天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

安部譲二・山田詠美著『人生相談劇場』安部譲二氏が収監された横浜少年鑑別所は私が両親と暮らした社宅直近

2014-02-27 21:54:31 | 日記
今日の日記は、今自宅で読んでいる安部譲二・山田詠美著『人生相談劇場』(2014年1月中央公論新社刊)に書かれた安部譲二氏の過去の履歴のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。以下に、私がこのくだりを読んで、とても懐かしく思い出して、著者安部譲二氏に強い親近感を抱いた記述を引用・掲載します。
『俺が初めて入った横浜少年鑑別所は、当時、保土ヶ谷の駅前の丘の上にあった。今は団地が建ってるよ。昭和30年かな、そこにぶち込まれたときに、飯配ったりなんかする雑役の懲役が俺の前まで来て、「北か?南か?」って聞くの。言われた俺は、「渋谷の安藤組だ」と言うだけだったけど。・・最近、夜中の2時くらいにお腹がすいて眠れないの。それが覚えのある空腹なんだ。なんと少年院だよ。75歳になってなんでこんな思いしなきゃいけないだって、毎日思うよ。土曜、日曜日の夕食は特に早いの。看守が早く帰りたいから、4時頃に喰わせるの。』
著者の安部譲二氏は、1937年5月17日生まれの76歳です。だから、私とちょうど16歳違いの小説家です。そして、彼は自伝的小説ベストセラーになった『塀の中の懲りない面々』で有名なったとても人生経験豊かな人物です。
その彼が18歳の頃、非行に走り、収監された横浜少年鑑別所(保土ヶ谷区月見台)の近くに、私の父の勤務先の社宅もあり、当時2歳だった私も一緒で両親と住んでいたのです。まったくの奇遇としか私には思えません。
安部譲二氏が居た頃のことは、私は当時2歳ですので、良くは覚えていませんが、小学校に入学する頃には、その建物(鑑別所なので高い塀や鉄格子などは無い)や周囲のグランドを良く見て知っています。安部譲二氏も、75歳になって、鑑別所や少年院の思い出を忘れられず、今も思い出してこの著書にも書いています。
当時の事(昭和30年前半)は、刑務所もどきの少年鑑別所でも、私には、とてものどかや情景しか、今は思い出せません。でも、そこに収監された生徒や児童が、皆、丸坊主だったことに、この建物はとても異質な空間であると、当時、私は子供心に思ったものです。
そして、早半世紀以上経った今でも、当時のことを、私も安部譲二氏同様、とても懐かしく思い出しています。このように、長く生きて来た人間の記憶には、何時まで忘れられない事が何かしらあるのです。
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