きたいこと (インデックス版)」

ここから、自分の知りたいところへすぐに飛ぶことができますので活用してみてください。

今年の前期には相馬の看護学校で 「哲学」 の授業もやりました。

「倫理学」 と 「哲学」 で科目名がちがいますがやってる内容はほぼ同じですし、

学生の皆さんから出される質問もほぼ同じですので、

今年の前期に作成したインデックス↓も役に立つと思いますのでご利用ください。

「哲学の先生に聞きたいこと (インデックス版)」

まあ、飛ぶ先はたいてい同じ記事ですが、こちらのほうが若干新しい記事も参照していると思われます。

本来なら、今年の皆さんのために新しいインデックスを作るべきなのでしょうが、

けっこう骨の折れる仕事なので、今ちょっとそれをやる余裕がありません。

上記2つのインデックスをとりあえず活用しておいてください。

皆さんからいただいた新しい質問には追い追いお答えしていく予定です。