まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

鼻がピー

2011-11-30 15:21:20 | 生老病死の倫理学
鼻をかんだあと、鼻がピーと鳴ることがある。

自分ではまったく制御不能で、鼻の奥のほうでピーという甲高い音がしてしまうのだ。

妻はその音を聞くと必ず 「あ、今ピーって鳴った」 と指摘して私を辱める。

鳴るときは鼻をかむたびに何度も鳴ってしまったりするので、

なんとか鳴らないようにとそうっとかむのだが、やっぱり鳴ってしまって、

「あ、また鳴った」 とさらに辱められる。

妻以外の人間にそんなふうに指摘されたことはないが、

人前で鳴ってしまったとき、きっと聞かれたんだろうなあと思って恥ずかしくなる。

先日、満員の駅のホームで鳴ってしまい、思わずまわりをうかがってしまった。

誰も私のほうを振り返ったり、友だちどうし小声で何かをささやきあったりはしていなかった。

誰にも聞こえなかったのだろうか?

聞こえたけれど何の音かわからなかったのだろうか?

わかったけれど何も聞こえなかったふりをしてくれたのだろうか?

3番目の可能性を想像するとぞっとしてしまう。

もしも聞こえたのならいっそ、「あ、今ピーと鳴りましたね」 と面と向かって言ってほしい。

そして、いつの日にか誰かにこう言ってもらいたいのだ。

「私も鳴ることありますよ。」

私は人の鼻がピーと鳴るのを聞いたことがない。

鼻がピーと鳴るのは世界中で私ひとりだけなのだろうか?

大人の発見・お皿の立て方

2011-11-28 07:32:06 | 人間文化論
洗い物をするとき、うちでは水切りかごを使っています。
うちの水切りかごはお皿を立てることができるようになっているタイプです。
まあ、多くの水切りかごはそんなふうにデザインされているのではないでしょうか。
さて、そういう水切りかごを使っている場合、皆さんはお皿をどういうふうに立てていきますか?
私はずっとこんなふうに↓立てていました。



なんとなくこう並べるのが安定がいいような気がしていたのです。
ところが実際は、こうやって立てながら洗い物をしていると、
洗い物の最中にガラガラガッシャーンとお皿が倒れてしまうことがあります。
こんな感じ↓です。



まあ、水切りかごの中でなら大した衝撃ではありませんし、
これでお皿が割れてしまったなんてことはまったくないんですが、
せっかくキレイに洗って立てていたのに、また並べ直さなきゃなりませんし、
時間のムダであることは否めません。
で、けっこうな頻度でこのガラガラガッシャーンが発生していたのでした。

そんな経験を何度も繰り返した後にある時ふと気づきました。
お皿の立て方がいけないんではなかろうか、と。
そこで、コペルニクス的転回 (これについてはそのうち書きます) で、逆に並べてみました。
こうです↓。



裏から見るとこんな感じ↓です。



お皿の高台 (こうだい) が水切りかごの縁に寄りかかるような形で立ててみたのです。
このようにしてみてからガラガラガッシャーン現象は皆無になりました。
要するに重心の問題ですね。
お皿は底 (高台) のほうが重いんです。
だから、    こう↓が                     こうなる↓のは、自然の理なのです。

   

でも、なんとなく私はお皿の表側 (縁の部分) のほうが重たいような気がしていました。
だから上面を水切りかごの縁に寄りかからせるような向きで、つい立てかけてしまっていたのです。

ところで、我が家でパーティをやると、ゲストの皆さんは帰りがけに率先して洗い物をしてくださいますが、
その様子を拝見していると、皆さんやはりこう↓並べていく方が多いようです。



みんなお皿の重心に関して、私と同じような錯覚にとらわれているのではないでしょうか。
さすがに皆さん慣れていらっしゃるので私のようにガラガラガッシャーンとなることは稀ですし、
せっかく洗ってくださっている方々に 「お皿を立てるときはね…」 なんて講釈たれるほど、
KYな教え魔ではありませんので、黙って見ているのですが、
でも本当はこう言いたくてしかたがないのです。
「お皿は高台のほうが重いんだから、こう↓並べたほうが安定するよ。」



ああ、そんなこととても言えない…。

エルゴ・ラピード

2011-11-27 11:04:08 | 人間文化論
福島に引っ越してきてからずっと使っていた掃除機が壊れてしまいました。

移住してきた最初の月に、方木田のダイユーエイトかコジマ電気でめちゃくちゃ安く買ったやつです。

たぶんおつりが来るぐらい十二分に減価償却したことでしょう。

さて、掃除機を買い換えるときにはぜひにと思っていたことが1つありました。

コードレス掃除機にしたかったのです。

掃除しているとき、あちらの部屋からこちらの部屋へ移動するたびに、

コンセントを換えなきゃいけないのがとてもめんどくさいと思っていました。

掃除中もコードがからまったり、あとちょっとのところで部屋の隅まで届かなかったり。

コードレス掃除機ならどれほどラクだろうと夢想していたのです。

しかし、コードレスのやつはけっこう高いし、量販店にはあまり置いてないし、

そもそもまだ掃除機が壊れていないうちはなかなか買い換える気にはなりませんでした。

そうこうしているうちにまた何年も経ってしまいましたが、

とうとうそのチャンスがやってきたのです。

今の家は全部フローリングですので、コードレス掃除機にするにはうってつけではありませんか。

ところが、いよいよそのときがやってきて、何を買ったもんかけっこう悩んでしまいました。

こんなサイトも見つけて、さらに悩みは深まります。

やはり、新幹線の中の通販カタログに載っている 「マキタ」 の業務用コードレスにすべきなのでしょうか?

しかし、私には何年も前に一目惚れしたコードレス掃除機がありました。

エレクトロラックス社の 「エルゴラピード」 です。

そのデザイン性により欧米ではものすごいシェアを誇っているそうですが、

私も郡山うすいのオシャレな雑貨屋さんでたまたま見かけたときに、

そのカッコよさに一発でやられてしまいました。

ただし残念なことに、上記のサイトでの評価はあまり高くないようです。

さあ、どうするんだ?

マキタなのか、エルゴラピードなのか?

家電に詳しい方にアドバイスを求めたりしながらしばらく迷った挙げ句、

けっきょくエルゴラピードにしました。

こいつ↓です (充電中)。



うーん、カッコいい。

でも決め手はネーミングでした。

「エルゴ・ラピード ergo rapido」。

「コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum」 を彷彿とさせる名前です。

「ゆえに、速い」。

たぶん 「コードレス・エルゴ・ラピード」(コードレス、ゆえに、速い) の省略形なのでしょう。

その名の通り、とっても手早く掃除をすることができます。

少々吸引仕事率が低かろうが、紙パック式でなかろうが、

そんな機能の問題なんて、このネーミングのカッコよさの前ではかすんでしまいます。

たぶん欧米の知識人の中には、この名前にやられて買っちゃった人がけっこういるんだろうな。

「エルゴ・ラピード」。

「ジワタネホ」 のように何度もくちずさんでみたくなる名前です。

繰り返し 「エルゴ・ラピード」 と唱えながら部屋の掃除をしてしまったのでした。

変わったこと、変わらなかったこと (その4)・クリスマス・ディスプレイ

2011-11-26 09:19:45 | 生老病死の倫理学
今年もクリスマス・シーズンがやってまいりました。
クリスマス大好きの私としてはいやが上にも盛り上がってしまいます。
11月に入るや、我が家ではクリスマス・ソングがエンドレスで流れ続けています。
もちろん、ディスプレイもクリスマス仕様に変更いたしました。



さて、このクリスマス・ディスプレイですが、震災前の去年までと較べて、
ちょっと変わってしまったところがあります。
上掲の写真 ↑ ではよくわからないでしょう。
もうちょっと問題の部分に近づいてみることにしましょう。



このクリスマス・キャンドルが変更点です。
どこがヘンだかおわかりになるでしょうか?
そうです。
よーく目を凝らしてみると、左右の長さがビミョーに違うのにお気づきいただけるでしょう。
左のロウソクがほんの少し短くなっています。
このクリスマス・キャンドルたち、もう長いことうちにいますが、
今まで一度も点火されたことはありませんでした。
ですから毎年毎年、同じものを繰り返し使い続けてこられたのです。
ところが、左のやつだけとうとう一度点火されてしまったのです。



3.11のあの日、雪の中を大学から歩いて我が家まで帰ってきたとき、
福島駅周辺は完全に停電していて、真っ暗な闇があたり一帯を包んでいました。
大学はまったく停電していなかったので、自宅が停電なんて想像もしていなかったのですが、
部屋ももちろん真っ暗闇です。
いちおうこういうときのために備えてラジオつきの懐中電灯を持っていましたので、
(たしかクレジットカードのポイントが貯まってもらったやつ)
所定の置き場所を手探りで探索したところ、ちゃんとあるべきところにありました。
これです。



自分の用意周到さに満足しながらスイッチを入れましたが、懐中電灯は点きません。
うわっ、しまった、電池を入れておかなかったんだろうか?
私としたことが…。
暗闇の中でなんとか電池ボックスを見つけ開けてみたところ、ちゃんと単4電池が3本入っています。
ずっと入れっぱなしだったから放電しちゃったのかな?
そこで、さらに手探りで買い置きの電池を見つけ、
プラスとマイナスはどっちだろうと注意しながら電池交換しましたが、
再度スイッチオンしても懐中電灯はまったく点く気配がありません。
なんだよ、不良品だったのかよぉ、とクレジット会社を罵りながら、
闇の中で途方に暮れてしまいました。

真っ暗というのは本当に人を不安にさせます。
うちはオール電化なので、電気が止まるとすべての機能がマヒしてしまうのですが、
しかし、水が出ない、火が使えない、暖が取れないという諸々の不便と較べても、
とにかく明かりが点かなくて何も見えないというのは致命的に恐ろしいことです。
地震の被害を調べることすらできません。
頼みの綱の懐中電灯が使い物にならず、一瞬パニックに陥りそうになりました。
しかし、そこで何とか自分を落ち着かせて、代わりになるものはなかったかどうか、
一所懸命、脳内データ検索を行ってみたのです。
そこで思いついたのが、あのクリスマス・キャンドルでした。

もちろん、当時はひな祭り仕様でしたので (3月3日は過ぎていたにもかかわらず)、
ロウソクが階段箪笥に飾ってあったわけではありませんが、
クリスマス仕様からひな祭り仕様に飾り変えたのがほんの2週間くらい前のことでしたので、
クリスマス・キャンドルを階段箪笥の引き出しの中にしまったこともまだ鮮明に覚えていました。
すぐにロウソクは見つかり、キャンドル立てにセットし、
ちょっともったいないなあと思いながらも、非常事態なんだから四の五の言ってる場合じゃないと、
お香を焚くとき用のマッチを使って点火すると、部屋の中にやっと明かりが灯りました。
光が確保されてようやく少し落ち着くことができました。

そのロウソクをもってあちこちの部屋の被害状況を確認してみたところ、
階段箪笥のひな飾りが散乱していたり、書斎の本棚が大変なことになっていたりしましたが、
1番恐れていた食器棚が倒れたり、テレビがすっ飛んでいたりということはなかったので、
あの大地震の中、これくらいですんで本当にラッキーだったと思えました。
ようやく一息ついて、テーブルにロウソクを置き、
先ほどの懐中電灯を手に取って、せめてラジオはついてくれないかなあと考え始めたときでした。
またイヤな地響きがしたと思ったら、余震が襲ってきたのです。
あわててロウソクを消しました。
ロウソクが倒れて火事になってしまったりしたらたまりません。
地震による停電の時はロウソクも使えないのだなと思い知らされました。
左のクリスマス・キャンドルがほんの少ししか短くなっておらず、
したがって今年もまたクリスマス飾りに使ってしまえるのは、あの余震のせいだったのです。

再び、暗闇が戻ってきてしまいましたが、
先ほど一瞬、懐中電灯のチェックをしたときに、あることに気づきました。
この懐中電灯には手動の発電機が付いていたのです。
ふだんは格納されているハンドルを取り出して、これをグルグル回すと、
しばらくの間ライトが点き、ラジオを聴くこともできるのです。



その夜は一晩中この懐中電灯を握りしめ、グルグル回してはかすかな明かりを頼りにトイレに行ったり、
ラジオで必死に情報を収集したりしていました。
ずっと余震が続いていましたし、マンションは絶え間なくミシミシ音を立てていて、
いつか倒壊するんではないかと、産まれて一番恐ろしい一夜を過ごすことになりました。

翌朝、どこかで水の流れる音がして目が覚めました。
停電が復旧し、屋上のタンクに貯まっていた水のおかげで一時的に水道水も戻ったのです。
明るい日差しの下で、まったく役立たなかったわけではないけれど、
発電中は両手がふさがってしまうし、発電機の音がうるさくてラジオが聞き取れなくなってしまう、
とっても使い勝手の悪かった懐中電灯をじっくりと観察してみました。
すると一番端のところにこんな小さな切り替えスイッチが付いていました。



見えますでしょうか。
上のほうのスイッチには 「充電電池」 と 「乾電池」 と書いてあります。
発電機で使用する場合にはスイッチを 「充電電池」 のほうに、
乾電池で使用する場合には 「乾電池」 のほうに切り替えなければならないようなのです。
昨晩はスイッチは 「充電電池」 のほうに入ったままでした。
だから発電機では点灯したけれど、乾電池では使えなかったのです。
ちなみにスイッチを 「乾電池」 のほうに切り替えてみると、
発電機で点けていたときとは比べものにならないくらい明るい光が灯りました。
もともと入っていた乾電池でも確かめてみたところ、
もちろんちゃんと点灯しました。
まったく
懐中電灯が必要なくらい真っ暗なところでは、
そもそもこんな小さなスイッチがあることに気づきませんし、
気づいたとしても、そこに書いてあるこの小さな文字が読めるわけもありません。
懐中電灯の明かりでは、この底の部分を照らすことはゼッタイにできませんし。
それにしてもこんなに明るく点灯してくれるのだとすると、一晩中ハンドルをグリグリ回しながら、
かぼそい明かりで不安な一夜を過ごしたあの時間はいったい何だったのでしょうか?

というわけで、震災前と震災後で変わらなかったことは、
クリスマスにあいからわず同じクリスマス・キャンドルを使い続けているということで、
変わったことは、2本のうち1本のキャンドルが少し短くなってしまったということと、
懐中電灯の正しい使い方を覚えたということでした。
クリスマス・ディスプレイをしながら、あの日のことを思い出してしまったというお話でした。
今日は第6回の 「てつがくカフェ@ふくしま」 です。
「安心」 とか 「不安」 ということについて皆さんと話し合ってきたいと思います。

「てつカフェ」 サイトウ洋食店の場所

2011-11-24 18:05:12 | 哲学・倫理学ファック
いよいよ明後日、第6回 「てつがくカフェ@ふくしま」 が開催されますが、

チラシの地図を見ても 「サイトウ洋食店」 がどこにあるのかよくわからない、

という質問をいくつか頂戴しました。

たしかにあの地図だとちょっとわかりにくかったかもしれません。

みずほ銀行なんてあそこにはもうないし、

中合を示す●印の位置もちょっと誤解を生みそうだし。

正確には 「食べログ」 の 「サイトウ洋食店」 のページの地図でご確認ください。

口で説明すると次のようになります。

1.福島駅東口の駅前通りを13号線のほうへ歩いていってください。

2.中合デパートの一番館と二番館を通り過ぎ、その次の角にうどん屋さんの 「なか卯」 があります。

3.この角を右折して細い小道を平和通りのほうへ向かってください。

4.するとすぐの右手に 「カフェ・コパン×レ・フルール」 というお店がありますので、

  そのビルの2階が 「サイトウ洋食店」 となります。

どうです。

これでわかってもらえたでしょうか?

駅からものすごく近いにもかかわらず、

前回のカフェのときもなかなか見つけられなくて迷ったという方がいらっしゃいましたので、

「食べログ」 の地図や私の説明をプリントアウトして、

よーく気をつけながら、少し時間の余裕をもっていらしてください。

それでは26日 (土) 16時、サイトウ洋食店でお待ちしております。

2011年度東北学生競技ダンス最終戦終了

2011-11-20 12:31:38 | ダンス・ダンス・ダンス
昨日は東北大学で、「第81回 全東北学生競技ダンス選手権大会」 が開催されました。
2011年度の学連の最終戦となります。
言葉では尽くせないくらい色々あった2011年でしたが、
早いものでもう今年のシーズンが終了してしまうのです。
いつものようにパンフレットに寄せた挨拶文をここに再掲しておきます。


                   2011年度卒業生の皆さんへ

                                       全東北学生競技ダンス連盟会長
                                        小野原雅夫 (福島大学教授)

 東日本大震災によって大きく出遅れることになった東北学連の2011年度の公式戦も、今日で最終戦を迎えます。本当にいろいろなことのあった1年間でした。昨年の秋大会を終えたときにはまさかこんなことになるとは思ってもいませんでした。そして昨年の4年生たちの多くは卒業式も追い出しコンパも開催されず、別れの言葉を交わすチャンスもないまま、それぞれ社会人として慌ただしく旅立っていかなくてはなりませんでした。
 そんな昨年の4年生たちと比べて、今年の4年生のダンス人生はどうだったのでしょうか?いよいよ最終学年に突入するという直前にあの震災に直面してしまいました。貴重な練習期間である春休みのほとんどを、リーダーやパートナーと顔を合わせることもできないまま、練習ができずに悶々としていたことと思います。4月に入ってもなかなか大学は再開されず、学連の公式戦も再開できるかどうかずっと危ぶまれていました。けっきょく春大会は非公式戦という形での開催となりました。ただでさえ数少ない東北学連の公式戦が1試合失われたのは大変な痛手でしたが、「がんばろう、東北!! 東北学生ダンススポーツ大会」 という形で開かれたチャリティマッチは、例年の公式戦とは異なる、見る者にも参加する者にも心に残るいい試合となったのではないでしょうか。夏大会では3人のトッププロの先生方にけっこう長い時間、公開レッスンをしていただくこともできました。あんなことがあったからこそ、いつもの年とは違う貴重な経験もたくさんすることができたのではないでしょうか。
 例年、卒業生の皆さんに言っていることですが、ダンス部での4年間の経験というのはこれからの人生にとっても大変意味のあるものです。この4年のなかで、もう辞めようかと悩んだことは一度や二度ではなかったでしょう。実際に一緒に入部した同期生のうち多くの仲間がそれぞれの事情で辞めていったことと思います。そのうえあんな震災に見舞われてしまったわけですが、それにもかかわらず皆さんはとうとう最後まで踊り続け、後輩たちを指導し続ける道を選択しました。その選択と努力と苦労に心から称賛を送りたいと思います。この困難な状況の中で最後まで頑張り抜いた経験は、きっと皆さんのこれからの人生のバックボーンになってくれることでしょう。これからもいろいろなことが起こると思いますが、どんな経験も力に変えて、東北の復興のために大いに貢献していただきたいと思います。

政治的無力感

2011-11-19 07:44:01 | グローバル・エシックス
ジャイアンツを揺るがせた造反問題でしたが、けっきょくこんなことになってしまったようです。

〈巨人〉 清武代表を解任 渡辺会長批判 「信用傷つけた」

ネット上のアンケート結果などを見ても、

巨人ファンも含めほぼすべての国民が清武代表を支持していたにもかかわらずこの結果です。

もちろんまだこれで終わりではないようですが、だいたいこの先の展開は見えてきた気がします。

こういうことが起こるたびに国民の間では政治的無力感が広がっていってしまいます。

国政レベルでいっても、やっと政権交代が実現したと思った矢先に東日本大震災が勃発し、

時の首相は 「脱原発」 を唱えた瞬間に政権の座を引きずり下ろされてしまいました。

どんなことが起こってもけっきょく何も変わらないのかあという気がしてもしかたないかもしれません。

しかし、民主制の真の闘いはこの政治的無力感にどう抗うかだと思います。

どんなに全然変わっていかないような気がしても、

独裁制や絶対王政に較べれば、民主制ははるかに民意を反映しやすい体制であることは明らかです。

民意を反映しやすいとはいっても、民意がさまざまなのですから、

そんなに簡単にコロコロと政治のあり方が変わるわけではない。

そこに政治的無力感が生じがちになるわけですが、

だからといって独裁制や絶対王政に戻ってしまっていいわけではないのです。

さて、明日は福島県の県議会議員選挙です。

原発のおかげで東北の中でも最も深刻な事態に直面している私たち福島県民。

無力感に苛まれている場合ではありません。

清き一票を投じることが復興につながる道だと信じようではありませんか。

バリトン・リサイタル&ボジョレー・ヌーボー

2011-11-18 19:07:23 | 人間文化論
昨日は竹沢嘉明先生のバリトン・リサイタルに行ってまいりました。
竹沢先生の歌は教員親睦会の飲み会でお聴きしたことがありましたが、
ちゃんとコンサートにうかがったのは初めてです。
今回は 「東日本大震災復興祈念チャリティコンサート」 として、
日本の歌曲ばかりを集めたプログラムでした。
日本歌曲といっても私が聴いたことのあるような曲は一曲もありません。
室生犀星の詩にメロディーをつけた 「小景異情」 や、
『きけわだつみのこえ』 に収められた学徒兵の遺書を曲にした 「わだつみの声」 など、
初めて耳にした曲ばかりでしたが、それぞれの世界に一瞬で引き込まれました。
そして、なんといっても御年70歳になろうとしているとは思えぬ豊かな声量と、
それだけの経験を積んできたからこその表現力に圧倒されました。

パンフレットの挨拶文は次のように始められていました。

「千年に一度という東日本大震災、
 中でも私の後半生の活動基盤である福島の地が地震と原発という未曾有の災害下にあります。
 生涯の伏流水でもあった歌うことを、
 私の残り人生に向かって正面から実現したいという思いが湧き上がってきました。」

そして、挨拶文の最後は次のように締め括られています。

「私の第二のふるさと、福島そして東日本が早く三月十日以前に戻りますよう祈るばかりです。」

この言葉を裏打ちするように、アンコールは和合亮一の 「決意」 でした。
「福島に風は吹く 福島に星は瞬く」 で始まり、
「福島をあきらめない 福島を信ずる」 で幕を閉じるこの曲は、
この日の最後を飾るのに最もふさわしい歌だったように思います。
竹沢先生のこの歌声がすべての福島県民に届いてくれることを祈りました。

さて、コンサート後は音楽のS先生や院生幹事の方と勝手に打ち上げを行いました。
この日は奇しくもボジョレー・ヌーボー解禁日。
みんな飲む気満々です。
ところが、福島テルサでの公演だったので、近いから 「アルソーニ」 に行こうと言われ、
「あそこはイタリアンだからボジョレー・ヌーボーは置いてないと思うよ」
と警告したのですが聞いてもらえず、行ってみたら案の定ありませんでした。
お腹が空いていた3人は4号線の果てまで来てしまって、今さら河岸を替えるわけにも行かず、
ボジョレーはあきらめて、イタリアンとイタリアワインを堪能する方向に路線変更しました。
でもここで頼んだキャンティ・クラシコは抜群でしたね。
音楽の専門家のお2人から音楽談義を拝聴しつつ、美味しい料理とワインに舌鼓を打ちました。

二次会はなんとしてもボジョレー・ヌーボーをと思い、
ワインバー 「ルラーシュ」 に行ったのですが、なんと貸し切りで入れませんでした。
「ルラーシュ」 もやっぱり県庁通りよりも東側 (駅から遠いほう) にあって、
店の選択の基本コンセプトは、あんまり歩きたくないというのが見え見えです。
ボジョレーか運動量かと比較してみるとけっきょく運動量の少なくてすむほうが選ばれて、
今日はボジョレーは飲めない運命なんだねとあっさりあきらめ、
「ルラーシュ」 のすぐ隣のショットバー 「LOVE SONG」 に入ることにしました。

ところが入ってみたらなんと黒板に 「ボジョレー・ヌーボー」 の文字があるではありませんか
思わぬ出会いにみんな 「おおっ」 と一瞬言葉を失いました。
というわけで、やっと念願かなって今年の新酒にありつくことができたのです。
福島ではあんなことがありましたが、それでも世界中では新たな果実が実っているのですね。
そして、福島の地にもこうして例年と同じようにボジョレー・ヌーボーが届けられるのです。
私たちも声高らかに歌おうではありませんか。
「福島をあきらめない ボジョレー・ヌーボーをあきらめない

「考えるテーブル」 @せんだい

2011-11-17 12:28:37 | 哲学・倫理学ファック
「てつがくカフェ@せんだい」 と 「せんだいメディアテーク」 が主催している、

「考えるテーブル」 が来週の日曜日に開催されます。

第6回 「てつがくカフェ@ふくしま」 の翌日になりますが、

今回はぢゅんちゃんがファシリテーターをやるということもあり、

連戦になりますが、ぜひとも参加してきたいと思います。

「考えるテーブル」 は震災後に開始され、ずっと東日本大震災の問題を扱ってきています。

ただし、このイベントは 「せんだいメディアテーク」 という集客力のある組織がやっているからか、

当初から50人とか60人くらいの規模でやっていて、

毎回があの 「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 のような大賑わいです。

そのためマイクを使って話さなければならないとか、必ずしも全員が話せるわけではないとか、

いろいろと不便な点もないわけではありませんが、

毎回毎回これだけ多くの人間が集まってあの問題について語り合うというのは、

とても意義あることだと思います。

「@ふくしま 特別編」 でやはりこの問題に向き合っていかなくてはいけないと思った方々、

ぜひ11月26、27日の週末は、福島と仙台で哲学的対話をいたしましょう。



【テーマ】「切実な〈私〉と〈公〉、どちらを選ぶべきか?」

【日時】 2011年11月27日(日曜日) 14:00~16:00

【場所】 せんだいメディアテーク(smt)1F オープンスクエア

【参加費】 無料(ドリンクは隣のクレプスキュール・カフェで購入できます。)

【事前申し込み】 不要(直接会場にお越しください)

【問い合わせ先】 E-mail tanishi@hss.tbgu.ac.jp (西村まで)

【主催】 せんだいメディアテーク・てつがくカフェ@せんだい

プロから学ぶ就活力

2011-11-16 15:09:49 | お仕事のオキテ
就活支援団体の GLOW LAMP が今週の土曜日にイベントを開催します。

ベストセラー 『就活のバカヤロー』 で有名な石渡嶺司氏が今年も来福してくれます。

また、石渡氏の講演だけでなく、地元企業の人事担当者からも具体的なアドバイスがもらえます。

特に企業ねらいの就活生はぜひ参加してみてください。


「PREMIUM START EVENT ~プロから学ぶ就活力~」

日時 : 11月19日 (土) 13 : 00 ~ 17 : 45

場所 : 福島大学 L-4教室

第1部 : 石渡嶺司氏 講演

第2部 : 石渡氏×内定者 トークセッション

       石渡氏×地元企業人事 パネルディスカッション

       地元企業人事×就活生 面接デモンストレーション



ダンス部の試合があって私は参加できないのが残念です。

参加希望者は申し込みフォーマットとかがあるみたいなので、

GLOW LAMP のブログをご覧ください。

なお、同ブログでは、内定をもらっている4年生たちが自分の就活を振り返って、

内定をもらえた理由や、内定先を決めた理由、去年の今頃何をしていたか、

などを教えてくれています。

19日のイベントに参加できない人も一度のぞいてみるといいと思います。


第6回 「てつがくカフェ@ふくしま」

2011-11-14 14:44:54 | 哲学・倫理学ファック
来る11月26日 (土) に第6回 「てつがくカフェ@ふくしま」 が開催されます。

テーマは 「〈安心〉 は共有できるか? 放射能をめぐる 〈温度差〉 とは何か?」 です。

前回の特別編で出された5つの論点からひとつを選んでみました。

放射線という目に見えない、影響がただちに出るわけではない脅威に対し、

どのように対処すべきか、人それぞれの思いが違っており、

それゆえにさまざまな人間関係にヒビが入っている様子が、

前回のカフェから明らかになってきました。

その点について深めていきたいと思っております。

今回はまた会場を 「サイトウ洋食店」 に戻して、

いつものようにマイクなしで和気藹々とやりたいと思っております。

前回のカフェに参加してくださった方々をはじめとして、

皆さまの参加を心よりお待ち申し上げます。



第6回 「てつがくカフェ@ふくしま」

テーマ : 〈安心〉 は共有できるか? 放射能をめぐる 〈温度差〉 とは何か?

日時 : 11月26日 (土) 16:00~18:00

場所 : サイトウ洋食店

費用 : ドリンク代300円 (おかわり自由)




ちなみに第7回の予定も決まっています。

12月23日 (金・祝日) にA・O・Z (アオウゼ、MAX福島4階) で16時から18時までです。

年末のおしつまった時期ですが、今のうちから予定に入れておいていただければと思います。

なお、第6回の打ち上げは 「サイトウ洋食店」 では行えないため、

どこか別のお店に移動することになりますが、

第7回は 「てつカフェ」 を 「サイトウ洋食店」 でできない代わりに、

打ち上げは 「サイトウ洋食店」 でやらせていただけることになっています。

しかも、この日はまさおさまの生誕50周年記念パーティも兼ねるつもりで、

お店を借り切ってしまいました。

第6回と第7回の 「てつカフェ」、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

日本カント協会会長退任

2011-11-13 10:02:55 | お仕事のオキテ
昨日出席していた日本カント協会ですが (日本関東協会ではない)、

会長の牧野英二先生が2期5年間の務めを終え、今年度いっぱいで退任されるということで、

総会の最後に退任の挨拶をされました。



そうです、皆さん見覚えがあるでしょう。

10月の 「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 で来福され、

世話人代表をされていた、あの牧野英二先生です。

そうだったんですねぇ。

「てつがくカフェ」 ときにはカントのカの字にも触れていませんでしたが、

牧野先生は (この場では先生と呼ぶことをお許しください) 日本におけるカント研究の第一人者で、

日本カント協会の会長を務められるほどの方だったんですねぇ。

昨日は第36回大会だったんですが、退任挨拶によれば、

牧野先生は第1回から一度も休むことなく毎年出席され、

法政大学が事務局を引き受けていた頃以来ずっと常任委員などなんらかの役付きで、

日本カント協会の発展に寄与してこられたそうです。

私の元々の指導教員であった浜田義文先生も日本カント協会の会長をされていましたし、

なんだか私はものすごい人たちに育ててもらったんですねぇ。

ヘラヘラしている場合ではないな。

私もがんばらなきゃ



P.S.

ちなみに昨日の昼は、世話人のなかの1番若かった彼 (カント研究者) とお昼を一緒に食べ、

お店のオシャレな雰囲気に負けて (首都大学東京がある南大沢駅周辺イクスピアリのようでした)、

学会中の昼間であるにもかかわらずワインを飲んでしまいました。

さらに夜には懇親会と二次会のあと、もう1人の世話人 (ハイデガー研究者) と、

新宿三丁目に繰り出して、明け方4時近くまで飲んでいました。

何をがんばっておるのだ、私は…。

日本カント協会

2011-11-12 08:22:28 | カント倫理学ってヘンですか?
今日は日本カント協会の第36回大会が首都大学東京で開催されるため上京しています。

日本カント協会といえば、今からもう20年くらい前、

法政大学大学院に在学していた頃、法政大学が日本カント協会の事務局をやっていました。

その学会関係でちょっとした買い物を頼まれて、領収書をもらってくるように言われました。

店員さんに 「領収書をください」 とお願いしたところ、「どちら様宛てですか」 と聞かれ、

「日本カント協会でお願いします」 とハキハキと答えたつもりでした。

しかし、もらった領収書にははっきりと、

「日本関東協会」 と書かれていました。

「日本」 「関東」 協会ってどう考えてもおかしいと思わなかったんでしょうか?

ジャイアンツのコンプライアンス問題

2011-11-11 17:30:06 | お仕事のオキテ
今日の昼くらいから、ケータイのニュース速報で、

ジャイアンツの清武代表がコンプライアンス (法令遵守) に関わる問題で記者会見をすると、

フラッシュニュースが流れ続けていました。

内容は何も触れられていなかったので何事だろうなあと思っていたのですが、

やっとその会見の内容が入ってきました。

なんと、ジャイアンツがナベツネ氏を告発したようです。


<巨人> 清武代表が渡辺会長を告発 「人事介入は人権侵害」


ナベツネ氏が球団人事に口を出し、

「球界で生きる選手、コーチ、監督の基本的人権をないがしろにした」 ということだそうです。

まだ現段階で真偽のほどは明らかではありませんが (笑)、

あの、ジャイアンツのなかで、ひいてはプロ野球界のなかで絶対的権力を誇っていたナベツネ氏を、

ほかならぬ巨人軍自らが告発するというのは並大抵のことではないと言っていいでしょう。

この問題どう決着するのか、ワクワクしながら見守りたいと思います。

Q.なぜ生体移植に反対するんですか?

2011-11-10 18:06:53 | 生老病死の倫理学
看護学校で脳死臓器移植についての話をして、
そのついでに生体移植についても触れ、私は生体移植には反対ですと述べました。
それに対して、次のような質問というか、反論をいただきました。

「先生は、生きている人から臓器提供することは傷害罪にあたるとか、
 やってはいけないとか言いますが、
 自分の大切な人のために自分の臓器をわたすこともおかしいと思いますか?
 私は、自分のもっているもので大切な人が助かるなら全然おしみません。」

この意見は、完全にドナー (あげる方) の立場から論じていますね。
その観点に立つならばたしかに、大切な人のために自分の臓器をあげたいと思う気持ちは、
私にも理解できます。
しかし、この問題はただドナーの立場から、
「あげたいからあげる」 で片付く問題ではありません。
レシピエント (もらう方) と医療関係者 (取り出す方) の側からも考えてみる必要があります。

自分が人から臓器を提供してもらわなければならない難病にかかってしまったとき、
あなたは自分の大切な人に自分のほうから 「腎臓を1個ください」 とか、
「肝臓を少し切り分けてください」 とお願いするでしょうか?
また、相手のほうから 「私のを使ってください」 と切り出してきてくれたとき、
じゃあと言って、そんなにほいほいと軽々しくもらうことができるでしょうか?
自分のをあげるというのはわりと快く決断できる場合が多いですが、
人からもらう、特に自分の大切な人からもらうというのは、
そんなに簡単なことではないように思うのです。
ここにもパターナリズムが発生していますね。
「私の中のあなた」 という映画をぜひ見てみてほしいと思います。
この映画は表面上は、あげたいとは思わないドナーのことを描いていますが、
実はレシピエントの側からこの問題がどう見えるかも描かれていて秀逸です。

しかしながら、私が生体移植に反対するのは、ドナーやレシピエントよりも、
医療者の立場に立って考えたときに容認できないと考えるからです。
臓器移植というのは、必ず医療者が媒介となって、ドナーから臓器を取り出し、
レシピエントに移植するという医療行為をしなければなりません。
自分で取り出して相手に移植してあげるというわけにはいかないのです。
つまり、自分と相手の気持ちだけで何とかなる問題ではありません。
間に医療者が入るのです。
医療者はレシピエントを助けたいと思って移植をするわけですが、
それはたしかに医療行為かもしれませんが、
ドナーから臓器を摘出するという部分は、ドナーにとっての医療行為ではないのです。

一番わかりやすい例は、心臓移植が必要な難病の患者とその家族の場合でしょう。
例えば自分の子どもが心臓移植が必要で、自分の心臓がその子に適合しているとしましょう。
そのとき多くの人は、自分の心臓で子どもが助かるならぜひ自分の心臓をあげたいと思い、
主治医に心臓移植をしてくれるように頼むかもしれません。
しかし、医療者としてはそれは絶対にやってはいけませんね。
心臓を摘出してしまったらその人は死んでしまいます。
そんなことをしたら殺人になってしまうのです。
どんなに本人たちが希望していたとしても、それをやってはいけないということは、
誰にでも理解してもらえるのではないでしょうか。

では、ドナーが死にさえしなければ何をやってもよいのでしょうか?
腎臓が2個あるというのは人間にはみんな1個よけいに腎臓がついているのでしょうか。
肝臓があの大きさであるというのは、肝臓は不必要に大きいのでしょうか。
そんなことはないはずで、腎臓が1個になってしまえば血液浄化能力は落ちてしまうし、
肝臓を小さくしてしまえば、脂質やアルコール等々の分解能力は落ちてしまうでしょう。
つまり、健康ではなくなってしまうのです。
人の身体を切り裂いて臓器を摘出し、その健康にダメージを与えるとするならば、
それは傷害行為以外の何ものでもないと思うのです。
レシピエントにとっては臓器移植かもしれませんが、
ドナーに対しては臓器摘出は傷害行為なのです。
だからこそ、臓器移植は死体からのみ行うべきだと思うのです。
ドナーがあげたいと思っているかどうかは関係ありません。
ドナーの思いとは関係なく、医療者にはやっていいことといけないことがあると思うのです。

以上が今回の質問に対するお答えになります。
とはいえ、これで決着がつく問題とも思っていません。
現実に医療の世界では生体移植が当たり前のように行われています。
そうしなければならない現実があるのも事実です。
それらをふまえてさらに考え続けていきたいと思います。