まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

兼島ダンシング

2009-07-31 23:59:01 | ダンス・ダンス・ダンス
先日「あらびき団」で兼島ダンシングという芸人(?)を見ました。
特になんのオチもない紙芝居をめくっていきながら、
最初から最後までラテンダンスを踊り続ける方です。
ギャグもなくオチもないのでどこで笑っていいかわかりません。
まあこの番組のコンセプトからして、
(芸と呼べるか呼べないか)ボーダーの演し物を演じている
(芸人なのか素人なのか)ボーダーの人間を見て楽しんだり、
不思議がったりしていればいいんだろうと思いますが、
それにしても「こう来たか」と虚を突かれた感じです。

この兼島ダンシングのラテンダンスは筋金入りです。
一昔前に「ウリナリの芸能人社交ダンス部」という、
芸人が社交ダンスを習って試合に臨む番組がありましたが、
兼島ダンシングの場合は完全に、芸人がダンスを習ったのではなくて、
社交ダンス(競技ダンス)をやっていた(あるいはやっている)人が
「あらびき団」に参戦してきたのでしょう。
ひょっとすると自分のダンス教室の宣伝のために、
プロのダンサーが「あらびき団」を利用したということなのかもしれません。

しかしそれにしても、ダンスが本格的なだけに、
元ダンサーの私としては、そして全東北学生競技ダンス連盟会長の私としては、
兼島ダンシングを見ていると切なくなってしまうのです。
彼のダンスは他に使い道はなかったのでしょうか?
東野幸治や藤井隆に不思議がられているだけでいいのでしょうか?
社交ダンス、競技ダンスというのはひじょうに特殊な文化です。
それは一般の人から見るととても奇異な感じがする文化なのかもしれませんが、
その奇異さを直接売り物にされてしまうと、ちょっと物悲しくなってしまうのです。
兼島ダンシング、今後どう展開していくのか見守っていきたいと思います。

教職につきものの危険性(その2)

2009-07-30 11:57:03 | 教育のエチカ
教職につきものの危険性(その2)は、
学校教員以外も含む広い意味での教員にもだいたい当てはまりそうですが、
しかし、例えば、料理学校の教員なんかには当てはまらないかもしれません。

それは何かというと、
教員は評価権をもっているということです。
誰かに何かを教えていく場合、
その人がどれくらい学んだかを教員は評価する必要があります。
その評価に基づいて次に何を教えたらいいかを組み立て直すわけです。
ただ評価するだけなら、
これは料理学校の先生だって生徒の料理の出来映えを評価するわけですが、
問題となるのは評価の中でも 「総括的評価」 といわれるものです。
つまり、一定の課程を学んできてそれを履修し終わったと判断していいかどうかを、
テストや何かで最終的に評価する場合です。
生徒ひとりひとりの学びを全体として振り返り、
総括的に評価して成績をつけ、合否を判定する、というあれです。
たいがいの教員はこうした総括的評価を行う権利をもっているわけです。
大学教員の場合には 「単位認定権」 と呼ばれたりします。
料理学校では合否判定なんてしていないでしょうね(たぶん)。
でも自動車学校ではハンコをもらわないと次の段階に進めませんから、
自動車教習員は総括的評価を行う権利をもっているということになるわけです。
小~大学までの学校教員は全員こういう権利を手にしています。

これは権利というよりも権力と言っていいでしょう。
生徒の側はこれによって、
不合格 (もう一度やり直し) か合格 (先に進んでよし) かが決定されます。
もしも不合格と評価されてしまったらお金と時間のロスが発生しますので、
なんとか合格させてもらおうと必死になります。
ここに、この権利/権力を濫用したり悪用したりする余地が生じてきてしまいます。

ふつうの倫理学者はあまり口に出して言わないかもしれませんが、
ひとつ確認しておくべきことがあります。
人を支配するのは楽しいことである、ということです。
それは邪悪な快楽です。
でもとにかく快楽なのです。
人を支配することを楽しむなんて悪い人間だけである、
などという甘い想定に基づいて倫理学を構築するのは危険だと私は思っています。
むしろ、人間とは人を支配することを楽しむ動物である、という
冷徹な前提に基づいて倫理学を構築するべきだと思っています。
イジメはやるほうにとっては楽しいのですし、
職権濫用によって人を服従させることも楽しいことなのです。
私も白チョークで板書をしていて、ときどき色チョークを使うと、
学生たちがいっせいに色ボールペンに持ち替える音が教室中に鳴り響くのを聞いて、
「みんなオレの言いなりだあ」と邪悪な喜びに包まれたりします
たぶんそれくらいなら害はないのですが、
評価権をタテに学生を思い通りに操ることができたら、
それはたいそう楽しいことでしょう。
しかし、いくら楽しくてもけっしてやってはならないことがあるのです。

教員の皆さんや教員志望の皆さんには、
教員には評価権という特権/権力が与えられているということ、
この職権を濫用したり悪用してしまいたいという誘惑に自分が駆られるかもしれないこと、
をよく認識しておいていただきたいと思います。
そのうえで、
①評価はあくまでも生徒のために行うのであって、
 けっして自分の楽しみや利益のために行ってはならない
 (むやみに不合格にして楽しんだり、
  学費をよけいに払わせるために不合格にしたりしてはならない)
②評価は公正に行い、けっして私情をはさんではならない
(好みの子に甘くつけたり、巨人ファンだからといって不合格にしたりしてはならない)
③評価権をちらつかせて金品や使役や私的関係をもつことを要求してはならない
 (代償型のアカデミック・ハラスメントやセクシャル・ハラスメントの禁止)
ということを胸に刻んでもらいたいと思います。

そして、教員はそんな邪悪な楽しみなんかよりも、
もっと遥かに崇高で満足度の高い喜びを得ることができる希有な職業であるということに、
ぜひ気がついてもらいたいと思います。
それは生徒の成長を目の当たりにすることができたときの喜びであり、
みずからの努力や工夫が生徒たちの成長に
いくばくかでも寄与することができたかもしれないと感じられたとき、
教師は他では味わうことのできない無上の喜びに包まれることになるのです。
ですから評価権は、そのための手段としてのみ適正に行使するようにいたしましょう。
(けっこう自分自身に向かって言ってるところがあります。
 邪悪な誘惑はそうとう強大なので、いつ飲み込まれないとも限らないので)

Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか?(その2)

2009-07-29 17:39:27 | 哲学・倫理学ファック
「イマジン」 で思考に目覚めた私ですが、
直接に哲学と出会ったのは高2のときの「倫理・社会」(今で言う「倫理」)の授業でした。
このときの先生は、名前は忘れてしまいましたが変わった先生で、
教科書はほとんど使わずに授業をしていました。
一番記憶に残っているのはカニバリズム(食人)の話ですが、
なんでそんな話をしていたのかは思い出せません。
テストは自分の意見を書くのが中心の記述式の問題で、
共通一次(今で言う「センター試験」)対策の暗記型授業と異なり、
思考に目覚めた私はけっこう高得点を取っていたような覚えがあります。

で、実はこの先生によって哲学に目覚めさせられたのではなく、
この先生が使わなかった教科書が私を覚醒させたのです。
うちの学校が使っていたのは、山崎正一という人がひとりで書いた教科書でした。
教科書をひとりで書くということ自体が珍しいことですが、
この教科書はとてもいい哲学入門書だったと思います。
山崎正一というのは東大出身の東大教授で、
あとから判明したことですが、
私が大学時代にお世話になった宮川透先生の師匠にあたる方でした。
哲学史の本や哲学入門書を何冊も書いている人で、
分業化が進んでいる現在では、そういう人はもうあまりいないですね。
この先生が書いた教科書がめちゃくちゃ面白かったんです。
もちろん私が思考に目覚めていたからというのもあるんでしょう。
それにしても、読みやすくてわかりやすくて、それでいてとても深い内容の教科書でした。
高校生なんかに読ませておくのはもったいないくらいです。
この教科書で私は哲学に出会うことになったのです。
というわけで、(その2)のお答えです。

A-2.高2のときに山崎正一著の「倫・社」の教科書を読んだからです。

この教科書は最近の「倫理」の教科書とちがって、編年体で書かれていて、
取り上げるべき思想家が時代順にまとめられていました。
先生が教科書を使わないので私は勝手に前から順番に読み進めていったわけですが、
たくさんの思想家の中で、初々しかった私は、カントとマルクスに惹かれました。
カントに関しては 「目的の王国」 と 「永遠平和」、
マルクスに関しては 「共産主義」。
いずれも理想の世界を描き出しているわけですが、
今にして思えば、その理想の力に惹かれたということだったのでしょう。
つまり、私にとっては 「イマジン」 の世界観を哲学的に表現したのが、
カントでありマルクスであったということなんじゃないかと思います。

けっきょくカントとマルクスへの興味はそのままずっと持ち続けることになり、
大学受験の際も、カントかマルクス、どちらかを勉強できるところということで、
カントを学ぶなら哲学科、マルクスを学ぶならロシヤ語学科かなと思って、
その2つの学科をあれこれと受験しました。
「マルクスを学ぶならロシヤ語学科」というのは完全に間違っているんですが、
幼いまさおさまの頭の中ではなぜか、

マルクスの共産主義を学びたい
    ↓
共産主義の前にまずは社会主義だ
    ↓
だったら現実の社会主義国家ソ連があるじゃないか
    ↓
ソ連のことを学ぶにはまずはロシヤ語だ
    ↓
よぉーしロシヤ語学科を受けよう!

という風が吹けば桶屋が儲かる式のわけのわからない方程式が出来上がり、
マルクスを学ぶためにロシヤ語学科を受験してしまいました。
落ちていればすんなりと哲学科に入っていたんでしょうが、
ロシヤ語学科も合格してしまったために、
けっきょく東京外国語大学のロシヤ語学科に進学することになりました。
今でこそキャリアカウンセラーの資格なんかを持っている私ですが、
高校生の頃の進路決定なんて、
ホントにバカな思い込みでテキトーにやっちゃってたよなあと思います。
高校生には、どこの大学にどんな教授がいて何を教えてくれるのかとか、
ちゃんと調べてから受験してほしいですし、
高校の先生もそうやって進路指導してあげてほしいと思います。
外語大のロシヤ語学科にはほとんどロシヤ文学やロシヤ語学の先生しかいなくて、
しかもみんな反共、反ソの先生でしたから、
(先生方の知り合いのロシヤ人文学者がみんなシベリア送りになっていたため)
ソ連の政治経済体制のことやマルクスのことを教えてくれる人はいませんでした。

けっきょくロシヤ語に関して何も興味がもてず、
マルクスに関しても何も学ばないまま5年在学し、
パンキョーの哲学の先生であった宮川先生のところで、
カントについて卒論を書いて卒業することになりました。
その後、大学院の哲学専攻に進学するためにさらに1浪しなくてはならなかったので、
「マルクスを学ぶならロシヤ語学科」というアホな思い込みのおかげで、
哲学を本格的に学び始めるのに6年の遠回りをしてしまったことになります。
それでも哲学の道に進み、カントを研究し始めることになったということは、
よほど「倫・社」の教科書でのカントとの出会いが強烈であったということなのでしょう。

というわけで哲学をやろうと思ったきっかけの(その2)は、「倫・社」の教科書でした。
大学院の哲学専攻には、中学や高校の頃から岩波文庫で哲学書を読んでいた、
なんていう人がたくさんいましたから、
私のこのきっかけ(その2)の話はあまりしないようにしていて、
(その1)の「イマジン」の話だけですませていました。
今私がこういう、わかりやすい怪しいブログを書くようになっているのは、
あの教科書の影響があるのでしょうか?
「三つ子の魂百まで」……なんですね。

「生存権」をめぐる混乱

2009-07-28 16:25:58 | 生老病死の倫理学
「生存権」という概念はあちこちでいい加減に使われているなあと思っていましたが、
ものすごいものを発見しちゃいました。
ウィキペディアです。
ウィキペディアってけっこうお世話になっているんですが、
こういうのを見ちゃうとやはり危ないなあと思います。

ウィキペディアの 「生存権」 の項目を見てみましょう。
ウィキペディアは中身がどんどん書き換えられていきますので、
今回のように問題を発見したときは、ファイルを保存(日付も明記)するようにしましょう。
2009年7月28日現在のウィキペディアではまず最初に辞書的な定義が述べられています。
「生存権は、人間が人たるに値する生活に必要な一定の待遇を要求する権利。
 1919年の現在のドイツのヴァイマル憲法が生存権の具現化の先駆けとされる。」
これは基本的に正しい説明です。
「生存権」というと「生存する権利」、
「ただ生きる権利」を意味するように勘違いしがちですが、
「生存権」というのは「人間らしく生存する権利」のことであって、
国家・政府に対してそのための支援を請求する権利を意味しています。
つまり、日本国憲法第25条に記されているような権利のことを指すのです。
ウィキペディアの冒頭部分には、このオーソドックスな生存権理解が書かれているわけです。

ところが、詳細な記述に入って「概要」の1行目からはこんなことを言い出します。
「生存権とは、人が生きるための本質的な権利を持っているという信念を示す語句であり、
 とりわけ他の誰からも殺されることのない権利を意味する。
 死刑、安楽死、防衛権、妊娠中絶、戦争といった問題における主要な争点となっている。」
この中の第一文は、まさに先ほど触れた「勘違い」に基づく説明になっていて、
誰からも殺されることなく生きる権利のことを生存権だと断定しています。
これは冒頭の説明ともまったく整合していません。
ウィキペディアは大勢の手によって書かれていくがゆえにこんなことが生じるのでしょう。

誰からも殺されることなく生きることのできる権利というのは、
基本的人権の中では 「自由権」 に含まれる権利です。
日本国憲法第13条では、「すべて国民は、個人として尊重される」 と宣言されたあと、
「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が最大限尊重されるべきである、
と謳われていますが、ここに生きる権利は位置づけられているわけです。
自由権というのは消極的な権利です。
すなわち、「不当に~されない」という意味の権利です。
これに対して生存権は、社会権という積極的な権利の中のひとつです。
つまり、「国家によって~してもらう」権利、社会福祉を受ける権利なのです。
消極的な自由権と積極的な社会権ははっきりと区別される必要があり、
殺されずに生きる権利は前者、人間らしい生活を保障してもらう生存権は後者なのです。

ところが、社会科の先生をめざす大学生はもちろん、
現職の社会科(地歴公民科を含む)の先生の中にも、
それどころか大学教員の中にも、
「生存権=(命を奪われることなく)生きる権利」 と誤解している人がけっこういます。
これは、ある意味でしようがないことだと思っています。
そもそも 「生存権」 というネーミングが悪すぎるからです。
「生存権」 ということばを聞いて普通に概念分析すれば、
「(命を奪われることなく)生存する権利」 だと考えてしまうでしょう。
このことばが 「社会福祉を受けてそこそこの暮らしをする権利」 という意味であるとは、
正常な日本語感覚をもった人は思わないはずです。
なんでこんなことばが法学の世界で流通するようになったのか、
これに対応する原語は何なのか、
ときどき調べてみるのですがよくわかりません。
どなたか知ってる方がいらっしゃいましたらぜひ教えてください。

教職につきものの危険性(その1)

2009-07-27 18:53:24 | 教育のエチカ
教員という仕事につきものの危険性はなんでしょうか?
数日前のブログで宿題を出しておきましたが、皆さん考えておいてくれましたか。
たぶんみんないろいろ考えてくれたことと思いますが、
本題に入る前に「教員」ということばをはっきりさせておきましょう。
宿題を考えるときに「教員」といわれてどういう人を思い浮かべましたか。
小学校~高校の先生ですか?
塾の先生はどうですか?
大学教授のことは思い浮かべましたか?
自動車教習所の先生のことはどうですか?
英会話学校や料理学校の先生は含まれていましたか?
一口に教員といってもいろいろな先生がいるということがわかりますね。
基本的にこれから考えていきたいのは小・中・高の先生のことなんですが、
教員というのはもっと広い概念であるということは頭の片隅に留めておくべきでしょう。

そこで、教職につきものの危険性ということで、
まず最初は、学校教員以外も含めた、
すべての教員に当てはまるような危険性を考えて見ましょう。
なんであれ教員という仕事に伴うのは 「教える」 という行為です。
つまり、「知らない」 人に対して知識や技術を 「教えてあげる」 わけです。
これは後で取り上げるようなパターナリズムの問題ともつながってくるのですが、
教わろうとする相手は一般的に言って教えてもらいたいことに関して無知なわけですから、
教えてくれる人に全面的に依存することになりがちです。
ここにはさまざまな危険性が伴うことになります。

まず第一に、教わる人はウソを教えられてもそれがウソであるとは普通わかりません。
まああからさまなウソを教える人はそういないでしょうが、
間違ったことを教えてしまうということは往々にしてあるでしょう。
間違ったことを教えてしまった場合、教えられたほうはそれを真に受けてしまいますから、
例えば自動車教習所などでたまたまある交通ルールを間違って教わってしまった場合に、
そのために試験に落ちるぐらいならまだいいですが (本人は許せないでしょうが)、
それで免許を取ってしまい、公道に出てから教わったとおりにして、
大事故を引き起こしてしまうなんてことも考えられます。
そう考えると 「教える」 という行為は危険性が高く、
責任の重い仕事であるということがわかるでしょう。
したがって教員には 「間違ったことを教えてはならない」 という
禁止義務が課されることになるのです。

とはいえ、実はこれはけっこう難しいことです。
多くの分野において、何が正しくて何が間違っているかは、
それほどはっきりと区別できるわけではないからです。
道路交通法などは比較的はっきりした分野ですが、
それでもときどき法律が改正されたりしますから、
ある時点での正しい知識がいつまでも正しいとは限りません。
ましてや大学など学問の最先端では、日々知識が更新されていっていますので、
ちょっと前の常識だったことが実は間違っていたなどということもありえます。
また、もっと難しいのは、
教える場合、知らない人、わからない人に教えてあげなければならないので、
その人たちにわかりやすいように、手を変え品を変えいろいろな説明をしてあげたりします。
そういうわかりやすい説明というのは往々にして間違っている、
というか、厳密に言うと正確ではない、ということがありうるのです。

これは私には耳が痛い問題です。
「哲学・倫理学ファック」なんてブログで書き散らしていますが、
あれはそうとう怪しい話満載です。
哲学とは何か、ということをきちんと正しく説明しようとしたら、
それこそそういうテーマの専門的な本を何冊も書かなくてはなりません。
そしてそれに対しても他の哲学者・哲学研究者から即座にケチがつけられるでしょう。
それぐらい奥の深い問題を、ほんの何十行かでわかった気になってもらう文章なんて、
まず間違いなく間違っていますよね。
「間違ったことを教えてはならない」 という禁止義務は簡単なようで、
意外と難しい高度な要求なのです。

とはいえ、これが教員に課される第1の禁止義務であることは確かでしょう。
少なくとも故意にウソを教えることはけっして許されません。
そして、できる限り正しい知識や技術を教えてあげられるよう、
教員たるもの常に研鑽を怠ってはならないでしょう。
まあこれは 「1.その職業に特有の危険性を回避するための禁止義務」 というより、
「2.その職業の理想を実現するための努力義務」 に入れるべきかもしれませんが、
主観的に間違ってるとわかってることは絶対に教えないようにし、
そして、できうるかぎり自分が教えることが、
客観的にも間違っていないように常に注意を払っておくこと、
これが教員の義務であるといえるでしょう。
えっ?
「間違ったことを教えてはならない」なんて当たり前だろうですって?
いやいや、こういう当たり前のことを一つ一つ確認していくのが倫理学の営みなのです。

ドラマー魂?

2009-07-26 23:18:50 | 生老病死の倫理学
今急に寝室のエアコンが、

トントントントン、トントントントンと音を立て始めました。

くっきりはっきりとけっこう大きな音です。

電源を切ってみましたが、音は鳴りやみません。

たぶん室内機の中で鳴っているように聞こえます。

中のどこかで水滴が垂れているにしてはちょっと大きな音です。

なんなんでしょう?

どう聞いても太鼓の音です。

秀明太鼓の音でしょうか?

昨日のドラマーの誰かに不慮の事態が生じ、

彼が最後のリスナーであった私の家まで来て、

エアコンのどこかの管を使って、最期の演奏を聴かせてくれているのでしょうか?

でもなぜ私の家に?

しかも昨日ほど上手なわけじゃないし…。

いやいや、私は霊魂のたぐいは信じていないんです。

出るなら信じている人のところに出てあげてください。

彼は一晩中叩き続けるつもりでしょうか?

それとも私が彼の跡を継がなきゃいけないんでしょうか?

いや、私はムリムリ。

このメタボ腹であの太鼓は叩けないから。

頼むからどこか別の人をあたってくれよぉ。

地球自然の詩

2009-07-25 22:50:16 | グローバル・エシックス
今日は秀明太鼓を聞きに、仙台まで行って来ました。
秀明太鼓というのは、神に祈りを捧げる祭典で叩かれる、
神と人々とを繋ぐ太鼓だそうです。
むろん宗教的バックボーンをもっているようですが、
国連50周年記念集会(1995年)や、万国宗教会議(1999年)や、
ミレニアム・ワールド・サミット(2000年)でも演奏しているそうで、
グローバル・エシックスのテーマソングとしては最適ではないでしょうか。

一曲めから圧倒されました。
大中小さまざまな太鼓を最大12名のメンバーで叩いていきます。
バチが生み出す振動が直接こちらの身体や内蔵にまで届いてきて、
内側から揺さぶられます。
太鼓と横笛と掛け声(ヨーとかオーとか)だけなんですが、
前半3曲45分、後半4曲45分の公演をまったく飽きさせることなく、
一気に聞かされてしまいました。そのための演出も見事で、
曲ごとに使用する太鼓の構成や数を変え、
照明や背景もよく考え抜かれています。

私の好みは10人前後の大人数でユニゾンで叩きまくる派手めな曲ですが、
「雪鴉」という与謝蕪村の「鴉図」にインスピレーションを受けて作られたという、
しっとりした曲もステキでしたし、
たった一人で大太鼓を10分近く叩きまくる「滝」も元ドラマーの血をくすぐられました。
帰り道では、できるだけ手や腕は動かさないようにして、
頭の中で「ドコドコドコドコ、ドーンドーン」と口ずさんでいました。

帰りがけ仙台駅地下の「すし哲」でたらふく旨い寿司を食って帰ってきました。
日本の芸と技を堪能した1日となりました。

それぞれの職業に特有の危険性

2009-07-24 17:40:45 | お仕事のオキテ
昨日、プロフェッショナルの誓いについて、
誓いには大きく分けて、2種類の内容が含まれている、と書きました。

1.その職業に特有の危険性を回避するための禁止義務
2.その職業の理想を実現するための努力義務

まずは1番めの禁止義務について見ていきましょう。
例えばお医者さんの誓いの言葉として有名な
「ヒポクラテスの誓い」の中には次のような文言が含まれています。

・食餌療法は患者の福祉のためにするのであり、
 加害と不正のためにはしないようにつつしみます。
・致死薬は、誰に頼まれても、けっして投与しません。
・婦人に堕胎用器具を与えません。
・どの家に入ろうとも、それは患者の福祉のためであり、あらゆる故意の不正と加害を避け、
 とくに男女を問わず、情交を結ぶようなことはしません。
・治療の機会に見聞きしたことや、他人の私生活についての洩らすべきでないことは、
 他言してはならないとの信念をもって、沈黙を守ります。

これらはすべて医者という職業につきものの危険性を回避することを謳っています。
医師は薬に関する専門的知識をもっていて、それで病気を治すことができるのですが、
医師は同時に、どの薬をどれくらい飲み過ぎると危険かとか、
何が毒であるかということも知っておかなければなりません。
その専門知識を悪用すると、誰にもばれずに人の病気を悪化させたり、
場合によっては殺害してしまったりすることも可能です。
したがって医師には、そうした知識を悪用しないという禁止義務が課されるわけです。
また医師は職務上、患者やその家族の秘密に接することができるので、
それを他言してはならないという守秘義務が課されます。
(三大プロフェッショナルである医者、法律家、聖職者にはすべて守秘義務が課されます)

このようにそれぞれの職業には特有の危険性というものがあり、
それを回避することが求められます。
例えば、プロ野球の選手は技術の限りを尽くして勝つためにプレーするわけですが、
自分のワンプレーによって勝敗の行方を左右してしまうことも時として可能であり、
したがって八百長が禁止されることになります。
政治家は国民の代表として国民全体の利益になるような法律を制定するわけですが、
特定の人や特定の企業にのみ利益をもたらす法律を作ってしまうことも可能なので、
賄賂を受け取ることが禁止されているのです。

どんな職業に就いている人も、
自分の職業に固有の危険性というものをよく知っておく必要があるでしょう。
さて、それでは問題です。
教員という仕事につきものの危険性にはどんなものがあるでしょうか?
できるだけたくさん考えてみましょう! 

プロフェッショナルの誓い

2009-07-23 18:12:35 | お仕事のオキテ
プロフェッショナルというのは「専門職業人」と訳されたりしますが、
元はというと profess という動詞から作られたことばです。
pro- は「前で」、fess は「話す」で、
そこから「みんなの前で宣言する」→「公言する」→「誓う」
という意味をもつことになります。
その名詞形の profession は、元はといえば、
「(その職に就くにあたって)誓いを立てなければならない特別な職業」を指し、
その形容詞形が名詞化した professional は、
「誓いを立てなければならない特別な職業に就いている人」を意味していたそうです。

伝統的には、そういう誓いを立てる必要のある特別な専門的職業というのは3種類あり、
医者と法律家(弁護士)と聖職者(神父や牧師)でした。
いずれも専門の学部(医学部、法学部、神学部)で専門の学問を学んだ末に、
誓いを立ててその職業に就いたのです。
昔はプロフェッショナルと呼べるのはこの3つの職業だけだったようですが、
時代の流れとともにプロフェッショナル(専門的職業人)の範囲はどんどん広がってきて、
スポーツでの用例のように、
お金をもらって生業(なりわい)として働く人はみんなプロと呼ばれるようになっています。

しかし私は、プロフェッショナルにとって「誓いを立てる」というのは
とても大事なことだと思っています。
お医者さんになるための「ヒポクラテスの誓い」は有名ですね。
看護師になる人たちには「ナイチンゲール誓詞」というものがあるそうです。
いずれも内容が現代の医療に合わなくなったきたため、
最近では新しい誓いの言葉が使われる場合も多いようですが、
いずれにせよ誓いには大きく分けて、2種類の内容が含まれています。
1.その職業に特有の危険性を回避するための禁止義務
2.その職業の理想を実現するための努力義務

今日はもうこれから飲み会がありますので、
具体的な誓いの中身については明日以降お話しします。
ではいってきまーす

追悼・加藤国彦先生

2009-07-22 18:43:25 | 教育のエチカ
昨日は加藤国彦先生が亡くなって丸三年目の日でした。
(三回忌とか三周忌というのは1年前=丸2年目のことをさすことばのようです)
加藤国彦先生というのは私が福島に来て知り合った高校社会科の先生です。
磐城女子高、小野高、郡山商業を経て、最後は福島東高で教えていらっしゃいましたが、
2006年7月20日、学校で突然倒れて病院に運ばれ、
翌21日、49歳の若さで帰らぬ人となりました。

今、加藤先生の仲間だった人たちといっしょに、
彼が生前書き残したものを集めて論集を作っているところです。
本当なら昨日に間に合わせたかったのですが、
残された原稿の量が膨大で、編集作業がなかなかはかどらず、
今も最終校正を行っているところです。
まあ、もう間もなく完成するでしょう。
その論集に追悼文を寄せました。
それを読んでもらうと、加藤先生がどんな人で、
私とどういう関わりがあったのか、わかってもらえるでしょう。
彼の生き様はまさに 「教育のエチカ」 を体現していたと言えるのではないでしょうか。
教員をめざす人にはぜひ見習ってもらいたいと思います。


加藤さん、今も勉強してますか?             小野原雅夫(福島大学)

 私にとって加藤国彦さんは、福島大学の先輩教員であった。1994年に私が赴任してきたとき、彼はすでに「公民科教育法」という授業の中で単発非常勤講師として2回講義を担当されていた。ずっと哲学・倫理学ひと筋で、学校教育や教員養成のことなど右も左もわからないままその授業を担当させられた私は、加藤さんの講義を参観させていただき、1回の授業のために何十枚ものプリントを用意してくるその姿に圧倒されたのを覚えている。授業後、研究室に戻って茶飲み話をしながら、私がカント研究者であるとわかったとたん、彼は悲痛な声でこう尋ねてきた。「高校生にどうやってカントを教えたらいいんですか。定言命法なんて言ったって彼らにはちっとも響かないんです。何のリアリティもない。どうやったらカント哲学の魅力を伝えることができるんですか」。そのぶしつけな質問に、当時の私は答えるべき言葉をもっていなかった。その後も2人の間でその議論は続き、2人の連名で「新しいカント学習のための予備的考察(上)・(下)」を出すことになったが、あの論文はあくまでも加藤さんが出した答えであって、私自身は未だにあの問いに答えられてはいない。
 加藤さんとのつきあいはそのようにして始まった。彼の口癖は「勉強したいんですよ」だった。現場の先生というのはこんなにも学ぶことに飢えているのかと当時は思ったものだが、今の現場にそういう人がそれほどいるわけではないと知ったのは、それからしばらくしてからのことだった。ともあれ彼の「勉強したい」という声に答える気になったのは、私も大学の授業や教育学部というシステムに慣れてきて、教育というもの(自分の授業も含めて)について真剣に考えてみなければならないと考え始めた頃だった。何かのきっかけで彼がいつものセリフを口にしたとき、「じゃあなんか研究会でもやろっか」と軽い気持ちで答えたところ、彼は一気に動き出し、彼が幹事となって有志を集い、私が会場準備係として福島大学職員会館を借りることにして、2003年11月に「勉強会」(公民科学習の研究会)はスタートした。
 その勉強会は、ほぼ月1回のペースで続けられた。残念ながら盛会とまでは言えないが、毎回7~8名の参加者を得て、濃厚でかつ楽しい議論を交わしている。加藤さんは間違いなくこの会の中心人物であったが、しかし指導的存在ではなかった。どんなに若い人が発表しようと、彼は指導するという立場に立つわけではなかった。会で彼がよく発したことばは「オレにはよくわからないよ」と「それは何なの」であった。彼はまさに勉強に来ていた。そのときの発表内容が学問的内容であれ、新しい教育方法についてであれ、彼はわからないことはわからないと言い、誰からも貪欲に学び取ろうとしていた。その学びは勉強会終了後に必ず開催されるシンポジウム=饗宴に引き継がれた。時には笑いながら、時には口角泡を飛ばして議論は続けられ、そして最後には彼の熱唱を聞くことができた。
 加藤さんは最近流行りのことばで言うところの「反省的実践家」であった。常に真理を求めて探究を続け、常に自分の実践を振り返ってよりよい授業作りやよりよいクラス作りに励んでいた。おそらく彼の教育理念からするならば、進学校での受験指導は気の進まぬものであったろうと思われるが、そういう環境の中でもすべてを投げ出してしまうのではなく、その現実を少しでも自分の理想に近づけようと、同志を集い、新しい提案を続けていた。最後の赴任校で、総合的学習の時間を使って、高校生を大学のゼミに参加させるという試みをしたのは、いかにも彼らしい発想であった。大学教員を呼んで来て講義をしてもらう出前講座などは最近では何の目新しさもなくなってきているが、大学で学ぶことの真骨頂はゼミでの濃密な時間にあり、それを高校生に体験させようと、人脈をフル活用して(当時の福島大学学長は彼のマブダチであった)そのムチャな企画を実現させてしまったのには驚かされた。また、「課外学習」という名の受験指導も、彼の手にかかるときわめて学術的なパフォーマンスへと変身を遂げた。たんなる小論文対策のはずなのに、彼がプロデュースした「論点講座」では、まず生徒たちの前で教員どうしが現代的な諸課題に関する高度なディベートを繰り広げ、それによってテーゼとアンチテーゼをつかみ取らせた上で、自らの考えをまとめさせていくのである。私はその最終回を参観させていただくことができた。フーコーやらデリダやらの名前が飛び交う高度な内容に、「生徒たちは本当にあの話についてきてんの?」と思わず聞いてしまったものだが、彼が生徒たちにつけようとしていたのは、ただ大学に入るための学力ではなく、大学に入った後も、大学を出た後も自分で考え続けていくことのできる力であった。その日はその講座に関わった彼の同志たちとの打ち上げの饗宴に同席させていただく光栄にあずかり、遅くまで盛り上がったのであった。そのほんの一週間後、彼はこの世を去った。
 私はまだ加藤さんの死を受け入れられていない。涙ひとつこぼすことができずにいる。成人して以来、友と呼べる人を亡くしたのが初めてだったからであろうか。あるいは、彼があまりにも突然に逝ってしまったからであろうか。おそらく最初に投げかけられたあの問いに、私が満足いく答えを出せるようになるまで、彼は待ってくれているのであろう。加藤さん、もうしばらく一緒にここにいて、あの問題に決着をつけるため、2人でもっともっと勉強していきましょう。


以上が私の追悼文です。
それにしても本当に勉強熱心な先生だったなあ。
みんなはどんな先生になってくれるんでしょうか。
そういえば今日明日はちょうど福島県を含む東北地方の教採でしたね。
ただ教師になりたいではなく、どんな教師になりたいのか、
自分の中の理想の教師像をできるだけ明確にイメージして試験に臨んでください。

「よかったさがし」

2009-07-21 14:11:38 | 幸せの倫理学
以前にミクシィで 「身代わり理論」 や 「芸の肥やし理論」 を披露したとき、
マイミク (ミクシィ上の友だちのことです) のひとりから、
同じようなポジティブ・シンキングの例として
「よかったさがし」というのを教えてもらいました。
マイミクさんの文をそのまま引用する形で紹介させていただきましょう。
ちなみに「ボス」というのはミクシィ上の私のニックネームです。


(以下、引用)
ボス、ポリアンナ物語 「よかったさがし」 って、知ってます?

牧師の娘のポリアンナという少女が
たくさんの苦労を乗り越えながら成長していく姿を描いた物語なのですが、
小学生の時に読んで、
ポリアンナが初めてお父さんに 「よかったさがし」 を教えてもらうくだりを
今でもよく覚えています。
1週間に1度だけ食べれるはずのハムエッグ (だった気がしますが) を、
お父さんが自分たちよりさらに貧しい人が病気だったので、施しをしてしまって、
パンしか食べられなくなるんです。
幼いポリアンナはすごくふてるのですが、
そんはポリアンナにお父さんは 「よかったさがし」 という遊びを教え、ポリアンナは、
「今日は楽しみだったハムエッグが食べられなくて残念だけど、
次に食べるときはもっとうれしいからよかった」 と言って、
いつもつらいことや苦しいことが起こるたびに 「よかったさがし」 をして、
周りも巻き込んで明るく、幸せになっていくんです。

なぜか小学生の私には、この発想の転換が衝撃的で、
周りの状況を変えられないときには、
その中でもかすかにでも自分に利になることを見つけて、
まぁいいや、と言って過ごす癖がついてしまったんですよね。
まぁ今回は自分で気付かないうちに度が過ぎたなと思いますが、
あんまりにも周りが変だと発想を転換していかないと
身がもたないっつ~とこはありますよね(苦笑)。
(引用、終わり)


私は 『ポリアンナ物語』 って知らなかったのですが、
ウィキペディアで調べてみると、

> 主人公の名前である Pollyanna は 「極めて前向きな楽観主義者」 の意味として使われ、
> その後心理学分野での用語 「ポリアンナ効果」「ポリアンナ症候群」 が生まれた。

ということだそうです。
なるほど、一般名詞化するくらい有名なんだ。
私はまさにポリアンナなんですね。
一度読んでみなければ。
というかハウス名作劇場でアニメ化されていたらしいので、
今度借りてみようかな。

Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか?(その0)

2009-07-20 13:34:13 | 哲学・倫理学ファック
このシリーズはたぶん(その4)まで書き続けないと完結しないのですが、
いろいろと昔のことを思い出しているうちに、
(その1)の前に(その0)があったことに気づきました。
(その0)というのは、きっかけとはちょっとちがっていて、
この道に進むための素養は「イマジン」と出会う前から用意されていたように思うのです。

それは何かというと私は子どもの頃から本が好きだったのです。
幼い頃から本に親しんでいたことによって、
現在に至る素養が培われていたのではないかと思うのです。
本といってもたいそうな本ではありません。
テレビではウルトラマンや仮面ライダー、ザ・ガードマンやキーハンターなど
ヒーローものが好きなごく普通の男の子でしたから、
(したがってヒーローが出てこない「ウルトラQ」にはなんの興味もなかった)
小学校の頃に読んでいたのは怪人20面相シリーズや、
怪盗ルパン、名探偵シャーロック・ホームズのシリーズなどでした。
当時、ポプラ社から小学生向けのシリーズが出されていましたので、
親友のI君と手分けして全巻揃えて読破していました。
当然のことながらその頃は大きくなったら探偵になろうと思っていました。

中学校に入った頃は初めて見たNHK大河ドラマ『国盗り物語』の影響で、
司馬遼太郎を読み漁りました。
中学生にはひじょうに難しかったですが、
わからない単語もなんとなく想像しながら読んでいました。
最初の頃はあくまでもヒーローものの一環として読み始めましたので、
歴史そのものに対する興味とか、
司馬遼太郎の人間描写とかへの関心もさしてなく、
ただヒーローの活躍を楽しんでいただけでした。
織田信長が最後に明智光秀にやられてしまうところでは、
ウルトラマンがゼットンにやられてしまったときと同じような、
欲求不満を覚えたものです。

したがってこれらの読書体験によって自我に目覚めるとか、
ものを考え始めるということはなかったわけです。
自我が目覚めるためには「イマジン」を俟たなければならなかったのです。
ですから最初のきっかけにはならなかったわけですが、
しかしこれらの読書体験が私の中の素地を用意してくれていたというのは確かでしょう。
私のゼミに入ることを希望する学生たちには必ず、
「本読むの好き? 
 倫理学ゼミは本読むくらいしかやることないから、
 本読むの苦手だったら絶対ムリだよ。」
と警告するようにしているのですが、
とにかく本を読むのが好きでないと、この道を歩んでいくことはできないでしょう。

私はたぶん活字中毒と言ってもいいくらいです。
トイレに入っている時間とか、電車に乗っている時間とかも、
片っ端から活字を読みまくっています。
電車の中の吊り広告もバカバカしいと思いながら、
ほとんどすべてに目を通してしまいます。
このごろ関東では電車の車両をまるまる借り切って、
同じ会社が同じ商品の広告で全部埋め尽くすという手法が流行っていますが、
あれは本当に頭に来ます。
金の力に任せてただのインパクト狙いであんな広告を打つのでしょうが、
せいぜい4パターンくらいの中身しか作らずに、
それを交互に並べて車両全部埋め尽くすなんて、
まったく消費者心理をわかってないなあと思います。
満員電車の中で身動きすることもできず、
ヒマつぶしといえば吊り広告を見るしかないのに、
あんなことされたらあっという間に読み終わってしまって、
あとはどうしていたらいいんでしょう。
目の前の人の白髪の数でも数えていろというのでしょうか。

おっと熱くなって話がそれてしまいました。
なぜ哲学をやろうと思ったのか、(その0)のお答えはこれです。

A-0.小さい頃から活字に慣れていました。

こういう素地があったからこそこの道に進むことができたのだろうと思います。
ですので自分の子どもに哲学の道を歩ませようと思ったら、
小さな頃から本を読む習慣をつけさせておいたほうがいいでしょう。
ただしイヤがる子どもにムリに純文学や本物の哲学書とかを与える必要はありません。
活字に親しませるのが目的ですから、内容は何でもよくて、
お子さんが自ら進んで楽しんで読むようなものがいいと思います。
(最近、怪人20面相のシリーズはポプラ社から文庫本で出ているようです)
えっ、子どもに哲学をやらせるつもりはない?
なんだ、そうでしたか。
だったらDVDとテレビゲームとマンガ週刊誌を与えておけばいいでしょう。
そうすれば健全な何もものを考えない大人に育って、
通勤する車内でスーツ姿で一心不乱に『少年ジャンプ』を読む、
典型的な日本のサラリーマンになってくれるはずです。

脳死・臓器移植をめぐる諸問題

2009-07-19 20:29:25 | 生老病死の倫理学
臓器移植法の改正にともなって、
久しぶりに脳死・臓器移植が人びとの関心の的になったようです。
国民から注目されて、みんながこの問題について考えるようになるというのは
たいへんけっこうなことだと思いますが、
マスコミの取り上げ方は本当に一面的なので、
考えるべき問題がきちんと考えられる環境が整ってはいないように思います。
そこで、脳死・臓器移植をめぐって
私たちが考えておくべき問題を列挙しておきたいと思います。

Ⅰ.定義や判定方法をめぐる問題
a.脳死という名称は適切か?
 (そもそも「死」と呼ぶべきだったのでしょうか。)
b.脳死の定義は?
 (現在は世界中で大きく言って3種類の定義があり統一されていません。
  B案はこのI-bやI-cをはっきりさせようという案でしたが、
  廃案になってしまいました。)
c.脳死の判定基準をどう定めたらよいか?
 (脳血流検査や脳代謝検査など日本が課していない検査を課している国もあります。)
d.不可逆性をいかにして保障するか?
 (絶対に回復不可能であるということをどうやって保証できるのでしょうか。
  1回検査したあと一定時間経過後にもう一度検査をすることによって確かめようとしていますが、
  はたしてそれは不可逆性を担保したことになるのでしょうか。
  なお日本の判定基準では6時間後に再検査ですが、これは世界最短です。)
e.子どもの脳死判定基準は大人の場合と同一でよいか?
 (子どもは回復力が強いのでもともと性急な脳死判断は危険であるとされていました。
  E案はこの点をきちんと検証しようという案でしたが、廃案になりました。)
f.安全確実な判定基準と簡便な判定基準とどちらを選ぶか?
 (死の判定ですから間違いがないよう厳格な基準が求められてしかるべきと思いますが、
  日本ではできるだけ容易に判定できる道が選ばれています。)
g.臨床的脳死と法的脳死のダブルスタンダードは許されるか?
 (現行法のもとでは主治医が行う臨床的脳死判定と、
  臓器移植のために法に基づいて行う脳死判定の二つがありましたが、
  そうした事態こそが倒錯的な感じがします。)

Ⅱ.人の死は何かをめぐる問題
a.脳死は人の死か否か?
 (人工呼吸器によって機械的に酸素補給を行い、
  それによって心拍が維持されている状態は生きていると言えるでしょうか。)
b.心臓死は人の死か否か?
 (心拍停止や呼吸停止も不可逆的停止でないかぎり死とは言えないはずですが、
  その不可逆性はいかにして担保されるのでしょうか。)
c.臓器移植を行う場合のみ脳死は人の死となるのか?
 (現行法では臓器移植を行う場合のみ脳死は人の死とされていましたが、
  その場合、提供しない人たちの延命治療の停止が不可能となります。
  しかし今回のA案のように一律に脳死を人の死とすると、
  今度はⅢ-b.のような問題が出てきます。)
d.人の死の理解に多様性を認めるべきか?
 (臓器提供するかしないかは個人の自由に任せるべきでしょうが、
  何をもって人の死とするかに関して個人の自由を認めるべきでしょうか。
  多様性を認めるとしても、それを本人ではなく、家族が決めてよいのでしょうか。)
e.人の死に関する家族(本人も含めた)の合意をいかにして形成するか?
 (A案が通ってしまったからこそ、今後家族での話し合いが必要になってくるでしょう。)

Ⅲ.ドナーへの治療をめぐる問題
a.脳死状態に陥らないような最善の救命治療を保障できるか?
 (臓器提供を望んでいる場合でも望んでいない場合でも同じように、
  回復をめざした最善の救命治療を施すことが医療者の第一の義務でしょうが、
  はたしてそういうことができるような体制は整っているのでしょうか。)
b.将来的にも脳死者を回復させることは絶対に不可能なのか?
 (I-b.~I-f.に関して厳格に決めていない以上、不可逆性には疑問があるので、
  今後、治療可能・回復可能になる可能性もないわけではありません。)
c.脳死者への治療に保険は適用できるか?
 (脳死を一律に人の死とするA案が通ってしまったので、
  今後この問題が一番重大な問題となっていくでしょう。)
d.延命治療の停止は許されるか?
 (A案のおかげで、臓器移植を希望しない脳死者の存在が公認されたわけですが、
  その場合に延命治療を停止するという選択も可能になるのでしょうか。
  あるいは、延命治療を停止するのが基本となっていくのでしょうか。)
e.延命治療に関する家族(本人も含めた)の合意をいかにして形成するか?
 (誰かが脳死になってしまった場合に、家族が決断を迫られることになるので、
  家族でふだんから話し合っておく必要があるでしょう。)

Ⅳ.臓器移植をめぐる問題
a.臓器移植ははたして医療と言えるのか?
 (病気の臓器を治しているわけではなく、誰かの臓器と取り替えているだけなので、
  はたしてそれが治療といえるのでしょうか。
  しかも臓器移植後には免疫抑制剤によって人工的に免疫機能を抑えてしまうわけですから、
  それははたして安全な治療方法といえるのでしょうか。)
b.死体からの臓器移植は許されるか?
 (心臓死であれ脳死であれ、
  死体から移植のための臓器を摘出してもいいのでしょうか。
  死体ははたして誰のものなのでしょうか。)
c.脳死者からの臓器移植は許されるか?
 (とりわけⅠ~Ⅱのような問題がある中で、
  脳死者から臓器を摘出することは人殺しにはならないのでしょうか。)
d.生体からの臓器移植は許されるか?
 (日本では長らく脳死臓器移植ができなかったために、
  生体移植が当たり前のように行われてしまっていますが、
  病気でも何でもない健康な人の身体にメスを入れ
  臓器を摘出するのは犯罪ではないのでしょうか。)
e.動物からの臓器移植は可能か、許されるか?
 (人間ではなく、人間に近い動物から臓器を移植できるならば、
  そのほうが倫理的問題は少ないのでしょうか。
  生きた動物から摘出するのは動物保護上やはりマズイでしょうか。)
f.死体臓器移植と人工臓器の開発とどちらを優先すべきか?
 (脳死臓器移植に頼るよりも人工臓器を移植したほうが
  倫理的には問題が少ないのではないでしょうか。
  近年ではクローン技術を用いて自らの細胞から
  新しい臓器を作ることも可能になりつつありますが、
  ヒトクローン技術はあくまでも禁止すべきでしょうか。)
g.脳死臓器移植をいかにして普及させるか?
 (以上の問題点がクリアされ、他の選択肢もないという場合、
  脳死臓器移植がもっと行われるようにするにはどうしたらいいでしょうか。)

Ⅴ.臓器提供をめぐる問題
a.臓器提供に本人の意思表示は必要か否か?
 (臓器提供するかどうかに死んでしまった本人が関与できなくていいのでしょうか。)
b.臓器提供に家族の同意は必要か?
 (本人が臓器提供を望んでいたのに家族が拒んだ場合、
  どちらの意見が優先されるべきなのでしょうか。)
c.家族の同意だけで臓器提供を決めてもよいか?
 (A案では家族の同意だけでOKとなりました。
  ある日突然誰かが脳死になってしまったというときに、
  家族はその場で臓器提供するか否かを落ち着いて決めることができるのでしょうか。)
d.臓器提供に関する家族(本人も含めた)の合意をいかにして形成するか?
 (万が一のときのために、あらかじめⅡ-e.Ⅲ-e.の問題とともに
  家族で話し合っておく必要があるでしょう。)
e.子どもが臓器提供する場合に本人の意思表示は必要か?
 (現行法では本人の意思表示が必要とのことで、
  遺言同様15歳以上にしか臓器提供を認めていませんでした。
  B案は12歳に引き下げようとしていましたが、
  何歳から意思表示は有効なのでしょうか。
  D案は15歳未満に関しては家族の同意だけでOKにしようとしていました。
  けっきょく大人も子どもも本人の意思表示は不要になってしまいましたが…)

Ⅵ.臓器分配をめぐる問題
a.提供者(の家族)への謝礼は認められるか?
 (もらった側としては心情的には謝礼を払いたいところでしょうが、
  それは次の問題ともつながってきかねません。)
b.臓器売買は許されないのか?
 (お金の授受をしたほうがよっぽどすっきりするという意見もあるようですし、
  これによって臓器移植が一気に増える可能性もあります。
  しかし家族の同意だけで可能になった現在、
  臓器売買まで認めると怪しいケースが増えることも考えられます。)
c.悪質な臓器ブローカーをいかにして取り締まるか?
 (国際的には、生きた子どもを拉致して臓器摘出するといった事件も発生しています。
  そうしたことが起こらないようなシステムをどうやって作ればいいのでしょうか。)
d.いかにして臓器を公平に分配するか?
 (現在は臓器移植ネットワークなどの機関が医学的データを基に分配を行っています。
  それでもいくつかの問題が生じているようですが、
  今後、臓器移植が増加していったときに公平性は保たれるのでしょうか。)
e.限定的提供は認められるか?
 (今度の法案では、自分の家族限定で臓器提供をすることが可能になるようです。
  一家族の中に移植の必要な患者と脳死者が同時に存在する確率は
  とても低いと思われますが、
  ボランティア精神に依拠している現在のシステムを
  破壊することにはならないでしょうか。)

ふぅ、疲れた
問題を全部、列挙しようなんて大それたことを考えるんじゃなかった。
これで全部かなあ?
そんなはずはないですね。
たぶんいろいろ見落としていることでしょう。
気がついたら教えてください。
私も何か思いついたら追加していくつもりです。
なお( )内は具体的にどういう問題かを理解してもらうための補足であって、
全部が全部私の意見というわけではありません。
まあ私の個人的意見もあることはありますが…。

Q.哲学をやろうと思ったきっかけは何ですか?(その1)

2009-07-18 22:58:08 | 哲学・倫理学ファック
「哲学・倫理学ファック」のカテゴリを立ち上げた初期の頃に、
「Q.哲学の先生になろうと思ったきっかけは何ですか?」という問いに
お答えしたことがありました。
その問いと同じくらいよく聞かれる質問です。
質問者は同じことを聞きたくて質問してくださっているのでしょうが、
答えはそれぞれでまったく異なりますので、
改めてこちらの問いにもお答えしておきましょう。

A-1.最初のきっかけは「イマジン」です。

男の子というのは概してそうだと思いますが(性差別的発言かな)、
私もけっこう長じるまで自我の目覚めはありませんでした。
毎日友だちと遊んだり、テレビ番組(基本ヒーローもの)を楽しんだりするだけで、
自分でものを考えるということはずっとありませんでした。
中2のときに初めてステレオを買ってもらい、
最初のうちは映画音楽やポール・モーリアなんかを聴いていました。
そこからカーペンターズを経てビートルズに至りました。
ビートルズのおかげでロックンロールに目覚めましたが、
この段階でもまだ自我の目覚めはありませんでした。
当時、英語の曲に惹かれたのは、英語がなんとなくカッコよく聞こえたのと、
中学生の英語力では歌詞の意味がわからず、それがよかったからでした。
あの頃はフォークソングが大流行中でしたが、
「小さな石けんカタカタ鳴った」とか
「目の前にあった幸せにすがりついてしまった」とか、
子どもの私は、そんなことを熱唱されてもなあ、とちょっと引いてしまっていたのです。
ならばいっそ歌詞の意味なんてまったくわからないほうが音楽にのめり込めたわけです。

そんな私が中3のときに運命的な出会いを果たすことになります。
ジョン・レノンの「イマジン」です。
この曲は歌詞の英文が簡単で、中3の英語力でも十分に理解可能でした。
imagine というのは imagination とかの元になっている動詞で
「想像する」という意味です。
この曲では Imagine there's no ~.という歌詞が繰り返されるのですが、
つまり「~なんてないって想像してごらん」という命令文が反復されているわけです。
特に2番がお気に入りでした。

Imagine there's no countries 想像してごらん 国なんて無いんだと
It isn't hard to do そんなに難しくないでしょう?
Nothing to kill or die for 殺す理由も死ぬ理由も無く
And no religion too そして宗教も無い
Imagine all the people さあ想像してごらん みんなが
Living life in peace ただ平和に生きているって...
      (http://day.aimnet.ne.jp/kanrinin/kanrinin5.htm)

この曲をきっかけに自分でものを考えるようになりました。
「イマジン」が私に与えたインパクトは何だったかというと、
「理想の力」に目覚めさせてくれたということだったんではないかと思っています。
それまではただ現実の中で与えられたものの中をウロウロしているだけだったのですが、
人間は、現実には存在していない世界を想像してみることができ、
そうしたものを生み出していく力をもっているということに、
この曲は気づかせてくれたのです。
当時はまだ米ソ冷戦の真っ最中で、
核戦争がいつ始まってもおかしくないというご時世でしたから(実は今もそうなんですけれど)、
そんな時代の中で、国家も戦争もない平和な理想的な世界を想像してみようというのは、
ものすごく意味のあるメッセージでした。

先に「Q.一番好きな哲学者は誰ですか?」という問いに対して、
イマヌエル・カントの名前を挙げ、
「カント哲学のもつ崇高な理想の力に魅せられた」と書きましたが、
その原点がまさに「イマジン」だったわけです。
というわけで最初のきっかけは「イマジン」だったのですが、
一口に「きっかけ」といっても、実は複合的です。
「イマジン」でものを考え始めるようになったとはいえ、
それがストレートに哲学の道を歩むことにつながるわけではありません。
さらにいくつかの出来事が積み重なって、
そういう方向へ私の人生を推し進めることになったわけですが、
長くなりそうですので、それはまたの機会にお話しすることにいたしましょう。

公民的資質の育成とは何か

2009-07-17 18:18:58 | 教育のエチカ
ホームページで宣伝中ですが、
臼井嘉一・柴田義松編著『〈新版〉社会・地歴・公民科教育法』(学文社)の第3章9節で、
「高校倫理の授業づくりと方法」について執筆しました。
その冒頭で、なぜそもそも人はなぜ学ばなければならないのかとか、
なぜ社会科や公民科や倫理という科目を学ばなければならないのか、
ということについて書かせていただきました。
先日、高校の先生たちの研究会で、私の執筆部分に関して報告し、
先生方にいろいろとご議論いただく機会がありました。
その研究会での報告について、仲良しの高校の先生がまとめてくださいましたので、
その報告文を転載させていただきます。
なかなか名文です。
研究会の報告というよりは一編の書評になっています。
私が書いたものがそれにふさわしいものであったかどうかはきわめて疑問ですが…。


レポーター 小野原 雅夫 氏(福島大学人間発達文化学類)
テーマ   「高校倫理の授業づくりと方法」

 まず、個人的な話で恐縮だが、筆者の抱える授業上の課題について書かせていただきたい。筆者は「公民科」の教員であり、まがりなりにも「公民」とは何か、「公民的資質」とは何かを踏まえ授業実践する立場にある。この場合、「公民」とは、もちろん旧来的な滅私奉公的、服従的な政治主体ではなく、自律的、参加的な政治主体をさすものと考えてきた。しかしながら、そこで教えるべき内容とされる価値や理念(国民主権、人権、自由、平等、平和、民主主義…)の教授に熱を入れれば入れるほど、生徒の側は引いていく。そんな状況を幾度も経験してきた。いったい何が欠け、何が過剰だったのか。むろん、筆者の授業技術の未熟さは否定できない。しかしながら、それとは別に、そもそも生徒の現実と「公民科」が求める価値や学習内容とのあいだに何か大きなズレがあるのではないか。いったいそのズレとは何か。そんな問いを常々抱いてきたものである。
 こうした問いをもつ筆者にとって、今回の小野原雅夫氏の報告には目が啓かれる思いだった。氏は、このたび改訂された臼井嘉一・柴田義松編著『〈新版〉社会・地歴・公民科教育法』(学文社)の第3章9節「高校倫理の授業づくりと方法」を執筆担当されたのだが、今回の報告はその内容を踏まえたものである。その冒頭、氏は「公民」という語は「シティズンcitizen」の訳語であり、本来「市民」と訳すべきだったとする。もともとシティズンは社会の中で労働し生計を立てて家庭生活を営む私的側面と、市民社会や国家を形成していく政治主体という公的側面の両方を併せ持つ概念なのだが、氏によれば「公民」と訳されたことでシティズンの土台となるべき私的側面が軽視され、公的側面ばかりが強調される結果を招いたというのである。
 ここで注目すべきは、滅私奉公的な意味での「公民」のみならず、国政に参与する主権者教育を重視してきた戦後の「公民」概念もまた、同じ土俵で争っているものと見る点である。「公民」の私的側面について氏は、ヘーゲルの愛情を基本に据える「家族」という基礎的な生活領域から、欲望に基づく他者との競争の場に発展する「市民社会」の領域までを想定できるとする。氏にいわせれば、この他者との闘争を余儀なく強いられる領域で自立的に「生きる力」を問わず、一足飛びに「国家」の領域へ教育の目的を持っていこうとする点で、滅私奉公的な「公民」も主権者育成を目指す「公民」も大差ないというわけだ。
 なるほど、「政治離れ」という現象は、高校生のみならず国民的な課題であろう。だが、それは結局のところ自らが政治に接続しないというニヒリズムの現われであろう。むしろ、その土台を形成するためには、他者との関係において現実的に生じる格闘や困難を直視し、自立した個人としていかに打開していけるかという側面から公的側面へつなげていく学習を保障していかなくてはならない。氏が「シティズンの根幹を支える私的側面も含めた『市民』的資質を育成することこそ教育の第1目的であるのではないか」というのは、以上の意味においてのことであると理解する。
 では、他者(氏によれば絶対的に理解不能な存在)との関係において自立的に「生きる力」とは何か。これについては、「倫理」科目に要請される道徳教育のあり方への批判的検討において論じられた。この点は新学習指導要領で引き続き強調されることになった部分でもあるが、氏によれば、この要請が徳目の暗誦といった陳腐な道徳教育へ陥らぬようにするためには「知性を鍛えること」が必要である。すなわち、「人から与えられた情報を鵜呑みにするのではなく、自ら考え、判断し、取捨選択できる」力を育てることである。ややもすれば、情緒的な問題に還元されがちな「他者」との共生という問題について、むしろ、自らとは考え方も感じ方も異質な「他者」を受け容れるという作業は、きわめて知的な作業であるというのだ。その上で、「知性を鍛える」ためには、倫理的な問題に関して「考えさせること」、そう考えた理由を含めて「書かせること」、さらにそれをもとに「話し合わせること」というシンプルな方法論が提示された。
 興味深かったのは、実際に氏が看護学校にて実践した「デス・エデュケーション」の授業でのエピソードである。それは、それぞれ「死後はどうなるのか」という問いについて考えさせた後、話し合わせたところ、驚くほど互いの死生観について語り合ったことがないという事実が明らかになったというものだ。人の生死に関わる職業を志す看護学生であるにもかかわらず、である。むしろ、互いの考え方の違いに触れることに新鮮さを抱いていたということであったが、こうした実態は看護学生のみならず、高校生が直面している実態でもあるだろう。ケータイによるコミュニケーションが活発であっても、意外と何かについて考え、話し合うような経験はない。ここに公民科の理念と生徒の実態の乖離が如実に示されているように思われる。
 したがってここで問われるべきは、高度な学習内容や授業方法を追求する以前に、シンプルに自らの意見や思いを他者とともに共有する経験が欠如しているという彼らの実態を、いかに考えるかという問題である。もちろん、これは公民科だけに帰せられる問題ではないだろう。本来、学校の諸活動においてそれは総体的に実現が図られるべきものだからだ。にもかかわらず、公民科には生徒自らが考えたことを、互いに表現し合える機会の創出が求められる実態があることは、あらためて問われるべき課題ではないだろうか。なぜなら、これこそが本来的な「政治」への接続を意味するからだ。
 質疑応答では「公民」概念の歴史的系譜や、「公民」概念の由来など多岐にわたって議論がなされた。さらに、近代的な自律的市民像がいまだ日本社会において定着していないのではないかなど、どのような「公民」=「市民」像を求めるのかといった問題にまで熱く議論が展開されたが、時間内に決着をつけることはできなかった。むしろ、このテーマを1回の勉強会で決着させるべきではないのだろう。その意味で、今回の小野原氏の問題提起はわれわれに大きなインパクトを与えるとともに、次回も同様のテーマで国語科教員の方から問題提起していただくこととなった。引き続き内容の濃い議論を期待したい。


W先生ありがとうございました。
大事な問題なのでこれからも議論し続けていきましょう!