まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

さおりとさやか

2014-07-31 21:13:03 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
こんな卵を教えていただきました。



「たまご舎」 の 「さおりとさやか」 です。

「たまご舎」 というのは宮城県蔵王町にある卵&卵製品の専門店だそうです。

私は知りませんでしたが、福島駅エスパルのなかにも支店があるそうです。

こちらは卵そのものにこだわって 「芽ぶき卵」 というものを生産・販売すると同時に、

それを使った卵製品を数々売り出しているのですが、

その豊富なラインナップのなかでも異色なのがこの 「さおりとさやか」 です。

これは卵製品ではなく卵そのものです。

が、卵がデカイです。

ちょっとこの写真ではわかりづらいかもしれませんが、右側のLサイズ卵と比べて一回り大きいです。



そして、パックに 「黄身ふたご」 と書いてあるとおり、黄身が双子なのです。

割ってみるとみごとにこうなっています。



これを教えてもらって私は驚喜しました。

私のカルボナーラのレシピにピッタリだったからです。

私が作るカルボナーラは以前にご紹介した 『一個人 男のイタリアン入門』 のなかの、

片岡護師匠によるレシピです。

これが一人前を作るのに全卵1個にプラス黄身だけ1個分を使うんです。

カルボナーラのレシピには黄身だけで作るというのもけっこうあるんですが、

この片岡護レシピの全卵1個+黄身1個というのは私の経験上ベストバランスだと思います。

全卵1個+黄身1個に生クリームと粉チーズと塩コショウを入れよくかきまぜておく。

ニンニク1かけで香りをつけたオリーブオイルでベーコンを炒めそこに白ワイン20ccを投入。

そこにパスタを入れソースをかけ、軽く火にかけながら濃度を調整していく。

たったこれだけの手間でイタリアンレストランと見紛うばかりのカルボナーラができてしまうのです。

このレシピで唯一問題があるとするならば、

1人前につき1個分の白身を廃棄しなければならないことでした。

「リストランテ アルポルト」 ならその白身もちゃんと別の料理に活かしているのでしょうが、

ただでさえ手際が悪く1品料理を作るのが精一杯な私の場合、

カルボナーラを作るたびに白身1個分だけを使うような別メニューを用意することはできません。

というわけでいつも台所の流しに虚しく白身が投棄されていたのでした。

(そして白身を流しに捨てると詰まりやすくなる

そこでこの 「さおりとさやか」 です。

これぞまさしく片岡護レシピのために開発された卵といっても過言ではないじゃありませんかっ

実際にこれを使って作ってみたところまさしくバッチリでした。

(あまりの出来のよさに写真撮るの忘れて食べちゃった

残念ながら 「たまご舎」 エスパル店には 「さおりとさやか」 は置いていませんでしたが、

とりあえずこの1パックで6回はカルボナーラが楽しめそうです。

今後はエスパルを通るたびに 「さおりとさやか」 はありませんかと圧力をかけて、

福島での発売を促していきたいと思います。

医療生協わたり病院・医療倫理講演会

2014-07-30 22:52:51 | 生老病死の倫理学
本日は渡利にある医療生協わたり病院で講演会を行ってまいりました。
福島に来るまでは医療生協という組織があるなんて知らなかったため、
こちらに来て初めてそういう存在を知り、大いに活用させてもらっていました。
最近では町医者で診てもらって紹介状を書いてもらってからでないと、
この手の大病院に来られないことになりましたから (直接来るのは可能だが初診料がかさむ)、
もう久しくこちらの病院にかかっていなかったため、ものすごく久しぷりの来院です。

今回は先方が私のホームページで、2008年に新潟市民病院で話した
「プロフェッショナル倫理としての医療倫理」 という講演を見つけて、
それについて話してほしいとのことでしたので、ほぼ同じ内容で話してきました。
この話は実は大学院の 「地域文化創造特論」 のなかでも話しているのですが、
医療倫理や生命倫理の話よりも、プロフェッショナル倫理に重点を置いた内容なので、
医療従事者ばかりでなく一般のプロの方々にも当てはまるような話です。
専門家の方々はもっと高度な内容を期待しているのかもしれないなあとは思いつつ、
ちょっと目線を変えたこういう話も必要なんではないかと思い、そのまま話すことにしました。

本日の講演会は医師、看護師、その他病院スタッフ総出の研修会だそうです。
平日の午後にそんなものを開催して病院のほうはどうなるんだろうと心配しましたが、
毎週水曜日の午後は2時間くらいさまざまな研修をするために時間を空けてあるのだそうです。
講演中もたぶん病棟から呼び出しを受けて会場から抜け出したりする方がいらっしゃいましたが、
そんななかで何とか時間を作ってみんなで能力や倫理観を高めようとする姿勢は、
それ自体がプロフェッショナル倫理の実践であると感じました。
皆さん、こんな感じで熱心に聴いてくださいました。



(うしろのほうから席が埋まり、司会の方がいくら前から詰めてお座りくださいと言っても、
 どうしても前のほうが空いてしまうというのは普遍的な人間本性ですので仕方ありません。)

講演は以下のような内容で話していきました。

「プロフェッショナル倫理としての医療倫理」
1.プロフェッショナルとは何か?
2.医療倫理の変遷
3.ミスとウソ
4.医療受難の時代
5.プロとして楽しく働くために

まずはお得意の言語分析 (原語分析) から入っていく、プロフェッショナルとは何か?の話。
そこからプロフェッショナル倫理の話に移して、
そのままの流れで医療倫理の変遷、つまりSOLからQOLへ、
パターナリズムから患者の自己決定へという医療倫理の移り変わりの話をします。
パターナリズムについては詳述する予定でしたが、
ついテンパッてしまって過剰なパターナリズムや歪んだパターナリズムの話を忘れてしまいました。
まあその代わりにナチスのT4作戦優生保護法の話をできたのでよしとしましょう。
その後、医療倫理に限らずプロフェッショナル倫理一般にとって重要だと思っている、
ミスとウソの話をさせていただきました。
ウソに関わってはうちの父の最期の話なども絡めながら、告知と関連させて論じました。
患者は真実を知らされなければ自己決定することはできない、
ということを言おうと思っていたのですがそれも言い忘れてしまいました。
そして、現代は人類史上最も医療が迫害され、医療従事者が信頼も尊敬もされず、
むしろ非難・攻撃の的となってしまうような医療受難の時代であるという話をしました。
これには皆さん思い当たる節があるようで、うんうんとうなずきながら聞いてくださいました。
最後は、プロとして楽しく働くために倫理が必要なのであると結論づけて講演を終えました。

その強引なまとめにどこまで納得していただけたかはわかりませんが、
暖かい拍手と何人かの方から嬉しいお言葉もいただけたので、
この講演はいちおう成功であったと思っておきましょう。
学校で講演をするときは感想用紙を書いてもらい5段階評価もしてもらっているのですが、
どうも一般の方々 (大人の方々) 相手のときには感想用紙を用意するのを忘れてしまいます。
今後のためにも、聴衆の皆さんの意見を吸い上げる仕組みは作っておいたほうがいいでしょう。
というわけで、実際にお聞きになってどうだったのかはわからないままですが、
とにかく前期最後の大仕事を終えホッと一息といったところです。

そう言えば講演の最後に医療生協わたり病院の理念や基本方針を引用させていただきました。
こちらです。

医療生協わたり病院の理念
私たちは、患者の権利を尊重し、いつでも誰もが安心してかかれる病院を目指します。

医療生協わたり病院の基本方針
1. 私たちは、日々医療技術の向上に努め、親切で安全な良い医療を提供します。
2. 私たちは、保健・医療・福祉の連携を進め、地域の健康づくりに貢献します。
3. 私たちは、患者・組合員との協同の医療を推進します。
4. 私たちは、国民皆保険制度を守り、患者負担の少ない医療制度の実現を求めます。

やはり医療生協というだけあって、たんに患者さんに医療を施して医療報酬をいただくという、
フツーの病院がやっていることとは見ている先がちがいます。
「いつでも誰もがかかれる病院」 という理念は一病院の努力によって実現可能な話ではないですが、
そういう社会になってほしいと私は切に望みます。
「わたり病院はあなたの病院です」 というメッセージは、
私がどれだけ小難しいことを述べても到底かなわないような理想だと思いました。
釈迦に説法とはまさにこのことだなと思いながらも、
実際に日本のヘヴィな医療現場で心身をすり減らしている方々と、
ほんのわずかではありますが、時間を共有できたことに深く感謝する1日でした。
どうもありがとうございました。

「倫理学概説」 での学びとコンピテンシー

2014-07-29 14:46:54 | 教育のエチカ
「倫理学概説」 の学生アンケート結果はすでにご報告しました。
ところが、新しい学生アンケートの様式には教員からの自由質問の欄があったのですが、
最後の授業のドタバタのなかでその欄のための質問をするのを忘れてしまいました。
ただまあ最後の授業のときにはワークシートも書いてもらい、
その最後で次のような質問もしてありましたので、それでよしとしましょう。

「『倫理学概説』 全体を振り返って、どんな学びがあったか、自分にどのような力がついたと思うか、
 その他この授業や担当教員に対する感想や意見を自由に書いてください。」

この問いに対してみんなけっこうたくさん書いてくれていました。
1年生が多かったからなのか、少し余裕をもって時間を取ることができたからなのか、
たぶん例年にない熱いメッセージをいただくことができました。
受講生の皆さん、本当にありがとうございました。
文中 「ワールドカフェ」 とか 「フレーリーゲーム」 という単語が出てきますが、
それはリンク先をご参照ください。
今年は 「ワールドカフェ」 は2コマ使ってやりました。
最後は私がマインドマップにまとめる形で各班の発表を板書しました。
こんな感じです。



ちょっとこの日は私の調子が悪くて、せっかくのみんなの発表をうまくまとめられませんでしたが、
こうした試みや、その他私の授業全般からいろいろと学んでもらえたようです。
そして、私が重視している力 (=コンピテンシー) に関しても、
たった半年で身に付いたとは言えないかもしれませんが、ある程度伸ばしてもらえたようです。
似たようなことが書いてある場合もあるのですが、
なんだか取捨選択できなかったので、相当たくさんご紹介させていただきます。


●今まで、自由や幸福についてはっきりとした考えを持っていなかったし、考えたこともなかった。この授業でそれらのことを深く考えるようになり、具体性を帯びた考えが生まれていった。自分の考えを他の人たちと意見交換をすることで、自分の考えを人に伝える力というものが少しだけついたと思うが、それは難しいことで、まだまだ足りないと思った。先生の授業は板書が多かったが、書いていて嫌にならないようなおもしろくて、丁寧な説明があった。

●ただ単に先生の話を聞いて、板書したのをノートにとって、という授業ではなく自分自身の意見を考え、それをまとめ、発表までしなければならなかったので、とても大変でしたし、難しく感じましたが、これから先も発表の機会がありますので、今回のことを生かせるといいと思いました。

●グループワークが (他の授業と比較して) 多くて、うまくいかずにツラいなぁと感じることも多かったです。しかし、さまざまな学年・専攻の人たちと考えを深めようと努力できたことは良かったです。テスト…不安ですが、頑張りたいと思います。

●全体的にいろいろな思想・考え方を学んできたが、それを鵜呑みにして捉えるのではなく、自分の考え・意見を持つことをこの授業の中で大いに学んだ。自分が成長できたのか、よく分からない部分もある。しかし、グループの中で自分の意見を持ったり、相手を納得させるためにはどうしたらよいのかなど、考える力が付いたように思える。

●私たちが当たり前のように受け入れてしまっている社会に何らかの疑念を抱き、自らの求めるもの (自由や幸福) を実現するためにどう考えていけば良いのかの指標が得られたと思う。他の授業ではあまり経験できない体験 (ワールドカフェなど) を通して単に意見を言うだけではなく論拠を考える実践ができ、大変興味深い授業であったと考える。

●言われたことをただ信じるのではなく自分なりの考えを持ったり、批判的に見たりする力がついたと思う。またディスカッションやワールドカフェなどを通して相手の考えを整理する力もついたと思う。また自由とは何か?幸福とは何か?などの答えのない問題を自分なりに考えるのが面白いと思った。

●グループで知らない人と話す、という授業はとても為になるものだった。自分から積極的に話を持ち出す力であったり、人の意見を聞く力、それを理解する力、それに対して意見する力が私はこの授業で少しは身に付いたように思う。

●ものごとを言葉の意味から考えていく力、問題について答えだけでなく、その問題自体について考えていく力、発表やディスカッションをやる上でコミュニケーション能力をつけることができたと思う。

●講義型授業が主の中にフレーリーゲームやワールドカフェのようなグループワークが設けられているのが良いと思った。今、うまくいかなくても少しずつ自分の考えを述べられるようにならなくてはならないと思いしれされた。

●この授業では、話し合いの場が多くあり、初めは自分の意見を言ったり、相手に反論したりすることには躊躇しましたが、最後の授業では、あまり気にせずにそれらができたので、自分にそのような力が付いたと自信が持てました。人権、自由、幸福について考えるうちに、今まで疑問を持つこともなかった社会情勢、システムについても色々考えるようになりました。本当にいい機会になりました。ありがとうございました。

●最初は具体性が掴めない題材ばかりでとても大変だったが、結果として自分でも驚くほど考えが深まったように感じる。対人関係もあまり上手く出来なかったので、授業での話し合いを通して分かり易く自分の考えを伝えるのは難しかったが、とても良い内容にまとめることができたりして、楽しく学ぶことができたと思う。

●自分の考えをまとめることがうまくなったことと、さらに別の人の意見が話し合いを通して、より深く考えることができた。知識として、ただ留めておくのではなく、学んだことを生して、話し合いの幅を広げることができた。この授業で学んだことを別の授業でも生かしていきたい。

●ただ教えてもらうのではなく、皆で話し合い考えを深めていった。これこそが、真の 「学び」 なのだなと感じた。大学ではこの 「学び」 の力が必要だと感じ、その初めての 「学び」 が、しっかり話し合いができた 「倫理学概説」 で良かったと思う。正直まだ自由と幸福について自分の中でまとまっていないが、あと一週間で自分が納得できるようにまとめたいと思う。

●自分はこの授業を受けてから、ニュースやSNSの書き込み等を色々な事を考えて見るようになりました。また、海外の政治システムや国内の政治システムとを比べて、自由とか制限とか、これはどうなんだろうなど時に懐疑的に見ることが非常によく出来るようになったというのが少しずつですが、自分の中に感じられるようになってきました。この授業を活かして、これからも日常的にそういうことを少しずつでも考えながら生活していきたいと思いました。後はテストで失敗しないようにしたいと思います。面白い授業ありがとうございました。次に先生の授業が取れたら取りたいと思います。

●自分なりの考えは色々持っていて、新しい考え方を大学に入り身に付けてきたが、いざそれを制度・システムにするためにどのように生かすべきか考えたことがなかった。今でも、どうやったらいいとか明確なものはないが、自分が考えたことをどう生かすか考える時間をつくれたことは自分にとって、すごくプラスになっていくと感じた。身に付けるだけでは受け身で、生かそうとすると自分が動かなければいけない。自分から考えていけたのはとても良かった。ありがとうございました。

●話し合いをする機会が何回かありましたが、その中で自分から参加しようとすることが大切だと学びました。みんなそういう気持ちを持っていないと会話も続かないし、話し合いの意味もないと思いました。倫理学はとても奥が深い学問なので、半年の授業で理解するのは難しいと思います。しかし、他の学問とも関連するところがあるので合せて学びを深められたらなと思いました。質問は授業のはじめなどに口頭で答えていただいた方が良いと思いました。

●一つの単語 (「幸福」など) をラテン語などの元の言葉から説明していく手法は非常に効果的だと感じた。これを基に、自分でも倫理学について学びを深めつつ、自分がいざ教壇に立った際に参考にしたい。自身のブログを講義と連動するのは、とても新鮮で、復習しやすかった。ブックマークに入れているので定期的に覗いてみたい。

●学習内容の単語等は知っていたが、その概念やどのような流れで生み出され、変化してきたのかといったことについて知識・認識が浅いということを実感した。また、学習する上で、私は 「問いを問い直す」 という姿勢が足りないなと自分で思ってはいたのですが、なかなか直せていないので、この授業で学んだのをきっかけにこれから意識していきたいと思いました。普段の生活の内で倫理的な考え方をもって物事をとらえる力や、ワールドカフェで自分の考えをもつ力、他者の意見を理解しようとする力、話し合いの中で必要とされる力も身に付いたと感じる。

●「倫理」 とは、人間集団の中の決まりやルールであるが、その目的は人々の自由と幸福を実現するためのものであると自分なりに解釈しました。また、異なる意見を持つ人を尊重し、共存するための努力の大切さを学びました。今回の授業では、グループディスカッション、フレーリーゲーム、ワールドカフェといった学生同士の意見交換の場が多く楽しく参加させていただきました。公開授業として小野原先生の授業は三回受講させていただきましたが、用語の解説等も丁寧で大変理解しやすく有意義なものでした。また、紹介された図書や映画なども、出来る限り見るようにして、「倫理」 に関する興味を深めることができたことも大きな収穫でした。

●この授業を振り返って、私が一番成長したなと思うことは、様々な角度から物事を見るということである。ある意見をうのみにせず、批判的な視点をもって物事を見る力が付いたように思う。また、自分の意見を相手に伝える場面が多く、コミュニケーション能力も以前よりついたと思う。倫理学の授業は、いつも私に新しい発見をくれるので今回楽しんでうけることができた。ありがとうございました。

●やはり授業を受ける以前にも増して、誰もが幸せになる社会なんて理想でしかないという考えにはなってしまった。ただ結局この考えになったのも、ワークショップやワールドカフェをやったからであり、決して無駄ではないと思う。ギリシアのソクラテスあたりから始まった人々の自由や幸せというのはまだまだ2500年くらいしかないと私は思っている。だからこうして地球の人全員で、人々の幸せについて一生懸命にこれからも考えていけば、より良い世界に少しでもなっていけるとは信じている。この授業の努力だって決して無駄じゃない。

●「倫理学」 というと、高校の倫理のような、人物とその思想について学ぶものだと思っていたが、自分たちで考えていく、という内容が多かったので、予想をはるかに超えた密度のものでした。改めて、高校までの 「学習」 と大学の 「学問」 の違いが体感できました。自由と幸福については、問い続けなければならないテーマだと思うので、大学を出てからも、たまには考えてみようかなと思えました。

●普段何気なく、身近にある考えを考えるきっかけになりました。物事は全て当たり前ではなくて、様々な考えの上に成り立っているのだと考え直しました。そのおかげで、様々な角度から視点を変えて見るという力を付けられたように思います。先生の授業は、自分が教員になったときの授業を考える上でとてもためになりました。

●自由・幸福などの抽象的な事柄について考えを深めていくのは非常に難しいことであった。ただ、ドラマやドキュメンタリーを見た際、倫理について考えることが増えた。毎回、難しかったが考えさせられる講義であった。

●倫理学概説では、私たちが日々当たり前だと思っている考え方や事柄について深く考えるということが多くありました。よって、この授業では自分の思考力や関連付けて考える力を伸ばすことができたと思います。また、ワークショップなどを通して、相手の考えと自分の考えを比較し、生かしていくこともできるようになりました。この授業はワークショップなどの話し合う形式のものが多く、とても楽しかったです。普段話す機会のない人と深く話し合いができる授業はなかなかなかったので1年生の内に受講して本当に良かったです。

●人に自分の意見を言えるようになるプログラムが設定されており、少しずつ力を付けられた。考えたことのないようなことを学び、考えたことは大きな力となった。今後は相手を納得させられる力を身に付け、自分の意見に説得力を持たせられるようになりたい。

●みんなで難しいことを考える、答えなどないものを考えるという機会がなかなかないので、自分の考えの幅が広がり良かった。そして、大きく気付いたのは、自分は自由・幸福を何か分からず受け取っていたという恥ずかしさ。未だ、理解の域には至ってないが、これから社会に出たり、投票する上でとても大きなきっかけとなった。

●幸福の定義や今回の社会システムについてなど、自分なりの意見を考える作業や、昔の社会システムの欠点を見つけて批判する作業などがあったおかげで、ただ聞くだけではなく、その内容について深く考えるというステップを踏みながら学習することができた。

●物事を深く捉える方法を学び、特に自由や幸福、社会システムについては、本当に奥深くまで考えることができるようになった。また、倫理学概説なので倫理学の全ては捉えきれてないが、初歩としてはとても参考になり、もっと社会について、倫理について学びたいと思うようになることができた。

●時々行われるグループワークが、人見知りの私には少し辛かったです。ですがその分、前より落ち着いて発言できる様になった気がしました。貴重な危険だったと感じます。話を聞くだけでなく、意見の交換ができる授業だったので、様々な考えに触れることができて興味深かったです。教職関係の授業で聞いた 「学び合い」 「他者との対話・共有」 というフレーズを思い出しました。幸福や自由について真剣に考える機会は少ないと思うので、貴重な体験ができましたと感じました。幸福や自由についての視点が広がりました。

●視野が広がったように感じている。先哲の考えを知ることで、一つの言葉や現象がいかに多様に解釈されているか知ることができた。一つの考えに縛られないことを心がけるようになったと思われる。具体的には、幸福とは何なのかについて、これだけ真剣に悩んだのは人生で初めてだった。簡単に答えは出ないが、悩みがいのある課題であり、これからも悩んでいきたい。

●社会的弱者を意識して生活するようになりました。また、自分も転落する可能性はゼロではないとリアリティをもって日々何かしら選択していくことも大切だろうと思います。

●自由とは何か、幸福とは何かについて常に漠然とは考えており、先生と意見が合ったときは非常にうれしかった。しかし、本当に漠然としか考えていなかったため、詳しく解説されたり、他分野との関連についての話をされるとうなずけるものばかりで、自分の考え方の未熟さを思い知ったが、その分の考え方にはかなり変化が出て、様々な面から物事が見れるようになったと思う。そして、非常に良い講義で毎回毎回楽しみであったことが一番大きい。

●社会や倫理について考えを広げることができた。高校までの暗記とは違い、自分がどう考えるかをディスカッションできたのが良かったと思う。また、他学年や他学類の方の意見が大変深く、勉強になった。この授業は他と比べて 「大学の授業」 という印象が強かったです。また、先生のブログをよく拝読しており、そちらも勉強になりました。ありがとうございました。

●こういうものがあるっていうことを教えてもらうだけではなく、自分たちでより良い社会にするにはどうするべきか考えるということは高校までとは全く違っていたのでそういう力は少しついたと思います。でもそのためには、今あるものをきちんと理解していることが前提だと思うので、知識は大切だと思いました。

●予想とは違う内容の講義が多く、普段考えないような、自分にとってはとても難しいことを考えるようになった。自分の考えはしっかりあることに気づき、少しは認められているという自信もついたので、あとは知識を増やして、他者に納得してもらえるような説明をできるようにならなくてはいけないと気づいた。

●毎回正解の無いテーマを扱うので、自問自答しながら、考えながら講義を受けることができた。眠くはならないのだが、自分の価値観を見直す、問い直すような場面もあり、よく分からない疲労感を感じることもあった。しかし、このような “考え疲れ” を重ねることで、なんとなく頭の回転が早くなったような気もした。考えさせるような授業は、テーマの設定や教師の態度など、様々な要素がそろわないと実施は難しいが、私も教師を目指す者としてこのような授業のあり方を考えていきたいと思う。

●自分の考え方の方向性が広まったと思う。“自由” や “幸福” の定義についても講義を受ける前よりも具体的に考えることができるようになったし、様々な見方からアプローチできるようになったと思う。自分とは違う考え方が自分によい影響を与えるのだな、と理解できた。この講義を通して学んだことや、考え方が今後の生活においての政治面、倫理面における事象や出来事について、自分の立場や意見を明確にする手助けとなると思う。自分にとってとても有意義な講義でした。

●倫理学概説を通して、自分の社会に対する意識の低さが分かり、価値観が変わったと思う。社会を変えていくためには一人ひとりが全体のことを考えることが大切なのだと感じた。また、グループワークや、ワールドカフェを通して、コミュニケーション能力や思考力も深まったと思う。授業は全体的にとても楽しかったです。ありがとうございました。

●「倫理」 といった概念について論理的に説明を受ける、自分で考える、誰かと話すことが初めてだったので、まず自分がどういった意見をもっているのかについて考える機会が増えました。全く知らない人とグループワークすることで、どうしたら話しやすくなるのかも学びました。普段の講義ではない経験ができましたが、今期の講義での経験は 「気づき」 だと感じているので、今後またこういった機会があったときに今回より力を発揮できるよう、意識していきたいと思います。

●自由や幸福について追及していくというのはとても面白かった。自由には様々な分類があり、又幸福にもどのような幸福なのか誰の幸福なのかといったものがあり、普通に暮らしていれば絶対に考えなかったり、思いつかないことも出てきたので、とても充実していた。高校の倫理とは全く違う、自分で考えて自分なりの自由・幸福感をもつということができたのでとてもよかった。また、フレーリーゲームやワールドカフェなどの相手の意見を聞き、自分の意見を伝えるという機会があったのでよい経験になった。

●論理的思考や言及などがうまくやれるようになってきたのではないかと思う。また、文章にすることで自分の考えをまとめることができた。ブログを教材の一部にするのもとても面白いと思う。ブログ自体もとても面白いと思う。


みんな、こちらの思惑以上にいろいろ学び取っていただいたようで、本当にありがとうございました。
これからも考え続けていかなくてはいけない、さらに自分の力を伸ばしていかなくてはいけない、
そう感じ取ってもらえたとしたら教員冥利に尽きると言えるでしょう。
さて、それでは皆さんの半年間の努力の成果をじっくり評価させていただくことにいたしましょう。
今年は受講者が多かったから大変だけど、これから採点の祭典だあっ

私立探偵? 刑事?

2014-07-28 23:52:45 | 人間文化論
昨日の 「アワード」 に引き続いて言葉の問題なんですけど、
今日は発音ではなく翻訳の問題です。
昔のミステリーや推理小説に 「私立探偵」 って出てきましたね。
明智小五郎とか金田一耕助とかです。
あの 「私立探偵」 ってなんかおかしくないですか?
なんでいちいち 「私立」 って言わなきゃいけないんでしょう?
「公立」 の探偵っているんですか?
「探偵」 と言えば私立に決まっているじゃないですか。
あれって翻訳の段階でのミスだったんじゃないかと思うんです。

私立探偵は 「private detective」 の訳語です。
この 「private」 が 「私立」 の出所ですね。
では 「detective」 のほうはどういう意味でしょうか。
辞書で調べてみると次のように書かれています。

【研究社 新英和中辞典】
detective [名詞] [可算名詞]
探偵,刑事 (巡査).
  用例 a police detective 刑事巡査.

【日本語 Word Net (英和)】
detective [名詞]
1 犯罪を捜査する警察官
(a police officer who investigates crimes)
2 簡単に市民が利用できない情報を得るために関与しているあるいは雇われている調査者
(an investigator engaged or employed in obtaining information not easily available to the public)

おわかりでしょうか?
detective には 「探偵」 という意味と 「刑事」 という意味があるのです。
別の辞書を見ると investigator と同義となっていますから、
要するに 「捜査する人」 一般のことを detective と呼ぶわけです。
しかも detective は第一義的には 「刑事」 のほうを指し、
「刑事」 ではなく 「探偵」 という意味に限定して使いたいときに 「private」 を付すのです。
つまり公立の捜査機関である警察の detective ではなく、
私立捜査機関である探偵事務所の捜査員を private detective と呼ぶわけです。

さて、これを日本語に訳すときにいちいち 「私立探偵」 と訳す必要があるでしょうか?
英語の場合は detective に刑事と探偵の2つの意味があるので、
刑事ではなく探偵であることをはっきりさせるためには private と限定する必要がありますが、
日本語の場合は 「刑事」 と 「探偵」 という別々の言葉があるのですから、
両者が混同される心配はありません。
ですから、private が付いている場合にはただ 「探偵」 と訳せばいいのだと思うのです。
「私立探偵」 というのは 「白い白馬」 や 「日本に来日」 と同様の重言になるような気がするのです。
というようなことを気に病んでいる今日この頃でした。

ところで、私立探偵のことは前から不審に思っていましたが、
今回このブログを書きながらもうひとつ気になったことが。
「刑事」 ってひょっとして 「生理」 や 「中絶」 と同じ略語だったんではないでしょうか?
これも辞書を引いてみましょう。

【デジタル大辞泉】
けいじ [刑事]
1 刑法の適用を受け、それによって処理される事柄。「―責任を問われる」⇔民事。
2 犯罪の捜査を主任務とする警察官の通称。私服で勤務することが多く、階級では巡査または巡査部長。

このように 「刑事」 を引いて最初に出てくるのは、「刑事事件」 とか 「刑事責任」 という形で使われる、
「民事」 の対語としての 「刑事」 です。
detective の意味は第二義にすぎないわけです。
ブリタニカ国際大百科事典だとさらにこんなふうに書かれていました。

【ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説.】
刑事 [けいじ]
(1) 刑法の適用を受ける事件をいい,民事の対称として用いられる。
(2) 刑事捜査を専門に行う警察官の通称で,古くは探偵の名もあった。普通,私服で任務にあたる。

この (2) のほうの説明はいいですね。
(1) の意味の刑事を含んでいます。
つまり、私の推理はこうです。
元はというと 「刑事捜査員」 とか 「刑事捜査警察官」 という言葉があり、
それが長くてめんどくさいので一言で 「刑事」 と呼ばれるようになったのではないかということです。
残念ながらこれはあくまでも推理にすぎません。
辞書をいくつか漁っただけでは私の説を確証することはできませんでした。
はたしてどうなんでしょうか?
言葉って考え始めるとキリがありませんね。

アワード?

2014-07-27 23:42:48 | 人間文化論
最近テレビとかでよく 「アワード」 っていう言葉を聞くんですよ。

海外ドラマとかの宣伝で 「数々のアワードを受賞した○○」 とか。

「アワード」 ってたぶん 「賞」 という意味の 「award」 のことだと思うんですけど、

これの発音って 「アワード」 じゃなくて 「アウォード」 ですよね。

発音記号では [əwɔ́:d]です (画面で発音記号ってちゃんと見えてます?)。

「ar」 のスペルは 「アー a:」 と読む場合と 「オー ɔ:」 と読む場合があります。

star、start、lark、dark、mark等々は 「アー」 でいいけど、

war、warm、award は 「オー」 です。

warm biz は 「ワームビズ」 ではなくて 「ウォームビズ」 ですよね。

「ワームビズ」 では虫まみれのスーツになってしまいます。

Star Wars が 「スター・ワーズ」 なんていうタイトルだったら絶対に見に行かなかったですよね。

ただ、以前に私よりも年上の研究者の方で war を 「ワー」 と発音する人がいて、

マスコミや学生相手だったらそれ間違ってるでしょとすぐに指摘できるんですが、

リッパな研究者の方だったのでひょっとして英国か米国では 「ワー」 と発音する場合もあるのかなと、

ちょっと不安になって辞書を調べてみたりしたことがありました。

なので今は確信をもって言えるのですが war は 「ウォー」 であり、

したがって award は 「アワード」 ではなく 「アウォード」 なのです。

なんで最近、世間では 「アワード」 が出回っているんでしょう?

前に 「ソウ」「クローズ」 のことを論じたことがありましたが、

どうもこういうのは気になってしかたありません。

まあそもそも英語の原音を日本語のカタカナで完全に表せるわけではないのですが、

とはいえ日本語というのは、外国語をいちいち日本語に訳さずに、

外来語としてカタカナ表記でそのまま取り入れることによって発達してきた言語なんですから、

ある程度、原音に近づけるような表記方法をきちんと確立しておくべきだと思うのです。

外来語誕生初期の頃の 「ケーキ」「ステッキ」 のような失敗をくり返すべきではありません。

「アワード」 は一刻も早くやめていただきたいものだと思います。

『天空の城ラピュタ』 トリビュート

2014-07-25 23:55:39 | 人間文化論
『天空の城ラピュタ』 ってずっと見たことなくて、

今年になってからDVD借りて見たんです。

(『ラピュタ』 に限らずジブリはほとんど見たことありませんでしたが…)

それ以来ちょっとハマってます。

そうなってみると今までまったく気にも留めなかったような情報がよく目に入ってくるようになりました。

今日はひとつ見つけたらそこから芋づる式にいくつか見つかってしまいました。


まさにリアル・ラピュタな無人島が話題

日本の上空にもラピュタの竜の巣が…?

ひとり「天空の城ラピュタ」が面白すぎ

超簡単、ラピュタのパンを作ってみた

ラピュタの飛行石を本気で作ってみた


ただ私としては今月初め頃から流れているこちらのニュースのほうが気になっています。


滅びの言葉 『バルス』 で光る、ラピュタの飛行石アクセとは?


これはちょっと欲しいかも?

でもこれを買ったら滅びの呪文を多用してしまいそうでちょっと心配なのですが…。

「地域文化創造特論」 授業改善学生アンケート

2014-07-24 18:12:32 | 哲学・倫理学ファック
大学院の 「地域文化創造特論」 も昨日授業が終了しました。
大学院の授業は 「授業改善のための学生アンケート」 の対象になっていないのですが、
20名相手の他専攻の院生も受けている必修授業ですので、
学生の声を聞いておくことは重要です。
まずは数値結果から。

「1.教員の授業に対する姿勢はよかったですか。
 (観点:授業の準備、授業への熱意、学生への対応等)」……………………4.68

「2.教育の方法は適切でしたか。
 (観点:質問への対応、発表・討論の機会、シラバスの記述内容等)」………4.79

「3.授業の内容は適切でしたか
 (観点:魅力あるトピック、教材・教科書の適切性、参考文献の提示、
  授業の進度、シラバスに記述された目標の達成度等)」……………………4.74

「4.総合的にみてこの授業に満足しましたか。」………………………………4.84

昨年と比べて1と3で評価が若干下がりましたが、2と4は若干上がりました。
まずまずの結果と言えるでしょう。
自由記述を見ていきましょう。


●大学院は他専攻の人との関わりがないのでよかった。

●問いをもって、この2年とても充実できそうです。

●ディスカッション。ワークショップ。人との関わりの大切さを改めて学べた。

●他領域の人たちと交流する唯一の授業でワークが多く、いろいろなものの考え方や表現の仕方があることが印象的だった。そういうことを知れたのも、思考する力やコミュニケーションの授業のおかげと感じた。

●グループワークが多かったので、他の分野の人たちとの交流が楽しかった。自分の知らないことがたくさんあった。

●問いの力やコミュニケーション能力についてです。毎回授業の質が高く楽しみにしていました。入学して回答を得たい内容がぎっしり詰まっていました。

●学んだことで印象に残っているのは、ひとにはやらなければならないことと、やりたいことにそれぞれ優先順位があり、その順番が実は大切ということです。

●言語技術 (白石先生の回) についての学びで、様々なテクニックを教わったのが印象深かったです。

●白石先生の言語技術のトレーニングは貴重な経験でとても有意義でした。

●コミュニケーション力、批判的思考力が身に付いた。とても充実していたので楽しかった (毎時間)。

●授業は深く学びになりました。私が追いつけるようになりたいです。

●グループワークが多くて、ただの受け身講義で終わらなかったのでおもしろかったです。


やはり白石先生の回が人気爆発のようです。
ありがたいことです。
今回の新しいアンケート様式では最後に
「授業担当者からの質問」 という自由記述欄が設けられていました。
「倫理学概説」 のアンケートを実施したときにはそのことに気づいておらず、
大事なその欄をまったくムダにしてしまいました。
「地域文化創造特論」 ではこんなふうに聞いてみました。

「Q.この授業は必要だと思いますか?」

やはり専門研究を志して入学してきた大学院生に、
自分の専門とは無関係の必修授業を課することに負い目があったからです。
みんなからの回答は以下のとおりでした。


●他の専攻の人と話す機会はこの授業くらいしかないので、あったほうがいいと思う。ディスカッションがいい。

●あってもいいと思います。

●必要だと思った。ワーク、オムニバスはとても良い経験です。

●必要ある。他専攻と関わる唯一の授業。

●必要だと思います。自分を見つめ直すきっかけと、他分野との交流がとても良かったと感じるから。

●私は必要だと思います。なぜなら他専攻とのコミュニティーが広がるためです。

●どうしても院に進むと自分たちの専門に偏ってしまうので、こうした他領域交流の授業があってもいいなと思う。

●必要だと思う。他分野の人たちと交流することで、他分野の文化や知識を深められ、そして自分の専門分野の文化も知識も伝えることが出来るから。

●必要です。この授業があることで他の授業にも生かすことができました。

●他分野の人たちと深く話し合う機会は多くないため、必要だと思います。

●必要だと思います。

●1限でなければ続けていただきたい。

●最初はなぜこんな必修があるのかと思っていましたが、総合的には受けてよかったと思います。他分野の人と話せる機会はそうないというところがポイントが高いかもしれません。

●絶対必要だと思います。他分野交流を通して学べる少ない機会ですので、頑張って続けてください。

●はい。

●はい。一週間の内の授業では一番楽しいですよこの授業。

●必要です。何故なら院に入学して最も他の専攻と関わりを持ち、考えることができたからです。他の分野との交流があれば、他の授業になってもいいと思います。

●必要だった。昔の大学院は隣の研究室の人の顔さえ知らなかった。有意義。


おおむね好評価のようです。
何人かが 「他専攻の人と関われる唯一の授業」 と書いてくれていますが、
正確に言うとそれは間違っています。
この授業は地域文化創造専攻の共通科目なので、
教職教育専攻や臨床心理専攻など他専攻の院生は受講していません。
そうではなくて、地域文化創造専攻のなかに日英言語文化領域、地域生活文化領域、
数理科学領域、芸術文化領域、スポーツ健康科学領域と5つの領域があり、
自分が専攻している以外の他の領域の院生と交流できる授業だという意味でしょう。
そのように評価していただけるのはたいへんありがたいことです。
この授業は私が将来計画検討委員だった頃、大学院の改組をした際に新たに設置された科目で、
私が科目の構想を練り、参加教員を募って (初澤先生と白石先生) 作りましたので、
院生の皆さんに本当に必要な科目と思ってもらえるかどうかというのはけっこう重要なのです。
とりあえず昔の大学院の必修授業みたいに非難囂々というわけではないようなので一安心です。
1限の授業をするのはこちらも辛かったですが、これからも頑張ってやっていこうと思います。

授業時間外の学習時間については以下のような結果でした。

3時間以上・・・・・・・・・・・4人(21.0%)
2~3時間未満・・・・・・・・2人(10.5%)
1~2時間未満・・・・・・・・5人(26.3%)
30分~1時間未満・・・・・5人(26.3%)
30分未満・・・・・・・・・・・・・3人(15.8%)
0分(何もしなかった)・・・・0人(  0%)

まあ専門研究で忙しい大学院生に、この科目に関して授業時間外に学習してほしいとは、
実際のところそんなに思ってはいないのですが、
そのわりにはこれはとてもいい結果ではないでしょうか。
去年と比較してもだいぶよくなっています。
この授業のために直接何かするというよりも、
この授業で考えたこと、学んだことを他の授業でも思い出し、
活かしてほしいと伝え続けてきたおかげでしょう。
特に芸術系の院生さんたちや教員志望の院生さんたちは、
文化のありかたや文化の伝達について授業外でも考え続けてくれているようです。
残りの1年半、そして修了後、この授業で学んだことを活かしていただければと思います。

「倫理学概説」 授業改善学生アンケート

2014-07-24 01:24:06 | 教育のエチカ
昨日 (あ、もう一昨日になってしまいました) 「倫理学概説」 の授業が終了しました。
最後の授業では恒例の 「授業改善のための学生アンケート」 を実施しました。
今年からまた少し書式が変わり、個々の項目に対する自由記述欄がなくなり、
全般的に何でも書いていい自由記述欄が設けられることになりました。
まずは数値結果から。

「1.教員の授業に対する姿勢はよかったですか。
 (観点:授業の準備、授業への熱意、学生への対応等)」……………………4.87

「2.教育の方法は適切でしたか。
 (観点:質問への対応、発表・討論の機会、シラバスの記述内容等)」………4.73

「3.授業の内容は適切でしたか
 (観点:魅力あるトピック、教材・教科書の適切性、参考文献の提示、
  授業の進度、シラバスに記述された目標の達成度等)」……………………4.69

「4.総合的にみてこの授業に満足しましたか。」………………………………4.68

昨年の 「戦争と平和の倫理学」 よりは1を除いて若干数値は下がりました。
まああまりちょっとした数値の変化に一喜一憂はしていないのですが…。
今年からこの授業は1年生から取れるようになり、
その初年度ということで今年は受講生が100名を超えました。
人数が増えればどうしても評価が下がるというのは避けられないことでしょう。
自由記述をいくつかご紹介しましょう。


●様々なことについて考える力が付いた気がする。

●自分の苦手とする分野が多かった。色々な意見の人々と交流することができた。先生の講義の進め方が計算的で上手だった。

●物事を自分の言葉で説明する力が付いたと思う。

●グループワークやワールドカフェなどの話し合いがとても印象に残った。

●自由や幸福をめぐったフレーリーゲームやワールドカフェが印象に残った。相手の意見をきき、自分の意見を伝えるという機会があり、とてもよかった。

●書く量を少し減らしてほしい

●普段の生活で口にする「自由」や「幸福」について、改めて考えることができた。いろんな人と意見交換をしたことで自分にはなかった新しい考えを発見することができた。

●授業に来るのが毎回楽しみでした。他の授業と比べて出席するのに嫌だと感じることが全くありませんでした。一番学びで印象深かったものは 「自由の分類」 についてです。

●普段分かっているかのように使っている「自由」「幸福」という言葉を実は理解できていなかったことに気が付いた。

●ワークショップが面白かった。

●精神的に肥えた。

●授業で扱った内容が簡単そうで難しいことなので、すべて理解するということは出来なかった。ブログでも倫理について考えるということがとても面白いと思った。

●グループワークを数多くこなして、良い経験になりました。

●他学年の他学類の学生とのディスカッションが印象深かった。

●参考文献が豊富で良かったです。

●グループワークを通して他者の意見と自分の意見を交えることが新しい考え方が浮かんだりして面白かった。

●ワールドカフェで多くの人と意見交換ができて、面白かったです。

●考える時間を多く与えて下さる先生だと思いました。

●小野原先生の授業は面白く、しかも考えが深められるような内容でとても満足しています。ありがとうございました。

●自由と幸福の概念について見つめ直すいい機会でした。

●深く考える力を養うためのプログラム。

●自由の分類について。普段何気なく使っている「自由」という言葉をより深く知ることができました。

●社会について深く考えるきっかけとなって良かった。

●社会システムの変動を知り、その中から時代背景を見つめることの重要性を学習した。

●全ての人々が幸せになる世界の実現は、とうてい無理だという考えにはなった。しかし、この授業で話し合ったことは決して無駄ではないと思った。問題を考える上で、解決方法がある問題なんて少ないなと思った。

●フレーリーゲーム、ワールドカフェ、グループワークができてよかった。

●ブログ内で学生の意見をアップしているのがユニークだと思いました。

●最後のワールドカフェにおける様々な人との関わりが印象に残っている。

●ただのグループワークではなく、少し工夫されたいつもとは違うグループワークの手法をとっていたのが、とても面白かった。

●少し理解しにくいのはこの内容では仕方ないのかなと考えた。

●深く思考したくなった。

●功利主義についてとても考えさせられた。こんなに自分から物事を考えたのは初めてでした。なにかうれしかったです。

●自由と幸福について考えることから、様々な社会システムや人権について考えることができ、大変印象深かった。これからどうやったら自由な、幸福な社会を築けていけるのか深く考えてみたい。

●この講義を通して、より良い社会にするためにはどの考え方を選択し、決定すべきか考えるよい機会となりました。特に印象に残っているのは、「自由」 や 「幸福」 など当たり前のように使用している語句について定義付けをし、ワークショップなどによって、他者の意見と照らし合わせることができたことです。

●授業で取り扱う内容は難しかったが、その分より深く考えることができた。話し合いの中で、相手の意見を聞いたり、自分の意見を伝えたりしてより多くの発想を出すことができた。


全体的に批判的意見よりは好意的評価のほうが多かったようで一安心です。
そして、私が一番重視している授業時間外の学習時間ですが、以下のような結果でした。

3時間以上・・・・・・・・・・59人(58.4%)
2~3時間未満・・・・・・・21人(20.8%)
1~2時間未満・・・・・・・17人(16.8%)
30分~1時間未満・・・・・4人( 4.0%)
30分未満・・・・・・・・・・・・・0人(  0%)
0分(何もしなかった)・・・・0人(  0%)

これはたぶん20年間の教職生活のなかで最高の結果ではないでしょうか。
昨年の 「戦争と平和の倫理学」 と比べてもよい結果となりました。
2時間以上と答えた者の割合が8割弱であることは変わりませんが、
そのなかで3時間以上と答えた人がとうとう5割を超え、6割近くまで達しました。
1時間未満の人数が増えていることはちょっと残念ですが、
30分未満という人はいなくなりました。
まあ今回はテーマが自由と幸福と人権でしたので、
戦争や平和に比べると日常生活のなかで意識することが多かったのでしょう。
あるいは、この前期は政権与党がいろいろとムチャをやってくれましたので、
戦争と平和というテーマであったとしても授業時間外の学習時間は増えていたかもしれません。
そういう意味では今回の成果は政治 (の劣悪さ) のおかげかもしれないので、
あまり自惚れることなく今後も時間外学習時間を増やす取り組みを続けていきたいと思います。
無記名のアンケートではなく記名式のワークシートでは、
最後にどんな力が付いたと思うかという問いに答えてもらいましたので、
それはまた近いうちにご報告させていただきます。

Q.金谷川駅前のあの人は小野原先生ですか?

2014-07-22 17:28:28 | ドライブ人生論
「倫理学概説」 のワークシートで正確には次のような質問というか感想をいただきました。

「小野原先生らしき人物が先週の水曜日に金谷川駅前で
 信号無視 (フライングすぎ) &横断歩道無視する姿を見かけました。
 見間違いだといいのですが、倫理学とは何か、再び考えさせられました。」

お答えしましょう。

A.たぶんその人は私です。

信号無視&横断歩道無視、これはたいへん非倫理的な行いですね。
ただ倫理的ではないけれど倫理学的ではあると思っています。
倫理学とは何かを考える機会を与えることができてよかったです (笑)。
以前にこれに関連して 「法の精神」 という文章を書いたことがありますので、ぜひ読んでみてください。
要するに道路交通法にも法の精神というものがあって、
交通弱者を守るということを道路交通法は第1の目的としているはずだというお話です。
この道路交通法の精神からして金谷川駅前のあの信号は許しがたいと前々から思っておりました。
そのことをまだブログに書いたことがありませんでしたね。
この機会に書いておきたいと思います。

昔、金谷川駅前のあそこには信号は設置されていませんでした。
横断歩道だけがありました。
車道側に一時停止の標識があったかどうかはよく覚えていません。
あったとすればクルマはあそこで必ず停まらなければならなかったことになりますが、
なかったとしても横断者がいたならば必ず一時停止しなければいけなかったわけです。
ところがあるとき悲劇が発生しました。
歩行者が何人も横断しているところへトラックが減速もせず突っ込んできて、
教員や学生を轢いてしまったのです。
当時、定年間近だった渡辺義夫先生がその事故で亡くなられてしまいました。
本当に許しがたい悲しい事故でした。

その事故を承けてあそこに信号が設置されたのです。
信号ができると聞いて私は喜んでいたのですが、できた信号を見て唖然としました。
歩行者がボタンを押して青に変わるのを待つタイプの信号だったからです。
あの事故は歩行者の側に責任があったのでしょうか?
そんなことはありえません。
100%横断歩道を無視して一時停止もせずに突っ込んできたドライバーの責任です。
なのに、再発防止のために取られた措置は、
100%クルマを優遇し、歩行者に100%の負担を課するあの押しボタン式信号だったのです。

私が信号ができると聞いて一瞬喜んだのは、クルマ側に一時停止を課する赤の点滅信号が付くか、
ひょっとしたら車両感知式の信号を設置してもらえるのではないかと期待していたからです。
車両感知式の信号であれば負担は100%ドライバー側に課されます。
あの事故のことを思えばそれでもいいくらいではありますが、
おそらくは横断歩道のための一時停止を強調する赤点滅あたりが落としどころかなと思っていました。
そもそもあそこは交通量の多いところではありません。
クルマもそれほど通るわけではありませんし、
朝の通学時間を除けば歩行者もそんなにいるわけではありません。
だから金谷川に福大キャンパスが移ってきて以来、
あの横断歩道があれば十分で事故らしい事故はほとんど発生していなかったのです (たぶん)。

なのにそんなところになぜクルマはいつでもお通りくださいと言わんばかりの、
押しボタン式信号が作られてしまったのでしょうか?
アホのドライバーのために歩行者が一方的に犠牲になったというのに、
なぜフツーの時間式信号ですらない、
歩行者にばかり負担をかける押しボタン式信号が選ばれたのでしょうか?
なんかもう記憶があやふやですが、この件については教員会議でも発言したような気がします。
大学から警察に苦情を申し立ててあの信号を変えてほしいと思っていたのですが、
けっきょくそのまま今に至っています。
私は長い間クルマ通勤でしたが、駅の近くに引っ越して電車通学になって以来、
ほぼ毎日、あの信号にさしかかるたびに渡辺先生の事故のことを思い出し、
この理不尽な押しボタン式信号に腹を立てています。
そして、毎日ではないものの、法の精神に反した法の施行に反旗を翻す実践に取り組んでいるのです。
とはいえ、これはあくまでも自己責任の範囲内でやっていることですので、
若い皆さんはくれぐれもマネをしないようにしてください。

ヘーゲルとヘーゲル左派・資料

2014-07-20 20:10:07 | 哲学・倫理学ファック
そういえばヘーゲルとヘーゲル左派についてのレジュメはアップしましたが、
資料をアップするのを忘れていたようです。
レジュメをアップしたときにも書きましたが、わたくしヘーゲル哲学ってキライなんです。
とはいえ、なるほどなあと思わされるところは多々あります。
そのなかでも 「あらゆる限定は否定である」 っていう部分は一目置いていて、
就活とかしている学生に語って聞かせたりすることもあります。
すでにブログに書いたことがあるのでそちらを読んでみてください (「ヘーゲルの教え・その1」)。
さて、これで 「社会思想入門」 の遺産はすべて出し尽くしました。
これからは自分で書き下ろしていかないといけないなあ。


      ヘーゲルとヘーゲル左派 資料

1.ヘーゲル略年譜

1770年 シュトゥットガルトにて生誕
1801年 イエナ大学私講師に就任
1802年 シェリングと共同で『哲学批判雑誌』発行
1804年                                  ナポレオン、皇帝に即位
1806年 ナポレオンを見て「世界精神を見た」と語る      ナポレオン軍、イエナを占領
1807年 『精神現象学』                         プロシアの国政改革開始
1814年                                  ナポレオン退位、ウィーン会議開始
1817年 『哲学的諸学のエンツィクロペディー綱要』(講義録) ドイツ学生連盟による焚書事件
1818年 文部大臣の招きでベルリン大学教授に就任
1819年                                  学生によるテロ事件、反動的弾圧強化
1821年 『法の哲学』                          国会開設・憲法案審議を無期延期
1822年 世界史の哲学の講義開始
1831年 死去

2.ヘーゲルからの引用

①『哲学的諸学のエンツィクロペディー綱要』目次
第1篇『論理学』

第1部 存在論
 A 質
 B 量
 C 限度
第2部 本質論
 A 現存在の根拠としての本質
 B 現象
 C 現実性
第3部 概念
 A 主観的概念
  a 概念としての概念
  b 判断
  c 推論
 B 客観
  a 機械論
  b 化学論
  c 目的論
 C 理念
  a 生命
  b 認識
  c 絶対的理念

第2篇『自然哲学』

第1部 力学
 A 空間と時間
 B 物質と運動
 C 絶対的な力学
第2部 物理学
 A 普遍的な個体性の物理学
 B 特殊な個体性の物理学
 C 統体的な個体性の物理学
第3部 有機的な自然学
 A 地質学的な自然
 B 植物的な自然
 C 動物的な有機体

第3篇『精神哲学』

第1部 主観的精神
 A 人間学 心
 B 精神の現象学 意識
 C 心理学 精神
第2部 客観的精神
 A 法
  a 所有
  b 契約
  c 不法に対する法
 B 道徳性
  a 計画
  b 意図と福祉
  c 善と悪
 C 人倫
  a 家族
  b 市民社会
  c 国家
   α 国内法
   β 対外法
   γ 世界史
第3部 絶対的精神
 A 芸術
 B 啓示宗教
 C 哲学

②弁証法・外化・否定
「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。…有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄 (アウフヘーベン) し、自分自身によって反対のものへと移っていくのである。例えば、…生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである。」(エンツィクロペディー第一篇 『小論理学』 より)

「すべての規定性の基礎は否定である (スピノザが言っているように、あらゆる限定は否定である)。」(同上)

「決定することによって意志は自分を、一定の個人の意志として、すなわち、自分の外へ出て他のものに対して自分を区別する意志として自分を定立する。…なにひとつ決定しない意志は、なんら現実的な意志ではない。性格の弱い者はいつまでも決断がつかない。このぐずぐずする原因は、規定することによって有限性とかかわりあい、自分に一つの制限をおき、無限性を捨てることになると知っていて、しかし自分の意図する全体を断念したくないと思う、気持ちの弱さにあるのであろう。それは、たとえなにか美しい気持ちであるつもりであっても、死んだものである。大事を欲するならば、おのれを制限しえなくてはならない、とゲーテは言っている。どんなにつらかろうとも、人間はただ決定することによってのみ現実のなかへ踏み入るのである。」(『法の哲学』 より)

③理想的国家
「国家としての民族は、実体的に理性的であるとともに直接的に現実的である精神であり、したがって地上における絶対的威力である。だから国家は互いに他に対して主権的に独立している。」(『法の哲学』 より)

「国家が立憲君主制へと成熟していくことは、実体的理念が無限の形式を獲得した近代成果の業績である。」(同上)

④社会契約説批判
「だれが国家体制を作るべきか、という疑問がともすると起きてくる。この問いは一見したところはっきりしているように思えるが、もっとよく見てみると、無意味であることがすぐわかる。というのは、この問いは、どんな国家体制も存在しておらず、したがって諸個人のたんなる原子論的な群れがたむろしていることを前提にしているからである。そこで先の問いは、諸個人の一つの群れはどのようにして一つの国家体制に達するのであろうか、みずからによってなのか、他人によってなのか、平和的手段すなわち思想によってなのか、それとも暴力によってなのか、ということになるが、これはどこまでもこの群れ自身の決定に委ねなければならないであろう。」(同上)

⑤永遠平和論批判
「国際法の原則は、条約は…遵守せらるべし、ということである。しかし諸国家の関係はそれぞれの国家主権を原理とするものであるから、そのかぎり諸国家は、相互に自然状態のうちにあり、自国の権利現実的効力を、超国家的な威力として制度的に確立された普遍的意志のうちにではなく、各自の特殊的意志のうちにもつ。だから先の国際法の普遍的な規定は、どこまでも当為であるにとどまり、その実態は、条約に従う関係とこの関係の破棄との交替ということになる。
 国家間には裁判官は存在せず、たかだか仲裁者や調停者がいるだけであり、これらの者といえどもただ偶然に、すなわち特殊的意志のままに存在するだけである。カントは国際連合による永遠平和を思い描いた。彼は国際連合が、あらゆる争いを仲裁してくれ、各個別国家によって承認された威力として、あらゆる軋轢を調停してくれ、したがって戦争による解決を不可能にしてくれるだろうと考えた。しかし、この考えが前提としている諸国家の合意は、道徳的、宗教的な根拠に基づくにせよ、あるいはどんな根拠や考慮に基づくにせよ、なんといってもしょせんは、特殊的な主権的意志に基づくものであろうし、そのためどこまでも偶然性にまとわれたものであろう。…それゆえ国家間の争いは、それぞれの国家の特殊的意志が合意を見いださないかぎり、ただ戦争によってのみ解決されうる。」(同上)

⑥国家から世界史へ
「国家相互の関係においては、諸国家は特殊的なものとして存在するから、こうした国家関係においては、激情、利益、目的、才能、徳、暴力、不法、悪徳といった内的特殊性と、外的偶然性とが、現れうる最大の次元でこの上なく激しく跳梁する。この跳梁たるや、そのために人倫的全体そのもの、すなわち国家の独立性が偶然にさらされるほどである。
 …もろもろの民族精神の諸原理の相互関係における運命と所行とは、これらの民族精神の有限性が現れてくるところの弁証法である。この弁証法から、普遍的精神すなわち世界の精神が、無制限なものとして、まったくそれのあるがままの姿で出現し、おのれの法を―その法こそ至高の法である―世界審判としての世界史において、各民族精神に対して執行するである。」(同上)

「世界史は、普遍的精神の威力によるたんなる審判ではない。すなわちある盲目的運命の抽象的で没理性的な必然性ではない。…世界史はむしろ、もっぱら精神の自由の概念からする理性の諸契機の必然的発展、したがって精神の自己意識と精神の自由との必然的発展であり、―普遍的精神の展開であり現実化である。」(同上)


3.ヘーゲル左派略年譜

1831年 ヘーゲル死去
1832年 ヘーゲル全集刊行開始 (~40年)
1835年 シュトラウス 『イエスの生涯』
1838年 ルーゲ 『ハレ年誌』 創刊
1840年                               フリードリヒ・ヴィルヘルム4世即位
1841年 フォイエルバッハ 『キリスト教の本質』      老シェリングがベルリン大学に招請
      バウアー 『ヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ』
      ヘス 『ヨーロッパの三頭政治』
1842年 ヘスら 『ライン新聞』 創刊            
1844年 シュティルナー 『唯一者とその所有』
      マルクス 『経済学・哲学草稿』 執筆 (未刊)          
1845年 マルクス、エンゲルス 『ドイツイデオロギー』 執筆 (未刊)
1848年 マルクス、エンゲルス 『共産党宣言』       2月革命(仏)、3月革命(独)


4.参考文献

〈ヘーゲルの翻訳書〉
 ・『世界の名著 44 ヘーゲル』(藤野渉他訳、中央公論社、『法の哲学』 所収)
 ・『小論理学 上・下』(松村一人訳、岩波文庫)
 ・『歴史哲学講義 上・下』(長谷川宏訳、岩波文庫)

〈ヘーゲル社会思想の解説書・研究書〉
 ・中埜肇 『ヘーゲル 理性と現実』(中公新書)
 ・福井勝男 『ヘーゲルに還る 市民社会から国家へ』(中公新書)
 ・加藤尚武編 『ヘーゲルを学ぶ人のために』(世界思想社)
 ・ピーター・シンガー 『ヘーゲル入門』(島崎隆訳、青木書店)

〈ヘーゲル左派の翻訳書〉
 ・フォイエルバッハ 『キリスト教の本質』(船山信一訳、岩波文庫)
 ・フォイエルバッハ 『唯心論と唯物論』(船山信一訳、岩波文庫)
 ・スティルネル 『唯一者とその所有』(草間平作訳、岩波文庫)

ロールズ資料

2014-07-19 10:44:24 | グローバル・エシックス
昨日のレジュメに続いて資料もアップしておきます。
これって10年前くらいに作ったんだったかなあ。
若干中身が薄い感じがしますね。
あの頃はレジュメを作るのが精一杯で資料まで手が回らなかったんだろうなあ。
アーレントの資料と比べても貧弱な感じがします。
なぜだろう?
どちらかといえばアーレントとロールズならロールズのほうがぼくの好みの思想家なのに。
たぶんアーレントの講義のほうが先でロールズはあとだったから、
アーレントの準備している段階で力尽きてしまったということだったのでしょう。
そのうち更新しなきゃいけないな。


      ジョン・ロールズ 資料

1.ロールズ略年譜

1921年 アメリカ、メリーランド州ボルチモアにて生誕。
父親は弁護士、母親は女性参政権運動家。いずれもリベラルな民主党支持者。
5人兄弟の次男。弟のうち2人はロールズが7~8歳の時に病死。
1943年 陸軍入隊 (~45年)。東南アジアを転戦、占領軍の一員として日本にも上陸。
1946年 プリンストン大学大学院哲学研究科進学。
1950年 博士号取得 (「倫理の知の諸根拠に関する研究」)、プリンストン大学哲学講師。
1952年 イギリス、オックスフォード大学に留学。
1953年 帰国、コーネル大学哲学科助教授。
1955年 「2つのルール概念」。
    市民的不服従という形態での黒人解放闘争が組織されていく。
1958年 「公正としての正義」。
1960年 マサチューセッツ工科大学教授。
    公民権法成立。
1961年 ケネディ、大統領就任 (~63年)。「アファーマティヴ・アクション」 に関する大統領令。
1962年 ハーバード大学終身教授。
1965年 市民的不服従によるベトナム反戦運動、本格化。
1966年 「市民的不服従の正当化」(学会発表、69年刊行)。
大学で「選択徴兵法」の猶予規定 (成績優秀者は徴兵免除) の是正を発議。
1969年 ベトナム戦争にも言及した講義 「戦争の諸問題」。
    ニクソン、大統領就任 (~74年)。
1971年 『正義論』。
1974年 ノージック 『アナーキー・国家・ユートピア』。
1977年 ドゥウォーキン 『権利論』。
1980年 「道徳理論におけるカント的構成主義」。
    レーガン、大統領に当選。
1982年 サンデル 『リベラリズムと正義の限界』。
1991年 湾岸戦争。ソビエト連邦消滅。
1993年 『政治的リベラリズム』。
    「諸民衆の法」(アムネスティ・インターナショナル講演)。
    クリントン、大統領就任。
1995年 「ヒロシマから50年」(『ディセント』 1995年夏号誌上シンポジウム)。
前年からスミソニアン原爆展をめぐる論争。旧ユーゴの民族紛争激化。
2002年 没。


2.ロールズからの引用

①無知のヴェール
「私のねらいは、ロック、ルソー、カントが展開した社会契約説を一般化し、抽象度を一段と高めた一つの正義構想を提示することである。その指導理念によれば、社会の基礎構造の正/不正を判定するための正義の諸原理とは、自由かつ合理的な人びとが自分たちの連合体の基礎的な条項を定めるものとして、平等な初期状態で受容するであろう諸原理に等しい。」(『正義論』)

「この状況の本質的な特徴として数えられるのは、次のことである。誰も社会のうちで自分がどの位置にあるのかを知らない。彼の階級も、彼の社会的身分も、また彼が、生来の資産と能力、知能、体力といったものの配剤にあずかる運を持ったかも知らない。さらに仮定するなら、彼は自分がいだいている善の概念が何であるかを知らず、自分に固有な心理的傾向がなんであるかも知らない。正義の原理はこの無知のヴェールの陰で選択される。これが保証しているのは、諸原理の選択において、自然の運の結果や社会的環境の偶然の結果によって、誰も有利になったり不利になったりすることはない、ということである。すべての人が同じ状況のうちにあり、誰も自分の固有な状況に都合よく諸原理を立てることができないのだから、正義の諸原理は公正な合意と交渉の結果であるのだ。」(『正義論』)

②正義の二原理
「【第一原理】 各人は、基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自由は、他の人びとの平等な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。
 【第二原理】 社会的・経済的不平等は、次の2条件を満たすものでなければならない。
      (1)それらの不平等が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること。
      (2)公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと。」(『正義論』)

③原爆投下の是非について
「ヒロシマへの原爆投下から50年目のこの年こそ、この攻撃について何を思い巡らすべきかを反省するのにふさわしい時なのである。…私の見解では、1945年春から始まった日本各地への無差別爆撃と8月6日のヒロシマ原爆投下とは、ともにきわめて大きな過ちであって、不正行為として受けとめてしかるべきである。…あの戦いから50年たった今こそなしうべきことは、私たちの落ち度を振り返り、よくよく考えなおす作業なのである。ドイツ人も日本人もそうした取り組みをおこなうことを私たちは当然期待してよい。だったらどうして、私たちもこの作業に取りかかるべきではないなどと言えるのだろうか。道徳上の過失なしに自分たちが戦争を始めたなどと考えることがそもそもあってはならないのだ!」(『ディセント』 1995年夏号)


3.参考文献

〈ロールズの翻訳書〉
 ・『正義論』(川本隆史監訳、紀伊國屋書店)
 ・『公正としての正義』(田中成明編訳、木鐸社)
 ・『人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(ロールズ他、みすず書房)

〈ロールズ思想の解説書・研究書〉
 ・川本隆史『現代思想の冒険者たち23 ロールズ』(講談社)
 ・土屋恵一郎『正義論/自由論 寛容の時代へ』(岩波書店)

ロールズ 「正義に基づくリベラリズム」

2014-07-18 08:57:31 | グローバル・エシックス
昨日、ロールズに関する質問に答えましたが、
以前に担当していた 『社会思想入門』 ではロールズに関しても講義をし、
レジュメと資料もまとめていたのでした。
今日のところはまずレジュメのほうをアップしておきましょう。


         ロールズ 「正義に基づく自由主義 (リベラリズム)」

Ⅰ.『正義論』 の射程

 ジョン・ロールズ (John Rawls 1921-2002) は20世紀のアメリカ合衆国に生を受けました。そのときすでにソビエト連邦が誕生しており、彼の人生の大半は米ソ冷戦下にあったと言ってよいでしょう。当時のアメリカは、〈自由主義〉 対 〈社会主義〉 というイデオロギー的対立図式の中で、一方の雄として世界の主導的役割を果たしていました。しかしそのアメリカは、内部において一枚岩的な結束を保っていたわけではありません。長い黒人差別の伝統は公民権法が成立した後においても、黒人たちへの抑圧の手をゆるめることはなく、それに対抗する形で黒人解放闘争が根強く続けられていましたし、ベトナム戦争に際しては、学生や市民たちの広汎な反戦運動が組織されました。長い間差別を受けてきたマイノリティに対してアファーマティヴ・アクション (積極的是正措置) による救済を唱える民主党と、経済効率を重視し強いアメリカを主張する共和党とが交互に政権に就き、そのつど異なるタイプの自由主義を打ち出していました。
 ロールズは前者の、福祉重視型自由主義を哲学的・倫理学的に基礎づけようとした思想家です。若きロールズには立ち向かうべき2つの思潮がありました。20世紀の前半から中盤にかけて、哲学や倫理学の世界では、言葉の意味を厳密に分析していくだけで、積極的には何も提言しようとしない分析哲学が流行していました。何が善で何が悪か、何が正で何が不正かを論じようとする規範倫理学は、結局のところイデオロギー的政治対立に巻き込まれ、学問的厳密性を保ちえないと考えられていたのです。そうした中で、自由主義の基礎づけには昔ながらの功利主義倫理学が援用されていました。功利主義とは 「最大多数の最大幸福」 という、多くの人の直観に合致する原理から出発して、個人の行動から社会政策まで様々な選択肢を、その功利効用を測って順位付けしていこうとする、倫理学の一つの立場です。幸福という曖昧な概念を、利害やら選好という概念へと厳密化していくことによって功利主義は命脈を保ち続け、哲学・倫理学というよりもむしろ経済学の中に深く根を下ろし、厚生経済学を根底から支える役割を果たしていました。
 ロールズからするならば、この功利主義の問題点は、上述の2つのタイプの自由主義のいずれをも正当化可能であるということでした。とりわけ最大の問題点は、功利主義が 「正義」 を基礎づけることができないということです。例えば、功利主義は奴隷制が正義にもとるということを説明することができません。ロールズはこの正義の問題を正面から取り上げ、功利主義に代わる新たな規範倫理学の構築をめざしていきます。そのような若い頃からの挑戦が一つの体系として実を結んだのが、1971年に刊行された 『正義論』 だったのです。この書物は、現実の正義問題に揺れるアメリカを始めとして全世界で熱狂的に受け入れられ、この書の刊行を機に、あるべき社会像に関する積極的な提言が各方面からなされるようになり、〈倫理学の復権〉 とか 〈政治哲学の復権〉 と呼ばれるような活況を呈するようになって、現在に至っています。

Ⅱ.原初状態の想定―無知のヴェール

 さて 『正義論』 において、功利主義に対抗するためにロールズが依拠したのは、ロック、ルソー、カントらの社会契約説の伝統でした。ロールズは、社会契約説の手法を取り入れて、万人が受け入れ可能な正義のルールを構想しようとしたのです。とはいっても近代社会契約説をそのまま借用したわけではなく、現代のゲーム理論や意志決定理論などを用いながら、より抽象度を高めた現代版の社会契約説を構築しようとしたのです。
 ロールズは、社会契約論者たちが 「自然状態」 を想定したのに倣って、「原初状態 the original position」 というものを想定します。これは社会が形成される以前の段階ですが、あくまでもそうした状態を想定・仮定してみるというだけのことであって、現実にそういう状態があったかどうか、ありうるか否かといったことは関係ありません。そしてロールズは、この原初状態にいる人々には 「無知のヴェール」 がかけられていると想定します。つまり、自分が何者であるのか、資産家の子どもなのか浮浪者なのか、スポーツの才能に恵まれているのか先天的な障害をもって産まれてきているのかなどの個人情報がまったくわからないものと仮定されます。このような条件下で人々はどのような社会が構成されることを望むだろうか、どのようなルールなら受け入れられるだろうかという思考実験を試みてみようというのです。
 のちにロールズに対しては、この無知のヴェールに覆われた原初状態という思考実験はあまりにも現実離れをしているので受け入れがたいという批判が数多く浴びせられました。そのような 「負荷なき自己」 は現実にはどこにも存在しないし、そのような状態では人間はいかなる社会がいいかを判断できない、と言うのです。おそらくこの無知のヴェールという想定を受け入れられるか否かが、ロールズ理論への踏み絵の役割を果たすと言ってもよいでしょう。そもそも正義感覚や正義の理念への感受性を持ち合わせていないと、そのような想定を受け入れることができず、そこから先の理論展開にもついていけなくなってしまうのです。

Ⅲ.正義の二原理

 それでは、上述のような原初状態において、いったい人々はどのようなルールを選ぶとロールズは考えるのでしょうか。ゲーム理論を用いながら彼は、合理的な判断を下せる者ならば不確実な選択状況においては、危険回避を重視し、最悪な事態を最大限改善できるような原理を選択するはずだと言います。そこでまず、「平等な自由の原理」(第一原理) が選ばれます。各自は自分がどのような条件下で生まれてくるにせよ、基本的な自由を平等に認められ、他人の自由を侵害しないという義務を遵守する限り、自らの自由を行使する権利が保障されることを望むはずです。例えば、自分がどの人種に属するかわからないとしたら、特定の人種だけが自由を享受し、他の人種は自由を奪われているような社会を選択するのは危険な賭けとなってしまいます。それよりも自由が平等に認められている社会を選んでおく方が安全でしょう。
 しかし、そのような自由が認められていたとしても、たまたま不遇な境遇に生まれついてしまうということもあるでしょうし、あるいは自由を行使していった結果残念ながら予期せぬ不遇な状態に陥ってしまうということもあるでしょう。自分がどうなるかわからないとしたら、そのような事態を改善できる方途を残しておくのが理性的な判断というものです。そこで 「公正な機会均等原理」 と 「格差原理」(2つ合わせて第二原理) が選ばれます。自由な競争が行われた結果として、社会的・経済的な不平等が生じるとしても、その不平等は才能や資産や家柄などによって固定化されたものであってはならず、あくまでも公正で均等な機会を与えられており誰でもアクセス可能なものでなければならない。しかも公正で均等な機会によって有利な立場に立った者には、最も不利な立場にある者の状況を積極的に改善することが求められる。無知のヴェールの下では、危機回避のためにこのような救済策が選択されるはずだ、と言うのです。
 これらの原理の間には優先順位が存在します。平等な自由の原理→公正な機会均等原理→格差原理という順です。このように優先順位がはっきりしていることによって、それぞれの要求が齟齬を来したときに、判断停止に陥らずにすむのです。
 こうした二原理を自由で平等な人々が相互に承認しあうところに、公正としての正義が実現されます。ロールズによれば、正義の二原理は経済体制の区別 (資本主義か社会主義か) に関係なく成立しえます。この二原理に基づいて、いずれの社会体制をも構築することが可能だと言うのです。もともと20世紀の福祉重視型自由主義は、社会主義との対抗関係の中で、社会 (福祉) 主義的施策を積極的に取り入れることによって成立してきたものですので (例えば、戦後の日本は世界中で最も完成された社会主義国家だという評などもあった)、ロールズの言明はある程度説得力をもつと言えるでしょう。『正義論』 以後、福祉重視型リベラリズムに対抗する形で、福祉を切り捨てた古典的リベラリズム (最小国家、夜警国家) への回帰を唱えるリバータリアニズム (自由至上主義) が台頭してきます。つまりロールズの格差原理を拒絶して、完全な自由競争に委ねることが正義に適った処置なのであると主張されるわけで、この主張は肥大化した政府に苦しんでいたイギリス・サッチャー政権や、アメリカ・レーガン共和党政権に採択され、ほぼ20年遅れで日本の小泉政権にも移植されることになりました。サッチャー政権やレーガン政権が当時の時代状況の中である程度の成功を収めることができたのに比して、日本の構造改革はその弊害ばかりが目について何か前進があったのか一向に見えてきませんが、私たちはロールズの正義の二原理をたんなる思想家の御託宣として受け流すのではなく、私たちが暮らす社会をどのような社会として構築していきたいのか、いくべきなのかに関するきわめて実践的な問題提起として受け止めて、これから先、福祉をどうしていくべきか、社会の一員として真剣に討議に加わっていく必要があるでしょう。

Ⅳ.アメリカの良心

 『正義論』 は当時のアメリカの政策 (特に積極的格差是正措置などの民主党的政策) を倫理学的に基礎づけたものであったと言えるでしょう。『正義論』 の後半では市民的不服従の正当化も試みるなど、ロールズは、近年に見られる強引な共和党的 「正義」 とは異なる、別のアメリカ的正義の構築に一役買ってきたと言うことができるでしょう。では、そうした彼の理論はアメリカという社会を離れては通用せず、結局自国中心主義を免れていないようなものなのでしょうか。
 最近ロールズは、自らの正義論によって、たんに一社会におけるのではなく、国際社会における正義を基礎づけようとして、「諸民衆の法」 というものを提起しています。具体的には7つの正義原理を挙げていますが、その中には諸民衆の自由と平等を保障せよとの原理などと並んで、諸民衆は自衛の権利を有するとはいえ戦争への権利は一切もっていないこと、自衛のためやむなく始めた戦争であったとしても何をしてもよいというわけではなく、戦争遂行にあたっては一連の規則に従わなければならないことなどが定められています。この議論が歴史問題に適用されて、太平洋戦争中にアメリカが日本に原爆や焼夷弾を投下した問題が取り上げられ、あれは 「すさまじい悪行」 であって、政治家はそうした悪を避けるべきであったし、ほとんど犠牲を払わずとも回避可能だったはずであると断罪しています。
 ロールズの正義論に欧米中心主義を認めるのはたやすいことですが、しかしそこに狭隘な利己主義を脱却しうるようなヒューマニズムや普遍主義を読み取ることも可能でしょう。それぞれの国家や民族や民衆が、それぞれの立場や伝統や思想信条に拠って立ちつつも、いったんそれらをカッコに括って、互いに共存していくための共通の基盤・ルールに関して互いに歩み寄り何とか合意形成していくことはできないのか、現代はまさにそうした原理が切実に求められている時代のように感じられます。ロールズが提示したのは、それに向けた一つの (アメリカ的な) 提案にすぎませんが、しかしきわめて良心的な提案であったと言うことができるでしょう。

Q.ロールズの 「無知のベール」 ってどういうことですか?

2014-07-17 19:53:05 | 哲学・倫理学ファック
「倫理学概説」 の授業で軽くロールズの正義論について紹介したときいただいた質問です。
正確にはこんなふうに聞かれていました。

「無知のベールについて、『自分の位置づけを知らない』 というのは 『わからないほど幼い子について』 を言っているのか、『それらを気にしないほど昔の話』 を言っているのか、原初状態がよくわからない。また、幼い子ならば有利や不利などが考えられないと思うし、昔のことならば、身分や階級に差が生まれる以前をいってるように感じるので、『誰も有利にも不利にもならない社会のルールにのみ合意』 ということもわからない。できるならば、ブログなどで少し説明してもらえると助かります。」

ロールズの正義論については以前に 「社会思想入門」 の授業で簡単にまとめたことがあるので、
その資料を近々アップすることにしたいと思います (こちらです)。
とりあえず、今回の質問に関係する部分だけ引用しておきましょう。

「ロールズは、社会契約論者たちが 『自然状態』 を想定したのに倣って、『原初状態 the original position』 というものを想定します。これは社会が形成される以前の段階ですが、あくまでもそうした状態を想定・仮定してみるというだけのことであって、現実にそういう状態があったかどうか、ありうるか否かといったことは関係ありません。そしてロールズは、この原初状態にいる人々には 『無知のヴェール』 がかけられていると想定します。つまり、自分が何者であるのか、資産家の子どもなのか浮浪者なのか、スポーツの才能に恵まれているのか先天的な障害をもって産まれてきているのかなどの個人情報がまったくわからないものと仮定されます。このような条件下で人々はどのような社会が構成されることを望むだろうか、どのようなルールなら受け入れられるだろうかという思考実験を試みてみようというのです。」

この説明でわかっていただけたでしょうか?
というか、授業中にもこういうふうに説明したつもりなんだけど、
それでわからなかったということはこれを読んでもわからないんだろうなあ。
結論から言うと、ロールズが 「原初状態」 とか 「無知のベール」 と言うとき、
幼い子どものこととかすげぇ昔のこととかを考えているわけではありません。
今生きている私たち大人が、もしもみんな自分の位置づけを知らないとしたら、
これから新しく社会のルールを決めようというときにどういうルールを選ぶだろうか、
そういう想定・仮定をして考えてみようということです。

自分の位置づけがわかってしまっていると、皆どうしても自分に有利なルールを望んでしまいます。
たくさんお金を稼いでいる人は同一税率でも自分はよけいに税金を払うことになるのに、
累進課税なんてもってのほかだと考えるでしょう。
(税率10%とするならば、年収100万円の人は10万円だけ納税すればよいのに対し、
 年収1000万円の自分は100万円も納税しているからそれで十分国家に貢献している。)
それに対し収入の少ない人は、累進課税によって余裕のある人からより多く徴税し、
その分を生活に困っている人々の福祉に充てるべきだと考えるでしょう。
(同一税率だと年収1000万円の人は納税後900万円も持っていて豊かに暮らせるが、
 年収100万円の自分は手元に90万円しか残らず、とてもそれでは暮らしていけない。)
同様に、お金持ちの家に生まれた人は相続税をできるだけ減らすべきだと考えるでしょうが、
貧乏な家に生まれた人は相続税をたくさん取ってそれを再分配するべきだと考えるでしょう。
男性の労働者は、産休・育休を取って仕事を休んでいた同期の女性が、
自分と同じスピードで出世していったらずるいと思うでしょうし、
女性の労働者は、家事・育児は妻まかせの仕事人間の男性ばかりが出世して、
女性たちがどんどん職場でのさまざまなチャンスから遠ざけられてしまったらずるいと思うでしょう。
そうした自己中心性から脱却するために、
いったん無知のベールをかけて考えてみようとロールズは提案するのです。
誰にとっても公平・公正なルールを決めるためには、
みんなが自分の実際の立場をいったん忘れて (「捨象する」 とか 「括弧に入れる」 と言います)、
様々な立場に自分を置いてみてどんな立場にいたとしても納得できるルールを考えようと言うのです。

これはひじょうに知的な営みではありますが、
元をただせば 「相手の立場に立って考えてみる」 ということを、
ちょっと大がかりにやっているにすぎません。
相手の立場に立って考えてみることのできない人は、
ただの自己チューの大バカ野郎ですね。
ところが、政治の世界で社会のあるべきルールを考えようとすると、
(現政権のように) 大の大人がみんな自己チューの大バカ野郎になってしまうのです。
それに比べるとロールズの原初状態における無知のベールという発想は、
ひじょうに理性的かつ倫理的、倫理学的な、クールな考え方だと思います。
今日のお答えはこんなふうにまとめておきましょう。

A.ロールズの無知のベールは、自己中心性を脱却して考えるための道具立てであり、
  客観的・普遍的なあるべきルールを導き出すための、思考実験にもとづく仮定・想定です。  

第25回てつカフェ 「愛は地球を救うのか?」

2014-07-16 14:39:47 | 哲学・倫理学ファック
今週の土曜日、第25回てつがくカフェ@ふくしまが開催されます。

テーマは 「愛とは何か? ―愛は地球を救うのか?―」 です。

今回はホントのホントに agato での最後の開催です。

第23回のときに agato で最後のてつカフェですと告知しましたが、

その後もろもろあって agato の閉店が少し延びましたので、

もう一度だけ agato を使わせていただくチャンスが増えました。

agato は8月24日がラストデイとなりました。

次々回のてつカフェはちょうどその同じ日に開かざるをえなくなってしまったので、

残念ながら agato でやるわけにはいきません。

ということで今回がホントのホントにラストてつがくカフェ@agato ということになりました。

そこでテーマは agato の吉成さんからご提案いただきました。

「愛とは何か?」 です。

副題の 「愛は地球を救うのか?」 も吉成さんの発案です。

吉成さんとしては、愛は地球を救わないのではないかと考えていらっしゃるそうです。

私もある種同感ですが、もうちょっと議論してみないとそれぞれ何を考えているのかはっきりしません。

もちろん愛が地球を救うのだという考え方もあるでしょう。

愛をめぐる哲学的対話を楽しんでみたいと思います。

てつカフェでは第12回のときに 「愛と恋は何が違うの?」 というテーマで話し合ったことがあります。

私もこのブログで 「愛とは時間である」その続編を書いたことがあります。

それらの議論も思い出しながら愛について包括的に考えてみたいと思います。

ぜひ皆さんも愛について熱く語りに来てください。

2次会も agato でやらせてもらえることになっております。

1次会に間に合わない場合には2次会でお待ちしております。


第25回てつがくカフェ@ふくしま
【テーマ】「愛とは何か?―愛は地球を救うのか?―」
【日 時】2014年7月19日 (土) 16:00~18:00
【場 所】agato (アガト)

             福島市置賜町7-5 パセオ通りアドニード121 2階
            ℡ 024-523-0070
【参加費】 ドリンク代300円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

第17回うつくしま、ふくしま。バーテンダー・カクテルコンクール

2014-07-15 23:43:55 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
昨晩は、ウコンを小分けにしようとしたらもう全然ウコンが残っていなくて、
ものすごく途方に暮れるという夢を見てしまいました。
自分どれだけウコンのことが好きなんだろう。
あるいは 「夢にも人に」 のロジックでいくなら、
どれだけウコンはぼくのことを想ってくれているんだろう。

さて、日曜日にウコンを呑んで臨んだカクテルコンクールのことを簡単に報告しておきましょう。
正式には 「第17回うつくしま、ふくしま。バーテンダー・カクテルコンクール」 と言います。
「うつくしま、ふくしま。」 と銘打つようになったのは5回くらい前からで、
その頃から福島県ばかりでなく東北各地から参加者を募るようになったそうです。
今年はパラシオ・デビアナ・ベルカーサで開催されました。
13時半から大会セレモニー (=開会式) が始まりました。



今回の出場者は16名。
うち6名が県外から。
県内10名のうち福島の人は2名で、あとは郡山、常磐、会津などからの出場です。
福島の知ってるお店の人は出場していませんでした。
しかしながら、盛岡のあの 「The bar 佐藤」 の従業員の方が参加していたので、
懐かしくてつい応援してしまいました。
出場者には知り合いはその方しかいませんでしたが、
大会運営側には知り合いがたくさんいました。



総合司会が 「Cocktail BAR 和醸」 のマスターだったり、



挨拶する主管支部代表が 「BAR LIBRARY」 のマスターだったり、
写真は撮れなかったけど審査員が 「BAR Suzuki」 のマスターだったり。
さて、選手宣誓のあとコンクールが開始されました。



試合はこんなふうに2名ずつがオリジナルカクテルを作っていきます。



審査はカクテルの味ばかりでなく、タイトルとそれに込められたイメージ、
作るプロセスにおける技術や挙措、態度、
また5分以内に5人分の分量をきっちり作れるか等、すべてが対象となるそうです。
みんな得意のシェーカーさばきを見せて、



きっちり時間内に5杯のカクテルを仕上げていました。



5杯しか作らないということは私たち観客は飲めないってことですね。
審査員が4人で、残りの一杯はロビーに飾られます。





美味しそうだけど飲めないっていうのはやっぱりねぇ…。
グラスに最後に飾られるデコレーション (=トッピング) もオリジナルです。
例えば、これはリストの変奏曲をモチーフに作られた「ラ・カンパネラ」 ですが、
デコレーションに付いている音符は何でできているでしょうか?



これはたぶんわかったかと思いますが、海苔です。
もうひとつ、こちらは?
フランス語で魔法使いを意味する 「ソルシエール」 というカクテルです。
魔法使いチックなデコレーションが施されていますが、これは何でできているでしょうか?



なんと茄子なんですねぇ。
たぶん食べられるんだろうなあ。
とまあこんな感じでそれぞれ趣向を凝らしたカクテル16作品が作られました。
大会自体はそのまま終了し、懇親会に移行していきます。
結果発表と表彰も懇親会で行われるようです。
懇親会場に移動してみるとさらに知った顔が。



「ラトリエサラン」 のマスター親子も裏方として働いていました。
(お父さんは写真撮ろうとしたらキョヒられた。)
立食形式でものすごい人でしたが、どれも美味しくて食べ物が枯渇することもありませんでした。
そして、何より飲み放題の飲み物がありえないほど充実していました。
特にカクテルは本物のバーテンダーがひとつひとつちゃんと作ってくれるのですから最高です。
これで会費3,500円というのは相当割安ではないでしょうか。
そうやっていい加減お酒と料理を楽しんだところで表彰式が始まりました。
優勝以外に支部長賞とか審査員特別賞とか民友新聞賞、民報新聞賞なども発表されていきました。



優勝は青森支部の女性バーテンダーが作った 「Beautiful Pride」。
桃のリキュールなどを使ったピンク色のカクテルです。
作品イメージは以下の通り。
「周りがどんなに逆境のような環境でも、芯を曲げず、白やピンクの美しい姿を見せてくれる
 福島の花ネモトシャクナゲの咲く風景をイメージし、福島県産の桃のお酒を使って、
 うつくしま福島の誇り高い美しさを、カクテルに表現しました。」
福島から出場した選手たちが特に福島をモチーフにしていなかったのに対して、
一番遠くから参加した選手が福島を意識したカクテルを作ってくれました。
優勝おめでとうございます。

受賞者たちが観客のためにカクテルを作ってくれました。
たぶんコンクールで作った5杯分と同じ量だと思いますが、
それを小さなプラカップに小分けにしてくれました。
それでも全員に行き渡る量ではなく早い者勝ちでした。



私は優勝作品を狙って走り込みましたがあっという間になくなってゲットできませんでした。
その間に連れが素早く立ち回り、優勝作品以外の4作品を取ってきてくれました。
私も味見させていただきましたが、
いずれもこれまでに飲んだことのない個性的な味に仕上がっていました。
(残念ながらどれも甘口だったので私の口には合いませんでしたが…)
出場者の皆さん、大会運営に関わった皆さん、たいへんお疲れさまでした。
楽しいひとときを過ごさせていただきました。
大会セレモニーの前から試飲ブースでウィスキーやらワインやらを試飲しまくり、
懇親会でもとめどなく飲み続けていたので相当酔っ払いましたが、
ウコンのおかげで眠ったり記憶をなくしたりすることなく長丁場を乗り切りました。
懇親会が終わったのが18時。
そこからさらに街に流れていきましたが、
翌日の月曜日はちゃんと1限の授業に間に合うことができました。
めでたし、めでたし。