まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

東京のひな飾り

2016-02-29 19:43:08 | 人間文化論
今日で2月も終わり。

早くも1年の6分の1が過ぎ去ってしまいました。

明日からはもう3月。

3月といえばひな祭りですね。

残念ながら今年もひな人形は飾りそびれてしまいました。

今年は完全に失念していたわけではなく、

去年出せなかったのでできることなら飾ってやろうと意欲満々だったのですが、

けっきょくそのヒマがありませんでした。

心の余裕がないというのは悲しいことです。

ていうか福島のひな飾りは本格的にがんばんなきゃいけないから大変なんだよなあ。

さて、この週末は東京に行ってきて、東京のディスプレイを見てきました。

こちらはあっさりしていて、これぐらいならぼくでもできるぞという感じでした。

まずは玄関入ってすぐの薬棚の上。



なんだかひょうきんなカップルです。

続いて、リビングに入ってすぐの和箪笥の上。



これは最近購入したものだそうです。

先ほどのやつは顔ばっかりデカかったですが、こちらは考えられないくらい頭が小さいです。

八頭身とかそういうレベルではありません。

特にお内裏さまのほうは顕微鏡で探さなきゃ見えないくらいです。

そして、リビングの隅の噴水のある一角。



これは陶器でできていて、どこかの温泉に行ったときに一目惚れして買ったやつだと思うのですが、

どこで買ったのか2人とも思い出せませんでした。

ああ、悔しい。

まあでもぼくだけが思い出せなかったわけではないのでよしとしましょう。

噴水の近くにあるコーヒーテーブルのところにはこれ。



ひな祭りとハマグリはつきものだそうで、これは貝合わせの飾り物。

以前は福島に置いてあったんですが、かわいいからと持って行かれてしまいました。

トイレにはこんな柄の布が、匂い袋と一緒に飾られていました。



ひな祭りを直接に意識した意匠なのかは不明ですが、とにかくひな祭りっぽいです。

もうちょっとアップにしてみましょうか。



ね、ひな祭りっぽいでしょ。

今回のテーマに沿ったディスプレイはこれくらいでしょうか。

クリスマスお正月に比べるとちょっと控えめですね。

やはり福島できちんと階段箪笥にひな人形を飾ってあげるべきでした。

来年は何とかがんばりたいと思います。

スペシャルティコーヒーって何だ?

2016-02-28 21:51:06 | 人間文化論
最近街なかでよく 「スペシャルティコーヒー」 という単語を目にするんですよ。

喫茶店とかコーヒー屋さんとかで。



それが何だかものすごく気持ち悪くって。

「スペシャルティ」 って 「スペシャル」 という形容詞から派生した名詞ですよね。

なぜ名詞に名詞をくっつける

特別なコーヒーと言いたいのなら 「スペシャルコーヒー」 でいいじゃないかっ

と、この単語を見かけるたびに憤っていたわけです。

しかし、あまりにもよく見かけるので、

ひょっとすると私のほうが間違っているのかもしれないという気がしてきました。

(自分が間違っているかもしれないと疑ってみることができるのって、

 教養ある人間にのみ認められる美徳ですよね、安倍さん。)

そこですぐにヤホーでググってみました。

するとなんと驚いたことに、スペシャルティコーヒーというのは、

日本人が勝手に作った和製英語ではなく、

もともとコーヒーの原産地で使われ出したれっきとした英語だったようです。

日本には 「日本スペシャルティコーヒー協会」 という組織があり、

そこのウェブサイトにはスペシャルティコーヒーの定義が記されていました。

「消費者 (コーヒーを飲む人) の手に持つカップの中のコーヒーの
 液体の風味が素晴らしい美味しさであり、
 消費者が美味しいと評価して満足するコーヒーであること。
 風味の素晴らしいコーヒーの美味しさとは、際立つ印象的な風味特性があり、
 爽やかな明るい酸味特性があり、持続するコーヒー感が甘さの感覚で消えていくこと。
 カップの中の風味が素晴らしい美味しさであるためには、
 コーヒーの豆 (種子) からカップまでの総ての段階に於いて
 一貫した体制・工程で品質管理が徹底している事が必須である。(From Seed to Cup)
 具体的には、生産国においての栽培管理、収穫、生産処理、選別そして品質管理が適正になされ、
 欠点豆の混入が極めて少ない生豆であること。
 そして、適切な輸送と保管により、劣化のない状態で焙煎されて、
 欠点豆の混入が見られない焙煎豆であること。
 さらに、適切な抽出がなされ、
 カップに生産地の特徴的な素晴らしい風味特性が表現されることが求められる。」

何かからの翻訳文なんでしょうか?

日本語としては若干難がありますが、まあ言いたいことはわからないではありません。

ただ今日問題にしたいのはスペシャルティコーヒーの定義ではなく、

スペシャルティコーヒーという言葉自体ですので、定義は置いておくことにしましょう。

なんとスペシャルティコーヒーの協会は日本にだけあるわけではなく、

アメリカにもヨーロッパにもあるようです。

そのウェブサイトを見るかぎり、スペシャルティコーヒー (specialty coffee) という単語は、

ちゃんと欧米社会においても定着しているようです。

ウェブ辞書で specialty を引いてみると、基本的にはやはり名詞のようですが、

ひとつだけ 「こだわりの」 という訳語が載っていました。

特に品詞は記されていませんでしたし、例文も載っていませんでしたが、

これは名詞ではなく形容詞ですよね。

そもそも名詞を2つ並べてもいいのだろうかと思い、これも調べてみたところ、

名詞の形容詞的用法というのがあるということもわかりました。

たしかに 「シートベルト」 というのは英語でも seat belt であって、

わざわざ belt of seat とは言いませんね。

どうやら何でもかんでも名詞をつなげてしまっていいわけではなく、

決まりきった表現の場合にのみ名詞の連続が許されるようですが、

スペシャルティコーヒーはその許容される例外にもはや含まれているのでしょう。

というわけで、スペシャルティコーヒーという語は、

「特製品」、「特選品」 という意味の名詞 specialty を coffee に付けて、

「特選コーヒー」、「こだわりのコーヒー」 という意味で使われているようです。

ふーむ、そうだったのか。

いちおうちゃんと調べてみてよかった。

知らずに間違い英語としてディスったりしようものなら、逆に無知を笑われるところでした。

危ない、危ない

そうとしか見えなかった

2016-02-27 11:52:18 | 生老病死の倫理学
本日のイベントのため上京したついでにと言ってはなんですが、

歯のメインテナンスのために行きつけの歯医者さんに行ってきました。

なぜ行きつけの歯医者が東京にあるのかについては以前に書きました

私の主治医は四谷にある朝日デンタルオフィスさんです。

先日そちらから移転のお知らせが届きました。



四谷の駅前にあった診療室が四谷三丁目に移転したそうです。

なにか四谷駅前のあのあたり (上智大学と駅をはさんで対角線上の一帯)、

大規模な開発計画があってビル全体が立ち退き (昔で言う地上げ?) になったらしいです。

幸い今回の東京出張が、引越期間中の休業期間に重ならずにすみましたので、

移転ハガキを頼りに、移りたての新オフィスを訪れることにしました。

わかりやすい地図が記され、ビルの目印も説明されていたのですが、

その目印であるはずの 「アパマンショップ」 がなかなか見当たりません。

四谷三丁目の駅からしばらく歩いても一向に 「アパマンショップ」 は現れず、

これはゼッタイに通り過ぎたなと確信して、引き返すことにしました。

ハガキも再度確認してみましたが、

やはり 「※1階に 『アパマンショップ』 店舗のあるビルです。」 と書かれています。

どこで見落としたんだろうと不審に思いながらちょっと戻っていくとこんなお店を見かけました。



暗くなってから撮影したものでちょっと見にくいですかね。

店の前にアンパンマンが颯爽と立っています。

これを見てハタと思い当たり、もう一度ハガキをよく見てみました。

おおっ

「アパマンショップ」 ではなく 「アンパンマンショップ」 でしたか。

「ン」 が2文字も入っているじゃないですか!

このハガキ何度も読んだつもりでしたが、最初に 「アパマンショップ」 と思い込んで以降、

その後は何度読んでも 「アパマンショップ」 としか認識できませんでした。

思い込みって恐ろしいですね。

歳とともにこういう思い込みが増幅されているのかもしれません。

次回は、こんなふうに笑ってはすませられない、

加齢による思い込みのもっと恐ろしいお話をご報告いたします。

IN展2016

2016-02-25 09:10:52 | 人間文化論
現在、学類卒業生たちの 「卒展」 が開催中ですが、

その最終日の2月27日 (土) から今度は大学院生による 「IN展」 が始まります。



「IN展」 は 「卒展」 と異なり卒業生だけではなく、

大学院の1年生と2年生全員による展覧会です。

今年も出品者は6名のようです。

各自の作品の一部と作者名を記すというこのポスターのスタイルが定着してきていますね。

大学院生ともなるとひとりひとりが表現者として独り立ちし始めているということなのでしょう。

さて、私はまだ 「卒展」 も見ていませんし、27日は国際シンポジウムで東京ですから、

はたして 「卒展」、「IN展」 を見に行くことができるでしょうか?

明日は前期入試だしなあ。

イベントが目白押しなのはうれしいのですが、身体がひとつしかなく、

いつになく大量の事務仕事にも追われているのがつらいところです。

何とか時間を作れるといいのですが…。

国際シンポジウム 「東アジアのカント哲学」

2016-02-24 15:43:28 | グローバル・エシックス
来週末には福島に来て 「てつがくカフェ@ふくしま特別編6」 に参加してくださる牧野英二教授が、

今週末は東京でバカでかいイベントを開催されます。



もうずいぶん前から東アジア全域を行き来して、

日韓中台のカント研究者のネットワークを築き上げていた牧野教授が、

国際シンポジウム 「東アジアのカント哲学」 を日本で開催することになったのです。

「YAHOO!ロコ」 のイベント告知には次のような説明文が付されていました。

「戦後70周年を迎えた今日、東アジアの近隣諸国との関係はかってないほど悪化し、

 その国々に対するヘイト・スピーチは社会問題となっている。

 それに呼応して、安全保障と憲法のあり方をめぐるさまざまな議論やデモも各地で起きている。

 こうした状況の中、韓国と中国から研究者を招き、

 カント哲学を介して東アジアの国際交流・文化間対話の可能性を考えていく。」

さすがは師匠、みごとなグローバル・エシックスであり、世界市民哲学の実践です。

冷え切った東アジアの国際関係を改善するのに、少しでもカント哲学が役立ってくれたらと願います。

私は準備のための何のお手伝いもできませんでしたが、

一参加者としてこの画期的なイベントの一部始終を見届けてきたいと思います。

中間玲子先生、てつカフェ特別編に来福!

2016-02-23 18:23:34 | 哲学・倫理学ファック
来月6日に開催される、てつカフェ特別編6のポスターを作成しました。

作成したと言っても今回は特別世話人のひとりである大森さんに原案を作っていただき、

それに手を加える形で完成させました。

こちらです。



夜明けの猪苗代湖の画像を使った印象的な作品です。

さて、今回は何と言っても元福島大学准教授、現兵庫教育大学准教授である、

中間玲子さんにご参加いただけることになりました。

元同僚で、私のブログの師匠であり、一緒に飲みに行ったりもよくしていましたが、

青年心理学を専門に研究されている方ですので、研究面での交流はほとんどありませんでした。

その人をなぜ 「てつがくカフェ@ふくしま特別編」 にお呼びすることになったのか、

そのあたりの事情はてつカフェのブログの 【テーマ設定の趣旨】 のところに、

ぢゅんちゃんが書いてくれていますのでご参照ください ( → ココ)。

簡単に言うと、中間さんが 「「揺れるたましい」と「死の欲動」 ―被災しなかった私の震災体験」

という論文を書いておられ、それをぢゅんちゃんがたまたま見つけて読んで感動し、

ぜひ今回の5年目のアニバーサリー (?) となる特別編にお招きしようということになったのです。

中間さんがそんな論文を書いていたということは私もまったく知りませんでしたが、

読んでみると、本当にあの日々を痛々しく思い出さざるをえない衝撃的な論文でした。

今回のてつカフェのためにウェブ上にアップしてくださっていますので、

皆さんもぜひ読んでみてください ( → ココ)。

その論文のなかにこんな一節があります。

「そんななか、大学の仲間が福島から離れ、避難したことを知る。このことは私にとって大きな衝撃となり、地割れのイメージをもたらす大きな事件となった。いいようのない激しい怒りがわき、号泣した。信じていたものに裏切られたような、悔しく許せない気持でいっぱいになった。なんとか感情を落ち着かせようとしたが、どうしても自分のなかで気持ちの整理がつかなかった。」

実はこの 「大学の仲間」 というのは私のことなんですよ。

当時福島から離れ避難したのは私だけではなかったので、

ひょっとすると他の先生のことも含まれているのかもしれませんが、

基本的にはこれは私のことなんです。

私が福島を離れたことが、中間さんに地震と同じくらいの衝撃を与えていたということは、

この論文を読むまでまったく知りませんでした。

今回の件で連絡を取ったとき、まさかあの論文を私に読まれるとは思っていなかった、

と中間さんはおっしゃっていました。

まあでも論文を公刊するということはこういうことなんですね。

この 「大学の仲間」 の話に限らず、元福島にいて、福島を出たあとに震災を経験した人が、

あの震災をどう受け止めたかということに関する貴重な記録となっています。

てつカフェ特別編はもともと関東在住の法政大学の皆さんと始めたということもあって、

福島の内と外というのを否応なく意識しながら開催してきましたので、

5年目を迎えての特別編には恰好の題材だということで6人の世話人の意見が一致し、

中間さんをお迎えしてあの日々を振り返る機会を設けることになりました。

私にとっては苦い思い出ですが、5年も経てば少しは冷静に振り返ることができるかもしれません。

心の奥底に沈めていた記憶を皆さんといっしょに思い起こせればと思っています。

今回は辰巳屋のコーヒーを無料で飲めますのでぜひお誘い合わせの上ご参加ください。

上映会+トークセッション 「黒塚」

2016-02-16 08:23:30 | 人間文化論
イベント告知です。

てつがくカフェにも時々来てくださっている渡邊晃一さんが、

今週の日曜日、フォーラム福島でイベントを開催されるそうです。



ちょうど去年の今ごろにも似たようなイベントが開催されていましたね。

2014年からずっと継続的に取り組んでおられるようです。

黒塚というのが安達ヶ原の鬼婆伝説のことであるというのもこのイベントをきっかけに知りました。

いろいろな文化のクロスオーバーに触れる機会です。

「文化創造論」 の単位をもらったみんな、ぜひ参加してみてください!

懐かしの味スパゲティハウス「ニューチャーリー」

2016-02-15 16:14:26 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
昨年11月、近所のMAXふくしまのフードコート内に、

スパゲティハウス 「ニューチャーリー」 が開店しました。

もともとどこかにあった店が移転してきたのだそうですが、移転前は知りませんでした。

「あの頃のなつかしい味、今どきの新しい味」 というのがキャッチコピーです。

ナポリタンとかミートソースなどのオーソドックスな王道のスパゲティメニューが並びます。

さっそく行ってみました。

こちらがナポリタン。



その次に訪れたときにはミートソースを頼んでみました。



写真じゃわかりにくいかもしれませんが、とにかく麺が太いです。

これはまさにスパゲティです。

私が中学生や高校生だった頃、まだ日本にはパスタという語がなくて、

スパゲティというものしか存在しませんでした。

今ならそこいらのスーパーでもパスタ売り場があって、

そこにスパゲティやスパゲッティーニ、カッペリーニ、リングィネ、フェットチーネなど、

様々な太さや形状のパスタが売られていますが、

当時はスパゲティというのがパスタの一種を指す特殊名詞であることを知ってる人はそんなにおらず、

スパゲティしか存在しないと思っていた人は多かったのではないでしょうか?

また今なら素人でも聞いたことのあるアルデンテという言葉も、当時は存在しませんでしたし、

パスタは茹でたてを供しなければならないという常識もまだ共有されていませんでした。

そのためどこの店でもスパゲティは大量に茹でておいて、

注文されてからソースとからめて温めて出すというのが普通でしたので、

ただでさえ太めのパスタであるスパゲティは伸びきってブヨブヨになっているのが当たり前でした。

味付けの種類もあの頃はナポリタンかミートソースしかありませんでした。

中学、高校があった駅の駅前通りに洋食屋さんがあって、

そこでよくスパゲティを食べていたような記憶があります。

うーん、懐かしいですね。

「ニューチャーリー」 はまさにあの頃のスパゲティを思い出させてくれます。

私と同世代の方はぜひお試しあれ。

並盛りでも十分お腹いっぱいになりますので、今どきの若者の皆さんにもピッタリかも。

ただし若者が気楽にフードコートで食べるにはちょっとお高めかなあ。

でも平日限定で学割もやってるそうです。

ぜひ昭和の味をお楽しみください。

卒展2016

2016-02-11 17:28:21 | 人間文化論
来週木曜日から福島大学・人間発達文化学類・スポーツ芸術創造専攻・美術分野の4年生による、

卒業制作展覧会が福島県文化センターで開催されます。



昨年の6月に 「がってん」 をやっていた人たちですね。

彼らが 「文化創造論」 を取ってくれていたのは2年前です。

今年の受講生に美術の学生さんはいなかったので、

「文化創造論」 で知ってる学生さんの卒業制作を見ることができるのも来年までですね。

名残惜しいです。

ぜひ彼らの作品を見に行きたいと思います。

毎度の宣伝ですが、いろいろなタイプの作品 (絵画、彫刻、工芸等々) をいっぺんに見られる、

たいへんお得な展覧会ですし、各自の制作ノートなんかも見ることができて、

作り手の狙いや工夫、苦労なども知ることができる、初心者にやさしい展覧会ですので、

ぜひお子さまたちとご一緒に気軽に見に行ってみてください。

「文化創造論」 有終の美を飾る!

2016-02-09 16:39:42 | 教育のエチカ
昨年末にちょっとご説明しましたが、福島大学人間発達文化学類が創設されて以来、
スポーツ・芸術創造専攻の専攻共通科目 (必修科目) として開講してきた 「文化創造論」 は、
カリキュラム改革にあたって専攻共通科目という枠組み自体が廃止されたのに伴い、
昨年度までで必修科目としての開講は終了し、
今年度は取り残した人のためにいちおう開講し、
新カリキュラムの学生に対しては自由選択科目として開講してきました。
結果、取り残した1名と自由選択で取ってくれた学生20名、計21名を相手に授業を行ってきました。
その半期の授業も無事に終わり、今年度をもって 「文化創造論」 は完全に閉講いたします。
もう来年からは開講しないので、授業改善も何もあったものではないのですが、
いちおういつものように 「授業改善のための学生アンケート」 を実施しましたので、
その結果をご報告させていただきます。
まずは、5段階評価から。

「1.教員の授業に対する姿勢はよかったですか。
 (観点:授業の準備、授業への熱意、学生への対応等)」・・・・・・・・・・・・・・・・5.00

「2.教育の方法は適切でしたか。
 (観点:質問への対応、発表・討論の機会、シラバスの記述内容等)」・・・・・・5.00

「3.授業の内容は適切でしたか。
 (観点:魅力あるトピック、教材・教科書の適切性、参考文献の提示、
  授業の進度、シラバスに記述された目標の達成度等)」・・・・・・・・・・・・・・・・5.00

「4.総合的にみてこの授業に満足しましたか。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5.00

なんと最後の最後にパーフェクトを達成してしまいました。
全員が全項目に関して5点満点の評価をしてくれました。
どうもありがとうございます
こんなことってありうるんですね。
ここ数年ずっと評価は下がりっぱなしだったんですが、まさかの大逆転です。
まあ教員からの講義が3回しかない、アクティブ・ラーニングの権化のような授業ですし、
それが必修科目じゃなくなって自由意思でわざわざ選択してきてくれた20人だけ相手にできたので、
こんな結果を出すことができたのでしょう。
たぶん私の教職歴のなかで2度と再現することのできない大金字塔ではないでしょうか。
全項目パーフェクトってことはこれ以上もう改善のしようがないってことですので、
今年でこの授業なくなってくれて本当によかったです。
授業外学習時間についても見ておきましょう。

【授業外学習時間】
3時間以上・・・・・・・・・・・・・2人(9.5%)
2~3時間未満・・・・・・・・・7人(33.3%)
1~2時間未満・・・・・・・・・7人(33.3%)
30分~1時間未満・・・・・・5人(23.8%)
30分未満・・・・・・・・・・・・・・0人(0.0%)
0分(何もしなかった)・・・・・0人(0.0%)

アクティブ・ラーニングのわりに授業外学習時間が少ないというのがこの授業の特徴で、
今年の結果も、私の他の授業と比較するとまだまだ少ないと言わざるをえませんが、
これまでの 「文化創造論」 と比べるとやはり断トツで一番いい結果です (昨年一昨年)。
昨年までの反省を踏まえて、ふだんの生活のなかで自分の携わる種目について深く考えてみたり、
自分の専門ではないいろいろな文化に触れてみたりする時間を取るようにと、
ことあるごとに口にしてきたのが功を奏したのでしょう。

「授業改善のための学生アンケート」 の自由記述欄よりも、最終回のワークシートの最後の設問で、
「『文化創造論』 を受けてきて、どんな力が身についたり伸びたりしたと思いますか。
 また、新たに学んだり、学びが深まったことは何ですか。その理由も書いてください。」
という質問に対してみんなたくさん書いてくれていましたので、
そちらをご紹介して有終の美を飾ることにいたしましょう。


○文化創造論はスポーツ芸術創造専攻という専攻であるにもかかわらず、スポーツ側の我々は芸術系の人と全くといっていいほど交流がなかったため、その人達と交流する貴重な機会となった。ほとんどがスポーツ系の学生で占めていたが、数人の芸術系の人たちとの発表をし合ったりする交流は私に新たな視点を産んでくれたように思う。講義でも「チェスはスポーツなのかどうか」などという自分がこれまで考えることのなかった分野について知ることができた。また、「これ昔ちょっと疑問に思っていたことだったな」という私の小さい頃の素朴な思考を思い出し、その考えをもっと深めることができたこともあった。私はスポーツ専攻であるが、スポーツのためだけにしか生きられないわけではない。これからも様々な文化や新しい自分の才能に出会うかもしれない。その時にもっと広くものごとを考えられる人になっていたい。

○これまで学んできて、文化って何?と聞かれても、きちんとした答えを出せなかったが、文化創造論を学び、音、美、体のあり方や、私たちの身のまわりのすべてが、文化の形なんだとわかった。最初は音美体なんてつながるものなんてないだろうと思っていたが、3つの人を感動させるすべてが集まると、もっと大きな感動がうまれると思った。この授業で何かを考えだす力がついた。自分の考えたものやことだけでなく、他の人の意見をグループで話し合うことで、そーゆう考えもあるのか!!とひらめきが生まれた。他人の意見を理解し、みとめるということもみにつき、考えることが楽しくなった。この授業を通して、もっと自分の興味あることや無知なものにも深く考えていきたいと思った。

○文化そのものについては今までも特に意識しながら考えていたが、スポーツ専攻の人達と交流してみて、文化にはスポーツや美術といった枠組みに分けられてもその枠に縛られない発想があれば、幾らでも可能性が広がる、と思う様になった。自分はどうも柔軟な発想をするのが苦手なので、皆の意見や考えにとても刺激を受けた。専攻が違うということもあるが、この講義を通して得たものはとても大きいと思う。新しく文化を作り出していくこと、今までの文化をより良くしていくこと、文化そのものに対して学びを深めていくこと、どれも重要な観点で、色々な見方で文化を考えていくことが大切なのだと改めて実感した。

○プレゼンテーションでは、自分の伝えたいことや興味をもってほしいことをどのように示せば良いかということを考えさせられたと思う。一方的な話ばかりでは伝えられないこともあり、実演や対話というものがより大きな効果をもつということが分かった。今後プレゼンテーションをする機会はたくさんあるので、他の班の発表方法や工夫点を見て感じ取ることができたので良かった。音楽・美術といった普段あまり関わりをもたないことも講義や異文化交流を通して興味をもつことができた。各分野の始まりや特徴といったものも知ることができ、それらがどのような影響をもたらしているかということも学ぶことができた。1つの文化だけでなく、多くの文化と触れ合う機会が多かったので、学びが深まったと思う。

○自分が考えたことを発表して理解してもらう力は以前より身についたと思う。初めてのプレゼンでも、どうしたらいいか工夫をして、その改善点、実演はインパクトが強いというのも含め、今回は実演は主にした。そのようにして、改善を重ねて良い発表ができるようになればいいと思う。また、文化とはどういうものかについて学んだことが多くあった。それは講義の中でも今までとは異なる考え方があり、皆のプレゼンでも初めて知ることがたくさんあった。さらに最後の文化の創造では初めて考えることが多く苦戦したが、文化は自らつくりあげることもできるし、自分の力だけでなく他人との協力によって強固になるものだと思った。そして、文化創造論はとても楽しかった。

○この講義では、私自身がスポーツを中心に生活していたので、他分野に目を向ける良い機会になりました。音楽に触れることで、今まで知らなかった一面もありました。またそもそもスポーツとは何かを追求することで、少し文化の見方が明確になった気がします。それをディスカッションすることで、他の人の意見がどう一緒でどう違うのかを知れて、それが新しい意見になった時もありました。異文化交流プレゼンでは、自分の分野をより多くの人に詳しく教えるには何を盛り込むべきかを考えましたし、そういった点から「伝えること」の大切さや難しさ、コツがわかったような気がしました。私には少しユーモアが足りないので、そこの点を少し伸ばして、人を引き込むプレゼンができるようになりたいです。

○この授業を通して1番力が身についたと思うのは人前で話すということです。自分は今までグループでまじめな話をしようとしたり、人前で話そうとすると「ちゃんとしたことを言わなければ」という気持ちだけが浮かんでしまい、結果混乱して、まとまっていない考えを話してしまうことが多くありました。しかし、この授業で何度も発表、ディスカッションをやってきたので、慣れることが出来たと思います。また、様々な文化を調べたり、聞いたりして、知っていたつもりのものを深く知れたり、新たに知れたりできたと思います。

○自分の専門外(音楽、美術)についての理解が深まりました。特に、自分ができないことができているからこそ、芸術になるということが印象的でした。異文化プレゼンなどで、他の分野の人達の話をきき、自分の中の視野が広がりましたし、世の中には本当にいろいろな人やものがあふれていると感じました。自分とは違う経験をもった人と触れ合うことの楽しさを感じ、もっとコミュニケーションをとっていきたいと思うようになりました。今回の授業で、他の文化を受け入れる自分の「器」のようなものが広がったと思います。

○この講義を通して、文化をつくる上で絶対に「発想力」とか「自由に柔軟に考える力」が必要不可欠だなと実感した。私は今まで新しい何かを生み出したり提案したり、それを人前で発表するというのが苦手であったと思う。準備などで大変な時もあったけど、自分の意見をしっかり相手に伝えることの重要さを学ぶことができた。また、1回目のプレゼンではパワポを作るだけであったけど、最後のプレゼンでは中心となって企画の提案をすることができたので、以前よりも人前で話したり発表したりすることが好きになれたかな、と感じるようになった。

○今まではスポーツといっても自分の競技についてしか興味がなく、他のスポーツのことをあまり考えたことがなかったが、今回の授業では、他のスポーツ、そして音楽・芸術について、それぞれの歴史、良さ、魅力など、文化的に考えることができたと思う。また、プレゼンやグループで話し合うことで、自分にはない文化についての考え方を知ることができたり、発表の仕方でも工夫しようとしたり、みんなに魅力を伝えるにはどうしたらいいかなど考えるようになった。このことは、これから先、相手に自分の考えや思いを伝えるときに生きてくると思う。スポーツ・芸術・音楽すべて遊びや狩りから始まっていて、今のように変化して身近なものになっていると考えると、不思議で面白いと思った。これもやはり時代とともに変化し大衆化したからこその形であると改めて実感した。そして、文化とは一言では言い表すことのできないもので、深く、とても魅力のあるものだと思った。

○文化は人の手によって作られたということ。私は最初、文化と聞いた時すごい難しいイメージがあった。しかし、実際にはそんなことはなくて、すごく身近な物が文化だと知った。文化は常により良い物にしようと日々改善されている。時代によって変化もある。そして私がやっているバレーボールも文化だということ。確かに、考えれば文化とは何かときかれたときに答える答えにすべてあてはまっている。とにかく私の身近な物が文化ということにびっくりしている。たとえば、机やイス。これらをどのような机、イスが使いやすいかというのを創造するだけで文化の創造になる。びっくりだ。この授業では、パワポを使って発表したり、グループディスカッションをしたりして、人前で発表することで大切なこと、グループディスカッションの大切さを今まで以上に学べたと思う。そして想像力が豊富になったと思う。とても良い機会でした。

○文化創造論では、他の文化に目を向けたり、考えたりすることができるようになったと思います。今までは興味のないことには何も感じなかったし、考えなかったが、最近はなにか感じたり考えたることができるようになった。自分の趣味と関係ないと思っていたこと、視野を広げてみると関係があって驚いた。これから物事を考えるときは、広い視野と様々な視点から考えるようにしていこうと思いました。

○名前の通り、新しく創造するという点では、とても難しく考えさせられる授業でした。また、プレゼン等の発表の機会を多く持たせていただいたため、話す順番(優先順位)、発表のしかた、聴き手をどうやって引きつけるかなど考え、実行にうつせたことで発表する力は受講前に比べとてもついたと思います。自分は人前で話すのが苦手で、アドリブで話せるタイプでもないしと最初は怖々行っていたのですが、最後の方では自分で書いたレジュメを堂々と人に見せ、書かれていないことを口頭で説明し、聴き手の反応を見ながら話す余裕ができていたので、自分の成長を感じました。

○「文化」という言葉はどこか堅苦しく、難しいもののように感じていましたが、この講義を受けたことで、どんなこと・ものでも文化になり得ること、そして文化を自らつくり出すことができることを学びました。文化の中に共通点を見つけ出すことで、「文化」を広くとらえることができる力が身につきました。ディスカッションを通して他の人の意見を聞くことで、様々なとらえ方を学ぶことができました。

○音・美・体のそれぞれの文化は、扱われ方は違うものの、出発点や原点が似かよっていると考えるようになった。講義の中で共通点や相違点を見出したり、他文化の人のプレゼンテーションを見たり、自分の文化を紹介したり、異文化交流したりすることにより、このような考え方を抱くようになったと思う。学びが深まったという点においては、まず自分の文化について改めて知り、深める機会ができたことによって専門的知識の向上につながった。そして何よりも今まで知り得なかったスポーツや美術(アニメ)、その他の文化について、その分野に精通する人の話をきくことができ、自分にとって新たな知識となったことがとても嬉しい。来年度はなくなってしまう授業ではあるが、後輩たちにも異文化と交流し、視野を広げ、教養を深める機会があれば良いと思う。


「文化創造論」 最後の受講生の皆さん、半期の授業にお付き合いくださりありがとうございました
また、これまで 「文化創造論」 を履修してきてくれた歴代のスポーツ・芸術創造専攻の皆さん、
私にとっても新しい学びをたくさん提供してくれて本当にありがとうございました
この授業で学んだこと、身に付けた力をこれからもますます伸ばし、
それぞれの文化を伝えていく伝道師として、新しい文化を創造していくクリエイターとして、
社会の第一線でバンバン活躍していってください

第35回てつがくカフェ@ふくしま・ポスター完成!

2016-02-08 21:51:25 | 哲学・倫理学ファック
今度の土曜日は第35回てつがくカフェ@ふくしまです。

テーマは 「〈名づけ〉 とは何か?」。

そのポスターを作成し、「イヴのもり」 と大学内に掲示いたしました。



ご本人の許可を得て、ブログには素敵な親子の写真を使わせていただいておりましたが、

それをポスターにも使わせていただきました。

そして、純ちゃんが書いたブログの説明文を拝借しながら、

ちょっと手を加えて次のような簡潔な説明文を付しておきました。

「世話人・杉っちの息子さんがめでたく生まれました。

 この誕生を祝してテーマは「〈名づけ〉とは何か?」。

 そもそも〈名づけ〉は哲学的です。

 何らか意味を与えようとして行われる〈名づけ〉は、

 本人の意思を超えて一方的に行われるものです。

 また固有名に限らず、そもそも人間の文化は、

 物や事柄に名前を付けることによって始まりました。

 〈名づける〉とはいかなることなのか?

 みんなで一緒に考えてみましょう。」

最後の、人間の文化は物や事柄に名前を付けることによって始まった、というところは、

私が以前から考えていたことで、今回のテーマに関わって皆さんと話し合ってみたい問題です。

そこで、そういうことを表せるような画像を探してみたんですが、

あまりにも抽象的すぎてなかなかその手の画像は見つかりませんでした。

赤ちゃんの名づけに関してはいろいろと画像はあったので、それは配しておきました。

私の考えていることとはちょっと路線が違っていますが、

「名前、何?」 という画像が一番グッと来たので、それも中央に配しておきました。

前に名前が思い出せない問題について書いたことがありましたね。

名づけの問題とはズレていますが、名前つながりではあるんじゃないでしょうか。

ぜひ今度の土曜日は、名前についてみんなで考えてみましょう!

Q.結婚とは何か?(その2)

2016-02-07 08:33:24 | 性愛の倫理学
先日、「Q.結婚とは何か?」 という問いに対して、第1段階のお答えとして、
「Aー1.結婚とは他人と一緒に暮らすことである」 とお答えしておきましたが、
最後に、これではまだ結婚のことを精確に言い当てられていない、とお断りもしておきました。
そこで、もう少し思索を進めてみることにしましょう。

まずは、ルームシェアリングや同棲と差別化をはかるために 「家族」 という概念を導入してみます。
ルームシェアリングや同棲の場合、他人どうしが一緒に暮らすことによって、
まるで家族のような共同体を形成することになるわけですが、
これはまさに 「まるで○○のような」 という比喩的表現にすぎないわけで、
実際に家族になるわけではないのだと思います。
以前に、比喩はあくまでも比喩にすぎないのだから、語の定義の問題を考えるときに、
比喩とはきちんと区別して考えるべきだと書いたことがあります。
したがって、ルームシェアリングや同棲は、いくら家族みたいでも真の家族ではないのだと思います。
では、家族とは何でしょうか?
血のつながりも共有している同棲関係でしょうか?
でも、夫婦は血は繋がっていませんね。
子どものいない夫婦は家族とは認めないという暴論を展開するのでもないかぎり、
家族と血縁とは無縁のようです。
私は家族を次のように定義してみたいと思います。

A-0.家族とは、よかれ悪しかれ人生を共有する (シェアし合う) 共同体である。

「人生をシェアし合う」 とだけ言うと、あまりにも美しく聞こえてしまうので、
「よかれ悪しかれ」 という語を付加しておきました。
家族というのは、人生のよい部分、楽しいところを共有するし、
場合によっては辛いこと悲しいことを2分の1以下に軽減してくれることもあるでしょうが、
まったく逆に、家族であることによって相手から一方的に苦しみを背負わされたり、
憎しみが倍加したりということもあるだろうと思います。
歴史を振り返ってみれば、そういうお家騒動には事欠きませんし、
現代においても、親からの虐待、子どもの不祥事の責任、遺産相続をめぐる争い、介護の苦労等々、
家族の問題は枚挙にいとまがありません。
もちろん大多数の家族は円満に仲よく暮らしているかもしれません。
そういうマイナス面もプラス面も含めて互いの人生を共有せざるをえないのが家族なんだと思います。

この 「家族」 という概念を用いて結婚を定義してみたいと思うのですが、
家族のなかには決定的に役割を異にする成員が存在しえます。
親と子です。
特に子どもが小さい頃には親が一方的に子どもに対して責任を負っていて、
子どものほうは親に完全に依存しています。
少しずつ成長するにつれてだんだん対等に近づいていき、
親が年を取ってくると、逆に子どもが親を扶養、介護するというケースも発生しますが、
いずれにしても親と子というのは非対称的な関係を成しています。
したがって、親子の関係性と夫婦の関係性とは同じ家族のなかでも違ってきます。
親子の場合は上下関係ですが、夫婦の場合は対等な横の関係になるわけです。
そこで、養子縁組と差別化しながら結婚を定義するために、
この 「対等性」 という概念も用いることにしたいと思います。
すると、結婚とは以下のように定義できるのではないでしょうか?

A-2.結婚とは、対等な立場の他人とともに家族を作ることである。

先ほどのA-0も組み込むとこうなります。

A-2-2.結婚とは、対等な立場の他人とともに、よかれ悪しかれ人生をシェアし合うことである。

いかがでしょうか?
これが今のところ私が考える結婚の定義です。
この定義は2つの意味で現代的な定義になっており、
その意味では結婚の歴史的な形態をすべて含める定義になっていません。
ひとつは意図的に 「対等性」 という概念を含めたこと。
結婚において夫婦が対等である、というのは歴史を通じて認められてきたことではなく、
日本においては、明示的には現行の日本国憲法以降のことでしょう。
(日本国憲法施行以降も長らく夫婦は対等とは捉えられていませんでしたし…)
世界史的には、前回ご紹介したカントのゲスの極みの定義が意外と両性の対等性を宣言していて、
「十分リベラルで進歩的」 と評したのはそのためです。
その意味ではカントの定義も歴史を超越した定義ではなく、当時の最先端の考え方だったわけです。

もうひとつは、「夫婦」 や 「両性」 という語を意図的に用いなかったことです。
先ほど説明のなかで 「夫婦」 という語を用いたのはわかりやすさを優先したためにすぎず、
定義のなかには意識的に入れないようしました。
したがって、定義のなかの 「対等な立場の他人」 というのは、
異性であっても同性であってもよいことになります。
これはそもそも先に 「家族」 という語を定義したときに、
子どもを産み育てるということを含めなかったので、そのことからの当然の帰結です。
たしかに人生をシェアするなかで、出産と子育ては大きな比重を占めるかもしれませんが、
現代における家族にとってはそれがすべてではありませんし、
養子縁組という制度があることを考えれば、異性どうしでなくとも子育ては可能です。
ましてや現代医療は出産に関してもさまざまな可能性を広げてきました。
そういう時代においては、カントのように家族や結婚を生殖と不可分とする必要はないでしょう。

なお、私としてはカントがこだわっていた以下の2点に関しては保留しています。
ひとつは、一対一の関係でなければならないのか、一対多、多対多でもありうるのか。
もうひとつは、法的結びつきでなければならないのか、内縁関係でもいいのか、という2点です。
カントは 「対等性」 ということから、一対一の関係でなければならないことと、
法的関係でなければならないことが必然的に導き出されると考えていました。
たしかに一対多だと対等な関係にはならないような気もしますが、
しかし、それはたんに今までの常識に囚われているだけなのかもしれません。
伊坂幸太郎 『オー!ファーザー』 参照。)
また、一対一に限定するのだとしたら法的制度によって縛る必要がある気もしますが、
別に国家に届け出なくとも内縁関係で十分うまくやっている国もすでにけっこうあるようです。
そのへんまだ結論が出ていないので、定義のなかではそれらの点には触れないようにしてあります。
ぜひ皆さんのご意見をお寄せいただければと思います。

というわけで、とりあえず結婚とは 「対等な立場の他人とともに家族を作ること」、
「対等な立場の他人とともに、よかれ悪しかれ人生をシェアし合うこと」
ということで今のところまとめておきたいと思います。
以上を踏まえて、やっともともとの問いである 「Q.結婚をする意味は何ですか?」
に戻っていきたいと思います。
うーん、結婚する意味は何なんだろう?
考えがうまくまとまったらこの問いに挑戦してみたいと思います。

鼻が尻

2016-02-04 14:23:30 | 人間文化論


またまた気色の悪い写真で申しわけありません。

私、鼻の先が割れているんですよ。

この写真でわかるでしょうか?

写真だと角度とか光加減とかでわかる場合とわからない場合がありますが、

触ってみるとくっきりはっきりわかります。

鼻柱だけでなく鼻尖までしっかり割れています。

小学校の頃はよく 「小野原は鼻に尻がある~」 とか言ってからかわれていて、

自分だけなんで鼻が割れているんだろうと、けっこう気に病んだりしてました。

しかし、中学校だか高校の頃に、当時の世界的2枚目スター、アラン・ドロンの映画を見に行ったら、

彼の鼻が割れているのを見つけて驚喜した覚えがあります。

アラン・ドロンってみんな知らないだろうなあ。

ぼくが子どもの頃はとにかく美男子の代名詞で、アラン・ドロンの次が思い浮かばないくらい、

ハンサムと言えばアラン・ドロン、アラン・ドロンと言えばハンサムみたいな別格的存在でした。

『太陽がいっぱい』『冒険者たち』『地下室のメロディ』 といったところが代表作でしょうか。

ぼくが実際に見たのはもうちょっと後の時代の 『ボルサリーノ』 とか 『フリック・ストーリー』 でしたが、

中でも 『アラン・ドロンのゾロ』 は大のお気に入りで、

今でも私のなかで冒険活劇映画としては不動のベストワンを占めています。

その絶世の美男子であるアラン・ドロンがですよ、鼻が割れているんですよ。

やはり写真だとわかりにくいので、いくつかアップの写真をピックアップしてみました。







いかがでしょう?

おわかりいただけたでしょうか?

ちょっと割れてるのが見て取れるでしょう?

写真でこれくらいってことは相当割れてると思います。

ぼくも何かの映画のアップシーンで初めて気づいたんだよなあ。

これを見つけたときは嬉しかったですねえ。

自分のコンプレックスだったところがアラン・ドロンとの共通点だったんですから。

それ以後は誰かに何か言われるたびに 「これはアラン・ドロンとおそろいなんだぜ」 と言ってました。

むしろ、「あれ? 君たちは割れてないの? かわいそうに」 ぐらいな、選ばれし者気分です。

こうして自分のコンプレックスに別れを告げることができたのでした。

ですので、自分の鼻が割れてることなんてもうすっかり意識しなくなっていたのです。

ついこの間までは…。

ところが昨年末、ドラマ 『下町ロケット』 を見ていてこの問題を思い出してしまいました。

あのドラマ、けっこう芸人さんが出ていましたね。

名キャストもあればミスキャストもあっていろいろでしたが、とにかくたくさん出ていました。

そのなかでキングオブコメディのうちのお1人も出演していましたね。



このなかの右側の方です。

どちらのお名前も存じ上げませんでしたが、今野浩喜さんだそうです。

(左側の人は高橋健一さんという方で、あのドラマ終了後、この方もコンビも終了してしまいました。)

今野さん、特徴的な顔をしていらっしゃいますね。

この写真でははっきりわかりませんが、ドラマに出ていたときの写真を見てみましょう。





おおっ、みごとに割れていますね。

角度とか光加減とか関係なく、くっきりはっきり割れていますね。

おめでとう、あなたも我々選ばれし者の一員です。

いや、一員どころか堂々 「キングオブ鼻割れ」 の称号を授与してもいいくらいです。

うーん、それにしても…。

今にしてやっと理解できました。

あの頃みんながぼくを見て 「鼻が尻」 と言いたくなった、その気持ちが。

餃子の照井 福島駅東口店 初訪問

2016-02-01 12:25:37 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
昨年の3月に福島駅東口に開店した 「餃子の照井」

何度か通りかかったもののいつ見ても行列ができていてなかなかいただく機会がありませんでしたが、

先日、大学からの帰り、疲れ切って夕食を作る元気もなかったときに、

ふと思い出してちょっと立ち寄ってみました。



すると待合席には誰も座っておらず、ウェイティングリストにも名前はありませんでした。

おっラッキーと思って入ってみると、カウンターが空いていてすぐに座ることができました。

照井の本店南矢野目店には何度か行ったことがあるのですが、

あそこらへんはクルマで行くしかなく、ということはビールは飲めないわけです。

私、餃子とビールというのは最強タッグだと思っており、

ビールと一緒にいただかないことには餃子の美味しさは判定できないと信じております。

(したがって、宇都宮の餃子はビールを置いていない店が多いため邪道であるとまで思っています。)

今回、東口店が開店してくれたことによってやっと照井の餃子を真に味わうことができると喜んでいたのに、

これまでいつ行っても長蛇の列で入れず悔しい思いをしておりました。

それが、夜のゴールデンタイムにすっと入れてしまってビックリです。

さっそく、円盤餃子の半皿 (11ケ) とビールとおつまみセットを頼んでみます。

餃子は焼くのに時間がかかるので、まずはおつまみセットとビールで始めておいて、

餃子が来た頃にビールのおかわりを頼もうという作戦です。

ところが思いの外ほとんど待たされることなく、3つがほぼ同時に出てきました。



うん、賑やかです。

おつまみセットは、味玉、チャーシュー、メンマの3点盛りで350円とお買い得です。

これはオススメですね。

待望の、ビールとともにいただく餃子ですが、こちらもフツーに美味しかったです。

実を言うと私、宇都宮に続いて福島の餃子店の大半も敵に回してしまうかもしれませんが、

円盤餃子というのがあまり好きではありません。

出来上がりが揚げ餃子っぽいものが多いからです。

餃子の皮を堪能するためには焼き餃子が一番で、次が水餃子、揚げ餃子は邪道と思っております。

円盤餃子は揚げ餃子というわけではないのでしょうが、焼きか揚げかというと揚げに近い存在だと思います。

というわけで、餃子好きの私はあまり円盤餃子のお店には行かないのです。

とはいえ、今回はビールとともに味わえるということで果敢に挑戦してみたわけです。

照井の円盤餃子は揚げと焼きの中間からちょっと焼き寄りといった感じで、

そんなに違和感なく、しかもビールと一緒にいただけたのでフツーに美味しく食べられました。

しかし、それよりも何よりもおつまみセットが最強でした。

このコスパはたまりません。

けっきょくビールを3杯もいただいてしまいました。

照井のおつまみセット、オススメです。