まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

共にあること

2010-07-31 21:16:02 | 哲学・倫理学ファック
先日、橘高校の管弦楽部のコンサートに行って参りました。
高校のオケのコンサートなんて今まで聴きに行ったことは一度もありませんでしたが、
例の加藤先生が始めた研究会で知り合った国語のF先生が指揮をするというので、
ちょっと見てみたいなあと興味を引かれたというわけです。
彼は市民オーケストラの活動にも参加していて、そこではビオラを弾いているらしいのですが、
嘘か本当か、あんまり練習せずに本番を迎えてしまったときは、
弾いてるふりだけして実際には音を出さないようにしている (いわゆるエア・ビオラ)
なんていう話をしてくれていましたので、
お、なんだなんだ今度はエア・タクトかあ?とか、
いやそもそも指揮というのはエアなんだとか、
仲間内でそんなやりとりをしていたところでしたので、
暑気払いの酒の肴にぐらいの軽い気持ちで 「見に行く」 ことにしたわけです。
(「聴きに行く」 ではなく。)
ところが、行ってみて圧倒されました。
まあ高校のオケってどこもこんな感じなのかもしれませんが、とにかく大編成です。
ステージ上に100名くらいいます。
これだけの大勢の楽団員が、なかには初心者もいるにもかかわらず、ちゃんと合奏しちゃうのです。
それはそれはみごとなものでした。
そしてF先生も指揮の大役をみごとに果たしていました。
チャイコフスキーの交響曲第4番 (の特に第1楽章) なんて、
素人が聴いていてもとっても振りにくそう曲でしたが、
全身を使って100人の大オーケストラを引っ張っていっていました。
これは本当に見て聴くだけの価値のあるコンサートだったなあと思いました。

ところでその指揮をしたF先生ですが、
パンフレットに生徒たちへのメッセージを寄せていました。
彼は国語の先生なのですが、なぜか私とは公民科学習研究会で出会ってしまったわけで、
彼の文章を読んでいただくと、
彼がそういう所へ顔を出すのも納得していただけるのではないでしょうか。
とてもいい文章でしたので、ご本人の承諾も得て転載させていただきます。


           共にあること

                               深瀬 幸一

 哲学の業界には、他者問題という難問があるそうです。近代の哲学は、「自己」 (自我) から出発しましたが、自己にとって他者 (他我) とは何かを問う者は長い間あらわれなかったそうです。少し前には 「自分探し」 などという言葉が流行しました。まるで本当の自分がどこかに隠れてでもいるかのようです。しかしそうでしょうか?

  わたくしという現象は
  假定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといっしょに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち、その電燈は失われ)

 これは宮沢賢治 『春と修羅』 の最初の詩ですが、「わたし」 とは 「風景やみんなといっしょに」 ある存在としてとらえられています。「風景やみんな」 がいなければ 「わたし」 は存在しないのです。現代の哲学者は、そのような 「わたし」 を 「相互主観性」 とか 「間主観性」 等といい、そのような人間の存在を 「共同存在」(レーヴィット) と呼びます。
 音楽とは、そのような人間の存在のあり方を端的に示す営みだと言えます。「私」 は、「他者」 とともにあり、「私」 を根底的に規定するのは 「他者」 である。そのように一人一人の奏者は多くの他の奏者とともに存在しているのです。



とても高度な内容です。
はたして高校生はこの文章の意味を理解できるのでしょうか。
少なくとも私の授業を取っている福大生には、
ここに書いてあるようなレベルの話をしてあげたことはありませんが、
橘高校の生徒さんたちは、特に管弦楽部の皆さんは毎日こういう話を聞かされているのでしょうか。
こんな哲学をもっている先生に管弦楽の指導をしてもらったり、
国語を教えてもらえるというのは素晴らしいことですね。
私たちはこの世にただひとりで存在しているのではなく、
他のたくさんの同胞との関係性のなかで存在しているということ、
音楽というのはそういうことを五感を通じて実感できる 「活動」 なのかもしれません。

映画 『ソウ』 がギネスブックに

2010-07-28 23:20:46 | 人間文化論
映画 『ソウ』、ギネス世界記録の 「最も成功したホラー映画」 に認定!

ということだそうです。

まあ私にとってはどうでもいいんですが。

スカパー!で一度だけ第2作を見た覚えがあります。

そもそもホラー映画はキライなんで、なぜ見てしまったのかも思い出せません。

たぶんプチ鬱かなにかで、チャンネルを替える元気もなかったんでしょう。

感想としては 「たしかにホラー映画でした、見るんじゃなかった」 というくらいの印象しかありません。

好きでもないのになぜこのブログで取り上げるのか。

邦題が気に入らないのです。

一般的に、邦題が気に入らない場合というのは、

原題とはかけはなれた邦題がつけられている場合で、

例えばずっと以前にご紹介した 「ブロンドライフ」 なんてその筆頭かもしれません。

”LIFE OR SOMETHING LIKE IT” という原題の意味するところや、

実際の映画のテーマなんて完全に無視されています。

最近見た映画で言うなら、「もしも昨日が選べたら」 も許し難かったですね。

原題は 「CLICK」 なので素直に 「クリック」にしておくか、

せめて映画の中身を見たならば、

「もしも昨日が選べたら」 なんかではなく、「人生を操るリモコン」 とか、

せいぜい 「もしも人生を早送りできたら」 くらいに落ち着いたんだろうと思いますが、

たぶんちゃんと映画を見るヒマのなかった配給会社の人が、

勝手に自分の想像で決めてしまったのでしょう。

話が脱線してしまいましたが、

それらに比べればもともとの欧文タイトルを尊重しようという態度は十分尊敬に値すると思います。

しかし、そのつもりがあるのであれば、せめて外語大卒業生を雇っておくべきだったでしょう。

「SAW」 は名詞であれ過去分詞であれ、「ソウ」 ではなく 「ソー」 と発音するはずなのです。

英語辞書を引いてみればそんなこと一目瞭然ですし、

私は塾講師時代、中学生相手にちゃんと 「aw」 の発音のしかたを教えていました。

law も saw も 「オー」 と伸ばさなければいけないのです。

milk thoughp の 「ough」 の部分と同様、「オー」 と発音しなければならないのです。

なのに、なぜわざわざ 「ソウ」 と表記するのでしょうか?

ああ、頭に来る

「阪神タイガース」 と同じくらい頭に来る (正しくは 「阪神タイガーズ」)。

というようなことが気になって気になってしょうがない今日この頃でした。

ホームパーティ強化週間

2010-07-27 19:35:31 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
先週の土曜日にNHK文化センターの講座が終了したのですが、
その講座には、ブログの弟子であるぢゅんさんの奥さんが参加してくださっていました。
(「奥さん」 という概念も使いたくないのですが、
 知り合いの配偶者を表す敬語が見当たらないので、しかたなく遂行的矛盾を犯します)
で、ぢゅん夫妻からのお招きで、ぢゅんちゃん宅で打ち上げをしませんかということで、
講座の受講生の方々にも声をかけて、けっきょく総勢6名によるホームパーティが開催されました。
私たちが講座をやっているあいだに、ぢゅんちゃんが料理を作っておいてくれるという、
夢のようなスケジュールです。
そのパーティの様子に関しては、弟子のブログに詳しく記載されていますので、
重複は避けることにいたします。
ひとつだけ補足するならば、弟子のブログには自分が作った料理のことしか書いてありませんが、
奥さんが作ってくれたビシソワーズも絶品だったということは付言しておく必要があるでしょう。

さて、ビールとワインをどれだけ空けたかわからないくらいで、
翌日は相当グロッキー状態 (死語?) だったのですが、
日曜日にもホームパーティが予定されていました。
今度は我が家での開催です。
いちおう名前は伏せますが、行きつけのお店の女性3名を招いての宴会です。
早起きして、大掃除して、買い出しに行って、
夕方のスタートに間に合うようにゆるゆると準備をしておくつもりだったのですが、
まったく起き上がることができず午前中は完全に消滅してしまいました。
午後も動きが鈍くて片付けがまったくはかどらず、
やっと買い出しに行けたのが3時過ぎ、料理に着手したのは4時過ぎ、
5時スタートだというのに、10分前になっても1品も完成していないという体たらくです。
たまたまゲストの皆さんの到着が20分くらい遅れることになってしまったので、
それでなんとかなりましたが、それにしてもなんとも段取りの悪い準備でした。
それに比べると前日のぢゅんちゃんはパーフェクトなおもてなしでした。
私のほうは皆さんに謝りながら、まあうちはオープンキッチンなので、
のろのろ作っているところも見てもらいつつ、
あっちこっち移動して、食ったり、飲んだり、作ったりと慌ただしい接客でした。

そんな状態でしたので、料理の写メを撮るヒマがまったくなかったのですが、
今回のメニューは以下の通りです。

1.インゲン、パプリカ、ラディッシュのサラダ、アンチョビドレッシング
2.スタッフド・オリーブのオリーブオイル漬け
3.「ヌーベルバーグ」 のフランスパンとルヴァン・ナチュレール、オリーブオイル添え
4.チーズ盛り合わせ (ブルー、ミモレット、ストリングチーズ)
5.漬け物盛り合わせ (お土産にもらったもの、キュウリ主体)
6.いろいろ野菜の重ね蒸し (枝元なほみ・レシピ)
7.豆腐イタリアン (豆腐にオリーブオイルとクレイジーソルトをかけたもの)
8.トマト牛肉 (平野レミ・レシピ)
9.かじきのア・ラ・メゾン (グッチ裕三・レシピ、ナスとエリンギのソテー添え)

このうち、皆さんが到着したときに出来上がっていたのは1と2だけでした。
予定では、さらに4もテーブルの上に並び、
8は出来上がっていて、温め直して出すだけ、
3は焼き始め、6も蒸し始めているはずだったのですが、
とてもそんな余裕はありませんでした。
とりあえず6の野菜類は全部切り終わってはいましたが、
皆さんがいらしたときには大鍋の中に野菜を一生懸命敷き詰めている最中でした。
できればこの行程は見せずに、
蒸し上がったものを大皿に盛ってドーンともっていき、
みんなにオオーッと言ってもらいたいところでしたが、
そんなこと夢のまた夢となってしまいました。
3、4、5はお客さんにやってもらい、
8はもう一通り飲んで食べて一段落してから作り始めるみたいに、
当初の計画をまったく変更してパーティは進んでいきました。

まあしかしけっきょく、5時にスタートして、延々12時近くまでやっていましたので、
少しずつ作りながら、順番に時間をかけて食べていくということでよかったのでしょう。
4人中1人は飲めない人なので、3人で飲んでいたのですが、
ビールの他に、スパークリングワイン×1.5、白ワイン×2、赤ワイン×1を空けてしまいましたので、
よくぞまあこれだけの食べ物と飲み物が胃袋の中に収まったものだと思います。
2日続きのホームパーティで暴飲暴食してしまいましたので、
翌朝、体重計に乗るのがちょっと怖かったのですが、
意外なことにこれでリバウンドしてしまうことなく、
むしろとうとう62㎏台にまで落ちていましたから、
野菜中心のヘルシーなメニューであったことがよかったのでしょう。
講演会とホームパーティに追われる日々でしたが、
とても幸せなひとときを送ることができました。
皆さん、ありがとうございました。

NHK文化センター 「哲学って何だろう?」 最終回

2010-07-26 16:11:11 | 哲学・倫理学ファック
4ヶ月間にわたって開講してきたNHK文化センターの哲学講座ですが、
一昨日の土曜日が最終回でした。
古代ギリシアから始まって、猛スピードで哲学の歴史を追ってきたこの講座でしたが、
前回は、すべての学問を意味していた哲学から、
実証科学が分離・独立していってしまった過程をお話ししました。
今回はそれを承けて、実証科学が分離・独立化してしまったあとに残された現代の哲学は、
いったいどんな学問なのかということをお話しするつもりだったのですが、
要するに、実証的に証明したりすることのできないことをひたすら考え続けていく、
わけのわからない学問が今の哲学なんです、ということを言いたいだけだったわけです。
そういう話であれば、2時間も話す必要がまったくなくて、
ほんの10分もあれば語り尽くせてしまいます。
というか前回の最後にそういう話はすでにしていますので、
今回はもう特に話す内容がないということに、
資料の準備を始めた前日になってからやっと気づきました。

話すことはないので本来なら休講にしてしまいたいくらいですが、
さすがにそういうわけにもいきません。
何を話そうかなあと悩んだ挙げ句、最終回は 「現代の哲学」 というサブタイトルでしたので、
20世紀の哲学の動向について全般的に話すしかないかなという結論に至りました。
しかし、現代哲学というのは私のテリトリーではありませんし、
大学の授業などでも取り上げたことはありませんから、
ゼロから話を作り上げなければなりません。
大慌てで概説書などを読みながら、なんとか準備をしていきました。
金曜日は終電までねばってやっても間に合わず、
家に帰ってからも半分徹夜みたいな感じで資料作りに追われていました。
そうやって出来上がった資料は、これまでのものとは毛色が異なり、
人名がやたらとたくさん並んでいて、字がちっちゃい、とても見にくいものとなってしまいました。
やはり、自分の中できちんと消化しきれていない話というのは、
すっきりとまとまらないんだなあということを痛感させられました。
取り上げたのは以下のようなラインナップです。

1.20世紀の哲学

1900年 フロイト『夢判断』(精神分析)
    ディルタイ『解釈学の成立』(解釈学)
1906年 ソシュール「一般言語学講義」開始(1911年まで、1957年出版、構造主義)
1907年 ジェームズ『プラグマティズム』(プラグマティズム)
1913年 フッサール『純粋現象学および現象学的哲学のためのイデーン』(現象学)
1914年 ラッセル『外界についての我々の認識』(分析哲学)
1921年 ヴィトゲンシュタイン『論理・哲学論考』(分析哲学)
1925年 デューイ『経験と自然』(プラグマティズム)
1927年 ハイデガー『存在と時間』(現象学、解釈学、実存主義、存在論)
1943年 サルトル『存在と無』(実存主義)
1947年 ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』(フランクフルト学派)
1949年 ボーヴォワール『第二の性』(フェミニズム)
1950年 ポパー『開かれた社会とその敵』(現代リベラリズム)
1958年 アーレント『人間の条件』(現代リベラリズム)
1960年 ガダマー『真理と方法』(解釈学)
1962年 レヴィ=ストロース『野生の思考』(構造主義)
1963年 フリーダン『新しい女性の創造』(フェミニズム)
1966年 アドルノ『否定弁証法』(フランクフルト学派)
1967年 デリダ『エクリチュールと差異』(ポスト構造主義)
1970年 ミレット『性の政治学』(フェミニズム)
1971年 ロールズ『正義論』(現代リベラリズム)
1972年 フーコー『狂気の歴史』(構造主義)
    ドゥールーズ&ガダリ『アンチ・オイディプス』(ポスト構造主義)
1974年 ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(現代リベラリズム)
1978年 サイード『オリエンタリズム』(カルチュラル・スタディーズ)
1979年 リオタール『ポスト・モダンの条件』(ポスト構造主義)
1981年 ハーバマス『コミュニケーション的行為の理論』(フランクフルト学派第2世代)
1982年 サンデル『自由主義と正義の限界』(現代リベラリズム批判=コミュニタリアニズム)
    ギリガン『もうひとつの声』(フェミニズム)
1995年 ボク『共通価値』(グローバル・エシックス)
1999年 スピヴァク『ポストコロニアル理性批判』(カルチュラル・スタディーズ)
2000年 ネグリ&ハート『〈帝国〉』(フランクフルト学派、カルチュラル・スタディーズ)

もちろん個々の思想家や個々の著作をひとつひとつちゃんと取り上げるわけではありませんが、
これだけのものをたった2時間で全部カバーしようというのですから、
もうむちゃくちゃな企てです。
皆さんほとんど話についてこられなくて、呆気にとられている御様子でした。
しかしながら私的には、20世紀の哲学をちゃんと俯瞰して位置づける、
なんていう作業を今までしたことはなかったので、
たいへん勉強になりましたし、勉強していてけっこう楽しかったです。
しかしながら講師が自分的に面白いと思っていることを、
そのまま聴衆にぶつけてしまったのでは面白い講義にならないということは、
学生たちにも常々言っていることですから、
今回もまた 「遂行的矛盾」 を犯してしまったということになります。
お金を払って講座を聞きに来てくださった方々には本当に申しわけないの一言です。
しかも、講義内容を作って資料を準備するので精一杯で、
最後に書いてもらう感想用紙のことをすっかり忘れていたというのも、
1週間前に懲りたばかりだったというのに情けないかぎりです。

さて、実証的に証明できないわけのわからない問題ばかりが現代の哲学に残されたわけですが、
(それらは大きく言って、認識論、倫理学、形而上学の3つだと思います)
最近ではそういった問題にも実証科学のメスが入れられるようになりつつあります。
大脳生理学や認知心理学といった科学が発達してきたことによって、
人間の脳の中で起こっていることに関しても、実証的に研究できるようになりつつあるのです。
そうした研究が進んでいけば、いよいよ哲学には何も残らなくなってしまうかもしれません。
それを 「哲学・倫理学に対する脳科学の脅威」 ということで、最後にお話ししました。
その実例として2つの文章をご紹介しました。


2.哲学・倫理学に対する脳科学の脅威

①利根川進・立花隆『精神と物質 分子生物学はどこまで生物の謎を解けるか』(文春文庫、1993年)より
―遺伝子によって生命現象の大枠が決められているとすると、基本的には、生命の神秘なんてものはないといことになりますか。
「神秘というのは、要するに理解できないということでしょう。生物というのは、もともと地球上にあったものではなくて、無生物からできたものですよね。無生物からできたものであれば、物理学及び化学の方法論で解明できるものである。要するに、生物は非常に複雑な機械にすぎないと思いますね」
―そうすると、人間の精神現象なんかも含めて、生命現象はすべて物質レベルで説明がつけられるということになりますか。
「そうだと思いますね。もちろんいまはできないけど、いずれできるようになると思いますよ。脳の中でどういう物質とどういう物質がインタラクト(相互作用)して、どういう現象が起きるのかということが微細にわかるようになり、DNAレベル、細胞レベル、細胞の小集団レベルというふうに展開していく現象のヒエラルキーの総体がわかってきたら、たとえば、人間が考えるということとか、エモーションなんかにしても、物質的に説明できるようになると思いますね。いまはわからないことが多いからそういう精神現象は神秘な生命現象だと思われているけれど、わかれば神秘でも何でもなくなるわけです。早い話、免疫現象だって昔は生命の神秘だと思われていた。しかし、その原理、メカニズムがここまで解明されてしまうと、もうそれが神秘だという人はいないでしょう。それと同じだと思いますね。精神現象だって、何も特別なことはない」(中略)
―21世紀には、人文科学が解体して、ブレイン・サイエンスの下に統合されてしまうということになりますか。
「統合されるかどうかは別にして、大きな影響があると思います」
―文学とか、哲学といったものはどうなると思いますか。
「哲学に関していえば、すでに現代の生物学の成果がこの学問分野に与えた影響は、かなりのものではないでしょうか。ブレイン・サイエンスの成果は哲学が扱う世界観・人間観にさらに大きな影響を与えると思います。文学についていえば、すぐれた詩が人間を感動させるとき、人間の脳の中で、それに対応する物質現象が起きている。それが解明されれば、どうすれば人間を感動させられるかがもっとよくわかる。どういう詩、どういうストーリーがなぜより人を感動させるのかといったこともわかってくる」(p.322-327)


②内藤淳『進化倫理学入門 「利己的」なのが結局、正しい』(光文社新書、2009年)より
「「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」といった善悪、正不正には、はっきりとした理由がある。しかもそれは、倫理学や道徳哲学を専門に勉強しないと分からないような複雑で難解なものではなく、単純で明快なものである。そして、人々はそれを分かっていないのではなく、はっきり意識していないだけで実はどこかでそれに気づいている。だからこそみんな「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」と本気で思うのであり、道徳や善悪・正不正の区別が人間社会にあまねく存在するのはそのためである。
 ではその理由とは一体何か。
 それはずばり、利害損得である。(中略)
 対象をその「外」から客観的に観察・分析するというのは、科学的態度の基本である。まさにそのことから、従来より科学の中心は、物理や天文といった自然現象を人間が観察・分析する自然科学であったわけだが、最近ではわれわれの外にあるそうした現象にとどまらず、人間自身の行動や心理を対象にした人間科学が大きく発展している。(中略)
 その中で、近年とりわけユニークな成果が見られるのが、人間行動進化学という分野である。ここでは、生物進化の観点から、その過程で人間がいかなる心のはたらきや行動パターンを発達させてきたか、生物として人間が共通に持つ基本的性質はどういうものかが研究されている。人間の道徳性はその中でも重要な研究テーマであり、それを扱う研究は「進化倫理学」と呼ばれて、特に1980年代以降、活発な議論が展開されている。「道徳や善悪の根拠」はそこでの中心的な論点のひとつで、進化倫理学に基づいて独自の発想でこの問題を考えたとき、その答えが人間ひとりひとりの「利益」の中に見えてくる。これは、言い換えれば、道徳に「利益」という客観的根拠を見出すということで、これまでの倫理学ではなかなか答えが見つからなかったこうした問題に、新しい角度から光を当て、独自の見方を提示するところが、新しい学問分野としての進化倫理学の大きな特徴である。」(p.12-16)


はたして今後、哲学はどうなっていってしまうのでしょうか。
私はどれだけ実証科学が進歩していったとしても、
人間が意味の世界の住人である以上、哲学という営みがなくなることはないと思っていますが、
たぶん科学者から言わせると、そんなのは哲学をやっている人間の思い込みにすぎない、
ということになるのでしょう。
利根川先生のおっしゃるように、
人間が感動する仕組みを物理学的に説明できるようになる日が来るとは私には思えませんが、
しかし、もしもそうしたことが解明できたとするならば、
授業や講演の準備はものすごく楽ちんになることでしょう。
全員満足度100%の、感動まちがいなしの講演を、
いとも簡単に作り上げることができるようになるというのはちょっと魅力的ではありますが、
そうなったときには、私は失業してしまっているから、
もう授業や講演をする機会はなくなってしまっているかもしれません。
それとも哲学はけっして滅びることなく、私も失業せずにすみ、
その代わりにあいかわらず授業や講演の準備に日々汲々としていたりするのでしょうか。
うーん、どちらも困った展開ですね。
とにかく、まだ哲学が消滅してしまう前に、
NHK文化センターでまたなにか講座を開講してみたいと思います。
4回おつきあいいただいた受講生の皆さん、本当にありがとうございました。

中絶は略語である

2010-07-24 15:49:59 | 性愛の倫理学
「中絶」 という言葉は堕胎を指すのによく使われる語ですが、

ご存じの通り、これは略語です。

正確には 「人工妊娠中絶」 と言います。

「中絶」 という語は本来、途中で途絶えることだけを意味する広い意味の言葉です。

それは 「生理」 という言葉がもともと、汗をかいたりホルモン分泌したりという、

人間の生理現象一般を指す語であることと同様です。

しかし、「生理」 という語がそういう広い意味よりも、

月経という女性特有の生理現象を指すのに使われることが多いのと同様、

「中絶」 も広い意味で使うことは稀で、

「中絶」 だけで 「人工妊娠中絶」 のことを指す場合のほうが多いです。

しかし、この正確な言葉のほうはきちんと順序立てて作られていて、

なんでもいいから途絶えればいいのではなく、

妊娠が途中で途絶えることを 「妊娠中絶」 と言うわけです。

「妊娠中絶」 には2種類あります。

ひとつは 「自然妊娠中絶」。

これは流産など、自然に妊娠が中絶してしまう場合です。

これに対して、人工的に妊娠を中絶させる処置が 「人工妊娠中絶」 と呼ばれるわけです。

だから私の前では略して 「中絶」 なんて言わないようにしてください。

そんなこと言われたら、私は何が中絶したの?とか、

どうやって中絶したの?とさらに問いただすことになるでしょう。

言葉は正確に使いましょう。

今日はとりあえず言葉の使い方に関してだけにしておきます。

人工妊娠中絶に関する倫理学的問題についてはそのうち書くことにいたします。

「学ぶ」 ってどういうこと?

2010-07-22 15:07:38 | 教育のエチカ
昨日は加藤国彦先生の命日でした。
といっても、私は記念日とかに弱いので、毎年ちゃんと覚えていてその日が来ると供養する、
なんてことをするわけではまったくありません。
一昨日にブログの弟子からメールをもらい、
命日だから加藤さんに関する記事を書くので去年の私の記事にリンクを張ってもいいですか、
という打診があって、ああそうか、7月21日は命日だったっけと、
やっと思い出したというのが実情です。

というわけで特に何をするというつもりもなかったのですが、
奇遇なことに昨日は、加藤さんが始めた研究会で知り合った高校の先生に呼ばれて、
高校1年生相手に講演をすることになっていました。
タイトルは 「学ぶってどういうこと?」 です。
勉強が大好きだった加藤さんを偲ぶにはうってつけのテーマです。
私はもちろんのこと、たぶんその高校の先生も、
(彼は 『加藤国彦集成』 の編集をつとめてくれた方です)
昨日が加藤さんの命日だということをまったく意識しないまま日程をセッティングしたのですが、
どういうお導きかこういうことになってしまうものなんですね。

場所は郡山市青少年会館、田村高校の特進クラス学習合宿だそうです。
高校はもう夏休みに入っているそうですが、
地方の高校では学校がこんなことをしてくれるんですね。
親や生徒にとってはとてもありがたい話ですが、高校の先生たちはたいへんです。
昨日は10時前には会場に到着して、朝から国語、数学、英語と、
ふだんよりも長時間の授業を受けていたみたいです。
とはいえまだ1年生ですから、もう受験勉強がスタートしているというわけではなく、
これからに向けて学習習慣を身に付けていくというのがこの合宿のねらいのようです。
私に課された使命は、彼らに 「学ぶ」 意義を理解してもらうため、
「学ぶ」 という営為を根源的に考えさせるような内容の話をしてほしいとのことでした。
そんなこと言われても、こちらはなんせ先週失敗したばかりですから、
そんなたいそうな話はできないよなあと、最初から若干敗戦ムードが漂っています。
とにかく、彼らは朝からずーっと勉強してきて疲れ切っているはずだから、
(寝るのには絶好のコンディションです)
元気いっぱいに話し続けて、なんとなく 「よーし、これからがんばるぞぉ」 と思えるような、
明るいムードで終われればそれでいいやと覚悟を決めて話し始めました。

前半はいつもの 「人はなぜ学び、なぜ働くのか」 という話。
「ありがたい話」 もちょこっと脱線ついでに話してあげたうえで、
後半は 「どうやって学んだらいいか」 という実践論を話してあげようというつもりで、
講演の準備をしました (例によって真剣に準備を始めたのは前の日の夜)。
後半部分の話をまとまった形でしたことはないので、本邦初公開です。
(福大の1年生相手や看護学校などで断片的に話してはいましたが)
先週はこれまでで最短の50分という持ち時間でしたが、今回は1時間20分。
これくらいあるとこちらは余裕をもって話すことができますが、
聞いているほうとしてはけっこう長いので、飽きられて眠られてしまうことが心配です。
ワークシートを用意して書き込んでもらったり、
蜘蛛をジェスチャーで演じてみたり (なぜ蜘蛛が出てくるのかの説明は省略します)、
途中で突然甲高いヘンな声を出してみたり、
あの手この手を使って話していきました。
しかし、ワークシートに時間をかけすぎてしまったり、
いい調子で話しすぎてしまった結果、肝心の後半部分に入ろうというときには、もう残り10分。
当然のことながら話し終わらず、けっきょく5分弱くらい延長してしまいました。
マインドマップを使って講演をするようになってから、
もうみごとに時間通りに話し終われるようになっていたのですが、
時間延長してしまうなんて、プレゼンテーションとしては最低です。
学生たちにも 「プレゼンは時間厳守!」 なんて指導しているのに、
「遂行的矛盾」 もいいところです。
けっきょく今回も反省点のある講演となってしまいました。

しかしながら、感想用紙を見てみると全体的には好意的に受け止められたようで、
平均満足度は4.40でした (有効回答数77)。
講演自体が長引いてしまったため、ゆっくり感想を書いてもらう時間がなかったのですが、
それでも一生懸命たくさん書いてくれた子もかなりいました。
それを見てもらうと、私がだいたいどんな話をしたのかわかってもらえるかもしれません。

「私たちが今やっていることすべてが本能ではない。あたりまえではない。でも、”自分のために”、”家族のために”、”だれかのために” 頑張っている人間はすごいと思いました。勉強はなんのためにやるのか。勉強することがあたりまえだと今までは思っていました。でもそれは本能ではないことを知りました。あたりまえではなくても、”自分の夢のため”って思ったら頑張れます。”勉強” の字は勉 (つとむ) と強 (しいる) からできていて、”無理してがんばる” という意味を表します。無理して勉強することは好きではないけれど、”自分のため” って思って頑張ろうと思います。”努力は自分にかえってくる”、”他人に教えると自分にかえってくる”、”考えたことは書きとめる”、”1つのことにだけ向けた学びをするのではなく、もっと先のことに向かってボールを投げる”」

「今日の講演を聞いて、人間にとってあたりまえのことはないこと、他人が何かをしてくれることは有ることが難しく、そしてありがたいこと、今の社会には答えがない問題を考える、分けて、順序だてて考える力が必要だということ、その他にも、これからためになることがたくさんあり、すごく勉強になりました。また、楽しんで、興味のアンテナを立てて勉強すれば、勉強がはかどるという良いことを教えていただいたので、これから役に立てて、効率よく勉強していこうと思いました。」

「今までは、授業の内容について、関係ないからいいやと思うことがあったが、大切なのは内容ではなくて、考えるという力が大切なのだと分かった。今までと違う視点から考えることができた。また、笑うところもあり、眠くならなかったので良かった。」

「考える力を養うことが大切だということが分かった。目標は大学に入ることではなく、大学に入ってからどうしたいかを目標にすることが大切だということが分かりました。」

「学習するとき、他人に教えることで自分のためになるということが分かりました。本を読む習慣をつけていくようにしようと思いました。目標に向かって頑張ろうと思います。」


みんなちゃんと私が言いたかったことを受け止めてくれたようです。
中でも一番うれしかったのは次のような感想を書いてくれた子でした。

「私は勉強することがあまり好きじゃありません。楽しく学んだことも無いし、いつもめんどくさいと思っていました。だけど今日、話を聞いて、もう少しがんばってみようかなと思いました。話が聞けて良かったです。」

こういう子がこんなふうに思ってくれたというのは、
私のねらい (なんとなく前向きなムードで終わる) が成功したという証ではないでしょうか。
よかった、よかった。
加藤さんみたいに胸を張って 「勉強っておもしれぇんだぜ」 と伝えるまではいきませんが、
学ぶことの必要性と楽しい学び方のほんの一端くらいは伝えられたんじゃないかなあ。
さて、そろそろ田村高校の学習合宿が終了する時間ですね。
田村高校のみんな、福島大学人間発達文化学類で会おうっ

遂行的矛盾

2010-07-21 12:11:09 | 哲学・倫理学ファック
倫理学の世界には 「遂行的矛盾」 という概念があります。

理論レベルで主張していることと、実際の実践が食い違っていることを意味しています。

簡単に言うと、「言ってることとやってることが違う」 っていうやつです。

その昔、人権について研究・教育しているある団体の研究会に招かれた際、

みなさんそれぞれに素晴らしい研究発表をされているのですが、

ふと気づくと分科会や全体会の席にいるのは男性会員ばかりで、

女性会員はみな受付係やお茶汲み係に奔走していて、

誰ひとり研究会に参加できていないということがありました。

男性は1年目の新人でもちゃんと研究会に参加しているのに、

女性はよっぽどのベテランの方でないかぎり、みんな裏方さんなのです。

当時私はまだ駆け出しの頃だったので言おうかどうしようか迷いましたがけっきょく、

「男女平等を研究し啓蒙している人たちの集まりでこれはまずいのではないでしょうか」

と発言し、翌年からその慣行は改められるようになりました。

もっとさかのぼって大学1年生のとき、

私は高校時代の友人たちと山形まで合宿免許を取りに行ったのですが、

赤湯温泉の宿から自動車教習所までけっこう離れていて、

教習所のバスでたしかバイパスを使って30分ほど送迎をしてもらっていました。

この送迎バスがバイパスであれどこであれけっこうスピードを出すのです。

運転席のそばに座ったときなど、スピードメーターと速度制限の標識を見比べていましたが、

常時20キロオーバーは当たり前という感じでした。

実際に運転するようになってみるとそれもわからないではありませんが、

しかしまだ免許を取る途上にあって、

毎日、講習では速度制限を守りましょうと言われ、

路上教習では速度違反をするとハンコを押してもらえないという日々を送っていた私たちは、

なにか納得のいかないものを感じたものでした。

当時は知りませんでしたが、「遂行的矛盾」 という言葉を知っていたなら、

”That’s It!” と腑に落ちたことでしょう。

さて、倫理学者は倫理的なことを口にする機会が多いですので、

勢い 「遂行的矛盾」 を犯す確率も高くなってしまいます。

もちろん倫理学者にかぎらず学校教員はおしなべてその傾向が強いですね。

私も含めて、心してかからねばならないと言えるでしょう。

梅雨明けっ!

2010-07-20 12:32:03 | 幸せの倫理学
今日はむちゃくちゃいい天気ですっ

梅雨は明けたのかなと思って調べてみたところ

福島あたりも、一昨日の7月18日にはすでに明けていたようです。

この連休はずっと家にこもって 『HEROES』 を見ていたので、

梅雨明けの情報を知らずにいました。

いかん、いかん。

なんせ去年は、東北地方はとうとう梅雨明けしないまま、

夏らしい夏も来ず、梅雨からそのまま秋に入ってしまった感じだったので、

なんだか2年ぶりの待ちわびた夏という感じがします。

私は 「夏の似合わない男」 と呼ばれてきましたが、

生まれて初めてダイエットに成功中の私としては、

胸を大きく開いて夏を迎え入れてやろうではありませんか。

まあまだ、水着姿になって 「脱いだらすごいスゴイんです」 の腹を他人様にお見せする、

なんていうことができるほどダイエットが完全成功をおさめたわけではありませんが、

Tシャツやポロシャツくらいは自信をもって着てやろうかと思います。

さあ来いっ、夏っ

地球温暖化の猛威を見せてみろっ

同期会名簿を見て思う

2010-07-19 22:22:12 | 生老病死の倫理学
去る5月に高校の同期会に行ってきましたが、

そのときに優秀な幹事さんたちが同期生の名簿を作って配布してくださいました。

同期生は全部で404名。

そのうち連絡がつかなかった人たちも相当いたみたいですが、

(卒業後30年も経っているんだからそりゃしかたないでしょう)

ひとりひとりに、○:同期会出席者、×:同期会欠席者、△:出欠未定、

-:連絡不能、空欄:未回答、といった印がつけられています。

そしてもうひとつ★のマークがついている人たちもいて、

そういう人が15名いました。

30過ぎの人にはたぶん何のマークかおわかりだろうと思いますが、

そうです、故人のマークです。

私たちはもう50歳に手が届こうとしているので、

同期生に故人がいてもおかしくはないのかもしれませんが、

それでも15個も★があってやっぱりびっくりしました。

404人中15人というのは多いのでしょうか、少ないのでしょうか。

連絡ついていない人が50人もいますので、統計学的には意味ないのかもしれませんが、

いちおう15÷404を計算してみると3.7%となります。

これが多いのか少ないのか、

比較のためいちおう調べてみたところ(平成18年10月~平成19年9月調べ)、

日本人の1年間の死亡者数は約110万人、

そのうち49歳までに亡くなる人が約5万4千人で、全体の約5%です。

これは意外と少ないような気もしますが、

日本の平均寿命が80歳を超えていることから考えるならば、

まあそんなものかなという気もしなくもありません。

いずれにせよ私たちの同期生は、連絡つかない人たちのことも考えると、

だいたい日本の平均と同じくらいか、若干下回っているくらいだと思いますが、

自分の同期生だと思うと、やはり404人中15人というのはちょっと多すぎる気がします。

そのうち2人はけっこう親しかった友人ですので、ショックは大きいです。

今後はこうした会が催されるたびに、この種のショックがもっと大きくなっていくのでしょう。

友人も、そして自分の身体も大事にしなければいけないなと感じさせられた会合でした。

就活支援サークル 「Glow Lamp」 発進

2010-07-17 22:31:30 | お仕事のオキテ
一昨日は柳津中学校での講演会のあと、学生たちとの飲み会がありました。

私なんとまたサークルの顧問を引き受けてしまったのです。

先月急に経済経営学類の学生さんから電話が来て、

サークルを起ち上げたいので話を聞いてほしいとのことで、

いちおう話を聞いてみたところ、まあしゃあないかなあという気になり、

引き受けることにいたしました。

発起人である4年生の彼は、何枚かの企画書を携えてやってきました。

なぜこういうサークルを起ち上げようとしているのか、

設立してじっさいにどんな活動をしようとしているのか等、

とてもわかりやすいプレゼンでした。

本人もやっと内定が決まったばかりなのですが、

自分が就活に相当苦労したので、

それを支援できるような団体が必要だと思ったとのことです。

フツーは自分さえ就職できればそれでもう就活のことなんて忘れて、

自分の卒業のこと (とりわけ卒論) に集中してしまうだろうと思いますので、

後輩たちの支援をしたいなんて見上げたもんです。

もちろん大学でもいろいろな形で就職支援をしていますが、

例えば、福島から東京まで就職活動に出かけていく学生たちに、

バスをチャーターして交通費を少しでも浮かせてあげようみたいな支援は、

福島大学ではまだ行っていません。

そうした、じっさいに就活をした本人たちにしかわからないような、

さまざまなニーズに応えていく活動をしたいとのことです。

先日、初めての就活セミナーを開催してみたところ、

予想に反して20名を超える参加者があったそうです。

学生たちの関心の高さがうかがえます。

大学生活が就職のための準備一辺倒になってしまうのはいかがなものかと思いますが、

現実にこういう厳しい状況の中では、このような活動も必要なのでしょう。

学生たちの中から自発的にこういう動きが出てきたことは歓迎したいと思います。

Glow Lamp というのは、最近あまり見かけなくなりましたが、

蛍光灯の横についている、蛍光灯を点灯させるための放電管のことです。

みんなを明るく光らせてあげるための、

ほんのちょっとしたピカリと光る活動という意味だそうです。

若干レトロですが、なかなかいいネーミングです。

このネーミングが気に入って顧問を引き受ける気になったといってもいいかもしれません。

起ち上げの飲み会には4年生が6人、

そして、これから自分が就職活動をしなきゃいけないという下級生も1人来ていました。

このサークルの趣旨からして、基本的なメンバーは4年生になるんでしょう。

サークル活動をどうやって維持していくのか心配はありますが、

初代のメンバーはみんなひと癖もふた癖もある人たちばかりで頼もしいかぎりでした。

なんとか彼らなりの道を切り拓いていってくれることと思いますので、

暖かく見守っていきたいと思います。

講演会の反省

2010-07-16 17:20:11 | お仕事のオキテ
昨日は柳津中学校での講演でした。
講演会から帰ってきてすぐにある学生たちとの飲み会がありましたので (そのうち書きます)、
昨日はブログを書けませんでした。
というわけですでに予告しておいたとおり、
連続更新記録は367日間で途切れることになりました。
とてもせいせいしたというか、非常にさっぱりした気分です。
何も更新していないというのに250名を超える方々がここを訪れてくださいました。
ありがたいことと感謝申し上げるとともに、
これからもこうしたことがたびたび起こるであろうことをお許しいただければと思います。

さて講演会ですが、今回はちょっと反省点の多い講演会でしたので、
そのことを書き留めておかなくてはなりません。
演題は 「人はなぜ学び、なぜ働くのか」 で、中学校から大学院まで、
果ては5年間勤めた中高の先生方を集めて行われる研修の場でも話しているお得意のテーマです。
そうした慢心が出てしまったのでしょうか、
詰めが甘いというか、ええーっというようなミスの連発でした。

柳津中学校は会津坂下ICから252号線をほんの少し南下したところにあります。
これをえんえんと60㎞以上南下していくと昨年行った只見に行き着きます。
それに比べると柳津は高速下りたらすぐですから、
1時間半もあれば楽勝で着くだろうと余裕のヨッちゃんで出発しました。
地図で見るかぎり柳津中学校も、252号線からほんの少し左に入ったところにあるみたいで、
早く着きすぎたらどうしよう、近くの道の駅でお土産でも買ってようかな、
なんていう心配をしているくらいです。
そんな余裕をかましているうちに順調に柳津に到着し、
道の駅でちょっと用を足したりしながら、「できる大人は5分前行動だ」 と、
ちょっと早めに柳津中学校に向かいます。

ところが252号線からほんの少し左に入る道が見つからないのです。
地図上ではゼッタイこのへんにあるはずだというところに道がありません。
ちょっと通り過ぎてしばらく走ってしまいましたが、
これはどう考えても行き過ぎているはずです。
見落とした道がないかと目を皿のようにしながら引き返しますが、
どこかの民家に入っていくための細い坂道があるくらいで、
それらしい道が見当たりません。
また通り過ぎてしばらく進み、いやこれではゼッタイに戻りすぎだという地点に来てしまい、
再びUターンします。
途方に暮れてもう一度地図を見直し、でもあるべき場所に道はなく、
残るはあの誰かの家に続く私道ではないかと思われる、
細い坂道を試してみるしかありませんが、
ドライバーとしてのカンが、こんな道に突っ込んでいったら、
きっとドツボにはまってしまい立ち往生するに決まっていると警告を鳴らします。
しかたない、ダメだったら得意のバックで下りてこようと覚悟を決めて、
その坂道を試してみることにしました。
けっきょくこの道が大正解で、クルマ2台がすれちがうことのできない細い道ですが、
それがずーっと続いていて、しばらく上っていった先に中学校が現れ、
先生が待っていてくださいました。
これで大幅に時間をロスしてしまい、10分ぐらい遅刻して、
校長室に通されたときにはもう講演開始5分前くらいになってしまっていました。
私のクルマにナビがついていないのも敗因のひとつかもしれませんが、
しかしナビがあったとしてもあの坂道に入るように指示してくれたかどうかは疑問です。
初めて訪れる場所なんですから、地図だけに頼らず、
先方に行き方を確かめておけばよかったと反省しました。
「○○の信号のちょっと先に細い坂道があるから、そこを上ってきてください」
といった言葉をあらかじめおうかがいしておけば、
最初から勇気と確信をもってこの道に突っ込んでくることができたでしょう。
そういうやりとりを怠ったということが悔やまれます。

そんな感じで慌ただしく講演会に臨まなければならなかったので、
平常心で話し始められたわけではなかったというのは確かです。
しかも今回は、演題こそお得意のいつものテーマですが、
父母の方々も臨席されているというのが初めての経験です。
まあその点にはあまり拘らず、中学生相手に伝わることを第1に考えましたが、
はたして講演会の出来はどうだったのでしょうか?
話していてなんだか中学生のみんなのノリが悪いというか、
あまり伝わっていないのではないかという感じがしてなりませんでした。
只見高校や舘岩中学校で話したときのような手応えが感じられないのです。
しかし、いつもいつも話している最中に手応えを感じられるわけではなく、
話しているときは 「ん?」 と思っても、
感想を書いてもらうとちゃんと伝わっていたんだなということがわかることもあるのです。
というわけで、柳津中学校の場合は実際はどうだったのかが問題になるわけですが、
ここでまた痛恨のミスが。

いつもは講演会をするときに必ず感想用紙を配布して、
評点と感想を書いてもらうのですが (ブログやHPで発表していますよね)、
今回、これを書いてもらうことができなかったのです。
前日の教員会議のための原案・資料作りでこのところずっと追われていたというのもあるのですが、
柳津中学校の先生にアンケートをお願いするのを忘れてしまったのです。
感想用紙に書いてもらうというのは、
もちろんこちらが講演の出来をチェックするのに必要なことですが、
それ以上に、聴いてくださった皆さんが感想を書くことによって講演を振り返り、
学びを心に深く刻むという意味でも大事な意味をもつものです。
これを忘れてしまったというのはとても痛いポカでした。
というわけで、実際のところあの講演がどうだったのかはわからずじまいということです。

そして、最大の反省点は、講師紹介されてみんなの前に立った瞬間に判明しました。
昨日は体育館にイスを並べて1年生から3年生までが全員座っていたのですが、
なんと誰も筆記用具をもっていなかったのです。
これには愕然としてしまいました。
何に愕然としたかというと、
聴衆は筆記用具をもっているものという自分の思い込みに驚いてしまったのです。
講演のなかではいつもの 「ありがたい話」 もして、
「人間にとって当たり前のことは何もない」 なんて力説しているくせに、
聞き手が筆記用具をもっているのは当たり前だと私自身が思い込んでいたのです。
今回配布したのは以前にも使っていた資料の、文言をちょっと修正したやつですが、
大事なところは空白になっていて、自分で書き込んでもらうようになっています。
したがって筆記用具がないと、一番肝心なところを埋めてもらうことができないのです。
それに私の資料はマインドマップ形式ですから、
話を聞きながら大事なキーワードや、
自分で思いついたことなどをどんどん書き込んでいきましょう、
なんて言って話し始めるのですが、筆記用具がないと何も書き込めないじゃないですか。
メモを取る、書き留めるという作業をまったくせずに、
ただじーっと座って黙って話を聴き続けるというのは人間にとって至難の業です。
特に中学生は50分間もただ座って話を聴き続けたなんていう経験はしたことがないでしょう。
そんな彼らに50分間集中したまま、ただ話を聴いてもらうなんていくら何でもムリでしょう。
せいぜい可能なのは、お笑いとか漫才くらいでしょうか。
それでもよっぽどの腕がないかぎり、
50分間誰1人あきさせずに聞いてもらうなんていうことはできないだろうと思います。
私の話なんかじゃゼッタイにムリです。

それにしても、こういう事態に陥ってみて、
どれほど自分の思い込みが根深かったかということを思い知らされました。
これまで私も数多くの講演を行ってきましたが、
事前に先方の担当者の方と、
聴衆の皆さんに筆記用具を使えるような条件を整えてもらうことについて、
話し合ったことは一度もありませんでした。
最低限、筆記用具をもっていること、
そしてできればひとりひとりに机かクリップボードなど書くための台があること、
これらは、私の講演を聴いてもらうための必要条件ではありませんか。
今まではたまたま常にそういう条件が整っていましたが、
それは本当にたまたまの偶然で、けっして当たり前のことではなかったのです。
むしろ今までよくぞこういう問題が勃発しなかったもんだと不思議になってくるくらいです。
これからは講演を頼まれたら必ず、筆記条件について打ち合わせるようにしたいと思います。
いやあ長生きしてみるもんですねえ。
今頃になってやっとわかることもあるんだなあと、
深く反省しつつも、新しい学びに感謝したのでした。

これだけのポカが重なってしまいましたので、
柳津中学校の生徒の皆さんにとって記憶に残り、学びのある講演であったか、
はなはだ疑わしくなってしまいました。
本当に申しわけありません。
願わくば、あの50分の苦痛の時間の中に、
ほんの少しでも心に残るような何かを見出してもらえたのであればと思います。
幸いなことに、帰りがけ玄関のところやあの細い坂道を歩いている生徒のみんなが、
私のことを見つけて、笑顔で挨拶したり手を振ったりしてくれましたので、
今回の講演会がものすごくイヤな思い出として残ったわけでもない子たちも、
少しはいてくれたのではないかと思いたいです。
PTA会長さんからこんなリッパな、
あわまんじゅう、栗まんじゅう、梅まんじゅうの詰め合わせを頂戴したのですが、



それを入れた大きな袋を提げて歩いていたら (「岩井屋」 と書かれています)、
1人の男の子が 「それ、うちのお店のおまんじゅうなんだよぉ」 と、
ものすごく得意げに教えてくれました。
君たちのお父さんやお母さんは君たちを育てるために毎日一生懸命働いてくれていて、
しかも、その仕事を通して君たちだけではなくて、
たくさんの人たちに幸せを分け与えているんだよ、
君たちもこれからいっぱい学んで、多くの人たちを幸せにしてあげられるような、
カッコいい大人になろうね、という今回の講演のメッセージを、
彼はちゃんと受け止めてくれていたのでしょうか。
働いているお父さんやお母さんを、
昨日とはほんの少し違う目で見られるようになってくれているといいのですが…。
反省点は多かったですが、今回も心に残る旅となりました。

自分の心を守る術

2010-07-14 19:04:24 | 幸せの倫理学
もうだいぶ前のことになりますが、「幸福になる方法」 について、
「その1」「その2」 を書きました。
幸福になるための第1の秘訣は、「欲求・欲望をできる限り小さく抑えておくこと」 で、
第2の秘訣は、「満足しやすい体質を作っておくこと」、
すなわち、「日頃から幸せの感受性を高めておくこと」 でした。
これは、「幸福」 の定義が、
「自らの欲求・欲望が満たされて、自分の状態に満足していること」 ですので、
そこから自動的に導き出されてくる答えだと私は考えているのですが、
ただ、私がこう考えるようになった背景には、
それなりの経緯があったのかもしれないなあと急に思いました。

人は失恋や死別など、大きな喪失を経験したとき、ひどく傷つくものです。
その痛手が大きければ、長い時間を失意の底で過ごさなくてはならなくなります。
人生のなかでこんなことが何回か起きたら、
心は自己防衛策としていろいろな方策を編み出したりするでしょう。
私の 「幸福になる方法」 というのは、
実は 「自分の心を守る術」 だったのかもしれないとも思えてきました。

「欲求・欲望をできる限り小さく抑えておく」 というのは、
本当は、好きな人とずっと一緒に幸せに過ごしていきたい、という欲求・欲望があるのだけれど、
人の心は変わるものだし、人間関係もどんどん変化していってしまうものだし、
たとえそういうことが起こらなかったとしても、人の命なんて儚いものだから、
どちらかが急に亡くなってしまうなんていうこともあったりと、
どうしたって、ずっとは一緒にいられないかもしれないわけで、
そういうことに備えて、ずっと一緒にいよう、なんていうデカイ野望は抱かずに、
一緒にいられるあいだは楽しく過ごそう、みたいにあらかじめ欲求を小さくして、
不慮の事態に備えているのかもしれません。
「満足しやすい体質を作っておく、日頃から幸せの感受性を高めておく」 というのも、
いつ何時なにがあるかわからないわけで、
しかも、そういう兆候とかを探し始めたらいくらでも見つかっちゃうだろうから、
できるだけそういうことからは目を背けて、
相手がしてくれるちょっとしたことに目を向けて、
それを有り難いことと感謝して、
そこに幸せを感じ取って満足できるようにしておいたほうがいいですよ、
ということなのかもしれません。
つまり、「幸福になる方法」 というのは、不幸を感じなくてすむように、
あらかじめ心を閉ざしておく方法なのかもしれないと思うのです

こういう人はフツー、「冷たい人」 って言われますよね。
「冷たい」 は言い過ぎかもしれないけど、「クールな人」 ではありますね。
これが極度に進行すると、
失恋や離別を恐れて最初っから恋愛なんてしないようにするということになってしまいますが、
まあそこまでいかなくとも、常にクールさを保つことによって、
のちのち傷つかずにすむように予防線を張っておくなんていう人はいるでしょう。
クールな人は本当に幸福なんでしょうか?
私の理論からすると、彼は幸福なんだと言ってあげたいのですが…。
とにかく彼には 「自分の心を守る術」 が必要だったということは確かですね。
彼がそれによって自分の心を守れるといいですね。

祝 ・ 一周年記念日 & 休筆宣言

2010-07-13 12:20:07 | お仕事のオキテ
今日は私にとって記念すべき日です。

一周年記念日です。

さて、なんの記念日でしょうか?

実は昨年の7月13日からブログの毎日更新を始めて、丸1年が経ったのです

つまり、昨日で365日書き続けてきたということになりますね。

そして今日が毎日更新の一周年記念日というわけです。

いやあ厳しい闘いの連続でした。

というか、じっさいには更新できなかった日もけっこうあるわけですが、

しかし、その場合は翌日に2本記事を書き、1本は日付操作をし、

という具合にそれはそれなりにがんばって、365本の記事を書いてきたのです。

まさおさま、エライッ

ちなみに1年前の今日の記事は 「追悼MJ」 で、

夜中にカラオケに呼び出されて、マイコーのスリラーを歌ってきたというどうでもいいお話でした。

まさかあれから始まって、1年間も毎日更新をし続けることになるとは…。

なんで毎日更新しようと決心したのかという話は、ここに書いてあります。

「塵も積もれば山となる」 とはまさにこのことです。

なんといっても、小さいことをコツコツとやっていくことが大切なんですね。

私だってやればできるじゃないかっ


ところで、ここで再び皆さんに宣言したいことがあります。

この1年間は毎日更新ということにこだわってやってきましたが、

今日を機にムリに毎日更新するのはやめようかと思うのです。

やはり私も学会や旅行に行ったり、予期せぬ飲み会があったりするわけで、

どんなことがあろうとその間も毎日更新し続けるというのは、

じっさいにはけっこうムリがあるのです。

出発前に書きためておいて、予約投稿しておくとか。

そんなことよりももっとやるべきことがあるだろうと思うのです。

もちろん、できるかぎり書き続けていこうとはあいかわらず思っていますが、

そうできない場合にはこれからは大手を振って休もうと思うのです。

というわけで 「断筆宣言」 ではなく 「休筆宣言」 です。

それも今日からしばらく休みますよという意味の 「休筆宣言」 ではなく、

今後は更新をお休みする日があるかもしれませんよという意味での 「休筆宣言」 です。

「まさおさまのブログが毎日更新されないと寂しいっ

という熱烈なファンの方々の悲痛な声が聞こえてきますが (どこから?)、

そういう場合は、この1年で365本も書きためてありますので、

まだ読んでない記事を探して読んでみてください。

(ていうかぼくが毎日更新してても、皆さんが毎日読んでくださっていたわけではないですよね

フツーに考えたら、誰も私の毎日更新記録なんて気にも留めていらっしゃらないでしょうから、

こんなことわざわざ私が宣言するほどのことでもないのかもしれませんが、

まあ、とにかくこれでまた1本書けたのでラッキーということで。

というわけで、それでは皆さん、さようなら

ゆっくり 「びすたーり」 でランチ

2010-07-12 17:47:57 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
先週末、仙台の長町にある 「びすたーり」 というお店にランチを食べに行ってきました。
正確な名称は 「長町遊楽庵 びすたーり」 です。
まあはっきり言って仙台の長町って、福島から行くにはちょっと不便なところですよね。
今回はクルマで行ったので、うちから1時間くらいで着きましたが、
食事をしにわざわざ出かけていくようなところではありません。
たまたま知り合いがこちらの関係者だったもので、いろいろと話を聞いていて、
わざわざ出かけてみたいなと思い、御一緒させていただいたというわけです。

じっさいに行ってみると、わざわざ出かけていくだけの価値のあるお店でした。
長町という辺鄙なところ (長町に対して失礼かな?) にあるのは、
たまたま長町に、古くからあるので壊すのは忍びないけど、
ほっといてもどうしようもないという古民家があって、
それを再利用してお店に改造したからです。
外観はこんな感じです。



お店としてリフォームするときに相当手が入ってはいるのでしょうが、
中の梁や柱は元のままだそうです。
もともと材木屋さんだったということで、
使われている木は最高級のリッパなものです。
重厚な構造に漆喰の壁がステキな雰囲気の空間を作り上げていました。
お客さんがいっぱいだったのであまり中の写真を撮りまくるわけにいかなかったのですが、
中はこんな感じです。



とても寛げる雰囲気のなかでいただく料理はどれも美味しいのですが、
写真を撮るのを忘れてしまいました。
こちらでご覧ください。
日替わりランチもパスタランチも美味しかったのですが、
酒飲みとしては、できれば次回は電車で来て、ディナーをいただいてみたいところです。
こちらのコンセプトとしては、
「生産者の顔が見える、安心な食材でお料理を提供します」 ということだそうで、
名取にある 「びすたーりファーム」 で採れた野菜を中心に使っているのだそうです。
ランチもどれも野菜たっぷりな身体に優しい感じのお食事でした。

こちらではただ食事をするだけではなく、数多くのイベントが開催されています。
「コンサートや芝居が出来てゆっくり楽しめる」 というのもコンセプトのひとつです。
店内にはピアノが置いてあって、私にはまったくわかりませんが、
「ベーゼンドルファーModel225 セミコンサートモデル」 というけっこう高くていいピアノだそうです。
所有者のテノール歌手の方が、このお店のことを気に入って、
自分の家に置いておくよりもこの店で活用してほしいとのことで、
コンサートなどに自由に使ってもらえるよう、こちらに置かせてくださっているのだそうです。
第1と第3土曜日の夜には生演奏があるらしいので、
今度はそういう機会に出かけてみたいと思います。
あるいは菊池南里さんや、うちの大学の音楽の先生方や学生さんたちに、
ぜひここでコンサートを開いていただきたいと思うのですがいかがなもんでしょうか。

ところで、この店のロゴマークがとてもかわいいのです。
この写真で見えるでしょうか?



右下のやつです。
お箸の袋にもハンコが押されていたので、
そちらのほうがよく見えるかもしれません。



頭がおっきいのですが、これはカメをかたどったロゴです。
「びすたーり」 というのはネパール語で 「ゆっくり」 という意味だそうで、
「ゆっくり」 を表すためにカメのロゴなわけです。
このロゴは食器にも入っていました。



これもやっぱりちょっと見にくいので、拡大するとこう↓です。
さすがに写メではボケていますが。



このロゴや店名が表しているのは、
食事やイベントをゆっくり楽しむということだけではありません。
実は、このお店は障害者支援のための特定非営利活動法人 「ほっぷの森」 が運営しているのです。
そう言われなければ気づかないままのお客さんもいらっしゃるのだそうですが、
フロアでも厨房でも障害をもった方々がたくさん働いています。
彼らがゆっくり働いていける職場が 「びすたーり」 なのです。

日本という国は障害をもっている人たちに優しい国とはけっして言えません。
じっさい、この古民家に出会うまでにいくつか物件をあたっていたのですが、
障害者が出入りするからということで断られた話もあったのだそうです。
未だにそんなことが起こる国なのですが、
それでもこういうステキなお店も一方では誕生しているわけです。
今回連れて行ってくださったのはこの 「ほっぷの森」 の事務局長さんですが、
隣のテーブルである店員さんがメニューの説明をしているのを聞いて、
「○○ちゃん、メニューの説明できるようになったんだぁ」 と涙ぐんでおられました。
みんな障害を抱えているから自分のペースでゆっくりとなんだけれども、
障害があるからということに安住してしまうのではなく、
そんなことを感じさせないようなサービスを目指して、
(じっさい私はその話を聞かなければそこにドラマがあることに気づかなかったでしょう)
一歩一歩努力し続けていっている、そういうお店のあり方に心を打たれました。
私としても障害者のみなさんを支援するためになんていう気負いはまったくもたずに、
ただステキな建物と美味しい食事と (次回はぜひお酒も) 楽しいイベントをゆっくり味わうために、
また 「びすたーり」 を訪れてみたいと思います。
(でも長町はなあ…、できれば福島に姉妹店を作ってくれないかなあ…)

腰痛からの解放

2010-07-11 13:19:57 | 幸せの倫理学
私は腰痛もちというほどではありませんが、しばしば腰痛に苦しめられてきました。
だいたい年に1回くらいひどいぎっくり腰になり、
また、それほどではないけれど腰から背中にかけてドーンと重くなることが、
やはり年に1、2回のペースで来るという感じでした。
それ以外のときは特にツライということはないので、腰痛もちとは言わないのでしょうが、
腰に弱点を抱えていることは確かです。

そして、2年前のこと、たぶんあれはぎっくり腰のほうではなく、
ドーンのほうだったと思いますが、ただけっこう重症で、
いつもならドーンはシップを貼ってなんとかやりすごすんですが、
これはちょっとヤバイなと直感したので病院に行ってみることにしました。
私は困ったときはとりあえず大原病院に行くようにしていたのですが、
たしかあの頃から大病院は町医者からの紹介がないと、
よけいにお金を取られるようなシステムになっていたので、
しかたなく新しく病院を探すことにしました。
それで思い出したのが、うちの近くで、
「ペインクリニック」 という看板を見かけたよなあということでした。
で、さっそくその病院に行ってみることにしました。
それが 「しぎはらクリニック」 というところなんですが、
「痛みの専門治療クリニック」 と謳っています。
この腰の痛みをなんとか取り去ってくれよぉと願いながら、
でもけっきょく痛み止めを処方されて、
シップを貼るくらいのことしかできないんだろうなあとも思いながら、
半信半疑で診察を受けました。
まさかそれが腰痛からの解放の第一歩だったとも知らずに。

まずはあっちゃこっちゃレントゲン写真を撮られました。
そして鴫原先生の前に座ります。
開口一番、先生はこうおっしゃいました。
「マクラのせいだな。」
えっ? マクラ?
そんなバカな。
私はけっこうマクラにはこだわっていて、
通販とか、寝具専門店とかでも相当いろいろ買っています。
で、さまざま試したあげくに一番自分に合ってるやつを選りすぐって使っていましたので、
マクラのせいにされちゃあ納得いきません。
とはいえそこは大人ですから、お医者さん相手にすぐさま反論したりはいたしません。
とりあえず先生のお話をうかがうことにしました。

先生の説明はこうです。
私の首の骨 (頸椎) はまっすぐになってしまっているそうなんです。
本来、人間の骨というのは首から腰にかけて、横から見たときに、
背骨が大きなSの字型になっていなければならないのですが、
私の場合は、首の部分の湾曲がないんだそうです。
最近そういう人が増えていて、理由は忘れてしまいましたが、
こういう人は腰痛とかになりやすいのだそうです。
で、こうなる1つの原因がマクラなんだそうなのです。
ここらへんの理屈をあんまりよく覚えていないところをみると、
ふーんという顔をしながらも、ほとんど聞き流してしまっていたのでしょう。
「マクラのせいだな」 の第一声からラポール (信頼関係) は崩れ去ってしまっていたのです。
けっきょく反論はせず、電気的な処置を受け、
なにか薬かシップをもらって帰ったのだろうと思います。

そのときの腰痛はわりとあっさり解消しましたので、
やはり病院に行っておいてよかったなあと思いました。
さて、問題はマクラです。
首の骨に問題を抱えているから腰痛になりやすいという点は納得していましたので、
本当にマクラを替えることによって腰痛にならずにすむのであれば、
いちおう試してみようかなあとも考えるようになりました。
数あるコレクションのなかで、私が真っ先に選んだのは、テンピュール的なマクラです。
テンピュールというのは低反発素材を使ったマクラの代名詞といってもいいくらい、
この分野では草分け的な存在です (いわゆるザ・ブランドですね)。
ただちょっとお高いのでどうしようか悩んでいたところ、
イオンのプライベートブランドTOP VALUEで類似品を見つけて、買ってあったのです。
売り場には自分の頭にピッタリのサイズを測るための測定器なども置いてあって、
首の部分や後頭部の部分の高さがチョイスできました。
それで選んだのが、コレです。



私はエイリアン頭ですから、首に当てる部分がけっこう高いです。
こういう形状のマクラを使ったことが今までなかったということもあるかもしれませんが、
実際に寝てみると、けっこう首が圧迫される感じがします。
ちょっとこれは自分には合わないかもしれないなあと思い、
もう少し首の部分が低いやつも買っておくことにしました。
なんせTOP VALUEですから、2個買ってもどうという値段ではありません。
2つを比べてみるとだいぶ高さに差があることがわかるのではないでしょうか。



で、まあ2つを買って帰ってきて、寝比べてみたのですが、
やはり、計算上私にピッタリのはずのやつはどうも首のところがツライ感じがして、
けっきょく低いほうをしばらく使い、それもなんとなくイヤになって、
以前から一番お気に入りだったマクラを復活させていたのです。
そしたら 「マクラのせいだな」 ですから、
「なにを」 と思っちゃったわけです。
しかし、マクラを替えてみるのだとすると、ほとんど使われないままお蔵入りしていた、
計算上私にピッタリのやつにしてみるしかないではありませんか。

替えてみて数日間はやはり違和感がありました。
しかしふと気づいてみると、マクラを替えてからあまり寝返りを打たなくなっていました。
私は、赤ちゃんのときから横向きに寝かされていましたので、
眠るときの基本ポジションは身体の右側を下にして寝る体勢です。
ただ横向きに寝るというのは不自然な体勢のようで一晩中、仰向けになってみたり、
左側を下にしてみたり、そして基本ポジションに戻ってみたりと、
ずーっと寝返りをし続けながら眠っていたのです。
それが、このマクラに替えてから、ずーっと上を向いたままほとんど寝返りも打たず、
ぐっすり眠れるようになっていたのです。
最初感じていた違和感も数日もするうちになくなってきました。
そして、あっという間に2年の月日が過ぎて今日に至っているのです。
しかも、なんとこの2年間一度も腰痛は発生していません。
ぎっくりもドーンもまったく来ないのです。
おお、やっぱり鴫原先生の言うとおり 「マクラのせい」 だったんでしょうか。
こればっかりはたまたまということもありえますし、
この先また腰痛が発生しないともかぎりませんから何とも言えませんが、
しかし、ここまでの実績を見るかぎりは、
マクラを替えてよかったと評価してもいいのではないでしょうか。
さすがはペインクリニック!
そして、さすがは似非テンピュール!
このまま腰痛から解放されるようだったら、
鴫原先生とイオンには感謝状を贈りたいと思います。