まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

バースデイ・プレゼント

2010-12-31 13:37:18 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
このところ毎年年末の恒例となっていますが、
2006年度卒業のゼミ生たちが今年も日本中から集まってくれました。
今年はオメデタの人あり、高校の教採に合格した人ありと、
いつも以上にお祝いムード満点でしたが、
なんといっても年末といえばまさおさまの誕生日がありますので、
律儀な卒業生たちはいつも、私のためになにかしらプレゼントを用意してきてくれます。
はるばる福島まで来てくれるだけで十分ありがたいですし、
それぞれご当地のお土産も持参してくれるわけですから、
それ以上気を遣ってもらうと申しわけないのですが、
わざわざ用意してくださったものですので、
毎回ありがたく頂戴してしまっているわけです。
で、今年のプレゼントはタジン鍋でした。

タジン鍋、数年前から流行っていますよね。
モロッコの土鍋です。
とんがり帽子の形をしたフタがついていて、
食材に含まれている水分を使って蒸し焼きにできるというのが売りです。
飲料水の乏しいアフリカならではの発明品です。
日本で紹介されるようになった当初から欲しいなあと思っていたのですが、
うちのマンションはオール電化で、ガスコンロがなく、
IHヒーターだけですので、どうしようかなあと二の足を踏んでいました。
そうして月日が流れてしまっていたところ、
先日、クリスマス前夜に福島でひとりぼっちでいたとき、
短歌の師匠のお宅に夕食にお招きいただいたのですが、
師匠もお祝いの品としてタジン鍋をもらったそうで、
その鍋で美味しい鍋料理をご馳走してくださいました。
それでやっぱりゼッタイに欲しいぞと思ったのがほんの数日前のことだったのですが、
そうしたら、みんなから贈られたバースデイ・プレゼントがタジン鍋だったんですから、
この世には偶然の一致 (シンクロニシティ) というのものが本当にあるんですね。

その頂戴したタジン鍋というのがこれですっ!



おおっ、独特の形です。
私が一人暮らしということで、一人鍋用の小さなやつをいただきました。
直火のほか電子レンジでも使用可というすぐれものです。
こんなに背が高かったら電子レンジの中に入らないだろう、ですって?
いえいえ、普通のタジン鍋はこのフタも陶器なんですが、
頂戴したこれのフタはシリコン製です。
だから高さの調節が可能で、しまうときはこんなふうになってくれます。



うーん、みごとだっ。
モロッコの知恵と現代科学技術のコラボレーションですね。
昨日はさっそくこれを使ってタジン鍋料理を作ってみました。
タジン鍋の料理本を2冊も買い込んで、
スパークリングワイン (これも卒業生からのお土産) に合いそうな料理をチョイスしました。
一品目は 「キノコのハーブ蒸し」。



マイタケ、しめじ、えのきなどをにんにくの香りをつけたオリーブオイルで軽く炒めたあと、
バジル、オレガノ、パセリなどを大量にふりかけて、少量の白ワインで蒸し煮にします。
みごとにイタリアーンな感じの料理があっという間に完成です。
二品目は 「トマトのゆずこしょうソース」。



トマトを半分に切り、切り口に小麦粉をふって両面を蒸し焼きにしていきます。
焼けたら、ゆずこしょうとハチミツと醤油とレモン汁を混ぜ合わせたソースを上に塗り、
大葉の千切りをのっけて出来上がりです。
これまたお手軽にできるスパイシーなイタリアンでした。
食卓で作りながらアツアツを食べましたので、
お酒もすすみ、とても楽しい夕食となりました。
今後は電子レンジでのレシピも逐次開発していきたいと思います。
卒業生の皆さん、ステキなプレゼントをどうもありがとうございました。
おかげさまで幸せな1年を締めくくることができました。

そして、ブログ読者の皆さま、今年も一年間、
このお気楽ブログにおつきあいいただきありがとうございました。
皆さんもきっと美味しいものをいっぱい食べ、
幸せな時間をたくさん過ごしてこられたことと思います。
来年もさらに美味しいものを食べ、旨い酒を飲み、
よりいっそう幸せな年となりますよう心からお祈り申し上げます!

不可思議な広告戦略

2010-12-30 07:03:57 | お仕事のオキテ

福島市内でクルマを運転したことがある人なら、

一度はこの広告を見たことがあるのではないでしょうか?

福島交通バスの後部に貼ってあるシール状の広告です。

その名も 「BEAUTY YOSHIHARU」。

たぶん理容室か美容院なんでしょう。

そしてオーナーのファーストネームはヨシハルだと思われます。

彼はヒゲを生やしたオシャレな男性なんではないでしょうか。

以上。

そう、この広告からわかる情報はこれですべてです。

技術が優れているのか、カット料が安いのかといったことはまったくわかりません。

この広告は何を訴えたいんでしょうか?

これを見て 「ああ、BEAUTY YOSHIHARU に行ってみたいなあ」 と思う人がいるのでしょうか?

よしんばそういう人がいたとして、彼はどこに行けばいいのでしょうか?

電話番号も載っていなければ、住所も記載されていません。

福島市民なら 「BEAUTY YOSHIHARU」 がどこにあるかなんて、

当たり前のように知っていなければいけないのでしょうか?

不思議だあ。

この広告、ふだん運転していると必ずと言っていいほどバスに貼ってあるのを見かけますから、

相当な広告費を投じているものと思われます。

それだけの巨費を注ぎこんで何をしたいのでしょうか?

「BEAUTY YOSHIHARU」 のことをご存知の福島市民の皆さん、

情報提供をお待ちします。

ごじっさい、しじゅうくさい

2010-12-29 09:17:03 | 人間文化論
昨日の誕生日ネタのなかで 「50歳」 という言葉を使用しましたが、
「50歳」 を皆さんはどう発音しますか?
私はこれをずっと 「ごじゅっさい」 と読んでいました。
それこそ50年近く 「ごじゅっさい」 と言い続けていたのです。
もちろんその他の年齢も 「じゅっさい」、「にじゅっさい」、「さんじゅっさい」 ですし、
「十手」 は 「じゅって」 と読んでいました。
これは間違いなんだそうですね。
つい最近知りました。
「十」 は 「じゅう」 か、さもなければ 「じっ」 と発音するのが正しいのだそうです。
だから 「10歳」 は 「じっさい」 ですし、
「十手」 は 「じって」 と読まなければいけないのだそうです。
うーん、知りませんでした。
ていうか、なんで私は今までそんなことを教わってこなかったんだろう?
誰か教えといてくれよ。

私のような読み方をしている日本人はけっこう多いのではないでしょうか。
国立国語研究所のHPの 「ことばQ&A」 の中では、
「平成5年のNHK言語調査では 「十中八九」 について 「ジュッ」 の支持者が61%」
であると書かれていますし、そのNHKは1966年以来、
「じっ」 と 「じゅっ」 の両音を認めるようになっていることが紹介されています。
言語はどんどん変化していくということなのでしょう。
とはいえ、現在のところ標準的な正しい読み方というのがあるのだとしたら、
小学校とかでそれをちゃんと教えておいてほしかったなあ。
数字なんてすべての教科で繰り返し何度も出てくるんだから。
ひょっとすると40年前の附属小学校の先生たちでさえもう正しい読みを知らなかったのかなあ?
あるいは、先生はちゃんと教えてくれて、正しく発音もしていたのに、
ちっちゃいまーちゃんがそれを聞き漏らし、聞き違えていただけなのかなあ?
謎だ。

ところで、この発音問題については私以外の人もけっこう悩んでいるみたいで、
ヤフーの 「知恵袋」 という、ネット上で素人の質問に素人が答えるというコーナーで、
何度も話題として取り上げられているみたいです。
それらを調べているなかで、「十」=「じっ」 以外にも新しい知識を仕入れてしまいました。
「40歳の読みは、「よんじっさい」ですか、「よんじゅっさい」ですか。」
という質問に対するある方の回答で、
そもそも 「よんじゅう」 という読み方に疑問が呈されていたのです。

「四を (よ、よつ、よん) と読むのはやまと言葉なので
 漢語である 「四十歳」 を (よんじゅっさい、よんじっさい) と読むのはやはり変ですね
 「五十歳」 を (いつじっさい)、「三十歳」 を (みじっさい)
 と読んでいるのと同じことです
 四十九日は 「しじゅうく (にち)」 と読みますよね」

この回答者が専門家なのかどうかわかりませんし、
この方の回答がどれほど信頼に足るものであるのかもわかりません。
この方は、算用数字で書かれているか漢数字で書かれているかによって、
読み分ける必要があるという立場のようです。

「「40歳」 の読みは 「よんじゅうさい (よんじゅっさい)」
 「四十歳」 の読みなら 「しじゅうさい (しじっさい)」」

こんな区別は初耳です。
しかも、もしもこの読み分けを許すとしたら、
「30歳」 は 「みじっさい」、「50歳」 は 「いつじっさい」 でいいことになります。
この方の意見は眉にツバをつけながら聞くことにしたいと思います。
しかし、「四十九日は 「しじゅうく (にち)」 と読みますよね」 という論拠には、
たしかにねぇと思わず首肯してしまいました。

ところで、昨日私は自作の短歌も披露いたしました。
恥を忍んで再掲するならば、以下のような拙歌です。

四十九君逝きし歳我もなるあといかほどを為し能わんや  まさおさま

この出だしの 「四十九」 ですが、
これを私は 「しじゅうきゅう」 か 「よんじゅうきゅう」 と読んでもらうつもりで書きました。
そうでないとリズムが悪くなってしまうのです。
(「しじゅうきゅう」 とか 「よんじゅうきゅう」 が短歌的に何音に当たるのかは不明。
 ひらがなの数を正確に数えたら7音または8音になってしまいますよね?)
「きゅう」 がやまと言葉なのか漢語なのかも知りませんが、
「四十九日 (しじゅうくにち)」 が正しい読みだとするならば、
私の歌の出だしも 「しじゅうく」 と発音しなくてはならないことになりますね。
ひらがなではたしかに5文字になっていますが、
音に出して読むとリズムがとっても悪いです。
「四十九」 は何と読むのが正しいのでしょうか?
私は49歳になりましたが、「四十九歳」 ってどう読むのが正しいのでしょう?
「しじゅうくさい」?
それって 「始終、臭い」?
日本語ってふだん当たり前のように使っていますが、
よくよく考えてみると謎が多いですね。

君逝きし歳

2010-12-28 06:00:00 | 生老病死の倫理学
昨日は仕事納めで大学に行ってみたら、こんなことになっていました。



福島駅近辺とは様子がまるでちがいます。
とはいえ、人が歩いたりクルマが走ったりするあたりはこの程度です。

  

雪がすっかり溶けている福島駅近辺と比較するからビックリするだけで、
この程度ならどうということはないとも言えるでしょう。
昨年は12月18日の段階で 「福大雪景色」 という記事を書いていましたから、
それからすると、今シーズンは昨シーズンほどの大雪にはならないのではないかなあ、
と淡い期待を抱いているところです。

さて、一夜明けて今日12月28日も福島駅近辺はヒジョーにいい天気です
12月28日といえば、まさおさまの誕生日ですね。
みんな忘れていませんでしたか?
石原裕次郎も渡哲也も12月28日生まれですから、
ボス (「まさおさま」 が定着する以前は私 「ボス」 と呼ばれていました) はみんな、
12月28日生まれと覚えておきましょう。
今日で49歳です。
来年はもう50歳ですねぇ。
40代最後の年です。
昔から早く歳をとりたいと思っていた私ですので、
40代最後とか、もうすぐ50とかいっても、とりたててどうという感慨はないのですが、
盟友の加藤国彦さんが亡くなったのが49歳でしたので、
49歳という年齢には若干思うところがないわけでもありません。
同じく加藤国彦さんの盟友であったある先生も、
49歳の年に心筋梗塞で入院されたそうです。
私も視力が落ちてきているし、食欲も減ってきていますので、
もう老年の域に入りつつあるということなのでしょう。
明日できることは今日しない主義の私ですが、
いつまでも明日が来続けてくれるなんて暢気に構えている場合ではないのかもしれません。


四十九君逝きし歳我もなるあといかほどを為し能わんや  まさおさま


とはいえ、永らく 「非本来的生き方」 を実践してきた私ですから、
49歳になったからといって、
このお気楽先延ばし人生をすぐに悔い改めることはできないような気がします。
そういえば昨年の今日は年賀状を書いていました。
年末の28日に年賀状なんて先延ばしもいいところです。
今年はもう年賀状は出し終わっていて珍しく余裕こいていますが、
といっても年賀状を出したのは一昨日のことで、
目くそが鼻くそを笑う程度の改善にすぎません。
この新年も私の年賀状は元旦には届かないでしょう。
はたして49歳を迎えたこの1年はどんな年になるのか、
少しは反省して 「本来的生き方」 に努めたいと思いますが、
ま、とりあえずそれは明日からということにして、
今日は 「天ぷら ひら井」 でバースデイ・ディナーを楽しんできま~す

積極的差別是正措置

2010-12-27 12:38:15 | 性愛の倫理学
1999年に定められた 「男女共同参画社会基本法」 は、男女間の格差をなくしていくために、
「積極的改善措置」 を策定・実施していくことを国に対して求めています。
この 「積極的改善措置」 は和製英語で 「ポジティブ・アクション」 と呼ばれていますが、
もともとの英語では 「アファーマティブ・アクション」 で、
「積極的差別是正措置」 と訳されたりもします。
弱者集団は、歴史的経緯のなかで形成された不利な環境に置かれているため、
たんに形式的な平等 (機会均等) を認められただけでは差別から抜け出すことができないので、
その弱者集団に属している者たちに対して、採用・昇進特別枠を設けるなどといった、
直接的優遇措置を講じることによって差別を積極的に解消していこうとするものです。

私はアメリカにおける 「アファーマティブ・アクション」 について、
ある小説の中で読んで、初めてその存在を知りました。
元FBI捜査官であるポール・リンゼイがまだ在職中に書いた小説 『目撃』(講談社文庫) です。
翻訳は1993年に出版されて、たしか出た直後に読んだと思いますので、
男女共同参画社会基本法が制定される6年も前の話です。
原作が書かれたのは1992年。
下記の引用箇所を読んでみると、その時点でアメリカのアファーマティブ・アクションは、
すでに相当歴史を積み重ねていたことがわかります。

この小説は直接的なテーマとしてではないのですが、
FBIや警察内部の堕落や腐敗をリアルに描き込んでいます。
アファーマティブ・アクションの話が出てくるのは、
主人公や本筋とはまったく関係ない、デトロイト市警の警官2人 (ベテランと新米) の会話の中でです。
2人が初めて組んでパトロールするパトカーの中の会話という設定です。
この中に出てくる 「差別撤廃措置」 というのがアファーマティブ・アクションのことです。



「エディ・トーマスにはもう会ったか? 毎日、書類仕事やってる男だ」
「まだ会ってないと思います」 新米は警戒しながら、窓の外へ向かって答えた。
「背が高くて、フットボール選手みたいな体つきのやつだよ」 新米のそっけない態度にかまわず、運転席の警官がいった。若いほうがかぶりを振る。「ともかく、そいつが巡査部長の昇任試験を受けた。警官になって15年目だ。優秀な警官だ。ほんとにできるやつで、試験は90パーセントできた。巡査部長になるのは全部で66人。彼は30番目の成績だった。だったら昇進リストの前半に名前が載ると思うだろ? とんでもない!」 彼は吐きすてるように、とんでもない! といった。「差別撤廃措置ってのがあるんだよ。そのため、白人女を8人、黒人女を8人、黒人男を25人昇進させたあと、どんじりに白人男25人がつくってわけだ。したがってそいつらを全員先に置くと、やつは72番目になる。足切りラインの5番下だ。昇進した41人の黒人男女のうち、エディより試験の成績がよかったのは2人きりいなかった。それから、10年以上警官やってるのは1人もいない。エディは昇進できなかったばかりか、いまはそいつらの下で働いてんだから、ひどいもんだ。15年のキャリアを無駄にしたうえ、自分よりは絶対に優秀になれないやつの下で働らかにゃならん。なんでそいつらが優秀になれんかわかるか?」 若いほうはだまっていた。興奮した相手の声の調子からして、つづいて答えが出てくることがわかっていたからだ。「実力で手に入れた地位じゃないからだよ。だから絶対にその地位にふさわしい能力は身につかんのさ。そして、こういった昇進がおこなわれるたびに、警察は人材を失っていく。そのあとエディ・トーマスが、働く気をなくさなかったと思うか? 10年前に辞めときゃよかったと思っていないか聞いてみな」



アファーマティブ・アクションに対する激烈な批判です。
積極的差別是正措置に対しては逆差別なのではないかという批判がよく向けられるのですが、
まさにそうした観点からの描写となっています。
このような批判に関する是非・賛否については今日は論じないことにしますが、
アファーマティブ・アクションとの最初の出会いがこれでしたので、
私のなかではどうしても積極的差別是正措置に対して懐疑の念を禁じえません。
それに加えて、日本の 「男女共同参画社会基本法」 は諸外国のものと比べても、
ある大きな問題を抱えています。
先に引用したウィキペディアではその問題にも触れているのですが、
この点に関しても別の機会に論じたいと思います。


P.S.
本題とは関係ありませんが、この小説は大のお気に入りです。
私のなかでのミステリー部門第1位といっていいでしょう。
何度読み返したかわかりません。
トイレに持ち込んで読んだりしては同じ箇所で涙を流しています。
人気作家のパトリシア・コーンウェルがこの小説を絶賛したというので有名になりましたが、
彼女の女検屍官スカーペッタ・シリーズよりもはるかに面白いと思います。
年末年始ヒマをもてあましている人はぜひ読んでみてください。

ダンクシュートっておかしくない?

2010-12-26 23:13:27 | 人間文化論
各スポーツの根幹 (構成的ルール) について最近よく考えていますが、
今日はバスケットボールの構成的ルールについて考えてみたいと思います。
そのうちのひとつはドリブルでしょう。
つまり、ボールを持って走ってしまってはいけなくて、
バウンドさせながら運んでいかなくてはいけないというルールです。
しかし、それよりも重要なのは、バスケットボールというネーミングに表されているように、
駕籠に向かってボールを投げ入れるという点だろうと思います。
小学校や中学校の頃、バスケットボールを練習するときに一番がんばったのは、
シュート練習でしたよね。
あの高いところにある駕籠に上手くボールを投げ入れられるようにと、
何度も何度も練習したじゃないですか。
桜木花道も2万本のシュート練習をしていましたね。
あれこそバスケットボールの神髄だと思うのです。

それに比べてダンクシュートですが、
私が幼かった頃にはそもそもそんなワザはなかったように思います。
初めて見たときはたしかにカッコイイなあと思いましたが、よく考えてみると、
ジャンプするとはいえ、ボールを手に持って駕籠の上から叩き込むというのは、
どうもバスケットボールの根幹に反しているように思えてならないのです。
バスケットボールの駕籠は、どんなに背が高い人が大ジャンプをしても、
ゼッタイに届かないぐらいの高さにあるべきではないでしょうか?
バレーボールのネットが、背の高い人ならジャンプしなくても、
手のひらが上に出てしまうくらいの高さだったとしたら、
バレーボールのバレーボールらしさは失われてしまわないでしょうか。
もしもそうならただひたすら背が高くて腕が長い人だけを集めてきて、
ナショナルチームを作ることになってしまうでしょう。
もっとわかりやすい例で言うと、昔のツービートの漫才にありましたが、
野球でべらぼうに背が高くて腕の長い人がピッチャーをやって (漫才ではジャイアント馬場)、
ふりかぶって第一球を投げたら、ピッチャーマウンドからキャッチャーまで手が届いて、
ボールを直接キャッチャーに手渡すことができてしまうなんていうことになったら、
もうどんなバッターでも手も足も出なくなってしまいます。
投げられたボールを打つという野球の醍醐味がまったく失われて、
ただひたすらその手渡しピッチャーの完全試合を見せられるなんて、
打つほうも見るほうも何も面白くなくなってしまうでしょう。
ダンクシュートってなんかそれぐらいおかしなワザのような気がするのです。

今では、ほとんどジャンプせずにダンクシュートを決められる人がいるみたいです。
身長2m31cmだそうです。
こうなったらもうお手上げじゃないですか。
彼はたぶん2万本のシュート練習なんてしなかったでしょう。
(実際、バスケットに向かって投げ入れるのは下手っぽいです。)
彼はバスケットボールをやっていて楽しいのでしょうか?
彼と対戦する人たちは、
ジャイアント馬場相手のバッターが感じるような空しさに襲われたりはしないのでしょうか?
バスケットボールの神髄を楽しむためには、やはりどんなに背が高い人でも
ボールを投げ上げなきゃいけないくらいバスケットを十分高くするか、
あまりにも身長の高い人は排除するか、
それではかわいそうなので、身長による階級を設けるか、
(チェ・ホンマン級とかトム・クルーズ級など、それぞれの級によってゴールの高さを変える)
なんらかの対策を講じる必要があるように思うのです。
バスケットボールの構成的ルールは、
高いところにある駕籠にボールを投げ入れて点を競うというところにあり、
したがって、投げずに点を入れることはできないようにするべきだ、
というのが今日の私の主張でした。
バスケットボールをやっている人や、
バスケットボールをこよなく愛しているファンの皆さまのご意見をお待ちいたします。

初MAX

2010-12-25 21:02:38 | お仕事のオキテ
福島市のワーナーマイカルが入ってる建物って、
旧さくらのが撤退してしまって以降、ずっと1階から4階まで空きビルになっていて、
最上階の映画館だけ営業しているという、ちょっと寂しい感じになっていました。
それがこの11月に、「ダイユーエイトMAX」 として生まれ変わったという話は、
いろいろな方から聞いて知ってはいたんです。
というか人に聞かずとも、我が家からすぐそこに見えるので、
駅から帰ってくる途中でちょっと視線を上げれば、
あのワーナーマイカルしかなかった建物に 「MAX」 の文字が燦然と輝いているのは、
いくら注意力、観察力のない私でもさすがに目に入っていたのです。
ただ、引っ越してきて早々であれば、
生活雑貨のすべてが揃っているダイユーエイトってホントに重宝するんですが、
ひととおり生活必需アイテムを揃えてしまった今となっては、
ダイユーエイトがこんなに近くにできてもなあ、
特に買いたいものはないしなあ、と思っていたんです。
というわけで、うちから徒歩2分弱、こんなに近くにあるにもかかわらず、
今まで一度も行ったことがなかったんです。
11月25日がオープンだったというから、
もう完全に丸1ヶ月間ノーチェックだったわけです。

で、クリスマスの今日、とうとう初めて行ってみました。
たんなるホームセンターだけじゃなくていろんな店が入ってるよと教えられ、
万が一ここで夕飯の買い物とかができるようなら素晴らしいじゃありませんか。
ダメなら駅ビルのエスパルに行けばいいやというぐらいの軽いノリで訪問してみました。
するとなんということでしょう。
1階にはドラッグストアと、FOODMAXというスーパーが入っています。
さらにフードコートもあって、中高生でにぎわっています。
2階はLOFTみたいな感じで文房具やらオシャレな生活雑貨を売っています。
まあこれもホームセンターかもしれませんが、
私の知ってるダイユーエイトとはちょっと毛色が異なります。
さらにその向こう側には100円ショップのダイソーMAXもあります。
3階にはなんと家具屋さんまで入っていました。
それと巨大なキッズスペースがあって、すべり台やらゲームセンターやら、
子どもたちがみんな楽しそうに遊んでいます。
というふうにまるで私の知ってるダイユーエイトとは異なるワールドが展開されていました。
4階は福島市の公共施設 「A・O・Z (アオウゼ)」 です。
大小のセミナールームやら自習室などがあって、今日はダンスパーティも開催されていました。

うーん、ただの空きビル、幽霊ビルがみごとな変身を遂げてくれました。
しかし、なんといっても嬉しいのはFOODMAXです。
こんなに近くにスーパーがあるなんて夢のようです。
今までだと駅ビルで買い物するか、新町のコープマートはちょっと行く気がしなかったし、
西口のヨークタウンに行くとなったらクルマを地下から引っ張り出さなきゃいけなくて、
駅の近くに住んでいるといろいろと便利なこともある反面、
どうしても買い物には不自由していたんです。
それがもうホントにうちから見えるすぐそこにスーパーができてくれてサイコーです。
たぶん今までの人生のなかで、自宅から最も近いスーパーではないでしょうか。
ワインの品揃えがイマイチであるとか、ハーブ類が揃っていないとか弱点は多々ありますが、
まあこれから 「お客様の声」 にいろいろと要望を書き込んで、
使い勝手のよい店に改造していきたいと思います。
クリスマスの夜の6時頃に行ってみたからでしょうか、
お客さんはそれほどいっぱいというわけではありませんでした。
せっかくこのビルが再オープンして、一番近いスーパーができてくれたのですから、
せいぜいたくさん利用して、さくらのみたいに撤退されてしまわないようにしたいものです。
みなさんもぜひダイユーエイトMAXをご利用ください。

ゴールド免許

2010-12-24 12:44:17 | ドライブ人生論
今日は運転免許の更新に行ってきました。
5年ぶりです。
前回の更新がついこのあいだのようでもあり、
ずいぶん前のことのような気もします。
しかし、毎回思うのですが、福島市の運転免許センターってなんであんなに遠くに、
しかも、ものすごーくわかりにくいところにあるのでしょうか?
ぼくなんかは免許の更新だからいいですが、
初めて免許を取るために試験を受けに行く人たちって、
当然免許を持っていないわけですから、クルマで行くわけにもいかず、
こんな辺鄙なところまでどうやってたどり着けと言うのでしょう?
駐車場にはエンジンかけっぱなしのまま、
クルマに乗ってボーッとしてる人たちがけっこういましたが、
たぶんあの人たちは、学科試験を受ける息子や娘を乗っけてきてあげて、
終わるまで待っているお父さん、お母さんたちなんでしょうね。
ご苦労さまなことです。
運転免許センターはクルマでなくとも簡単に来られるようなところに作るべきだと思うのですが、
私の感覚は間違っているでしょうか?

さて、今回は若干心配なことがありました。
このところ視力の衰えが顕著なのです。
老眼ではなく、近視が進んでいるように思うのです。
運転していても、どうも最近、標識の文字や前のクルマのナンバープレートとかが、
うまく読み取れないことが増えています。
夜なんかになると、自分のクルマのスピードメーターとかもよく見えなかったり。
以前に書いたとおり、運転の9割は見ることだと思いますから、
よく見えないというのはドライバーにとって一大事なのです。
ですので、近々メガネ屋さんに行って調べてもらい、
メガネの度を強くしようかなあなんて思ってはいたのですが、
なかなかそのヒマも見つけられないまま、免許更新の日を迎えてしまいました。
免許更新のとき視力検査のところに並んでいると、
必要な視力が得られなくてものすごーく手間取っている人ってよく見かけますよね。
あんなことになってしまい、最悪、メガネを作り直して出直さなきゃいけなくなるんでは、
なんて心配していたのです。
朝から何度も目薬をさし、頻繁にまばたきをしてみたりして、
必死で目のコンディションを整えながら本番に臨みました。
結果は一発合格。
カンも冴え渡り、一度もミスすることなく上下左右を当てることができました。
とはいえ、見えないというのは運転する上で大ハンデですので、
近いうちにメガネを新調しておきたいと思います。

今回は初めて30分の講習受講ですみました。
5年間無事故無違反、優良運転者講習だったのです。
今まではいつもなにかしら違反をやらかしていて、
(駐車違反とか一時停止違反とか、たまにスピード違反とか)
一般運転者講習 (1時間) か違反運転者講習 (2時間) でした。
4年前に引っ越して以来、運転機会が激減したというのが主な理由だと思いますが、
この5年間は初めて無事故無違反を達成することができたのです
というわけで生まれて初めてゴールド免許を手に入れてしまいました。
写真写りがイマイチだったので免許証の写真をアップしたりはいたしませんが、
免許の有効期間に燦然と金色の網掛けが施されています。
更新料もお安くなっており、なんといっても講習が30分ですむというのは快適です。
ぜひ今後も無事故無違反、ゴールド免許でいきたいと思います。

ドッペルゲンガー

2010-12-22 08:31:37 | 哲学・倫理学ファック
一昨日の午後8時半頃、ふなちょから写メールが送られてきました。

そのとき私は福島の自宅で夕食を食べている最中だったんですが、

メールには 「梅田にいる???」 と書かれ、次のような写真が添付されていました。



たしかに雰囲気は似てるかもしれません。

もうちょっと寄りの写真を見てみたいところですが、

「小野原サブレー」 とは異なり、もう一枚アップでパシャッというわけにもいかないでしょう。

次のメールでは、画像はなしでただ、

「こういうことやってると2日後に入院だよ」 という脅し文句が書かれていましたが、

別にわざとドッペルゲンガーを梅田に派遣しているわけではないですから。

わざわざ背広来て梅田まで行って買いたい物があるわけじゃないし。

でも、昔から私のドッペルゲンガーってあちこちで目撃されているんですよね。

新幹線に乗っている卒業生から 「先生、今○○行きの新幹線に乗ってますか?」 ってメールが来たり。

大学院の頃には、当時付き合っていた彼女から、

「大学近くのお堀端の公園で別の女とデートしてたでしょ」 と言って延々責められたこともありました。

たぶん彼女は未だにあれはぼくだったと信じているでしょう。

たしかに当時私は別の女性と浮気をしていたのですが、

誓ってもいいけど、その公園に行ったことはなかったんです。

だから彼女が目撃したのはぼくではなく、ぼくのドッペルゲンガー (=そっくりさん) だったのです。

私の顔や体つきってどこにでもいるような、よくあるタイプなんでしょうか?

ドッペルゲンガーがあちこちで悪さをしないでくれることを願います。

皆さん、どこかで怪しい行動をしている私を見かけたとしても、

それはたぶん私ではなく、私のそっくりさんですから、冷静な対処をお願いいたします。

まちがってもすぐにみんなに言い触らしたりはしないで、

本当にぼくだったかどうかを私まで問い合わせるようにしてください。

よろしくお願いいたします

「ハインツのジレンマ」

2010-12-21 16:30:58 | グローバル・エシックス
心理学者のローレンス・コールバーグは 「ハインツのジレンマ」 という例題を子どもに考えさせ、
その解答によって道徳性の発達段階を分析・分類しました。
その例題は以下のようなものです。


ハインツのジレンマ

1人の女性が病気で死にかけていますが、ある薬によって助かる可能性があります。
それは、同じ町に住む薬剤師が開発したものです。
薬剤師は、その薬を作るのにかかった費用の10倍の2000ドルの値をつけました。
女性の夫ハインツは知り合い全員にお金を借りましたが、費用の半分しか集められませんでした。
ハインツは自分の妻が死にかけていることを話し、安く売ってくれるように、
さもなければ残りを後で払えないかと薬剤師に頼んでみました。
しかし、薬剤師の返事は 「ダメだ、私がその薬を発見したんだし、
その薬で金儲けをするつもりだからね」 でした。
ハインツはやけを起こして薬局に押し入り、妻のためにその薬を盗み出しました。
ハインツはそんなことをしてよかったのでしょうか、いけなかったのでしょうか?
理由も答えてください。


これが 「ハインツのジレンマ」 です。
盗みを働いて妻を助けるか、それとも妻を見殺しにするかという二者択一を迫る問題です。
よいか悪いか、いずれが正解ということはありませんが、
どういう理由づけをしているかによって、コールバーグは、
以下の3つのレベルとそれぞれ2段階、計6段階に道徳性の発達段階を分類しました。


1.慣習以前のレベル

第1段階=罰と服従への志向
 罰の回避と力への絶対的服従がそれだけで価値あるものとなり、罰せられるか褒められるかという行為の結果のみが、その行為の善悪を決定する。

第2段階=道具主義的相対主義への志向
 正しい行為は、自分自身の、また場合によっては自己と他者相互の欲求や利益を満たすものとして捉えられる。具体的な物・行為の交換に際して、「公正」であることが問題とされはするが、それは単に物理的な相互の有用性という点から考えられてのことである。

2.慣習的レベル

第3段階=対人的同調あるいは「よい子」への志向
 善い行為とは、他者を喜ばせたり助けたりするものであって、他者に善いと認められる行為である。多数意見や「自然なふつうの」行為について紋切り型のイメージに従うことが多い。行為はしばしばその動機によって判断され、初めて「善意」が重要となる。

第4段階=「法と秩序」の維持への志向
 正しい行為とは、社会的権威や定められた規則を尊重しそれに従うこと、すでにある社会秩序を秩序そのもののために維持することである。

3.脱慣習的レベル

第5段階=社会契約的遵法への志向
 ここでは、規則は、固定的なものでも権威によって押し付けられるものでもなく、そもそも自分たちのためにある、変更可能なものとして理解される。正しいことは、社会にはさまざまな価値観や見解が存在することを認めたうえで、社会契約的合意にしたがって行為するということである。

第6段階=普遍的な倫理的原理への志向
 正しい行為とは、「良心」にのっとった行為である。良心は、論理的包括性、普遍性ある立場の互換性といった視点から構成される「倫理的原理」にしたがって、何が正しいかを判断する。ここでは、この原理にのっとって、法を超えて行為することができる。
                           (以上、ウィキペディア 「ローレンス・コールバーグ」 より)

カント主義者から見ると、なかなかよくできた分類のようにも思われますが、
コールバーグのこの理論に対しては、キャロル・ギリガンによる批判が有名です。
この発達段階理論は、男性的な 「正義の倫理」 という観点に偏っているというのです。
女性のことはなんとか助けてあげたいし、薬屋さんから盗んでしまったら薬屋さんがかわいそうだし、
といったところで躓いて、どちらも選べなくなってしまう女の子たちは、
コールバーグ理論によれば、せいぜい第3段階に位置づけられることになりますが、
この発達段階理論には、そもそも女性的な 「ケアの倫理」 という観点が抜け落ちている、
というのがギリガンによる批判です。
女性は男性と違い、ケア、つまり他者への援助という観点から道徳的問題を捉えているのだ、
というのがギリガンの 『もうひとつの声』 の主張でした。
男性は 「正義の倫理」、女性は 「ケアの倫理」 といったように、
男女の性差を固定化するようなギリガンの理論に対しては、
その後フェミニズムのなかからも批判が出されましたが、
「正義の倫理」 に偏っていたそれまでの倫理学の流れを修正したという意味では、
ひじょうに重要な提起だったろうと思います。

さて、久しぶりに倫理学の真面目な話題を取り上げたのは、
コールバーグの道徳性発達段階理論を紹介したかったからでも、
ギリガンの 「ケアの倫理」 を紹介したかったからでもありません。
最近私が勝手に「創造的問題解決の倫理学」 とか
「オルターナティブ倫理学」 と名づけているものを紹介したくて、
そのために 「ハインツのジレンマ」 の話をしておかなきゃいけなかったわけです。
「創造的問題解決の倫理学」、「オルターナティブ倫理学」 については後日論じることにしましょう。

男が長々と話すとき

2010-12-20 17:58:43 | 性愛の倫理学
先日、男はなぜ長々と世間話をしないのか、という話を書きましたが、

そのときにいっしょに書くのを忘れていました。

男はたしかに世間話を長々としないかもしれませんが、

それは男はけっして長々と話をしないということを意味するわけではありません。

男だって長々と話すときがあります。

それはどういうときか?

自慢話をするときです。

男は長々と自慢話をします。

以前に書きましたが、それは男が自尊心を満たされたがっているからです。

自慢をして、みんなに 「すっごぉい」 と言ってもらいたいのです。

なので、男が長々と話をするとき、会話にはならず、一方的に話すことになります。

質疑応答は受け付けますが、それはあくまでも自分が自慢話を詳しく語りたいがためです。

男の作戦会議がサクッと短く終わらない場合というのは、

作戦会議だったはずがいつの間にか自慢披露大会になってしまうからです。

うちの教員会議でもよくそういうことがあります。

自慢話を延々とする人のことを私たちは陰で 「ジーマン」 と呼んでいますが、

気をつけないといつの間にか自分が 「ジーマン」 になっていたりします。

それくらい、男にとって自慢話というのは魅力的なのです。

そして、聞かされるほうにとってこれほどツライものもありません。

スナックに勤めている女性たちはこれを毎晩聞かされて、

ちゃんと質問したりして相手してあげたりするのだから、本当に大変な仕事だなあと思います。

おわかりと思いますが、このブログもけっこう 「ジーマン」 入っています。

できるだけ 「ジーマン」 色を薄めようとは思っていますが、

これだけ毎日のように、これだけ長々と書けるのはけっきょく自慢話だからなんでしょう。

それを読んでくださっている皆さんには本当に感謝申し上げます。

あまり 「ジーマン」 が鼻につかないようにセーブいたしますので、

今後とも私の長ったらしい話におつきあいください

Q.男はなぜ長々と世間話をしないのか?

2010-12-17 18:17:36 | 性愛の倫理学
ブログ読者のぴょんぴょんさんからコメントのなかで質問を頂戴しました。

> 最近、「(大半の)男性はどうして、長々と世間話をしないのだろう?」 と、
> 友人と延々話していたのですが、結局結論は出ず・・。
> どう思われますか?

せっかく頂戴したご質問なので考えてみました。
が、この質問自体がすでに男の私にはなんか笑える質問でした。
最初から 「長々と」 という副詞がついているのがツボです。
世間話って 「長々と」 するものだというのが前提なんですね。
その話題を 「友人と延々と」 話していて、しかも 「結論は出ず」 というのですから、
男にとってはミステリアスな世界としか言いようがありません。

まずはいつものように、考え始める前に言葉の定義を確定しておくことにしましょう。
今まで 「世間話」 を辞書で引いたことはありませんでしたが、
ウィキペディアを見てみると、「世間話」 って私が思っていたのとはまったく違う意味があったようです。

ウィキペディア 「世間話」

いやあビックリしました。
いちおう調べてみるもんですね。
しかし、この1番の 「民話、口承文学」 という意味の 「世間話」 が問題になっているとは思えないので、
2番めの 「雑談」 という意味で理解していくことにいたします。
いちおう 「雑談」 もチェックしておくことにしましょう。

ウィキペディア 「雑談」

・特にテーマを定めない
・当たり障りのない内容
・日常的な自分や相手の身近な話題
・気楽な会話

といったところが 「雑談」 としての 「世間話」 の特徴と言えるでしょうか。
「長々とする」 ということは雑談の構成要素にはなっていないようなので、
やはりそれは女性が世間話をするときの特徴 (お約束?) なのでしょう。

さて、心理学者であれば、男や女は世間話 (=雑談) にどれくらい時間をかけるのかを、
実証的に調べるところから始めるのでしょうが、
そこのところは自分の経験知で独断的に話を進めていくことにいたしましょう。
たしかに男は長々と世間話をしたりしないように思います。
自分もできればそんなことしたくありません。
それはなぜなんでしょうか?

まったくの仮説にすぎませんが、私はこう考えております。
男性にとって会話というのは基本的に、ある目的のための手段なんではないかと思うのです。
以前に、「情報収集」 という言い方をしたことがありますが、
男女で会話する場合、
男は女性に何かを教えてあげるために相手のことを知ろうと情報収集を行っているわけです。
したがって、その目的が消失してしまえば会話をする必要はなくなります。
その話を敷衍すると、男の会話は常に何らかの目的を達成するために行われている、
ということになるだろうと思うのです。
そして、世間話というのはまさに目的のない会話であるわけで、
そりゃあ男にとっては必要度がかなり低いものと言わざるをえないでしょう。
たしかに初対面の人とは世間話をしたりもします、というかしないわけにはいかないでしょう。
でもそれは打ち解けるという目的のためにしているのです。
打ち解けてしまえばもう世間話をする必要はありませんので、
商談とか合意形成などの本題に早く入っていきたいわけです。
世間話すら打ち解けるという目的のために利用しているのですね。
だから、世間話を長々とする必要はないのです。

それに対して、女性の場合は会話自体が自己目的となっているような気がします。
つまり、世間話をすること自体が目的であるというか。
もちろん、ウィキペディアにあるように、世間話によって、
「相互の親密度を高め、高次の人間関係を築く」 という目的が背後にあるのかもしれませんが、
そこで目指されている目的はけっきょく、世間話を長々とすることができる関係の形成ですから、
世間話の次により高次の段階の会話に進むという類のものではないように思うのです。

男女双方にとって会話とはどのようなものであるか、
というのを比喩的に表現するならばこうなるのではないでしょうか。

「女は世間話、男は作戦会議」

あるいは卓球にたとえるならば、女性の場合はできるだけ長くラリーを続けるための温泉卓球、
男性の場合は、スマッシュを決めてポイントを競う試合。
というわけでまとめるとこうなります。

A.男が会話をするのは何らかの目的を達成するためなので、
  目的もなく長々と世間話をすることに意味を見出せないからです。

たぶん、ぴょんぴょんさんたちが 「(大半の) 男性はどうして、長々と世間話をしないのだろう?」
と話し合っているところに私が参加していたとしたら、
私はその問いに結論を出すという目的のために一直線に考え話し続け、
お2人がどんどん連想ゲームのようにあんな話やこんな話に飛んでしまうのを、
「いや、今それは関係ないから」 と制して話を元に引き戻し、
できるだけ短時間でみんなが納得のいく結論を出すことに邁進していたことでしょう。
延々と話して結論が出ないなんてとても耐えられません。
でも逆にお2人はパパッと答えを出されても、なんだかイヤな気分になっていたでしょうね。
深くて暗い河だぁ。

子育てマンガブログ 「うちの3姉妹」

2010-12-16 18:52:55 | 教育のエチカ
短歌の師匠のブログを見に行ったところ、ブックマークのところに、

「うちの3姉妹」 というブログが紹介されていました。

説明文には 「こどもの発言が最高に笑える子育てマンガブログ」 とあります。

最高に笑えると聞いては、行ってみないわけにはまいりません。

さっそく行ってみたところ、いやあ仰せの通り最高に笑えました

フーちゃん (10歳)、スーちゃん (8歳)、チーちゃん (6歳) の3姉妹を育てているお母さんが作者で、

日々の3人のとんでもない言動がマンガと文字で綴られていきます。

単行本にもアニメにもなっているようですが、私はまったく知りませんでした。

この家族は両親ともO型で、したがって姉妹も3人ともO型なのですが、

みんなまったく違っています。

血液型占いがどれほどあてにならないかを如実に示してくれていると思います。

それでは、まさおさまセレクトの傑作選をご紹介しましょう。


まずは 「テーマ:長女」。

元日から罪なヤツ

10億年後の人類


続いて 「テーマ:次女」。

お客様の声

自由人、難しい言葉をつかう


そして 「テーマ:三女」。

小さいチー

おいしかったお弁当


ここからはコラボ。

まずは 「テーマ:長女と次女」。

お名前変更


続いて 「テーマ:長女と三女」。

長女vs三女


そして 「テーマ:次女と三女」。

オレは王様


最後に全員集合で 「テーマ:3姉妹」。

高速道路はなぜはやい?

つもり

赤ちゃんの名前


テーマは他にもたくさんあるし、それぞれのテーマにものすごい蓄積があって、

とてもじゃないけど全部見終わらなさそうですが、

ハマってしまうと面白くて面白くて、全部読みたくてしかたありません。

コンプリートできるのはいつのことやら。


教えられのぞいた 「うちの3姉妹」 腹がよじれて仕事忘れる  まさおさま

私の偏見

2010-12-15 12:11:42 | 人間文化論
身体がデカイ人は声もデカイです。

声がデカイ人はメールもうるさいです。

来るメール来るメールすべてにマークが付いています。

たぶん自分の発言や文書はすべて最重要だと思っているのでしょう。

というわけで、身体のデカイ人はみんなエラそうだ、というのが本日の私の結論です。




もちろん、これが誤謬推理にもとづくただの偏見だ、ということはわかっています。

とりわけ、論理学でいうところの 「単称汎化の誤り」 が甚だしいかもしれません。

(たまたま目についた個別のケースを取り上げて、一般論にまで普遍化してしまう過ち)

理性的にはそういうことは重々承知しているのですが、それでも言いたいです。

「デカイやつはみんなエラそうだっ

性本能のこわれた動物

2010-12-14 12:45:27 | 性愛の倫理学
昨日の南郷中学校の講演会ではいつものように、
人間は 「本能がこわれた動物」 であるというところからスタートしたのですが、
その話をゆっくりすることができませんでした。
特に人間の場合、性本能がこわれているという話はいろいろと面白いエピソードが多いのですが、
中学生相手だし、特に保護者の皆さんもいらっしゃったからということで、
私には珍しくちょっと自主規制してしまったという面もなきにしもあらずです。
私、意外と小心者ですね。
親の前では恥ずかしくてそんな話聞けないけど、実は興味津々という中学生のために、
ここで補足説明をしてあげることにいたしましょう。

「本能がこわれている」 というのは 「本能がない」 という意味ではありません。
本能はあるのですが、それが他の動物のようにきちんと本来の自然目的と結びついていないのです。
イヤなものからは離れよう、遠ざかろうとする生存本能は人間だって持っているのだけれど、
人生のなかのイヤなことから離れようとするあまりに、人間は自殺してしまうことがある、
それは、せっかくの生存本能がこわれてしまっていて、
生きるという本来の目的にしっかりと結びつけられていないからだ、と説明しました。
性本能に関しても同じことが言えます。
人間には性欲という形で性本能がそなわっています。
しかし、他の動物の場合、
性本能は生殖 (つまり子どもをつくる) という自然目的とちゃんと結びついているのですが、
人間の性本能はこわれてしまっているので、
性欲が生殖のための行動へとまっすぐ向かっていかないのです。

他の動物はほとんどの場合、繁殖期と呼ばれる妊娠可能な時期にしか性行為を行いません。
メスの排卵日以外に性交しても妊娠する可能性は低いですので、
子どもをつくることが目的であるならば、そんな時期に性交するのは無意味です。
ところが人間は、排卵日とかとはまったく関係なく、いつでも性交可能だし、
実際に妊娠の可能性がまったくないときにも性交してしまうのです。
動物から見ると、なんとムダなことをしているのだと見えることでしょう。
しかし人間の性本能はこわれていますから、
そもそも子どもをつくるためだけに性行為を行っているのではないのです。

それどころか人間は避妊をします。
皆さんが、自分で働いて一人前に稼いで生きていけるようになる前にセックスするときは、
必ず避妊をしなければなりませんが、
しかし、これも動物の目から見てみると、避妊をして性行為を行うというのは、
まったくわけがわからないということになるでしょう。
子どもができないように気をつけながら子どもをつくる行為をしているということになるのですから。
それぐらいなら最初からやらなければいいのに、
でも人間は避妊をしてでも性行為をしたいというくらい、
性本能 (つまり性欲) がおかしくなってしまっているのです。

人間のなかには同性愛の人たちもいます。
同性どうしで性行為をしても当然のことながら子どもはできません。
人間の性本能が動物のように生殖目的に限定されているならば、
同性どうしで愛し合うということは生じてこなかったでしょう。
しかし、人間の場合は性本能が生殖目的に限定されていませんので、
同性愛という、他の動物にはない、人間独特の性文化を生み出すことができたのです。

同性愛で驚いていてはいけません。
人間は自分ひとりで性行為をすることができます。
オナニーというのは性交ではないかもしれませんが、れっきとした性行為です。
人間はそれをひとりでしてしまうのです。
どんなにがんばっても絶対に子どもはできません。
でもしてしまいます。
それくらい人間の性本能は生殖から切り離されてしまっているのです。

たしかに他の動物と比べてみたら人間の性本能はこわれてしまっているかもしれませんが、
では人間は子どもをつくって種を保存していく能力が他の動物よりも劣っているでしょうか。
そんなことはありません。
人間は現在、地球上で最も繁栄し、繁殖にも成功している種であると言っていいでしょう。
(むしろ今では人口が増えすぎて困っているくらいです。)
なぜこんなに人類は繁栄することができたのでしょうか。
それはこわれてしまった性本能のかわりに、豊かな性の文化を生みだしてきたからです。
生殖とは無関係に性行為をする人間独特の性文化のおかげで、
結果的に子どもをたくさん殖やすということにも成功してきたのです。
(もちろん、生まれた子どもを確実に育てるためのさまざまな文化も大いに関係していますが。)

というわけで、人間は本能がこわれてしまったおかげで、
他の動物のように自然目的ときっちり結びついた行動が取れなくなってしまっていますが、
そのかわりに豊かな文化を築き上げることによって、
他の動物がけっして手に入れることのできないような可能性と自由を獲得しました。
皆さんもぜひ、人類が長い時間をかけて育ててきた多種多様な文化をひとつずつ身につけて、
無限の可能性と自由を手に入れてください。
そして、中学生のみんなにもう一度繰り返して言っておきますが、
若いうちに性行為をしなくてはいけなくなってしまった場合には、
避妊という、人類が生んだ素晴らしい性文化をきちんと実践するようにしましょう。
でも、あんまり急いで性行為をする必要はありません。
きちんと考える力がついて、自分のことも相手のことも大切にできるようになってから、
ゆっくり楽しめばいいことなんですから。
性行為というのも人間が生んだ素晴らしい文化のうちのひとつですが、
一歩間違うと自分も相手も深く傷つけてしまうことがありうるということは覚えておきましょう。