まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

2019年度「キャリア形成論」ガイダンスに対する質問

2019-04-24 12:32:49 | 教育のエチカ
「キャリア形成論」 の第1回の授業のときのワークシートには、
「ガイダンスでわかりにくかったことや不安なこと、質問したいことがあれば、書いて下さい」
という設問がありました。
多くの方は 「特になし」 と書いていましたが、
不安なことや質問を書いてくれた人もいました。
不安に関しては特に回答する必要はなさそうだと判断しましたが、
質問にはお答えしておかなければならないでしょう。
「プレ・インターンシップ」 に関する質問で、
希望調査票を提出する前に知っておくべきことに関しては、
すでに 「ライブキャンパス」 を通じてメールでお答えしておきました。
今日はそれ以外の質問に関してお答えします。

ところで、3年前にもこの場で質問に答えたことがありますので、
そちらもいちおう見ておいてください。

  「キャリア形成論」 ガイダンスに対する質問

インターンシップの名称や日程など今年とはちょっと異なっているところもありますが、
まあ参考になったのではないでしょうか。
それではまず毎回のワークシートに関する質問から。
Q-1 「ワークシートはどれくらい書けばいいんでしょうか?」
Q-2 「ワークシートの評価において、文章量はどの程度影響するのでしょうか?
     5行程度でも内容が優れていれば最高評価は得られるのでしょうか?」

A-1、2
書いている中身が重要なので、文章量と評価は正確に比例するわけではありませんが、
これまでの先輩たちのワークシートを見るかぎり、
概ね文章量と評価は比例している場合が多いです。
例えば第1回のワークシートの設問は「キャリア形成論ガイダンスで印象に残ったこと
(なるほどと納得したこと、違和感を感じたことなど) を書いてください」 でした。
しかし、口頭で説明したように、印象に残ったことだけを書いてくれても、
それはけっきょく教員が話した内容をそのまま書いているだけになります。
こちらとして書いてもらいたいのは、どういう点がなぜ印象に残ったのか、
それによって自分の考えがどう深まったかなわけです。
文章量が少ない人というのは、
先生が言ったことを書き写しただけで終わっていることが多く、
それではメモやノートと変わらないのでどうしても評価は低くなります。
とにかく自分が何を感じ、どう考えたかまで書いてください。
それを書けば、どうしたってそこそこの文章量になります。
第1回のワークシートで言えば、5~6行しか書いていない人は、
だいたいほとんど何も言っていない感じでしたね。
きちんと自分の考えたことまで書いた人はみんな10行くらいにはなっていました。
ワークシートにどんなことを書いてもらいたいのかについては、
これもこのブログのなかに例が載っていますので参考にしてみてください。

  「キャリア形成論」 のワークシートにはどんなことを書けばいいのか?

続いて職業人レポートに関する質問。
Q-1 「テキストの45ページに 「A4サイズ1枚を1人分とします」 と書かれていましたが、
     テキストから切り取って用いるレポート用紙以外に、
     A4サイズのレポート用紙を自分で用意するということでしょうか?」
A-1
ちがいます。
切り取った紙3枚に記入して提出してくれればそれでOKで、その他の紙は必要ありません。

Q-2 「レポートはどれくらい書くべきですか?」
Q-3 「私は文字を大きく書いてしまうのですが、8割を埋めなければならないとき、
     文字を小さく書いた方が点数が良かったりするのか気になりました。」
A-2、3
テキストの45ページには 「スペースの8割は埋めるようにしましょう」 と書いてありますが、
実際にレポート用紙を見ていただくと、ひとつひとつの欄がけっこう狭いので、
これの8割しか埋めないというのはむしろ相当難しいと思います。
先輩たちは小さい字でぎっしり書き込んでやっと何とか書き切れるか、
ウラのスペースを使って書いていました。
レポートはボールペンで書くように指定されていますので、
ふだん字が大きい人も、下書きをあのレポート用紙に清書する時には、
どうしたって1文字1文字は小さく書かなければならなくなるだろうと思います。
逆に大きな文字であのスペースの8割ぐらいしか埋められなかったとしたら、
本当にインタビューしてお話を聞いてきたのか怪しまれるレベルだと思います。
ウラは自由に使っていいですし、どうしてもそれで足りなかったら、
レポート用紙でもルーズリーフでもテキトーにホチキスで留めて、
書きたいだけ書いてきてください。

Q-4 「インタビュー欄に相手の答えにまじえて、自分の感想を書いていいのか?」
A-4
前問の答えともかぶりますが、相手の方のお答えを書くだけで、
たぶん欄はいっぱいいっぱいだろうと思います。
ですので、さらに感想を書く場合にはウラのスペースを使ってください。

Q-5 「職業人レポートのお話をうかがう際、失礼のない所要時間の目安はどのくらいでしょうか?」
A-5
テキストの46ページにも書いておきましたが、
だいたい20~30分くらいかなあと想定しています。
特に面識のない方の場合はそれぐらいがいいのではないでしょうか。
ある程度親しい方の場合は、話が盛り上がってもっと時間を取ってもらえるかもしれません。
これはまあ関係性次第といったところでしょうか。

Q-6 「定年退職された方 (今は明確な仕事に就いていない方) でもいいですか?」
A-6
この授業の趣旨からすると引退後というのもキャリアですから、
そういう方を排除するわけではありません。
ただし、皆さんがラクをしようと思って、
お父さんとお母さんでは1人足りないからあとおじいちゃんですまそう、
などと思っているのなら、それはやめたほうがいいと思います。
自分に負荷をかけるために3枚のレポートになっていることを思い出してください。

Q-7 「働きがいを感じる瞬間が、休み時間の一服や仕事終わりのお酒などだった場合、
     それを素直に書いて提出してよろしいのですか?」
A-7
こちらの期待する答えと違ったからといって、それを書かなかったり、
テキトーに別の答えを書いてしまったら、それは捏造となります。
インタビューでは、どんな答えであれ、相手の答えを受け止めることが大事です。

職業人レポートに関する質問は以上です。
続いて、ワークシートとレポートの両方に関する質問。
Q-1 「レポートとワークシートを提出する場所は同じですか?」
A-1
ちがいます。
ワークシートと職業人レポートは授業の最後に教室で回収します。
プレ・インターンシップ・レポートは教務課前のレポート提出ボックスに提出してください。

Q-2 「プレ・インターンシップに参加するときや、職業人にインタビューするとき、
     自分の興味のない企業にも進んでインタビューを申し込むメリットは何ですか?」
A-2
これについてはすでに第1回のガイダンスの中でお話ししたつもりでしたが、
聞き逃してしまいましたか?
今の大学1年生の興味なんて本当に狭い世界の中だけで芽生えた興味関心にすぎません。
あなたがたはこの世の仕事のことをほとんど何も知らないしわかっていません。
どんな企業に行っても、どんな職業の方にお話をうかがっても、
必ず新しい発見があり、視野が広がり、新たな興味関心が芽生えるはずです。
狭い視野を広げるというメリットがあるのです。

次はプレ・インターンシップについての質問です。
Q-1 「インターンシップ先で、女性はスカートではなくパンツスタイルでも可ですか?」
A-1
プレ・インターンシップの時の服装については、
各インターンシップ先で文化が異なっていますので、
必要な場合は個別にご連絡します。
が、一般論として女性に対してパンツはダメでスカート着用を求める企業というのは、
今どき聞いたことがありません。

Q-2 「自分のコースとはまったく関係のない職場に行って、
     知識などで置いていかれたりはしないのでしょうか?」
A-2
逆に、あなたがどのコースに所属していようと、
そのコースと関係がありそうな職場だからといって、
その職場に関して十分な知識を持っているなどと勘違いしないようにしてください。
あなたがたはまだ大学に入学したばかりですし、
たとえ、これから2年、3年と大学で学んだからといって、
関連する就職先についての情報が十分に得られるわけではありません。
ですので、コースと関係のありそうな職場だろうがなさそうな職場だろうが、
どっちみち目から鱗が落ちるような新しい発見ばかりだろうと思います。
どこに行くにせよ、あらかじめ十分に情報収集してから臨むようにしましょう。

次の質問もけっこう出されていました。
教員になれなかった場合に関する質問です。
Q-1 「なぜ過半数は教員になれないのか?」
A-1
えええっっ!?
そんなことも知らずに大学を決めてしまったのですか?
高校の先生はきちんと説明してくれませんでしたか?
少子化だからに決まってるじゃないですか。
子どもが減る → 学級が減る → 先生が減る → 教員採用数が減る → 合格者が減る、以上。

Q-2 「教員になれなかったらどうなるのか?」
A-2
教員になれるまで頑張るか、別の道を探すかのどちらかです。
今どき新卒時に教員採用試験に合格ずみで、
卒業と同時に正規採用の教員になれる人はごくごく少数です。
それ以外の人たちで、どうしても教員になりたい人は、
臨採などと呼ばれる非常勤の教員職に就いて現場で働きながら、
教員採用試験を受け続け、何年か後に正規教員になるというのが一番多いです。
大学院 (特に教職大学院など) に進学して、さらに教育について学び続け、
その結果、教採に合格して2年後に教員になるという人もけっこういます。
在学中に教採に受からなかった or 受かりそうにないと判断してあきらめた、
という人もけっこういます。
この場合は、どこかの段階で教採受験とは別の就活を始めることになります。

Q-3 「教員になれなかった場合のことも考えて就活しておくのか?」
A-3
これはあなたの自由です。
教員1本に絞って、ダメだった場合も翌年以降に教採を受け続けるという選択もあります。
これはすなわち、なれなかった時のことは考えないようにするという手ですね。
教員志望の強い先輩たちは臨採を続けながら何回もチャレンジしたりしています。
早々にあきらめて教員以外の道を目指すという人もけっこういます。
これは教員採用試験に受かるかどうかというよりも、
自分が本当に教員に向いているのかどうかを早めに判断するという道でもあります。
教育実習に行ってみてやはり自分は教員には向いていないとわかるという人はけっこういますが、
大学教員の立場から言わせてもらうと、
できることなら教育実習に行く前にこの判断はすませていただきたいものです。
というのも、教育実習を行わせてもらうためには、
プレ・インターンシップなんて比べものにもならないくらい、
ものすごくたくさんの方々のご協力が必要なので、
それをやった後に初めて自分が教師に向いてないことがわかった、
というのは本当にお世話になった皆さまに申しわけないからです。
そして、教員と教員以外の両にらみという人もたまにいます。
教採の勉強をしながら就職活動もしていたり、
公務員試験の勉強もやっていたなんていう人もいました。
逆に4年次の教採の結果が出たあとに (つまり不合格となったあとに)、
就職活動を始めたという人もいました。
これはもう様々ですので、どうするかはあなた次第です。

Q-4 「教師を志望している人で、民間企業や公務員に志望を変更する場合、
     タイムリミットはおよそいつですか?」
A-4
上の質問で答えたように、タイムリミットはありません。
が、大学としては3年次の教育実習に行く前に決めてもらえるとありがたいです。

Q-5 「教職以外の仕事に就こうと思ったときに、就職サポートしてもらえるのか?」
A-5
教職以外の就職サポートが充実していないと話された先生もいらっしゃいましたが、
私はけっしてそんなことはないと思っています。
教育学部から人間発達文化学類に変わって以降は、
学校教員とは異なる人間発達支援者も育成することが本学類の使命となりましたので、
そういう人たちのサポートもきちんと行っています。
就職支援課をどんどん活用してください。

Q-6 「数理自然科学を学んで、教職以外の職業は何に就けるのですか?」
A-6
それはもう仕事はいくらでもゴマンとあります。
それぞれのコースの就職状況について詳しくはコースの先生に直接お尋ねください。

最後にその他の質問を2問ほど。
Q-1 「将来の見通しは早いうちに確定したほうがいいのですか?」
A-1
そんなことはありません。
じっくり悩んでゆっくり決めるのもありです。
特に上述したように、途中で変わるというのはいくらでもあると思います。
ただ、いつまでも何も決めずにダラダラ過ごすのはよくありません。
確定はしなくてもいいので、とりあえず何かに決めてそれに向けてがんばってみる。
そうしてがんばっているうちにだんだん自分のことが見えてきて、
進路が変わるということも出てくるかもしれません。
何も決めずに何もしないでいると変えることもできないので、
早いうちに考え始め、動き始めたほうがいいことは確かです。

Q-2 「テキストに 『マナーを身に付けよう!』 というページがありますが、
     マナー (あいさつのしかた等) を直接指導するといった時間はありますか?」
A-2
ありません。
テキストを参考に自分で身に付けてください。

以上です。
いろいろと不安なことも多いかもしれませんが、
大学での学びの向こう側にキャリアの道筋が見えてくると思いますので、
まずは日々の勉学に勤しむようにしてみてください。

来月「人材育成講座」開催!

2017-08-23 13:39:55 | 教育のエチカ
一昨日、今週末に開催される 「コミュニケーション力アップセミナー」 についてお知らせしました。

現在その準備に追われているところです (たしか今日がパワポファイルの締切のはず)。

何とか2時間分の講座内容を用意していく中で、もうひとつ大事なことを思い出しました。

ふくサポでの講座、この1個だけで終わりじゃないんでした。

卒業生との企画会議のなかで、市に認めてもらえそうな案をいくつか出してほしいと言われて、

なんか原案をテキトーに3つか4つくらいでっちあげて、

それを彼がいくつかの企画書にまとめあげてくれ (2つだったか3つだったか)、

それを市に提出してみたら、企画書の出来がよかったらしく、

そのうち2つが通っちゃったんですよねえ。

で、いつやりますかという話になり、まあ夏休みの間に終わらせてしまおうということで、

じゃあ8月と9月で、とお願いしていたわけです。

その9月の講座がこちらです。






なんと「人材育成講座」 です。

わたし的には今週末のやつが倫理学プロパーのお話で (異質な他者との共存)、

9月のやつはちょっと自分の専門分野から離れて、長年、教育学部で働いてきて、

人間発達文化学類の将来計画構想とかにも携わってきましたから、

教育のことに関心がないわけではありませんし、

キャリアカウンセラーの資格とかも持っているので、その過程で学んだことも交えて、

人を育てるということについても話せるんじゃないかなと思って、

ダメモトの軽い気持ちで提案してみていたわけです。

それがまんまと通ってしまったわけですが、

「なぜ人は育つのか? プロが教えます」 なんて宣伝されるとちょっと面映ゆい感じが否めません。

それよりも何よりも、今週末の講座が当初の倫理学プロパーのテーマから、

コミュニケーション力の養成という教育寄りの話に変わってきちゃったもので、

チラシの中のキャッチコピーを比べてみると (今週末のはこちら)、

だいぶ重複が生じてきています。

うーん、どうしよう。

たぶん両方とも受講するというもの好きな人もいらっしゃるんだろうなあ。

というわけで、話せそうなことを何でもかんでもぶっこんでしまうと、

次回に話すことがなくなってしまうということにはたと気がついて、

せっかくここまで作ってきたパワポをイチから見直さなきゃいけなくなって途方に暮れ、

逃避のため、なんで今逃避しているのかについてブログを書いている私です。

ああ、時間が刻一刻と過ぎてゆく…。

もうさすがに一休さん作戦を続けている場合じゃないのですが…。

Q.主体的に学問するのは学生の完全義務ではないのか?

2017-04-28 14:39:33 | 教育のエチカ
前回、「教室の倫理」 への改善案をご紹介しましたが、
次に多かったのが今回のような意見でした。
私たちが作った 「教室の倫理」 案では、
「当該科目に関して最低限の勉強をする (きちんと出席する、試験勉強をする、etc.)」
を学生の完全義務の中に挙げ、
「主体的に学問する (参考文献等を進んで読む、自ら研究を深める、etc.)」
を学生の不完全義務に分類しておきました。
これに対して次のように提案してくれた人がけっこういたのです。

「学生の不完全義務として、主体的に学問するという項目があるのは納得できない。大学進学を選択した以上、勉強ではなく学問をすることは学生の完全義務であると思うため。」

「『主体的に学問する』 ということについては完全義務に移すべきだと考える。なぜなら、これまでと違い、『生徒』 ではなく 『学生』 であるのだから、受動的ではなく、常に能動的な姿勢で取り組むことは必要不可欠であるからだ。」

「納得しないところ:学生の不完全義務=主体的に学問する。理由:自分が学びたくて講義に出ているのだから自分から進んで学ぶことは完全義務だと思う。」

まじめかっ!
今どきの大学生はスゴイですねぇ。
自分からハードル上げちゃうんですからねぇ。
こう思って授業に臨んでくれている人がいるというのはとても心強いですが、
しかし、自分自身が大学時代こういうまじめな学生ではなかったので、
大学生ってこういう人たちばかりじゃないよなあと思ってしまうのです。
これらの人たちとはちがって、
「主体的に学問する」 が不完全義務であり、
「最低限の勉強をする」 のほうが完全義務であることに納得してくれた人もいました。
その人はこんなふうに書いてくれていました。

「納得した点:学生の不完全義務に 『主体的に学問する』 が入っていること。理由:学生の本当に研究したいことが他にあり、それが優先されて他のものが後まわしになる。今回は抽選というものもあり、もしかしたら、不本意で来た人もいる可能性がある。
納得した点:学生の完全義務に 『当該科目に関して最低限勉強する』 が入っていること。理由:人生において、好きなこと、興味のあることだけが自分に求められる訳ではないため、どんなものでも勉強は最低限しなければならない。もちろん、先に述べたように、それ以外の時間は自分の本意にしたがうべきだと私は考える。」

私たちが 「主体的に学問する」 を不完全義務に、
「最低限の勉強をする」 を完全義務に分類しているのは、
この方とまったく同じ理由からです。
学生の皆さんは半期で24単位分の授業を履修することができるわけですが、
取っている科目に対して1つ残らず全部全力投球することはできないと思うのです。
もちろん、取りたくて取っている科目が多いだろうとは思いますが、
履修基準上しかたなく取っているという科目もやはりあるのではないでしょうか。
ましてや共通領域の広域選択科目に関しては、
この方も書いてくださっているように、
受講調整によって取りたかった科目を取ることができず、
やむなく第2、第3希望の科目に回されたという人もいることでしょう。
そういう方々も含めて全学生に、すべての科目に関して主体的に学問することを、
完全義務として課すということはできないだろうと思うのです。

完全義務を守れなかった場合は罰せられることになるわけですが、
この場合の罰とは、出席しなかった場合に出席点をもらえなかったり、
最低限の試験勉強を怠った場合に単位をもらえなくなったりすることを意味します。
逆に不完全義務を遵守できた場合は功績とみなされるわけで、
その場合には、SやAなどのより高い評価をもらえることになるのです。
ですので、イヤイヤしかたなく取っている科目に関しては、
出席したり試験勉強くらいはするなど最低限の勉強をすることが完全義務であって、
それさえやってもらえればギリギリの単位は保証しますが、
それができなければ単位を落とすということもありうるわけです。
逆に取りたくて取っている科目に関しては最低限の勉強に加えて、
自ら積極的・主体的に学問に取り組んで、その成果を試験などで発揮してもらえれば、
その努力を功績と認めて、ただたんに単位 (ギリギリのC) をもらえるだけでなく、
SやAなどのより高い評価をもらうことができるようになります。

もしも皆さんがご提案してくれたように、
「主体的に学問する」 が完全義務ということになると、
自ら主体的に学問に取り組んで、参考文献を読んだり研究を深めたりしても、
それはやって当たり前のことですから、しなければF (単位はもらえない)、
したところでCとか、せいぜいBをもらえる程度ということになってしまいます。
SやAをもらうためには、教員が紹介した参考文献を読むぐらいじゃ不十分で、
私たちも知らないような最先端の外国語の論文を読むとか、
私たちが驚くような斬新な研究内容を試験で披露するとかしなきゃいけなくなってしまいます。
そんなに厳しい評価でいいんですか?
しかも、取りたくて取っている科目だけでなく、
取りたくて取ったわけではないイヤイヤ履修している科目でも、
そんな高いハードルを課されてもいいんですか?
ぼくだったらイヤだなあ。
と思ったので、自分が学生だったらという立場に置き換えて考えてみた結果、
「主体的に学問する」 は不完全義務のほうに分類しました。
いかがでしょうか。
納得いただけたでしょうか。
これでもまだ納得できず、さらなる反論がある場合にはコメント欄に書き込んでください。
もしもその反論に納得できたら、
いつでも 「主体的に学問する」 を完全義務に移してあげますよ。

今さら公開! 共通領域 「倫理学」 授業改善学生アンケート結果2015

2017-04-22 08:56:32 | 教育のエチカ
共通領域の 「倫理学」 が始まって昨日 (2017年4月21日) はもう3週目、
樋口先生の担当回に入ってきました。
樋口先生、初回から飛ばしてましたね。
ヒグチックにヘンな雰囲気を醸し出していました。
次回以降がさらに楽しみです。

ところで、受講生の皆さんに過去の 「教育改善のための学生アンケート」 結果をお知らせしようと、
過去記事を探していたんですが、2013年の結果は見つかったものの、
2015年のときの結果が見つからず、そのため皆さんに先週お知らせすることができませんでした。
たしかうちの大学院生にバイトで集計してもらい、
それを記事にまとめたはずなのに、いくら検索しても出てこないのです。
実は以前にもそういうことがありました。
せっかく書いたのに下書き状態のまま公開するのを忘れていたという事件です。
ひょっとして今回もと思って、自分の編集画面から記事一覧を探してみたら、
案の定ちゃーんとありましたよ。
読んでみると記事は完成していたので、途中で書きかけのまま忘れてしまったのではなく、
完成して公開したつもりだったのに、実は下書き状態で投稿していたということのようです。
せっかくバイト代まで払い、忙しいなか時間もかけてブログ記事としてまとめたのに、
なんてもったいないことをしておるのだ
このほかにも記事一覧のなかには下書き状態のまま残されているものがけっこうありました。
タイトルだけ打ち込んでおいたものや、ほんの数行だけメモ書きしてあるものもあれば、
けっこうがんばって書いていたけど結論にたどりつかず放り出してしまったもののなかに、
いくつか、これって完成して公開したはずじゃなかったっけっていうものも見受けられました。
精査の上、順次公開していきたいと思います。
とりあえず2年遅れになってしまいましたが、前回の 「倫理学」 のアンケート結果を公開します。


本日、共通領域 (いわゆるパンキョー科目) 「倫理学」 が終了しました。
今日はまとめの回だったので、いつもの 「授業改善のための学生アンケート」 を実施いたしました。
まずは、お決まりの5段階評価からです。

「1.教員の授業に対する姿勢はよかったですか。
 (観点:授業の準備、授業への熱意、学生への対応等)」・・・・・・・・・・・・・・・・4.78

「2.教育の方法は適切でしたか。
 (観点:質問への対応、発表・討論の機会、シラバスの記述内容等)」・・・・・・4.69

「3.授業の内容は適切でしたか。
 (観点:魅力あるトピック、教材・教科書の適切性、参考文献の提示、
  授業の進度、シラバスに記述された目標の達成度等)」・・・・・・・・・・・・・・・・4.62

「4.総合的にみてこの授業に満足しましたか。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4.63

さすがに前回2013年のときと比べると0.2~0.3ポイントほど下がってしまっています。
まあ、前回はあり得ないだろうっていうぐらい評価よすぎましたからね。
あれが続いたり、あれを更新するなんてこれっぽっちも思っていませんでしたのでこれで十分です。
これでもけっこう高い評価じゃないですか?
自由記述を見てみても評価ダウンの原因となるようなことは見当たりませんでした。
最初の黒丸が 「この授業を通じて学んだことで、特に印象に残っているのはどのようなことですか。
授業への感想や意見も含め、自由にご記入ください」 への回答。
次の白丸は教員からの自由設問で、
「この授業でどんな力が身に付いたり伸びたりしたと思いますか」 に対する回答になっています。

●倫理という普通に生活していたら当事者にならなければ考えることは多くないものについて様々な視点から考え、また、グループ学習のときには考えを話し合えて勉強になった。○普通の生活の中において、頭のなかで物事なり風景なりを切り取って、どんな倫理があるのかを考えたり感じたりといった力がついた。

●授業内課題の問いや魅力的、興味あふれるテーマで、倫理に吸い込まれる良い授業だった。この授業を選択して良かったと思う。○倫理的に考える力。自分の考えた倫理を他の人にも理解してもらえるように発表する力。

●ディスカッションの仕方に、かなり印象を受けました。二人の先生の異なった授業形式で、当たり前のことを今までと異なった観点で学ぶことの重要性が身にしみました。○自分は三年次生で周りは一年次生ばかりだったので、ディスカッションの時は不安がありましたが、何の隔たりもなく話すことができて、貴重な意見交換の機会になりました。個人的に年下の子と話すのは照れくさくて苦手なので、今期の講義で少し抵抗がなくなりました。

●倫理では高校までの昔の哲学者などの思想に着目するのではなく、20世紀、21世紀の現代社会の科学技術とその科学技術者について深く学びました。その中で、脳死について深く学びました。いつ自分または家族になるものか分からず、他人事ではないと強く思いました。○最初の2回ほどの授業で倫理学的問いの多重性のなかで「事実判断」と「価値判断」の2つを学習しました。事実判断は歴史的経緯、事実認定に基づくものであり、価値判断はただ単に善いか悪いかであると学びました。事実判断があってその後価値判断につながるはずなのに、現実問題でこれが逆転してしまう傾向が多く見られると学び、この授業を受ける以前の自分を顧みると自分もその傾向が多々あると思いました。しかし、倫理の授業を通して、自分の私生活をふり返ると事実判断を先にくだすことが多くなってきたと感じます。

●時代ごとに倫理観の変化があること、近代以前にはその時代に即した倫理があり、現代には現代の倫理があるという点。当然なことだが、その変遷が印象的。○客観的な思考が身についた。倫理的な考え方は、事実判断と価値判断とを分けて考えているため、自分の価値観と事実を混同しないように考えられるようになったと思う。

●倫理学という普通は考える機会がないような内容にも、脳死や科学技術といった身近な問題から関心を持ち、学ぶことができた。○物事を見た目や感覚で判断することがなくなり、分析的に判断できるようになった。また、問題の解き方が1つではないということも学べた。

●科学技術の変化に伴う倫理の変容と脳死・臓器移植を題材にして授業が行われた。高校までの思想史を学ぶだけの「倫理」とは違い、自分の頭で答えを見つけるために奮闘することができて楽しかった。実生活においても倫理について考える事が増えて、より思考する回数が多くなった。○身の回りの現象に目を向けて問題を見つける力。加えて、その問題が起きる原因を考えて対話し、解決しようとする力及び姿勢。

●どちらの先生も深い知識とそれに対するご自身の経験も私たちに伝えてくださり、大変参考になり、分かりやすかったです。○物事を倫理的に考えるような姿勢が少し出てきたように思う。これまで深く考えてこなかった人の死(特に脳死)などに耳を傾けるようになってきた。

●身のまわりに倫理があふれていること。事実判断をしてから価値判断をするというプロセスの重要性。○まずは事実をしっかりと見つめ、それから自分の価値や考え方に沿ったものの見方をする力。普段気づかないところにある倫理を見つける力。

●脳死臓器移植の是非を問われ、その後に脳死の定義を聞かれ、脳死に関してほとんど情報を持っていないのにその是非を考えていたのかと、考えさせられた。○倫理について考える時間が増え、思考力が伸びたと思う。

●宇宙の話が好きなので、アポロの講義がもう少し長く聞きたかったです。まさおさまの講義でもっとグロイものも興味がありました。聞いてみたかったです。○今まではあまり気にしないで、自然と聞き流していたようなニュースやドキュメンタリーを必至になって見たり、日常生活で他人の気持ちを考えて行動をするようになったと思います。

●脳死と植物応対の違いや、国ごとに脳死の定義が違っていること。隔年講義にするのはもったいないと思います。○物事を考える時に「なぜそう思ったか」ということをちゃんと考えられる習慣が身についたと思う。

●私は倫理学自体に強い偏見を持っていましたが、授業を通じて倫理を科学的に考察することが学べたように思います。ここと習得した方法論を大切にして今後の学習に生かしていきたいと思います。○Ⅳと重なってしまう部分を避けて言うと、今までは私は他者の倫理的発言がまったくの空想だと考えていた事もあり、他者の議論において倫理的言質が含まれているとイライラして仕方がなかったのですが、この授業を通じて他者の道徳性、情動に対する共感能力が伸びたように思います。

●脳死の定義が3つに分かれていること。科学技術の進歩による倫理の変化。○疑念を持つ力が伸びた。また、価値観が場所や時代で異なることも今まで以上に実感し、思考の柔軟性化につながったと考える。

●講師の先生自らの実体験を元にした話が分かりやすく、印象に残った。○日常の何気ない所から倫理的な考えに至る力が身につき、普段の生活の中での視野が広がったと思う。

●他の人の考えを聞いたり、講義を受けていく中で、自分とは違った価値観を知ることができ、1つの事案に対しての考えがとても深まった。価値観の違いが国によって違っていたことを知り、興味をもった。特に臓器移植のような重要な倫理的問題も国々によって違っていたので驚いた。これにつては、自分でも今後、理解を深めていきたい。○1つの考え方だけではないこと。違った視点から見ることで、理解を深められたり内得したりできること。脳死と臓器移植について。

●数人で行うディベート式の授業。○圧倒的に答えがないような問いについて、自分なりの考えをもつことができる力。

●納期臓器移植について学習したこと。植物状態と脳死の違いについて、しっかりと知ることができたのは大きかった。○私は、倫理学を受講して、物事をさまざまな面から考える力が身に付いたと思う。これは倫理学で学んだ、価値判断と事実判断の方法が生かされていると思う。

●私たちはしばしば価値判断を先にして事実判断を後に考えてしまいがちだが、本来は事実判断を重視すべきだと倫理に関わる問題を通して学ぶことができたと思う。○物事の良し悪しを、事実判断を考えた上で決めるようにする力を身につけられたと思う。

●座学の他にも、グループワークがあるなど、講義の内容が充実していた。一番「学んでいる」という感覚がある。○ニュースなどを視聴した時に、報道される事件や事故に関する倫理を少しずつだが考えるようになった。

●各々が倫理を感じたことをもちより、他人が集まりグループで話し合った回はとても新鮮で、他の人がどのように考えているのかを知ることができた良い機会であった。○授業で毎度、その時間に感じた倫理を明確に文章で書くため、普段の日常生活においても倫理を考えて行動することが多くなったため、そのような力が身についたと思う。

●臓器移植など、人と関わりの深い倫理について学ぶことができてよかったです。私が想像していた授業内容とは異なっていたが、とても興味深い話が聞けたので、最終的にはこの授業を受講してよかったと感じています。○日頃から倫理を意識して生活する力が身につきました。今までは何気なく見ていたニュースや新聞を、自分なりに、倫理を意識して見ることで、深い内容まで考えることができたと思います。

●ロジカルシンキングの仕方を学んだこと。先生の実際の体験談等を聞いたこと。○物事を鵜呑みにするのではなく、本当に正しいか疑って自分で一回考える姿勢。

●物事を知っていると思い込み、間違った価値判断を行っている事が自分の中にどれだけあるのかを学びました。○先に事実判断から入り、価値判断を行うことにより、どのような事実範囲においてどんな価値判断を行っていたのかを知り、そこに矛盾がある場合、それを是正する力が伸びた。

●小野原先生の身内が亡くなった時の話。「2つの死から2つの生を」。今まで生きてきた中で一番深く命について考えることができる時間になった。○日常生活の中で、命に関わる事柄について、今までは人が助かるからなどときれいごとばかり意見を出していたけど、物事にはきれいな面だけではないことが分かったので、事実をよく判断する力を少し得ることができたと思うし、これからも生かしていきたい。

●マンハッタン計画とアポロ計画についての授業が印象に残っています。先生は二人ともすごく個性的でおもしろいです。○力が身についたのかどうかはわかりませんが、同じように倫理を受講している友人と日常のささいな出来事に対して「これ倫理じゃない!?倫理感じてない!?」と軽くふざけながら話すことはあります(笑)。

●毎回刺激的な授業であったが、日本の臓器移植の回数が圧倒的に少ないという話は特に印象に残った。倫理を考えて生活をするということは基本忘れがちであるが、日常の中の倫理を感じながら今後生活したい。○先生の話を聞き、自らの頭で自分自身の考えを見つけ出す力が伸びた。

●高校の授業でやった「倫理」とは共通部分もありましたが、多くは自分の考えていたものとは違うものでした。特にブレーンストーミングは世界の問題から身近な問題まであって面白かったです。また、脳死の話は毎回驚きと疑問の連続で、もっと授業を受けたかったと思いました。○倫理とは何か考えるようになったこと。自分でいろいろ考えるようになったこと。

●以前から興味のあった科目なので、とてもおもしろかったです。ただ授業を聞くだけでなく、グループディスカッションなど、事象について考える時間もあったので、より理解が深まりました。○ある事柄についていろいろな角度から見て考えるようになりました。そうすることで新しい発見をすることもあったので、とてもためになります。

●臓器移植の話がとても印象的で、授業の外でもそのような話を聞くと考えてしまうようになりました。先生の話し方はとても分かりやすく、気が付くと時間が過ぎてしまうこともありました。また、グループでの活動も想像以上に盛り上がってよかったと思います。○今までは何の気もなく日常生活を過ごしていましたが、この授業を受けてから、日常生活であたり前に起きていることも考えるようになりました。例えば、ドナーカードを見た時や、食べ物を食べる時、テレビで科学技術についてのニュースを見た時に、今まではあまり考えたことのないことを考えるようになりました。この授業がきっかけで、日常生活で起きていることを違う視点から見るようになりました。

●私はこの倫理学を通して、特に印象に残ったことは脳死臓器移植についてです。身近でないようで身近な問題を取り上げていただきました。人の死とは何かという未知の領域をあえて考えることによって、命の重みが初めてわかると実感しました。さらに樋口先生や大原先生の科学技術等の理工系の話をされる際の嬉しそうな顔がとても印象に残りました。○この授業では、ものごとを感情的に捉えるのではなく、論理的にかつ倫理的に捉える思考を身に付けました。このような思考は、現在、そして将来に生かしていくことが出来ると思われます。

●ひぐち先生の経験談の回がおもしろかった。とてもリアルだった。○脳死や臓器移植についての知識が身に付いた。どれが倫理なのかを考える力が身についたと思う。

●科学技術に見られる倫理を探してきて発表したこと。グループの中で様々な観点から見られていて面白かった。グループ分けの時、グループの中の一人の案がとても納得できて発想がすごいと思った。○ニュースやドラマを見た時、一つの視点だけでなく、様々な視点から見ることができるようになり、世間で言われている考え方ではない、自分個人の考え方を身につけることができた。

●実際の事例を基に倫理的課題を考えていくことが出来て面白さを感じた。特に脳死のトピックに関しては大きな興味を抱いた。○ある事象(例:脳死)に関しての価値判断を事実的根拠に基づいて下すことを心がけられるようになった。

●脳死臓器移植に関すること。自分ならいいと思っても家族なら嫌だと思ったり、たくさんの感情がわきました。○考える力、どうしてだろうと一度は考えることが多くなった。前より自分の意見がもてるようになった。

●脳死について考える機会が多かった後半の授業ですが、色々な知識を知れば知るほど「脳死って何だろう」と思うことが多くなりました。それほど複雑で一筋縄ではいかない問題なのでしょう。続きが楽しみです。○ある事象について知っていなければ偏った観点でしか物を言えないな、と改めて気付きました。「YES!」と答えたのに、こんな事実があった、こんな考え方がある、と知ると「・・・YES?,NO?」となることが多かったです。

●初めて倫理を学んだので、少し難しいなと感じました。しかし、倫理を学んだことで、日常生活のあらゆる場面で倫理を考えられる場面があることに気づいて、とても面白かったです。○今まで倫理そのものを知らなかったので、倫理を感じたことがなかったけれど、倫理学を受講して、ニュースや新聞、日常生活で倫理を感じられるようになりました。また、脳死と植物状態の違いなど、分かりやすそうで分かっていなかったことが身につき、力がついたと思います。

●教員の趣味まるだしの授業でしたが、大変参考になったと思います。○相手の質問をうのみにするのではなく、質問を疑ったり、意味をよく考えることが重要だと分かりました。質問されてから、反射的に答えるのではなく、よく考えてから答えられるようになったと思います。

●脳死のことが特に印象に残っています。普段考えることはないテーマで知らないことばかりだったので、ためになりました。国によって基準が違うのは問題だと思うし、法律が施行されてからあまり時間がたっていないので、これから改善されていくことを期待します。○樋口先生の授業については、今まで何も思わずに使っていた機械が享受していた便利さを改めて考えるいいきっかけになりました。豊かな暮らしの裏にあることを頻繁に考えるようになりました。小野原先生の授業については、身近にない脳死について知ることができてよかったです。あと、事業の中で時々課される答えのない問いにとりくむことで、自分の中で意見を持つことができるようになりました。

●グループ学習がとても楽しく感じた。授業の内容はとても興味深く、みりょく的なものであった。○様々な出来事の影に存在している倫理を、意識的に発見できるようになった。人の死に関する知識が身に付き、死に対して興味を抱くようになった。

●倫理学的観点でものごとを考えることはいままでしたこともなかったが、少しづつ身に付き始めている。○注意深く観察することが増えた。電車に乗っている人や買い物している人など。

●物事について色々な角度から見ることを学び、深く考えることを知った。○価値判断をする時には、ちゃんとした情報を得てから行うべきだということ。

●魅力のある授業にしていきたいという熱意が伝わってきました。○普段であったら聞き流してしまうようなことに対し、倫理について自分なりに考える力が身に付きました。

●なんとなくしか知ってなかった脳死について、詳しく知ることができたことがよかった。脳死によって移植ができるプラスの面しか知らなかった。デメリットもあるのだということを痛感した。○なんでもかんでもそれを正しいと思い、自分で考えようとはしてこなかったことを思い知った。本当にそれでいいのか、正しいことなのかを考える力が伸びたと思う。また、何気ない風景のなかに倫理が隠れているのだと思った。

●脳死について、主に世界で三つの脳死判定基準があり、国によってバラバラであること。日本における脳死とその歴史。原子力についてと宇宙開発競争。○この授業を受講して、もの事を多角的に見る力が最も伸びたと思う。というのも、例えば脳死についての授業を受けた時も、先入観や知識の不足があったにも関わらず、自分の価値観等でしか脳死基準や判定を判断してなかったから。特にこの授業では、これが伸びたのではなかったかと感じた。そして、客観的事実を見て判断する力が身についたと思う。

●倫理学を、科学技術と医療の二つの観点からとらえているのがとても素晴らしいと感じる。おそらく、倫理を感じることは上の二つのみではない筈である。○Ⅳでも感じた通り、科学技術と医療(脳死)のみではなく、他の領域や日常生活で倫理を感じられることがある筈である。要点は、それを事実判断と価値判断で改めなければならない点である。つまりは客観的な物の考え方を、主観的な思考によって先導されてはいけないということである。

●人の死について、ここまで深く考えたことは無かったので、とてもいい経験になりました。○単純にはい、いいえの二択だけで考えるのではなく、そのものの本質を考える力が身についたと思います。

●脳死臓器移植をめぐる事実判断と価値判断という授業で、脳死と植物状態の違いや現状についての話。○物事を論理的に考えたり、順序だてて考えたりする力。

●倫理は日常のあらゆるところにあるということ。現代社会の科学技術における倫理。人の命に関わる選択における倫理。○論理的に考える力。自分の身近なところで疑問を発見する力。

●脳死問題のジレンマ。家族について考えたり、自分のこととして考えたりするなど、興味深い内容だった。○少なくとも、起こりうる様々な問題と向きあえるような力がついたと思います。

●胃ガンになった父親の摘出した胃を見て、もつ煮込みが食べられなくなったというエピソード。○1つの物事を色々な観点から見て考えることができるようになったと思う。

●脳死についての講義、質量があった。重かった。講義の一番最後に臓器提供意思表示カードを配ってみてはどうか。意識がぐっと変わると思う。○物事の本質を見る力、ある定義が本当に正しい(妥当な)定義なのかを見極める力。

●様々なことを倫理という面から見れた。脳死については、知らなかったことも多く自分なりに色々考えることができた、正直言って「倫理学」と見て、高校での倫理を受講した。しかし、内容は異なっていた。でも、内容がとてもおもしろく、受講して良かったと思う。○様々な事案を客観的に捉え、主観的ではない見方をする力がついたと思う。

●脳死に関するテーマは、重い内容であったが、非常におもしろい内容だった。○物事を考えるときに、自分の感想よりも、まず最初に客観的価値判断を考えるようになった。

●グループワーク。グループで倫理を感じる写真や絵をもちよって、そこから倫理についてまとめるのが印象にのこった。○倫理というものを、あまり意識していなかったが、倫理は身のまわりにたくさんあると感じた。また、倫理という言葉を最初は知らなかったが、だんだんこれが倫理かということが分かってきた。

●人によって倫理観が違うので、国によっても変わってくるんだなと思いました。倫理学が毎週楽しみになりました。脳死センター、私は合理的だと思いました。○物事をそのまま受け入れるのではなく、一度疑う姿勢。

●脳死臓器移植について深く知ることができ、今まで脳死臓器移植について価値判断をしたことがなかったので、深く考える良い機会になったと思う。○日常的に目にするものやニュースなどに倫理を探したり価値判断をする力。あるテーマに関して自分の意見を出力する力。

以上です。
今年から樋口先生は、日常生活の中に感じられる倫理を見つけてきてくださいという課題を出し、
それに基づいてブレインストーミングのワークを始められました。
私もそれにつられて授業内哲学カフェに初挑戦してみました。
自由記述を見るかぎり、それらの試みはみごとに成功を収めたと言っていいんじゃないでしょうか。
だとするともうちょっと評価ポイントの上昇といった、目に見える結果が出てほしいところですが、
まあ同じ学生さんが評価しているわけでもないし、
学生がやるべきこと (課題) が増えれば授業の評価が下がるというのは普遍的真理でもあるので、
いたしかたないところでしょうか。
まあ、私たちの狙いはみごとに達成されたということで満足したいと思います。

さて、そして私が 「授業改善のための学生アンケート」 のなかで一番重視している、
授業外学習時間に関する集計結果です。

【授業外学習時間】
3時間以上・・・・・・・・・・・43人(53.1%)
2~3時間未満・・・・・・・・18人(22.2%)
1~2時間未満・・・・・・・・12人(14.8%)
30分~1時間未満・・・・・・3人( 3.7%)
30分未満・・・・・・・・・・・・・・3人( 3.7%)
0分(何もしなかった)・・・・・1人( 1.2%)
未記入・・・・・・・・・・・・・・・・・1人( 1.2%)

おおっっっっ、ブラボーッ
とうとう授業外学習時間3時間以上の人が50%を超えてくれましたっ
これってスゴくない?
たかが2単位の講義科目のために毎週3時間以上、授業時間以外に学習したことなんてあります?
私としては、学生の主観的な5点満点評価よりも、こちらのほうが大事だと思っています。
まあ本来で言えば、2単位科目に対しては毎週4時間の授業外学習が必須なんですが、
うちのアンケートでは 「3時間以上」 という項目までしかないのですからしかたありません。
それにしても他の授業で3時間以上の人が半数以上いるなんていう講義科目があるのでしょうか?
これは快挙だな。
これを達成できたのはひとえに樋口先生のおかげです。
樋口先生、ぜひ祝杯あげましょう
そして皆さん、半期間、私たちの授業にお付き合いくださいましてありがとうございました
「倫理学」 の授業が終わっても皆さんの倫理学はこれで終わりではありません。
これからも日常に潜む倫理を見つけ出し、問い続けていってください。


以上が2年前に書き終わって公開してあったはずの記事でございました。
こんなにも長いあいだお蔵入りさせてしまっていて申しわけありませんでした。
けっきょく樋口先生とも祝杯あげずじまいだったなあ。
今年はぜひ一昨年の分も含めて豪勢にお祝いしたいと思います。
そのためにはあの記録を更新しないといけないな。
どうやったらみんなに授業外でも考え続けてもらえるか、さらに工夫を凝らしたいと思います。

Q.時間厳守は教員の完全義務ではないのか?

2017-04-18 22:58:36 | 教育のエチカ
この季節は相馬の看護学校でいただいた質問に答えていることが多いのですが、
もちろん福島大学でも授業は始まっています。
今年は共通領域の 「倫理学」 が開講される年なので (隔年開講)、
共生システム理工学類の樋口先生と一緒に楽しく講義をもっております。
第1回目の授業ではオリエンテーションのあと 「教室の倫理」 の話をし、
前回第2回目の授業の冒頭では、本日の授業内課題として、
「教室の倫理」 を聞いて納得できたところと納得できなかったところ、
また改善すべき点等について書いてもらいました。
今回の授業内課題はまだ授業の中身に入っているわけではないので、
そんなにたくさん書いてもらうつもりはなかったのですが、
みんなけっこう時間をかけてたくさん書いてくれていてビックリしました。
論点はいろいろと出てきましたが、多くの人が挙げてくれていたのが時間厳守の問題でした。

「教室の倫理」 の中では教員と学生それぞれの完全義務と不完全義務を列挙しています。
完全義務とは、完全に守るのが当然で、守れないと罰せられるような義務です。
殺人の禁止や窃盗の禁止といった義務が完全義務に分類されます。
不完全義務とは、完全に守れなくても仕方がないが、守れると功績とみなされるような義務です。
人を助けてあげたり、自分の才能を伸ばしていくといった義務が不完全義務となります。
この分類を用いながら教員と学生双方の完全義務と不完全義務を提示したのですが、
そのうち教員の不完全義務の1番目に
「時間を厳守する (特に授業時間をむやみに延長しない)」 という義務を入れておきました。
これに対する反対意見、改善意見が殺到したのです。
すなわち、教員の時間厳守は不完全義務ではなく完全義務であるべきだ、というのです。
その理由は次の2つに集約されます。

「『時間を厳守する』 を完全義務にしてほしいです。学生が時間通りに教室に来ても教員がいなければ講義が始まらず、学習を進められないからです。」

「次の授業がある場合、学生はその授業を受ける権利があり、前の授業によってそれが侵害されるのは好ましくない。よって、時間厳守のためには1つの授業計画段階において、しっかりと時間配分を考えてほしい。」

つまり、時間厳守義務というのは開始時刻と終了時刻、
遅刻をしないということと、授業時間を延長しないということに分けられて、
それぞれに関してみんなきちんと守ってほしいと思っているようなのです。
開始時刻に関して言うならば、私たちのこの 「倫理学」 の授業では、
教員が遅刻をしないというのは完全義務と考えていると言っていいでしょう。
樋口先生なんて学生よりも早く教室に来て待っていてくれたりしますよね。
私はどちらかというと開始時刻もルーズなタイプだったんですが、
この授業においては樋口先生の影響で、けっこう律儀に時間を守っています。
というわけで遅刻をしないということについては完全義務でもいいかなという気もします。
こんなふうに書いてくれていた人もいました。

「完全義務については納得したが、教員の不完全義務の時間を厳守するということについて納得できない。時間を守ることを指導する立場でありながら遅刻するなどの行為はつつしむべきだと考える。数分ならば仕方ないが、忘れていたなどで数十分待たせ生徒が呼びに行くようなことは避けなければならない。数十分の遅刻をしないことを完全義務にいれるべきだと考える。」

この方は出だしの部分ではけっこう強硬派かなという感じがしましたが、
途中で 「数分ならば仕方ない」 とも書いてくださっていて、
だとするならば、時間厳守という義務そのものは不完全義務でいいということになるでしょう。
最後に提案してくれているように、完全義務として成立させるためには、
「○○分以上の遅刻をしないこと」 というように遅刻限度が何分かも書き込む必要が出てきます。
まあ、私たちの場合は開始時刻に関しては厳守するという方向で進めたいと思います。

問題は終了時刻のほうです。
時間ピッタリに終われるかどうかという点ですね。
これは難しいことなんだということを説明したつもりでしたが、
なかなか皆さんに理解いただけなかったようです。
もちろん私たちは終了時刻に関しても基本的にはきちんと時間通りに終わらせるつもりでいます。
2番目の方が書いてくれていたように、授業計画段階において時間配分は考えていますし、
授業中も時計を見ながら、きっちり90分で終わるように調整して進めています。
ただこれは2つの理由から、なかなか上手くはいかないのです。

1つは講義がライブであり、生ものであるという問題です。
私たちは生身の人間ですから、すべてを事前の計画通りに進めることができません。
前年度の授業でぴったり90分で話し終わることができたとしても、
次の年、まったく同じようにそれを再現できるかというとそうとは限りません。
また、話している最中に最近の時事ネタに絡めていい実例を思いついてしまったりして、
その話に熱中して時間を忘れてしまったりすることもあります。
そういう時ほど講義の内容は面白くなるのですが、
そういうことがあればあるほど時間管理は難しくなってしまいます。
前回の授業で 「相手の立場に立って考える」 ということの大切さをお話ししましたが、
特に、教員志望の人には自分もいつか教壇に立って話さなければならない、
ということを念頭に入れてこの問題を考えてみてほしいと思います。
例えば、45分だったり50分だったりの授業を本当に時間通りに終わらせられると思いますか?
もちろん時間通りに終わらせることを目指して授業をしなければならないわけですが、
それが完全義務だと言われて、本当に完全に守ることができるでしょうか?
近年では大学でもそうなのですが、
小中高校などは特に1回の授業が1つのテーマで完結することを求められます。
そうすると時間が来たからブチッと途中で終わらせて続きは次回に、
なんていうわけにはいきません。
私の場合は赴任したての頃はいつもそうでしたが、
毎回、話の途中でタイムアップになり、
次回とんでもなく中途半端なところから話し始めるなんていうことを繰り返していました。
それはそれで学生たちにとってはわかりにくい講義だったことでしょう。
毎回の授業を1つのテーマで完結させるということを目指すならば、
よけいに時間厳守というのは達成困難となるわけです。

時間延長を避けるために最初から90分ギリギリの授業計画を立てずに、
早めに終わるような内容にセーブしておくということも試したことがあります。
これだと毎回早く終われるので、学生の皆さんが次の授業に遅れるということはなくなります。
ただこの場合、時間厳守という完全義務は守られているのでしょうか?
こんなふうに書いてくれていた人もいました。

「『時間を厳守する』 は教員の完全義務でよいと思う。理由:生徒が授業料を払っているため、90分間しっかりと授業をしなければならないから。」

この人の立論からすると、早めに終わるのも時間遵守の完全義務違反であることになります。
したがって授業時間を延長することだけではなく、早めに終わることも許されないわけです。
となるとよけいに時間厳守というのは完全に遵守するのが難しいということにならないでしょうか?
というわけで時間ピッタリに授業するというのは、
皆さんが思っているほど簡単なことではないのです。
もちろん私たちとしてはピッタリに始まり、ピッタリに終われるように努力はしますが、
皆さんも 「自分が教員だったとして時間厳守で授業できるだろうか?」 と考えてみて、
若干大目に見る余裕をもっていただけるとありがたいと思います。

時間厳守が難しい理由はもう1つあります。
それは最近アクティブラーニングというものが流行っていて、
学生がただ受け身で授業を聴くだけでなく、
自分たちで考えたり活動したりする時間を設けることが求められるようになっています。
私たちの場合は別にその潮流に乗って始めたわけではありませんが、
授業内課題を課すようにしていて、授業中に皆さんに何か考えてもらったり、
それを書き留めてもらったりするという時間を設けています。
これをやると、知識の伝達量という意味では若干内容が薄まりますが、
学生個人の学びという意味では、学習の量と質が飛躍的に高まりますので、
私たちとしてもひじょうに重視しているところです。
しかしながら考えるにせよ書くにせよ、そのスピードには個人差があります。
例えば授業の一番最後に授業を振り返って何か書いてもらう課題を与えたとすると、
それを書き終わる時間は人によってまちまちになってしまいます。
書き終わった人から提出して帰っていいことにすると、
全員に対してピッタリ90分授業をするということは不可能になってしまいます。
早く書き終わった人にとっては授業時間が短かったということになり、
時間内に書き終わらなかった人にとっては授業は延長されたことになってしまいます。
残念ながら教員はそこまで完全にコントロールすることはできません。
ですので、時間厳守というのはやはり完全義務にはなりえないと思うのです。

もちろん長年の経験で大半の学生はこの課題を考えたり書いたりするのに、
これぐらいの時間がかかるだろうというのはだんだんわかってきたりします。
ですので、その程度の時間を見込んで課題を出すようにすることは当然のことながらしていますが、
それにしてもそれは大半の学生に合わせた対応であって、
異様に書くのが早かったり、異様に書くのが遅かったりする学生は必ずや存在するのです。
そういう個人差があるので、
時間厳守を完全に履行するのは難しいということもご理解願えたらと思います。
というわけで今回は次のようにお答えしておきたいと思います。

A.予定した授業内容を時間通りピッタリに話し終えるというのも至難の業ですし、
  学生に何か考えたり書いたりさせるという場合にはよけいに所要時間が読めなくなるので、
  時間厳守を教員の完全義務に組み入れるのは難しいだろうと思います。

どうしても完全義務に組み入れたいのであれば、
次のように分割して留保を付けて表現するしかないでしょう。
「教員は (特別な理由のないかぎり) 授業に遅刻してはならない。」
「教員は (極端に書くのが遅い学生を除いては) 授業時間を延長してはならない。」
しかしながら、留保を付けなければいけないという時点で完全義務の資格を欠いています。
ここまで限定的に表現するくらいなら、
「時間厳守は教員の不完全義務です」 でいいような気がするのでした。
いかがでしたでしょうか。
さらに反論があるようでしたら、コメント欄にお書き込みください。

「科学技術と環境の倫理学」 授業改善学生アンケート結果2016

2017-02-06 16:06:28 | 教育のエチカ
衝撃の修士論文を提出した院生から、
恥ずかしいから早く新しいブログを書いて、あの記事を過去ログにしてくださいと頼まれたので、
後期の授業で行った 「授業改善のための学生アンケート」 の結果報告をさせていただきます。
実を言うと、「人生で一番忙しい年」 だったために、
(引き続き 「人生で一番忙しい年度」 継続中ですが…)
前期の授業のアンケート結果をまだご報告していません。
あの院生に頼んですでに集計は終わっているし、自由記述も打ち込みずみなんですが、
ブログ記事に仕上げるヒマがないままに今日に至り、
そしていつしか、このごった返した研究室のなかのどこかにデータが埋もれてしまいました。
新年度が来る前にはまた一度研究室の整理をしたいと思っており、
発掘され次第、ブログを書けたらと思っております。
とりあえず、先ほどあの院生から渡されたばかりの、
後期の 「科学技術と環境の倫理学」 のアンケート結果を忘れないうちに発表しておきます。

まずは5段階評価から。

「1.教員の授業に対する姿勢はよかったですか。
 (観点:授業の準備、授業への熱意、学生への対応等)」・・・・・・・・・・・・・・・・4.89

「2.教育の方法は適切でしたか。
 (観点:質問への対応、発表・討論の機会、シラバスの記述内容等)」・・・・・・4.93

「3.授業の内容は適切でしたか。
 (観点:魅力あるトピック、教材・教科書の適切性、参考文献の提示、
  授業の進度、シラバスに記述された目標の達成度等)」・・・・・・・・・・・・・・・・4.86

「4.総合的にみてこの授業に満足しましたか。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4.89

一昨年もけっこういい評価で、さすがにもう打ち止めだろうと思っていたのですが、
(上から順に4.81、4.73、4.84、4.84)
その記録をさらに更新してしまいました。
ありがたいことです。
一昨年のアンケートで 「ワークシートを書く時間が足りない」 という意見が散見されたので、
その点を気を付けるようにしたのがよかったのかもしれません。
「2.教育の方法は適切でしたか」 の回答が一番高得点になっているのはそのおかげでしょうか。
今年の自由記述欄では授業内容や授業方法に関する苦情はひとつもありませんでした。
(テストに関する苦情が1件のみ…後述)
では、自由記述を見ていくことにしましょう。
問いは 「あなたが、この授業を通じて学んだことで、特に印象に残っているのはどのようなことですか。
授業への感想や意見も含め、自由にご記入ください」 となっております。

【自由記述】
●NASAのような例示VTRがとても面白くて勉強になりました。

●グループワークを取り入れられたため、他の人との意見交換が出来た。

●それぞれの倫理について考えることによって、これからどのように生活していけば良いのかということを毎回考えることのできる授業だった。環境倫理の話が一番印象に残った。

●特に印象に残った授業は、「チャレンジャー号爆発事故の際の技術者の行動」です。長年の経験上、技術者側の視点と経営者側の視点の相反する立場から、相互の心理レベルにまで触れられたことです。実務では、利益相反、境界問題の中での判断が求められるので、判断する軸を見つけられたと思います。ありがとうございました。

●自分の専門分野では全くない領域ですが、内容的に興味があったので、受けさせて頂きました。私の知らない事や、今までの考えが覆されるものばかりでとても良い刺激になりました。講義を聴いていてとても面白かったです!! また、学類や学年で違う人たちと意見交換をすることが出来てとても貴重な経験でした。ありがとうございました。

●久しぶりに黒板の文字を写し続け、やっぱり書いた方が頭に入るなあと思いました。自分の意見を考えてから、先生の考えが聞けたので、自分が考えていたことと照らし合わせながら授業を聞くことができ、普段受けている授業より、有意義な時間になっていたと思います。

●技術者がとった行動の予測や、科学技術における反論、再反論などを考えることによって、より学びが深まったと思う。またグループワークで意見交換をするのは新しい視点に気付く機会なので面白かった。

●科学技術に対する科学者の倫理、私たち使用者の倫理や政府との関連についてが特に印象にのこりました。このままだとどうなるのか、より良く技術を運用するにはどうすればいいのか考えていきたいと思いました。

●身近な問題に対して倫理学的側面から考えることができたのはよかった。現在の考え方がどのように古典的な思想とつながっているのかわかったのが勉強になった。

●難しい問題もあったが、具体的な例があったり分かりやすかった。先生のたまにはさむ話がおもしろくて好きです。

●ところどころにグループワークやワークシートを使った活動があり、自分の考えをもちながら授業に取り組むことができたので、毎回楽しく授業を受けることができました。ありがとうございました。

●科学の進歩によって人間の生活が豊かになった一方で、重大な事故が発生したり、環境の破壊が進む問題があった。このような問題に対して倫理学者はどのような考え方を持っていたのか学ぶことができてよかった。

●科学技術の倫理の際に、ロケット打ち上げ事故のドキュメンタリー映像を見たのが面白かった。問題の内容に興味を持って取り組むことができた。今後も時間があれば、このような形式で授業を進めてもらうとよりわかりやすくなるのではないだろうかと思う。

●ある事柄について自分の意見を自由に考え、それを周りと交換するような講義は他にはあまりないので、とても有意義であり、楽しかった。正論に対する反論を考えるのが楽しかった。

●環境倫理学者への反論を行い、再びその反論に対し反論をおこなう授業が印象に残った。大学の講義を受けていても、現在どのような部分が論点になっているのかがわからないことが多いので、理解しやすかった。

●毎回の授業がとても興味深く、沢山板書をすることが多かったので、とても内容の濃い授業だったと思います。特に印象に残っているのは、ロケットの打ち上げをやめようとした科学者の話です。授業の展開の仕方がとてもおもしろかった(interestingの方で)です。

●高校の倫理の基礎を押さえていることに加え、その発展を、例を出しつつ講義を進めていたため、理解しやすく、印象に残る、有意義な講義だった。テスト内容ですが、他の講義のテストも考慮した分量を設定し、内容を重視をしてほしい。文章は量より質だと考えます。

全員分ではありませんが、だいたいこんな感じです。
批判的な内容が書いてあったのは一番最後のテストに関する1件のみでした。
これまではずっと2問中1問選択という形で出題してきましたが、
今回初めて2問とも答えるようにと出題形式を改めたので、おそらくそれに対する意見なのでしょう。
その点に関しては、テストの採点が終わってから改めて考察してみたいと思います。
最後に、私が1番重視している授業外学習時間に関する回答結果です。

【授業外学習時間】
3時間以上・・・・・・・・・・・13人(46.4%)
2~3時間未満・・・・・・・・・6人(21.4%)
1~2時間未満・・・・・・・・・6人(21.4%)
30分~1時間未満・・・・・・3人(10.7%)
30分未満・・・・・・・・・・・・・・0人(0.0%)
0分(何もしなかった)・・・・・0人(0.0%)

こちらは一昨年よりも下がってしまいました。
けっこう意図的に宿題というか、
「○○について考えてきてください」 みたいな指示もしたつもりだったのですが…。
今年は公欠とは別に欠席する人が多かったような気がするのですが、
それも何か関係しているのかもしれません。
それとそもそも、今まで木曜日の4限に開講していたものを木曜2限に移して、
受講者数が増えるものと期待していたのに逆に減ってしまったので、
そのあたりも再考の余地があるのかもしれません。
いずれにせよ授業時間外学習時間を増やしていくための取り組みについては、
これまで右肩上がりで推移してきたものが減少傾向に転じてしまいましたので、
今後ちょっと新しい工夫を加える必要があるかもしれません。

なお、これは他の授業でも同様ですが、
「この講義を受講してどんな力が付いたり伸びたりしたと思うか」 という問いは、
無記名のアンケートではなく記名式のワークシートのほうで答えてもらいましたので、
それはまた近いうちにご報告させていただきます。

衝撃の修士論文

2017-02-04 08:48:55 | 教育のエチカ
一昨年まさおさまゼミは過去最多の卒論生・修論生を抱え、

そのなかで衝撃の卒業論文が提出されたなんてことがありました。

こういうやつね。



それに比べて今年度はゼミ生数が久しぶりに落ち着いて、

学類4年生が2名、修士2年生が1名 (ちなみに学類3年生も1名のみ、修士1年は0) と、

若干寂しいけれど、指導するにはひじょうに適正な人数でした。

そのせいもあるかもしれませんし、たまたま今年の学生たちが優秀だったからかもしれませんが、

今年度の卒論・修論指導はものすごく順調に進み、

ギリギリまでバタバタしてるなんていう人がひとりもいませんでした。

とりわけ修論のほうは締め切りが早いので (卒論は1月末、修論は1月20日くらい)、

これまでの院生たちはみんな締め切り日の前日は泊まり込みで、

当日も締め切り時間のギリギリまでぼくの研究室と院生室のプリンターの間を行ったり来たりする、

というのが1月の風物詩だったわけですが、

今年の院生は早々に修論指導を終え、締め切りの数日前に悠々と教務課に提出してくれていました。

それに倣うかのように卒論生の2人も余裕もって提出してくれましたので、

今年は本当に手がかからずに卒論・修論指導を終えることができました。

長年教育に携わってくるとこんなに心安らかな1月を迎えられるなんてこともあるんだなあと、

自分の手柄でもないのにあたかも自分が頑張ったかのような感慨に耽っていたその時でした。

今年は修論の締め切り日が金曜日だったもので、

教務課に提出された修論が翌週の月曜日になって私の手元に届けられたのですが、

それを見て私は愕然としてしまいました。

その衝撃の修論がこれですっ











えええっっっっ

まさかの表紙なしですかっ

もうプリントアウトした紙に穴を開けて紐で結んだだけのペラッペラの修論です。

これは初めて見ました。

まさおさまももう教職歴22年になりますが、これはやられました。

斬新です。

驚いたことにこの院生は他大学から入学してきた人とかいうのではなく、

福大の人間発達文化学類をちゃんと卒業した人であり、

しかもまさおさまゼミ出身の人なのです。

さらに言うならば、最初に掲げた衝撃の卒論を提出した人と同期の別人です。

だから卒論の時にはちゃんと表紙を付けて1本の紐で結んで正しく提出してくれていたのです。

なのになぜこうなるっ

衝撃を隠せないまますぐに本人にこんなメールを送りました。

「スゲェびっくりしたんだけど、修論なんで表紙付けなかったの?」

するとこんな返事が返ってきました。

「表紙の件ですが、教務課からの修論提出に関する通知に、

 卒論の時の様なきっちりとした指定がなかったのと、

 3月に提出する製本済の保存用論文が正式なものになるから、

 今回の分はペラペラの紙でいいのかなと勘違いしておりました。」

なるほど、ちゃんと理由があるんですね。

教務課としては、院生はみんな卒論を提出した経験があるので、

いちいち細かく指定しなくてもいいだろうと思っていたのかもしれませんし、

あるいは、あれを何も言わずに受理したということは、

院生の言うとおり、3月に提出するきちんと製本したやつが正式な修論であって、

1月提出分は審査のための仮修論にすぎないと考えているのかもしれません。

ひょっとすると修論には表紙を付けるべきだというのは、

たんに私だけが勝手に前提している個人的信念にすぎないのかもしれません。

とはいえ、紐で結んであるのに表紙がないととても読みにくいですし、

(いっそ紐で結ばずクリップ留めしてあるだけならば読みやすさは抜群ですが…)

卒論と違い修論は副査の先生方にもお渡ししなければならないので、

その時にこれだとまさおさまゼミは何やってるんだと笑われそうでちょっと小っ恥ずかしかったので、

あの衝撃の卒論みたいにこのままの形で保存しておくのはあきらめて、

改めて表紙を付けてもらうことにしました。

いやあ、それにしてもいろんなことが起きるものだなあ。

教育においてはありとあらゆるケースを想定して、きめ細かく指導しなければならないのだと、

つくづく思い知らされるとともに、はたしてそんなことは可能なのかと途方に暮れる今日この頃でした。



P.S.

ところで個人情報を隠すために画像処理していて気がついたのですが、

うちの大学に 「人間発達研究科」 なんていう大学院はありませんね。

この人はどこの大学院生だったのでしょうか?

というイヤミはさておき、

まさおさまゼミでは誤字脱字は1字につき1点減点と定められていますので、

「文化」 の2文字の脱字によりさっそく2点減点しておきたいと思います。

大学教育学会@千葉大学

2016-12-05 16:02:17 | 教育のエチカ
さて、もう12月になってしまいました。

と思う間もなくもう12月5日です。

月日の経つののいと速きことよ。

12月最初の週末は委員会がらみで、千葉大で行われた大学教育学会に行ってきました。

自分が所属していない学会にまで参加しなきゃならないというところに、

「人生で一番忙しい年」 の真骨頂が現れている気がします。

会場は西千葉駅の真ん前にある千葉大学西千葉キャンパスです。

千葉大学はやはりちゃんと 「門のある大学」 でした。



そして正門前にちゃんと大看板が掲げられています。



しかしながら、大きさ的には私が作った中規模立て看と巨大立て看の中間くらいの大きさで、

心のなかでちょびっと 「ふふっ、勝った」 とほくそ笑んでしまいました。



ま、カラー印刷だしデザイン的には負けているかもしれませんけど…。

学会は正門入ってすぐのけやき会館という、新しげな大きな建物で行われたのですが、

その建物の前に掲げるとあの看板はさらに小さく見えます。



ふむ、やはり大きさでは勝ったな。

驚いたことにその建物の外に受付が設けられていました。



たまたまこの日は暖かかったのでよかったですが、日本カント協会のときのような天候なら、

この人たちはみんな凍え死んでいたことでしょう。

こちらが当日受付ブースで、反対側には事前受付ブースもあって、

もう4人が凍え死にかけていました。

さすがはデカイ学会、デカイ大学のことだけはあります。

たぶん8人全員凍え死んでも、2日目には新しい8人を投入することができるのでしょう。

さらに、この学会は参加費というものをふんだくるのですが、

参加費を払ったらこんな領収書をいただきました。



カード状になっていて、しかも2つに分けることができ、半分は名札になるのです。



こんなシステムは初めて見ました。

こんなものがあるなんてまったく知りませんでした。

知っていたら日本カント協会のときにも使っていたのに…。

これを利用するのにいくらぐらいかかるのか知りませんが。

名札と名札入れは最後に回収ではなく、お持ち帰りくださいとのことでした。

この現代的領収書兼名札システムには脱帽で、千葉大に対して負けを認めざるをえませんでした。

というか学会の規模といい参加者数といい、看板の大きさ以外はすべて負けなんですけどね。

あまりに悔しくて写真も撮りませんでしたが、

待合室にはコーヒーサーバーが設置されていてタダでいくらでも本格コーヒーが飲めたりとかね。

まあ、千葉大や大学教育学会と張り合ってもしょうがないので、空しい比較はやめときましょう。

学会は内容もものすごく刺激的だったし、

旧知の皆さんとも久しぶりにお会いすることができて、とても楽しかったです。

中身については学内誌に報告文を投稿しなきゃいけないと思われますので、

それが掲載されたらこちらでもご紹介することにいたしましょう。

そういえば夏に北海道教育大学で行われた、

「東北・北海道地区大学等高等・共通教育研究会」 の報告が先日、

うちの大学の共通教育の広報誌に掲載されたのでした。

それも近々アップしたいと思います。

「人生で一番忙しい年」 なので、ブログのためだけの執筆はできるかぎり避け、

何でもかんでもありモノですませる習慣をつけていきたいと思います。

平成28年度全国公民科・社会科教育研究会全国研究大会

2016-11-18 19:55:24 | 教育のエチカ
ギリギリになっての告知で申しわけありませんが、来週の月曜日と火曜日に、

千葉で 「平成28年度全国公民科・社会科教育研究会全国研究大会」 という、

「全国」 やら 「研究」 やらをやけに押している大会が開催されるそうです。

まさおさまの大学院ゼミの修了生が千葉県で高校公民科の教員に就職しており、

千葉大会ということで彼女が事務局をやっているらしく、

ぜひ千葉県ばかりでなく 「全国」 の皆さまにもお越しいただきたいということで、

告知と拡散を頼まれました。

ちょっともう時間がないし平日だから今から予定を立てるのは大変かもしれませんが、

高橋哲哉氏による記念講演のテーマはとても刺激的かつ魅力的ですし、

文科省の調査官の方は私と同じ漢字の 「まさおさま」 ですし、

大会主題である 「自ら考え参加する主権者を育てる」 というのもとても興味深く、

その主題に沿った各分科会の発表もどれも面白そうですので、

公民教育に関心のある方、公民教育について卒論執筆中だけど行き詰まってる4年生、

休職中で時間を持て余してしょうがないという方などは、ぜひ参加してみてください。

正規の申し込み期間は過ぎてしまっているのですが、

下記に連絡いただければ今からでも問題なく参加できるそうです。

連絡先:mumu85g@gmail.com

皆さまぜひ奮ってご参加ください。


平成28年度全国公民科・社会科教育研究会全国研究大会

1.期日:平成28年11月21日(月)から11月22日(火)まで

2.場所:ホテル ポートプラザ ちば
         〒260-0026 千葉県千葉市中央区千葉港8-5
         JR京葉線,千葉都市モノレール「千葉みなと」駅前
         TEL043(247)7211 FAX043(247)2811

3.大会主題:自ら考え参加する主権者を育てるために

4.費用:大会参加費2,000円 資料費2,000円 (計4,000円)

7.内容
(1)記念講演 (11月22日10時~12時)
講師:高橋哲哉先生(東京大学大学院総合文化研究科教授)
演題:「沖縄」に向き合うということ - 日本人の「責任」を考える
講師紹介:1956年福島県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。専攻は哲学。著書に『逆光のロゴス』(未来社),『記憶のエチカ』(岩波書店)、『デリダ』(講談社),『戦後責任論』(講談社学術文庫),『歴史/修正主義』(岩波書店),『「心」と戦争』(晶文社),『証言のポリティクス』(未来社),『反・哲学入門』(白澤社),『教育と国家』(講談社現代新書),『国家と犠牲』(NHKブックス),『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書),『デリダ 脱構築と正義』(講談社学術文庫),『沖縄の米軍基地 ―「県外移設」を考える』(集英社新書)など。

(2)文部科学省教科調査官講話 (11月21日11時~12時)
講師:樋口雅夫先生
演題:「公民科教育の一層の充実に向けて」

(3)県内に関する研究発表 (11月22日13時~14時30分)
講師:石塚誠先生(成田高等学校非常勤講師,特定非営利活動法人三番瀬環境市民センター理事)
演題:「社会科教師の小さな実践-海辺再生への取り組み-」

(4)分科会研究協議 (11月21日13時~16時10分)
①「現代社会」分科会
授業実践報告者:杉田孝之先生(千葉県立津田沼高等学校教諭)
「経済の基礎概念から設計する有権者教育」
松澤徹先生(東京都立国立高等学校指導教諭)
「高校『現代社会』の授業で『政策』を考える-発表する力と記述する力を伸ばすための試み-」

②「倫理」分科会
授業実践報告者:萩原拓也先生(千葉県立泉高等学校教諭)
「僕の対話型授業は何だかうまくいっていない気がする」
宗弘昭先生(福岡県立修猷館高等学校教諭)
「高校『倫理』は自己の立ち位置をつくる学び―『倫理』生き残りのために普通の授業から考える―」 

③「政治・経済」分科会
授業実践報告者:武田泰彦先生(千葉県立柏高等学校教諭)
「入試対応と深い理解,二兎を追ってみた『政治・経済』の授業」
志田光瑞先生(北海道札幌稲雲高等学校教諭)
「北海道における『政治・経済』教育に関するアンケート調査報告について」

門のない大学

2016-11-18 14:53:46 | 教育のエチカ
昨年、東北哲学会を福島大学で開いたとき、準備をしながら気づいていたんですが、

ブログに書くのを忘れていて、今年、日本カント協会の学会準備をしながらまた思い出しました。

福島大学って 「門のない大学」 なんですよね。

金谷川駅から遊歩道っぽい道を通って大学に向かうわけですが、

途中どこにも門はありません。

しばらく歩いていくと、新井先生作の素敵な彫刻の向こう側に無粋な看板が見えてきます。



もうちょっと寄ってみましょう。



右と左に何か書いてありますね。

さらにクローズアップ。



おおっ、ここからが福島大学構内になるらしいです。

本来ならここに校門があって然るべきと思うのですが、この看板は門とは言えません。

この看板がここにあることによってここから福島大学構内だということがわかりますが、

ほんの数年前まではこの看板すらありませんでした。

原発事故後、中核派等によるビラまきなどの活動が活発化してきたために、

その活動を学内から排除するため、つい数年前にこの看板は設置されました。

ちなみに先日の日本カント協会の際に設置した中規模立て看は、

この看板に針金で縛って立てていました (もちろん、ちゃんと施設課に許可をいただいた上です)。



金谷川駅とは反対側の、バス停があるほう、

クルマで来学するときに114号線から入ってくるあたりはというとこんな感じです。



福島大学の公式見解にしたがうとこちらが正門側になるらしいのですが、

ちょっと逆光のため見にくいですが、やはり校門はありません。

左のほうに看板というかポールみたいなものが立っています。



反対側から見るとこんな感じ。



クルマを運転しながら見るとけっこう目立ちます。

これも以前はなかったんですが、何年前だったかなあ、

駅側のあの看板より何年か前くらいに建立されました。

まあ、ないよりはあったほうがいいと思いますが、それにしてもこれは校門ではありません。

それよりも、長いアプローチの坂道を上っていくとこんな看板が見えてきます。



ゲートって日本語にすれば門ですよね。

ゲートの全体像がこれ。



これが出来たのはさらに最近のことで、この6月に出来たばかりです。

今年の6月から福島大学は駐車場が有料化されたので、

そのため入構券を発行するゲートが設置されたのです。

うーん、それにしてもまあゲートはゲートだけどこれは門じゃないよね。

大学の門ってもうちょっと大学の入口としてそれにふさわしい威厳があっていい気がします。

難関大学のことを 「狭き門」 なんて言ったりするじゃないですか。

門ってなんか大学を象徴しているような気がするんですよ。

フツー、大学には門がありますよね。

というか、小中高にだって門はありますよね。

まあうちは狭き門ではないんで、東大の赤門↓ほど豪勢でなくてもいいんですけど…。



「門のない大学」 でいいのかなあ?

誰でも入れる 「門のない大学」?

それとも、誰でも入学できるという意味じゃなくて、

地域に開かれた 「門のない大学」 っていうこと?

なんで門を作らなかったのか気になります。

奉職すること22年、誰もそんな話はしてくれませんでした。

というか、去年まで福大に門がないことすら気づいていませんでした。

学会の開催準備を自分でしてみて気づいたんだよなあ。

やっぱり学会なんかをやるときは 「福島大学」 と刻まれた門の横に、

巨大立て看を立てたいじゃないですか。

これって開催校のエゴなんでしょうか?

福島大学にはなぜ門がないのか?

福島大学に門はなくていいのか?

今後ちょっと追究していきたい課題です。

白河の非常勤終了&卵先生たちとの再会

2016-10-17 07:42:32 | 教育のエチカ
このあいだの金曜日で白河の看護学校の授業が終了しました。

同じ金曜日の午前中に行っている郡山の看護学校のほうは、

途中、台風のため休講となったことがあったため1週間ずれてあともう一回残っています。

白河の看護学校といえばあの衝撃のちらし寿司事件が忘れられませんね。



いや、たんに病院のレストランの話なので看護学校とは本来何の関係もありませんが、

まあ、でもつい思い出してしまいますよね。

最終日、あのちらし寿司はまだ健在なんだろうかとおそるおそるレストランに行ってみましたが、

幸いメニューからはなくなっていました。

このあいだの金曜日のラインナップはこんな感じでした。



これらは日替わり、週替わり、月替わりのメニューで、

(ミックスフライは9月からずっとこの中に並んでいました。)

これらとは別にレギュラーメニューがこんな感じであるわけです。



まあ、なかなかの力の入れようですね。

どれも美味しいです (あれを除けば)。

どのメニューにもご飯、スープか味噌汁、サラダ、お新香、デザート、ドリンクが付くという、

ひじょうにボリュームのあるランチメニューとなっております。

ただ前からちょっと気になっていたのですが、

病院のレストランのメニューとしては少しボリュームがありすぎるんじゃなかろうかという気がします。

病院のレストランってどういう方が利用されるのでしょうか?

看護学校の非常勤講師なんていうのは少数派として、

これまで見てきた感じでは、お見舞い客が圧倒的に多く、

たまに病院のお医者さんらしき人の一団が使っていたりもしますが、

あとはお見舞い客と一緒に、あるいは単独で入院患者さんらしき人々がけっこうな割合で来ています。

入院患者さんはいろいろと制限のある病院食をふだん食べていらっしゃるんだと思いますが、

そういう方々があの充実しすぎるラインナップの中から何を選んでいるんだろう、

一発でカロリーオーバー、塩分オーバーになってしまっているんじゃなかろうかと、

他人事ながらちょっと気になっていたのでした。

これは偏見なのかもしれませんが、やはり病院のレストランといったら、

あのタニタの社員食堂みたいにいろいろと控えめなメニューを提供しなくていいんだろうかと、

よけいな心配をしていたわけです。

そうしたらですよ、もうこの病院が新築移転し、このレストランができて9年目になるわけですが、

今回初めてこんなメニューが登場しましたっ



やったあ、健康減塩メニューだあっ

素晴らしいっ

なんと病院長まで乗り出してきての大プッシュじゃないですか。

ウラには詳しい説明が書かれていました。



ああ、よかった。

これで入院患者さんも安心してこちらのレストランで食事ができますね。

残念ながらこの日私はとても身体が塩分を欲している感じだったので、

健康減塩メニューを自ら試してみることはできず、不健康塩分投入メニューをいただきました。

新メニューのリポートは来年度以降に行わせていただきます。

さて、この日はキュウリにうなされることもなく美味しく昼食をいただいて、

白河の看護学校の授業も滞りなく無事にすませることができました。

あいかわらず、皆さんからいただいた質問に全部答える間もなく終講してしまいましたが、

今後も書けそうな気がした時に追い追いお答えしていきますから、

たまにはこのブログをのぞいてみてください。

帰りの電車のなかではいつものように一心不乱にワークシートの採点をしていました。

最終回のワークシートには学生さんたちがレポートを書くときに必要な内容が書かれていますので、

できるだけ早く採点して返送してあげなければなりません。

福島に着くまでのあいだに終わらせたいと鬼のように採点をしておりました。

途中からだんだん混んできて立っている乗客も増えてきているようだとは感じながらも、

ワークシートから目を上げることもなく採点を続けていたのですが、

郡山に着く何駅か前のあたりでふと疲れて大きく伸びをしてみました。

すると私の目の前に立っていた2人の女性が私のほうをじっと見ていて、

それがなんだか見覚えのある顔です。

すぐにお2人のほうから挨拶してくれて、6月に郡山で行った看護教員養成講座の受講生たちでした。

お2人は須賀川から乗ってきて、採点しているワークシートに見覚えがあって、

すぐに私だと気がついてくれていたようです。

あの講座はまだ続いていて、10月に入ってあちこちの看護学校に分かれて教育実習中だそうです。

お2人は須賀川の看護学校に配属されて、ちょうど実習からの帰りだったとのことでした。

何だか私の授業のこともよく覚えていてくださって、

パワーポイントの授業だと眠くなってしまうから、

小野原先生みたいに板書で授業をするつもりだと言ってくださいました。

他にもやはりあのときの受講生のなかには板書中心の授業案を作っている人がいるそうで、

そんなレトロなやり方を流行らせてしまってちょっと責任を感じてしまいます。

お2人からは、ブログも読んでます、今日会ったこともブログに書いてくださいね、と頼まれました。

あのあと福島に着いて金曜日は大学の先生や職員の方々と飲み会、

土曜日は二日酔いのあとてつがくカフェ

日曜日も二日酔いのあと今度は相馬の看護学校のレポートの採点に追われていたため、

なかなかブログを書くヒマがありませんでしたが、ようやく書くことができました。

みんな読んでくれてる?

未だに覚えていていただいてたいへん恐縮しております。

教育実習たいへんだと思いますが頑張ってください。

今度、死や生を中心に扱う死生学カフェ (「びえもカフェふくしま」) を新たに始めます。

実習中でお忙しいかもしれませんが、興味のある方はぜひいらしてみてください。

というわけで、キュウリちらしの代わりに健康減塩メニュー始めましたの告知と、

東北本線のなかで看護教員の卵の方々と奇跡の再会を果たしましたというレポートでした。

2016年度前期授業終了!

2016-07-27 11:25:12 | 教育のエチカ
ただいま1限の授業を終えてきたところですが、

これをもちまして今年度の前期授業がすべて終了しました。

梅雨明けする前に前期は終わってしまいましたね。

夏の定番のこんなカッコで授業する機会も今年はとうとうありませんでした。



奇しくも今年度前期最後の授業は、あの大ポカをやらかした大学院の授業でした。

最初の5回を自分が担当し、その後9回はH先生とS先生に御担当いただき、

最終回の今日を私が締めるというのが、この授業開設当初からの組み立てですので、

今年に限ったことではないのですが、前期の最後に久しぶりに水曜1限があるということで、

昨日からけっこう緊張していました。

自宅に帰ってきてまず最初に目覚まし時計をセットしたり、夕食時にはちょっとお酒を控えめにしたり、

いつもより早めにベッドに入るようにしたり等、自分なりに最善を尽くして今日を迎えました。

けっきょく緊張のためなかなか眠ることができず、しばらくベッドで本を読むなど悪戦苦闘しましたが、

朝は問題なく起床することができました。

最終回は前期の授業全体を振り返ってもらう内容でした。

3つの問いに順番に答えてもらい、それをみんなでシェアするということをやっていたら、

けっこう時間がかかり、危うくいつものアンケートを実施する時間がなくなってしまうところでした。

その 「教育改善のための学生アンケート」 ですが、昨年度からシステムが変わり、

隔年で実施することになりました。

そして、今年度はアンケートを実施しない年に当たるのです。

ですから、本来でしたら今年は実施しなくてもよかったわけですし、

それを言ったらもともと大学院科目はアンケート実施対象科目から外されていますので、

今日の授業ではまったく何ひとつアンケートをやる必要はなかったわけですが、

私としては 「教育改善のための学生アンケート」 は毎年行うべきだと思っていますので、

「キャリア形成論」 や 「倫理学概説」 でも例年通り実施しましたし、

今日の大学院の 「地域文化創造特論」 でも実施させていただきました。

その結果はまた追い追い報告していくことにしたいと思います。

ただ、今年は実施年ではないので教務課のほうで集計はしてくれないはずで、

自分で集計しなければならないでしょう。

「倫理学概説」 や 「地域文化創造特論」 に関してはいつも、

教務課から結果が届けられる前に自分で集計していたから問題ないのですが、

「キャリア形成論」 は受講生が300名もいますので、

これを自分で (学生アルバイトを使ったとしても) 集計するのはちょっと大変そうです。

それと、「キャリア形成論」 は今年初めて私が世話人として全体を統括しましたので、

学生アンケートの実施・回収も私が行いましたが、

担当教員は私を含めて3名、関わってくれた教員はその他に3名いらっしゃいますので、

全員の同意が得られなければアンケート結果を外部に公表することができません。

というようなクリアしなければならないいくつかのハードルがありますので、

「キャリア形成論」 に関しては結果報告ができるかどうか、できるとしていつできるのか、

ちょっと見通しが定かではありません。

できるかぎり公表できるように努力してみたいと思います。

さてと、とにかく授業は終わった!

あとは採点の祭典だあっ

Q.教育・学習や思考に関しても実質的自由の問題があるのではないですか?

2016-07-04 10:55:27 | 教育のエチカ
昨日、実質的自由に関する質問を取り上げましたので、
それに関連して実質的自由をめぐる別の2つの質問も取り上げておきましょう。
どちらもちょっと今までに聞かれたことのないような質問でした。

Q-1.今の日本は学習の機会がほぼ保障されていて、本人の意欲があればある程度自らの欲求は実現することができる環境にあります。しかし、大学進学 (大学でなくとも) や留学に対する保障は他の先進国に比べ著しく劣り、世界的に見れば実質的自由の格差は明らかです。このような自由の格差はどう是正するべきか、あるいは是正するべきなのか考えてみるのも楽しそうだと思いました。

Q-2.精神の自由である思考の自由は、ある課題について考えることができるという能力的充足がなければ実現不可能であるのではないかと思うのですが、それは別の話なのでしょうか?

Q-1のほうはたしかにこれまでに聞かれたことはありませんでしたが、
言われてみれば当然の疑問ですね。
日本は教育や若者のためにお金をかけないということでは世界トップレベルですので、
学習や教育に関して実質的自由が保障されていないというのは明白です。
奨学金を返済しなきゃいけないなんて世界中の笑いものです。
それは 「奨学金」 ではなくただの 「教育ローン」 ですよね。
日本政府は教育を受益者負担ととらえているのでしょう。
国が責任を持って若者たちに教育を与える義務がある、なんて微塵も思っていないんでしょうね。
そんな貧弱な国に生まれてきてしまった皆さんは、他国の若者たちに比べて、
教育・学習に関する実質的自由が制限されているのは言うまでもありません。

このような格差は当然是正されるべきだと思います。
ただし問題なのは、一国内において国民のあいだに格差が認められるという話ではなく、
他国と比して日本国民全員が不利な立場に置かれているということで、
この手の格差って日本国内にいるかぎりはなかなか顕在化、意識化されないので、
政治の争点として取り上げられることがありません。
これは現政権が長い期間をかけてずっと推し進めてきていることですので、
若い皆さんはけっしてそのことを忘れないようにしておいてください。
このたび選挙権が18歳から与えられるようになりましたが、
現政権は今の若者たちに選挙権を与えても、
教育をめぐる基本的人権を奪われていることに若者たちが気づくわけがない、
それよりも近隣アジア諸国を毛嫌いするネトウヨ青年たちが9条撤廃に力を貸してくれて、
9条もろとも基本的人権を撤廃することにも賛同してくれるはずだとタカをくくっています。
教育に関する実質的自由を取り戻すためには、
若者たちがこの隠された政治的争点を常に意識しながら自らの選挙権を行使するしかありません。
政治のあり方そのものを変えないと、
教育・学習に関する実質的自由の格差を是正することはできないでしょう。
というわけで、Q-1に対しては次のようにお答えしておきたいと思います。

A-1.教育・学習に関する実質的自由の格差を是正するためには、
    そうした格差を生み出している原因や構造を皆さんが見抜き、
    それが繰り返されることのないよう、選挙で意思表示をするしかありません。

さて、問題なのはQ-2のほうです。
これは盲点を衝かれたというか、今まで全然考えたことがありませんでした。
講義のなかで私は、思考の自由というのは、
ありとあらゆることがすべて思いのままになる超越的な自由、
まったく何らの制限も受けることのない無制約的な自由に最も近い自由であるとして、
自由の根幹を成すものではないかと思いっきり称揚しておきました。
その気持ちは今でも変わらないのですが、
たしかに言われてみれば、自由に何でも考えてみることができるという能力が伴わなければ、
思考の自由は絵に描いた餅というか、まったく無内容なものになってしまいます。
思考の自由の問題が実質的自由の問題圏に入ってくるということを看過していました。
うーん、どうなんでしょうか?
そう言われてみればそういう気もしないわけではありませんが、
なんだか違う、つまり別な話のような気もするし…。

例えばこれは、幼い子どもや逆に老衰であったりとか認知症を患っていたりする場合、
あるいは、先天的または後天的に知能や精神に障害を負っているような場合のことでしょうね。
たしかにこうした場合、能力の欠損によって思考の自由が保障されていないような気もします。
しかし、こういう人々ですらやはり思考の自由は現に有しているし、
それを行使して自由に思考しているようにも思えるのです。
こちらの勝手な判断で、そういう人たちは自由な思考をしていないと決めつけていいんでしょうか?
赤ちゃんやアルツハイマーの老人だって自由に思考をめぐらせているような気もするのです。
この件に関しては私は専門家ではないので、今回は即断を避けたいと思いますが、
最近、この問題に関連する本を読んだところなので、
近いうちにその本についてもご紹介したいと思います。
ということでQ-2に関しては今日のところは保留ということにさせていただきます。

看護教員養成講座@郡山 ・終了!

2016-06-24 17:10:18 | 教育のエチカ
先々週から行ってきた郡山での看護教員養成講座が昨日終了しました。

先々週と先週は午前3時間、午後3時間、今週は午前の3時間のみ、計15時間の講座でした。

90分授業に換算すると10コマ分に当たりますが、

午前と午後の3時間というのは90分×2コマというふうに分かれているわけではなく、

休憩時間が含まれていませんので、とはいえさすがに3時間ぶっ続けでやるのもお互いにムリで、

途中で休憩を入れなくてはなりませんから、1コマあたり80~85分ぐらいということになります。

その短い時間のなかで、看護学校での90分×15コマ分の授業をコンパクトに再現しつつ、

授業の意図や工夫、留意点などを解説していくという慌ただしい展開でした。

しかしながら、過去2回に比べると今回は非常にいい感じに終えることができたのではないでしょうか。

なぜうまく行ったのか自分でもあまりよくわかっていないのですが、

別の機会に作ったパワーポイントのプレゼンを使って何回か分の授業をまとめて行ったり、

相馬の看護学校で昨年度から始めた 「病気が教えてくれたこと」 のワークを取り込んだりなど、

マイナーチェンジを施したのがよかったのかもしれません。

それと、朝3時間、午後3時間と丸1日いっぺんにやれたのも、たいへん疲れはしましたが、

間延びがせずにすんでよかったのかもしれません。

というわけで15時間の講座を終えて、最後に皆さんに授業全体の学び、感想を書いてもらいました。

哲学の講義内容それ自体と、私の授業方法に関して書いていただきました。

いくつかご紹介していきましょう。

●哲学の授業=難しいと思っていた。1日哲学の授業を受けると、精神的にすごく疲労があった。学生の時の哲学の授業は全く思い出す事が出来ないが、今回新たな気持ちで受講し、人間とは、生とは、死とは、とても深く考えさせられた。他者の考えを聞く事で多種多様な考え方がある事を知った。今まで10数年間看護師として働き、自分本位に考え、物事を進めてきてしまった事を反省した。いろいろな観があってあたり前であり、正解はないという事がわかった。先生が哲学を学んで生きるのが楽になったとおっしゃっていたが、その意味が少しだけわかった気がした。先生の授業方法は、まず初回の導入で哲学は難しくない…という思いにさせていただいた。先生の人柄や服装など全体からの雰囲気でとても楽な気持ちで受ける事が出来た。ワークシートも考えさせ → 学習のまとめになっており、学生自らが学んだ事を知識にする事ができると思う。書く事、とても大変だったが、その時間をふりかえることで、何となく…という思いが明確になる事ができたと思う。プリントのコピーの仕方、私も参考にさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

●先生の講義を受ける前の哲学に対するイメージは、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等、世界史の授業で学習した思い出しかなく、莫大な書物や難しい問題という思いしかありませんでした。この講義全体を通し、看護教員の講習ということで、私達の身近な題材を取り入れて講義していただいたことで哲学は遠い存在ではなく身近なところにあるんだと感じることができました。死に対すること、病気に対すること等、仕事をしていると時々考えることがありましたが、自分の死や病気に対する思いを考えたことで、今、現在生きていることの有り難さを感じることができました。哲学とは疑問に思うこと、考えていくことなのではないかと思いました。授業中に、プリントの作り方や板書の仕方、パワーポイントの使い方を説明していたことが印象深いです。とても便利な方法で私も活用しよう!!と思いました。ですが……、これは教員が授業をやりやすいかどうかではなく、学生が学びやすいかどうかなんだということが分かりました。どんな方法で授業するか、どんな資料を活用するか、学生が学べる授業とは何か、考えつづけたいです。

●小野原先生の講義がはじまる前は、哲学が看護になんで関係するのだろう? 関係ないのではないかと思っていたが、講義を受けていくうちに看護の対象である人間とは何か? 生きるとは何か? 死とは何か? 病とは何か??などを、深く考えるきっかけになりとても感謝しています。病院で働きながら患者様や生死、病とたくさん向きあってきたのに今回の講義ほど深く考えられていなかったことに後悔した。しかし、今回考えたことを活かしながら、今後も考え続け、患者様にとって納得する生や死を迎えられるようサポートしていきたいと強く思った。また、当たり前のことは何一つないことを気付くことが出来た。生命も身体も健康も人それぞれの考えも何一つ当たり前ではないため、自分とも相手ともきちんと向き合って生きていきたいと思った。死の教育者であるはずの私がきちんと死について考えられていなかった。今回の学びや今までの学び、今後の学びを通して死の教育が出来るよう考え続けていきたい。先生の講義、ワークシート全てが計算されつくしていて講義を受けていてとても充実していた。先生のように講義が出来たら、きっと学生も学びが深まると感じた。すぐに先生のように行うことは難しいと思うが、意図的な問いを投げ考えさせることを大切にした講義が出来るようになりたいと思いました。

●最初、哲学は難しく固いイメージがありました。看護と哲学にどのような関係があるのかと思っていましたが、講義を受け、人間とは、生とは、死とはと考えていくことで、看護師として、日頃の生活に関係がとても深いものだということが分かりました。まず、自分で考え、その後グループで話し合っていくことで、自分の考えだけでなく他の人の意見を含めつなげて考えることができました。脳死や臓器移植、植物状態など、日頃の現場で関わっていることなのに、きちんと考えていない自分に気づきました。自分を知れました。家族との話し合いや自分自身考え続けないといけないと感じました。哲学の授業はとにかく沢山考えて、ワークシートで自分の考えを表に出す。とても疲れますが、考えを表に出す、伝えることは大事だと思いました。答えのないことを考え続ける看護師として、きちんと伝える、患者さん家族の自己決定を尊重し、望むケア関わりをしっかりしていきたいと思いました。授業づくりでは、ワークシートを出すタイミングや、評価の仕方、興味をもてるような導入の仕方、プリント作り、沢山学ぶことがありました。板書が多かったですが書き留めることの意図やワークシートのねらい、授業を聞く態度にさせることなど、又、言い回しで答えやすかったり難しかったりするため、問いの出し方の大切さを知れました。相手 (生徒) の立場になってホワイトボードの見え方や位置など、今後自分も相手の立場に立って行動していけるよう努めていきたいと思いました。

●哲学とは答えのない問いを考え続けていくことであり、看護と通じるところがあるなと思いました。よく看護では人間とは何かを考えさせられることがあります。哲学の授業で、人間とは何かを時間をかけて考えることができ、授業を受けてよかったと思っています。(今までは人間とは何かを考えてもあいまいでよくわからないことが多かったですが、初めてちゃんとわかったと感じている。) 今では自分を知ることが人間を知ることなんだなと思います。死生観について1日時間をとってもらい、重いテーマで嫌になるなと思ったことも事実ですが、改めて考えることができて自分の色々な 「観」 について見直すことができました。自分がこれでいいと思っていることを、他者の意見を取り入れて新しくすることができました。これから看護師を続けていく上で大事な柱となる部分なので、自分の考えが明確になったのはありがたいと思います。ありがたいことは当たり前ではないことにも気づけて良かったです。授業の方法についても、ワークシートの使い方や板書の良さ、板書するときの時間の考慮、問いの仕方、問いの持つ力について、グループでの学習の仕方、何を目的として授業や活動を行っているかなどたくさんのことを学ぶことができました。哲学の授業は眠くなりそうだと思っていましたが、先生自体がおもしろく授業にも興味がわきました。学んでみて多くの学びがあったので自分の内で期待以上でした。ずっと続けての授業お疲れさまでした。

●はじまりの 「人間とは?」 という問いが、人間として生きること、死ぬことを考える時にことごとく蘇った。人間とは何か? を考えた時の答えは、他の生物にはできなくて人間だけにできることを探したが、その後、人間として生きるためにも、死ぬ時にも失いたくないもの、について気付くことになった。人間として生きることは、何と欲張りで、我がままで、複雑なことだろうかと思い知らされた。その上でなお自分は看護師として、教員として、どうあるべきかを追求しようとしている。人間として生きるだけでもいろいろとめんどうが多いのにさらにめんどうな仕事をしようとしているなあと思う。小野原先生が、哲学を学んで 「生きることが楽になった」 と話されたことが強く印象に残って一生忘れないと思うが、私はこの15時間の哲学の講義を受講して大変に生きるのがめんどくさくなった。考えることが多くなり、複雑化したからである。しかしただでさえ複雑でめんどうな人間という生き物に生まれているので、せっかくなら哲学という学問について更に学びを深めもっと多くを深く考えつづける看護師であり教員でいたいと思う。それが最も大きな学びである。

●現在、医療現場で働いており、cure の方が大半で care はほとんど少なくなっているのが現状である。でも、その少しの care の中でも日々考えたり、考えさせられたりして看護を考えていた。今回、授業を通して、ゆっくり自分の中で自分と向き合いながら ”人間とは何か”、”病気とは”、”死とは” 考える機会を与えていただき、今まで業務の中で考えてた事、感じた事はほんのわずかな思考にすぎなかった事に気付かされた。人間を看る事、生と死、病気になることの思考は答えがないからこそ、これからも絶えず考えていかなくてはならないことであり、それを誰かに話したり、誰かの意見を聴いたりし、自分に吸収させていかないといけない、そして、自分もこれから教員として学生に投げかけなければいけない、それが看護の質を向上させるための要素になると考える。授業について、パワーポイントを使わず板書の授業が久しぶりであったが、先生の書くスピード、書く文字の量が本当にちょうどよくて、書いてから説明が入るので先生の説明を集中して聴く事ができた。(他の教科で、資料を渡さず、パワーポイントで表示し (文字数多い)、板書している間に説明するので、書きながら聞くことが大変な授業があった。) ワークシートを活用することで学生に考えさせ、振り返らせ、参加型の授業であったし、口に出しては言えない事も書く事で内面の思い (本音) も出せるのだと思った。資料の印刷の仕方も本の開きのようになっていて、コピーする方は手間だと思うが見る方は楽であり、工夫がすごいし、学生が学びやすいように手間をかけ配慮してくださったことに感謝します。

●「どんな理想の看護師になりたいのか?」 日々の業務をこなすことに精一杯で (10年も働いてきたので業務をこなすことは簡単にできるのに忙しさのせいにしていた) ここ数年、こんな大切なことを忘れて働いてきていた自分に気付くことができた。私は今までこうあるべきといった自分の考えが強くあったが、この講義を通して、あたり前のことはない、他者は様々なすばらしい考えを持っていることを知ることができて、これから看護教員として働いていく上での視野を広げるきっかけになった。看護教員の中には今年の国家試験合格率は○○%だった (不合格者が○○人もいた) にこだわる方もいる。学生に対し、ただ国家試験に合格することがゴールではなく、どんな理想の看護師になりたいかが大切ということを伝えることができるようになるために、私ももう一度どんな理想の看護師になりたいのかについて考え、看護観を深めていきたい。哲学の講義のはじめの頃は答えのないことを考えることがものすごく大変だったが、今は、答えのない問いを考えることが自分の成長につながるのだと思うことができ、大きな学びとなった。哲学が面白く興味のある分野になった。今まで書店に行っても哲学の本に手がのびることがなかったが、最近は目がいってしまう。この15時間で終わらせず、哲学を身近に感じていきたいと思う。

●人間とは何か、死ぬとはどういうことなのか、死、病から教えられたこと。哲学は答えのない問いを考えて行きます。最後にも先生が説明したように、看護師は哲学者であると私も思います。でも、人間である以上、死を覚悟しており、病気や死もさけて通ることは出来ません。そう考えると、身近な学問なのだと感じました。私は子供達に命はあたり前ではない、とか、普通でいる幸せとか、子供からみたら、うるさい母親だなと思われているのでしょうか。死の教育で学んだように、親の役目だと知り、伝えつづけて行こうと思いました。また、自分自身も答えのない問いを問いつづけて行こうと思います。授業では論文からも分かるように、学生にいかに考えさせるか、記憶に残る方法を考えている先生のアドバイスもありました。関連づけていくことの大切さ。黒板の書き方、グループワークのあり方、問いかけの仕方と、先生がいかに学生を思っているのかも感じました。評価は自分がどうおしえたのかの振りかえりとなります。これから先、教員として、学生を導いていく存在にならなくてはいけません。共に成長することもあるのだと思いますが、そのためにも、学生にとっての学びの場を考えて行けること。また、そのためには、相手を知る、受けとめることのできる教員でいたいとの理想がみえました。講習始めに先生の日程がくまれている意図はこのためなのかと思います。これから理想を持ちつづける存在でありたいと思うことが出来ました。お忙しい中、御講義くださりまして、ありがとうございました。

●最近の授業は、パワーポイントを重視して授業を進めている傾向があるし、また、学生にとってもわかりやすい事だと思っていた。しかし、プリントや板書、参考資料の使い方によって授業の流れを作り、時間を有意義に使えることを学んだ。そのためには、一方的な教授者の考えを押し通すのではなく、学生の反応や場の空気、板書の見え方、声のトーンなどを、提供する者として配慮することで、相手も受け入れることができるのだと感じた。哲学は、教育の基礎と講義で学んだが、実際、この哲学の授業を通してそう思えるようになった。それは、教育は人間を育て成長していくことを助けていくため必要で、その根本にある人間をまず知らなくてはいけないと思った。人間とは何であるかの概念を考えたとき、言葉にしてみると、動物とは違う特別な能力と心を持ち、文化を作ってきた生き物であり、その能力ははかりしれないが、その反面、壊れやすい一面を持つ弱い所を持っている。そして社会という場で共存して生活している。これから教える立場となるが、哲学で学んだ、人間とは、生きるとはなど、言葉で考え、特に医療職は死へと直接的に関わることが多いため、自分なりの考えを持ち、学習を重ねて成長していくことが重要なことだと思う。気持ちがブレたりする時は、授業の中で学んだ、生きることや死ぬことなどの 「観」 を思い出していきたい。

●昨年度、精神看護学を担当し、それなりではあったがやり遂せた。授業をする中で、あるいは実習に同行する中で、どうも話の柱がないことに少しずつ気づきはじめた。何なんだろう。それは、カリキュラムや講義方法、発問の仕方と不足していることは満載なのだが、もっともっとそのしんが足りない。それが、教員自身の死生観や病観、直接的には看護観、教育観ではないかと思う。今回の授業では触れられなかったが 「教える」 とはどういうことだろうといったあたりも授業の中でみんなと一緒に考えられると良かったと思う。「観」 をしっかり持っていると、発言に確信が出てくる。また学生との何気ない会話の中で、実は学生が欲しがっているのは、自身の 「観」 にかかわってくる現場の看護師や教員の言葉ににじみ出る 「観」 なのかもしれないと思う。「教育観」 は教育の場における自分の立ち位置を左右すると思う。どう学生の学びに立ち合うのか、そういうことを明確にしていくと教員という仕事が少し楽になるのかもしれない。学生にとって教員はどうあったらいいのだろう。哲学していきたい。

●哲学の講義をうけて、普段の日常生活では考えないような物事について考えさせられた。死生観や疾病観などを考えて、言葉にすることにより、自分ってこんな風に考えているんだなと、客観的に自分について知る事ができた。疾病観については、仕事で病人を対象にしているにもかかわらず、自分の身近な人達が健康を維持できているからと、病気に関してはどこか他人事のように考えていたなと恥ずかしく思った。健康でいられることはとても有り難いことで、感謝しなければいけない。しかし、病気になったからといってすべてが不幸なわけではない。病気になることで教わること、感じることが増え、その事に病人は喜びを感じる一面もあるのだということがわかった。講義中に何度もグループワークしたことで、皆それぞれ考え方、感じ方が違うのだと改めて知ることができた。その人その人で考えが違うから個別性のある看護ができるのだと思う。目の前の技術や知識に目が行きがちで、看護観など普段はあまり考えることはない。しかし、自分だけの看護観が、多忙で精神的にも辛いことが多い看護師という仕事を続けていける大きな柱になっていると思う。これからは医療現場ではなく学校で働くことになるが、自分の経験や看護観、看護の楽しさ、素晴らしさを学生に伝え、学生が少しでも自らの看護観を構築していけるよう努めていきたいと思う。

皆さん、最後まで私の授業にお付き合いくださりありがとうございました。

皆さんからいただいた質問にはこの先も少しずつお答えしていきますし、

皆さんが書いてくれた 「病気が教えてくれたこと」 エッセイに関しても、

各グループの代表作品や、まさおさまセレクトを順次発表していきたいと思います。

というわけで授業の最後に言い忘れてしまいましたが、

「哲学」 の授業は終わってしまいましたが、時にはこのブログも見に来てください。

また、宣伝しようと思っていたのにそれもすっかり忘れていましたが、

私は月に1回、主に福島市で 「てつがくカフェ@ふくしま」 を開いています。

一般市民の方々が集ってその時々のテーマに関して専門用語は用いずに、

互いに対等な立場で自由に語り合うのんびりした会です。

たまたま日程が空いていたり、近くに来ることがあったり、

テーマに興味をもたれた場合には、ぜひお気軽にご参加ください。

こんなテーマならぜひ出てみたいとかの希望があったら、メッセージを通してお知らせいただければ、

毎回のテーマを考えるのに困り果てていますので、すぐ採用させていただきます。

何かの機会にまたお会いできることを期待しております。

看護教員養成講座、まだまだ長丁場ですね。

眠い授業もあるでしょうが何とかアンテナを立てて最後までがんばってください

Q.若者でない学生に教えるのはめんどうですか?

2016-06-16 23:44:36 | 教育のエチカ
本日は郡山での看護教員養成講座の2回目でした。
一部、別の機会 (病院での講演会) に作ったパワーポイントのプレゼンを使ったりして、
何とか時間内に授業を終えることができました。
まあ皆さんがワークシート書く時間も含めると先週も今週も10分以上のオーバーでしたが、
それは皆さんが異常に熱心に書き込んでくれるからで、
学生相手であればあれくらいの時間を取れば十分に時間内に終われただろうと思います。

さて、先週いただいた質問に引き続きお答えしていきますが、今回も授業の仕方に関わる質問です。
質問者はこんなふうに書いてくれていました。

Q.若者でない (哲学・倫理学を一度学んでいる) 学生に教えるのはめんどうですか?

カッコ内の補足があるとないとでだいぶ質問のニュアンスが変わってきますね。
分けてお答えしていくことにしましょう。

Q-1.若者でない学生に教えるのはめんどうですか?

A-1.若者でない学生に教えるのは、若干緊張はしますが、めんどうではありません。

やはり若者とそうでない場合とで一番違うのは、自分でお金を払っているかどうかという点でしょう。
親に扶養されている学生たちは、ほぼ例外なく学費を親に出してもらっています。
授業に臨む者として、自腹を切っているか否かによって意識は大きく変わってきます。
自腹を切っていると何としてでも元を取ってやろうという気になりますし、
払った分に見合った学びを得たいという欲求は大きくなってきます。
ですので期待が大きい分、それが裏切られた場合の失望やクレームも大きくなってしまいます。
そういう意味で若者でない学生を教えるときはちょっと緊張します。
しかしながら、私の場合は最初から全員の興味関心にすべて応えるのはムリとわかっていますから、
あまり気負いすぎずに臨むようにしています。
前回の看護教員養成講座のときも、最後にある方から、
「もっと先生の専門の研究分野の詳しい話をお聞きしたかった」 という感想をいただきましたが、
その方のご要望に合わせていたら、他の受講生のほぼ全員が眠っていたでしょうから、
その方に対してはたいへん申しわけありませんでしたが、
やはりプロとしては最大多数の最大幸福を目指した授業づくりをするしかないと割り切っております。
そのへんは (自腹を切らない) 若者相手の授業の場合と同じなわけです。
ですので若者相手でないからといって、いつもより詳しい資料を用意したり、
本気の哲学や倫理学を語ったりということはいたしませんので、
若者でない学生に教えるのは特にめんどうというわけではありません。

Q-2.哲学・倫理学を一度学んでいる学生に教えるのはめんどうですか?

A-2.哲学・倫理学を一度学んでいる学生に教えるのはむしろラクで、めんどうではありません。

私は大学の授業でも、専門学校でも、成人相手の講演会とかでも、
基本的には相手に何の予備知識もないものと思って話すようにしています。
高校の公民科の倫理という科目を履修している学生は本当に少数派ですから、
私の授業の受講生に、高校のときに倫理で習った知識を期待しても意味がありません。
既習得知識がある人をターゲットにして授業づくりをしてしまうと、
大半の学生にはちんぷんかんぷんな授業になってしまいます。
学者の口癖に 「周知の通り」 とか 「皆さんご存じのことと思いますが」 というセリフがあるんですが、
これを言われると聴衆はものすごく侮蔑された気分になるので、
講義や講演ではこの手のセリフはできるかぎり使わないようにしています。
そうやってゼロベースで授業を組み立てていくようにしているので、
基本的に私の授業は誰が聞いてもわかるようになっているはずです (と本人は思っています)。
哲学・倫理学を一度学んでいて、そのときの記憶を鮮明に残している学生からすると、
私の授業はちょっと初歩的すぎて物足りないという感じがするかもしれませんが、
ただ私の授業の場合は、私から知識を与えるだけの授業ではありませんので、
ワークシートを書いたり、グループディスカッションをしたりするときに
その人の既有知識を活用してもらう機会がありますので、たぶんそれで満足してもらえるでしょう。
また、哲学・倫理学を一度学んだけど、その内容をほとんど覚えていないような学生にとっては、
私の授業はかつて受けた授業とは全然毛色が違うでしょうから、
むしろそれを楽しんでもらえるのではないでしょうか。
先週のワークシートにそんなような感想を書いてくださっていた方が何人かおられました。
ほんのわずかな昔の記憶に、私の話がちょうど重なり合うなんていうことがあると、
よけいにアンテナが立つ (興味関心が湧く) なんていうこともあるかもしれませんから、
他の学生よりもよりいっそう興味を持って私の話を聴いてくれたりするかもしれません。
というわけなので、哲学・倫理学を一度学んでいる学生に教えるのはむしろラクなくらいで、
けっしてめんどうなどではありません。

ご質問にはこれで答えたことになると思いますが、もうひとつ別のケースについても考えました。

Q-3.先生御自身の哲学・倫理学の授業を一度学んでいる学生にまた教えるのはめんどうですか?

A-3.ぼくの哲学・倫理学の授業を一度学んでいる学生に教えるのはめんどうではありませんが、
     むちゃくちゃ小っ恥ずかしいです。

今回の看護教員養成講座の受講生のなかに、かつて看護学校時代に、
私の 「哲学/倫理学」 の授業を受けたことのある人がいるかもしれないという事前情報を得ていて、
それはとてもやりにくいだろうなあと思っておりました。
授業の一番最初に 「看護学校時代に私の授業を受けたことある人?」 と聞きましたが、
誰も手を挙げなかったので、たぶんその情報はガセだったのだろうと自分に言い聞かせています。
手は挙げなかったけれど実はいたなんていうことになったら、めんどうとは思いませんが、
とにかくやりにくいというか小っ恥ずかしいでしょうねぇ。
あ、ここでまたあの話をして笑いを取るよとか、
ああ、これは引っかけ問題だからまともに答えちゃいけないんだったよなあと思われているとしたら、
とてつもなくやりにくいというか、あまりにも小っ恥ずかしくて、
次のセリフを続けられなくなってしまいそうな気がします。
本当にそんな人が今回のクラスにはいらっしゃらないことを心より願っています。