まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

てつがくカフェ@ふくしま特別編3「フクシマはどこへ?」

2013-02-28 11:27:57 | 哲学・倫理学ファック


てつがくカフェ@ふくしま特別編3が来週日曜日に開催されます。

昨年末に行われた 「3.11」 後初の選挙では、原発問題は脇に追いやられて、

原発を推進してきた政党が大勝するという結果に終わりました。

まだほんの2年しか経っていないのに福島第一原発事故は風化してしまったのでしょうか?

フクシマは犬死になのか?

私たちが直面しているこの深刻な危機は、日本の未来の選択に何の影響も及ぼさないのか?

これはたんに福島の問題ではなく、日本の問題であり、人類全体の問題であるはずです。

フクシマを犬死にさせないためにも、

2年めの節目のこの時に今一度この問題に立ち返ってみたいと思います。

てつがくカフェは、哲学の専門知識などまったく持ち合わせていない人々が集まって、

それぞれの生活実感を持ち寄りながら、互いに対等な立場で気楽に、

でも真面目に真剣に考え話し合っていく場です。

一人ではまったく歯が立たない、目を背けたくなるような問題でも、

私たちみんなの叡智を合わせれば必ずや突破口が見出せるはずです。

福島に住む皆さん、日本中に住む皆さん、お気軽にご参加ください。

今回はドリンクも無料 (飲み放題) ですので、喫茶店代わりにお越しください。

辛ラーメンの秘密

2013-02-27 20:07:30 | 飲んで幸せ・食べて幸せ


「辛ラーメン」 って好きです。
あの赤いスープと唐辛子、辛いもの好きとしてはたまりません。
さらにいいのは、かやくがスープと別袋になっているところです。


(上がスープ、下がかやく)

カップラーメンだとそういうふうに分かれているものも少なくありませんが、
袋麺の場合たいていはスープの袋のなかにかやくも一緒に入っていたりします。
袋麺だとかやくといってもネギくらいですからね。
しかし、辛ラーメンのかやくはネギ、ニンジン、シイタケ、唐辛子と4種類も入っているので、
たぶんそのために別袋になっているのでしょう。
で、前にも話したかと思うのですが、私ラーメンに入ってるネギが苦手なのです。
キュウリとちがって、まったく食べられないというわけではありませんが、
できることなら食べたくありません。
そこでどうするかというと、辛ラーメンを作るときは、
かやくの袋を開けて中身をいったんお皿の上に出すのです。
そして、もうひとつの皿を用意して、こんなふうに分別作業をしていくのです。



ニンジン、シイタケ、唐辛子は大事ですから、これらを選り分けてネギだけを撤去するわけです。
こんなことやってるのは日韓広しといえども、私とオードリーの春日くらいのものでしょう。
あまり人に見られたくない作業ですが、
1人のときは毎回私は全神経を集中してこの作業をしているわけです。
最初の頃は手間取りましたが、最近は慣れたもので、
550ccのお湯を沸かしているあいだに分別作業を終了させることができます。
ほら、この通り。



さて、毎回こんなことをやっているうちに私はあることを発見してしまいました。
辛ラーメンに添付されているネギ、ニンジン、シイタケ、唐辛子という4種類のかやくですが、
なんと、一袋一袋それぞれの入っている分量がまったくバラバラなのです。
ある日は唐辛子が多かったり、
ある日はネギばっかりでニンジンもシイタケもほとんど見当たらなかったり。
それはもう毎回毎回てんでバラバラなのです。
どうです。
皆さんはこの秘密ご存知なかったでしょう。
あまり毎回記念撮影をしているわけではないのですが、
この2つを見比べてみてもだいぶ違うことがわかってもらえるのではないでしょうか?




この画像ではわかりにくいかもしれませんが、
下のほうは唐辛子が少なくてニンジンが多めになっています。
ネギの量も下のほうが少ないのではないでしょうか。
こういうところが大雑把なんだな。
たぶん日本のメーカーならそれぞれの分量をきっちり量って、
すべてがちゃんと同量になるように袋詰めするのではないでしょうか?
韓国の企業はそういう気の使い方はしないんですね。
たまに唐辛子の少ないのに当たってしまうとちょっとイラッとしてしまいますが、
まあでもこういう大体な感じは大らかでいいと思います。
かくして私は辛ラーメンを作りながら毎回、今日は当たりだ、外れだと楽しんでいるのでした。
ウソだと思うなら、皆さんもぜひ次回は分別してみてください。

「倫理学」の授業で何を学んだか

2013-02-26 10:19:08 | 教育のエチカ
看護学校のレポート課題は 「倫理学の授業で何を学んだか」 です。
第1回めの授業のときに 「レポート作成要領」 を配付し、
書く内容や分量まで細かく指示します。
具体的には次のように指定されています。

「倫理学」 の授業で学んできたことの中で、
自分の考えが最も深まったと思えるテーマを1つ以上挙げ、
①それについて当初どんな 「思い」 や 「感じ」 を懐いていたのか、
②授業の中でどんなことを学んだのか、
③それによってどのような 「考え」 へと深まったのか、詳しく述べてください。
さらに、④今後の自分の人生にどう関わるかといった観点から書き足してもかまいません。

分量的には40字×40行で2枚+α。
1つのテーマに関して①~④まで書いていって、2枚を超えればそれでOKですが、
まあなかなかそんなに書けるものではないので、
足りない場合にはさらに次のテーマでまた①~④を書いてもらいます。
たくさん考えている人はだいたい2つくらいのテーマで書けば、
基準量をクリアできますが、4つとか5つとか書きまくる人もいます。
ギリギリ2枚を超えたというくらいでは辛うじて合格点をもらえるだけですので、
さらにたくさん書けば書くほど点数は上がっていきますよと言ってありますので、
4枚、5枚と書いてきてくれる人もいます。

看護学校の必修の般教ですので、この単位が取れないとみんな卒業できないわけです。
しかし、看護学校のカリキュラムというのはひじょうに過密ですから、
みんなとても忙しく、般教なんかに時間を割いている余裕はありません。
倫理学で特になにか暗記しておいてもらうような知識があるわけでもなく、
かといってどこかのホームページからコピペした文章を読まされるのもイヤですし、
あまり学生に負担にならない程度に、しかし授業全体を振り返れるような課題ということで、
いろいろ悩んだ末にこのような形式に落ち着きました。
こうした課題だとわりと取り組みやすいのか、みんな一生懸命書いてくれています。

たいていは作成要領の指示通り、考えが深まったテーマについて書いて終わりですが、
例年、何人かは最後に 「倫理学」 の授業全体を振り返っての感想めいたことを書いて、
締めくくりにしてくれる人もいます。
2人分だけご紹介しておきましょう。

「倫理学の授業では、今までこんなに考えたことがないんじゃないかと思うくらい沢山考えさせられた。考えても答えが出ないものも沢山あった。でも、沢山考えたことや、他の人や世間一般の考えを知ることができたということは、すごく意味があるものになったと思う。そして今まで考えてきたことは、これからの私の看護観にも大きく影響してくると思う。患者の可能性を信じて患者と向き合い、小さな変化や本当の思いに気づくことのできる看護師になろうと、授業を通して思うようになった。」

「倫理学の授業を通して自分がどういう看護師になりたいのか明確になった。患者さんや家族のことを一番に考え思いやりの心を持ち、親身になって接していける看護師になりたいと思った。また、患者さんに一番近いのは看護師であるため患者さんの少しの変化も見逃すことなく少しでも可能性を信じてケアしていけるようにしたい。そして患者さんや家族の方から信頼してもらえる看護師になりたい。そのために、倫理学で学んだこと全てを忘れることなくこれからの生活に活かしていきたい。まずは毎日できる積極的傾聴から始めたい。友達の話を親身になって聴くことができなければ患者さんの思いを聴くことはできないと思う。そのために毎日意識していきたい。倫理学の授業は難しい質問が多かったと思っていたが、どれも看護に関係する深いものであるとともに重要なものばかりであると思った。倫理学で学んだことをしっかり活かし、将来自分の理想の看護師になれるようこれからの勉強を一生懸命頑張りたいと思った。」

最初の方は、考えてきたことが自分の看護観の形成に寄与したと言ってくれています。
2人めの方は、自分の理想の看護師像がはっきりしてきたこと、
そして、授業のなかでちらっとやってみた積極的傾聴を日常のなかで実践していきたい、
とまで言ってくれています。
まあ、みんな単位欲しさにおべんちゃらを言っているだけかもしれませんが、
もしもこれが本当であれば、私の意図はみごとに達成されたということになるでしょう。
私の意図とは、以下の通りです。
・答えのない問いを考え続けられる人になってもらいたい。
・人間観、死生観、医療観、患者観、看護観等を育んでもらいたい。
・自分の理想像を明確化してもらいたい。
この2人以外のみんなにも私の意図は届いていたのかどうか、
届いていたことを祈りながらレポートの採点を終えました。

ドラえもんが生物でない理由

2013-02-21 12:22:34 | 生老病死の倫理学
麻布中学校の入試で 「ドラえもんが生物でない理由を答えよ」 という問題が出て、
ネット等で話題になっているそうです。

ドラえもんが生物でない理由は? (webR25 2013.02.18)

問題では前提として、すべての生物に共通する特に重要な特徴として以下の3つがあげられ、

特徴A:自分と外界とを区別する境目をもつ。
特徴B:自身が成長したり、子をつくったりする。
特徴C:エネルギーをたくわえたり、使ったりするしくみをもっている。

これを踏まえて答えさせるということになっているそうです。
なるほど、面白い問題ですね。
ただの暗記した知識だけでなく、それを応用してどう論理的に考え答えるかという、
今どき流行りの論理的思考力、表現力を問う問題になっています。
麻布中学校側は正解を発表していないそうですが、
まあおそらく、ドラえもんはAとCは満たしているのだから、
Bを満たしていないので生物ではない、というふうに答えさせるつもりだったのかもしれません。
ただし、ネット上ではいろいろな珍解答や反論が飛び交っていて、
Bに関しても、「ビッグライトを使えば大きくなれる」 とか、
「フエルミラーで自己増殖できる」 という反論があるそうです。
たしかにね。
マンガ 『ドラえもん』 の場合、未来の道具があるから条件を逸脱できちゃうかも。

私は以前に 「殺し」 という観点からドラえもん問題を考察したことがあります。
生命を奪うことが殺しであるとするならば、
ドラえもんに対して 「殺し」 という概念を使えるのか?

 ジャイアンが暴れてドラえもんを徹底的に破壊し尽くしたとして、
 それはたんなる 「器物損壊」 なのでしょうか?
 日本の現行法ではその通りですが、のび太君はきっとこう叫ぶでしょう。
 「この人殺しぃ

ここにはたんに生物か否かという問題ばかりでなく、
「人」 とは何かという問題も入り込んできます。
生命はないけれど、意識や心をもっている存在者は果たしてただの物なのか?
人格があると言えるのではないか?
ネット上での議論でも心や精神に言及している答えもけっこうあったようです。
その話を持ち出しちゃうと麻布中学校の問題には答えられなくなってしまうんですけどね。

あの入試に正解するためにはDNAの二重らせん構造を持ち出す必要があると思うのですが、
小学校の理科でそこまで触れられているのでしょうか?
生命とは何か、生物とは何かというのも、
小学生に教えようと思うとけっこう難しい問題な気がします。
いのちの教育について卒論や修論を書いた我がゼミの卒業生たちは、
そういう問題をどこまで突っ込んで考えてくれていたでしょうか?
一度みんなで議論してみたいと思います。

教育の完敗

2013-02-20 01:48:03 | 教育のエチカ
昨年届けられていた看護学校 「倫理学」 のレポート、今ごろ採点しているんですが、
教育の敗北を感じてしまいました。
いや、敗北なんて生易しいもんじゃない、完敗です
今ごろ採点してるってことが、ではありません。
(それも十分、教育者として失格とは思いますが…)
よく都市伝説のように伝えられる話として、
大学の期末テストで、何人かの写真が印刷されていて、
「本講義の教員はどれか、正しいものを選べ」 なんていう問題が出題されたとか、
「本講義の教員名をフルネームで書け」 という問題が出たなんて話を聞くじゃないですか。
ウソかホントかわかりませんが、これがけっこう正解率が低いとかね。
たしかにレポートでも毎年、「小野寺先生」 とか 「小野田先生」 とか書く子が1人くらいいて、
ほんのちょびっとカチンと来ることもあるわけですが、
それはまあ私の名前が珍しいのでしかたないでしょう。

問題は授業科目名ですよ、授業科目名。
「倫理学」 を 「論理学」 と間違える人も例年1人くらいはいるのです。
まあよく似てますからね。
看護学校には 「論理学」 の授業もあるんです。
内田詔夫先生が例の教科書を使って教えていらっしゃったりします。
ちょうど同時期に開講していますので、混同しちゃうということはあるでしょう。
でも今年は 「倫理学」 を 「論理学」 と間違えた人が3人もいたんです。
30人中3人ですよ。
10%です、1割です。
いくらなんでも多すぎるでしょう。
しかも、私のレポートの課題は 「『倫理学』 の授業で何を学んだか」 ですので、
レポート中、「倫理学」 という単語を使う頻度がけっこう高いのですが、
全部ことごとく 「論理学」 になってしまっているのです。
紛らわしいとはいえ、授業科目名を正しくレポートに書いてもらえないというのは、
「教育の敗北」 以外のなにものでもないでしょう。

だけど、これだけなら別にブログに書くほどのことではなかったんです。
facebook でちょっとつぶやくぐらいでよかったのです。
衝撃を受けたのはそのうちの1人が書いてくれた次のような文でした。

「今回、論理学の授業を通して、最初は、もう1つ行っている論理学とは何が違うのか、
 論理学とは私たちと何の関係があるのか、全然分かっていなかったのですが、
 小野原先生の講義を受け、『看護師として』 患者だけではなく家族に対して、
 どのような援助を行う必要があるか、臓器を提供する側の家族の気持ちも考えたり、
 看護の現場へ行ったりしないと、なかなか学べないことを学んだりと、
 とても勉強になることばかりであった。」

私の授業のことを褒めてくださっているのはたいへん有り難いんですが、
「もう1つ行っている論理学」 って何ですか
完全にあっちもこっちも 「論理学」 だと思ってますよね。
「倫理学」 を 「論理学」 と書き間違えたのではなく、
「論理学」 の授業が2人の先生によって2種類行われていたという理解ですよね。
ああっ、ショックだっ
完敗だ、完敗
私は14コマもかけて何を教えていたんだ?
倫理学の授業をしているということすらわかってもらえていなかったじゃないか
来年から心を入れ替えて出直したいと思います。

カントの「躾」論

2013-02-19 10:38:23 | 教育のエチカ
2月16日に第15回 「てつがくカフェ@ふくしま」 が開催され、
「躾と体罰はどう違うのか?」 をテーマに熱く話し合われました。
ぢゅんちゃんによる議論のまとめはこちらからご覧ください。
今回は珍しくぢゅんちゃんの個人的考えも書き加えられていました。
私もてつカフェの開催前にいくつかこのテーマに関して書きましたが、
ここここここ
誰もがつい語りたくなってしまうテーマなのかもしれません。
ぢゅんちゃんは最後にこう書いてくれていました。

「非暴力の教育は可能かという小野原さんの問題提起は、ものすごく惹きつけられますし、
 そこに至るに非暴力文化への根本的転換の可能性の探求と努力を
 あきらめたくはないなと思っているところです。」

私は、てつカフェでの議論を聞きながら、
昔自分が書いた、カントの教育論に関する論文のことを思い出していました。
小野原雅夫 「自由への教育 ―カント教育論のアポリア―」
(牧野英二編 『別冊情況 特集カント没後200年』 情況出版、2004年12月)
カントと言えばもう200年以上も前の人ですが、
彼もまた自らの教育論のなかで躾や罰について論じていました。
我田引水になってしまいますが、私の論文からいくつかテキトーに引用してみます。


 カントによれば、「自由」 とは、自分の思い通りに好き勝手に振る舞うことではなく、
 みずから立法した道徳法則にみずから服従すること、すなわち 「自律」 にほかならない。
 自律の主体 [=道徳的主体] としての人格性を陶冶形成すること、
 それが教育の目的であり使命である。
 このようなカントの理念を 「自由への教育」 と呼ぶことにしよう。

 自由への教育という概念には矛盾が含まれている。
 「私はどのようにして、強制のもとで自由を教え育てるのか?」(238頁)
 カントの教育論を実践していこうとする場合、
 「子ども自身の自由を使用できるよう指導するために、
 子どもに対して強制を加える」 ということをしなければならない。
 自由への教育とは、自由へと強制することなのである。
 こんなことは本当に可能なのだろうか。
 強制が過ぎれば意志の他律に陥るだけで、自由は育たない。
 自由を尊重するあまりに放任していたのでは、意志の自律へと導くことはできない。

 カントの自由論においては、自律としての自由が最高の座を占め、頂点に君臨しているわけだが、
 それに劣らず重要な自由として要所要所でしばしば言及されるのが 「思考の自由」 である。
 「みずから考えること」、これこそは理性の他律 (=偏見) に対峙する啓蒙の格率であって、
 カントの理論哲学と実践哲学の底流を貫く重奏低音なのである。

 思考の自由は、理論理性の領域ばかりでなく、
 訓練 [=躾] から道徳化 [=自律の育成] へと転ずる
 実践的な場面 [=道徳教育] においても、重要な役割を果たしている。
 自由への教育が内包するアポリア [=解きがたい難問]、すなわち、
 自由へと強制するということの矛盾を克服しようとするときに、
 カントが何度も繰り返すのが、このみずから考える自由なのである。
 「躾けることだけではまだ十分ではないのであって、
 とりわけ重要なのは子どもがみずから思考することを学ぶことである。
 みずから思考することは、あらゆる行為が由来する原理を志向している。」(232頁)
 盲目的に規則に服従させるだけでは、意志の自律へと導くことはできない。
 そこに自分で考えるという要素を付け加えてあげることによって、
 カントは道徳化への道を切り開こうとしている。

 では、どうやって子どもにみずから思考することを学ばせたらいいのだろうか。
 実はカントはその方策まで考えている。
 「教育の場合にその全基礎となるのは、あらゆる事柄に関して正しい原則を確立して、
 子どもがそれを理解して承認するように導くことである。」(304頁)
 なぜ強制するのかをきちんと説明してあげ、子どもに納得させること、これをカントは要求している。
 例えば、罰を与える場合にも、
 「そもそも処罰は子どもに対してはつねに慎重に注意深く加えられ、
 その処罰の究極目的は子どもをより善くすることだけにあるということが
 子ども自身にわかるようにしなければならない。」(287頁)
 ひいては教育活動そのもののアカウンタビリティ [=説明責任] にまでカントは言及している。
 「子どもに強制を加えても、
 それは子ども自身の自由を使用できるように指導するためであるということ、
 また子どもを教化するのは、子どもがやがては自由になることができるためであり、
 言い換えれば、他者の配慮に依存しなくてもよいようになるためであるということを、
 子ども自身に対して明確に示す必要がある。」(238頁)


引用文中、「 」 で囲われ頁数が記されているのはカントからの引用で、
岩波版カント全集の第17巻 『教育学』 の頁数になっています。
カントって江戸時代の人だけど、よっぽど今の日本人よりも、
躾や体罰についてきちんと考えていたように思います。
カントの 『教育学』、もう一度読んでみよっと。

名前をつけて覚える

2013-02-18 15:36:22 | 人間文化論
以下、人名っぽいですが、何の名前でしょう。
全体に女の子の名前が多い感じではありますが、中にはヘンなのも混ざってます。

・睦美 (ムツミ)
・直美 (ナオミ)
・奈美子 (ナミコ)
・八十吉 (ヤソキチ)
・弥生 (ヤヨイ)
・草 (クサナギ)
・トッツィー (トッツィー)
・東郷はん (トウゴウハン)
・侍三四郎 (サムライサンシロウ)
・井筒氏 (イヅツシ)

【ヒントその1】
福島駅周辺にお住まいの方以外には絶対にわかりません。

【ヒントその2】
この人たちはもう大昔の人たちですので、
今はもう名前が変わってしまった人もけっこういます。

【ヒントその3】
名前が変わった人たちのなかには、
とうとうちゃんとした名前をつけてもらえなかった人もいます。

さあ、ヒントを頼りに考えてみましょう!
レッツ・シンキング・ターイム









ターイム・アーップ
ええ、おわかりだったでしょうか?
たぶん何のことやらさっぱりわからなかったことでしょう。
これは電車のダイヤなんですね。
福島を走る在来線の東北本線は東北新幹線よりも本数が少なくて、
基本1時間に1本、ラッシュ時にたまに2本になる程度なのです。
したがって、電車通学の人間は電車のダイヤに合わせて人生設計を立てなくてはなりません。
ですから私などは常に時刻表を携帯しているし、
自宅にも研究室にも時刻表が貼ってあったりするわけですが、
よりスムーズな人生を送るためにはダイヤを暗記してしまわなければならないのです。
私は94年に福島大学に赴任した当時、まだクルマを所有しておらず、
電車通学をしておりましたので、何回か電車に乗り遅れて、
福島駅から大学まで片道10kmの道のりをタクシーに乗って大散財をするという失敗をしたあとに、
必要に駆られて列車のダイヤを覚えることになったのです。
その頃に作ったゴロ合わせが先ほどの人名です。
もう18年も前のことですのでちょっとあやふやなところもあるのですが、
たしかあんな感じで覚えたんだったと思います。
ひとつひとつ答え合わせをしておきましょう。

・睦美 (ムツミ)  → 6:23
・直美 (ナオミ)  → 7:03
・奈美子 (ナミコ) → 7:35
・八十吉 (ヤソキチ) → 8:10
・弥生 (ヤヨイ)  → 8:41
・草 (クサナギ) → 9:37
・トッツィー (トッツィー) → 10:21
・東郷はん (トウゴウハン) → 10:58
・侍三四郎 (サムライサンシロウ) → 11:34
・井筒氏 (イヅツシ) → 12:24

上り金谷川駅方面行き福島駅発の発車時刻です。
その後、年に1回ダイヤ改正が行われているわけですが、
ずーっと変わらず未だに使い続けていられるものと、
(奈美子、八十吉、草、東郷はん、侍三四郎など)
ほんのちょっと時刻が変わって新しい名前に変わったものと、
(直美 → 奈保子、トッツィー → トッチーなど)
新しい名前が思い浮かばず放置されてるもの、
(弥生 → 8:43、井筒氏 → 12:21)、
全然時間が変わってしまって放置されてるもの (睦美 → 6:53) 等があります。

私は94年の後半から自動車通学に変わってしまいましたので、
最初に覚えたっきり、その後の改正ダイヤは長いあいだ関知していなかったのですが、
6年ほど前から電車通学に復活し、意外と昔の記憶が使えるもの、
ちょっと変わってしまって、それがなかなか覚えられずにいるもの等があり、
なんだか不思議な感覚を味わいました。
18年も前に作ったゴロ合わせを未だに覚えている私は、
けっこう記憶力がいいと言えるのか、
それとも、ほんの10本程度のダイヤを、
いちいちゴロ合わせを作らなければ覚えられないというのは、
相当記憶力に問題があると言うべきなのか、どちらなんでしょう?
福島在住の皆さんは電車のダイヤって覚えてますか?
覚えてるとしたらどうやって覚えてますか?
なにか覚えやすい方法をご存知の方はぜひ教えてください。
特に、夕刻以降の帰りの電車の時間が覚えられずに困っています。
皆さまからのコメントをお待ちいたします。

油断大敵 Part2

2013-02-16 10:49:18 | ドライブ人生論
先日、運転しているときの油断大敵な話をしましたが、今日はそのPart2です。

雨が降ると道路に水たまりができますね。

クルマを運転していて道に水たまりがあってもフツーは気にしませんよね。

その上をザーッと通り過ぎて、水しぶきがシャーッと上がるのを楽しんだりします。

もちろん、歩道のすぐ脇を走っていて、しかも歩道に歩行者が歩いているなんていう場合は、

歩行者に水をかけてはいけませんので、水たまりを避けたり、

避けられない場合は徐行して水しぶきが上がらないように気をつけたりしますが、

そういうことでもないかぎりは思いっきりシャーッです。

ところがこれを楽しんでいると思わぬ落とし穴にはまりこんでしまうことがあります。

そう、まさに文字通り 「落とし穴」 です。

前回指摘したように舗装道路に穴が開いていて、

そこに水が溜まっているということがありうるのです

ただの舗装の歪みによるちょっとした水たまりなのか、

それとも、その下に穴ぼこが隠された危険な水たまりなのか、

それは目で見ただけではまったく区別できません。

で、いつものようにザーッのシャーッをやろうとしてしまうと、

ザーッではなくガコンッという目に合ってしまうのです。

以前に雨の降る夜にこれをやってしまったことがあります。

幸いパンクとかせずにすみましたが、相当な衝撃があったので、

一度クルマを停めて、被害がなかったかを確認しなければならないほどでした。

昨日のような雨の日には、福島大学の入口近辺にそういう危険な水たまりができてしまいます。

私などはふだんからそこに穴が開いているのを知っているので、

落とし穴にはまることはありませんが、外からやってくるお客さまや業者のクルマなどは、

けっこうひどい目にあっていたりするのではないでしょうか?

前回は、クルマの運転ばかりでなく人生においても、

当たり前を当たり前と思わず、常に足許に気をつけて生きなくてはいけないと書きましたが、

特に雨が降っていたり夜で視界が悪かったりするような人生の逆境のときには、

よりいっそう注意して、隠れた落とし穴にはまることのないようにしたいと思います。

塾と学校

2013-02-15 12:03:22 | 教育のエチカ
先日書いた 「体罰をめぐるいくつかの論点」 という記事に対し、
塾講師Aさんという方からコメントをいただきました。
まずはその記事とコメントをこちらからご覧ください。
2回目にいただいたコメントに対し、返事を書いていたらまた長くなってしまいました。
コメント入力欄では長文をうまく推敲することができないので、
記事のほうでお答えさせていただくことにします。

塾講師Aさん、コメ返し返しありがとうございました。
前回まったく触れませんでしたが、塾と対比しながら学校について論ずるという議論は、
問題の所在を誤ってしまう可能性があるように思いました。
塾講師Aさんが議論の余地がないとおっしゃる、
学校には授業の分かりやすい先生が少ないから、塾業界が巨大産業として成立している、
という点は大いに議論の余地がある問題だろうと私は思っています。
たとえ、学校には授業の分かりやすい先生がそんなにいないというのが事実だったとしても、
そんなに単純な因果関係ではないと思うのです。

私は塾と学校はまったく性格の異なる教育機関だと思います。
塾というのは教育が果たすべき役割 (別のところで分野と呼びました) のうちのほんの一部、
つまり知育のみに特化した、しかも知育のうちでも受験勉強に特化した組織です。
補習塾というのもありますが、それもけっきょくは受験可能なレベルまで補正する、
という役割を担っているにすぎないので、けっきょくやってることは受験勉強といっていいでしょう。
そこに入学してくるのは、進学したい子どもか進学させたい親の子どもかのいずれかのみです。
そういう子どもたちだけを相手に、受験のための勉強だけを教えるのが塾講師です。
親は進学させたがっているけれど本人はまったくやる気ないという子どももけっこう入ってきます。
そういう子たちにどれだけ授業を分からせ、本人のやる気を出させられるかというのは、
塾講師の腕の見せ所ですが、最悪、本人がまったくやる気を見せず成績が伸びなければ、
親はその塾をやめさせるでしょう、つまり、そういう生徒は自然といなくなってくれるのです。
ましてや素行の悪い子どもがいて塾内でなにか問題を起こしたりしたならば、
塾は最終的にはその子どもをやめさせることができます。
それは塾が受験勉強をさせるための場として限定されているからです。

学校はそういう限定的な場ではありません。
学校での知育はたんに受験のための勉強ではありません。
それぞれの学校を卒業するまでにひとりの人間として身につけるべき知的能力を、
受験するか否かに関わらず全員につけさせることが、学校における知育です。
そして学校では、知育のみならず体育や情操教育も行わなければなりませんし、
何よりも重要なのは徳育、その中でも特に生活指導に当たる部分を行わなければなりません。
クラス運営というの名の徳育が学校の先生の仕事の大きな比率を占めています。
能力別クラスでの授業や個別指導をしていればいい塾の先生は、
そんなことにまったく気を使わなくていいのではないでしょうか (私はそうでした)。

また、中学校以上の場合、教科としては知育と体育と情操教育は分業することができますが、
しかし、先生方はみな部活動の指導もしなければなりませんので、
部活の指導においては体育や情操教育 (知育的な部活もあり) と、
徳育 (生活指導?) 的なものをミックスした指導を行わなければなりません。
中学校や高校ではこれに割かなければならない時間は莫大で、
多くの先生方が、最低賃金をはるかに下回るひどい給与体系の下、
ほとんどの土日を部活の遠征やら大会の運営やらに費やしていらっしゃいます。
本来ならゆっくり身体を休めるか、可能であれば翌週の授業の準備のために割くべき時間を、
部活指導という名の奴隷労働のために浪費しなければならないのです。
自分がかつて情熱をかけてやっていた部活を学校でも指導できている人は、
喜々として部活指導をやっていらっしゃったりもしますが、
まったく経験のない部活を当てられている先生は少なくありませんし、
いずれの場合であれ、客観的には奴隷労働であることに変わりはないと思います。

つまり学校の先生というのは授業のことだけ考えていればいい職業ではないのです。
そこが塾の先生とまったく違うところです。
したがって授業の分かりやすさだけを尺度にして、
塾の先生と学校の先生を単純に比較することはできないだろうと思います。
私としては、学校の先生たちがもっと授業に専念できるような体制を整えるべきだと思います。
特に部活指導なんかはとっとと地域の専門家に託してしまえばいいと思っています。
しかし、そのためにはお金がかかりますし、
現在、どの政党も教育にもっとお金をかけるべきだ、
教員の負担を減らすべきだとは言いません。
むしろ教員は人数が減らされ、その分、負担は増やされ、
教員になるのは簡単ではないにもかかわらず給料は減らされるという状況にあります。
そういう職業に有能な人間が集まるわけはないだろうと私などは予想するのですが、
私の知る限りでは、そういう職場であるにも関わらず、
けっこういい先生もたくさんいて、それぞれ現場で踏ん張っていらっしゃるように感じます。
まあ、たまたま私の知ってる先生方がそうなだけかもしれませんが…。

さらに小学校、中学校は義務教育ですから、生徒を停学・退学させることができません。
そんな権限を小 ・中学校の先生に与えてしまったら、
それこそ基本的人権の侵害になってしまいます。
(ちなみに、塾に行かずに一流大学に行けるようならいいなあとは思いますが、
 そうしたことは基本的人権の中には含まれていません。)
したがって小 ・中学校では生徒をひとりも放り出すことができません。
どんなに意欲のない子であろうと、どんな家庭の子であろうと、
どんなに粗暴な子どもであろうと全員を卒業まで面倒みなければならないのです。
そもそも設立の趣旨がちがいますので、
塾と同様の権限を小 ・中学校にも与えるということはできないでしょう。
(だから体罰は完全にはなくせないのではないか、という論点は今回は割愛)

私は、塾において授業が分かりやすい有能な先生だったとしても、
その人が学校に勤めても同じように有能な教師として働き続けられるかわからないと思っています。
お客さんがまったくちがいますし、目的もちがいますし (進学だけではない)、
授業だけに専念することはできませんし、授業以外のことでも評価されることになるからです。
そういう意味では学校って本当にたいへんだなあと思います。
日本の社会は学校の先生にあれもこれもいろいろなことを要求しすぎのように思います。
そして、ほんのわずかでもミスをすると徹底的に叩かれますし。
学校教員を養成する大学の教員がこんなことを言うのもなんですが、
自分は学校では教師としてやっていけないんじゃないかなあと思います。
とりあえず本稿では体罰問題から離れて、塾と学校のちがいについてだけ論じました。
コメントでいただいたすべての論点に触れていませんが、それはまた別稿にて。

第15回てつカフェ 「躾と体罰はどう違うのか?」

2013-02-13 19:32:52 | 教育のエチカ
今週土曜日は第15回 「てつがくカフェ@ふくしま」 です。
テーマは体罰。
珍しく、時事ネタに則ったホットな話題です。
問いとしては 「躾と体罰はどう違うのか?」 を掲げましたが、
私としては、この問い自体にこだわっているわけではありません。
体罰とは何か? (どこからどこまでが体罰か?)
体罰は必要か?
体罰は許されるのか?
教育と暴力は不可分か?
いくらでも広がっていく問題だと思います。

テーマで取り上げた躾と体罰に関して言うと、そもそも両者はレベルの違う概念のように思います。
「躾とは何か」 というのも自明ではないので、これも議論の余地がありますが、
躾というのは教育の分野を指す概念であり、
体罰というのは教育の方法・手段を指す概念ではないでしょうか。
教育の分野というのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、
教育は大きく分けて、徳育・知育・体育・情操教育に分けられるのではないかと思っています。
このうちの徳育というのは道徳教育のことですが、
私の考えでは道徳教育というのはけっこう広い概念で、
知育・体育・情操教育以外のものはすべてここに入るのではないかと思っています。
小学校や中学校における 「道徳の時間」 でやっているようなことだけではないということですね。
したがって生活指導なんかも道徳教育、つまり徳育のなかに入るだろうと思うのです。
躾と生活指導は同じなのかどうかとかも考え出すともうわけわからなくなりますが、
躾や生活指導はほぼ同じもので、両者は道徳教育に含まれるのではないかと思います。
つまり生活における基本的ルールやマナーや習慣を教育するのが躾であり、生活指導なのです。
(家庭で行うのが躾で、学校教育で行うのが生活指導と言ってしまっていいかは保留。)

体罰というのは、徳育(生活指導)であれ知育であれ体育であれ情操教育であれ、
教育のなかで用いられる教育方法、指導方法の一種を指します。
体罰の上位概念には罰という概念があり、肉体的苦痛を課すのではない別の罰もあります。
退学や停学も体罰とは異なる罰として用いられていますし、
宿題や居残り勉強を課すというのも罰として用いられることがあります。
罰というのは本人がやりたくないことをむりやり課すからこそ罰たりえます。
本人がそれを望んでいる場合にはそれは罰とは言えないでしょう。
肉体的苦痛を課す場合も同様で、本人がそれを望んでいる場合には体罰とは言えません。
アントニオ猪木に平手打ちされたい人にアントニオ猪木が平手打ちしたからといって、
それを体罰と呼んだりはしないでしょう。
アンディ・フグが肉体的苦痛に耐える術を学ぶために、
自らの肉体に苦痛をもたらすトレーニングを課したからといって、それは体罰とは無関係です。

一般的に言ってトレーニングというものは肉体的・精神的に苦しいものです。
その苦しさを乗り越えることによって成長が可能になります。
したがって、教育においては苦しみを課すということは不可欠です。
ですので、苦しみを課すこと=罰とは言えないでしょう。
罰というのはなにか悪いことをした場合に、
その代償として本人の望まぬ苦しみを課すことを指すのだと思います。 
本人の納得の上に本人の成長のために課す苦行は罰ではなくただの教育であり指導だと思います。
有能な教育者、指導者というものは本人がきちんと納得できるように説明した上で、
しかもできるだけ本人が苦痛と思わず、できるだけ喜んでやれるような課題を、
いろいろと工夫して出してあげられるような人なのではないでしょうか?

したがって私は知育、体育、情操教育においては体罰は必要ないと思っています。
そもそもその分野において体罰どころか罰は必要ないと思うからです。
計算ミスや試合中にミスをしたからといってそれは罰を下すべき悪ではありません。
そこに必要なのは、なぜそういうミスをしてしまうのか、
そういうミスをしないようにするにはどうしたらいいのかに関する適切な指導でしょう。
宿題や個人練習をサボったという場合には罰を科したくなってしまうかもしれませんが、
そこでも必要なのはなぜそれをするべきなのかを納得させ、本人をやる気にさせることであって、
体罰は当然まったく必要ありませんが、叱責や怒号といった体罰以外の罰も必要なくて、
そこに必要なのは説得と課題の工夫でしょう。

問題は徳育の分野です。
生活指導や躾といった場面において本当に体罰に頼らずに指導できるのか。
おそらくこの分野においても説得と課題の工夫というのは最優先だと思いますが、
特に小さな子どもに対してどこまでその2つで通用するのかがわかりません。
また、家庭でまったく躾をされてこなかった小・中・高校生にも、
これらで何とかならない場合があるのではないかと思ってしまいます。
つまり、躾や生活指導の場面における体罰の問題というのが、
一番厄介な問題として最後まで残るような気がするのです。
とはいえ、ではそういう子どもたちに対して体罰は効果的なのかと考えると、
体罰によって矯正可能かどうかも実は曖昧です。
また先ほどの問題に戻るならば、躾や生活指導の場面において、
何が罰に値する行為なのかというのも考えてみる必要があるでしょう。
指導者の言うことを聞かなかったからというのは罰を科すべき悪なのでしょうか?
うーん、考え始めるとどんどん深みにはまっていってしまうな。

おっと、いろいろと喋りすぎてしまいました。
以上はあくまでも私の考えにすぎませんし、
自分で書いていてまだまだ詰めが甘いなとも感じました。
私の考えなどまったく無視しておいてかまいませんので、
てつがくカフェではお互いの意見をぶつけあっていただきたいと思います。
きっと皆さん一家言ある話題でしょう。
初参加の方お待ちしております。
ぜひてつカフェで話し合いましょう!


第15回 「てつがくカフェ@ふくしま」

テーマ : 「躾と体罰はどう違うのか?」

日 時 : 2013年2月16日 (土) 開催時間 16:00~18:00

場 所 : A・O・Z (アオウゼ) MAXふくしま4階・視聴覚室

費 用 : 100円 (珈琲などドリンク飲み放題)

事前申し込み : 不要 (直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

油断大敵

2013-02-12 23:23:23 | ドライブ人生論
最近、国道4号線を福島市街地から大学のある金谷川のほうへむけて南下していくと、
黒岩から伏拝にかけての上り坂の途中で突然、道路に穴が開いていたりします。
それがけっこう大きめの穴なので、うっかりその上を走ってしまったりしたら、
クルマは相当衝撃を受けるでしょうし、下手したらパンクしてしまうおそれもあります。
それくらい大きな穴なのです。
国道4号線と言えば、福島県内を通る道路のなかでも最も大きく、
交通量も最も多い幹線道路ですので、
まさかその道の真ん中に穴ぼこが開いているなんて思っていないドライバーは多いでしょう。
ちょっとスピードを出しすぎていたり、車間距離を取っていなかったり、
路面から目を離してボーッとクルマの流れに乗っていい気で走っていたりすると、
その穴にガツンとはまってしまうことになるでしょう。

その穴を発見した最初は、1月の関東でも雪が降った大雪の日のあとでした。
おそらく、チェーンをつけた大型車が雪の融けたところを走ったりすると、
アスファルトをえぐり取ってしまったりするのではないでしょうか。
そのときはもうホントにたくさんの穴が開いてしまい、ちょっとヤバイ感じでした。
数日後には補修されていましたが、補修と言っても道路全体を舗装し直すのではなく、
穴の部分だけを埋めていく直し方でしたので、
次にまた大雪が降ったときに、前回ほどではないものの再び穴が開いてしまっていました。
今日も伏拝の交差点近くのところに、それほど大きくはないものでしたが、
並んで数個の穴ができていました。

クルマを運転する者にとっていろいろ気をつけなければいけない情報ってありますが、
他のクルマの様子や、取り締まりの有無、路面の凍結など気がかりなことが多いなかで、
道路がちゃんと舗装されていて穴が開いていないかどうかなんて、
あまりにも当たり前すぎてふだんほとんど気にしていることはありません。
しかし、油断大敵!
ふだん当たり前にあるものが、今日もふだん通り当たり前にあると思ってはいけません。
当たり前にあったものがある日急に奪い去られてしまうということを、
私たちはあの日に思い知ったばかりではありませんか。
クルマの運転ばかりでなく人生においても、
当たり前を当たり前と思わず、常に足許に気をつけながら生きていきたいと思います。

本日から卒展、月末にはIN展

2013-02-08 15:25:39 | 人間文化論

本日から福島大学人間発達文化学類スポーツ・芸術創造専攻の美術の4年生たちによる、

「卒業制作展覧会2013」 が開催されています。

このあいだオーケストラ・フィルジッヒの公演のときに、

もう始まっているんじゃないか、ひょっとしたら終わってしまったんじゃないかとビビりましたが、

昨年が例年と比べて異例といっていいくらい早めの開催だったんですね。

その前を調べてみると2月の中旬下旬に開催していたみたいなので、

今回の日程だってまだ早いほうと言えるかもしれません。

たしかに卒業研究の提出期限が1月末日なのですから、

去年みたいに1月中に卒展を開催してしまうなんてムリがありますよね。

一昨年まで使っていた福島県文化センターが震災により使えなくなって、

去年から会場を 「MAXふくしま」 の 「アオウゼ」 に移しましたので、

今までのような日程で場所を取れなくなったということなのでしょう。

2月のこれくらいの時期にやるというのは学生たちにとっては一番いいのではないでしょうか?

卒展の時期があまりに遅いと、1月末の卒研締め切りのあとさらに作品に手を入れたり、

2月に入ってからもずっと展覧会の準備にかかりきりで、

卒業前の一番いい時期を楽しく過ごす時間が短くなってしまうでしょう。

ちょうど連休もあることですし、会場もうちからすぐですので、

今年もぜひ行ってみたいと思います。


福島大学人間発達文化学類スポーツ・芸術創造専攻美術分野4学年

『卒業制作展覧会 2013』

2013年2月8日(金)~14日(木)

ダイユーエイトMAX福島店 4階A・O・Z(アオウゼ)

10:00~19:00(最終日のみ16:00まで)

入場無料






そして、2月の下旬には大学院生たちによるIN展が開催されます。

IN展は開催期間が短いので、手帳等にしっかりと日程を書き込んでおく必要があります。

こちらはコラッセです。

アオウゼといいコラッセといい、駅から近いというのは私にとってはありがたいです。

ホームページやブログ等は見当たらなかったので、

とりあえず宣伝用フライヤーの写メだけアップしておきます。

こちらもお見逃しなく。


IN展

2/23 (土) ~ 26 (火)

  23日:13時~19時
  24、25日:9時~19時
  26日:9時~17時

コラッセふくしま3F 企画展示室

入場無料

「エチカ福島」 始動!

2013-02-07 15:16:26 | 哲学・倫理学ファック
「エチカ福島」 という組織 (or プロジェクト?) が立ち上がりました。
福島の高校の国語の先生たちが中心となって結成されました。
各種イベントやセミナーを開催していくそうです。
HPには 「エチカ福島」 を立ち上げた理由について次のように書かれていました。

「なぜ、今 「エチカ」 なのか。
 「エチカ」 という名前はスピノザの主著 『エチカ (倫理学)』 から拝借した。
 スピノザの考え方が、今福島で思考し行動していくときに頼りになる、と直観したからだ。

 社会的にしつらえられた様々な基盤が一挙に自然によって引き裂かれ、
 道路も水道も電気もガスもない状態になったところに、
 原発事故が起こって放射能汚染という未曾有の、
 目に見えず (当時は) 計測すらままならない 「災害」 に直面したあのとき、
 私たちは、今までの行政や政治、社会的なシステムでは到底「間に合わない」という経験をした。

 (中略)

 そういう極めて不透明で、簡単には答えの見つからない現実の中で、私たちは生きることになった。

 では、どんな風に生きていきたいのか?

 (中略)

 答えは一つに収斂することなどないに違いない。
 だが、私たちは大震災と原発事故を目の前にして、
 ただバラバラで無力なモノとしてだけ生きるわけにも行かないだろう。

 どう生きればいいのか、から、どう生きたいか、へ。

 世界が指し示す 「生の可能性条件」 の限りにおいて、
 十全に自分の生命力を発揮する 「生き方」 はどのようなものなのか。

 それを共にあきらかにしていきたいのである。」

ということだそうです。
その 「エチカ福島」 の第1回セミナーが今週末に開催されます。
その名にふさわしくスピノザ専門家の國分功一郎氏が講師として招かれています。
私も 「エチカ福島」 には全面的に協力していくつもりなので、
第1回セミナーにはぜひとも参加したかったのですが、
先約が入ってしまっていたため残念ながら今回は欠席です。
福島の国語の先生たちがこの状況に対して何を語るのか?
それに対して國分氏がどう応えるのか?
スピノザ倫理学はどこまで有効なのか?
皆さん、ぜひ私の代わりに聞き取ってきてください。


「エチカ福島」 第1回セミナー

場所 福島県立橘高等学校 同窓会館 (福島県福島市宮下町) 

日時 2013年2月9日(土)13:30~16:30ぐらいまで

定員 100名 (先着順です<笑>)

講師 國分功一郎先生

第1部
 発表 1「震災における恐怖と人為=≠自然」 島貫真 (湯本高校)
     2「震災と原発事故の責任とは何か?」 深瀬幸一 (橘高校)
     3「アートとは何か?アートに何ができるのか?」 丹治嘉彦 (新潟大学)

第2部
 前半 : 國分先生の助言と講評
 後半 : 自由討議

公開シンポ 「『高校倫理からの哲学』とその先」

2013-02-06 13:28:37 | 哲学・倫理学ファック

長らく取り組んできて昨年ようやく出版された 『高校倫理からの哲学』 のシリーズ

それに関連するシンポジウムが今週の土曜日に開催されます。

以下に開催趣旨を引用しておきます。


開催趣旨
◎知識伝達から能力の形成へ
 初等中等教育で、思考力や論理性を徹底的に鍛える哲学教育が海外での大きな潮流となっています。また、日本でも最近、各地で哲学カフェの試みがさかんになっています。それらの核心は、人々が自ら考え、互いに合理的にコミュニケーションをとる能力の重視にあります。それに対して、日本の高校倫理はいまだ先哲の思想を知識として学ぶという側面が強いように思われます。
 『高校倫理からの哲学』は、こうした中、教科書にある知識が現実に直面する問題の解決にどう役立つのか、若い世代が実際に考えてみることを目指して刊行されたものです。百の教育論よりまず試行の積み重ねをというのが基本姿勢です。その問題提起をもとに、中等教育における倫理や哲学の教育はどうあるべきか、教材の内容に即して、高・大それぞれの立場から議論しあうのが今回のシンポジウムのねらいです。
◎いかにして哲学的思考を導入するか
 このシンポジウムでは、加藤尚武先生、澤田浩一先生をお招きし、まず、いまいかなる哲学・倫理教育が必要かという視点から基調となるお話しをしていただきます。加藤先生は最近著『哲学原理の転換』のなかで哲学史教育からの脱却を訴えておられます。澤田先生は文科省教科調査官として「倫理」の教育のためにご尽力いただいています。後半では、教育現場で実践した授業案の例や生徒の反応、答案例を報告していただき、現場でいかにして哲学的思考の教育が可能かを考えていくことにしたいと考えています。全国の何カ所かの高校、高専、大学での実践事例も紹介する予定です。
 このシンポジウムでは『高校倫理からの哲学』を議論のたたき台とする予定でいます。このシリーズは「読み」「考える」ことを目標としています。指導書、参考書のたぐいを意図したものではなく、また授業で使うにはやや文章が長く、難しめに感じられるかもしれません。しかし、「どこからでも読める」をモットーに、本文や対話の部分部分の独立性を高め、また「問いのはじまり」や「コラム」を置くことにより、生徒に数ページを配布して使えるようにしてあります。また、「対話」では、相手を論駁するディベートとは違った、合意形成を目指す哲学的対話の一端も試みています。使いかた次第では、倫理の授業だけでなく、国語や小論文、キャリア教育など、様々な場面で哲学的思考を導入していく上でのたたき台になりうるのではないかと考えています。
◎できることからの出発を
 高校の先生方からは、大学入試に倫理を導入することが先決ではないかとの意見をよく聞きます。その必要を痛感している大学の哲学教員も多いのですが、予算や人員をはじめとする制度的な制約がますます厳しくなる中、よい受験生をとるためにはこの科目を加えることが決定的に重要だという理解を得て、受験生の少ない科目を新設することには、ご想像以上の困難があります。地理のような組織も人もいない中ではなおさらです。地味に見えますが、議論を積み重ね、倫理や哲学を学ぶ意義に対する理解を高めていくことを、同時に進めていく必要があるのではないでしょうか。それは高大に共通する課題です。このシンポジウムをそのための一機会としたいと考えています。
 お忙しい時期かと思いますが、ご参加、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。


「中等教育」 というのは中学校と高校での教育のことを指す概念ですが、

今回は書名にもあるように特に高校での哲学・倫理学教育について考えていきます。

関心のある方はどなたでもぜひお気軽にご参加ください。

もちろん私も参加いたします。


公開シンポジウム
  中等教育でいかに哲学・倫理教育を進めるか
      ―『高校倫理からの哲学』 とその先―

日 時 : 2013年2月9日 (土) 13時〜16時30分

会 場 : キャンパスイノベーションセンター東京 2F

          港区芝浦3-3-6 (JR田町駅芝浦口下車徒歩1分)

開催趣旨
 直江清隆 (東北大学)

第1部 高校での哲学教育
 加藤尚武 (京都大学名誉教授)
 澤田浩一 (国立教育政策研究所)
 第一質問者:高校教員

第2部 『高校倫理からの哲学』 を活用した授業実践 (授業案、反応)
  倫理高校教員、国語・地歴高校教員
  各地の高校での実践例紹介
  高専、大学初年級での実践例 (執筆グループ)

まとめ 高校教育と哲学的思考
 越智貢 (広島大学) 

『みんなで学ぶ放射線副読本』 出版!

2013-02-04 12:11:31 | グローバル・エシックス

以前にご紹介した、福島大学の有志で作った放射線の副読本が公刊されましたっ!

後藤忍著、福島大学放射線副読本研究会監修

『みんなで学ぶ放射線副読本 : 科学的・倫理的態度と論理を理解する』
です。

初版は印刷して配布しましたが (非売品)、改訂版はウェブ上でしか見られませんでした。

それがこの度、誰でも書店で買えるようになったのは素晴らしいことだと思います。

(一般の書店にどれだけ並べてもらえるかよくわかりませんが、少なくともアマゾンで買えます。)

もともとのタイトルは 『放射線と被ばくを考えるための副読本』 でした。

さらに副題は 「”減思力”を防ぎ,判断力・批判力を育むために」。

「減思力」 という造語なんてよくぞ考えついたなあと感心してしまいますので、

私のように偏向した人間にはオリジナル・タイトルのほうがしっくり来ますが、

多くの人に手に取っていただくためには、今回の改題は正解だったのだろうと思います。

アマゾンでは、本書のポイントを次のように簡潔にまとめていました。

「本書で学ぶ5つのポイント

 1 人工的な放射線は身近にあるべきではなく、管理されるべき対象です。

 2 無用な放射線は浴びないに越したことはありません。

 3 低線量被ばくの影響は完全には解明されていません。

 4 情報を鵜呑みにしない判断力や批判力を育むことが大切です。

 5 放射線被ばくによる健康リスクの公平性について考えましょう。」

安全厨と危険厨の無益な対立や情報操作から一歩身を引いて、

放射線問題に対して公平かつ粘り強く思考し続けていく知性を育てるために、

この本が一役買ってくれることを期待したいと思います。