まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

父の日の父の自覚

2019-06-16 20:19:55 | そして父になる
子どもが保育園に通っていると、様々なアニバーサリーに、

たぶん本人ではなく、保育園の先生が作ってくださった、

いろいろな作品を頂くことができます。

一昨日の金曜日は私が保育園にお迎えに行ったのですが、

その帰りにこんな物を保育園の先生から渡されました。



父の日のメッセージカードのようなものです。

私はこれを受け取りながら、ああちょうどよかったと思いました。

6月16日の父の日には妻の実家に行って、

みんなでお義父さんの父の日を祝うつもりでおりましたので、

お義父さんへの手土産が増えたと思ったのです。

そのつもりで受け答えしていたら、保育園の先生との会話がスムーズに流れません。

それでしばらくしてから、ああこれは私へのプレゼントだったのだと気づきました。

おおそうかあ、自分が父の日に感謝される立場になっていたのかあ。

いやあ、ビックリしました。

父の日って、ずっと自分とは無関係だったので。

自分の父が存命のときもよく父の日のことをスコーンと忘れて怒られていましたし、

25年くらい前に父が亡くなってからはまったく他人事で、

配偶者のお父さんの父の日の集まりとかには参加させていただいていましたが、

それはもうただ皆さんにお膳立てされた飲み会に、

賑やかし要員として参加していただけだったので、

まさか自分が父の日の当事者になっているとは思っていませんでした。

そう言われてみれば、去年の父の日が自分が父となって初めての父の日だったはずですが、

当時はまだ子どもは保育園に通っていなかったので、

自分も含めて誰も父の日の対象者として私が該当するということに気づいていませんでした。

今年もあのような作品をいただいたわけですが、

別に子ども本人は私のことを 「おとうさん」 と呼んでくれたことはなく、

ましてや 「おとうさん、大好き」 とか 「おとうさん、ありがとう」 なんて言ってくれるどころか、

思ってみたことすらないでしょうから、

本当に保育園という存在がなければ、自分が父の日に、

ああいった物をもらえる対象であることに気づくことすらなかったでしょう。

これは父としての自覚が足りないということなのでしょうか?

まあそうなのかもしれませんが、別に感謝されたいとか、

感謝の念を示してもらいたいと思ってやってるわけではなく、

ただ親としての機能は自分にできる範囲内において果たしているだけですので、

これからもこのぐらいの感覚でやっていきたいと思います。

これから先、子どもが父の日のこととかを理解して、

幼稚園や小学校で無理やり作らされる父の日の記念品を卒業して、

自主的に何かできるような歳になったときに、

父の日のことをコロッと忘れてボーイフレンドと遊び回ったりしていたら、

私はショックを受けたりするようになるのでしょうか?

そんな時にはこのブログを読み返して、

自分も父の日や母の日をコロッと忘れて遊び回っているような人間だったよね、

ということを思い出し、「この親にしてこの子あり」 という真理を嚙みしめよう、

と自分に言い聞かせる今日この頃でした。

赤ちゃんの寝相問題

2019-04-20 09:05:07 | そして父になる
赤ちゃんの寝相が悪いもんだというのは何となく知っていたんです。

テレビや映画等で仕入れた知識なのでしょうか、

親というものは寝相の悪い子どものために、夜どおし気づくたびに、

毛布や布団をかけなおしてあげなきゃいけないんだ、と思っていました。

つまり、「寝相が悪い=毛布や布団をはがしてしまうこと」

という定式が私のなかにはできあがっていたのです。

全然ちがいました。

赤ちゃんの寝相の悪さというのは、そんな生やさしいものではなかったのです。

こうですよ。



あるいはこんな感じ。



寝かせるときは頭を左のほうにして、足を右のほうにして、

毛布と布団をかけてあげて寝かしつけたんです。

でもあっという間にあんなふうになっちゃうんです。

たまたまこの2枚の写真は同じあたりにいますが、

要するにこの柵のなかをくまなく動き回ります。

はじっこのほうにいる確率は高いです。

なぜなら柵にぶつかることによってのみ止まることができるからです。

夜じゅう動いては柵にぶつかるので、一晩中ドンドン音がしています。

何よりも驚いたのは、赤ちゃんには長辺と短辺という概念がないということです。

ベッドには縦と横があって、人間は縦に眠ろうとするじゃないですか。

寝相が悪いといっても、その縦のなかで右に転がったり

左に転がったりするものだと思うじゃないですか。

寝ている赤ちゃんにはそんなこと微塵も関係ないんですね。

だから写真のように、頭と足を柵にぶつけながら短辺で寝ていることが多いです。

最初のうちはこれを見かけたら正位置 (頭を左、足を右の縦姿勢) に戻していましたが、

そのうちそれはムダだということに気づきました。

だって絶え間なく動き回っていて、

すぐにドン、ドンという音とともにどこかのはじっこに移ってしまうんですから。

同様に、毛布と布団ももうあまりかけ直してあげなくなりました。

おそらく毛布と布団は運動を邪魔するものでしかないのでしょう。

まず毛布と布団を引きはがし、それからコロコロとどこかへ転がっていくのです。

寝ている時間のなかで毛布や布団がかかっている時間はたぶん30分とないでしょう。

もう思うさま自由に動き回るがいい。

おでこや脛を盛大に柵にぶつけながら、その狭い世界を存分に堪能したまえ。

それにしても長辺と短辺という概念を体得して、

柵のないベッドでも落ちずに眠れるようになるのはいつのことなのでしょうか。

今の段階では、そんな日が来るとはとても想像できないのでした。

やなせたかしさんへの質問状

2019-04-15 23:53:08 | そして父になる
うちの娘は初語が 「アンパン」 だったわけですが、先のブログでは、

初語を発した当時それほどアンパンマンは好きではなかったと書きました。

しかし、その後の様子を見ていると娘のアンパンマン愛は相当強く、

スーパーのお菓子売り場や西松屋のおもちゃ売り場では、

関連グッズを見つけるとロックオンして動いてくれなくなります。

「甘いお菓子は嫌いでしょ」 とか、



「日本語もわからないのに英語なんてムリでしょ」



と言っても聞く耳持たず、抱っこして立ち去ろうとすると、

店中に人さらいがここにいますよと訴えるような大声で泣きわめきます。

そのわりにあいかわらずアニメ番組は最後まで見てくれるわけではなくて、

要するに、「それいけ!アンパンマン」 のお話が好きなのではなく、

ただひたすらそこに出てくるキャラクターたちが好きなだけのようです。

「それいけ!アンパンマンくらぶ」 はもう相当録りためてあって、

親のほうは次のセリフをそらんじることもできるくらい、

ヘヴィローテーションで流し続けているというのに、

娘はテレビそっちのけでただただキャラクターグッズと愛を交わしているのです。


さて、今まで一度も 「それいけ!アンパンマン」 を見たことがなかったわけですが、

この歳になって初めて見てみると、ツッコミどころ満載で、

なぜこの番組が子どもたちにこんなに受け入れられているのか不思議でなりません。

原作者のやなせたかしさんのメッセージはわからなくはないというか、

ひじょうに共感できるところが多くて、とても立派な方だなあとは思うんですが、

それでもアニメを毎日見ていると、ええーっ!?と思わされることがとても多いのです。

スタジオジブリを敵に回したときと同じくまた炎上してしまいそうな気がしますが、

疑問は疑問ですので、「それいけ!アンパンマン」 を見て感じた素直な疑問を、

ここに列挙しておきたいと思います。


Q-1.詐欺の被害者はけっして学習することなく、何度でもダマされ続けるのですか?


このアニメにはばいきんまんとドキンちゃんという悪役が登場します。

彼らは自らの私利私欲を満たすためさまざまな手口を使うのですが、

中でもほぼ毎回のように使う手が、誰かに変装してみんなをダマすという手段です。

この変装のクォリティが著しく低いのですが、


(ニセアンパンマン)


(ニセメロンパンナちゃん)


(ニセジャムおじさん)

アンパンマンをはじめとして出てくる人出てくる人みんな、

何回でも何回でもそれはもうみごとにコロッとダマされるのです。

君たちには学習能力というものはないのか?

昨日も同じ手口でダマされたじゃないか。

それをまた繰り返すのか?

少しは人を疑うっていうことを覚えようよ。

テレビの前で何度そう叫んだかわかりません。

たぶん見ている子どもたちだって (うちの娘を除く) そう思っていることでしょう。


Q-2.アンパンマンは雨の日は何をしているのですか?


皆さんご存知でしょうか。

アンパンマンは顔が濡れると力が出なくなるんです。



その他、顔が歪んだり、人に与えて顔の一部が欠けてしまっても力が出なくなります。

そこにもまたやなせさんのメッセージがこめられています。

それはいいんですが、濡れても力が出なくなるというのはやり過ぎだったんではないでしょうか。

ということはアンパンマンは晴れた日にしか活躍できないということですか?

パトロールがアンパンマンの仕事のようですが、

雨の日はパトロールにも行けなくなってしまうではないですか。

雨さえ降ればばいきんまんとドキンちゃんはやりたい放題になっちゃいませんか?

アンパンマンは雨の日はパン工場でじーっとパンを焼いているのでしょうか?


Q-3.アンパンマンのアイデンティティはどのように保たれているのですか?


これがアンパンマン最大の謎です。

上述したように、アンパンマンは顔に支障が生じると弱くなり危機を迎えるのですが、

これをどうやって乗り越えるのか。

生みの親であるジャムおじさんが新しいアンパンを焼いてくれ、

できた頭を助手のバタコさんが絶妙のコントロールでピッチングし、



玉突きのように古い頭と新しい頭が交換されるのです。



頭がすげ替わると 「元気百倍、アンパンマン!」 と元気を取り戻します。

これって昨年話題になった頭部移植手術じゃないですか。

マンガの世界ですから、頭部移植は本当に可能かといったレベルで問いを立てるのはやめましょう。

それにしても頭がすげ替わった後のアンパンマンは、

すげ替わる前のアンパンマンと同一人物なんでしょうか?

記憶はどうやって連続しているのでしょう?

頭が入れ替わったアンパンマンは、自分が何者で、今自分がどこにいて、

誰と戦っていたのか、どうしてわかるのでしょうか?

もしわかるとしたならば、アンパンマンが戦って危機に陥るまでの直近の記憶を、

ジャムおじさんはどうやって入手し、新しい頭に注入したのでしょうか?

うーん、謎だ。

謎すぎる。

そして、何度見ても恐い絵面だっ。


Q-4.どんぶりまんトリオは本当に仲間なのですか?


サブキャラクターのなかにどんぶりまんトリオという3人組がいます。



左から、カツドンマン、てんどんまん、かまめしどんの3名です。

日ごろから仲がいいような相互に張り合ってるような、おかしなトリオなんですが、

よく考えると (いやよく考えなくとも) ひとり仲間はずれが混ざっています。

「どんぶりまんトリオ」 と言いながら、釜飯は丼 (どんぶり) ではないですよね。

丼ではなく釜に入ったまま提供されるのが釜飯なんですから。

3人について紹介しているあるウェブページ ( → こちら) では、かまめしどんについて、

「どんぶりまんトリオの中で、彼だけ 「まん」 がつかない」 と説明していましたが、

もしもフツーに 「かまめしまん」 と命名されていたら、

最初からどんぶりまんトリオには加入させてもらえなかったことでしょう。

名前の最後に 「まん」 ではなく 「どん」 が付けられることによって、

あたかも彼も丼 (どんぶり) の一員であるかのように偽装されているのです。

しかも、東北出身 (=地方出身) という設定まで付け加えることによって、

「西郷どん」 のように末尾が 「どん」 であることが正当化されています。

これはばいきんまんの変装などとは比べものにならないくらい巧妙かつ狡猾な偽装です。

最後のこの質問は、疑問というよりも反語です。

釜飯はゼッタイにどんぶりの仲間ではありません。

やなせさんにあえて質問をぶつけるとしたならば、

あなたはなぜそうまでして子どもたちをダマしてでも、

釜飯をどんぶりまんトリオのなかに入れたかったのですか?

親子丼だって玉子丼だってうな丼だっていくら丼だって、

丼物はいくらでもあったじゃないですか。

実際すべて 「まん」 とか 「ちゃん」 を付けてキャラクター化しましたよね。

なのになぜそれらを差し置いて 「かまめしどん」 だったのですか?

あなたのその釜飯へのこだわりの真意が知りたいです。


最後は少し熱くなってしまいました。

残念ながらやなせさんは2013年に亡くなられてしまいましたので、

これらの質問に答えてもらうことはできません。

いや、2番目の質問 (雨の日は何を?) に限って言うならば、

番組のなかですでに答えは示されていました。

「どんぶりまんトリオとだいふく和尚」 という回で驚くべきシーンを発見しました。



わかりますか?

雨のなかパトロールに出かけています。

雨に濡れて力が出なくなってしまわないのでしょうか?

よく見ると大丈夫なのです。

こちらは出発前の様子。



そうなんです。

水から頭を守るための透明のヘルメットをかぶっているのです。

これなら雨の日もパトロールに行けますね。

よかった、よかった。

でもQ-2の疑問が解消したとしても、すぐに次の問いが浮かんできます。


Q-2’.なぜいつもヘルメットをかぶっておかないんですか?


顔が濡れるとヤバイとわかっていて、それを防ぐ道具がちゃんとあるのなら、

晴れてる日もいつも装着しておけばいいんじゃないですか?

Q-1とも関連してきますが、毎度毎度ピンチに陥っているなら、

それにあらかじめ対処しておけばいいじゃないですか。

これほど生涯学習の重要性が唱えられている時代において、

なぜ失敗から何も学ぼうとせず、同じ過ちを何度も何度も繰り返すのでしょうか?

などと毎日イライラしながら 「それいけ!アンパンマン」 を見ているのでした。

こんな疑問を娘と共有しあえる日はいつか来るのでしょうか?

娘が 「それいけ!アンパンマン」 のキャラクターたちだけでなく、

物語の内容にも興味をもってくれるようになるのか、

それが理解できるようになったとき、

こんな身も蓋もない疑問をぶつける父親に愛想をつかさずにいてくれるのか、

それが私の一番の疑問なのでした。

筆って作れないんだ

2019-04-09 17:29:35 | そして父になる
「早まった一般化」 とはちょうど逆方向の推論になりますが、

子どもに関して一般的によく聞く話というのがあって、

何となく自分ちの子どももそうなるんだろうなあと予想というか期待していたけれど、

実際には全然そのとおりにならなくてビックリした、

ということもいろいろあります。

そのうちのひとつが、初めて切った髪の毛で筆を作る、という話です。

昔からあった風習ではないのでしょうが、

ある頃からそういうショーバイを耳にするようになって、

初めて髪を切る頃には、そんなこともしてみたくなるんじゃないかな、

ひょっとするとホントにやっちゃうんじゃないかな自分、と思っていました。

ただまあ生まれてすぐの頃は、それが相当先の話だろうなということはわかっていました。

生まれたばかりの赤ちゃんの髪の毛ってこんな感じなんですもん。



これは生後数日の状態。

オマケ程度という感じですね。

予定日より3週間も早く生まれてきたというハンディはありましたが、

予定どおりに生まれてきていたとしてもまあこんなもんだったでしょう。

ところが、小さく生まれた身体はすくすくと成長していっているのに、

髪の毛のほうはここからほとんど変化がないんです。

9ヶ月の時点でこうです。



後頭部の形がぼくそっくりなのはいいとして、

髪の毛はむしろ生まれた直後よりも減ってないか?

当然のことながらここまで一度も髪を切っていません。

というか切るべき髪がないし。

もちろん親の趣味とか衛生上の理由でバリカンかけてるわけでもないのです。

ただひたすら薄毛。

いや、これはもうハ○と言っても過言ではないんじゃないかと心配し始めていたんですが、

この頃から少しずつ伸びてきました。

とはいえ一気に伸びるわけではなく、2ヶ月弱くらい経ってこの程度。



当然、髪を切る必要はありませんし、筆なんて夢のまた夢。

テキトーな写真がなかったのでもうお見せできませんが、

1歳になってもこんな感じのままでした。

その後、全体的な量は少ないままなんですが、

前髪とか耳のわきとかが部分的に伸びてしまったので、

(その不揃いな伸び方はまさに自家栽培の豆苗そっくり)

今年の元日にお義父さんにお願いして初めての断髪式を行いました。



激しくイヤがるのでみんなで押さえつけてほんのちょびっと切りました。

切るには切りましたが、筆を作るどころか、

切ったはしから切った髪がどこに行ってしまったのか見えなくなるくらい。

本当に拍子抜けするような断髪式でした。

というわけで、人にはそれぞれ個性というものがあるので、

子どもなら誰でも初めて切った髪で筆を作れるわけではないよ、というお話でした。

年頃になるまでにはもう少し増えるといいね。



(オマケ)

うちはブログやSNSに子どもの写真 (本人と特定できるような) を載せないようにしているのですが、

薄毛の写真を探していたら、まったく現在の面影を感じさせない写真を見つけたので、

オマケとしてアップしておきます。

生後1ヶ月半くらいの頃じゃないかなあ。

スキンヘッドが板についています。

タイトルは、「その娘、凶暴につき」。


大学生になる娘へ(その1)入ってはいけないサークルの見分け方

2019-04-03 14:37:35 | そして父になる
大学入学おめでとう。
「自由と清新」、「平和と民主主義」 の理念の下に建学された、
素晴らしい大学に合格することができたのだから、
この4年間大いに学んで、社会のために貢献できる確かな力を身につけてください。
それと同時に、大人として社会に出る前の最後の4年間でもあるので、
悔いの残らぬよう存分に楽しんでください。

活動的で体育会系だった君のことだから、
部活動やサークル活動にも積極的に参加されることでしょう。
自分の大学時代のことを棚に上げて大学教員という立場から言わせてもらうと、
課外活動ばかりにうつつを抜かして本業を疎かにされては困るのですが、
しかし、部活やサークルでの学びもとても大事な経験ですので、
ぜひ素敵な仲間を見つけて大学生活を充実させてください。

そのためには、どの部活、どのサークルに入るのかというのが重要になってきます。
入学後しばらくの間は大学は新歓一色と化し、
歓迎や勧誘のためのさまざまな集まりが開かれるはずです。
特に新歓コンパでは、その団体の本性が透けて見えてきますので、
新入部員を確保しようと躍起になっているうわべの甘い言葉に惑わされることなく、
自分がどこに入るべきか冷静に見きわめてください。



こんなことを言うのは、高校までの部活と違って、
大学の部活ではお酒 (アルコール) がつきものになってくるからです。
部活やサークルの飲み会でムリな飲み方 (飲まされ方) をして、
急性アルコール中毒になって亡くなった大学生のニュースを聞いたことがあるでしょう。
せっかく苦労して受験してやっと入学した大学で、
すぐにアルコールのせいで亡くなってしまうなんて、
本人もご家族も無念でならないことでしょう。
しかし、そういう痛ましい事件はいっこうに後を絶ちません。
ですので、今日はアルコールの問題に限定して、
入ってはいけないサークルの見分け方を伝授しておきたいと思います。

まずその前に、以前私は 「飲酒ルール」 についてまとめたことがあるので、
それを読んでおいてください (→「飲酒ルール(試案)」)。
お酒が飲めるようになったあともぜひこのルールを思い出して、
自分がこれらを守るのはもちろんのこと、
これを一緒に守れる人とだけ飲むようにしてください。
その上で、新歓コンパにおけるダメなサークルの簡単な見分け方を紹介します。



1.未成年と成年 (飲酒可能者) を区別しないサークル

大学というのは未成年者と飲酒可能者が併存する組織です。
以前は大学生であれば未成年であっても飲酒に対してそれほど厳しくありませんでしたが、
昨今は上記のような事件が多発したこともあり法令遵守が徹底されるようになってきました。
このようなご時世において、飲み会で未成年者を別扱いしない団体には未来がありません。
つまり、そのような団体は遅かれ早かれお酒がらみの不祥事を起こして、
団体そのものが取り潰しということになるでしょう。
2年、3年とその部活のために尽くしてきたのに、
卒部間際になって部活が活動停止とかになったら、大学生活すべてが台無しになりますよ。
なので、新歓コンパに行ってみて未成年者がお酒を飲まないように配慮されていなかったら、
即刻その団体は見限ったほうがいいでしょう。

安心できるのは、新歓コンパのように未成年者がいることがはっきりしている集まりでは、
最初から会場として飲み屋などを選ばず、
3年生、4年生の先輩たちもノンアルコールにつきあってくれる、という団体です。
一部の人たちは飲み、一部の人は飲まないという会は、
それを最後まで徹底するのが難しいので、
最初からそういう危ない橋を渡らないようにするというのは賢い選択です。
ただまあここまで徹底してくれる団体はそうそうないでしょう。
先輩たちとしてはやはり飲みたいでしょうからね。
ですので最低限、未成年者には飲ませないようにしている団体を選ぶようにしましょう。

2.上下関係で飲酒を強要するサークル

未成年のあなたたちが飲まされなかったとしても、それでOKではありません。
3、4年生の先輩たちがお酒を飲んでいるようであれば、
その様子をよく観察しましょう。
4年生が3年生に、OB・OGが現役生に、あるいは男子部員が女子部員に、
ムリにお酒を飲ませたり、イッキとかさせていないかチェックしてください。
急性アルコール中毒というのは未成年だけがなるものではありません。
お酒を飲める歳になったとしても、ムリな飲み方をすれば急性アルコール中毒になります。
むしろお酒を飲める歳になったということで、何でもありになったかのような勘違いをして、
ムリな飲み方、飲ませ方をして事故を起こすということが多々あります。
特に上下関係を利用して強要するというのが最悪です。
そんなことが行われている団体は、アルハラに限らずセクハラ、パワハラ等、
すべてのハラスメントの温床と思われるので入部はやめておいたほうが無難です。
特に、伝統ある体育会系の部活だったりすると、
現役生が何とか風土改革に取り組んでいるのに、
それをすべて台無しにするタチの悪いOBがいたりするので要注意です。

3.断ってもしつこく勧めてくる人がいるサークル

団体として正式に開催している新歓コンパで、
上記1、2に該当するようなケースは今どきそうそうないでしょう。
しかしそれで安心してはいけません。
一次会を解散して、有志が参加する二次会になると本性を現す団体もあります。
ですので、二次会においても上記1、2が始まるようなら、
とっとと席を立つようにしてください。

ところで、上述したように上下関係を用いて無理強いするというのが 最悪ですが、
(決まり文句 「先輩の注いだ酒が飲めないのか」)
そういう明らかな強要でなくとも、こちらが断っているのに、
「ちょっと試してごらんよ」 とか 「このカクテル甘くて美味しいよ」 みたいな
甘い言葉で執拗に勧めてくる人がよくいます。
命令口調でなかったとしてもこれも強要ですので、
こんな人がいる部活ともオサラバしましょう。
これもこちらが未成年であるか成年であるかは関係ありません。
お酒というのは、飲みたい人だけが自分の飲みたいものだけを
自分が飲めるだけ (自分の肝臓が分解できるだけ) 飲めばいいのであって、
それ以上無理に勧めたりするようなものではありません。
本人の、今日は飲みたくないとか、これを飲みたいとか、これ以上は飲みたくない
というような希望を尊重してもらえない飲み会には参加する必要はありません。
そういう飲み会が横行している団体とは手を切るようにしましょう。

4.飲みつぶれたり酔って暴れてるような人が何人もいるサークル

2や3のように他人に強要することがなかったとしても、
自分の飲み方をコントロールできない人が多い団体も考えものです。
まあまだみんな若くて自分の限界を悟るという域にはなかなか達せないでしょうが、
(そんなこと言ったら私だって未だにいろいろやらかしたりしているわけですが)
それでも、吐いたりつぶれたりするまで飲んだり、
酔った勢いで大声出したり暴れたり物を破壊したり、そんなことが常態化しているようなら、
そういう団体も早晩、活動停止に追い込まれることになるでしょう。
最悪なのはそんな状態でバイクや自動車を運転して事故を起こすケースです。
これは急性アルコール中毒と並んで命に関わる不祥事ですので、
たとえ少数の人間が羽目を外して愚かな行動に走りそうになったとしても、
それを全体で止められるような仕組みになっていることが大事です。
ただ、たとえそういう体制が整っている団体だったとしても、あなたは性格的に言って、
そういう人たちの面倒を見る (=尻ぬぐいをする) 役になりそうな気がするので、
やはりそういう人がいるところは避けたほうがいいと思います。

以上、私がわざわざ言うようなことではなかったかもしれませんが、
大学の現場にいて数々の悲劇を目の当たりにしてきたので、
どうしても言わずにはいられませんでした。
お酒というのは上手く付き合えれば人生を豊かにしてくれる素敵なものです。
ちょっとアルコールが入ることによって、いつもの仲間とふだんとは異なる、
より深いコミュニケーションを取ることができるようになったりもします。
しかし、ちょっと付き合い方を間違えば、たちまち命を奪う凶器にもなります。
お酒を、ただ酔っ払うため、酔わせるために利用するような人たちではなく、
一緒に作り手の苦労に思いを馳せながらじっくりその味や風味を楽しみ、
軽い高揚感のなかで人生について深く語り合えるような仲間を見つけてください。

高齢育児の必需品

2019-03-30 08:26:37 | そして父になる
ブログを再開したついでですので、激しくアウト・オブ・シーズンですが、

今年の年賀状をアップしておくことにいたします。

これまで年賀状は、ブロガーとしての矜恃をもって作成してまいりました。

2014年2015年2016年2017年、参照)

しかし、子どもが生まれた家庭には定番の年賀状デフォがあるじゃないですか。

子どもの写真を貼り付けて 「○歳になりましたあ」 とか報告するやつ。

子どもの写真なんて蓄積がゴマンとありますから、

私も今後はもう年賀状のネタに悩むことなく、

18年間ぐらいは定番のパターンで手を抜いていけるぞぉと、

安心しかけたりもしていたんです。

しかし、実際に年賀状の作成時期になってみると、

「本当にそれでいいのか?」 と、

私の中のブロガーとしての良心が語りかけてくるのです。

家族親戚の子どもでもないかぎり、

「あなたの子どもの写真見せられても何の興味もないし」

っていつも幸せそうな家族の写真を見ながら思っていたじゃないか、

それを今度は自分が繰り返すのか?

そうささやいてくるのです。

年賀状のネタを考えなくてすむという手抜きへの誘惑と、

ブロガーとしての矜持がせめぎ合ってなかなか方針を決することができず、

このままじゃ年が明けちゃうよおというギリギリまで引き延ばしたあげく、

けっきょく良心の声に従って茨の道を歩むことにいたしました。

それがこちら、ファイル名は 「年賀状2019爆買い」 です。



子どもの写真を使わずに子育ての話をするという戦略です。

私の場合、年賀状を文字と写真でびっしり埋め尽くし、

1人ひとりへの一言を手書きせずにすますという基本方針で作成していますが、

それでもふだんのブログと違ってものすごく字数が限られますから、

文章は推敲に推敲を重ね、削りに削って何とかこんなふうに収めました。

締めの一言として引っ越し通知の決まり文句のパロディ、

「お近くにお越しの際はぜひこの極楽を御体験ください」

という案も考えていたんですが、どうやっても収まりきれなかったので断念しました。

それにしても、生まれた時は2400gとかなり小さく生まれてきてくれたので、

私のような高齢者でも特に苦労することなく世話ができていましたが、

細胞分裂の力というのは偉大なもので、あっという間にすくすくと育っていき、

すぐに抱っこするたびに、腰、肩、腕、肘のどこかに負担がかかるようになりました。

しかも、それまではミルクをあげればすぐに眠ってくれたのに、

重くなってきてから夜中になかなか寝付いてくれなくなって、

ずっと抱っこしていないと大泣き、腰が辛くて腰掛けようとしても大泣き、

やっと寝てくれそうかなと思ってベッドに下ろそうとすると大泣き、

という地獄の日々が始まりました。

その頃から2人とも頻繁に接骨院に通うようになり、

私は接骨院のみで何とかなっていましたが、

産後の体調がなかなか回復しなかった妻はさらに整形外科などにも通わなくてはなりませんでした。

年賀状の中にも書いたように、妻の育休中はそれで何とかしのいでいましたが、

育休が明けると代わり番こに通院するということが難しくなり、

どちらがいつ倒れてもおかしくないという状況まで追い込まれていました。

そんな頃に電子レンジだか洗濯機だかを買い替えるためにヤマダ電機に行き、

ヤマダ電機に行ったら必ず交代でマッサージチェアに試乗していたわけですが、

いろいろ試した中でも非常に高性能で満足いくやつがあり、

それが元々見ていた価格よりも大幅に値引きできるようになりましたよとささやかれ、

これはもう天のお告げだろうと覚悟して購入を決めてしまったのでした。

いや、ヤマダ電機で試乗する分にはどうということもありませんでしたが、

実際に購入しようとすると、本当にこれを我が家に置くことができるのか、

あらかじめ業者の人が我が家に視察に来てくれて、

このバカでかい物を納入できるのか、我が家の玄関やあちこちの扉の採寸をしてくれて、

「たぶんギリOKだと思います」 みたいな綱渡りの納入でした。

私の生涯の買い物歴の中でもマンションや自動車に次ぐくらい、

相当高価な買い物だったんではないでしょうか。

しかし、それだけの価値ある買い物でした。

たぶん今までに購入した物の中でこれほど重宝した物はありません。

これを購入して以降、身体の メンテナンスは自宅で行えるようになりました。

その後2人とも接骨院にも整形外科にもお世話になっていません。

たしかにバカ高い買い物なので若い夫婦にオススメできるようなものではありませんが、

家計に余裕のある高齢出産したご夫婦にはぜひともオススメしたい一品です。

これが自宅にあるのとないのとでは幸福度 (=苦痛の少なさ) が段違いに異なります。

初期投資的には高いかもしれませんが、想像よりも相当早く元は取れるはずです。

何よりも子育て期間中の体調に起因する夫婦のギクシャクが一掃されるというのは、

精神衛生的に計り知れない恩恵をもたらします。

嘘だと思う方は、お近くにお越しの際はぜひこの極楽を御体験ください。

早まった一般化の誤謬とその逆

2019-03-26 15:48:32 | そして父になる
論理学の初歩的・基本的知見として 「早まった一般化の誤謬」 というものがあります。
少ない例から一般的な結論を導き出してしまうこと、
もう少し詳しくいうと、自分の知り得たわずかな事例に共通する特徴や性質、行動等を、
十分な量のデータを集めないまま早急に、
それらが属するグループやカテゴリー全体に当てはめてしまう誤りのことです。
「類推の危険」 とも呼ばれています。
例えば、次のような推論。

「1、2、3、4、5、6はいずれも120の約数である。
 したがってすべての整数は120の約数である」。

これがどんなに愚かな論理であるかは素人でもわかりますね。
たしかに1から6までの整数はすべて120の約数かもしれませんが、
すぐ次の7を調べれば、すべての整数が120の約数とはいえないことは簡単に判明します。
このような 「早まった一般化」 という論理学的誤謬は、
哲学・倫理学を学んだり研究したりする者にとってのみ常識であるばかりでなく、
そもそも学問というものは一般化・普遍化するのが仕事でありますので、
学問を志す者はすべからく 「早まった一般化」 に陥らないよう心がけているものです。
(今の 「そもそも学問というものは・・・」 という物言いは、
 「早まった一般化」 に陥っている可能性の高い表現形式ですが、
 この文に限っては内容的にたぶん大丈夫なんじゃないかなと判断しました。)
しかしながら、こうした訓練を受けていない人々は 「早まった一般化」 にとらわれやすく、
それによってステレオタイプや偏見が形成され、差別の温床となっていきます。
例えば、実際に被災地で窃盗していた外国人 (ここではA国人としておきましょう) が捕まったとして、
その1つないし2つくらいのニュースから、
「A国人が大挙して火事場泥棒のために被災地に入り込んでるらしいよ」 とか、
「被災地で盗みをしているのはみんなA国人だよね」 という情報に置き換えてしまうのが、
「早まった一般化」 であり、こうして偏見は流布していきます。
逆に、秩序正しい避難所や被災地の光景だけを見て、
「日本人は大災害のときもけっして略奪など行わない礼節を重んじる民族だ」
などと結論づけてしまうのも 「早まった一般化」 であり、論理的には間違っています。
皆さんもふだんわりと気楽に 「男性は……」、「女性は……」 とか、
「福島県民は……」、「学校の先生は……」 などと 「早まった一般化」 を行ってしまっていませんか?

さて、子育てをしている際にも、この 「早まった一般化」 というのは首をもたげてきます。
今どきそれほど子だくさんの大家族という家庭もないでしょうから、
自分の赤ちゃんや子どもというのはせいぜい数人、
場合によっては1人だけしか知らないという場合が多いでしょう。
核家族だとすると甥っ子や姪っ子に接する機会も少ないでしょうし、
地域の子どもといっても、ママ友のお子さんもそんなに大勢いるわけではないでしょう。
その限られた数の情報をもとに 「赤ちゃんってこうだよね」、
「子どもってああだよね」 と結論づけてしまうと、
「早まった一般化」 の誤謬に陥ることになってしまうのです。

私が以前書いた 「新生児の子育て中は両親は寝不足になる」 という話は、
自分の子育て経験にのみ基づいての感想でしたが、
2時間おきの授乳のために父親も寝不足になる、というのは完全に 「早まった一般化」 で、
それは粉ミルクを与えている家庭だからこそ生じえた話であって、
母乳だけで育てている家庭では父親が授乳に関わらず、
したがって寝不足になったりもしないということもありえるのでした。
(このあたり 「生じえた」 とか 「ありえる」 という表現によって、
 慎重に 「早まった一般化」 を回避しています。)
基本、親は自分のとこの子どものことや子育ての仕方しか知りませんが、
それはあまりにも強烈な体験であるがゆえに、
つい一般化・普遍化して、子どもとはこういうもの、子育てとはこういうものと、
考えてしまう、考えたくなってしまうのではないでしょうか。
そのへんのメカニズムをきちんと理解した上で、
子育てにおける 「早まった一般化」 の危険性を回避しながら、
このブログを書いていきたいと思います。

ところで、子育てにおいては 「早まった一般化」 の逆のケースというものも
あるのではないかということに思い至りました。
そんな論理学用語はないのでテキトーに命名するなら、
「早まった特殊化」 とか 「早まった個別化」 とでも呼べばいいのでしょうか。
個別事例を一般化・普遍化してしまう 「早まった一般化」 とは反対に、
一般的現象、数多く見られる現象であるにもかかわらず、
そうであることを知らないために、
あたかも自分の子どもにのみ当てはまる特徴・性質・行動であるかのように思い込む、
という過ちのことです。
つまり、赤ちゃんなら誰でも (あるいはすべてとは言わずともけっこう多くの子が) することを、
うちの子だけ (あるいはごく少数の子だけ) ができることだと勘違いしてしまうことです。
これは推論ではないので誤謬という表現は当てはまらないかもしれませんが、
これも間違いであることにかわりはないでしょう。

新生児の頃というか、今でもけっこうそうなんですが、
うちの子は身体がめちゃくちゃ柔らかいんです。
よく自分の足を食っています。
私は身体が硬くて柔軟が苦手で、座って前屈してみても 「ヒ」 の字みたいにしかなりません。
立って前屈して床に手がつくなんて夢のまた夢です。
そんな私の子どもだというのに、うちの子は身体全体をいくらでも曲げられるのです。
それを見て私は驚喜して、「この子はスゴイ、身体柔らかい、天職は体操選手か中国雑技団だっ」
と叫んだら、妻から 「そんなの赤ちゃんなら誰でもできるよ」 と一笑に付されました。
誰でもできるようなことをこの子だけの特殊才能だと思い込む、
これが 「早まった特殊化」 です。

また、まだ立ち上がることも這うこともできなかった頃、
やっと寝返りが打てるようになってしばらくした頃です。
オムツを替えようとするとものすごい速さでクルッと回転し、
けっしてオムツを替えさせまいとしてきます。
何とか押さえつけてオムツを替えたいのですが、
急に身につけたスピードと、以前からの持ち前の身体の柔らかさを駆使して、
クルッと寝返りを打ち、私にフォールされないよう手からすり抜けていくのです。
「これはレスリング選手にするしかない。霊長類最強女子だっ!」
と興奮して言ったら、やはり妻からは 「誰でもそうだよ」 と冷笑されました。



そして昨日のブログ
初語が 「アンパン」 だったという話を書かせていただいたわけですが、
Facebook のほうに次のようなコメントを書き込んでくれた方がいらっしゃいました。

「初めての言葉が 『アンパン』 って子、意外にたくさんいます。
 もしかして、有史以来、アンパンマン出現以前にも、
 『アンパン』 てはじめて言った子がいたかもしれません。」

なんだよ。
「ママ」 や 「パパ」 ではなくて初語が 「アンパン」 だったなんていう子ども、
うちの子だけだろうと思って、勇んで9ヶ月ぶりにブログ記事を書いたのに、
なんてことはない、有史以来、アンパンマンが誕生する以前から、
「アンパン」 はオーソドックスな初語だったんだ。
ああ、恥ずかしい。
とんだ 「早まった特殊化」 でした。
子育てにおいては、「早まった一般化」 とともに、
「早まった特殊化」 にも気をつけなければいけない、というお話でした。

衝撃の初語

2019-03-25 14:15:45 | そして父になる
我が家では子育ての方針が夫婦で一致せず、

母は自分のことを 「ママ」 と呼ばせようと、

父は自分のことを 「お父さん」 または 「お父さま」 と呼ばせようと考えています。

この件に関しては互いの自由を尊重しようということになり、

どちらかに統一することはあきらめ、それぞれの方針で子どもに接しています。

というわけで生まれた直後くらいから2人とも、

子どもに向かって母親のことは 「ママ」、

父親のことは 「お父さん」 と呼ぶようにしながら育ててきました。

最初の頃はよかったのですが、

1歳を過ぎてそろそろ言葉を発するかもという時期にさしかかり、

私は自分のミスに気づきました。

初めての言葉としてどちらの名前を呼んでくれるかとなると、

「ママ」 と 「お父さん」 では圧倒的に 「ママ」 が有利なわけです。

いや、「ママ」 と 「パパ」 の闘いだったとしても、

破裂音の 「パ」 よりは 「マ」 のほうが言いやすかったことでしょう。

それをあろうことかさらにハードルを上げてしまう 「お父さん」 ですよ。

もう負け戦は必定です。

どうせ 「ママ」 って言われちゃうんだろうなと半ばあきらめながら、

でもその時期が近づいてくると未練たらしく、

1日のうちに何度も何度も 「お父さん、お父さん」 と連呼したり、

口をゆっくり動かして、「お」 とか 「と」 という音の出し方を教えたりしていました。

喃語 (なんご) というんでしょうか、

まだ日本語どころか言語とも人語とも判別のつかない

意味不明の言葉をしきりと話すようになっていたある日のこと、

その瞬間はやってきました。

それはもうくっきりはっきりと言語として、日本語として、

正確に発音してこう言い切りました。










「アンパン」










ちょっと前に買ってあげてお気に入りだったこのオモチャ↓を手に持って、



(空気でふくらませた風船のようなオモチャです)

そのこちら側の部分↓を私に見せつけながら、



はっきり4文字単語として 「アンパン」 と言い切ったのです。

初めての言葉は 「ママ」 でも 「お父さん」 でもなく 「アンパン」 でした。

破裂音の 「パ」 もはっきり発音できてる上に 「マン」 は抜き。

こんなことなら 「パパ」 と 「ママ」 の闘いにしておけば勝てたかもしれません。

しかも、この時点でアンパンマンのことがそれほど好きだったとは思えません。

このオモチャは気に入っていましたが、

アンパンマンのアニメを15分通して1話全部鑑賞できたことは1度もなく、

(すぐに飽きて絵本やオモチャを求めてどこかに行っていました)

「それいけ!アンパンマンくらぶ」 という番組の最初や途中に出てくる、

リサおねえさんのコーナーだけはじっと見ていられるという程度でした。

番組的に言うならば 「おかあさんといっしょ」

「いないいないばあっ!」 のほうがよほどお気に入りで毎日熟視していました。

その後の調べでは、さっきのオモチャのこっち側↓を見せても、



同じように 「アンパン」 と言いますので、

「アンパン」 というのがアンパンマンの名前であるとわかっているわけでもなさそうです。

だとするとよけいに謎は深まります。

なぜあなたの初語は 「アンパン」 だったのですか?

あなたにとってママやお父さんよりもアンパンマンは大事だったのですか?

それにつけても、自分の歳のせいでさすがに 「パパ」 はないだろうと思ってしまった、

自分の心の弱さと初語へ向けての戦略ミスがくれぐれも悔やまれます。

粉ミルクによる男女平等

2018-06-07 06:34:13 | そして父になる
生後1~2ヶ月の頃、昼夜問わず2時間おきに授乳という時期があって、

さすがに2人とも睡眠不足で、これがいつまでも続いたらたまらんなあと思い、

子育て大先輩の同僚の先生方 (男性) にグチったことがあったんです。

ところがみんなやけに反応が薄いんです。

フーンとかヘェとかぐらいで。

「やっぱその頃は大変だよねぇ、あと○ヶ月くらいの辛抱だからがんばってね」

みたいな親身な共感やアドバイスを期待していた私としては、

なんか肩すかしを食らったような気分を味わっていました。

ところがある時にある方に同じことを言ってみたら、

その方はとても丁寧な方でこんなふうに返してくださって、

それでやっと反応の薄さの原因がわかりました。

「小野原さんとこって粉ミルクなの?

 うちは母乳だったから全部妻に任せっきりだったなあ。」

そうだったのです。

うちは退院直後くらいから母乳がほとんど出なくなっちゃって、

それ以降はもうずーっと粉ミルクなのです。



だから授乳の仕事を男でも引き受けることができて、

夜中の授乳も起きられたほうがするということにしてあって、

半々くらいの割合で負担できていたんですが、

それはうちがたまたま早い時期から粉ミルクだったからなのです。

母乳が出るという場合は基本、授乳は女性の仕事になってしまうんでしょうね。

(搾乳して保存しておくこともできるようですが、

 それでも男性が授乳作業を半々の割合で引き受けるのは至難の業でしょう。)

それを聞いて、母乳の家族はいいなあとはまったく思いませんでした。

むしろ、うちはたまたま粉ミルクでラッキーだったなあと思いました。

どっちにしろ女性が育休を取っているという場合は、

子育ての負担は大半が女性にかかってしまいますので、

夜中の授乳くらいはできるかぎり引き受けてあげたいじゃないですか。

実際には私が爆睡していて1回も起きなかったということも多々あるらしいですが、

それでも自分的には育児 (の中の夜の授乳) を半分負担しているぞと、

なんとなく誇れるわけです。

しかし、それ以上によかったと思うのは、

私もそこそこの割合で授乳していますから、

赤ん坊の私に対する態度がけっこう暖かいように思うのです。

この人はミルクをくれる人のうちの1人だと認識されている感じがするのです。

以前ご紹介した 『ヨチヨチ父』 では、

お乳をくれる絶対的な存在である母親に比べて、

父親というのは 「母親じゃない人間」 のうちの1人にすぎない、と書かれていました。



なるほどそうなのかもしれませんが、

私の場合はそれよりはもう少し高い位置に置いていただいているような気がするのです。

それもこれもすべては粉ミルクのおかげだなあと、つくづく思います。

全家庭のなかで粉ミルク派は少数派なのかもしれませんが、

粉ミルクに関しては思うところがいろいろありましたので、

今後も折に触れて書き留めておきたいと思います。

Q .子どもを育てる上で大切にしていることは何ですか?

2018-04-22 12:52:20 | そして父になる
看護学校の学生さんたちからいただいた質問に答える哲学FAQと、

新カテゴリー 「そして父になる」 の記事を合体させてしまいます。

代表質問に答えるなかで子どもが生まれたことも語ってしまったのですが、

それを聞いた上での質問ではなく、正確にはこんなふうに書いてくれていました。

「Q.子どもはいますか。育てる上で大切にしていることは何ですか?」

男子からいただいた質問でしたが、今どきの男子学生はこんなことに興味があるんですね。

この質問、なんか前にも聞かれたことがあったよなあと思って思い出してみたら、

4ヶ月健診のときに男親が答えなければいけないアンケートがあって、

「赤ん坊が泣いているとイライラする」 とか 「父親も子育てに関わるべきだ」 等々の

五件法の質問に答えさせられたあと、

子育てについてどう思っているかを自由記述させられたことがあったのでした。

そのときは以下のように答えました。

たぶん今回の質問に対するお答えもそれと同じになると思います。

「A.幼いうちは絶対的な庇護と安心感を与え、何にでも挑戦できる素地を培っていく。

   長ずるにつれて少しずつお互いに親離れ、子離れしていきながら、

   最終的に一個の独立した人格としてひとりで生きていけるように導いていく。」

以前に、まだ子どもなんてまったく生まれていないというか、

生む予定もまったくなかったころに、

「Q.子どもにはどんな名前を付けたいですか?」 という質問にお答えしたことがあります。

そのころ考えていたことと、実際に生まれてからの考えはまったく変わっていません。

赤ちゃんや小さい子どものうちは本当に可愛いですが、

その可愛さに引きずられて子育ての本質を見失わないようにしたいと思っています。

いずれこの子を手放さなければならない、その日のために育てているのだ。

子育てにとって一番大切なのはそれではないかと思っています。

とはいえそれまではまだ20年くらいありますから、

今はまず、這うことも立つことも歩くこともできない壊れやすい存在者を、

全力で庇護していきたいと思っております。


 (ヨチヨチ父の初めての授乳)

ブログ再開&新カテゴリー発進!

2018-04-20 22:45:20 | そして父になる
まさおさまです。

ご無沙汰しております。

半年以上ブログ更新をサボっておりました。

(昨年の12月に一度だけ高校生のためのてつカフェの告知はしましたが、

 それを除けば9月20日以降まったく更新していませんでした。)

9月からは白河と郡山の看護学校の授業が始まって、

いつもの 「倫理学の先生に聞きたいこと」 にお答えしている最中だったのですが、

お尻の拭き方や、うんこ味のカレーかカレー味のうんこかといった質問にお答えしたあと、

恋愛で倫理学を使ったことがありますかという問いに対して、

その1のお答えをアップしたっきり音信不通になっておりました。

誠に申しわけありませんでした。

2016年から始まった 「人生で一番忙しい年」 が年々更新されていて、

とうとう手に負えなくなってしまったのです。

というのも、昨年の8月末に子どもが生まれてしまったのです。

子どもギライだったはずの私が、55歳 (当時) にして初めての子どもですよ。

副学長補佐とか将来計画検討委員会とか公務だけでも人生で一番忙しいと言ってるのに、

そこに赤ちゃんですよ。

そりゃあパンクもしてしまうでしょう。

生まれてすぐのうちはまだよかったんです。

夜中に何度も起こされましたが、基本ミルクさえ与えれば再び眠りについてくれましたので。

ところが生まれて3週間ほど経った頃から、

眠たいのに眠れなくて夜中にずっとギャン泣きしたり、

日中でも抱っこして、しかも立って歩き回っていないと怒るみたいな感じになってきて、

もうお手上げになってしまいました。

公私ともに人生で一番忙しい日々を乗り切るには、

ブログ書いてる時間を削るしかなくなったのです。

というわけですっかりご無沙汰してしまっておりました。


それにしてもこの初めての経験は大いなる学びに満ちあふれていました。

というか、日々ブログネタにしたいことの連続ですよ。

ギャン泣きされながら抱っこして家中をウロウロと歩き回りつつ、

ああこれも書きたいあれも書きたいとどれほど思ったことか。

実は相当早い時期に新カテゴリーを立ち上げておりました。

その名も 「そして父になる」。





私の大好きなあの映画から拝借させていただきました。

カテゴリー名を考えるにあたっては、ヨシタケシンスケ氏の本から、

「ヨチヨチ父」 というのをお借りするという案も考えていました。





50の手習いで慣れぬ子育てに翻弄されるおぢさんの悲哀を描くには、

「そして父になる」 よりも 「ヨチヨチ父」 のほうがピッタリ来るような気もしますが、

いろいろと熟慮の末、「そして父になる」 のほうを選ばせていただきました。

(追い追いその理由もここに書くことになるでしょう。)

そのタイトルでカテゴリーだけは新設してあったのですが、

1本も記事をアップしないままブログは休眠状態に入ってしまっておりました。


その後、公私ともに一番忙しい日々が解消したわけではありません。

この新年度からは9年ぶりに新入生の担任をすることになり、

新入生ガイダンスに引き続き、必修の 「教養演習」 やら、新入生学生研修などに追われ、

もうしっちゃかめっちゃかです。

しかしながら、相馬の看護学校の授業も始まったので、

また 「哲学の先生に聞きたいこと」 もたくさん寄せられてしまいましたし、

ここで再開しないことには、本当にこのまま永遠の眠りについてしまうでしょう。

このドタバタの中でどれだけ時間を取れるかまったくわかりませんし、

すぐにまた力尽きて休眠状態に戻ってしまう可能性も大いにありうるのですが、

とにかくブログを再開してみることにいたします。

驚くべきことに、休眠期間中もこのブログを見に来てくださる方の数は以前と変わらず、

というか今週も毎日600人を超える方にお越しいただいていたようで、

せっせと更新していた頃よりも多くの方に来ていただいているようです。

たぶん何かの記事を検索して来ていただいた方が大半で、

新しい記事が更新されていないかなあと心待ちにしていた方など皆無とは思いますが、

もしもそういう方がいらっしゃったとしたら、本当にお待たせいたしました。

I’m Back.