まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

受け止め方のゲーム

2009-07-07 12:43:21 | 幸せの倫理学
昨日は、ものの考え方はたくさんあって、
考え方ひとつでラクになれるよ、という話をしました。

これで思い出すのは、哲学ではないんですが、
東京外語大時代に、中嶋嶺雄先生の国際関係論の授業で習った、
Games of Perceptions という概念です。
直訳すると「知覚のゲーム」ということになるのでしょうか。
中嶋先生によれば、国際関係というのは「受け止め方のゲーム」なんだそうです。
例えばA国が何かをしたとします。
A国はA国なりの意図があってそれをしたのかもしれませんが、
肝心なのは、それを近隣のB国がどう受け止めるかである、というのです。
つまり、重要なのは、A国の真意ではなく、
B国にとってA国の行動がどういうものに見えるかということが、
国際関係を動かしていくことになる、という話だったと思います。

例えば、日本の首相が靖国神社に参拝します。
日本の首相にはそれなりの理由があって、
先人への哀悼の意を表するために参拝するのかもしれませんが、
かつて日本に植民地支配されていたアジア諸国の側は、
その行為を、日本が戦前の軍国体制に回帰しようとしている証拠だと受け止めます。
その疑念をもって各国政府が日本政府に対し抗議声明を出したり、
各国国民が抗議行動を起こしたりすると、
今度は日本政府や日本国民がそれを内政干渉と受け止めます。
このように国際関係というのはまさに「受け止め方のゲーム」として展開されていくのです。

大学時代に学んだことはほとんど忘れてしまいましたが(実は私はロシヤ語学科出身)、
この話だけ妙に記憶に残っているのはなぜかというと、
そのとき、この話はたんに国際関係だけでなく、
人間関係のすべてに当てはまるよなあと、若いながらも自分なりに考えたからです。
身近な人間関係においても、行為者の真意がどうであったかよりも、
その行為が相手にどう受け止められるかが重要で、
実際、ある人の真意と周りの人の受け止め方がズレてしまうことによって、
対人トラブルの多くは発生しているんじゃないかと思われます。

そこからさらに発展して、受け止め方をコントロールできるようになれば、
人生幸せに生きていけるようになるんじゃないか、ということまで考えました。
相手の言動を勘ぐったり、
その裏に悪意や攻撃性を感じ取ったりすることはよくあることですが、
それらはあくまでもこちらの勝手な憶測にすぎず、
相手の真意であるかどうかはわかりません。
相手の真意でないものを勝手に悪く受け止めて、
相手と敵対関係に陥ってしまうというのは、
あまりにもバカバカしく時間の無駄ではありませんか。
それぐらいなら、何を言われたりされたりしようと、
相手の言動をプラスに受け止めるように心がけておけば、
心穏やかに暮らせるようになるんじゃないか、
たまに相手の悪意を見ぬくことができなくて少々傷つくことがあったとしても、
相手の真意を誤解し続けてありとあらゆる人々と敵対関係に陥るよりは、
よっぽど幸せになれるんじゃないだろうかと考えたのです。

その後、人生すべて受け止め方のゲーム、というのが私の人生観の根幹となり、
受け止め方ひとつで幸せになれる、というのが私のモットーになりました。
大学のパンキョーの授業が一人の学生の人生をこんなにも変えてしまうなんてスゴイことですね。
まあたぶん中嶋嶺雄先生はあの授業でこんなことを伝えたかったのではないと思いますが、
それもまた「受け止め方のゲーム」ですよね。
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