まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

小説&映画 『阪急電車』 の疑問点

2013-05-31 22:34:13 | 人間文化論
先日、映画 『阪急電車』 を見たことにより、比較のため小説も読み直してみました。
すると、それぞれにいくつか疑問が生じてきたので再説いたします。
まずは小説のほうから引用いたします。

「何か見えるのだろうか、と圭一も高い背を猫背にして窓の上方を窺った。
 すると彼女がびっくりしたように圭一を振り返った。いきなり背がひょろりと高いのが自分の頭の上から窺ってきたら驚くのも道理である。
「あ、ごめん。何か見えるのかなと思って」
 彼女は混んだ車内で圭一に少し場所を譲り、空を指さした。
「何か事件でもあったのかなって」
 彼女は圭一がもういいかげん聞き慣れた関西弁のイントネーションではなかった。圭一は地方出身だが、彼女もそうなのだろう。彼女の場合はせめて標準語にしようとして九州訛りがかすかに分かるが、圭一は中国地方の訛りが混じって聞こえるはずだ。
 彼女が指さしたほうを見ると、夏の兆しが窺える空に遠目で黒っぽく見えるヘリコプターが五機編隊で飛んでいた。
「ああ、違うよあれは」
 反射で圭一は答えていた。
「自衛隊の汎用ヘリ。マスコミのヘリはあんなにきれいな編隊飛行はできないよ。伊丹に駐屯地があるからこの辺はたまに飛んでるよ。」
 はっと気がつくと女の子が目をまん丸にして圭一を見つめていた。
 しまった、と嫌な記憶が蘇る。
 進学で上京する前、地元の高校で女子たちに軍オタのレッテルを貼られてバカにされていたのである。軽音部にも所属していたが、ほかの部員はそこそこモテたのに圭一だけは軍オタ軍オタとからかわれるばかりだった。
 大学に入ったら軍オタ属性は封印して再デビューの予定だったのに、と臍を噛む。」

圭一とゴンちゃんの出会いのシーンです。
文庫本で104ページから105ページまで2ページにわたる長い箇所なので、
だいぶあちこち中略してありますが、残っている文自体は作者自身によるものです。
このなかで2箇所疑問に思ったところがありました。
この小説の舞台は宝塚駅~西宮北口駅間という兵庫県内の阪急今津線沿線で、
2人は関西学院大学に通っているわけですが、
このなかで圭一は自らのことを (そしてゴンちゃんのことも) 「地方出身」 と位置づけています。
そうか、そういうふうに 「地方」 という言葉を使えるのか、というのが私にとってひとつの発見で、
と同時に本当にそうなの? という疑問もわいてきました。
私の通っていた東京外国語大学では、大阪出身の人も 「地方出身者」 というカテゴリーでした。
その使い方が間違っていたんでしょうか?
ウィキペディアで引いてみます。
どうやら 「地方」 という語は相対的概念で、いろいろな対で使うことができるようです。
「首都圏」 に対するその他という意味が先に出てきていて、これは私が東京で使っていた用法。
その次には 「三大都市圏」 に対するその他という意味があり、これが圭一君の用法なわけですね。
(兵庫県は 「三大都市」 ではなく 「三大都市圏」 に含まれます。
 ちなみに昨日の 『秘密のケンミンSHOW」 では、
 福岡県民は福岡が三大都市のひとつだと思っているという特集をやっていましたが、
 私は三大都市とは東京・横浜・大阪のことだと思っていました。注:順番も大事!)

というわけで、兵庫県の今津線沿線が 「地方」 ではないというのはいいとしましょう。
しかし、この言葉遣いはいかがなものでしょうか?
圭一は 「進学で上京する前」 は軍オタ (=軍事オタク) だったと述懐しています。
関西学院に進学して近くに引っ越してくることを 「上京」 と言っていいのかっ
これは調べてみても謎は募るばかりです。
ウィキペディアではこう説明されています。
「都へ行くこと。現代の日本では東京ヘ行くことをいい、もとは京都へ行くことをいった。」
その他どのような辞書を引いてみてもこれ以上、宝塚や西宮に近づくことはできません。
一般的には大阪に行くことさえも 「上京」 とは言わないんではないでしょうか。
しかし、今津線沿線に住んでいるという有川浩がこのような物言いをするというのは、
それなりの裏づけがあって使っているような気がしないでもありません。
東京在住の作家が舞台を兵庫県にして小説を書いたのに、
間違って東京言葉を使ってしまったというのとは違うような気がするのです。
関西方面における 「上京」 という概念の使い方について、
何か情報をお持ちの方は教えていただけると幸いです。

小説に関する疑問は以上2つの言葉遣いでした。
このあいだ書き忘れた映画に関する疑問は、キャスティングに関するものです。
その最大の疑問は、なぜ新婦役に安めぐみを抜擢したのか、という問題です。
さらに言えば、なぜ安めぐみはこの役を引き受けてしまったのか、とも言い換えられます。
このエピソードは、美人の翔子が結婚準備期間中ちょっとマリッジブルーですれ違っているあいだに、
冴えない後輩に自分の婚約者を寝取られてしまうという基本的設定の上に成り立っています。
したがってキャスティングにおいて最も重視すべきは、
翔子と後輩 (=新婦) の外見が誰が見てもはっきりわかるくらい優劣の差があるということです。
翔子役の中谷美紀というのはなかなかいい配役だったと思います。
しかし、それとの対比において新婦役はもっと名の通っていない平凡な顔立ちの人を選ぶべきでした。
安めぐみサイドは原作をちゃんと読んでから仕事を選んだのでしょうか?
ストーリー上ああいう扱いの役ということを理解していたのでしょうか?
安めぐみがウェディングドレスで着飾ってしまうと十分キレイなんだよなあ。
しかも、翔子の討ち入り用の白いドレスは、男の目から見てそんなによくなかったし。
あれじゃマタニティウェアにしか見えません。
ウェディングドレスの安めぐみとマタニティウェアの中谷美紀だとけっこういい勝負で、
新婦よりも翔子に見とれてしまうという状況は作れないように思うのです。

さらに言えば、新郎役に無名の俳優 (ですよね?) をもってきたのも解せませんでした。
新郎は、翔子が後輩に寝取られて悔しい、許せないと思うほどのいい男である必要があるのです。
結婚式に白いドレスで乗り込んで呪われた日にしてやりたいと思うほどの男でなきゃいけないのです。
ミサのDV彼氏や悦子のアホ年上彼氏よりも数段上の男でなければなりません。
なんでそんなことがわからないのでしょう。
残念ながら映画のなかの新郎にはそれほどのオーラは感じられませんでした。
うーん、不思議だ。
このへんのキャスティングの綾というのはこの映画を作るにあたってけっこう肝だと思うんだけどあ。
全体的にはなかなかいい配役だったと思うだけに、
よけいに、この映画の骨格を成すキャスティングのミスに苛々してしまったのでした。
とりあえず、今の私の喫緊の課題は、
『阪急電車 〜片道15分の奇跡〜 征史とユキの物語』 をTSUTAYAで借りて見られるかどうかです。
小説のトップとラストを飾るエピソードだっただけに、
とにかくこれを見てしまわないと 『阪急電車』 の旅は終わらないような気がします。
TSUTAYAで借りられますように。

Q.先生はガンの告知を受け入れる自信はありますか?

2013-05-30 18:38:47 | 生老病死の倫理学
この質問も第1回のときにもらったものではなく、
理想の死に方とか告知の問題など、死についていろいろやったあとにいただいた質問です。
正しくはこういう質問でした。

「Q.先生はガンだという告知をうけて、受け入れる自信はありますか?
   告知をうけてから死をむかえるまで、どんな過ごし方をしますか?」

このふたつの質問のうちの後半の問いに対しては、
直接のお答えではないのですが、以前に関連するようなことを書いたことがあります。
そのときの質問は 「Q.どんな看護師がいたらうれしいですか?」 でした。
そこでは、自分の教え子 (や教え子の教え子) の看護師さんに看てもらいながら、
生命倫理の問題について語り合ったり、学校現場に出かけてデス・エデュケーションをしたりしながら、
最期の日々を過ごしていきたいと書きました。
これは私の理想の死に方だと言えるでしょう。

ただ問題は今回の質問の前半ですよね。
自らの死を受容できるのかどうか。
上記のような理想の死に方も死の受容がちゃんとできてこそのお話です。
死の受容ができなかったら、あんなカッコいい最期を送ることはできません。
自分はものすごく臆病だし、しかもエロジジイになる自信が100%ありますので、
死の受容ができなくて、その鬱憤を看護師に向かってセクハラで晴らすような、
とんでもなく厄介なモンスター・ペイシェントになってしまうのではないかという不安があります。
ああ、ちょっとここには書けないけど、今いろいろリアルに自分の姿を想像してしまった。
やっばいなあ。
こんな人、担当させられるお医者さんや看護師さんは本当にかわいそうだなあ。
否認・怒り・取り引き・抑鬱のすべての段階がどれも現れ方が激烈で、
しかも一段階一段階ものすごく長い時間がかかる気がします。
それらを経て果たして受容にまでたどりつけるのかどうか?
うーん、いやホント我が事ながら読めないないなあ。

まあいちおう哲学を学んできたんだし、
看護学生相手にデス・エデュケーションをしてきたわけですから、
心静かに自らの死を受け容れて、最期にやりたいことをやり、
若い人たちに死にゆく人の姿を見せてあげながら穏やかに亡くなっていきたいし、
たぶんそうできるんじゃないかなと理性的な部分では考えているんですが、
授業でも話したとおり、予想した場合と現実にそうなってみた場合のズレというのはあるはずなので、
不様な姿をさらすということも大いにありえそうです。
こればっかりは本当になってみないとわからないですね。
その時を迎えたとき、理性的・理想的に死を受容できていれば、
きっとこのブログも書き続けているでしょう。
そうするとまさおさまがどんな最期を迎えたのか皆さんにもリアルタイムで伝わるでしょう。
残念な最期のほうになってしまった場合は、早々にブログも閉鎖して、
人知れずヘルパーさんや看護師さんたちにひどいことをしまくった挙げ句、
何年か経ってからどこからか風の噂で福島の医療関係者のあいだに、
「まさおさまって死を受容できなくて最期ひどかったらしいよ」 という話が漏れ伝わっていくのでしょう。
どちらになるのかお楽しみに。
ま、どちらになったとしても私の教えは正しかったということになりますね。
前者であれば、常に死を意識し死のことを考えておけば理想の死を迎えられるという実例として。
後者であれば、予想と現実のあいだにはズレがあるということの実例として。
うーん、できればやっぱり前者のほうがカッコいいよなあ。
でも後者は後者でまさおさまらしいと言えるかもしれないし。
ホント、どうなることやら。
その日が楽しみです。

相馬看護専門学校 「哲学」 最終回感想

2013-05-28 12:58:55 | 生老病死の倫理学
昨日も書きましたが、先週の木曜日で相馬の看護学校の 「哲学」 の授業が終了しました。
毎週2コマずつという、私の都合に合わせたヘヴィなスケジュールでしたが、
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
最終回のワークシートでは、授業全体を振り返っての感想を書いていただきました。
第1回目の授業の冒頭に哲学や哲学の授業のイメージを書いてもらいましたが、
それとのギャップについて書いてくれている人がけっこういました。


「哲学の最初のイメージは1コマずっと座学で、かたい授業だと思っていました。しかし、グループワークをやり、みんなの意見を聞くことが多い授業で学びになることが多々ありました。死についてが一番多く苦しい気持ちにもなったことがありましたが楽しい授業でした。このような授業を今後も続けてほしいと思います。ありがとうございました。」

「哲学という文字を見ただけで、『堅苦しそうな、つまらなそうな授業だ』 と思い授業に臨みました。ですが、ある意味純粋な学問で、身近にもありそうな感じがしました。先生の配慮があってか、あまり苦手意識を持たず、重い内容であっても授業が楽しみになっていました。哲学の授業が終わってしまうと思うと寂しいですが、今後もどうかお身体にお気をつけて下さい。ありがとうございました。」

「最初 『哲学』 と聞いて、固い、難しいなどのイメージを持っていました。私は昔から本を読むことが苦手で漫画ばかり読んでいたので、哲学の授業もよくわからないまま終わってしまうのだろうなと思っていました。しかし、授業を受けると、誰もが疑問に思っていたことや、今後働くうえで必要なことなどをたくさん学ぶことができました。また、難しいと思うことも少なく、先生の話がちゃんと頭の中に入ってきたので良かったです。」

「一番最初の授業でも書きましたが、『哲学』 という分野は堅苦しく難しいものだと思っていて、どこが看護と関係あるのだろうと思っていました。しかし、7回という少ない講義ではありましたが、受けてみると哲学に対する考えが大きく変わりました。”脳死と植物状態の違い” という回においては、今まで疑問に思っていたことが少し解決しましたし、みんなの発表も聞いて色々な考えがあることも分かりました。今となっては、哲学の授業を受けて、看護に対する見方にも変化がありました。哲学を受けてよかったです。ありがとうございました。」


私の哲学の授業ではその大半で死の問題を扱い、それをたんに私のほうから講義するだけでなく、
みんなに考えてもらい書いてもらい、さらにグループで話し合ってもらいました。
みんな震災も経験しているわけですし、それとは別に親しい人の死を経験した人もいるでしょうから、
考えるのが辛いテーマもあったことと思いますが、それでもみんなたくさん考えてくださいました。


「私は、『死』 についてなど悲しくなるような話について考えることは避けてきたことが多かった。しかし、授業を受けて自分の考えを深めることができ、自分がどのように感じていたのか、考えていたのかを知ることができて良かったです。また、『死』 についての話はあまり友達としたことがなかったのですが、授業を通してみんなの考えを知ることができて良かったです。」

「哲学の授業以外でこんなにも死について考えることはありませんでした。でも看護師と死は決して離すことができないものだから、今回の授業を機会に、死について逃げないで、話やニュース、本などで触れていけたらいいと思いました。」

「哲学の授業は、時々内容が深く、頭が痛くなって考えるのがいやになってしまったときもありました。でも、7回を終えて振り返ってみると、学べて良かった、一生懸命考えて良かったと思えました。このように 『死』 について考える時間は大切だと思います。これからも先生のブログ拝見させていただきます ありがとうございました。」

「『哲学とは何か?』 から授業が始まり、もう最後の授業になってしまいました。授業は毎回考えさせられる内容で中身が濃く、この先何度もめぐり合う事項で、とても勉強になりました。また、自分がワークシートで書いた内容を友達と回し読みするというのは初めてのやり方だったので、毎回緊張感 (?) を持って授業を受けることが出来ました。7回の授業をしていただきありがとうございました。」

「哲学の授業を受けて、死について今まで深く考えることがありませんでしたが、授業の中で多く学ぶことができ、考える力も少しついたような気がします。先生のおかげで楽しく授業を受けることができました。そして哲学の面白さにも気づくことができました。今後の実習や社会に出てから、死の場面と向き合うときがあると思います。哲学での学びを生かして患者さん、家族と接していきたいと思いました。」


死について自ら考えてみることで、自分の死生観を意識し確立していってもらうのとともに、
それを通して自らの医療観や看護観も確立していってもらいたいというのが私の目的でした。


「『哲学』 の授業を受けて、生や死について考える機会をいただき、また、患者さんとの接し方についての考えを深めることができました。看護師は考えることの大切な職業であることを再確認することができました。ここでの学びを就職してからも考え続けたいと思います。ありがとうございました。」

「この授業では人との関わりについて深く学ぶことができた。看護師は、技術がなければ信頼されないだろうと思いこんでいる部分があったが、患者と一番近くで関わることができることは心によりそえることなんだと実感した。」

「哲学の授業では、こんなことも考えるのというものもあり驚いた。しかし、こんなに深く考えることができて、改めて看護師としてどう動いていかなければならないのか考え直すことができた。死についてこんなに考えたことがなかったが、家族と話し合いができたり、理想の死に方についても考えることができてよかった。」

「哲学の授業を通して、自分だったらどんな看護師にそばに居てほしいか、そして自分はどんな看護師になりたいのかということを再確認することができました。この授業で死について考えたり、考えさせられたことで、苦しかったり切なくなったりすることができて、今となってはよかったのだと思います。将来自分が看護師になったときにそういう風に当たり前のように苦しんだり切なくなったりした気持ちを忘れたくない、し、相手のことを何よりも考えられる1人の人間でいたいと強く思いました。とても分かりやすく面白い講義をありがとうございました。」


私の意図やねらいとは別に、この授業でこんなこと↓を感じてくれた人もいたようです。


「日頃考えないこと、他の人の考えを知ることができたので、人を尊重していくことについても深まった。」

「席替えシステムもはじめは嫌だなぁと思っていましたが、みんなの意見がきけて、みんなのイメージの向上にもつながって良かったです。」

「この講義で学んだことをよく家で話しているので、私も家族も後悔なく生きていけそうです。」


また、最終回の授業では 「哲学」 の授業全体を振り返って、どんな学びがあったかを書いてもらい、
そのことについて4人グループのなかで1人4分間語り続け (4分て相当長いです)、
みんなはそれに対し積極的傾聴をしてあげるというワークを行いました。
この最後のグループワークに関する感想を書いてくれた人もいました。


「最後のグループワークはグループメンバーの思いをきけて、心が温かい気持ちになれた。」

「最後のグループワークでは、大好きな友達に感謝の気持ちを言えたので、とても良かった。」


なお、今年から初めて 『病気が教えてくれたこと』 を教科書に指定し、
毎週100ページ分くらいずつ読んでくることを宿題に課しました。
それに関する感想や意見も書いてもらいました。


「本を読むことを普段しなく、苦手でもあるので少し大変でした。しかし、課題として出されなければ、自ら読むことはなかったと思うのでよい機会となりました。」

「私はこういう機会がないと滅多に本を読まないので、宿題として読書が出されて良かったです。」

「この本は1つひとつのエッセイに心をうたれた。一生大切にしていきたい。」

「なかなか本を読む時間がとれない為、文章と向き合ういい機会だった。また自分では手に取る事のないジャンルの本との巡り合いに感謝します。」

「この教科書は最高です。病を背負って生きている人々の気持ちがよく分かりました。読んで本当に良かったです。」

「今回、使用した教科書で患者さんの様々な感情や思いに触れ、たくさんの学びがありました。なかなかたくさんの患者さんの気持ちを知る機会があまりないので、今後の授業でも使用して欲しいと思いました。」


毎週の読む分量が多すぎるという意見が2名、
似たような話ばかりで後半は飽きてしまったという意見が1名から出されていましたが、
まあ大半の方々は今回の新しい教科書と宿題について受け容れてくださっていたようです。
約2ヶ月間、哲学の授業 (修業?) にお付き合いくださりありがとうございました。
この授業でどんな学びがあったのか、どう考えが深まったのか、
みなさんのレポートを楽しみにしています。
夏休みに入ってから書こうなどと思わず、記憶の新しいうちに書いてしまいましょう。
「レポート作成要領」 をよく読んで、字数不足等のないよう気をつけてください。
それでは、理想の看護師を目指してできるだけ遠くへボールを投げてください。
みなさんの現場での活躍を心よりお祈り応援しております。


P.S.
第1回目のときに書いていただいた 「哲学の先生に聞いてみたいこと」 ですが、
まだ全部にお答えしきれたわけではありません。
なかなか答えにくい質問ばかりが残ってしまったので、すぐには返事できないかもしれませんが、
追い追い書いていくつもりですので、授業が終わってもたまにはこのブログを見てみてください

風を受けて走る (?)

2013-05-27 18:24:49 | ドライブ人生論
先週で相馬の看護学校の 「哲学」 の講義は終了しました。

毎週2コマずつやってきましたので、2ヶ月弱で講義終了する計算なわけです。

始まる前は毎年重苦しい気分で開幕を迎えるわけですが、

始まってしまえばあっという間です。

とはいえ、最初の頃には花見山に花見に行ったりしていたわけですから、

そう思うともう遠い昔という気もしてきます。

今年は桜の開花も早かったですが、全体に温暖な気候に恵まれた2ヶ月だったと言えるでしょう。

例年ですと、看護学校の授業が終わりに近づいてやっとという感じなのですが、

今年はその何週間も前から、ひじょうにドライブに適した気候になってくれていました。

ドライブに適した気候というのは、エアコンをつけずに快適にドライブを楽しめる季節のことです。

もっとわかりやすく言うと、オープンカーで走るのが気持ちよさそうな季節ということです。

オープンカーって見ていて気持ちよさそうですが、実は日本の風土にはあまり合っていなくて、

幌を上げて走るのは梅雨の時期はムリですし、真夏はムリ、冬のあいだもムリとなると、

新緑の頃と秋になりたての頃くらいしかオープンカーを楽しむことってできません。

ただまあその短い期間は本当に気持ちよくて、

オープンカーでなくともエアコンを止め、窓を開け放って風を受けて走りたくなるものです。

今年はこの2ヶ月のあいだにそういう適度な気候の日がたくさんありましたので、

例年以上に相馬へのドライブを楽しむことができました。



と言いたいところなんですが、私の場合そうもいかず…。

いやホント、イメージ的には新緑の季節のオープンカーって気持ちよさそうだし、

フツーの車でもこの時期は窓を開け放って、犬とかを乗せてると、

犬は窓から半身を乗り出して風をいっぱいに浴びて悦に入っていますよね。

私もそれを真似て窓を開け放ち、窓枠に肩肘かけて片手で運転してみたりするのですが、

すぐに耐えられなくなってしまうのです。

以前にも書きましたが、私は顔に何かがかかるのが苦手です。

シャンプーのときに顔に水がかかるのもイヤですし、

髪が伸びすぎて前髪が顔に垂れてくるのもイヤです。

したがって風に吹かれて髪が顔にサワサワするなんてまったく耐えられないのです。

風そのものがキライなわけではありませんので、

身体全体が風にそよそよ吹かれているのはむしろ大好きと言ってもいいくらいです。

ただ顔への攻撃が加わるとその不快感のほうが勝ってしまうんですね。

クルマの窓から入ってくる風って髪の毛に対して侵襲的ですよね。

制限速度いっぱいで走ると風は相当なことになりますし。

風量を調整しようと窓をほんの少しだけ開けるようにしても、

窓というのは上のほうから開くようになっているので風は真っ先に髪の毛を攻撃してきます。

坊主とかにしてしまって、どんなに風を浴びても髪がなびかないようにしてしまえばいいのでしょうが、

短髪の髪型をキープできるほどのマメさはありませんし、エイリアン頭を衆目に晒す勇気もありません。



というわけで気持ちいいはずのこの季節、残念ながら私にとっては苦行の日々となりました。

エアコン不要の季節といっても、窓を閉め切っていると太陽光だけで室内は過熱状態になります。

エアコンをつけると冷えすぎますし、窓を開ければ顔がサワサワしてしまいます。

けっきょく後ろの窓だけ開けておくようにしたのですが、

それでもやはり後ろから前へと髪の毛に攻められてしまいました。

私のクルマ以外はオープンカーもトラックもみんな風を受けて気持ちよさそうに走っていたのに、

私ひとり、サワサワとする不快感と戦いながらのドライブでした。

もはや何のスポーツもせず、ウォーキングもサイクリングもしない私にとって、

この季節のドライブだけが唯一自然に親しむ機会だったのですが、

残念ながらそれを楽しむことはできませんでした。

どうがんばっても私は自然と共存できないようです。

映画 『阪急電車 ~片道15分の奇跡~』

2013-05-25 13:33:03 | 幸せの倫理学
4月に有川浩の小説 『阪急電車』 を読んだ話を書きましたが、
今たまたまスカパー!で映画 『阪急電車』 をやっていたので見ることができました。
すでに映画化されていたとは全然知りませんでした。
4月には書きませんでしたが、『阪急電車』 というのは、
阪急電鉄今津線という片道15分の短い路線にたまたま乗り合わせた乗客たちが、
見ず知らずの人たちに影響を与え合っていく様を描いた物語です。
ひとりの主人公がいるわけではなく、大勢のフツーの人びとが登場する群像劇です。
そんな、基本的にはたった15分間での人びとの出会いやすれ違いを描いた物語を、
どうやって映像化するのか興味津々で見始めました。

結論から言うとウーン、まあ映画化するとしたらこういうふうにしかならないんだろうなあ。
悪くはありません。
映画としてこれだけを見ればけっこういい映画だと思います。
でもなあ…。
いつもの私の持論の繰り返しになりますが、
原作の小説と映画化されたものを比べてしまうと、どうしても小説に軍配が上がってしまいます。
したがって先に原作を読んでから映画を見てしまうと失望する確率が高くなってしまうのです。
これも、『天地明察』 のときと同じように先に映画を見ていればよかったのでしょうが…。
しかし、小説のことを知らなかったとしたらこの映画を見たりはしなかったろうしなあ。
うーん、残念。

映画化にあたってだいぶストーリーが変えられています。
それは別に悪いことではありません。
1冊の小説をそのまま忠実に2時間の映画に映像化するなんて不可能ですから。
ただまあ、いくつかあるエピソードのうち私が一番好きなお話が割愛されているのは驚きました。
小説では一番最初に出てくる 「生」 の話です。
征志とユキのエピソードなんですが、何事も起こるはずのない電車のなかで、
なぜかドラマが生まれてしまうというこの小説の、最初のきっかけを作るいいお話だったので、
このエピソードを省略してしまったのはとても残念でした。
恋の始まりの物語という意味でも気に入っていたのですが…。
ただ、調べてみると、『阪急電車 〜片道15分の奇跡〜 征史とユキの物語』 というタイトルの、
スピンオフドラマが別に作られていたようです。
いずれこれも見てみたいものですが、いろんなお話が繋がっているのがこの物語のミソなので、
このエピソードだけ独立して見るのでいいのかどうか疑問が残ります。
まあ、尺の問題としてしかたなかったんでしょうね。

征志とユキのエピソードがハブにされたことによって、
おばあさんとオバちゃん軍団の対決のエピソードもニュアンスがだいぶ変えられていました。
その代わりになのか、おばあさんとアホ彼氏のエピソードが付け加えられていました。
アホ彼氏といえば、悦子が軍オタとゴンちゃんのカップルに話しかけるという話も付け加わり、
全体に映画のほうは、お互いが色々な形で出会っていたり意識していたりと、
たまたま阪急電車で乗り合わせただけという原作のコンセプトを逸脱する作りになっていました。
これも映画化にあたってはありだろうなあとは思いますが、
小説も読んだ人の多くは小説の世界観を支持するのではないだろうかという気がします。

ただ、映画化されて本当によかったと思うのは、
阪急電鉄今津線とその沿線の街の様子を実際の映像で見ることができたという点です。
私は学会で関西学院大学には行ったことがあるはずで、
たぶん今津線にも乗ったことがあるのだろうと思いますが、
映画を見てみてもほとんどピンと来ることがありませんでした。
注意力、観察力ゼロの人間なので、目的地以外のことにまったく気が向かないのですね。
ですから小説を読んでいても具体的なイメージを持つことができなかったのですが、
やはり 『阪急電車』 は阪急電鉄今津線こそが主役ですので、
そのリアルな映像を見ることができたのは一番の収穫でした。
あの車両や駅や街の様子を思い浮かべながら、もう一度小説を味わってみたいと思います。
毎度のオススメですが、小説も映画もまだという方は、
まず映画のほうからご覧になってみることをオススメいたします。

期間限定ダイエット食 「鶏飯」

2013-05-24 17:38:56 | がんばらないダイエット
現在、福島大学生協食堂では九州フェアをやっており、

九州各地の郷土食がメニューに並んでいます。

そのうちのひとつに 「鶏飯 (けいはん)」 というものがあります。

これです。



調べてみると、鹿児島県奄美諸島の郷土料理だそうです。

出汁がかかっているのがわかるでしょうか。

要するに鶏茶漬けなわけですね。

ご飯の上に鶏ささみ肉、錦糸卵、椎茸の甘辛煮、たくあんが乗っけられ、

その上に出汁を注ぎ、最後に万能ネギが散らされています。

これで370円です。

何が素晴らしいって低カロリーかつ栄養バランスがいいこと。

442キロカロリー、塩4.9g、赤0.8、緑0.9、黄4.5。

なんと冷麺にはわずかに及びませんが、ざるそばよりも低カロリーです。

もちろんコロッケ麦ご飯カレーなんかよりはるかに健康的です。

しかも緑が0.9も取れるなんて!

ちょっとこれはにわかに信じがたいです。

野菜類って椎茸とたくあんだけですから、これで緑を0.9も本当に取れているのでしょうか?

誰かがどこかで計算ミスしたんじゃないかという気もしないでもありませんが、

だとしても緑0.0のざるそばよりはマシでしょう。

味もたいへん美味しいですし、このカロリーにしては相当食べごたえもあります。

ダイエット中の方のみならず、育ち盛りの大学生にもオススメです。

期間限定でいつ終わってしまうかわかりません。

まだあるうちにお試しください。

マンハッタン計画とアポロ計画から見えてくる倫理

2013-05-23 18:03:28 | グローバル・エシックス
樋口先生の課題を提出するのを忘れてました。
もうすぐ1週間が経とうとしているのにヤバイですね。
前回は、20世紀に入って科学が変貌を遂げ、
国家主導によるメガサイエンスになったというお話でした。
科学技術に対して、国家が目標を設定し、国家が潤沢な資金を提供して研究を推進し、
その成果はすべて国家に帰属するようになったのです。
中でもアメリカが行った巨大プロジェクトが、マンハッタン計画とアポロ計画でした。
マンハッタン計画とは原爆製造のプロジェクトであり、
アポロ計画は有人月面着陸を目標とする宇宙開発プロジェクトです。
(アポロ計画の裏には大陸間弾道ミサイルの開発という意図があります)
この2つのプロジェクトを後押ししたのは熾烈な国際競争であり、
それらには莫大な資金が投入され (前者には18億4500万ドル、後者には200億ドル)、
結果的に当初の見込み通りのみごとな成果が生み出されました。
とはいえ生み出されたのは核兵器と宇宙ロケットです。
はたしてそれらは人類にとってどういう意味をもっていたのでしょうか?
そこまでの巨費と労力をかけて生み出すべき技術だったのでしょうか?
そんなことを考えさせられる講義でした。

さて、課題は次の通りです。
「課題1.本日の授業で紹介されたマンハッタン計画とアポロ計画の事例の中に、あなたが見出した当時に醸成されていた倫理について考察しなさい。回答にあたっては、あなたが見出した倫理は、どのような立場や集団の枠組みに見られたものであるかを明記しなさい。また、その倫理は、どのような背景があって醸成されたものであるかも説明しなさい。」

一気に課題が難しくなりましたね。
これらの背後にどんな倫理があるかについては樋口先生は明言されませんでしたので、
自分で感じ取るしかありません。

まず国家の側から言うと、科学技術の開発と国家目的が不可分に結びついてしまったがゆえに、
科学者、技術者の自由を制限する必要が出てきました。
19世紀までのように好きなことを好きなだけ研究していいというわけにはいきません。
目的達成のためにまっしぐらに脇目もふらず、言われた研究に没頭してもらう必要があります。
そして何よりも研究の目的そのものを疑ったりされては困ります。
こんなものを開発していいのだろうかなどと道徳的、倫理学的に悩まれてはまずいのです。
そして、講義内でも触れられましたが、
自分の信念に反するので途中で自分はこのプロジェクトから脱けます、
なんていう自由も認めるわけにはいきません。
秘密保持のためには最後まで付き合ってもらうか、さもなければ厳重な監視下に置くしかありません。
さまざまな意味で科学者、技術者の自由を制限しなければならないのです。
それを国家から科学者、技術者に対して提示される倫理として表すならば、
 ・国家目的への服従の義務
 ・目的達成への専心と効率的研究の義務
 ・懐疑禁止の義務
 ・守秘義務
等々になるでしょう。

しかし逆に、科学者集団の中にはこれに対抗するような倫理が醸成されました。
アメリカにおける核兵器開発はもともと抑止力として、敵国が核兵器を保有してしまった場合に、
その使用を思いとどまらせるためにこちらも持っておくべきだという、
科学者の提言に基づき始められました。
しかし、第二次大戦当時、ドイツも日本も核兵器を保有していないという情報を、
アメリカ政府は入手していたにもかかわらず、
日本に原爆を投下しようという計画を着々と進行させていました。
それに対して、当初核開発に携わっていた科学者たちは、
日本に原爆を投下するのは目的外使用であるとして懸念を示し、
少なくとも日本に対して何も警告しないまま原爆を投下するべきではないというレポートをまとめ、
政府に対して提出しました (1945年6月11日、フランクレポート)。
けっきょくこのレポートはまったく無視されて、2ヶ月後に投下されてしまったわけですが、
科学者や技術者はただ黙って国家の言うことに従っていればいいのではなく、
国家が科学技術の成果を誤った方向で用いようとする場合には、
国家に対して誠実に意見表明をするのは必要なことでしょう。
核兵器開発を提言したひとりであるアインシュタインは、
戦後、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える、
「ラッセル=アインシュタイン宣言」 を発表しました。
今ある科学や技術に対して疑問を呈し、過ちを認めそのつど正していくこと、
それこそが本来の科学者や技術者の仕事であったと考えるならば、
開発されてしまった成果が国家に帰属してしまったとしても、
その使われ方には常に注意を払い、
間違った方向に使われようとしている場合には断固として反対する。
それは本来の科学者、技術者に課されていた倫理であると言えるでしょう。
科学技術がメガサイエンスになってしまった現代においてこそ、
国民や一般市民の立場からは、そのような倫理が必要とされているのではないでしょうか。
しかし、これは国家の側が課してくる倫理とは真っ向から対立するものです。
20世紀は対立する2種類の倫理が立ち上がってきた時代だと感じました。


「課題2.そのほか、本日の授業において、あなた自身が印象に残ったことや、気付きがあれば、そのことについて記述しなさい。」

アメリカ合衆国には、博士号をもった学者が大統領宛てに書簡を送ったら、
大統領本人または代理の人間が必ず読んで返事を書かなくてはならないという伝統がある、
というトリビアエピソードを聞いて、「へぇ」 ボタンを20回くらい押してしまいました。
あんな国だけれども、国民からの提言に耳を貸すという伝統が、
あれだけの強大な国を支えているのだろうなと思いました。
どこぞの国の政治家は御用学者の言うことだけにしか耳を貸しませんし、
もちろんアメリカ大統領だってすべての学者に平等に耳を傾けているわけではないでしょうが、
不採用にせよ返事を書くためにはそれなりに提言の内容を検討しなければならないわけで、
学問が大事にされる国というのはうらやましいことだと思いました。
そして、とりあえず私も博士号が欲しいぞと感じました。

『インヴィクタス』 負けざる魂

2013-05-22 11:01:30 | グローバル・エシックス
『インヴィクタス』 のDVDを見ました。
主演モーガン・フリーマン、共演マット・デイモン、監督クリント・イーストウッド。
モーガン・フリーマンが演じるのは南アフリカ共和国初の黒人大統領ネルソン・マンデラです。
マット・デイモンが演じるのは、南アのラグビー・ナショナルチーム、
スプリングボクスのキャプテン、フランソワ・ピナールです。
この映画は、マンデラ大統領とスプリングボクスの交流をめぐる実話に基づく映画なのです。
私は、この映画のテーマは 「赦し」 だと思いました。

アパルトヘイト下、ラグビーは白人のスポーツ、サッカーが黒人のスポーツで、
スプリングボクスとそのチームカラー、緑と金色は黒人差別の象徴でした。
それまで国際制裁によりスプリングボクスは国際試合に出場することができなかったため、
国際制裁が解け、ラグビーワールドカップの開催国となり初参加できることになった当時、
チームは低迷を極め、各国代表チームとの親善試合でも惨敗を続けていました。
これをいい機会にと国家スポーツ評議会は、チーム名やチームカラー等の変更を決定します。
その知らせを聞いて、ただちにマンデラ大統領は国家スポーツ評議会の場に駆けつけ、
次のような演説を行うのです。

「兄弟、姉妹、同志たち、私がここに来たのは、
 諸君が下した決定は、情報と展望の欠如によるものと思うからだ。
 採決の結果は知っている。
 全会一致だったことも承知している。
 だが私はスプリングボクスを継承すべきと信じる。
 チームの名前とエンブレム、チームカラーを変えてはいけない。
 理由を言おう。
 ロベン島の刑務所にいたとき、看守は全員ヨーロッパ系白人 (アフリカーナー) だった。
 私は27年間、彼らを観察した。
 彼らの言語を学び、彼らの本や詩を読んだ。
 敵を熟知しなければ勝利は不可能だからだ。
 そして我々は勝利した。
 違うか?
 ここにいるみんなが勝利したのだ。
 アフリカーナ-はもはや敵ではない。
 彼らは我々と同じ南アフリカ人だ。
 民主主義における我々のパートナーだ。
 彼らにはスプリングボクスのラグビーは ”宝物”。
 それを取り上げれば彼らの支持は得られず、
 我々は恐ろしい存在だという証明になってしまう。
 もっとおおらかに、彼らを驚かすのだ。
 憐れみ深さと、奥ゆかしさと、寛大な心で。
 それらは彼らが我々に対し拒んだものばかりだということは知っている。
 だが今は卑屈な復讐を果たす時ではない。
 我々の国家を築く時なのだ。
 使える煉瓦はすべて利用せねば、たとえ緑と金色の煉瓦であっても。
 諸君は私を指導者に選んだ。
 諸君を導かせてくれ。」

この演説により辛うじてスプリングボクスはそのまま残されることになります。
マンデラ大統領はスプリングボクスを黒人と白人の融和の象徴とすべく、
このチームがワールドカップで活躍できるよう陰と日なたから支えていきます。
さて、タイトルの 「インヴィクタス」 というのは、
征服されない、屈服しないという意味のラテン語で、
マンデラが投獄されていたときに読み、自らの支えとしていた、
英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩のタイトルでもあります。
マンデラはワールドカップ決勝戦の前にこの詩をフランソワ・ピナールに贈っています。


インヴィクタス

私を覆う漆黒の夜
鉄格子にひそむ奈落の闇
どんな神であれ感謝する
我が負けざる魂に
無惨な状況においてさえ
私はひるみも叫びもしなかった
運命に打ちのめされ
血を流そうと決して頭 (こうべ) は垂れまい
激しい怒りと涙の彼方には
恐ろしい死だけが迫る
だが長きにわたる脅しを受けてなお
私は何ひとつ恐れはしない
門がいかに狭かろうと
いかなる罰に苦しめられようと
私は我が運命の支配者
我が魂の指揮官なのだ


「赦し」 を遂行するためには不屈の、負けざる魂が必要です。
負けざる魂というのはたんに敵に負けないという意味ではありません。
敵や敵の言動に過敏に反応して復讐心ばかりを燃え上がらせるのではなく、
どんな仕打ちを受けようとそれに対してどう対処するかは自分で決定権をもち、
自分の一時の感情に負けることなく、完全に自分をコントロールすることのできる魂。
それが負けざる魂です。
非暴力によって平和を築いていくためにはこのような精神が不可欠でしょう。
困難な時を乗り越えていかなければならない政治家には、
ぜひともこのような魂をもっていてもらいたいものだと思います。
ネトウヨの支持ほしさに過激な発言を繰り返すどこぞの国の政治家に、
このような指導者としての品格を求めるのはお門違いにもほどがあるでしょうか。
そんな現代政治のことにも思いを馳せつつ、
とても実話とは思えない感動の物語に、
例によってボロボロ泣いてしまいました
名作です。
未見の方はぜひ一度ご覧あれ。

Q.毎日の服装は何を基準に決めているんですか?

2013-05-20 17:53:26 | お仕事のオキテ
第1回目のときではないのですが、先日の看護学校のワークシートで、
標記のような質問をいただいてしまいました。
正確には次のような質問でした。

「Q.先生の1日の服装は何を基準に決めているんですか?
 (サークルのパーカーだったり、カジュアルやスーツだったりするので)」

サークルのパーカーというのはコレのことですね。
福島大学社交ダンス部 (今年から競技ダンス部に改名) のおそろのパーカーで、
腕のところに 「まさおさま」 と記されているやつですね。
ふだん基本的にはそういうくだけたカッコウをしているわけですが、
たまにスーツを着ていったりすることもあるので、学生さんとしては混乱してしまうのでしょう。
ふだんなぜスーツを着ないのかということについては以前に書いたことがあります。

  「スーツと私」

要するに、あまり教授然としたカッコウをして、自分の話を権威づけしたくないということです。
で、基本そう思わせておいて、たまーにスーツを着ていって、
ゼッタイにスーツを着ないと決めているわけではないというところも見せたいわけです。
なかなか複雑な男心です。
あとスーツのときにはよく、「ファンサービスのためにスーツを着てきた」 と言ったりもします。
これに対しては 「ファンなんているんですか?」 という身も蓋もない返しをする人がいますが、
私のファンという意味ではなく、スーツ姿のファンというフェチの方がいらっしゃるので、
そういう人にもいちおう心を配っているわけです。

さて、質問に戻って、毎日の服装は何を基準に決めているのか?
実はこれに関してもすでに書いたことがあるのでした。

  「ファッション哲学」

ファッション哲学と呼ぶほどのものではありませんが、
そこに書いた私の基準ははっきりと2つにまとめられます。

・その日の暑さ寒さに適しているかどうか
・一週間前とはちがう服かどうか

スーツというのも、春から新緑の頃にかけての時期に限定すると、
私のこの基準にぴったり当てはまる衣類なのです。
夏の暑い時期にスーツを着ようとはこれっぽっちも思いません。
最近になってクールビズなんてことが言われるようになってきましたが、
夏にスーツでネクタイなんて日本の会社人はアホじゃないのと思っていました。
真夏日にはTシャツに短パン、サンダルでいいじゃないですか。
せっかく四季のある国に生まれたのですから、
四季それぞれにふさわしいカッコウをしたいものだと思います。
あとはこういう商売をやっていると一週間ごとに会う人が多いですので、
前回とはちがう服装にしたいなあとは思っています。
ただし、こちらは記録をするのを忘れて先週の服装が思い出せないということもあるので、
完全に守れるというわけではありませんが…。
私の服装選びの基準なんてこんなものです。
やはり一番は、暑さ寒さをきちんとしのげるかといったところです。
最近の大学教員の皆さんはファッションにもものすごく気を遣う人が増えているようですが、
一昔前の研究者はファッションなんてまったく頓着しなかったものです。

ところで、最近ちょっと上に挙げた2つだけとは異なる基準も入ってきました。
これは 「ちょっとはがんばるダイエット」 が崩壊してしまっているからですが、
ヘタすると今後、第3の基準として定着してしまうかもしれません。
それはこうです。

A.服を選ぶ新たな基準は、腹が目立たないかどうか、です。

とうとう70kgの大台に乗ってしまいました。
まさおさま史上最大、最重量を更新しています。
その太った分は完全に腹の出っ張りに現れています。
だからちょっとピチピチめの服を着たりするととんでもないことになります。
いや、ピチピチの服でなくてももう皆さんにはバレバレかもしれません。
ただまあできるかぎり腹が目立たないようにゆったりめの服を着るようにしています。
スーツというのは体型を隠すのにも適した洋服ですね。
ですので、これまで以上に出番が多くなってくるかもしれませんが、
残念ながらもう暑くなってきましたので、秋まではスーツに頼ることができません。
これから薄着のシーズンになっていくのはホントにヤバイなあ。
なんとかこの腹、元に戻ってくれないものだろうか?
去年程度でいいので。
67~8kgという太め安定していたあの頃程度でいいので。
ちょっとはがんばるダイエットに成功して65kg割っていた頃まで戻りたいとは言わないので。
とにかく、絶好調の食生活をなんとかしなきゃ。
そして、少しは運動しなきゃ。
第3の基準が自分のファッション哲学のなかに定着してしまわないように、
なんとか努力しなければと思う今日この頃でした。

本 de てつがくカフェ 『犠牲のシステム 福島・沖縄』

2013-05-17 17:36:00 | グローバル・エシックス
明日は、第5回 「本 de てつがくカフェ」サイトウ洋食店で開催されます。

これまでは毎回マンガや小説などストーリーのあるものを取り上げてきましたが、

今回は初めて哲学書、倫理学書と呼ぶべき本を課題図書といたしました。

高橋哲哉 『犠牲のシステム 福島・沖縄』 です。

高橋哲哉氏は言わずと知れた福島高校出身の哲学者です。

福島第一原発事故が発生するやただちにこの書の執筆に取りかかり、

2012年のはじめにはもうこの本は刊行されていました。

私などは震災と原発事故のショックから思考停止状態に陥り、

長らくこの問題について考えることを拒否しているようなところがありましたし、

ようやく重い腰を上げてこの問題に取り組むようになってみても、

問題のあまりの大きさにどこから手をつけていいかわからないといった状態でした。

その巨大な問題に対して異例の早さで哲学的・倫理学的分析を加えてみせ、

しかもたんに原発事故の問題にとどまらず、沖縄の問題とセットで論じることによって、

日本が抱えている大きな闇を抉り出してみせたのが、この 『犠牲のシステム』 でした。

私も遅ればせながら、自分で捉えきれるカツカツの線を、昨年秋になってようやく、

「ポスト3.11 FUKUSHIMAからの提言」 という形でまとめ、

東北哲学会のシンポジウムで発表しましたが、

その議論の根幹的な部分はほとんどこの高橋氏の業績に依存しており、

今さらながらこの本が描出した問題の的確性に感嘆させられたものでした。

さて、そんな本を課題図書に迎えて開催される 「本 de てつがくカフェ」、

はたしてどんな議論が展開されるのでしょうか?

ぢゅんちゃんの采配が今から楽しみです。



先ほど当日用のポスターが完成しました。

ちっちゃくて見にくいかもしれませんが、

高橋氏の写真入りの帯が巻かれた集英社新書の画像の脇に、

フクイチとオスプレイを配してみました。

A1のサイズで見るとなかなかの出来映えですよ。

イベント終了後、懇親会が始まる前にただちに破棄される1回限りの芸術ですので、

ぜひ実物を見にサイトウ洋食店にお越しください。

いや、もちろんポスターなんかどうでもよくて、

ぜひこの名著をめぐって哲学的対話を交わしましょう。


第5回 「本 de てつがくカフェ」

課題図書 : 高橋哲哉 『犠牲のシステム 福島・沖縄』       

日 時 : 2013年5月18日 (土) 16:00~18:00

場 所 : サイトウ洋食店
            福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階・℡024-521-2342

費 用 : ドリンク代 300円 

参加申し込み :事前申し込みは必要ありません。直接会場へお越し下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

てつがくカフェ@ふくしま世話人 小野原 雅夫 ・ 渡部 純 ・ 杉岡 伸也

Q.葬式や法事は必要だと思いますか?

2013-05-16 16:37:38 | 生老病死の倫理学
月曜日の夜間主現代教養コース 「専門演習」 の授業で、
授業内容とは無関係な質問をいただきました。

「Q.日本でいう葬式や法事は必要だと思いますか?」

先日も 「Q.アダムとイヴの話って真実ですか?」 という質問に答えたばかりですが、
どちらも宗教に関わるヤバイ質問です。
さて、どのようにお答えしましょうか?
「哲学とは何か?」 の話と並んで私の好きなお題に 「人間とは何か?」 というのがあるのですが、
持論によると、人間とは 「本能の壊れた動物」 であり、
壊れた本能の代わりに 「文化」 という代替物を生み出して、
「文化の中で文化を用いて生きていく動物」 であります。
私たちの身の回りにあるものはほぼすべて 「文化」 です。
ここでの 「文化」 という言葉はものすごく広い意味で使われています。
人間が生み出した道具の類いはすべて文化ですし、
言語や制度 (家族とか国家とか学校とか) もすべては文化です。
この意味ではスポーツもすべて文化ですから、文化系と体育会系という区別のことは忘れてください。
文化は自然に決定されておらず人間が自由に作り出すことができますので、
ひとつの形に縛られることがありません。
どんな文化を作っても自由です。
文化には無限の可能性がありうるのです。
それぞれの民族や国民が長い歴史のなかでそれぞれ独自の文化を築き上げてきました。
同じ人間だからといってなにかある一定の形に縛られることはなく、
それこそ無限に多様な文化を人類はたくさん生み出してきました。

この観点からすると神話や信仰や宗教もすべては文化です。
宗教的儀礼も全部、文化です。
したがってそれぞれの民族や国民はとんでもなく多様な宗教と宗教的儀礼を生み出してきました。
日本における葬式や法事というのも、仏教の影響を色濃く受けつつ、
しかし、本家本元である東アジアの仏教圏とはだいぶ毛色の違う、
日本独自の宗教儀礼として長い時間をかけてひとつの文化として形成されてきました。
ですから、デカイ話をするならば、日本における葬式や法事というのは、
日本文化のなかでのみ、みんなに常識として共有されている、
数ある死者を悼むやり方のうちのごくごく特殊な一方式にすぎません。
別に日本人がやっている通りに死者を葬ったり死者を偲んだりしなければいけないわけではなく、
それこそ無限のやり方が考えられうるでしょうし (例えば死体を火葬にしている国は少数派です)、
現在ではそれぞれまったく異なるさまざまな方法が国別、地方別に確立されてきています。

ただまあ、やり方はどうあれどの集団もたいていは何らかの形の、
死者を葬り悼むための儀式をもっているということは人類に共通していると言えるでしょう。
他の動物のように死んだ者の遺体をそこいらにほったらかしにしておくということはありません。
日本ではほったらかしにすると、「死体遺棄罪」 や 「死体損壊罪」 に問われますし、
あるいは、「墓地、埋葬等に関する法律」 などによって罰せられます。
チベットの 「鳥葬」 ですらほったらかしにしているわけではなく、
決められた場所で決められた方法にしたがって、鳥を介して遺体を天に葬っているわけです。
死者を悼み丁重に葬ろうとするのは人類共通の文化だと言えそうです。
(むろん 「文化」 にすぎないから、それに従わない者もごくまれにいるわけですが…)

そして、ご質問の葬式や法事ですが、それらは死者を葬る際、
または葬ったあと一定期間が経った後に執り行う儀式ということになります。
これらも死者を悼む気持ち、親族や親しい知己を失った悲しみ等から生じてきた文化でしょう。
これにも民族や宗教によってさまざまな形があります。
宗教がきちんと生活に根ざし、人びとが強い信仰心をもっている場合、
その宗教が定めた教義に則って儀式が行われます。
逆に、はっきりと無宗教を自認し、無神論的・唯物論的世界観にしたがっている人びとの場合、
決められた儀式があるわけではありませんが、
それでもやはり自分なりの考えにしたがって何らかのセレモニーを行うのではないでしょうか。
何もしないということもありだとは思いますが、たいていは何かをしているように思います。
日本の場合はひじょうに中途半端で、特定の宗教を強く信仰している人は少ないのですが、
たいていの家族はどこかのお寺の檀家だったりしますので、
葬儀や法事を仏式で執り行う人が圧倒的多数でしょう。
私の父方の実家も臨済宗でしたから、父が亡くなったときは葬式を臨済宗のお坊さんにあげてもらい、
法事も仏式で、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌と、
お墓のある佐賀県まで行って行いました。
が、私はこの葬式と法事以外に臨済宗との関わりは一切ありません。
臨済宗というのがどんな宗教だったかというのも、
中学校の社会科でやったような気がしますが、完全に忘れてしまいました。
したがって、自分のときに臨済宗の教えにしたがって葬儀を執り行うかどうかは決めていません。
たぶんそうはしないのではないかと思います。

質問者の方はどのレベルで 「葬儀や法事は必要だと思いますか」 と聞いていたのでしょうか?
そもそも人間は死者を悼む儀式を必要としているのか、という根源的な問いだったのか、
それとも、日本で一般的に行われているような各家庭の宗派にもとづく儀式は必要か、
という意味だったのでしょうか?
ご質問の意図がはっきりしないのでちゃんとお答えしたことになるかどうかよくわかりませんが、
とりあえず以下のようにお答えしておきたいと思います。

A.なんらかの形で死者を悼む儀式という意味でなら葬式や法事は必要だと思います。
  しかし、それはどんな形で行ってもかまわないのであって、
  日本で一般的に行われているような葬式や法事の形である必要はないと思います。
  ただし、儀式 (この場合は葬式や法事) というのは1人で行えるものでなく、
  家族を中心とする関係者一同で執り行うものですから、
  自分ひとりの考えでその形を勝手に決めてしまっては、
  他の人の悼み方をないがしろにすることになってしまうので、
  事前に関係者全員と合意形成をしておく必要があり、
  伝統的な方法とは違う方法を選択しようという場合、けっこう苦労することになるでしょう。

長ったらしいお答えですが、このようにお答えしておきます。
質問の意図を私が取り違えているような場合にはコメント欄でその旨お知らせください。

倫理学という学問と研究の進め方についての感想

2013-05-13 23:07:07 | 哲学・倫理学ファック
フゥ、6限、7限ぶっ続けの夜間主現代教養コース 「専門演習」 をやってきました。
福大で2コマ続きの授業をしたのは初めてです。
昨日書いたような話をすると同時に、倫理学の研究がどんなものかを直接感じてもらうために、
カントの小論 「人間愛から嘘をつく権利といわれるものについて」 を読んでもらったり、
私の書いた論文 「脳死のための脳死論」 を読んでもらったりしました。
さて、授業を受けてみんなの 「倫理学」 観はどう変わったのでしょうか。
倫理学という学問や倫理学の研究の進め方についてどう感じたか、最後に書いてもらいました。


「倫理学はものすごく難しいものと考えていました。話を聞いていて想像通りに大変そうな部分もあって、自分にはムリそうだなと感じました。しかし、倫理学の話を聞いていて、難しいだけでなく、面白いと感じた部分もありました。今回の講義で倫理学の見方、考え方が少し変わったなと思いました。」

「ズバリ、とんでもなく大変そう…。読むだけでも難しいのに、それを理解したうえで自分なりの答えを論理的に書かなくてはいけないので、いかに難しいのか少しでも知れた気がする。物事を何でもうのみにせず疑ってみることで、新たな考えが浮かぶことが新鮮だった。」

「倫理学について何も知らなかったのですが、少しは分かった気がします。哲学の一分野ということが一番おどろきました。研究の進め方の中でとにかく本を読むというのが印象的でした。先生が言った通り他の分野の論文はグラフやアンケートの結果などで紙をうめることができますが、倫理学は自分がどういう考えを持っているかがメインなので、その分、知識を多くするために本を読むことが大事なのだ思いました。」

「なんて純粋でバカ正直な学問なんだろう、とカントの文を読むなかで思いました。まっすぐすぎてどこへ行ってしまうんだろうかこの学問、という印象です。ドツボにはまって考えても考えても妥協といいますか、はっきりとした答えが出せることはないんだろう、というコトは思い知りました。」

「根源的に考えることは、非常識な人と思われるかもしれないが、私からしたら、何も考えずに常識をうのみにしている人達の方がおかしいと感じる様になった授業でした。自分なりの答えをきちんと全部、論理づけることができたなら学問へ対する思いも変わってくるのではないかと思う。そういう意味では、ぜひ倫理学についてもう少し触れてみたいが、、卒業論文は○○ [別の学問] のことをやりたいので、また何か機会があれば倫理学について勉強したい。何にせよ、難しい科目であることと理解したことも今回の勉強になったといえる。」

「倫理学はあまり身近にない学問だと思っていたが、広義の哲学から派生した実践哲学であることが分かって、少し、倫理学に対して耐性がついた。また、昔は、今でいう生物学や物理学、政治学、経済学といった物を包括して、哲学と呼んでいたことに驚いた。そうであるならば、あまり難しく考えずに、倫理学という学問を好きになっていけるように感じて、とても勉強になった。」

「倫理学の研究の進め方で、とにかく本を読んで、自分で考え、書き表すとあったが、どの程度のレベルを要するのかが気になった。現時点では倫理学を専攻したいと考えているが、講義中で再三にわたり、生半可な気持ちではやっていけない旨説明を受けたので正直ひるんでいる状態である。一応まだ時間はあるので、少しでも自分の自力を上げておきたいと考えている。」

「倫理学がどのようなもので、いかに難しいかがよく分かった。ありがとうございました。」

「今回、倫理学とは?から始まり、倫理的な答えを導き出す (私は出来ていませんが) ことも学べて、面白いなぁと率直に思いました。分かりやすく話していただいたというのがあると思いますが、倫理学って楽しそうだと興味をもてました。先生のいわれた通り、本当は倫理学ってとても難しいものなのだと感じながらも、一度興味をもつと深めたいと思ってしまうので、もしかしたら、本当にもしかしたらですが、卒論でお世話になるかもしれないです。まずは自分で勉強してみます。」

「自分が想像していた 『倫理学』 とはまったく違うものでおどろいた反面、自分の無知さにがっかりした。自分ではできそうにないけれど、倫理学のような考え方は何をする上でも重要だと思うし、こんな考え方ができたらもっとものの見え方は変わると思った。今日の授業ありがとうございました。先生の話が面白かったです。…でもやっぱりむずかしすぎて自分にはできないこともよーーっく分かりました。」

「高校で倫理をとってたので知っている哲学者の名前であったり、脳死についても改めて考えることができて、充実な講義で、面白いなと思いました。論文を書くということになると、ちょっと考えてしまうと思いました。」

「倫理学はたくさん本を読み、それに対しての自分の問いや答えを考え、さらに考えたことを詳しく考えていくという大変難しいものだと思いました。しかし、どうしてだろう、なぜだろうと思ったことに対してとことん調べ、考えていく中で分かっていくこと、自分なりに理解していくことは楽しそうだと思います。今までは、「こういうものだからこうだ」 など教えられたことや常識をうのみにしていたけれど、本当にそうなのか、これが正しいのかなど、違う見方があることが分かりました。」

「倫理学とは、あたり前と思われることにも疑問を持ち、深く深く考えていくことだということがわかった。考えれば考えるほど迷路に迷い込んでしまい、何が何だかわけがわからなくなるような気がした。考えることは嫌いではないが、倫理学は難しいと思った。」

「『倫理学』 ということばをあまり聞かないので、私の中でイメージだけで存在していましたが、このイメージもまったく異なっていて、新たに倫理学は難しい学問だと感じた。しかし、とても奥が深いものだとも感じた。実証ができない事柄に関して、つきつめていくと聞き、何となくすっきりしない印象をもったが、答えが見つからないからこそ、面白みがあるのだと思った。しかし、これには忍耐力が必要だとも感じ、内容的にはとても面白いと感じたが、やはりつきつめていくことは難しいだろうと思う。」

「倫理学 (哲学) という学問は他の学問に比べ実証ができないため難しいと感じている。しかし、実証ができないからこそ、実証不要で自分の考えをぶつけられ、また、乱暴な言い方にはなるが 「本を読んで考える」 という単純な作業でつきつめていけるところが倫理学の楽しさであると考えた。「一般的」 とされる考え方を真っ向から否定できたり、常識を批判して間違いとされることはない (?) ため、ある種の感情の表現、芸術と似た部分があると感じた。ただ、それを論理的に説明し正しい言葉で表さなくてはならないため、手を出したくてもなかなかそう簡単にはいかないだろうと思う。」

「倫理学というと、難しい、とっつきにくいというイメージがあったが、難しいという印象は変わらないが、物事について思考し、それをずっとずっと…ずっと深めていくということで、ある意味身近なものであると思った。実際に倫理学で卒論をと漠然と考えていたが、今回、文章を読む際に文章の内容を理解するということ以前に、自分の感情、考えが先入観となっていることに気づいた。文章を読む際には注意が必要だと分かった。」


難しさを再認識した人、そのなかにも面白さを感じた人などいろいろですが、
どうやら、安易な気持ちで手を出すことのできない学問であることは感じてもらえたようです。
それでも挑戦してみようという方はそれなりの覚悟をもって選んでください。

Q.哲学・倫理学に関する研究はどのようにしていますか?

2013-05-12 21:15:14 | 哲学・倫理学ファック
質問をいただいたのは相馬看護学校の 「哲学」 の授業でしたので、
もともとは哲学のみに限定した質問でした。
また、第1回目のまったく哲学に関して予備知識のない段階での質問でしたので、
「研究」 という言葉は使わず、「勉強」 という言葉で聞かれており、
正確には 「Q.哲学に関する勉強はどのようにしていますか?」 という質問でした。
しかし、私にとって 「哲学」 と 「倫理学」 はほぼ同義ですし (こちらを参照)、
また、哲学や倫理学は、既成の答えを覚えていく 「お勉強」 ではなく、
常に既成の答えを疑い、問いを発し続けていく 「学問」 ですので、
ご質問を 「Q.哲学・倫理学に関する研究はどのようにしていますか?」 と置き換えて、
お答えしていくことにしたいと思います。
実を言うと、明日の6、7限に夜間主現代教養コースの 「専門演習」 という授業があり、
その授業のなかで 「倫理学はどうやって研究を進めていくか」 という話をするので、
その学生さんたちにもあとで読んでもらえるように、
まとめて書いてしまおうという深慮遠謀があってのタイトル変更です。

さて、相馬看護学校11期生の皆さんには 「哲学とは何か」 という話をほとんどしていませんので、
(フツーはどこかの班から代表質問として聞かれるものですが…)
最初に、哲学や、哲学の一部である倫理学がどのような学問かということを、
ごくごく簡単に説明しておきたいと思います。
哲学の出発点は、上にも書いたように、既成の答えを疑い、
自分で考えて自分なりの答えを見出していこうとする営みでした。
人間は身のまわりのものすべて、自分が行うことのすべてに関して、
問いを発し自分で考えてみることができます。
その営みが古代ギリシアにおいて 「知を愛すること (フィロソフィア)」 と名づけられました。
それが現代の言葉で言うところの 「哲学」 ですが、
「哲学」 というとある特別な学問を指すように思われるかもしれません。
しかし、「哲学」 が特殊な学問のことを指すようになったのはほんの200年前くらいからで、
古代ギリシアから19世紀のはじめの頃まで、
「哲学」 というのはすべての学問を表す言葉でした。
既成の答えを疑って自分で考えて自分なりの答えを見出していくというのは、
まさにすべての学問がやってきたことであり、したがってすべての学問は哲学だったのです。

変化が生じ始めたのは16世紀頃からでした。
この頃、哲学 (=学問) の世界に大きな変革がもたらされます。
「実証化」 と 「分業化」 が進み、「実証科学」 と呼ばれる学問が擡頭してきました。
実証化とは、神様や前世など人間の経験によって捉えることのできないものをできるかぎり排し、
人間が頭で勝手に考えるのではなく、観察や実験などによって得られるデータにもとづいて、
誰にもはっきりとわかりみんなが納得し共有できるような知のみを蓄積していこうとする試みです。
この試みは大成功を収めました。
それまでのようにプラトンの哲学、カントの哲学など唱える人の数だけ学問があるのではなく、
観察や実験によって確証された知 (データや理論) が確実に蓄積され、
学者たちが協働して学問の発展に寄与できるようになっていったのです。
これによって学問はそれまでとはけた違いの発展を遂げるようになりましたが、
そうするとそれまでのように、ひとりの哲学者がすべての学問を研究するという方法では、
もうやっていけないほどになってしまいました。
それでも19世紀のはじめくらいまではひとりですべてを引き受けようとする強者がいましたが、
全体の趨勢としてはそれぞれが得意な分野のみを担当するというように、
「分業化」 が進んでいくことになりました。
分業化してしまった学問のことを 「科目に分かれた学問」 という意味で、
開国期の日本では 「科学」 という訳語を当てて呼ぶことになりました。
すべての学問を意味していた 「哲学」 のなかから、
天文学や物理学、生物学、化学、政治学、経済学、社会学などの 「実証科学」 が、
次々と分離・独立していくことになったのです。

現在の 「哲学」 はたくさんの実証科学が分離・独立してしまったあとの残りかすみたいなものです。
つまり、実証化することのできなかった部分が 「哲学」 として残っているのです。
人間の考えることはすべてが観察や実験によって答えを出せるような事柄ばかりではありません。
目で見てわかることに関しては実証的方法はきわめて有効ですが、
人間が関わるのは目で見えるものだけではありません。
例えば心を見ることはできません。
みんな自分に心があることは知っていますが、他人にも同様に心があるというのは、
目で見たり耳で聞こえる行動や言葉から類推しているだけで、
直接人の心を見てその存在を立証することはできないのです。
同様に何がよくて何が悪いかということも、
実験したり、アンケート調査をしたりして確定できることではありません。
このように人間にとってけっこう大事なことが、
実証的方法によっては解明できない問題としていろいろ残されているのです。

やっと前置きが終わりました。
以上のように、現代の哲学は、実証的方法によっては解明できない問題を扱いますので、
観察や実験などの方法を用いることができません。
ではどうするか?
以前と同様に、既成の答えを疑い、自分で考え、自分なりの答えを見出していくしかありません。
もちろん、自分でまったく新しい問いを立て、ひとりで考え始めるということもありえますが、
人類の長い歴史のなかでは、たいがいの問題がすでに誰かによって考えられています。
ですので、まずはこれまでの哲学者たちがどんなふうに答えてきたかを知っておく必要があります。
というわけで、哲学書を読むというのが研究のスタートとなるのです。

まあ、哲学者が書いた本に直接当たる前に、
まず概説書や入門書などを読んで、誰がどんな問題について考えて書物を残しているのか、
誰の考えが面白そうか、自分にとって参考になりそうかリサーチしておいたほうがいいでしょう。
とにかく哲学書は難しいです。
なぜ難しいかは以前に書いたことがあるので、そちらを参照してください。
また、哲学書を直接読み始める前に、自分が研究するテーマに関して、
いろいろな専門用語なども学んでおく必要があるかもしれません。
あるテーマに絞ったら、そのテーマに関するわかりやすい解説書なども読んでおくといいでしょう。
しかし、それらをいくら読み漁ったところで研究はスタートしませんから、
やはり研究を始めるためには哲学書を読まなければなりません。
ただし誤解のないように言っておくと、
哲学書というのは何週間かであっさり読み終わるようなものではありません。
分厚くて難解な本だったりしたらそれこそ読むのに何年もかかる場合もあります。
そして、1冊全部読み終わらなければ研究できないかというと、そういうわけでもないのです。
哲学書のなかのほんの数ページ分に関する詳細な研究というのもあるくらいです。
それぐらい哲学書というのは読み応えがあるし、研究しがいがあるものだといえるでしょう。
とはいえ、あるページを理解するために他のページのことを知っておく必要がありますので、
やはり全部通読するのが理想ですし、同じ人の別の書物も読んでおくとよけいに理解は深まります。
とにかく、哲学者たちがどういう答えを出しているのか、
これを知るだけでもものすごく大変です。

哲学者が書いた哲学書のことを一次文献と言います。
これについて理解を深めるためには、その哲学書に関する研究書もいろいろと読む必要があります。
これらを二次文献と呼びます。
カントが書いた哲学書が一次文献だとすると、
私がカントについて書いている論文が二次文献ということになります。
カントの言っていることを理解するだけでも一筋縄ではいかないので、
カント研究者たちはそれぞれの立場から自由にカントを読み解いています。
つまり、カントがあるテーマに関してどういう答えを出したのかということすら自明ではないので、
カントはどんな答えを出したのかに関するいろいろな研究があるということです。
要するにそれくらい哲学書を理解するのは難しいわけです。
ですので、一次文献のほかに二次文献も大量に読まなければなりません。

その他にも、例えばカントを研究する場合、カントに影響を与えたカント以前の哲学者や、
カントと論争を交わしていた同時代の哲学者たちの書いたものも読んだりする必要があります。
カントはカントで、他の哲学者たちが出した答えを踏まえて、それを疑いそれに対抗することによって、
自分の新しい考えを築いていったわけですからね。
既成の答えを疑って出された答えに対して、さらにそれを疑問を投げかけていくためには、
こんなふうにどんどん遡ってみんなが出した答えを研究しておく必要があるわけです。
ただまあ卒業論文レベルでそこまで遡及していく人はめったにいません。
私も自分の研究スタイルとして、どんどん遡っていくという手法はあまり得意としていません。
ここらへんは研究者個々人の好みといったものも関係してくる部分です。

このように一次文献、二次文献を読破してそれらを理解することができたら、
いよいよそれに対して問いを発し、自分なりに答えを考えていくことになります。
とはいえ、みんなものすごい思考のプロの人たちが考え出した答えですから、
その問題点を見つけて指摘し、自分なりの正しい答えを提示するなんていうのは、
並みたいていのことではできません。
それができたら、それこそ 「哲学者」 と呼ばれる偉人たちの一員に加えてもらえることでしょう。
私なんかは、自分なりの答えを提示するというところまでははるかに及ばず、
カントが出した答えを理解するにあたって、
カント以後にカントを研究している人たち (二次文献を書いている人たち) のカント理解について、
それは間違ってるとか、本当はこういうふうに理解すべきだということを提言するのが精一杯です。
とはいえ、長年カントのことを研究していると、カント研究者たちのカント解釈ばかりでなく、
カント自身が言ってることに対してもだんだんいろいろな疑問が湧いてきます。
その疑問を解決できるような新しい答えを考え出すことができたら、
ただの 「○○研究者」 からショボイながらもひとりの 「哲学者」 となることができるのでしょう。

さて、○○研究者レベルでもいいですし、一哲学者としてのレベルでもいいですが、
なんらかの答えを考えついたら、それを頭のなかにのみ留めておくのでなく、
文章として書き記さなければなりません。
書き留めなければ何も起こらなかったも同じこと、なのです。
その文章はできるかぎりみんなにわかりやすく書かなければなりません。
自分は誰かの哲学書やあるテーマに関する研究書を一生懸命読んだかもしれませんが、
みんながみんなその本を読んでいるとは限りません。
読んでいない人にも伝わるように明快に簡潔に要約して、誰が何を言っていたのかを紹介します。
そして、それのどこがどう優れていて、どこにどういう問題点があるのかを指摘し、
それを解決するための自分なりの答えを書いていきます。
哲学・倫理学の場合、実験結果やデータはありませんから、
なぜそこに問題があるのか、なぜあなたの考えた新しい答えでそれらを解決することができるのかを、
すべて言葉、論理によってみんなが納得できるように説明していかなければなりません。
もちろんあなたの出した答えにみんなが納得してくれるということはありえませんが、
(それが 「哲学=学問」 の長い歴史でした)
それでも、予想しうるかぎりの反論は自分で想定してみて、
それらをひとつひとつ自分で説き伏せるつもりで文章を書いていかなくてはなりません。
そのためにはまず何よりも正しい日本語を書けなくてはなりません。
(別にどの言語でもかまいませんが、何語であろうと正しい文章を書く必要があります。)
誤字脱字があるようではそもそも自分の言いたいことは伝わりません。
また日本語は主語を省略しがちな言語ですが、哲学・倫理学の論文を書くときは、
曖昧さを避けるためにできるかぎり主語をはっきり書くようにします。
そして、主語と述語がきちんと対応していないとやはり正しく意味が伝わりませんので、
すべての文の最初と最後がちゃんと呼応しているかどうかチェックする必要があります。
ものすごいことを考えているのだけれど、正しい日本語が書けないという研究者がたまにいますが、
そういう人はけっきょく自分の考えていることを人に正しく理解してもらえないので、
一人前の研究者として人から認めてもらうことができません。
実験結果や調査結果があれば、多少文章が下手でもデータの力で人を納得させることができますが、
哲学・倫理学の世界では、考えることと書き表すことは表裏一体、
切っても切り離すことのできない関係なのです。

哲学・倫理学の研究の進め方というのは大体こんなところでしょうか。
明日の2コマ分の授業のネタを考えながら書いていたので、
長々とダラダラ書いてしまいました。
もっと簡潔に書けばよかったですね。
申しわけありません。
ご質問の答えを以下のようにまとめておきたいと思います。

A.哲学・倫理学の研究は、哲学・倫理学の専門書を読み、それを疑い、
  自分で自分なりの答えを考え、それを正しい日本語で書き表すことによって進めていきます。

なんだ、看護学校の皆さんにはこの結論だけ言えば十分だったかな。
まあでもこの機会にまとめておくことができてよかったです。
夜間主現代教養コース 「専門演習」 を取っていて、卒論を誰の下で書こうか悩んでいる皆さん、
私のゼミに入るとやることは、本を読んで、自分の頭で考え、文章を書いていくだけですから、
哲学書 (倫理学書) や専門書を読むことが好きな人、物事を論理的に考えていくのが得意な人、
自分で正しい文章を書くことができる人でないと、卒論を無事書き上げて卒業することができません。
ぼくの講義やこのブログがわかりやすくて理解できそうだったからという程度では、
まさおさまのゼミについてくることはできませんので、
安易な気持ちで取ったりすることのないように気をつけてください。

共通領域 「倫理学」 樋口先生の課題

2013-05-10 17:13:01 | 哲学・倫理学ファック
本日は共通領域 (いわゆるパンキョー) の 「倫理学」 を聴講してきました。
本来は隔年開講の科目ですが、この間ちょっとわけあって2年間ブランクを空けて、
2010年以来久々の開講です。
共生システム理工学類の樋口良之先生と2人で担当しており、
そんじょそこらの総合科目 (いわゆる複数教員担当のオムニバス科目) よりも、
はるかに文理融合科目になっていると自負している科目です。
初回は2人でガイダンス、第2回目は私から 「倫理学な思考法」 について講義し、
今日から6回は樋口先生による、科学技術と倫理の講義になります。
それぞれ毎回、授業内課題を出し、平常点40%、期末試験60%で評価します。

さて、今日は科学と技術が歴史的にどう変遷をたどってきたか、
それとの関わりで倫理を考えるという講義内容でした。
独特の語り口調で楽しく興味深く拝聴させていただきました。
また、同じ教員として、黒板の使い方や肖像画の提示の有効性など、
授業方法に関しても学ばせていただくことが多く、
それだけを肴にワイン1本空けられそうなくらい充実した時間を過ごすことができました。
授業内課題は2つ。
それについて私も簡単に思うところを書いておきましょう。

「課題1.現代社会のあなたは、ガリレイやデカルトなどの歴史上有名な科学技術に携わる者に対して
 どのような思いを持ったかを記述しなさい。また、あなたの思いは、
 自分がどのような立場、集団に属していることを認識してのものかも記述しなさい。」

(※今日取り上げられた、ガリレイ、デカルト、ニュートン、ハックスリーのなかから、
  好きな人を選んで書けとの指示でしたが、
  ガリレイについては以前に書いたこともありますし、
  全員まとめて一般的なことを書きたいと思います。)

同じ学問に携わる者として、学問研究の自由を阻むものが存在するときに、
それにどう立ち向かうかというのは、たいへん興味深い問題です。
その立ち向かい方というのは、基本的には時代的な状況に規定されるところが大きいと思います。
ある説を唱えることがどれほど危険なのか、
(火刑になるのか、終身刑や禁書扱いになるのか、警告程度ですむのか)
科学者集団のなかでどれほど賛同者を獲得できているのか、
(学界内でも少数派なのか、内部ではもう通説のように流布しているのか)
強力な後ろ盾がいるのかいないのか (ルターやガリレイにはいたので守られた)、等々。
しかしながら、やはりある程度は科学者個人個人のパーソナリティも関わってくるでしょう。
私としては、コペルニクスやデカルトのように最初から公刊・発表を諦めてしまうのではなく、
といってガリレイのように全面対決に突き進むのでもなく、
相手の様子をうかがいながら言葉を選んで小出しにするという、
ニュートンのような戦い方が最も賢い戦略だと思いました。

「課題2.歴史的に変化してきた科学・技術は、倫理に影響を与えるものであろうか?
 その理由も添えて、記述しなさい。」

影響を与えると思います。
19世紀以後のように、科学者や技術者が企業に属し働くようになってくると、
企業の営利目的に合致した研究だけをするようになり、
それに合致しないことのために抵抗する倫理観をもてなくなると思います。
また、16~17世紀のように、宗教が科学の自由な研究を制限していたことは、
(課題1のように) 科学者の立場に立って考えると、ものすごい損失であり、
発達を阻むものとしか理解できませんが、
現代のように、国家や企業の営利目的にのみ献身する科学・技術が、
それ以外のいかなる倫理によっても規制や制限を加えられず、
目先の利益のためにどんな研究・開発も行うことができてしまうと、
結果としてヒロシマ・ナガサキ・フクシマのような大惨事を招いてしまうように思いました。
科学・技術の成果に依存して生きている一般市民の立場から考えると、
進歩・発達が少々阻害され遅れたとしても、
科学・技術にとっては何かしらの目の上のたんこぶが存在しているくらいが、
ちょうどいいのではないかと思いました。

課題の解答は以上です。
課題用紙に授業時間内に書ききれる気がしなかったので、ブログでの解答となりました。
提出が遅れてしまいましたが、これだと何点くらいもらえるのでしょうか?
担当教員のひとりである私が不合格になってしまうのではないかとちょっと不安です。

Q.趣味・特技は何ですか?

2013-05-09 19:50:36 | 哲学・倫理学ファック
この質問の前半部分に関してはすでにお答えしたことがありますので、以下をご覧ください。

  「Q.趣味はありますか?」

後半部分に関してですが、今まですでに何か書いたことがあるんじゃないかと思って、
このブログのなかを探してみましたが、「特技」 で検索して出てきた記事は、
たったひとつだけで、それも別に自分の特技のことを書いたものではありませんでした。
とはいえ、これだけ 「自分大好き」 な私が、自分の特技のことを書いていないわけがなく、
おそらく 「特技」 という言い方で取り上げたのではなく、
もうちょっと別の形で自慢話をひけらかしていたのでしょう。
思い出せるかぎりで過去ログのなかから、
自分の特技について書いてあるっぽいものをほじくり返してみましょう。

  「Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか? (その3)」

  「福島の誤植看板」

  「Q.哲学を学んでよかったことは何ですか?」

  「Q.哲学を学んでよかったことは何ですか? (その2)」

  「Q.教えていて自分に何かよい影響を受けましたか?」

  「Q.子どもの頃から話すのが得意だったんですか?」

  「Q.人に教える時、緊張しませんか?」

  「父の教え」

  「父を超える」

  「父を超える (その2)」

こんなところでしょうか。
なんか読み返してみたけど大した特技はないですね。
ちょっと自分にガッカリしました。
とりあえず、ご質問の後半 (「特技は何ですか?」) に対しては以下のようにお答えしておきましょう。

A.私の特技は、書くこと、誤字を見つけること、ラクに生きること、紛失物を見つけること、
  アイディアを思いつくこと、ヘタでも平気で人前で話したり教えたりすること、
  折りたたみ傘をきれいにたたむこと、手を使わずに足の指を鳴らすこと、指の第3関節の柔軟性、
  などです。

うわあ、なんじゃこりゃ
こんなの特技と呼べないですね。
社交ダンス (競技ダンス) を続けていれば、胸を張って特技と言えたんですが、
もうかれこれ30年近くやっていないですし…。
けっきょく、ロクな特技をもっていなくとも毎日明るく楽しく暮らしていられること、
これが私の最大の特技なのかもしれません。