まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

なぜカントは子どもの喧嘩やスポーツまですべてを戦争だと定義したのですか?

2024-02-10 02:35:05 | グローバル・エシックス
カントに関わって次のような質問をいただきました。

「カントは、暴力を用いた紛争解決は規模に限らず全て戦争であると述べていましたが、私は子供同士の喧嘩や、柔道、相撲等のスポーツで解決を図ることは健全なことであり、戦争ではないと考えています。なぜカントはすべてを戦争だと定義しようとしたのでしょうか。」

そもそもことばの定義というのは時代や地域・集団によって変わりうるものなので、
私はこう定義すると宣言して、それから逸脱することなく使っていくならば、
どう定義しようと自由なのだと思います。
ホッブズから始まる社会契約説の系譜においては、
国家間の戦争の話をする前に、そもそも国家なんて存在していなかった自然状態を想定して、
そこでの諸個人間の紛争をどう解決するかというところから議論を組み立てていったので、
個人間の紛争を暴力的に解決しようとすることを禁ずるというのがスタート地点でした。
ホッブズやロックはそのために国家を作らなければならないと論じたわけですが、
彼らの社会契約説は国家を設立したところで終わってしまっていて、
そこから先の国家間の戦争をどうなくすかということまではまったく考えておらず、
国家には国民を守るために戦争をする権利と義務があるのは当然のこととみなしていました。
カントは、社会契約説を推し進め、
諸個人間の暴力を廃絶するために諸個人は国家法に従わなければならないのと同様に、
国家間の暴力である戦争を廃絶するために諸国家は国際法に従い、
国連の場で暴力によらない紛争解決を試みなければならないと唱えました。
暴力による紛争解決は、個人間のものであれ国家間のものであれ禁じられるべきなのですから、
両者を引っくるめて「戦争」と定義したことは、
カントの立論からすると当然の成り行きだったと言えるのではないでしょうか。

さて、質問者の方は暴力による紛争解決の例として2種類挙げてくれていました。
子ども同士の喧嘩と、柔道や相撲などの格闘技系のスポーツの2種類です。
その例示のうちの後者は間違っていると言わなければなりまぜん。
スポーツというのは、きちんと定められたルールの下で勝敗を競う競争ですので、
それは暴力ではありませんし、紛争解決でもありません。
たしかに格闘技は他の陸上競技などとは違って肉体的コンタクトがあり、
殴ったり蹴ったりという行為が伴うので、相手に対して力を用いてはいますが、
それはプレイヤーの安全を守るためのルールに従って振るわれる力であって、
限度を超えていこうとする暴れる力ではありません。
したがって格闘技を含むスポーツを暴力と呼ぶことはできませんし、
それゆえ戦争の中に含めることもできません。

また、質問者の方は「スポーツで解決を図ることは健全なこと」とおっしゃっているのですが、
何を想定しているのかよくわかりませんでした。
私のイメージでは、スポーツはスポーツのため(勝敗を競うため)にやるのであって、
スポーツを用いて何かスポーツ以外の別の紛争や問題の解決を図る、
なんていうことがありうるでしょうか?
もしもそういうことが行われたとするならば、
それは私も健全な解決法だとは思いますし、カントもそう言うとは思いますが、
(当然それは戦争ではありません)
例えば北方領土問題とか、竹島問題とか、パレスチナ問題をスポーツで決着つけようなんて、
そんな平和な提案が受け入れられて、その結果に双方が納得するとはとても思えないのです。
たとえそういう問題解決方法がありえるとしても、スポーツで決められるような事柄って本当に些細な、
重大な国益に関わらないようなことだけじゃないかなあ。

さて、もう一つの例、子ども同士の喧嘩ですが、
これは口喧嘩とかではなくて殴り合いの喧嘩をするのであれば、
それは暴力による紛争解決であり、カントの定義によれば戦争になるだろうと思います。
子どもが本当に小さければどんなに殴ったり蹴ったりしてもたかが知れており、
暴れる力にはならないという見方もあるかもしれせんが、
そもそもそれは紛争の正しい解決には結びつかないという点において、
けっして健全な紛争解決手段とは言えないと思います。
なぜなら喧嘩の勝敗はどちらが強いかということを決するだけであって、
どちらが正しいか間違っているかとは無関係だからです。
私が育った昭和の時代には、子ども同士は何かトラブルがあったら殴り合いの喧嘩をして、
すっきりして仲直りをすればいいんだみたいな風潮がありましたが、
令和の学生さんから「子ども同士の喧嘩は健全な解決法だ」と聞くとは思っていませんでした。
なぜそう思うのかもっと詳しく聞いてみたい気がします。
私は自分が喧嘩が強いタイプの子どもではなかったということも関係しているのかもしれませんが、
喧嘩に勝ったほうが正しいという紛争解決方法は健全な決着とは思えないけどなあ。

平和の実現に寄与している国はどこですか?

2024-02-10 00:55:53 | グローバル・エシックス
以下のような質問をいただきましたが、これに答える能力は私にはなさそうです。

「現代において、平和の実現に最も寄与している国家はどこですか? その理由はどうしてですか?」

この質問には自分では答えられそうにないので、生成AIに頼ってみました。
Microsoft 365 にオマケで付いていた Copilot というソフトを使ってみたところ、
それっぽい回答を返してくれました。

「こんにちは、Copilotです。平和に関心があるのですね。😊

現代において、平和の実現に最も寄与している国家というのは、一概には言えないと思います。平和というのは、紛争やテロ、暴動などの暴力的な行為だけでなく、貧困や格差、人権侵害などの社会的な問題も含めて考える必要があります。また、平和の実現には、国際的な協力や連携が不可欠です。一国だけで平和を作り出すことはできません。

しかし、それでも平和の実現に向けて積極的に取り組んでいる国家はいくつかあります。例えば、国連の活動において、平和維持や平和構築、人道支援などに貢献している国家が挙げられます。国連の平和維持活動(PKO)には、現在約12万人の人員が参加しており、そのうち約4割がアフリカからの人員です1。アフリカの国々は、自国の紛争や内戦を経験したこともあり、地域の平和と安定に責任を持っています。また、PKOには、日本やドイツ、カナダ、オーストラリアなどの先進国も人員や資金、物資などを提供しています2。これらの国々は、平和主義や人権尊重などの価値観を国際社会に発信し、多国間の協調を重視しています。

平和の実現に貢献している国家は、PKOに参加している国々だけではありません。紛争やテロの原因となる貧困や格差、気候変動などの問題に対処するために、開発援助や技術協力などを行っている国々もあります。例えば、スウェーデンやノルウェー、デンマークなどの北欧諸国は、国連が定めた公的開発援助(ODA)の目標である国内総生産(GDP)の0.7%以上をODAに充てており、世界の平和と繁栄に貢献しています3。また、中国やインド、ブラジルなどの新興国も、近年ODAの拡大や南南協力の推進などを通じて、途上国の開発に協力しています4。

以上のように、平和の実現には様々な側面があり、それぞれに貢献している国家があります。平和というのは、一つの目標ではなく、常に追求し続けるべきプロセスだと思います。私たち一人一人も、平和に関心を持ち、行動することが大切です。」

だそうです。
私が下手なことを書くよりもよっぽど信頼に足る内容のような気がします。
これで十分な気もしますが、私が自分で書くとしたらこれらのほかに、
次のような情報を加えて、そちらをメインに論を組み立てただろうと思います。

現在、憲法において軍隊の非保有を宣言している国がいくつかあります。
日本、コスタリカ、パナマなどです。
日本の自衛隊でわかる通り、
それらの国が本当にまったく軍隊を保有していないかというと、
なかなかそう簡単に言い切れるわけではありませんが、
それでもやはり、国の根幹たる憲法において軍隊の非保有を宣言するというのは、
ひじょうに勇気のいることであり、
そうした憲法をもつ国家と国民が現実に存在するということは、
世界の平和に大きく寄与していると言うことができるでしょう。

というようなことを私だったら書いたと思いますが、
いずれにせよ、平和の実現に最も寄与している国を1つだけ挙げることはできないわけです。
重要だと思うので、Copilot の回答の最後の段落をもう一度繰り返しておきたいと思います。
「平和の実現には様々な側面があり、それぞれに貢献している国家があります。
 平和というのは、一つの目標ではなく、常に追求し続けるべきプロセスだと思います。
 私たち一人一人も、平和に関心を持ち、行動することが大切です。」

戦争のニュースにカント学者は何を思うか?

2024-02-09 18:31:16 | グローバル・エシックス
次の質問はちょっと意外な質問でした。

「現在中東で戦闘が勃発したり、ウクライナで戦争が行われていたりと、悲しいニュースが多いですが、カントの「永遠平和のために」を研究されている小野原先生は、戦争が起こっていることを知ったとき、何を思うのでしょうか。私のようなただの大学生が抱く「ひどいな、悲惨だな、募金でもしようかな」という感情だけではなく、カント研究者としての目線から生まれる特異な感情があったりするのでしょうか。(例えば、「戦争なんてしてあほだな。カントが怒ってるぜ。」など何でもいいので知りたいです。)」

別に「カント研究者としての目線から生まれる特異な感情」なんてありませんよ。
私もたぶん皆さんと同じで、「ひどいな、悲惨だな」と思いますし、
特に、大量虐殺にも似た空爆やら襲撃を受けている一般市民の方々に関しては、
「かわいそうだ、悲しい、何とか助かってほしい、この苦しみから一刻も早く解放されてほしい」
と心から思います。
最近では少しいろいろなことに慣れすぎて、感受性が鈍くなってきているのかもしれませんが、
大学院生くらいだった頃には、ニュースを見てぼろぼろ泣いたりしていたこともありました。

戦争することを決定した為政者に対しては、
「あほだな」なんていう軽いノリではなく、
「なんて愚かなことをするんだろう」という怒りまじりの呆れというのでしょうか、
ものすごくネガティブな感情が沸き起こってきます。
しかし、私は皆さんに非暴力コミュニケーションを教えている身ですので、
しばらくネガティブな感情に浸ったあとは、
その為政者に直接会うことができたら、何と伝えるだろうかと考え始めます。

そのためにまず、自分の感情を極力排して、
その地で起きていることを客観的に観察ことばで表現しようと努めます。
とはいえ、一般市民を無差別に殺戮しまくることを命令した人々ですので、
(↑この言い方はまったく観察ことばになっていませんね)
彼らの言動を冷静に分析するというのは至難の業です。
さらに、彼ら為政者がなぜ戦争という決定を行ったのか、
彼らの中にある感情や必要を想像しようとするのですが、
本当に彼らの中に私たちと同じ感情や必要が存在しているのか、
私たちとは違うタイプの人間なんじゃないか、理解なんてできないんじゃないか、
という気持ちに何度も負けそうになってしまいます。
それでもやはり、彼らも私たちと同じ人間であり、
同じ感情や必要に動かされているはずだと何度も言い聞かせ、
何とかいろいろなパターンを想像してみようとします。
そしてその想像に合わせて、もしもこうだったら何とお願いしようか、
もしもこっちだったら何と言えばいいだろうかと考えてみます。

そのように考えているうちに、
はじめのうちはただの小野原雅夫として何と言おうかと考えていたのですが、
もしも自分が攻撃されている国の外交官だったらとか、
和平調停に乗り出した国連の大使だったらとか、
その国の野党の政治家だったら、マスコミだったらなど、
いろいろと立場を変えて、どのようなお願いをするかを考えていきます。
もちろんなかなかいいお願いの文章は浮かびません。
浮かんでも、こんなこと言っても絶対に通じないよなあ、
とすぐに却下してしまうようなものばかりです。
相手に通じるようなお願いを作文するのなんて無理なんじゃないか、
と思いたくなってしまうこともしばしばです。

そんなときは、授業の中で紹介した、
ガンディーの「すべての日本人に」のメッセージを思い出すようにしています。
無力感が大きいときはただ思い出すだけじゃなくて、
このブログの中に引用してありますので、
その記事を(→こちら)もう一度読むようにしています。
最後の(14回目の)授業のときに言うのを忘れていましたが、
皆さんに紹介したガンディーのメッセージはすべて、
非暴力コミュニケーションで書かれています。
NVCのみごとなお手本と言っていいでしょう。
あのメッセージはたんなる自らの思想の表明ではなく、
日本軍がインドの戸口にまで迫ってきているときに、
その侵略者に向けて贈った「ことばの贈り物」でした。
彼はあのメッセージを書くのにどれほど時間をかけ、
どれほど推敲を繰り返したのでしょうか。
その時間とその試行錯誤に思いを馳せ、
きっと今の時代に、今戦争を遂行している人々に届くことばもあるはずだ、
と気を取り直して、お願いのことばを考え続けています。

大量虐殺は戦争の中に含まれているか?

2024-02-08 14:53:08 | グローバル・エシックス
次のような質問もいただきました。

「先生は戦争と言われたが実は大量虐殺であることについてはどう思いますか。大量虐殺は戦争の中に含まれていますか。」

以前にいただいた質問とも重ね合わせると、
これはイスラエルとパレスチナの戦争のことを指していると思われますが、
これはとても難しい問題です。
私はパレスチナ問題の専門家ではないですし、
今行われている戦争のことも日本の報道で伝え聞く程度の知識しか持ち合わせていないので、
前半部分に関しては、学者としての正式な回答というよりも、
あくまでも素人の一意見として読んでください。

イスラエルとパレスチナの間の抗争に関しては、
私も以前から、これは戦争と呼べるものだろうかという疑問を懐いていました。
私は「戦争と平和の倫理学」の授業の最初のほうで、
戦争に関して、「大規模集団間の武力闘争」と簡単に定義しました。
つまり、国家レベルの大規模な集団が、それぞれの軍隊と軍隊を用いて戦うこと、
それが戦争であると定義したのです。

第一次から第四次まで戦われてきた中東戦争は、
上記の定義に照らしてまさに戦争であったと言えると思います。
しかしその過程でイスラエル側が軍事的には圧倒的に優位に立っていきます。
アメリカをはじめとする先進国がイスラエルへの軍事支援を続けてきたからです。
軍隊と軍隊との正面衝突という方法では勝てる見込みがなくなっていく中で、
パレスチナ側はテロという、軍隊によらない新しい戦い方に頼るしかなくなりました。
私は先の定義に照らして、テロは戦争とは別物であると理解していますが、
現代において両者の区別が難しくなっていることは否めません。
しかし、いずれにせよその背景には軍事力の圧倒的格差という問題があることは、
きちんと理解しておくべきでしょう。
そして、そのような圧倒的な軍事力の格差の中で行われる軍事攻撃は、
もはや戦争ではなく、一方的な「大量虐殺」に似たものになってしまう、
そんな可能性を秘めていると言えるでしょう。

いちおう私は「大量虐殺」と「戦争」は区別しています。
戦争は両者が戦い合うものです。
実際には両者の間で戦力の差があったとしても、
形式的には互いに対等に戦い合っています。
それに対して大量虐殺は一方が他方を一方的に殺戮していく行為です。
殺される側は武装した軍人ではなく、無辜の民である一般市民であり、
何らの対抗も抵抗もできません。
ナチスによるユダヤ人のホロコーストや、
ルワンダにおけるフツ族によるツチ族のジェノサイドなどがそれに当てはまります。

今回のハマスによるイスラエルへの攻撃は、
軍隊によって武力を用いて行われましたので、
(一般市民を人質に取るというのはいかにもテロっぽいやり方ですが)
これは戦争として始められたと判断すべきだろうと思っています。
しかし、イスラエルが反撃を始めた段階で、
戦況が一気に一方的になっていったのは当然の成り行きだったろうと思います。
そして、イスラエル側の攻撃は空爆が中心となりますので、
パレスチナ住民の側からするならば、
軍隊と軍隊の武力闘争というよりは、
イスラエル軍によるパレスチナ住民の大量虐殺と映ることだろうと思います。

授業の前半で武器の進化の話を紹介し、
飛行機が開発されたことによって戦争のあり方が一変したと話しました。
武力闘争と言えば、軍隊(軍人)と軍隊(軍人)が戦い合うことだったわけですが、
空爆という、軍隊による一般国民への直接攻撃も戦争の一手段となってしまいました。
私も空爆や、その他の軍隊による一般国民への直接攻撃は、
やってることは大量虐殺と同じだと思いますが、
それを「大量虐殺」と名付けて、その部分だけを戦争と切り離して禁止することは、
無理だろうと思います。
正戦論について考えてもらったときに、
軍隊のみ攻撃し一般国民への攻撃は行わないのが正しい戦争である、
と答えてくれた人がたくさんいましたが、
そんなところで線引きするのは不可能でしょう。
いったん始まった戦争は、勝つためには手段を選ばず、
正しくない(とされる)戦略・戦術も積極的に選択されるだろうと思います。

ご質問に対する答えをまとめると以下のようになります。
1.戦争は「大規模集団間の武力闘争」であり、
  大量虐殺は「ある集団が他の集団を一方的に殺戮する行為」であり、
  私は両者を別のものとして定義します。
2.戦争も大量虐殺も悪ですが、悪の程度からすると、
  大量虐殺のほうがより悪だと私は判断しています。
3.現在のイスラエルとハマスの軍事衝突は戦争として捉えています。
4.20世紀以降の戦争においては、軍隊による一般国民への直接攻撃という、
  大量虐殺に似た一方的な殺戮行為が、軍事行動として含まれることになりました。
5.したがって20世紀以降の戦争は正しい戦争ではありえず、
  すべて悪であり、否定すべきであると判断しています。

非暴力実践の認知度は?

2024-02-08 12:34:00 | グローバル・エシックス
「戦争と平和の倫理学」の最終回の授業が、
私のコロナ罹患のためにオンライン授業になってしまいました。
オンラインで寄せられた質問に対してはこの場でお答えしていきます。
まずは、つぎのような質問。

「非暴力の実践について、非暴力平和隊などありましたが、平和を願っている人類としてこのような活動があまり知られていないような感覚がありました。実際の認知度はどれほどなのか、また、日本のマスコミはこのような活動や非暴力の実践を取り上げないのだろうかと思いました。」

質問は2つありますね。
まず1つ目。

Q-1.非暴力実践の認知度はどれくらいですか?

これに対しては残念ながら正直に次のようにお答えするしかありません。

A-1.とても低いです。特に日本においてはほとんど知られていません。

その原因は大きく2つあると思っています。
1つは、日本の現政権が戦争できる国になることを目指しており、
その方向性でのプロパガンダを続けており、
それを支持する国民もひじょうに多いので、
それに反対する思想や実践は少数派のなかに埋没してしまうということ。

もう1つは、授業の中でも少しお話ししたことがありますが、
これまでの日本の平和運動というのは基本的に反戦運動として展開されており、
特に太平洋戦争(第二次世界大戦)の悲惨さを伝承することによって、
戦争を厭い、戦争に反対する心性を育むことを主眼としていました。
その反面、厳しい現実世界の中で、敵対的な国際関係に晒されたときに、
どのようにして平和を構築していったらいいかという、
具体的な運動論、実践論、政治論の視点が欠けていたと言えるでしょう。
ガンディーやキング牧師の平和運動のことは多くの人が知っていると思いますが、
どちらかというと暴力や戦争に反対した人物像ばかりが取り上げられていて、
どうやって非暴力によって暴力に対抗したのかという、
具体的な運動の中身のことはあまり伝えられていませんでした。
これら2つの理由により、非暴力実践の認知度が低いのだと思われます。

2つ目の質問にいきましょう。

Q-2.日本のマスコミは非暴力実践を取り上げないのか?

A-2.これまではほとんど取り上げられてきませんでした。

A-1のような情勢下ではA-2のような結果になるのは避けられないでしょう。
マスコミにとっては視聴率が取れてナンボですから、
国民の関心がそこにないのなら番組や記事にするメリットはないわけです。

ただそんな中で、NHKの『100分 de 名著』という番組で、
授業の中でも紹介した、
ジーン・シャープの『独裁体制から民主主義へ』が取り上げられました。
この1月にも再放送されたので、見た人もいるかもしれません。
見そびれた人はNHKオンデマンドで見ることができますし、
テキストも発売されていますので、
ぜひ見たり読んだりしてみてください。
この番組を作成したプロデューサーの言葉をこちらのサイトで読むことができますが、
その中で、「『100分de名著』という番組のミッションの一つは、戦争をなくすことである」
と公言されています。
こういうマスコミ人が増えていくならば、
A-2やA-1のような状況はどんどん変化していくものと思われます。
質問者の方も「平和を願っている人類」のお1人のようなので、
認知度が上がるのを座して待つのではなく、
自分の力でどうやって認知度を上げるか、
学校教員になったときにどうやって子どもたちに非暴力実践を伝えていくか、
自分事として考え、取り組んでいただければと思います。

Q.日本のこれから、北朝鮮問題について倫理の観点からどう思いますか?

2017-09-13 22:50:04 | グローバル・エシックス
これは2つの質問なんでしょうか、一体化した1つの質問なんでしょうか?
それによって答え方が変わってくるのですが、
とりあえず日本のこれからについて独立した問題として論ずるのは大変なので、
2つでセットの問題としてお答えしてみることにします。
質問は 「倫理(学)の観点から」 という限定つきですので、
それに対しては簡単に次のようにお答えしておきましょう。

A.(私の信ずる) 倫理学の観点からお答えするならば、
  北朝鮮をはじめとして、韓国、中国、アメリカ合衆国など様々な近隣諸国との関係において、
  互いに利害の対立はいくらでもあるはずですが、それらをすべて踏まえた上で、
  冷静に対話を積み重ね、平和的に共存していく道を模索し続けるべきだと思います。

ていうか、こんなことは倫理学を持ち出すまでもなく、
フツーに理性を備えた人間ならば誰でもわかることだと思いますが…。
しかしながら反知性主義の現代においてはこういうごくごく真っ当なことが、
政治においても、マスコミの論調においても、まったく当たり前でなくなっているのが悲しいです。
政治家というのは、国内に問題を抱えているときには、
それを隠蔽するために外部に敵を作り出そうとするものであるというのは、
日本史や世界史を学んだことがある人ならば誰でも知っていることのはずですが、
それでも国民は常に常に政治家に騙されてしまうんですよね。

北朝鮮はもう長いこと内憂を隠蔽するために外患のことを騒ぎ立てて、
それだけで何とか政権を維持してきている国なわけですが、
あそこまでいくともうある種、名人芸だなという感慨を否めません。
アメリカという一強超大国を相手に、これだけ長い期間、
実際に戦争にならないように、でも戦争するぞするぞと言い続けるだけで、
そこそこに利を得つつ、国家が崩壊してしまわないように保ってきているというのは、
奇跡に近い政治的手腕だと思っています。
あれが上手く行っている最大の要因は、北朝鮮には他国にとって美味しいものが何もない、
という一点に尽きると私は考えています。
もしもあそこに油田か何か貴重な資源があったら、
アメリカはとっくの昔に何らかの正義にもとづく合理的理由を挙げつらねて、
とっとと戦争をおっぱじめいいように蹂躙していたでしょう (あのときのアフガニスタンのように)。
あの強欲なアメリカがそれをしないというのは、それをするだけのメリットが何もないからなのです。
北朝鮮の政治家にとってもアメリカの政治家にとっても日本の政治家にとっても、
一番いいのは今の状態が未来永劫続くことです。
敵がいて今にも戦争が始まるぞと言い続けることによって国民の目を国内政治からそらしつつ、
軍需産業だけはウハウハ儲かるという状態。
これほどラクで美味しい政治があるでしょうか。
核開発もミサイル発射もJアラートもすべては三方得を実現するためのお膳立てにすぎません。

そして何よりも大事なのは (民主国家ではない北朝鮮を除いて)、
そうした政治を応援してくれる反知性主義的な愛国主義者である国民です。
私はこういう人たちにあまり 「愛国主義」 という言葉を使いたくないのですが、
本人たちとしては本心から自国を愛し、敵国を憎んでいると思っていますので、
とりあえずそう呼んでおくことにしましょう。
そういう人たちが、いつでもやってやるぞという国のポーズを支持し後押ししてくれる間は、
政権は安泰です。
こういう人たち、一昔前は少数派だったのですが、
1990年代以降 (たぶんインターネットの普及以降) 一気に増えていきました。
いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちですね。
彼らは自分の手元に集まってくる偏った情報のみを信じて、自分の頭では考えません。
冷静に判断するよりも、ただひたすら感情をたかぶらせることをよしとします。
まあ、昔からこういう人たちはいたのでしょうが、
そういう人たちが政治の支持母体になるとは思われていませんでした。
今はこういう人たちを上手く取り込むことのできる政党が政権を奪えます。

話が逸れてしまいました。
ご質問は北朝鮮問題を倫理学の観点からどう思うかでしたね。
倫理学の観点からはすでにお答えしたとおりですが、
最近、心理学の観点というのも倫理学的に言って役に立つかもしれないと思っています。
これは白河の看護学校ではなく、相馬の看護学校の学生さんだったかと思いますが、
心理学の授業で学んだこんなことが今でも役に立っているとワークシートに書いてくれました。

「怒っている人は困っている人なのだ」。

調べてみたところこれは心理学者の水島広子氏の言葉だそうです。
なるほど、これは名言です。
このように捉え返すことによって、
「ただ怒って暴れ回っている人」 のことも理解する手がかりが生じてきます。
この人は何か困っていることがあるから怒っているんだな。
じゃあこの人は何に困っているんだろう?
その困り事が解決されたらこの人の怒りは収まるんだろうか?
このようにすると、怒りまくっていて手のつけられない人とも
コミュニケーションをはかる突破口が見えてくるかもしれません。
振り返ってみれば、外交交渉の場というのは、その昔は高度な情報戦でしたが、
最近では低レベルな非難の投げ合いの場に堕してしまっています。
怒っている人どうしがいくら集まっても問題が解決する兆しが見えません。
しかし、お互いに何かに困っているのだなということを理解しあえれば、
少しは冷静に対話を交わし、平和的に共存する道も拓けてくるのではないでしょうか。
今の日本の政治家にこんな (or この程度の) 政治手腕を期待することは難しいかもしれませんが、
日本のこれからのことを考えるならば、賢い政治家に日本の未来を託したいと思います。

今週末 「コミュニケーション力アップセミナー」 開催!

2017-08-21 18:39:24 | グローバル・エシックス
今週の土曜日、福島市市民活動サポートセンターにてこんな講座を開きます。





題して 「コミュニケーション力アップセミナー」 です。

えっ、ぼくって倫理学者じゃなかったっけ?

コミュニケーションスキルなんかについて偉そうに人様にお話ししてしまっていいんですか?

いや、そもそもはそういう企画ではなかったんですが、

いつの間にかそういう話になってしまい…。

元はというと、大学院の私のゼミの修了生が福島市市民活動サポートセンターで働いてまして、

その縁もあって昨年からてつカフェをふくサポで開催させていただいているんです。

今年の特別編はちょうど3月11日が土曜日ということで、どこもいっぱいだったのですが、

ラッキーにもふくサポを使わせていただくことができました。

で、そのときにバーターでというと言葉は悪いんですが、

ふくサポで何か講座を開いてくれと頼まれまして、

てつカフェの会場を確保できるのであれば何でもやりますということで、

後先を考えずにお引き受けしていたわけです。

福島市市民活動サポートセンターはNPOをはじめとする各種市民活動を支援するNPOで、

その一環としてチェンバおおまちの3階スペースの運営を市から委託されている団体です。

ここでの主たる業務は各種会議室の貸し出しなのですが、

自らも企画を立てて講座を開いたりもしています。

それに手を貸してくれと頼まれたわけですね。

ただこれはあくまでも市からの委託業務なので、

自分たちで立てた企画をノーチェックでそのまま実行に移せるわけではありません。

すべての企画は一度、市のチェックを受けてOKが出るという仕組みになっています。

私の場合は当初、ダイバーシティ (多様性) について学ぶ講座ということで提案しました。

ダイバーシティというのは最近の流行りのテーマですし、

しかも他者との共存というのは倫理学の王道のテーマでもあります。

そんな企画書を提出したわけですが、これがそのままは通してもらえず。

というわけで、市からの修正意見が、ダイバーシティについて学ぶ部分はいいとして、

全体としてはコミュニケーションについて学ぶ講座に変えてほしいというものでした。

チラシをもう一度よくご覧いただきますと、

ダイバーシティとコミュニケーションが打ち解けがたく散在しているのが見て取れるかと思います。

クライアントの要望にはできるかぎり従うというのが私のモットーですから、

言われるがままに変更を受け入れました。

というわけで倫理学者がコミュニケーション力について語ることになってしまったわけです。

ただ、実際に期日が近づいてきて、やっと重い腰を上げて準備を始めてみると、

打ち解けがたい2つのテーマをどう1つに収めていいやら途方に暮れているところです。

そもそもこんなわかりにくい講座にしちゃったら受講者なんて来ないんじゃないかと思っていましたが、

フタを開けてみたら30名程度という定員を超えて40名近くの申し込みが殺到しているそうです。

マジかっ

さて、どんな話をいたしましょうか。

今日はまだ月曜日だし、講座は土曜日だし、まだまだ時間はあるな。

あっ、パワポのファイルは水曜日までに送れと言われていたんだった。

明日は1日外回りの仕事だし、うん、そうするとちょっと追い込まれてるかもね。

うん、さすがのギリギリスさんも少しは頑張んなきゃ。

ま、でもとりあえずお腹空いてきたので、今日は帰ることにするかな。

あわてない、あわてない。

ひとやすみ、ひとやすみ。

 




東日本中震災!

2016-11-22 15:55:01 | グローバル・エシックス
今朝の地震には久しぶりに恐い思いをさせられました。

中通りでは震度5弱と言われるわりにはそれほど強い揺れはあまり感じなかったように思いますが、

揺れている時間の長さがあの日に似ていて、背筋の凍る思いがしました。

おそらく津波がやってくるだろうなと予想したら、すぐに津波警報が出されましたし。

あんな状態の原発に津波が再び来襲したらどんな被害がもたらされるか計り知れません。

幸い、地震被害も津波被害も原発災害も今のところ大したことはなさそうで一安心です。

でもあのときも何日も前からけっこう大きめの地震が頻発していましたし、

熊本のときも大きな被害をもたらした大地震のあとにさらにその上を行く本震が襲ってきましたから、

これで終わりかどうかは今の時点では判断がつきません。

気を抜くことなく注意を払っていたいと思います。

とりあえず万一のために私はクルマにガソリンを入れておきました。


さて、ちょっと話は変わってうちの近くのマンションの1階に入っているセブンイレブン。

この夏から少し駅寄りの位置に移転しました。

こんな感じです。



ミスタードーナッツが入っているビルの北側の広大な駐車場の敷地内にビルが建ち、

そこの1階に入ったのです。

このビルは何だろうと思って見ていたら、同じくセブンイレブンの入っていたマンションの1階にあった、

進学塾が自社ビルを建ててこちらに移転してきていたのでした。

その移転にセブンイレブンも便乗させてもらったのだろうと勝手に想像しておりました。

今どき自社ビルの建築なんて、このアベノミクス不況の時代に景気のいい話だなあ、

でもうちからは遠くなってしまったからちょっと不便になっちゃったなあなどと考えておりました。

ところが、そのマンションの関係者に聞いてみたところ、

そんな景気のいい話ではないということがわかりました。

あのマンションは免震構造を備えた最新のマンションなのですが、

あのどでかい建物を支えている免震ゴムを交換することになったそうなのです。

で、そのゴムを交換するにもいくつかの方法があるらしいのですが、

いずれにせよ数ヶ月から1年くらいの時間がかかるらしく、

ゴムを交換している最中に地震が来てしまうといけないので、

万全を期してじっくり時間をかけて、ゴムをゴムで覆いながら、

免震ゴムがまったくないという期間を設けずにすむ方法が選択されたそうなのです。

で、その間、住民の方々は今まで通りそこに住んでいられるらしいのですが、

1階店舗に関しては退去しなければならないということで、

交換が完了するまでのあいだ、あの場所にプレハブを建てて営業しているそうなのです。

なんだ、そうだったんだ。

あれは自社ビルではなく仮店舗だったんですか。

セブンイレブンがいずれ元の場所に戻ってきてくれると知って私はホッとしました。

それと同時に、あれだけ大きな千年に一回という震災が来たあとで、

再び私たちが生きているあいだに大きな地震がやってくるはずないだろうから、

じっくり1年もかけたりせずにパパッと取り替えて早く戻ってきてくれたらいいのに、

なんて自分の都合しか考えない自己チューなことも考えたりしていました。

だけど、今朝の地震で思い知らされました。

「千年に一度の」 なんていう形容句も無知な人間が考え出した気休めのキャッチフレーズにすぎず、

千年に2度だって3度だって、ほんの5年、10年間隔でやってくることだってありうるのです。

あのマンションの耐震ゴム交換はじっくり時間をかけてやっていただきたいと思いますし、

その間セブンイレブンが遠くてもじっと我慢したいと思いますし、

そして何よりも、もう死ぬまで大丈夫だろうなんて過信しないで、

あの日のあと抱いていた危機感をこれからも持続していきたいと思います。

それを福島の人間だけでなく、日本中の国民と政府にも共有してもらいたいものだと思います。

台風、初の東北上陸!

2016-08-30 13:54:01 | グローバル・エシックス
台風10号大変なことになっていますね。

私は福島に引っ越してきて22年になりますが、数ある福島のよさのなかでも、

ほとんど台風の被害を受けずにすむことというのは、ゴキブリがいないことと並んで、

けっこう大事な売りポイントだと思っておりました。

日本中あちこちで被害を出しまくった凶悪な台風であっても、

たいてい福島に来る頃までには熱帯性低気圧に変わってしまっているか、

そうならなかったとしても 「ちょっと風強い?」 程度の小規模台風に姿をかえてしまっているので、

子どものころ関東で台風直撃されたときに感じたような恐怖をまったく味わわずにすんでおり、

ああ福島でよかったなあと思うことがしばしばだったのです。

ところが今回の台風10号、よく 「迷走している」 と表現されているようですが、

一般的な台風が南から北上してきて日本列島に沿ってスライス (右曲がり) していくのに対して、

台風10号は東のほうから攻めてきていったん西に行くと見せかけて再び東に戻り、

フックライン (左曲がり) を描いて直接東北を狙ってきました。



こんな動き方をする台風はかつてなかったようで、下記のニュースによれば、

なんと 「統計開始以来初めて東北の太平洋側に上陸」 だそうです。


「台風10号 東北上陸へ 高潮にも警戒」(2016年8月30日7時更新)


これまで経験したことのないような攻められ方ですので、

東北の人たちが上手く身を守りきれるのか不安です。

そして何よりも心配なのは福島第一原発。

統計史上まったくなかった 「想定外」 の台風ですので、

再び 「想定外」 の人災につながってしまわないことを心より祈っております。

何か起こってしまった場合、今回の内閣はあの時以上に頼りにならないからなあ。

スーパーマリオのコスプレじゃお話にならないし


P.S.

動画付きのお天気のニュースはすぐに消えてしまうのは必至ですから、

ここに文章だけ転載しておきます。


台風10号 東北上陸へ 高潮にも警戒(2016年8月30日7時更新)

 台風10号は強い勢力で東北地方太平洋側に上陸するおそれがあります。東北地方では大雨・暴風・高波に加えて高潮への厳重な警戒が必要です。
 強い台風10号は7時の推定で千葉県銚子沖を北上しています。このあと、強い勢力で暴風域を伴ったまま昼過ぎから夕方にかけて東北地方に上陸するおそれがあります。統計開始以来初めて東北の太平洋側に上陸することになるかもしれません。
 台風の接近に伴って東日本・北日本では非常に激しい雨が予想されています。関東と北陸の雨のピークは午前中となるでしょう。東北は昼前から夜のはじめ頃にかけて局地的に1時間に80ミリ以上の猛烈な雨が降るおそれがあります。北海道は30日夜から31日明け方にかけて大雨に警戒が必要です。
 東北地方ではあす31日の朝までに350ミリ、北海道では250ミリの大雨が予想されています。東北では平年の8月1ヵ月分を上回る雨が降り、記録的な大雨になるおそれがあります。早めの避難など、万全の安全対策をなさってください。また、東北では予想最大瞬間風速が50メートル、波の高さは10メートルと暴風や猛烈なしけも予想されてます。特に東北の太平洋側、東日本大震災の被災地では、午後は高潮へも厳重に警戒して下さい。
 きょう30日は西日本では晴れる所が多いでしょう。東海地方は、朝雨が降っていても午後には天気が回復しそうです。最高気温は全国的に30度前後の所が多くなる見込みです。(気象予報士・尾崎朋美)

『リビング福島』よ、お前もか?

2016-07-07 12:38:06 | グローバル・エシックス
今週配付された 『リビング福島』、ご覧になりましたか?

1面、2面は参院選の特集でした。

『リビング福島』 というのは福島県の福島市と郡山市近辺で無料配付されているタウン紙です。

私たちも 「てつがくカフェ@ふくしま特別編」 のときなどには広告を出させてもらっている、

福島市民、郡山市民にとってなくてはならない地域密着型情報メディアです。

その 『リビング福島』 で選挙のことが大々的に取り上げられていたのです。

今までそんなことあったかなあ?

こんなデッカイ扱いなんですよ。



この1面では衆議院と参議院の違いという小学校社会科の復習的内容。

「今さら聞けない参議院をおさらい」 ということだそうです。

こういう初歩の初歩みたいな啓蒙的な内容、私はキライではありません。

続いて2面はこんな感じ。



選挙権年齢が18歳以上に引き下げられたことを中心に、

若者の投票率が低いのでぜひ投票に行きましょうという話と、

そのために取り組んでいる福大や専門学校の若者たちの取り組みの話。

ひじょうに政治的中立性を保ちながら、投票を呼びかけるいい企画かなと思って読んでいました。

ところがっ

特集記事を読み終えてさらに先を読み進めていくと、

4面にドーンと公明党の全面ぶち抜きの広告が出てきました。

さらに先には8面に自民党、12面に民進党のぶち抜き広告です。

うーん、これには頭を抱えてしまいました。

まず 『リビング福島』 に今までこんな政党の全面広告が載ったことがあったでしょうか?

記憶が曖昧なので何とも言えませんが、あんまりこんなもの見た覚えがありません。

そして解せないのはなぜこの3党だけなのか、ということです。

今回の選挙では、候補者の名前を書く選挙区選挙だけでなく、

政党の名称または候補者の名前を書く比例代表選挙も行われます。

その場合の選択肢は上記の3党だけではないはずなのです。

特集記事では表向き政治的中立性を保っておきながら、

広告も含めた紙面全体では明らかに偏りがあります。

これが最近推し進められている 「政治的中立性」 の現れだと取るのは穿ちすぎでしょうか?

もちろんそれぞれの政党が 『リビング福島』 に広告を出したか出さなかったか

だけの問題なのかもしれません。

しかし、『リビング福島』 としては広告収入を得る恰好のチャンスだったはずです。

選挙目前に発行される号で選挙特集を組み、そこに広告出しませんかと持ちかければ、

全面広告にしたって大した出費ではありませんので、

どこの政党も喜んでお金を出したんじゃないかと思うのです。

それがあの3党だけしか広告が出ていないというところに胡散臭さを感じるのです。

ひょっとして最初からタイアップ記事だったのではないかという疑念も湧いてきます。

(このへんすべて憶測で書いていますので、間違っていたら訂正お願いします。)

それぞれの広告では当然のことながら 「改憲」 の 「カ」 の字にも、

「基本的人権」 の 「キ」 の字にも触れられていません。

私は今度の選挙の本当の争点は、日本国民が基本的人権を放棄するのか否かという、

ギリギリの選択を迫られている選挙だと思っていますが、

そのことは特集記事でも3党の広告のなかでもまったく触れられていないのです。

(なんと公明党は高額医療費の立て替え制度を改めました、ということだけの一点押しです!)

そして、特集記事が投票を呼びかけるキャッチフレーズはこうです。

「身近な生活を豊かにするために投票に行こう」

この大事な選挙でそこ押しですか?

せめて 「私たちの生活を守るために投票に行こう」 と書くべきだったんではないですか?

これは政治的中立性を装った争点隠しであり、

それはある特定の政党のための選挙運動にほかならないと思うのは私だけでしょうか?

『リビング福島』、たいへんお世話になっており大好きだっただけに残念です。

まあ、公共放送や大新聞、大メディアがこぞって 「政治的中立性」 の餌食になっている昨今、

たかだか地方密着型タウン情報紙に、報道のあるべき姿を要求しても仕方ないんですが、

新聞も取っておらず、テレビのニュースも見ない福島の若者たちが社会に接することのできる、

数少ないメディアのうちのひとつだっただけに、今回の選挙特集号には驚かされました。

とりあえず、福島大学や看護学校の学生の皆さん、

お願いですから、自分なりにきちんと情報を集めた上で今度の日曜 (までには)、

必ず選挙に行ってください

Q.実質的自由とは何ですか?

2016-07-03 19:51:16 | グローバル・エシックス
ちょっと遡りますが、自由について講義していたときにいただいた質問です。

正確にはこんな質問でした。

Q.実質的自由が何をさしているのかがよく分からなかった。
  「自分の能力ではできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」 ということですか?

んん〜、近いけどちょっと違います。

実質的自由というのは、自らの欲求・欲望をきちんと実現できるという意味での自由のことです。

とりわけ、病気や障害や社会的諸条件等によってそうした欲求・欲望の実現が困難である場合に、

政府の力によってそれを補完してもらう権利と密接に結びつくことになりますが、

私の理解するかぎり、実質的自由は直接的に、

「自分の能力でできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」

を意味するわけではありません。

このへんがちょっとビミョーなところなので、自分としてもちゃんと整理できているか自信ありませんが、

やはりこれは違うと言っておくべきなのでしょう。

「自由」 っていう言葉はいろんなシチュエーションで使われますが、

自分の能力によって自分の欲求・欲望を実現することができるのかどうかという意味で、

自由とか不自由と言うことがありますね。

実質的自由とはそういう意味です。

で、もしも不自由がある場合に、それが本人の責任に帰せられるようなことではなく、

先天的なものであったり、不可抗的なものである場合には、

それを社会的に補完してあげるべきだという話になっていくわけです。

したがって実質的自由とは何かという話と、

実質的に不自由な人がいた場合にそれを補完してあげるべきだという話とは、

段階を分けて理解しておくべきだと私は思っています。

これは次回以降の、本来どの自由が 「自由」 と呼ぶのにふさわしいかという話とも関わってきますが、

自由を理解する上でひじょうに重要な問題にも関連してきますので、

みんなにもぜひ理解しておいてほしいと思います。

たしかに能力が欠落・不足している場合に、その状態を指して 「不自由」 と呼ぶことはありますが、

しかし、ではそうした欠落・不足を誰かに補ってもらったからといって、

そのときに私たちは 「自由になった」 と言うでしょうか?

幸と不幸も単純な二項対立関係にないのですが、

(この意味での) 自由と不自由はそれ以上に単純な対立関係にはありません。

したがって、実質的自由という概念は倫理学においてあまり有効な概念ではないのではないか、

というのが今のところの私の結論です。

これに関してはまだ自分でもきちんと整理しきれていないので、

もうちょっと頭のなかが整理できたら、再論してみたいと思います。

とりあえず今日のところは、いただいたご質問に対し、

A.実質的自由とは、「自分の能力ではできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」
  のことではありません。

とだけお答えしておくことにしたいと思います。

福島大学に期日前投票所設置!

2016-06-28 16:56:19 | グローバル・エシックス
いよいよ今度の7月10日 (日) は第24回参議院議員普通選挙です。

争点隠しされていますが、日本から基本的人権が失われるかどうかの瀬戸際です。

まだ参政権が残されているうちにきちんと選挙権を行使しましょう!

今回から選挙権年齢が18歳に引き下げられたのを契機に、

若者の投票率向上のため、福島大学内に期日前投票所が設置されることになったそうです。

期間が短いですし、福島市民だけしか利用できませんが、

利用できるし必要な人はぜひ利用してみてください。


「【お知らせ】期日前投票所設置について

 公職選挙法の一部改正により、選挙権年齢が引き下げられたことから、若者の投票率向上に向け、
第24回参議院議員通常選挙において、本学構内へ下記の日程で期日前投票所が設置されます。
 つきましては、3月21日以前から福島市に住民票があり、引き続き福島市にお住まいの教職員
も対象となりますので、投票日(7/10)に都合がつかない際は、是非、本学構内期日前投票所をご
利用ください。

○期日前投票所設置日時・場所
 6月30日(木)、7月1日(金) 
 10:00~17:00
 大学会館 大集会室

※なお、このメールは一斉送信により、期日前投票所対象区域外にお住まいの皆様にもお送りして
おります。どうぞご容赦ください。

****************************************
福島大学学生課
〒960-1296 福島市金谷川1番地
TEL 024-548-5304
FAX 024-548-7681
Email gakusei@adb.fukushima-u.ac.jp
****************************************」


実際のところ、福島市に住民票のある学生は別に学内に期日前投票所が設けられなくても、

投票に困ることはないと思うので、全国どこに住民票のある学生でも利用できるような、

期日前投票所を作ってもらえるといいと思うのですが、

それは次回以降に向けて選挙管理委員会の人々に考えてもらうことにしましょう。

実家に住民票があって7月10日までにどうしても帰省することができないという人には、

こんな方法がありますからぜひ実践してみてください。


「住民票を今いるところに移してないから投票行くのムリ」→いまいる場所で投票する方法


こんな裏技を使えば福島市民以外でも福島にいたまま投票できるのです!

さすがに学内の期日前投票所でこれをやるのはもうギリギリ間に合わないかもしれませんが、

期日前投票所はあちこちにありますので、ぜひこの方法で投票してみましょう!

特に私の講義を取っている人、中学校社会科や高校の地歴・公民の免許を取ろうとしている人、

そもそも教員免許を取ろうとしている人たち、

学校教育の根幹には 「公民としての資質」 の育成が掲げられているのですから、

まずはあなた方自身が公民としての使命を果たしてください。

選挙にも行かないような人に教員免許なんてあげたくないし、

ぼくの授業の単位もあげたくないです。

初めての国政選挙で棄権デビューなんていう怠慢な日本人にだけはならないでください。

権利は行使しないと失われます。

そんなのは権利に関するイロハで当たり前のことだけど、

今や、人権すら行使しないと失われかねない世の中になってしまいました。

また今度なんて思ってると、実はこれが最後のチャンスだったなんてことにもなりかねません。

「いつまでもあると思うな、選挙権と基本的人権」

日本人として果たすべき責務を果たしてきてください。

Q.多様な価値観の共存はできるのでしょうか?

2016-06-18 18:39:26 | グローバル・エシックス
今日は 「看護教員養成講座」 のほうでいただいた質問ですが、
内容的には福大の 「倫理学概説」 のほうでいただいたとしてもおかしくなかったような質問です。
多様な価値観の共存というのはまさに私の倫理学の根本問題といっても過言ではありません。
正確には次のような質問でした。

Q.教育方法の中で「プラグマティズム」を用いたデューイの教育論を学びましたが、
  多様な価値観の共存はできるのでしょうか?
  宗教的な対立はなくすことができるのでしょうか?

「教育方法」 を教えてくれているのは福大のS先生でしょうか?
S先生とはよく一緒に飲みに行ったりする仲なんですが、
あんまり真面目な思想家の話とかしたことありませんでした。
S先生、デューイなんか語っちゃうんですね。
今度ゆっくり話してみたいと思います。

さて、「教育方法」 のなかでデューイのどんな話を聞いたのかわかりませんので、
今日はデューイのことは置いておいて、多様な価値観の共存という点に絞って書いていきます。
デューイの社会論、政治論ということで言うと、
ネットで簡単に見つかる次の論文が参考になりましたので、興味があったら見てみてください。

野村紘彬 「トランズアクションの概念とジョン・デューイの公衆論
      ――『公衆とその諸問題』に示された民主主義論の前提――」


多様な価値観は共存できるのか?
宗教的な対立はなくすことができるのか?
この問いには端的に次のようにお答えしておきましょう。

A.多様な価値観は共存できます。
  宗教的な対立はなくすことができます。

実際に皆さんのご家族親戚のなかや、職場のなかでは多様な価値観が共存してはいませんか?
また第1回のときにも話したように、日本ではさまざまな宗教が対立せずに、
みんな12月にはクリスマスを祝い、年が明けたら神社に初詣に行き、
お盆には (お盆に限らず) お寺に墓参りに行ってるじゃないですか。
まあここまで諸宗教が対立せずにうまいこと同居してしまっているのは、
世界的に見ても日本くらいのものですが、
それでも、世界史のなかで血で血を洗う凄惨な戦いを繰り広げたカトリックとプロテスタントは、
今やほとんどの国で何とか共存してやっていっているじゃないですか。
したがって、宗教的対立をなくすことはできないなんて悲観する必要はないと思うのです。
もちろん現在も宗教的対立に発するテロ行為は世界中で起こっていますが、
その現状を見て、共存なんかできない、対立をなくすなんてムリと即断してはいけないと思います。
以前に、以下のような質問をいただいてお答えしたことがあります。

「Q.人はなぜ争い続けるのか?」

ぜひそこに書いたことも読んでみてください。
けっきょく本能ではなく文化の問題だと思うのです。
人間は、対立を強め、排除し合い、争い続ける文化を作ることも可能ですし、
対立を乗り越え、互いの存在を承認し合い、ともに共存していく文化を作ることも可能です。
人類がどちらを選ぶのかという選択 (=自由) の問題であり、
子々孫々にいずれの文化を伝達していきたいかという教育の問題であると思います。

たしか前回、「問いの力」 ということをお話しさせていただきました。
その話に絡めて言うならば、この問題に関しても問いの立て方が大事だと思います。
多様な価値観は共存できるのか、宗教的な対立はなくすことができるのか、と問うのではなく、
また、なぜ多様な価値観が共存できないのかとか、
なぜ宗教的対立はなくせないのかと問うのでもなく、
どうやったら多様な価値観を共存させることができるのか、
いかにしたら宗教的対立をなくすことができるのかという形で問いを立て、
その問いの答えを探る方向でロゴス (言葉=理性) を使っていけばいいのだと思うのです。

実は哲学史上、カントとデューイの思想は対極にあると言ってもいいくらい対立しています。
デューイのプラグマティズムとか道具主義という立場は、
カントを意識しつつわざとカントが忌み嫌った言葉を選んで組み立てられていると言っていいでしょう。
その対立のなかで、私はあくまでも自分のことをカント主義者だと思っていますが、
しかし、今日書いたようなことはそこはかとなくデューイの立場に近づいてしまっています。
どうです、私のなかでみごとに対立する価値観が共存しているじゃないですかっ!
多様な価値観が共存することはできないなんて豪語している人にはこう言ってやりたいです。
「まさおさまを見よ!」

Q.なぜバーリンは自由を消極的自由に限定しようとするのですか?

2016-06-13 12:39:04 | グローバル・エシックス
このところ看護教員養成講座の受講生の方々に向けた投稿が続いてしまっていますが、
一昨日3日前4日前
本業 (「倫理学概説」) のほうでも質問は目白押しなのでした。
前回、制限つきの自由に関する質問にお答えしましたが、今回も制限つきの自由に関する質問です。
制限つきの自由のことをアイザイア・バーリンが 「消極的自由」 と名づけたことを紹介しましたが、
その消極的自由に関して何人かの方から質問をいただきました。

「消極的自由のみを自由というのではないかというアイザイア・バーリンの考え方が、いまいち理解できずにいた。」

「『自由を積極的自由と消極的自由に分けたが、無意味だから自由は消極的自由だけだ』 と著者は書いた、と先生は言ったが、アイザイア・バーリンはなぜ無意味なものだと判断したのか気になった。」

「アイザイア・バーリンの 『2つの自由概念』 についての疑問です。積極的自由と消極的自由の判断基準は何なのでしょうか。政治への自由が積極的自由に分類されるのはわかるのですが、残りの2つの自由についてはなんだかモヤモヤとします。」

バーリンの議論をきちんと説明せずに、ただ消極的自由という言葉だけを紹介してしまったので、
こうした疑問をもたれるのは当然の帰結ですね。
申しわけありませんでした。
この問題もきちんと説明しようとするとけっこう面倒くさくて、
バーリン自身はあの論文で何と言っているのか、
研究者のあいだではそれがどう理解されているのか等々、
正確を期そうとするとなかなか厄介な問題をはらんでいたりして、つい手抜きしてしまったのです。
まあ、あんまり学問的に厳密な話をしたいわけではないので、
とりあえずこのあいだの講義で話した3種類の自由の関係を理解してもらえる程度に、
補足説明を加えておきたいと思います。

バーリンは、各人がいかなる他人からの干渉も受けずに、自分のしたいことをし、
自分のありたいものであることを許されている状態を、消極的自由と呼びました。
この定義だけを見ると、誰からも何の束縛も制限も受けずに何でもありとあらゆることをしていい
「無制限的自由」 のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。
ここでバーリンが言っているのは、他人の自由を侵害しないかぎりでの制限つきの自由なのです。
(ちなみに 「無制限的自由」 とか 「制限つきの自由」 という語は、
 みんなの自由に対する誤解を解くために私が勝手に命名したものなので一般的には通じません。)
バーリンはこのような自由を 「~からの自由」 とも言い換えています。
不当な干渉や強制からの自由ということですね。
(私は細心の注意を払って 「不当な」 という形容詞を付け足していることに注意してください。)

これに対して積極的自由とは、まるで自分が物や動物や奴隷であるかのように、
外的な自然や他人によって決定されるのではなく、
主体としてみずから決定を下し、自分自身の主人であることのできる自由です。
バーリンはこれを 「~への自由」 と言い換えています。
自分自身の目標や方策を考えてそれを実現する人間らしい、理性的な自由です。
バーリンによる積極的自由の説明を読むと、
まず第一に、ルソーやカントの言う 「自律的自由」(=自己決定への自由) のことが思い浮かびます。
おそらくバーリン自身が念頭に置いていたのも自律的自由なんじゃないかなという気がしますが、
ただ、先の説明にも 「自分自身の目標や方策を考えてそれを実現する」 という表現が含まれていて、
それは 「実質的自由」(=目標達成への自由) のことを指しているようにも聞こえます。
バーリンは消極的自由 (=干渉・強制からの自由) を論じるときに強制についてこう述べています。

「強制とは、することのできぬ状態のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。」

ここで、強制という語には馴染まず、したがって自由の欠如とは呼び得ないものとされているのは、
自らの能力では自分の目標に到達することができないという実質的自由のように思えます。
このようにバーリンの言う積極的自由は、
自律的自由のことを指しているようにも見えれば、
実質的自由のことを指しているようにも見えて、判然と区別できないわけです。
バーリンが2つを同一視していたのか、
区別はわかった上でひとまとめに論じようとしていただけなのか、に関しても不明です。

というわけなので、のちの人たちも消極的自由と積極的自由のことを説明しようとする際に、
積極的自由を自律的自由と解釈したり、実質的自由と解釈したりいろいろなのです。
例えば同じウィキペディアでもこちら↓では積極的自由=自律的自由と捉えて解説しており、

「自由論 (バーリン)」

こちら↓では積極的自由=実質的自由と捉えて解説してます。

「消極的自由」

ただまあ両方読んでいただければおわかりのとおり、
どちらの意味でとってもバーリンの言う消極的自由とは対立することになります。
つまり、どちらの意味であれ積極的自由というのは、ある種の干渉や強制を容認してしまいます。
自律的自由としての積極的自由の場合は、民主的に多数決によって理性的な決定が下されれば、
それを少数者に対して強制してよいことになります。
同性愛や夫婦別姓制度は 「正しい」 家族のあり方に反していると多数派の人間が判断したならば、
異性愛や夫婦同姓を少数派の人たちにも無理強いしてよいということになってしまい、
少数派の人たちの強制されたり干渉されたりしないという消極的自由が奪われてしまいます。

実質的自由としての積極的自由の場合、目標の達成が困難な人々を助けるためであれば、
国民全員から税金や保険金を強制的に徴収してよいということになります。
貧しい人を救うために裕福な人に対して累進課税を課したり、
重い病気をもつ人の医療費をまかなうために健康な国民全員に保険加入を課すなど、
国家権力による財産権への干渉 (消極的自由の侵害) が制度化されてしまいます。

バーリンはユダヤ人として、ナチズムやファシズム、スターリニズムなどの
全体主義的政治運動がもたらした歴史的悲劇を目撃してきました。
その彼からすると、自律的自由であれ実質的自由であれ積極的自由というのは、
国家権力の権限を強めてしまうことによって全体主義を後押しする危険性をはらんだものであって、
国家権力による干渉や強制を最小限にとどめようとする消極的自由こそが、
本来、自由と呼びうるものということになるのでした。

この程度の説明で納得いただけたでしょうか?
前回書いた、国家権力と自由 (人権) と憲法の三者の関係にも関わるような問題でした。
大事な問題ですのでぜひ復習しておいてください。

Q.制限つきの自由=国家権力からの自由なのか?

2016-06-08 23:48:07 | グローバル・エシックス
「倫理学概説」 で自由についての講義をしたあとのワークシートでいろいろな質問を頂戴しました。

可能なかぎり順番にお答えしていきたいと思いますが、

まずは次のような質問からお答えしてみましょう。

「制限つきの自由=国家権力からの自由とされたが、イマイチよくわからなかった。

 国家権力が制限を加えることで、その範囲内で自由を保持しているのであるから、

 国家権力による自由ではないのか?」

これは学生さんによく見られる誤解ですし、

人権を考える場合にこの誤解を解いておくことは最も重要ですので、

この問題から考えていきましょう。

「制限つきの自由」 と言う場合に、自由を制限するのは法やルールであるという感じがします。

実際のところ最終的にはその通りになるのですが、

私は制限つきの自由を説明するときに次のように言い換えました。

「万人の自由と両立するかぎりでの自由」 とか 「他人の自由を侵害しないかぎりでの自由」 と。

つまり、ある人の自由を制限する根本にあるのは法やルールではなく、他の人の自由なのです。

では具体的にどういうふうに他人の自由によって制限されるのか、

どんなことをしてしまうと他人の自由を侵害したことになるのかといったことは、

個々の法律 (実定法) によって規定されることになるので、

最終的にはそうした法律の範囲内での自由ということになります。

しかし重要なのは、それらの法律はあくまでも

万人の自由を両立させるために立法されたものでなければならない、ということです。

というのも、法律は強制力をもっていますから (違反者に対しては暴力的に罰を科することができる)、

いったん法律が制定されてしまうと、人々の自由はその範囲内に制限されてしまいます。

もしもこの法律が国家権力によって恣意的に、

権力者にとってのみ都合のいいように制定されてしまったら、

万人の自由の共存どころか、一方的に国民の自由が損なわれることになってしまいます。

ですから、法律の範囲内でのみ自由が許されるということではなく、

むしろ逆に、万人の自由を共存させるような法律のみが立法されることを許され、

そのような法律のみが自由を制限することができる、という関係になるのです。

歴史的に見ても、国家権力こそが国民の自由を毀損し抑圧してきたということは明らかでしょう。

ですから、万人の自由はまず何よりも国家権力からの自由でなければならないのです。

そのために定められたのが憲法です。

憲法というのは国民の自由 (人権) を国家権力から守るためのものです。

国家権力が勝手に法律を定めて国民の自由 (人権) を奪ってしまわないように、

万人の自由 (人権) を守るための法律や政策だけが行われるよう、

国家権力を制限しているのが憲法なのです。

その憲法の枠内で立法された法律であるからこそ、法は人々の自由を制限することができるのです。

制限つきの自由が、国家権力によって守られる自由ではなく、

国家権力から守られるべき自由である、ということの意味がわかっていただけたでしょうか。

以前にダグラス・ラミスの 『憲法は、政府に対する命令である。』 という本を紹介しましたので、

ぜひそのブログと本も読んでみてください。

国家権力と国民の自由 (人権) と憲法という三者の関係は、

今後の日本政治において重要な争点になってきますので、ぜひ正しく理解しておいてください。

特に18歳から選挙権が与えられた今日、

大学生である皆さんはもちろんのこと、皆さんが教員となってから教える子どもたちにとっても、

何よりも重要で、ヘタしたら彼らの自由 (人権) が根こそぎ奪われることにもなりかねません。

政治のイロハ (例えば立法府と行政府の区別とか) も知らない政治家たちによって、

私たちの人権が、国家権力の定める法律の範囲内での自由に狭められるなんてことになったら、

未来永劫、日本に生まれてくる子々孫々に対して顔向けができなくなってしまうでしょう。

時勢に流されず責任もって正しい知識を伝えられるよう、研鑽を積んでおいてください。