先日書いた 「体罰をめぐるいくつかの論点」 という記事に対し、
塾講師Aさんという方からコメントをいただきました。
まずはその記事とコメントを
こちらからご覧ください。
2回目にいただいたコメントに対し、返事を書いていたらまた長くなってしまいました。
コメント入力欄では長文をうまく推敲することができないので、
記事のほうでお答えさせていただくことにします。
塾講師Aさん、コメ返し返しありがとうございました。
前回まったく触れませんでしたが、塾と対比しながら学校について論ずるという議論は、
問題の所在を誤ってしまう可能性があるように思いました。
塾講師Aさんが議論の余地がないとおっしゃる、
学校には授業の分かりやすい先生が少ないから、塾業界が巨大産業として成立している、
という点は大いに議論の余地がある問題だろうと私は思っています。
たとえ、学校には授業の分かりやすい先生がそんなにいないというのが事実だったとしても、
そんなに単純な因果関係ではないと思うのです。
私は塾と学校はまったく性格の異なる教育機関だと思います。
塾というのは教育が果たすべき役割 (
別のところで分野と呼びました) のうちのほんの一部、
つまり知育のみに特化した、しかも知育のうちでも受験勉強に特化した組織です。
補習塾というのもありますが、それもけっきょくは受験可能なレベルまで補正する、
という役割を担っているにすぎないので、けっきょくやってることは受験勉強といっていいでしょう。
そこに入学してくるのは、進学したい子どもか進学させたい親の子どもかのいずれかのみです。
そういう子どもたちだけを相手に、受験のための勉強だけを教えるのが塾講師です。
親は進学させたがっているけれど本人はまったくやる気ないという子どももけっこう入ってきます。
そういう子たちにどれだけ授業を分からせ、本人のやる気を出させられるかというのは、
塾講師の腕の見せ所ですが、最悪、本人がまったくやる気を見せず成績が伸びなければ、
親はその塾をやめさせるでしょう、つまり、そういう生徒は自然といなくなってくれるのです。
ましてや素行の悪い子どもがいて塾内でなにか問題を起こしたりしたならば、
塾は最終的にはその子どもをやめさせることができます。
それは塾が受験勉強をさせるための場として限定されているからです。
学校はそういう限定的な場ではありません。
学校での知育はたんに受験のための勉強ではありません。
それぞれの学校を卒業するまでにひとりの人間として身につけるべき知的能力を、
受験するか否かに関わらず全員につけさせることが、学校における知育です。
そして学校では、知育のみならず体育や情操教育も行わなければなりませんし、
何よりも重要なのは徳育、その中でも特に生活指導に当たる部分を行わなければなりません。
クラス運営というの名の徳育が学校の先生の仕事の大きな比率を占めています。
能力別クラスでの授業や個別指導をしていればいい塾の先生は、
そんなことにまったく気を使わなくていいのではないでしょうか (私はそうでした)。
また、中学校以上の場合、教科としては知育と体育と情操教育は分業することができますが、
しかし、先生方はみな部活動の指導もしなければなりませんので、
部活の指導においては体育や情操教育 (知育的な部活もあり) と、
徳育 (生活指導?) 的なものをミックスした指導を行わなければなりません。
中学校や高校ではこれに割かなければならない時間は莫大で、
多くの先生方が、最低賃金をはるかに下回るひどい給与体系の下、
ほとんどの土日を部活の遠征やら大会の運営やらに費やしていらっしゃいます。
本来ならゆっくり身体を休めるか、可能であれば翌週の授業の準備のために割くべき時間を、
部活指導という名の奴隷労働のために浪費しなければならないのです。
自分がかつて情熱をかけてやっていた部活を学校でも指導できている人は、
喜々として部活指導をやっていらっしゃったりもしますが、
まったく経験のない部活を当てられている先生は少なくありませんし、
いずれの場合であれ、客観的には奴隷労働であることに変わりはないと思います。
つまり学校の先生というのは授業のことだけ考えていればいい職業ではないのです。
そこが塾の先生とまったく違うところです。
したがって授業の分かりやすさだけを尺度にして、
塾の先生と学校の先生を単純に比較することはできないだろうと思います。
私としては、学校の先生たちがもっと授業に専念できるような体制を整えるべきだと思います。
特に部活指導なんかはとっとと地域の専門家に託してしまえばいいと思っています。
しかし、そのためにはお金がかかりますし、
現在、どの政党も教育にもっとお金をかけるべきだ、
教員の負担を減らすべきだとは言いません。
むしろ教員は人数が減らされ、その分、負担は増やされ、
教員になるのは簡単ではないにもかかわらず給料は減らされるという状況にあります。
そういう職業に有能な人間が集まるわけはないだろうと私などは予想するのですが、
私の知る限りでは、そういう職場であるにも関わらず、
けっこういい先生もたくさんいて、それぞれ現場で踏ん張っていらっしゃるように感じます。
まあ、たまたま私の知ってる先生方がそうなだけかもしれませんが…。
さらに小学校、中学校は義務教育ですから、生徒を停学・退学させることができません。
そんな権限を小 ・中学校の先生に与えてしまったら、
それこそ基本的人権の侵害になってしまいます。
(ちなみに、塾に行かずに一流大学に行けるようならいいなあとは思いますが、
そうしたことは基本的人権の中には含まれていません。)
したがって小 ・中学校では生徒をひとりも放り出すことができません。
どんなに意欲のない子であろうと、どんな家庭の子であろうと、
どんなに粗暴な子どもであろうと全員を卒業まで面倒みなければならないのです。
そもそも設立の趣旨がちがいますので、
塾と同様の権限を小 ・中学校にも与えるということはできないでしょう。
(だから体罰は完全にはなくせないのではないか、という論点は今回は割愛)
私は、塾において授業が分かりやすい有能な先生だったとしても、
その人が学校に勤めても同じように有能な教師として働き続けられるかわからないと思っています。
お客さんがまったくちがいますし、目的もちがいますし (進学だけではない)、
授業だけに専念することはできませんし、授業以外のことでも評価されることになるからです。
そういう意味では学校って本当にたいへんだなあと思います。
日本の社会は学校の先生にあれもこれもいろいろなことを要求しすぎのように思います。
そして、ほんのわずかでもミスをすると徹底的に叩かれますし。
学校教員を養成する大学の教員がこんなことを言うのもなんですが、
自分は学校では教師としてやっていけないんじゃないかなあと思います。
とりあえず本稿では体罰問題から離れて、塾と学校のちがいについてだけ論じました。
コメントでいただいたすべての論点に触れていませんが、それはまた別稿にて。